Coolier - 新生・東方創想話

尸の皿

2015/06/23 22:52:56
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 土師彦(はじのひこ)は、斑鳩の空を眺めて育ってきた男である。
 斑鳩の空を眺めながら、その手にはよく土を捏ねて生きてきたのだ。
 未だ日本国が倭国と呼ばれ、飛鳥に都が置かれていた時代のことだ。

 彼のするのは、子供のころからして単なる泥遊びなどではなかった。父の教えのもと、工人として必要欠くべからざる技能を、自らの手に文字通り練り込むための修行の日々を送ってきたのだ。父が生きているときもであるし、父が死んだのでその後を襲って工人になってからも。彼の友は良き土と、良き窯と、良き火と、それらが一体となってつくり上げられる、良き器だった。血ならぬ火を分けて産まれるものを愛する彼は、確かに工人の子だった。

 土師彦――彼の一族は、もとは大王(おおきみ)に仕える工人の家系だったのだと、父からはよく聞かされてきたものだった。曰く、巨大な御廟を打ち建てることで天下(あめのした)に己が威勢を示すことに、歴代の大王が未だご執心だった時代のことだ。日々の御食(みけ)を供するための皿や、諸国の美酒(うまざけ)を注ぐ器を始め、偉大な王の骸を納める甕だとか、御廟の周りを飾る馬や将兵の埴輪をも作るのが、祖先たちの生業だったのだと。

 それから幾十年、幾百年が経っているものかは、よくは知れない。
 だが、時代が進むにつれてそうした習いは廃れていき、食うに困った工人たちが新たな糧を求めて、自ら野に下っていったのは事実なのであろう。土師彦もまた、そうした没落した工人たちの血を継ぐひとりであり、そして、自らを天才と確信する人物でもあった。

 彼は自分の才に絶対の自信を持っていた。自分に追いつける者など誰もいないのだし、いたとしたところが片手の指で数えられるくらいだろうと。それが証に、彼の元には「あれを作れ、これを作れ」といった依頼がひっきりなしに舞い込んでくる。酒を醸すための甕が欲しいとか、大勢の客人をいちどにもてなせるようにたくさんの料理を乗せられる大皿を焼いてくれないかとか。あるいは、周辺の集落部落からもときおりは、皿や壺など作ってくれという頼みがやって来たりする。彼が父の後を継いでから、工人としての仕事が途切れた試しはなかったと言ってもいい。

 実際、土師彦の腕前は確かだったのである。そうでなければ、商業や経済について人々が未熟な観念しか持たず、自分で作った品は市場の立つ日に自分で売りに行くか、あるいは行商人に買い取ってもらうのが当たり前という時代に、これだけたくさんの仕事を頼まれたりはしないだろう。彼の焼いたあらゆる器はいずれの依頼人の手にもぴたりと合い、その求めるところを瑕疵なく満たすに十二分の値打ちを持っていた。豪族たちが使いを発して「私に仕えるつもりはないか」と言ってきたことも、一度や二度ではきかないほどだ。

 けれど、土師彦はそうした誘いには決して乗らなかったのである。

 生活の糧である工人の仕事の中にも強い誇りがあって、その腕を下手に他人に売り渡してなるものかと思っていたからであろうか? 否、それはきっと違うのだ。先にも書いたように、彼は自身を天才と自負している。自身の天賦を誰よりも信仰しているからこそ、才を売るならもっともっと高く売れる相手に売りつけたいと願っていた。どうせなら、そう、かつて自分の一族が大王に仕えていたように。そのうえで、自らの名を不動にして永遠ならしめる最高の一作を、いつの日にか――という夢想であった。

 あるとき、彼に蘇我氏(そがのうじ)から御声が掛かったことがある。当時においては、もっとも朝政に威を振るっていた人々である。何でも、ずっと対立していた物部(もののべのうじ)という連中を滅ぼしたので、それを祝して宴を開く、また新しい館も築く。差し当たっては都に近き工人たちに、土器(かわらけ)の酒杯と皿をこしらえてもらいたい……というのであった。

 自分という才能を他の連中と一緒くたにされることに土師彦は内心で憤慨したが、当初は、これを出世のための絶好の機会と捉えていた。その意気込みたるや、蘇我氏の使者が伝えた「一月以内に百枚の土器を作って納めるべし」という注文に対し、寝食も忘れて三日ですべて仕上げてしまったほどである。かくして彼の野心の礎たる土器百枚は飛鳥の都にある蘇我の館へと首尾よく運ばれた。蘇我の御当主である馬子どのの計らいで、工人たちも都へ招かれた。未だ落成を見ぬ館であるが、前途の安泰を願って棟上げの式を執り行うためである。此度の報酬も、そのときに支払われるそうである。

 斑鳩から飛鳥へ向かう道すがら、土師彦は己の生活と理想とが、互いに背反、相克して、決して融和することのないものであるというのを、何度も何度も頭の中で反芻し続けていた。おれの有する技術(わざ)は、日々の生活の用具にのみ蕩尽されて良いものではないのだと。土師彦が、斯様に己が身の丈を軽々と飛び越えるような野心を抱くようになったのには、ある“輝かしき”理由がある。彼は、ひとつの夢を見たのである。不思議な夢であった。まさしく霊夢であった。坑(あな)に燃え盛り土器を焼き固める火の赤さを眺めているときでも、斑鳩から飛鳥への今のこの道のりでも、はっきりと思い出せる夢であった。

 彼は、夢の中で月を手にしていた。
 あの、夜空に掛かる月――暗夜に大きく満ち満ちた、黄金(きん)の月である。

 夜空に手を伸ばして月をわしとつかみ取れば、それはいつも地上から見つめているばかりで、手に取るのはまったく初めてであるはずなのに、もう何度も触れて使い慣れてきたかのようにぴたりと手の内に吸いつくのだ。あたかも自分の身の内の、奥の奥から生まれ出てきた代物であるように。土師彦の手の中で、月とは器であった、皿であった。また杯であった。一点の瑕疵も穢れもなきその金器は、おそらく未だ他の誰にも触れられたことがない。その底から縁の部分まで、大海の水(土師彦は海というものを見たことがなかったが、夢の中ではそれが海の水だと直ぐに解った)がたっぷりと注がれる。その水をごくりと呑み込む。舌をひりつかせ喉焼くものは、決して海の水の塩辛さのゆえではなく、それまでいちども飲んだことがないほどの美酒がもたらすものであった。二度、三度と土師彦は月の器から海の酒を飲み、――――そして、眼が覚めた。

 彼が夢を見たころは、未だ今のように斑鳩の外れには暮らしていなかった。

 この時代の工人たちには珍しくないことで、官衙(かんが)に納める品を作るために職掌ごとに寄り集まって形成(つく)ったある一村に、土師彦もまた住んでいた。彼は、そこでも腕利きの職人であった。普通ならば一日かかる仕事を半日で終わらせ、しかも他の連中よりよほど上手くやり通す。土師彦が焼いた器は他より丈夫だとまで言われたものだが、それでも工人の村に住む限り、彼は何人かの『腕利き』たちのひとりでしかなく――しかも、どれだけ優れた品をつくったところで、いざ官衙にものを納めてしまえば作り手の名など顧みられることもない。日々の食事や酒や、野花を挿しておくことや、たまには神への捧げ物をするときにありがたがられることだろうが、土師彦自身の名はひとつも取り上げられることがない。畢竟、彼の天才とは、日々の生活の中で消耗されていく雑器についての天才であり、その美しきで人の眼を釘づけにする器を求められる天才ではなかったということだ。ゆえに、燻っていた。己の才は未だ捏ね形づくられる段階にしかなく、焼き固められてはいないのではないかと。

 それほどの男が、先のような夢を見た。
 美しい黄金の月を器に、大海の水を酒にして飲む夢。
 何か、大きな意味があるのではないだろうか。

 ひところ、村には廻国修行の賜物と称して夢見の占いを売り歩く老婆がやって来て、それなりに評判になっていたことがある。客が見た夢について聞き、その内容から行く末を占い、告げるのである。夢の中のことなど、目覚めればあまり覚えておらぬものではあるのだし、そもそも占いなるものは的中してもしなくても、どことなく自分に当てはまっていると感じられるように上手く作ってあるものだ。だから、最初はよく当たると評判になった商売であったけれど、十日もすれば客足は遠のく。土師彦は、その十一日目に閑散とした老婆のもとに足を運んだ。自分が見た不思議な夢の意味を、とうとう計りかねたからだ。

 客の話を聞いた老婆は神妙な顔をしていたが――それから、肉がたるんで常に眠そうに見える目蓋をかッと見開いて、

「その夢は、あなた様が手ずからお作りになる品が、永遠不滅(とこしえ)に存し、万金にも勝れる値打ちを持つ証」

 と告げたのである。

 冷静になって観察すれば、老婆の顔には、久しぶりの客に取り入ってひと儲けしようと企む厭らしい笑みが浮かんでいたのが、土師彦にもよく解ったことだろう。しかし、そんな事実になどいっこうに気づくことなく、彼はただ喜んだ。大喜びだった。そして自らの住まいに飛び込むと、仕事としての器を作るのも放り出し、自らの追い求める美の具象たる器作りに没頭し始めたのである。

 いつだったか、土師彦は市場の立った日に、この倭国(やまと)に渡ってきた百済の工人たちの作を見たことがあった。薄暗い蒼色の艶を帯びて輝くその代物は、倭国で多く生産(つく)られる土器よりはるかに優れる代物であって、当代においては貴人にもっとも尊ばれる類のものであるのだという。確かに、百済人の器は倭人が当たり前に作る品より美しかった。見るだにざらついた手触りを連想させる赤みある土器と比べ、大いなる滑らかさと繊細さを持っていた。だが、それとても勢威ある人々が日用の道具として用いるばかりであるに過ぎないのである。土師彦は、それをも超える作をわが手より生み出したいと思った。否、必ず生み出せるのはとうに解りきったこと。なぜなら吉兆があったではないか、霊夢を見たではないか。月を器にして大海の酒を飲むというのは、それほどまでの名品を生み出す定めが、このおれに宿ったということではないか!

 いちど思い込んだが、土師彦の心の熱はいくさの場に放たれる征矢がごとくに疾い。

 尋常の仕事は他の者たちに任せきりになり、しかもそちらはいっさい顧みることなく、思い浮かぶ限りの理想を求めて土を捏ね、器を焼いた。が、もちろんそのような行いが周りに認められるわけもない。何せ、土師彦が霊夢による啓示があったと信じているとはいえ、何もかもが唐突である。事態は、納めるべき品物が期日に間に合わないという形で破綻を迎えた。かつて倭国で当たり前に使われていた土器は、いかんせん百済人が伝えた陶器(すえもの)に比べると、実に脆いのである。それゆえ頻繁に作って納めねばならず、工人たちが仕事の口を得るきっかけにもなっていたのだが、土師彦が己の器作りにばかりかまけるようになっていたため、村全体での進捗はお世辞にもはかばかしいとは言えないようになっていた。そのうち焦れた吏僚が唇を尖らせながら皆の元を訪れ、人々を厳しく叱咤して帰ったのであった。

 土師彦の行いが公の眼について咎められば、他の工人たちまで“とばっちり”で責を負う羽目になるかもしれぬ。土師彦の奇行とその悪評が村中に広まるにつれ、これを見過ごせなくなった窯元の頭(かしら)が直に彼のもとへやってきた。その諌めを聞きも終わらぬうちから、当の土師彦は顔面に喜色を満たして、

「おれは、もうただの雑器なぞ作りませんぞ。おれは好きもののみ、つくるのです。誰にも尊ばれる、おれの好きものを。それは凡俗な器や杯にあらず。あの空の月や太陽が変わらざるごとく、どれほどの時が経っても変わらざる、もっとも美しき一作を」

 と言った。
 あまりの大口に驚き、口をあんぐりと開けたままになっていた頭だが、それでも彼は土師彦の上役である。

「そうは言っても、人が使うための器をつくるのがわれらの為すこと。それに眼をつぶってばかりいるとは、おまえは自分が神様にでもなったつもりなのかい」

 と、何とか絞り出す。

「私が神なのではありませぬ。私がつくった器が神のごとくになるのです」
「おまえは腕が良い。きっと、われら工人の村でも一、二を争うほどだろうよ。それで自分の腕前のことをどう誇ろうとおまえの勝手だが、それでおまえ自身の生計(たつき)の道が拓けるものか、もういちど、よううく考えてみよ」

 それは、確かにそうである。
 飯を食わぬでは人は生きられぬし、生計が立たぬでは飯が食えぬ。
 いかに優れた工人の手とはいえ、美を生み出すだけの手段として使うわけにはいかないのが、この世の中の習いというものだ。

 ために土師彦は、また今まで通り村の工人として器を作る生活に戻った。
 いちどは、彼も野心を封じかけたのである。
 だが、ひとたび生まれ出た自信は、元の生活に埋没する自分をひどく惨めなものに思わせた。周りの同僚たちは、あくまで人の求めに応じ、作って渡し、報酬を受け取ろうというだけ。そこには何の血も通っていない、冷たく不気味な時の流れだけがあるように感じられて仕方がなかったのだ。職人、工人としては当たり前の、そうした彼らの凡俗が、急に醜く腐ったものとして心に突き刺さってきた。

 ほどなく、土師彦は窯元の村を脱け出した。
 もぬけの殻になった彼の住まいと工房とを目の当たりにした同僚たちは「良い腕だったが、仕事に熱を入れすぎて頭がおかしくなってしまったのだろう」と噂した。自らの生業について、真面目であればあるほど狂気の域に接していくというのは、工人たちにおいては、その職掌を問わずよく知られたことであったのだ。

 自らの足元を照らす満月の金色を浴びながら、窯元を脱け出した土師彦は、今これからが自分の栄光の始まるときだという確かな自信があった。手にするべき誉れ、生み出すべき器について、頭の中には次から次へと閃いて、留まるところを知らなかった。

 彼には、彼自身の中における強烈な夢想をしっかりと感じ取って、しかもそれに気持ち悪さを感じることなく、全面の肯いをもって受け止めるだけの傲慢さがあったのである。自らのつくった器が、食事や酒の盛りつけとか、米を炊くこと、果実を溜めて置くことや、花を飾ることに使われるのみで終わって良いはずがない。ましてや、姿も見えぬ神とやらへの供物を捧ぐるための、通り一遍の神々しさしかまとっていないはずもない。自らの作った器そのものがあらゆる俗事を離れて神のごとく敬われ、その創り主たる自分までも終わりなき尊敬を受けねばならないのだという傲慢さだ。

 彼がその自信を試し、そして打ち砕かれたのは、村を離れてひとりきりの工房を持ってから、数年ばかりが経ったときのことである。

 ある豪族から「狩りでの成果を神前に奉るために、大皿を用立てて欲しい」との依頼を受けたのだ。彼は確かに依頼通りの品をこしらえたうえで、さらにもうひとつの器をつくった。依頼品に倍する手間と時間をかけたものだ。日輪に燃え盛る光の輪を構想して飾ったその縁取りの形は、『使う』のみではなく『見る』ための意味合いをも織り込んである。相手方よりの注文にはまったく存在しなかったものだったが、きっと依頼主も気に入ってくれることだろう――という期待があった。器の美しさというものは、人の生活の中に端を発する品でありながら、同時に生活から明瞭に切り離された存在であると土師彦は思う。だから、多くの皿や器に混じってさえ美しきものは誰の目にも見分けられるはずだと。

 それゆえ、惨憺たる結果が待っているなどとは思いもしなかった。
 豪族は、土師彦の渾身の一作にはついぞ気づかず「酒宴のための器」として、他のありきたりの器とさして変わらぬ値打ちを見込んで買い取ってしまったのである。そのうえで彼は、土師彦に帯同して館を訪れていた百済人の工人がつくった陶器数枚を、土師彦の作を全部合わせた以上の値打ちで買い取った。見たところは、とにかく地味で何の面白味もない、その器を。土器よりも希少であるという、ただそれだけの理由を口にして。

 それで土師彦は気がついた。

 世の人の間では、あらゆる品物は美しいから尊ばれるのではなく、珍しいから、高級だから、というだけで尊ばれる。それだけで高い値打ちが見込まれるなら、子供が泥を捏ねて作った人形とて万金に値するではないか。否、子供が作った人形は、その子の親からすれば宝と呼ぶにふさわしいが、そうした家族の在り様から出ればただの泥の塊に過ぎぬ。土師彦が目指すのは、世に普遍の価値であった。ただ物珍しいだけではなく、その美に真価を置いた代物だ。

 自分の理想――われわれの知る言葉を使うなら、芸術ということになろうか――は、ただいたずらに振りかざせば良いというものではないのだと、彼は強く噛み締める。作り手が何を思い、何を込めたのかを真に理解できる相手にこそ、優れた技術は購われるべきなのだと。以来、彼は己の野心をさらに陰々たる心の奥底に秘めておくことにした。そして、人が『使う』ことに資するばかりの俗な品しか作れぬ他の工人たちと、その程度の品で満足しきっている世の中の大勢の人々を同時に見下すことで、彼の自尊はどうにか立ち上がることができていたのである。大きな権力を持っていても、美を解さぬのでは大ばか者だ。そんな者が、本当の本当に貴い身分の者といえようか。

 それならば、世の中の大勢の人々より明らかに勝れる蘇我馬子どのであれば、器の美しきもきっと理解(わか)ってくれるはずである。土師彦なるわが名こそは、音に聞こえた天下一の大名人であるのだから――――と、そのように思いながら、彼は都へと足を踏み入れた。

 しかしそうした機体さえも、棟上げの式では裏切られた。

 蘇我の地にたどり着いてほどなく儀式は始まったが、そこでは肥り肉(ふとりじし)の身体を絹の衣装や宝剣で美々しく飾り立てた蘇我馬子どのが、未だ柱と骨組みしかできていない高楼へとえっちらおっちら梯子で登ると、工人たちの居並ぶ目前で、集められたうち数十枚もの土器を次から次へと地上に投げつけ、ぶち割ってしまったのである。参列していた者たちから次々に歓声が上がるが、その一方で悲嘆の声は聞かれない。皆は地上にも山と盛られた土器を貴賤なく手に取り地面に投げつけては、叩き割っていた。そればかりか工人たち自身も、進んで自らの『作品』を壊す側に回っていた。

 魔除け、厄除けのために土器を投げつけて壊すというのは、世の習いとして珍しくもないことである。なればこそ、工人たちも納得ずくで百枚の注文を果たして見せたのだし、自らそれを壊す側に回りもした。

 だが、そこでひとり怒りを溜め込んでいたのが他ならぬ土師彦だったのだ。
 もしかしたら自分の皿だけは壊されず、別に取って置かれているかもしれないという淡い期待を抱きもした。後々でお声が掛かり、出世の道が拓けるかもしれないと夢想もした。だが、そういう考えは考えとして、土器と一緒に粉々に打ち砕かれていく。しばらくの時が経ち、すべての土器が割られてしまっても、やはり彼には何の声も掛からなかった。

 ――ただひとりばかりを除いては、であるのだが。

「おまえ、器作りの工人だろう。他のみんなみたいに土器を割らないのか。この日のために作ってきたんだろうにさ」

 歓喜の喧騒の中で土師彦が振り返ると、そこにひとりの人が立っていた。声の様子とその口ぶりからして年若い少年であろうと最初は思ったが、腰から下を飾る麗しき仕立ての裳裾を見て、ようやく女の子と気づく。凛としたその瞳は、世間が好むような『女らしい女』からはかけ離れた意志の強さを秘めている。ゆえに、そのほとばしる烈たる光は、縫い物よりも弓矢を、野芹摘みよりは騎馬を、自分はより強く愛するのだという心の表れであったろう。名と素性は知れぬ。蘇我氏か、それともこの場に招かれた他の豪族の御令嬢であろうか。

 少女は、そばに積まれていた山の中から土器を一枚取り出すと、土師彦の方へずいと差し出した。だが、土師彦は受け取らない。しかも、間違いなく自分より高貴な身分の者に対して、頭を下げもしなかった。工人としての強すぎる誇りが、自らも皿を割ったのだろう少女へ、彼の身体を動かそうとはしなかった。

「お、おれが本当に作りたいのは、このように割れて砕けてなくなってしまうような、ありきたりの器ではありませぬ。おれは、誰の目が見ても美しいと思い、誰の手が触れてもしかと馴染んで離れない……そんな器を作りたいのでございます」
「ほう、ほう。そいつは貴い志だな」
「左様に仰ってくださるなら、嬉しいものです」

 そこまで言って、彼は急に冷静になった。
 高貴なる人に頭も下げず、直に口を聞いてしまった。相手が機嫌を損ねれば直ぐさま衛士(えじ)に捕らえられ、首と胴が離れるような羽目になってもおかしくはない。瞬く間に湧き上がってきた恐怖に脂汗を流して耐えながら、少女と対峙し続けた。こうなってしまっては、もはや引くに引けぬかなしさである。土師彦は、絶叫した。

「おれは、ずっと壊れることのないものを作りたい。永遠不滅(とこしえ)に生き続け、永遠不滅におれの名を残すものを作りたい! おれは、そうしておれの天賦を証することをしたいのです!」

 彼の思いの丈は、依然として続く土器割りの狂騒に飲み込まれて、少女以外にはいっさい聞こえなかったようだ。誰も、ふたりのいる方向を見もしない。工人の野心に怯んだか、少女はいちどは差し出した土器を引っ込めた。

「なるほどね。けど、ある御方が言っていたんだ。どんな生き物も――もちろん人間も――いつかは死んでしまう。“大地は神々の時代から変わらず、海は水を湛えている。なぜ、人間は死を受け入れなければならないのか”ってな。たぶん、そういうのは道具も同じだと思うよ。人の手で作られたものであるのなら、いつかは壊れて忘れられる」
「おれは、そうは思いませぬ。人の手が作ったものは、人の手を離れてなお生き続けるときもあるのです。お笑いになるのなら、それで結構」

 またも彼我の貴賤を無視した不遜な物言いに、少女もさすがに鼻白んだ様子であった。今度こそ衛士を呼ばれる覚悟をした土師彦だが、ふたりの間に割って入った声が緊張の糸を緩めてしまう。

「屠自古よ、探したぞ。向こうで皆が投壺(つぼうち。矢に見立てた棒を壺に向かって投げ入れる、古代中国発祥の遊戯)を始めるそうじゃ。一緒に見物せぬか。まずは河勝殿と太子様の勝負一番。我は河勝殿が勝つ方に酒を二瓶賭けたわ」

 新しい声の主は、先の対話の少女より以上に幼い姿をしている。白い水干の胸元に頂く菊綴(きくとじ)がことのほか大きく見え、それがまた一層に子供っぽい印象を強めていた。やはり少女であるのだが、その髪の毛だけが老いと若さが混じりあったかのように、白髪と黒髪が斑になっている。概ね、白髪の方が多かったか。白い少女は直ぐに土師彦にも気づき「む、この者は?」と、屠自古と呼ばれた少女に問う。

「ああ、今日の棟上げに呼ばれた工人のひとりさ。どうにも“こだわり”が強い男らしい」
「こだわり……? 何のことかの。で、投壺の方はいかに。どちらに張る」
「太子様が勝つ方に絹の着物を一着。百済人から買い取った生糸で織り上げたもんだ」
「それ、おぬしがお父上から賜った品であろうが。もったいなや」
「そうは言っても父上の薦めてくる着物、馬に乗るにはひらひらして邪魔になるだけだからな。…………」

 ふたりの少女は名も知らぬ工人になどあっという間に関心をなくしたらしく、土師彦に背を向けると、人波の向こうへと歩き去ってしまった。風気(風邪の古称)の気味でもあるのか、しきりに咳き込んでばかりいる白い少女の背中を屠自古が軽くさすってやっている。「早う次の仙丹を飲まねば……」という言葉が聞こえた気がしたが、仙丹とは何であろうか。風気を患った際には、貴人はそういう名前の薬を飲むのだろうか。

 呆然とふたりの姿を見送っていた土師彦であったが、気がつけば棟上げの式の土器割りも終いである。各地より集められた器は一枚も残らず叩き割られ、粉々の破片となってしまっていた。

 投壺とかいう遊びに興じる豪族たちを尻目に、代わって現れた雑掌の舎人たちから此度の報酬として工人たちに酒や米や塩が支払われた後、他の凡俗連中に自らの影を交えながら、土師彦はとぼとぼと帰路についた。

「当今、飛鳥の都にもっとも勢威ある蘇我氏といえど、おれの志を解ってはくれなかった。やはり、この土師彦の力はもっともっと秘め置かねばなるまい」

 他の工人たちが華やかな都の市場で米や塩を他の品物に換えるなか、ひとり土師彦だけは、寄り道もせずに道々でずっとそう念じていた。彼の自信と野心とは、ひとつの挫折を経てなおさらに大きく燃え上がっていた。しかし――――、いざ自らの竪穴の住まいに戻ると、全身からどっと疲れが出て、次いで両の眼から止めどもなく涙が溢れ出た。屈辱の涙だった。そのまま、その日は寝床に倒れ込み、数刻も寝入ってしまった。

 深い深い眠りの中で、彼はひとつの夢を見た。

 人の一生は五十余年、長生きしたところが六十余年しか生きられぬ。それは、今は亡き父がよく口にしていた言葉だ。その短い一生のうちに何をするかが人にとっては大事なのだが、さて、それが甚だ難しい。幼いわが子に土の捏ね方を教えながら苦笑いする父は、果たして何かをし遂げることができたであろうか。夢の中で、子は父に問いかける。親父どのは、ひとかどの工人、ひとかどの男に成ることができたのかと。だが、夢は夢だ。父は、笑むまま黙すまま、それ以上何も語りはしなかった。そうして、土と土とを貼りあわせるのに使う竹のヘラで、頬をぽりぽりと掻いていた。

 まなじりを伝う熱い雫に気がついて、土師彦は眼を醒ました。
 掛け物としてわが身を覆っていた菰(こも)を跳ね飛ばすと、天井に開いている明かり採りの窓の向こうには、もう太陽の輝きはすっかり失われている。代わりに、黄金色の満月が見事なまでに光っていた。家に帰り着いたのは昼過ぎのことであったはずだが、眠っているうちにいつの間にか夜になってしまったのだ。肉を塩漬けにするための甕を作って欲しいという依頼を受けていたはずだったけれど、今からでは、もう何をする気にもなれない。

 ゆっくりと身体を起こすと、背中の骨がぽきぽきと鳴った。

 そのまま彼は、いつもの彼自身の習慣で外に出ると、住まいから少し離れた所に設えてある窯の様子を見に行った。野焼きのため地面に掘った坑(あな)と、恥を忍んで百済人の工人に頭を下げ、作り方を教えてもらった窖窯(あながま)である。なだらかに土を積み上げたような斜面に掘られた窯の、その焚口を仔細に覗く。今は何を焼き上げる段階にもないので、もし何かの間違いで火種が燻っていれば、火事になりかねない。しかも、今日という晩は、夜空の雲さえ瞬きする間に遠くへ押しやられていくように風が強い。住まいの出入り口で、内と外とを隔てる藁の日除けも、風を受けてばさばさと揺れまくっていた。念のため、薪の置き場も見てきた方が良いであろう。用心し過ぎるということはない。

 窯のすぐ横にある置き場で、薪の数を検めながら、土師彦はさっき見た夢のことばかり考えている。いや、もしかしたら、薪の様子云々は自分を納得させるための口実で、本当は夢で見たことの方をこそ真に考えたかったのかもしれなかった。

 親父どのは――と、土師彦は考える。

 親父どのは、結局ひとかどの工人にはなれなかった。あくまで、自分自身の技術(わざ)と血を息子に残すことしかできなかった。彼は夢想することのない男であったし、そもそも夢想することそのものができない男であったかもしれない。親父どのは、いつも地に足をつけて生きていた。四十を過ぎても、五十に至らず病で死ぬ前も、どこか勢威ある者に仕えたいとか、最高の一作を作り上げて世の人に名を知られたいとか、そういうことを何ひとつわが子に語ろうとはしなかったのだ。

 あるいは、若いころには土師彦のような野心を抱いて生きていたことがあったのかもしれない。子が知っている父の顔は、すべてを諦めきって、ただ生活という怪物に己を食わせることを了承した人だけが持ち得る、達観の相であったのかもしれない。今日は市場で皿がぜんぶ売れたとか、騎馬や武人の人形が子供たちに喜ばれたとか、そういう好い報せを肴にして滓の浮いた安酒をぐいとあおる父の顔は、素朴な幸せに満ちていると子供心にも思ったものだった。けれど、そのとき父の眼が何を見ているのかに気づかぬほど、幼い土師彦もばかではなかった。そういう瞬間、父が見つめているのは住まいの隅に積み上げてある幾枚かの皿や器であって、それらは土師彦が産まれるずっと前から大事に保たれている品なのだ。父が決して誰にも売りに出そうとはせず、何かの道具にも使おうとはしない、大事な皿や器だ。それらは、土師彦が長ずるに連れていつの間にか姿を消してしまったのであるが、いったいどこに消えたのであろうか。今となっては、子供のころの記憶は曖昧である。

 それでも今ならば、父が何を考えていたのか解ったような気がするのである。父は、夢を追うことを諦めた。諦めたけれど、どうしても忘れられないから、そうやって昔の作をいつまでも保ち続けていたのではなかったか。

 ……とはいえ、死したる父の本心など解ろうはずもないが、それでも子である土師彦は、父のように凡俗の幸福に安んずる人生などは、まっぴらだと思った。自分には理想を追い続けていられるだけの才能があるのだと、固く固く信仰していた。

 しかし、そうやって夢を見続けているにも、少し歳を取りすぎてしまったのかもしれない。

 薪を取って数える手の、皺の一本一本にまで細かに粘土の入り込んだ様子を見て、慄いたように息を吐く。今年、自分は二十八になった。父が語った天命の半分をすでに使い果たしている。人並みであれば、もう妻と子を得ていてもおかしくはない。夢ばかり追いかけているうちに、自分が飛べるような空はどんどん狭くなっているように思われてならない。

 その空は、まさに斑鳩の空だった。
 名を上げるということは、空を飛ぶだけの翼を手に入れるも同じことなのだ。翼を手に入れて、自分以外の人々が惑う世の有様を見物する。だから、斑鳩の人である土師彦にとっては、斑鳩の空こそが自らの飛ぶべき空だというのに。空は彼が幼いころに見上げていた様子と、ちっとも変わるところがない。幾十年経とうがきっと同じだ。土師彦の志も、決して死ぬことはないだろう。しかし着実に、彼の肉体だけは老いている。

 鼻から抜けるような鋭い溜め息ひとつ残して、薪はすべて数え終わった。
 どうにもならぬ境遇について念じても、何も好転することはない。そのことは、土師彦自身がいちばんよく解っている。ならば、後はもう小便でもしてまた寝に帰るより他ないであろう。半ば捨て鉢の気分で、厠に行くでもなく、その場で用を足してしまった。唇を噛みながら、ざしざしと地を踏みしめて住まいに帰ろうとする。心が多少落ち着くと、慣れきった土や灰のにおいがことさら嗅覚(はな)を打ってくる。

 ふんふんと鼻先を震わせる、そのとき。

 工人は、辺りに好き香りが漂っていることに気がついた。肺腑の奥まで染み入るような、甘い、爽やかな香りだった。この近くに香を焚くような習慣を持つ家はないし、そもそも自分以外に住む者もほとんどない。とはいえ土師彦にとっては既知の香でもある。確か、白檀といったか。白檀は、幾年より前から身分の高い人々の間で広まり始めた、ホトケ、とか申す蕃神の香である。蘇我氏とその縁辺に在る人々は特にこの蕃神を信ずることにしており、白檀の香によってホトケの像など焚き清めている。そういう、ホトケを信ずる人々の家にも、土器を作って納めたことがあった。

 けれど、いかに芳香の類とはいえ、何もないのにいきなり漂ってくるのでは甚だ怪しい。まさか、こんな辺鄙な所にいきなり貴人の館が現れるわけもないだろうに……と訝って、匂いの筋をたどるつもりで夜空に鼻先を向けたそのときであった。

 地上を照らす眩しい満月の真ん中に、何かの影が、ひとつ踊っている。

 否、踊っているというよりも、じいと佇んでこちらを見下ろしていると言った方が、より正しい。それは、女の形をしていた。遠く離れた空に在るというのに、なぜか土師彦には、影の正体が女だというのが直ぐに解った。影の女は月に抱かれるようにして空に浮かび、艶たる微笑をもって地上の男を見下ろしているのだ。その麗しき蛾眉の有り様も、紅に燃え立つ柔らかげな唇も、豊満な体つきを彩る薄青い着物と羽衣も――実にはっきりと見えてしまった。では、急に漂ってきた白檀の香は、この女が源であろうか。

 自身の名声ばかり追い続けて、ついぞ女を抱くことになど縁のなかった土師彦は、情けなくもその影の女にすっかり見とれていたのだが、やがて「はッ!」として正気に戻った。そして、住まいに向けて一目散に駆けだした。あれは確かに人の姿、女の形をしていたが、まともな人間が風の流れに逆らって宙に浮かび、空を飛ぶはずがない。してみるとあれは、艶めかしき姿で人の心を惑わしその肉を喰らう、恐るべき妖物ではあるまいか。山深い地に住まう樵(きこり)が木立の向こうから現れた美女に微笑みかけられ、自身も微笑みを返した途端に頭からばりばり喰い殺されてしまったという噂話を、彼はどこかで聞いたことがあった。

 とすると、やはりさっさと逃げ帰ったのが良かったのだろう。
 夜を通して白檀の香は漂い続けていたけれど、恐ろしさのあまり再び寝床に引っ込んでしまった土師彦のもとには、何の狐狸も妖物も、一匹とて訪れることがなかったのである。

 翌朝からは、また気を取り直して自身の生活に戻った。

 いや、戻らざるを得なかった。まずは、日常の器作りから生計を立てねば夢も追えぬものだ。期待していた蘇我氏の引き立てが得られず、未だ世に腕前を認められなかったとあれば、なおいっそうに自身の境涯には耐えねばならない。“ろくろ”を回しながら、土師彦はぎりと奥歯を噛み締める。窖窯の作り方を教えてもらったのと同じ、百済人の工人から譲ってもらったろくろである。陶器は土器と違い、このろくろがなければ作れぬのだ。

 百済人に教えられながら窯に使う穴を掘っているさなか、つい土師彦は、なぜ自分の腕前は世に認められぬのかということを、相手に漏らしてしまったこともあった。百済人は、腕組みをしてしばし考えている風であったけれど、やがてたどたどしい倭国語(やまとことば)を唇に乗せた。

「どのような品物であっても何かひとつ見るべき所あれば、誰かしらの眼には留まって尊ばれることがあるだろう。人も同じである。世に認められるものというのは、世の中の人すべてに尊ばれることはできなくとも、見るべき所がそれだけ多いということである。然るにあなたが認められずに苦しむのは、あなた自身が見所の鮮(すくな)い凡庸の工人でありながら、それに気づくことができていないからではあるまいか」

 件のごとく語ったが、百済人の大意である。

 土師彦は、表向き「ほう、ほう……」とうなずいて聞いていたが、窯を掘り終えて相手が帰ってしまうと、地団太を踏んで怒った。何が凡庸の工人だ、地味で何の面白味もない、ありきたりの作しか生み出せず、そのくせ百済からの珍しい技術というだけで諸方から珍重されるような、下らぬ工人の分際で、と。このおれが自身の腕前に見合った名声を得ていれば、歯牙にもかけぬ者であるのに、と。

 思い出せば思い出すほど、未だに忘れられぬ屈辱と怒りがふつふつと蘇ってきて――気がつけば、回転するろくろの上でせっかくきれいに形作られていた椀が、縁からひしゃげてぐしゃぐしゃである。ちッ、と、舌打ちをすると、彼は怒るに身を任せ、作り損なった椀をろくろの上から叩き落とした。

 いったいなぜなのかと、頭の中を熱いものが駆け巡る。
 自分は、日用の雑器を作ることにかけては優れていると誰もが言った。けれど、なぜ土師彦の名はそれ以上先へは進まぬのか。単に腕利きの工人がいるというだけで、それ以上の賞賛を贈ろうとはしないのか。永劫愛ずるにふさわしき器を手がけんとするこのおれは、月を器に大海を酒にして飲み干した、霊夢の啓示と加護を受けたる土師彦であるというのに!

 顔を真っ赤にし、子供のように泣き出しそうになる。
 周りに誰もいなくとも、しかし、そのように振る舞うことは男として恥ずべきことだという安い矜持が彼にもあった。それを思えばこそ、流れ出そうとした涙は引っ込む。自身の手で彼方に吹っ飛ばしてしまった、作りかけの椀をまじまじと見る。ろくろは、未だ回り続けていた。

 ――まずは、この仕事だけでもし遂げなければ。

 唇を舐めて、椀を取り上げるべく立ち上がろうとした、そのとき。

「もし。こちらは土師彦どののお住まいでしょう。土師彦どのは、いらっしゃいませぬか」

 声が聞こえた。
 若い女の声だ。しかし、知らぬ声である。昼日中から人目を気にせず訪ねてくるほど親しき女も、土師彦にはいない。何者だろうかと思案しているうちに、昨晩に漂っていた香が再び鼻を惑わすのだ。白檀の香。では、あの妖物――月に抱かれた影の女が、未だ日の高く昇るうちから直に『獲物』を獲って喰いに現れたということか?

「もし。土師彦どの。いらっしゃらないのですか。それとも器作りに夢中で、わたくしの声に気づいておられない?」

 出入り口から垂れ下がる、藁の日除けの向こうに影が踊る。
 土師彦はろくろを飛び越えて反対側の壁に背を預けると、身を守るための武器になりそうな物を求めて辺りを探った。指先に樫作りのヘラが触れたので、それを取って構える。彼に武技の心得などない。ただの気休めであるが、襲われても切っ先で斬りつけることくらいはできるだろう。そう思って、どうにか恐怖と戦っているうちに――で、ある。

「あら、あら! やはり、いらっしゃいましたのね。素直にお返事をしてくだされば、このようなことをしなくても済んだのに……」

 女の声と白檀の香が、土師彦の“真横”から聞こえてきたのである。
 日除け布の向こうからは人の気配がなくなっている。いつの間にか妖物は住まいの裏手に回り込み、そして、“壁をすり抜けて”現れたのだ。内と外とを隔てていた木の壁は砂を散らしたように崩れ落ち、人が通るにぴったりの穴を開けている。そこから、髪の毛を大きなふたつの輪のかたちに結った女が、なに憚るでもなく悠々と工人の前に歩んできた。その手にした大きな鑿を、簪の代わりに束ねた髪へ挿すことをしながら。鑿が女の髪へと戻ると、不思議なことに、穴の開いた壁は元通りに塞がってしまった。

 驚愕のあまり、土師彦はヘラを投げ捨てて身を翻した。
 先夜に見た通り、世に比類なき美女である。しかし、空を飛んだり壁を抜けて出てきたり、その為すところはまったくもって人間業ではありえない。いよいよ恐怖にとらわれて、腰が抜けてしまう。立たぬ足を引きずりながら、どうにか逃げ出そうとすると、

「青娥ぁ。お腹すいたぞ……」
「我慢なさい、芳香。さっき山鳥を獲って食べたでしょうに」
「また、出た!」

 もう誰もいないと思っていた出入り口の方から、日除け布を突き破るみたいにしてもう一人の女が現れた。壁抜けの方に比べると、いくらか若い。少女と言って差し支えないだろう。二匹の女怪に前後を塞がれては、もう逃げるすべなどない。震えてばかりいる土師彦に、壁抜けの女がこの上もなく優しげな微笑を向ける。

「驚かせてしまって、申しわけございません。土師彦どの、別にわれらはあなたを害さんとする悪人でも、狐狸物怪の眷属でもないのですよ」

 彼女は、安心してくれと言わんばかりにしどけない様子で座り込むと、芳香と呼ぶ少女を呼び寄せて、自分の隣に座らせた。どうにも身体が固いのか、芳香の方は、脚を曲げるのすら難しいように見える。

 どうやら、今すぐに殺されるとかではないらしい。
 少なくとも身の危険に晒されているわけではないと察すると、土師彦は辺りに置きっぱなしになっていたろくろとか、ヘラとか、土の塊とかを適当に端へと押し遣った。それから、二、三度ばかり深く呼吸(いき)をして、改めてふたりの女へ問い直す。

「狐狸でも妖物でもないとすると、あ、あなたがたはいったい何者か。それに、さっきの壁抜けの技は?」
「何ということもありません。人の手で至ることのできる、仙術仙法の境地にて」
「なに、何です、それは……」
「知らぬならば知らぬで、それもまた良いでしょう。とはいえ畏き辺りには、何処(いずこ)の国の出であるのかを問わず、色々な人々が集まるということですわ」
「国を問わず? ということは、あなたは倭国の人ではないのか? く、百済人か? 百済人の中には、縮地なる技で千里を瞬時に走る者もあると聞く。やはり、あなたもそうなのでは」
「いいえ。百済よりもさらに遠くにある国――隋から本朝へとやって来た、霍青娥にございます。こちらは、お供の芳香」

 隋、という国の名を、土師彦は聞いたことがなかった。無学文盲のいち工人たる彼にとっては、外国(とつくに)の出の者といえば、様々な技術と共に倭国に渡ってきた百済の国の人々しか知らなかったのである。しかし、どこの国の出身であるにしても、この青娥とかいう美女は倭国語が上手いのだ。百済人の中には、倭国での暮らしにすっかり慣れてもなお、たどたどしい倭国語しか話せぬ者もある。それらに比べると青娥は段違いだ。今すぐにでも、通事(つうじ。通訳のこと)の役を得て公に禄を食むことができそうなほど。

 一方で、お供とされた芳香という少女は、どうにも頭が悪そうである。
 先ほどからしきりに「お腹が減った、お腹が減った」と呟いては、未だ捏ねる前の土を指ですくって舐め、「おいしくない!」と投げ捨てたりしている。しかも、それを四、五回は繰り返して、そのたびに青娥から叱られていた。主の青娥に理知の光を見出す分、お供の芳香の痴れ者じみた行いが際立ってしまう。白痴の子供を愛でる趣味でも、青娥にはあるのだろうか。見るにつけ、怪しいような、怪しくないような、奇妙な二人組であった。

 それでも彼女らの話に応じてうなずく土師彦の脳裏には、ひとつの疑問が浮かんでくる。青娥が口にした『畏き辺り』という言葉。それは大王のおわす宮中を指し、しかも畏れ多いとして遠慮を込めるときの言い方である。彼女は、よもやその『畏き辺り』から遣わされたということなのだろうか? 手のひらに、じっとりと汗が滲んでいた。

「その隋人の青娥どのが、何用あって参られたのか」
「工人の元を人が訪ねるというと、用向きはただひとつ。器を――より正しきところを申すのなら、皿を一枚。あなたに作っていただきたいの」
「はあ……皿を、ねえ」
「それも、ありきたりの皿であってはいけません。この天下において他に並ぶべきものなき逸品を――。永遠不滅(とこしえ)に残るにふさわしき、無二の傑作をね」

 はたと、一瞬ばかり、呼吸が止まってしまうほどに驚いた。
 永遠不滅に伝えられる無二の傑作。それこそはまさに自分が追い求めて、しかし、世に認められないがゆえに、未だ果たせぬ大きな夢ではないか。

「そ、その皿を、いったいどこのどなたが御所望なのか……どうか、教えてはくださらぬか」

 声を震わす土師彦に、青娥は指を唇の端に当てて考え込む。
 言うべきか、言わざるべきか、といった思案の顔だった。

「詳しくは申せませぬが、畏き辺りにほど近い、大王の縁辺に侍る御方……とのみ、お伝えしておきましょう。わたくしは、その御方にお仕えしているのですよ」

 思わず膝を打ちたいほどの歓喜に駆られた土師彦である。畏き辺り――倭国の枢要たる朝政の場、大王の縁辺から、この青娥は遣わされたのだ。しかも都にも数多いる他の工人たちでなく、斑鳩の辺境に居を構えたような、この土師彦の元へ。悔しいが、自分よりよほどに貴人の覚えめでたき工人たちは数多い。そうである以上、何かしらの特別な理由がなければ、未だ名の上がらぬ土師彦に斯様な依頼が舞い込んでくるはずもないだろう。やはり物事の真の値打ち、工人の真の腕前というものは、解る人には解るものだ。それも、この倭国でいっとうに貴い御方である、大王の近くの人になら!

 そうは思えど、少しく奇妙な事実ではある。

 無名の工人に斯様な大仕事を任せるというその御方は、いったい何処の伝手(つて)でこの土師彦のことを知ったのであろうか。もしかしたら、蘇我氏の館の棟上げで少しだけ話をした、あの屠自古とかいう少女が推挙してくれたのかもしれない。真相については判然としないながら、それでもせっかく訪れた好機を逃すわけにはいかないのである。

「我が眼に適う品物を作ってみせた暁には、望むだけの土地と館とをくれてやる。新しい工房も建ててやる。必要ならば、仕事を手伝う奴婢どもも十人ばかりつけてやる。良き土あらばどこの山でも好きなだけ掘り返し、窯が足らずば人を呼んで掘らせてやろう。また、我に仕える工人として公に召し出されることで、お主の名声はこの倭国が天下(あめのした)に不動のものとなるであろう。何せ、無二の名工として国家にその業を奉ることになるのだから」

 青娥が伝えた主人からの褒賞は、今まで土師彦を都合よく使い、また召し抱えんとしてきたいかなる名士豪族が示してきた条件よりも、さらに破格の厚遇であった。いかに勢威極める者に仕えるとしても、私(わたくし)の工人である限りはたかが知れている。国家に認められ、国家の庇護を得ること――それが、天下一番の職能者として登りつめる道のりの、最上の一歩ではあるまいか。

「期日は三月後。三月の後、出来上がった品物を受け取りに、再び参上いたします。いかがです。引き受けてくださいますか」

 着物の袖にまとわりつく芳香を片手で制しながら、青娥はよりいっそう美々しい笑みをつくって見せた。むろん、土師彦としては直ぐにでも引き受けると言ってやりたい。しかし、ここぞという好機で不安が萌してくるのもまた人の情。膝を進めて、工人はさらに問う。

「確かに、今まで聞いたこともないような絶好の申し出。しかし、無二の傑作と申されても……それだけでは、どんな名工でも作りようがないでしょうが。霍どのの御主(おんあるじ)は、果たしてどのような品を御用命か?」
「何でも構わないのです、何でも。強いて言えば、あなたが作りたいものを、あなたが作りたいように作っていただければ。そして、それが美しき傑作であるのならば、なお好し」

 顎をさすって、土師彦は思案した。

 おれの好きなように作って良いというのなら、ますますもって破格の条件であるのだと。わざわざ仕事を持ってくるくらいだから、相手もこちらの作がいかなるものかについては、承知しているに違いない。ならば己の才と構想の及ぶ限り、腕を振るっても認められるはずであろう。自分はそのための権を手に入れたのだと、彼は考えた。初めは不安のためにふらついていた気持ちが、今はまたしっかりと捏ね形づくられ、野心の火で固く固く焼き上げられている。もはや、青娥の伝えた申し出を断る理由は微塵もなかった。

「解り申した。そのお話、引き受けることにいたしましょうぞ」
「よかった! 断られたらどうしようかと思っておりましたわ。何せ、無二の美しさを持つ傑作を、なんて、そうそうあちこちの工人に頼める話ではありませんからね」

 そうした青娥の物言いもまた、土師彦の自尊心をくすぐって止まぬものがある。
 しかも天下に類なき美女の言となれば、世辞であろうと内心では察していてもなお嬉しい。緩みそうになる頬を何とか引き締めながら「この土師彦にお任せくだされ」とまで言い切ってしまったのは、工人としての矜持からか、それとも男としての邪心のせいかなのか。

「では承知していただけるなら、こちらからもお手伝いをしなければいけませんね。芳香、荷物を土師彦どのにお渡ししなさい」
「荷物ってなに、青娥」
「あなたの着物の懐に預かっている物のことよ」

 と言うと、青娥は幼児に着替えをさせるかのようにていねいな手つきで、芳香の懐からひとつの塊を取り出した。くしゃくしゃとした、薄く白い何かで包まれている。何であろうと土師彦が目を注げば、その“くしゃくしゃ”は、『紙』というものであったろう。高い身分の人々が、読み書きのために使う品という。文字を知らぬこの工人には、まずほとんど縁のない貴重な代物である。続いて青娥はその紙の包みを開くと、中から現れたのは、それまで見たことのない様式の器であった。倭国で広く使われている土器とも、百済から伝わった陶器とも違う。縁の部分をぐるりと、髭と角の生えた蛇のような生き物の意匠が取り巻いている。口から底にかけての上下には、夜から朝へと次第に移り変わっていく暁天の輝きをそのまま写し取ったかのように、細かな色合いの変化が表されていた。美しい、と、土師彦は素直に思った。心の奥底で、自身の才はこの器の作り手には及ばぬという『敗北』の感さえ、ほんのわずかに感じさせたほどだった。

「此度の依頼を発した御方が、いつも身辺に置いている器と近いつくりの物を、褒賞の手付として持参いたしました。わたくしのふるさとである、隋の工人が手掛けたもの。かたどられているのは、龍という瑞獣の姿ですわ。どうぞ、ご参考までに」
「あ、ああ。ありがたく、受け取っておきましょうぞ」
「では、わたくしたちはこれで。行くわよ、芳香」

 お供の手を引いて立ち上がらせると、青娥は土師彦の元から去って行った。
 今度は壁抜けではなく、出入り口から日除けの布を翻して。竪穴の住まいから出入りするさえ、よく稽古された何かの芸事が人の形に表れているかのような雅やかさである。後には、呆然と隋の器に見とれている土師彦と、霍青娥の身にまとっていた白檀の香りだけが残された。

 不思議なことに白檀の香りの中には、何かしら極めて不快としか思えないにおいも混じっていた。ただそこにいるだけでは決して気づけないような、不快なにおいが。美しい器に見とれることで、感嘆するより他の思いを封じられた土師彦だからこそ、一瞬とはいえ気づいたのかもしれない。

 不快なにおいの正体は、腐臭であった。
 生きている人間からは、決して発することのないような、かすかな腐臭。
 それが青娥ではなく、あの芳香という名の少女から漂っていた。

「白檀にはのう、ものを腐らせにくくする効き目があるという。世の衆生をお救いくださるホトケをお迎えするに当たり、これ以上ないほどの香りというものよな」

 フ、と、どこかの豪族が館の内でそのように自慢していたのを思い出す。
 白檀の香はホトケの神の像を彩り、そして、ものを腐らせにくくする霊験の印だと。
 では、あの芳香という白痴の少女の身体は――。

「いや、まさか! そんなことはあるまい。今までになかったような大仕事で、きっとおれもびっくりしてしまったのよ!」

 一瞬思い浮かんだ不気味な想像を努めて追い払うと、土師彦はもう、己の大望を叶えるにふさわしき一作の構想を、頭の中で練り始めていた。隋の器を包んでいた数枚の紙は、三月の後に到来するであろう自分の大出世の記念として、紐でもって近くの柱に括りつけておいた。公に仕える名工として名を知られた後は読み書きを習い、世の人々が讃えるにふさわしき己の名を書きつけてみよう、という、新たな夢まで出来上がっていた。


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