Coolier - 新生・東方創想話

出世話 ~天狗社会も楽じゃない~

2015/04/20 23:23:01
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ストーリー

妖怪の山から鬼が居なくなってから数年、文は見送った勇儀のことが忘れられなかった。
自分の相手をしてくれる勇儀がもう、ここには居ない。
成長した文を捕まえられる……文が全力で遊んでも相手になる……者はもうこの山には居ないのだ。
既に同世代どころではなく、大天狗でも手を焼く有様である。
完全に文は天狗社会から厄介者にされてしまった。
天狗の輪にも入れず、鬼にも置いて行かれて、一人で浮いてしまった。
それでも、文はがんばっていた。心のどこかで勇儀に付いていきたい気持ちもあったが……勇儀に「妖怪の山に残るがいい」と言われてしまった。
……一人でも平気だ、例え誰も付いてきてくれなくても……
もう、寂しくても涙が出ないほど成長してしまった。既に鬼に旅立たれた最初の1年で泣き切ってしまったのである。
当時の文は寺子屋なんてものはとっくの昔に卒業し、天狗の一員として社会に入っている。しかし、文の同世代はまだ寺子屋で勉強中である。
本来なら一緒の職場で頑張るはずの同期ははるかに年上……加えて幼少時の悪行が先走りしたせいで敬遠されっぱなしである。
気の許せる仲間なんて烏天狗の中に居ない。そして、与えられた役職が最悪だった。
表向きは次郎坊付第十位付き人……しかし、第七から第九までは居ない。事実上の空役職……飼い殺しである。
文は暇な一日中何をするでもなく、ただ時間を潰すしかなかった。
文は机で腐っているほど内向的ではない。河童の集落や当時は緩々だった規則を無視して山を下っての冒険に暇な時間を使っていた。
おかげで天狗同士の知り合いよりも、天狗外の知り合いが増えた。
九尾に神隠し、ひまわりの怪物、二刀流の達人……すさまじい勢いでとんでもない連中と係わり合いを作っていた。
外の連中との掛け合いが楽しくて、禁則事項の外泊ですらとんでもない量である。
文を止めようとしても、他の天狗では後を追いかけることが出来ないレベルだ。
そして、今日も……

「あ~、暇で暇で死にそうです。何か面白いことが無いでしょうか?」
「ふっ、くくくく、面白いことなら今起こっているじゃない?
 エリーは今日も出し抜かれたって事か……」
「そうです。代わり映えの無い日常なのです」
「門番も出来ないようなら、徹底的にボコって反省させる……
 私はおちおち寝てもいられないわ」
「睡眠とか、お仕置きとか、どうでもいいです。……それで、不法侵入者にどんな罰則を与えるつもりでしょうか?」
「ふふふふ、覚悟があるんだ? ローストチキン? 北京ダック? 剥製なんていうのもいいんじゃない?」
「あ~全部お断りします。私は鶏でもアヒルでも絶滅危惧種でも無いので……」
「ふふふふ、遠慮はしないで……私に喧嘩を売る奴なんて絶滅危惧種でしょ?――――」

会話の途中で不意を付くように幽香がいきなり手を伸ばす、それを目で見て余裕を持ってかわす。
さあ、楽しい鬼ごっこの時間だ。子供の頃色々遊んでもらって、真実、痛い目にはあったが、本当の怖い目には合わされた覚えが無い。
ちゃんとこっちが反省したら、それ以上の手を上げてくることは無かった。
そういう人だ。但し、捕まったらあざの5~6個は覚悟しないといけない。
何しろ、こちらから遊び半分で不法侵入した。痣ができて本当に反省するまでは許してもらえないだろう。
だから、真剣によける。相手の視界からは消えたりしないが、それでも全力で回避を行う。
この人は凄い。目でも付いてきてくれる人は天狗でも一握りだ。それが目だけじゃなくて全身で出来る。
嬉しいし楽しい、夢中になれる。こんな時間は天狗同士では味わえない。
ふと、幽香が追跡をやめた。しかし、口角がおかしい、つりあがっている。
文は気配を探った。きっと分身の術だ。天狗とは原理が異なるが……大気の動きで気配を探る。
ああ、やっぱり自分の後ろから気配がする。わずかに音をたてながら接近してくる影がある。
文は背中がぞくぞくするのを感じながら、それでもなお振り向くことはしない。
後ろを見ないでタイミングを読み、ギリギリでかわすのだ。とてもスリリングで興奮している自分が分かる。
目で見てかわせる自分からしたら、視覚外からの不意打ちは大歓迎だ。

「ふふふ、どうしたの? 逃げないの?」
「そういう幽香さんこそ、追いついてくださいよ。手を叩いたほうがいいですか?
 『鬼さんこちら』と」
「く、くっくくくく。気遣いは無用よ」
「ええ、そうでしょう。そうでしょうとも」

幽香の口がますますきつい勾配を描く。文はその表情からタイミングを読むつもりだ。
不意を付くかのように予想外の声がかかる。

「文ちゃん。山の外には出ないって約束しなかった?」

一瞬、誓って一瞬だ。文の動きが完全に止まった。
狙い済ましたかのように幽香が飛び込んでくる。突っ込んでくるのが目で見えているのに思考は逃げることより、声の主を特定することを優先した。
ぶれた思考が戻る前に腕をつかまれる。ケラケラと幽香が笑っている。

「幽香さん、ご迷惑をおかけしました。文ちゃんを返してもらえますか?」
「ふふふ、どうしようかな~。不法侵入だし……そんなに大事なら首に縄でもつけておいたら?」
「……う~ん、先日それを鎖で試した人がぶっちぎられたって愚痴っていました」
「私はあの人嫌いです。それに何で来たんですか? 今日の当番もあの人だと思っていましたが?」
「その人に泣きつかれたのよ。次郎坊様に責任取らされるとかで……文ちゃん、言いたくないけど
 もう少しおとなしく出来ない?」
「無理です。つまらないのです。つまらないのですよ……山のどこが楽しいのですか?」
「そういうことは言わないのが大人なのよ?」
「まだ、子供です!」
「……あっはっはっはっは、あ~、子供ね。ガキはおとなしくママのおっぱいでも吸っていたら?」
「私はとっくに寺子屋を卒業しました!! だから……!――――」

その先の言葉をいえなかった。幽香が『大人です!!!』って言わせようとしているのが分かったからだ。
小ばかにしたような「じゃあ何なの?」という問いに答えられない……答えたくない。
必死に頭を使って「若人です!!!」という苦し紛れの回答をした。
その回答をあざ笑うかのように幽香と椛の母……楓(かえで)……が”大人の会話”を始める。
子供に片足突っ込んでいるなら”若人”が何を言っても聴く気は無い。
幽香に腕をつかまれたまま、二人に会話を進められてしまう。

「……じゃあ後よろしく。あ~そうだ。
 連れ帰る前に文のケツを叩いておいて貰える? 合計で10発ぐらい」
「な、何でですか? 楓さんに叩かれる覚えは全く無いのです!!」
「じゃあ、私が叩くか……ケツだしな、文」

幽香の手は素振りで空気を裂いている。文は涙を飲んで楓を選択して尻たたきを受けた。
涙ぐむ文と手をつないで楓が山に帰っていく。

「文ちゃん、妖怪の山がそんなに嫌い?」
「……嫌いだ何て……言っていません……つまらないだけです……
 本当に、どうしようもなくつまらないのです。
 何ででしょう? 逆にみんながあんなつまらないことを一生懸命に出来る意味が分からないのです」
「ふ~ん、そう……私達、白狼天狗は……なんていうか、見回りとか、警戒とかなんとなく性にあっているからなぁ~」
「ずるいのです……みんなだけで楽しそうで……でも、私にはわからない、わからないのですよ」
「……そっか……」

二人して川辺を歩いていく。もう、文の手は離した。文は手をきつく握っていなくてもおとなしく付いてくる。
逆に文の手に強く握るなんて事をしたら猛然と手を振りほどいて手の届かない所まであっという間に逃げていくだろう。
椛の母親として文と椛のやり取りは十年以上見ている。性格や行動パターンは我が子のように分かっている。
今、文は真剣に悩んでいる最中だ、邪魔はしない。もっと自分で悩んで自分の中で折り合いをつけて欲しい。
文の理解の速さは天狗の中でも抜きん出ている。年齢で一つしか違わない椛はまだ寺子屋で学習中だ。
地位を与えられて、その中で頑張っていくなんてことは同年代でも出来ているものは他にいない。
ちょっと、出世するのが早すぎたのだ。加えて与えられた役職は飼い殺しもいい所である。
時期が……同年代が追いついたらおそらく役を解除されるはずなのだが……それまでおとなしくしているような文ではない。
外見はほぼ中等部なのにすでに高等部の術を身につけて超えている。
才能が抑え切れてない。そもそも抑える気が無い。
術を知りたくて天狗の秘術を記した禁書庫を勝手に出入りし、限りなく黒に近いうわさがたったのも1回,2回なんてレベルではない。
確実に楓すら知らない術を身につけているだろう。ここ最近、うわさが立たなくなったのは……多分、読みきったからだ。
もう、身に付けることが無い。これだけの成長率なら、文が山に飽きるのは仕方が無いことだった。
なんとなく、文が興味が持てそうなことを……なんて考えているうちに既に九天の滝まで来てしまった。
九天の滝を越えれば烏天狗と白狼天狗の居住区が別々にある。そこまで行けばお別れのはずだ。
滝を登りきった先……まだ守矢神社も無い荒地で二人が向かい合った。

「……まだ悩んでいるの?」
「そうです。難しいのですよ」
「ふふ、実は簡単なことかもしれないわよ」
「それは、楓さんが仕事を楽しんでいるからです。
 私は……やっぱり分かりません」
「そうね。でも時間がたてば、一生懸命考えれば答えが見つかるわ」
「そうでしょうか?」
「そうでしょうとも。だって私は楽しいから、私が楽しいって事は答えは確実にあるって事……わかるんじゃないかな」
「なるほど……それはそうですね。今楽しんでいる人がいるのに答えが見つからないわけはないですね……
 そうだ。今日楓さんのところに泊まってもいいですか?」

唐突な文の提案にどきりとした。
烏天狗が白狼天狗の家に泊まる? そもそも、位が違う。
現時点で、白狼天狗の哨戒隊の一員と末席とはいえ次郎坊の付き人とでは格が違う。
位がある天狗を迎えるのには様々な用意が必要だ。
それらを完璧に無視して文が話を進める。

「寝巻きと……いいや、着替えと寝巻きがあれば問題ないです。
 では、ちょっと待っててください2~3分で戻りますから」
「ちょ、ちょっと! 待って。あの~文ちゃん。な、何でかな?」
「何でって、答えを知っている楓さんの近くに居ればすぐ答えが分かりそうな気がするのです。
 ……それとも、ダメですか?」
「だ、ダメってことはないんだけど……
 あの、上の人に許可を取ってきてもらえるかな?」

……多分、これでいいはず。おそらく、あの文の監視人は許可をしないはずだ。
ちょっと汚いが、いきなり位付きの烏天狗を迎える用意は出来ない。
文は笑顔でうなずいている。
……ちょっと残酷かな?
そんな思いを軽く吹き飛ばす文の言葉に表情が凍りつく。

「良かった……大丈夫ですよ。ばっちり、次郎坊様の許可を取ってきます」
「……え? は?」

文は監視人のはるか格上の許可を取ってくるつもりだ。
そして……恐ろしいことに次郎坊はそういうことに無関心……許可を出す可能性が大だ。
文のトンデモ発言に対する思考が終わる前に文が飛び去る。
ああ、もう手を伸ばしても、例え全力疾走でも追いつかない。
止める暇も無く、視界の彼方に消えてしまった。
さすがに、問題児の雷名は伊達ではない、今日 犬走家は大騒動だ。
楓は必死に考えをめぐらせる……しまってある布団を干して、大掃除をして、夕食も多少豪華に……ほこりをかぶっている礼服を着るべきだろうか?
いや、その前に、白狼天狗の長に話を通さないと……!……うそっ?!……もう戻ってきた!!!
一体、どうやって許可を取ったのか? そんな事を思っていると文が聞く前に教えてくれた。
直接、口頭で許可を取ったらしいのだ。
文の見た目から察するに手荷物を持った状態で、このニコニコ笑顔をそのままに、普段着のまま、多分いきなり次郎坊の目の前に立って
おそらくため口で「犬走の家に泊まってきます」と言ったに違いない。そして、想像に難くないが言いっぱなしだ。
そのまま、返事もろくに聞かないで折り返してきている。
そうでなければこの時間で手荷物をもって、許可を受けて戻ってくることなんて出来ない。
許可を受ける……受けているのだろうか? ちょっと頭が痛い。
そして、問題児のさらなる頭痛促進剤が連続で投与される。

「先に行って荷物置いてきます!!」

今ここで、呼び止められないようなスピードではとても太刀打ちできない。
文のペースに巻き込まれて、何も分からないうちにトップスピードで振り回される。
思考をすっ飛ばして文を止めた。

「待って、待って、ね? 文ちゃん。
 え~と、まず、泊まれるように家を掃除しないといけないんだけど?」
「あ、大丈夫です。手伝いますよ?」

位付きの烏天狗に一般の白狼天狗の家の掃除を手伝わせたら……ヤバイどころではない。村八分で済めばかわいい。
下手をすると烏天狗全体に白狼天狗が目をつけられる。
ゆっくりとやんわりお断りをしないといけない。

「あっ、そんなこと気にしなくていいのよ?
 文ちゃんはお客さんなんだから、遊んできてくれれば……」
「気にしなくてもよいのですよ。私が手伝えばすぐ終わるのです」
「! そうだ。じゃあ、監視をお願いしていいかしら?
 汚い所を見つけて教えてくれる?」
「わかりました!」

楓はほっと一息を付く。掃除を手伝わせるのではなく、烏天狗の命令で気に入らないとこをを直させた。
これなら一応……形だけでも取り繕える。
しかし、掃除一つでこの有様、この後、白狼の長に話を通して、実際の掃除をして、ちょっと豪華な食事を作って、一人分多く寝床を整える……重労働だ。
加えて文の機嫌を害さず、表向きの筋も通さないといけない。
危険な香りが鼻を突く。こんな感覚がするときはろくなことが無い。
楓はこの嗅覚を頼りに慎重に手を進めた。
この後、見事に白狼の長の許可をスムーズに取って、無事に掃除を終える。
但し、家を掃除する際にちょっとあふれ出た荷物を椛の部屋に突っ込んだ。
椛には後で話をしよう。本当に悪いと思うが椛は今日一緒に寝ることになる。
それも居間だ。母子家庭の犬走家では一番上等の客間を文に取られた。
椛の部屋は既に物置……そして、楓の部屋はない……居間で十分だったからだ。
この後、まだ日があるうちに布団を干し、夕食用の追加食材を買ってきて……家計も追加ダメージだ。
……確か、今月は厳しかったはず……そんな事を考えながら布団を干している。
そうして見たくない事実に気が付く。布団が2人分しかないのだ。
家の奥で眠っていた布団は……とてもじゃないが使える状態ではない。日頃の横着がたたって肥やしの一歩手前だ。
しかし、そうするとだ。楓用のでかい布団を文に渡すわけだが……残りは椛の布団、あれで二人で寝るのか……春とはいえ、寝冷えしたらきつい。
ため息をしながらあきらめた。

「どうしました?」
「うん? な、なんでもないわ。大丈夫よ」
「何かあったら言ってくださいね?」

そういえば、椛はどうしただろうか?
そろそろ帰宅する頃なのだが……早く帰ってきて文ちゃんの相手をして欲しい。
それだけで大助かりだ。重なる心労を見計らったように聴きなれた足音が聞こえる。

「お母さんただいま。……あれ? この匂いは……文さまですか? いつ来たんですか?」

玄関先で声が聞こえる。声を聴くと文がすっ飛んでいった。

「あ~ようやく帰ってきましたか。遅いのですよ椛!! 待ちくたびれたのです!!」
「う、うわっ いきなり飛びつかないでください!! 文様!!」
「遅いのです。その罰ですからあきらめなさい!!!」

そう言って、文が抱きつく。椛は抱きつかれた勢いそのままに尻餅をついた。

「久しぶりなのですよ。今まで何をやっていたのですか?」
「寺子屋の中等部で勉強中です。今日は体術と算術、短歌の練習を……」
「え~、そんなつまらないことをしていたのですか?」
「算術と短歌はともかく、体術は楽しいですよ」
「そうなんですか?」
「? 文様は飛ぶの好きでしたよね?」
「ええ、大好きです。でも、なんていうか寺子屋の授業で飛ぶのはつまらないのです」
「そういうものですか?」
「そうです。授業の通りに飛ぶのはつまらない……でも自分で飛ぶのは大好きなのです。
 そうだ!! 久しぶりに追いかけっこしましょう。椛がどこまで速くなったのか見せてください!!」

なんというか文の顔がキラキラ輝いている。ようやく遊び相手が見つかったような顔だ。
椛が戻ってきて一安心、文の興味が椛に移ってようやく気が抜けた。
椛と文に買い物に行くと言って楓が分かれる。残った二人は昔の遊び場へ足早に向かっていった。

……

「あ~ここに来るのは久しぶりなのです」

文の眼前には妖怪の山のはずれ、昔……二人でまだ寺子屋に入ったばっかりのときの遊び場が広がっている。
遊び場といっても単純に取っ組み合いをした土俵だとか、鬼ごっこに使った茂みだとか、ただの日よけがあるだけ……今はただの草だらけの空き地だ。
それでも、二人にとっては懐かしい。特に文にとっては寺子屋に入ってわずか1年で来なくなってしまった。
椛もそれは同じ、昔一緒に遊んだ白狼天狗の仲間もこの数年は来ていない。こういう遊びよりも、寺子屋での協同訓練に明け暮れていた。
誰も来ず、手入れもされていない広場で二人して鬼ごっこの範囲を決めている。
二人とも、ずっと前にここで遊んだときよりも成長しているが、範囲は以前のまま、最初の鬼は椛に決定した。
二人で向き合って最後のルールを確認している。

「……じゃあ、十数えたら追いかけますね」
「あっ、別にもう来ていいですよ?」
「? 文様、近すぎではないですか?」
「ふふ、良いのですよ。この距離でも……
 いえ、やっぱりもう少し離れましょうか」
「そうです。大体、肩が組めますよ?」

面と向かって、体を伸ばせば耳打ちできる距離で文がそんな事を言っている。
文はおおまたで1歩、2歩、……5歩と距離をとった。それでも近い。
椛は首をかしげている。鬼ごっこなら、めいいっぱい距離をとるのがセオリーのはずなのだが……文はこれで十分という顔をしている。

「では、始めますよ? いいですか?」
「全速力を見せてください、椛」

文が距離をとったのは一つだけ不安があったからだ。捕まるからではない、捕まえられないかもという不安だ。
例え、互いの息がかかる至近距離でも、完全に回避に専念すれば大人の天狗にでも捕まる気は無い。
せめて、この程度、5歩ぐらいあれば……椛の反応を見てから対処できる。
先程の距離ではとっさの反射で文自身のトップスピードを見せてしまう……いいや、見れるならまだいい……もしも……仮にだ……見えなかったら?
文の不安は的中した。
「行きます!!!」声は威勢がいい。だが……文にとっては集中が必要な速度では無い。
悪い意味で昔のまんまだ。体力系の遊びで椛は文に勝てない。むしろ昔より悪い気がする。
なんというか遅い、速度が乗り切れていないのが分かる、加速力が足りない。おおまた5歩分で加速距離が足りないのか? ……論外だ。
必死に表情を殺すことに力を使う。おかげで一歩も動けずに椛に捕まった。

「?……あれ? どうしました? 調子が悪いですか?」
「いえ、そんなことないです」
「でも、初めてですよね? 私に捕まるのは?」
「そうですか? 2,3回はあったと思いましたが?」
「いいえ、少なくても私の記憶にはありませんよ。やっぱりこの距離じゃ近すぎましたね」
「……ええ……そうですね」

文の口数が少ない。さっきまで弾んだ会話が沈んでしまう。
椛は文が初めて捕まってショックを隠しきれないのだと勘違いした。
次は文が鬼……椛はめいいっぱいの距離をとる。
そんな椛を見て文が笑う、そんな程度の距離ではどうしようもない……元の範囲が狭すぎる。
乾いた笑いに椛は気が付かない。
さっき見た椛の全速力程度で追いかければ……決着は10秒以内か?

「十数えましょうか?」
「いいえ、大丈夫です」

「では……」と言って、椛に向かって一直線、適当に加速して、適当に飛んだ。
……ダメだ……遅い……椛がだ。文と椛を結ぶ最短距離を駆ける。遊ぶにしてももう少し手ごたえが欲しい。
予想よりも短い5秒……ため息が出る。

「椛、もういいです」
「さ、流石ですね。やっぱり速いです。
 最初は油断していたんですか?」
「油断……そうですね油断です。ちょっと……想像してたのと違って不意を突かれました」
「そうですか。じゃあ、今度は相撲にしませんか?
 今度は油断なしで……」
「そうですね……」

そう言って二人で草が生えている土俵に上がる。
もう、文は椛に対して興味が……少なくとも最初のわくわくはない。
後は、適当にあしらって終わりにしよう。そんな事を思って土俵に立つ。
掛け声とともに突進を喰らった。子供の頃だったらそのまま、はじき飛ばせる……あれ?
吹き飛ばされたのは文のほうだった。
尻餅をついている自分の姿が理解できない。……何でだ? 動きは見える……遅い。
あの速度なら、瞬間的に加速すればいくらでも吹き飛ばせる。
がっぷり四つの密着状態からでも体の柔軟性を使って重心を移動させれば吹き飛ぶはず。
呆けた顔で椛を見上げる。
椛は尻尾を嬉しそうに振っている。鬼ごっこに続いて相撲でも勝った。
幼い頃は本当に歯が立たなかった。
体格と才能が極端に違って、少し年上の鼻高天狗の男の子でも勝てなかった人だ。
その人が、初めて自分に対してあせった顔をしている。

「も、もう一回です」
「ええ、いいですよ」

もう一度、掛け声とともに激突する。
今度は棒立ちではない。ちゃんと両足を広げて踏ん張る体勢だ。
激突してから押し切られる。椛の腕力が信じられないくらい上がっている。子供の頃、押し切れたはずの割合で力を出していたら負ける。
何でだ? 私より遅いはずなのに……加速力は私のほうが上なのに……押した力の反力を受けて自分が動く。
土俵際の寄り切られそうな姿勢で初めて椛の着ている服に目がいく。
……鎖帷子……こんなもの着ていたのか!!? 通りで遅いはずだ!!
そして、重い、鬼ごっこならいざ知らず、相撲で重りの使用は反則だ。
反則と声を出す前に寄り切られる。
文の目が再び輝きだした。

「ずるい、今のは反則です!!」
「?? え? どこがですか?」
「鎖帷子……重すぎです!! 脱ぎなさい!!」
「あっ、すみません。訓練の一環で風呂と寝るとき以外は着ているようにと……」
「じゃあ、命令です!! 脱げ!! 体重増すなんて反則ですよ!!」

仕方なしに、椛が鎖帷子を脱ぐ。そうしてよく見てみれば……服のあちこちに隠し武器がある。

「椛、まさかと思いますが……隠し武器も全部はずしますよね?」
「あ、あの、これも訓練―――」
「ダメです。帷子と一緒に武器も置くのです」
「……ちょっと、待ってください……」

椛が大量の隠し武器をはずしている。
文が隠し武器の一つ……クナイを手にとって見るが鉄製……帷子とあわせて、とんでもない重量だ。
最初の激突で弾き飛ばされたのは椛が重すぎたせいだ。
そして、最初……椛が遅かったのはこれを身につけていたせい……手抜き……とは違う、この状態に慣れることが訓練なのだろう。
だが、遊びでこんなことは認めない。合計重量で4貫以上……こんなハンデはつけた覚えが無い。

「よくもまあ、こんな重いものを身につけていられますね?」
「着こなすのは訓練ですから。ちゃんと後で返してくださいね」

文がクナイを懐に出し入れし、隠し武器の取り回しを確認している。
そんな事をしていると、ようやく椛が武器と帷子を脱ぎ終わった。文もクナイを置いて椛と土俵で向かい合う。……一回り小さくなったみたいだ……今度こそ。
三回目の激突、がっぷり四つでそれでもじりじりと押し負ける。……2回目と同じだ、腕力で負けているつもりは無いのだが踏ん張れない。
しかし、それでも2回目よりも重量は落ちている。今度こそ……密着状態から一瞬だけ力を抜く、椛が腕で押すよりも早く重心を移動させて体重をぶちかます。
そうして、吹っ飛んだのはまたしても文のほうだ。文のほうが背が高いのに軽い。
烏天狗……鳥だからだろうか? 速く飛ぶために天狗の種族の中でもとりわけ軽い。
それに、椛は白狼天狗……狼だ。四肢の……特に足の強さではやはり劣る。
加えて文と違い、椛は土俵に爪をたてて自らを固定している……こんなこと昔は出来ていなかった。
体重が上、当然のように土俵に対する固定力は爪を立てられる椛が上。
とどめに、椛の背が低い、だから文が上から下にぶちかました力は上向きに跳ね返ってくる。文が踏ん張れるわけが無かった。
尻餅ついて、目が点になっているのに文の口が笑っている。
……まさか、体当たりしてはじき飛ばされるなんて……想像もしていなかった。
相撲じゃ勝てないのか……そんなことが起きるなんて……大人が無理なのは知っていたが……椛になら勝てると思っていた。

「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。
 椛、もう一回、鬼ごっこしましょう。軽くなったでしょう?」
「いいですよ? では鬼を決めましょう」
「鬼は私でいいです。……椛、全力で逃げてくださいね」

そう言って、逆に文が距離をとった。
「始めるのです!!!」と、いきなり奇襲のごとく発せられた言葉に椛があわてる。
久しぶりの全武器、防具をはずした状態での加速に戸惑う暇さえ与えない。
一直線に迫ってくる。文の速さはさっき椛を捕まえるのに出した速度だ。だがしかし、これでは追いつけない……当然だ。さっきよりも恐ろしく軽くなったのだから。
文は笑みづくると少しずつスピードをつり上げていく。
最初の鬼ごっこを軽く上回る速度で二人が競争している。
しかし、トップスピードの限界が来たのは椛のほうだ。少しずつ距離が縮んでいく。
文が服を捉える一瞬前、椛の体が沈む。両足ではなく、四肢を使った疾走に切り替わった。
再び、距離をあけられる。……ふふふ、そうこなくては面白くありません。
ようやくまともに翼を開いて、飛翔を始める。さっきの手抜きとは違う。全身で加速している椛の背をあっという間に捉えた。
しかし、椛は追いつかれることなんて承知の上、もともと烏天狗にトップスピードで敵う何て思っていない。
とっさの急ブレーキ、両手で両足で爪を立てて一気に停止し、体を反転させる。
重り付きの武器防具を満載した状態では反動が強すぎて出来なかった動作……この急反転に対応できる烏天狗はいない。
当然だ、烏天狗には地面を捉えるという概念が無い。空中においてトップスピードで方向を変えるには巨大な旋回半径が必要なのだ。
旋回をしない場合でも、少なくとも文は減速、反転、加速を行う必要がある。椛が見上げた先で文が空中で泡を喰っていた。
文の目がキラキラしている。スピードで勝る自分が椛を取り逃がした。全速力ではないが、これなら……これなら面白い。簡単に勝てる勝負に興味など無い。
勝てないからこそ、勝ちにいく面白さがある。椛に向かって再度追跡を行う。
後ろから見た椛は、……なるほど耳で私の位置を距離を把握していたのか……凄い、飛翔音で相手の速さ、捕まえるタイミングを見切る。
そして、反転には、相撲で使っていた爪を使って急制動を加えている。フムフム、なるほど……そういう理屈ですか……簡単なのです!!
5回ほど椛の動きを観察すると、いったん椛から距離をとる。椛は上機嫌……何というか、興奮している。
白狼天狗の上位に相当する烏天狗の文が自分を捕まえられない事実にだ。
初めて鬼ごっこで完勝できるかもしれない。
再び文が迫る。さっきと同じだ。椛が背を向けて走り、そして全速力からの反転を仕掛ける。
文の位置を確認しようと見上げた椛の真正面に本人がいる。……絶対に、タイムロスが…?…ある、はず……
「タッチです」凄いキラキラ笑顔で肩を叩かれた。

「え? ええっ!!?」
「何を呆けているのですか? タッチですよ?」
「ど、どうやったんですか?」
「何をですか?」
「あ、えっと、どうやって追いついたんですか? か、烏天狗は―――」
「烏天狗は?」

そういいながら、文が右手を上げる。椛に見せびらかすように……手には椛の隠し武器……クナイが握られていた。
クナイ……クナイ?
はっとして椛が地面を見る。思いっきり地面を引っかいたあとが残っている。
椛のつめより深く鋭い。急制動の痕だ。地面を捉えられない烏天狗がいとも簡単に地面を捉える。
概念さえなかった者がいきなりそんな真似できる出来るだろうか?
しかも、自分に爪が無いから、クナイでアレンジを加えて……て、天才だ。
この技術を……地面を捉える方法を身に付けるのに何ヶ月かかっただろうか?
全力疾走の方向を瞬時に切り替える。たったそれだけだけのことにだって単純な練習の積み重ねが必要だった。
弱い爪を強くするのに何度負荷をかけて鍛えただろうか?
そうやって積み上げて身に付けた技術をわずか数分で真似される。そして圧倒的に上回られた。
口で説明したわけでもない、ただ見たものをそのまま学習された。
昔のまんま、恐ろしいほどの学習能力、見せれば見せただけ差を埋められ……そんなレベルではない。
その技術を瞬時に学習、アレンジを加えて、あっという間に逆転、突き放される。
椛の「道具は反則じゃないんですか?」という問いは完全な負け犬の遠吠えだ。

「いいじゃないですか。相撲のお返しです」
「うう……じゃあ。今度は私が鬼です」
「では、椛、必ず……必ず追いついてください」

そんなことを言って、あっという間に下がった。鬼ごっこの第4戦目……しかし、文に追いつかせる気が無い。
文が椛以上の速度を維持しながら飛び回っている。結局、追いつけないまま、日が暮れて時間切れ、鬼ごっこは椛の負けだ。

「椛、もっと早く走れないのですか?」
「あ、文様速すぎです。さすがですね」
「う~ん、まだ早すぎと言われるほどスピードをあげているつもりはないのです」
「本当ですか? ちょっと信じられない」
「そうだ、次は縮地の法を使ってもいいですよ。そのぐらいのハンデはあげてもいいです」
「え゛? 縮地の法? あの、まだ習っていないです」
「? 何でですか?」
「あの……縮地の法は高等部の最終試験課題の一つですよね?」
「そうでしたっけ? そんなに難しい術ではないです。簡単ですよ?」
「……簡単? あの、大人でも出来てる人はあんまりいない気が……」
「次郎坊様も太郎坊様も使えますよ?」
「……文様、比較対象がおかしいです」
「じゃあ、楓さんなら出来るんじゃないですか?」
「お、お母さんは……どうだろう?」
「出来ますよ……きっと。だから椛も覚えるのです。
 明日から、使い方を教えるのです」
「い、いきなりですか?」
「そうですよ。大丈夫ですよキチンと教えるのです。
 試しにちょっとやってみましょうか。実演するのです」

文が術を実際にやってみせる……しかし、椛には見えない。
もともとの縮地の法自体が、相手に気が付く前に距離を潰す方法だ。見えるようにやったら縮地の法ではない。
文が困った。
覚えてもらうには見せないといけないのだが、見えるように速度を落とすことが出来ない。

「むむ、難しいのです。縮地は出来るのに説明が出来ない……どうしましょう?」
「そう言われても、さっぱり分からないです。
 文様が最初に覚えたときはどうしたんですか?」
「う~ん、普通に指南書読んで、その通りにやったら出来たのです。
 あっ、そうか、指南書を後で見せてあげますよ。
 単純に経絡加速の術と鋼体の術を使って、走る動作を一つにまとめればいいのです」
「ちょっと待ってください。鋼体の術? 経絡? 動作をまとめる?
 まだ一つも習っていないです」
「椛……まさか……落ちこぼれですか?」

ショックそうな文を前にして椛が首を激しく横に振っている。寺子屋の成績なら中の上だ。文がおかしい、絶対におかしい。
今、文が言っているのはほとんど高等部の術だ、現時点で知っている方がおかしい。自在に使えるのはもっとおかしい。
初等部では身体能力の向上と基礎的な学問、中等部でようやく簡単な術と術の基礎訓練、高等部で本格的な術を身に付ける。
その過程をすべて吹っ飛ばして、術を身に付けてしまった文にはどの術がどのくらい難しいのかが理解できない。
文にとっては初歩も高等技術も同じレベルだ。椛と悩んでいるレベルが違う。
簡単に身につけられたものをより分かりやすく説明することが出来ない。
出来ることは出来るからそれ以上は全く考えていなかった。

「……仕方ありません。椛、一応明日指南書を持ってくるので頑張って身に付けるのです」
「それは無茶振りではないですか?」
「大丈夫です。さっきの術さえ出来れば……学習が普通でも半日もあればばっちりですよ」

文の要求もおかしい。実際には、3つの術を効率的に組み合わせて瞬時に切り替える必要があるのだが……それを実現するには相応の日数の訓練が要る。
やったら出来たなんてことはありえないのだ。
加えて文が言っていた3つの術は中等部の術の基礎が出来ないと身につけられない。
椛にとっては理解が追いつかないレベルの要求を突きつけられている。首をかしげながら二人で帰路に着く。
途中で肩車の要領で文が椛に飛び乗ってきた。椛がいきなりの文の行動に驚く。

「うわっ、と、あ、文様いきなりやめてください」
「別にいいじゃないですか。こっちの方が楽なのです」
「それは文様だけです。私は二人分の体重を支える必要があるんですよ!?」
「椛程重いつもりは無いのです。武器防具なんて着て無くてもいいじゃないですか」
「大事なことなんです。訓練ですよ?」
「じゃあこれも訓練です。救護人を担いで移動するつもりで進むのです」
「救護が必要な人は肩車をしません」
「疲れてだるいのですよ。救護が必要です」
「……それは怠け者ではないですか?」
「椛は意地悪です。心が傷ついたのです。重病人なのです。救護が必要なのです」

口で言うほど険悪ではない。お互いに軽口を言い合いながら、椛は肩車をしたまま家にたどりつく。
家には文の監視人が来ていた。
椛から飛び降りると、さっきまでの表情が一気に変わり、文の視線に軽蔑が混ざる。

「帰りますよ。文」
「……嫌です。許可は取りましたよ?」
「戻りなさい!! あなたのおかげで私は次郎坊様の前で赤っ恥をかいたのよ!!!」
「あなたの赤っ恥なんて知りません。私は今日ここに泊まるのです」
「こんな犬小屋のどこがいいんだか、次郎坊様から特別に住居を与えられている癖に……」

監視人の言葉には文に対する妬みが入っている。文の監視人は烏天狗の中では真ん中ぐらいの地位だ。
監視人からすれば……自分よりはるかに幼い文が、次郎坊の傘下に入っている。超大物の傘下というエリートコース、誰もが手に入れたい出世コースだ。
当人にはこんな問題児を特別扱いしている理由が分からない。
加えて、自分の言うことは一切聞かずに白狼天狗の下っ端の言うことを聞いている有様、面子が丸つぶれだ。
嫌味の5,6個では言い足りない。

「……あんな家……いらないのです」
「あんな家!! あなた次郎坊様からいただいたものをそんな言い方するの!?」
「私は……屋根があって寝床があれば……どこでもいいのです。
 最初に言ったのですよ。別にこんなものいらないって……ちゃんと次郎坊様には言ったのです」
「なんて言い方!! まるで次郎坊様が押し付けたみたいに言うなんて」
「だって……好き勝手に使っていいって言うから……」
「文、”好き勝手に使う”のとそもそも”使わない”って言うのは全然違うってことがわからないのね?
 ……ああ、そうか、だから犬と気が合うのね?」

文の手が震えている。感情を抑えることが限界に近い。
出会ってわずか2分足らず。一気に機嫌が振り切れそうだ。

「も、もう、我慢の限界です」
「未熟者め、我慢も出来ないのか。所詮、ガキで問題児だな」

うなり声が上がった。文を馬鹿にされて椛がぶちギレしている。
監視人がちょっと驚いているが、烏天狗に逆らう度胸のある白狼天狗なんていないだろう……その判断は大間違いだった。

「白狼の分際で烏天狗に逆らう気? ああ、なるほどお前の馬鹿が文に移って
 文が”使う”、”使わない”って言うのが分からなくなったのね」

更なる挑発で椛が振り切れた、牙を見せて飛び掛る。しかし、重装備である……烏天狗にすれば問題にならない速度だ。
余裕で迎え撃って打ち据える。……止まらない、手打ちの1,2発なんて問題にならない。
更なる追撃で噛み付こうとした椛を文が後ろから羽交い絞めにして止めた。

「な、何で止めるんですか? 悔しくないんですか?
 あんなに馬鹿にされたのに!!?」
「待つのです。おとなしくするのです。
 私は自分の敵は自分でうつのです」
「口だけは達者ね、問題児!!」

椛の見ている前で文が消える。盛大な破裂音とともに平手打ちが監視人の顔面に炸裂した。
烏天狗の監視人は何が起こったのかわからない。

「!!?……っつ、な、何?」
「もう、あなたは帰ってください!!! これ以上馬鹿にするなら、この程度では済ませません」
「文……覚えておきなさい!! このことは次郎坊様に報告しますからね!!」

負け惜しみを言いながら、監視人が文達の前から逃げるように去っていく。
きっと監視人はあること無いこと次郎坊に報告するだろうが、文にとっては痛くもかゆくも無い。

「椛、大丈夫だったですか?」
「大丈夫です、あれなら体術訓練の方が厳しいです」
「そうですか……よかった」
「何ですか? あの人は?」
「うるさい人です。ただの口だけですよ。でもそれが私の監視人なのです」
「何で監視人が付いているんです?」

「全然理解できませんが」と前置きして文が説明している。
子供の頃の悪戯が原因のようだ。
九尾やら、鬼、幽香、神隠しの所に遊びに行ったことが原因……連中が本気で山に攻めてきたら、大問題になる……というのが原因のようだ。
しかし、文にはそれが理解できなかった。
大体、彼女らは山を攻めるとか一切考えていない。
それに、一緒に遊んでも面白くない連中といるぐらいなら、面白い人の所に行くのは子供として当然である。
子供の悪戯にマジギレする人とは遊ばない……あの人たちは腹を立てることはしてもさらっと流してくれる。
他の人たちにはそれが分からないのだ。
文の一通り説明を聞くと椛も同じように考えている。子供の頃、一緒に鬼の所に行って一緒に遊んでいた仲だ。
勇儀が仮に、万が一、怒るとしたら私達個人に対してだ。何を気にすることがあるのだらろうか?

「……なんでしょうかね? 私にも分からないです」
「そうです。信じられないのはむしろあの人たちですよ。
 私が山で信用しているのは天魔様、太郎坊様、次郎坊様……もう後は、楓さんと椛ぐらいしかいません」
「え、……本当ですか? もっと――――」

文に口を押さえられる。文の瞳が寂しそうだ。

「お願いだから、少ないって言わないでください。
 出会うだけなら、たくさんの人に出会いましたよ。でも、私が……信じていいと思ったのは……もう、山にはそれだけなのです。
 勇儀様を含めた四天王は山を降りてしまいました」
「……そう……ですか」
「そうです。それより、さっきは格好よかったのですよ。さすが狼さんです」

そんな事を言って話題を一気に変えられた。文はこんな寂しい話題をしたくない。
家に入ると二人で楓を待つ……しかしいっこうに帰ってくる気配が無い。
夕飯は二人で作っちゃおうなどといって米びつをのぞいてみる……買ってこないと足らない。

「ちょっと、ひとっ飛びして私の家から持ってきますよ。
 米と、味噌と野菜を持ってきましょう。全部ぶち込んで雑炊にするのです」

そう言って文が飛び出していく。
椛が火をおこしたり、水を汲んでなべや皿を洗っているともう帰ってきた。
「ちょっと重かった」なんて言っているが、余分なものまで持ってきているからだろう。酒と干し肉が見える。
包丁を手にとって材料を切ろうとするとめんどくさいといわんばかりになべをひったくって材料をぶち込み始めた。
あわてて止める。

「文様!! いけないです。野菜は皮をむかないと!!」
「え~めんどくさいです。洗っただけで大丈夫ですよ。食えれば一緒です。おなかがいっぱいになればいいのですよ?」

椛が顔を覆っている。文は巣立ちが早すぎたのだ。本来なら、料理は親から教えてもらうもの……しかし、文には教わった記憶が無い。
料理の基本を完全無視した我流の調理術が今、炸裂しようとしている。
大体、生米がなべの中に投下されている。味噌も直接投下しようとしている。
料理のいろはをまるで知らない。いつもこんなものを食べていたのか?
包丁で皮をむくと主張する椛に文が反論する。
そんな手間をかけるぐらいなら、さっさとぶち込んで煮込んだほうが速いというのが文の反論だ。

「手間をかけたほうが速いですよ?」
「意味不明です。分かりません。速いほうが正しいのです!!」

椛が手早く材料を回収すると皮をむき、一口大に切りながら説明している。
料理の時間が短くても、煮える時間が増大することを説明している。
しかし、文の食べられない所は食べなくていいとの言葉に開いた口がふさがらなかった。
通りで、重いはずだ。三人で考えても3日分ぐらいの食料がある。
「食べられなかった部分はどうするんですか?」そう問いかけると、
自信ありげに「そのまま朝また煮込んで食べられる所だけまた食べる」とのたまうので椛は危うく包丁を落としかけた。
生まれて初めてかもしれない、お母さんがこんなにも恋しい。早く戻ってきて助けて欲しい。
椛一人ではおそらく文の超大作を一緒に食べる羽目になる。

「ただいま~。魚が中々釣れなくて遅くなっちゃった」
「お、お母さん」
「楓さん遅いのです。料理は既に作り始めているのですよ?」

椛と文の第一声で大体の予想が付く。文が暴走している。
椛一人では抑えられなかったか……いや今まで十分、持ちこたえてくれた。
料理まで進んでいるなら後は任せて欲しい。椛の芋の切り方を見て、レシピを悟る。
これなら、先に魚だけ焼いて遅れた夕飯までのつなぎにすればよい。

「後は任せなさい。椛、囲炉裏で魚を焼いて食べてなさい。
 文ちゃんも一緒に焼き魚を先にどう?」
「あ~焼き魚は好きです。ただ焼くだけなのです。速いのです」

椛が川魚の内臓を抜いて岩塩をかける。文もそれを真似している。
川で釣った魚は小さいが、夕飯までのつなぎにはなるはずだ。
後は、そのまま串にさして焼くだけである。
二人の会話は料理から明日の縮地の法に移った。
「そうだ、椛、これが指南書です」といわれて渡された指南書は分厚い。
もちろん縮地の法だけが載っているわけではないのだが、こんなものを読んだだけで理解したのだろうか?

「原理だけ分かれば後は楽ですよ」
「……ゲッ!? これ、絶対半日じゃ無理ですよ!!?」
「そんなことはないのです。楓さん、楓さんはどのくらいで縮地の法を覚えましたか?」

縮地の法なんて、試験の時にやっただけだ。料理をしながら二人の会話に聞き耳を立てていた楓は面食らった。

「あ~、そうね私はやっぱり遅かったのよ、他の術も一緒だったし……3ヶ月ぐらいかな」
「う~ん、そうですね。この指南書を全部身につけようとしたらそのぐらいかかるのです」

楓が「指南書全部?」と疑問に漏らしたのは内緒だ。
椛がむしろ母親を尊敬している。数百を超えるページの指南書の術をたったの数ヶ月……自分の親がそんなに凄いなんて知らなかった。
楓が縮地の法を課題としてクリアするのに、数ヶ月を要したのは当然である。
天狗全体で見ても出来るのは……自在に使いこなすレベルの者は限られる。それこそ大天狗ぐらいの才能が無いと自由自在まで行かない。
文は当然のような顔をしているが次の「明日、椛に教えてください」の一言で凍りつく。
そんな高等技術をいきなり教えるの? その前に習得していないといけない術は山ほどあるというのに……文は問題児ではない。
単純に才能が有り余っているだけのいわゆる天才だ。凡才の悩みが理解できない状態なのだ。
魚が焼けたことに気を取られている二人を前に、「実演はいいけど、私も忙しいからな~」といって逃げの一手を打つ。
文が「むむむ、お仕事は大事なのです。仕方ないです」と言っている。
よかった……なんて思う暇も無く椛に「朝一は時間あるよね?」と言い切られた。
仕方なしに一回だけと言い切って実演の約束をする。
明日、縮地の法を見せる。足場の確認と、装備はなるべく落として、術の準備で早く妖力を練らないと……天才の相手は疲れる。

「さあ、できましたよ。里芋の煮っ転がしと炊きたてのご飯よ」

匂いだけで文の腹がなっている。
魚を食べただけではお腹いっぱいにはならない。
やっぱり、ご飯が欲しい。いつもの雑多煮でこんな匂いはありえないのだ。
文が一口食べて「これは信じられないおいしさです」なんて言っているが当然だろう、我流料理に比べれば遥かにましのはずだ。
楓がうれしそうにしているが、椛は納得の表情をしている。
その後、お酒が入り、3人で楽しく夜がふけていく

「お風呂は気持ちよかったです」
「文ちゃん、着替えたらこっちにお布団用意してあるから……」
「……あれ、楓さんはどこで寝るのですか?」
「私はこっち、居間で寝るわ」
「う、……そ、そうですか……残念です」
「ん? 残念?」
「な、なんでもないです。おやすみです」
「じゃあ、おやすみなさい」

客室の戸を閉めると、戸の向こう側の声が聞こえてくる。

「あ、そうだ。私の部屋は?」
「ごめんね~椛、ちょっと掃除の余計なものがあってね……その、ごにょごにょ」
「え゛? 今日一緒に寝るの?」
「そうなの、久しぶりにいいじゃない?」
「お、親と寝ている人なんていないよ? 私、一人で寝るからね!!」
「ちょ、ちょっと布団一組しかないんだけど?」
「お、お母さんそれ私のなんだけど?」
「だから二人で寝ましょうね? お願い、椛~」
「う~、今日だけ……って言うか布団ぐらい用意しておいてよ!!」
「ごめんごめん、文ちゃんが来るのがいきなりだったから布団が無かったのよ」

小さい布団に二人がもぐりこむ、やっぱり楓の足は布団からはみ出した。
体を丸めて無理やり布団に足をもぐりこませる。ギリギリだ。
いやがる椛を抱きしめながら、……大きくなったな~なんて一人考えていると客間の戸が開く。

「ず、ずるい。そっちの方があったかそうです」
「え、あの、えっと?」

戸惑っている間にでっかい布団を引きずってもぐりこんできた。

「たまにするならこうにするのがよいのです」
「あ、文ちゃん?」
「もう寝るのです!!」
「あ、文様!?」
「ずるい、ずるい、ずるい……」

そう言って二人の間に文がもぐりこむ。
文は親と一緒だった期間が短い、こんな風に誰かと一緒に寝るなんて記憶の彼方だ。
ずっと、ずっと一人だった。一人立ちが早すぎた。一人で寝るのが普通すぎて、一緒に寝ることの方が楽しそうでたまらない。
本当はこんなことをしてみたくて仕方が無かった。
本心は夜が寂しい、どこにいても一緒だ。貰った家もたとえ野宿先であろうとも変わらない。一人ぼっちなんだから、どこでも同じだ。

「ずるい…ず……るい、……ずる…い……」

ぶつぶつ言う声が急速に寝息に変わっていく。
二人で顔を見合わせる。二人には文が気になって逆に眠れない。
椛には文の行動が全く分からないが、楓にはなんとなく察しが付く。
「気にしないで寝よう」と言われても違和感で眠れない。
結局、椛が眠ったのは一番最後だ。

……

朝、いつに無く快調な寝起き、思いっきり伸びをしてみる。横では椛が寝ている。
楓はもう朝食を作って並べている。
文はねぼすけの頬をつついてその反応を楽しむ。

「文ちゃん、その子、あんまりつつくと噛み付いてくるわよ」
「え゛? そ、そうなのですか?」

言われたそばから噛み付いてきた。甘がみのつもりだろうが痛い。
思わず払いのけた。そのまま椛が目を覚ます。指先は赤くなってしまった。

「痛いのです」
「……おはようございます。……何が痛いんですか?」
「全部、椛のせいです」

……? 首を傾げてみるが分からない。文も怒っているわけではないのでそのままさらっと流してしまった。
そのまま朝食になる。朝食も文は絶賛している。文の大傑作に対して評価すれば基本なんでも望外の味になるだろう。

「椛、顔洗った?」
「まだだよ。食べ終わったら歯磨きと一緒にする」
「早起きすれば朝一で目がばっちりなのです」
「そうよ、そこは文ちゃんを見習わないと、思いっきりねぼすけしてくれて
 術を見るんでしょ? やらなくてもいい?」

「ダメです!!」二人に言い切られた。あわてて椛が朝食をかきこむ。
ぱっと立ち上がるとそのまま歯磨きと寺子屋に出る準備を始めた。
楓は「やっぱりやらないとダメよね?」なんてつぶやくと術の下準備だ。
外に出て足元の石をどける。隠し武器の類は全部はずす。装備は帷子と剣と盾のみ……要するに見てくれだけの装備だ。
いつもの装備に比べれば大した重量ではない。
後は、ステップの確認、調子を確認する。……試験以来だ。ヤバイ、一回で限界が来る。明日は筋肉痛を覚悟しないといけない。
屈伸と伸びをするが体の軋みがとんでもない。筋肉痛じゃなくて変な所をひねりそうだ。
ゆっくりと鋼体の法、経絡加速の術を連動させる。あ、これもヤバイ連動の方法をしばらくやってなくて忘れた。
縮地の法に必要な妖力はためたが……下手に全力で使うと暴走する。……6割の出力で我慢してね? 二人とも……

「さあ、準備が整ったわ」
「いよいよです」
「お母さん期待してる!!」

ちょっと胃が痛い。そんなに速くは出来ない一回ぽっきり、多分文の目からは止まって見えるだろう。
というか、文は経絡加速の術を使って、動きを見落とさないようにしている。……それはマジでやめて欲しい。
あ、椛も千里眼を使ってる……針のむしろだ。失敗したら即アウト……いつぞやの試験みたいに緊張する。
まず、呼吸を整えて、構えから、経絡加速の術で神経の情報伝達速度を増大させる。
通常の全速力をはるかに超えた速度で地面に足を食い込ませる。地面と衝突する直前に鋼体の法を使って着地の衝撃を一気に流す。
次の着地地点に向かいながら体勢を切り替え……ほぼ片足蹴りの姿勢になる。
着地点を思いっきり蹴り上げ、減速、方向転換、加速をひと蹴りのワンアクションにまとめる。
2歩目も同じ……すさまじい速さでジグザグに進む、3歩目……限界だ。
両足と剣を地面に突き刺して急停止。……爪が痛い……腕も足も腹筋も筋肉痛だ。
……振り向きたくない。どんな評価だろう?

「……す、凄い。さすが楓さんです。
 凄い丁寧な術でした。それに、平地において縮地の法のジグザグは私にも出来ません。参考にさせていただきます!!」
「は、速くて、ほとんど見えなかった。も、もう一回」
「だ~め、一回だけって約束したでしょ」

本当は体の節々が悲鳴を……しかし、そんなことはいう必要が無い。大人なんだから大見得を切らせてもらう。
このまま格好つけて仕事に向かう。振り返らずに家に入って隠し武器を集めてさっさと家を出て行った。
……この後、真昼間に術を使った反動が来て休憩所に入り浸ったのは二人に内緒だ。

「凄い、凄い。あんな術どうしたらいいんですか?」
「椛、折角楓さんがあんなに丁寧にやってくれたのに、わからないんですか?」
「見えたのは切り替えの一瞬ですよ? まだ視覚を加速させることも出来ないです」
「それでも見えるようにしてくれていたのに……もったいないです」
「見えたんですか?」
「凄く丁寧だったんですよ、切り替え方とか動作を着地前に終わらせるとか、教科書どおりのお手本の動きだったんですよ?」
「ひと蹴りで、減速、方向転換、加速……というか蹴りですよね?」
「何だ、見えてるじゃないですか。その通りです。減速、方向転換、加速を一動作で行う。最適解は蹴りです。
 減速のためにひざを曲げる必要ないのです、方向転換のために体をひねる必要も無いのです。
 加速のために曲げたひざを伸ばすのも無駄です。だから、自分の向かいたい方向に蹴りを加える。
 ……但しそれを普通にやったら蹴りの衝撃で体が壊れるから、耐えるために鋼体の法が必要で、高速移動中に着地点、
 姿勢、相手の視線を完全に把握する必要があるので経絡加速が必要なのです。
 楓さんは凄いですよ? 私達の視線を意識して、見えるように丁寧に術を披露してくれたのです。
 それに私にも全力で平地のジグザグは出来ません。縮地の法を使って地面を捉えたら……反動で腕がすっぽ抜けるのです」

文が興奮している。自分が出来ないことをやすやすとやって見せた楓を尊敬しているようだ。
本当は全力が出せなくて想定よりも遅くなっていたのは本人の中の秘密だ。

「でも、どうしたらいいですかね? まだ鋼体の法も経絡加速の術も分からないです」
「う~ん、椛は今どこまで術を身につけたのですか?」
「似たような術なら、集中の方法と、火事場の馬鹿力の出し方です」
「……ほんとに? そんな初歩ですか?」
「あの、文様、言いたくないんですけど縮地の法って超高等技術の塊ですよ?
 指南書を見ましたけど……縮地をやるのに必要な術ですら高等部の最高学年の術です。
 動作のまとめ方は分かったけど……普通に身につけようとしたら2~3年はかかります」
「遅い、遅いのですよ!? 半日が無理でも1週間ぐらいかと思っていました!!」
「い、一週間!? えっと、必要な術は今の全部発展系で……そうですね……どんなにがんばっても半年はかかりますよ!?」
「は、半年!? 亀を超える鈍足なのです!!」

その後、二人で論争を重ねた末に、椛は寺子屋に大遅刻をし、文はいつもどおりに出社をすっぽかした。

……

「射命丸は危険ですよ……白狼の命令に従っています……次郎坊様の権威に傷が付きます」
「ふっふふふふ、そう思うのか? あれは子供だぞ?」
「子供だからこそです、心酔しています」
「心酔……ふくくくく、分からんか、分からんよな。放っておけ、わからんなら手を出すな……主も若いの?」
「!! そんなことは! ……無いですよ」

次郎坊と監視人は秘密の会談を進めている。
影に隠れていろんなことを吹き込もうとしたが……次郎坊自体が射命丸自身を大したことと思っていないらしい。
……では、今までの監視は一体? 何だというのだ?
監視人の中で複雑な感情が渦巻いている。

「では……この件は放っておくということで?」
「そうだ。放っておけ。気にするだけ無駄だ」
「では……射命丸の件は放っておきます。そう射命丸は……ね」
「? そうか、引き続き監視を頼むぞ?」

監視人の黒い感情は犬走へと向かう。白狼の分際で逆らったあの連中だ。

……

楓は勤務の途中で夜勤と次の早朝の出勤を命じられた。これでは寝ている暇が無い
何でだろう? 白狼の長も烏天狗の命令以外に言えずに困っている。
仕方なしに従う、帰る暇が無いと……ま、いっか、椛なら平気だ。そう、椛だけなら……ね。

……

「……どう思います? 妖忌さん……」
「なぜ、そんな事をきくのか……」
「私の知る中ではあなたが最も加速が速いからです。……居合いの術はすばらしいです。
 私もあの速さには目を見張りました」
「はっ。かわしていながら良く言う。ショックだったぞ!? あんな距離ではずすとはな」
「私だってショックでしたよ? 自信があったのに1発目は喰らいましたから……」
「2発目以降は完封しているくせに……よく言うわ」
「私に3間以上の距離を取らせているくせにですか?」

文と妖忌の距離は少なく見積もっても5間以上はある。
安全距離という奴だ。互いにこれ以上近づくと一足飛びで攻撃できる範囲に入る。
もし鬼ごっこをしたら妖忌をこれ以上近づけるつもりは無い。……いや2本も刀が無かったら? もっと距離をとらなくてはいけない。

「そんなことより、居合いの術を教えて欲しいのですが?」
「……誰がそんな秘術を教えるか……まあ、もし? 主がもう少し育ってからだったら……の?」
「あ~、そういえばド変態でしたね。幽々子さんが心配です」
「幽々子は……、手を出すわけあるかい。……もう既に手がだせん」
「? どうしました?」
「ふっ、子供には分からんさ。放っとけ。
 ……まあ、そうさな……折角のおなごのたっての願いだしの……うん、ま、いいか。
 教えるわけにはいかんが……見せるだけなら……居合いで主を捕まえてみようと思うが……どう思う?」
「うん? この距離で、ですか?」
「応ともさ、この距離で」

そう言って妖忌が立ち上がる。背には陽炎の様な闘気が立ち上がる。
どうやら本気でやってくれるらしい。……新手の手段でもあるのか? 折角だからこの機会に居合いの術を見切って、椛に伝えよう。
妖忌は文の足元を見ている。文の足元から次に飛ぶ方向を判断している。……なるほど真後ろか……流石だ、自分の特性を良く分かっている。
私の動作を見ながら飛ぶつもりだ。正面から所作を捉え続ける。術がバレるな。まあ良いか……おなごだからサービスするか。
妖忌が笑う、……さて、幽々子から無理やり引き出された力を、半霊の力を……見せるとするかな!
文も妖忌を見て大体前方に突っ込むことを想定している。大体居合い切りは後ろとか、真横は狙わない、正面しかない。
しかし、あの顔から察せる妖忌の自信……この距離でそんな事を言っているなら……加えて、距離をとるべし!!!
瞬時に文が距離をとる。それを追跡するかのごとく居合いの術理を使って妖忌が突っ込む。
文を先に動かした上で二人の距離が縮まっていることに妖忌の実力が示されている。
しかし、縮めきるまで行かない。文が自身の縮地の法を使ってさらに引き剥がしにかかる。たった一歩のバックステップ、それだけで今までの倍の距離が開く。
妖忌はそれを見越している。……流石である!!! しかし我こそ、その流石の上よ!!!
妖気は半霊を自身の体から引き出す。そして居合い切り……刀の側面だ。居合いの要領で半霊を弾き飛ばす。
縮地を超える加速、文があせった。10間以上の距離が無ければ回避が不能……但し、昨日までだ……。
真に恐ろしいのは文の反射神経……普通の烏天狗では直撃の後に気付くはずの斬撃を目視で捉えて反応する。
地面を無理やり捉える。縮地の法を使った状態で軌道修正、椛に対して使ったクナイを地面に突き立てる方法……楓が使った方向転換、出力は5割、
これ以上の出力は腕の関節が抜ける……これで十分だろう、いやさ、この出力でしかありえない。
妖忌の目にもギリギリ、横っ飛びに飛び去る文が映る。

「ちっ……!! 速いわ……小娘!!!」

半霊がすれ違い様に発光で目くらましを使う。目潰し……注視していた文はまともに受ける。
本体が一刀目の居合いの刀を投げ捨て、二刀目の居合いを使って突っ込む。
視覚を失った文は妖忌の体当たりをまともに受けて捕まった。

「ぐふっ!! まさか、全力を出して3間以上の間合いで捕まるなんて、流石、ド変態です!!!」
「ぬしはそれしかいわんのか? まあいいわ、もう少し育ったら……楽しませてもらおうとするかい」

そう言って文をあっさり手放す。
自分の腕はまだまだだ。少女の文を相手に居合いを2回、目潰し1回、オマケに半霊を使った奇襲を加えてようやく捕まえる……こんな有り様では神隠しには通用しない。
せめて、居合い1回で捕まえられないと……例え、相手が縮地を使ってもだ。
自分にとって文は丁度いい練習台……まあ文にとって自分も同じようなもんだから文句は無いか。

「で? ちっとは……役に立ったかい?」
「う~ん、目潰しされたんで……なんとも、まあ最初の居合いは見れたから良しとしますか」
「見えたんかい!!! はぁ~ もう一度修行じゃあ。より早く、動作をまとめ、5間以上を一気に――」
「あ、大丈夫です。もう10間以内には近づきませんから」
「おぬしは……まあいいか、ぬしに手が届いたら、次に進むとするか」
「それも気にしないでください。手を届かせる気も無いので」
「酷いの!! ぬしは!!」

その後、少し雑談をして文が西行寺とかかれた表札の家から出て行く。
ちょっと前までは少し年上の娘さんが居たはずだが今は居ないらしい。
妖忌の話では遠くに引っ越したそうだ。まあ仕方ない。多分、あの神隠しが何かしたんだろう。
気にも留めずに飛び去る。次はどこに行こうか……動作のまとめ方を見たのだから次は妖力のため方がいい。
丁度、太陽の畑にいるはず……。

……

「あ~、そんなことでまた来たの?」
「そうなんですよ。エリーさんには本当に申し訳ないですが、また、お仕置きしてもらうということで」
「……エリーに同情すべきかしら?」
「う~ん、そうかもしれません。で、そんなことより妖力のため方を教えて欲しいのですが?」
「先に言っておくけど無意味ね。私とあんたたちじゃため方が違うし、多分椛って子はさらに全然違うはずよ。
 想像するに……ためるだけの器が無いわ。無理ね」
「? そんなことあるはずがありません。椛は優秀ですよ」
「それはあなたの中だけよ。昔の頃会った子はそんな才能無かったわよ。
 私が才能があると思ったのはあなただけ。それでも私に届くとは欠片も思っていないわ」
「なんだか酷い話です。でも見てればいいのですよ? 椛が逆転してくれるのです」
「ふっ、やっぱガキね、そら、見せてあげるからさっさと帰りなさい」

幽香の指先……正確には指からわずかに離れた一点に妖力が集中する。
見ててきれいなのだが……ニッコリ笑った幽香の指先はどう考えてもこっちを狙っている。
飛びのいたその後を間髪いれずに光条が走る。う~ん、こういうのは参考にならない。
体の内側に溜め込むんじゃなくて、体の外に妖力をチャージする……内側にためる縮地とは大違いだ。

「うん? もっとよく見ていなさいよ?」
「冗談ではありません。風穴が開きますよ?」
「いいじゃない。新しいファッションということで」
「あ、幽香さん。お先にどうぞ、最先端ですよ?」
「ふっくくくく、一本取られたわ。
 じゃあ、そうね、こういうチャージの仕方は参考になるんじゃない?」

ゆっくりと掌に妖力を集める。今度は体の内側だ。
徐々に内圧が高くなっていく。

「す、凄い」
「そうでしょ? でもこれをこのまま続けるとどうなると思う?」
「? どうなりますか?」
「こうなるのよ」

幽香の掌が力に耐え切れずに圧壊し始める。

「う……も、もうやめてください」
「くす、見たかったんでしょ?」
「もう見たくないです」
「ささ、遠慮しないでね」
「やめてください!!」

あっという間に力を抜く。血がにじんでいる手はひと振りで元通りだ。この人は再生能力も持っている。
……遊ばれた。しかし、手が治ってほっとしている自分がいる。

「どう? 参考になった?」
「無理やり自分の限界以上のチャージをするのはやめてください」
「ふっふふふふ、そう? 参考になればなぁ~と思ってやってあげたのに」
「あんなの参考にもならないです。馬鹿のすることです!!」
「あははははは、文、自分が天才だって思ってる?」
「私は普通です!!!」
「私はあなたを天才だと思うわ~」
「? どういうことですか?」
「さあ? どういうことかな? でもねヒントをあげる。
 あなたってさ、椛って子に無理させて無い? 大丈夫? 自分の限界以上の力を引き出させたらね?
 さっきみたいなことが起こるんじゃない?」
「椛は馬鹿では無いです!!! 無茶はしません!!!」
「あっそ、じゃあ杞憂ってことで。でもな~凡人が天才に追いつこうとしたら大体の末路は分かるわ」

文が怒って幽香の元を去る。妖力のチャージの参考にはなったが……幽香はやりすぎだ!!! うかつに物も頼めない。
ふと、気になって椛のことを考えてみる……絶対に無茶はしない。限界は分かっている。……そうです、杞憂なのですよ。
後、残りは術の連動……その前に必要な術を覚えなくてはいけない。楓さんは忙しそうだから……私が教えるのです!
一人 意気揚々と椛がいるはずの白狼天狗の寺子屋に向かう。

……

旧都、二人の鬼が酒に酔って暴れている。旧都ではいつもの光景……なのだが、暴れている場所は牢屋の近くだ。
片方の鬼が巨大化し、その拳を受け止めたものが吹き飛ばされる。吹き飛んだ先は牢屋である。
轟音とともに牢屋は全壊した。

……

寺子屋の廊下で椛が立たされている。大遅刻の結果だ。
そんな所に原因の文があきれて出てくる。

「椛……やっぱり落ちこぼれだったのですね」
「すべて文様のせいです」
「?」

文は椛の言っていることが理解できない。
まあ、どうでもいいことだろう。これから縮地の法を教える。そうすれば多少はまともな成績になるはずである。

「椛、これから縮地の法を教えてあげるのです。
 そうすれば、汚名返上、廊下に立たされることも無くなるのですよ」
「文様、それ絶対におかしいです。私はまだ中等部ですよ?」
「おかしいのは椛の方です。覚えるのは早ければ早いほど良いのですよ?」

教室の中から教官の声が聞こえる。「静かに!!!」とのお言葉だ。
それを聞いて、椛の言葉が小さくなる。

「文様……私は普通の授業を受けるだけで他の術を身に付ける時間はあまり無いです」
「授業なんて退屈じゃないですか、全部の時間を縮地の法につぎ込めばいいのです」
「すみません。それでは私は協同訓練が出来なくなってしまいます。
 連携の取れない白狼天狗は天狗社会から追い出されてしまいますよ」

文は「いいじゃないですか」といっている。なんとなく無責任だと感じた。

「仲間はずれになってしまう私はどうなりますか?」
「別にどうにもならないのですよ?」
「みんなから……白狼の里から追い出されちゃいますよ」
「椛、私がいるのですよ? 不安なんて無いです。大丈夫ですよ。いつでも一緒ですよ?」
「白狼の里から追い出されたらどうしたらいいか分からないです」
「だから大丈夫ですよ。私は烏天狗から追い出されているようなものですが……何も問題ないです。
 案外一人でも大丈夫なのですよ」

「さあ、さっさと決めるのです」と言って、伸ばしてきた文の手を椛が振り払った。
何気ない仕草である。寺子屋の中で授業中だ。いきなり抜け出るわけには行かない。
「文様、いい加減にしてください」そう言って、説得を試みる。
術を身に付けるのに必要な時間が取れないこと、種族が違うこと、互いの役目も違うということ。
説明を聞いた文の顔は凄くショックを受けた顔だ。

「そ、そうですか……椛、ごめんなさい……邪魔をしました」

恐ろしくがっかりした表情で、放心状態のまま文が寺子屋を出て行く。哀愁すら感じる後姿だ。
しかし、意を決したようにすぐさま空の彼方に消えていった。
椛はその後姿を見送るとそれまでどおり廊下に立ち続ける。

……

夜、火が消えたような犬走家では、独り椛が夕食をとっていた。
いつものことだ。楓が遅くなるのは良くあることである。
昨日に比べて静かで、落ち着いた食事が出来た。
昨日の今日で全く部屋は片付いていないので夕食の後、自習も出来ない。
暇な夕食の後、外に出て月を見る。
夜、星明りの下で縮地を試してみる。
鋼体の法は使えない、火事場の馬鹿力でカバーする。
経絡加速は使えないから、集中を使う、視線を意識することはできないので無視する。
一歩ずつ、ゆっくり丁寧に術を連動させて歩く。
徐々に早歩き、速歩、駆け足、小走り、ランニング、ダッシュから疾走へ。
速度の変化になれながら、疾走を続けてみる。
すぐに限界が来た。簡単な術の組み合わせでも、長時間維持をするのは難しい。
これを簡単に、瞬間的に出さないといけない。
文は天才だと思う、こんなに難しい術の連携を本を読んだだけ? にわかには信じがたい。
山を照らす月を見上げる。
きっと、絶対手の届かないあの月みたいな人なんだろう。
まぶしい、夜空の誰よりも輝く全天の頂点だ。
椛は胸に高揚と憧れを抱く。本当に凄い、どこまで昇っていく人だろうか?

……

文は泣いていた。何で泣いているのか自分で理解できない。
昔、勇儀に置いていかれたその感情に似ている。
でも、寂しいわけが無いのだ。いつも独りだったのだ。
ちょっと、椛に、追いついて欲しい……たった一つそれがダメだっただけのことだ。
いつもとかわらない。追いかけてすらくれない烏天狗の仲間は掃いて捨てるほどいる。
椛もその一員だっただけだ。誰も、誰も、誰一人とて追いついてくれない。
いつもどおりなんだ。
でも、でも、何ででしょう? こんな時は……独りがきつい。
いつまで? いつまで続くのだろうか?
いつまでも、どこまでも、これから果てなく独りだ。これまでも、今までどおり、これからも、独り。
声を上げて泣いている。きっと、きっと泣き終わったら諦めが付く。
勇儀様のときと同じように……

……

明け方、楓が寝ぼけ眼をこすりながら、昨日の術の反動の筋肉痛を迎えて疲労困憊の姿で警戒を行っている。
嫌な、嫌な、匂いが漂っている。危険な香りがする。
実際の匂いではなく、危険性を鼻でかぎつける。眠いのになぜか緊張感で眠れない。
足元がゆれている感じがする。疲れて頭がふらついているのか、ほんとにゆれているのかが区別できない。
本当に最悪の時は、いや、多分嫌なことが重なった結果が最悪なんだろう。
視界の果てで、多分河童の里だろう、水柱が上がっている。
哨戒部隊に警報が鳴っている。
偵察中の全白狼天狗が河童の里に集結する。
大騒動だ。
怨霊やら、忘れられた妖怪、太古の生き物が、ぽっかり開いた大穴からあふれ出ている。
河童が逃げ惑い、天狗があふれるものを押しとどめる。
こんな時は日頃の鍛錬が物を言う。
仲間との連携はこの事態を治めるためだ。
相手はいきなり出てきただけの所詮烏合の衆だった。楓も思いっきり戦った。
時間にして十数分後にはほぼ全ての相手が片付いている。
仕上げとして集結した仲間で術式を組む、結界をはって穴に一時的なふたをする。
ほっと一息、本当の処置としては穴をふさぐ必要があるのだが、被害を最小に抑えるためにはこれが一番……
一時的に押さえつけて、天狗の本隊の到着を待つ。太郎坊以下大天狗が集結すればこの程度の穴であれば1日でふさがる。
しかし、匂いが消えない……危険が充満している。
仲間も皆感じている。恐ろしく強い妖気が穴の中にある。
もしかして……さっきまでの連中はこいつに追い出されてきたのか?
こいつは強い……そしてタイミングを見ている。知恵が回るらしい。やっぱりさっきの奴らはけしかけられたのだ。
騒ぎに一区切りをつけた所為で余計に妖気が目立つようになっている。
穴から距離を取る。いざとなったら撤退する。河童は保護した。人的被害は出ない。……出したくない。
現場の天狗の意見は一致している。下手に戦えば犠牲者が出る。穴と山を結ぶラインに人数をかけて全員で防御陣を敷く。
そのほかの部分は仕方が無い。人的被害が出なければ山を守る。河童の里そのものは見捨てる。
結界が目に見えて盛り上がっていく、ものの数秒で吹き飛ぶだろう。
そんな奴が地底から出てくる……最初に烏合の衆をけしかけて騒ぎを見ていた奴だ。
白狼天狗の前衛が一気に後退する。同時に穴をさらに広げて1組の妖怪が出現した。

現、鬼の罪人……豚鬼
前太郎坊補佐……雷光丸

恐ろしいのは天狗の雷光丸だ。白狼天狗全員が潜んでいる者は1人だと思っている。
鬼を超える妖気が感知できない……気配を隠すのが上手すぎる。

「ひゃはははは、天狗共は撤退したらしいな」
「ぶひ、お、おれなら、てったいよりはやく―――」
「うるさいぞ、豚。黙っていろ。しかし、運が良かったの、勇儀が牢屋をぶち壊すとはな」
「あ、あのおんなは―――」
「のろい……豚は黙っていろ。勇儀ならじきにここに来るさ。まあ、来る前に、山をぐちゃぐちゃにしてやるがな」

今は、身を隠す。全壊した旧都の牢屋から重罪人が大量にあふれ出した。
雷光丸は牢屋を抜け出す時に罪人の何人かに別々の方向に逃げるように吹き込んでいる。
連中が四方八方に逃げたら捕縛に時間がかかるだろう。
いかに鬼の四天王が2人がかりでも、逃げ出した連中を全員捕まえるには数ヶ月かかるはずだ。

「ひゃははははは、見ていろ天魔、太郎坊、俺がすべてをぶち壊してやるわ」
「ぶ、ぶひひ、ひひひひひ」

笑い声は二つ聞こえるのに姿は一つ、白狼天狗隊の混乱を尻目に無名の丘を目指して消えていく。
無名の丘は寂しい所だ。そして、妖怪の山の反対側……しばらく隠れて様子を見るには都合が良い。
こんな所に来る奴なんていない。
作戦を練らせてもらおう。十分に山から離れた後で、豚鬼と別れる。……捨てたと言ってよい。
あんなでくの坊、一緒にいたら目立つ。このまま折り返しさせて、追跡してくる連中の目くらましにする。
豚鬼は単純で食欲が優先の生き物……火種には丁度いい。奴が暴れれば山に隙も出来る。
それに、大穴には自分の匂いも残っている。
狗共に自分の存在を気付かせるわけにはいかない。豚鬼に大暴れをさせれば、あいつの体臭で白狼だろうと追跡不可能になる。
鬼にも匂いの追跡は出来ない。自分の痕跡は確実に消える。

「のろまな豚だが働き者よ」

唯一の懸念は奴自身が雷光丸の事をしゃべるかだが、牢屋にて俺の名前を名乗った覚えは無い。
それに加えて、奴の記憶力は極端に低い……すぐ忘れるだろう。ま、俺の名前が漏れるとしたら鬼の手配リストぐらいか。
但し、それは数ヶ月後……他の逃げた連中を全部捕まえて、チェックした後だ。
脳みその足りなさ加減、食欲のみの単純思考、罪人随一の馬鹿力、まさに捨て駒にふさわしい。
そろそろ豚鬼が穴の近くで天狗の事後処理部隊と正面衝突だ。……一回目は豚が勝つだろうな、それであの豚が調子に乗れば重畳だ。

……

壊滅した河童の里では散らかった道具の回収、家の建て直しが河童の手によって行われている。
穴は天狗が再度結界にてふさいでいる。
白狼天狗が現場を封鎖し、調査と出てきた奴の追跡隊が組織されていた。
河童の里に近づく振動を全員が感じ取る。……さっきの奴が戻ってきた。
即座に追跡隊が円陣を組む、調査隊はすぐに撤退だ。河童が慌てて引き上げていく。
追跡隊全員が注視する。木陰からわずかに見える影に角が見えた。
鬼が相手では戦いにならない。全員が木陰に隠れる。

「ぶひひひひ、におうな~ なんにんだ?
 よん、……ろく? たくさんだ」

地面で鼻をひくつかせながら匂いをたどる。
……こいつはまずい……どこに逃げても追跡をくう。
下手に山まで逃げると里にまで侵入を許すだろう。
加えてこいつは敵だ。以前、この山に居た鬼では無い。あの人たちはこんな形で攻撃を加えてくることはしない。
隠れて他人をけしかけてくる時点で四天王配下の鬼とは考えられない。
以前、この山に居た鬼ではないのだから追っ払うだけである。山に入ろうとするなら、今この人数で止めるしかない。
目配せにて全員が隠し武器を構える。
豚鬼が穴の真横に差し掛かった時だ。匂いをかぐための身をかがめた姿勢では絶対に見えない。
木陰から垂直に飛び上がり木の上からの全員一斉攻撃……妖怪の山のふもとで砂煙が上がる。
鬼であっても多少の痛みを伴う威嚇攻撃だ。
しかし、豚鬼には分厚い脂肪の柔軟極まる多重装甲がある。
斬撃に耐えうる鬼の素肌に衝撃を吸収する分厚い脂肪、罪人随一の馬鹿力に決して曲がらぬ鬼の骨格……並みの攻撃では通用しない、威嚇ではなおさらである。
結果、天狗の攻撃は自分の居場所を教えるだけに終わった。

「ひひひひひ、そこだったか~ いっぱい、いっぱい にくが、くえるぞ」

何なんだこいつ? と言った顔を全員が抑えきれない。
飛び道具は通じないことは分かったが……これで引かないなら斬撃をお見舞いする。
追跡隊全8名が一気に豚を取り囲み、即、八方位から同時に斬撃を加える……! 切れない!!
豚鬼の目からは天狗の動きは何も見えていない……そしてほとんど痛みも感じていなかった。
天狗は全員で幾何学的に八角形を描いたまま、今度は術を使って先ほどの一撃を超える衝撃をお見舞いしようとする。
「ぶひっ!?」豚鬼が思わず声を漏らす一撃! しかし、切れない……痣は残るが……流石に鬼の肌だ。
馬鹿力程度の術では通用しない。
豚鬼は思いっきり息を吸い込む、パンパンに膨れ上がった腹はまるで風船のよう……天狗は警戒し一足飛びで距離をとったが……足りなかった。
大声が襲う、豚の嘶き……四天王ほどではないが、耳が良すぎる白狼にとっては大ダメージだった。
距離をとらなかったら、まさに悲惨……1秒に満たない時間で全滅しただろう。
耳を思いっきり攻撃されて視界までゆがむ、まっすぐ歩けない。指示も伝わらない。
ふらふら、8人が統率を離ればらばらに動く、非常にまずい事態が起こっている。
立て続けに豚鬼が拳を振り上げる。
地面に刺さった拳から、振動と破裂音、地割れが走った。
全員が転倒して身動きが取れない。そのまま、一人が捕まる。
悲鳴を上げているが他の誰にも届かない。足をつかんだまま、豚鬼が叩いてひき肉にするか、そのまま引き裂いて刺身にするか思案している。

「え~? あ~? そうだ はんぶんごとがいい」

白狼天狗を、両手で振り上げるとあるかないか分からない膝を立てて力任せに振り下ろそうとする。
絶叫している天狗にとって幸運だったのは仲間がたった一人突っ込んできたことだ。
追跡隊ではない、彼らは地面でのたうち回っている。
昨日、非常に特殊な術を復習していた者……撤退したはずの調査隊の楓が縮地の法を使って突っ込んできた。
豚鬼の顔面を剣の突きで捉える。単純な突きではない。縮地の法を腕のみで発動させたものだ。
意図的に加速させて、剣をナックルで押し込む。突きの鋭さと拳の打撃を上乗せし、見切り不能にするために両目の間に打ち込む。
拳ー剣ー顔面を一直線にして必殺の一撃が炸裂した。
豚鬼が絶叫し、顔面を両手で押さえてひっくり返る。

激痛で楓が腕を押さえている。足と違って腕は筋力が異なる。それを全体重で通常の全速力を超えた負荷を片手一本にかけた。
きき腕を自分の意思で曲げることが出来ない、しばらく……数ヶ月の間は使えない、そういう使い方をしてしまった。
しかし、それでもなお、楓の後ろで豚鬼が起き上がろうとする音が聞こえる。
仲間を抱えてやりたいが……腕が使えない……仲間が逃げ切るまで、豚鬼をひきつける……これしかない。
一人で鬼に立ち向かう。さっきの一撃は……血が滴っているが……それだけだ、怒っただけで実質のダメージは全く無い。
使った剣を見てみる。先端が欠けて一本ひびが入っている。鬼の骨格はとんでもないものだ。剣をめり込ませることすら不可能。
勝つのは絶望的……すべての妖力と体力をおとりのために使う。

「さ、いらっしゃい。私が相手をしてあげるわ」
「ぶ、ぶひ、めすいぬのぶんざいで、ほねまでしゃぶるぞ」

楓の後ろで追跡隊が撤退を始めている。遅滞戦闘……しんがりの役目だ。
におい消しを手で確かめる……追跡されることは里の全滅を示す。
いざとなったら上空に飛べば匂いの追跡は不能になるが……方向だけでもばれるとまずい。
山から徹底的に引き剥がして、におい消しを奴の鼻にぶち込み嗅覚を破壊する。
「難しいな……」漏らした理由は明白だ。
昨日の今日でしかもフル装備で縮地の法を全力使用……爪と足が限界だ。
利き腕も挙がらない。オマケに剣がヒビ入り、もう使えない。
しかし、この状態でも捕まる気は微塵も無い……あの下卑た表情……捕まるわけにはいかないのだ。
天狗の本隊は……おそらく間に合わない。出てきた奴の報告を受けて再装備の準備中のはずだ。
そんなに長い時間を足止めは出来ない。
覚悟を決めて豚鬼に突っ込む。

5分にわたる激闘の結果、嗅覚を破壊することには成功したが、離脱する体力は残っていない。
ばらばらになった剣と帷子を現場に残し、川に転落していった。
豚鬼はそれを口惜しそうに見ている。川は激流だ。楓があっという間に流されていく。
しかし、しばらく行けば川幅も広がり流れが遅くなるはず……そうすれば手が出せる。
鼻を壊された以上、目に見える獲物を追いかけないと腹が減って仕方ない。そう思うと川沿いを追いかける。
勾配がゆるくなるにつれ流速が遅くなる、森を抜ける頃には水に入れるようになる。そしたら、飛び込めばいい。
体を揺らして、ある意味軽快な歩調で追いすがる。
しかし……豚鬼の前方にとんでもない妖気の塊が出現した。

「ぶ、ぶひ、あ? うぃ!!?」

夢中になって川沿いを下っている豚鬼に向かってくる影がある。
鈍い豚鬼ですら、感づくほどの、遭遇を忌避しなければいけない妖気が二つも近づいてくる。
いきなり噴出した怨霊を感知し、騒動の最中飛び出してきた妖気の正体を探ろうとした二人組み、神隠しと九尾だ。

「あー、全くなにやってのかしら。山の連中は」
「これは山のせいでは無い気がしますが?」
「奴らの管轄エリアで起きたんだから、奴らの責任でしょ!! 感知できないのなら監督不行き届き!!!」
「……厳しい」
「世の中そんなものよ」

二人で現場に向かって歩いてく、スキマワープで現場に直行も考えたがそれは不法侵入に相当する。
いきなりでかい妖気で土足で山に上がりこんだら天魔がうるさい。こそこそと進入したら余計に怪しまれる。
それで感知できるようにわざわざでかい妖気を開放して歩いていく、めんどくさい連中だと心に思って顔に出さない。
二人にしてみれば、現場に向かう途中で、そこそこでかそうな妖気を感じたので、事情を知っているかと話を聞いてみようと思ったに過ぎない。
……それにしても初めて感じる妖気だ。次第に小さくしているようだが……まさか今気が付いたなんて事は無いだろう。
……ん? 横にそれて動かなくなった?
二人組みは、その方向にまがると豚鬼を追跡をする形になった。
悪臭漂う中、いくら近づいても逃げていく。鼻をつまんでいる藍が隣を見る、紫がぶちきれ寸前だ。

「こ、こっちは礼儀を守ってさ。わざわざ歩いてきたのよね?」
「一応そのはずですが?」
「な、なのにさ、何で逃げてくのかな?」
「会いたくないからですかね?」
「じゃ、じゃあさ、とんでもないことが起きたって事? 見せるのがまずいってことかな?」
「それは現場に行けば分かるでしょう。紫様……先に進みましょう。どうやらこいつは山の者では無いです。
 匂いがその……これ以上近づくと鼻が曲がる……もう近づきたくないです」
「げっ!! 出てきたやつの方か……藍―――」

藍はその言葉の続きを聞くつもりは毛頭なかった。捕まえろって言うに決まっている。
あんな悪臭の物は触りたくない……命令なんてものは聞かなければ従う必要も無い。
全力で逃げた。
「ちょっと!? 捕まえてよ藍!!?―――」なんて叫びながら紫が追いかけていく。
正体に気付かれたことさえ気付いていない豚鬼がようやく巻いたと胸をなでおろしている。
二人して四天王級の妖力だ。遭遇していたらズタボロにされただろう。
ニタリと笑うと楓の追跡に戻る、だいぶ先に流れたが追いつけるはずだ。

……

現場では藍が調査を始めている。
横目で見た大穴からはかなりの者が出てきた。さっきの悪臭の塊ではない。
もう一人、妖気を全く感知させないかすかな匂いが藍の警戒心をひきつける。
雑魚だから感知できないのではなく、うまく隠していて追跡が難しい。
真剣にこいつの追跡をしないと非常にまずい事態が起こる……
主人を置き去りした従者を半ギレの紫がとがめている。

「藍。私の言いたいことはわかっているわよね?」
「ええ、ただちに追跡にかかります。こいつは非常にまずいです」
「じゃあさっさと行け!!! 時間をつぶすな!!!」
「そうしたいですが……匂いが途切れ途切れで……凄い、あいつがもう少し暴れていたら……
 危うい……気付きもしなかったですね」
「何言ってのよ?」
「紫様、もう一人居ますよ。こいつは化け物級です。
 さっきの奴は比較になりません。少なくとも太郎坊級のモンスターが這い出してきましたよ」
「はん。そんな奴、感知できないわけ無いじゃない」
「感知できないからこそ……です」
「分かった。じゃあそいつの追跡をお願いするわ。
 私は……後ろの次郎坊と話をしなくちゃね」

ようやく装備を整え終わった天狗本隊の到着だ。楓が戦闘終了してから10分、早いのだろう。
吹き出たものの正体をつかんで装備を整えなおしてから数えても大体20分程度の時間だ。
超重装備の白狼天狗大隊が相手への驚異を物語っている。

「紫さんですか? このような大穴を明けたのは?」
「ぶっ!!? 開けるわけ無いでしょう!!
 大体、あんたたちの管轄で分けのわかんないこと起こすからわざわざ来たのよっ!!?」
「小隊の報告では、鬼が出現したとの事ですが……本当にあなたの手引きでは無いと?」
「鬼!!? 鬼……あのへんてこなのが鬼!!?
 藍!! あれは私の知り合いだったかしら?」
「ありえませんね、紫様の知り合いなら体臭より先に酒の香りがしますよ」
「そ~よ、あのガキは、日頃飲んだくれてもう……会えば酒の前借……お返しに酒虫? ざけんじゃないわ……
 っと失礼、とりあえず出てきたのは知らないわ。後を追いたいのならここからずっと川下だけど!?」
「山から離れたのならとりあえず追いません。犬走は……役目を果たして死んだか?」
「私にも情報を頂戴よ。退治するにしても地底に追い返すにしても情報が不足してるわ」

次郎坊が白狼天狗に指示を飛ばして山に非常線を張る。紫は藍に追跡の指示を出した。
調査隊と追跡隊計12名、うち負傷者8名に行方不明1名。
藍が戦いの跡地から戦闘をトレースしている……いない……少なくとも隠れている天狗に関する情報はない。
あるのは豚と白狼の一騎討ちの情報だけだ。
岩盤が複数割れているのはあの豚の仕業か、力だけは警戒しないといけない。捕まったら振りほどくのも手間だ。
地割れを中心として地面に円形の引っかき傷が残っている。
爪も2~3散逸している。ふふん、自分自身をおとりにしたか……白狼らしいといえばらしいが……なるほど。
地面に残った足跡の数からして……2分ほどひきつけて自分自身が離脱……しかし失敗したな……足の爪がぼろぼろだったようだ。
縮地の法をミスってこけた痕が残っている。片足分の爪が割れて地面に食い込んでいる。
その先で草の上を転がったらしい、一直線に草が折れている。
藍はそのあとを追う。ぼろぼろになった剣の残骸と帷子が落ちている。その残骸たちが示している先は川だ。

「……なるほど川に逃げたか。そうだな、あいつは川沿いを最初歩いていたな。
 追跡中だったか……」
「藍そんなことはいいからさっさと天狗のほうを追って頂戴」
「情報が無いんですよ。しばらくここ一帯を調査します」

そう言う藍をため息をつきながら紫が見ている。仕方ないと、紫は紫で天狗の里に向かっていく。
こういうときに効率よく、さっと話を終えたいのだが……彼らのやり方にあわせよう。

……

寺子屋では授業の真っ最中なのだが、椛は教員室に呼び出されていた。
顔が蒼白である。母親が行方不明になっている。
敵と戦って、行方不明になった。
今すぐに探しに行きたいのだが、豚鬼が徘徊しているため山の境界には非常線が張られている。
境界の外には救助隊も組めないそうだ。何度か大声で大人の天狗に頼んでみたが無駄だった。
ふらふらと椛が家に向かって帰っていく。

……

文のもとには監視人が来ている。
悪意満面の監視人の顔を見て文は聞く耳を持っていない。
そんなことはお構いなしに監視人は話を続ける。

「……ひと通りの事の顛末は話しましたからね?」
「……じゃあ、さっさと消えてください」
「ふふ、あっそう。
 そうだ、ひとつだけ忘れていたわ」
「あ~、あなたらしいです。さっさと終わらせてください」
「馬鹿犬の一人が調査隊の撤退命令を無視して鬼に突っ込んでったらしいわ。
 あなたの独断でその違反者を処分してみたら? 次郎坊様もいいって言ってくれるでしょうよ。
 追跡隊も崩壊したって言うし、全く我ら天狗の面汚しよね」
「白狼たちもあなたには言われたく無いでしょう」
「そうかな? おかげで誰かさんの大好きな人がたった一人で行方不明ですって、他はみんな帰ってきたわ。
 ま、関係ないわね。じゃあね」

あせり狂った表情で文がこっちを振り返ったが、あっさりと戸を閉めて退散する。
事実の順番を入れ替えて伝える。大事な名前は伏せて行方不明の事実だけ。
子供の文にはこういった悪意なんていうものは分からないだろう。
にんまり笑って振り返ると文がすぐ後ろに居た。

「誰ですかっ!! その大馬鹿者は?」
「えっ!!? はっ? し、知らないわ」
「言いなさい!! 知っていますね!!? その顔は!!」
「知りたいなら、知り合いに聞いてみなさいよ。いるでしょ!? 犬の知り合いが」

こんな所で監視人に話を聞くぐらいなら”椛に聞いたほうがまし”という判断を瞬時に行うと、文は犬走の家に向かって飛んでいった。

……

椛が泣いている。家で机に突っ伏して泣いている。
母はもう二度と戻ってこないかもしれない。
追跡隊から聞いた話では、一人で豚鬼をひきつけて戦っていたそうだ。
におい消しを鼻にぶち込んで、かかと落としを食らわせ、におい消しを鼻空で炸裂させることに成功したらしい。
但し、そこまでしかわからない。撤退したからだ、それ以上の情報は持っていない。
天狗本隊が見つけた剣と帷子はぼろぼろになっている。特に剣が酷い、原型が無い。
見れば見るほど絶望していく、ただ泣くしか出来ない。
どうやったら納得なんてことができるのだろうか? 立派に戦ったとか、任務を完遂した白狼の鑑だとか言われても、そばに居ない事実には勝てない。
言われたことがぐるぐる空回りしている。どうやったら立ち直れるのか?
居なくなって初めて、帰ってこないって自覚して、初めてこんなに大好きだって事を知った。こんなにもそばに居て欲しいと思った事は無い。
ぼろぼろでもいいから帰ってきて欲しい。
今、ほかの事は考えられない。
そんな所に文が突っ込んできたのである。

「椛ぃ!!! 出てきなさい!!! 話があります!!!」
「あ、文様……」
「早く出てきなさい!!!」

文が待っていられないと家に飛び込んで椛を見る。
椛が手に握っているのは不釣合いな大きさの剣と帷子……どっちもぼろぼろで……文が早合点するには十分な情報だった。

「ぐっ!! ま、さか、本当に!!?」

文の目に怒気が、殺意に近い感情が燃え上がっている。
文にとっても楓は大事な人だった。
……あの楓さんが……命令無視をした馬鹿犬なんかと引き換えになってしまった……文が悔しそうにつぶやいている。
楓は山で数えてわずか数人の全幅の信頼を寄せていた人だ。
そんな人を行方不明にした奴がのうのうと生きている。
そう考えただけでもはらわたが煮えくり返る。ぶん殴って思い知らせてやらなきゃ収まらない。
焼け石をなべにぶち込んだような勢いで怒りを巻き上げ、まくし立てるような口調で文が話し始める。
感情のコントロールが振り切れていた。

「椛、今すぐ、命令無視した馬鹿を呼んでください!! 私が話をつけます!!
 どこの馬鹿ですかぁ!!」
「め、命令無視?」
「そうですよ!! 調査隊の撤退命令を無視した馬鹿な奴です!!
 豚に一人で突っ込んで、追跡隊はそれで崩壊したそうじゃないですか!!!
 その馬鹿犬は私がぶっ飛ばします!!!」
「い、犬?」

監視人は誓って命令無視した奴が原因で追跡隊が崩壊したなんて言っていない。
単純に伝える順番をミスリードさせただけだ。但しあの順番で話せば文がそう解釈するだろうという意地悪である。
その意地悪が最悪のタイミングで炸裂した。
文は自分で感情が制御できていない。楓を失わせたクソヤロウを自らの手で処断するつもりだ。
その一点のみで、怒りせいで椛の感情が見えていなかった。
自分の母親のことを犬と呼ばれた椛の手が震える。
確かに母のことは聞いた。撤退命令を無視したのも知っている。
当然だ、軽装で武器もろくに持っていなかったって聞いている。
調査隊にしてみれば至極当然の撤退を、仲間の悲鳴を聞いて、舞い戻って戦ったのだ。
そ、それを、馬鹿犬だって? 命令に忠実なことがそんなに大事なのですか?
命令よりも大事なことがあるから、戻ってがんばって戦った人を、もう帰ってこないかもしれない人のことを思いっきり罵られた。
とっても大事でそばに居て欲しいと思っていた人を、今はその人のことしか考えられないのに馬鹿にされた。
黙ってなんていられない、たとえ位付きだろうが、自分より強かろうが、親しい人だったとしても。

「と、取り消して」
「? 何を取り消すのです!! 私は追跡隊の邪魔をして、命令無視をした。
 豚鬼を取り逃がす原因を作った馬鹿犬の話をしているのです!!」
「ま、また 言った。犬なんていわないで! 私のお母さんは―――」
「椛、分かっていますよ。私達の楓さんはいなくなりました。居なくなってしまったのですよ!!!
 今は、命令を無視した駄犬だけがいるのです!!! 今すぐそいつを連れてくるのです!!!」

ギリギリと歯軋りしている。自分の感情を抑えることに限界を覚え始める。
自分の母のことを犬と呼ぶ、それもわざわざ言いなおして。しかも行方不明になっている人をつれてこいだって!?
文の言葉を椛は「楓が命令無視で駄犬に変わった」と言っていると解釈した。
自分の頭の中で、追跡隊の一人の言葉が巡っている。
お母さんは立派に戦ったんだ。撤退命令を無視しても助けに来てくれたって、格好良かったって。感謝しているって言っていたんだ。
そ、それを馬鹿犬だって? 追跡隊8人がかりでも勝てない奴だったんだぞ?
みんなが逃げるまで必死に粘ってくれていたんだぞ?

「黙っていないで……そうですか、命令が必要ですか!!!
 椛!! 隊列を崩すほど無能で、鬼と一騎打ちするほどの無謀な、撤退命令も聞かない駄犬を呼べ!!!
 その犬は天狗の面汚しだ!!!
 私が私の誇りをかけて、名誉のために処断する!!!」

椛の中でブツリと何かが切れた気がした。あなたの中でお母さんは無能で、無謀で、駄犬ですか。
……そうですか、あなたの中で私のお母さんよりも自分の名誉の方が重いんですか。
ああ、結局この人は私達をこんな風に見ていたのか、親しいなんて上っ面だけだったわけだ。
もういい、もうどうでもいい、こんな人に感情を抑える必要なんて無い。
くやしい、こんな人に私はいいように遊ばれていたなんて。

「椛!!! あなたは悔しくないのですか! その犬のせいで……楓……さんが」

泣きながら椛が敵意を文に向けている。
初めてだった。椛に迫力で押し負けた。初めて牙を向けられて自分でどうしたらいいか分からない。
怒りの感情に共感してくれるはずだった。二人で一緒に楓さんの敵を討つつもりだった。
……大丈夫なのですよ? 後で文句を言う奴が居たら、権力を使って潰すのです。なんで、何で? 怒っているの?
怒りを向けられて戸惑う、椛が敵意を向ける意味が分からない。

「も、椛? どうしたのですか?」

驚く文に対して狼の喉が鳴る。
今日お母さんが行方不明、状況証拠だけなら死亡に等しい。
ずっと泣いていたんだ。これからどうしたらいいのか、なにも分からない。
悲しくて、これからが怖くてたまらない。
一人になってしまった。いつも居てくれる人が居なくなってしまった。
とっても、とっても、かけがえの無い人だって今気が付いたのに……あなたはそれを馬鹿にして!!!

「あ、あなたが 今馬鹿にしていたのは! 駄犬と言ったのは!! 私のお母さんだ!!!」

言い終わるなり、突進をぶちかます。
迫力に気圧された。圧倒的格下であるはずの椛の威圧に体がひるむ。文自身で始めての感覚、あせった本能が全力を引き出す。
文は椛の真剣な表情をわけのわからないまま迎え撃つ。
天狗の中でもずば抜けた才能を持つ文の全速、全力の縮地の法―――
腹にカウンターで蹴りを受けた椛が真剣なまなざしのまま突進と間逆の方向の壁に激突した。
既に意識が無い、目を開いたまま、涙を頬に貼り付けたまま、怒りの表情のまま気絶している。
文にはもはやどうしていいか分からない。蹴りを加えた足がただただ痛い。
……な、何でこんなこと……に、私は、ただ私は楓さんの敵を討とうとしただけなのに。
椛の最後の言葉を反芻している。
……私が駄犬と言ったのは楓さん? そんなことは無い。無いよ、そんなわけあるはずが無い。
私は楓さんのことを出会った中で最高の白狼天狗だって思っているよ?
だから、そんな人を失う原因を作った……馬鹿な奴を出せって言っていたのに……椛……なんでそんな勘違いをしたのですか?
赤くはれた足を完全放置して呆然と立っている。何かが壊れた気がした。足じゃない。
大切な何かが零れ落ちた。もうすくい上げることはできない。今、こぼれた涙みたいに戻ってくることの無い感情。
……そうだ泣くほど痛い。これはきっと足が痛いせいだ。だってさ、涙が止まらないよ?
幽香さんにボコボコにされた時は涙が止まらなかった。
きっとあの時と同じはずだ、あの時だって声を上げて思いっきり泣いたんだ。
そうだ、声を上げて……いやだ、認めたくない、声が出てこない。あの時と違うなんて信じたくない。
体が痛いから泣くんだ。孤独だから、もう誰も一緒にいてくれないからなんて事で泣きたくない。
椛の顔を見る。怒りだけが張り付いて、私への拒絶が見えてしまう。
椛が私に追いつけないことは理解したんだ。でも、でも、そっぽまで向かれたら私はどうしたらいいの?
勇儀様の時と同じ。あの誰も付いてきてくれない感覚、一人ぼっちだ。
誰も、誰も、椛でさえも共感なんてしてくれない。そして、楓さんが帰って来てくれない。

一番理解したくないことがようやく分かった。
もうふらふらだ。頭がぐるぐる、嫌われたこと、失ったことに対する堂々巡りを繰り返す。
放心状態だ。椛にはもう、手が届かない。決定的に関係が壊れてしまった。
そんなつもりなかったのに……私が楓さんを馬鹿にしたのか? そのまま椛に嫌われてしまった。
元から両の手に満たない数の親しい人が一気に二人も減ってしまった。どうしたら……どうしたらいいのだろう。
痛む足に気がつかないほどぼろぼろになった文が自宅に戻ったのは月が天頂に差し掛かった頃であった。

……

「おお、河童じゃないな?」

妖忌が釣りをしている。まだ紅魔館すらない湖のほとりだ。
川上から流れてきたのだろうか? 何か白い者がおぼれている。
長い銀糸に文に似た服装……頭の上の方に耳が生えておるな。
……ほう、なるほど、河童の川流れならぬ天狗の川流れか……世にも珍しい物よ。
妖忌が湖に手を入れてみる。……冷たい。こりゃあ体が冷えるわい。そうだ。半霊でも使うか?
のんびりとそんな事を考えている。
ようやく考えをまとめた妖忌は釣り糸を使った。
思いっきり振って服に引っ掛ける。そのまま力ずくで手繰り寄せて岸へと引き上げる。
吊り上げた大物は息切れの上に震えて仰向けで動けなくなっている。
見れば腕が動かないらしい。爪やらあちこち欠けている。
しかし、そんなことはどうでもいい、最も妖忌の目を引いたのは胸だ。
文なんかよりも大きい、思わずのどを鳴らした。
そして、水に濡れて張り付いた服が妙になまめかしい。
普通ならだぶついた服が体の華奢なラインを隠してくれるのだが、水を吸って肌にぴったり吸い付いている。
大人の天狗はこうも美しいのか……見とれていると視線に気付かれたらしい。
薄目を開けた目と釘付けになっている目が合う。

「御仁、どこを見られているのか?」
「おお、スマン。なにせ盛りじゃ許せ」

妖忌はそのまま立ち上がるとなにやら思案している。
ぶつぶつ独り言で考えているようだが……楓からしたら丸聞こえだ。
どうやら自分はとんでもないド変態に捕まったらしい。
紳士的に行くか、それとも肉食系でいくかで迷っているらしい。
楓からすれば下卑た下心なんぞ持っていて欲しくないのだが、そういう人物らしい。
願い下げだ。助けてもらった礼だけ言って、さっさと山に戻るのがベストだ。
立ち上がろうとするが、利き手が使えない、春の川は予想以上に体温を奪っていった、加えて足は筋肉痛で爪がほぼ全滅している。
立てなかった。
その様子を見て妖忌が態度を決める。……紳士で行こう。

「おおっと、お嬢さん。そんな怪我で無理は禁物ではないかな?」
「いえ、手助けは結構です。必要ありませんよ。
 おぼれていたところを助けていただいただけで十分です」
「おやおや、つれないことを言う。待ってなさい今、火を起こすから……
 そうだ。着替えを持ってきてやろう。ちょっときついだろうが、女物の服は持っておる」
「……ド変態め、女装趣味まであるのか……」
「いやいや、俺の女物の服なわけないだろう。丁度年頃の娘がおったのでの……」

楓の気分が一気に最悪に傾く。こんな奴の所に年頃の娘……まさか手篭めにしたのか?
思いっきり感情を害された。自分にも娘がいる。
もし、こんな奴に手篭めにされていたらただでは済まさない。おそらくその娘の親も同じだ。
こんな奴には仕置きが必要だ。楓の目が妖しく光る。少し体を動かして服をはだけさせる。
妖忌はそれに引かれる。視線が釘付け。興奮のあまり覗き込もうとして身を乗り出す。
しまりの無い、鼻の下を伸ばした表情の間抜け面が吸い寄せられてくる。
楓は十分に妖忌をひきつけた後、極、近距離において、唯一ダメージを受けていない左腕で上半身を跳ね上げる。
爪も剣も失ったが牙まで失ってはいない。
妖忌の思考は既に……おお、あと少しで見えるぞ!……その一点に絞られていた。
その結果、あっさり腕を噛みつかれ、そのまま楓に首を振られ、ものの見事に顔面から大地に叩きつけられた。

「ぐっ……惜しい、あと少し」
「はぁ……はぁ、ど、ド変態め! しばらくそうして寝ていろ!!」

そういう楓ももう動けない。上半身を起こしているだけでも億劫だ。
妖忌のほうはごろりと仰向けになるとそのまま大の字になっている。
こんな奴のために、最後のなけなしの体力を使ってしまった。
せめてもの威嚇でにらみつけてみるがそっぽを向かれた。
にらみつけるのも無駄と悟り、体力回復のために力を抜こうとした時だ。
振動を感じる。一気に顔がこわばる。
……まさか……まだあきらめていない?
振動はいやらしくも次第に大きくなっている。
思わず妖忌に話しかけた。

「お、おい。今―――」
「しっ、静かに、誰じゃ? こんな時に逢引の邪魔しおって」

声を荒げて逢引などしていないと言おうとしたが、妖忌の顔が真剣だった。
妖忌はそっぽを向いたのではない耳を地面に当てて音をみている。
身を伏せるように言われるが、豚鬼が来るなら、寝てなどいられない。
構えようとして武器も防具も無いことを思い出す。
そんな態度の楓を妖忌がみていた。
女人がそういう反応を見せるなら、そういう奴なのだろう。
一言も豚鬼について会話をしていないのに、出会ってみてもいない相手のことを勝手に敵と判断した。

「伏せておれ、俺が何とかしよう」

そう言って、立ち上がる。
豚鬼の姿が遠目に確認できる。……あ~、角があるな。鬼か? 鬼はもっと締まっていると思ったが……なんじゃ? あの腹は?
立ち上がった妖忌を楓が抑えようとする。

「馬鹿、伏せろ。奴は今、鼻が利かない。静かに移動すれば逃げられる」
「ふうん、ぬしは自分の体力が分かっておるか? こういうときはな、動かんほうがいいぞ」

そう言って妖忌は半霊を引き出す。まあ形は違うが、遠めにみた色は楓と似ているだろう、そのまま草むらを進めばいい。
そう思うと草むらを狙って半霊を進める。本人同士は湖のそばに身を伏せる。
隠れているようで、気配を駄々もれさせた半霊が豚鬼をひきつける。
ちらりちらりと見える白い色に引かれてそのまま鬼が半霊の追跡を始めた。
妖忌はそのまま、半霊を草むらに隠しながら進めていく、向かい先は幽香の家だ。
あんなもの俺が相手をする必要は無い。幽香に任せればそれだけでけりが付く。
わずか五分の後に豚鬼は視界から消えて、太陽の畑に向かっていった。

「ふぃ~、終わったぞ」
「? どういうことか?」
「あのへんてこな鬼の始末が付いたって事だよ」

幽香があれと遭遇したら……まあ、一瞬だろう。
妖忌の脳内シュミレーションでも、悶絶必至のボディブローから入って、あごが砕けるアッパーカット……3秒以内で決着、再起不能にされるはずだ。
今出来ることは奴のために念仏を唱えておくことだけである。
もう心配要らない。むしろ、あれをけしかけたってこちらの存在に気付かれるほうがヤバイ。
妖忌は早々に半霊を引き上げさせる。ようやく、女人と二人っきりだ。
至福の時間を邪魔されるわけには行かない。
楓にとってはどちらにせよピンチが続くわだけだ。相手が変わっただけである。

「そのいやらしい視線とにやけた顔をやめてもらえないか?」
「おおっと、つれないの~。まあいいじゃないか、男と女が二人っきりだぞ?」
「遠慮なく悲鳴を上げてもよいと?」
「ふふふふ、誰も来んよ。もう少し、逢瀬を楽しんでもバチはあたらんぞ?」
「では、遠慮なく―――」

楓が甲高い声で遠吠えを行う。
多分山にも届くだろうが、白狼天狗の救援隊は来ない。厳戒態勢だからだ。
妖忌が迫ってくる。
当時の妖忌は、悟りには程遠い。世俗的な欲の塊だった。
剣も女も極めたい。そして名声も欲しかった。
妖忌は大江山の鬼を退治しに来た者の一人である。
しかし、鬼の前にまず手慣らしと挑んだ相手が非常にまずい相手だった。
相手は当時無名の幽香である。
幽香は遊び半分、妖忌は肩慣らし……互いに様子見の激突から徐々に引き出す力を上げていく。
互いにあせった。対戦相手の底が知れない。
幻想郷が出来る前……勝負結果は生死に直結する。
勝負を付かせるわけにはいかない。
全力で逃げの一手を打って逃走した。恥ずかしいとも思っていない。自分の力が足りないだけだ。
鬼に挑むのはもっと修行してから……そんな事をしていたら、今度は鬼が旧都へと消えていった。
そうしてこの地へ来た目的を失ってしまった。残ったのは剣と女の欲である。
女の近く、そばにいたいなんて思っていて幽々子に近づいた。
欲にひきずられ、下心満載の状態で西行寺の家に出入りする日々……結果として西行妖の封印に巻き込まれた。
幽々子が亡霊として覚醒する現場に居合わせ、自身の魂を半分ほど引きずり出されてしまった。
この出来事は妖忌最大のトラウマになってしまったが、生来の性分を変えるにいたらず、
今も女と剣を求めている。

いやらしい手つきで腕が伸びてくる。しかし、ぴたりと止まった。
楓の遠吠えを聞きつけて駆けつけてくるものがいる。
妖忌がよく知っている奴だ。決して決着をつけてはいけない相手……顔にぶちギレ寸前の青筋を立てている幽香だ。
妖忌の予想なんかぶっちぎる勢いで倒してきたらしい。
幽香の目が血走っている。……しくった。まさか、幽香が来るとは……退散するしかない。

「お、おお? 幽香が来おったか。
 じ、じゃあな。上手く言い訳しておいてくれ」

言うが早いかあっという間に駆け去る。
楓がぽかんとしている最中、極太の光線が妖忌が去った方向に走る。

「ちっ、相変わらず逃げるのが早い。捉え切れなかった」

よく知った声が頭上から聞こえる。文の遊び相手だ。

「ああ、助かりました」
「別に、助けたわけでもないのよ。あのクソヤロウは……女と見れば見境なく手を出して……
 怪我してるのね? あの馬鹿がやったの?」
「……一応、彼ではないです。ほとんど自爆した結果ですよ」
「ふうん? 腕一本分が自爆ねぇ?」

しげしげと幽香が楓を見ている。幽香も戦闘の分析なんてものはお手の物だ。
確かに相手からのダメージではない。爪が欠けるなんて事は日頃の鍛錬不足ってモノだ。
しかし、気になる。白狼天狗がこれほどの運動を繰り出す相手なんて、どこの誰だろう?

「誰? 相手は?」
「知らない奴です。地底から出てきました。豚と鬼を足したような外見の奴です」
「なにそれ?」

幽香と豚鬼は遭遇していなかった。
豚といえど防衛本能ぐらいある。半霊を追跡した先に幽香の馬鹿高い妖力があった。
神隠しの時と同じように追跡をやめて身を隠したのだ。……幽香にとってあれは大した相手ではない。結果として完全無視している。

「ま、いいわ。来たらその時対処しましょう。
 あなたはどうする?
 一応、赤の他人ってわけじゃないし、怪我を治すだけなら家で休ませてあげる」
「……出来るなら山に帰還したいのですが……」
「あっそ、それは自分の足で行ってくれる?
 私が行くと大騒ぎになるのよね~。一度、ボコボコにした文を連れて行ったら……もう酷いのなんのって。
 太郎坊以下大天狗がずらりと並んでさ~。こっちは問題児を届けてやっただけだっていうのにさ。
 奥歯鳴らしてるくせに態度はでかいわ、喧嘩腰だわ、もう知るかっての。
 あれなら勇儀のほうがましね」
「勇儀様は……その……」
「知ってるわよ。どっかいったんでしょ? あんな馬鹿でかい妖気が消えたら流石に分かるわ。
 だから、妖怪の山には行かない。大騒ぎ以前の問題になる」

楓がため息付いて立とうとするが、立てない。
それをみて幽香が手を貸す。楓は頭を下げて「怪我が治るまでお世話になります」とつげる。
「素直でよろしい」と幽香が背負う。二人は一路、幽香の家に向かっていった。

……

白狼の里では複数名が楓の遠吠えを聞きつけて騒ぎを起こしていた。
追跡隊の8人も加わり白狼の長に対して、山の外に向かう救助隊を組むことを嘆願している。
長もすぐに大天狗のところに使いを出して救助隊を向かわせようとしたのだが……
白狼のみでは更なる犠牲者がでかねないとの判断が下された。
誰か信頼に足るもの……救助隊の安全を完全に保障できるものが必要……しかし、白狼天狗8人がかりで勝てない者に
そんな保障が出来るものは山にはいない。大天狗が指揮すれば別だが……彼らはそれどころではない。
紫によってもたらされた情報、豚鬼以外にも天狗にかかわるものが這い出てきている。
それを特定するため……本当は、それに該当する人物は一人しかいないのだが、それを認めることが出来ずに時間を掛けている。
それが事実ならとんでもない事態だ。たとえ大天狗でも危うい。誰一人とて出陣なんて出来ないのだ。
加えて、白狼天狗に、確定もしていない情報を……紫の手下の藍の言うことを……流すわけには行かない。
丸一日という貴重な時間をただの論議で食いつぶす。
下っ端からしたら、戦力の出し惜しみとしか見えなかった。

「全く、この山の連中と来たら動くのが遅すぎるわ……。私の藍はそんなことは無いわよね?」

紫の言うとおり、藍はすでに旧都に到達し、原因の二人に接触することに成功している。
二人は既に大慌てで罪人を捕らえている。逃げた奴のリストを入手することは簡単だった。
二人とも協力的で、罪人を捕らえることに助力は惜しまない態度だった。
一つ困ったのはそのうちの一人が大慌てでこっちの遠慮も知らず旧都を飛び出し地上を目指して飛び出していったことである。
藍が後を追って行こうとするのを二本角の鬼が引き止める。まずは酒を呑めとその後、罪人を捕らえるのを手伝ってくれと……。
鬼の頭領の言い分を聞き流すことなどできずに藍はそのまま酒で潰されてしまった。

河童の里では、厳重に封印された大穴が天狗たちによって管理されている。
太郎坊の自信作……もし、仮にあいつが来たとしてもぶち破れない自信がある。
しかし、突如として膨れ上がった。恐ろしい妖気が、懐かしい妖気が封印をぶち破ろうとしている。
「こりゃあ!? 誰のだ? 太郎坊か?」 「流石だな!!!」との言葉を境に封印が消し飛んだ。
穴の警戒を行っていたすべての天狗がひざまずく。妖怪の山の前支配者、四天王が一人、星熊勇儀が飛び出してきた。

「はっはっはっはっは、今のは、太郎坊か。中々いい結界だったね」
「ゆ、勇儀様!―――」
「おおっと!? なんだい? 勢ぞろいでッ!?」
「一体どうされたのですかッ!!?」
「え? え~っと。 そ、それはな……」

非常に珍しく、勇儀の口がつまる。酒に酔った勢いで牢屋を全壊させたなんていいたくない。
用件だけは簡潔に「脱獄者を捕まえに来た」とだけ言った。
天狗たちはそれで納得してくれたらしい。「勇儀様が来てくれれば百人力」なんて言ってくれるが、少々胃が痛い。
本当の所、自分が受身をミスったせい……まさか牢屋を直撃するなんて……映姫が回収していない罪人がいるなんて聞いていない。
いや、映姫は人間の罪人は全部回収したのだろう、一緒に封印されている妖怪の罪人を回収しなかっただけだ。
一言、たった一回教えてくれればこんなことにはならなかったのだが……向こうは向こうで勇儀達にいい感情を抱いていない。
こっちもこっちで聴く気がなかった。あんまりでかい声で失態を叫ぶわけには行かない。
天狗達がこんなに……助けを求めるような顔でなければ自分の失態など笑い飛ばしたのだが……笑っている場合では無いらしい。
勇儀の目は自然と手にした手配書を見ている。藍からの連絡で天狗たちの活躍で捕まえた連中のリストがある。
地上へ逃げた者の残りは2名、豚鬼と雷光丸……豚鬼はともかく、雷光丸はとんでもない奴だ。実力は鬼の上位陣に匹敵する。
天狗たちの案内に従い天魔の居城に向かう。流石に一人で捕まえるには時間がかかる。少し、天狗の力も借りよう。

……

文が部屋で寝ている。もう、いつ寝たのか自分で覚えていない。
戸が乱暴に開け放たれたのにも気が付かなかった。

「文!! っと、あれ? 寝ているのか?」
「……? ん、あ、ふ……く~」
「あ? お? おい、寝るのか?―――」
「ふ、く~……」

そのまま、眠っている。勇儀はぽかんとしてその姿を見ている。
ここまでの案内を買って出ていた監視人は文の態度に真っ青になっていた。
「文!!!?」っと叫びかけた口を押さえられる。勇儀が頬をかきながら文の寝顔を見ている。
どうやら、勇儀は文が起きるのを待つらしい。
手で下がるように合図されて監視人がすごすごと下がっていく。
文が起きたのは、日がだいぶ動いたあとだ。

「お~、ようやく起きたか?」
「ん? あ、誰ですか?」
「おおっと、私を忘れるとはいい度胸だ。まあ、勝者の余裕って奴かな?」
「あ、……あ、ゆ、ゆうぎ様? な?……どうしてここに?」
「ん~、色々あってな、それで一時戻ってきたんだ」

一瞬で文の顔がくしゃくしゃになった。涙がこぼれる。勇儀はいつもどおりだが、何で泣くのかと首をかしげている。
突如として攻撃を受けた。文が「酷い!! 何で!! 置いて行ったのですか!!?」と叫んでいる。
勇儀は文の攻撃を放つがままに受けている。勇儀は何で文が攻撃してくるのかが分からない様子だ。
文の手が赤くはれ上がってようやく攻撃がやんだ。

「う……う、い、痛い」
「終わりかい?」
「ま、まだですよ!?」

とっさに繰り出したのは平手打ちだ。勇儀の目ですら視認が怪しい速度で顔面に向かって飛んでくる。
破裂音が耳をつんざく……へぇ、成長したもんだな……珍しく耳が痛い。
やっぱり頬をかきながら勇儀がきく。

「気は済んだかい?」
「う……う、酷い。全然、気はすまないです」
「そうか、じゃあもう少し付き合ってもいいんだが……手も痛いだろう?
 このことは後にしないか?」
「後に? 一体その後はいつの話ですか?
 そうやって、私を騙すつもりですか?」
「はぁ……、騙すつもりは無い。お前が望めばいつでも受ける。約束するよ。
 だから、今は手を引っ込めてくれないかい?」

顔も手も赤くして文がようやく怒気を押さえ込んだ。

「私の癇癪を後回しにして、何を先にやるのですか?」
「な~に、簡単なことさ。逃亡者の捕縛だよ。ちょっと手伝って欲しいんだ」
「手伝う? 勇儀が一声かければ天狗は全員付いてきますよ?」
「ふふ、それじゃ、山が手薄になっちまうよ。私が欲しいと思ったのは足の速いのと
 鼻が利く奴さ」
「次郎坊様は足が速いですよ?」
「ははは、流石に大天狗を借りるわけには行かないさ。それに白狼の連中も忙しそうだ。
 私には戦力って物は必要ない。欲しいのはよく利く”鼻”と”目”、それと素早い”足”さ」
「ほうほう、それで私は”足”というわけですか……それじゃ”鼻”と”目”は椛ですか?」
「ははは、そうだ」
「私は降ります。無理です」
「? あ? え? どうして?」
「どうしてもこうしても無いです。無理なものは無理です。
 大体向こうが承知しません」
「えっ!? そ、そうか? いいコンビだと思ったが?」
「私も昨日までそう思っていました」
「昨日まで? 一体どうして、一日たったらだめになるんだ?」
「……分かりません……椛が、もみじが、か ってにかんちがい したのです」

すっごい引きつった声を聞かされた。
突如として「大嫌いって嫌われたのです!!!」といって泣き出した。
そして、全部、勇儀が悪いってことにされた。
言われた本人が全く理解できない八つ当たりだ。しかし、文にとってこんなに感情を叩きつけられる相手は山にはいない。
数年分とも言える鬱憤が炸裂する。ために溜め込んだストレスが勇儀を襲った。
泣きつかれた勇儀がどうしたらいいものかと困惑している。
言っていることが支離滅裂、放つ言葉は罵詈雑言、理解できなくて怒りすらわいてこない。
結局さっきの続きが、手でなく言葉で始まったようなものだ。
まるで幼児のように滅茶苦茶な感情をそのまま無茶苦茶に表現している。
ひとまず勇儀は一通り聞き流し、一応の理解を得た。
どうやら、勘違いで文が椛の母親を馬鹿にしたことになっているらしい。
そして、椛が取り付く島も無いぐらい怒っているようなことを言っている。
最後に、それが全部勇儀のせいのようだ。
自分の理解がこれで正しいのかは別にして、何で自分が主犯になっているのかは全く不明だ。
多分理解しないほうがいいのだろう。理解しようとすると余計にこじれる。
ひとまず自分が原因ということはすべて棚に上げて話を進める。

「一応確認だが……椛が良いといえば一緒に来てくれるか?」
「……そうですけど、そんなこと言うわけ無いです」
「そしたら仕方ない。他の奴に声をかけよう。一緒に来てくれないかい?
 私の知る中で大天狗を除けばお前が最も早いからな」

そうして二人で犬走の家に向かっていく。

……

椛は気絶から復活した後、長から遠吠えのことと救助隊が結成できなかったことを聞かされた。
猛烈な抗議をした後、フル装備で家を飛び出し、非常線で警備隊とのひと悶着、結果としてす巻きにされて家に閉じ込められている。

「おお? こっちはこっちで家の前に警備隊がいるぞ?」
「椛に……何があったのですか?」
「いや全然、分からん」

椛が家を飛び出さないように数名の白狼天狗が警戒している。
話を聞けば単独で非常線を超えようとして軟禁されているらしい。
警備隊に話をつけて家に入る。
家の中では椛がす巻きにされて泣いていた。
勇儀が入ってきたのを見て何か言っているようなのだが、猿轡をかまされているので全く分からない。
拘束を解きながら質問する。

「なんでこんなことになっているんだ?」
「あ、ゆうぎ様……お願いします。外に、外に連れて行ってください!!!」

疑問に思う暇もなく、椛がたて続けに話始める。
分かったことは椛の母親が山の外にいるらしい。
その悲鳴が聞こえたそうだ。……う~ん、手遅れでは? なんてことは言わない。

「丁度、外に行こうと思っていたところさ」
「それなら、是非、是非、私を連れて行ってください!!」
「う~ん、それはお前次第さ。文……らしくないな隠れてないで出て来い」
「う……あ、も、椛―――」
「あ……う、 勇儀様、何でこの人がいるんですか?」
「私が頼んだ。理由なら、私が今回動かせる中で最速……以上だ」
「勇儀様……速い人ならこの人以外にも―――」
「ふふ、そうか。椛、この件は忘れてくれ……文、他の奴を当たろう」
「う? いいのですか?」
「ああ、鼻と目が利く奴なら白狼なら誰でもいいんだよ。コンビが利くかなと思っただけさ。
 私としては最速のお前をはずしたくない」

「さあ、行こうか」と文の肩をたたいて勇儀が背を向ける。
文は驚いた顔をしていたが、勇儀の先導に従う。
「ま、待ってください」との叫びを無視して勇儀と文が外に出て行く。
玄関をくぐると先回りして椛に土下座をされた。

「ゆ、勇儀様、お願いします。外に出るまででも……」
「外に出るだけで勝手に外れられたら目も当てられん」

つかつかと椛を無視して歩いていく。
「さて、誰にしようか」なんて言葉を口にしている。
椛が悲鳴を上げた。

「勇儀様、自分勝手な行動はとりません!! 絶対に!! お、お願いです」
「はは、じゃあ、目の前に母親と敵がいたとする。私が私を守れって命令したら、私を守るよな? 母親じゃなく」
「う、が……あ う」
「じゃあ無しだ。寝てろ」
「……椛……馬鹿ですか?」

椛が恐ろしい勢いで文をにらみつける。
文が勇儀の影にさっと隠れた。勇儀は何で強いほうが隠れるのかさっぱり理解できない。
目線で文にその先を話すように示す。

「うん? いいんですか?」
「かまわないさ」
「椛……ちょっと考えてみなさい。勇儀様が自分を守れなんて命令すると思いますか?
 ”守れ”って言うより先に”どけ”って命令するに決まっています。戦いの邪魔するなって言いますよ?」
「あ゛!!?」
「からかわれただけですよ……。言われたことをそのまま単純に受け取らないでください」
「ぐぎぎぎ、ひょっとして昨日の事を言っていますか?」
「それ以上その話をしたら、外に行く話は本当に無しだ。
 どうする? 私についてくる以上、命令無視は無しってことにしてもらうぞ」

勇儀の目は本気だ。歯軋りを一気に押さえ込んで、椛が頭を下げる。文に下げたつもりは無い。勇儀にのみ下げる。例え二人が重なっていてもだ。
昨日の一件は簡単に忘れることが出来ない。きっと取り繕わない文の本心はあんなはずなのだ。
いまさら取り繕った所で遅い……もう文の底が見えてしまった。
食いしばった歯ときつい視線で文を見る。やっぱり文が勇儀をたてにして陰に隠れている。
そんな二人を見て勇儀がどうしたものかと考えながら歩いている。元々、文にこの周辺の風を集めてもらい、椛に鼻で探索をさせる。
雷光丸はともかく……豚鬼ならそれで速攻でけりが付く。……数時間前はそう思っていたのだが……二人の仲が最悪である。
文が柄にもなくおどおどしており、椛がイライラしている。
勇儀が椛をつれてきたのも、白狼天狗自体が山の最終防衛ラインを引いている。勝手に優秀な奴を引っ張れないというのが理由だ。
だが……、こんなに粗悪な仲ならやめたほうがよかったか? なんて事を考えている。一応釘は刺したつもりなのだが……。
戦力……文は問題ない。いざ、自分が危険に晒されたら逃げ足がある。問題は組み合わせる白狼のほうだった。
優秀な奴ほど前線にいる。前線外の奴で動かせるとしたら、寺子屋上級生……しかし、そいつらでは無理をする気がする。
そこでだ、文との連携も期待して椛を選んだつもりなのだが……おっかしいな? 凄く仲がよかったはずなのだが?
文は大丈夫、自分の判断でヤバイと思ったら速攻で逃げを打てる。しかし、椛は……いや白狼全体の特色として、命令最優先で動いてしまう。
そこを文の機転でカバーして欲しいと思ったのだが……逆にこの状態だとまずいか?
文が速攻で逃げて、椛がその場で敵の足止めなんておこなったら目も当てられない。
……あれ? 案外、やばいメンバーだったかもしれない。
自分は直情傾向である。たとえ今冷静でも、目先に敵がいたら戦いに飲まれる。文は逃げる。そして椛が加勢して巻き添えを食う。……ああ、まずった。
気が付けば防衛ラインを超えて山の外だ。本格的にまずい。突っ走ってから考える自分の悪い癖が出た。
今回は捕まえることをあきらめよう。そこまで考えて、妖力を開放する。
豚鬼も雷光丸も、勇儀を相手に直接出向くなんてことはしない。
相手に対して見つけてくださいとばかりに力を見せる……よってくるのは余程の馬鹿……勇儀が頭を抱える。
寄ってくる奴がいる。しかも2つの方向から……片方はよく知っている。どつき合った仲だ。多分右手は幽香、凄い勢いでこちらに向かってくる。
左手は……? 随分とまあ小さい妖気だ。妖怪……じゃないな多分、人間だ。

……

「あ~、勇儀かしらこれ?」

山から伝わる妖気を感知した幽香が何か言っている。
楓も誰の妖気が噴出したかは理解している。

「勇儀様ですね」
「丁度いいわ、連れて行ってあげる」
「ん? いいんですか?」
「いいわよ。勇儀は今山の外……この機会は逃せないわね」

そんなことを言って幽香が楓の首根っこをつかんで飛び出していった。

……

勇儀か!!? 馬鹿な? 早すぎる!!!
そう思った雷光丸が妖怪の山を見る。何てことだ!!! もう旧都の脱走者を捕まえきったとでも言うのか!?
油断していた。まさかほんのわずか1日であの人数を捕まえきるとは信じられない。
計画どころではない。もう逃げることを考慮しないと捕まってしまう。
しかし口惜しい、山への復讐もままならないまま、逃げ隠れしなければならないとは……いや、鬼の四天王が相手だ。いずれではなく、必ず捕まる。
逃げるだけでは不毛きわまる。
そう思えば、せめて太郎坊ぐらいは道連れにしないと気がすまない。
俺の才覚をねたんで旧都に封じた張本人を……この手で屠る。
そう思った雷光丸が勇儀の動向を探るため、さらに注意深く気配を消して勇儀に迫る。
流石にこちらに気付いたわけは無い。いわば、まだ出てきただけだ。即座に捕まる道理はない。

……

突如として膨れ上がった妖気に気が付かないわけが無い。
これほどまでの妖気は……誰だ? 幽香でもなく、神隠しでもない。
荒々しく、とめどない。ひょっとして鬼だろうか?
この地に来た時に……今よりもっと未熟だった頃に……あの山にあった気配に似ている。
もし、今 向かえば鬼に会えるかもしれない。
鬼を……鬼退治の名誉を求めて、この地に来た。
いまさらという感覚が無いわけではない。
鬼退治を求めてこの地までおもむき、幽々子に出会った。いわゆる一目ぼれだ。
この女をものにする。そのためには自分に箔が必要だった。鬼退治の英雄なら幽々子につりあうと思った。
元々、鬼退治の目的そのものも”女にもてる”のただ一点。その対象がこの地で幽々子に限定されただけだ。
幽々子にほれられたい。
意気揚々と出かけた初日の昼前、幽香にボッコボコにされた。鬼を前にして無念のリタイア。
なさけないほど力が足りなかった。幽香でなく鬼が相手だったら死んでいただろう。
もう一度修行をやり直す……そのうち鬼がいなくなってしまった。
もしかしたら、もう誰か、鬼退治をした(俺でない)ほかの奴に嫁いだかも知れんと、あわてて幽々子に会いに行けば、前と変わらない笑顔で迎えてくれた。
心底ほれていたのだろう。その後、幽々子のやさしさに甘えて鬼退治を忘れて西行寺家に入り浸り……神隠しの策術に巻き込まれた。
驚愕したのは神隠しの実力だ。幽々子と神隠しの計画を聞いて納得できぬと反論すれば、相手にされず。戦いでは相手にもなれなかった。
あれほど悔しい思いをしたことは無い。
死でもって死を封じる。……彼奴の結界に手を触れることも出来なかったよ。
そうして今、再び修行中の身……死の結界が切れるほどの腕前が手に入れば再び幽々子の前に立つ。
もう、鬼は目標ですらないのだ。でも、それでも、かつての目的に興味が無いわけではない。
……俺はダメだな。見えるものすべてに手を伸ばしてみたい。幽々子だけを見て修行に明け暮れるべきなのだが、性根がそれを許さない。
女も同じ、心底ほれた相手も欲しいが、他の女にも惚れられたい。要するにいい顔をしたいのだ。そしてそのいい顔を幽々子に最も向けていたいと思う。

「鬼の角……幽々子は喜ぶだろうか?」

無理やり、今の興味を幽々子に結びつける。自分の性格はわかっている。俺は俺なりってことだ。
まっすぐ一直線でがんばることは出来ない。でも、前には進むつもりだ。たとえ寄り道をしたり、後戻りをしたとしても……そう考えて鬼に会うことに決めた。

……

「う~ん、まずった」
「何がですか? 勇儀様」
「大丈夫ですよ。この感じは妖忌と幽香です。幽香は敵ではないのですよ?」
「そ、そうか? 幽香は……力比べをした覚えしか無いんだが……まあいい。もう山に戻っていろ二人とも、巻き添えを食うぞ」
「あ、もう遅いみたいです」

茂みを一つ挟んで陰に隠れている。幽香らしくもなくまごまごしている。

「ほら、すぐそこに勇儀がいるからさ、いってきなさいな」
「本当にありがとうございます。いつかお礼を――」
「いらないわよ。私が欲しいものをあなたはもっていないし。
 あんまり、山にかかわりを作ろうとも思わないわ。文だけが例外よ」

「じゃあね」なんて言ってさっさと消えてしまった。
ため息が出る。いきなり勇儀の前に出る……勇儀が自分を探しに来たはずは無い。
そんなことのために地底から出てくるわけが無いし……多分あの豚面の始末に来たのだろう。
足手まといになるだろうな。そう思うと戸惑う、あっさり前に出るのはいいが、連れ帰ってもらうのは勇儀の目的と相反する。
茂みを一つ挟んで葛藤していると、椛の声が聞こえた。

「お、お母さん!! お母さんの匂いがする!!」

そんなことを言って勇儀の指示も忘れて茂みを越えていく。
文はそれよりも早い、椛の反応を見てから、それを余裕でぶっちぎった。

「か、楓さん!! 無事だったのですか!!!」
「え? えっと? 文ちゃんどうしたの?」
「無事なら無事って連絡するのです!!! 心配したのです!!! もう、死のうかと思ったのです!!!
 何で連絡しなかったのですか!!! 許せないのです!!! その腕はどうしたのですか!!?
 足も怪我をしたのですか!!? いいえ、それでも報告するのです!!! 白狼の義務なのです!!! 
 私に無事を報告しないなんて大犯罪なのです!!! 私を”独り”にするなんて重罪人なのですよ!!!
 もう離れてはいけないのですよ!!! 勝手に死なないでください!!! 私がぶち殺しに行くのですよ!!!」

圧倒的な文の言動に椛もあっけに取られた。楓も同じだ。
ぐっちゃぐちゃに崩れた文の表情に支離滅裂な言動が加わって理解が追いつかない。
楓に抱きついて泣いている文を見て勇儀が呆れている。二人とも命令もくそもあったもんじゃない。
二人を起用したのがそもそもの間違い……つまりは自分が間抜けだったって事か……ふふん、仕方ないか……所詮、自分は戦闘狂だ。心の機微など理解できん。

「あ~? お前ら二人、私の言ったことを覚えているか?」
「あ!!? も、申し訳ありません、勇儀様 わたしは命令を―――」
「椛、あなたは馬鹿なのです。命令もなにも勇儀は口にしていません。
 勇儀は守れといいましたか? 楓さんを無視しろといいましたか?
 そんなことは言っていないのです。
 私はよく覚えているのですよ。”ちょっと手伝って欲しい”その一言です。これは手伝いの外のことなのです!!!」

全く反論が出来ない勇儀が頬をかいている。
いや、楓との再会を邪魔した私が無粋なだけだ。
だが、今回はこの無粋をそのまま通させてもらう。

「ふうん、まあ、丁度いいか。椛、文、お前ら二人は山で謹慎だ。命令無視だからな。おとなしくけが人と一緒に山で閉じこもってろ」
「了解しました!!」
「合点なのです!!」

そして、楓が頭を下げているのをせかすように文と椛の二人が背中を押す。
幽香のおかげで体を休めることは出来たが歩くので手一杯だ。そんなに速くは動けない。
勇儀が後姿を見ているが二人にとって大事な人だったのだろう。
険悪だった二人がいとも簡単に協力している。
少しふらついて時間を潰したら山に戻ろう。

……

「ふっふふふふふ、あんたを先に行かせると思った?」
「なんで、おぬしが行く手をさえぎるんじゃ?」
「ん~? 後始末ってことがわからない?
 楓さんが山に帰還するんでしょ? 女の敵をそのままにできるわけないじゃない。
 とどめを刺しておかないと……ね? 楓さんも寝覚めが悪いでしょうよ」
「俺が怪我を負わせるわけ無いだろうが……」
「嘘こけ、私をなで切りしたくせに……私じゃなかったら一生の傷で残ったわよ?」
「あの時は俺も未熟だった。ま、実力が足らんのは今もだが……相手の実力も分からずに突っ込んでいくのはあれっきりにしたい」
「くっくくくくく、そう? 本当に? じゃあ、何で私が”とどめ”に来たか分かるってこと?」
「ああ、なんとなく分かる。見かけによらず心配性だな……無謀は誓って、もう二度と、しない」

幽香の態度はじゃれているだけである。
ただ、猛獣を超える実力があるので、端からみたら命を狙っているようにしか見えないだけだ。
妖忌はそれを重々承知している。二人の激突は最初が例外だっただけだ。
最初の激突以降は互いに慎重に丁寧に付き合っている。
互いに相手を本気にさせてはならないと自覚している。
必殺の間合いで構えてはならない、どっちもただではすまないのだ。

「……ぬしももっと素直ならの……可愛げがあるのに……惜しいの」
「くっ、それを目の前で言うか……勇気があるのか……愚鈍なのか」
「愚鈍で頼む。油断されているほうがいい。特におぬしが相手ではな」
「言ってくれる。私もあんたみたいな奴……アゴで使ってみたいわ」
「使われてやろうか? 代償は高いが」
「一回で使い潰していいならかまわないかな?」

二人でそう言って笑った。猛獣同士の牽制……でも、この付き合いが出来る者は限られる。
幽香に対して軽口を叩ける人物は十指に満たない。そして、どついて平気な人物は片手以下……気遣いがいらないものは三指を切る……。
笑いが苦いものに変わっていく……妖忌と違う出会い方をしていたなら……というのは愚問だろう。
これ以上は自分が傷つく……道を開けるのが正しい判断だ。
先に進む妖忌を見送る。妖忌は大丈夫だ、たとえ勇儀が相手でも、逃げ帰るぐらいのことはする。
逃げ帰ったら大笑いしてやろう。ぼろぼろの妖忌を眺めながら、なさけない姿を酒の肴に一緒に酒を飲むのもいいかもしれない。

……

「……出て来い。人間か?」
「ほう、流石にこの距離なら分かるか」

勇儀の問いに妖忌が顔を出す。

「鬼って言うのは……流石だな。体が引き締まっている」
「は? それがどうかしたのか?」
「いやいや、こっちのことよ。さっき見た鬼はなんていうか……デブだったんでな」
「デブ?」
「そうよ。腹は出ておるわ。角は小さいわ、においはきついわで、信じられん奴だったわ。
 しかし、ぬしはいいのう。真っ赤な一本角、体躯も良い。眼光も妖気も圧倒的よ。
 是非、名前を聞きたいのだが?」
「……人に名乗る名前はもう無い。お前らに仲間がだまし討ちにされたからな。
 名乗る気は無い」
「そうか……。惜しいの。無名の鬼の角じゃ幽々子に説明できんな」
「ん? ほぉ~。私の角を取るつもりか?」
「ん、安心せい。命はとらんよ。俺は鬼を倒した証が欲しいだけでな。
 ぬしの一本角なら誰もが納得するだろうよ」
「角をとられたら流石に恥ずかしいな。が、まあいい、私もお前に聞きたいことができた。
 お前が見たというデブの話を聞かせてもらおうか」
「いいぞ。しかしな、たいしたことは知らん。女の白狼天狗を追ってきたから幽香って言う奴の所に誘導してやった。
 それだけよ。まあ、幽香が再起不能にしただろうな」

勇儀が頭を抱えている。そりゃそうか……あれだけ目立つ奴だ。幽香がしとめていても不思議は無い。
幽香に話を聞かないといけない。さっき会わなかったのはまずかった。二度手間になった。
「さてどうしたらいいか?」などと今後の予定を考えていると、妖忌が構えている。

「俺の名は魂魄妖忌。今日から鬼退治の妖忌様よ」
「あ~? 本気で言っているのか?」
「応よ、昔目指した強さにどこまで迫ったのか。昔の未熟さを越えたのか、是非ともおぬしで試してみたい。
 俺とて多少は前に進んだはずなのさ。さあ、構えてくれ。棒立ちの相手は俺でもしないぞ?」
「目標ねぇ……。そうか、そうだな、挑まれたものは受けて立つ。
 ちょっと待ってろ。……気合を入れなおす」

単純に開放していただけの妖気を練り直し、全身の力を入れて体を引き締める。
妖忌の武器は刀だ。……刀だけなら何度か受けたことがある。気を抜いていたら危うい。
妖忌は……何のことは無い。そのまま、居合いの構えである。
勝負自体は一瞬で決まる。
勇儀は相撲のぶちかましの構えだ。居合いを体で止めてそのまま全身のぶちかましで妖忌を吹き飛ばす。
……妖忌か……こいつには名乗るべきだったか? ……勝負のあと、墓前で名乗ってやろう。

「よいかな?」
「いいとも」

勇儀のぶちかましと同時に妖忌が消える。文がべた褒めしていた居合いの術が勇儀の角に炸裂した。
妖忌のあまりの速度に驚愕する。
……こいつは捕まらん!!!
勇儀の金糸が舞う。頭に骨が砕けた衝撃が伝わった。
一瞬の交錯のあと、とっさに反転するが、足をとられる。ひざまで笑う驚異の一撃。
ぶちかましなんて方法じゃ捕まらない。「ぐっ!!? おお!!?」思わず口から苦痛が漏れる。
純粋な剣術のみでこんな威力受けたことが無い。山伏、僧兵、陰陽師、巫女、侍……勇儀の対人戦歴でこの実力は心当たりは無い。
無意識に角を確認する。
……あった。手ざわりからして傷は無い。じゃあさっきの衝撃は?
青い顔して妖忌がこっちを見ている。
砕けたのは妖忌の手か? 懐で隠れて見えない。
笑うひざを張り手で黙らせ、もう一度、構えなおそうとする。「参った」との妖忌の声が聞こえた。
刀が遅れて空中から落ちてくる。激突に耐え切れなかったらしい。くの字に曲がっている。

「……遠いの……鬼は」
「いや、そんなことは無い。強いぞお前。ただ、自分の実力に見合った武器を用意しろ。
 ナマクラ刀にやられるつもりは無いぞ」

勇儀が曲がった刀を見ている。……刃が波打っている。
研ぎ方も粗い。現時点で妖忌の刀は人の作品だ。
鬼の目から見ても仕上がりが汚い、一流の職人の技のわけが無い、三流の刀を自前で管理していた。その結果だろう。

「自分の道具には気を使うもんだ」
「ふ、ふふふふ、言ってくれる。いいか? 達人って者はな筆を選ばんのだよ……俺はまだ達人ってわけじゃないらしい。
 ……それにな俺の金じゃ業物は買えん。二束三文の人切り包丁がせいぜいよ」
「いくら達人でもな、箸で文字は書けんだろうが?」
「それを使って書くのが達人よ」
「ふっ……そうか、仕方ないな。手を見せろ。折れているだろ?」

疑いもせずに妖忌が腕をだす。腕が真っ青になっているが、途中で曲がっている様子は無い。
……ヒビか……確か河童の秘薬で治るはずだ。……! あ、河童の里が壊滅していた。
このとき永遠亭もない。怪我の完治なんて中々出来ない上に時間がかかりすぎる。
本当に惜しい、妖忌の達人への道が軽く数ヶ月遅れる。後、5年も待てば……私を超えるかもしれないのに。

「悪かったな。ちゃんと養生しろ。おとなしくしていれば完治する」
「そうかい……」
「そう落ち込むな、そうだ。私の名を教えてやろう。私は星熊勇儀。
 鬼の四天王が一人、星熊童子とは私のことよ」
「……何? 四天王だと? 本当か!?」
「そうさ、本当だとも」
「強い、強いと思っていたら、四天王かよ!! 納得したわ、通りで勝てないはずよ!!
 むしろ、並の鬼でここまで強いかと絶望しておったわ!!!」

妖忌の言動に勇儀が爆笑している。
……私を並扱いか、そんな奴久しぶりに会った気がする。
久しぶりに気分のいい人間にあった。
勝負事のならいで掻っ攫ってしまうのもありかもしれない。
……勇儀は案の定、戦いに飲まれて、当初の目的を忘れている。
この場に残ったのは二人だけ、勇儀と妖忌の二人だけだ。
もう一人いるはずの雷光丸は既に山に向かった三人を追っている。
本当に都合がよい。勇儀が離れ、三人が防衛線に入ればその時に隙が出来る。
天狗の連中の考えは手にとるように読める。防衛線は1本だけだ。まあ、例え複数でも同じ様に抜けられるが……
あの、豚鬼と戦ったであろうけが人が、白狼天狗の仲間が、同じく白狼の敷いている防衛線に接近したら?
監視員はそいつらに視線も意識も釘付けにされる。十人いれば十人全員の視線が固定される。数をかけても無駄なのだ。
白狼の監視網は優秀だが、それは敵を警戒している時である。
味方が帰還する中、一点を集中して見ていたら……ただでさえ広い担当エリアの監視がざるになる。
さて、進入した後のことは進入した後に考えるか。

……

「お母さん……本当に無事でよかった」
「ん? そうでしょう。私も椛が来てくれて嬉しいわ」

椛は涙ぐみながら、楓はそれをいつもどおりに受け取っている。
文がそれをうらやましそうに見ている。

「お母さん!!! 私はこんなに!! 心配していたのに!!!」
「私はいつもあなたが元気でいてくれるだけで嬉しいわ。毎日毎日、楽しいって言ったらありゃしない。
 私を心配してくれる椛はとってもかわいいよ」

そう言って頬ずりされて、嬉しいのか自分の感情を理解してくれなくて悔しいのかさっぱり分からない表情をしている。
文はそれがねたましい。……私だって心配したのだ。私にもその感情を分けて欲しい。……寂しい。
二人が、感動の再開を経て、「何でもっと喜んでくれないのか!!」と椛が怒り出している始末だ。

「椛、私はあなたのお母さんだから、心配してくれたことも、怒ったことも、泣いたことも嬉しいのよ」

二人の口論すらがうらやましい。誰が私とあんな話をしてくれるというのか。
文だけが蚊帳の外だ……この疎外感は耐えられない。

「私は……ひと足先に山に戻って、楓さんの無事を報告してきますよ」

一人で涙を拭いて旅立とうとする。
ダッシュしようとした羽をつかまれた。

「文ちゃんもありがとう」

思いっきり抱きしめられた。自分の頭が真っ白になっているのが分かる。
あったかい、大事な人が生きている実感を肌越しで味わう。
……嬉しいってこういうことなのですか?
大人なんだから加減して欲しいとも思わない。
もっときつくても苦痛ですらない。
幸せを感じている。
もっと、ながく抱きしめて……そうして、20秒後……もがいて楓から離れた。
……息苦しかった。少し自分も軽口を叩いてみたい。

「私を絞め殺す気ですか?」
「ああ違うのよ。そうか、加減が必要だったかな?」
「加減はいらないのです。でも、手心が必要なのですよ」

楓が分からなくて首をかしげている。
顔を真っ赤にしたまま、文が飛び立つ。
恐ろしいほど気分が舞い上がったまま、防衛ラインの白狼天狗に楓を迎えに行くように命令を飛ばす。
自分はそのまま、次郎坊の元へと向かって行った。

「ふふふふふふ、崩れたぞ、監視がな」

木陰から様子を伺っていた雷光丸が、文の命令で崩れた防衛線をやすやすと超えていく。
今、地上には勇儀がいる。しかし、ふもとだ。このチャンスは一度きりだろう。
どうせ捕まるなら、太郎坊の元へ一直線、そうだな、真正面からぶち破るのは気分的に悪くない。
ろくな作戦は思いつかないが……逆に連中はこの速攻に対応できるわけが無い。

自分の存在がばれているなら、警戒する時間を与えれば与えるだけ攻略が難しくなる。
過去の天狗の歴史を紐解いても屈指の実力を持つ雷光丸が破れかぶれの突撃……意外すぎて誰も予想していない。
そして、誰一人とて山に侵入されたことに気付いていない。
笑いがこみ上げる。さあ、道連れだ……太郎坊。

……

「……と、言うことなのですよ」

あっという間に次郎坊に対する報告を終えると、紫の静止も聞かずに文が再び楓の元へ飛び出していく。

「ちょ、ちょっと!!? 止めてよ、次郎坊!!!」
「いや~、無理ですな。紫殿、あれが意のままに操れたら、とっくの昔に序列が狂っていますぞ」
「あんたそれでも上司か!!?」
「形だけというものです。才能だけなら全天狗一、成長すれば天魔様にも匹敵するでしょう」
「ああ゛ん!? あのガキがっ!!?」
「その通りです。ふふ、今からいい顔をして取り入っておかないと、あなたも大変でしょうに、嫌われたら事ですぞ」
「嫌われても躾けろよ。大人ってのはそういうもんでしょうが」

そんな事をいわれても、馬耳東風……天狗社会に口出しさせない。
涼しい顔で受け流す。
文には才能がある……常識も礼儀も勝手にわきまえるさ。
押し付けるだけ無駄だし、嫌われる。
放任して、伸びるだけ、伸びたいだけ好き放題させたほうが良い。
そんなことよりも、犬走は無事か……流石に現場で激務をこなす白狼天狗の一員だ。
実績第一の実働部隊に無用な心配だった。
残る問題は雷光丸……実力、頭脳、そしてそのしぶとい精神も含めてすべてが厄介だ。
豚鬼……あの程度なら何の問題も無い。
しかし、雷光丸はまずい。
犬走が到着次第、状況報告を受ける。……さて、これからが忙しい。
勇儀様が戻り次第、勇儀ー大天狗の連合部隊で打って出る。もう、連中を野放しにする気は無い。
山の防衛は白狼に任せる。烏天狗には全域に散って情報を収集する。鼻高天狗は勇儀直下の元、戦闘を行う。
こういうときに組織というものは便利だ。協力体制さえ整えてしまえば、個人など問題にならない力が出る。
明日一日でけりをつけてくれよう。

……

椛が母親と一緒に自宅に到着すると、文と次郎坊、それに紫が既に待ち構えている。
楓はそのまま、天魔の居城に向かう。全員の前で敵の情報を報告しないといけない。
椛も一緒にくっついていった。

太郎坊もその報告を受けるために自宅より、天魔の居城へと向かう。
取り巻きの付き人は現時点の補佐を含めて次郎坊よりも多い10名である。
丁度自宅と居城の中間点、付き人があっという間に減った。
烈風が吹きぬけた後に残りは太郎坊を入れて3名。
わずか五秒後には残りは太郎坊ただ一人。

「お、お前は!!!」
「よう、久しぶりよな!!! 貴様のことは忘れたことは無いぞ!!!」
「て、天魔様のお膝元で―――」
「その先は”いい気になるなよ!!!”か……ボケたな。
 天魔も 貴様も 俺には大したものでは無いわ!!!」

あせった太郎坊が全力で逃げる。
しかし、雷光丸にとって見れば遅い。名前通りのいかずちの如き速さを持つ。天狗の中で雷神の異名をほしいままにしたのだぞ?
中空で旋風が巻き起こる。縦一直線に走る竜巻から弾き飛ばされた影を狙って、カマイタチが襲い掛かる。
風の摩擦で起こした電光が走って逃げた影を捉える。
一度速度が鈍ってしまえば、後は一方的だ。……蜂の巣にしてやる、こちらには数十年に及ぶ恨みがあるぞ?
雷で打ち抜き、突風をぶつけて叩き落す。
さすがの雷光丸も積年の相手を見て頭に血が上っているらしい。
最初に吹き飛ばした付き人数名が戻ってきたことに気が付かない。
太郎坊を後一歩まで追い詰めておきながら、止めが遅れる。

「邪魔よ。加減すればつけ上がりおって」
「我ら―――」
「遅いわ。羽を叩きおって減らず口を減らしてやろう」

雷光丸――奥義「幻想八影」

8名に及ぶ付き人がすべてコンマ数秒で叩き落とされる。
雷光丸が影を一つにまとめて太郎坊を再攻撃するまで……わずかに5秒。
天狗の里でようやく警報が鳴り響いた。

……

「何よ? 今の音は?」
「敵襲……! まさか!?」
「あ~そのまさかね。うちの藍が言ったとおりでしょ? 雷光丸じゃない?」
「ぐっ!? は、早い。そしてなんと大胆な!」
「大胆もくそも、私に言わせればあんたらが遅いわ」

もう、次郎坊は紫の言動など聞いていない。
慌てて付き人を招集し、戦闘布陣で出撃する構えだ。
紫も軽口叩いている暇は無い。今手元に藍がいない。自分で戦う羽目になるとは……ため息が出る。

「全く、うちの式は、こういうことを主人にやらせるんだから。
 まあ、一丁、私が直々に天狗に恩でも売っておきますか」

相も変わらず、胡散臭い微笑を浮かべてスキマへ消えていく。
次郎坊より速く現場に突撃して手柄を立てたら私への評価も変わるだろう。

……

決戦開始より、30秒……太郎坊が消えた。
目の前に、知りもしない化け物が出てきた。天魔ではない。
八雲紫が太郎坊が寝ていた所に立ってうすら笑っている。

「中々の手際ですわ。私がいなかったら太郎坊さん死んでいましたわ」
「誰だ貴様?」
「ああ、これはご無礼を……わたくし、八雲 紫と申します。
 あなたは名乗らなくて結構です。雷光丸さんですね?」
「紫……知らんな。邪魔だ。消えろ」
「ああ、私はもう少しおしゃべりをしていたいのですが。
 雷光丸さんも寿命は長いほうがよいでしょう? ……たとえ数十秒でも」

雷光丸が怒りを手にしながら、手出しできない。
何なんだこいつ? 山にはこんな妖怪いなかったはずなのだが?
鬼の四天王と同格以上の化け物がいるなんて聞いておらん。
手を出してこない雷光丸を見て、紫が勝手に”話を聴く気がある”と納得したらしい。

「ああ、そうです。流石ですわ、お利口ですね。そちらが手を出さなければ、
 一応、私は手を出す気はありませんわ」

雷光丸が反応する前に、紫の周囲の空間に無数の亀裂が走る。
漆黒の空間に浮かぶ瞳のような紋様が見える。一応、雷光丸が手を出さなかったので、一手のみ紫が手を見せた。
知らずに突っ込んでいたら輪切りにされただろう。
雷光丸の背に冷や汗がつたう。

「私のお話ってのは簡単ですわ。地底にお戻りになってくださらない?
 地上に残るのは双方……いえ、あなたにとって特に不幸な結果になりますわ」
「もうとっくに不幸さ。
 ……! そうだ。お前の言うとおり地底に引き上げてやろう。太郎坊を渡せばな」

紫が首を横に振っている。そんなことは認められない。
例え、老害だろうと天狗の仲間を勝手に売ったら、天魔以下、総出で紫を討ちに来るだろう。

「では、交渉決裂だな」
「仕方ありませんわ。ん、服が汚れるけど、これは藍の責任よね?」

言外に倒せると断言されているのに雷光丸自身は不思議と怒りが収まった。
こいつが言っていることは正しい。実力を換算するに少なくとも鬼の頭領ぐらいと見てよい。
冷静に対処しなければこちらが危うい。
数秒ほどにらみ合う。
雷光丸が一瞬硬直する。
紫が後ろを振り向けば文だ。次郎坊の到着よりも速く紫の所まで来た。
紫の計算した時間よりも早い。

「紫さん、あれは誰ですか?」
「あれは雷光丸よ」
「ふ~ん。で? 誰でしたっけ?」
「次郎坊さんから聞いていないの?」
「いつもめんどくさいんで難しい話は聞かないことにしているのですよ」

紫が目を丸くしている。……あの次郎坊がここまで自由奔放を許すとは信じられない。
そうやって勝負の最中に弩級の隙を見せた紫に向かって雷光丸が飛んだ。
しかし、紫ならば大丈夫である。雷光丸の見立て通りの実力があるからだ。
紫の死の結界が自動で展開しようとしている。
触れれば魂を引き抜かれる……!……しまった。文を忘れていた!!! これほど速く到達するなんて想定外、至近距離の文を結界に巻き込んでしまう。
もう、妖忌みたいな失敗はしたくない。一発、二発は我慢する。珍しくも紫があわてて術を途中で止めた。
雷光丸がこのすきを逃すはず無いのに衝撃が来ない。
雷光丸の前に文が飛び込んでいるのだ。

「おお、凄い! 速いですね!!」
「んなっ!! ば、馬鹿な。俺の動きにもぐりこむなんぞ――」
「ちっちっちっち、甘いですよ。まだまだ全速力ではないのです」
「貴様ッ!!!」

雷光丸が文に襲い掛かる……が追いつかない。
文が手を叩いて喜んでいる。

「ああ、凄いです。久しぶりに天狗で術を使ってもいい人に会ったのです。
 雷光丸さん、鬼ごっこしましょう!!! ようやく、遊びで初めて術も含めた全速力が使えるのです!!!」
「ば、馬鹿にしおって!!」

雷光丸と文が同時に加速して消える。
鬼ごっこの開始と同時にようやく、遅れた次郎坊と楓、椛が到着した。
本来、紫の計算なら、このタイミングで魂を引き抜いた雷光丸を次郎坊に引き渡す予定だったのだが、今はそれどころではない。
旋風吹きすさぶ鬼ごっこの現場の中央で紫がたたされている。
紫も紫で、目で追ってはいるのだが背後に回られると追いつかない。この連中は首を振るより速く動き回っている。
そんな中下手に動いたら、正面衝突の危険すらある。動けないのだ。
文の笑い声が響いている。楽しそうな声なのだが、姿が見えない。
男の……雷光丸の声が、怒りから焦燥へ変わっていく。
10秒ほどだったのだろうか、文が息切れを起こしながら現れた。

「す、凄い、私が 息切れするほど 全力で遊べたのは 初めてです」
「ぜ、っは、 はー、はー あ、遊び だと?」
「そうです。あ~、初めてですよ。この爽快感は……相手がいる全力疾走はやっぱり違いますね」
「貴様、愚弄するか!!」

息切れした状態で口から泡を吹きながら雷光丸が奥義を使う。
雷光丸も自身のスピードに絶対の自負を抱いていた。……俺は!! ……俺様は雷神だぞ!!
既に崩れ去ろうとしているプライドを認めることが出来ない。
こんな小娘に自分を超えるスピードがあるはず無いのだ。

雷光丸―――奥義「幻想――「あ、もしかして幻想八影ですか? 読みましたよそれ。私も出来ます」

雷光丸があっけにとられている間に、文が増える。
雷光丸の奥義に介入してくる。それも、雷光丸に先に発動させた上で、後から追い抜く……単純な速度でだ。
雷光丸が文に気を取られてバランスをくずし木に激突した。

「ば、馬鹿なっ!?」
「あ~、あなたへたくそですね。ちゃんと練習しましたか?
 もしかして、ちゃんと秘伝書を読みきっていないのですか?
 良ければコツを教えるのですよ?」
「その秘伝書を書いたのは俺だ!!!」

目を点にした文が頭をめぐらしている。ようやく思い出したようだ。そういえば秘伝書の著作者に雷光丸ってあったような気がする。
ようやく文が手を打つ「なるほどサルも木から落ちるということですね?」等とのたまう。
雷光丸がムキになった。

「もはやかまわぬ。秘伝書にすら書かなかった絶技を見せてくれる!!!」
「おお!!? 凄い!! まだあるのですか!!? 是非見せてください!!!
 もっと、もっと速くなりたいのです!!!」

雷光丸―――最終奥義「交差ー蛟ー」

下段からの打ち上げと上段からのうち下げを同時にぶち込む最後の奥義。
二刀流で繰り出すのではない。全力で打ち上げ、相手の体に衝撃が伝導しきる前に打ち下げを喰らわせる。
単純な全力二段撃ちである。しかし、単純ゆえに技術がほぼ必要ない、速度さえ出れば誰でも出来る。
先程の幻想八影は、仕掛けが色々要るが、これだけ単純なら、本当にどっちが速いかが分かる。
それだけで勝負が決する。己の才覚にすべてを掛けて文を捉える。
気迫は十分、妖気で負けるわけは無い。……今すぐその薄ら笑いを消してやろう!!!
気合が周囲に飛び散り、踏み込む足は地面をえぐる。
そうやって踏み込んだ先で、たった一歩で、敗北が決まった。
軽やかにバックステップ、羽ばたく翼が突風を叩きつける。自分は加速し、相手を減速させる……文の本能だろうか?
追いつけない。この小娘はもう、俺より速い……。一歩目の加速で二人の間の差が広がっている。
馬鹿ななどと思う余地も無い。目の前の遠のいていく文が現実を叩きつける。
心が折れた。才能一つに叩きおられた。
俺より凄いやつなんていないと思っていた。
俺こそが唯一頂点にふさわしいと思っていた。それだけの自信があったのだ。
だからこそ天魔に逆らい、太郎坊にも歯向かった。それが原因で地底に封印されたが、それでも納得していなかった。
才能があった……あったはずだったのだ。雷神とまで言われて畏れられたこの俺が、全天狗最速のプライドが崩れる。
太郎坊だって倒してきたのに……こんなガキに負けるなんて。あまりのショックに術の連動が崩れる。
力の入れ方を間違える。折れた心が立ち直らない。雷光丸は最終奥義の2歩目をそのままミスって木に頭から突進した。
そのまま気絶している。
文がポカンとして雷光丸を見ている。

「あれ? どうしました? 絶技はどこですか? 自爆のことですか?」
「あ~、これ完全に気を失っているわね。
 文ちゃんお手柄なんじゃない? この人指名手配されてたのよ」
「え゛!!? そうなのですか!? 折角遊び相手が見つかったと思ったのに……残念です」

そんな事を言って、次郎坊一行にようやく気がついた。
なぜか全員の顔が引きつっている。
「何をしているのですか?」そう言って伸ばした手を監視人に振り払われた。

「ば、化け物。じ、次郎坊様、ど、どういうことなんですか。これは一体」
「酷い言い草です。私は烏天狗なのですよ!!」
「あ、うん、文、先に部屋に戻っていなさい。その後、必要があれば呼ぶから」
「何ですか次郎坊様まで……全く、私にだって人権があるのですよ。椛、何をぼけっとしているのですか?」
「……速すぎて、目で追えなかった」
「当たり前です。みんなの前ではあれでも加減しているのです。久しぶりだったのですよ全力で飛ぶのは」
「あちゃー、やっちゃったみたいね。文ちゃん。ちょっとこっちに来てなさい。
 これはやばいわ」

そうして紫が分けがわからなそうにしている文を連れてスキマワープした。

「どうしたのですか?」
「あなたとしたら問題ないのだけど。あの連中にとっては問題が無いことが問題なのよね」
「何を言っているのですか?」
「文ちゃん、ちょっと話をあわせてくれる? 夜、二人っきりで詳しく話すからね。
 今の感じだとまずいわ。あなた山にいられなくなるわよ」

紫に脅されて、しぶしぶ話を合わせることにする。
二分たって戻ってきても、一行はそのまま現場に残っていた。

「いや~。危なかったわ~、危うく私の式神をはがし忘れるなんてね」
「そうですか? もっと速くても良かったのですよ?」

このぎこちない会話に騙されたのは次郎坊と楓を除いた残りの全員だ。
一行がほっとため息をついている。
なるほど”神隠しのブーストがあったのか”という理解を得た。
まさか、素の速度で雷光丸を圧倒していたなんて信じたくない。
次郎坊の付き人ですらその話を信じている。
しかし、次郎坊はその目で式神が張り付いていないことを見抜いている。騙されるわけが無いが話には乗った。
楓は見えているわけは無い。しかし、文の言動パターンが違うことを本能的に見抜いた。しかし、黙っている。
ぎこちないまま、天魔の居城に戻っていく。雷光丸は縄でぐるぐる巻きにされているが驚くほどおとなしい。
そのまま、閉じ込めて勇儀が戻り次第引き渡す。
一番の問題が片付いた。

「あ、そうそう、これを忘れていたわ」

紫が指を鳴らすとスキマから太郎坊がズタボロで吐き出された。

「危なかったですわね。太郎坊さん?」
「ぬ、ぬしの 協力に かんしゃする」

そう言って、ぶっ倒れた。
次郎坊たちが慌てて太郎坊を回収する。
そういえばそのほかの付き人は?
慌てて楓と椛の鼻を頼りに合計10人のけが人が発見された。幸いなことに死人はいない。羽を折られて重傷者が多いが僥倖だろう。
夜になったら、もう安心だなんて言って、天狗達が祝勝会みたいなものを始めている。
紫は「浮かれすぎ」等と言って早々に祝勝会を引き上げ、文もお偉方の話を聞く気が無い。
椛と楓は病室だ。楓だって重症である。ただ、今回の功績を考えて、特上の病室があてがわれている。

「椛、祝勝会にいってきたら? おいしいものいっぱい食べられるわよ?」
「私、お母さんと一緒がいい」
「ダメよ、もぐりこんで少し食べてきなさい」
「いや、離れたくない。一日ぐらい我慢する」
「じゃあ、こうしましょう。椛、少し祝勝会のお料理持ってきてくれる? 病人食じゃあ 力が出ないわ」
「う~、そう? じゃあすぐに戻ってくる!!!」

ようやく椛を引き剥がした。
椛が去ったのを見計らって文が病室に入ってくる。
文が来るのをさも当然のように楓が迎える。文が来るなんていう直感が働くのは、昼間の戦いを見ているからだ。
絶対に文の様子がおかしい、多分神隠しに何か吹き込まれている。
そういうことを読み取って、わざわざ椛がいない時間を作った。
そうすれば案の定である。

「どうしたの? 文ちゃん?」
「か、楓さん、楓さんは私のことどう思いますか?」
「どういうことかな?」
「さっき、神隠しと話したのですよ。あ、あの、みんなが私のこと化け物だって思ってるって本当ですか?」
「なんで、そうなるの?」
「実は……その、紫さんの―――」
「ああ、やっぱり式神がなかったのね?」
「そ、そうなんですよ。式神なしで雷光丸に勝ってはいけなかったのですか?
 わ、分からないんですよ。全力で飛んではいけなかったのですか?」
「そんなことは無いのだけれど、私も一つ聞きたいわ。
 純粋に雷光丸のことどう思った?」
「……ようやく、同レベルの仲間がいたと思いました。ちょっとおっちょこちょいで年上ですが、
 純粋に速度が競える者にようやく出会ったのですよ? 出会って、嬉しかったって言うのが感想です」
「そう……ごめんね文ちゃん。私には分からないわ。
 雷光丸って言うのは単純な犯罪者じゃないのよ。全天狗最速だった男よ。雷神って呼ばれていたわ。
 地底に幽閉されたから、最速でなくなっただけ……いまだに幽閉前の記録を破ったものはいないわ」
「それじゃあ」
「今は文ちゃんが名実ともに最速……なのだけど。ここからが理解できる?
 1里ってどのくらいの時間で飛べる?」
「知りません。そういうものは興味すらなかったです。風を切る感覚の方が大事なのです」
「ちょっと自分が全力で飛翔したと思ってその間隔で手を叩いてみてくれないかな? 距離的にはそうねこの病室から、
 九天の滝ぐらいでちょっと私のイメージと比較しましょう」

文と楓が「せーの」で同時に手を叩く、恐ろしいほど短い間隔で文の手が鳴った。

「あの、……まだですか? ここから九天の滝ですよ?」
「まだ、半分ね」
「全力って言いましたよね?」
「そうよ」
「もしかして術を使っていないほうの全力ですか?」
「いいえ、ベストコンディションで考えうる限りの方法を使って全速力をイメージしてる」

文が痺れを切らすほどの時間がかかった。
ようやくなった手に「こんなにかかるんですか」と呆れている。

「そうよ、普通の白狼天狗ならこのぐらいかかる。
 普通の烏天狗なら、この間隔の半分ぐらい。速い人で三分の一、
 大天狗なら五分の一、雷光丸は十分の一ぐらい、やっぱり雷光丸ぐらいね」

常識的に考えて倍も速度が違えばぶっちゃけ他種族である。
それを烏天狗基準で考えて4倍以上ぶっちぎっている。
そして、最も恐ろしいことは文が成長途中って事である。
成長次第では雷光丸すらはだしで逃げ出すほどの速度に到達する。
さっきの間隔は子供の文対大人の白狼天狗であることを忘れてはならない。
しかし、雷光丸ですらその才能が故に山に溶け込めなかった。
それ以上の才能は果たして山に残れるだろうか?
楓には分からない。一応、白狼天狗は平気だろう。
初めっから烏天狗のレベルが違うことは理解している。
しかし、烏天狗同士や鼻高天狗では? 同レベルで収まっていなければならない枠組みをはるかに超える。
おそらく成長しきったら太郎坊の名前が変わる。下手したら天魔様さえも。
文の敵は外にいない、山の中だ。天狗の上位陣はこれから自分の地位が脅かされるのではないかと戦々恐々、
下位のものは文に取り入ることを考えるだろう。
可哀想だ。何も理解できない状態で権謀術策がこれから文に襲い掛かる。
術が使えても、心が弱い。全天狗最速とはいえ、精神は普通なのだ。
それらを十分に理解した連中が襲い掛かってくる。
下っ端にはどうしようもない。
文に抑えてもらうしかないが、感覚として押さえつけることはしたくない。
どうすればよいか全く分からなかった。

「文ちゃんごめん、怒ってもらってかまわないけど。怪物級の記録なのよ。その速さは」
「そ、そうですか。じゃあ、全力を出さないほうが良いのですね」
「ごめんね。本当に、私にはどうしたらいいのか全然分からない。
 文ちゃんが全力を出せないほうがおかしいってことだけ言っておくわ」
「いえ、大丈夫です。今回の件は忘れてください。
 私は紫さんの力を借りて雷光丸を倒したのです」

迷いごとが消えて晴れやかではないにしろ、笑って退場する。
耳で音を聞いて立ち去ったことを確認して「……それはそれで問題なんだけどね」とつぶやいた。
紫の力を借りたなんて宣伝したら、紫の山に対する影響力が増大する。
紫の手柄が大きくなりすぎるのだ。太郎坊を救助し、雷光丸捕縛に協力、その前には雷光丸の存在を示唆し警鐘を鳴らしている。
下手すると紫に対して天狗の頭が上がらなくなる。
しかし、下っ端にはどうしようもない。
頭を悩ませるだけ無駄である。次郎坊がきっとのらりくらりとかわすのだろう。
……椛が帰ってきていたか……自分の子供ながら、よく出来たとおもう。文に気取らせずに部屋の外で気配を消していたようだ。

「お母さん、今の話 本当?」
「ええ、そうよ。話が長引きすぎたか。椛、忘れてくれるわね?」
「文さんは本当に全力を出しちゃいけないの」
「そうね、そうなるわ。かわいそうだけど、文ちゃんが全力を出すと大変なことになるわ。
 それにしてもどうしたの? ケンカでもした? いつも”様”をつけてなかったっけ?」
「い、いいじゃないそんなことは」

楓が笑顔で椛の顔を覗き込む。
目をそらした椛の態度は喧嘩したんだろう。嘘が下手というより、見抜けないほうが母親失格か?
なんていうか分からないが、喧嘩した割には二人の間が穏やかで良かった。
同じ空間でお互いを完全無視するわけでもなく、お互いに意識をしながら意見を交わし、重ねていく。
同時期に育った二人だ。仲が良いのは当然だったが、喧嘩することも絶対にあるのだ。
二人の関係って言うのは慕うだけでは足りない。
全力を持って本音をぶつけて激突し、なおかつ仲良く肩が組めねば親友とは言わない。
一方的に付き従っていた時代を卒業したのかもしれないな。
激突も多々ある。波風の無いことが普通とは思わない。
乗り越えていって欲しい。特にこれから文が大変になる。支えになってあげてほしいと思った。
雷光丸と異なるとすればここしかない。あいつは独りだったのだ。
支えがあればもしかしたら文は大丈夫かもしれない。

……

夜遅く、勇儀が戻ってきた。人間と妖怪を担いでいる。
地上で妖忌を相手に「まあいいじゃないか」と酒を一緒に飲んでいたら、幽香の奴が顔を真っ赤にして突っ込んできた。
酒を手にしている。こっちが楽しく飲んでいたんでうらやましくなったのかなと思っていれば、妖忌に向かって叫んでいる。

「アホか!? 勇儀如きに捕まるなんて、軟弱者が!!!」
「ゆ、幽香、た、頼む。助けてくれ……も、もう飲めん」
「大丈夫だよ。意識があるうちは平気さ。まだまだ五杯はいけるはず」
「そ、そんな、馬鹿な。頼む幽香~、ば、化け物じゃ。酒の化け物がおっぷっ」
「うわ、馬鹿っ!! 吐くな!!」

そう言って妖忌が撃沈した。

「あれ!? おかしいな。後ちょっと飲めるはずなんだが?」
「お前のちょっとは湯飲みで5杯か!!?」
「いや、だってさ、話聞いたら酒強いって言うから」
「馬鹿か!? 鬼の基準で人間に飲ませる奴がどこにいる!!」
「ここにいるが……それよりそれは酒か!?」
「えっ? あっ、これはちが……そ~よ、酒よ。文句ある?」
「無い無い。それを一献分けてくれないか?」

そう言って、杯を向けてくる。しかし幽香の考えは異なる。
これは妖忌に飲ませるための酒だ。しかし、当の本人が既に飲める状態ではない。
ニヒッと笑った幽香が手持ちの酒を一気飲みした。勇儀に飲ませる酒は無い。
これは妖忌のための酒なのだ。妖忌と一緒に肩を組んで笑いながら飲むはずの酒を……お前などに飲ませるか!!!
一滴たりとも勇儀に渡す気は無い!!!

「ごめ~ん。空になっちゃった」

そう言って、あっという間にぶっつぶれた。
妖忌も幽香も地面でのたうち回っている。

「……! なるほどこれが一人勝ちという奴か」

勇儀が考えた所によると、このまま二人を放置すると流石に冷えるし、豚鬼もいる。
酒で酔いつぶれた所を襲われたらひとたまりも無い。
そうして二人を担いで山に帰ってきたのである。
そのまま、わけもわからず天狗の祝勝会に参加した。

「おお、雷光丸を捕まえたのか!?」
「ええ、勇儀様、うちの文がやってくれました。凄いものです」
「ほぉ~流石だな、立役者はどこにいるんだ?」
「もう寝ていますよ」
「あっはっはっはっは、まだまだ子供だなぁ」

そんなこと言って、一番最後まで騒いでいた。

……

朝、幽香が目を覚ました。二日酔いで頭が痛い。
あんな酒を一気飲みしたのがいけなかった。用意した量も2人分である。
自分の記憶は最後に星を見上げて、笑っていた所までだ。おかげで今どこかも分からない。見ず知らずの部屋で誰かの布団で寝ている。
なんとなく誰かに持っていかれたような気がする。……ぐっ、速攻で飲みきったらさっさと家に引き上げればこんな失態はしなかった。
どう考えても、妖忌がつぶれていたのが原因で、酔い潰した勇儀が主犯である。
無意識に右手に力が入る。……おのれ、勇儀ぃ!!
自分にかかっている布団を引っぺがすと、横に肌色の塊が見えた。
とたんに込みあがった悲鳴を殺したのはまさに奇跡である。
妖忌がいる。ぐっすり熟睡しているのだ。
よく見れば……凝視してから凝視してはならないことに気がつく。
ふんどし一丁か!!!
というか待て、待て、待て!!! 私は今、どんな格好だった!!?
自分でも信じられない勢いで血の気が引いていく。私は一体……どこで服を脱いだ!!?
今着ているこの馬鹿でかい寝巻きはきっと勇儀のだ。……だから!!? 一体いつ、どこで着替えた!?
……私の服、服は? どこに? 
窓から見える景色を見てさらに驚愕する。
妖忌の服と一緒に仲良く並んで干してある。
頭の中が真っ白だ。より正確な表現で言えば下着が並んで……勇儀、てめぇは滅殺だ!!!
幽香は昨日の記憶を出来る限り鮮明に思い返している。
あの酔いつぶれた状態の妖忌がこの惨劇を表現するわけが無い。
表現をするほどのノータリンならとっくの昔に始末していた。
勇儀がその鈍感さをもって適当に着替えさせてそのまま、二人を布団に放り込んだというのが正確な所だろう。

「いよ~。起きたか二人とも?」

平和ボケした和やかな声を出しながら勇儀が部屋に入ってくる。
勇儀の思考が戦闘に切り替わるより早く、フルスイングした拳を顔面に叩き込む。
二日酔いでいつもの3割程度も力が入らない。それでも感情が先走った。
おかげで利き手を傷めたのだがかまわず、左手も連続で叩き込む。こっちはボディブローだ。
ようやく力が入った勇儀の腹筋で押し返される。左手も痛い。

「い、痛っ~、なんだい? 朝の挨拶にしちゃ過激じゃないか」
「お前が、やったんだろ!! よりにもよって、妖忌如きと一緒に寝かすなんて!!!」
「お前、昨日酔った勢いで告白してなかったか?」
「あ゛!!? し、知るかぁ!! 記憶が無いから無効だ!!」

すっごい勢いで顔が赤くなった幽香の背後で妖忌がおきだす。
「お~、おなごが俺の部屋に二人おる」寝ぼけ眼の妖忌に向かって極太の光線がよけるまもなく炸裂した。
山を揺るがす衝撃に天狗達が大騒ぎしている。鬼がいる日常って言うのは日々がこんな感じだったことを思い出させる一幕であった。

……

昨日の楓の話を受けて、文は全力を出さないことに決めた。
まずは、次郎坊より豚鬼討伐の話を聞く。昨日、雷光丸は捕縛した。
残りは豚鬼……楽勝のはずだ。
全天狗が楽観視している。白狼ですらが大天狗や勇儀がいるなか、すでに勝った気になっている。
問題は誰が手柄を立てるかということに終始しているのだ。
勝ち組にさえ乗れれば、もしかしたら出世が出来るかもしれない。

「私はどうしたらよいでしょうか?」
「あ~、そうだな。一応、私と来てくれ。次郎坊には私が話しをする」
「……鼻血どうしました?」
「大人の情事を覗き込んだら止まらなくなった」
「勇儀……次にその言いかたしたらマジで殺す」
「ほ~、面白いな、言いふらしてやろうか?」

二日酔いで青い顔をしている幽香が現れた。怒りで手に力をこめるが、傷めた手では溜めきることが出来ない。
確実にさっきの一撃で手にひびが入った。妖忌とは違うが1週間ぐらいはおとなしくするしかない。
文の理解力は抜群だ。……「なるほど痴情のもつれって言う奴ですね」と間違っても口に出さない。
大の大人が2人でギャーギャー騒いでいるそばから、紫がいきなり現れた。

「おや、まあ、皆さんおそろいで、山にしては珍しいメンバーですね。
 次郎坊さん達が出発するそうですよ? 見送らないのですか?
 それに出撃はしないの? 勇儀さん?」
「おおっと、そうか。折角だ。紫も一緒に行かないか?」
「豚狩りですか……正直、気乗りしませんわ。わたくし これでもきれい好きなもので……手を汚すのはちょっと……」
「何言ってるのよ? 捕縛だけならお手の物でしょうが、別段”ブチ殺せ”って言ってるわけじゃないでしょ」
「手を汚すって言うのは比喩じゃなくて、物理的なことを言っているのだけど?」
「……そうか。紫にはあいつの匂いはきついかも知れん」
「そうです、近づきたくありませんわ」
「ちょっと待ってろ。勇儀みたく鼻っ柱へし折って匂いを物理的にわかんなくしてやるから」
「結構です。今日は一日休みますわ、流石に取り逃がすことも無いでしょうから。万一取り逃がしても、
 たいしたことにならないでしょう。雷光丸を抑えておけば問題なさそうですからね」

紫の言葉に、「そりゃそうか」なんてみんな納得している。一日ぐらい天狗に任せてもいいかもしれない。
勇儀はちょっと考えると、「そういえば河童はどこにいるかな?」なんて言って河童の所に行く気満々である。
きっと、鼻血の治療薬だろう。勇儀からは「やっぱり、今日は自由行動にしよう」なんて言われてしまった。
紫にも「昨日の最大の功労者なんだから寝てれば?」と言われた。
寝てすごすほど暇ではないのだが、まあ今日は一日遊んでいよう。
勇儀と一緒に次郎坊を見送った後に楓の見舞いに行く。
幽香は帰りたいのだが、足元がふらつく、二日酔いだ。ゆっくり横になっていたい。妖忌はすでに全身包帯で病室に搬送されている。
今日一日は何事も無く過ぎていった。

……

夜、天狗の出撃部隊の話を聞いた。取り逃がしたそうである。
追い込むだけ追い込んで、手柄争いになったらしい。
足の引っ張り合いで、けが人が出る始末、次郎坊が慌てて引き上げ命令を出して、事なきを得た。しかし、身内の争いで10名ほどけが人が出たそうだ。
紫があきれている。あえて詳細は聞かなかったが考えうる限りの最悪の手を打ったらしい。
……現場の司令官が3人もいたらそりゃ命令が交錯するわ。
次郎坊自身はのほほんとしているが、紫にとっては仕事が遅くて仕方ない。

「何で司令官を3人も投下したのか……」
「何事も経験というものですよ。3隊に分けて、手柄を競わせる……結果、3隊がかち合ってしまったようです」
「いや現場が混乱するのは分かり切っているでしょうが?」
「紫殿はお若いですな」

次郎坊の態度がむかつく、けが人を出して、相手を取り逃がして、のほほんとしているのが信じられない。
簡単なことに無駄に時間を掛けている理由が分からない。
回り道に価値など無い。

「時間の浪費は無駄ですわ、明日、わたくしが片付けます」
「ふ、ふっふっふっふっふ、そうですか。まあ勇儀様の手前もあるし……どうぞご自由に」
「その言い方は流石にむかつくんだけど? 出来るのにやらないのは手抜きですわよ?」
「山には山のやり方があるのですよ。いや、紫殿が若いだけですな」

紫の考えと次郎坊の考えは異なる。
次郎坊としては手柄争いをさせて使える奴を見極めていきたいのだ。
今後、もし同じことが起きた場合に即座に使える優秀な奴……今回の豚鬼は危険ではあるが、致命的というものでもない。
優秀な奴なら、手柄よりも先に仕留めることを、問題を解決することを最優先で動くはずである。
協調作業が出来、合理的な判断で動けるものを見極めたかったのだが、今回の3人の中にはいなかっただけである。
次郎坊としては、後4~5人見てみたいのだが……そんな事をしていると紫が痺れを切らす。
紫は若すぎる。寄り道の価値が分かっていない。最短で、最小労力で相手を仕留める……たったそれだけのために労力をつぎ込んでいる。
……いや、一人で全部をこなしている紫を責めるのは酷だろう。一人で全部こなす時はそれが最適解なのだから。
集団で動く山は違うのだ。優秀な奴をみきわめていくことが大事なのだ。
紫が半ギレしながら去っていく。
明日、豚鬼は血祭りにされるだろう。しかし、手柄競争の獲物をとられると、一体どこで優秀な奴を見つけたらいいのか。
次郎坊もため息をついて寝床に向かっていく。

夜も遅くなって勇儀が戻ってきた。
鼻血は止まっている。手に薬袋を持って妖忌を探しているようだ。

「……お前、何で廊下で寝てるんだ?」
「幽香に部屋から追っ払われたわ。布団は包帯で十分だと」
「……酷いな、まあいい、腕……いや、全身だな。服を脱げ、河童に薬を貰ってきたよ」

薬を貰って、塗り薬であることを確認した。

「あ~、一人で塗るからいいぞ手伝わなくて」
「馬鹿、利き手が使えないのに無理するな。ほれ、さっさと脱げ」

まごまごしている妖忌を捕まえると服を引っぺがす、包帯もあっと言う間に取り去る。
……気がつけばふんどしに手がかかっている。

「待て!! ここは怪我をしておらん!!!」
「おっとそうか、じゃあ次、薬塗るぞ」

ふんどしを捕まれたままでは逃げられない。
病室からはゴトリと音がしたが、下手に騒ぐと幽香がおきだす。勇儀を前にして素っ裸だったら……殺される。
おとなしく、薬を塗られていく、勇儀の手つきは男とか女を考慮する気配が無い。
あっという間に薬漬けにされ、ミイラ男に逆戻りだ。

「一応これでいいな、一晩寝て起きればきれいさっぱり、明日から真剣勝負だって出来るぞ」
「すまんの、挑んだのは俺だったのだが……」
「いいさ、それより。真剣勝負の一番手の予約をお願いしたいんだが」
「勇儀、本当に済まないが、まず、俺にはやらなけりゃいけないことがある。
 惚れた女の……幽々子の足枷をぶった切らにゃ、先に進めん」
「そうか、惜しいな。じゃあ、二番手だ。
 それから、これは昨日の真剣勝負のお礼さ。是非受け取って欲しい」
「お、おお? こ、これは……!!!
 ゆ、勇儀、いいのかこれ?」

お礼の品を見た妖忌が思わずため息を漏らす一振り。
剣術家なら、誰もがよだれをたらすほどの一品が目の前にある。
たった一振りだが、この凄みがわからない鈍感な奴はいないだろう。

「河童の無事だった工房でな、私の金棒を溶かして作った」
「げぇっ!! ほ、本当か!!?」
「嘘は言わない。ま、本当の所は一部だけどな、流石に全部は使っていない」

刀に伸びる妖忌の手が震えている。
それだけ見れば十分だ、こいつはこの刀を大事にしてくれるだろう。

「勇儀、い、いいのか。これは――」
「そう、私にも向かう刃。だがな、このぐらいじゃないと私は切れんぞ?」
「鬼の一品……」
「ははは、あまり期待するな。使い手がダメなら豆腐だって切れないさ」
「分かっておる。が、これは刀が良いのか、腕が良いのか分からなくなるぞ」
「お前は刀に騙される程度じゃないだろう?」
「断言したいが、この刀の前では、自惚れるかも知れん」
「いいさ、自惚れているなら、そのまま私が打ち破る」
「怖いな」
「そりゃそうだ。相手は鬼だぞ? 四天王さ。何を期待している?
 私が期待しているのは勝負そのもの……無我夢中になれる熱い戦いだけさ」
「真っ直ぐすぎやしないか?」
「ふ、ふふふふ。そうだろう。でもその真っ直ぐさがいいのさ。
 混じりっ気無い、純粋な思いなんて中々お目にかかれないだろう?
 そんな中に身をおけるすばらしさが分からないわけでは無いだろう?」
「そうだな、俺も惚れた女を前にして、天にも昇る気分を味わったさ、一刻を一瞬で過ごす」
「そして、一瞬が永遠とも思えるのさ」
「分かる。そんな気分がな。恋か、勝負かの違いはあるが、酔うって言うのは一緒だな」
「そうだ。私としては勝負に酔って、酔ったまま……おっと、その先は勝負の先で語ろうか」
「惜しいの……美人のくせに」
「鬼に美しさはいらない。強さだけが大事さ」
「そうか……ならば。
 星熊 勇儀殿、鬼の一振り、ありがたく頂戴いたす」
「ふふふ、勝負の約束忘れるなよ?」

勇儀が笑って立ち去る。一度すら振り向きもしないであっさり姿を消した。
妖忌は手にした刀を見る。
とても横になる気にならない。刀が凄すぎて興奮して眠れない。
刀の反りを見るだけでも、振ってみたい気分にさせられる。
刃筋、鉄の匂い、刃金の煌き、例え一日見ていても飽きない。
うきうきと試し切りがしたい気分になるのは、心が未熟だからだろうか?
刀に誘われて、きりたい気分になるなんてまだまだ未熟、刀に負けているということだ。
しかし、夜も遅く、薬を塗られて心地よい体をよそに、感情だけが遠足前の幼稚園児のようにおさまらない。
必死に心を落ち着かせて眠りにつこうとする。しかし、刀を相手に興奮するなんて初めてだ。
……これなら、これであれば幽々子のくびきを解き放てる。そんな確信がある。
明日を待てない感覚……眠っていたわけでもない、気がつけば朝日が目に入る。
休んだわけも無いのに体力は薬で全開、気分は最高潮、徹夜後に全力が出せる。こんな日は一生で何回あるだろう。
朝飯も喰わずに外にすっ飛んでいった。早く素振りをしてみたい。
立ち込める朝もやの中、誰も見ていない。自分だけが知っている秘密が妖忌を興奮させる。
空気が切れる。刀を振った形に朝霧が変形する。
信じられない、今までの刀はなんだったのか?
今までとはまるで抵抗が違う。振る負荷が異常なほど小さい。
一日の修行ほどの素振りがまるで苦にならない。
勇儀はとんでもないものを送ってくれた。
興奮冷めやらぬ中、振って振って振りまくる。
ちょいと薪を拝借して試し切りも行った。
空気と同じだ。抵抗をほとんど感じない。空中で十字に切ることが出来た。
次に目をつけたのは切り株だ。天狗達が薪割りに使っている奴だ。いつもなたを受け止めている分厚い切り株である。
どこまで切れるだろうか? 切りつけて抜けなくなっても困るので地面ギリギリから切り上げてみる。
いつ食い込んでもいいように少し握る力を落として構える。……いざ、どこまで行くか。ぞくぞくするぞ。
そうして妖忌の手から刀がすっぽ抜けた。
切り株で止まったのではない。極あっさり豆腐でも切るかの様な手ごたえだけで切り株が真っ二つ、斧を使っても一撃でこんなにあっさり行くはずが無い。
空中に振りあがった刀をほうぜんと見ていた。
……これは滅多なことでは使えない。切れすぎてしまう。切れ味に自惚れる以前に使いこなすのが異常に難しい。
下手にこの刀で受けを行おうものなら、敵の武器を丸ごと切断する。止まるものが止まらなかったら、こっちの身が危ない。
どきどきと興奮する心に、背筋も凍る現実が目に入った。……一度落ち着こう。
ようやく一息入れようとすると視線を感じる。無我夢中になって自惚れていたらしい、幽香がこっちを見ている。

「何? 治ったのあんた?」
「応さ、きれいさっぱりこの通りよ」
「今のは……なんなの?」
「勇儀の贈り物さ。真剣勝負のお礼だと」
「……ふ~ん、あっそ。ま、いいか」

そんなことを言っている幽香の視線が手にした刀に集中していることに気付く。
気にならないほうがおかしいだろうが、幽香に気付かれたのは失態だった。
別段、幽香に使う気は無い。無いのだが……向こうが気にするのはそのことだろう。
おそらく幽香でさえこの刀は切れる。切れてしまうのだ。
強い力を恐れる感覚は幽香にだってあるだろう。自分を倒せる実力があるものには近寄らないはずだ。
どつき合いも、実力が近いから出来ていたこと……この刀のおかげで一気に力の差が広がった。
今までどおりの付き合いは出来なくなったか……まあ、仕方あるまい。

「ちょっと見せてくれる?」といわれるまま、「いいぞ」といってそのまま渡す。
幽香が見ている。無造作に刃に指を当てて切れ味を確かめている。
「おい!!」と言ったときには遅い。もう指先から血が滴っている。
切れ味を見た幽香が目を丸くしている。
それでも触るのをやめない。
手の平で今度は握るような仕草をした。滴る血の量が一気に増える。

「馬鹿!!! やめろ!!!」

妖忌の一言を聞いて幽香がにんまり笑っている。
幽香の関心は刀ではない。妖忌が刀で変わったかだ。
力を得ることで……鬼の刀の影響を受けて、傲慢になるかどうかを見たかった。
何だろう? あの間抜け面は? 私が本気で握り締めるとでも思ったのか?
ふふ、くかかかか、おかしい。あれほど興奮していた刀よりも私の手の方が心配なのか?
……あ~、満足した。
言葉で「刀は使わない」なんて言われるよりも、あせった態度の方が信頼できる。
妖忌の態度で、この刀が自分に向けられることが無いことを確信できた。
……じゃあ今までどおりからかってあげようじゃない。

「結構な切れ味ですこと」

わざわざ血の滴るほうの手で直接刃を握って柄を渡してくる。妖忌が柄を握ると幽香がしかめ面をした。

「ふふふ、妖忌、手が痛いんだけど?」
「はあ!? 何を突然言い出すんだ?」
「見てよ、妖忌のせいで……手が血だらけなんだけど?」
「俺はとめたぞ!? というかさっき自分で傷つけただろうが!!」
「いやいや、こんなに深く傷つけた覚えは無いな~。女の子を傷つけておいて知らん顔するつもり?」
「なにを言っているんだ?」
「ちょっと高い代償の先払いをさせただけじゃない」
「ほう、なるほど、俺をあごで使う気か?」
「そ~よ、私に内緒で勝手に勇儀から贈り物を貰ってさ、勝手に勇儀に約束したんでしょ?
 だから、これは私との約束、勇儀の真剣勝負の後、私の所に来なさいよ。ぼろぼろの妖忌なら、楽勝でしょ」
「なるほどな、生きて帰って来いって事か」
「ええそうよ、私に負けるためにね」
「ひねくれ者め」
「紫にも勇儀にもけんかを売るなら、私にも売りなさいよ。売り惜しみするほどの価値も無いでしょ」
「俺は大繁盛だな」
「たかだか3人を相手に何を言っているのか」

「お前が言うか?」などといって爆笑した。俺に気を使ったのか、態度を確かめたのかは分からないが、これからも腐れ縁が切れないらしい。
妖怪(鬼)が鍛えた刀とはいえ、切れないものがあった。
そりゃそうだ、全部切れたら困り物だ。良い刀である。切れないものはほとんど無い。

……

紫が勇儀を相手に豚鬼の討伐を持ちかけている。昨日の態度とは打って変わってやる気なったようだ。
勇儀も手早く始末したいらしい。2つ返事で了承している。紫はそのほかにも幽香を投入するつもりだ。
出来うる限り短時間で最大戦力で始末をつける。豚鬼如きに1日も掛けていられない1時間で始末する。
勇儀も探索が必要ならと文と椛をつれてきた。

「それでは、皆さん、これから豚鬼の始末をつけますわ。どうぞよろしく」
「一つ質問があるんだけど? もしかしてあんたが指揮するつもり?」
「ええもちろん、あっという間に片をつけますわ」
「じゃあパスで」
「う~ん、私もな~。天狗たちの手前、あんまりほいほいと命令を聞けないんだが?」
「ぐっ、何なんですか あなた達は? 豚鬼を討伐するんでしょう?」

二人は「そりゃそうだが」なんて言うが……幽香は指揮官が紫というだけで命令を聞く気が無くなる。
勇儀には建前というものがある。
最強出撃メンバーが出撃前に空中分解した。話を聞くだけだった文と椛はぽかんとしている。

「紫さんは何でこのメンバーを集めたのか……」
「別段、文さんに賛成しませんが、勇儀様だけで十分では?」
「そ、そうですね。椛の言うとおりです。3人で協力すれば……」
「別に文さんも要らないですよ。私が匂いで追跡して、勇儀様を案内すれば二人で十分おつりが来ます」

やり取りしているだけでこちらも崩壊しそうだ。
文がへこんでいる。この間のことが尾を引いていて自然な流れで相手が出来ないし、椛にさせる気が無い。
勇儀が悩んでいる。もしかして……一人の方が実は速かったりして?
目の前で紫と幽香が口論している。

「じゃあ、幽香さん。指揮してください」
「よし、じゃあ、紫、茶をくんで来い」
「嫌ですわ。討伐に関係ないでしょ?」
「いや、指揮官のベストコンディションを整えるって大事だと思わない?」
「それじゃ勇儀さん!! 指揮官をお願い」
「あ、それなら私降りるわ」
「だ、そうだ。多分、幽香は他の誰の命令も聞かないぞ」
「じゃあ、幽香抜きでパーティを組みましょう」
「あそ、じゃあ初めっからそうしろよ」
「勇儀さん。指揮をお願いしますわ。戦略は私が練りますから」

もう、幽香を相手にしないで紫が話を進めている。
幽香はお邪魔しましたといわんばかりに立ち去っていく。
最初からこうすればよかった。幽香は強いがコントロールできない。
勇儀に幽香無しの場合の作戦を伝える。
勇儀が難色を示した。この作戦……無理じゃないか?
椛と文の探索はよい。勇儀と紫がいたら、豚鬼が逃げていく可能性は十分にある。
だから最初は妖気を感じさせない、もしくは敵で無いと思われるような奴が探索に当たるのはいい。
いいのだが、問題はまんまと豚鬼が出てきた後だ。
文が速攻でこちらに情報を伝える。これはいい。
紫のワープで直行……これもいい。
問題は、豚鬼とタイマン状態になる椛だ。
文の速度なら最長で1分あればこちらに情報が伝わる。
十秒あれば紫の術で現場に直行できる。
しかし、現場で70秒も椛がもつだろうか? 何か一つの手違いで即死するぞ?
一人保護者みたいな奴がいればいいが、幽香ですらでかすぎる妖気を感知されて逃げられる。
豚鬼の妖気も感知しづらい。直接会っている奴なんて楓ぐらい。しかし楓は重傷だ。動かせない。
他の連中は……言いたくないが、目先の出世に拘りすぎている気がする。
勇儀が声をかければ”我先に”とはせ参じるだろうが昨日のポカミスを繰り返す気がする。
難しい。妖気を感知されないで、椛の安全が確保できる奴が……いた。
しかし、大問題がある。妖忌は紫が大嫌いなのだ。
あの二人のみ、これだけ人が交錯している中でかち合っていない。意図的に遭遇を避けている気配がある。

「紫……妖忌をつれてきてもいいか?」
「! ダメです。あれは下劣な男ですよ。
 私の大親友に近づいた挙句に手を出そうとしたんです。汚らわしい。
 勇儀さん、大丈夫ですよ。椛ちゃんには私の強力な式神を取り付けますわ。
 これで万事解決です」
「そう……か?」

紫はこれ以上無駄話をする気が無い。椛にちょっと説明するなり式神を貼り付ける。
探索と撤退、遅滞戦闘が出来る式神だ。攻撃までこなせる式神だと逆に豚鬼の方が逃げていく。
必要なのは安全と足止めである。

「これで良し。では勇儀さん、号令をお願いしますわ」
「なんだかな……、文、椛できるか?」
「ええ、大丈夫ですよ、30秒でここまで来ますから」
「私も大丈夫です。絶対に自分からは突っ込みません」
「良し! ならば……
 豚鬼捕縛作戦を開始する!!
 行け!! 椛、文出撃しろ!!!」

二人とも恐ろしい勢いで飛び出していった。文は知っていたが、それに負けない速度で椛が突っ走っている。
紫の式神のせいらしい。2~3倍程度ではない。8~10倍の実力が上乗せされている。

「おい、あれはやりすぎじゃないか?」
「別段かまわないでしょう? それに、攻撃力は控えめ。速度だけです。
 まあ、あれでも文ちゃんの方が速いでしょう。
 文ちゃんから連絡があったら、椛ちゃんの付近に一気にワープしますわ。
 私の計算なら……そうですね解決までどれほどかかっても30分ですわよ」

結果的に文が戻って来たのは20分後である。計算よりも速い……大満足の結果だ。”現場に直行するまでは”であるが。

……

「お~い。幽香、いいのか? 今日は豚狩りじゃなかったのか?」
「あんまり良くないわ。あの狩り……保険が足らない気がする。
 紫の考えは分かるのよ。不測の事態が入らないほどの速攻……だけどねぇ。
 予測できないから不測であって、不測が入ったら紫の作戦……崩れるわよ?」
「じゃあ何で戻って来た?」
「ん? 私は誰かの命令は聞かないもの。お願いでも嫌……命令ならするんだけどな」
「幽香らしいな。まあ、俺も紫の命令だけは聞けん。仲良く一緒にやるってことがまずありえん」
「でしょうね。私が外れた理由はそれよ」
「何を言っておる?」
「別段、紫の失敗で紫が赤っ恥をかくのはいいんだけど……万が一の場合、犠牲者が出るのよね。
 妖忌、質問だけど。豚鬼と戦って勝てる?」
「それは侮辱と受け取る。流石にあれに遅れをとるわけない」
「あそ、じゃ早速で悪いけど。豚狩りに参加してくれない? 私の命令でさ」
「ほほう。なるほど、紫の命令ではなく。お前の命令か……あごで使われてやるか」
「ちょっとね探索の二人の保護者に丁度いいのよ。あんた妖気がほとんどないし」
「分かった。行ってくる」

そんなことを言って妖忌が出撃した。幽香は行かない。行ったら逆に邪魔になる。でかすぎる妖気で豚鬼が出てこない。
妖忌自身は豚鬼を討つつもりは無い。少しばかり手柄を横取りされた紫の顔も見てみたい気がするが、顔を合わせるだけでケンカになりそうだ。

……

「すごい、椛こんなに速かったんですか?」
「……自分でも信じられない。これは紫さんの式神のせいでしょうね
 でも、少し邪魔がある。自分の考えに命令が割り込んでくるような感覚があります」
「? どんな感覚ですか?」
「目的地を頭の中で連呼されている感じですよ。昨日の次郎坊様の部隊の決戦跡に直行します」

そう言って、椛が速度を振り上げる。文は余裕でそれを追跡する。
決戦跡からの追跡は簡単だ。豚鬼の匂いは強烈で、この速度で追跡すれば1分とかからない。
二人の後を妖忌が追っているのだが、既にぶっちぎられた。仕方なしに妖忌は半霊を飛ばす。
それだけの速度で二人が昨日の決戦跡に直行した。わずか5分の早業である。
椛が顔をしかめる。藍と同じだ。鼻が曲がる。しかも式神の能力で10倍もの感度、たとえマスクをしても呼吸困難になりかねない。

「うぇ~、げふっ。がはぁ。い、息が、出来な い」
「椛、鼻を押さえて口で息するのですよ。多少はましです」

椛が泣きそうだ。これからさらに追跡を始める。速攻で終わりにしないと倒れる。
文も嫌な顔をしている。鼻に関しては椛よりはるかにましだが、羽に匂いが染み付いたらたまらない。
たとえ一日風呂に入っていても匂いが落ちるか不安だ。

「さて、椛、豚鬼はどの方向にいますか?」
「……多分、あっちです」

椛が、不明瞭な言葉で、自信なさげに指をさす。
なぜかを聞けば、匂いが充満しすぎていて匂いが漂ってくる方向が分からないそうだ。鼻の感度があがりすぎて感知可能な許容量を振り切ったのである。
それでも、豚鬼へ向かって二人が進んでいく。紫の式神も優秀だ、匂いが分からなくても、大体の現場の状況を分析して、追跡する方向を割り出している。

「椛……確実でしょうね? 流石にこの匂いの中、道を間違えたら怒りますよ?」
「私の方がきついです。式神張り替えてあげましょうか? 匂いで鼻が振り切れる感覚を味わってみますか?」
「絶対に嫌です」
「じゃあ我慢してください」
「この方向は一体どこに向かっているのです?」
「式神曰く、水場ですよ。河童の里の近く……水でも飲んでいるんじゃないですか?」
「せめて水浴びでもして少しでもにおいを落として欲しい」
「絶対にやめて欲しいですね。水が飲めなくなります……!」
「どうしました? 耳なんか立てて?」
「静かに、どうやらビンゴです。呼吸音と腹の音が聞こえる」
「耳が悪くて助かりました。そんなもの聞きたくありません」

椛は式神のせいだと思った。音で距離も測れる。結構な遠距離だ。もっと近づかないと正確な位置がわからない。
飛び出そうとする文を止めてさらに接近する。
式神が勝手に豚鬼の情報を集めて解析して椛に伝える。どうやら潜んでいるつもりらしい。
音を立てずに歩いて近づいて……肉眼で、千里眼で確認さえすれば、即座に文に飛び出してもらう。
文も匂いの違いが分かるらしい。発生源に近づいているのだから当然だが、これ以上は鼻が曲がるなどといい始めた。
こっちはとっくの昔に曲がっている。麻痺しているのだ。
ようやく、やっと、下卑た表情を視界で捉えた。式神の情報がリセットされていく。

「ようやく見つけましたか? もういいですよね? 悪いですが限界です」
「しっ! 様子がおかしいです。式神が……! まずい、河童が近くにいる!!!」

式神が下卑た表情から、逃げて潜んでいるのではなく。獲物を待ち構えるために隠れていたことを見抜く。
式神は優秀だが豚鬼の分析ばかりしていたらしい。他の情報をすべて遮断していてくれた。
河童が里に戻ってきて自分の道具を拾っている。そういえば1日前に勇儀が戻っていた。迂闊だ!! ここはまだ安全圏ではない!!
戻ってこれたのは勇儀の実力があればこそである。他の連中が勝手にまねできる行為ではない!!
加えて、河童は水生生物だ。空中の匂いには鈍感に過ぎる。水辺から上がった直後の状態ではさらに匂いがわからない。
紫が想定すらしなかった最悪が炸裂する。
速度は紫の折り紙つき、しかし攻撃力はほとんど無い。そんな状態で、椛が突進を仕掛けたのである。
とっさの出来事で、文すら止めることを忘れた。
大声で、河童達に警鐘を鳴らす。巻き上げた砂煙は退避の合図だ。
奇襲は成功した。河童が音に気付いて荷物を抱えて川へ逃げていく。

「文さん!! 早く!!!」
「合点承知なのですよ!!! この距離なら20秒でいけます!!!」

翼を開く、縮地を使って瞬間的に加速する。まるで弾丸のような風切り音を残して消える。
文が報告まで20秒、スキマワープ10秒……計30秒!!!
砂煙を見つけて妖忌も駆けつけてくる。後は遅滞戦闘……逃げ回れば30秒なんてあっという間だ!!!
形勢は椛に有利かに見えたが、逃げ遅れた子がいる。良く知ってる顔、にとりだ!! 馬鹿っ!! 両手に持ちきれないほどの荷物を抱えてヨタヨタしている!
にとりを狙い済ました豚鬼が石を土ごとつかんで投擲する。散弾銃みたいなものだ。
あの石が当たったらただ事ではすまない。椛が一気に加速して豚鬼とにとりの射線上に入る。石を叩き切って、土の散弾の直撃を受けて吹き飛ばされた。
にとりを巻き込んで転がっていく。後、25秒!!!
豚が大きく息を吸い込んでいる。白狼天狗がいるならこれが一番有効だ。逃がすつもりは無い。こっちだっておなかが減ったのだ!!
パンパンに膨れた腹を見て、耳をふさぐが、式神が警告している。これも感度が上がりすぎて許容量をはるかに超える。
とっさに式神を引き剥がして豚の嘶きを聞く。一気に視界がゆがんだ。感度が下がっていなかったら耳をふさいでも気絶が最低ラインである。
腰が抜けたみたいに立てない。にとりも同じだ。恐怖でもう足がすくんでいる。後、20秒!!!
ゆっくり豚が近づいてくる。距離はたっぷり時間を掛けても10秒足らずである。
ダメだ、逃げ切れない。にとりだけなら助かるかもしれない。自分が囮になればであるが。
剣を支えに無理やり体を引き起こす。豚鬼は目の前だ。後、15秒……長い……長すぎる。

「かかってこい!! 私が相手だ!!!」
「はくろうは みんな おなじことを いうな」

振り上げた拳が正確に椛を捉える。よける手立てが無い。
振り下ろしたはずの拳が激突音を残して跳ね上がった。豚鬼が目を丸くしている。
妖気すら感じないただの人間が自分の拳を弾き飛ばした。
ようやく妖忌が追いついたのである。

「ぬしら、速過ぎじゃ」
「妖忌さん!! 後、10秒待てば――」
「紫が来るか……5秒で仕留める……俺はあいつの顔を見たくない」

言うが早いか、刀を持ち替える。最初の一撃は勇儀に使ったナマクラと同じつくりだ。
次の一刀は、鬼の一振り、相手は曲がりなりにも鬼……試し切りにしてやろう。
式神をはずした椛には妖忌の腕の振りがみえない。
椛の耳に納刀の音のみが聞こえた。
直後に妖忌が背中を向けて逃げ去っていく。「じゃあな!!!」なんていっているが、出てくるだけ出てきて助けたかと思えばそのまま逃げていく。
豚鬼すらがぽかんとしている。……え? 刀を鳴らしに来ただけ? ……後、5秒ぐらいか?

「う、裏切り」
「なんだ いまのは?」

何だってかまわないかなんて、もう一度豚鬼が拳を振り上げる。
何であと少し、ほんの数秒を稼いでくれなかったのか?
血しぶきが上がる。椛の顔が血で汚れた。
振り上げた拳につられて伸びた腹が真横に裂ける。慌てて手で押さえようとしているが、抑えきれるような長さの切断ではない。
血を浴びて呆けた椛の視界の端で、スキマが開く。真っ先に文が飛び出してきた。
真っ赤に染まった椛を見て感情が瞬間発火したらしい。私のためのすっごい汚い言葉を聴いた気がした。
聞きたくも無いのに耳に良く響く。……私はあなたにとってそんなに大事ですか?
両手で固めた風を使って豚鬼を吹き飛ばす。信じられないことに鬼が、端くれとはいえ鬼が無様に転がっていく。
大激怒したその表情が、こぼれた涙が私のためだということを気付きたくない。
わずか数秒の早業に続いて遅れて出てきたのは勇儀と紫、紫は計算違いで蒼白になっていた。
逆に勇儀は戦いに慣れすぎている。椛本人に怪我が無いことを一目で見抜いて笑顔だった。

「いよ~ 無事か? 椛?」
「ゆ、勇儀様!! こ、怖かったです」

なさけなくへたり込んだ椛の後ろでにとりが震えている。
……そうか……守っていたんだ……白狼らしいといえばらしいな。

「よくやった。後は任せろ。紫、手間をかけるが、全員を引き上げろ。巻き添え食うぞ。
 全力をだす!!!」

言うが早いか、気合で大気が爆ぜる。文は椛を抱きかかえてスキマに飛び込み、紫がにとりの首根っこをつかんでスキマに放り込む。
撤退完了までわずか3秒、紫のスキマを使って天狗の里にワープしてほっと一息……つけるはずが無い、勇儀の全力がここまで伝わる。
山が崩れたんじゃないかと錯覚する振動に全員が足を取られて転倒した。

「勇儀様……やりすぎでは?」
「豚は死んだわね。これで生きてたらほめるわ」
「椛、無事でよかったです。真っ赤になってた時は胃に鉛が落ちてきました」
「流石の私もやっちまったと思ったわ。何で逃げないのよ、それだけの式神を貼り付けていたはずだけど?」
「にとりを見捨てて逃げる判断があると思わなかった……」
「いや、合理的な判断って物があるでしょ? 頭悪いの?」
「実力差を判断しただけで友達置いて逃げるだけの無能者は勇儀様に殺されますよ?」
「その通りです。紫さんは山のことを分かってないですね?」
「違うわよ? 一旦引いて、ひきつけるとか、邪魔をするとかさ色々あるじゃない?」
「にとりをたった一人であの豚に晒すことは欠片も考えなかったです」
「アマチュアね……プロフェッショナルからは程遠いわ、感情で実利を捨てるなんてね」
「にとりに怖い思いをさせるのが正しいとは思いません」
「私は椛の方がプロだと思いますよ?」

二人から非難されて紫が困惑している。最短、効率、合理的、なぜ理解できないのか? 天狗どもは異常だ。
後で、勇儀からも責めてもらおう。
しかし、まあ細かいことか……大穴の件はこれで方が付いたも同然、後は山の連中に今後こんなことを起こさせないように約束させればいい。
藍は自力で戻ってくるだろうから穴はさっさとふさいでしまうに限る。
こういうときにこそ、祝賀会をやるものだが……天狗共は全くをもって分かっていない。
ぶつぶつ、文句を言いながら紫が去っていく。

「……ありがとう椛……こ、こわかったよぅ」
「にとり……無事でよかったよ。でも、戻る時は安全が分かってから戻って欲しいな」
「だ、だって、勇儀様は河童の里にもどって武器を作っているんだもの……河童はみんな道具をおいていったし、薬だって……」
「だってじゃなくてさ……でも、もう大丈夫かな。勇儀様のあの衝撃を喰らって平気な奴はいないから」

衝撃が走ったのはたったの一回、それ以降はおとなしいものだ。
ひと昔前であれば、こんな奴が後3人いたのである。
下手をすると衝撃のでかさ比べが始まりかねなかった。
椛も文も笑った。もう安全である。
もう二度と、豚鬼にかかわることで危険が迫ることは無い。
笑顔の二人を見て、ようやくにとりに笑顔が戻る。
豚鬼の件など忘れて、くだらない話に花開く……ようやく……ようやく日常が帰ってきた。

……

妖忌が豚鬼の末路を見ていた。自分が切ったのは分厚い脂肪だけだ。
一応、とどめは他の連中に任せようと思っていたのだが……おかげで勇儀の全力の巻き添えを食った。
衝撃波を叩き切らねば、吹き飛ばされていただろう。
勇儀は無造作に転倒している豚鬼の足をつかむと、片手で振り上げて、どうするのかと思えばそのまま叩きつけた。
叩きつけただけなのだが、そこは四天王、叩きつけた衝撃で地面が陥没する。
確認する気もしなかったが多分直接地底に送り込まれた。陥没した地面の底が目視できない。

「ほぉ~ すさまじいな。流石、四天王だ」
「なんで、お前がこんな所にいるんだ? ……いや、そうか豚鬼の腹を切ったのはお前か?」
「そうだ。ちょっと貰った刀の試し切りさ。鬼が相手でも問題なかったぞ」
「そりゃそういう風に作ったからな。何で隠れていた?」
「紫と面と向かって顔を合わせたくなかっただけさ」
「そうか……これから、きっと祝賀会になるが」
「俺はもう遠慮しよう。人間の里で修行するさ」
「約束を忘れるなよ?」
「おお、忘れんよ。……死の結界をぶった切った後、ぶちギレした紫を相手に生きておれば……いずれな」

二人してからからと笑った後、分かれた。
木陰で幽香が待機しているのが見える。幽香も祝賀会に参加する気が無いらしい。
なるほど、妖忌がきたのは幽香の指図か……態度に出ないだけで随分と心配性だ。
しかし、幽香のおかげで助かった。深々と頭を下げる。頭を上げれば既に二人がいない。
さてと、豚鬼を直送した大穴をふさいだら山に戻って、祝賀会……そうしたら帰ろう旧都に……。

……

夜、大宴会が開かれていた。
河童も含めて酒が乱れ飛ぶ祝賀会である。本日の立役者はもちろん勇儀、豚鬼をとっちめて山の安全を取り戻してくれた。
横には参謀役の紫がつつましそうに座っているが、目の前の大騒ぎに一人だけ参加していない。
浮きに浮いているがじきに退場する。勇儀には先の約束を取り付けた。天狗にも恩を売っておいた。これで今回みたいなことは起きないはずである。
そういえば、椛と文はどこだろう。探査としてこの作戦の要だったのだが……まあいいか、さっさと退場しよう。
まだやらなくてはいけないことは他にたくさんある。地底の件だけで時間を潰しすぎるのは良くない。

「勇儀さん、先にお暇しますわ」
「そうか、ふふふ、みんないなくなるな」
「みんな? ああ、文ちゃんと椛ちゃんですか? そういえばどこです?」
「騒がしいのは嫌いだし、にとりと一緒に飲むんだと」
「くっくっくっく、子供の癖に随分とおませですこと、では失礼します。
 もうこんな形で会うことが無いことを祈って……では、ごきげんよう」

さらっと、釘を刺してスキマに消えていく。
勇儀が「あいつの酒は体に悪い」なんてこぼしている。
それにしても、紫でもすべてを把握できているわけでは無いらしい。
勇儀が言った”みんな”は妖忌であり、幽香、紫、勇儀のことだ。
ふと思う、文は寂しがるだろうか?

……

「さ~飲みましょう!!! 今日は無礼講なのです!!!」
「文ちゃん……一応私、重傷なんだけど?」
「無礼講です!!!」
「まさか、無礼講を押し付けてくる人がいるなんて」
「その発言も無礼講ですよ!!!」
「私ここにいていいの?」
「にとり……無礼講の意味分かっていますか? 無礼講です!!!
 今日は飲むのですよ。すべて丸く収まったのです!!!」
「いや、お母さんが大怪我してるんだけど?」
「湿っぽいはなしは無しです。ご馳走を宴会会場からかっぱらってきたのです。食べて飲んで騒ぐのです!!!」

すさまじい勢いで暴れまくる文を止めるすべがない。
これは……酒で勢いだけでも追いつかないと文に負けてしまう。
みんなで一気に酒をあおった。
わずか1時間後には大惨事……楓を除く全員が倒れた。

「ふふふふ、まさかけが人の私が後片付けをする羽目になるなんて……
 はあ、仕方ないか……明日、起きたら椛にお願いしよう。
 止められなかった大人の責任か」

突如として病室の扉が開く、楓が驚いている。慌てて身だしなみを整えようとすると手でそのままでいいといわれた。

「あ~、こんな所で飲んでたか」
「勇儀様、こんな格好で申し訳ありません」
「私は格好を気にしないよ。それに、犬走には親子ともどもがんばってもらった。本当に感謝している。
 特に椛にはな……私に”自分からは突っ込みません”と誓った上で、突っ込んでいきやがった。
 誰かのために命令そっちのけでやりやがった。誰にでも出来ることじゃないし、やって欲しくも無いが……感謝している。
 実は、今回の件……天魔や、太郎坊には口が裂けてもいえないんだが――」
「何ですか?」
「すまん、あの犯罪者達はな……その、私が牢屋をぶっ壊してな……旧都で回収してない罪人がいるって知らなくてさ。
 言い訳で、本当に申し訳ないんだが 酒に酔っててさ、萃香もいたし二人で暴れてて気が付いたら牢屋が崩壊してた」
「……はぁ……勇儀様らしいといえばらしいですね」
「お前の口から次郎坊に報告してもらえると助かる。出来れば私が帰った後で」
「旧都に戻られるのですか? もう少し山にいてくれても」
「いや、まだ旧都の罪人が捕まえ切ってないはずだし。まあ、あれだけ大暴れしても平気な所は他に無いしな。
 明日、昼には戻る」
「そうですか……文ちゃんが寂しがりますね」
「そうかな? 文は強いと思ったが?」
「そうです。強いですよ。術と体は強い……天狗の内ではおさまらないほどです。
 でも、心が弱い。いえ、普通なのです。いつも寂しい想いをしているようなのですよ。勇儀様なら受け止められると思うのですが?」
「あ、う、悪い。私はがさつ過ぎる。文がいくら強いといっても鬼から比べれば華奢すぎる。
 一緒に暮らすのもいいが……いや、文なら旧都でも通用するかな?」
「やはり山に残る選択肢は無いですか……」
「ああ、それはない。悪いな、期待にこたえられなくて、他に望みは無いか?
 今回、人死にを出さなかったのは犬走の功績が大きい。私も笑って帰ることが出来る。よく守り、よく生き残ってくれた。
 出来ることなら、何でもしてやるぞ」
「ああ、申し訳ありません。すぐに思いつかないです」
「まあ、そうだな。急な話だった。すまない」

寝ている椛と文をそっとなでるときびすを帰し、さっさと行ってしまう。
勇儀は強すぎた。多分、弱い人の気持ちがあまり理解できていない。
もっと名残惜しんでもいいと思うのだが、多分勇儀の中でそういう感情が女々しいという分類で、きっと勇儀の中には女々しいというものが無い。
なでただけでも勇儀としては異例なのだろう。
眠れば朝になる。文と椛は気が付いたら勇儀がいない状態になる。
少し、ほんの少しだけ文がかわいそうだと思った。勇儀に名残惜しむ感情がなくても文にはある……少し無理をさせてもいいだろう。
楓が病室から出て、薬庫からよいさましを拝借する。
気持ちよさそうに寝ている文と椛を無理やり起こして飲ませた。
二人とも飲むが早いかすぐに寝込む。……勇儀が帰る前にはしゃっきりしているだろう。

……

椛は夢を見ている。当然だ、自分が目の前にいる。
いつかの寺子屋でのやり取りを自分と文がやっている。

「だから大丈夫ですよ。私は烏天狗から追い出されているようなものですが……何も問題ないです。
 案外一人でも大丈夫なのですよ」

端から見ている文は……とても寂しがっているのではないかと思った。……いや、断言する、寂しいのだ。
大体、一人で十分なら、私を連れて行こうなんて事するはず無い。
言葉に詰まってしまう。多分、文本人は寂しい自覚が無い。少なくとも、意識していない。
無意識の内に、自分を、仲間を求めていたのだ。自分独りではいられない。
それはたった一人では無理だということの証明……文は自分でそんな事を堂々と証明して、椛を、たった一人を、連れて行こうとしている。
多分、椛も一人でいたら……白狼の仲間達から離れたら……きっと、絶対にこうなるのだろう。
怖い、恐怖という感情を本能的に抱く、同時に文に対して可哀そうという感情を抱く。
「さあ、さっさと決めるのです」何て明るくて元気のいい声を出すのだろうか?
文から伸ばされた手を、この手を取らないと、文はとんでもなく傷つく。本人の意識の外でだ。
今なら分かる。
ちょっと前なら、白狼としての使命を優先した。椛として100点満点の答えであった。
でも違うのだ。あの後姿、寂しそうな文の姿は文にとっての0点の回答であった。
本当に二人の関係が壊れたのはここではないか? 
幼い頃、疑いもせずに文の命令に従い。事実その通り正しかったと思っている。
でもこれは違った。文は自分が正しいと思い、私には文が間違いだと感じた。
決定的に亀裂が走ったのは、自分の立場と文の立場を自覚した時じゃないのか?
文は上に行く、そして私はそれについていけないことを自覚した時……子供の頃なら一緒くたにして”いつも一緒~♪”なんて思っていたのに。
文はその思いを押し付け、自分はその思いを拒絶した。
いつまでも一緒ではいられない……そんな当たり前の事を突きつけたのに、
そんなことに衝撃を受けていた文……きっと、文はそういう精神の成長をかなぐり捨てて術を極めてしまった。
多分、周りに一緒に成長していく友達がいなかったから、支えてくれる家族がいなかったから、心だけが子供のまま術を極めていたのだ。
可哀そうだ。いつも一人ぼっちで見てくれる人もいないまま、もうこんな所まで成長してしまった。
自分の夢の中で、目の前の自分が手を振り払った文が泣きながら飛び去っている。
もう二度と手を伸ばしても届かない。

目が覚めた。
目の前に文が寝ている。今度は文より先に起きた。
寝息を立てている文は涙をこぼしている。うれし涙か、寂しいのかすら分からない。
文の口が”まま”なんて動いたような気がする。髪をやさしく触ってみる。
甘えるように文が動いた。とっくの昔に、自分が卒業した姿のような気がする。
文がこんなに幼いままなのかと驚愕する。
そうか……ちょっと前に布団を引きずってお母さんの間にもぐりこんできた理由が分かった気がする。
椛の手に頬ずりしていた文が爪を感じて……突如として目が開いた。
顔が真っ赤になっている。

「い、今、私は何をしていましたか?」
「え、う。私も起きたばかりで……」

しかし、文の頬の近くに椛の手が浮いている。
目が一気に恥ずかしさを隠すような怒気に包まれた。

「忘れなさい!! 今のは失態でした!!!」

やっていたことを全部理解されてしまった。
思っているよりも文はプライドが高い、私には弱みを見せないのだ。
文の怒声を聞いて楓やにとりまで起きだす。

「あ~椛? 部屋の片付けをお願い~ むにゃむにゃ……ぐ~」
「あ、文さま、いや、からすてんぐさま、もう すこし ねかせて……くー」
「何ですか あなた達は?」
「酒に酔ったせいだ……」
「なぜ、私達は平気なのですか?」
「覚えて無いですか? 昨日お母さんが――」
「そういえばよいさましを飲みましたね……そのせいですか……」
「私は、ここの後片付けをしますよ」
「勇儀はどこですか? 昨日いたような気がしたのですが?」
「勇儀様は……? いましたっけ? 覚えて無いです」
「ちょっと探しに行ってきます。大切なことがあるような気がするのです」

そう言って文が出て行く。椛はその場で片づけをはじめた。ほんの30分で片付ける。
にとりもお母さんも良く眠っている。遅れたが私も勇儀様を探しに行こう。

……

「お~、文 来たか」
「勇儀……もしかして帰るのですか?」
「そうだ。あんまり萃香ばかりに旧都を任せるわけにも行かないからな」
「私の八つ当たりはどうしてくれるんですか?」
「はっはっはっはっは、いつでも受けるぞ?」
「そうではありません!! 旧都に行かれたらどうしたら――」
「そんなもの、お前が旧都に来ればいい。歓迎するよ。昨日考えたが、お前なら通用する」
「いいのですか?」
「良いも悪いも、旧都は力がすべてってことさ。私も萃香も歓迎するよ。旧都の連中も紹介しよう」
「そ、そうですか?」
「文、楓が気にしていたが……お前は雷光丸を破った。天狗の内では納まりきらないだろうな。
 もし、天狗の中が退屈なら、つまらないなら、刺激が欲しいのなら、旧都に来るがいい」
「ど、どうしましょうか?」
「こらこら、私に聞くんじゃない。自分で決めな。
 後腐れなく、自分の意志で決めるんだ」
「う……」
「迷うなら、少しは待ってもいいが……やめておけ、山に未練があるんだろう?」
「ま、待ってください!! 今、今決めます」
「いや、あせるな文……急な決断って言うのは難しいもんさ。そうだな……1週間たったらまたここに来る。しっかり考えてきな。
 今日を1日目として七日目の正午にここで待つ。自分の未練に踏ん切りがつけばここに来い。山の絆が切れないなら、来なければいい。
 私はどちらでもお前の意見を尊重するよ。たった1週間かもしれないが……よく考えればいい。自分で自由に決めな。
 私はその間罪人探しをしているさ」

勇儀に促されて文がその場を立ち去る。
文が去ったのを見計らったかのように椛が現れた。

「勇儀様……今の話は本当ですか?」
「本当さ……文が望めば連れて行く」
「いなくなってしまうのですか? あの人が?」
「そう、本人が決めたことならな。
 ふふ、そうだな。しがらみは多そうだ。山の絆をどうするかは、すべて文が決めることさ」
「……」
「まあ、仕方ないことさ、文は力がありすぎる。力があるものがすべてを決める。そしてそいつは旧都にこそふさわしい」
「……弱いですよ……」
「ん? 誰がだ?」
「文さんです……」
「ふ、ふふふふ、そうかな?」
「そうですよ、特に心が……もろいです。術なら旧都でも十分でしょう。
 速さで勝てる人は旧都にもいません。でも心のスキマにもぐりこまれたら……おそらく太刀打ちできないです」
「ほう……そうか、親も子も似るもんだ。おんなじことを言いやがる。
 しかし、私にはそういう心の機微は分からん。文が自分で決めたことに口は出さない」
「では、私が口も手も出します」
「? 出来るか?」
「旧都では弱かろうが、強かろうが力がすべてですよね?
 私が勝てばいいんですよね? 力があるものが……勝者が全てを決めるんですよね?」
「ふ、ふふふふ、はははははは!!!
 面白い!!! 文に挑むか!? ただなぁ、手を出すって言っても、昔みたいにジャンケンじゃダメだぞ?」
「分かっていますよ。口でダメなら、実力で止めます」
「文は、七日目の正午にここに来るかもしれない……その時はとめてみな。文が旧都に行くのが危ないと思うのであればな」
「絶対にあきらめてもらいます」

勇儀はそこまで聞くと笑って去っていく。向かう先は旧都……きっと萃香がてぐすね引いて待っている。

……

1日目の午後はずっと悩んでいた。
2日目には誰かに意見を聞きたくて幽香の所に行った。
3日目は妖忌、4日目は神隠し、5日目は次郎坊、6日目は楓のところ……
みんな、「自分で決めたら?」という態度だった。唯一楓だけが「無理はしないでね」といってくれたが、私の決めたことに口は出さないようだ。
自分で自分がわからなくなっていく……私は一体どうしたいのだろう?
楓を除いて、みんなは私の心配などしていないようだ。
幽香の言葉を思い出してみる……「そんなものは自分で決めなさい」、それはそうだと思う。
妖忌は「他人の道は邪魔しないぞ? ただ、5年後の楽しみが減るの」……さっさと旧都に行ったほうがいいかもしれない。
神隠し……「好きにすれば?」……私の本当に好きなことは旧都に行くことだろうか?
次郎坊……「勇儀様の直下、良いことではないか。栄転だぞ? ……ただ、肝臓に注意しろ、飲まされすぎるなよ?」……確かに内臓にとってはヤバイかも……
楓……「決めるのは自由なんだけど……無理はしないでね?」……いま、この感じているストレスは無理をしているということなのか?
明日はもう、7日目だ。
早い、今までの非日常があんなに長く感じたのに……頭がぐるぐるして眠れない。
旧都に行ってみたいはみたい。旧都であれば全力の制限など無くなる。
ただし、二度と戻って来れない。
神隠し曰く、地底との境界に「ちょっと強力な結界」を施すそうだ。
おそらく簡単に破れる代物ではない……私が今より成長するか、何百年もたって結界が劣化した後なら別かもしれないが。
明日、ほいほいと勇儀についていったら最後、軽く数十年は戻って来れない。
勇儀には連れて行ってもらった挙句にすぐ帰りたいなんて言えないし……どうしよう?
恐ろしいほど凶悪な片道切符を手にしている。使うかどうかは自分次第……有効期限は明日の正午……勇儀様は行かなかったら怒るだろうか?
多分、怒らないし、あっさり笑って引き上げるだろう。……なんだろう、寂しい気がする。
誰も私の心配をしていないことが寂しいのかもしれない……それに行った先でもやっぱり寂しいのだろうか?

「明日、勇儀様にあやまろう……旧都に行っても同じでは……幽香も、楓も、椛にも、あえなくなったら寂しいだけではすまない気がする」

夜も遅くにようやく眠った。朝起きたら、日常が待っている。
鬱屈と退屈を寂しさでかき混ぜたような日常が……それでも、なくなってしまうよりはましでは無いだろうか?
気が付けば朝日だ。
寝たのか起きていたのかすら分からない……目にくまを作るほど疲れているのに眠気が来ない。
仕方無しに伸びをしていつもどおりを始める。
グダグダ考えていたせいか日が高い。かなり遅めの朝食をとれば監視人が突っかかってきた。

「あなたは、勇儀様の心も無駄にするのね?」
「あなた如きには言われたくないですね」
「全く、出て行けばいいのに、私は旧都行きを応援するのに……手間が減って大助かりなのに
 みんなそう思っているのに……”文なんていなくなればいい”ってね」
「そんなことない……無いはずです」
「そうかしらね? じゃあ何で”問題児”ってみんな言っていたのか分からないのか……故に”問題児”ね?」
「私は問題児ではありません!!!」
「そう、その態度、すぐに怒って手を出す。”大人”しいなんて程遠い、そのまま問題”児”だな」
「ぐっ、ぎぎぎぎ」

監視人も文よりは精神力がある。これから先、出世競争なんてものを行えばこういう連中がわんさかと襲い掛かってくる。
楓が危惧したとおり、上位陣は自分の地位を守るため……少なくとも監視人は文に追い抜かれないために文を旧都に追っ払うつもりだ。

「そうね。あなたがもしも、問題児なんていわれたくないのなら……躾けてあげる。
 あなたを躾けるなんて大役よね?
 旧都に行かないなら……毎日、私がわざわざ、時間を割いて躾けてあげるわ、大人になるなら耐えられるわよね?」
「あ、が……が、がんばるのです」
「あら、いい子ね? じゃあ早速……箸の持ち方から教えてやろうかしら?」

結果、わずか10分の早業で文を切れさせることに成功した。ぶっちぎれた文が心にも無いことを口走る。

「も、もう。いいです。私は旧都にい 行くのです。こんな所には……もう居れない!!! 山なんてくそ喰らえです!!!」

文が立ち去った後には平手打ちでボコボコにされた監視人が転がっている。
しかし、本人は満足そうだ。
若手No.1の出世頭を旧都に追いやる。出世の邪魔をする奴はもう居なくなった。
太郎坊の付き人も全滅している。今のこのタイミングなら……太郎坊の傘下にもぐりこむことも不可能ではない。
腫れ上がった顔で笑っている。その顔は勇儀が地底に直送した奴に似て醜悪だった。

……

椛は時間にして6日を全部特訓に費やしている。
寺子屋になんて行かない。
文に言われたとおり寺子屋になんて行かなくてもいい。
自分自身のわがままだ。
天才、射命丸を相手に対策を取れる時間はわずかに6日……初撃の対策ですら厳しい。
筋肉なんてつけている暇は無い。
新しい術だって覚えられない。
スピード? 語ることすらおこがましい。
攻撃力? 当てることがそもそも出来ないだろう。
防御力? 全く話にならない、一撃で気絶させられた。
体力……鬼ごっこを思い出してみる。全速力で日暮れまでかかって追いつかなかった。
6日目の夜……家でへとへとになって眠っている。お母さんは病院だ。
一人で寂しいなんて思うまもなく、眠りに落ちた。
多分、文もこうやって眠りに付いたのだろう。
寂しさも感じないほど疲れていれば……そうやって、一日一日……術を積み上げていったのだ。 
覚える術がなくなれば山の外へ、遊び相手を探しに……10年以上も……そりゃあ天才になるわ。
元々の天賦の才に加えて努力の日々……今から何て追いつけない……特訓だけで10年も先に進んで人だ。
才能は天地の差がある。
もう……7日目だ。朝日が目に入る。
結局、対策なんて思いつかない。
スピード……この項目は捨てる。話にならないうえに、術を使おうが、ドーピングしようが追いつかない。
攻撃力……爪と牙で十分におつりが来る。大体あたらないのだから武器は逆に足枷になる。
防御力……帷子一枚では足りない。一番最初の激突時、私は帷子を着た上で気絶をしていた。視線が自然と母親の装備に移る。
……功績をたたえて支給された新品の帷子……内緒で拝借しよう。どうせ退院まで数ヶ月かかる……きれいに繕って直しておけば問題ない。
体力……そんなものは6日なんて短い期間で鍛えられない。が、考えるだけ無駄かもしれない。攻撃を喰らって無事の保証はどこにも無い。
初撃を喰らって、体力全部、持っていかれることもありえる。
一人で黙々と朝食を作って腹八分目に抑える。腹一杯では動けないし、食わなければ戦いどころではない。
正午まで大体2時間ぐらいだろうか? 勇儀の指定した場所に向かう。
正午より早く向かった理由は二つ、一つは予想より早く文が来る可能性があること、二つ目は地形の確認のためだ。周囲の地形で利用できる物は全て利用する。
現地には既に勇儀が来ていた。

「いよ~ 椛、調子はどうだ?」
「良くないです。すみません勇儀様……地形を確認するので話は文さんの後でいいですか?」
「く、くくくく、そうか、邪魔しちゃ悪いな。黙っていよう」

わずか一言で勇儀を黙らせて、一人黙々と地形を確認する。
勇儀がニヤニヤと視線を送る先で、蔦を張り吹っ飛ばされた時に備える。踏み込みで怪我をしないように石をどける。
爪を立てて地面のやわらかさを確認する。想定している戦闘範囲は勇儀の前方50間四方だ。
文なら……本気を出した文なら端から端までで軽く1秒をきる。まとわりつかれたら……蜂の巣だ。
こちらの攻撃はかすりもしない。それどころか不用意に攻撃すれば攻撃にあわせたカウンターが入る。
攻撃のタイミングにあわせて攻撃を放つなんて生ぬるい類ではない。
全力で振り上げた拳を動作の途中で蹴り上げて、肩の可動範囲を振り切らせるなんていう、目にもあてられない自爆もどきのカウンターを入れられてしまう。
自分の防御力を確かめてみる……自分用と母親の新品の帷子を着込んできた……不安だ。全身を丸めて守っていても戦闘不能まで3秒ぐらいのような気がする。
速度が10倍違う相手の戦力は合計で1000倍に近い。
故に小細工など問題にならない。考えた手立ては地形の確認、出来うる限りの防具装備、あとは……勝利への気合のみ、絶望を勇気でかみ殺して威風堂々と文の前に立つ。
握り締めた手が……力をゆるめる事を許さない。文が想定よりも1時間前倒しで現場に現れた。

「ゆ、勇儀様、お願いします。もう、山には居れないのです!!! 旧都に行くのです!!! は、早く行きましょう!!!」

言われた勇儀が面食らっている。……なんだ? このいきおいは?

「あ、文? どうした? ああ、怒るな。別に連れて行かないって分けじゃないんだが」
「どうもこうも無いのですよ!!! はやく、旧都に行きたいのです!!! あと、一秒も山に居たいとは思いません!!!」
「え、あ? そ、そうか。悪いんだが、お前に客人が来ていてな。旧都の話はその後にしよう」
「だ、誰ですか!!? 私の道を邪魔するばか者はっ!!?」
「私です。犬走ですよ」

文の顔がにらみつけるようで、我慢しているような表情になった。口をへの字に曲げて目が威圧するようにつりあがっている。

「な、何ですか!!? 椛!!! 今、私は忙しいのです!!!」
「落ち着けませんか?」
「忙しいのですよ!!! あなたに割いている時間は無いのです!!!」
「これが今生の別れでも?」
「う!! っぐ!! こ、今生の別れなんてこと無いですよ!!! いつでも旧都で待っているのです」
「文…様、無理ですよ。私の実力では旧都で通用しません」
「ぎぎぎぎ!!! もう会わない気ですか!!!」
「会わないつもりは無いですが……客観的事実として会えません」
「だったら、だったら私に何を言っているのです!!?」
「山に残ってください。この通りです。心配です。行かないでください」

椛が頭を下げた。正座した上で両手をつけて、額が地面に付くほど……。
しかし、文の激昂はそんな程度では収まらなかった。

「あんな連中の下にいろと!!? 無理です!!! 断固却下です!!!
 そうだ!!! 椛、私と一緒に来なさい!!! そうすれば万事解決です!!!」
「申し訳ありませんが、お母さんを残しては行けません、重体なんです」
「だったら、楓さんも一緒でかまいません!!!」
「そう、ですか……勇儀様、けが人は……お母さんは旧都で通用するでしょうか?」
「お? そこで私に振るか? そうだな……無理だ。楓じゃ無理、断言する。
 旧都のレベルはそんなに甘くない。まあ、一回、二回でだめになるとは言わないが……20回も戦ったらな、あんな戦い方してたら体がもたない」
「……だ、そうです。いくら文さんでも私とお母さんの二人を同時に守れるわけは無いですよね?」
「う゛、ううん。そうですか、残念なのです……ここでお別れなのです!! 椛!!!」

残念と言った顔は泣きそうだった。でも、泣かない。
涙をこらえた文を勇儀は強いと思った。必ずこの別れを乗り越えると思っている。
涙をためた文を椛は弱いと思った。きっと、寂しくて後で泣くと思う。……たったそれだけの違いだ。

「本当にお別れですか?」
「ええ、本当です。但し、勇儀様、正午まで後、どのくらいですか?」
「そうだな……後、1時間ぐらいか?」
「最後の1時間、それだけの時間をあなたのために割いてあげてもいいです」
「ならば説得を――」
「それは無駄です。決心は固いのですよ!!!」
「……文さん、自分が旧都で通用すると本気で思っていますか?」
「思っていないとでも思っているのですか!!?」
「私はあなたが弱いと思っていますよ?」
「ぐっ!! は、白狼の……いや、椛の分際で……私はあなたなんかよりも強いんですよ!!?」
「そうですか?」

椛は顔面を必死に取り繕ってしらふを切る。本当に文が弱いなんて思っていない。唯一の弱点があるとすれば心の未熟さだけだ。
ただし、ここで、納得の表情は作れなかった。きょとんとした表情で文の激昂を迎え撃つ。
「馬鹿にしないでください!!!」との叫びと共に膨れ上がった妖力に気圧されないように腹に力をためる。

「馬鹿はそっちじゃないですか? 相撲で負けましたよね?」
「椛……まさか? 相撲のルールも忘れましたか?」
「飛翔してはいけない、術を使ってはいけない、純粋に力のみ……ですよね? つまり、素で文さんの方が弱いです」

軽い挑発のはずだったが……効果は絶大だった。文のろれつが回らなくなる。
……ああ、この人は……まともにケンカをしたことが無いな? 多分、口喧嘩の相手すらいなかったな?
素の妖力が高すぎて、文を本気で怒らせるような度胸のある奴がいなかったのである。
今の自分の状態を鑑みて、この度胸は無いほうが絶対に正しい。胃がプレッシャーでよじれている。
顔に出さないだけで自分が浮き足立っているのが分かる。

「わ、たしの 妖力、も、もしかしてわかっていないですか?
 使わないっていうことが、どれだけのハンデかわからないのですか?」
「文さん、残念ですが私も使っていないのですよ? つまり条件は互角ということです。
 文さんは、私の妖力分かっていますか? 本当に?」

横で聞いていた勇儀が噴出すのを抑え切れなかった。
……ハッタリにもなってねぇ!! 妖力だけでも他の連中とは比べるのが馬鹿らしい程の差があるぞ?
二人の視線を受けて、慌てて笑いをかみ殺す。邪魔をする気だけは無い。

「も、みじ、わ、わからないなら教えてあげましょうか?」
「そうですか、折角だから、あなたが弱いってこと教えてあげます」

売り言葉に買い言葉……文の神経が逆なでされている。
興奮しながら、椛に向かって絶大な妖力を発揮しいてる。
普通なら逃げ出すのが正しいのだろう。以前、勇儀様を相手に戦った記憶がよみがえる。あの時も怖かった。
しかし、ここで見捨てて逃げる選択肢は無い!! ……命令に付き従うだけの時代は卒業したんだ!!!
勝って、勝利を片手に……可能であれば……新しい第一歩を踏み出したい……共に……。
これからの戦いは、間違いなく自分の人生で最大の戦いになる。射命丸文は並大抵の相手ではない。天狗――最高峰……雷神を超えた風神が相手だ。
これほどの相手は将来にわたっても居ない。
でも、どれほど絶望的であっても、天才が凡才であることを証明する。
ちょっと手を伸ばせば……背伸びをすれば手が届くって示したい。……あなたは私の仲間……かけがえの無い親友……なのだから。
……すぐそばに居てください……遠くになんて行かないで……。
自分自身が彼女に手が届かないことを認めたくない。絶対に追いついてみせる。
嫌われても、あきれられても、憎まれても……今、ここで、私が止めるしかない。
私が勝って、すべてが虚構だって、みんなの恐れが、あなたの鬱屈が、私の憧れだって、すべて勘違いだって証明する……引き換えに何を失っても!!!
覚悟を決めて、闘う意思を宣言する。

「全く、いつまでも手がかかりますね……この問題児!!!」
「わ、私が、私が一番嫌いなことを……、あなたは、椛は信じていたのに……
 ぐや゛じい゛!!!
 よくも! よくもぉ!! 吼えてくれたものです!!! この……駄犬っ!!!」

そんな会話を交わして二人が激突する。本気の激突は2回目……1回目は気付くまもなく勝負が決した。
2回目はそうは行かない。全身全霊を防御の一点に傾ける。
お母さんから帷子を借りた。自分用と大きい大人用の帷子を二重に着込む。
全力で火事場の馬鹿力の術を発動させる。絶対に負けないという鉄壁の意思、すべてをかけて構えた。

「も、椛、最後ですよ!!! もうこれっきり、山には残らないのです!!!
 私とあなたの最初で最後のラストバトル!!!」
「……ラストのわけ無いでしょうが……これからも……ずっと……数え切れないほどのバトルをしましょうよ……」
「生意気な!!! 相手になんかなるとでも!!? 10秒……いえ、1秒で片をつけます!!!」

言い終わるなり椛の視界から文が消えた。腹に衝撃が走っている。
すごい、痛みを感じる前に、視界が吹っ飛んでいく。衝撃で無理やり仰向けになっている。
空が見える――その視界の端に黒い影、多分、今2回目の衝撃が走っている。超高速の打ち上げと打ち下げを喰らった。
気付けば地面が目の前だ。ギリギリ、頭が激突する前に足を踏み出してこらえる。
遅れて痛みが脳に到達した。意識を奪われそうだ。全然違う部位の痛みが全く同時に到達する。
脳みそで情報が処理しきれない……通常ならここで、パニックによる強制ブラックアウトをしただろう。
文はもう背を向けている。欠片すら相手にならないと態度で示している。
事実その通りだろう。油断なく構えて集中もしていた。その上で、反応すら許さない攻撃を真正面からぶち込まれた。
舌を犬歯に掛けて衝撃の痛みを上回るダメージを自演しなければ……生命の危機を感じなければ気持ちよく失神していた。
口の中で鉄の味が充満する。しかし、上出来、文の攻撃を利用して舌で気付けを行う。衝撃による失神を前提にした対策の一つだ。
後ろを向いている文に向かって挑発を入れる。

「1秒……耐え切った」
「!!! ま、まさか? 気絶しないなんて!!!」
「分からないですか? あなたはこの程度なんですよ」
「ぐっ!!! ならばこれでどうです!!?」

文が増える。多分雷光丸の技だ。体を丸めて防ぐだけ……では絶対に足らない。思いっきり自分の腕に噛み付く。
意識を保つために相手の攻撃を上回るダメージを与える。その目的もあるが、一番の目的は頭の攻撃に耐えるためだ。
体には鎖帷子があるが、頭はそうはいかない。アゴとこめかみをさっきのように狙われて強制シャットダウンなんてことされたくない。
首で支えて、口で堪える。
8発同時着弾の衝撃は尋常ではないが堪えきれないほどでもなかった。
……おかしい。速度が10倍なら、つぎ込めるエネルギーは100倍のはず……物理法則上、速度の2乗で効果が上がるはずなのだ。
攻撃回数はまさに10倍の速さだ。他人の1回の動作中に10発分ぶち込める。100倍の威力を10発同時着弾、合計1000倍の強さのはずだ。
何で堪えられるのだろう? しかし、何だってかまわないかもしれない。堪えきれるその事実だけが大事なのだから。

はたから見ている勇儀が顔を覆っている。滅多打ちされている椛にではない。止めを刺しきれない文にだ。
文の秘密は勇儀が知っている。
先日、散々文に叩かれたが張れ上がったのは文の手だ。文は自分自身の速度は支えられるが攻撃力を支えるだけの骨格が無い。
100倍の威力をぶち込もうものなら先に砕けるのは文の手だ。仮に成長しきった所でぶち込める威力はさほどは上がらない。
本能的に威力を抑えて威力は5~7倍がせいぜいだ。椛からしてもギリギリ耐えられる。
これはひょっとしたら、ひょっとするかもしれない。
仮に小刀……いや、かみそりの一つでも持っていれば文が圧勝するのだが……ケンカに武器はご法度だろう。
椛が武器を持っていても結果は同じ、コンマ数秒で奪い取り数秒で百を軽く超える斬撃がぶち込まれる。
素手だからこそ成り立つ戦い……速さ対防御力か……どっちが上かな?
このまま、ずっと文が攻撃を続ければ、すぐに文のもう一つの弱点が浮き彫りになる。
数秒たっただろうか? 文が攻撃をやめた。……やっぱりだ。

「も、椛、あなた全然攻撃しませんね? あきらめましたか?」
「……」

椛は答えない。答えられるわけが無い。
今の文の言葉は誘いだ。噛み付きをやめて喋ろうものなら1瞬で8発をアゴにぶち込まれる。
変わりに手で答える。
左腕を目の前にゆっくり突き出す。
握りこぶしを上に掲げる。
そして、最後にゆっくりと中指を立てる。
誘いを挑発で迎え撃ち、椛が勝った。聞き取れないほどの語調で何かを叫ばれている。
中指が痛い。上出来だ。痛いだけで済めば……感覚がなくなったっておかしくないのだから。
もう、なりふり構わない速度で、文が攻撃を加えていく。
挑発一つで、文のスタミナが凄い勢いで減っていく。
スタミナは発揮できる総エネルギー量だと思って間違いない。速度が10倍ならエネルギーは100倍の速さでなくなっていく。
文自身気付いていないが、目的地に達するだけなら最速の足も、授業のように全力で10分間飛翔では話が異なる。
他の連中に比べれば10倍のスタミナがあるはずだが、フルスピードでは10分の1の時間で失速する。
雷光丸戦でわずか十数秒で息切れを起こした原因がここにあった。
極わずかの時間で、怒りの感情に任せたままの状態で文が失速していく。
ようやく、やっと、椛の目で見えるぐらいの速度まで落ちてくる。

「ぐっ、はっ、っは、ぜー あ、あなた、す、少しは手を出したらどうです?」

流石に息を整えるのすら早い。
しかし、失速した。これ以上は体の方が付いて来れないはず……
文には長い間、天狗という種族において格上はおろか同格といえるものさえ存在しなかった。
……おそらく、誰かを追いかけて吐くまで走るとかそういうことをしたことが無いはず。
自分の限界が分からないまま、体力を使い切るまで疾走したのは今回が初めてのはずなのだ。
今、この時点で初めて体力回復を優先するため動作をやめて休んでいる。
多分こちらから攻めない限り、自ら動くってことは無い。もたもたしていると、完全に息を整えて、最初に逆戻りする。
……最初に逆戻り程度なら可愛い。多分、この後は自分の体力をも把握して、攻撃に緩急が付いてくるはず……もう、手出しが出来なくなる。
私が攻勢に出られるとしたら唯一、生涯でたった一回、このタイミングでしかありえない。
無理やり、ダメージを自演し、歯を食いしばって背伸びをしてまでつかんだチャンスをはなせるわけが無い!
ここで私が押さない限り、もはや二度と手は届かない!! 旧都になんて行かせるものか!!!
冷静に高ぶる感情を表情に出さずにしれっと挑発を加える。

「出す必要があるとでも? 私をしとめ切れない――それだけで十分では?」
「ふ、不十分に決まっています!!」
「ならば―――」

白狼天狗お得意のこけおどし弾幕――数珠繋ぎにした妖気の塊を螺旋状にして解き放つ―――
威力はそこらの木の葉を巻き上げる程度……それでも砂埃を巻き上げながら文に迫る。
文は初めて見たのだろう、予想通りに大きく動いてよけている。
当然だ、秘伝書なんてものに載っている代物ではない。
烏天狗の指南書にだって載っていない。
白狼天狗の術の初歩の初歩……ただのこけおどしに天才が着目するわけ無いのだ。
集中の法を使って文を視覚に捕らえ続ける。驚異のスピードだ。見えるほうが逆に怖い。
……悔しいとすら思えないほどの才能!!! 何ですか? そのスピードは?
”実は体力全開なのでは?”と錯覚するほどの速さでよけまくっている。疲弊してあせった顔が見えなければ信じられない所だ。
自分自身の判断が正しかったことをほめてやりたい。
自分の生涯唯一のワンチャンスを本気の攻撃に使っていたら……地面に伸びていただろう。
こけおどしの弾幕が分からず、直撃しても鼻血すら出無い程度の攻撃を必死の形相でよけ続ける。
減ったスタミナを削り落として、動けなくなったら……きっと、文の足元に手が届くはずだ。
その調子でよけてくれれば……!! 文が風を集め始めた。

「吹き飛ぶがいいです!!!」

全力を使った文の、まだ名前すら付けていない必殺技、未来の――天孫降臨の道しるべ――が、巨大な竜巻が椛のこけおどしを一つ残らず吸い込んでいく。
砂埃を巻き上げる程度ではすまない、近場の木がうなってしなる、暴風で地面が削れて行く。
椛も浮き上がりそうになる。とっさに四肢で地面をつかみあげた。
顔を上げることすら許されない猛風が吹き荒れる。
凄いなんて感情はありえない。恐怖しか感じない。こんな力の塊を相手にしたことは無い。
白狼天狗、全隊員が総出で匹敵できるだろうか?
……才能が違いすぎる。これほどまでとは夢にも思わなかった。
スタミナがなくなれば足元に手が届く……どれほどの甘い考えだったか?
奥歯が鳴る。
今これを止めてくれるなら、土下座でもなんでもする。全力で尻尾を振って生涯の下僕宣言をしてもいい。
スタミナを減らした状態で、打撃に耐える防御力をもってして、ダメージを自演して背伸びをしても、風の前の塵に同じ……何の頼りにもならない。
本当に本気で文が殺気をもって最初の攻撃をしていたら……1秒どころではない。
コンマ何秒生きていただろうか?
自分が生きていられたのは文さんの、油断の所為か、優しさの所為か、それともここで終わって欲しくないという寂しさだったのか?
恐らく無意識の内に全てを合わせて……
……ああ……そうか……文さん、まだ手心を加えてくれていたんですか?
これはまだ、このレベルの攻撃で文は手加減している。
本気で山に決別する気なら、本当に私に見切りをつけたなら、この暴風を直撃させたはずだ。
直撃していたら……誰にでも分かる結果だ。決着……見るも無残な結末だろう。
当てないというのはここで終わって欲しくないのだろう。
勇気が欲しい……恐怖に負けないだけの……逃げ出して文に寂しさを与えないだけの、文の手心に応えられるだけの折れない心の強さが欲しい。
文は無意識の内に手加減をしている。自分が意識できない所で私を優しく扱っている。
文の内面は絶対に寂しいのだ。私をぶちのめした後で間違いなく泣くのだ。
応えたい……この無意識に応えたい。この人は正面から寂しい感情を表さないのだ。
寂しいのは、つまらなくなるのは、あなた一人じゃないんだ!!!
私だってこんな所で終わりたくない!!!
この猛風を相手に……背中に、もしも、守るべき人がいたなら、自分は踏ん張れただろうか?
にとりがいたら? お母さんがいたら? ……吹き飛ぶのを覚悟して前に立つ……そんな勇気だったら……多分だけど、あったと思う。
但し、今回に限って言えば、守るべき人が、寄り添うべき人が、あろうことか猛風の先にいる。
あと少しだけ、もう少し、これを耐え切ったら今度こそ手が届く……絶対に離れない、この猛風を超えて行かなきゃいけないんだ!!!
伏せた状態で覚悟が決まる。四肢に力が入る。後、1時間……匍匐前進で前に……絶対にたどり着く!!!
指先をわずかに動かした時、文の叫び声と共に唐突に音がなくなって空を見上げた。
まさに台風一過何も残っていない。視界の端では……文が自分自身の竜巻で吹っ飛ばされたらしい、地面に横たわっている。
椛のこけおどしが分からず、こけおどしをほぼ見たとおりに判断して全力で竜巻を放った。
結果、こけおどしには圧勝したが……スタミナが無い状態で妖力を全開にした竜巻を自分自身がしのげ無かった。
自分自身の最大妖力を使った暴風……有り余る才能による自爆……文自身が信じられない顔をしている。
力が入りきらない足で……傷だらけの手で起き上がろうともがいている。
そんな姿を見て、なんだかほっとしている。
天才とか風神とか言っても天狗の仲間だ。鬼みたいな頑丈な体をしているわけでもない。
地面に叩きつけられたら、のた打ち回るほど痛いのだ。
本当に止めてよかった。鬼だったら平然と立ち上がっただろう、大人だったらこんな単純なミスはしない。
数え年でいっこ上なだけ、早生まれか遅生まれ程度の違いだ、実質の同い年である。
規模は違えど術の自爆だったら同じ様にやったことがある。天才でも凡才と同じ間違いをする。
猛風だって同じだ。堪えられるわけ無いじゃないですか。
それに叩きつけられたら痛い。鬼じゃないんですから痛くて当然ですよ。涙ぐむのが当然なんです。
今、ちょっとならあなたの気持ちが理解できる。
……親友なんだから当然ですよ。たたきつけられて痛いでしょう? 失敗が悔しいでしょう?
ようやく追いつける速度だ、椛が笑いながら歩いて近づく。追いつけないほうがおかしかったのかも知れない。

「もう終わりですよね?」
「ま、まだですよ!!! 私は、私はもう山に残りたくない。
 あんな連中の下には居たくない!!!
 誰も追いかけてくれないとこなんてうんざりですよ!!!
 だれも、誰も、私のことを心配なんてしてくれないじゃないですか!!!」
「だから私が止めに来たんですよ。
 心配ですよ。誰が止めなくても私が止めます。だから、山にいてください」
「あ、あこがれるだけで追いついてもくれないくせに!!!」
「だから、今追いついたでしょう?」
「え? どういうことです?」
「タッチです。ようやく追いつけましたよ。1週間以上かかりましたが鬼ごっこだったら私の勝ちですね?」
「ま、まちなさい。あなたの勝ちなんて認めません!!!」
「羽も手も傷だらけ、打ち身に、スタミナ不足ですか……また明日にしませんか?」
「も、椛、あなたこそ、あなたこそ……ぐっ……傷だらけですね。私よりも……でも、明日なんて……嫌です。
 今日しか……今しか……後たった1時間も無いのですよ」
「旧都ですか……文さんがいなくなったら……寂しくなります」
「……本当ですか?」
「本当ですよ。文さんほど騒がしい人は……その……いませんから。
 文さんがいなかったら、勇儀様に挑むことも、幽香さんの屋敷で探検することも、外泊することだって絶対になかったですよ」
「そんなことだったらもう、一人でできるでしょう?」
「白狼天狗にそんな度胸無いですよ。私がこんな体験できたのは……文さんの命令があったからです。
 はは、今思えば滅茶苦茶な命令でしたね……子供の頃は絶対正義で、欠片も間違っていなかったのに」
「私は今でも正しいですよ。正しいと思っています」
「わかっています。でも、だからこそ止めたんですよ」
「私が間違っているとでも?」
「いいえ、正しいとか、間違っているからとかで止めたんじゃないです。
 私が私のわがままで、心配で、寂しくなるのが嫌だから止めました。
 そうです。あなたがあなたの正しさを押し付けたから、私は私の正しさを押し付けたんです。
 そう、放っておいたら手の届かないとこに行ってしまいそうだから、そんな事をされたら寂しいじゃないですか」
「……私は……あなたが良くても……寂しいままですか」
「大丈夫ですよ。たった一つだけあなたの鬱屈を晴らす方法があるんです。
 勇儀様、お願いがあります」
「お? そうか。いきなり振るなよ」

勇儀の顔は笑っている。まあ随分と仲良いことだ。主従関係から友人へ……成長するもんだ。
椛の話を勇儀は快諾している。
後は、文次第だ。

「文……ひとつ質問があるが……山で仲間を作る気はあるか?」
「ありません!!!」
「文さん、大事なことなんですよ? 一時の感情で押し流さないでください。
 寂しいって言っていたじゃないですか?」
「ぐっ!! 椛――、そ、そうですよ寂しいですよ。気の許せる友人が欲しいですよ。
 寂しくて泣いてた事だって1回、2回じゃ利きません」
「随分、ひねくれているな。まあいい。それなら、次郎坊に今回のことを報告してやろう。
 私が直々にな。椛、それでいいな? 後は任せるぞ?」
「ええ、そうしてください」
「どういうことですか?」
「もしも、仮にです。天才少女といわれた人が実は凡人だったら?
 誰もが、恐れをなして従うだけだった人が実はたいしたことがなかったら?
 次期大天狗候補筆頭がいっこ下の白狼天狗にボロクソにやられていたら? という話です」
「……そういうことですか、次郎坊様はそんな奴に目をかけることはできなくなります」
「そうすれば、他の人も近づいてきますよ。”ああ、こいつは凡人なんだ”って言ってね」
「ぐっ、まさか、負けることでしか溶け込めないなんて」
「機会は作りました。後は文さん次第です。本気で山に友人を作ろうと思うのならチャンスを逃さないでください」
「椛……分かりました。もう一度だけやってみます」
「良かったです。私ではもう二度と止められ――」

椛の口に文の指が止まる。先を言わせない気だ。
文の目が爛々と光っている。

「その先を言ったら承知しません。追いついて止めてもらいますよ。
 追いつけないのならそれこそ駄犬……追いつかせるためなら私が何でもしてあげます」
「それこそ、才能の差があって――」
「何を言っているのです。今日から私は一般烏天狗なのですよ? 追いつけないわけが無い」
「いや、だから種族的な――」
「言い訳は努力し切ってから言え。過去に烏天狗以上に出世した白狼もいたのですよ?」
「まあ まあ、そこまでにしておけ。ケンカは明日からやりたい放題できる。
 明日の楽しみを今日使い切るつもりか?」
「明日は次の楽しみが来ますよ。私は今を楽しみたいのです。
 折角今日は私に追いついてくれた同格の狼さんが目の前にいるのに……明日は駄犬になるかもしれないのに」
「ちょっと待ってください! 日々、追いつかせる気ですか!?」
「当たり前です!! 加減なんかしませんからね!!!」
「じ、地獄だ……」
「はっはっはっはっは、二人とも飽きたら旧都に来ればいいさ、遊びに来るぐらいなら問題ないだろう」
「残念ですが紫さんが結界を張るそうです。だから勇儀、お別れは勇儀のほうになります」
「ぶっ!!? そ、そうか残念だ。ふ、ははははは、仕方ないな。
 椛……文を頼むぞ?」
「既に心折れそうです」
「折らせませんよ!! 追いついて、追い越してもらいます!!!」
「な、生殺しだ!!」

ゲラゲラと勇儀が笑っている。これでは次郎坊に報告する内容の信憑性というものが無くなる。
全力を持って文と椛が激突し、文がボロ負けしたという内容だ。
既に口論を学習されて椛がボロ負け状態、ここから逆転して追い越すまで一体どれだけかかることか。
まあ、二人の仲だ。いつかは追いつくだろう。そして時間がたてば文の考えも変わる。
勇儀は口論に夢中になっている二人を残して一人、次郎坊の元へと向かっていく。
次郎坊もこの話には乗るだろう。元々文のことを気に掛けていた人物だから。
文が一般天狗のふりをするのに細工は必要だが……まあ、才覚に任せよう。私の心配することではないな。

勇儀は手早く次郎坊と話し終えると宣言通り正午に旧都に戻っていった。
椛は全治1ヶ月……本人は上出来と言っていたが……文はいたたまれない。
自分の怪我は3日あれば治る。
椛の病室で謝っている。

「椛……その、ごめんなさい、やりすぎました」
「いいですよ。山に残ってくれればそれで。
 それに、走れないわけじゃないし、重傷なのは中指と自分の噛み傷ですから」
「あまり、挑発はしないでくださいね? 狼さんでも限界はあるのです」
「文さんこそ、力は出しすぎないでください」
「分かっているのですよ。次郎坊様にも言われました。
 相手に合わせるのですよ」
「そうです。それでお願いしますよ。
 日々あの力を前にしたら正直……逃げ出したくなる人もいるでしょうから」
「良くは分かりませんが……約束しますよ。
 全力を出す相手は椛だけにするのです」
「……は?」
「”は?”じゃないです。私だって、全力で遊びたい時があるのですよ。
 他の人には見せられませんが、椛は知っているし……後、そうか楓さんもいいかもしれない」
「……え?」
「椛、心配する必要は無いのですよ。怪我が完治したらの話ですよ」

椛の顔色が一気に悪化した。今後、犬走家は絶滅するかもしれない。
たった10秒を耐えるだけでも至難の業だったのに文の全力を遊びとはいえ日常的に見舞われたら? ごくりとのどが鳴る。
「私は今から楽しみですよ」絶望的な言葉を吐きながら文が笑って「お大事に」と退室する。
呆けたまま、窓の外を見る。怪我は治さないほうが身のためかもしれない。
……文が満面の笑顔で持ってきた河童の秘薬を前に貧血で倒れたのは数日後の話である。

……

烏天狗の寺子屋では大騒ぎが起きている。ほんの一週間前に大暴れしていた射命丸文がクラスに戻って来るのである。
うわさでは白狼天狗の中等部の一人にボコボコにされて大恥をかき、次郎坊の付き人の地位を失ったそうだ。
証人は鬼の四天王で、次郎坊が苦い顔して文を追っ払った所までは確定している。
昔の超問題児、天下無敵のガキ大将が戻ってくる。
同年代で泣かされなかった奴はいない。そしてその速さにあこがれなかった奴もいない。
恐怖と畏敬の大魔王が降臨する。級友が緊張で待ち受けている中、
クラスに戻って来た文の第一声は信じられないほどおとなしいものだった。

「射命丸です。……みなさん、よろしく……」

この数年で聞いてたうわさでは、問題児がそのままの様相で暴れまわっていたそうなのだが……びっくりするほどおとなしい。
なるほど、面影は残っている。でも、鼻っ柱の強さが感じられない。
誰もが顔を見合わせて声をかけることすらできなかった。
文はため息をつく、結局、椛の言うとおり戻っては見たが……かわらない。独りか……溶け込んだふりだけなら出来るんだけど……寂しい。
一種のあきらめとともに、教官に促されて席に着く。うつむいて泣きそうになる。
周りにいるのは他人だ。話しかけてくれさえしないのなら案山子とだって変わらない。
そんな中、見ず知らずの声に驚いて振り向いた。
唯一……ひとりだけ……引きこもりでならす、世間知らずのはたてという人物が声をかけたのである。
うわさだけをかき集めて、全てを知った気になっている。
遊びだって外に出るということは滅多にしたことが無い。
烏天狗の同期の中でただ一人、文との直接の面識がなかった。
はたての目から見た文はうわさで知っているものとかけ離れている。
噂話で知っていた文はいかつい顔、狒々のような筋肉、鬼の骨格を持っていたはずだ。
元々、持っていた好奇心がうずいている。そのまま級友の誰もが距離を置いている文に近づいていった。

「ちょっと、ちょっと、あんたが射命丸!!? もっと、すっげえのかと思った」
「そうですよ? なんですか? すごいって?」
「だってあんた。昔、鬼にけんか売って、ひまわりの怪物を従えて、神隠しの奴隷だったんでしょ?」
「……どこのうわさですか!? そんな事実は一切ありません!!!」
「うっそだー!! みんなうわさしてたんだから。射命丸は怪物で、命知らずで、出世に抜け目が無いって」
「私はどこの守銭奴ですか!!!」

怒ったような声を上げている文にクラスメイトが震えている。爆発させたらただではすまない。引きこもり以外は経験済みだ。

「そうそう、それでさ、その守銭奴は白狼天狗に負けたんだって? どーして負けんのよ?
 うわさだけでも怪物、天才、次期大天狗、風神、弩級問題児…etc...数々の異名があったでしょ?
 つまり、強かったんでしょ? 何で白狼に負けたのよ?」
「スタミナ切れです。攻め切れなかったんですよ!! 十数秒で息切れを起こしました!!!」
「ぶっ!! あんた体力無いのね!! いいわ、私が敵をとってあげる。
 そしたら……もしかしたら私が次郎坊様の付き人に認められるかも?」
「……あんたじゃ一生無理ですね」
「あんだと!! 私にかかれば白狼天狗なんてチョチョイのチョイだっての!!! 見てなさい!
 明日にはあんたを倒した白狼天狗を倒した証拠を持ってくるんだから!!!」
「まだ、病院ですよ。退院は1ヵ月後です」
「何それ!!?」
「ちょっとや……りすぎじゃなくて、次郎坊様にお仕置きされたんですよ。
 序列が狂うって、もう本人は烏天狗に逆らう気は無いでしょうよ」
「な、何それ? それじゃ、私の出る幕無いじゃん」
「そうですよ。もう、私達の出る幕は無いのです」
「ちぇ……なんだつまんないの。
 あ、そうだ。自己紹介してなかった。私、姫海棠 はたて、これからよろしく、文!」
「いきなり呼び捨て……凄いですね はたてさん」
「はたてで呼び捨てでいいわよ。気遣いなんて無駄でしょ。同級生だし」
「同級生? 気遣い不要?
 ほ、ほんとに? いいの? ……うれしい……
 ……ふっ、く、くふふっふっふふ、あっははははははは!!!」
「!? どうしたのよ!?! 気でも狂った!?」
「いえ、いえ、あなたがあまりにも絶滅危惧種なので嬉しくてつい……くっふふふふふ」

文が笑い殺せず、腹を抱えて痙攣している。
……凄い、こんな同期が残っていたなんて知らなかった!! 大事に、大切にしないといけない。
椛と戦う前、純粋に力を見せることが、自分をそのまま示すことが正しいと思っていた。
相手のことは考えなかった……その結果は一人ぼっちだった。
今度は違う。相手に合わせて力を見せよう。必要以上の力を見せる必要は無い!!!
私の幼少を知らず、あの悪童伝説に直接触れなかった……こんな絶滅危惧種となら……初めて烏天狗の同格の友達が出来るかもしれない。
大切につき合わせてもらおう。椛がくれたこのチャンスに掛ける。
いざ、新しい第一歩を、過去の寂しさを振り払って、新しい友達と共に進んでいこう。

おしまい
一応、駅伝の時の仲の悪さを説明できればと思ったんですが、一回じゃ無理ですね。
あそこまでぶっつりは中々切れなかった。二人の仲が堅すぎたか。
もう2つほど、二人の激突ネタはあるんですが、ろくでもないので書きません。
(文が新聞にどはまりして、高順位を狙って椛のあられもない写真を撮影→印刷所が新聞を刷る前に椛の焼き討ちにあうという流れ。
 過去、唯一新聞大会が開かれなかった時の話ですが、展開からしてろくでもない。
 椛号泣の抗議……後ろめたさで全力が出せない文……結果が丸分かりでつまんない。
 後は「椛、男になる」……早苗の婿探しで守矢の神様が身近で手ごろな椛を男に変身させるという話、
 神奈子曰く「ろくな男がいなければ、作ればいいじゃない」……文がカメラ片手に椛を追い回す話です。
 真面目で努力家の椛が男になって、本当に立場が逆転する話です。文が完全にパワー負けします。
 こちらは椛がわざと負けますが……文が逆切れします。こっちは決着が……なのでやめときます)

椛VS文それ以上でもそれ以下でも無い。そういう話です。
ヒロインがラスボス……この状況は簡単に思いついたんですが……もっていくのがすげえ難しかったです。
特に最初の勘違いからの激突、無理やりすぎましたかね? 無理と違和感がにじみ出ているんですが、筆者の脳みそだとここが限界でした。
時間がかかった割には出来栄えがいまいちでしたね。
これでようやく、仲(主従関係)を直すことに失敗して新しい関係(友人)がスタートするわけです。
椛も従者から文の親友に大出世してめでたしめでたし。

豚鬼はトンキって読みます。いまさらだけど。
そのほか、牛鬼、馬鬼、鶏鬼など考えていたんだけど……牛鬼だと強すぎでしょ、”うまおに”だと音読みが強すぎでしょ、
鶏鬼(ケーキと読む)は頭が悪すぎるからな、むしろ、もっとチルノとかローレライとかの相手ぐらいが丁度いい感じでしょ?
そうして豚鬼に白羽の矢が立ちました。文が楽勝で椛がギリ勝ちできそうな奴です。素晴らしい雑魚キャラでした。
楓さんは前に出すぎるので椛と文の話にならなくて困りました。
話をまわすキャラは必要なんですが、この配役に該当するキャラがいない(少なくとも筆者の脳内には)ので
出すぎは自覚していますが、引っ込めると話が回らないのでこうなりました。

2015/04/27 追記
皆さん、コメントありがとうございます。
キャラの動きですか、会話パートと動作パートをつい分けてしまうので、今後は少しずつですが、会話中に動作を入れられるようにしていきたいと思います。後、あとがきでごちゃごちゃ書かないように心がけます。
味付けもほどほどにしないといけませんね。
それから高評価してくれたお二方、嬉しいです。
もっと次を良くしたいので、次回作で機会があれば、改良したほうがよい所を教えてください。
それでは失礼しました。
何てかこうか?
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コメント



0.190簡易評価
1.20名前が無い程度の能力削除
設定ばかりをガチガチにねじ込んでいて作者だけが楽しんでる作品でした。
5.10名前が無い程度の能力削除
オリキャラの存在が中途半端、別に他のキャラでも物語の組み方次第でどうにかなるのでは?と感じました
それにこの作品のキャラクターは棒立ちで喋ってるのでしょうか?「」ばかりでキャラの動きは全く見えてきません
あとがきにごちゃごちゃ詳細を書くのもマイナスポイント。それは話の中で分かるように伝えてください
一言でいえば話の作り込みと文章が甘い。そのせいでオリキャラの必然性が感じられませんでした
10.90名前が無い程度の能力削除
懐かしい雰囲気がよかったです
すらすらと読めました
11.100名前が無い程度の能力削除
pretty
12.90名前が無い程度の能力削除
途中誰のセリフというか話かわからないところがありましたのでマイナス10点・・・が!良い作品です!書き方とかどうでも良い!(個人的に改行後の空欄が欲しいですが、本当にどうでもいい)
充分楽しめて熱くなれる作品ですね!本当に天狗勢が(最後のはたて含めて)良いです!
13.90名前が無い程度の能力削除
確かに荒い。描写がたまに飛んだり視点がゴチャゴチャのシーンがあったり荒い
しかし、しかしなのです
そんなもの全てがどうでもよくなる面白さとパワーがこの作品にはあると思います
無邪気な文、可愛いゆかりんとゆうかりん、半霊のオッサン、イジメと見せかけて実はマトモな神経の監視、実は雷丸光より厄介なトンキー
ゆかりんは計算で全てが計れると思っているラプラスそのもので、読み違えて顔色変えてて可愛いかったし、ゆうかりんは言わずもがな、文があんなだったら普通はああいう態度を取るな、と納得した監視、文の問題を(意図せず)白日の下に晒してくれた雷光丸
特に半霊のオッサンは、共感できる所が異常に多かったです
手の届く所に手を伸ばしてしまうのは当たり前で、皆に良い顔をしたい、と言うのはかなり普通の事だと思います
俗物と言うか徹頭徹尾普通の感情ですね…剣の腕前以外は
そこが妙に人間臭くてカッコイイです
なんであんまり評価高くないのか疑問ですが、自分の意見を言わせてもらえば、あらすじが地雷っぽく見える辺りでしょうか?(実際自分も無意識の内に避けていた)
特に雷光丸とトンキーのネーミングはきついように思えます
雷光丸は捻りがなさすぎて気持ちダサいように見えますし、トンキーについてはもはや面白おかしく殺されるだけのザコの名前っぽく、どちらも凄く中2病患者が噛ませの為に適当につけた名前に見えます
しかし、ボリュームたっぷりのコースターノベルとしての読み口は凄く良かったです
面白かったです
何か若い文にデジャブがあると思ったら酒のみジャンケンの作者さんだったんですねえ…さもあらん