1
「あっ」
と思わず口に出してしまった。
失敗した。多分。
ちょっと塩が足りなかったかもしれない。いつもの調子で感覚のまま匙を扱ったのがいけなかった。
足りないなら足せばいいのだけど、「かもしれない」ではうかつにやれることじゃない。私はどのくらい投入したのかしら?
見もしないでやったから目分量でさえない。こうなるともはや塩加減は舐めて量るしか……。でも……。
ボウル半分の溶き卵に目を遣る。指を伸ばそうとして、引いた。ああ、やっぱりダメ。生卵に舌を付けるなんて抵抗があり過ぎる。卵かけご飯? あれは人間の食べ物じゃない。つまり日本人は人間じゃないのかもしれない。魔界出身の身で言うのもなんだけど。
まあ、いい。足りないなら食べる時に足せば、それで。
気を取り直してフライパンを握った。
シイタケ、マイタケ、シメジ、エリンギをジャガイモやタマネギと一緒にバターで炒める。水分の弾ける音が心地いい。ソテーしたこれらを溶き卵と合わせ、ホットケーキのように焼けばスパニッシュオムレツの出来上がりだ。
フライパンから炒められた具材の良い香りが立ち上る。特に数種のキノコがなかなかの自己主張をしていた。オムレツにした時の存在感に期待ができる。
やっぱりキノコは見慣れた物に限るな、と思った。
そういえば、事の始まりもキノコだったっけ。
2
「そこを頼むって、アリス! な、このキノコ全部やるから!」
「いらないって言ってるでしょ! ちょ、やめて、魔理沙! カゴを顔に近づけないで!」
「美味いんだって! これなんか高級食材だぞ、ササクレヒトヨタケ。さっき大量に採れたんだ。春の旬、是非ご賞味あれっ」
「嫌よ、何そのマッシュルームの幽霊みたいなの!? 一部黒く溶けてるじゃないっ」
なし崩しで家に押し入ろうとする白黒魔法使いを、必死で押し返す私。早朝、前触れなく訪れての狼藉だった。毎度のことだがトラブルメーカーにも程がある。
「大丈夫だって! そういうもんなんだよ、腐ってんじゃなくて、自分で溶けて胞子を飛ばすの! 普通に食えるし、溶け過ぎたらインクにも使えるからもらっとけって。私のお墨付きだぞ、インクなだけに」
その言葉に感謝した。あまりの下らなさに一層の力が湧いたのだ。私は魔理沙を一気に押し出すと、ドアを閉めて内鍵を掛けた。
ドンドンドン! ドンドンドン!
すぐさまドアは太鼓のように叩かれる。無視などさせんぞというビートを刻む。
「迷惑だからやめてよッ」
「だから頼むよ! お礼ならちゃんとする!」
「そんなキノコさっさと持って帰って、叩くなら自分の家のドアにして!」
「メインのお礼があるんだよ!」
「どんなキノコも遠慮するわよ!」
「『共生と分解のグリモア』」
「そんなものいらな……っ……?!」
我知らずドアを開けていた。魔理沙はキノコの山からつかみ出した本を私の前にかざす。年季の入った厳めしい装丁。吸い付けられるように私の顔が寄った。
間違いない。かなりキノコ臭くなってはいたが、間違いなくそれは「それ」だった。
「くれてやるよ」
「……本気で?」
魔理沙の言葉が信じられず、本を手に取り、手垢の付いたページをパラパラとめくってみる。
あちこちにミミズのようなラインが引かれ、欄外には癖のある字体で注釈が書かれていた。魔理沙の私物の証拠だ。同じことを例えばパチュリーの蔵書に施したら、オールナイトでロイヤルフレアが襲ってくるだろう。
喉から手が出るほど欲しかった稀覯本だ。まさか魔理沙が所有していたとは。あのゴミ屋敷のどこに埋もれていたんだろうか。
この本の特徴である魔方陣の構成は、部分部分に粗雑さがあるように見えて、その実どこまでも計算され尽くした精緻さに満ちている。芸術的と評して余りあるだろう。すごい。見れば見るほどすごい。
「で、依頼なんだけどさ」
「えっ、あ、うん」
本に見入ってしまっていた意識を引き戻される。そういえば、何をお願いされるのか聞いてもいなかった。唐突に押し掛け、ひたすらまくしたてた魔理沙がいけないのだけど。
想定されるのは、異変解決か魔界探索か、そういった危ない橋だ。しかし、この本が手に入るなら大抵のことは了承する覚悟でいた。
身構える私を前に、魔理沙の口は言葉を紡ぐ。
「新スペルの開発を手伝ってほしいんだ」
「 」
とっさに返事できなかったのは、戸惑ってしまったからだ。
それだけ? 貴重な品をもらえるのに、たったそれだけが条件?
「報酬は前渡し。開発に成功しても失敗しても、引き受けてくれれば本はやる。悪くない話だろ」
「え、ええ」
「よっし、決まりだ! さっそくこれ見て、アドバイスよろしく!」
またカゴのキノコに手を突っ込み、今度はノートを取り出して渡してくる。紙にキノコの匂いを染み込ませるのがマイブームなんだろうか。
「ここにコンセプトとか流れとか書き込んである。あんま整理されてないけど、まあ、わかるだろ」
開けば、どのページも乱雑な字と図形でびっしりと埋められていた。人に読ませる前提で書かれたものでないことは一目瞭然だったが、解読できないこともない。斜め読みして概要をつかんでいく。
「構想はまとまってるんだが、最後の詰めがどうにもこうにもでなぁ。どうしたらいいもんかね」
聞き流しつつ、最後のページに至って、私は眉をひそめた。その文言を網膜に映したまま止まった。
これは……。うま過ぎる話だとは思ったけど。
「ん? 何かあったか、アリス」
「……とりあえず中に入って。紅茶でも出すわ」
「おお、ジャムを入れてロシアンティーにしてくれ」
「あつかましいわね」
「あつかましいついでに二匙入れてもらおうかな」
「本当にあつかましいわね」
魔理沙を招き入れながら、私は暗い目で考えを巡らせていた。
ノートの最後、そのページいっぱいに、力強く、こう記されていたのだ。『これで霊夢に勝つ!』
(……バカジャネーノ)
上海人形のかつてしゃべった台詞が頭に浮かんだのは無理もないと思う。
博麗霊夢。この幻想郷の中心に立つ一人。起こる全ての異変に関わり、その全てを事もなげに解決する。異変の首謀者が誰であっても──たとえ神であっても、あしらうように処理してしまう。弾幕勝負で張り合える者は誰一人としていない。
私に「人形を操る程度の能力」があり、魔理沙に「魔法を使う程度の能力」があるように、霊夢にも「空を飛ぶ程度の能力」があるとされている。
皮肉な表現だ。飛行能力は珍しくも何ともない。それを敢えて個人の能力の代表とするのだから。さらに、「空を飛ぶ」には裏に込められた本質的な意味がある。何者からも高く離れて上にいるという「超越者」としての意味だ。
誰もが持つ能力に見せて、誰もが届かない能力こそ現実。こんな皮肉はない。
それを理解していれば、弾幕勝負を挑もうという気すら湧かないはずなのに。
なのに、私よりもずっと長く霊夢と付き合っている魔理沙は何なのだろう。どんな必殺のスペルも蟷螂の斧と化してしまうことがわからないのだろうか。身近にい過ぎて、却って客観性を失ってしまったのだろうか。
同じ人間の、同年代の、少女。ならば、届かないはずがない──それは思い違いだ。希望ではなく無謀というものだ。そんなのに付き合わされるのはたまったもんじゃない。
「ふぃー、甘いもんが浸みるなぁー。シャンハイ、お代わり」
「『三杯目にはそっと出し』の川柳は知ってる?」
上海人形にカップを出す魔理沙をたしなめて、見返していたノートを閉じた。
「知ってるが、私はイソーローじゃないんでな。お前こそ茶道の一期一会の心得を知ってるかよ」
「知ってるけど、あなたとはしょっちゅう会ってるからね。もてなし方よりあしらい方に配慮するわ」
椅子の上で居住まいを正す。
「でも、報酬分の依頼は果たすつもりよ」
「おっ、そうこなくっちゃ」
魔導書はもう返却しないと宣言したことに、魔理沙は気付いてないのだろう。どんなに意にそぐわない結果になったとしても、結ばれた契約は破棄できない。
「じゃあ、率直な意見を言わせてもらうけどね、いい?」
「もったいつけるなぁ。言ってくれよ」
「『何もかもがダメ』」
「……っ」
表情が硬直したところに畳みかける。
「構想がまとまってるって言ってたけど、形にすらなってない。詰めどころか、いくつもの要素がバラバラで整合性も一貫性もどこへ行ったのって感じ。やたらと壮大なイメージはあっても、それ以上のものはないように見受けられたわね。少なくとも私には全然伝わってこないし、魔理沙自身もそうでしょ。それに何より組み合わせに無理のある魔術同士を平然と使っているのには目を疑ったわ。危険、でなければ不可能。この分野に対する冒涜と怒る気にもなれなかったわ。鼻で笑われるのを嬉しがる趣味がないなら、新しいことに挑戦するより、基礎基本の初歩の初歩を何遍もなぞる方がいいわよ。正直、ノートからはそんな反面教師以外の価値は見いだせなかった」
テーブルの上を滑らせてノートを返す。魔理沙は三杯目の紅茶に手を付けないまま、元から悪かった顔色をさらに青白くさせている。
カップに手を伸ばすも、触れた指先で持ち手を震わせたの見て、離す。喉を鳴らして、ぎこちなく口の端を上げて、ようやく言った。
「ちっとやっつけ過ぎたか」
出直してくる、とかっさらうようにノートを抱え込むと、足早に家から出て行った。
一人になって静寂の満ちた部屋で、私は息をつく。
人形にお茶の片づけをさせながら思った。
──「やっつけ」とは魔理沙にしてはずいぶんと謙遜したものだわ。
相当の努力をしたのはわかっていた。夜通し頭を悩ませながらノートを書き上げたのは、言わなくても察することができる。
顔色の悪さやテンションの高さは徹夜明けだからだろうし、糖分を美味しく感じるのは頭脳労働による疲労が理由だろう。
内容からしても一朝一夕で思いついたものじゃないのは明らかだった。長い期間を掛けて溜めてきたアイデアを、また長い期間掛けてノートに記述するという形にした。どうしても完成させたかったスペルなんだ。貴重な本と引き換えにしてまで。
そんな魔理沙に私はきつい台詞をぶつけた。愛の鞭などというそんな美しいものじゃない。厳しい言葉の裏には何も込められてなかった。ただ痛いだけのものだ。
見当外れのことを言ったつもりはない。全部事実に基づいている。ただし、まったく具体性に欠けた状態で述べた。わざとそうした。
極端なことを言えば、あんなのはどの未完成スペルにぶつけても通用する悪口だ。魔理沙は改善点を見出せず、ただ否定された事実に傷つくことになるだろう。初歩・基本というワードを入れたから、プライドがあれば聞き返しにくくもある。
魔理沙はああ言ったが、「出直してくる」ことはないはずだ。
私は、徒労に終わる行為に長々と協力したくはなかった。稀覯本をもらうという条件がなければ、すぐさま断っていた。
だから、依頼を受けつつ、早々に頓挫させる。それが私の取った策。
我ながら魔女的な行いだったわね。
3
鍋の中で金色の果皮がかき混ぜられ、より液状になっていく。
煮詰まるそれは夏蜜柑のマーマレードだ。ケーキにかけるも良し、ヨーグルトに混ぜるも良しだけど、今回はスコーンに添える。
夏蜜柑という名なのに旬は春な果物。その果皮を刻んだ熱い液体の中、木べらが回っているのを見てるうち、思考の渦から記憶が湧き上がってくる。
白黒魔法使いの色鮮やかなスペル。
ノートに記された魔理沙の構想を乱暴にまとめれば……というか、まとめるには乱暴にやるしかないのだが……ともかく、そのスペルが表現しようとしているものは恐らく「宇宙のカオス」だった。
巡る天体、明滅する星々、渦巻く銀河、弾ける超新星、真っ暗に吸い落すブラックホール、膨張拡大する無限の世界。
それら全てを一枚のスペルに込めたいのだろうと思われた。
はっきりと、無理。そう切って捨てるには十分な内容だ。
同じことを一幕の人形劇、一枚の絵画、一遍の小説で表現しようとしてできるだろうか。余程の構成力・発想がなければ実現しない。天才の領域と言っていい。私も、そして当然魔理沙もその域には達してない。ゆえに無理。
その上さらに霊夢に勝つなどというのは無理の二乗だった。目標として掲げる人間は正気を疑われて当然だ。
さて、灰汁を取るのもこの辺りにしておこう。私はあらかじめ夏蜜柑の種を煮て作っておいたペクチン液を、鍋の中に投入した。とろみがこれで増す。冷えればドロリと粘性が生じる。甘く香しい湯気の立ち上りが鼻をくすぐった。
夏蜜柑の金色のカオスをかき混ぜて、私はマーマレードの完成に近づけていく。
……金色のカオス、ね。
4
金髪をゴシャゴシャとかきながら戸口に立つ魔法使いを、私は信じられないという顔で出迎えていた。
「なんで……?」
「ああ、うん?」
思わず漏れた私の言葉の意味をとらえ切れず、魔理沙は朝日の下、眠たそうな目をしばたたかせて、反芻する。
そして、言った。
「お前のアドバイスを参考にして書き直してきたんだよ。で、またこれについてアドバイスもらいにきたってわけだ」
前のとは別のノートを差し出された。そのために徹夜をさらに重ねたのか、目の下の隈がはっきりわかるほどになっている。
私の言葉を魔理沙は取り違えている。なんで……あきらめなかったの? 来るとは思っていなかった。一日の間を置いたから、もう済んだ話にしてしまっていた。
ノートの中身をパラパラと流せば、その内容は私の述べたことを中心に整理され、大幅な修正が施されていた。
やっつけかとの疑いは、魔理沙の台詞で消去される。
「まとまってないのはその通りだよ。まあ、つーか、それをまとめるためにお前に依頼したわけだが、ところがまとめようもないくらいトッ散らかってたんだろ? だから、イメージと弾幕パターンは箇条書きにして、そんで組み合わせたものを八つほどの案にしてみたぜ。これでそこそこまとまったろ。修正が入れやすくなった」
あとアレだ、と言葉の連射は続く。
「冒涜とまで言われちまったが、確かにレメディウス定理とH・スティーヴン理論が仲悪かったな。魔力の暴走が術者と周囲に危険を及ぼすことになる。水と油を石鹸水で混ぜ合わせるみてーなやり方もあるにはあるが、敢えてそこまでする意義もないしな。ったく、私としたことが表面しか見てなかったぜ。それに、」
黒帽子の下の口を、かざした私の手が止めた。
「ん?」
「肌寒いし、中で聞くわ」
「おお。熱い紅茶でいいぜ」
「ジャムは自分で入れなさいね」
「ロシアンティーで頼む……んん?」
台詞を先回りされて目を白黒させる白黒魔法使いにちょっと溜飲は下がったけれど、問題は問題として残って私の頭を痛ませる。
目論見の通りにはいかなかった。なので、新たな目論見を立てないといけない。悩ましいわね。
具体性のない言葉は、川を渡る際の重しにしかならないはずだった。ところが、魔理沙は自分で具体性を見出してきた。重しを逆に利用し、足場に変えてしまったようなものだ。
こうなると、同じ重しをいくら背負い込ませても、川を渡る助けにしかならないわけで。
かといって見当違いの助言をするのは、私の魔法使いとしてのプライドに関わってくる。ましてや魔理沙にそれを指摘されたとしたら、一生の恥になるだろう。想像するだけで身が震えてくる。
「……うん」
次の策を決めて頷く私に、
「むぐ?」
椅子上の魔理沙はサンドイッチを頬張った顔を向けた。って、何でそんなの食べてるのよ。お弁当持参?
物言いたげな私に、魔理沙は紅茶でサンドイッチを流し込みながら、枝を編んだ箱を下げる。中にはまだ何切れかのサンドイッチが見えた。
「夜食の余りだ。やんないぞ」
「要らないわよ」
パンの端からはみ出るテラテラした茶色の具が何かもわからない。いくら調理師自らが毒味をしていようと、食指は動かない。
「ああ、食わない方がいい。お前、食前酒とかやるしな」
「え?」
「シャンハイ、お代わり」
言葉の意味が図りかねている私を意に介さず、魔理沙は紅茶にジャムを山盛りで入れている。しかも三杯だ。もう直接ジャムを食べたらいいんじゃないかと思える。
そんなに甘いのが好きならもっとあげるわよ。非難の毒が効かないなら、賞賛の蜜でもてなすわ。
「それでスペルのことなんだけど、一昨日とは見違えたわね。相当のデキよ」
「おお、マジか!」
「もうほとんど完成してるでしょ。組み合わせたものの幾つかからいいとこ取りすれば、輝く星の流れがすごく斬新に表現できるはずよ」
「うんうん、そうだろ! そうだろ! はっはっは!」
無邪気に喜んでいる。けれど、わたしがあげたのは蜜は蜜でもツツジの蜜だ。子供のようにチューチュー吸ったら中毒を起こす。
「第一候補として私が提案するのはこうね」
紙にペンで簡単な図を描いていく。
「大小の星型弾幕が緩い弧で広がっていって、色合いは全体的に渦状のグラデーションにする。その中の一番大きな赤い弾が爆発を起こすの」
「赤色巨星が超新星爆発するってやつな」
自分の考えたことが他者に評価され、描写されていくことへ、魔理沙は嬉しそうに頷いている。
こんなのは魔理沙の従来のスペルと通常弾幕を焼き直したものに過ぎないのにね。その分簡単に実現できるけれど、目新しい要素はない。
「爆発はランダムで起こすとしても、規模と数はセンスが問われるわね。でも、あなただったら大丈夫でしょ」
陳腐さに気付かせないよう、おだてて目を曇らせる。
「ふふん、大いなる才能の片鱗を覗かせちゃったかな。もっと褒めていいぞ」
「そうそう、大事なことを忘れてたわ」
「ん、何よ?」
「名前よ。スペルの名前。付けた方がいいわ」
「今か? 後でいいだろ。完成してからで」
「その完成度を上げるためよ。名前を付けることで方向性が定まるわ。今だからこそ付けるの。スペルのコンセプトがより明確になるわよ」
「そういうものなのか」
「そういうものなのよ」
小さくまとまったという意味でだ。当初の無駄に壮大なイメージとはまるで逆。名前の額縁に収めてしまう。名前負けしないようにとの無意識の配慮は、名前の方を小さなものにし、その中身も小さな名前に伴わせる。
矮小化し、さっさと完成させて、それで契約の義務は終了だ。勝負の行方はどうでもいい。予定調和の敗北に興味はない。
「『マスタースパーク』『ブレイジングスター』『アースライトレイ』、どれも特徴的でいい響きがあるわね」
「おー、わかるか! ひねりにひねって、ひねり出して名付けたんだよ、あれ!」
「今回もセンスあるネーミングを期待するわ」
「いやー、はっは、アリスだって色んな人形に面白い名前付けてるじゃないかぁー、なあ?」
「あなたのスペルにはあなたが思い入れのある命名をすべきよ。さあ、どんな名前にする?」
「うーむ、そうだなあ」
大げさに尊大さたっぷりの腕組みをして、椅子を後ろに傾けた。ひっくり返りそうになる所で絶妙なバランスを保って身体を揺らす。
さあ、早いとこ、安易な側に倒れてちょうだいね。
私は、シャンハイに注いでもらった紅茶を口へ持っていきながら、魔理沙の言葉を待った。三日で魔導書一冊。悪くないアルバイトだったわね。
「あ~~~~~ッッ!!」
突然の叫びに紅茶を鼻から噴きそうになった。
魔理沙は身を起こして金髪をかきむしっている。
「なっ、何?」
「ダメだぁ! 形になんねーっ!」
そこで悩むの?! って、ええ?!
ずいっと魔理沙の顔面が迫ってきた。寝不足の血走った眼のアップに、今度はこっちがのけぞる。
「すまん、アリス! 嘘ついた!」
「う、嘘?」
「そうだ、あとちょっとまとめればってのが嘘なんだ! 実は全然なんだよ! ゴール地点は遥か彼方なんだ!」
いや、それは始めからわかってたけど……。
「お前は私の案をなるたけ尊重しようとしてくれたんだよな! でも、すまん、違うんだ! 私がやりたいのは──」
そうして魔理沙の熱を帯びた理想が長々と語られることとなった。一冊目のノートに書かれていたことと同じ内容だった。
私が紅茶にジャムを入れたのは、魔理沙に倣ってではない。苦々しい思いを打ち消すためだ。この強固にブレのない魔法使いを、いったいどう処理したものか。
一筋縄で行く相手じゃなかった。疑似餌に食い付く雑魚と見誤っていたことは反省しなくちゃならない。甘ったるい液体を喉に流し込んだ。
「……魔理沙の熱い想いは十分わかったわ」
胸やけがするほどね、と付け加えたのは脳内で。
そして、言う。大演説を聞き流しながら用意した次の策だ。
「その構想に見合う弾幕が、部分部分でさえしっくりこなかったのね。思い付けなかった」
「そう、そういうことさ。やっぱ自分で作ってるとヒイキ目入っちゃうんだな。お前がまとめたのを客観的に眺めたら、当初の構想からかけ離れ過ぎてたわ。パッと見は良かったんだけどなぁ」
「でも、試行錯誤って意味では進展があったわけよね」
「ああ、こっちの道は間違ってたから、次はあっちの道ってな」
「具体的な形にしたから間違いだってわかったのよ。だから、間違いの量産を恐れずどんどん形にしていけばいいわ」
「理想と現実との誤差修正だな。ただ、アイデア絞り切った脳ミソからこれ以上何か出せとゆうのも……」
「そのために私に相談したんでしょ」
「おお!」
魔理沙の徹夜明けの顔が期待に輝いた。
「私なりに魔理沙の構想に合わせた弾幕のパターンを提示するわ。たとえばこんなのはどうかしら」
紙を敷いてペンを走らせる。飛行する魔理沙とばら撒かれた種種の弾幕の軌道を簡単に示す。
そんなのを幾つか描く間、魔理沙は「おー」とか「わー」とか感心の声を上げていた。
「──とまあ、こんなとこだけど」
一通り説明すると、魔理沙がニッと笑顔を上げてこちらを見た。
「アリスはさ、人形劇とか弾幕とかで、ストーリーを簡潔なもんに仕立てたり、それぞれのスペルにわかりやすい特徴とか出したりしてんだよな。初めは小じんまりしててつまらんとか思ってたときもあったんだが」
「馬鹿にするならさっさと契約うち切る?」
「そうじゃないって。そこが私に足りないとこだったんだよ。表現力ってやつだな。やっぱりお前に頼んでよかったぜ」
笑みの口がさらに広がり、歯茎まで見えた。歯列の白さに目がくらんだわけじゃないが、私は少し視線をそらす。後ろめたさだろうか、これは。
それでも新たな策を取り下げるつもりは毛頭なかった。
「具体性を出すのに紙の上でだけじゃ足りないと思うわよ。実際に外で弾幕を張ってみるのがいいんじゃないかしら」
「あー、確かにそうだな。ここにあるヤツは私のこれまでのスペルとはタイプが違ってるし。実際にやった方がイメージはつかみやすいや」
策は軌道に乗ったようだ。私を訪ねて、私に求めたその望み通り、理想に形を与えてやろう。
だけど、それはとてもとても実現困難なものだ。
たとえば、ある一つはきりもみ回天で恐ろしいGが掛かる。三半規管が暴力的に揺さぶられ、弾幕は自らにも飛んでくる。それらの障害を箒にまたがったまま乗り越えるなんて、私にも難しい。
他のも急降下から地面激突直前で切り返したり、周囲の一斉爆発から抜け出したりという、サーカスか手品ショーかというものだ。高すぎる要求だけれど、できないならそれで御の字。魔理沙の目標断念が、私の目標だ。
もしもハードルを下げるということを魔理沙がしてきたら? 弾幕の密度を薄くしたり、スピードを落としたりしたなら……。それなら可能なことは可能だろう。魔理沙は「曲がりなりにもやってみせたぜ」とでも言うんだろうか。
だとしても、問題はない。ここぞとばかりに付け込ませてもらう。
妥協の道に一歩踏み出したなら、後は一直線だ。当初の目的地から遠く離れた目的地へと。
壁に激突するか、ゴールを見失うか、いずれにしてもリタイアだ。
まともにやっても結局たどりつけないんだから、時計を早回しして引導を渡してやるのは、魔理沙のためでもある。お為ごかしだけど、真実には違いない。
「よぉし、やるか!」
「え?」
声が上がったかと思うと、箒がつかまれ、扉が開けられ、陽光と春風が屋内に飛び込んできた。あっという間に私は一人、残された形になる。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて白黒魔法使いを追って外に出ると、もう空に浮き上がっていた。
脊髄で思考してるんじゃないかってほどの行動力だ。ほんの少しの躊躇もない。
あの高難度な弾幕に挑戦するの? やれるだけの実力は、はっきり言って、ない。魔理沙だってそれが理解できないはずは…………いえ、そうね、寝不足で疲れ切った頭ならハイテンションでやらかしてしまうこともあるうるかも。
一応、助けられるようなら助けようと、事故に備えて人形を三体、傍に侍らせる。
私が見上げる中、羽毛のような雲が舞う青空で、魔理沙は帽子を被り直す。箒の柄を握る。
宙で小さく円を描くと、後は真っ直ぐに飛んだ。そうして、それから、その姿は小さくなっていく。
「……って、魔理沙ぁ?!」
どこ行くのよ! 私の声が届いて、後ろ姿が手を振った。
「わりぃ! やっぱフラつくんで、今日は寝るわ! 明日から頑張っから、お前は自動人形の研究を頑張ってくれ!」
その言葉に、急激に気分が悪くなった。
大股に歩いて戻り、強く扉を閉めると、テーブルに自分の資料を広げた。これまでまとめた自動人形のレポート。
十年を大きく超える年月が掛けられた研究に再び向かうとき、我知らず滲み出した声が鼓膜に触れた。
──一緒にしないで。
5
1センチほどに切ったそれぞれの材料を順序良く炒めていく。タマネギが透明になった中に、ニンジンやキャベツ、セロリなどが混ざって、水分の弾ける音を立てた。
そろそろというところで、ホールトマトを潰しながら入れて、水を加える。
蓋を置いて、弱火に掛けた。このままコトコトとゆっくり火を通していくことで、それぞれの野菜の甘みが引き出される。ミネストローネに限らず、スープは時間の掛けがいがあるものの一つだ。
私は自動人形の研究をずっと続けてきた。まだ達成はしていないけれど、いつかは必ずたどりつく。これは夢などといった不確実なものじゃない。「いつかは必ず」という言葉は、夢ではなく目標を表すものだ。
これまでずっとそうしてきた。無理や無茶とは無縁のまま、一つ一つ積み上げていって成功してきた。
初めて操り人形を作り上げた喜びは今でも覚えている。自分の指と繋がった魔法糸で人形が自在に動くのは感動的だった。計画通りに事が運んだ達成感が、心に満ちていた。
その次に作ったあれも、想定通りに上手くいき、同じ喜びを与えてくれた。そのまた次のあれもそうだったわね。そしてそれから次のあれも──
幼い頃はともかく、人形を作り出してからの私の生き方は、堅実そのものだった。そうして多くの成功を収めてきた。無理もしなかったし、届かない夢を見たわけでもなかった。具体的な目標に向けて確実な一歩を重ねただけだ。
見えず届かない目標へ不確かで無茶な前進をするのとは、違う。
私は魔理沙とは違う。
鍋から音がした。蓋を開ければ、煮立って泡が立っている。お玉を入れて底からぐるりと回した。
多少大きくかき混ぜ過ぎたか、わずかにスープが鍋の縁を越え、その赤がたらりと鍋の外の表面を流れる。
6
地面に落ちた血が染みを作った。
「ぐむぅー」
魔理沙はうつむいた顔に手を伸ばし、鼻をつまんでいる。指を伝う赤が、また地面に新たな染みを付けた。
「ひゃられたじぇー」
やられたぜー、と言っているのだろうか。
むしろ、あれだけの勢いで木へ激突したにしては、大した怪我じゃないことに驚きだ。
当たり慣れているのかもしれない。魔理沙の衣服から露出している肌は少ないが、その少ないところにさえ、切り傷やアザが見て取れた。手のひらにはマメもあった。
今回来たのは一週間ぶり。「明日から頑張る」という言葉に期待していたのに、大抵は延ばし延ばし永遠に来ない「明日」なのが、魔理沙は本当に明日から頑張ったようだ。傷からも弾幕からもそれがわかる。
魔理沙の動きは完全とは言い難いもので、一度やれば一度はミスをする。はっきり言えば全て不完全だ。でも、「玉に瑕」とか「画竜点睛を欠く」とか言えそうになるくらいまでには仕上がっていたのも事実で。
『肝心要のツメが甘いわね』
『ハハッ、じゃあ、もうちっと塩辛くするか』
こんな会話も成立するほどだ。
初日のように全否定することはできなかった。繰り返し繰り返し積み重ねてきた修練が、曲がりなりにも見られたものに仕上げてきたのだった。こうなると、私もどこが問題点なのかをアドバイスせざるをえなくなる。客観的視点を得て、魔理沙の動きがさらに洗練されていくのを、私は見せつけられるハメになった。
「曲がりなりにも」に妥協の色があれば良かったのに。そんなものは一切見つけられない。
「いひゃー、加しょくとひゃい避のティヤイィングが一ぴゃくジュレたにゃー」
「加速と回避だけじゃなく、直前の弾を放つタイミングもね」
「うっし!」
手を強く下に振って、魔理沙は指と鼻の鮮血を払った。赤が散るのに目もやらず、顔は上を向いている。
「ワンモアだ!」
叫ぶや否や、ロケットのように垂直に立った箒と一緒に青空へ飛んでいった。風圧が私の前髪を揺らす。
アクロバティックな軌道が再び天で描かれるのを見上げながら、私は考える。結局のところ、甘すぎたのだ、私自身が。
相当の時間は掛かるだろうけれど、魔理沙は私の示した弾幕パターンをマスターするだろう。魔理沙の才能を見誤っていた? 違う、要点はそこじゃない。普通は掛かる時間を考えれば、あきらめるはずだ。徒労かどうかを確かめるために長々と骨を折るなんて、常人はやらない。
努力と労力をああまで際限なく注ぎ込めるとは、まったく見誤っていた。
私は、障害を設けたつもりが、最終目標に達する前の中目標を設定してしまったことになる。
挫折を早めるのには失敗した。魔理沙は中目標を通過して、そして──結局は挫折する。
仮に壮大な構想が実現したところで、挑む相手はどうやっても届かない高みにいる。
目指しても不幸にしかならない。天に向かって築いたバベルの塔か、太陽に近づき過ぎたイカロスか。どちらの神話も同じ教訓を示している。付き合わされて心中するのは真っ平だ。
何度目かの失敗をしてから、魔理沙は地上に降りてきた。
「と、とりあえず一休みするわ」
「目の焦点が合ってないわよ」
右目と左目、それぞれが別の意志を持ったようにあちこち動いて定まっていない。
「いや、はは、驚異の回転率で平衡感覚の限界に挑んじまったぜぇー」
足元もおぼつかない様子で、千鳥足そのもの。危なっかしいと思っていたら、「うおっと!」とこっちに倒れ込んできた。荒々しく抱きつかれる。
「きゃア?!」
ハプニングに心臓が飛び跳ねた。
「あ、あー、わりぃ。っと、あれ?」
魔理沙は身体を離そうとするも、フラついて私の身体を支えに密着し続ける。汗と陽の匂い。
「参ったね、こりゃ。グルグルやり過ぎて全身バターだ」
「バターにまとわりつかれるのは迷惑ね。私はホットケーキになるつもりはないわよ。食い物にされるのは御免だわ」
肩を貸して、木陰にまで連れていく。木に寄りかからせた。脇には魔理沙の持ってきた本やノートなどが広げた風呂敷の上に乗っている。
「食い物にはしないさ。私の食い物は、ほれ、こうして持参してる」
見覚えのある枝の箱を取り出すと、見覚えのあるサンドイッチを摘み出した。テラテラした茶色の具が見える。
「吐きそうな体調なのに食べるの?」
「もう治ったよ。むしろ気付けの一杯が欲しいくらいだね。酒の味を思い出すためにもさ」
「?」
首を傾げた。
「お酒、飲んでないの?」
「飲めないんだよなー。代わりにこのキノコの味が楽しめるとは言え、百薬の長がいただけないのは命の縮む思いだぜ」
「?」
魔理沙の脳回路が変調をきたしているのか、それとも私の理解力が不足しているのか、どちらなのだろう。
「……サンドイッチに挟まっているのがキノコで、それがお酒と何の関係があるのよ」
魔理沙はサンドイッチをかじりながら言った。
「ソテーにしてあるこれ、ヒトヨタケってんだ。ここに含まれてる成分がアルコール分解を邪魔するんで、酒を飲むと悪酔いを引き起こすのさ。一週間は効果が持続するってぇ強制的禁酒にもってこいのキノコだ。ホテイシメジと併せてもう半年は食ってるな。ああ、前に持ってきたササクレヒトヨタケにはその成分は無いんで安心しとけ」
あの置き去りにされたキノコは漏れなく手を付けずに廃棄したから、心配するまでもない。
気になったのは半年という語句だ。
「そんなに禁酒してるわけ?」
「酒飲むと睡眠時間は延びるし、頭の働く時間が減るからな。飲まない理由には十分だろ」
どれだけ……。
連日連夜宴会で飲み明かした翌朝、痛む頭を迎え酒でいたわるような魔理沙だ。あっさり酒から身を離すなんてにわかには信じられない。それも半年。
どれだけ、これに懸けているの。
生半可な障害が無駄になるはずだ。もう幾度となく乗り越えてきたのなら、山ほどの障害も一山いくらの障害に成り下がる。
けれども、だ。ガムシャラになっているからこそ、不感症に陥っているのかもしれなかった。
感じていないのだろうか。努力の果て、たどり着けないという不安。絶望の深い予感。博麗霊夢はどうあっても乗り越えられないのに。
「魔理沙」
私は意を決して話しかけた。
「む? 何だよ」
サンドイッチを食べる手が止まる。
「できたスペルを霊夢に使うつもりなんでしょ」
「ん……ああ、うん。そうだよ。お前との契約はスペル作成までだからそこは気にしなくていい」
「勝てるつもり?」
沈黙。
瞳の奥で何を考えているのか。その色はうかがい知れない。
やがて、魔理沙は言った。
「可能か不可能かってのなら、可能だろ」
「無理よ。絶対無理」
即座に否定するも、即座に反論される。
「理屈っぽい性格の割に非論理的だな。科学でも魔法でも、絶対なんてありえない」
「じゃあ言い直すわ。ほとんど無理」
「じゃあこっちも言い直そう。私の力量や掛かる時間を度外視したらどうだよ」
目に力が入った。瞳の奥に灯るものがある。
「可能だろ。やり方はあるんだ。できるかできないかで言ったら、できる側に存在するんだよ。今いる世界に『それ』は転がってんだ。後は拾い上げるだけさ」
干し草の山から針を探す、という喩えを口にしようとして、できなかった。それとわかって魔理沙は針を探し当てようとしている?
「魔術の研究で一番怖いことって何だと思うよ」
「……失敗することかしら」
「研究できなくなることだ。その先にあるものを常に追い求めるのが魔術だろ。立ち止まるのは魔術にとっての死も同然さ」
手元に残ったサンドイッチを一口に頬張る。ほとんど噛まずに飲み込んだ。
「生きてる限り進み続けたいんだよ。私は魔法使いだからな」
浮かべた笑みは不敵で。
「なあ、アリス。これができたら次はどうしたらいいかね」
7
塩を入れたたっぷりのお湯に、1・8㎜のパスタがくつくつと茹でられている。
一本を菜箸で取り上げ爪の先で切ってみると、ふむ、アルデンテまではもう少しといったところね。良い食感のためにはそのパスタにとっての適切な時間を量らないと。
そう、それが世の理だ。
あの時、魔理沙の台詞と熱気にやり込められた感はあったが──アドバイスさえしてしまったわけだけど──よくよく考えれば力量や時間を度外視なんてできるはずがなかった。
魔理沙が帰った後で疑問は頭に押し寄せた。なぜそこまでして上を目指すのだろう。理由は何?
魔術の世界に足を踏み入れて。親の元を飛び出して。数々の異変へ積極的に首を突っ込んで。博霊の巫女という誰も超えられない存在に挑んで。
理屈じゃないから、理屈を無視するのだろうか。無知ゆえの万能感を抱いている可能性も……。チュウニビョウという言葉さえ脳裏に浮かんだのだった。
『自分を世界で一番だと思って努力するの。努力している限り、自分は誰よりも素晴らしい──そう思うのが努力のコツね』
子供の頃、母が自分に言った言葉を思い出す。
実際、言われた通りに心がけると楽しく取り組めた。弾幕の中を危うく飛び回るのも、暗い中で一人じっと魔方陣を描き続けるのも、自分の持っているものが奥底から全部引き出されて、より高いところに上っていくような気にさせた。
一方で、勝負や競争といったものにはあまり良い気持ちは持てなかった。
自分が負けても、相手が負けても、残る感情は苦いものだ。努力して自分の能力が上がることが大事なのに、強いて人と比べる必要があるのだろうか。「負け」の存在が努力を否定するようで嫌だった。
だから、やるとしても本気は出さない。あくまで遊びの延長として、あるいは研究の一過程として、弾幕などの勝負は行った。何かを懸けるほどの価値なんて、ない。
ジュワワァ!
突然目の前を湯気が覆った。
慌てて火を止める。茹で過ぎてしまった。泡立って噴きこぼれるなんて、火力の加減を誤ったかしら。それとも塩が少なくて、パスタのデンプン質が溶けだしてしまった?
とにかく鍋の中身をザルに上げると、また湯気が視界を白く遮った。その時、
『アリスちゃんはいい子ね』
母の言葉がよみがえり、背筋をゾッとさせる。
……どうして、今ので、ゾッとしたんだろう。
未だ立つ湯気の中で、母の言葉が数珠つなぎのように浮かんでくる。
『いい子ね。新しい魔法をどんどん覚えて、いろんなお人形さんを作れて』
『これからも新しいお人形さん、ママにたくさん見せてちょうだい。楽しみよ、素敵なアリスちゃん』
『失敗しちゃったの? 余程のことじゃなければ気にしなくていいわ。ママもときどき失敗するもの。そんなこと忘れてしまいなさい、奇麗さっぱりね』
母はできそこないの人形を手にすると、ボン!と白煙に変えてしまった。
そうだった。それで私はゾッとしたんだ。
あれは見間違いではなかった──薄く開かれた扉の向こうで、母が見知らぬ少女を抱き締め、瞬間、その場は白煙で満たされたという記憶。確信はその意味を私に理解させた。氷のくさびを心に突き刺した。
魔界の創造主たる母に私は作られた。失敗した人形は破棄される。なす事をなせない人形は、存在は、葬られる。そうなることを私は恐れた。
ああ、その恐れを持つ以前の私は……弾幕勝負で自分の限界に挑戦したことがあったのだ。本気の能力以上を引き出すために魔導書を持ち出しさえした。身の丈を超えたレベルの代物だった。
結末は完全敗北という形でついた。わずかな言い訳もできないほど打ちのめされた私を、母は慰めてくれた。
『怪我はない? もうあんなことしちゃダメよ』
優しい口調。穏やかな表情。
でも、その瞳の中に感じた色彩は、人形を白煙に変えたときの……
頭を振って、過去のトラウマをかき混ぜ、沈めた。
ザルのパスタを、フライパンに移す。サワークリームとベーコンのソースに絡めていく。ややクセのある味だけれど、慣れるとクセになる。生の卵黄を真ん中に飾り完成。潰して一緒に食べるとコクが加わる。
生の卵は食べられないと言ったけれど、何事にも例外はあるものだ。
8
私が魔理沙にしてしまったアドバイスは次のようなものだった。
「最後には一枚のスペルカードに仕立てるんでしょうけど、あなたには『自分と相手の立場』を考慮してないって問題点があるわ」
「私は人形劇をやるとき、観客がどう見るかを考えてやっている。見せるためにやっているのだもの、当然よね」
「人が見たいものなんて漠然としているし、範囲も広すぎるでしょうね。でも、反対に、私がやれることは限られてるの。できる演目の分野は広くないわ」
「自分のできる範囲のことを、できるだけ相手が良く見てくれるように、私は人形を操る」
「魔理沙は宇宙を表現しようとしている。でも宇宙の全てを見ることは誰にもできない。あなたはあなたの考える宇宙しか表現できない。それを認めるの。そして、あなたの宇宙を、霊夢がどう見るかを、どう見せたいかを考えてスペルを構成するべきじゃないかしら」
……わざわざ完成に近づけるようなアドバイスを、何でしてしまったの、私?
夜道を歩きながら小さく首を振る。
魔理沙はどうあってもスペルを完成させるだろうから、下手な妨害は時間を延長させる意味しかないのは事実。にしたって、独りよがりのスペルを作らせた方が時間は短くて済んだかもしれないのに。
わずかにでも魔理沙の熱に感化されたというなら、情けないことだ。
熱なんてなくても魔術研究は進められるし、「元気があれば何でもできる」なんてそんな都合のいい話はない。魔理沙は熱気球だ。熱い思いが膨れ上がって、中身がない。風の吹くまま一人どこかに飛んでいけばいいのに。私まで乗せられてはたまらない。
霊夢に勝つだなんて、ジュール・ヴェルヌの冒険小説より荒唐無稽だ。魔理沙は願っていれば夢はいつか叶うと安直に考えているのか。それとも、挑戦することに意義があるとして、負けてもともとと思っているのか。
つと、いつになく冷たい風が身体に吹きつけた。昼まで降っていた雨が冷やした気温を、服の奥にまで伝えてくる。
季節も季節だし、軽い買い物だからと薄着で行ったのが失敗だった。早いとこ家に帰ろう。
足取りを早めると、ほどなくピチャピチャと音が耳に付くようになった。ここらはまだ乾き切っていないようだ。足下に目をやると、地面はまばらに白くなっている。見上げると、桜の木。その遅咲きの花はもうすっかり散ってみすぼらしい枝の姿をさらしている。地面の白いものはその残骸か。
少し前に咲き誇っていた花が、今は暗い道に散り敷かれている。人々の往来に踏まれ、泥にまみれている。
長い月日を経て開花しても、咲くのは一瞬。その後は無惨なものだ。花々の幾つかは、綺麗だ何だと褒めそやされることもあるだろう。手に取り愛でられることもあるだろう。しかし、それもそのときだけで、直に見捨てられ、足蹴にされる。思い出されることもなく、汚れて、消える。
魔理沙は──恐らく、そうだ。踏まれることを考えていないのだ。だから未だに咲こうと力んでいる。儚い一瞬に多大な期待を掛けている。
そして、咲いて散るための肥料として使われている者の名がアリス・マーガトロイド。しばらくの間を置いてはいるが、近々また家に押し掛けられるだろうと、私は再度ため息をついた。
「あら……?」
今、夜空に何か光ったような気がした。枝々に遮られてよく見えなかったけれど。歩きながらも目を凝らす。
「あっ」
間違いない。
確かに光った。さっきより遠い位置で一瞬の輝きが生じた。曇り空でもあるし、明らかに星とかじゃない。もっと人工的な……。
地を踏む足が宙に浮いた。身体は道を逸れて光の出所へ向かった。
魔法の森付近のこの辺りには、そこそこの広場があったと記憶している。
木々の間を飛んで抜けていく。まさかとは思うけど、まさかよね。
そして。
身を隠して訪れて正解だった──のがうらめしく感じる結果が、広場で待っていた。
夜空をブンブン飛び回っているのは、箒にまたがる魔法使いだった。案の定。
私は息をひそめて木の陰から見ることにした。アドバイスを求められるのは面倒過ぎる。
風の強くなった暗闇を、高速の回転運動が上下左右に展開される。部屋に舞い込んだ蠅を連想した。
人間にとっては無茶過ぎる動きだけど、スペルを構成する中では主要なものなので省くわけにはいかない。実際にはさらにここに弾幕が加わるので、難易度は跳ね上がる。
時折魔理沙が発する光弾は本番を想定したものだろうけど、本番では無数の弾幕なのが、今は一つのループするそれを危なっかしくかわしている。
「あッ!」
魔理沙が叫んだのは、幾つか目のものが箒の先に当たったからだ。バランスを崩すも、何とか制御して持ち直す。光弾はあらぬ方向へ飛んでいき、一際輝いて、消えた。私が目にした光はあれだったのね。
魔理沙は動きを止めた。そのまま何もしない。宙に一人ポツンとたたずんで、今にも暗闇の中へ溶け込みそうだ。
魔力で増強した視界に、肩で息をする白黒魔法使いが浮かぶ。汗だくで絶息寸前。絵に描いたような疲労困憊だ。もっともあんな動きを繰り返していて疲れないはずがない。うつむいて途切れ途切れに何かをつぶやいている。
ダウンしたのかしら、と思ったけれど、その状態はさらに長く続く。休憩なら地上に降りてこないのは変だ。
風越しにでもつぶやく声を聞いてみようかと、聴力も増強しようとしたその時、魔理沙の右手が高く掲げられ、大きな声がいっぱいに発せられた。
途端に一面が明るくなる。弾幕だ。一気に展開して、それぞれの光を放っている。
つぶやいていたのは呪文の詠唱、そしてさっきまでの飛行は予行演習。そう気付いたときには、もう動いていた。
魔理沙。
思わず目を見開く。
ここまでやれたなんて。予想を超えた出来栄えだ。
全体に、そして個別に、速度の違う回転が周囲を埋め尽くしている。大小の明滅する光が、生まれては消えてゆく。彗星か流星を模した光弾が幾つも突っ切っていく。
その小宇宙を魔理沙は縦横無尽に飛び回り、さらなる弾幕を振りまいていく。世界を創っていく。
──これなら十分に通用する。
目の前の光景がどれだけの努力を重ねた結果なのか、スペル開発に付き合ってきた私にはよくわかった。そして、その不完全さも。
そう、通用する。一つのスペルカードとして十分に通用するレベルには違いない。
しかし、それは通常の場合だ。構想も相手も遥か高みにあるなら、通用するとはとても言えない。
スピードや密度など派手派手しさは目を引くが、従来の魔理沙のスペルと変わりない。ひいき目で感情移入して見た時は別として、現状、プラネタリウムから広大な宇宙を表現するのには主観と客観の芸術性があまりにも欠けている。そして、実用性で言えばもっと足りない。霊夢には一蹴されて終わりだと断言できる。
努力を重ねて足りなければ、さらに努力を重ねればいい、などという馬鹿げた夢想を無邪気に信じているのだろう。
懸命に夜空に手を伸ばして星を取ろうとしている子供に、父親が「それじゃあ無理だ。屋根へ上れ」と述べる落語があったけれど、そのままそれだ。
現実の距離を測れない努力なんて、笑い話にしかならない。
私は決意した。
もう終わりにしよう。関わっちゃいけない。魔導書はあきらめる。
魔理沙はどうあってもやめないし、どうあっても失敗する。長々続く道のりの果ては断崖絶壁。それが既定路線である以上、私ができるのは道連れを避けることだけだ。できそこないの人形にはなりたくない。
叫び声が上がる。
魔理沙の身体が箒ごともんどり打っていた。箒の先に被弾したのだ。リハーサルの再現。
その勢いのまま、新緑の中へ突っ込む。慣性と重力で枝々を折る痛々しい音が、しばし。魔理沙が地面に落ちる頃には、光弾は余韻だけ残して消えていた。完全な暗闇に戻る直前、間を置いて帽子が金髪の上に被さる。
魔理沙は地面と箒に手をついて、顔を伏せたまま肩を上下させていた。
ダンッ!
拳が地面を叩く。
「くそッ! ああ、くそッ!」
二度、三度と叩いた。
「何でできない! 何で? くそ、わかってるさ!」
風の渦巻く中、魔理沙は声を吐き出した。
「何にも努力しないでできるヤツはいるよ! 方や努力したってできないヤツもいる! 私は何度も負けた! 何度も失敗した! あれだけやったのに! ああ、もう嫌になるくらいさ! でもな!」
曲げた膝が伸ばされていく。よろめきながら立ち上がろうとしていた。
「努力しないわけにいかねぇだろ! 私は普通の魔法使いだ! 努力しねぇで成功はありえねぇんだよ!! 他に何ができるってんだ!!」
ついに立つ。震える顔は伏せられていたが、一言、絞り出すようにつぶやいて、再び上を向いた。
見誤っていた──私の方が。
魔理沙はわかっていたんだ。目標とするものが絶望的な高みにあることを十分理解した上で、努力を重ねていたんだ。つぶやいた一言は根底のもので。だから、認めざるをえない。
熱さか寒さか、名状しがたい震えが身体を上ってくる。無邪気とか未熟とかではなかった。ここにあるのは成熟した無茶、完成された無謀。強固で、異質な、意志。魔理沙が持ってる価値観は、私の人生には触れることさえなかったものだ。……あの時の例外を除いて。
「とりあえず今だ。今やってることができなけりゃ、何をやっていいかも見えない。これじゃ通用しないことはわかってても、この足場を踏めなけりゃ私は上に行けねぇんだ」
何が何でもやってやる、と箒を持って歩き出す。
さっきのが思い描いた理想のイメージに合わないことは、やはり百も承知のようだ。私が感じるように、魔理沙もある根本的な部分で足りないものを感じているのだろう。
それが何かをつかむために、思いつく最大限を実行してみて、叩き台にしようという腹か。
けれど、今やってる弾幕さえも現状では不可能と見て取れた。速度と制御を兼ね備えるには、もう一段上の魔法力がないとならない。
(となると、地力を上げるための鍛錬をすることになるのかしら……あら?)
魔理沙が歩いた先でしゃがみ込み、ガサゴソと何やらやっている。背を向けているけど、荷物があった場所だから、多分その中身を探っているのだろうと推測された。
「ブースト掛けりゃどうにかなるだろ」
そう言って魔理沙が取りだした物が何なのか見たとき、私はギョッとした。嘘でしょ。
いかめしい装丁の分厚い本。掲げられると赤黒い燐光をまとい始める。
あれって私の魔導書じゃない! 封印と結界を掛けて保管してあったのを、どうやって持ち出したの、あのコソ泥!
けれど、そんな怒りより先に立つものがあった。
ブーストの意味がわかったからだ。あの魔導書にはそれ自体に強力な魔法力が内蔵されている。圧縮されたそれを強制的に自己の中へ送り込み、爆発的な威力を出させようとしているのだ。そもそもそういう用途で作られた魔道具だ。
何てことを。
魔理沙は箒にまたがり、高く高く宙に昇りながら弾幕を展開した。さっきのよりも輝きが格段に増している。威力と速度の大きさが想像され、脅威となって胸の内を圧迫してくる。
魔導書からの燐光が魔理沙と箒とに流れている。箒の枝の一本が爆ぜた。魔理沙の挑戦的な笑みは強張っている。
当然だ。無理矢理に注いだエネルギーはすさまじい圧力を内側から掛ける。膨らみ過ぎて破裂する風船の気持ちになれる。その上、荒れ狂わんとする光弾の群れの中心にいるのだ。
かつての忌まわしい感覚が甦った。挑戦したら挑戦しただけ、無茶をすれば無茶しただけ、大きなものが得られると信じていた子供の頃の感覚。魔導書の力を使って博霊の巫女に挑んだときの感覚。錯覚。
はァ、と息を吐き出して魔理沙が宣言する。
「行くぜ!」
行くな!と私が飛び出していた時には、もう弾幕も魔理沙も動き出していた。
このまま進めば巻き込まれる。大きなエネルギーを得られたからといって扱えるものではなく、失敗は必然。弾幕の暴風雨、その暴走の被害者に自分も並ぶ。
それでも私は止まらなかった。止めるために、止まらなかった。どうしても止めないとならない。あんな蛮行はもうたくさんだ。
「魔理沙!」
幾つかの弾幕を衣服にかすらせ、中心の愚者に組み付いた。
「ア、アリス?!」
驚きで目を見張る魔理沙。間近に見るは──挫折を知りながらも澄んで光る瞳。私もこんな目だったのだろうか……。
全てが流れる景色に意識が戻される。新たに弾幕が生み出されるのは中断されたが、走り出した弾幕はもうどうしようもない。そして私も魔理沙も止まらない。組みついたまま空中で回転する。
周囲の樹木が破壊され、光弾同士がぶつかりあうすさまじい音。無数に被弾する恐怖が背筋を冷やす。なのに、なぜか渦中の魔理沙の顔は呆けていて、どこを見ているのかもわからないものになっていた。こんな時に!
とにかく渦の中心から逃れなくては。魔理沙を引っ張って全力で地上へ向かう。前後左右に魔力の飽和した光弾が荒れ狂っていた。
全方位に防壁を張る余裕はない。上半身の側面部のみに集中して、青白い光で二名分を覆う。
交差して飛び交う光弾を何度も避けて、下へ。弾幕勝負の場合、必ず避けるルートを用意するのが作法だけれど、今の事態はその保証がない。それでも、ルートを見出すよう全力を尽くす。最悪の中の最善を探す。
「ぐくぅッ?!」
背中に衝撃。マジックバリアごと弾き飛ばされる。体勢を立て直す暇もなく、弾かれた先でさらに被弾する。横倒しになり、脳天に飛来する光弾がスローになった視界に入る。防壁、回避、無理。
覚悟した衝撃は来なかった。代わりに頭上に被さったのは柔らかい感触で。魔理沙の手だった。
さらにその上を魔理沙の展開した金色のマジックバリアが覆う。一瞬、視線が合わさり、笑みが映る。
身体の向きが傾き、魔力を一点集中した防壁に光弾が当たって、軌道を反らして後方へ飛んでいく。
弾幕の渦に私たちの回転も合わさって、周囲は光の洪水だったが、回転の中心にある地面ははっきり認識できた。そして魔理沙の狙いも。
身体が横回転するのに逆らわず、より力を加えて回転を速くする。二人分の魔力によるスピードで、脳が遠心分離機に掛けられたようになるが、わずかな間だ。地上へ向かうスピードも二倍──私達は発射された銃弾となって飛び交う光弾を蹴散らし、湿った土に激突する。
二度バウンドして、木に当たり、マジックバリアのクッションが消えると同時に、幹の後ろに隠れた。揺れ歪む視界の中、弾幕の暴走は早くも勢いを減じ始めている。このままここにいれば大丈夫だろう。
三半規管と気持ちが落ち着いたところで、しかし、安心の下から別の感情が込み上げてくる。そのまま相手に吐き出した。
「魔理沙! あなたねぇ!」
自分でも意外なほど大きな声が出た。とはいえ、何について文句を言うのか、自分でも判然としないでいた。
何について怒鳴る? いえ、何から?
秘蔵の魔導書を勝手に持ち出したことか、限界を超えた弾幕に挑んだことか、九死に一生を得た直後なのに笑顔でいることか。
結論は出ないまま終わった。魔理沙が正面から抱きついてきたからだ。今度は倒れ込むのでなくて、能動的に、力強く。
「?!?!」
私は混乱で声も出せない。何これ。何これ。回転は終わったはずなのに、頭の中はまた、ぐるグルぐるグル。
そんな私の全身を全身で抱擁したまま、魔理沙は嬉しそうに声を上げるのだった。
「そうか、そうなんだよ! わかったぜ、『自分と相手の立場』! ははははは! やったぞ、アリス、お前のお陰だ! よぉし、こっから一気に行くぜ! いやっほーォ!」
9
一歩一歩、慎重に階段を上がる。つまずきでもしたら一大事だ。上海人形にも壁にぶつからないよう注意してある。
それだけじゃなく、抱えるように持つその一升瓶は、もう冷えた表面に水滴が浮いてきていて、いつ滑って取り落としてもおかしくなかった。
二束三文のお酒なら大して気を遣うこともなかったけれど、値段を聞いたら目の飛び出るようなランクの純米大吟醸だった。上海人形の持つ貴腐ワインも同等の額だというからたまらない。地下室で冷蔵して管理する手間も考えて、まったく報酬にならない報酬ね。
『一年分の酒代をくれてやるんだ。破格だろ』、などと魔理沙は言ってたっけ。お為ごかし、禁酒の誓いを預けさせられただけじゃないかしら、と私は未だに疑っている。頭に菌糸が張っているのでもなければ、キノコと同列にされて気分のいい人間はいない。
かといって、何ももらわなかったらもらわなかったで、納得はいってなかったろう。あの弾幕の中に入って、追加の報酬なしというのは、うん、冗談にもありえないわね。
魔理沙が新たに要求したのは、アリーナ席で弾幕を観覧することだった。自分でもかわせるかどうか危うい弾幕を、そのまっただ中で注視してくれだなんてまともな神経じゃない。
……それを引き受けた私も含めてね。
仕方ないじゃない。不可能さを理解した上で挑戦し続けるって意志が魔理沙にあるなら、そこに私を必要だと見てしまった以上、どうあっても巻き込まれることから逃れられない。最後まで付き合うしかないでしょ。そう、不可抗力なのよ。
「はぁ……」
さすがにため息をついた。
自分で自分に言い訳をするのはベスト10に入る空しさだ。
本当は、拒否できないことはなかった。
でも、あの台詞。弾幕のリハーサルに失敗した魔理沙がつぶやいた言葉。
──「母さん」
魔理沙の母親は魔理沙が幼い時に亡くなったそうだ。病気がちでいつも布団に入っていた。魔理沙が魔法使いを目指したのは母親が病没してからほどなくだ。そう聞いている。
それ以上のことは知らないけれど、魔理沙の発言と行動、過去と現在を線でつないでいくと一つのストーリーが浮かんでくる。
病床の母親は枕元の娘を慈しむ目で見続けたのだろう。残された時間の少なさを知る分、娘と触れ合うのを何より楽しみにしていた。娘もまた母親と触れ合うことを一番の楽しみにしていた。
母親は娘の自由さ・活発さへ向けて羨ましそうな、嬉しそうな響きで語りかける。娘はより自由に、活発に育っていく。そうして、永久の別れの間際、母親は娘に言葉を遺す。『魔理沙、お母さんの分まで生きてね』
こうして後退も躊躇もしない魔法使いは誕生した。箒にまたがり、今日の今まで高みを目指して飛んでいる──。
私は無駄な創作能力を発揮しているのかしら。多分は、そう。でも、母親のたった一言が生き方を決定づけるのはありうることだ。身に染みて知っている。
「はぁ……」
もう一度ため息をつく。
そんなものに自分がほだされたとは考えたくなかった。同様の過去を起点とする魔法使いに手を貸そうとしたなんて。彼女を自分と表裏一体のものとして見るなんて。
だけど、協力してしまったことは変えようがない事実で。手に入れた魔導書を開くたび、私は複雑な思いを抱くのだろう。
やれやれ、ね。
せめてこのお酒を飲むときは、ただその美味しさを味わいたいものだわ。
「ドコオクー?」
「テーブルの中央、そこの開いたスペースによろしくね」
「ココー?」
上海人形に指示を出し、追加の報酬たる純米大吟醸と貴腐ワインをテーブルに並べながら、しかし、私はもう複雑な気分になっていた。
あの無茶な弾幕に人を巻き込んだハプニングが、魔理沙にとっての打開を生んだ。
「自分と相手の立場」……それの示す具体的な弾幕の問題は、「撃っている魔理沙自身からはともかく、撃たれる側から見ると大したことはない」などだ。魔理沙はあの一件で、今まで相手の視点を固定的なものとして見ていたことに気づいた。自分は飛び回りながら弾幕を撃っているのに何という盲点。
自分が弾幕に感じているダイナミックさを相手にも感じさせるには、相手にも飛び回ってもらう必要がある。用意した回避の道筋で相手を誘導し、自分と相似の、相対の、相違の、飛行をさせる。そうだ、これだ。
ということで、魔理沙は私に白羽の矢を立てたというわけだ。それからはまさしく生け贄にされた気分だった。
『キャアァ?!』
『叫んでる暇があったらよけろ! まだこっからだぞ!』
『む、無理よ! キャー! 無理無理絶対無理! 止めて、って、キャー!』
『大丈夫だって! 直に良くなる! って、うわぁー!』
『魔理沙もいっぱいいっぱいじゃない!』
ピチューンピチューン
そうやって何度も何度も撃沈し、慣れたところで一層の高難度な弾幕が張られる。撃沈の数も率も減らないまま月日が過ぎた。
方向性は間違ってなかったから文句のつけようがなかったにしても、我ながらよくもまああそこまで付き合ったものだわ。
数々の料理が乗ったテーブルの上を見回し、一つ置き忘れていたものに気づく。上海人形に台所から小鉢を持ってこさせた。
桜の塩漬けと菜の花の和え物。旬の味、季節の一品だ。
始まりは春。そして今はまた春。つまりは一年が過ぎていた。早いものね。
これで結果が徒労に終わっていたら業腹だったけど、スペルカードはどうにか完成の運びとなった。
スペル名は、確か、ええと? 何だっけ、「スターダストクルセイダーズ」……じゃなくて、「ギャラクシーエンジェル」? それとも「ブンブンサテライツ」だったかも。
実のところ、そこら辺は曖昧だ。
名付けることはスペルが完成するまでしなかった。そして、完成してからほとんど間を置かず、魔理沙はさっさと帰宅してしまった。
達成感に興奮しながらごちゃごちゃと羅列していたのが多分スペル名なんだろうと推測できただけで、最終的にどうなったのかはわからないのだ。
はっきり伝えられたのは予定だけ。明日の日没直後に博霊神社へ向かい、事を終えたら私の家へ寄るとのこと。
最後の言葉はこんなのだ。
『アルコール解禁日だぜ! 勝利の美酒に泥酔すっから、そんつもりでごちそう用意してくれ! じゃあな!』
連日連夜の特訓の疲れも吹っ飛んだような勢いで夜空へ消えていったっけ。余程完成が嬉しかったのね。
その後のことは簡単に予想できる。帰路の勢いのままベッドに潜り込み、日の出と共にウォーミングアップ、念入りにリハーサルして、日没に合わせて博霊神社へ飛ぶ。
ごちそう──酒のツマミ程度のものを用意しておいても十分だったろうに、ねぇ……何をまかり間違ってこんなに作っちゃったんだろう?
テーブルの上には、オムレツ・スコーン・スープ・パスタ・キッシュ・カポナータ・ポークソテー・サラダなどなど、所狭しと手料理の数々が置かれている。二人で食べるには大変な量だ。魔理沙には胃袋の限界に挑んでもらわなくちゃならない。
こんなボリュームになっちゃったのは、作り始めるのがやたらと早かったからかな。そういうつもりはなかったんだけど、今日は妙に気持ちが落ち着かなくって……。
暗くなった窓の外を見る。緩んだ温度の黒が、風もなく沈黙していた。
人生五十年とは言うけれど、果たして魔理沙の五十分の一は霊夢に届くだろうか。全身全霊を掛けた一年は。絶対勝つとの一念は。
その確率を喩えるなら、そうね、春霞のように薄い、かしら。
やっぱりおかしな考え? 確かに変よね。我ながらそう思う。極わずかにでも勝率を見出してしまうのは、以前の私じゃありえなかった。
でも、ゼロと言い切れない理由は一応、ないこともない。はず。
一つには霊夢にとって初めて目にするスペルカードだということがある。それも今まで魔理沙が使ってきたスペルとは一線を画するものだ。意外性はわずかなミスを誘うかもしれない。
そして、もう一つは「危うさ」だ。あの弾幕の中における魔理沙の挙動は未だに自爆スレスレであるし、撃つ光弾にもブレが生じている。ところどころの不均衡は一種の美であるという認識でそれを含めての完成としたが、魔理沙でさえ読めない不確定要素は相手の予測を外す効果もある。
これらの要素が二重に上手く働けば、あるいは…………うん、ひいき目に過ぎるかも。
しかしながら、絶対に確率がゼロということは理論上ありえないことであり、って、これはどっかの白黒の台詞だったわ。
ごちゃごちゃ考えても仕方ない。勝ちか負けかいずれにしても、結果の知らせはもうすぐドアを叩くはずだ。
10
「いやぁー、負けた負けたぁ!」
ノックも無しに飛び込んでくる朗らかな声。
「霊夢、半端ねーわ! 底が見えないとはこのことだな! こっちはアップアップだってのにスイスイ抜けてくし、MAXスピードをものともせずに正確な照準で撃ち込んでくるし!」
ドッカと椅子に座って、三角帽子を後ろに放り投げ、それがコート掛けに被さるのを見もせずにハハハッと笑った。
「いつものようにあっさりやられたわ! あまつさえ最後に言われた台詞が『変な弾幕ね』だぞ? 芸術点もゼロってか! 参ったね!」
軽い調子で話していて、心に何の憂いもないように見える。
悔しくないわけがない。あそこまで力を注ぎ込んで、強く思い入れて、それなのに完敗したのだ。地面を殴った魔理沙を私は知っている。
だから、言った。
「とりあえず晩餐を始めてもいいかしら。料理が冷めちゃうわ」
やや早口になっていることに内心驚く。動揺しているの、私?
「ん? おお。ハハッ、こんなにたくさん作ってくれるなんてありがたいね。祝勝会にゃならなかったが、たっぷり食わせてもらうか」
「その前に手は洗った?」
「抜かりはないぜ」
両手をヒラヒラとかざしてみせる。確かに、綺麗かつ湿っていた。
顔も同様に湿っていることには、気づかない振りをした。
まぶたが赤く腫れてないところを見ると、涙が滲んだくらいだったか。それとも、どんなに涙は流れても、まぶたをこすることだけはしなかったか。
けれど、前髪がわずかに濡れているのでは顔を洗ったことがバレバレだ。もちろん指摘したのでは、わざわざ話をそらした意味がなくなってしまうので、しない。
「じゃあ、ずいぶんと豪勢な残念会になっちゃったけど、始めましょう」
「だな。う~ん、にしても、美味そうだ。盛り付けも私の大雑把なやつとは全然違うなぁ……」
声のトーンが下がる。表情から笑みが落ちていき、思わしげに食卓を見つめる。
「どうしたのよ」
「いやさ、アリスと違って、やっぱり私には無いのかな、美的センスってやつ」
せっかくそらした話を! まったく!
結局引きずってんじゃない。息を吐きながら椅子に座り、言った。
「印象派って知ってる?」
「もちろん。都会派の別バージョンだろ」
「センスはともかく知識は皆無ね。今現在の絵画の主流よ」
「絵か」
「ええ」
「ダジャレ?」
「うるさい。それでその印象派は、今でこそ主流だけれど、誕生当初の評価は散々だったわ。名前の由来であった『印象』という絵は、『描きかけの壁紙の方がまだ完成度が高い』なんて評されたの」
「へえ」
「壁紙以下とした評価は間違いとは言えないわ。そう感じたのなら、その人たちにとってはそれが正しいの。でも、今現在は世界的な芸術作品として扱われていることも事実」
「うん、まあ、わかるかな。絵ならピカソのっての? あれを幾つか知ってるが、私にはさっぱり理解できないし」
「弾幕も同じよ」
本題に入る。
「今までのと違う魔理沙の弾幕について、霊夢の下した評価は一つの評価よ。それはそれで正しい。でも、絶対じゃないわ。もし、誰から見ても理解できないようなものなら、私がとっくにダメ出ししてる。少なくとも私のセンスからしたら、あなたの弾幕は──綺麗だったわ」
正直なところを述べたつもりだが、いつの間にか視線を外していたようだ。戻した先には、妙に崩れた表情があった。
「……何よ」
「あー、いや、くっくっ、何でも、くははっ」
「だから何よ」
「あっはは、だから何でもないって! ははははっ!」
「何でもないんだったら笑わないでよ!」
「あははははははははははははははは!」
私がフォークを持った右手を掲げるまで、魔理沙は笑いをこらえようともしなかった。片手は拝んで謝罪の意を示す一方、もう片方の手は未だに笑いが漏れている口に形だけ被せられている。
「ソーイングセット貸すわよ。口が閉じられないなら」
「ふっふ、いや、ハハ、悪い。ちっとも悪気はねーんだ、くくっ」
私はもう一度フォークを投げつける素振りを見せてやる。
「待った待った、マジに悪気はナッシングだってば。うん、ついつい嬉しくってな。だって、アリスのお墨付きをいただけたんだぜ?」
……持ったフォークの銀色の面を見てしまう。私の顔、赤くなっていないかしら?
「お陰で再戦の気力が湧いた。次は勝つぜ」
ごく自然に出てきた言葉に、思わず聞く。
「まだやる気?」
愚問だった。
「あったり前だろ。生きてる限りやり続けるぜ。生きてるからな」
即答。これこそが魔理沙。それゆえに魔理沙。どこまでも魔理沙。やればやるほど差を思い知らされるって思い知ったばかりだというのに、そんな悲痛も重しにはせず踏み台とするのだ。まったく、今更。
「ほんと、魔理沙はしょうがないわね。魔理沙だからしょうがないとも言うけど」
「なんだそれ」
「こっちの話よ」
普通の魔法使いは努力し続けるのだ。この魔法使いにとってはそれが普通なのだった。
「ふぅん、まっいいさ。腹減ったし、さっさと始めようぜ。ひっさびさの酒は浸み渡るだろーなぁ!」
自分から中断させたくせに勝手なものだ。魔理沙は吟醸酒の栓を抜き、あろうことかワイングラスに手酌で注いだ。
立ち上がって私のワイングラスにもなみなみと注ぐ。抗議しようと思ったが、良い香りが鼻孔をくすぐる。こういう飲み方もありかしら。……妥協が私の美意識を侵食しなければいいけれど。
私の心中なんて知りもせず、魔理沙は無邪気に無造作にわしづかみした酒杯を掲げる。
「んじゃ、アリス、乾杯しよう! 乾杯!」
「何に対してかしら?」
少し意地悪い気持ちで掛けた問いだった。単にいただきますの代わりなんだろうとわかった上でのものだ。
敗北に? 屈辱に? そんな皮肉が言外に含まれている。これくらい構わないわよね。一方的に振り回されるのじゃアンフェアだもの。
文句を言うか、膨れるか、期待してたのはそんなのだったが、用意してあったかのように魔理沙は答えた。満面の笑みで。
「この人生に!」
「あっ」
と思わず口に出してしまった。
失敗した。多分。
ちょっと塩が足りなかったかもしれない。いつもの調子で感覚のまま匙を扱ったのがいけなかった。
足りないなら足せばいいのだけど、「かもしれない」ではうかつにやれることじゃない。私はどのくらい投入したのかしら?
見もしないでやったから目分量でさえない。こうなるともはや塩加減は舐めて量るしか……。でも……。
ボウル半分の溶き卵に目を遣る。指を伸ばそうとして、引いた。ああ、やっぱりダメ。生卵に舌を付けるなんて抵抗があり過ぎる。卵かけご飯? あれは人間の食べ物じゃない。つまり日本人は人間じゃないのかもしれない。魔界出身の身で言うのもなんだけど。
まあ、いい。足りないなら食べる時に足せば、それで。
気を取り直してフライパンを握った。
シイタケ、マイタケ、シメジ、エリンギをジャガイモやタマネギと一緒にバターで炒める。水分の弾ける音が心地いい。ソテーしたこれらを溶き卵と合わせ、ホットケーキのように焼けばスパニッシュオムレツの出来上がりだ。
フライパンから炒められた具材の良い香りが立ち上る。特に数種のキノコがなかなかの自己主張をしていた。オムレツにした時の存在感に期待ができる。
やっぱりキノコは見慣れた物に限るな、と思った。
そういえば、事の始まりもキノコだったっけ。
2
「そこを頼むって、アリス! な、このキノコ全部やるから!」
「いらないって言ってるでしょ! ちょ、やめて、魔理沙! カゴを顔に近づけないで!」
「美味いんだって! これなんか高級食材だぞ、ササクレヒトヨタケ。さっき大量に採れたんだ。春の旬、是非ご賞味あれっ」
「嫌よ、何そのマッシュルームの幽霊みたいなの!? 一部黒く溶けてるじゃないっ」
なし崩しで家に押し入ろうとする白黒魔法使いを、必死で押し返す私。早朝、前触れなく訪れての狼藉だった。毎度のことだがトラブルメーカーにも程がある。
「大丈夫だって! そういうもんなんだよ、腐ってんじゃなくて、自分で溶けて胞子を飛ばすの! 普通に食えるし、溶け過ぎたらインクにも使えるからもらっとけって。私のお墨付きだぞ、インクなだけに」
その言葉に感謝した。あまりの下らなさに一層の力が湧いたのだ。私は魔理沙を一気に押し出すと、ドアを閉めて内鍵を掛けた。
ドンドンドン! ドンドンドン!
すぐさまドアは太鼓のように叩かれる。無視などさせんぞというビートを刻む。
「迷惑だからやめてよッ」
「だから頼むよ! お礼ならちゃんとする!」
「そんなキノコさっさと持って帰って、叩くなら自分の家のドアにして!」
「メインのお礼があるんだよ!」
「どんなキノコも遠慮するわよ!」
「『共生と分解のグリモア』」
「そんなものいらな……っ……?!」
我知らずドアを開けていた。魔理沙はキノコの山からつかみ出した本を私の前にかざす。年季の入った厳めしい装丁。吸い付けられるように私の顔が寄った。
間違いない。かなりキノコ臭くなってはいたが、間違いなくそれは「それ」だった。
「くれてやるよ」
「……本気で?」
魔理沙の言葉が信じられず、本を手に取り、手垢の付いたページをパラパラとめくってみる。
あちこちにミミズのようなラインが引かれ、欄外には癖のある字体で注釈が書かれていた。魔理沙の私物の証拠だ。同じことを例えばパチュリーの蔵書に施したら、オールナイトでロイヤルフレアが襲ってくるだろう。
喉から手が出るほど欲しかった稀覯本だ。まさか魔理沙が所有していたとは。あのゴミ屋敷のどこに埋もれていたんだろうか。
この本の特徴である魔方陣の構成は、部分部分に粗雑さがあるように見えて、その実どこまでも計算され尽くした精緻さに満ちている。芸術的と評して余りあるだろう。すごい。見れば見るほどすごい。
「で、依頼なんだけどさ」
「えっ、あ、うん」
本に見入ってしまっていた意識を引き戻される。そういえば、何をお願いされるのか聞いてもいなかった。唐突に押し掛け、ひたすらまくしたてた魔理沙がいけないのだけど。
想定されるのは、異変解決か魔界探索か、そういった危ない橋だ。しかし、この本が手に入るなら大抵のことは了承する覚悟でいた。
身構える私を前に、魔理沙の口は言葉を紡ぐ。
「新スペルの開発を手伝ってほしいんだ」
「 」
とっさに返事できなかったのは、戸惑ってしまったからだ。
それだけ? 貴重な品をもらえるのに、たったそれだけが条件?
「報酬は前渡し。開発に成功しても失敗しても、引き受けてくれれば本はやる。悪くない話だろ」
「え、ええ」
「よっし、決まりだ! さっそくこれ見て、アドバイスよろしく!」
またカゴのキノコに手を突っ込み、今度はノートを取り出して渡してくる。紙にキノコの匂いを染み込ませるのがマイブームなんだろうか。
「ここにコンセプトとか流れとか書き込んである。あんま整理されてないけど、まあ、わかるだろ」
開けば、どのページも乱雑な字と図形でびっしりと埋められていた。人に読ませる前提で書かれたものでないことは一目瞭然だったが、解読できないこともない。斜め読みして概要をつかんでいく。
「構想はまとまってるんだが、最後の詰めがどうにもこうにもでなぁ。どうしたらいいもんかね」
聞き流しつつ、最後のページに至って、私は眉をひそめた。その文言を網膜に映したまま止まった。
これは……。うま過ぎる話だとは思ったけど。
「ん? 何かあったか、アリス」
「……とりあえず中に入って。紅茶でも出すわ」
「おお、ジャムを入れてロシアンティーにしてくれ」
「あつかましいわね」
「あつかましいついでに二匙入れてもらおうかな」
「本当にあつかましいわね」
魔理沙を招き入れながら、私は暗い目で考えを巡らせていた。
ノートの最後、そのページいっぱいに、力強く、こう記されていたのだ。『これで霊夢に勝つ!』
(……バカジャネーノ)
上海人形のかつてしゃべった台詞が頭に浮かんだのは無理もないと思う。
博麗霊夢。この幻想郷の中心に立つ一人。起こる全ての異変に関わり、その全てを事もなげに解決する。異変の首謀者が誰であっても──たとえ神であっても、あしらうように処理してしまう。弾幕勝負で張り合える者は誰一人としていない。
私に「人形を操る程度の能力」があり、魔理沙に「魔法を使う程度の能力」があるように、霊夢にも「空を飛ぶ程度の能力」があるとされている。
皮肉な表現だ。飛行能力は珍しくも何ともない。それを敢えて個人の能力の代表とするのだから。さらに、「空を飛ぶ」には裏に込められた本質的な意味がある。何者からも高く離れて上にいるという「超越者」としての意味だ。
誰もが持つ能力に見せて、誰もが届かない能力こそ現実。こんな皮肉はない。
それを理解していれば、弾幕勝負を挑もうという気すら湧かないはずなのに。
なのに、私よりもずっと長く霊夢と付き合っている魔理沙は何なのだろう。どんな必殺のスペルも蟷螂の斧と化してしまうことがわからないのだろうか。身近にい過ぎて、却って客観性を失ってしまったのだろうか。
同じ人間の、同年代の、少女。ならば、届かないはずがない──それは思い違いだ。希望ではなく無謀というものだ。そんなのに付き合わされるのはたまったもんじゃない。
「ふぃー、甘いもんが浸みるなぁー。シャンハイ、お代わり」
「『三杯目にはそっと出し』の川柳は知ってる?」
上海人形にカップを出す魔理沙をたしなめて、見返していたノートを閉じた。
「知ってるが、私はイソーローじゃないんでな。お前こそ茶道の一期一会の心得を知ってるかよ」
「知ってるけど、あなたとはしょっちゅう会ってるからね。もてなし方よりあしらい方に配慮するわ」
椅子の上で居住まいを正す。
「でも、報酬分の依頼は果たすつもりよ」
「おっ、そうこなくっちゃ」
魔導書はもう返却しないと宣言したことに、魔理沙は気付いてないのだろう。どんなに意にそぐわない結果になったとしても、結ばれた契約は破棄できない。
「じゃあ、率直な意見を言わせてもらうけどね、いい?」
「もったいつけるなぁ。言ってくれよ」
「『何もかもがダメ』」
「……っ」
表情が硬直したところに畳みかける。
「構想がまとまってるって言ってたけど、形にすらなってない。詰めどころか、いくつもの要素がバラバラで整合性も一貫性もどこへ行ったのって感じ。やたらと壮大なイメージはあっても、それ以上のものはないように見受けられたわね。少なくとも私には全然伝わってこないし、魔理沙自身もそうでしょ。それに何より組み合わせに無理のある魔術同士を平然と使っているのには目を疑ったわ。危険、でなければ不可能。この分野に対する冒涜と怒る気にもなれなかったわ。鼻で笑われるのを嬉しがる趣味がないなら、新しいことに挑戦するより、基礎基本の初歩の初歩を何遍もなぞる方がいいわよ。正直、ノートからはそんな反面教師以外の価値は見いだせなかった」
テーブルの上を滑らせてノートを返す。魔理沙は三杯目の紅茶に手を付けないまま、元から悪かった顔色をさらに青白くさせている。
カップに手を伸ばすも、触れた指先で持ち手を震わせたの見て、離す。喉を鳴らして、ぎこちなく口の端を上げて、ようやく言った。
「ちっとやっつけ過ぎたか」
出直してくる、とかっさらうようにノートを抱え込むと、足早に家から出て行った。
一人になって静寂の満ちた部屋で、私は息をつく。
人形にお茶の片づけをさせながら思った。
──「やっつけ」とは魔理沙にしてはずいぶんと謙遜したものだわ。
相当の努力をしたのはわかっていた。夜通し頭を悩ませながらノートを書き上げたのは、言わなくても察することができる。
顔色の悪さやテンションの高さは徹夜明けだからだろうし、糖分を美味しく感じるのは頭脳労働による疲労が理由だろう。
内容からしても一朝一夕で思いついたものじゃないのは明らかだった。長い期間を掛けて溜めてきたアイデアを、また長い期間掛けてノートに記述するという形にした。どうしても完成させたかったスペルなんだ。貴重な本と引き換えにしてまで。
そんな魔理沙に私はきつい台詞をぶつけた。愛の鞭などというそんな美しいものじゃない。厳しい言葉の裏には何も込められてなかった。ただ痛いだけのものだ。
見当外れのことを言ったつもりはない。全部事実に基づいている。ただし、まったく具体性に欠けた状態で述べた。わざとそうした。
極端なことを言えば、あんなのはどの未完成スペルにぶつけても通用する悪口だ。魔理沙は改善点を見出せず、ただ否定された事実に傷つくことになるだろう。初歩・基本というワードを入れたから、プライドがあれば聞き返しにくくもある。
魔理沙はああ言ったが、「出直してくる」ことはないはずだ。
私は、徒労に終わる行為に長々と協力したくはなかった。稀覯本をもらうという条件がなければ、すぐさま断っていた。
だから、依頼を受けつつ、早々に頓挫させる。それが私の取った策。
我ながら魔女的な行いだったわね。
3
鍋の中で金色の果皮がかき混ぜられ、より液状になっていく。
煮詰まるそれは夏蜜柑のマーマレードだ。ケーキにかけるも良し、ヨーグルトに混ぜるも良しだけど、今回はスコーンに添える。
夏蜜柑という名なのに旬は春な果物。その果皮を刻んだ熱い液体の中、木べらが回っているのを見てるうち、思考の渦から記憶が湧き上がってくる。
白黒魔法使いの色鮮やかなスペル。
ノートに記された魔理沙の構想を乱暴にまとめれば……というか、まとめるには乱暴にやるしかないのだが……ともかく、そのスペルが表現しようとしているものは恐らく「宇宙のカオス」だった。
巡る天体、明滅する星々、渦巻く銀河、弾ける超新星、真っ暗に吸い落すブラックホール、膨張拡大する無限の世界。
それら全てを一枚のスペルに込めたいのだろうと思われた。
はっきりと、無理。そう切って捨てるには十分な内容だ。
同じことを一幕の人形劇、一枚の絵画、一遍の小説で表現しようとしてできるだろうか。余程の構成力・発想がなければ実現しない。天才の領域と言っていい。私も、そして当然魔理沙もその域には達してない。ゆえに無理。
その上さらに霊夢に勝つなどというのは無理の二乗だった。目標として掲げる人間は正気を疑われて当然だ。
さて、灰汁を取るのもこの辺りにしておこう。私はあらかじめ夏蜜柑の種を煮て作っておいたペクチン液を、鍋の中に投入した。とろみがこれで増す。冷えればドロリと粘性が生じる。甘く香しい湯気の立ち上りが鼻をくすぐった。
夏蜜柑の金色のカオスをかき混ぜて、私はマーマレードの完成に近づけていく。
……金色のカオス、ね。
4
金髪をゴシャゴシャとかきながら戸口に立つ魔法使いを、私は信じられないという顔で出迎えていた。
「なんで……?」
「ああ、うん?」
思わず漏れた私の言葉の意味をとらえ切れず、魔理沙は朝日の下、眠たそうな目をしばたたかせて、反芻する。
そして、言った。
「お前のアドバイスを参考にして書き直してきたんだよ。で、またこれについてアドバイスもらいにきたってわけだ」
前のとは別のノートを差し出された。そのために徹夜をさらに重ねたのか、目の下の隈がはっきりわかるほどになっている。
私の言葉を魔理沙は取り違えている。なんで……あきらめなかったの? 来るとは思っていなかった。一日の間を置いたから、もう済んだ話にしてしまっていた。
ノートの中身をパラパラと流せば、その内容は私の述べたことを中心に整理され、大幅な修正が施されていた。
やっつけかとの疑いは、魔理沙の台詞で消去される。
「まとまってないのはその通りだよ。まあ、つーか、それをまとめるためにお前に依頼したわけだが、ところがまとめようもないくらいトッ散らかってたんだろ? だから、イメージと弾幕パターンは箇条書きにして、そんで組み合わせたものを八つほどの案にしてみたぜ。これでそこそこまとまったろ。修正が入れやすくなった」
あとアレだ、と言葉の連射は続く。
「冒涜とまで言われちまったが、確かにレメディウス定理とH・スティーヴン理論が仲悪かったな。魔力の暴走が術者と周囲に危険を及ぼすことになる。水と油を石鹸水で混ぜ合わせるみてーなやり方もあるにはあるが、敢えてそこまでする意義もないしな。ったく、私としたことが表面しか見てなかったぜ。それに、」
黒帽子の下の口を、かざした私の手が止めた。
「ん?」
「肌寒いし、中で聞くわ」
「おお。熱い紅茶でいいぜ」
「ジャムは自分で入れなさいね」
「ロシアンティーで頼む……んん?」
台詞を先回りされて目を白黒させる白黒魔法使いにちょっと溜飲は下がったけれど、問題は問題として残って私の頭を痛ませる。
目論見の通りにはいかなかった。なので、新たな目論見を立てないといけない。悩ましいわね。
具体性のない言葉は、川を渡る際の重しにしかならないはずだった。ところが、魔理沙は自分で具体性を見出してきた。重しを逆に利用し、足場に変えてしまったようなものだ。
こうなると、同じ重しをいくら背負い込ませても、川を渡る助けにしかならないわけで。
かといって見当違いの助言をするのは、私の魔法使いとしてのプライドに関わってくる。ましてや魔理沙にそれを指摘されたとしたら、一生の恥になるだろう。想像するだけで身が震えてくる。
「……うん」
次の策を決めて頷く私に、
「むぐ?」
椅子上の魔理沙はサンドイッチを頬張った顔を向けた。って、何でそんなの食べてるのよ。お弁当持参?
物言いたげな私に、魔理沙は紅茶でサンドイッチを流し込みながら、枝を編んだ箱を下げる。中にはまだ何切れかのサンドイッチが見えた。
「夜食の余りだ。やんないぞ」
「要らないわよ」
パンの端からはみ出るテラテラした茶色の具が何かもわからない。いくら調理師自らが毒味をしていようと、食指は動かない。
「ああ、食わない方がいい。お前、食前酒とかやるしな」
「え?」
「シャンハイ、お代わり」
言葉の意味が図りかねている私を意に介さず、魔理沙は紅茶にジャムを山盛りで入れている。しかも三杯だ。もう直接ジャムを食べたらいいんじゃないかと思える。
そんなに甘いのが好きならもっとあげるわよ。非難の毒が効かないなら、賞賛の蜜でもてなすわ。
「それでスペルのことなんだけど、一昨日とは見違えたわね。相当のデキよ」
「おお、マジか!」
「もうほとんど完成してるでしょ。組み合わせたものの幾つかからいいとこ取りすれば、輝く星の流れがすごく斬新に表現できるはずよ」
「うんうん、そうだろ! そうだろ! はっはっは!」
無邪気に喜んでいる。けれど、わたしがあげたのは蜜は蜜でもツツジの蜜だ。子供のようにチューチュー吸ったら中毒を起こす。
「第一候補として私が提案するのはこうね」
紙にペンで簡単な図を描いていく。
「大小の星型弾幕が緩い弧で広がっていって、色合いは全体的に渦状のグラデーションにする。その中の一番大きな赤い弾が爆発を起こすの」
「赤色巨星が超新星爆発するってやつな」
自分の考えたことが他者に評価され、描写されていくことへ、魔理沙は嬉しそうに頷いている。
こんなのは魔理沙の従来のスペルと通常弾幕を焼き直したものに過ぎないのにね。その分簡単に実現できるけれど、目新しい要素はない。
「爆発はランダムで起こすとしても、規模と数はセンスが問われるわね。でも、あなただったら大丈夫でしょ」
陳腐さに気付かせないよう、おだてて目を曇らせる。
「ふふん、大いなる才能の片鱗を覗かせちゃったかな。もっと褒めていいぞ」
「そうそう、大事なことを忘れてたわ」
「ん、何よ?」
「名前よ。スペルの名前。付けた方がいいわ」
「今か? 後でいいだろ。完成してからで」
「その完成度を上げるためよ。名前を付けることで方向性が定まるわ。今だからこそ付けるの。スペルのコンセプトがより明確になるわよ」
「そういうものなのか」
「そういうものなのよ」
小さくまとまったという意味でだ。当初の無駄に壮大なイメージとはまるで逆。名前の額縁に収めてしまう。名前負けしないようにとの無意識の配慮は、名前の方を小さなものにし、その中身も小さな名前に伴わせる。
矮小化し、さっさと完成させて、それで契約の義務は終了だ。勝負の行方はどうでもいい。予定調和の敗北に興味はない。
「『マスタースパーク』『ブレイジングスター』『アースライトレイ』、どれも特徴的でいい響きがあるわね」
「おー、わかるか! ひねりにひねって、ひねり出して名付けたんだよ、あれ!」
「今回もセンスあるネーミングを期待するわ」
「いやー、はっは、アリスだって色んな人形に面白い名前付けてるじゃないかぁー、なあ?」
「あなたのスペルにはあなたが思い入れのある命名をすべきよ。さあ、どんな名前にする?」
「うーむ、そうだなあ」
大げさに尊大さたっぷりの腕組みをして、椅子を後ろに傾けた。ひっくり返りそうになる所で絶妙なバランスを保って身体を揺らす。
さあ、早いとこ、安易な側に倒れてちょうだいね。
私は、シャンハイに注いでもらった紅茶を口へ持っていきながら、魔理沙の言葉を待った。三日で魔導書一冊。悪くないアルバイトだったわね。
「あ~~~~~ッッ!!」
突然の叫びに紅茶を鼻から噴きそうになった。
魔理沙は身を起こして金髪をかきむしっている。
「なっ、何?」
「ダメだぁ! 形になんねーっ!」
そこで悩むの?! って、ええ?!
ずいっと魔理沙の顔面が迫ってきた。寝不足の血走った眼のアップに、今度はこっちがのけぞる。
「すまん、アリス! 嘘ついた!」
「う、嘘?」
「そうだ、あとちょっとまとめればってのが嘘なんだ! 実は全然なんだよ! ゴール地点は遥か彼方なんだ!」
いや、それは始めからわかってたけど……。
「お前は私の案をなるたけ尊重しようとしてくれたんだよな! でも、すまん、違うんだ! 私がやりたいのは──」
そうして魔理沙の熱を帯びた理想が長々と語られることとなった。一冊目のノートに書かれていたことと同じ内容だった。
私が紅茶にジャムを入れたのは、魔理沙に倣ってではない。苦々しい思いを打ち消すためだ。この強固にブレのない魔法使いを、いったいどう処理したものか。
一筋縄で行く相手じゃなかった。疑似餌に食い付く雑魚と見誤っていたことは反省しなくちゃならない。甘ったるい液体を喉に流し込んだ。
「……魔理沙の熱い想いは十分わかったわ」
胸やけがするほどね、と付け加えたのは脳内で。
そして、言う。大演説を聞き流しながら用意した次の策だ。
「その構想に見合う弾幕が、部分部分でさえしっくりこなかったのね。思い付けなかった」
「そう、そういうことさ。やっぱ自分で作ってるとヒイキ目入っちゃうんだな。お前がまとめたのを客観的に眺めたら、当初の構想からかけ離れ過ぎてたわ。パッと見は良かったんだけどなぁ」
「でも、試行錯誤って意味では進展があったわけよね」
「ああ、こっちの道は間違ってたから、次はあっちの道ってな」
「具体的な形にしたから間違いだってわかったのよ。だから、間違いの量産を恐れずどんどん形にしていけばいいわ」
「理想と現実との誤差修正だな。ただ、アイデア絞り切った脳ミソからこれ以上何か出せとゆうのも……」
「そのために私に相談したんでしょ」
「おお!」
魔理沙の徹夜明けの顔が期待に輝いた。
「私なりに魔理沙の構想に合わせた弾幕のパターンを提示するわ。たとえばこんなのはどうかしら」
紙を敷いてペンを走らせる。飛行する魔理沙とばら撒かれた種種の弾幕の軌道を簡単に示す。
そんなのを幾つか描く間、魔理沙は「おー」とか「わー」とか感心の声を上げていた。
「──とまあ、こんなとこだけど」
一通り説明すると、魔理沙がニッと笑顔を上げてこちらを見た。
「アリスはさ、人形劇とか弾幕とかで、ストーリーを簡潔なもんに仕立てたり、それぞれのスペルにわかりやすい特徴とか出したりしてんだよな。初めは小じんまりしててつまらんとか思ってたときもあったんだが」
「馬鹿にするならさっさと契約うち切る?」
「そうじゃないって。そこが私に足りないとこだったんだよ。表現力ってやつだな。やっぱりお前に頼んでよかったぜ」
笑みの口がさらに広がり、歯茎まで見えた。歯列の白さに目がくらんだわけじゃないが、私は少し視線をそらす。後ろめたさだろうか、これは。
それでも新たな策を取り下げるつもりは毛頭なかった。
「具体性を出すのに紙の上でだけじゃ足りないと思うわよ。実際に外で弾幕を張ってみるのがいいんじゃないかしら」
「あー、確かにそうだな。ここにあるヤツは私のこれまでのスペルとはタイプが違ってるし。実際にやった方がイメージはつかみやすいや」
策は軌道に乗ったようだ。私を訪ねて、私に求めたその望み通り、理想に形を与えてやろう。
だけど、それはとてもとても実現困難なものだ。
たとえば、ある一つはきりもみ回天で恐ろしいGが掛かる。三半規管が暴力的に揺さぶられ、弾幕は自らにも飛んでくる。それらの障害を箒にまたがったまま乗り越えるなんて、私にも難しい。
他のも急降下から地面激突直前で切り返したり、周囲の一斉爆発から抜け出したりという、サーカスか手品ショーかというものだ。高すぎる要求だけれど、できないならそれで御の字。魔理沙の目標断念が、私の目標だ。
もしもハードルを下げるということを魔理沙がしてきたら? 弾幕の密度を薄くしたり、スピードを落としたりしたなら……。それなら可能なことは可能だろう。魔理沙は「曲がりなりにもやってみせたぜ」とでも言うんだろうか。
だとしても、問題はない。ここぞとばかりに付け込ませてもらう。
妥協の道に一歩踏み出したなら、後は一直線だ。当初の目的地から遠く離れた目的地へと。
壁に激突するか、ゴールを見失うか、いずれにしてもリタイアだ。
まともにやっても結局たどりつけないんだから、時計を早回しして引導を渡してやるのは、魔理沙のためでもある。お為ごかしだけど、真実には違いない。
「よぉし、やるか!」
「え?」
声が上がったかと思うと、箒がつかまれ、扉が開けられ、陽光と春風が屋内に飛び込んできた。あっという間に私は一人、残された形になる。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて白黒魔法使いを追って外に出ると、もう空に浮き上がっていた。
脊髄で思考してるんじゃないかってほどの行動力だ。ほんの少しの躊躇もない。
あの高難度な弾幕に挑戦するの? やれるだけの実力は、はっきり言って、ない。魔理沙だってそれが理解できないはずは…………いえ、そうね、寝不足で疲れ切った頭ならハイテンションでやらかしてしまうこともあるうるかも。
一応、助けられるようなら助けようと、事故に備えて人形を三体、傍に侍らせる。
私が見上げる中、羽毛のような雲が舞う青空で、魔理沙は帽子を被り直す。箒の柄を握る。
宙で小さく円を描くと、後は真っ直ぐに飛んだ。そうして、それから、その姿は小さくなっていく。
「……って、魔理沙ぁ?!」
どこ行くのよ! 私の声が届いて、後ろ姿が手を振った。
「わりぃ! やっぱフラつくんで、今日は寝るわ! 明日から頑張っから、お前は自動人形の研究を頑張ってくれ!」
その言葉に、急激に気分が悪くなった。
大股に歩いて戻り、強く扉を閉めると、テーブルに自分の資料を広げた。これまでまとめた自動人形のレポート。
十年を大きく超える年月が掛けられた研究に再び向かうとき、我知らず滲み出した声が鼓膜に触れた。
──一緒にしないで。
5
1センチほどに切ったそれぞれの材料を順序良く炒めていく。タマネギが透明になった中に、ニンジンやキャベツ、セロリなどが混ざって、水分の弾ける音を立てた。
そろそろというところで、ホールトマトを潰しながら入れて、水を加える。
蓋を置いて、弱火に掛けた。このままコトコトとゆっくり火を通していくことで、それぞれの野菜の甘みが引き出される。ミネストローネに限らず、スープは時間の掛けがいがあるものの一つだ。
私は自動人形の研究をずっと続けてきた。まだ達成はしていないけれど、いつかは必ずたどりつく。これは夢などといった不確実なものじゃない。「いつかは必ず」という言葉は、夢ではなく目標を表すものだ。
これまでずっとそうしてきた。無理や無茶とは無縁のまま、一つ一つ積み上げていって成功してきた。
初めて操り人形を作り上げた喜びは今でも覚えている。自分の指と繋がった魔法糸で人形が自在に動くのは感動的だった。計画通りに事が運んだ達成感が、心に満ちていた。
その次に作ったあれも、想定通りに上手くいき、同じ喜びを与えてくれた。そのまた次のあれもそうだったわね。そしてそれから次のあれも──
幼い頃はともかく、人形を作り出してからの私の生き方は、堅実そのものだった。そうして多くの成功を収めてきた。無理もしなかったし、届かない夢を見たわけでもなかった。具体的な目標に向けて確実な一歩を重ねただけだ。
見えず届かない目標へ不確かで無茶な前進をするのとは、違う。
私は魔理沙とは違う。
鍋から音がした。蓋を開ければ、煮立って泡が立っている。お玉を入れて底からぐるりと回した。
多少大きくかき混ぜ過ぎたか、わずかにスープが鍋の縁を越え、その赤がたらりと鍋の外の表面を流れる。
6
地面に落ちた血が染みを作った。
「ぐむぅー」
魔理沙はうつむいた顔に手を伸ばし、鼻をつまんでいる。指を伝う赤が、また地面に新たな染みを付けた。
「ひゃられたじぇー」
やられたぜー、と言っているのだろうか。
むしろ、あれだけの勢いで木へ激突したにしては、大した怪我じゃないことに驚きだ。
当たり慣れているのかもしれない。魔理沙の衣服から露出している肌は少ないが、その少ないところにさえ、切り傷やアザが見て取れた。手のひらにはマメもあった。
今回来たのは一週間ぶり。「明日から頑張る」という言葉に期待していたのに、大抵は延ばし延ばし永遠に来ない「明日」なのが、魔理沙は本当に明日から頑張ったようだ。傷からも弾幕からもそれがわかる。
魔理沙の動きは完全とは言い難いもので、一度やれば一度はミスをする。はっきり言えば全て不完全だ。でも、「玉に瑕」とか「画竜点睛を欠く」とか言えそうになるくらいまでには仕上がっていたのも事実で。
『肝心要のツメが甘いわね』
『ハハッ、じゃあ、もうちっと塩辛くするか』
こんな会話も成立するほどだ。
初日のように全否定することはできなかった。繰り返し繰り返し積み重ねてきた修練が、曲がりなりにも見られたものに仕上げてきたのだった。こうなると、私もどこが問題点なのかをアドバイスせざるをえなくなる。客観的視点を得て、魔理沙の動きがさらに洗練されていくのを、私は見せつけられるハメになった。
「曲がりなりにも」に妥協の色があれば良かったのに。そんなものは一切見つけられない。
「いひゃー、加しょくとひゃい避のティヤイィングが一ぴゃくジュレたにゃー」
「加速と回避だけじゃなく、直前の弾を放つタイミングもね」
「うっし!」
手を強く下に振って、魔理沙は指と鼻の鮮血を払った。赤が散るのに目もやらず、顔は上を向いている。
「ワンモアだ!」
叫ぶや否や、ロケットのように垂直に立った箒と一緒に青空へ飛んでいった。風圧が私の前髪を揺らす。
アクロバティックな軌道が再び天で描かれるのを見上げながら、私は考える。結局のところ、甘すぎたのだ、私自身が。
相当の時間は掛かるだろうけれど、魔理沙は私の示した弾幕パターンをマスターするだろう。魔理沙の才能を見誤っていた? 違う、要点はそこじゃない。普通は掛かる時間を考えれば、あきらめるはずだ。徒労かどうかを確かめるために長々と骨を折るなんて、常人はやらない。
努力と労力をああまで際限なく注ぎ込めるとは、まったく見誤っていた。
私は、障害を設けたつもりが、最終目標に達する前の中目標を設定してしまったことになる。
挫折を早めるのには失敗した。魔理沙は中目標を通過して、そして──結局は挫折する。
仮に壮大な構想が実現したところで、挑む相手はどうやっても届かない高みにいる。
目指しても不幸にしかならない。天に向かって築いたバベルの塔か、太陽に近づき過ぎたイカロスか。どちらの神話も同じ教訓を示している。付き合わされて心中するのは真っ平だ。
何度目かの失敗をしてから、魔理沙は地上に降りてきた。
「と、とりあえず一休みするわ」
「目の焦点が合ってないわよ」
右目と左目、それぞれが別の意志を持ったようにあちこち動いて定まっていない。
「いや、はは、驚異の回転率で平衡感覚の限界に挑んじまったぜぇー」
足元もおぼつかない様子で、千鳥足そのもの。危なっかしいと思っていたら、「うおっと!」とこっちに倒れ込んできた。荒々しく抱きつかれる。
「きゃア?!」
ハプニングに心臓が飛び跳ねた。
「あ、あー、わりぃ。っと、あれ?」
魔理沙は身体を離そうとするも、フラついて私の身体を支えに密着し続ける。汗と陽の匂い。
「参ったね、こりゃ。グルグルやり過ぎて全身バターだ」
「バターにまとわりつかれるのは迷惑ね。私はホットケーキになるつもりはないわよ。食い物にされるのは御免だわ」
肩を貸して、木陰にまで連れていく。木に寄りかからせた。脇には魔理沙の持ってきた本やノートなどが広げた風呂敷の上に乗っている。
「食い物にはしないさ。私の食い物は、ほれ、こうして持参してる」
見覚えのある枝の箱を取り出すと、見覚えのあるサンドイッチを摘み出した。テラテラした茶色の具が見える。
「吐きそうな体調なのに食べるの?」
「もう治ったよ。むしろ気付けの一杯が欲しいくらいだね。酒の味を思い出すためにもさ」
「?」
首を傾げた。
「お酒、飲んでないの?」
「飲めないんだよなー。代わりにこのキノコの味が楽しめるとは言え、百薬の長がいただけないのは命の縮む思いだぜ」
「?」
魔理沙の脳回路が変調をきたしているのか、それとも私の理解力が不足しているのか、どちらなのだろう。
「……サンドイッチに挟まっているのがキノコで、それがお酒と何の関係があるのよ」
魔理沙はサンドイッチをかじりながら言った。
「ソテーにしてあるこれ、ヒトヨタケってんだ。ここに含まれてる成分がアルコール分解を邪魔するんで、酒を飲むと悪酔いを引き起こすのさ。一週間は効果が持続するってぇ強制的禁酒にもってこいのキノコだ。ホテイシメジと併せてもう半年は食ってるな。ああ、前に持ってきたササクレヒトヨタケにはその成分は無いんで安心しとけ」
あの置き去りにされたキノコは漏れなく手を付けずに廃棄したから、心配するまでもない。
気になったのは半年という語句だ。
「そんなに禁酒してるわけ?」
「酒飲むと睡眠時間は延びるし、頭の働く時間が減るからな。飲まない理由には十分だろ」
どれだけ……。
連日連夜宴会で飲み明かした翌朝、痛む頭を迎え酒でいたわるような魔理沙だ。あっさり酒から身を離すなんてにわかには信じられない。それも半年。
どれだけ、これに懸けているの。
生半可な障害が無駄になるはずだ。もう幾度となく乗り越えてきたのなら、山ほどの障害も一山いくらの障害に成り下がる。
けれども、だ。ガムシャラになっているからこそ、不感症に陥っているのかもしれなかった。
感じていないのだろうか。努力の果て、たどり着けないという不安。絶望の深い予感。博麗霊夢はどうあっても乗り越えられないのに。
「魔理沙」
私は意を決して話しかけた。
「む? 何だよ」
サンドイッチを食べる手が止まる。
「できたスペルを霊夢に使うつもりなんでしょ」
「ん……ああ、うん。そうだよ。お前との契約はスペル作成までだからそこは気にしなくていい」
「勝てるつもり?」
沈黙。
瞳の奥で何を考えているのか。その色はうかがい知れない。
やがて、魔理沙は言った。
「可能か不可能かってのなら、可能だろ」
「無理よ。絶対無理」
即座に否定するも、即座に反論される。
「理屈っぽい性格の割に非論理的だな。科学でも魔法でも、絶対なんてありえない」
「じゃあ言い直すわ。ほとんど無理」
「じゃあこっちも言い直そう。私の力量や掛かる時間を度外視したらどうだよ」
目に力が入った。瞳の奥に灯るものがある。
「可能だろ。やり方はあるんだ。できるかできないかで言ったら、できる側に存在するんだよ。今いる世界に『それ』は転がってんだ。後は拾い上げるだけさ」
干し草の山から針を探す、という喩えを口にしようとして、できなかった。それとわかって魔理沙は針を探し当てようとしている?
「魔術の研究で一番怖いことって何だと思うよ」
「……失敗することかしら」
「研究できなくなることだ。その先にあるものを常に追い求めるのが魔術だろ。立ち止まるのは魔術にとっての死も同然さ」
手元に残ったサンドイッチを一口に頬張る。ほとんど噛まずに飲み込んだ。
「生きてる限り進み続けたいんだよ。私は魔法使いだからな」
浮かべた笑みは不敵で。
「なあ、アリス。これができたら次はどうしたらいいかね」
7
塩を入れたたっぷりのお湯に、1・8㎜のパスタがくつくつと茹でられている。
一本を菜箸で取り上げ爪の先で切ってみると、ふむ、アルデンテまではもう少しといったところね。良い食感のためにはそのパスタにとっての適切な時間を量らないと。
そう、それが世の理だ。
あの時、魔理沙の台詞と熱気にやり込められた感はあったが──アドバイスさえしてしまったわけだけど──よくよく考えれば力量や時間を度外視なんてできるはずがなかった。
魔理沙が帰った後で疑問は頭に押し寄せた。なぜそこまでして上を目指すのだろう。理由は何?
魔術の世界に足を踏み入れて。親の元を飛び出して。数々の異変へ積極的に首を突っ込んで。博霊の巫女という誰も超えられない存在に挑んで。
理屈じゃないから、理屈を無視するのだろうか。無知ゆえの万能感を抱いている可能性も……。チュウニビョウという言葉さえ脳裏に浮かんだのだった。
『自分を世界で一番だと思って努力するの。努力している限り、自分は誰よりも素晴らしい──そう思うのが努力のコツね』
子供の頃、母が自分に言った言葉を思い出す。
実際、言われた通りに心がけると楽しく取り組めた。弾幕の中を危うく飛び回るのも、暗い中で一人じっと魔方陣を描き続けるのも、自分の持っているものが奥底から全部引き出されて、より高いところに上っていくような気にさせた。
一方で、勝負や競争といったものにはあまり良い気持ちは持てなかった。
自分が負けても、相手が負けても、残る感情は苦いものだ。努力して自分の能力が上がることが大事なのに、強いて人と比べる必要があるのだろうか。「負け」の存在が努力を否定するようで嫌だった。
だから、やるとしても本気は出さない。あくまで遊びの延長として、あるいは研究の一過程として、弾幕などの勝負は行った。何かを懸けるほどの価値なんて、ない。
ジュワワァ!
突然目の前を湯気が覆った。
慌てて火を止める。茹で過ぎてしまった。泡立って噴きこぼれるなんて、火力の加減を誤ったかしら。それとも塩が少なくて、パスタのデンプン質が溶けだしてしまった?
とにかく鍋の中身をザルに上げると、また湯気が視界を白く遮った。その時、
『アリスちゃんはいい子ね』
母の言葉がよみがえり、背筋をゾッとさせる。
……どうして、今ので、ゾッとしたんだろう。
未だ立つ湯気の中で、母の言葉が数珠つなぎのように浮かんでくる。
『いい子ね。新しい魔法をどんどん覚えて、いろんなお人形さんを作れて』
『これからも新しいお人形さん、ママにたくさん見せてちょうだい。楽しみよ、素敵なアリスちゃん』
『失敗しちゃったの? 余程のことじゃなければ気にしなくていいわ。ママもときどき失敗するもの。そんなこと忘れてしまいなさい、奇麗さっぱりね』
母はできそこないの人形を手にすると、ボン!と白煙に変えてしまった。
そうだった。それで私はゾッとしたんだ。
あれは見間違いではなかった──薄く開かれた扉の向こうで、母が見知らぬ少女を抱き締め、瞬間、その場は白煙で満たされたという記憶。確信はその意味を私に理解させた。氷のくさびを心に突き刺した。
魔界の創造主たる母に私は作られた。失敗した人形は破棄される。なす事をなせない人形は、存在は、葬られる。そうなることを私は恐れた。
ああ、その恐れを持つ以前の私は……弾幕勝負で自分の限界に挑戦したことがあったのだ。本気の能力以上を引き出すために魔導書を持ち出しさえした。身の丈を超えたレベルの代物だった。
結末は完全敗北という形でついた。わずかな言い訳もできないほど打ちのめされた私を、母は慰めてくれた。
『怪我はない? もうあんなことしちゃダメよ』
優しい口調。穏やかな表情。
でも、その瞳の中に感じた色彩は、人形を白煙に変えたときの……
頭を振って、過去のトラウマをかき混ぜ、沈めた。
ザルのパスタを、フライパンに移す。サワークリームとベーコンのソースに絡めていく。ややクセのある味だけれど、慣れるとクセになる。生の卵黄を真ん中に飾り完成。潰して一緒に食べるとコクが加わる。
生の卵は食べられないと言ったけれど、何事にも例外はあるものだ。
8
私が魔理沙にしてしまったアドバイスは次のようなものだった。
「最後には一枚のスペルカードに仕立てるんでしょうけど、あなたには『自分と相手の立場』を考慮してないって問題点があるわ」
「私は人形劇をやるとき、観客がどう見るかを考えてやっている。見せるためにやっているのだもの、当然よね」
「人が見たいものなんて漠然としているし、範囲も広すぎるでしょうね。でも、反対に、私がやれることは限られてるの。できる演目の分野は広くないわ」
「自分のできる範囲のことを、できるだけ相手が良く見てくれるように、私は人形を操る」
「魔理沙は宇宙を表現しようとしている。でも宇宙の全てを見ることは誰にもできない。あなたはあなたの考える宇宙しか表現できない。それを認めるの。そして、あなたの宇宙を、霊夢がどう見るかを、どう見せたいかを考えてスペルを構成するべきじゃないかしら」
……わざわざ完成に近づけるようなアドバイスを、何でしてしまったの、私?
夜道を歩きながら小さく首を振る。
魔理沙はどうあってもスペルを完成させるだろうから、下手な妨害は時間を延長させる意味しかないのは事実。にしたって、独りよがりのスペルを作らせた方が時間は短くて済んだかもしれないのに。
わずかにでも魔理沙の熱に感化されたというなら、情けないことだ。
熱なんてなくても魔術研究は進められるし、「元気があれば何でもできる」なんてそんな都合のいい話はない。魔理沙は熱気球だ。熱い思いが膨れ上がって、中身がない。風の吹くまま一人どこかに飛んでいけばいいのに。私まで乗せられてはたまらない。
霊夢に勝つだなんて、ジュール・ヴェルヌの冒険小説より荒唐無稽だ。魔理沙は願っていれば夢はいつか叶うと安直に考えているのか。それとも、挑戦することに意義があるとして、負けてもともとと思っているのか。
つと、いつになく冷たい風が身体に吹きつけた。昼まで降っていた雨が冷やした気温を、服の奥にまで伝えてくる。
季節も季節だし、軽い買い物だからと薄着で行ったのが失敗だった。早いとこ家に帰ろう。
足取りを早めると、ほどなくピチャピチャと音が耳に付くようになった。ここらはまだ乾き切っていないようだ。足下に目をやると、地面はまばらに白くなっている。見上げると、桜の木。その遅咲きの花はもうすっかり散ってみすぼらしい枝の姿をさらしている。地面の白いものはその残骸か。
少し前に咲き誇っていた花が、今は暗い道に散り敷かれている。人々の往来に踏まれ、泥にまみれている。
長い月日を経て開花しても、咲くのは一瞬。その後は無惨なものだ。花々の幾つかは、綺麗だ何だと褒めそやされることもあるだろう。手に取り愛でられることもあるだろう。しかし、それもそのときだけで、直に見捨てられ、足蹴にされる。思い出されることもなく、汚れて、消える。
魔理沙は──恐らく、そうだ。踏まれることを考えていないのだ。だから未だに咲こうと力んでいる。儚い一瞬に多大な期待を掛けている。
そして、咲いて散るための肥料として使われている者の名がアリス・マーガトロイド。しばらくの間を置いてはいるが、近々また家に押し掛けられるだろうと、私は再度ため息をついた。
「あら……?」
今、夜空に何か光ったような気がした。枝々に遮られてよく見えなかったけれど。歩きながらも目を凝らす。
「あっ」
間違いない。
確かに光った。さっきより遠い位置で一瞬の輝きが生じた。曇り空でもあるし、明らかに星とかじゃない。もっと人工的な……。
地を踏む足が宙に浮いた。身体は道を逸れて光の出所へ向かった。
魔法の森付近のこの辺りには、そこそこの広場があったと記憶している。
木々の間を飛んで抜けていく。まさかとは思うけど、まさかよね。
そして。
身を隠して訪れて正解だった──のがうらめしく感じる結果が、広場で待っていた。
夜空をブンブン飛び回っているのは、箒にまたがる魔法使いだった。案の定。
私は息をひそめて木の陰から見ることにした。アドバイスを求められるのは面倒過ぎる。
風の強くなった暗闇を、高速の回転運動が上下左右に展開される。部屋に舞い込んだ蠅を連想した。
人間にとっては無茶過ぎる動きだけど、スペルを構成する中では主要なものなので省くわけにはいかない。実際にはさらにここに弾幕が加わるので、難易度は跳ね上がる。
時折魔理沙が発する光弾は本番を想定したものだろうけど、本番では無数の弾幕なのが、今は一つのループするそれを危なっかしくかわしている。
「あッ!」
魔理沙が叫んだのは、幾つか目のものが箒の先に当たったからだ。バランスを崩すも、何とか制御して持ち直す。光弾はあらぬ方向へ飛んでいき、一際輝いて、消えた。私が目にした光はあれだったのね。
魔理沙は動きを止めた。そのまま何もしない。宙に一人ポツンとたたずんで、今にも暗闇の中へ溶け込みそうだ。
魔力で増強した視界に、肩で息をする白黒魔法使いが浮かぶ。汗だくで絶息寸前。絵に描いたような疲労困憊だ。もっともあんな動きを繰り返していて疲れないはずがない。うつむいて途切れ途切れに何かをつぶやいている。
ダウンしたのかしら、と思ったけれど、その状態はさらに長く続く。休憩なら地上に降りてこないのは変だ。
風越しにでもつぶやく声を聞いてみようかと、聴力も増強しようとしたその時、魔理沙の右手が高く掲げられ、大きな声がいっぱいに発せられた。
途端に一面が明るくなる。弾幕だ。一気に展開して、それぞれの光を放っている。
つぶやいていたのは呪文の詠唱、そしてさっきまでの飛行は予行演習。そう気付いたときには、もう動いていた。
魔理沙。
思わず目を見開く。
ここまでやれたなんて。予想を超えた出来栄えだ。
全体に、そして個別に、速度の違う回転が周囲を埋め尽くしている。大小の明滅する光が、生まれては消えてゆく。彗星か流星を模した光弾が幾つも突っ切っていく。
その小宇宙を魔理沙は縦横無尽に飛び回り、さらなる弾幕を振りまいていく。世界を創っていく。
──これなら十分に通用する。
目の前の光景がどれだけの努力を重ねた結果なのか、スペル開発に付き合ってきた私にはよくわかった。そして、その不完全さも。
そう、通用する。一つのスペルカードとして十分に通用するレベルには違いない。
しかし、それは通常の場合だ。構想も相手も遥か高みにあるなら、通用するとはとても言えない。
スピードや密度など派手派手しさは目を引くが、従来の魔理沙のスペルと変わりない。ひいき目で感情移入して見た時は別として、現状、プラネタリウムから広大な宇宙を表現するのには主観と客観の芸術性があまりにも欠けている。そして、実用性で言えばもっと足りない。霊夢には一蹴されて終わりだと断言できる。
努力を重ねて足りなければ、さらに努力を重ねればいい、などという馬鹿げた夢想を無邪気に信じているのだろう。
懸命に夜空に手を伸ばして星を取ろうとしている子供に、父親が「それじゃあ無理だ。屋根へ上れ」と述べる落語があったけれど、そのままそれだ。
現実の距離を測れない努力なんて、笑い話にしかならない。
私は決意した。
もう終わりにしよう。関わっちゃいけない。魔導書はあきらめる。
魔理沙はどうあってもやめないし、どうあっても失敗する。長々続く道のりの果ては断崖絶壁。それが既定路線である以上、私ができるのは道連れを避けることだけだ。できそこないの人形にはなりたくない。
叫び声が上がる。
魔理沙の身体が箒ごともんどり打っていた。箒の先に被弾したのだ。リハーサルの再現。
その勢いのまま、新緑の中へ突っ込む。慣性と重力で枝々を折る痛々しい音が、しばし。魔理沙が地面に落ちる頃には、光弾は余韻だけ残して消えていた。完全な暗闇に戻る直前、間を置いて帽子が金髪の上に被さる。
魔理沙は地面と箒に手をついて、顔を伏せたまま肩を上下させていた。
ダンッ!
拳が地面を叩く。
「くそッ! ああ、くそッ!」
二度、三度と叩いた。
「何でできない! 何で? くそ、わかってるさ!」
風の渦巻く中、魔理沙は声を吐き出した。
「何にも努力しないでできるヤツはいるよ! 方や努力したってできないヤツもいる! 私は何度も負けた! 何度も失敗した! あれだけやったのに! ああ、もう嫌になるくらいさ! でもな!」
曲げた膝が伸ばされていく。よろめきながら立ち上がろうとしていた。
「努力しないわけにいかねぇだろ! 私は普通の魔法使いだ! 努力しねぇで成功はありえねぇんだよ!! 他に何ができるってんだ!!」
ついに立つ。震える顔は伏せられていたが、一言、絞り出すようにつぶやいて、再び上を向いた。
見誤っていた──私の方が。
魔理沙はわかっていたんだ。目標とするものが絶望的な高みにあることを十分理解した上で、努力を重ねていたんだ。つぶやいた一言は根底のもので。だから、認めざるをえない。
熱さか寒さか、名状しがたい震えが身体を上ってくる。無邪気とか未熟とかではなかった。ここにあるのは成熟した無茶、完成された無謀。強固で、異質な、意志。魔理沙が持ってる価値観は、私の人生には触れることさえなかったものだ。……あの時の例外を除いて。
「とりあえず今だ。今やってることができなけりゃ、何をやっていいかも見えない。これじゃ通用しないことはわかってても、この足場を踏めなけりゃ私は上に行けねぇんだ」
何が何でもやってやる、と箒を持って歩き出す。
さっきのが思い描いた理想のイメージに合わないことは、やはり百も承知のようだ。私が感じるように、魔理沙もある根本的な部分で足りないものを感じているのだろう。
それが何かをつかむために、思いつく最大限を実行してみて、叩き台にしようという腹か。
けれど、今やってる弾幕さえも現状では不可能と見て取れた。速度と制御を兼ね備えるには、もう一段上の魔法力がないとならない。
(となると、地力を上げるための鍛錬をすることになるのかしら……あら?)
魔理沙が歩いた先でしゃがみ込み、ガサゴソと何やらやっている。背を向けているけど、荷物があった場所だから、多分その中身を探っているのだろうと推測された。
「ブースト掛けりゃどうにかなるだろ」
そう言って魔理沙が取りだした物が何なのか見たとき、私はギョッとした。嘘でしょ。
いかめしい装丁の分厚い本。掲げられると赤黒い燐光をまとい始める。
あれって私の魔導書じゃない! 封印と結界を掛けて保管してあったのを、どうやって持ち出したの、あのコソ泥!
けれど、そんな怒りより先に立つものがあった。
ブーストの意味がわかったからだ。あの魔導書にはそれ自体に強力な魔法力が内蔵されている。圧縮されたそれを強制的に自己の中へ送り込み、爆発的な威力を出させようとしているのだ。そもそもそういう用途で作られた魔道具だ。
何てことを。
魔理沙は箒にまたがり、高く高く宙に昇りながら弾幕を展開した。さっきのよりも輝きが格段に増している。威力と速度の大きさが想像され、脅威となって胸の内を圧迫してくる。
魔導書からの燐光が魔理沙と箒とに流れている。箒の枝の一本が爆ぜた。魔理沙の挑戦的な笑みは強張っている。
当然だ。無理矢理に注いだエネルギーはすさまじい圧力を内側から掛ける。膨らみ過ぎて破裂する風船の気持ちになれる。その上、荒れ狂わんとする光弾の群れの中心にいるのだ。
かつての忌まわしい感覚が甦った。挑戦したら挑戦しただけ、無茶をすれば無茶しただけ、大きなものが得られると信じていた子供の頃の感覚。魔導書の力を使って博霊の巫女に挑んだときの感覚。錯覚。
はァ、と息を吐き出して魔理沙が宣言する。
「行くぜ!」
行くな!と私が飛び出していた時には、もう弾幕も魔理沙も動き出していた。
このまま進めば巻き込まれる。大きなエネルギーを得られたからといって扱えるものではなく、失敗は必然。弾幕の暴風雨、その暴走の被害者に自分も並ぶ。
それでも私は止まらなかった。止めるために、止まらなかった。どうしても止めないとならない。あんな蛮行はもうたくさんだ。
「魔理沙!」
幾つかの弾幕を衣服にかすらせ、中心の愚者に組み付いた。
「ア、アリス?!」
驚きで目を見張る魔理沙。間近に見るは──挫折を知りながらも澄んで光る瞳。私もこんな目だったのだろうか……。
全てが流れる景色に意識が戻される。新たに弾幕が生み出されるのは中断されたが、走り出した弾幕はもうどうしようもない。そして私も魔理沙も止まらない。組みついたまま空中で回転する。
周囲の樹木が破壊され、光弾同士がぶつかりあうすさまじい音。無数に被弾する恐怖が背筋を冷やす。なのに、なぜか渦中の魔理沙の顔は呆けていて、どこを見ているのかもわからないものになっていた。こんな時に!
とにかく渦の中心から逃れなくては。魔理沙を引っ張って全力で地上へ向かう。前後左右に魔力の飽和した光弾が荒れ狂っていた。
全方位に防壁を張る余裕はない。上半身の側面部のみに集中して、青白い光で二名分を覆う。
交差して飛び交う光弾を何度も避けて、下へ。弾幕勝負の場合、必ず避けるルートを用意するのが作法だけれど、今の事態はその保証がない。それでも、ルートを見出すよう全力を尽くす。最悪の中の最善を探す。
「ぐくぅッ?!」
背中に衝撃。マジックバリアごと弾き飛ばされる。体勢を立て直す暇もなく、弾かれた先でさらに被弾する。横倒しになり、脳天に飛来する光弾がスローになった視界に入る。防壁、回避、無理。
覚悟した衝撃は来なかった。代わりに頭上に被さったのは柔らかい感触で。魔理沙の手だった。
さらにその上を魔理沙の展開した金色のマジックバリアが覆う。一瞬、視線が合わさり、笑みが映る。
身体の向きが傾き、魔力を一点集中した防壁に光弾が当たって、軌道を反らして後方へ飛んでいく。
弾幕の渦に私たちの回転も合わさって、周囲は光の洪水だったが、回転の中心にある地面ははっきり認識できた。そして魔理沙の狙いも。
身体が横回転するのに逆らわず、より力を加えて回転を速くする。二人分の魔力によるスピードで、脳が遠心分離機に掛けられたようになるが、わずかな間だ。地上へ向かうスピードも二倍──私達は発射された銃弾となって飛び交う光弾を蹴散らし、湿った土に激突する。
二度バウンドして、木に当たり、マジックバリアのクッションが消えると同時に、幹の後ろに隠れた。揺れ歪む視界の中、弾幕の暴走は早くも勢いを減じ始めている。このままここにいれば大丈夫だろう。
三半規管と気持ちが落ち着いたところで、しかし、安心の下から別の感情が込み上げてくる。そのまま相手に吐き出した。
「魔理沙! あなたねぇ!」
自分でも意外なほど大きな声が出た。とはいえ、何について文句を言うのか、自分でも判然としないでいた。
何について怒鳴る? いえ、何から?
秘蔵の魔導書を勝手に持ち出したことか、限界を超えた弾幕に挑んだことか、九死に一生を得た直後なのに笑顔でいることか。
結論は出ないまま終わった。魔理沙が正面から抱きついてきたからだ。今度は倒れ込むのでなくて、能動的に、力強く。
「?!?!」
私は混乱で声も出せない。何これ。何これ。回転は終わったはずなのに、頭の中はまた、ぐるグルぐるグル。
そんな私の全身を全身で抱擁したまま、魔理沙は嬉しそうに声を上げるのだった。
「そうか、そうなんだよ! わかったぜ、『自分と相手の立場』! ははははは! やったぞ、アリス、お前のお陰だ! よぉし、こっから一気に行くぜ! いやっほーォ!」
9
一歩一歩、慎重に階段を上がる。つまずきでもしたら一大事だ。上海人形にも壁にぶつからないよう注意してある。
それだけじゃなく、抱えるように持つその一升瓶は、もう冷えた表面に水滴が浮いてきていて、いつ滑って取り落としてもおかしくなかった。
二束三文のお酒なら大して気を遣うこともなかったけれど、値段を聞いたら目の飛び出るようなランクの純米大吟醸だった。上海人形の持つ貴腐ワインも同等の額だというからたまらない。地下室で冷蔵して管理する手間も考えて、まったく報酬にならない報酬ね。
『一年分の酒代をくれてやるんだ。破格だろ』、などと魔理沙は言ってたっけ。お為ごかし、禁酒の誓いを預けさせられただけじゃないかしら、と私は未だに疑っている。頭に菌糸が張っているのでもなければ、キノコと同列にされて気分のいい人間はいない。
かといって、何ももらわなかったらもらわなかったで、納得はいってなかったろう。あの弾幕の中に入って、追加の報酬なしというのは、うん、冗談にもありえないわね。
魔理沙が新たに要求したのは、アリーナ席で弾幕を観覧することだった。自分でもかわせるかどうか危うい弾幕を、そのまっただ中で注視してくれだなんてまともな神経じゃない。
……それを引き受けた私も含めてね。
仕方ないじゃない。不可能さを理解した上で挑戦し続けるって意志が魔理沙にあるなら、そこに私を必要だと見てしまった以上、どうあっても巻き込まれることから逃れられない。最後まで付き合うしかないでしょ。そう、不可抗力なのよ。
「はぁ……」
さすがにため息をついた。
自分で自分に言い訳をするのはベスト10に入る空しさだ。
本当は、拒否できないことはなかった。
でも、あの台詞。弾幕のリハーサルに失敗した魔理沙がつぶやいた言葉。
──「母さん」
魔理沙の母親は魔理沙が幼い時に亡くなったそうだ。病気がちでいつも布団に入っていた。魔理沙が魔法使いを目指したのは母親が病没してからほどなくだ。そう聞いている。
それ以上のことは知らないけれど、魔理沙の発言と行動、過去と現在を線でつないでいくと一つのストーリーが浮かんでくる。
病床の母親は枕元の娘を慈しむ目で見続けたのだろう。残された時間の少なさを知る分、娘と触れ合うのを何より楽しみにしていた。娘もまた母親と触れ合うことを一番の楽しみにしていた。
母親は娘の自由さ・活発さへ向けて羨ましそうな、嬉しそうな響きで語りかける。娘はより自由に、活発に育っていく。そうして、永久の別れの間際、母親は娘に言葉を遺す。『魔理沙、お母さんの分まで生きてね』
こうして後退も躊躇もしない魔法使いは誕生した。箒にまたがり、今日の今まで高みを目指して飛んでいる──。
私は無駄な創作能力を発揮しているのかしら。多分は、そう。でも、母親のたった一言が生き方を決定づけるのはありうることだ。身に染みて知っている。
「はぁ……」
もう一度ため息をつく。
そんなものに自分がほだされたとは考えたくなかった。同様の過去を起点とする魔法使いに手を貸そうとしたなんて。彼女を自分と表裏一体のものとして見るなんて。
だけど、協力してしまったことは変えようがない事実で。手に入れた魔導書を開くたび、私は複雑な思いを抱くのだろう。
やれやれ、ね。
せめてこのお酒を飲むときは、ただその美味しさを味わいたいものだわ。
「ドコオクー?」
「テーブルの中央、そこの開いたスペースによろしくね」
「ココー?」
上海人形に指示を出し、追加の報酬たる純米大吟醸と貴腐ワインをテーブルに並べながら、しかし、私はもう複雑な気分になっていた。
あの無茶な弾幕に人を巻き込んだハプニングが、魔理沙にとっての打開を生んだ。
「自分と相手の立場」……それの示す具体的な弾幕の問題は、「撃っている魔理沙自身からはともかく、撃たれる側から見ると大したことはない」などだ。魔理沙はあの一件で、今まで相手の視点を固定的なものとして見ていたことに気づいた。自分は飛び回りながら弾幕を撃っているのに何という盲点。
自分が弾幕に感じているダイナミックさを相手にも感じさせるには、相手にも飛び回ってもらう必要がある。用意した回避の道筋で相手を誘導し、自分と相似の、相対の、相違の、飛行をさせる。そうだ、これだ。
ということで、魔理沙は私に白羽の矢を立てたというわけだ。それからはまさしく生け贄にされた気分だった。
『キャアァ?!』
『叫んでる暇があったらよけろ! まだこっからだぞ!』
『む、無理よ! キャー! 無理無理絶対無理! 止めて、って、キャー!』
『大丈夫だって! 直に良くなる! って、うわぁー!』
『魔理沙もいっぱいいっぱいじゃない!』
ピチューンピチューン
そうやって何度も何度も撃沈し、慣れたところで一層の高難度な弾幕が張られる。撃沈の数も率も減らないまま月日が過ぎた。
方向性は間違ってなかったから文句のつけようがなかったにしても、我ながらよくもまああそこまで付き合ったものだわ。
数々の料理が乗ったテーブルの上を見回し、一つ置き忘れていたものに気づく。上海人形に台所から小鉢を持ってこさせた。
桜の塩漬けと菜の花の和え物。旬の味、季節の一品だ。
始まりは春。そして今はまた春。つまりは一年が過ぎていた。早いものね。
これで結果が徒労に終わっていたら業腹だったけど、スペルカードはどうにか完成の運びとなった。
スペル名は、確か、ええと? 何だっけ、「スターダストクルセイダーズ」……じゃなくて、「ギャラクシーエンジェル」? それとも「ブンブンサテライツ」だったかも。
実のところ、そこら辺は曖昧だ。
名付けることはスペルが完成するまでしなかった。そして、完成してからほとんど間を置かず、魔理沙はさっさと帰宅してしまった。
達成感に興奮しながらごちゃごちゃと羅列していたのが多分スペル名なんだろうと推測できただけで、最終的にどうなったのかはわからないのだ。
はっきり伝えられたのは予定だけ。明日の日没直後に博霊神社へ向かい、事を終えたら私の家へ寄るとのこと。
最後の言葉はこんなのだ。
『アルコール解禁日だぜ! 勝利の美酒に泥酔すっから、そんつもりでごちそう用意してくれ! じゃあな!』
連日連夜の特訓の疲れも吹っ飛んだような勢いで夜空へ消えていったっけ。余程完成が嬉しかったのね。
その後のことは簡単に予想できる。帰路の勢いのままベッドに潜り込み、日の出と共にウォーミングアップ、念入りにリハーサルして、日没に合わせて博霊神社へ飛ぶ。
ごちそう──酒のツマミ程度のものを用意しておいても十分だったろうに、ねぇ……何をまかり間違ってこんなに作っちゃったんだろう?
テーブルの上には、オムレツ・スコーン・スープ・パスタ・キッシュ・カポナータ・ポークソテー・サラダなどなど、所狭しと手料理の数々が置かれている。二人で食べるには大変な量だ。魔理沙には胃袋の限界に挑んでもらわなくちゃならない。
こんなボリュームになっちゃったのは、作り始めるのがやたらと早かったからかな。そういうつもりはなかったんだけど、今日は妙に気持ちが落ち着かなくって……。
暗くなった窓の外を見る。緩んだ温度の黒が、風もなく沈黙していた。
人生五十年とは言うけれど、果たして魔理沙の五十分の一は霊夢に届くだろうか。全身全霊を掛けた一年は。絶対勝つとの一念は。
その確率を喩えるなら、そうね、春霞のように薄い、かしら。
やっぱりおかしな考え? 確かに変よね。我ながらそう思う。極わずかにでも勝率を見出してしまうのは、以前の私じゃありえなかった。
でも、ゼロと言い切れない理由は一応、ないこともない。はず。
一つには霊夢にとって初めて目にするスペルカードだということがある。それも今まで魔理沙が使ってきたスペルとは一線を画するものだ。意外性はわずかなミスを誘うかもしれない。
そして、もう一つは「危うさ」だ。あの弾幕の中における魔理沙の挙動は未だに自爆スレスレであるし、撃つ光弾にもブレが生じている。ところどころの不均衡は一種の美であるという認識でそれを含めての完成としたが、魔理沙でさえ読めない不確定要素は相手の予測を外す効果もある。
これらの要素が二重に上手く働けば、あるいは…………うん、ひいき目に過ぎるかも。
しかしながら、絶対に確率がゼロということは理論上ありえないことであり、って、これはどっかの白黒の台詞だったわ。
ごちゃごちゃ考えても仕方ない。勝ちか負けかいずれにしても、結果の知らせはもうすぐドアを叩くはずだ。
10
「いやぁー、負けた負けたぁ!」
ノックも無しに飛び込んでくる朗らかな声。
「霊夢、半端ねーわ! 底が見えないとはこのことだな! こっちはアップアップだってのにスイスイ抜けてくし、MAXスピードをものともせずに正確な照準で撃ち込んでくるし!」
ドッカと椅子に座って、三角帽子を後ろに放り投げ、それがコート掛けに被さるのを見もせずにハハハッと笑った。
「いつものようにあっさりやられたわ! あまつさえ最後に言われた台詞が『変な弾幕ね』だぞ? 芸術点もゼロってか! 参ったね!」
軽い調子で話していて、心に何の憂いもないように見える。
悔しくないわけがない。あそこまで力を注ぎ込んで、強く思い入れて、それなのに完敗したのだ。地面を殴った魔理沙を私は知っている。
だから、言った。
「とりあえず晩餐を始めてもいいかしら。料理が冷めちゃうわ」
やや早口になっていることに内心驚く。動揺しているの、私?
「ん? おお。ハハッ、こんなにたくさん作ってくれるなんてありがたいね。祝勝会にゃならなかったが、たっぷり食わせてもらうか」
「その前に手は洗った?」
「抜かりはないぜ」
両手をヒラヒラとかざしてみせる。確かに、綺麗かつ湿っていた。
顔も同様に湿っていることには、気づかない振りをした。
まぶたが赤く腫れてないところを見ると、涙が滲んだくらいだったか。それとも、どんなに涙は流れても、まぶたをこすることだけはしなかったか。
けれど、前髪がわずかに濡れているのでは顔を洗ったことがバレバレだ。もちろん指摘したのでは、わざわざ話をそらした意味がなくなってしまうので、しない。
「じゃあ、ずいぶんと豪勢な残念会になっちゃったけど、始めましょう」
「だな。う~ん、にしても、美味そうだ。盛り付けも私の大雑把なやつとは全然違うなぁ……」
声のトーンが下がる。表情から笑みが落ちていき、思わしげに食卓を見つめる。
「どうしたのよ」
「いやさ、アリスと違って、やっぱり私には無いのかな、美的センスってやつ」
せっかくそらした話を! まったく!
結局引きずってんじゃない。息を吐きながら椅子に座り、言った。
「印象派って知ってる?」
「もちろん。都会派の別バージョンだろ」
「センスはともかく知識は皆無ね。今現在の絵画の主流よ」
「絵か」
「ええ」
「ダジャレ?」
「うるさい。それでその印象派は、今でこそ主流だけれど、誕生当初の評価は散々だったわ。名前の由来であった『印象』という絵は、『描きかけの壁紙の方がまだ完成度が高い』なんて評されたの」
「へえ」
「壁紙以下とした評価は間違いとは言えないわ。そう感じたのなら、その人たちにとってはそれが正しいの。でも、今現在は世界的な芸術作品として扱われていることも事実」
「うん、まあ、わかるかな。絵ならピカソのっての? あれを幾つか知ってるが、私にはさっぱり理解できないし」
「弾幕も同じよ」
本題に入る。
「今までのと違う魔理沙の弾幕について、霊夢の下した評価は一つの評価よ。それはそれで正しい。でも、絶対じゃないわ。もし、誰から見ても理解できないようなものなら、私がとっくにダメ出ししてる。少なくとも私のセンスからしたら、あなたの弾幕は──綺麗だったわ」
正直なところを述べたつもりだが、いつの間にか視線を外していたようだ。戻した先には、妙に崩れた表情があった。
「……何よ」
「あー、いや、くっくっ、何でも、くははっ」
「だから何よ」
「あっはは、だから何でもないって! ははははっ!」
「何でもないんだったら笑わないでよ!」
「あははははははははははははははは!」
私がフォークを持った右手を掲げるまで、魔理沙は笑いをこらえようともしなかった。片手は拝んで謝罪の意を示す一方、もう片方の手は未だに笑いが漏れている口に形だけ被せられている。
「ソーイングセット貸すわよ。口が閉じられないなら」
「ふっふ、いや、ハハ、悪い。ちっとも悪気はねーんだ、くくっ」
私はもう一度フォークを投げつける素振りを見せてやる。
「待った待った、マジに悪気はナッシングだってば。うん、ついつい嬉しくってな。だって、アリスのお墨付きをいただけたんだぜ?」
……持ったフォークの銀色の面を見てしまう。私の顔、赤くなっていないかしら?
「お陰で再戦の気力が湧いた。次は勝つぜ」
ごく自然に出てきた言葉に、思わず聞く。
「まだやる気?」
愚問だった。
「あったり前だろ。生きてる限りやり続けるぜ。生きてるからな」
即答。これこそが魔理沙。それゆえに魔理沙。どこまでも魔理沙。やればやるほど差を思い知らされるって思い知ったばかりだというのに、そんな悲痛も重しにはせず踏み台とするのだ。まったく、今更。
「ほんと、魔理沙はしょうがないわね。魔理沙だからしょうがないとも言うけど」
「なんだそれ」
「こっちの話よ」
普通の魔法使いは努力し続けるのだ。この魔法使いにとってはそれが普通なのだった。
「ふぅん、まっいいさ。腹減ったし、さっさと始めようぜ。ひっさびさの酒は浸み渡るだろーなぁ!」
自分から中断させたくせに勝手なものだ。魔理沙は吟醸酒の栓を抜き、あろうことかワイングラスに手酌で注いだ。
立ち上がって私のワイングラスにもなみなみと注ぐ。抗議しようと思ったが、良い香りが鼻孔をくすぐる。こういう飲み方もありかしら。……妥協が私の美意識を侵食しなければいいけれど。
私の心中なんて知りもせず、魔理沙は無邪気に無造作にわしづかみした酒杯を掲げる。
「んじゃ、アリス、乾杯しよう! 乾杯!」
「何に対してかしら?」
少し意地悪い気持ちで掛けた問いだった。単にいただきますの代わりなんだろうとわかった上でのものだ。
敗北に? 屈辱に? そんな皮肉が言外に含まれている。これくらい構わないわよね。一方的に振り回されるのじゃアンフェアだもの。
文句を言うか、膨れるか、期待してたのはそんなのだったが、用意してあったかのように魔理沙は答えた。満面の笑みで。
「この人生に!」
ただちょっと中途半端な感
あと50kb増えてもいいから
アリスの魔理沙に対する共感や
魔理沙の霊夢に対する目標意識みたいなものを、掘り下げたものをがっつり見てみたかった
こうなんていうか、そういう期待してた要素が思いの外薄かったなあ
テーマとしてはどこかで見た覚えがあるようなものです。それでも何度見てもいいものですね。
魔理沙が塩辛さに悶絶する話だと思ってたら全然違った
努力する歩みを止めない。
魔理沙だからこそのお話でとても良かったです。
それはそれとして、アリスの心情の変化と共に、魔理沙のひたむきさが浮き彫りにされていくような構成が面白かったです
ちょくちょく差し挟まれる料理シーンは何なんだろうと思ったら……のオチも素敵な雰囲気で良かった