「……私は、もう用済みだそうです……」
ぽたり、ぽたりと早苗の大きな瞳から溢れる涙が彼女の固く結んだ手の甲を濡らす。
丸い座卓の向こうに正座する霊夢が顔色を変えずにそれを見つめ。
魔理沙は早苗の肩を抱いて背中をさする。
時折漏れる嗚咽が静かな博麗神社の境内に流れる。
「私は……結界の外へ戻る様に申し付けられました」
「理由は?」
霊夢の問いに、黙ったまま首を振る。
何度もすがりました、問いました。
だけど、お二人とも外に戻れ、の一点張り。
私に何か不満があったのでしょうか? それすらも教えて下さらない。
「そんなっ! あんまりじゃないかっ!」
早苗の独白に魔理沙が激昂する。
今までお前がどんな気持ちで二人に仕えてたか、あの神様とやらが知らない訳じゃ無いだろっ!
「……魔理沙、落ち着いて」
今は早苗の話を聞くのが先よ。
霊夢の差し出すちり紙で鼻をすすり、早苗が呼吸を整える。
「お前はそれで良いのかよっ?」
「神奈子様や諏訪子様には、何かお考えがあるのでしょう……」
だけど……。
今回ばかりは、聞けません。聞きたくありません。
私は幻想郷に来ると決めた時から、死ぬまでお仕えするつもりだったのだから。
まさか……ロープウェイが開通したこの時にそんな言葉を掛けられるなんて。
私はこれからこそが、守矢神社がますます信者を獲得して大きくなっていく大事な時だと思ってたのに……。
「……だから、異変だと?」
霊夢の言葉にこくりと頷く。
とはいえ、異変と呼ぶにはまだ何も起こってはいない。
目の前の少女の心が酷く傷つけられた……言ってしまえば、それだけだ。
現実的に霧が空を覆う訳では無い、冬が終わらない訳では無い。
この状況だけで異変と決めつける事は……。
「でもおかしいだろっ、こんな事!」
……そうね、おかしいわね。
だけど。
魔理沙の言葉に頷きながらも、霊夢は昨日の開通式で感じた違和感を思い出していた。
意気揚々とセレモニーでスピーチをする早苗の背後に並ぶ守矢の二柱。
いつも気高く堂々と立ち居振る舞う神奈子と、天真爛漫な諏訪子。
その二人が、珍しく緊張の面持ちで並んでいたことが。
霊夢の心に小さな引っ掛かりを生んでいた。
これが、その引っ掛かりの答え。
あの時点で二人は早苗にこの言葉を掛けることを決めていたのだろう。
「で、何時お前は結界の外に帰るんだ?」
魔理沙の言葉に、早苗の瞳から再び涙が溢れる。
手で顔を覆い、小さく噛み殺した言葉を漏らし。
「……明日、です」
「はぁっ?」
急すぎるだろうっ!
だぁんっ、と魔理沙が座卓を叩いて立ち上がる。
もう我慢ならんっ!
「私があいつらにハッキリ言って来てやる!」
早苗はお前らのオモチャじゃないんだっ!
好き放題に呼びつけて飽きたら捨てるなんて、許せるもんか!
大体神様なんて自分勝手なもんだ、口で言って分からないなら……!
「待ってください!」
傍らに脱いでいたトレードマークの帽子を手にする魔理沙に早苗がすがりつき。
「だから、この異変を一緒に解いてもらいたいんです!」
こんなひどい仕打ち、する方たちじゃないんです!
小さい頃から私を愛して育ててくださったお二方が、急にこんな心変わりをするなんて。
「……異変の原因に心当たりは?」
霊夢の言葉に力なく首を振り。
でも。
「やっぱり、ロープウェイなんだと思うんです」
あのロープウェイが完成したから、お二方の心が変わってしまった。
そう言えば……。
「何かあったのか?」
ええ。
「お二方、ロープウェイの建造を急に早めたんです」
以前は何十年掛かっても良いからゆっくりやればいい、なんてのんきだったのに。
今年入ってから急に、少々強引な手を使ってでも山の妖怪たちを黙らせてきた……。
「急に? どうして?」
「分かりません」
ただ、私の誕生日辺りから急ぎ始めたような……気がします。
「となると、架空索道の建設関係者が怪しいか?」
再び胡坐をかいて座り込む魔理沙に、早苗が大きく頷き。
お二方の強引な開発に反発している妖怪たちは多いと思います。
元々排他的な天狗、とりわけ山に余所者が入るのを嫌う哨戒天狗。
強引な水力発電所建設で居場所を奪われた河童、山童。
この計画自体を忌み嫌っている連中は枚挙に問わない。
その中で神々の心まで変えてしまうような能力の持ち主が……?
額を突き付けて相談を始める早苗と魔理沙に背を向けて、霊夢が静かに立ち上がる。
日もすっかり落ち、月が昇る幻想郷。
縁側から月明かりに浮かぶ妖怪の山を見つめて、小さく頷いた。
山頂近く、守矢神社。
境内に並ぶ出店はすっかり火も落ち、喧騒の後だけが残されている。
その奥に佇む立派な建物。
太い注連縄を飾る本殿の奥に、神祀られる神々が座っている。
お神酒を盃に注いで神奈子が乱暴にあおる。
「……帰ってこないな……」
その呟きに、諏訪子が視線を外に投げる。
静かな山の夜。
盃を神奈子から受け取り、諏訪子も酒を飲み下す。
「今どこで何をしているやら……貴女なら知ってるのかい?」
けぷ、と小さく息を吐きながら本殿の暗がりを見据える。
そこに歩き出てくるのは……紅白の装束。
手にお祓い棒を無造作に下げて、二柱に視線を投げている。
「早苗は?」
鋭く招かれざる客を見る神奈子に、霊夢が軽く肩をすくめる。
「ウチで魔理沙と仲良くお休み中」
……そうか。
こぼれた呟きに、安堵が混ざる。
――神奈子様……諏訪子様……――
巫女装束のまま、魔理沙の隣に眠る早苗が小さく寝言を呟いて。
「困るのよね、ウチの神社が家出少女たちの溜まり場になるのは……」
早苗も、魔理沙も。
近所でどんな噂を立てられるか、分かったモンじゃない。
「親子喧嘩を持ち込まれちゃこちらもたまらないのよ」
……親子喧嘩、か。霊夢の皮肉に神奈子が苦笑する。
「話はあの子から聞いたんだろう?」
諏訪子の言葉に頷く。
「随分と身勝手な話さ」
「よく分かってるんじゃない」
……だったら。
「駄目だ」
次の句を告げさせることなく、神奈子が遮る。
もう、決めたんだ。
諏訪子と二人で。
「たとえ博麗の巫女と言えども、ウチの事に口を出すのはやめておいてもらおうか」
「そうしたいのも山々だけど」
『異変』と聞いちゃ、放っておけないのよね。
さっとお祓い棒を振る霊夢に、神奈子と諏訪子がゆっくりと立ち上がる。
二柱で霊夢に対峙し。
彼女たちから溢れ出る霊圧に、霊夢の足が少し後ろに下がる。
……これは。
「……さすが博麗の巫女だよ。分かるだろう?」
神奈子の低い言葉。
今の私たちは信仰に満たされている。
以前貴女と戦った時とは力も比べものにならない。
「それを二人同時なんて、怪我しないうちに止めておいた方が良いと思うけど~?」
諏訪子の背後にうっすらと湧き出る白く大きなヘビが牙を剥く。
じ、と目を合わせて……霊夢が息を吐く。
確かに。曲がりなりにも神様だ。
分が悪い事この上ない。
「……それで良い……」
戦闘態勢を解く霊夢に……神奈子が頷き。
「早苗は諦めちゃいないわよ」
きっと明日、貴女たちに会いに来る。
その時は、私と魔理沙も一緒。
霊夢の言葉に、二柱が目を合わせて……首を振る。
「それならそれで、迎え撃つだけ……」
その言葉に霊夢が背を向けて。
「これは異変では無い」
これだけは博麗の巫女に信じて欲しい。
その背に掛かる言葉に、霊夢が視線だけ投げる。
神奈子と諏訪子、並んで霊夢に真摯な瞳を向けて。
「……それを判断するのは私だわ」
……そうか。
悲しく首を振り。
一つだけ、声を掛ける。
「博麗霊夢、早苗の幻想郷最後の夜を共に過ごしてくれてありがとう」
「……そうならない事を、私は祈るわ」
呟いて、霊夢が空に飛び上がる。
東の空に帰る霊夢の姿を、二柱が見つめ続けた。