彼女が結婚した、という風の便りを聴いたのは、もう数年も前のことだ。
実家の魔法店を継いだらしい。お見合い結婚だったそうだ。それ以上の彼女についての一切を、私は知らない。
風の便りを私が耳にする前の話。まだ、彼女が魔法使いをやっていたころの話。
私と彼女はそれなりに仲が良い関係だと、私は思っていた。同じ森に家を構えている魔法使い同士としてそれなりの交流もあった。
だけど彼女は厄介者でもあったから、彼女と面識の無かった頃には全く巻き込まれないような様々な面倒を持ち込まれたことも、確かだった。
その手紙が届いたのは、本当に突然のこと。私の元に差し出された1通の手紙。それは一昨日まで一緒に紅茶を飲んでいた彼女からだった。
「魔法使いをやめることにした。今までありがとう」
手紙にはたったそれだけが綴られていた。
私は またか……と。そう思ったのを覚えている。以前から彼女にはこういうきらいがあって、挫折したり傷ついた時には家を飛び出してどこかへ行ってしまうことがあった。彼女はあくまで、職業・魔法使いだ。人の身で成すのにはあまりにも無謀と思えるような、終わりの見えない道に細い二本の脚で立っている。志半ばで折れてしまいそうになったとき、そうやって逃げ出してしまうようなことが何度もあった、というようなことを私は彼女から聴いていた。
けれど、私は彼女のそういうところが好きだった。むしろそうやって逃げ出して、くじけそうになっても、何度も立ちあがって前向く彼女を同じ魔法使いとして尊敬すべきところだと私は感じていたから。
どうせ、すぐに戻ってくるだろうと。
この手紙を受け取った時、私はそう思った。……彼女の全てでも知った気になっていたのかもしれない。
食器棚に置かれている彼女がいつも使っていたティーカップを見つめながら私は紅茶を入れ直して、手紙を戸棚へと仕舞った。
私が彼女から受け取った手紙は全部で二通ある。
……というのも、ずっと以前にも彼女は私に手紙を置いて行ったことがあったから。
あの時も同じように。
なんの前触れもなく、彼女は私に手紙を残して行った。そこにはたった一文だけで同じように魔法使いをやめる、とだけ書いてあって。
いつも誰にも弱音を吐かない彼女がそんな手紙を残していくことがとても不安だった。もしかしたら魔法使いをやめるどころか、命すら投げ出してしまうんじゃないか……、なんてどんどん悪い方へと考え出したらキリもなく。気付けば私は彼女を探す為に家を飛び出して、幻想郷中を駆け廻っていた。
数時間して。私がやっとの思いで見つけ出した彼女は、湖に写る自分の姿を見つめて座り込んでいた。悪い方へ物事を考えていたせいか、思っていたよりは幾ばくか元気な印象を持ったけれど。……それでも私の知っている彼女の見る影は無かった。憔悴しているのが一目でわかる。
優しく声をかけると彼女は弱々しい声で返事を返した。そこから何とか説得して、私の家に彼女を連れて行って。
家に着いてすぐに温かい紅茶とお菓子を並べ、向かい合わせに彼女を座らせる。そしてその顔を見つめながら私は、自分の思いの丈をぶつけた。
貴女との関係が、こんな手紙一枚で終わるようなものだなんて私は思っていなかった、ということ。
私に心配をかけさせるような手紙を残してどこかへ行ってしまうな、ということ。
何か辛い事があって、私に話せることがあるならいつでも相談しなさい、ということ。
私で良ければ、いつだって貴女の力になる、ということ。
……私はあなたの友人である、ということを。
今思い返しても歯の浮くような台詞だったと、我ながらに思ってしまう。
けれど、彼女はそれを聴いてポロポロと泣いてくれた。そして、今まで彼女の抱えていた辛さや苦しみをぽつりぽつりと語りだしてくれた。
思ったように魔法が上手く行かないこと。彼女が人間であるからこその時間の有限への焦り……。彼女がずっと押し殺してきた感情の様々を、私はただ頷いて聴いていた。
その時の彼女の涙や表情が、ずっと忘れられない。今まで私はそんな彼女の姿を見たことがなかったから。色んな葛藤に押しつぶされそうになっていた彼女の話を、その小さな手を握って、私はただただ聴いていた。
それから彼女がいつもの魔法使いに戻るまでに、そう時間はかからなかった。
私の家の戸を叩いて押しかけてくる彼女。その笑顔を見て私は心配なんてかけなくても良かったかも……、なんて思いが半分と。彼女が戻ってきてくれて嬉しい気持ちで半分だった。
だからあの手紙を。彼女から2通目の手紙を受け取った時に。……私の中には良く分からない自信みたいなものがあって。
本当に辛くなったり、何かに押し潰されそうな時には、きっと私を頼ってくれると思っていたのだ。そうでないなら、自分できっと立ち直って、また私の家にやってくるのだろうと。だから私はここで、彼女がいつどんな顔でやってきても良いように、待っていようと。
だから私はこの家でずっと彼女を待ちながら、別段変わることのない生活を送っていた。
今でも、私は度々彼女の家に行く。彼女が魔法使いだったときの、森に建っている生家。彼女が魔法使いをやめてしまう前までは一度も訪れたことは無かった。
もう人の住んでる気配なんてまるで無い、廃墟みたいなところだ。外観は蔦が生い茂っていて、森の一部みたいになってしまっている。
玄関の扉を開けると、中はとても綺麗なままだ。私の魔法で内側まで草木が浸食しないようにしてある。だから彼女がここから出て行って、私に手紙を届けたあの時から何も変わっていない。
魔法使いだったときの彼女の物が、この家には全て残されている。本も、服も、途中だったであろう魔法の研究も、全てが残されたままだ。私は時々ここへきて、溜まった埃を綺麗に掃除したりしている。
初めてここに来たのは、2通目の手紙が届いた数か月後のことだった。
何時まで経っても姿を見せない彼女に、嫌な予感を隠しきれなかった。ずっと待っているつもりだったけれど、痺れを切らした私はついにこの家へと足を運んだのだ。そうしてやっと、知ることになる。
私がずっと待っていた魔法使いは、もうどこにも居ないということを。
……それからそう時間が経たない内に、私の元へあの風の便りがやってきて。
だけど私には、彼女の結婚を素直に喜ぶことなんて出来なかった。
私の元に3通目の手紙は。結婚式の招待状は届いていなかったから……。
掃除をし終ると、私は決まってこの家で一番立派な椅子に座る。きっと、彼女はここにいつも座っていたんだろう。そこで私は夢を見る。
……彼女が私の家にやってくる夢。……彼女の家で私と2人笑い合っている夢。
あるいは、雪が降り続く春の来ないあの4月のこと。彼女の箒に跨って飛んだ、あの夜のことを思い出すように……。
「……ここは、私とそっくりね」
目が覚めて一人。そうごちた。
……私の知っている、つもりになっていた、彼女の物が全て置いてあるこの家に足りないものは他ならぬ彼女自身だ。そして彼女だけをぽっかり無くしてしまったのは、私も同じだった。
だけど、私の心に積もった埃は……きっと、彼女の箒でしか払うことは出来ない。
最後に彼女に会った日。手紙の届く2日前。
何を話したのかさえ覚えていないほど、いつもと変わらないような同じ話をして、いつもと同じように別れた。
こうなると知っていれば、もっと伝えたいことはあった。話したいこともあった。……そう思うのは、彼女を無くしてからだった。
今すぐに家を飛び出して彼女に会いに行くことが出来ない訳じゃない。彼女はきっと今、私の知らない場所で私の知らない人達に囲まれて暮らしている。だけど、私がそこへ行くことは彼女の望むところでは無いのだろう。3通目の手紙が届かなかったのは、きっとそういうことだから。
だから少なくとも私から、彼女に会いに行くことなんて……もう出来やしないのだ。
何かを失くしたって、別に死ぬわけじゃない。……そんなのは、おとぎ話の中だけだ。私の生活だって、彼女以外の全てが変わることは無い。私の目指す夢だって、変わらない。
けれど、私は待っているのだ。……待たずにはいられないのだ。
食器棚にはもう置いてない彼女のティーカップだって、私はずっと捨てられないまま残してある。彼女から届いた二枚の手紙も失くさないように大事に残している。彼女の家だって、彼女がいつ帰ってきてもいいように、なんて心の何処かで思いながらしなくてもいい掃除をしてしまう。きっとこれらを変えることだって、私には……出来ない。
何時の日か。あの戸が叩かれる瞬間を、私は待っている。
私の中の彼女はずっと、魔法使いをやめられないままだ。
一通目の手紙のときのアリスは魔理沙にとってどうだったのでしょうか
あれがあったからこそ一通目のときは立ち直れたのか、
あれがあったから二通目のときは立ち直れなかったのか
あとがきの手紙の時点でアリスは立ち直れたのでしょうか。