Coolier - 新生・東方創想話

悪霊(四)

2014/06/11 12:41:05
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 これらのことの後に、私は天で、大群衆〔が上げる〕どよめきのようなものを聞いたがその声はこう叫んでいた、「ハレルヤ、救いと栄光と力とは、私たちの神のもの。なぜなら、神のさばきは、真実で義しいから。神は、淫行で地上を堕落させたかの大淫帰をさばき、ご自分の僕たちが〔流した〕血の報復を、かの女になさったから」。ふたたび、彼らは叫んだ、「ハレルヤ、かの女が〔焼かれる〕煙は、世々永遠に立ちのぼる」。そして、二十四人の長老たちと四匹の生き物とは平伏して、「アーメン、ハレルヤ」と言いつつ、玉座に座っている神を礼拝した。すると、玉座から声がして、こう言った、「すべての神の僕たちよ、〔そしてまた、〕神を畏れる者たちよ、卑小な者も偉大な者も、私たちの神を賛美せよ」。

(新約聖書翻訳委員会『新約聖書』ヨハネの黙示録19章1-5節)





 お隣のあの国は敵として見た方が世論がまとまる

 国民を一つの集団としてまとめ上げる時、為政者の使う手段は実に様々なものがあるのだが、これから述べる《仮想敵国》も一般的によく用いられる手法の一つである。彼らは言う。「かの国は、我が国を暴力によって侵略し、支配しようと、その機会を常々窺っている。国民は争いをやめ、互いに手を取り合い、一致団結して、来るべき闘争に備えなければならない!」
 当然のことながら、ここで「かの国」が実際に敵国である必要はない。「外部に敵がいる」と国民に信じさせることができるのであれば、ことの真偽は必ずしも重要ではない。ゆえに「かの国」は《仮想》の《敵国》と呼ばれる。
 さて、この仮想敵国の理屈を『人間の里』に当てはめてみようではないか。里人たちにとって「かの国」に相当するものとはいったい何か? 里人たちが恐れを抱き、敵と見なす存在。つまり、妖怪たちである。
「妖怪は人喰いであり、隙あらば里人を襲おうと、常にその機会を窺っているのである」この仮想敵の効果は絶大で、事実、この数十年というもの、里人同士の間に大きな内紛が起きたという話を私は聞いたことがないし、そうした事実があったという記録も残されていない。
 ところで、妖怪たちが実際に里人を襲わなくなってからすでに数十年の歳月が経過しているのだが、にも拘らず、未だに、この「人喰い」のイメージが人々の記憶に深く刻まれ、忘れ去られてしまわないのは、いったいどういうわけなのだろうか? なぜ人々は未だに妖怪を恐れるのか? それは、里人自身は襲われることがなくとも、その身代わりとして、妖怪の犠牲となる憐れな役回りの人たちが確かに存在するからである。その憐れな役回りの人たちとはいったい誰か? ご存知のとおり、外来人である。
 妖怪たちは定期的に現れる外来人を見つけ次第殺害する。遺体を里山や四つ辻に遺棄する。遺体を惨たらしく損壊するのは、さも喰い散らかしたように見せるためである。一方で、遺体を埋葬するのは里人たちの仕事である。彼らは、憐れな犠牲者の亡骸を見るたび、妖怪に対する恐怖と嫌悪感とを思い出し、殺されたのが里に住む身内ではなく、見ず知らずの外来人であったことに安堵するのである。
「里人を襲う妖怪はそれなりの酬いを覚悟しなくてはならない」これは賢者達によって定められたルールである。彼らを襲うことは、妖怪たちにとっても相応のリスクを伴う行為なのである。たとえ大妖怪といえども、里に住む人間を安易に襲うことはできない。逆に言うと、里という共同体に属さない人間は、非常に危険な状態にあると言える。そのような人間(外来人もここに含まれる)は、賢者達による保護の後ろ盾が期待できないためである。「里は唯一の安全地帯である」「里なくして人が生きていくことなど、とうてい不可能である」「里の外に放り出されてみたまえ、たとえ一日だって無事ではいられまい」。里人の全員ではないにしろ、何割かの人々は素朴にそう信じ込んでいた。彼らにとって《追放》という処分がどれほど恐ろしい刑罰であったか想像できるだろう。それは事実上の死刑宣告に等しかったのである。
 賢明な諸君はもうお気付きであろうが、これらはすべて全くのデタラメである。先の章で述べた道具屋の娘をはじめ、里を離れて暮らす者が少ないながらも存在する事実が、それを裏付けている。賢者達は恐ろしい人喰い妖怪のイメージを人々に植え付け、恐怖心を煽り、それを巧みに利用して、里の支配を容易にするのである。
 外の世界からの知識の流入を嫌う賢者達が、その危険を犯してまで外来人を定期的に結界の内側に取り込む理由も、今述べた理屈で説明できるだろう。外来人は里人の代わりに妖怪に襲われるいわば見せしめである。賢者達はこう言っているのである。「この憐れな外来人と同じ目に遭いたくなければ、自由なぞという愚かな考えを捨て、里に戻って、我々に服従を誓うのだ。里の外にきみたちの居場所はなく、里にいる限りきみたちの幸福は約束される。我々を賛美せよ。ハレルヤ」
 さて、前章のラストで、私は異変の始まりについて触れた。当然、本章では、いよいよその核心について語られるであろうと期待していた諸君は、私がまたろくでもない与太話を始めてしまったせいで、さぞ落胆していることだろう。私は何も、諸君にいやがらせをしようとか、諸君をじらすためにわざと本編と無関係な与太話を挿入しているわけではない。この後、物語を読み進むにつれて、里人と妖怪を取り巻く関係、あるいは巫女や賢者達との関係が徐々に明らかにされていくわけなのだが、そうなった時に、今ここで述べたような話を知っておく方が諸君の理解が捗るに違いないと、私はそう考えたのである。
 妖怪が被差別民でありながら、ある種の特権階級であることはすでに述べた。ここでまた、妖怪が人里にとっての仮想敵であると、私は主張するのである。そも妖怪とはいったい何なのか? この問いについて考えるのも本書の重要なテーマの一つである。この物語もあと少しで結末を迎える。どうか、もうしばらくの間だけ、私の与太話にお付き合い願いたい。

 火 災 旋 風

 立ち上る黒い煙に人々が気付き、消防団の詰め所に通報して、消防団員が火の見やぐらに駆け上り、火災を告げる半鐘(先の章で霊夢が耳にしたのはまさにこの音である)を打ち鳴らした時、煙は里の西の外れにわずかに一筋立ち上るのが見える程度だった。それが半時と経たないうちに、里全体を飲み込んでしまいかねない程の大火にまで成長を遂げたのである。
 大きな木槌や鳶口とびぐちを使って周囲の家屋を打ち壊して延焼を防ぐ昔ながらの破壊消防が、これ程の大火を前にほとんど無力であったことは言うまでもない。手押し式のポンプでいくら水をかけたところで、それこそ焼け石に水である。それでも今回の消防団の初動にはいくつかの手落ちがあり、もし消防団がまともに機能していれば、被害はもっと軽微なもので済んだ可能性のあることを、私は指摘しておかなければなるまい。
 消火活動が後手に回った理由はいくつかあった。一つは、その日吹き荒れていた強風によって、火の回りが予想以上に早かったこと。そしてもう一つは、その日行われた針妙丸と巫女の決闘に、里の若い衆が軒並み見物に出かけてしまったことも災いしていた。火災によって大きな被害を出したのが里の西側であったのに対して、決闘が行われた場所が東の外れだったのもまずかった。見物人の中には、消防団や自警団の団員も少なからず含まれていたが、彼らは逃げ惑う人々の流れに逆行して現場に向かわなければならなかったために、現場到着までにひどく時間がかかってしまった。初動は完全に失敗したのである。
 彼らが現場に到着した時、そこはもう修羅場と化していた。立ち上る黒煙が陽光を遮り、辺りは夜のように暗かった。往来の両側に軒を連ねる家という家、窓という窓から、真っ赤な炎が噴き出しているのだった。一つの通りがまるごと炎上していた。あまりの高熱に、近づくことさえままならなかった。消防団が打ち倒したものか、はたまた延焼によるものか、家屋の倒潰する大音響が周囲に響き渡った。逃げ惑う女の悲鳴、親とはぐれた子供の泣き声、男衆の怒号が飛び交った。この手の災害に付き物の泥棒や略奪の光景もそこここで見られた。運び出した家財を積んだ荷車を引いて橋を渡ろうとした男は、群集の「邪魔だ、どかせ!」の一言で、荷車もろとも堀に投げ込まれた。尻尾に火のついた一匹の馬が狂ったように往来を疾駆し、二、三の通行人をはね飛ばし、往来の突き当たりの乾物屋の軒先に突っ込んで、死んだ。その乾物屋も火事になった。
 これは狭い範囲に集中して火災が起きた際にしばしば見られる現象なのだが、火災によって熱せられた空気が、局所的な強い上昇気流を作り出し、恐ろしい炎の竜巻を生み出すのだった。「火災旋風」と呼ばれるこの現象は、周囲のすべてのもの――民家も、商店も、草木も、家畜も、富者も、貧者も、僧侶も、平信徒も、中産階級も、無産階級も、善人も、悪人も、等しく平等に飲み込み、ばらばらに分解し、空に舞い上げ、周囲にばらまくのだった。この恐ろしい光景を私の拙い文章力で表現するのはとうてい不可能だろう。月並みな表現ではあるが、さながら地獄絵図の様相であった。
 この未曾有の大火災は夜になっても燃え続け、翌日の明け方になって降り始めた雨によって、ようやく火の勢いが衰え、鎮火したのだった。
 結局この大火災によって、問屋街から西側の地域はほぼ焼け野原になってしまった。消失面積は里全体の十分の一とも五分の一とも言われ、死者、行方不明者の総数は五十人とも五百人とも伝えられた。情報が錯綜した理由は実に単純で、まともな調査が行われなかったためである。

 賢者達の見解

 この件に関して、賢者達の対応は迅速だった。ただし、そこに誠意はなかった。
 まず、燃え盛る炎がようやく鎮火した翌朝の極早い段階で「当該火災は放火による可能性が高い」とする消防団長の談話が発表され、その日の朝刊にそれが掲載されたのである。これがまず怪しい。火災の鎮火直後と言えば、これから行方不明者の捜索や、遺体の身元確認をようやく始めようかという頃で、出火原因の調査などが行われたのはそのずっと後のはずである。つまり、その日の朝刊に載った団長の談話は、それ自体でっちあげであった可能性が高い。
 おかしな点はまだ他にもあった。最初に出火した場所、つまり放火の犯行現場が件の問屋街であるとする点である。この放火犯は問屋街を狙って放火し、その火が里の西側一帯に燃え広がったと言うのである。その日、強い西風が吹いていたことはすでに述べた。当時の新聞の気象予報欄からも、その事実を確認することができる。もし、火元が本当に問屋街であったなら、火は強い西風に煽られて、里の東側一帯に燃え広がったはずである。それとも、この炎は強風に逆らって、風上に向かって燃え広がったのだろうか? この火災をテロに見せかけるために、火元の特定を恣意的に誤った可能性は考えられないだろうか?
 以上のような理由から、私はこの消防団長の談話が、ほとんど信憑性がないか、あるいは全くのデタラメであると主張するのである。とは言え、上記の理由だけでは放火があった可能性を完全に否定することはできまい。もし、仮に、放火が事実だったとして、その犯人は誰だったのか? これは本当にテロだったのか? 赤蛮奇や『ネットワーク』は事件に関与していたのか? 堀川雷鼓の策動は、果たして事件と無関係だったのか? 東風谷早苗は?
 これらの問いに対して、諸君に提供できる回答を、残念ながら私は持ち合わせていない。しかし、私はある一つの興味深い証言を、それもかなり確実性の高い筋からの情報として得ている。もちろん、これも一つの仮説には違いないのだが、参考までに、ここに掲載しておく。それは次のようなものである。
 当時、里の西側に広がる、刈り入れが終わったばかりの農地で野焼きが行われていた。折からの強い西風に煽られ野焼きの炎が制御を失い、燃え広がり、その一部が里の西端にまで達し、火災を起こした、というものである。火の手は里の西側から上がり、問屋街に至ってようやく鎮火したのである。この仮説は当時の気象条件とも一致する。案外、これが事件の真相に最も近い仮説と言えるかもしれない。
 事件の真相などというものは、得てして、我々が考えているほどドラマチックでもなければ、奇想天外でもない。ベールの奥に鎮座し、決して素顔を見せず、ワイングラスを片手に、シャム猫を撫でながら、意のままに部下たちに指令を下す《黒幕》なる人物が登場するのは、漫画か小説の中だけである。現実の事件にそのような人物は登場しない。現実の事件とは、事件に関与した人々の、それぞれの思惑が交わる、その交差点上で起こるものである。そこに明瞭な筋書きはなく、真相と呼べるものさえしばしば存在しない。
 事件とは思惑の縦糸と横糸が織り成す一個の織物である。その模様は、はなはだ複雑で、不鮮明である。しかし、人々はその模様の中に、何か隠された秘密があるに違いないと、必死に目を凝らし、読み解こうとする。そこに様々な誤解が生じる。ある者はそれを「西陣織」だと言い、ある者は「博多織」だと言う。しかし、それは「ダマスク織」なのである。人々はそこに、自身の願望の投影とでも言うべき、偽物の真実を見出すのである。彼らは無味乾燥な真実よりも、ドラマチックな虚構を好む。真相を探すふりをしながら、娯楽を求めているのである。賢い為政者ならきっとこう言うだろう。「ならば、彼らに望み通りのものを見せてやろうではなか。黒幕も、真相も、彼らの望むままに、好きに描き足してやればいい。歴史という巨大な織物は、いつでも好きな時に描き換えることができるのだから」
 今回の火災が「鬼人正邪を黒幕とする、妖怪たちが起こした異変の影響によるものである」とする、賢者達の声明が発表されたのは、その翌日のことである。
 かくして、諸君のよく知る『妖怪 鬼人正邪』は誕生したのである。

 添付資料――証言記録、その他

 当時、私が収集した証言などの記録の一部を、参考までに、ここに掲載しておく。

『その連中ならよく覚えとるよ。いつも、ほら、ちょうどあの隅っこの席で、何やらひそひそ話をしとった。ときどき拳固を振り回しながら「革命」だの「テロル」だのと、物騒な単語をわめいとった。なに、あの頃は、あれが普通じゃったよ。どのテーブルでも、若い連中は概ね似たり寄ったりな会話をしとったし、その連中だけが特別変わってるとは思わんかったがの?』

(居酒屋にて 六十代 男性)


『僕は最初から怪しいと思ってましたね。皆は彼女のことを、まるで神様か何かのように崇拝して、すっかりのぼせ上がっていましたけども、これでやっと夢から覚めたってわけだ。革命? とんでもない! 僕は保守派ですよ』

(元進歩派 十代 男性)


『あたくし、その赤い外套の妖怪を、実際に見たことがございますわ。炎のように真っ赤な髪をして、今思い出しただけでもぞっとする、何か異様な光を放つ、恐ろしい目をしておりましたわ。あたくし、一目見てピンときましたわ。それで主人にこう言いましたの。「あれは人間ではありませんわ」って。主人も、その時は笑っておりましたけれども、今になって思い返してみると「お前の予感は正しかった」と言って、目を丸くしておりましたっけ。……なぜ、妖怪と気付いたかですって? あんな恐ろしい目をした人間なんて、いるはずがございませんもの!』

(三十代 女性)


『で、その赤蛮奇ってのが灼熱の炎を操る大妖怪で、燃え盛る炎のように赤いその外套に触れたものは、たちどころに燃え上がり、一瞬で灰になっちまうって話さ。その炎の化身が里中を練り歩いたってわけだ。かァ、恐ろしい話だねェ!……はッ? その妖怪を実際に見たかだって? そりゃおめェ、見てたら俺も今ごろ灰にされてお陀仏よ!』

(三十代 男性)


『追伸、先日賢者達より幻想郷縁起改訂版の執筆について打診がありました由、詳細は存じ上げませんが、近々新しい妖怪が追記されるかもしれません。取り急ぎご連絡まで。A・H』

(稗田阿求氏の書簡 抜粋)


『妖怪どもは、はなから俺達を里の外へと誘い出す目的で、巫女に決闘を申し込んだんだ。手の込んだことしやがって。俺達はまんまと奴らの策略に乗せられちまったわけだ。俺達のいない間に好き放題やりやがって。ああ、俺達さえもっとしっかりしていたらなあ! 奴ら絶対に赦さんぞ。見つけたら、俺がこの手で叩き殺してやる!』

(自警団員 二十代 男性)


『一 異変ヲ企候者見付次第早速其最寄之役所ヘ召捕ヘ差出シ又ハ訴出可申候
   吟味之上相違無之候ハバ御褒美可被下候事
 一 譬ヒ同類ト雖モ申出ニ於テハ其罪赦サレ屹度御褒美可被下候事
 一 若シ隠置後日他ヨリ相顕ハルルニ於テハ曲事タルヘク候事
                    第一二八季 月 日 博麗神社』

(役場前に掲げられた高札の内容を写したもの)


『くだらん! 実にくだらん! きみは新聞を読まんのかね? 結構! なら、わしの言うべきことはない。あれがすべてだ! お前たちのような若造は、すぐに自由だの、真理だのと、もっともらしいことを言ってわめき散らすが、そんなものに何の意味がある? いいか、よく聞け。わしはお前たちがよちよち歩きの頃から、ずっとここに勤めとるが、ここ数十年と言うもの、里の住民の生活を守るために、身を粉にして働き続けてきたのだ。なのに、お前たちときたらどうだ? お前たちのようなハナ垂れ小僧の振りかざす真理でいったい何が守れる? 自由で腹がふくれるか? 真理で家族が養えるか? そんなもの、くそ食らえだ!……何? この話を本にするだと? やってみるがいい。そんな本が検閲を通過するものか。不道徳な本を書いた罪で、お前も妖怪の仲間入りってわけだ!……よく考えたまえ、きみはまだ若い。こんなことで人生を台無しにすべきじゃない。そうは思わんかね?』

(役場の応接室にて 五十代 男性)


『ああ、その日のことならよく覚えてるよ。やけに風の強い日だった。俺は畑仕事をしていたからな。里の外にいたんだ。さっきまで晴天だった空が急に曇り始めて、昼間だってのに夕暮れ時みたいに薄暗くなっちまった。そのうち雷鳴までとどろき始めて、厭な胸騒ぎがしたね。ふと里の方に目をやると、灰色の分厚い雲が渦を巻いて、まるで吸い込まれるように、一箇所に集まっていくのが見えてね。それはもう、不気味な光景だったよ。その渦の中心から現れたのが、例の逆さまの城ってやつさ。空からにょっきり天守閣が生えてきたってな。異変も異変、大異変だよ。そうしたら、今度はすきくわが勝手に踊り始める始末で……俺が嘘を言ってるって? おいおい、俺には女房も子供もいるんだぜ。ほかにどう答えろってのさ?』

(四十代 男性)


 悪  夢

 何もないだだっ広い部屋だった。
 その部屋はまるで大きな屋敷か城の大広間を思わせるつくりで、何十畳ものたたみが敷かれ、天井が高く、繊細な組子細工の欄間らんまがあり、その下のふすまには豪奢な金箔が押され、さぞ名のある絵師が描いたであろう立派な襖絵が描かれていた。
 正面の襖には沸き立つ暗雲が描かれていた。嵐のような暴風を巻き起こし、雷鳴を轟かせながら、ときどき蒼白い閃光を放つ不気味な暗雲の中から一匹の巨大な龍が、雄大なその姿を現し、ぎょろりとした恐ろしい目で虚空の一点をにらみつけていた。その視線の先――対面の襖には、対照的に、物静かな竹林の風景が描かれていたが、霧にかすむ竹林の奥には、やはり一匹の獰猛な虎が住んでおり、その太い前足でしっかりと地面を踏みしめながら、虎視眈々と対面の龍の様子を窺っているのだった。この龍虎の襖絵は、互いににらみ合う双方の視線がちょうど部屋の中央で交わるように計算され、描かれていた。そのため、この部屋の中央に立つ者は、両側から迫る龍虎の威圧感を一身に浴びることになるのである。躍動感のあるダイナミックな構図と鱗や髭の一本いっぽんまで丹念に描き込まれた繊細な筆致とが相まって、今にも襖から飛び出してきそうなリアリティと独特の緊張感がこの絵にはあった。
 確かに、この龍虎の襖絵には見る者を戦慄させる迫力があった。しかしながら、この部屋の印象を決定付けていたのは、この龍虎の襖絵ではなかった。それは第三の襖に描かれていた。そこには、龍のように鋭い爪と牙を持ち、虎の毛皮をまとい、頭に牛の角を生やした一匹の恐ろしい鬼の姿が描かれていた。この鬼の襖絵は、龍虎のそれよりもさらに力強く、緻密に、禍々しく、恐ろしい姿で描かれていた。一連の襖絵の主題がこの鬼であることは明らかだった。身の丈ほどもある巨大な金棒を片手で操り、その怪力ぶりを鼓舞しながら、右手の龍と、左手の虎を、仲裁しているようにも、あるいは威圧しているようにも見えた。龍虎に並ぶ(あるいはそれを上回る)第三の勢力として、その鬼は描かれていた。この部屋を設計した者が、天上の龍と地上の虎、動と静、空想と現実、それらの中間的存在として、この鬼を描かせたことは疑いなかった。鬼は想像上の生き物ではない。かと言って、野山を駆ける鳥獣の類でももちろんない。鬼とはいったい何なのか? この部屋はいったいどこなのだろうか?
 部屋を囲む四面のうち三面までは、今述べたような襖絵に覆われていた。残る一面は屋外に面した障子戸であった。外は夕刻であろうか? あるいは曇天、まだ明けきらぬ早朝であろうか? 障子越しに差し込む光は光量に乏しく、薄暗かった。部屋には明かりがなかった。
 少女は何をするでもなく、ただぼんやりと鬼の絵を眺めていた。何かやるべきことがあったような気もするが、それが何であったか、思い出すことができなかった。ただ、この鬼の絵を見ていると、なぜか妙に心が落ち着くのだった。この絵は誰かに似ているのだろうか? それは誰だったか?
 少女は頭上に何者かの気配を感じて顔を上げた。薄暗い天井に何かうごめくものを見つけて、少女は目を凝らした。はじめのうち曖昧な影でしかなかったそれは、やがて人の姿になった。彼はそこに逆さまに立っていた。まるでそこだけ重力が反転したかのように、髪が逆立つこともなければ、着衣の乱れもなかった。まるで出来の悪い合成フィルムのような光景だった。
 彼は一人ではなかった。少女が再び天井を見上げた時、彼は彼らになっていた。三人に増えていたのである。少女が天井を見上げる度に彼らはその数を増していった。やがて少女は、彼らの中に見知った顔がいくつもあることに気付いた。それは幼いころからの友人の顔であり、親類縁者の顔であり、父と母の顔であった。
 少女は父に尋ねた。「父様。父様はなぜ逆さまなの?」
 父は静かに答えた。「逆さまなのはお前の方だよ、針妙丸」
 その途端、世界が反転した。床は天井になり、天井は床になった。
 魔法は切れたのである。
 針妙丸は天井に向かって落ちていった。


エピローグ

 目を覚ました針妙丸が最初に目にしたのは見知らぬ天井だった。奇妙なことに、彼女はそれが床でないことに安堵した。
 彼女は室内に視線をさまよわせた。決して広くない部屋には、小さな箪笥があり、文机があり、壁にかけられた振り子時計が規則正しく時を刻んでいた。
 彼女は布団に寝かされていた。額には冷水に浸し、固く絞った手ぬぐいが乗せられていた。かたわらには水桶があり、その水桶に手を浸す巫女の姿があった。そこは博麗神社だった。
 霊夢は相変わらずの無愛想で、針妙丸をじっと見下ろしたまま何も言わなかった。
 先に沈黙を破ったのは針妙丸だった。
「夢を見たの」と彼女は言った。「昔の夢。みんなが出てくる夢。故郷の夢」
 霊夢は答えなかった。
 針妙丸は続けた。「そこには父様がいたわ。母様や、みんなもいたわ。でも……(彼女の目に涙が滲んだ)そこに正邪君はいなかったの!」
 針妙丸の目からぼろぼろと大粒の涙が流れ落ちた。
 憐れな少女にかけるべき言葉を博麗の巫女は持たなかった。
 その日の夜、文机に向かって書き物をしていた霊夢は、何者かの気配を察して筆を置き、音を立てないように文机の引き出しをそっと開けると、中から鉄製の大幣おおぬさを取り出し、握り締めた。
 室内を照らす明かりは頼りない蝋燭が一本きりで、部屋の四隅には、手のひら大の蜘蛛や、大人の足ほどもある巨大なワラジムシが、今にも這い出してきそうな、いや、それよりも、もっと気味の悪い、何か得体の知れない魑魅魍魎の類が潜み、蠢いていそうな、不気味な陰を作り出していたのだが、その蝋燭の火が風もないのに突然揺れた。霊夢を取り囲む無数の影たちが大きく形を変え、歪み、踊った。
「玄関から入ってくるべきね」霊夢は影の一つに向かって話しかけた。「誤って退治されたくないのなら」
「あら、あなたに退治されるほど弱くなくてよ?」と影が答えた。
 影は女性だった。腰まである金色の長い髪と、淡い紫色のドレスの裾をかすかに揺らしながら、その人物はゆっくりと暗闇の中から姿を現した。
 諸君はこの人物をご存知だろうか? この人物こそ、滅多に人前に姿を見せないと言われながら、しかし幻想郷の主要な人物とはすべて何らかの形で接点を持つとされる怪人物、幻想郷を束ねる賢者達の一人、八雲紫その人である。
 紫はいつも愛用の日傘を持ち歩いていたが、その夜も(夜だと言うのに!)やはり日傘を持っていた。彼女は帽子を脱がなかった。ブーツも履いたままだった。彼女はその格好のまま、ゆっくりと、しかし無遠慮に室内を歩いた。彼女の歩き方はどこかふわふわとした足取りで、こういう表現が相応しくないのを承知の上で言うのだが、「地に足がついていない」みたいだった。足音さえまるで聞こえなかった。
 彼女は両足をそろえて立ち止り、くるりと霊夢の方に向きを変えて、笑顔で言った。「今日はあなたによい知らせを持ってきたのよ」
 普段は決して感情を表に出さない巫女の眉間に深いしわが寄った。
 紫の顔をにらみつけながら、霊夢は苛立った口調で言った。「あんたの持ってくる知らせがよかったことなんて、ただの一度もないわ」
「失礼ね」と紫。
 彼女は奇術師の鮮やかさで、どこからともなく折りたたまれた一枚の書状を取り出すと、それを霊夢に手渡した。
 霊夢は頼りない蝋燭の薄明かりの下で、それに目を通した。そこには、先日の火災が妖怪たち仕業――異変であったとする賢者達の公式見解が記されていた。
「茶番だわ!」霊夢は声を荒げて言った。「異変って何よ? 賢者達っていったい何なのよ? こんなのみんな作り話だわ。全部あんたの妄想じゃない!」
 紫の表情から笑みが消えた。
「その発言は聞き捨てならないわね。賢者達は幻想郷のまつりごとをつかさどる、二十四人の長老たちによる合議よ。私はその取りまとめをしているだけ」
 霊夢は書状の続きを読み進めた。
 書状には、異変に至るまでの経緯や異変発生時の状況、異変の背景などがこと細かに記されていた。つまり、諸君のよく知る――私が捏造と主張する――『空中逆さ城』の物語が記されていたのである。
 長文の書状の最後の部分、賢者達が連名で署名しているその直前の部分に、異変に関わったとされる妖怪たちの一覧が付されていたのだが、そこまで読み進めた霊夢の顔がにわかに曇った。一覧の最後に『妖怪 少名針妙丸』と記されていたためである。
「何かの間違いでしょう?」彼女は声を震わせながら尋ねた。「あれはまだ子供じゃない」
「妖怪は妖怪よ、例外は認めないわ」紫は無慈悲にそう答えた。
 霊夢はうつむいたまま黙り込んでしまった。
 この時、紫はどこからか取り出した扇を手に持って、開いたり、閉じたり、また開いたりを繰り返していたが、その扇で自らの口もとを覆い隠した。不規則に揺らぐ蝋燭の灯りを反射して、彼女の目は妖しく光り、輝いた。扇の陰で彼女の唇が嗜虐的につり上がった。
「これでまたあなたの大好きな妖怪退治ができるわね」
 霊夢は顔を上げて、せせら笑うような紫の視線をにらみ返した。無慈悲で、冷徹な博麗の巫女の顔はそこにはなく、代わりに動揺と怒りの入り混じった、感情をむき出しにした一人の少女の顔があった。
「そんなに妖怪退治をさせたいのなら!」
 言うが早いか霊夢は紫に跳びかかり、持っていた鉄製の大幣で紫の顔面めがけて横なぎに殴りかかった。
 次の瞬間、しかし宙を舞っていたのは霊夢の方だった。彼女はほとんど部屋の反対側まで突き飛ばされて、頭をしたたか壁に打ちつけて無様に崩れ落ちた。
「頭の悪い子ね」紫は霊夢を見下ろしながら、あきれた口調で言った。「いいかげん、そんなもの私に効かないと学習なさい。……藍!」
「おそばに……」紫の背後の暗闇が返事をした。
「あのお馬鹿さんの手当てをしてやりなさい。くれぐれも余計なことは言わないように」
「承知」
 紫は最後にもう一度、倒れたままの霊夢を一瞥したが、それだけで、何も声をかけなかった。彼女は現れた時と同じように、背後の暗闇の中に溶け込むようにして消えてしまった。
 先ほど「藍」と呼ばれた紫の従者と思しき女性が、入れ替わりに、暗闇の中から姿を現した。彼女は手慣れた様子で戸棚の引き出しからニ、三の置き薬と包帯を取り出し、それを持って倒れた霊夢のそばに座った。
 彼女は霊夢のこめかみの傷を確認しながら言った。「よかった。これなら傷も目立たない。きれいに治りますよ」
 よろよろと上半身を起こした霊夢は、敵の情けは受けないとでもいうふうに、苛立たしげに藍の手を払い除けた。
 藍はもともと細い目をさらに細めて、困ったような表情になって、諭すような口調で言った。「針妙丸さんのことならご心配なく。紫様は、口ではああおっしゃいますけども、すでに博麗神社預かりの保護観察処分ということで、特例措置を申請して、賢者達の同意も取り付けていらっしゃいますよ。……あなたのことをからかっているのですよ、紫様は」
「あの妖怪女」霊夢は吐き捨てるように言った。「いつかこの手で退治してやるわ!」
(了)


あ と が き

 勘違いされては困るので、あらかじめ申し上げておくのだが、私は正邪君を擁護する立場でこの物語を書いたのでもなければ、彼女の行動の是非について、広く世に問いただす目的で書いたのでもない。まして、私は革命論者でもなければ、諸君の中から、彼女の意志を継いで、第二、第三の正邪君が育つことを期待しているわけでももちろんない。では、なぜ私はこの物語を書いたのか?
 私がこの物語を書こうと考えた理由は、一つには、この物語が新たな思想や宗教や哲学によって、幻想郷の人々を革命しようとした稀有な事件であったために、歴史的資料として、保存しておく価値が十分にあると考えたからである。もう一つには、このとりとめのない物語の中に、人によっては、ある種の教訓めいた事柄を見出せる可能性がまだしも残されているかも知れないと考えたからである。
 作中で私は、事件とは、人々の思惑という名の縦糸と横糸が織り成す一個の織物であると述べた。そして、それらが無限に貼り合わされてできる巨大なパッチワークこそ、歴史そのものに他ならない。歴史のパッチワークは恐ろしく巨大なために、近くで眺めていても、その全体像を把握することはできない。それはもっとずっと後になり、現在から十分遠ざかった頃になって、ようやくその輪郭が見え始めるのである。彼女の行動の是非については、後世の人々が適切に評価してくれることだろう。
 私はまた、この歴史のパッチワークが時の為政者の手によって簡単に貼りかえられ、改ざんされてしまう危険性についても指摘した。ここで、また断っておかなくてはならないのだが、私は自分の書いたものが唯一無二の真実だと主張するつもりはないし、為政者の残した歴史がすべて捏造であるなどと言うつもりもない。私が当時の証言や資料をもとにこの物語を執筆したことはすでに述べたが、当時の証言や資料が嘘偽りのない事実である保証など、どこにもないのである。嘘のない、事実のみによって編纂された、完全な歴史などというものは、この世に存在しない。あるのは何割かの事実を含んだ歴史と、全く事実を含まない歴史である。数多ある歴史の中で、どの部分が事実でどの部分が嘘なのか、その判断は読者自身の手に委ねられる。より客観的で公正な判断を下したいのなら、できるだけ多くの書物に触れ、多様な意見に耳を傾け、一つの歴史を盲目的に信じ込まないことである。今ではもう過去になってしまったあの異変の真実の姿を知る手がかりとして、本書が判断材料の一助となれば幸いである。
 さて、紙面の残りも少なくなってきたので、名残惜しいが、諸君ともそろそろお別れしなくてはならない。私は最後に、事件に関わった者たちの《その後》について軽く触れてから、筆をおくことにしたい。
 まず、今回の異変に関わったとされる面々――今泉影狼、わかさぎ姫、赤蛮奇の三人であるが、これは諸君もご存知のとおり、博麗の巫女に見つかり、退治された。その後、彼女らはどうなったのか? 賢者達の収容所に送られたのである。彼女らがそこでどれほど悲惨な目に遭わされたか、ここでいちいち述べ立てる必要はないだろう。巫女の言葉を借りるなら、彼女らは全員「今はもう大人し」くなってしまった。彼女らは間違った思想を捨て去ることを強いられ、恐ろしい再教育を受けるのである。遠からぬ将来、すっかり矯正され、生まれ変わった彼女らは、妖怪として新しい人生を歩み始めることだろう。異変に関わったとされるメンバーの中で、ただ一人、正邪君の身柄だけが未だに見つからず、行方不明のままであることは本編で述べたとおりである。
 次に、堀川雷鼓と九十九姉妹のその後であるが、やはり、これも諸君の知るとおりである。彼女らは後日、また別の異変を起こした首謀者として、巫女の制裁を受けることになるのである。この話は、また別の機会に詳しく述べることにしよう。
 最後に、正邪君がいなくなり、すっかり意気消沈して、ふさぎ込んでしまった針妙丸であるが、ある日を境に、彼女は突然元気を取り戻し、周囲を驚かせた。何ごとがあったかといぶかる巫女に彼女はこう告げたそうである。「正邪君は絶対にあきらめない。すぐに帰ってくるわ!」。これなどは、正邪君が実は生きていて、巫女の留守中に、こっそり彼女に会いに来た証左とは考えられないだろうか? 正邪君はどこかに潜伏して、息を殺して、次の革命の機会をじっと窺っているのだろうか?
正しい歴史認識を育む会
代表 上白沢慧音


巻 末 資 料
(二〇一三年当時の原稿に掲載されていたもの、のちに現在の内容に改められた)
 悪  夢

 そこは天井が低く、窓のない、薄暗く、陰鬱な、長屋の一室だった。
 部屋には土間があり、土間の片隅には薬瓶が整然と並べられた小さな棚があり、棚の上には薬品を混ぜる際に使う乳鉢があり、その横には、薬品を正確に計り取るための天秤と分銅が置かれていた。かすかに漂う薬品の刺激臭が鼻についた。
 部屋の真ん中に突っ立って、何か考えごとでもするように、赤蛮奇はじっとしていた。やがて、思い出したように部屋の中をうろうろと歩き回ると、すぐに立ち止まり、祈るような仕草で天井を見上げ、また視線を落とし、物思いに沈むのだった。彼女の手にはピストルが握られていたが、彼女自身、なぜ自分がそんなものを握っているのか、まるで理解できない様子で、怪訝な表情でそれを眺めるのだった。時折、彼女はぶつぶつと独り言を言った。
「また現れましたね。あなたもしつこい人だ」
 彼女はまるで誰かの返事でも期待するように、じっと黙り込んだ。彼女は部屋の隅から反対側の隅まで歩き、向きを変えて、またもとの隅まで歩いた。彼女は独り言を続けた。
「知ってますよ。これは僕の精神が作り出す幻だ。あなたは現実には存在しない」
「ふん」と鼻を鳴らす音がして、誰もいないはずの空間が返事をした。「信じたくないものはすべて幻覚か。実にきみらしい発想だ。きみは唯物論者か?」
 彼女はこの質問には答えず、代わりにこう言った。
「あなたは死んだんです。僕が殺した」
「知ってるよ。死ぬほど痛かったからな」
 いつからそこにいたのか? 赤蛮奇の前に正邪君が立っていた。
「それで」と赤蛮奇は言った。「僕に復讐するつもりですか?……いや、これは確か前にも聞いたな。あなたは妖怪になった。それを僕に自慢しに来たんでしたっけ?」
 聴衆に向かって演説でもするように、正邪君は大きく両腕を広げてみせながら言った。
「そう、僕は妖怪になったんだ。実にすばらしい気分だ」
 サンダル履きのまま室内をぺたぺたと無遠慮に歩き回りながら、彼女は続けた。
「どうやら僕は天邪鬼という妖怪らしい。何でもひっくり返す能力を持つらしいぜ。だからこんなことも……」
 彼女は手近な壁に片足をかけると、そのままぺたぺたと壁を上り始めた。やがて天井まで達すると、今度は逆さまになって、天井をぺたぺたと歩き回った。彼女は足を止めて、にやにやと嘲笑うような目つきで、逆さまのまま赤蛮奇を見下ろしながら言った。
「きみも妖怪になったんだろ? きみの能力は何だ? 確か首が抜けるんだっけ?」
「亡霊め、何度だって殺してやるぞッ!」赤蛮奇がピストルを構えて叫んだ。
「幻覚の次は亡霊ときたか、まったくきみって奴は!」正邪君が苦笑しながら言った。
 赤蛮奇が引き金を引こうとしたその瞬間、どさり、と不吉な音を立てて、正邪君が頭から床の上に落下した。
 真っ赤な血液が床の上に広がった。彼女は予期せぬ事態に困惑したような、驚いた表情のまま、奇妙に首を傾げたような格好で仰向けに横たわり、その目は完全に光を失っていた。弛緩した四肢がちぐはぐな方向にねじれ、だらしなく床に投げ出されたまま、少しも動かなかった。彼女の胸の真ん中にぽっかりと穴があいていた。それはまだ新しい銃創だった。彼女は死んでいた。
 赤蛮奇の全身に戦慄が走った。彼女はその光景を知っていた。それは彼女のトラウマであり、永久に忘れ去りたい過去であり、しかし、決して忘れることのできない忌まわしい記憶だった。それは《あの日》の再現であった。これとそっくり同じ光景を、彼女はもう嫌と言うほど、何度も繰り返し目にしていた。あの日から、亡霊は、彼女の前に度々姿を見せては、この恐ろしい光景をVTRのように再現してみせたのである。繰り返す恐怖、終わらない悪夢。彼女は首を左右に振りながらゆっくりとあとじさりした。
 もう動かないはずの正邪君の両目が、突然きょろきょろと動き出して、赤蛮奇の視線を捉えた。血の気を失った蒼い顔が不気味に微笑みながらこう言った。「言ったろ? こんな程度で人が死ぬもんかって」
 その時、部屋の戸口が勢いよく開いて、ひどく慌てた様子の影狼が飛び込んできた。彼女は赤蛮奇の姿を見るなり、まくし立てるように話し始めた。
「よかった、きみは無事だったか! おい、やばいぜ。今朝から姫と連絡がつかないんだ。ネットワークの他の連中にも確認したけど、誰も彼女の居場所を知らないって言うんだ。それで、きみに知らせようと思ってここに来たら、部屋の中からきみの怒声がするものだから、てっきり巫女に踏み込まれたものかと……とにかく、きみの無事が確認できてよかった。ところで、さっき、きみはあんなに声を荒げて、いったい誰と話していたのさ?」
 赤蛮奇はピストルを握ったまま、幽霊のように蒼白い顔で呆然と立ち尽くしていた。
 部屋には彼女が一人きりで、影狼を除けば、他には誰もいなかったのである。

【小説版】東方輝針城 (了)
譎詐百端
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コメント



0.210簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
 これは久方ぶりに、とおっても、面白い作品に巡り会いました。最初から、妖怪は幻想だったわけです。文字通りの幻想。幻覚、空想、作り話に尾ひれがついて作られる共同幻想。はるか昔からわが国に伝わるカミと妖怪。
 独裁国家のための幻想なんですよ。「正しい歴史認識を育む会」だなんて、悪い冗談にもほどがあります。なんてブラック極まりないすばらしい設定。
5.90名前が無い程度の能力削除
ああ なるほど。英雄も妖怪も勝者の都合で政り上げられる政治道具という訳か。土蜘蛛然り聖徳王然り。結局のところ政治とはパワーゲームであり、おそらく革命者の掲げる思想信条もカタチ無い妖怪でしか在り得ない。言葉は言葉でしかなく(モラルの様に精神面での影響に留まる程度)、政治とは力の雄弁さを以て罷り通るもの。スペルカードルールからして命名決闘 "法" という名の為政者により保障(利用)される権利なら、義務とは体制に対して従順である事。幻想郷と云う異郷を持ち出すまでもなく、国家とは一つの箱庭である。其処における民衆が、家畜か、奴隷か、ペットか、共生者か、程度の違い。

何方にしても嫌な幻想郷です。
"一つ、完全な実力主義を否定する。"
とは何だったのか、問い詰めたくなる(勿論、政治上の詭弁なのでしょうけどね)
政治の前では、理念など塵芥に等しい(キリッ
(そう云う意味じゃ、簡易で10点付ける人の気持ちも分らなくはない)
8.100名前が無い程度の能力削除
つまりファンタジーなんて存在しない世界?
現実の歴史で古代神秘主義が幅をきかせていたみたいに
9.90名前が無い程度の能力削除
話が飛びまくるためにところどころ何が起きているのか理解するのに苦労しましたが、しかし「誰が」悪霊なのかはわかった気がします。
こいつはとんでもない逆さまです。生前
10.無評価名前が無い程度の能力削除
改革を夢見て行動し、その過程で嘘と言い換えで人を惹きつけ、しかし官吏に弾圧され、死ぬ。ところが、死んだあとにむしろ彼の教えが広まり、地下で人々の支持を集め、ついには「復活」するにいたる。こんな物語、世界で一番有名な物語を思い出しませんか?
11.90名前が無い程度の能力削除
後味が悪いけど、物語としては成功なのかな?
鉄の大幣は柄だけじゃなく幣も鉄製なのかしら? 某毛○てるさんみたいに
12.100名前が無い程度の能力削除
正しい歴史認識を育む会
ジョークのようだが極めてシリアス
というか笑うことはこの幻想郷への挑戦なんだろうな
嘘こそ真と信じないといけない 何故なら嘘だから
嘘には必ず信じねばならない理由がある
なら信じることが命より重いもの等悉く嘘なんだろう
上でもあるように結局宗教も歴史もどの嘘を命より尊く信じるかという話なんだろうなあ