あの妖怪を拾って、そろそろ三週間か。
家路の途中、そんな事に気づき、彼女は何となく空を見上げる。
そこには澄み切った青空などではなく、薄い雲がかかった微妙な情景が広がっていた。
それほど大きな感慨がある訳では無いが、何となくがっかりとした気分になる。
「我ながら面倒な拾い物をしたわね」
一人ごち、軽く嘆息するが、その言葉の割りには、困っている様子は感じ取れない。
彼女――アリス・マーガトロイドには存外世話焼きな面がある。
予定に無い来客でもそれなりにもてなしたりするし、森で迷った者を家に泊めるような事も、頻度の高い訳では無いが、厭う様子も無い。
そんな彼女だからか、住処のある迷いの森で、行き倒れていた妖怪を見つけた時も、それほど深い考えがあるわけでもなく連れ帰り、面倒を見てやった。
それが、今の生活の始まりだった。
玄関を開け、商売道具でもある人形達に荷物を運ばせる。
「おかえり」
「ただいま」
掛けられた声に、はにかみながら視線を送ると、そろそろ見慣れた姿が、椅子の上で胡坐をかいてこちらに手を振っていた。
「人形劇の評判はどうだった?」
「上々よ。前よりもずっとね」
「それは良かった」
舞台装置(といっても簡単なものだが)を運び終え、人形達をそれぞれの定位置に戻らせて、アリスも小さく嘆息して、テーブルに着く。
「お疲れ」
「ああ、ありがとう」
差し出されたカップから、アッサムの香りが漂い、アリスの鼻腔をくすぐる。
誘われるように口を付け、程よい温度に整えられた琥珀色の液体で、そっと喉を湿らせた。
「ん。美味しい」
濃い目のミルクティーが疲労を温かくやわらげてくれる。その感覚に、アリスは上機嫌で、同じく用意されていたクッキーをつまんだ。
「随分とご機嫌なようだけど、何か良い事でも?」
「ふふ。まあね」
今日の劇では、観衆の反応はいつもよりはるかに良かった。
予行演習で、目の前の彼女から、忌憚の無い意見を受け、それを反映させた結果であろう。
「最近。そろそろ出て行け。とは言わないんだな」
そっぽを向いて鼻を掻きながら、独り言のように尋ねる彼女に対し、アリスは悪戯っぽい笑みを浮かべて尋ね返す。
「言われたい?」
「言われたら困る」
憮然として答える彼女に対し、ふふっと堪え切れず小さな笑いを漏らした。
「でしょ? だから、もうしばらくは付き合ってあげるわよ」
「……ありがとう」
彼女はいわゆる記憶喪失らしい。らしいというのは、別に医者に見せた訳でもなく、当人の言う事から判断したからなのだが、ともかく、その為に彼女は名前も、行くところもない。
発見した時、随分とボロボロだったので、巫女か何かに軽く退治でもされたのだろう。と思ったが、その関係なのかもしれない。
まあ、妖怪なだけに、体の方はさっさと治癒したのだが、行く所がないのでしばらく居させてくれ。と頼まれた際は、さすがのアリスも難色を示した。
しかし、ずるずると3日、4日と過ぎ、彼女の気遣いの上手さに、気づけばアリスは追い出す気が無くなっていた。
研究に集中しているときは、全く気配すら感じさせないし、そろそろ休もうか。という時には、そっと甘味を差し出してくれる。
今日だって、帰宅する時間など伝えていなかったにも関わらず、的確にアリスの帰宅にあわせ、飲みたいと思っていたものを丁度差し出してくれた。
覚り妖怪か何かのように、的確にして欲しい事として欲しくない事を読み取ってくれる。まあ、覚り妖怪なら、地上になど居ないだろうが。
「後の予定は? お嬢様」
「今日はもう終わりよ」
不意に話しかけられ、思わず素直に答えてから、アリスは少し思案する。
「でもそうね。あなたを医者に連れて行く。なんてどうかしら?」
「勘弁。医者は嫌だ」
冗談めかして尋ねるが彼女はいつもの文句で首を振る。特徴的な跳ねっ毛が少し遅れて揺れた。
「たまには外に出ないとキノコが生えるわよ」
「上海達がしっかり掃除してるから大丈夫さ」
肩を竦めて舌を出してみせる彼女に、アリスも誘いを諦める。
たまにはピクニックなどに誘ってみたりもするが、どうにも彼女は出不精だ。
あまり他人の事を言えたものではないが、アリスも彼女が家事以外で家を出たのを見た覚えがない。
たまに倒れていた時に所持していた手荷物を並べて、眺めている姿が見られるくらいだった。
「まあ、いいけどね」
「ん?」
「何でもないわ」
魔理沙も知らない自分だけの宝物を得たような気がして、このままそっと隠してしまうのも良いか。なんて事を思い、アリスは一人で苦笑した。
それから数日、ちょっとした実験用の材料を求め、アリスは一人外出していた。
目的地は霧の湖。そこに群生する植物が主目的だったが、ついでにパチュリーのところに顔を出しておこうか。等と考えていた。
のんびりと進んでいると、丁度目的地の方から猛スピードで見知った顔がやってきた。
「なんだアリスか。どうした? こんな所で」
「魔理沙。あなたこそ……またパチュリーの所から本を盗んできたの?」
箒にぶら下がっている包みを見て察すると、魔理沙は悪戯坊主の様な笑みを浮かべ、首を振った。
「盗んだんじゃない。死ぬまで借りるだけだぜ」
「似たようなものじゃない。大変ね。パチュリーも」
「ああ、あんな数を管理するんじゃ、手がいくらあっても足りないだろうからな。私がもっと借りてやらないと」
「はぁ。ちゃんと返してやりなさいよ」
「そのうちな。ところでアリス。聞いたか?」
すっとぼけてみせる魔理沙に、アリスはわざとらしく嘆息してみせるが、全く応えた様子もなく、魔理沙は世間話を始める。
「何を?」
どうせくだらない話だろう。と興味なさげなアリスに、魔理沙はふふん。と鼻を鳴らして、内緒話でもするように口元に手を添えた。
「あいつが重い腰をあげるらしいぞ」
「あいつ?」
魔理沙の話が掴めず、アリスは首をかしげるが、彼女は一人で頷きながら話を進める。
「ああ。珍しく本気らしい。上手く行けばレアなお宝が期待出来そうだぜ」
「いや、何の話よ?」
「え? 知らないのか?」
思わず話を遮って尋ねるアリスに、魔理沙は怪訝そうに顔を覗きこんだ。
「ふむ。全く、いつも家に引きこもってるからだな」
「別に篭っては無いわよ。パチュリーじゃあるまいし」
一人で得心する魔理沙の失礼な言葉を訂正するが、彼女はアリスに構う事なく、箒に座りなおした。
「まあ、ならいいぜ。どうせならライバルは少ない方がいい」
「だから何の話――」
「じゃあな!」
呼び止める暇も無く、片手を挙げ飛び去った魔理沙。彼女が残した星の軌跡を眺め、アリスは深く嘆息する。
「全く、子供みたいね」
話の内容はさっぱり分からなかったが、何か魔理沙が喜ぶような事でもあったのだろう。
アリス自身も蒐集家ではある為、レアなお宝というものに興味が無い訳ではない。
だから、やはりパチュリーにでもその噂について聞いてみよう。どうせ魔理沙の事だから、あちこちで噂話をしているのは目に見えているし。
等と考えながら、目的の実験材料を採取に向かった。
「ただいま」
帰宅したアリスの髪に、ふんわりとタオルが掛けられる。
「おかえり」
暖かく迎えてくれる彼女に、アリスは少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「ありがと」
「どういたしまして」
彼女は気にした風も無く、炊事場に向かう。おそらくはいつものように温かい飲み物を入れてくれるのだろう。
「霧の湖を飛ぶとやっぱり冷えるわね」
霧に濡れた髪を拭き、十分に水気を切ってから、着替えを始める。
「思ったより濡れてきたみたいだけど」
「チルノよ。氷の妖精の。他の妖精と弾幕ごっこしてたみたいだけど、流れ弾がね」
「あ~あ。まあ、怪我が無くてなにより」
本当に不運だった。流れ弾を回避したと思ったら、湖に居た妖怪に当たったらしく、その妖怪が仕返しにと巻き起こした大波を頭から被ってしまったのだから。
「チルノも悪い子じゃないんだけどね。やっぱり妖精だから」
「頭が悪い。と」
「有り体に言えばね」
大波に巻き込まれたアリスを、チルノが心配して駆け寄ってきてくれたお陰で、余計に体が冷えてしまった。
もう少し自分の特性とかを鑑みて行動して欲しいものだ。
「お待たせ」
「ありがとう。着替えたら頂くわ」
テーブルに差し出されたティーカップから、ほのかに漂うジンジャーの香りに、アリスは少しだけにやけた笑みを浮かべながら、急いで着替えを終える。
彼女は本当に気が効く。冷えた体を温めるジンジャーは、アリスが望むベストチョイスだ。
「ああ。結局パチュリーの所に顔を出せなかったわ」
「ずぶ濡れで尋ねるわけにもいかないし、仕方ないんじゃないか」
「ん。そうね。まあ、ちょっと気になる噂もあるし、明日改めて行って来ようと思う」
アリスがちろりと舐めるように少しだけジンジャーティーに口を付け、上目遣いに様子を窺うと、彼女は微笑みながら小首をかしげた。
「ふぅん。気になる噂って?」
「魔理沙が変な事を言ってたのよね。あいつが重い腰をどうのとか、レアなお宝がどうのとか」
「まるでトレジャーハンティングみたい」
「全くね。まあ、具体的に何も分からないから、何か聞いてないかと思って」
「直接魔理沙から聞いたらダメなのか?」
「それはイヤ」
素直に話を聞きに行けば、おそらく上機嫌で聞いても無い事まで教えてくれるだろうとアリスも思う。
とは言え、ライバルとまでは言わないが、同業者である以上、お互いに張り合いのようなものはある。
まあ、その点で言えばパチュリーも同じくなのだが、なんと言うか、パチュリーと魔理沙では、アリスとしては張り合う部分が違うので、別問題だ。
「意地っ張りなお嬢様だ」
「まあ、魔女の嗜みよ」
肩をすくめる彼女に、アリスは適当に返し、気づけば空になっていたカップを弄ぶ。
「ねえ」
手の中から喪われていく温もりに、一抹の寂しさを感じ、何となく彼女に呼びかける。
「ん?」
けれど、一体何を問えば良いのか分からず、呼びかけは宙に浮いて溶けてしまう。
「どうかした?」
ぱちくりと瞬きする彼女に、はたと我に返ったアリスは曖昧な笑みを浮かべ、誤魔化すように口を開いた。
「やっぱり、何か呼び名を決めない?」
何度も繰り返した話だ。いつも結局、決定は先送りになり、アリスは彼女の事を呼ぶのに、難儀することになる。
「別に良いじゃない。二人だけなんだから」
「でもほら、客人が来た時とか、困るでしょ?」
「その時は私が席を外すよ」
「もう。社交性が低いんだから」
「私はアリスだけでいいからさ」
「――っ」
少し、ドキっとした。
正直に言えば、とても気が利いて、他人への気遣いが出来るはずの彼女を、他の者に見せびらかしたい気持ちと、隠しておきたい気持ち。そのどちらもあり、本音を言えば後者の方が強い。何故なら、彼女の記憶が無い今だから、きっと独り占め出来ているのだろうから。
「そういう言い方はずるいわよ」
「ふふ。褒め言葉にしか聞こえないな」
だって、こんなにも魅力的な彼女だから、本当はたくさんの友人が居るのだろう。そして、記憶を取り戻したら、きっとそちらに帰ってしまうのだろうから。
「ああ、魔理沙の話ね」
翌日、予定通りパチュリーの元を訪問すると、相変わらずの億劫そうな態度ではあったが、普通に応対された。
「私は興味無いけど、レミィが結構興味を持ってたわ。長引いたら乗り出すかもしれないわね」
本から目を逸らさずにという、客をもてなす態度としては失礼極まりない態度だが、そもそも全く気が乗らなければ出ても来ない事を考えると、パチュリーとしてはまともな対応なのかもしれない。
「結局、何の話なのかしら?」
「異変よ」
小悪魔が淹れてくれた紅茶を片手に嘆息するアリスに、パチュリーは最小限の単語で応えた。
「つい先日も異変があったばかりなのに?」
「ええ、厳密には、その異変が解決してないのよ」
「付喪神化は収まり、小槌の魔力は回収されているんでしょう?」
「私よりあなたの方が世間情勢には敏感かと思っていたけど」
笑いを噛み殺した様子のパチュリーに、アリスが少しムッとする。
とは言え、それもあながち無理からぬ事だろう。アリスよりもパチュリーの方が、遥かに外出する率は低い。
彼女が世間一般の噂を知るには、招かれざる客である魔理沙か、咲夜辺りを介さないと、ほぼ不可能と言っても良いはずだ。
「原因である小人を騙した天邪鬼。それが今も逃亡中なのよ」
「小物一匹に大捕り物ってわけね」
「そういう事よ」
ふぅん。と相槌を打ちながら、少しぬるくなった紅茶で喉を潤す。
いつもなら、異変の後は宴会でもして適当に打ち解けて終わるのに、件の天邪鬼とやらは随分と反骨心に溢れているらしい。
「そういえば、あの異変の時、魔理沙は八卦炉がどうのと言ってたわね」
「ふん、きちんと管理してなかったからでしょう」
「まあ、それは確かに」
付喪神化して、勝手に動き出すのは、アリスが目指す完全な自立した人形を作るという目的にとっては弊害となる。
だから、自宅にも持ち出す人形にも、内外の魔力干渉を遮る処理をしているし、おそらくこの日陰の少女も同じくなのだろう。
「でも、ここの図書館の本が一斉に付喪神化して飛びまわる光景は少し見てみたいわね」
「そうなったら小悪魔を10は用意しないといけないわね」
「それで足りるの?」
「無理でしょうね」
からかうように尋ねるアリスに、パチュリーはにべも無く答え、本を閉じる。
「そろそろ一休みしてくるわ。どの道興味ないもの」
「ん。もうそんな時間? 邪魔したわね」
「構わないわ。あなたは分別が付いている方だもの」
「ふふ。ありがとう。それじゃ」
控えていた小悪魔に導かれるようにして、時が錆付いたような図書館を後にする。
廊下では掃除中らしきメイド妖精が、バケツを片手にあちこち飛びまわっている。
「まあ、関係な――きゃっ」
おとがいに指を当て、先ほどの話を思い返して、何となく一人ごちるアリスに、頭上を通過していたメイド妖精が手を滑らせ、バケツの水をぶちまけた。
「おかえり」
「ただいまよ」
昨日と同じように、ふんわりとタオルをかけられながら、アリスはげんなりとした様子で着替え始めた。
「随分とひどい有様だけど」
「メイド妖精に水をひっかけられたのよ」
「まあ、不運が続くこともあるさ」
「もう、他人事だと思――くしゅっ」
ぼやきの途中でアリスが可愛らしいクシャミを発すると、彼女は心配そうにその顔を覗きこんだ。
「風邪か? 濡れて帰って来るから」
「昨日今日と続けてだし、可能性は否定できないわね」
小悪魔が着替えを勧めてくれたのに対し、どうせ霧の湖を突っ切れば濡れ鼠になるからと断ったが、失敗だったかもしれない。
アリスがそんな事をぼんやり考えていると、気づけば彼女の顔がすぐ目の前にあった。
「少し、熱っぽいかな」
額同士をくっつけて体温を測られている事に気づき、アリスの頬が紅潮する。
「顔も赤い。今日はもう寝た方が良い」
「こ、これはちょっと違くて」
慌てるアリスを気にした様子もなく、彼女はごく自然体で離れ、アリスの肩に寝巻きを羽織らせる。
「無理は良く無い。昨日も遅くまで研究していただろう。体は資本だ」
「むぅ……」
なんだか一方的にドキドキさせられたようで、不公平に感じ、アリスが不満げに唇を尖らせる。
「どうかしたか?」
「……別に」
いつもは気が利く彼女なのに、今日は何故こんなにも鈍感なのだろう。
いや、別に関係を進展させたいとか、そういう訳でもないのだけれど。
そんな事を考えながら着替え終え、ベッドまで歩く。
飛んでいる間は気づかなかったが、少し体がだるい。本当に風邪を引いたかもしれない。
「大丈夫?」
「……お茶が飲みたい」
「用意しておくよ」
「ん」
短いやり取りを終え、ベッドに潜りこむ。
体調不良のせいか、すぐにアリスの意識は睡魔に呑まれていった。
ふわふわとした意識の中で、机に向かって一人で裁縫をしている自分を後ろから眺めながら、ああ、これは夢を見ているんだな。とアリスは思った。
「よし。出来た」
手作りの小さなエプロンドレスは完璧な仕上がりだ。
「おいで。上海」
衣類ダンスに腰掛けていた上海人形が、呼び声に応えるように立ち上がり、目の前の自分の所へと駆け寄る。
「うん。似合ってる。さすが私」
仕上がった人形の服を上海に着せて、満足げに微笑んでいる自分の姿を見て、何故だか不意に悲しくなった。
目の前に居る自分は、現状に何も不満を感じていないし、むしろ充実感すら得ているはずだ。
だからきっと、今の自分が感じているこれは、怖れのようなものなのだろう。
この上海と二人だけだった自分では、想う事が無い気持ち。
手の中にあるぬくもりを失くしたくないという気持ち。
心ある生き物が一番怖れるのは、喪失なのだろう。
生命を、財産を、能力を、愛情を。
実家を離れた時は、置いてくる側だった。だから、分からなかったのかもしれない。
置いていかれるかもしれない。というのは、こんなにも怖いものだったのか。
「ん……」
日が落ち、月明かりに照らされた室内に、ぼんやりとした頭で視線をめぐらせて、アリスはようやく思い出す。
「はぁ……」
どうやら、本当に風邪を引いてしまったらしい。体はだるく、思考はぼやけたままだ。
寝汗の気持ち悪さから、小さく身じろぎして、右手を包む温かさに気づく。
「あ……」
視線を向けると、彼女がアリスの手を握ったまま、ベッドに突っ伏して眠っていた。
全く、自分には体は資本だ。とか言っておきながら。と内心で苦笑しながら、彼女の小さな角を眺める。
やはり鬼の一種なのだろうか? それほど強い妖怪とも思えないけれど。
まあ、乱暴でがさつなあいつらとは別種であった方が嬉しいとは思う。
等とぼんやり考えていると、彼女が小さく身じろぎして、瞼を開いた。
「……ぁ」
無言で見つめていたのがバレた居心地の悪さから、何か言おうとしかけ、結局言葉が浮かばずに、吐息が夜に溶ける。
中空で絡んだ視線を外せず、吸い込まれるように彼女の赤い瞳を見つめていると、彼女は何かを思い出したかのように微笑んだ。
「体調はどう?」
「……ダメね」
「お茶、淹れなおしてこようか?」
「今はいい」
短く答え、そのまましばらく彼女を見つめる。
繋いだ手をほんの少し強く握り、熱に流されるままに、言葉をつむいだ。
「なんだか、嫌な夢を見たの」
「奇遇だね。私もだよ」
「何故か、寂しくて」
夢の内容は思い出せない。ただ、何故だかとても胸が苦しかった気がする。
「いる?」
「いるよ」
「……いる?」
「ここにいるよ」
手のひらに感じる体温も、言葉も、どこか遠くにあるような気がして、何故か悲しかった。
「隣にいるよ」
「ずっと居てね」
「ずっと居るよ」
「ウソじゃない?」
「鬼は、ウソを嫌うものだろう?」
「……そうよね」
「大丈夫さ。私は絶対にアリスの味方だよ」
そんな暖かな言葉がどこか遠く感じる。
「ありがとう……ね」
けれど、まとまらない思考はそれに縋るしかなくて、アリスの意識は再び夢に沈んでいった。
熱は三日三晩収まらず、永遠亭へ診察を受けに行くかと真剣に悩んだ翌朝、四日目の朝に、ようやく落ち着く兆しを示し始めた。
「治りかけだからな。養生しておけ」
そんな彼女の言葉に甘え、ベッドの上でゆったりと本を読んで過ごす。
初日はともかく、その後の彼女の看病は甲斐甲斐しいというほどではなく、むしろ最小限と言えたが、それでも何か欲しいものを告げると取って来てくれるし、不自由らしい不自由は感じない。
本から視線を上げ、ちらりと彼女の様子を探ると、リビングの窓から、どこか退屈そうに外を眺めていた。
ある程度回復してくると、一日ベッドにいるというのも退屈なもので、そんな事を何度も繰り返している。
寝込んでいると気が弱るとは言え、随分と恥ずかしい事を言ったのを思い出し、どうにも落ち着かない。
「ねえ」
「ん?」
何となく呼びかけてしまい、視線が重なるが、やはり羞恥が先に立つ。
「何か話してくれる?」
退屈を紛らわす振りで誤魔化そうとして、アリスは自分の失言に気づく。
何か、と言っても、彼女はアリスが拾う以前の記憶はなく、その後は家の中でしか過ごしていない。
そんな彼女に話題を求めるのは、酷というものだろう。
「んー……完全な自立って何だろうな?」
「私の研究の事?」
「いや、単純に、言葉通りにだよ。自立、自由、独立。誰かの影響を受けないものなんてあるのかな」
抽象的で、答えの出そうに無い問いに、アリスは苦笑を返す。
「随分と哲学的ね」
「かもしれない」
「誰の影響も受けないには、誰とも触れ合わないのが一番確実よね」
「それはそうだろうけど」
「エネルギーを得る為には食事をしなければならない。食事をするには、植物なり動物なりを犠牲にしなければならない。で、あるならば、行動そのものが一人で行うものであっても、行動のエネルギー源である他者の犠牲が無ければそもそも行動出来ない」
アリスはすらすらと歌うように語り、再び苦笑を浮かべる。
「そこまで関連付けるのは既に屁理屈か哲学よ」
生物である限り、その連鎖から逸脱する事は不可能だろう。
強いて例外があるとするならば、不死となった竹林の住人くらいか。
とはいえ、必要性があるのかはともかくとして、彼女達も飲み食いをしているのを見たし、食事を全く必要としない例外は、今の所記憶にない。
「影響を受けるのも、与えるのも、仕方の無い事なんじゃないかしらね」
「そんなものかな」
「そんなものよ」
少なくとも、自分も彼女と過ごし、影響を受けてしまっているのは、安易に想像出来るのだから。
熱も下がり、平時と変わらぬ生活を送り始めて数週間が経った頃。
微細な、それでいて、致命的な変化に、アリスは気づいていた。
初めは体調不良から復帰したせいだと思っていた。
けれど違う。確実に別の原因がある。
「調子悪そうだな。今日は休むか?」
「ありがとう。でも、もう少しだけ……」
「さっきから全く手が進んでいないじゃないか。無理をするな。スランプは誰にでもある。焦らずゆっくり進めればいいよ」
「……そうね。ありがとう」
アリスが頷くと、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべて手を取った。
「今日のおやつはリンゴにしよう。たまには新鮮なままで食べるのも良い」
リンゴを剥いている間も、食べる時も、彼女は傍に居て、ただ微笑んでいるだけだ。
特別甘えてくる訳でもないし、何かを強制してくるわけでもない。
ただ、のんびりと二人で時間を過ごすだけ。
それが、気づけば一日の大半を占めていた。
彼女から声をかけてくるのは、研究が行き詰った時。
それは、熱を出す前と同じ。
だけれど、研究が行き詰るタイミングが、どうも早い。
1時間もすれば、すぐに行き詰まってしまい、彼女の誘いのままに、そのまま1日を過ごしてしまう。
違和感に気づけたのは、病み上がりから一週間ほどの頃だった。研究ノートを読み返して、病後からの記録の進まなさに愕然とした。
けれど、気づけても、アリスにはどうにも出来なかった。
彼女は何も強制しない。何も否定しない。何も怒らない。
ただ受け入れ、許し、励ましてくれる。
耐え難い誘惑だった。
あらゆる努力を要求せず、ただ肯定してくれる彼女との時間はとても心地よく、野心や努力と言うものをゆるゆると溶かしていく。
あまりにも甘美な日常に、このまま堕落してはいけないと思っても、彼女を突き放すなんて選択肢は、アリスの頭には浮かばなかった。
彼女という麻薬を抱えたままでも、自身が自制をすれば良い。それで良い筈だ。と自分に言い聞かせたつもりで、自分を誤魔化してしまった。
中毒や依存症になった者が、目の前にそれをぶら下げられて、耐えられる訳など無かったのに。
気づいていても変えられず、変えられない現状に苛立ちを覚え、その苛立ちを解消する為に彼女に甘え、そして自制から遠ざかる。そんな負のループに陥っていた。
「ちょっと疲れているんだよ。気にする事は無い」
もたれかかるように寄り添うアリスの頭を、彼女は優しく撫で、微笑を浮かべる。
「そうかも……しれないわね」
母親と添い寝する少女のように安堵し、耳朶に響く雨音に弛緩しながら、アリスは室内に視線を彷徨わせる。
暗い。そういえば、雨戸を開けていない。けれど、外は雨だし面倒だ。でも、前に開けたのはいつだったか。
前に外に出たのはいつだったか。研究でこもりきりになる事はあったし、誰も気にしてないだろうけれど。
魔理沙やパチュリーとも顔を合わせていない。霊夢は相変わらず神社でごろごろしているのだろうか。
でも、あまり顔を合わせたくない。
だって、今の私は――。
「大丈夫だよ。アリスはとてもステキな人だ。私が保障する」
アリスの思考を遮るように、彼女が優しい言葉をかける。
それは自分に不安を抱いていたアリスには、とても心地よく響き、染み渡る。
「……ありがとう」
「ずっと私はこうしていたいよ。二人でね」
「……私もよ」
彼女から囁かれる甘い言葉は、毒。それも猛毒だ。
悪魔の誘惑。
ただひたすらに堕落させ、虜にする。
アリスもそこそこ以上の魔女。普通なら堕ちなかっただろう。
けれど、この悪魔は狡猾で、迂遠だった。
彼女は何も要求しない。強制しない。
飴と鞭ではなく。ただひたすらに飴を与え続ける。
そして、アリス自身、それが飴であると気づかぬうちに受け取り続けていた。
もう逃げられない。そんな諦念が沸き、アリスは額を彼女の肩に預けた。
でも、きっと大丈夫。彼女が鬼なら、ウソなんてつかない。
ずっと、ずっと二人で過ごすのも、悪くない。
彼女は無言のまま、そっとアリスの前髪を掻き分け、その肩を抱き寄せ――。
そこで、止まった。
「おーいアリス! いるんだろ!?」
玄関をけたたましくノックする音と、聞き覚えのある声。魔理沙の声だ。
「――お客さん。だね」
「そうね……」
とても残念そうな彼女の様子に、なんだか申し訳ない気分になる。
「開けないと、蹴破られちゃうかもしれないわ」
「ん。分かった」
どちらからとも無く立ち上がり、お互いに温もりを残して離れる。
彼女は奥の寝室に、自分は玄関に。
来客の際はそうすると彼女は言っていたと思う。
彼女は他人の目に触れるのを嫌うし、アリスも彼女を隠し、独り占めしたいと今は思っている。
「あ、やっぱ居たんだな。って、おい。アリス?」
玄関の鍵を開けると、弾かれるように扉が開かれ、見知った顔が現れる。
「騒々しいわよ。何か用?」
「あ、ああ、ちょっとニュースを持ってきてやったんだが、大丈夫か?」
魔理沙の言う事の趣旨が分からず、アリスが首を傾げる。
「何がよ?」
「研究熱心なのは良いと思うが、何か……」
言いよどんで考え込む魔理沙。やつれてるとでも言いたいのだろうか?
「あれ?」
言葉の続きを待っていたアリスを他所に、魔理沙は不思議そうな声をあげた。
「なあ。アリス。誰か居たのか?」
「急にどうしたのよ?」
「だってほら、カップが二つ」
魔理沙の指差す先には、テーブルに並べられた、自分と彼女のカップ。冷めたリコリスのブレンドティーが寂しげに揺れていた。
「別に一人で二つ使ってもいいじゃない」
「いやいや、怪しいぜ。一体何を隠してるんだ?」
何となく苛立ちながら適当に追い払おうとするが、それがかえって好奇心を刺激してしまったようで、魔理沙はずかずかと屋内に足を踏み入れた。
「ちょっ、魔理沙!?」
「私とアリスの仲じゃないか」
「んぶっ」
慌てて制止するアリスの顔に、魔理沙は手に持っていた紙を押し付け、そのまま奥へ、寝室を調べようとする。
「ま、待ちなさい! それ以上は――」
張り付いた紙をひっぺがし、そこでアリスの言葉が途切れる。
でかでかと指名手配と記載されたその紙には、とても良く知った顔が描かれていたからだ。
「え? 何よ。これ……」
生死問わずだとか、賞金の額がどうとか、異変の元凶だとか、小人を騙しただとか、なんだか色々書いてあるが、アリスには書いてある事が性質の悪い冗談としか思えなかった。
アリスの知る彼女は、とても優しくて、甘くて、ここに書かれている天邪鬼という種族のイメージとは、似ても似つかない。
次に浮かんだのは、自分が騙されていた。等と言う事ではなかった。
彼女には記憶が無い。みんな今の彼女の事を知らない。
今の彼女は、こんな手配書とは似ても似つかない。とても良い子で、大切な存在だ。
それを皆に知ってもらえば、きっと大丈夫だ。
そして、それまでは、たとえ過去がこの手配書通りだったとしても、彼女は自分が守らなくてはならない。
アリスがその結論に至るのと、寝室から物音が響いたのは、ほぼ同時だった。
「くっ」
どたどたと大きな足音を立てて、包みを抱えた彼女が玄関を飛び出す。
ほんの少し、名残惜しげな視線を残して。
その視線を受けたアリスは、やはり彼女が自分にかけた言葉は偽りではなかった。と確信し、戦闘態勢を取る。
「待て! ちっ、アリス! あいつは――」
寝室から飛び出してきた魔理沙に、スペルカードを掲げてみせる。
戦操『ドールズウォー』
「アリス!?」
驚愕し硬直する魔理沙に、屋内に所狭しと並んでいた人形達が一斉に襲い掛かる。
「やめろアリス! あいつは指名手配犯なんだぞ!?」
「だから?」
魔理沙の言葉にアリスは冷たい怒りを露わにする。
「え?」
「だから何よ!?」
アリスの返答がよほど予想外だったのか、呆然としたまま、魔理沙は人形達によってもみくちゃにされていった。
何故こんなに苛立っているのか、アリス自身も良く分からない。
魔理沙を縄で縛り上げ、人形達に香霖堂の前まで運ぶよう指示した後、深く嘆息して、座り込む。
がらんとした室内に、彼女の残滓を求め、視線を彷徨わせる。
きっと帰ってきてくれる。そう信じながら、縋るものもなく、膝を抱えた。
降りしきる雨音を聞きながら。
家路の途中、そんな事に気づき、彼女は何となく空を見上げる。
そこには澄み切った青空などではなく、薄い雲がかかった微妙な情景が広がっていた。
それほど大きな感慨がある訳では無いが、何となくがっかりとした気分になる。
「我ながら面倒な拾い物をしたわね」
一人ごち、軽く嘆息するが、その言葉の割りには、困っている様子は感じ取れない。
彼女――アリス・マーガトロイドには存外世話焼きな面がある。
予定に無い来客でもそれなりにもてなしたりするし、森で迷った者を家に泊めるような事も、頻度の高い訳では無いが、厭う様子も無い。
そんな彼女だからか、住処のある迷いの森で、行き倒れていた妖怪を見つけた時も、それほど深い考えがあるわけでもなく連れ帰り、面倒を見てやった。
それが、今の生活の始まりだった。
玄関を開け、商売道具でもある人形達に荷物を運ばせる。
「おかえり」
「ただいま」
掛けられた声に、はにかみながら視線を送ると、そろそろ見慣れた姿が、椅子の上で胡坐をかいてこちらに手を振っていた。
「人形劇の評判はどうだった?」
「上々よ。前よりもずっとね」
「それは良かった」
舞台装置(といっても簡単なものだが)を運び終え、人形達をそれぞれの定位置に戻らせて、アリスも小さく嘆息して、テーブルに着く。
「お疲れ」
「ああ、ありがとう」
差し出されたカップから、アッサムの香りが漂い、アリスの鼻腔をくすぐる。
誘われるように口を付け、程よい温度に整えられた琥珀色の液体で、そっと喉を湿らせた。
「ん。美味しい」
濃い目のミルクティーが疲労を温かくやわらげてくれる。その感覚に、アリスは上機嫌で、同じく用意されていたクッキーをつまんだ。
「随分とご機嫌なようだけど、何か良い事でも?」
「ふふ。まあね」
今日の劇では、観衆の反応はいつもよりはるかに良かった。
予行演習で、目の前の彼女から、忌憚の無い意見を受け、それを反映させた結果であろう。
「最近。そろそろ出て行け。とは言わないんだな」
そっぽを向いて鼻を掻きながら、独り言のように尋ねる彼女に対し、アリスは悪戯っぽい笑みを浮かべて尋ね返す。
「言われたい?」
「言われたら困る」
憮然として答える彼女に対し、ふふっと堪え切れず小さな笑いを漏らした。
「でしょ? だから、もうしばらくは付き合ってあげるわよ」
「……ありがとう」
彼女はいわゆる記憶喪失らしい。らしいというのは、別に医者に見せた訳でもなく、当人の言う事から判断したからなのだが、ともかく、その為に彼女は名前も、行くところもない。
発見した時、随分とボロボロだったので、巫女か何かに軽く退治でもされたのだろう。と思ったが、その関係なのかもしれない。
まあ、妖怪なだけに、体の方はさっさと治癒したのだが、行く所がないのでしばらく居させてくれ。と頼まれた際は、さすがのアリスも難色を示した。
しかし、ずるずると3日、4日と過ぎ、彼女の気遣いの上手さに、気づけばアリスは追い出す気が無くなっていた。
研究に集中しているときは、全く気配すら感じさせないし、そろそろ休もうか。という時には、そっと甘味を差し出してくれる。
今日だって、帰宅する時間など伝えていなかったにも関わらず、的確にアリスの帰宅にあわせ、飲みたいと思っていたものを丁度差し出してくれた。
覚り妖怪か何かのように、的確にして欲しい事として欲しくない事を読み取ってくれる。まあ、覚り妖怪なら、地上になど居ないだろうが。
「後の予定は? お嬢様」
「今日はもう終わりよ」
不意に話しかけられ、思わず素直に答えてから、アリスは少し思案する。
「でもそうね。あなたを医者に連れて行く。なんてどうかしら?」
「勘弁。医者は嫌だ」
冗談めかして尋ねるが彼女はいつもの文句で首を振る。特徴的な跳ねっ毛が少し遅れて揺れた。
「たまには外に出ないとキノコが生えるわよ」
「上海達がしっかり掃除してるから大丈夫さ」
肩を竦めて舌を出してみせる彼女に、アリスも誘いを諦める。
たまにはピクニックなどに誘ってみたりもするが、どうにも彼女は出不精だ。
あまり他人の事を言えたものではないが、アリスも彼女が家事以外で家を出たのを見た覚えがない。
たまに倒れていた時に所持していた手荷物を並べて、眺めている姿が見られるくらいだった。
「まあ、いいけどね」
「ん?」
「何でもないわ」
魔理沙も知らない自分だけの宝物を得たような気がして、このままそっと隠してしまうのも良いか。なんて事を思い、アリスは一人で苦笑した。
それから数日、ちょっとした実験用の材料を求め、アリスは一人外出していた。
目的地は霧の湖。そこに群生する植物が主目的だったが、ついでにパチュリーのところに顔を出しておこうか。等と考えていた。
のんびりと進んでいると、丁度目的地の方から猛スピードで見知った顔がやってきた。
「なんだアリスか。どうした? こんな所で」
「魔理沙。あなたこそ……またパチュリーの所から本を盗んできたの?」
箒にぶら下がっている包みを見て察すると、魔理沙は悪戯坊主の様な笑みを浮かべ、首を振った。
「盗んだんじゃない。死ぬまで借りるだけだぜ」
「似たようなものじゃない。大変ね。パチュリーも」
「ああ、あんな数を管理するんじゃ、手がいくらあっても足りないだろうからな。私がもっと借りてやらないと」
「はぁ。ちゃんと返してやりなさいよ」
「そのうちな。ところでアリス。聞いたか?」
すっとぼけてみせる魔理沙に、アリスはわざとらしく嘆息してみせるが、全く応えた様子もなく、魔理沙は世間話を始める。
「何を?」
どうせくだらない話だろう。と興味なさげなアリスに、魔理沙はふふん。と鼻を鳴らして、内緒話でもするように口元に手を添えた。
「あいつが重い腰をあげるらしいぞ」
「あいつ?」
魔理沙の話が掴めず、アリスは首をかしげるが、彼女は一人で頷きながら話を進める。
「ああ。珍しく本気らしい。上手く行けばレアなお宝が期待出来そうだぜ」
「いや、何の話よ?」
「え? 知らないのか?」
思わず話を遮って尋ねるアリスに、魔理沙は怪訝そうに顔を覗きこんだ。
「ふむ。全く、いつも家に引きこもってるからだな」
「別に篭っては無いわよ。パチュリーじゃあるまいし」
一人で得心する魔理沙の失礼な言葉を訂正するが、彼女はアリスに構う事なく、箒に座りなおした。
「まあ、ならいいぜ。どうせならライバルは少ない方がいい」
「だから何の話――」
「じゃあな!」
呼び止める暇も無く、片手を挙げ飛び去った魔理沙。彼女が残した星の軌跡を眺め、アリスは深く嘆息する。
「全く、子供みたいね」
話の内容はさっぱり分からなかったが、何か魔理沙が喜ぶような事でもあったのだろう。
アリス自身も蒐集家ではある為、レアなお宝というものに興味が無い訳ではない。
だから、やはりパチュリーにでもその噂について聞いてみよう。どうせ魔理沙の事だから、あちこちで噂話をしているのは目に見えているし。
等と考えながら、目的の実験材料を採取に向かった。
「ただいま」
帰宅したアリスの髪に、ふんわりとタオルが掛けられる。
「おかえり」
暖かく迎えてくれる彼女に、アリスは少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「ありがと」
「どういたしまして」
彼女は気にした風も無く、炊事場に向かう。おそらくはいつものように温かい飲み物を入れてくれるのだろう。
「霧の湖を飛ぶとやっぱり冷えるわね」
霧に濡れた髪を拭き、十分に水気を切ってから、着替えを始める。
「思ったより濡れてきたみたいだけど」
「チルノよ。氷の妖精の。他の妖精と弾幕ごっこしてたみたいだけど、流れ弾がね」
「あ~あ。まあ、怪我が無くてなにより」
本当に不運だった。流れ弾を回避したと思ったら、湖に居た妖怪に当たったらしく、その妖怪が仕返しにと巻き起こした大波を頭から被ってしまったのだから。
「チルノも悪い子じゃないんだけどね。やっぱり妖精だから」
「頭が悪い。と」
「有り体に言えばね」
大波に巻き込まれたアリスを、チルノが心配して駆け寄ってきてくれたお陰で、余計に体が冷えてしまった。
もう少し自分の特性とかを鑑みて行動して欲しいものだ。
「お待たせ」
「ありがとう。着替えたら頂くわ」
テーブルに差し出されたティーカップから、ほのかに漂うジンジャーの香りに、アリスは少しだけにやけた笑みを浮かべながら、急いで着替えを終える。
彼女は本当に気が効く。冷えた体を温めるジンジャーは、アリスが望むベストチョイスだ。
「ああ。結局パチュリーの所に顔を出せなかったわ」
「ずぶ濡れで尋ねるわけにもいかないし、仕方ないんじゃないか」
「ん。そうね。まあ、ちょっと気になる噂もあるし、明日改めて行って来ようと思う」
アリスがちろりと舐めるように少しだけジンジャーティーに口を付け、上目遣いに様子を窺うと、彼女は微笑みながら小首をかしげた。
「ふぅん。気になる噂って?」
「魔理沙が変な事を言ってたのよね。あいつが重い腰をどうのとか、レアなお宝がどうのとか」
「まるでトレジャーハンティングみたい」
「全くね。まあ、具体的に何も分からないから、何か聞いてないかと思って」
「直接魔理沙から聞いたらダメなのか?」
「それはイヤ」
素直に話を聞きに行けば、おそらく上機嫌で聞いても無い事まで教えてくれるだろうとアリスも思う。
とは言え、ライバルとまでは言わないが、同業者である以上、お互いに張り合いのようなものはある。
まあ、その点で言えばパチュリーも同じくなのだが、なんと言うか、パチュリーと魔理沙では、アリスとしては張り合う部分が違うので、別問題だ。
「意地っ張りなお嬢様だ」
「まあ、魔女の嗜みよ」
肩をすくめる彼女に、アリスは適当に返し、気づけば空になっていたカップを弄ぶ。
「ねえ」
手の中から喪われていく温もりに、一抹の寂しさを感じ、何となく彼女に呼びかける。
「ん?」
けれど、一体何を問えば良いのか分からず、呼びかけは宙に浮いて溶けてしまう。
「どうかした?」
ぱちくりと瞬きする彼女に、はたと我に返ったアリスは曖昧な笑みを浮かべ、誤魔化すように口を開いた。
「やっぱり、何か呼び名を決めない?」
何度も繰り返した話だ。いつも結局、決定は先送りになり、アリスは彼女の事を呼ぶのに、難儀することになる。
「別に良いじゃない。二人だけなんだから」
「でもほら、客人が来た時とか、困るでしょ?」
「その時は私が席を外すよ」
「もう。社交性が低いんだから」
「私はアリスだけでいいからさ」
「――っ」
少し、ドキっとした。
正直に言えば、とても気が利いて、他人への気遣いが出来るはずの彼女を、他の者に見せびらかしたい気持ちと、隠しておきたい気持ち。そのどちらもあり、本音を言えば後者の方が強い。何故なら、彼女の記憶が無い今だから、きっと独り占め出来ているのだろうから。
「そういう言い方はずるいわよ」
「ふふ。褒め言葉にしか聞こえないな」
だって、こんなにも魅力的な彼女だから、本当はたくさんの友人が居るのだろう。そして、記憶を取り戻したら、きっとそちらに帰ってしまうのだろうから。
「ああ、魔理沙の話ね」
翌日、予定通りパチュリーの元を訪問すると、相変わらずの億劫そうな態度ではあったが、普通に応対された。
「私は興味無いけど、レミィが結構興味を持ってたわ。長引いたら乗り出すかもしれないわね」
本から目を逸らさずにという、客をもてなす態度としては失礼極まりない態度だが、そもそも全く気が乗らなければ出ても来ない事を考えると、パチュリーとしてはまともな対応なのかもしれない。
「結局、何の話なのかしら?」
「異変よ」
小悪魔が淹れてくれた紅茶を片手に嘆息するアリスに、パチュリーは最小限の単語で応えた。
「つい先日も異変があったばかりなのに?」
「ええ、厳密には、その異変が解決してないのよ」
「付喪神化は収まり、小槌の魔力は回収されているんでしょう?」
「私よりあなたの方が世間情勢には敏感かと思っていたけど」
笑いを噛み殺した様子のパチュリーに、アリスが少しムッとする。
とは言え、それもあながち無理からぬ事だろう。アリスよりもパチュリーの方が、遥かに外出する率は低い。
彼女が世間一般の噂を知るには、招かれざる客である魔理沙か、咲夜辺りを介さないと、ほぼ不可能と言っても良いはずだ。
「原因である小人を騙した天邪鬼。それが今も逃亡中なのよ」
「小物一匹に大捕り物ってわけね」
「そういう事よ」
ふぅん。と相槌を打ちながら、少しぬるくなった紅茶で喉を潤す。
いつもなら、異変の後は宴会でもして適当に打ち解けて終わるのに、件の天邪鬼とやらは随分と反骨心に溢れているらしい。
「そういえば、あの異変の時、魔理沙は八卦炉がどうのと言ってたわね」
「ふん、きちんと管理してなかったからでしょう」
「まあ、それは確かに」
付喪神化して、勝手に動き出すのは、アリスが目指す完全な自立した人形を作るという目的にとっては弊害となる。
だから、自宅にも持ち出す人形にも、内外の魔力干渉を遮る処理をしているし、おそらくこの日陰の少女も同じくなのだろう。
「でも、ここの図書館の本が一斉に付喪神化して飛びまわる光景は少し見てみたいわね」
「そうなったら小悪魔を10は用意しないといけないわね」
「それで足りるの?」
「無理でしょうね」
からかうように尋ねるアリスに、パチュリーはにべも無く答え、本を閉じる。
「そろそろ一休みしてくるわ。どの道興味ないもの」
「ん。もうそんな時間? 邪魔したわね」
「構わないわ。あなたは分別が付いている方だもの」
「ふふ。ありがとう。それじゃ」
控えていた小悪魔に導かれるようにして、時が錆付いたような図書館を後にする。
廊下では掃除中らしきメイド妖精が、バケツを片手にあちこち飛びまわっている。
「まあ、関係な――きゃっ」
おとがいに指を当て、先ほどの話を思い返して、何となく一人ごちるアリスに、頭上を通過していたメイド妖精が手を滑らせ、バケツの水をぶちまけた。
「おかえり」
「ただいまよ」
昨日と同じように、ふんわりとタオルをかけられながら、アリスはげんなりとした様子で着替え始めた。
「随分とひどい有様だけど」
「メイド妖精に水をひっかけられたのよ」
「まあ、不運が続くこともあるさ」
「もう、他人事だと思――くしゅっ」
ぼやきの途中でアリスが可愛らしいクシャミを発すると、彼女は心配そうにその顔を覗きこんだ。
「風邪か? 濡れて帰って来るから」
「昨日今日と続けてだし、可能性は否定できないわね」
小悪魔が着替えを勧めてくれたのに対し、どうせ霧の湖を突っ切れば濡れ鼠になるからと断ったが、失敗だったかもしれない。
アリスがそんな事をぼんやり考えていると、気づけば彼女の顔がすぐ目の前にあった。
「少し、熱っぽいかな」
額同士をくっつけて体温を測られている事に気づき、アリスの頬が紅潮する。
「顔も赤い。今日はもう寝た方が良い」
「こ、これはちょっと違くて」
慌てるアリスを気にした様子もなく、彼女はごく自然体で離れ、アリスの肩に寝巻きを羽織らせる。
「無理は良く無い。昨日も遅くまで研究していただろう。体は資本だ」
「むぅ……」
なんだか一方的にドキドキさせられたようで、不公平に感じ、アリスが不満げに唇を尖らせる。
「どうかしたか?」
「……別に」
いつもは気が利く彼女なのに、今日は何故こんなにも鈍感なのだろう。
いや、別に関係を進展させたいとか、そういう訳でもないのだけれど。
そんな事を考えながら着替え終え、ベッドまで歩く。
飛んでいる間は気づかなかったが、少し体がだるい。本当に風邪を引いたかもしれない。
「大丈夫?」
「……お茶が飲みたい」
「用意しておくよ」
「ん」
短いやり取りを終え、ベッドに潜りこむ。
体調不良のせいか、すぐにアリスの意識は睡魔に呑まれていった。
ふわふわとした意識の中で、机に向かって一人で裁縫をしている自分を後ろから眺めながら、ああ、これは夢を見ているんだな。とアリスは思った。
「よし。出来た」
手作りの小さなエプロンドレスは完璧な仕上がりだ。
「おいで。上海」
衣類ダンスに腰掛けていた上海人形が、呼び声に応えるように立ち上がり、目の前の自分の所へと駆け寄る。
「うん。似合ってる。さすが私」
仕上がった人形の服を上海に着せて、満足げに微笑んでいる自分の姿を見て、何故だか不意に悲しくなった。
目の前に居る自分は、現状に何も不満を感じていないし、むしろ充実感すら得ているはずだ。
だからきっと、今の自分が感じているこれは、怖れのようなものなのだろう。
この上海と二人だけだった自分では、想う事が無い気持ち。
手の中にあるぬくもりを失くしたくないという気持ち。
心ある生き物が一番怖れるのは、喪失なのだろう。
生命を、財産を、能力を、愛情を。
実家を離れた時は、置いてくる側だった。だから、分からなかったのかもしれない。
置いていかれるかもしれない。というのは、こんなにも怖いものだったのか。
「ん……」
日が落ち、月明かりに照らされた室内に、ぼんやりとした頭で視線をめぐらせて、アリスはようやく思い出す。
「はぁ……」
どうやら、本当に風邪を引いてしまったらしい。体はだるく、思考はぼやけたままだ。
寝汗の気持ち悪さから、小さく身じろぎして、右手を包む温かさに気づく。
「あ……」
視線を向けると、彼女がアリスの手を握ったまま、ベッドに突っ伏して眠っていた。
全く、自分には体は資本だ。とか言っておきながら。と内心で苦笑しながら、彼女の小さな角を眺める。
やはり鬼の一種なのだろうか? それほど強い妖怪とも思えないけれど。
まあ、乱暴でがさつなあいつらとは別種であった方が嬉しいとは思う。
等とぼんやり考えていると、彼女が小さく身じろぎして、瞼を開いた。
「……ぁ」
無言で見つめていたのがバレた居心地の悪さから、何か言おうとしかけ、結局言葉が浮かばずに、吐息が夜に溶ける。
中空で絡んだ視線を外せず、吸い込まれるように彼女の赤い瞳を見つめていると、彼女は何かを思い出したかのように微笑んだ。
「体調はどう?」
「……ダメね」
「お茶、淹れなおしてこようか?」
「今はいい」
短く答え、そのまましばらく彼女を見つめる。
繋いだ手をほんの少し強く握り、熱に流されるままに、言葉をつむいだ。
「なんだか、嫌な夢を見たの」
「奇遇だね。私もだよ」
「何故か、寂しくて」
夢の内容は思い出せない。ただ、何故だかとても胸が苦しかった気がする。
「いる?」
「いるよ」
「……いる?」
「ここにいるよ」
手のひらに感じる体温も、言葉も、どこか遠くにあるような気がして、何故か悲しかった。
「隣にいるよ」
「ずっと居てね」
「ずっと居るよ」
「ウソじゃない?」
「鬼は、ウソを嫌うものだろう?」
「……そうよね」
「大丈夫さ。私は絶対にアリスの味方だよ」
そんな暖かな言葉がどこか遠く感じる。
「ありがとう……ね」
けれど、まとまらない思考はそれに縋るしかなくて、アリスの意識は再び夢に沈んでいった。
熱は三日三晩収まらず、永遠亭へ診察を受けに行くかと真剣に悩んだ翌朝、四日目の朝に、ようやく落ち着く兆しを示し始めた。
「治りかけだからな。養生しておけ」
そんな彼女の言葉に甘え、ベッドの上でゆったりと本を読んで過ごす。
初日はともかく、その後の彼女の看病は甲斐甲斐しいというほどではなく、むしろ最小限と言えたが、それでも何か欲しいものを告げると取って来てくれるし、不自由らしい不自由は感じない。
本から視線を上げ、ちらりと彼女の様子を探ると、リビングの窓から、どこか退屈そうに外を眺めていた。
ある程度回復してくると、一日ベッドにいるというのも退屈なもので、そんな事を何度も繰り返している。
寝込んでいると気が弱るとは言え、随分と恥ずかしい事を言ったのを思い出し、どうにも落ち着かない。
「ねえ」
「ん?」
何となく呼びかけてしまい、視線が重なるが、やはり羞恥が先に立つ。
「何か話してくれる?」
退屈を紛らわす振りで誤魔化そうとして、アリスは自分の失言に気づく。
何か、と言っても、彼女はアリスが拾う以前の記憶はなく、その後は家の中でしか過ごしていない。
そんな彼女に話題を求めるのは、酷というものだろう。
「んー……完全な自立って何だろうな?」
「私の研究の事?」
「いや、単純に、言葉通りにだよ。自立、自由、独立。誰かの影響を受けないものなんてあるのかな」
抽象的で、答えの出そうに無い問いに、アリスは苦笑を返す。
「随分と哲学的ね」
「かもしれない」
「誰の影響も受けないには、誰とも触れ合わないのが一番確実よね」
「それはそうだろうけど」
「エネルギーを得る為には食事をしなければならない。食事をするには、植物なり動物なりを犠牲にしなければならない。で、あるならば、行動そのものが一人で行うものであっても、行動のエネルギー源である他者の犠牲が無ければそもそも行動出来ない」
アリスはすらすらと歌うように語り、再び苦笑を浮かべる。
「そこまで関連付けるのは既に屁理屈か哲学よ」
生物である限り、その連鎖から逸脱する事は不可能だろう。
強いて例外があるとするならば、不死となった竹林の住人くらいか。
とはいえ、必要性があるのかはともかくとして、彼女達も飲み食いをしているのを見たし、食事を全く必要としない例外は、今の所記憶にない。
「影響を受けるのも、与えるのも、仕方の無い事なんじゃないかしらね」
「そんなものかな」
「そんなものよ」
少なくとも、自分も彼女と過ごし、影響を受けてしまっているのは、安易に想像出来るのだから。
熱も下がり、平時と変わらぬ生活を送り始めて数週間が経った頃。
微細な、それでいて、致命的な変化に、アリスは気づいていた。
初めは体調不良から復帰したせいだと思っていた。
けれど違う。確実に別の原因がある。
「調子悪そうだな。今日は休むか?」
「ありがとう。でも、もう少しだけ……」
「さっきから全く手が進んでいないじゃないか。無理をするな。スランプは誰にでもある。焦らずゆっくり進めればいいよ」
「……そうね。ありがとう」
アリスが頷くと、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべて手を取った。
「今日のおやつはリンゴにしよう。たまには新鮮なままで食べるのも良い」
リンゴを剥いている間も、食べる時も、彼女は傍に居て、ただ微笑んでいるだけだ。
特別甘えてくる訳でもないし、何かを強制してくるわけでもない。
ただ、のんびりと二人で時間を過ごすだけ。
それが、気づけば一日の大半を占めていた。
彼女から声をかけてくるのは、研究が行き詰った時。
それは、熱を出す前と同じ。
だけれど、研究が行き詰るタイミングが、どうも早い。
1時間もすれば、すぐに行き詰まってしまい、彼女の誘いのままに、そのまま1日を過ごしてしまう。
違和感に気づけたのは、病み上がりから一週間ほどの頃だった。研究ノートを読み返して、病後からの記録の進まなさに愕然とした。
けれど、気づけても、アリスにはどうにも出来なかった。
彼女は何も強制しない。何も否定しない。何も怒らない。
ただ受け入れ、許し、励ましてくれる。
耐え難い誘惑だった。
あらゆる努力を要求せず、ただ肯定してくれる彼女との時間はとても心地よく、野心や努力と言うものをゆるゆると溶かしていく。
あまりにも甘美な日常に、このまま堕落してはいけないと思っても、彼女を突き放すなんて選択肢は、アリスの頭には浮かばなかった。
彼女という麻薬を抱えたままでも、自身が自制をすれば良い。それで良い筈だ。と自分に言い聞かせたつもりで、自分を誤魔化してしまった。
中毒や依存症になった者が、目の前にそれをぶら下げられて、耐えられる訳など無かったのに。
気づいていても変えられず、変えられない現状に苛立ちを覚え、その苛立ちを解消する為に彼女に甘え、そして自制から遠ざかる。そんな負のループに陥っていた。
「ちょっと疲れているんだよ。気にする事は無い」
もたれかかるように寄り添うアリスの頭を、彼女は優しく撫で、微笑を浮かべる。
「そうかも……しれないわね」
母親と添い寝する少女のように安堵し、耳朶に響く雨音に弛緩しながら、アリスは室内に視線を彷徨わせる。
暗い。そういえば、雨戸を開けていない。けれど、外は雨だし面倒だ。でも、前に開けたのはいつだったか。
前に外に出たのはいつだったか。研究でこもりきりになる事はあったし、誰も気にしてないだろうけれど。
魔理沙やパチュリーとも顔を合わせていない。霊夢は相変わらず神社でごろごろしているのだろうか。
でも、あまり顔を合わせたくない。
だって、今の私は――。
「大丈夫だよ。アリスはとてもステキな人だ。私が保障する」
アリスの思考を遮るように、彼女が優しい言葉をかける。
それは自分に不安を抱いていたアリスには、とても心地よく響き、染み渡る。
「……ありがとう」
「ずっと私はこうしていたいよ。二人でね」
「……私もよ」
彼女から囁かれる甘い言葉は、毒。それも猛毒だ。
悪魔の誘惑。
ただひたすらに堕落させ、虜にする。
アリスもそこそこ以上の魔女。普通なら堕ちなかっただろう。
けれど、この悪魔は狡猾で、迂遠だった。
彼女は何も要求しない。強制しない。
飴と鞭ではなく。ただひたすらに飴を与え続ける。
そして、アリス自身、それが飴であると気づかぬうちに受け取り続けていた。
もう逃げられない。そんな諦念が沸き、アリスは額を彼女の肩に預けた。
でも、きっと大丈夫。彼女が鬼なら、ウソなんてつかない。
ずっと、ずっと二人で過ごすのも、悪くない。
彼女は無言のまま、そっとアリスの前髪を掻き分け、その肩を抱き寄せ――。
そこで、止まった。
「おーいアリス! いるんだろ!?」
玄関をけたたましくノックする音と、聞き覚えのある声。魔理沙の声だ。
「――お客さん。だね」
「そうね……」
とても残念そうな彼女の様子に、なんだか申し訳ない気分になる。
「開けないと、蹴破られちゃうかもしれないわ」
「ん。分かった」
どちらからとも無く立ち上がり、お互いに温もりを残して離れる。
彼女は奥の寝室に、自分は玄関に。
来客の際はそうすると彼女は言っていたと思う。
彼女は他人の目に触れるのを嫌うし、アリスも彼女を隠し、独り占めしたいと今は思っている。
「あ、やっぱ居たんだな。って、おい。アリス?」
玄関の鍵を開けると、弾かれるように扉が開かれ、見知った顔が現れる。
「騒々しいわよ。何か用?」
「あ、ああ、ちょっとニュースを持ってきてやったんだが、大丈夫か?」
魔理沙の言う事の趣旨が分からず、アリスが首を傾げる。
「何がよ?」
「研究熱心なのは良いと思うが、何か……」
言いよどんで考え込む魔理沙。やつれてるとでも言いたいのだろうか?
「あれ?」
言葉の続きを待っていたアリスを他所に、魔理沙は不思議そうな声をあげた。
「なあ。アリス。誰か居たのか?」
「急にどうしたのよ?」
「だってほら、カップが二つ」
魔理沙の指差す先には、テーブルに並べられた、自分と彼女のカップ。冷めたリコリスのブレンドティーが寂しげに揺れていた。
「別に一人で二つ使ってもいいじゃない」
「いやいや、怪しいぜ。一体何を隠してるんだ?」
何となく苛立ちながら適当に追い払おうとするが、それがかえって好奇心を刺激してしまったようで、魔理沙はずかずかと屋内に足を踏み入れた。
「ちょっ、魔理沙!?」
「私とアリスの仲じゃないか」
「んぶっ」
慌てて制止するアリスの顔に、魔理沙は手に持っていた紙を押し付け、そのまま奥へ、寝室を調べようとする。
「ま、待ちなさい! それ以上は――」
張り付いた紙をひっぺがし、そこでアリスの言葉が途切れる。
でかでかと指名手配と記載されたその紙には、とても良く知った顔が描かれていたからだ。
「え? 何よ。これ……」
生死問わずだとか、賞金の額がどうとか、異変の元凶だとか、小人を騙しただとか、なんだか色々書いてあるが、アリスには書いてある事が性質の悪い冗談としか思えなかった。
アリスの知る彼女は、とても優しくて、甘くて、ここに書かれている天邪鬼という種族のイメージとは、似ても似つかない。
次に浮かんだのは、自分が騙されていた。等と言う事ではなかった。
彼女には記憶が無い。みんな今の彼女の事を知らない。
今の彼女は、こんな手配書とは似ても似つかない。とても良い子で、大切な存在だ。
それを皆に知ってもらえば、きっと大丈夫だ。
そして、それまでは、たとえ過去がこの手配書通りだったとしても、彼女は自分が守らなくてはならない。
アリスがその結論に至るのと、寝室から物音が響いたのは、ほぼ同時だった。
「くっ」
どたどたと大きな足音を立てて、包みを抱えた彼女が玄関を飛び出す。
ほんの少し、名残惜しげな視線を残して。
その視線を受けたアリスは、やはり彼女が自分にかけた言葉は偽りではなかった。と確信し、戦闘態勢を取る。
「待て! ちっ、アリス! あいつは――」
寝室から飛び出してきた魔理沙に、スペルカードを掲げてみせる。
戦操『ドールズウォー』
「アリス!?」
驚愕し硬直する魔理沙に、屋内に所狭しと並んでいた人形達が一斉に襲い掛かる。
「やめろアリス! あいつは指名手配犯なんだぞ!?」
「だから?」
魔理沙の言葉にアリスは冷たい怒りを露わにする。
「え?」
「だから何よ!?」
アリスの返答がよほど予想外だったのか、呆然としたまま、魔理沙は人形達によってもみくちゃにされていった。
何故こんなに苛立っているのか、アリス自身も良く分からない。
魔理沙を縄で縛り上げ、人形達に香霖堂の前まで運ぶよう指示した後、深く嘆息して、座り込む。
がらんとした室内に、彼女の残滓を求め、視線を彷徨わせる。
きっと帰ってきてくれる。そう信じながら、縋るものもなく、膝を抱えた。
降りしきる雨音を聞きながら。
あと正邪の手口はまるっきりヒモですわw
ひとつの方法だし悪くないと思うけど
アリスにはもうちょっと頑張ってほしかったけど、それが正邪の手口なのさと言われれば何とも言えません。