Coolier - 新生・東方創想話

尸の皿

2015/06/23 22:52:56
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「みごとである。おぬしの腕前であれば、この倭国で五本の指に入るほどと称しても、決して言い過ぎではあるまいよ」
「は。……き、恐悦至極に存じ上げます、る」

 ひざまずいたままでいる土師彦は、震えた声で返答した。
 どうにも改まった言葉遣いには慣れていないのである。
 公の場で畏まる機会の少ない彼にとっては、お褒めの言葉を賜ってそれに返答を行うだけでも、額を脂で光らせ、また手に汗を握るだけの緊張を味わう羽目になってしまう。

「ふ、ふ。そう恐れるな。確かにこの館は、城としていくさへの備えを考えて造られておる。衛士もおれば、矛や剣も揃うておるからのう。おぬしはそれが怖いのだ。そうであろう?」
「はあ。その通りに、ございまする。ま、まさしくご賢察」

 本当はただ緊張しているだけなのだが、相手の機嫌を損ねぬよう慎重に言葉を選ぼうとした。選ぼうとしたが、上手い言葉が浮かばぬゆえ、通りいっぺんのおべっかを使う。相手は怒りも喜びもしない。どうでも良い事柄なのである。

 しかし、土師彦が召し出されたこの館がいかにも仰々しい戦いの気配をぎらつかせているというのは、本当のことである。彼らが今いるのは、周りを高い塀で囲まれた館のうち、主殿とも呼べるであろう中心の部分だ。そこに至るまでの間、深い堀と、弓矢で武装した兵が詰める櫓をふたつ見た。使者の霍青娥に導かれて到着するまでの間に、目的地は物部氏の館であると聞かされている。先のいくさで蘇我方に味方したため滅ぼされずに済んだ、物部氏の生き残りが所有しているのだと。当の青娥は、やはり白檀の香のみ残して、どこかに姿を消してしまった。

 そして、その滅ぼされずに済んだ館の主こそが、いま土師彦に呼びかけている。

 声の主は、名を明かさない。自らは座敷の上に身を置き、その下の広い土間にひざまずく土師彦に向けて声をかけているだけである。ふたつの場はただ階(きざはし)によってのみ繋がれているが、はるかに目下の者である土師彦はその階を上ることはおろか、面を上げて直に相手の顔を見ることも許されてはいなかった。それゆえ、三月もかけてようやく完成したあの皿を奉る際も、間に舎人を介さねばならなかったくらいだ。

 とはいえ、「むふ」という主の息遣いは、顔が見えぬでも何となく伝わってくる。同時に、唇の端を引き上げた自慢げな笑みをつくっている様子も解る。

「周りに鉄の気が満ちているからとはいえ、臆することはない。優れた腕前の者をことさらに殺めるような真似はせぬ。そのようなことすれば、損にはなりこそすれ得には……――」

 主はそう言いかけて、げほげほと咳き込んだ。
 身体の具合が優れぬのであろう、どうにも先ほどから、喉に痰の絡んだような、しゃがれた声ばかりこちらの耳に入ってくる。聞く限りでは、少女の声なのだ。しかも記憶の確かなれば、蘇我の棟上げで顔を合わせた、あの白い水干の少女のようである。つまり、彼女こそが土師彦に皿作りを依頼したことになる。眼の端にちらと引っ掛かるところでは、三月前に白と黒のまだらであった彼女の髪の毛は、よりいっそう白い部分が増えているようだ。幼くして、その身だけが異様に老け込んでいるごとく。

 好奇心から、ほんの少しだけ眼を引き上げて相手の様子を見てしまった。顔まではやはり判らぬが、彼女はそば近くに控えていた舎人から何やら布を手渡され、喉から吐き出したものをぬぐっているらしい。少年のように胡坐をかくその膝に、土師彦の手になる円い皿が確かに収まっていた。

 彼女は、その皿に万が一汚れなどつかぬようにと思ってか、咳をするときはことさら厳重に着物の袖で口元を押さえている様子である。それがまた土師彦の自尊心を否も応もなくくすぐった。努めて眼ばかりしきりに動かして、主が工人の作に対してどのような喜びを示すかを見て取ろうとする。顔は、誰にも見られぬままにほくそ笑んでいた。今までは腕利きとは呼ばれながらも、しょせん雑器を作っては納めるだけの有象無象の工人のひとりでしかなかった土師彦が、こうして貴人の館で直に主と相対し、しかも自らの傑作を相手は大事そうに抱いている。これがやがて畏き辺りに奉られれば、名実ともに天下一の工人である。

「これほどの皿なればこそ、神仙の道行きの友とするにもふさわしい。まことに、良きもの作ってくれた」

 男のそんな野心など気にすることもなく、主は主でどこか感慨深そうに皿の縁を指でなぞっている。あたかもその皿が、すでに自分の身体の一端と化したかのように。それもまた土師彦にとっては嬉しい。主がつぶやく神仙というものが何であるのかまでは、解らなかったけれど。

「満足至極。さっそく今晩からこの皿を抱いて寝たいと、子供のようなことを思うほどにのう」
「とびきり丈夫にはつくってございまするが、抱いて寝るとは、身体で押し潰して、わ、割れてしまうのではないかと……」
「何を、何を。冗談を申したまでよ」

 くッ、くッ、と主は笑った。
 釣られて、というわけでもないが、頭を下げたまま土師彦も肩を震わせ、笑うふりだけをする。どうにも“食えない”御方だ、と、大汗をかきながら思った。しきりにこちらを褒めそやすものの、どこからどこまでが本心で、どこからどこまで冗談なのか。あの霍青娥という隋人も不思議な女だったが、その青娥を使う立場にあるこの館の主もまた、それ以上に不思議だということか。

「さ、さ。何はともあれ天下にその名を轟かすであろう名工に、褒美を取らせねばのう。まずは、新たな工房を構えるにふさわしき広き土地か」
「は。わたくしごとき下賤の工人に対し、格別の御高配を賜りますことを、嬉しく思いまする」
「うむ。幸い、守屋兄の遺領が幾つか手つかずのまま残っておったはず。そのうちにちょうど良い場所を見繕っておこう。詳しくは追って沙汰する。また霍めを使いにやると思うゆえ、楽しみに待つが良いぞ」

 話しているうちに、土師彦の言葉遣いもだいぶ滑らかになっていた。多少は緊張も薄らいできたかという頃合いで、貴人と工人という二者の会見も打ち止めである。

 主は立ち上がると、座敷を辞さんとする。やはり彼女の病状は決して軽くはないらしく、舎人に肩を借りながら、ようやくといった態で歩き始めるのであった。その間も、大事な皿は懐に抱いたまま誰にも預けようとさえしなかった。咎められぬのを良いことにその様子を眼で追っていた土師彦だったが、直ぐに「それにしても……」と声が掛かって再び視線を伏せる。主が、舎人の肩越しにじいとこちらを見つめていたからだ。

「我は此度、おぬしに皿の傑作を作るよう命じたことで、ようくよく思い知ったわ。工人の腕というのは玄妙不可思議の極みであるとな。斯様に美しき品でさえ、朝夕の食事を作るごとく、容易く生み出してしまうのだから」

 最後にそれだけ言うと、ふらふらとした足取りで主と舎人は退出していく。後には、土師彦ひとりが残された。最後にもまた、お褒めの言葉を賜った。そのはずなのに、工人のうちにはもやもやとした綿のような苛立ちが満ちていく。それは、一作を仕上げることに対する主の無理解に対してである。決して、土師彦は此度の作を“朝夕の食事を作るごとく”に作ったつもりはない。神々の示した霊夢によって、霊感と天啓に導かれ、一世一代の大仕事として仕上げたのだ。その努力を軽んじられることは、いかに出世の足がかりとなるとはいえ、甚だ不快の一語に尽きるのだった。くそっ! ……と、心ひそかに吐き捨てる。

「かの御方がおれの腕前をお認めになったは、嬉しさの極みよ。だが、かほどにおれの器作りが容易きものであるのなら、なぜ世の人々はこぞっておれを褒め称えぬ? まったく、何も知らぬ者ほどいいかげんなことを口にする。あの方の仰せになったのも、それと同じことよ」

 とはいえ確かな裏づけを得て、彼の中の傲慢さはますます育ちつつあった。
 それゆえ、ほんのささいなことにさえ他人からの侮蔑の芽ではないかと疑り深くなる。館の主は何度も何度もその腕前を称えはしたが、結局いちども土師彦自身の名を呼ぶことはなかった。それは、彼女が本心では他の有象無象と目の前に侍る工人とを、まるで区別していないためではないか、と。


――――――


 物部の館から出たその足で、次に向かったのは安奈万呂の工房である。

 皿の傑作が完成に至るまでには、あの百済人から受けた助けも決して小さくはなかった。ろくろも、窖窯も、そして陶器に適した土も、すべて安奈万呂から贈られたものである。自分のみで成し得なかった仕事であることは悔しいが、かといって土師彦は、他人から受けた恩を蔑ろにできるような人間でもない。ゆえに、礼を述べに行くのである。とはいえ、そうした行いは、礼をせぬことで相手から恨まれたくないという小心の表れでもあった。

 一刻近く歩いて、窯の煙が空にたなびくのを見る。
 今日は少し風が出ていて、空の低いところで煙の筋が霧散しているのが目印となった。安奈万呂の工房を目指す足取りはすばやい。この成功をどう誇ろうかという気持ちが、自分でもそうとは解らぬうちに土師彦の心を昂ぶらせていた。

「おお、土師彦どのか。その後、仕事とやらはどうなったのかな」

 今回は、安奈万呂は留守ではなかった。
 どうやら、またどこかから大口の仕事を得たらしく、弟子たちとともに土を捏ね、ろくろを回し、窯の火を絶やすことなく焚いていた。陰干しにされている甕だの小壺だのの間を縫うように、人々はそれぞれの位置を占めている。造形した器からヘラで細かな粗を削ぎ取っていく安奈万呂は、決して自身の作業からは目を離さず、手も止めない。その直ぐそばで、客人であるはずの土師彦ばかりがどこか手持無沙汰に立ち尽くしていた。

「おかげさまでな、ここ数月の存念であった大仕事をひとつ終えることができた。安奈万呂どののお力添えを得たおかげよ。お約束したお礼の方も、いずれ必ず」
「それは良かった。お礼の方は、気長に待つこととしようか」

 土師彦は大げさに抑揚をつけ、まるで役者のように芝居がかった態度で語りかける。物部氏の知遇を得たことで気が大きくなっていたのである。その一方で安奈万呂はといえば、その寡黙さを崩すことはない。商売敵がわざわざ礼を述べても、しかも慇懃無礼な態度であっても、である。む、……と、土師彦の眉根に皺が寄る。すでに天下第一の名工となった気分でいた彼には、安奈万呂が以前とまったく変わらぬように接してくるのが、どうにも気に入らなかった。むろん相手は、土師彦が物部氏と関わりを持ったことなど知らぬ。それだけに、どうにかして自分の力は安奈万呂に勝っているということを、感じ取らせねば気が済まなかった。

 土師彦はしゃがみ込むと、いま安奈万呂の手掛けている器をじいと見つめ、言い放つ。

「相変わらず、見事なお手並みで。だが、そうそうありふれた品ばかり作っていても仕方がないのではないですかなあ。似たようなものばかり世に送り出していては、いつかあなたの作も、人々に飽きられてしまいますぞ」

 口の端が釣り上げられ、厭らしい笑みを浮かべてしまいそうになるのを懸命にこらえる。本当なら、先に終わった大仕事のことを散々に自慢したいところだが、そうはせぬまま工人としての思想と哲学だけを伝えることで、相手を屈服させたかった。

 無礼というにも余りある彼の物言いに、周りにいた安奈万呂の弟子たちは色めきたった。師をけなされるということは、その技を受け継ぐ弟子までもけなされるということだ。数人の者が立ち上がり、土師彦に詰め寄らんとした。だが、それを制するように、安奈万呂自身が「そういえば、土師彦どの」と声を上げる。

「な、何か」
「私も、近ごろはあなたと同じことを考えていたところでな。同じような品を同じだけ作り続けていては、いつか世の人々から飽きられてしまう。そこでだ」

 そこまで言うと、安奈万呂はいったん奥に引っ込んだ。
 ほどなくして戻ってきた彼の手には、ひとつの水差しが握られている。一見したところ、彼がいつも手掛けているような品とさして違わぬ作りに見えるのだが。

「今まで百済流の工人が世に出してきたものは、どうにも味気なかったような気がした。それで、注ぎ口のところに少し装飾を加えてみたのだ」

 顔を近づけてよく眼を凝らすと、確かに安奈万呂の言う通り、注ぎ口の部分には装飾がある。豊かな羽に包まれた、一羽の鳥の頭の装飾だ。水差し自体の細長い首が鳥の首に見立てられており、反対に使い手が指を通す取っ手の部分には、翼を思わせる意匠が与えられていた。この水差しひとつが、瑞々しくさえずる若鳥の姿をそのまま写し取っているのだ。

 予想もせぬものを見せられ、土師彦はごくりと唾を飲む。
 狼狽の態で彼は訊ねた。

「これは、安奈万呂どのがお作りになったのか」
「むろん、そうです。この倭国の工人がよく彫り込んでいるような、華やかなるものを求めた結果の作です」

 倭国の工人のような?
 口中にその言を呑み込んで、土師彦は後ずさりをしかけた。

 なぜならば若鳥の姿を水差しに刻んだ安奈万呂の腕前は、並の倭の工人では到底及ぶべくもないと直感してしまったからである。確かに、この安奈万呂の水差しは、世に出回っている他の陶器に比べるとずっと派手だ。だが、倭国に古くから伝わっている様式――つまり、土師彦が受け継いだような様式よりは、ずっと“落ち着いている”。地味なのではなく、落ち着いているのだ。ただ華美であることばかりを尊ぶような貧しい精神ではなく、天地自然の在り様そのままを土の中に込めて焼き上げるという、高貴さのゆえにあえて飾り気を棄てた作風である。

 あたかもそれは、土師彦が工人として数十年も追い求めていたものだ。そして此度、青娥を通した物部の主からの依頼をきっかけに、三月もの苦心惨憺の末ようやくたどり着いた境地であったのだ。

 それを、安奈万呂はいとも容易くやってのけた。
 やってみたら案外と簡単だった、とでもいうように。

「他にも、いくつか試しに作ってある。よろしければ、倭の土器に通じた土師彦どのから御意見などうかがいたい」
「あ、いや……まことにもっておみごとな作で。さすがに安奈万呂どのといったところであろう」

 にッ、と笑って工房の奥へ誘う安奈万呂は、もはや哀れな土師彦にとっては彼を冥府に誘う妖物の化身と何も変わらない。一刻も早く逃げねばならぬと思い、通りいっぺんの世辞を並べ立てると、土師彦は足早に百済人の工房から立ち去ってしまった。安奈万呂もその弟子たちも、見送りの言葉を何もかけなかった。

 ずんずんと歩き続け、相手の工房が地の果てに沈んで見えなくなるまで、いちども後ろを振りかえらない。周りに誰も人の気配がなくなったことを確かめると、自らの住まいへ向かって全力で走り始める。そうやって、頭の芯にまで染みついた恥ずかしさを消し飛ばそうと躍起になっていた。が、それ以上の早さで積もっていく不安と焦りとは、どうしても打ち消すことができそうになかった。


――――――


 休まず走って斑鳩の住まいに帰り着いて後、水をがぶがぶ飲み、それから飯にした。言い知れぬ気持ちの悪さは土師彦の身体の感覚をどうしようもなく鈍らせ、そう腹も減っていないのに、二杯も三杯も粥を食わせた。彼は、ただ恐ろしかった。自分の及びもつかぬ遠く遠くから、正体の解らぬ怪物が襲い掛かってくるような錯覚に陥っていた。だから、安堵のために飯を食うのだ。計り知れぬ虚無と恐怖は、勝手知ったる日常の行いで上書きすることにより、どうにかごまかすことができるのだから。

 必死に飯を食って腹を膨らますと、嫌でも心が落ち着いてしまって、急速に眠くなっていく。疲労した身体にたっぷりの食事を詰め込んだのだから、当然である。粥の器を水場に移すこともなく、そのままごろりと寝転んだ。「いや、考えてみれば、おれは物部さまのお引き立てを得て、栄達を約束された身分。今さら他の誰にも遠慮をする必要は……」と、努めてそう考えるようにしていると、まどろみの中で何に思い煩わされることもなくなっていく。工人は、そのままぐっすりと寝入っていくのだった。

 長い長い眠りの、そのさなか。
 彼は幾つか夢を見たはずだったが、それらの大半は心地よい睡眠の中に溶けて消え、すっかり忘れられていく。しかし、ひとつだけ――ひとつだけ、眼を醒ましてもなお忘れられぬ夢がある。

 青く萌える若草のにおいが、一面の空気を満たしている。
 未だ父と共に在ったころ、いつかの年の春先であっただろうか。

 ちょうどその日は近くに市が立つ日で、父もまた幾つかの器と、それから子供たちのおもちゃとして騎馬や武人、鳥や犬の像など持って商いに出ていた。その間、十を少し過ぎた年頃の土師彦は、留守番として住まいに残っている。父から課されていた、器作りの修練をこなさなければならなかったのである。父のように立派な工人になるのが、少年の抱いた原初の夢だった。そうなりたかったのだし、父の子として産まれた以上はそうならねばならないという使命の感さえ抱いていた。何の不安もない将来への希望のみ抱いて、少年は夢の中に一作を手掛けるのだった。

 昼過ぎて、父が戻ってきた。

 市に出した品物はすべて売れたらしく、塩と野菜と、それから瓶子をひとつ、紐で括って提げている。品物の売れ行きが良いときには、安物の酒をほんのわずかばかり買ってきて晩酌をするのが彼の習慣だったのだ。住まいに戻り、荷物を下ろす父に向かい、土師彦は修練で作った器を見せた。無我夢中で完成させた一作である。父は横目でそれを見、黙り込んだ。

 いつもなら、ここが良いとかあそこをもう少し直すべきとか、色々と口を挟む父が、その日だけは黙り込んだのだ。疲れているのであろうか、具合でも悪いのか、と、少年は不安がったが、――父は首を横に振り「よくやったな。今日のは、今まででいちばん出来が良いではないか」とのみ、口にした。その評価に気を良くした土師彦は、父の眼が、住まいの隅に積み上げられた、古い古い皿や器に注がれていることにも気づきはしなかったのだ。

 少年が気づけなかったことを、大人になった今の土師彦なら、よく解る。
 夢の中から醒めかけて、彼はひどく怖れていた。父の本当の心を理解してしまったから、怖かったのだ。父があれだけ大切にしていた若いころの作品群が、住まいから急に消え去ってしまったのは、ちょうどその辺りの時期だったのだと。夜、小便に起きた少年は住まいの外で、悪鬼のごとき形相の人を見た。それこそが父であった。自らの思い出である大切な作品群を、我が手によって叩き壊す悪鬼のごとき父であったのだ。

 なぜ、こうして夢に見るまで忘れてしまっていたのだろう。
 たぶん、その晩の父が、どこか遠くの妖物に身も心も乗っ取られたかのように、人離れした異形の眼をしていたからに違いない。彼は、確かに泣いていた。泣きながら、自らの皿や、器や、甑や高坏、酒杯をことごとく地面に叩きつけ、破壊し続けていたのだ。やがて、立ちすくんだまま何も言えない我が子に気づくと、父は言った。

「土師彦。わしは、おまえが憎くてならぬ。わが子が、いつの日にかわしを超える腕前の工人へと育つであろうことが。憎くてならぬのだ……――――!」

 父はその才において、いずれ子に敗北することを予感し――その悲しみのあまり、自らの思い出さえも手にかけた。その狂った事実が、覚醒した土師彦の身体を蝕んでいた。寝床から起き上がると、まるで骨が鉛の棒に入れ替わってしまったように、身体中が重々しい。時は朝である。住まいの外の茂みでは、何とも知れない小鳥どもが、チ、チ、と呑気にさえずっている。天井の明かり採りから、矛のように鋭い光が突き刺さってくる。

 朝飯を食う気分にもなれぬまま、土師彦は住まいの中をぐるぐると歩き回り始めた。まるで自らの尾の先を加えようと試みる、耄碌した老犬のような有り様だった。男の独り身とはいえ、竪穴の住まいは決して広い方ではない。まして彼の作である土器があちこちに並べられているのだから、さらに手狭となっている。土器と土器の間の隙間を巧みに泳ぐようにして、工人はひたひたと歩き続けた。何か、ひとつの見過ごせぬ不安の上を進むような足取りだった。

 彼という工人に、天下に名を成す夢を抱かしめたのは、あの月の金器の霊夢である。
 であれば、それ以上の烈しい不安を想起させるのもまた、霊夢の為せるところであったに違いない。

 昨日の今日のことだというのに――今の土師彦には、住まいの中に積み上げられた自らの作を、自身の希望と思い出の象徴と捉えることがもはやできなくなりつつあった。夢の中で思い出した、悪鬼のような父の顔のせいだ。いずれ自分も、あの父と同じ悪鬼と化すに違いないのだと。

 これまでの自分は、この土師彦を認めぬ世の中の無理解を憎んでおれば良かった。自分より評判の良いあらゆる工人に嫉妬し、見下すことで自尊を保っておればそれで済んだのだ。だが、今は違う。自ら恃めるところの最高の一作をすでに作り上げてしまったがゆえに、その恍惚の座より転落することを怖れ始めている。

 今は物部に奉った、あの霊夢の啓示をかたどった皿を思い浮かべた。

 あれをきっかけにして、これまで土師彦を振り向きもしなかった人々は、皆こぞって、諸手を上げて、賞賛の限りを尽くすはずである。そうなるだけの自信がある。この倭国にも百済や隋に劣らぬ腕を持った工人がいるのだと、誇ることができるだけの。

 しかし、もし本当にそうなれば、どうする?

 確かに、土師彦は望んでいたもののすべてを手に入れることができるだろう。名も、地位も、富も、女も。いち工人としては何不自由ない高みまで己を引き上げられる。だが、引き上げられたということは、それ以上の高みに登ることはできず、ともれば追い落とされる一方だということではないか。いったい誰が、この天下に土師彦を超える才を持った者が現れぬと断言できるのか? 世の重んずるものが移り変わり、最高の一作でさえ見向きもされなくなるかもしれぬではないか? あの安奈万呂や、隋の国の工人ほどの人々であれば、そう時をかけずにより優れた品を作ってしまえるのではないか? 

「否、それ以上に。おれは、おれが怖ろしい!」

 自ら血を流さんばかりに、土師彦は唇を強く噛み締めていた。
 あの皿の傑作に仇なすは世人の心だけではない。何より作者である土師彦自身が、最大の敵なのである。おれがもし、あの皿より劣ったものしか今後作れぬとしたら、おれはおれをもう二度と追い越すことができぬ。非才の者であると自ら明かすのが早いか遅いかの違いだけだ。それに、もしこの皿と同じだけのものをおれがまた作れるとしたら、この皿の価値はないも同然だ。最高のものは、そう何度もあるわけではないからこそ最高なのだ。

 ただひとつの最高だからこそ、永遠不滅(とこしえ)の生命を得たごとく語り継がれる資格が生ずる。いくつも同じものが生み出されるとするのなら、そのひとつひとつがどれだけ巧みな出来であったとしても、いずれは『凡俗』そのものと化していくだけではないか。

 土師彦は、土師彦自身に追いつけぬ。
 傑作として月の金器の一作を作ったときの自分自身には、もう二度と追いつけないのだ。それを真に悟ってしまえば、おれは父と同じく悪鬼の面相になるより他ない。

 しきりに唇を舐めていると、舌先に血の味が滲んでいた。
 ついに噛み破ってしまった唇から赤い筋を引きながら、工人は自らの作品群を壊して回った。壊して壊して壊しまくった。土器も、陶器も、隔てなく。青娥から手付として贈られた隋の器すら砕いてみせた。瑞兆を伝える龍蛇の姿は、見る影もなく喪われてしまう。住まいの床という床に散らばった器の破片を見ながら、土師彦は考える。

 否、未だだ。
 未だ、すべてに決着がついたと決まったわけではない。
 あの安奈万呂でさえ倭国の様式を取り入れておれと同じ境地に至ったのだ。おれが、さらに前に進めぬはずはない。あってはならない。そうではないか。

 自らに言い聞かせながら水を一杯飲むと、土を取って新たに器を作り始めた。
 けれど、前作を超えねばならぬ、自らの名にふさわしき物こそ生み出さねばならぬという重石は、はっきりと彼の心を蝕み、押し潰そうとしていたのである。一刻、二刻、それ以上。どれほどの時をかけて土に挑んでも、もはやあの霊夢に導かれた瞬間のような快美恍惚の心境、人智を超越した想像力が彼に宿ることはなかった。どれほど土を捏ねようが、ヘラで振るって天地の麗しさを込めようが、今まで無名の工人として手掛けてきた、華美で古臭い作風の品々がまた再び現れたに過ぎないのだった。

 霊感は虚無の底に落ち、熱情は冷えて凍りつく。
 工人の極みともいうべき境地に至ったのなら、それを思うさま使いこなせなければ話にならぬ。おれという人間は、あの月の金器を世に出すためだけに、天地の神々から遣わされた者だったのかもしれぬ。ならばそれ以外のものを作るには、まったく役立たずのままでしかないということか。

 しかし、最高の理想の一作を完成に導いた今、あの皿だけが何にも代えることのできない宝なのだ。永遠不滅(とこしえ)を知るにふさわしき、唯一の存在なのだ。おれは、おれの作った皿が永遠不滅の命を得たごとく生き続けることを望む。しかし、それが叶わぬことをおれ自身が知ってしまうことを望まない。

 身体中から流れる汗を厭うこともなく、また、器の破片を踏みつけて足の裏が傷つく痛みにむせぶこともなかった。淀みも躊躇もない彼の手は、部屋の隅にしまい込まれていた一本の縄を手に取っていた。出来上がった品物を幾つも括って、市場になど持っていくための縄であった。自身の日常の用具として使っていた甑を台場として足を乗せると、梁にゆっくりと縄をかけ、ひとつの輪の形を作った。ちょうど、人間の首一本くらいの大きさだ。少し手こずりながらそこに頭を通すと、ふらつく甑を蹴り飛ばして身体の支えを棄てる。土師彦自身の重みに引かれて、縄はぎゅうときつく絞まった。それにより頸の骨が砕かれ、瞬く間に息を詰まらせていく。死を望む心とは裏腹に、肉体そのものが生を求めて喘ぎ苦しむ中で、彼は何かの匂いが漂っていることに気がついた。強い、強い、白檀の香りが。


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