Coolier - 新生・東方創想話

歩け! イヌバシリさん vol.12(完)

2014/11/17 02:39:51
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守矢神社の本殿。

「ずいぶんと思い切った事をしてくれたわね」

上座に設けられた、神を祀る為の段に腰かける神奈子が、諏訪子に非難の視線を向ける。

「緊急事態だ、しょうがないだろ。そもそもお前がもっと慎重にやっておけば、試験場はバレなかった」
「それでも他にやりようがあったでしょうに」
「パラジウム合金と同じ性質を持つように改造した御柱は一本だけなんだろ。それを潰されたら私達は路頭に迷うしかない」
「かもしれないけど、普通殺害する?」
「天魔は発電所に強く反発していた。アイツは一度やると言ったら絶対に曲げない。アイツがトップの内は、この山に発電所の柱一本建たないだろうさ」
「まぁ良いわ。起きてしまった事はもう覆せない」
「それでどうする? 私の首を差し出して手打ちにでもするか?」
「馬鹿な事を言わないで頂戴」

言って、神奈子は数匹の鴉を天井の小窓から飛ばした。
いずれも守矢側に着く天狗の伝令に使う鴉である。

「一度、守矢派の連中を集める」
「集めてどうする?」
「天魔を刺した所は、誰にも見られていないのよね?」
「ああ、近くにお姫ちゃんはいたけど気づかれていないよ」

もともと天魔が内緒話をするために選んだ場所だったため、辺りの目線の遮断は完璧だった。

「じゃあ姫海棠はたてが天魔に一服盛った後に刺したって事にして、天狗どもに捕まえて貰いましょう。それで解決ね」
「正気か?」

守矢派には天狗社会に発言力のある幹部も数名属している。はたてに無実の罪を被せる事など造作もない。

「そこまで非情じゃないわ。天狗内部がしばらく混乱して機能停止してくれればそれで良い。頃合いを見て、誤解だったと通達するわ」
「絶対だぞ? 無実のあの子を打ち首に追い込んだら、お前でも祟るからな?」

その後、招集した守矢派の面々に、天魔が弟子に刺されたという事を告げ、逃走中の彼女を捕えるよう命じた。

「諏訪子、お前さんも姫海棠はたてを探して来て頂戴。私はこれから試験場に向かって発電の試験を行う。予定よりずっと早いが仕方ない」
「今はそんな状況じゃないだろ。発電所の計画は天魔殺しの捜査を掻い潜ってからじっくり始めれば良い」
「試験は今でなければならない。天魔の意思を継ぐ連中に今後も邪魔されることを考えたら。試験だけはどうしても済ませておきたい」

天狗内部が混乱している今を置いて、試験のチャンスは二度とないと神奈子は判断した。

「それに、天魔が消えて統率を失った天狗など、無駄にプライドが高いだけの烏合の衆。ちょっと妨害するだけで、犯人なんて一生特定できないわ」

逃げ切る自信があった。

「早く行きなさい。姫海棠はたてが私達以外に保護されたら厄介よ」
「わかったよ」

諏訪子は本殿を出ようとする。

「トドメは刺さなかったみたいだけど、ちゃんと殺せたんでしょうね?」

それだけは確認しておきたかった。

「問題ない。腹を抉った時に、猛毒を打ち込んでおいたからね」
「猛毒?」
「祟りや恨みの塊さ。かつてダム騒動の時にお前が呑まれてしばらく動けなくなったのがあったろう? あれを濃縮したやつさ。妖怪も神も精神攻撃に弱いからね。もう助からないよ」

諏訪子は手の平からコールタールのようなモノを生み出して、すぐに引っ込めてから、本殿を出た。





諏訪子は廊下を進んでいると。

「くっ!」

突如、右腕に激痛が走り、その場に膝を突いた。
腕をまくると、そこには天魔の手の痕がくっきりと残っていた。

「祟り神すら祟るか。敵ながら天晴だったよ」

痛みが引いたので再び歩き出す、早苗の部屋の前で彼女は止まった。

「さーなえっ♪」
「あっ、諏訪子様」

無性に彼女の顔が見たくなったため、出立前に立ち寄った。

「明日は早朝から人里に行くんだろう。そろそろ寝なくてもいいの?」
「もう少しだけ。最近、信仰の集まりが芳しくないようなので」

早苗は人里の人間に配るための、妖怪避けの御札を作っていた。

(少し痩せた?)

ここしばらく、神奈子も諏訪子も発電事業にかかりきりになっており、巡業は早苗一人に任せっ放しになっている。
そのせいだとわかった。

「諏訪子様?」

気付けば諏訪子は、早苗を背後から抱きしめていた。

「苦労ばっかりかけてごめんね」
「いえ、そんな事」
「もう少しで、カタがつくからさ」

耳元でそう囁き、離れる。

「あの、カタとは一体?」

振り返ると、諏訪子の姿はそこにはなく、廊下から小さな足音が聞こえた。








妖怪の山で最も大きな診療所。
天魔が治療を受けている部屋に続く廊下を、大天狗は足早に進む。

「もっかいちゃんと状況を説明して」
「はい」

天魔に使える女中が、現場を目撃した者から聞いた話を伝える。

「夕方、団子屋の近くで女の子の叫び声が聞こえて、周囲にいた者達が集まった所、血を流す天魔様を抱える女の子がいたそうです。
 たまたま集まった者の中に医術に精通した者がおりまして。その場で応急処置をした後、最も設備が充実しているこの診療所へ運びました」
「天魔ちゃんを抱えていた女の子は?」
「応急処置の最中、急に姿を消したとか、とても速く、誰の目にも追えなかったそうです」
「そう」

大天狗も女中も、その少女については心当たりがあった。

「その女の子が天魔ちゃんを刺したワケじゃなさそうね」
「はい。恐らく、何者かに負傷させられた天魔様を、一番最初に見つけたのでしょう」
「で、気が動転しちゃって飛び出したわけか」

二人ともはたての事を心から信頼していた。

「あと、目撃した連中なんだけど。緘口令敷いた?」

天魔が重傷を負ったことを口外されては都合が悪い。

「消えた少女以外の全員には、閉口の誓約書を書かせました」
「じゃあとりあえず、そいつらの口から漏れる事はなさそうね」

治療室の前に辿り着き、誰の了解も得ることなく扉を押し開ける。
部屋の中では四人の医者が、天魔に懸命に処置を施していた。

「うっわ、マジで死にかけてんじゃん」

大天狗は目を細め、天魔の身体を霊視する。彼女の中の妖力が、まるでか細い蝋燭の先に灯る火のように、今にも消えかかっていた。

「助かるんでしょうね?」

部屋の隅にいる、先ほどまで執刀し、手を休めていた医者に話しかける。

「傷が塞がりません」

彼の割烹は天魔の血で真っ赤に染まっていた。

「いくら掛かってもいいから河童の秘薬をかき集めなさい」
「薬があっても、妙な毒のせいで、傷の治りが妨害されています……臓腑の多くを損傷し、ほとんど手の施しようがありません」

大天狗は、彼がこの山でも一二を争う腕の持ち主である事を知っていた。
そんな彼から諦観に満ちた声色で告げられた。

「………そっかー」

長い、長い息を吐いてからベッドの上の天魔を見詰める。

「あとどれくらい持つの?」
「夜明けまで持つかどうか」
「わかった。あんたら外でちょっと休んでなさい」

女中と医者たちを下げさせて、病室で天魔と二人きりになる。

「なんて終わり方してんのよ?」

いくつもの管に繋がれて目を閉じる天魔の顔を覗き込む。

「一緒に甲子園に行こうって約束したじゃない。ピッチャー天魔ちゃんの260kmの剛速球をキャッチャーの私が受けて190kmで返球して、球児達の度肝を抜いてやろうって誓ったじゃない」

下らない冗談を言うといつもなら返ってくる突っ込み。それが今は無い。

「起きなさいよチビ助、永久幼女、ロリコン製造天狗、なんちゃってロリババア、幼稚園児」

本人が激昂する言葉を並べても、眉ひとつ動かさない。

「鬼が山からいなくなった時に決めたじゃん。この碌でもない天狗社会を、貴女が表から、私が裏から変えて行こうって、まだ全然途中でしょうが」

大天狗は泣きそうな顔になった。

「それにはたてちゃんはどうするのよ? あの子が貴女を本当に必要とするのは、これからなのよ?」

それでも天魔は微動だにせず、大天狗はベッドのすぐ脇にあった椅子に座り項垂れる。

「寂しくなるわね、これから」

点滴の音が聞こえる程の静寂が、部屋を支配した時。

「どんよりした空気。私は嫌いじゃないけれど、貴女はどうかしら?」
「ッ!?」

まるで初めからそこに居たかのような自然な仕草で、鍵山雛は天魔の顔を覗き込んでいた。

「いつから死神と掛け持ちするようになったのかしら雛姉さん?」
「あら、私は昔から厄神一筋よ?」
「出てってくんない? 今、お喋りできる雰囲気じゃないのわかるわね?」
「それは出来ない相談ね。私は役目を全うしないと」
「役目?」

無理矢理縫合されている天魔の腹の傷口に触れる。
すると傷口から泥のような、黒いネバついた液体が次々湧き出しては浮き上がり、雛の周りを漂ってから霧散した。

「悪い“モノ”はこちらで引き受けたから、あとは彼女の頑張り次第ね」

雛が取り去ったのは、医者からの報告にあった『治癒を妨害する毒』だと大天狗は察した。

「何を吸ったの?」
「祟りや恨みがそのまま毒になった物とでも言うのかしら。人間の精神すら容易く汚染し、妖怪や神をたちどころに衰弱させる」

大天狗は再び天魔の身体を霊視する。彼女の中の妖力が徐々に増えていくのが見えた。

「ありがとう。どうお礼したら良いか」
「良いのよ。厄を引き受ける、それが私の役目だもの」
「ところで、今吸ってくれた毒ってどこで手に入るの? 誰でも扱えるもの?」
「呪術の類でしか生み出せないわ。この純度の毒は相当精通してないと作れないでしょうね。作れるとしたら高度な技術と広い工房を持つ呪術師か、あるいは…」
「あるいは?」
「祟り神の統率者」

それを聞いた瞬間、大天狗は出口に向かう。

「どこに行くの?」
「天魔ちゃんの腹に穴開けた奴んトコ。落とし前つけさせて来るわ」
「いくら貴女でも、守矢の神に勝てるとは思えないけど?」
「勝てなくても、風祝ぶっ殺すか、神社ぶっ壊すくらいできるでしょ」
「とても天狗社会の第二位の発言とは思えないわね? ここで指揮を執るのが役割ではなくて?」
「生憎と、私が頭に血が登った時に、諌めて冷静さを取り戻させてくれる子は、そこで寝てるわ」
「どうしても行くの?」
「天狗に仇なす者を討つのが大天狗の役目だから」
「そう。じゃあ仕方ないわね」

背後にいると思っていた雛が次の瞬間には大天狗の正面に現れ、その懐に触れる。

「邪魔しようっての?」
「逆よ。悪あがきの手伝いをしてあげる」

雛の手には、大天狗が懐に入れていた筒があった。

「なかなか厄いモノを持っているわね」

筒から出て来たのは、椛の本名が書かれた戸籍表だった。

「ここまで厄いモノ、そうそうお目にかかれないわね」
「そんなにすごいの?」
「何百年も絶えず恨みや後悔といった具材を放り込み、煮込み続けたシチューみたいなものよ」
「良くわかんないけどヤバイって事はわかった」
「恨み辛みを溜めこむのに、これ以上うってつけのモノはないわね」

雛の指先から、コールタールのようなドス黒い液体が発生して、紙に染み込んでいく。

「何してるの?」
「天魔様の中に入っていた毒を、この紙に移してるの」

真っ黒に染まった戸籍表だったが、雛が息を吹きかけると、元の白い状態に戻っていた。

「はい、これでこの紙は、触れた相手に祟りをもたらす呪われたアイテムになったわ。八坂神奈子と刺し違えても良いと思ったら、使ってね」
「何が起こるの?」
「貴女に恨みをもって死んでいった子達が、貴女を迎えに来てくれるわ」
「私にとっちゃ、ご褒美ね」

紙が納められた筒を受け取る。

「悪いわね、ここまでしてもらって」
「友達だもの、遠慮しないで。そろそろお暇するわね。あまり長いすると、そちらに悪影響でしょうし」
「辛い仕事ね」
「私がこうして存在できているという事は、どこかで私に感謝してくれている人がいるという事。それだけで、私には十分」

筒を懐に仕舞い治療室から廊下に出た大天狗は、すぐ近くで控えていた女中に声をかける。

「医者たちに天魔ちゃんの毒は取り除いたって伝えといて。的確な処置をすれば、数日で目を覚ますわ」
「呼んできます!」

大急ぎで医者たちがいる部屋に向かった。

「助かったのですね天魔様は」

つい先ほど駆けつけた大天狗の従者は胸を撫で下ろす。

「ちょっと出かけてくるわ。幹部連中には朝まで誰も動くなって命令しといて、動いてる奴は守矢と見なして切り捨てるから」
「いつ頃帰ってきますか?」

主従の間で何時も行われている、日常的なやりとり。

「早ければ明日の朝。遅ければそうね…」

しかし、この時だけは、いつもと違う回答をする。

「来年のお盆には帰ってくるわ。河童の村長から長いキュウリ貰って、飾っておいて」

刺し違える覚悟はすでに出来ていた。

















哨戒部隊の詰所。
部下から受け取った日誌に椛は目を通していた。

「ご苦労だった。もうすぐ夜勤組の連中が来るから、それまで気を抜くなよ」
「うっス!」

椛から日誌を返された短髪の少女は、詰所の入口にある棚に日誌を置きにパタパタと走って行った。

「アイツもようやくまともな文章を書けるようになったか」
「最初の頃は酷かったですもんね。根気よく指導した甲斐がありました」

隣にいる文が感慨深い表情で、噛みしめるように相槌を打つ。

「それにしても、一体どうしたんでしょうかはたてさんは?」

詰所の奥に目をやる。はたてはそこで膝を抱えて俯いていた。

「一人で河原をふらふらと歩いていたので声を掛けたのですが、その時からずっとあの調子で」

文が保護してここまで連れて来ると、のそのそと歩き出してあの位置に座った。

「はたてさんのシャツなんですが、文さん気付いてます?」
「ええ、わかってます」

はたての脇腹あたりに赤い染みが点在していた。
昨日、椛の家で洗濯した時にはなかった。

「何かの事件に巻き込まれたんでしょうか?」
「何度か話しかけてみたんですが、全くの無反応で。あれじゃあまるで…」

引篭り時代に戻ってしまったようだ、と言いそうになり、口を噤んだ。

「今はそっとしておきましょう」
「そうですね、一晩様子を見ましょう」

「すみません隊長」

話す二人の元へ、隊員の一人が駆け寄ってきた。
椛の隊の中で最も聴力の優れた、非常に高い索敵能力を持った隊員である。

「どうした?」
「西の方より七人。こちらに向け歩いてきています。全員、天狗かと思われます」
「そうか」

謎の来訪者が、はたてとは無関係である事を願った。




素性のわからぬ天狗の集団は詰所の前で立ち止まると、戸を静かに叩いた。

「何のご用でしょうか?」

椛が一人、外に出て彼らと対面する。

「隊長はいるか?」
「私ですが?」
「貴様が隊長だと?」

筋肉隆々の男が出てくると想像していたのだろう、来訪者達は一斉にいぶかしむ。

「まぁここは辺鄙な所、大方落ちこぼれの寄せ集めなのでしょう」

一人がそんな事を呟くと、他が小さく噴き出した。

「雁首揃えてこんな場所まで如何しました?」
「同族を探している。この辺りで目撃情報があった」
「どなたでしょう?」
「姫海棠はたてという。長い髪を両側で結った若い鴉天狗だ」
「…」

椛は感情を表に出すことなくただ頷く。

「何故その方を?」
「貴様は知らんで良い」
「それでは協力できかねます。最近は若い女子を手籠めにする輩が徘徊しているとお触れも出ておりますし」
「無礼な。我々は大天狗様直属の部隊である。貴様らは黙って従えば良い。これがその証である」

厚手の和紙の書状を見せる。

「これは大変失礼しました」

恭しく頭を下げた。

「貴様の隊から目と耳の良い者を案内人として我々に…」
「あの、実はですね。少し前に私の隊の者が、衰弱した鴉天狗の少女を滝で見つけて保護致しまして」
「それは誠か!?」
「今は中で眠っております」
「確認させてもらうぞ」
「お待ちください」

入ろうとする一行を椛は制した。

「先ほどまでひどく怯えておりました。僅かな物音で目を覚ますかもしれません。お一人だけ入っていただいて確認した方が良いかと」
「よかろう」
「ではご案内します」

椛と話している男だけを招き入れ、詰所の戸を閉める。戸が完全にしまった瞬間、椛は音もなく動いた。
男の胸ぐらを掴みつつ足を払い、顔面から床に叩きつける。

「大声を出すな。首を落とすぞ?」

声に込められた殺意が、それが単なる脅しでないことを伝えていた。

「嘘ならもっと上手く吐くんだったな。大天狗様の直属部隊なんてとっくの昔に解体してるし、あの認可証も様式が全然違っていたぞ」

大天狗に最も近しい存在である椛が、そんな即席の嘘に騙されるはずがない。

「その鴉天狗の少女とやらに何の用だ?」
「わかった、身分を偽った事を詫びよう。そして正直に話そう」

その言葉で、椛の腕がわずかに緩む。
次の瞬間、男の手の中にあった札が薄く光った。
それが外にいる仲間に異常を知らせる札だとわかったが時すでに遅く、戸が蹴破られ、武装した天狗達が飛び込んで来た。

「やれ! ここにいる連中を皆殺…」

言葉の途中、後頭部に椛の本気の拳骨を受け、男は気を失った。

「貴様らどこの組のモンじゃぁぁ!!」
「出入りだ出入り!!」
「やんのかコラァ!!」
「天狗の国に連れてくぞごらぁぁ!!」

椛が男を捕えた時点で他の隊員達も臨戦態勢をとっており、乱入者を迎え撃つ。

「なんだこの白狼天狗ども!? 強いぞ!」
「距離を取れ! 吾輩の術でまとめて…」
「やめんか馬鹿! 我らまで巻き込む気かっ!?」

個々としては優れた能力を持っているようだが、狭い室内に接近戦ということもあってか、その力が全く活かせずに壁際へと追いやられていく不審者達。
丁度やってきた夜勤組も乱闘に加わり、彼らは隊員達の木刀で袋叩きにされた。

「怪我をした者はいるか?」

全員を拘束し、縛り上げてから被害状況を確認する。

「軽い打撲が三人、他はいません」
「そうか」

良かったと心から安堵する。

「あの隊長」

一人がそっと耳打ちする。

「どうした?」
「お嬢なんですが、今の騒ぎの時に窓から抜け出したみたいで」
「なんだと?」

先ほどまではたてが座っていた場所を見ると、無人になっていた。

「射命丸様が彼女の後を追って一緒に外へ。そこから先はわかりません」
「よく知らせてくれた」

はたての方は文に任せ、椛は状況の把握に努めることにした。

「お前たち。どうして姫海棠はたてという少女を探す?」

意識を取り戻した指揮官の男に問う。

「誰が貴様らに教えるものか」

睨み返してきた。

「そうか、なら仕方ない」

椛は彼の襟を掴み、詰所の外まで出ると地面に放って転がした。

「なんのつもりだ!?」
「あれ持って来い」
「はい」

返事をした隊員は詰所の裏から液体で満たされた桶を持ってくる。

「これから本格的に寒くなるから、出来ることなら使いたくないんだが」
「うぶっ」

受け取った桶を、そのまま指揮官の頭にかけた。
あたりに頭痛を誘発する異臭が漂う。

「焼き鳥は好きか?」

彼のすぐ足元、液体が浸み込んだ地面の上に、火のついた蝋燭を一本立てた。

「今すぐどけろ!」
「あまり騒がない方がいいぞ? 細い蝋燭だ、簡単に倒れる」

いつ引火するかわからないという恐怖が男を襲う。

「話す、話すから、火を消せ!」
「そっちが喋るのが先だ」
「わかった」

指揮官の男は、天魔が重傷を負い、その下手人がはたてである事を告げた。

「誰の指示だ? 大天狗様の偽造証を持っていたんだ。大天狗様ではあるまい」
「…っ」
「言いたくないなら別に良い」

踵を返し、部下を引き揚げるよう促すと、自分も詰所の中に歩いていく。

「おい何処へ行く!?」
「続きは中にいるお前の部下から聞くとしよう。お前はせいぜい蝋燭が倒れぬよう大人しくしていろ」
「戻れ! 倒れずとも、このままでは気化して引火するんだぞ!」
「そんな事は知らない」

言って、詰所の戸をピシャリと閉めた。

「八坂神奈子! 我らにそう命じたのは八坂神奈子だ!!」

詰所の中にいる椛に聞こえるよう、そう叫んだ。

「そんな事だろうと思った」

詰所の中で、得心いったと頷く椛。

「隊長、あいつ放っておいても良いんですか? 本当に火だるまになっちゃいますよ?」
「奴が被ったのはただの井戸水だ。奴が目をつぶった時に、塗料の溶剤(シンナー)をあたりに撒いた。それを勝手に勘違いしてるだけだ」
「今の話、本当なんでしょうか? お嬢が天魔様を」
「はたてさんがそんな事するわけないだろう。守矢が自分たちの犯行を誤魔化すために、デマを流したに決まっている」

椛は剣と盾を背負い、使えそうな小物を巾着に突っ込み腰から下げる。

「私は大天狗様に報告して事実確認とこれからの指示を仰ぐ、それまでこいつらを見張っていてくれ」
「了解です」
「抵抗されると厄介だから、何人か適当に選んで耳と鼻を削いで逆らう気を奪っておけ」
「それはちょっと」
「あとそれと」

出発する直前。はたてが出ていった窓に椛は足を掛けてから、一度振り向いた。

「さっきの戦い方。個々の動きも連携も申し分ない。頼もしかったぞ」

彼らを面と向かって褒めたのは、これが初めてだった。

「お前達を部下に持てて、私は運が良い」
「隊長…」
「行ってくる。留守は任せた」
「お気をつけて!!」

気恥ずかしさで頬が紅潮しているのを気取られぬ内に、椛は身を翻して夜の山を飛んだ。















(なんか急に騒がしくなってビックリして、思わず飛び出して来ちゃったけど…)

自分を追っていた連中と、椛の部隊が交戦したとは夢にも思っていなかったはたて。
椛の詰所から飛び出した彼女は、今日の昼、天魔と最後に言葉を交わした水路の前までやって来た。
他に行先が思い浮かばなかった。

(少しだけ、落ち着いたかもしれない)

事件から数時間、ようやく考えるだけの気力が戻って来た。

(天魔様がああなったのに、みんないつも通りだった)

誰も天魔の一大事など知らず、日常を過ごしており、緘口令が敷かれているのだとわかった。
周りがあまりにも普段通り過ぎて、昼間の出来事は、自分が見た悪い夢なのではないかと思えてしまう。

「血の痕、まだ残ってる」

しかし、砂利に付着し固まっている天魔の血が、夢でないことを教えてくれた。

(強くなれたと思ったのに…)

しゃがみ、目にいっぱいの涙を溜め、両手で髪を掻き上げる。

(私、全然成長してない。ずっと弱虫のままだ)

天魔がここで応急処置を受けている最中に、はたては気が動転してその場から離れてしまった。
自身が天魔の玄孫だという事、天魔が母に対して罪悪感を抱いていた事、そして突然の負傷。
考えが追いつかなくなり、受け止めきれなくなった心は恐怖に縛られ、はたてに逃げる事を選ばせた。

(本当に最低だ私)

天魔が刺されたあの場に残っていたら、何かできる事があったかもしれない、自惚れだとは自覚しつつも、そんな事を考えた。

(今、私は、この状況から、どうしたら良いんだろう?)

今自分ができる事を挙げようと試みる。

(あれ、何も、ない?)

しかし、思い浮かぶモノがなかった。
緘口令が敷かれている以上、天魔の安否確認すら出来ない。
このまま大人しくしているしかないのかと諦めかけたその時。

(いや、違う。一つあった)

立ち上がり、カメラを取り出す。

(貴女の仇を討てば、逃げてしまった私を、少しは許してくれますか?)

犯人を見つけ、復讐する。それが今の自分に出来る唯一の選択肢であり、逃げてしまった事への償いだと思った。

(貴女が私の高祖母だから、こうするんじゃありません)

玄孫と言われたが、実感など湧くハズもなく。

(貴女が私の師匠だから、こうするんじゃありません)

弟子だと胸を張って名乗れるほど、立派でもない。

(貴女は私の恩人だから、大切な人だから、私は戦おうと思います)

その瞬間、カメラと頭が見えない糸で繋がった感覚を得た。自分の考えている言葉が、ボタンに触れることなく、ディスプレイに打ち込まれていく。
『天魔』、『怪我』、『犯人』と入力し、検索をかけると、≪該当なし≫という文字が踊った。

「知ってる。さっきもこうだった」

椛の詰所に居た時、何度も検索をかけていた。

「まだ犯人、捕まってないんだ」

大天狗は優秀だ、下手人が誰か分かれば、すぐに捕えている。
捕えたら顔写真を撮るはずである。そうなれば自身の能力が確実に拾う。
それが無いという事は、犯人はまだ特定されていないという事だ。

(犯人を見つけるには、今の能力じゃ限界がある)

新しい情報を得るという点では、彼女の能力はほとんど役に立たない。

(だったら…)

呼吸を整え、感覚を研ぎ澄ます。
天魔の屋敷で行っている日課の瞑想の時を思い出す。

(こういう時の為に、今まで練習してきた)

世界の流れが緩やかになっている事を自覚する。

(よし、ちゃんと出来てる)

日頃の鍛錬の成果か、追い詰められたり、切迫した状況でなければ発動しなかったこの技があっさりとできた。

(今なら普段よりも能力が向上してるはず)

期待を込めて再度検索するが、結果は変わらない。

(もっと集中して、事件のあった時間帯も追加して)

数秒の瞑想の後、シャッターを押す。しかし、結果は伴わなかった。

「駄目か」

そうこうしている内に感覚が正常のものに戻る。
重力が倍になったような疲労感がのしかかる。
しかし、それでもはたては膝を折らない。

(もう一回)

今の彼女はこの能力以外に頼るモノがなかった。

(写るまで何回だって繰り返す)

大天狗の警告を思い出す。
彼女自身、連続の使用は本能的に避けてきたが、今はそんな事どうでも良かった。
罪悪感が恐怖を塗り潰し、理性のブレーキを壊していた。

「ぁっ……、痛ぅぅっ!」

二度目の発動を試みようとして、激しい頭痛と嘔吐感に襲われ、危うく水路の中に落ちそうになる。
月明かりに照らされた水面が、目の前にあった。

(……ん?)

水面に映る自分の顔を見て、ふとある考えが浮かぶ。

(もし『水面に映った映像』を『誰かが取った写真』と私の能力が解釈したら?)

天魔はここで刺された。水面にその時の様子が間違いなく映っている。

(私自身がそう思えば写せるはず)

そもそも念写という能力自体がオカルトで、発動条件に科学的根拠などない。非常にあやふやなものである。
あまり誇れる事ではないが、はたては写真がなぜ撮れるのか、という詳しい理屈を知らない。
自分が“そう”だと思い込めば、それが能力に反映されるのではないかと考えた。

(なんでも映せるなんていう万能な能力に進化させるのは無理でも、発動条件を一時的に緩くすることくらいなら)

この結論に大きな手ごたえを感じる。

(水面に映ったモノを写真として扱う)

再び、脳のリミッターを外す。激しいノイズが聞こえるが全て無視する。
限界を迎えた左目の充血が、白目を赤く染める。

(大丈夫、きっとうまく行く。出来る、出来る、出来る、出来る)

成功するというイメージを強く持って、シャッターを押す。

(出来た?)

画面には『該当なし』の文字ではなく、一枚の写真が写っていた。
水面に反射したぼやけた画像だったが、その時の様子がしっかりと捉えられていた。

(この人が天魔様を…)

そこまで驚きはしなかった。むしろ納得だった。
画面には天魔の腹を抉る洩矢諏訪子の姿が写っていた。

(探そう、諏訪子様を…)

方針が決まったその時だった。

「ん?」

自分に向かい、何かが急接近している事に気付く。まだ効果は続いていたため、飛来物の動きが非常にゆっくりに見えた。

(虫? じゃない、矢だ)

じっくり観察した結果、それが凶器だとわかり、咄嗟に身体を動かそうとしたが、無理に念写をした影響かうまく飛べず、足を滑らせて今度こそ水路に転落した。














大天狗は、巨躯の白狼天狗の男を引き連れて歩いていた。

「悪いわね。強くて死んでも良い奴っていったらアンタしか思い浮かばなくて」
「いえ、本望です」

天魔が収容されている診療所を出た大天狗は、戦力として彼を徴収した。
二人が目指す先にはダムがあった。

「なぜあそこに八坂神奈子がいるとお考えで?」
「天魔ちゃんを刺した容疑者にされれば、発電の試験はとても出来ないわ。だから、天狗社会が本格的に動いていない今、試験を強行するしかないってワケ」

大天狗は神奈子の行動を看破していた。

「こういう時、モミちゃんみたいな目があると、八坂神奈子の先手が打てて便利なんだけどねぇ」
「なぜ」
「あ?」
「なぜ、大天狗様は当時、組合が解体されてから、俺ではなく犬走椛を傍に置こうと考えたのですか?」
「今、それ重要?」
「死ぬ前に知っておきたい。同じ女だったからですか? それともあの眼が便利だから?」

どういった理由から自分よりも彼女を高く評価したのか、これがわからないまま死にたくはなかった。

「ん~~~」

面倒臭そうに頭をガシガシと掻いた。

「アンタとモミちゃんを呼びつけてさ、『今この場で決闘しろ』って言ったら、どっちが勝つと思う?」
「俺です」
「そうね。じゃあ、呼びつけてから『一週間後に決闘しろ』って言ったらどっちが勝つと思う?」
「俺…」
「モミちゃんよ」

断言した。

「脳筋なアンタが一週間素振り続ける間に、あの子は生き残るためにありとあらゆる手を尽くすわ。どんな情報でも利用する。
 試合場の下見なんて常識だし、私に色々と尋ねてくるでしょうね。『使用して良い武器』とか『具体的な開始時間』とか『雨天の場合はどうするのか?』とかね」

自分の命が掛かると、彼女は恥や遠慮を捨てる。
禁止でなければ武器に火薬を仕込んだり、バレなければ試合前に毒を盛るくらい平気でするだろうと大天狗は予測する。

「一週間もあれば、アンタの癖とか過去に負傷した経歴とか、師匠が誰かも徹底的に調べ尽くすわ。素振りなんて無駄な事は絶対にしない」

椛は自分が生き延びる為の必要な条件を見極め、それを揃える為にどう動くことが最善かを、考える力を持っていた。

「私はあの子のそういう所を評価したの、アンタの腕っぷしよりも高くね。納得した?」
「それを聞いて安心しました」
「なにが?」
「単純な力では、俺の方を評価してくださっていたからです」
「当たり前でしょ。でなきゃ、毎回殴り込みに行く時にこうやって指名するワケないでしょうが」

彼は誇らしげに頷く。
二人の視線の先、ようやくダムの壁が見えて来た。







大天狗の屋敷に向かうはずの椛だったが、今は木を背にして身を隠していた。
木を一本挟んだ向こう側の道を、数名の天狗が徒党を組んで歩いていた。

(こいつらも、はたてさんを探しているようだな)

集団の中に一人、見知った者を見つけ、彼らが守矢に組する者達だとすぐわかった。

(まずいな)

彼らが向かう先には、自分の隊の詰所がある。辿り着けば戦闘は避けられない。

(さっきの連中よりは少数だが、手練れが揃ってる)

先ほどは軽傷が数名で済んだが、今度はその程度で終わらないだろう。

(かといって、この状況じゃ、詰所に引き返すこともできない)

彼らの立っている道が詰所までの最短ルートである。
気付かれず先に詰所に戻るのは至難の業だった。

(どうすべきか)

椛には二つの選択肢があった。
一つは、このまま彼らが通り過ぎるのを待ち、去ってから大天狗と合流。
部下たちが犠牲なるが、大天狗にすぐ情報が伝わり、天狗にとって有利な状況を作りやすくなる。

(それは出来ない)

少し前の彼女なら迷わずに選択していたであろうその案を捨て去る。
故に椛は、もう一方の道を選んだ。

(腹を括ろう。あいつ等を死なせるわけにはいかない)

巾着から、手の平に乗る小さな木箱を取り出すと、握った。
木箱の中には戦いを有利に進められる物が入っていた。

(やはり勇気がいるなこれは)

いざ振りかぶろうとした時、手が震えだした。
絶対に投げる。その気持ちは揺るぎないが、恐怖を抑えることが出来ない。

(当然か、これを投げたら、戦いが始まってしまうんだから)

そう考えた時、その言葉は誤りだと思った。

(そうだな、『始まってしまう』という表現はおかしい)

椛は微笑む。手の震えはもう止まっていた。

(だって、私の、犬走椛の戦いは…)

脳裏に、両親の首を晒された日の光景が鮮明に浮かび上がる。

(あの時から、とっくに始まっていたじゃないか)

手の中にあった木箱は、狙いに寸分の狂いもなく、彼らの真ん中に落ちた。

(『光と闇の狭間にこそ、本当の無明がある』とは誰の言葉だったか)

箱の中には、にとりに調合して貰ったマグネシウムと酸化剤が入っており、落下の衝撃で混ざるようになっている。

「なんだ?」

突然降ってきたそれに、一同の目が釘づけになる。
その瞬間、カメラのフラッシュと同じ原理で、閃光が発生した。

「っ!?」

強烈な光が暗闇の中を歩いた彼らの網膜に焼き付き、強烈な痒みを伴いながら視力を奪った。
光と同時に椛は飛び出す。

(全部で五人)

誰も目の前の椛を見ていない事から、完全に視力を失っている事を確信する。

(まずは司令塔を)

集団の中で最も年配の男の顔面を、盾の正面で思い切り殴る。

「ぁぅ゛!!」

鼻骨が折れ、歯が数本散らばったが椛はそれに目もくれず次の獲物の方へ跳ぶ。

「いぎゃ!!」
「うぐぉ!!」

鞘に収まったままの剣を横薙ぎに振り、並んで歩いていた男女をまとめて打った。
視力喪失で受け身もろくに取れない二人は、倒れた先にある木の幹に頭から叩きつけられ、気を失った。

「ーーがッ!」

二人を打ち振るったと同時に剣を捨て、盾を両手で円盤投げの要領で投擲。横回転する鋼の塊が巻物を担ぐ術師らしき男の肩に直撃した。
あたりに巻物をぶちまけながら倒れた彼は、肩が外れた痛みで悶絶し、失神した。

(あと一人!)

四人を一瞬で無力化させることに成功した。素早く剣を拾い、残り一人に視線を移す。

(いない!?)

間違いなく五人いた。しかしその姿がどこにもなかった。

「キェヤァ!!」

真上から奇声。素早く後方に跳ぶと、今いた場所に剣が深く突き立てられた。降って来た男と目が合う。

「はあっ!!」

椛は鞘から剣を抜きながら斬りつける。

「シッ!」

椛渾身の居合を、男は剣から手を離し素早く転がる事で回避した。
転がる男に追撃を加えようとするが、男は器用にも、転がった姿勢からクナイを投擲。クナイは椛の剣の根本に当たり、地面に落ちた。
地面に落ちたクナイには、妙な札が貼られており、字が赤く光る。

「なんだ?」

椛は自分の剣に違和感を覚えた。
大した威力ではなかったにも関わらず、剣は柄の所を起点としてボロボロと崩れていった。

「腐食の術だ。しかし、これほど早く朽ちるとは、白狼天狗の武器は安物ばかりだな」

男は立ち上がり、戻った視力で椛を見据える。

(もう回復したか)

椛は後方に跳び、男と距離を取った。二人の間合いの丁度中間には、先ほど男が突き立てた剣が直立していた。

「貴方が居たから、すぐに守矢派の連中だとわかりましたよ」

気安い口調で椛は話しかける。

「もう退院しても平気なんですか?」

男はかつて『呪われた笛』の噂を信じ、河童の村長から笛のありかを聞き出して神奈子に献上しようと画策した天狗幹部の倅だった。
村長を救出に来た椛と鉢合わせし、一度対峙している。

「お父上はお元気ですか?」
「あの一件ですっかり老け込み隠居し、俺が家督を継いだ」
「それはそれは、おめでとうございます」

抑揚のない声で祝福してやる。

「貴様への恨みを忘れた日はない」
「自業自得でしょう。それに恨みならこっちにもあります。大勢の前で上着を剥ぎ取られるわ、罵倒されるわ、頭に酒ぶっかけられるわ、名前を埖(ゴミ)呼ばわりされるわ」

だからこそ、過去に屋敷で対峙した際は、徹底的に痛めつけた。
医者に担ぎ込まれた彼は酷い有様だった。

「あの日まで俺は負けたことなどなかった」
「そりゃあ、小奇麗な道場で師範代から接待を受けていれば当然です」

実戦・実力不足であることを遠まわしに指摘する。

「違う。誰もが俺を神童と呼んだ。難関と認定された妖術をいくつも習得した。剣術だっていくつもの流派を免許皆伝し、師範代二人掛かりでも負けなかった。和歌や文学でも…」
「…」

彼が話の途中、椛は手元に残った柄を彼に投げつける。彼はそれに動じることなく手で払い落とした。

「これだ! この、こんな姑息極まりない手で、貴様は俺の歴史に泥を塗った!! あの敗北から俺を見る周りの目が変わった!」

男は静かに構える。その身のこなしはとても堂に入っている。

「まともに戦えば俺の方が強い」
「良かったですね、今がその『まとも』な状況ですよ」

実際に彼は強い。幼い頃から英才教育を受けている彼の優秀さは文ですら買っている。決して侮って良い相手ではない。

「その命で償って貰うぞ」
「自業自得だと思わなかったんですか? 天狗でありながら守矢に魂を売った事による罰だと」

会話をしながら椛は頭を回転させる。生き残るための最善手を探る。

「二柱は、天魔と大天狗を遥かに凌ぐ力と、知識、決断力を持っている。勝ち馬に乗っただけの事」
「はたてさんが天魔様を刺したと、本気で信じているのですか?」
「そんな事はどうでも良い。俺は任務を達成し、八坂神奈子からの信頼を得られれば誰がどうなろうと知らん」
「知れば知るほどどうしようも無いですね貴方は。こんな事なら“片方”残しておくんじゃなかった」
「貴様ぁ」

殺気がありありと伝わって来て、脅しではなく、本当に自分を亡き者にしようとしているのだとわかった。

(上手く挑発できたが、やはり丸腰はマズイな)

素手で彼を倒すのは難しいと判断する。

(あれが一番近いか)

二人の間にある、地面に突き立てたままになっている剣を見る。

「良い刀ですね? 貰っていいですか?」
「安くはないぞ俺の刀は」

二人は同時に動く。
椛は男の剣を拾うために前に跳ぶ。
男も、椛と同じ行動を取っていた。妖術を飛ばし椛を迎撃するという手段もあったが、プライドがそれを許さなかった。
椛と同じ土俵で戦い、正々堂々と斬り伏せることで、汚名が雪ごうとした。
鴉天狗だけあって男の方が速く、彼の手が、僅差で先に届こうとしている。

「っ!?」

しかし男の手は空を切った。柄に触れようとした瞬間、椛の下駄が地面に刺さる剣の根本を蹴り払っていた。
蹴られた剣は空中で風車のように回転。椛の手元に吸い寄せられる。
逆手で柄を掴んだ椛は、その切っ先を男の首筋に突き付けた。
男は体を大きくのけ反らせ、息を呑む。

「そんな動き、どこの流派にもなかった」
「当たり前ですよ。ただ剣を蹴って掴んだだけなんですから」

身体を横向きに一回転。独楽のように回り、勢いのついた峰で肩を殴打した。

「おぐぁ!!」

白目を剥く男。骨が何本も折れる感触が刀越しに伝わった。

「この程度で曲がるとは、お坊ちゃまの剣は安物以下だな」

歪んでしまった剣を一瞥してから放り捨てた。

(これからどうすべきか)

守矢派と自分の哨戒部隊の戦闘を未然に防いだ椛は、千里先を見通す眼で周囲を見回した。

椛の眼は様々な人物を捉えた。
ダムで今まさに発電の試験を行おうとする神奈子。
巨躯の白狼天狗の男を引き連れて、神奈子がいるダムへ向かう大天狗。
川辺を歩く諏訪子。
はたてを探す文。
どういうわけか、はたてはどれだけ探しても視界に入らない。

(はたてさんの姿が見えない以上、大天狗様の元へ向かうか)

当初の予定通り、大天狗を目指す。
幸いにも、大天狗に向かう道の途中に、文の姿があった。







(魚が、空飛んでる…)

ぼんやりと開いたに目に、魚が映る。

(あ、違う。私、流されてるんだ)

矢を避けようとした弾みで水路に転落した事を思い出すはたて。

(だんだん苦しくなってきた)

水面はわずか上にあり、手を伸ばして何かに捕まれば浮上できそうだった。

(いっか、もう)

しかし手を伸ばす気力が湧いてこない。

―― いいのか? 死ぬぞ?

頭の中で声がする。

(放っておいて、もう疲れた)
―― 天魔様の仇を討ちたくないのか?
(天魔様の仇?)
―― 洩矢諏訪子に落とし前つけさせてから死んでも、遅くないんじゃないか?
(そうだね)

水面に映る自分が手を差し出してくる。

―― じゃあ諏訪子をぶっ殺しに行くぞ?
(貴女は誰?)
―― 知りたいならこの手を掴め。
(わかった)

はたては頷き、その手を掴む。

「ぶはっ」

流木を掴み水面に顔を出したはたては、体勢を立て直して浮上する。

「ちょっと飲んだ…」

水路はすでに終わっており、そこは浅く幅の広い河原だった。
砂利が敷き詰められた岸に、おぼつかない足取りで上がる。

「姫海棠はたてだな?」

突然、その足に鎖が巻き付いた。

「一緒に来てもらうぞ」

二人の男と一人の女がはたての前に姿を現した。
この一団こそが、先ほど、はたてを矢で狙った連中だった。
足の鎖は、男の手から伸びており、捕縛を目的としたものなのか、鎖の強度を増す効果がある護符がいくつも結ばれていた。

「素直に従えば危害は加え……何をしておる貴様?」
(お、水没してなかった。流石はメイドインKAPPA)

彼らの事など全く意に介さず、カメラの操作を始めた。

「聞いておるのか娘?」
(この鎖邪魔だな、流れてる時に絡まったのかな?)

レンズを足元に向ける。

(ピントを調整して)

画面の映像が一瞬ボヤけた後、鎖だけが鮮明に映る。
シャッター音の後、足に絡みついた鎖の部分だけが消滅した。

「なに?」

鎖の持ち主は眉を吊り上げた。
この術を破る方法はいくらでもあるが、今のような方法で外されたのは初めてだった。

「貴様! 何をした!!」

ただの小娘から、得体の知れない恐怖を感じてしまった事を否定するためにも、怒鳴った。

「え? あなた達、誰?」

この時、ようやくはたては三人組の存在に気づいた。
片方が赤く染まった、何を見て、何を考えているのかわからない虚ろな目を向けられた三人は、本能的に握りこぶしを作った。

「コイツの母は優れた術者だった。何をしてくるかわからん。用心せよ」

年長者の天狗がそう呟くと、他の二人は表情を引き締める。
はたては彼に見覚えがあった。

「お爺ちゃん、この前の?」

かつて大天狗が襲撃される場に居合わせた際、大天狗を矢で射た老天狗だった。

「またこうして会いまみえるとはな」
「貴方のせいで、椛の戸籍表、大天狗様の手に渡っちゃったんですよ?」
「なんの話だ?」
「もう良いです。私、急いでるんで」

三人に背を向けて、平然と歩き出す。

「どこへ行く?」

老人の部下の男が手のひらをはたてに向ける。
手のひらの彫られた刺青から鎖が出現し、はたての腕に巻き付く。

「なんなんですか一体? 暇じゃないんですよこっちは?」
「酸欠で頭がいかれたか? 自分の立場が良くわかっていないようだな?」
「我らと共に守矢神社に来い。悪いようにはせん」

守矢神社という言葉に、はたての目つきが変わる。

「お爺ちゃんひょっとして、守矢の手先?」
「手先というのはやや語弊ではあるが、否定すまい」
「そっか」

その言葉の後、はたての頭の中でスイッチが入る音がした。
静かだった心臓の鼓動が早まり、目の裏側の血管がドクドクと脈打つ。
先ほどの念写の後遺症だった頭痛は消え、脳細胞一つ一つから爪先に至るまで、血と酸素が十分に行き渡る感覚に包まれる。
瞳孔が開き切り、暗闇で朧げだった視界は、まるで昼間のように鮮明だった。

(なんだろう、脳味噌が二つになったみたい)

この時、はたては自分の視点とは別に、自分たちがいる空間を真上から見えている感覚に陥った。

―― よう、また会ったな。

頭上から声が降って来た。

(あ、さっきの)
―― 気分はどうだ?
(すごく良い。頭の中が、まるで、雲一つ無い秋空みたいに、どこまでも広くてスッキリしてる)
―― そりゃ良かった。で、これからどうする?
(この人たちやっつけようと思う、守矢の手下みたいだから)

はたては、腕の鎖を掴み返すと、腕を思い切り引いた。

「ぬぅ!?」

見た目からは想像も出来ない膂力に引かれ、姿勢を崩す。
つんのめった先にあったのは、はたての膝だった。十数メートルあった距離を、はたては瞬く間にゼロにしていた。

「よくもっ!」

今まで男二人の背後に控えていた鴉天狗の女性が動く。

(私と同じくらいの歳かな?)
―― 昔、通ってた寺子屋に居なかったか? いつも前の席の右側に座ってた。目尻に黒子があったろう?
(そう言えば居たね)
―― あんまり頭が良くなかったから、武道の道を選んだんだろうな。

少女は細く長い柄の槍を手に迫っていた。

(なんていう種類の槍だっけ?)
―― 管槍だ、椛の詰所にも置いてあったろ?
(連撃を目的とした槍だよね?)
―― これで相手の素性と獲物は把握したな? 必要以上にビビるなよ?
(うん)
―― じゃあ、どう対処する?
(柄を掴んで…)
―― それじゃあ指が飛ぶ。消しちまえ。
(どうやって消すの?)
―― さっき本能的にやってたろ?
(あ、そっか)

はたてはカメラを取り出し、シャッターボタンを押した。

「っ!?」

太ももを刺しぬくつもりで放たれた突き。しかし繰り出したはずの槍の刃は、綺麗さっぱり無くなった。
カメラのディスプレイには、たった今消失した槍の先端が写っている。

―― おい、なんで先っぽしか消さなかった?
(手まで一緒に消えちゃったら可愛そうだと思って)
―― おかげで見ろ。棒術みたいにぶん回してきたぞ。
(平気)

振り下ろされた棒の先をはたては事も無げに掴む。

(ここで『絶対に離さないぞ』って顔で相手を睨んで)
―― するとどうなる?
(この子は思いっきり棒を引っ張ろうとするはず)

その読み通り、彼女は棒を目いっぱい自分の方へ引き込んだ。

―― で、手を離すワケか。

はたてが棒をあっさり離したことで、綱引きになる事を想定していた少女は踏鞴(タタラ)を踏む。

(よし隙だらけ)

はたては手をピストルの形にする。

(女の子同士なんだから、やっぱり弾幕ごっこだよね)

真球に限りなく近い丸みを持った天狗礫が、手首と肩に撃ち込まれた。
至近距離で食らった衝撃と痛みで、彼女は意識を飛ばした。

(あとはあのお爺ちゃんだね)
―― その前に動け。右に三十五度。

言われた通りに身体を傾ける。耳元を矢が通過した。

(ありがとう)

普段の自分なら見落としていたり、忘れている情報を助言してくれる声に礼を言う。

「認めんぞ! いくら血筋とはいえ、お前のような餓鬼が、儂らをこうも容易く!」

すでに新しい矢を番え終えていた。

―― 元気なジジイだな。
(血圧心配になるね)
―― もう隠居させてやろう。

矢が放たれることはなかった。
弦から手を離すより先に、はたてが弓から矢を外し、老人の肩に突き刺した。
相手を麻痺させる毒でも塗ってあったのか、彼は体を丸めると口から泡を吐き、痙攣し始めた。

(早く諏訪子様を探さないと)
―― いや、その必要はなさそうだ。

「酷いじゃないかお姫ちゃん。年寄りは労われって、天魔様に教わらなかったかい?」

背後から、最も会いたくて、会いたくない者の声が聞こえた。









「文さん!!」

椛は、はたてを探す文の前に着地した。

「良いところに。貴女の眼ではたてを探せませんか?」
「先ほど試したのですが駄目でした」

その時、はたては川の中に居たため、見つける事が出来なかった。

「文さんは今の状況をどれだけ把握していますか?」
「すみません、これっぽちも。一体何が起こっているんですか?」
「ついて来てください。はたてさんも気がかりですが、ダムで起きている事の方が火急です。状況は道中で話ます」
「わかりました。案内してください」

椛と文はダムに向かい、飛んだ。







ダムの前。

「うおおおお! でっけ! なんじゃコイツ!?」

とぐろを巻けば家屋くらいはありそうな巨大な白い蛇が、ダムの前に居座っていた。
その丸太のような尾の先をしならせて、大天狗目がけて振り下ろしきた。

「させん」

白狼天狗の男が、両手を交差して受け止める。
蛇は尾を引っ込めると顔を前に突き出して、舌をチロチロと出した。

「キモっ。私って蛇苦手なのよ。頼める?」
「お任せを」

彼は愛刀を手に大上段で構える。

「ちょうど蛇革のバッグが欲しかったのよ」
「良い素材が手に入ったら、知り合いの職人に作らせましょう」
「楽しみにしてるわ」

彼に蛇を任せ、軽く跳躍、ダムの壁に乗った。








ダムの水面。その中央に神奈子は居た。歩くたび、足跡の代わりに小さな波紋が生まれては消える。

「上手く行き過ぎて怖いくらいね」

神奈子の足元には、魚の死体が浮き上がっていた。
水温が急激に上がった事が原因である。

「うわっ、熱っ」
「 ? 」

神奈子が振り向くと、大天狗が水上で屈み、水面に手を入れていた。
神奈子は神徳、大天狗は妖力で、それぞれ水面に立っていた。

「ここに温泉旅館でも建てるの?」
「建つのはもっと良い施設さ」
「実験、成功したんだ?」
「祝福しなさい。今日が幻想郷にとって歴史的な日になったわ」

常温核融合の実験により、水面から薄い湯気が立ち込める中、どちらからともなく歩み寄る。

「初めてに顔を合わせた時、まさかこうなるとは思いもしなかったわ」
「そう? 私は遅かれ早かれこうなると思っていたけれど?」

すぐ目の前までやって来て止まり、一瞬の間の後。

「ふっ!!」
「オッラぁ!!」

互いの拳が互いの頬にめり込む。

「はっ!」
「だっりゃ!!」

同時に放たれる二発目の拳。
軍配が上がったのは神奈子だった。

「固ってぇ」

力負けした大天狗はダムの壁に叩きつけられる。
水中に沈もうとする大天狗の髪を神奈子は掴み、引き上げて、壁にもう一度叩きつける。

「あーやっぱ神様って強いわね」

口の端から血を滴らせながら呟く。

「その通り、天狗風情が神に勝てるわけがない」
「天狗風情とは言ってくれるじゃない」
「私は天狗ほど悲しい妖怪はいないと思っているわ」

その眼は憐れみに富んでいた。

「力は鬼には到底及ばず、知恵は人間よりも遥かに浅く、常に何かに束縛されて生きる事を強いられる。自由気ままに生きている低級妖怪の方がよっぽど幸せに見えるわ」

全てにおいて中途半端だと神奈子は常々感じていた。

「天狗は私に導かれて初めて五体が満たされる」

神奈子が手を空にかざすと、数本の御柱が浮かび、その先は全て大天狗に向いている。

「仲間を思うなら、お前さんはここで消えるべきよ」
「そうかもね。ただし、アンタも道連れよ」

大天狗は懐から筒を取り出す。

「なんの真似?」
「言わなかった? 『道連れ』にするって」

筒の隙間から漏れるドス黒い瘴気に、勝ち誇っていた神奈子の表情が崩れる。
一度呑み込まれた事がある神奈子は、大天狗が持っている物の正体に気づいた。

「その方法、犬走椛の入れ知恵かしら?」
「ん? なんでモミちゃんが出てくるの?」
「あの時の再現なら無駄よ。ダムの怨霊はあの時に全て浄化させた」
「馬鹿ねー、この山の闇がその程度なわけないじゃん。どれだけの命を、ゴミのように捨てて来たと思ってるの?」

手に力を加えると筒は簡単に砕け、中の戸籍表が外気に晒された。

「この山の山道のあっちこっちに、石が積まれてるの知ってる?」

水面が二人を中心に徐々に黒く染まる。

「あれね、全部、白狼天狗の墓石替わりなの。私や、当時の上層部に捨石にされて死んだ無縁仏のね」

あれだけ熱かった水が瞬く間に冷水へと変わっていく。

「私を呪い殺したい魂が、どれだけこの山に溢れ、漂ってるか教えてあげる」
「愚かな事をっ」

本能的に危機を感じ、その場から離れようとするが、大天狗の手がそれを許さない。

「離しなさい!!」
「アンタも付き合いなさいよ。そっちも、ここじゃない別の土地で、私と同じくらいエゲつない事やってきたんでしょ? それを清算するいい機会だと思いなさい」

コールタールのような水面からいくつもの黒い腕が生えて、二人の足を掴む。黒い腕の中には無数の髑髏(シャレコウベ)が漂い、何かを叫んでいる。

「ふざけるな! そんなに断罪されたければ勝手に首でも吊れ!」
「それじゃあ意味がないわ。ただ死ぬだけじゃ、私が死なせてしまった者たちは喜ばないもの」
「弱肉強食こそがこの世の理(ことわり)。勝つ者が正義! 利用されて死ぬ者こそが悪よ!」
「やっぱり神様の言う事は違うわね。まさにその通り。でもね、命ってのは一つ一つに物語があるの。それを自分の都合だけで摘み取るのは、なんか違うと思うのよ」

二人はすでに腰まで浸かっている。

「ぐっ」
「全然力入んないわコレ」

胸まで浸かる頃には、呼吸すらままならなくなる。
そしてとうとう、無数の黒い腕達は二人の頭を掴むと、水中に押し込んだ。















「……くそっ、大女めっ、余計なあがきを」

這いずるように水中から脱出する神奈子。
怨嗟の渦を振りほどき、自力で浮上した。大天狗は未だに水底である。

(脱出に神徳をかなり消費した、早く、神社に戻らねば)

水面に手をかざすと、水中から御柱が一本浮かび上がり、八坂神奈子の前で垂直に立った。
他とは異る光沢を放つこの御柱こそが、発電の核となる存在だった。

(良かった、どこも破損してはいない)

パラジウム合金と同じ性質を持たせた御柱はこの一本だけ。
今まで溜め込んだ神徳を使い、ようやく作り上げた。
自分の背とさほど変わらぬその棒を、まるで我が子のように抱きかかえる。

(発電所が出来れば、今までとは比べものにならない信仰を得られる。そうなればこんな棒切れいくらでも量産してやる)

故にこの一本だけは絶対に失うわけにはいかなかった。

(しかし、大天狗が消えたのは僥倖だ。これで天狗社会はますます混乱して…)

ザンという音と共に、水面が大きく揺れた。

「どーもーこんばんは。新聞取ってます?」
「きっ…」

文が、彼女の抱える御柱の上に乗っていた。

「ひょっとしたら、今貴女を討ち取れば、私が天狗社会のボスになれたりします?」
「貴様ぁぁぁ!!」

空に展開された御柱が文目がけて射出される。

「おっと」

柱は壁に次々突き刺さり、大きな穴を開けた。

「お前と遊んでいる暇はない」

その穴から神奈子は飛び去る。

「まだそれだけの余力が…」

歯噛みし、文は神奈子を追う。
両者は、遊びでは済まない威力の、風と礫と柱の応酬を繰り広げながらダムから離れていった。









文と神奈子が去った後。

「ああ、くそ。おっも…」

大天狗を抱えた椛が水面から顔を出す。
そのままダムの水門まで泳ぎ、壁に設置された階段の手すりを握る。

「離してください」

水面から伸びる黒い腕が、椛の足を掴む。

「お断りします」

頭に直接響く『置いていけ』という声、それを一蹴し、手すりを跨ぎ、階段に乗る。
登ろうとする椛の体に、さらに腕が絡みつく。

「無駄です。私には、貴方達の念も声も効きません。私も一歩間違えばそちら側の者なんですから」

椛はこの腕に触れても、なんともなかった。

「『ならば何故、助ける』ですか? 今、この方に死なれたら私も、私の部下たちも困る。だから生きて貰わないと」

椛が一段上がる毎に、腕は剥がれ落ちていく。

「ごめんなさい。私には、貴方達が安らかに眠るのを祈ることしかできない」
「十分よそれで」

鍵山雛が十段ほど上の段に佇んでいた。

「秋はみんなノスタルジックな気持ちになるせいか、この時期が私は一番忙しいの」
「貴女ですか? 大天狗様にこの策を授けたのは?」
「その子が望んだ事だから」
「立派な自殺ほう助ですよ?」
「不味かったと思ってるわ。だからこうしてアフターケアに来たんじゃない」

降りて来た雛とすれ違う。

「大丈夫。アナタの犠牲があったから、今のこの山があり、大勢の天狗が豊かに暮らせている社会がある。それを、ちゃんとわかってるわ」

雛のその言葉は誰に向かって言ったものなのかはわからない。
階段を登り終えて振り返ると、透明な水面に明るく輝く月が浮かんでいた。
雛の姿も、怨みの塊もどこにもなかった。







大天狗を背負った椛はダムの壁の上を歩く。

「あのまま放っておいてくれて良かったのに」

大天狗がポツリと漏らす。碌に動けないため、全体重を椛に委ねている。

「みんな、死にたくないと願いながら死んでいったんです。死にたいから死のうなんて、ムシが良い話だと思わないんですか?」
「でもさ…」
「死ぬんなら、ちゃんと後釜を用意して、全部引き継がせて、ご自分がいなくても問題なく山が回るようにしてからお願いします」
「……わかった」

力なく頷いた。

「それにしても、優しい者たちばかりで良かったですね。『せいぜい後悔しながら苦しんで惨めな最期を迎えろ』だそうです」
「他に何か言ってた?」
「『その辺の男で妥協して、さっさと結婚しろ』と」
「うっそだー」

見下ろすと、息絶えた巨大なヘビの上に腰かける白狼天狗の男の姿があった。
彼の元に椛は降りる。

「蛇の頭蓋骨砕くって、どんだけ馬鹿力なんですか? 私には到底真似できませんね」
「そうだろう、そうだろう」

嬉しそうに何度も頷いた。

「大天狗様の容体は?」
「古い知り合いにちょっとボロクソに言われただけです。精神が衰弱していますが、放っておけば勝手に元気になりますよ」
「良かった」

椛から大天狗を受け取り、彼が背負う。

「一応、診療所へ連れて行ってあげてください」
「お前は?」
「まだやる事が残ってますので」
「ならば持っていけ、大天狗様と一緒にこれは担げん」

彼が特注で拵えた野太刀を受け取る。

「死ぬなよ」
「それはお約束できません」

椛は剣を肩に担ぐと、文と神奈子の後を追いかけた。









「あーあー、禊損なったわ」

男の背中で大天狗がごちる。

「もうアンタで良いわ。私に引導渡してくんない? アンタも組合の奴なんだし。恨むにゃ十分でしょ?」
「俺がなぜ組合に入ったかご存じですか?」
「出世と正義感からでしょ?」
「俺には妹がおりました」
「あらそうなの?」
「十五歳で、とある高官に無礼討ちされて死にましたが」
「…」

初耳だった。

「愛人の誘いを断ったせいか、打ち水の飛沫がたまたま足に掛かったせいか、理由はわかりません。とにかく、とても下らない理由で命を落としました。
 そんな時、組合の存在を知りました。汚職や不正を働く者を秘密裏に処理する集団。そこに加われば、いつか妹の敵を討てる日が巡ってくると思い、志願しました」

簡単に仲間を斬り殺すような奴だ、いつか大天狗の抹殺対象になると思った。

「所属して三年目の冬でした。直接ではないにせよ。間接的にその者の討伐に関わる事が出来ました」
「良かったわね」
「ほんの極少数かもしれませんが、貴女に救われ、感謝している者がいる事も、どうか知っておいてください」

その言葉に、大天狗は少しだけ救われた気がした。

「しかし、アンタあれね。私に気に入られてたモミちゃんに嫉妬したりと、ひょっとして、私に気があるの?」
「それはないです」

きっぱり言った。

「マジ? これっぽちも?」
「天狗として尊敬はしていますが」
「ちょっとくらい女として意識したりしない?」
「ないですね」
「…」
「…」
「ていっ」
「オゴォ!!?」

















河原で、はたては諏訪子と対峙していた。

「こうして向かい合うと、ダム建設で揉めてた時を思い出すね。いや、これはその時の続きみたいなモンか」

諏訪子がゆったりとした足取りで近づいてくる。

「今、お姫ちゃんが何を考えているか当ててやろうか?」

はたてに向かう途中、気絶した鴉天狗の少女がいたが、諏訪子は気にせずその背中を踏んだ。

「『突然、明かされた出生の秘密。そして師であり血縁者である天魔との死別。謎の追っ手。嗚呼、私はなんて悲劇のヒロインなのかしら』ってトコかな?」
「…」

この時、はたてには諏訪子の言葉が届ておらず。

「今の自分は怒りと混乱で覚醒した化物とでも思ってるのかい? 思い上がっちゃいけない」

ただその視線が、諏訪子の右腕に釘づけになっていた。

―― なぁ、あいつの腕。
(うん、気づいてる)
―― 天魔様の置き土産だな。有難く使わせてもらおう。
(そうだね。でなきゃ、このヒトに勝てない)

はたては一直線に飛ぶ。

「本当の化物がなんなのか、教えてあげるよ」

はたてを迎撃する術を発動すべく、両手を合わせる。

「 ? 」

重なる手の平、しかし、重なったのはほんの一瞬で、すぐに離れた。右腕に力が突然入らなくなった。

「まさか天魔の…!?」

天魔の残した痣のせいだと気付いた時はもう手遅れで、はたてはすぐ目の前にいた。

「しまっ…!?」

はたての貫手が諏訪子の左目を抉る。
指を抜くことなく、そのまま人差し指と中指を眼孔に引っ掻けて地面に倒し、指を抜いてから、もう一方の目玉も潰す。

―― 安心するなよ! すぐに再生するぞ!
(わかってる!)

抉れた目にもう一度手刀を振り下ろすが、諏訪子は身体を捻じって転がり、はたてを振りほどく。

―― 離れるな! すぐに逆転されるぞ!

盲目と負傷による影響か、立ち上がった諏訪子の足はふらついており、簡単に追いつくことができた。
喉を掴むと、すぐ近くの岩で出来た崖の壁に、背中から叩きつける。
諏訪子は肺に溜めていた空気を全て吐き出す。

(このまま一気に…)
―― 待て! こいつの身体の感触がおかしい! 何かしてるぞ!! 手を離せ!!

その警鐘の後、諏訪子の身体が徐々に背後の崖の中に沈んでいく。まるで水に潜るかのように、何の抵抗もなくその身体は壁の中に消えた。

(逃がさない)

壁にカメラを向け、シャッターを押す。
電子音の後、一辺が二メートルの立方体の空洞が出来る。その空間の真ん中には諏訪子の姿があった。
両目から血を流す彼女はそこで体を休めるつもりだったのだろう。
荒い呼吸を繰り返しながら、カエルのように四肢を地面につけていた。

―― また潜られたら面倒だ。

逃げおおせたと思っている諏訪子は、はたてに襟を握られた瞬間、ビクリと震えた。
怯えているのだとわかった。

―― おい馬鹿! 今『可愛そう』って思っただろ! こいつが天魔様に何した!? 椛に何した!? 私に何した!?
(そうだった)

湧き上がりそうになる情を払い捨て、諏訪子の身体を空中に放って殴る、そして地面に落ちる前に蹴り上げて浮かせる。それを繰り返す。
宙を舞った諏訪子を地面に着けないよう気を付けながら甚振るその様子は、まるで蹴鞠のようであった。

(何やられてるのか全然わかんねえ)

様々な角度から打ちのめされ、薄れて行く意識の中でそんな事を考える。
たった十数秒の時間が、何時間にも永く感じられた。
身体の右側全体に強い衝撃を感じた事で、ようやく地面に落ちたのだと理解する。

「…」

蹲り、虫の息である諏訪子に近づこうとした時。

―― 今なんか音しなかったか?
(っ!?)

はたては咄嗟に身を引く、目の前を弾幕が通過した。弾幕は青く、通った場所に青い軌跡を残した。

(綺麗)

見惚れていると、その弾幕を放った者は、はたてと諏訪子の間に自分の身を挟んだ。

「はたてさん……ですよね?」

割り込んできたのは守矢神社の風祝、東風谷早苗。
はたての友達である。


























椛はようやく文に追いつく。

「八坂神奈子は?」
「すみません。見失ってしまいました」
「そうですか」
「大天狗様は?」
「無事です。天魔様も一命を取留めたそうです」

大天狗から聞いた情報を文に伝えながら、あたりを見回す。

「あっ、いました。無様に這いながら、分社を探しています」

千里先を見通す眼が、その姿を捉える。

「良かった、では早速」
「いえ。文さんには、他に向かって欲しい場所ができました」
「それは一体?」

神奈子を追うことよりも優先すべき事などあるのかと小首を傾げる。

「ここから西に下った沢で、はたてさんが、洩矢諏訪子と早苗さんと居ます。このままでははたてさん、あの二人を手に掛けてしまいます」

神奈子を探す際に見えた。

「なんですって!?」
「彼女を止めてあげてください、手遅れになる前に説得を」
「説得なら椛さんが行くべきでは? はたては椛さんを尊敬し、同時に憧れています。私よりも椛さんの言葉の方が届く気が」
「私は彼女の『憧れ』にはなれても、『手本』にはなれません。彼女に必要なのは頼れる先輩です」
「…」

先輩という言葉に文は言葉を詰まらせる。

「なってあげて下さい。かつて私が慕ったあの方のように。はたてさんにとっての良き先輩に」
「なれますかね?」
「信じていますよ」

ここでふとある事に気づく文。

「椛さん、ひょっとしてはたての血縁の事、ご存じなのですか?」

はたての異常な成長の早さに、特に驚く素振りを見せない椛。
何か疑問に思っても、おかしくないはずである。

「彼女の父である姫海棠氏には、生前、お世話になりました。その奥方はとても高貴な方だったと伺っています」
「じゃあ最初から?」

優秀な母親に、天魔から直々の脱引き篭り依頼。なんとなく察しがついていた。

「彼女はお父上に良く似てらっしゃる。顔立ちだけでなく、白狼天狗に優しい所も。将来、良き天狗となるでしょう」
「私もそう思います」
「しっかりと、支えてあげてくださいね」

時間が迫っていることもあり、椛は素早く身を翻し、神奈子がいるであろう方向へ飛んだ。

「何ですかその言い方は? まるで私に全部託すみたいじゃないですか?」

椛の言葉に不吉なものを感じつつ、教わった場所へ急いだ。















諏訪子が自分の部屋から退室した後、異変の時に似た空気が山を覆ってる事に気付いた早苗。
神社から神奈子まで消えている事に気付き、妙な胸騒ぎがして、妖怪退治用の道具を一式持って二柱を探しに出かけた。
出発してすぐ、彼女の能力の恩恵なのか、諏訪子を見つけられた。
ただし、それはあまりにも、悲惨な姿だった。

「それ以上、諏訪子様に近づかないでください!」
「邪魔だからどっか行って」

はたてと早苗。行事や取材等を通し、お互いを友人と認め合っている二人だったが、この時は勝手が違った。
はたては手を前に伸ばすと、見えない壁のようなものに当たり、弾かれた。

「対妖怪用の結界です。簡単には破れません」

構わず拳を撃ち込む。妖怪退治用に特化しているせいか、殴った以上の反動がはたての腕に返って来る。

―― 殴った時に僅かだが揺れてるな。空間を遮断するタイプじゃなくて、頑丈な壁のタイプだ。頑張れば壊せそうだ。
(やってみる)

怯むことなくさらに拳を打ち込む。手の皮がめくれ、腕や肩から血が噴き出す。それでももう一度振りかぶる。
三度目の殴打で、はたての右腕は使い物にならなくなった。

―― 次は左手だ。気張ってくぞ。
(うん)

今度は左手を握りしめる。左手は四発目まで持ちこたえた。

「もう止めてください! 諏訪子様との間に何があったんですかっ!?」

狂気としか思えない行動を止めさせようと早苗は声を張り上げる。

―― そういえば、声は届くんだな。

しかし皮肉にもその言葉は、はたてに攻めの糸口を与える結果になった。

―― じゃあアレが出来るな。
(やった事ないよ?)
―― やり方なら大天狗様から教わってるだろ? ダメモトでやってみな?

はたては大きく息を吸う。
大天狗が目の前でやった時の事を思い出し、その動きをトレースする。

「   アァッ゛   !!! 」

かつて大天狗が、襲って来た賊を一掃するために使った、自らの声を音響兵器に変える妖術。
見よう見まねの付け焼刃のため、相手を殺傷する威力には遠く及ばないが、威圧・委縮させるには十分だった。

「ヒッ!?」

雷鳴のような音に、早苗は目を固く閉じて縮こまる。
意識が数秒間空白になったことで、維持していた結界が解けた。

「あっ、そんな…」

自分たちを守っていたものが無くなり、早苗は全身の血が徐々に冷たくなっていくのを感じた。

「お願いだからどっか行って、何もしないから」
―― 温いこと言ってんな! コイツも守矢の手先だろうが! 今は無関係で清楚気取ってても、いずれ神奈子と諏訪子の思想に染まる。
「早苗さんはそういう人じゃないと思う」
―― さっさと殺せよ! ここで見逃したら確実に復讐しに来るぞ! 皆殺しでしか怨嗟を断ち切れない事くらい分かれ!
「でも…」
―― ボヤボヤするな! いつコイツ等の援軍が来るかわかんねぞ!!

「はたてさん?」

独り言を繰り返すはたてを前に、早苗は少しだけ考える力を取り戻した。

「さ、…なえ」
「諏訪子様!?」

背後で息絶え絶えだった諏訪子が声を絞り出した。両目はまだ塞がったままである。

「良かった、意識が」
「さ、苗。にげ、て」
「嫌です!」
「わたし、は、この子に、ひどい事をした、こうなるのは、とうぜんの、結果…なんだ」
「そうだとしても私はっ!」

諏訪子を抱え、飛ぼうとする。
それが自殺行為だとわかっていたが、そうせずにはいられなかった。

「どこ行くの?」

はたての片足が無防備な背中に向けられたその時、突風が三人の間を吹き抜けた。

「…今の風は?」

恐る恐る早苗は目を開けると、足を下ろして横を向くはたてが最初に見えた。

「探しましたよはたて」

はたての視線の先には、文が立っていた。

「急にいなくなるから心配しましたよ」
「うん。ごめんね………ってアレ? 文?」

文はそのまま歩いて来ると、早苗達の前に立った。

「今日はこの辺で勘弁してあげませんか?」
「どいて文」
「どきません」

はたてに睨まれ、全身に刺すような痛みを感じつつも、文は飄々とした態度を維持する。

「お手柄ですはたて。ここからは私が預かります。貴女はすぐに治療を受けなさい。早くしないと腕が壊死しますよ」
「お願い、最後までやらせて」
「駄目です。後は私に任せなさい」

互いの間の空気が、不穏なものに変わっていくのがわかる。

「もう彼女達は戦えません。終わったんです」
「殺しに来ておいて、自分たちが戦えなくなったから見逃せって? そんな理屈通ると思ってるの? 椛なら絶対に見逃さない」
「確かに椛さんは容赦しない方ですが。無用な殺生は好みません。知っているでしょう?」
―― どけよ。コイツらに落とし前つけさせる。
「そんな汚い言葉を使ってはいけません。天魔様に叱られますよ?」
―― あの人は多分もういない。ソイツが殺した。
「生きてます。一命を取留めたと大天狗様が仰ってました」
―― 嘘。
「嘘だと思うなら、診療所へ行ってみなさい」
(生きててくれたんだ)

その場に座り込むはたて。

「本当によく頑張りましたねはたて。だからそんな目はやめなさい」

脱力はしているものの、守矢に対する殺意は消えていない事を文は感じ取っていた。

「どうして良いか、わかんないよ。急にお前は天魔の血筋の者だって言われて、母さんの事で謝られたと思ったら、天魔様が重傷を負ってて、その犯人が目の前にいて」
「まだ、気持ちの整理がついていないのですね」

しゃがみ、はたてを抱き留める。ここからが自分の役目だと文は自覚した。

「大丈夫、貴女は強い」
「止めて、私に期待しないで。知ってるでしょう。私は元引き篭りで、コミュ障で、世間知らずで、馬鹿で、救いようのない甘ったれで…」
「椛さんのような強い天狗になりたいのでしょう。ならば、しっかりと受け止めなさい。幸い、時間はたっぷりあります。私も手伝いますから」
「……文」

―― おい! 何流されそうになってんだ! まだ戦いは続いてんだぞ!?
(ううん。もうこれでお終い。あとは文に任せる)
―― ふざけんな! こんな事で守矢が懲りるか! また厄介ごとを引き起こすに決まってる!
(その時は止めようよ。また皆で)
―― 今殺せ!
(今日はここまでにしよう? 私は、これ以上、自分を嫌いになりたくない)

その時、はたての身体を鉛のような疲労感が襲った。

―― チッ、時間切れか。いいさ、今回は甘ったれてやる。
(貴女は結局誰なの?)
―― 私か? 姫海棠はたての本能みたいなもんだよ。
(いつか貴女が私にとって代わるの?)

かつて出会った未来の自分と、自分の本能だと明かしたその声の口調は、とても酷似していた。

―― お前が自分を見失えば、きっととって代わっちまうだろうさ。
(また会える?)
―― スイッチが入ればな。だから呑まれたくなきゃ、あんまり使うな。
(力を貸してくれてありがとう)
―― やめろよ、自分自身に礼だなんて。

はたての意識が徐々に遠ざかる。

「来てくれたのが、文で良かった」
「なぜです?」
「こんな姿、椛に見せたくなかったから」

それだけ伝えると意識がブツリと切れた。
はたてを優しく横たえてから、早苗に抱えられる諏訪子を見る。

「さて、諏訪子様。貴女が選べる道は二つ」

再生したばかりの諏訪子の目でもちゃんと見えるよう、近づいて指を二本立てる。

「一つ目、今すぐこの山を去る。今は見逃してあげますが、次にこの山に足を踏み入れた時は、命の保証は致しかねます」
「もう一つはなんだ?」
「二つ目、大人しく神社に戻り、天魔様の裁きを待つ。天魔様の采配が下されるまで、身の安全は約束します」
「神社で待つよ。ちょうど、天魔の顔が見たいと思っていたんだ」
「かしこまりました。天魔様が決断を下すまで、早苗さんは私どもの方で護衛します」

他の天狗から守るというよりも、諏訪子が逃亡しないようにするための人質としての意味合いの方が大きかった。

「丁重に扱えよ」
「お一人で帰れますね? こっちははたての面倒で手いっぱいですから」
「それくらい出来るよ。早く医者に連れてってやりな」




















文を撒くことに成功した神奈子は、御柱を引き摺り、這いつくばりながら山道を進む。
普段の悠然とした彼女からは想像も出来ない姿だった。

「もう少し、もう少しだ」

神奈子の進む先には分社があった。分社まであと十歩も満たない。

「試験は成功した。これで発電所建設の目途がついた」

分社に触れれば、守矢神社の本殿まで戻る事が出来る。それで守矢の勝利だと信じて疑わなかった。

「まさかこうやって神様を見下せる日が来るとは。長生きはしてみるものですね」

追いついた椛が、神奈子の前に立ちふさがった。

「お前さんの望みを言いなさい、私が叶え…」

振り返り椛は分社を破壊した。

「良い剣です。私も特注で一つ作ってみたくなりました」

分社を壊すのに使った、借り物の剣を見てそう呟く。

「洩矢諏訪子の方はカタが付いたみたいです。諏訪子様は降伏撤退。早苗さんの身はこちらで預かっています」

たった今、見えた状況を告げた。

「そちらも降参してはいかがです?」
「断る。私がいれば、守矢は何度だって立て直せる」
「最大の譲歩だったんですけどね」

身の丈はある剣を引きずりながら神奈子に近づく。

「正直、断ってくれて嬉しいです。貴女にはこれまで散々な目に会わされてきましたから」
「そうだったかしら? 良く覚えていないわ」

振りかぶる椛。しかし、剣は神奈子に通らなかった。

「結界ですか?」

剣は神奈子に触れているが、そこから先はビクともしない。
神奈子は自身の身体の表面に結界を張って守っていた。

「誰が早苗に結界の張り方を教えたと思ってるの? 妖怪耐性付ではないけれど、頑丈さは折り紙つきよ」
「そうですか、では先にこちらを壊すとしましょう」

神奈子の傍らの御柱に目を向ける。蹴ると、御柱は簡単に神奈子の腕から離れた。

「もう自分を守るだけでの力しか、残ってないみたいですね?」

厄の塊で消耗しきった所に、文の追撃。椛が指摘した通り、神奈子の神徳は身を守る事に使うのが精いっぱいだった。

「親切心で教えてあげるけど」
「なんでしょう?」
「その棒の内部には、かなりのエネルギーが凝縮されている。壊せばただではすまないわよ?」
「そうですか」

構わずに剣を振り上げる。

「正気? お前さん、確実に死ぬわよ?」
「わかってます」
「よく考えなさい。この山がお前さんに何をしてくれた? 奪ってばかりだったじゃない」

懐柔しようという神奈子の魂胆が明け透け過ぎて、失笑を禁じ得ない。

「でも壊します。これはきっとこの山に、災いを呼び込む。未来の子供たちのためにも、これはあっちゃいけない」
「そんな事はない。それは人類にとって、この世界に生きる者にとっての希望よ。クリーンで、恒久的で、奪い合う必要の無い。夢のエネルギー」
「知ったことじゃありません。実際にこれのせいで、私達はえらい目にあっているんですから」
「白狼天狗にとって山に滅私奉公するのは美徳かもしれないが、お前は真っ当な白狼天狗ではないだろう。これまで何人の同族や河童の女子供を殺した? 穢れた畜生がいまさら善人ぶるな、反吐が出る」

椛の説得が無理だと理解した神奈子は、彼女を口汚く罵った。

「確かに、生涯の殆どを恨み辛みで生きて来た私が、いまさら白狼天狗の矜持を持ち出す資格はありませんね」
「だったら…」
「だからこれは償いです。私が奪ってしまった者達に向けた」
「愚かな。お前さんは悲劇のヒロインを演じて酔っているだけに過ぎない。夜書いた手紙を翌朝見返す自分を想像しなさい。あの世で後悔しても遅いのよ?」
「貴女がそう思うなら、そう思ってくださって結構です」

剣を握る手に力が篭る。

(不思議だ。昔から、事ある毎に死に怯え、恐怖してきたというのに)

先ほど、守矢派の連中と戦う前に感じていた恐怖や躊躇いが全く湧いてこなかった。

(生まれて初めて、死んでも良いと思ってしまっている)

長い時間を生きて来たが、一度も経験したことのない感覚だった。

(元々は復讐の為だけに生き永られて来た命だ。奴が死んだ時点で、私には生きる理由なんて無かった)

復讐する対象が老衰で死んだ後、厄騒動が起きて、その後に守矢神社が故郷をダムに沈めると言いだした。ダム建設の騒ぎが終わると、今度は発電所を作ると言いだした。
あまりにも慌ただし過ぎて、その事をすっかり忘れていた。

(誰かが犠牲にならなければいけない状況が目の前にある。多くから奪い続けて無駄に生き延びてしまったこの命で済むのなら、喜んで差し出そう)

そう結論付けた心に対し、理性も本能も一切反論してこなかった。

「やめろ、待て!!」

神奈子の声は、もう椛には届かない。

「自分はどんな風に死ぬのか、どんな風に死ねるのかと。仲間が死んでいく中で、ずっと考えてきました」

いつ自分に死の順番が回ってくるのだろうと考えて今日まで過ごしてきた。

「丁度、待ちくたびれていた所です」

躊躇うことなく剣を振り下ろす。
朝日のような強い光が、剣の先から生まれた。




























薄い霧に包まれた小道に椛は立っていた。
道の両脇の芝生からは彼岸花が生えて、蝶が舞っている。

「どこだここは?」

何故自分がここに居るのか、今が何時なのか思い出せない。
なにか手掛かりになるものはないかと辺りを見回す。

「何か探し物かい?」

不意に声を掛けられた。
声がした方を見ると、芝生の上で胡坐をかく白狼天狗がいた。
肩まで伸びた白く美しい髪に、人懐っこそうな、愛嬌のある顔立ちをした少女だった。

「貴女は?」
「そういうお前はどこの誰だい?」
「私は…」

名乗ろうとして、言葉が詰まった。

「あれ? 私は、誰だ?」

自分が何者か思い出せない。

「いいさ。思い出せないって事は“向こう側”にまだ残してるってことだから」
「他に誰かいますか?」
「私だけだ。他の奴らはずっと昔に、この先に行ってしまった」

彼女の指さす先。霞がかっていて、その先に何があるのかはわからない。

「ここで何を?」
「後輩を、待っているんだ」
「後輩ですか?」
「そう可愛い後輩だ」
「ここに一人で残るほどの?」
「ああ、なかなか放っておけない奴でね」

自信満々に彼女は返した。

「貴女にそれだけ心配してもらえる者は、幸せ者ですね」

彼女が何者かは知らないが、なぜかそう思った。

「そうだな。幸せ者だな」

クックと笑ってから少女は立ち上がり、霞の中に向かい歩き出す。

「あの、どちらへ?」
「皆のところに行くよ」
「何故? 待っているのでは?」
「そのつもりだったんだ。不器用な奴だから、きっと独りぼっちな一生を送っただろうから、せめて私くらいは迎えてやらないと、って思ってたんだがな…」

振り返り、椛の顔を見て微笑む。

「余計なお世話だったみたいだ」
「どういう意味……ぁ…」

椛の脳裏に小さな電流が走り、記憶が蘇る。
彼女が何者か、ようやく思い出す。

「先輩っ!!」

目に涙を浮かべ駆け出し、よろけながら彼女に追いつく。

「私! 貴女に話したい事がたくさん!!」
「それ以上口にしたら駄目だ。戻れなくなる」
「嫌です、せっかく会えたのに、また離れるなんて…」

ずっと会いたかった者が目の前にいる。他に望むものなど何もなかった。

「大丈夫。またいつか会える。だからお前はうんと遅れて来い。その時はウンザリするくらいの思い出話を聞かせとくれ」

迷ったり悩んだ時、いつも自分を諭してくれた声が、あの時と変わらない温かさで語りかけてくる。

「私は、貴女と別れてから、色々な者を傷つけて生きてきました。そんな思い出を持つ資格なんて…」
「どんな悪人でも生きてる以上、幸せになる権利を持ってる。それを嫌ってほど見て来ただろ? だからお前も幸せになって良いんだよ」
「そんな理屈、誰も納得しません」
「そろそろ自分を許してやりな。幸も不幸も、あとはもう気持ち次第だって事、自分でも分かってるんだろ?」
「…」

雛に指摘された時から薄々気づいていた。都合の良い妄想だと決めつけて、気付かない振りをしていた。

「仮にいつか自分を許せても」
「うん」
「この山はきっと私を許さない。私は穢れを溜めこみすぎた」
「次から次へと、何百年経っても心配性は健在だな」

呆れ果てた顔をして「ホント、心底面倒臭い奴だな」と、ため息を吐かれる。

「山はお前を嫌っちゃいないよ」
「しかし実際に何度も」
「今まで生きてきたんじゃないか、お前は山に生かされる。生かされてるって事は嫌われてないって事だ」
「それは…」
「大丈夫だよ。この山は必死に生きる奴、種族の為に戦う奴を決して笑ったりしない」
「そんな事…」
「お前が他人よりもちょっと運が悪いだけだ。それを山だの因果応報だの、勝手に結び付けてるだけだ」
「そうでしょうか…」
「そこまで疑うなら証拠見せてやるよ」
「証拠?」
「ああ、だからもう仲間の所に帰りな」

自分の額を、椛の額に当てて眼を閉じる。

「お前はもう十分愛されてる。自分を愛し、他人も愛せば、お前の道も少しはマシになるかもな」

椛の視界がぼやけ始める。

「無理に前に進む事なんて無い。疲れたら立ち止まって花の匂いでも嗅いで、元気が出たらまた歩いたり走ったりすれば良い」

くっついていた額が離れる。

「さぁ戻れ、まだまだ先は長いぞ」

そこで世界は暗転した。









「ここは?」

気が付いた椛は、仰向けになり空を見上げていた。
空には月が浮かんでいる。

「そうだ、八坂神奈子の御柱を叩き折って」

ものすごい衝撃を身体に受けた所までは覚えている。

「どうして生きてる?」

四肢が飛び散ってもおかしくなかった。運良く五体が繋がっていたとしても、落下の衝撃でひき肉になっているはずである。

「一体何が…」

顔を横に向けると、紅い色が広がっていた。
椛はそれを自分の血だと思った。しかし、すぐ見間違いだとわかった。
身体の節々の痛みはあるが、四肢は健在で爪一つ欠けていなかった。

<そこまで疑うなら証拠見せてやるよ>

先ほど会った先輩の言葉が、椛の脳裏を過る。

「うっ」

紅色の正体に気付いた時、椛の喉が詰まる。

「あ、ああ…」

顔を腕で覆うが、これ以上、こみ上げてくる感情を抑える事ができない。

「ああああああああああああああああああああああ!!!!」

堰を切ったように椛は泣き出した。
布団のように敷き詰められた大量の紅葉。その上に彼女はいた。

その光景はまるで、紅葉が彼女の身体を抱き留めているかのようだった。


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