「来たぜゲレンデ!」
蓮子が諸手を上げて叫んだので、隣に立っている私も真似をすることにする。
「イェーイ来たぜゲレンデ!」
「蓮子とメリーテンションあがりすぎィ!」
「バスの中ではあんなにローだったのに!」
「っていうか着替えるの速すぎでしょ!」
「はいはい皆さんご一緒に。来たぜゲレンデ!」
蓮子が腕を下から上へ仰ぐようにあげると、総勢6人の友人たちも同調した。
「イェーイ! ゲレンデ!」「デンレゲ! イェーイ!」「謎の語感ぎゃははは」
「ゲレンデは犠牲になったのだ」「デンレゲの犠牲にな」「デンレゲェ、オレオ取って」
「ゲレンデの犠牲のデンレゲの犠牲の犠牲」「ゲレンデェ」「お前の前の棚の棚の前の棚のオレオのオレオェ」
要約すると一行で済むあらすじ。
みんなでデン、……げふん、ゲレンデに来ました。
私は日本に来るまで雪を見たことが無かった。
少し前までは山ほど降っていたらしいけれど、温暖化の影響で積雪が無くなったのだ。
そのためウィンタースポーツにはからっきしで、去年は蓮子のお世話になったけれど。
今は初級者コースならば一人で一度も転ばずに下って来れる程度の能力がついた。
そう。蓮子はスキーもスノボーもめちゃくちゃ上手い。
雪を見ると際限なくテンションが上がり私に雪玉をぶつけてくるし。
デン、……げふん、ゲレンデに来れば水を得た魚の如く縦横無尽に動き回ることができる。
私は上も下も全部レンタルだが、蓮子が来ているウェアはもちろん自前だ。
いつもは白か黒かしか着ないのに、ゲレンデに来るとはしゃぐのだからおかしな話だ。
曰く、カタカナで五文字くらいの、めちゃくちゃ高いウェアらしい。ノローナとかなんとか。
上も下も赤色で、ヘルメットだけは白色。雪の保護色で首無しが滑ってるように見える。ばんきっき。
「メリー! オレオのオレオの棚のお前のデンレゲのオレオの棚の棚! 見てて!」
「はいはいオレオオレオ、見てますよ」
私はボードを外し上級者コースの外を歩いて下り、キッカーのところでビデオカメラを構えた。
傍にも大学の友人が四人ほど。私同様、蓮子の神がかったジャンプを記録しようとしている。
「スイッチバックサイドテンやるから!」
いやそんな事言われても分からんし。まあ蓮子のカッコいい所が見れればいいや。
去年は縦方向に二回転をやってたけれど、今年はさらに腕を上げたと豪語していた。
何であんなこと出来るのかな。ああきっと空間把握能力があるのね。あんな目を持ってる具合だし。
さて私の背丈の二倍以上はある巨大なジャンプ台へ向けて加速を行い――。
「イイイイィィィヤッホオオオオォォォウウ!」
奇声を上げて大ジャンプした。
縦方向に一回、二回、三回。ああテンって1080ってことね。
空中を蓮子が舞う。友人たちが歓声を上げる。
美しい弧を描いてギャップの陰に消えて。ここからでは見えない向こう側に着地した。
なんか蓮子のヘルメットと、分離したボードだけがちらりと見えた気がした。
「……ん? なんかヤバいんじゃないか?」
隣の友人がぼそりと言った。わらわらと足に板を付けて坂を下って行く友人たち。
私の隣にいた友人も、木目柄茶色のボードを足にはめて、斜面を下って行く。
もちろん私は上級者コースなんて滑れない。歩いて行くことになる。
自分の息遣いだけが温かい。体が震えているのは寒さのせいだ。
いやに呼吸音だけが大きく聞こえる。まるで夢の中を走ってるみたい。
雪に足を取られ、斜面に転びながら、中々前に進まない。
ギャップを超えて、お尻で滑る。
そうして目に飛び込んできた光景に、身が凍る気がした。
蓮子が倒れてる。
ヘルメットがずっと遠くに転がっていて、ボードは斜面のずっと下の方へ滑っている。
手足を投げ出し、遠目でわかるほどにぐったりとしている。
友人が屈んでこう言ったのを聞こえた。
――耳から血出てるぞ。
蓮子、緊急搬送。最寄りの病院に担ぎ込まれた。
救急カプセルが病院前に着くと医者がストレッチャーを転がしてきた。
付添いの私には目もくれず、掛け声を合わせて蓮子を移して。
なんかのドラマみたいにガラガラと音を立てて院内へ運んでゆく。
耳から血を流す蓮子はそのまま病院の奥に消えて行った。
震えが止まらない。
膝が自分のものじゃなくなったみたいに、がたがたとする。
病院の廊下で椅子に座っていたら、お医者さんが来た。
「あの子の友人だね?」
「はい」
「この子の両親の連絡先は分かる?」
「連絡します」
蓮子のお母さんが電話に出た。
名前は京子さんだ。
挨拶すると声色がぱっと明るくなる。
「あらメリーちゃん、どうしたの?」
「京子さん、蓮子がゲレンデで頭を打って」
「あらそう。大丈夫なの?」
「30分前からずっと――、」
意識不明って言うのかしら? なんて言えばいいんだろう?
重体? かなりやばい? 的確な言葉が見つからない。
もたもたとしていると京子さんも異常を察知したのだろう。
落ち着いて話してなどと言って私から言葉を絞り出そうとしている。
目の前に立つお医者さんが手を差し出してきた。
「えっと、上手く説明できるお医者さんに代わりますね」
京子さんは90分で病院まですっ飛んできた。
父親の武さんも、10分遅れてきた。
私は何も言わないでじっとしていた。
7時間待った。
宇佐見家の両親には経過が伝えられているようだが、私には当然何の処置も無い。
ここら辺になって、武さんは私に配慮できる余裕が出てきたようだった。
「ハーンちゃんは、近くのホテルを取ってるんだろう?」
「いいえ取ってません。大学の友人たちと日帰りツアーできたので」
「何人で来てるんだね?」
「私を入れて、7人です」
「帰りの時間は?」
「二時間前に過ぎました」
「友人たちは?」
「全員その時間に帰ったみたいです」
「……ここに居ても仕方ないから、ね?」
私は時刻を確認した。まだ夕方だ。
でも京都に帰ろうと思えば、1時間後には自宅にいるだろう。
武さんの判断は正しい。というより、とても常識的だ。
それに、武さんだけが、私に許可を出せる立場だ。
帰って良いと言う許可を。
イヤです、と言おうと思って武さんの顔を見る。
そして頑固たる表情に負けて、私の気骨は薄皮一枚残してぽきりと折れた。
だが、その薄皮一枚が大事だ。
「あと3時間だけ居させてください」
さらに2時間待った。そこで、動きがあった。
医者が静かにこちらへ歩いてきて、四方を見回して、宇佐見夫妻を見た。
病院の待合スペースで宇佐見夫妻からは距離を開けていた私は、立ち上がりかけてやめた。
常識的な分別が働いたからではない。遠慮した訳でもない。ただ、恐ろしかった。
ほぼ確信的な事実を聞くのが、怖かった。だけどこれも言い訳だなと思った。
宇佐見夫妻の方がずっと恐ろしいに違いない。
私はここまで来て、逃げたんだ。
医者が夫妻を呼び、武さんだけが立った。
だが医者は武さんが接近する前に、四方に部外者が居ない事を確認してから。
「意識が戻りました」と言った。
メリーちゃんも来たいだろう。と武さんが言ってくれた。
夫妻の後ろをついていく形で、私は廊下を歩く。
「脳と言うのは、頭蓋骨に守られている状態で、中で体液に浮かんでいる状態です。
動きがあれば液体と一緒に連動して、脳を守っているので、」
「脳脊髄液のことですね、分かります」武さんは余裕が無い様子だ。
「ですがこれが強い衝撃になると、脳が頭蓋骨に衝突して、」
「脳振盪の事ですね、分かります」武さんは余裕が無い様子だ。
「主な症状は一時的な記憶混乱と」
「娘の容体だけ教えてください」武さんは余裕が無い様子だ。
「記憶の混乱が見られます」
「記憶の混乱? たったそれだけ?」
「それだけです」
「耳穴から出血したんだろう?」
「はい」
「錐体部骨折、頭蓋底骨折は?」
「していませんでした」
「なぜ?」
「軽度の脳振盪だからです」
「外傷性クモ膜下出血や硬膜下血腫の心配は?」
「今のところはありません」
「セカンドインパクトシンドロームの心配は無いという事ですね?」
「今のところはありません、歩行も行っていますし」
「なんだと!? キサマ娘を立たせたのか!?」
武さんが怒鳴った。まあそうだね。
脳を揺さぶられたのならば絶対安静だ。
だけど医者は両手を上にあげて、嫌々と言う風に首を振った。
「安静にするように言っても、自力で立ち上がるんです」
「平衡機能検査はしたのか? 眼振は見たのか? してないんだろう?」
「していません」
「そんなこともせずに立たせたのかキサマは!」
「……そちらです」
医者が手で個室を指し示した。
夫妻と共に個室へ入る。
「お、ついに軟禁解放?」
一人シャドーボクシングしてる蓮子がいた。
京子さんはその場にへなへなと座り込み、武さんは頭を抱えた。
「蓮子、寝ていなさい」
「へーい」
次にはベッドの上で腹筋してる蓮子がいた。
「静かにしていなさい」
「体がなまっちゃってさ」
「何かの間違いか? 即死の可能性さえあった筈だぞ?」
「私に言われましても……」とお医者さん。
「失礼を承知で言わせてもらいますが、あなたは医者でしょう?」
「御覧の通り、常軌を逸した症例なので」
「痛みは無いのか?」
「どこも痛くないよ」
「めまいがするとか、眠いとかは?」
「なんにもないね」
武さんは蓮子に近寄り、ポケットからペンライトを取り出して蓮子の目を照らした。
次に両手を握ってみろと言い、足の指を動かしてみろと言い。
手足の指を一本一本刺激して感覚があるか聞き。
次には蓮子の脳の断層撮影写真を医者に持ってこさせ、日の光で見て。
「正常だ」
はあとため息をついた。
理解不能だ、と言いたげに再度頭を抱えて。
「蓮子、帰るぞ」
「はぁい、やったぁ」
蓮子の荷物を回収するために一度ゲレンデへ戻った。
移動中は京子さんと話が弾んだ。
当然だけど荷物をまとめるのは、全て武さんがやった。
蓮子は両親と私はきちんと覚えていた。
ただ細かい素振りにところどころ、蓮子っぽくない所作があった。
あとは細かい発音の仕方とか、目の動き方とか。
「メリー、言ってみて」
「メリー?」
「メリー」
「メリー?」
「うーん、若干違うんだよなぁ」
「でも良かったわ。私も武もメリーちゃんも、忘れられてなくてね」
夫妻は蓮子を京都の自宅へ送り、私と蓮子を下ろして、東京へ帰って行った。
私は蓮子の分と自分の分の荷物を運び、蓮子の家へ行った。
ばたりと扉を閉めて荷物を置いて、ふうと一息。
「よっし、これでオッケーと」
「ここが私の家?」
「そそ。覚えてないの?」
「まあね」
「蓮子は大学生なのよ? で、一人暮らししてるの」
「メリーってあだ名だよね?」
「うん、本名はマエリベリー・ハーン」
「ふうん」
蓮子は部屋を見回し、適当な椅子に座って。
「それで、説明してよ」
「あなたは、宇宙が好きだったわ」
「宇宙?」
「そそ。特に月が好きだった」
「ああそういうのいいからさ。説明して」
「? 説明って? なにを?」
「ここにいていいの?」
「そりゃ、あなたの家だもの」
「結界の管理は? 神社はどうなるの?」
「神社? どこの神社? 結界って?」
「博麗大結界よ。私がいなくなったら幻想郷どうなるの?」
「博麗大結界? 幻想郷?」
「あそっか、代わりの巫女を見つけたから、私は外の世界に来たのね」
納得が行ったという風に、拳を手の平で受け止めてぽんと打つ。
私は少しずつ、怖くなってきた。そして同時に、確信を得てきた。
これは“蓮子じゃない”んだという確信。“別の誰か”だという予想。
「そうと分かれば話は早いわ」
“蓮子”はにこにことして話を始めた。
「縁側でお茶を飲んでたところまでは覚えてるんだけどさ」
「そ、そうなの?」
「ええ。で、病院で目が覚めた」
「頭を打ったのよ。蓮子パパが言ってたでしょ?」
「ああだからそういうのいいからさ」
蓮子は髪をかきあげて。
“無い髪”をかき上げて。
“あたかもそこに長い髪があるかのように”
そうしてから、“蓮子”は言った。
「紫、幻想郷に帰りたいんだけど、私はずっとこのままなの?」
話を聞いた。
“彼女”は博麗霊夢と言う名で、幻想郷と言う隠れ里で巫女をやっているのだと言う。
博麗神社は幻想郷を形作る博麗大結界と言う結界の為に必要で。
博麗霊夢はその神社で博麗大結界の管理をやっているということだ。
博麗神社とは、どこかで聞いたことがある気がする。
思い出せないから後回しだ。
「幻想郷では結界術とか使えたんだけど」
「ここでは無理なの?」
「うん、体に霊力が全く無い」
「結界術を使うには、霊力が必要なのね?」
「そそ。私は霊力だけが取り柄みたいなものだからね。
霊力さえあれば何でもできる! 霊力ですかー!」
「何でもできるって、例えば?」
「未来を予知したり」
「うっそぉ、未来予知!?」
「あ、これは勘みたいなものなんだけどね。未来予知だってよく言われるからそう言う事で。
あとは空飛んだり瞬間移動したり、まあ色々ね」
「巫女さんっぱねぇ……」
少し話をして分かったが、霊夢は少し年下なようだ。
風呂に入って蓮子の体を見て、うおお大人の体だ、と呟いていたし。
やはり私の観察は当たっていたようで、手足の使い方がまだあどけない。
と、会話に付き合いながら考察をする。
蓮子ったら、多重人格が芽生えちゃったみたいね。
この霊夢と言う人格は、子供の頃に妄想した物語の主人公か何かだろう。
どちらにせよ頭部を強打して死にかけたことには変わりはない。
とりあえずは安静にして、詳しい事は明日調べればいい。
蓮子(霊夢?)にご飯を食べさせて、私は蓮子の家に泊まることにした。
霊夢人格は寝つきが良い方らしく、ふかふかのベッドに興奮してから、すぐに眠った。
私も、数時間とは言えボードを楽しんだのだ。あと、精神的な疲労もあった。
蓮子の寝息が聞こえてきたのを確認してから、眠った。
朝、まどろみから目が覚める。
目をぱちりとあけ、その場で軽く寝返りを打つ。
椅子に座り、端末を操作する蓮子の姿があった。
寝返りで気付いたのだろう。蓮子は私を振り返り、頷いた。
「あ、おはようメリー」
「うん、おはよう蓮子、じゃなくて霊夢。ご飯作るね」
「お? マジで? 作ってくれるの? あざぁす」
体を起こして簡易ベッドを片付けながらおやと違和感。
蓮子がなにやらぶつぶつと独り言をつぶやいている。
そっと接近し蓮子の後ろ頭へ耳を傍立てる。
「霊夢が居た時代とはちょっとズレがあるみたいだねぇ」
「あらホントに? どれくらい違うの?」
「百数十年くらいかな。昭和なんてずっと昔よ」
「へえどうりで景色さえも全然違うと思ったわ」
「便利になったでしょ」
「蓮子は便利な暮らしをしてるのね。ベッドとか最高だったわ」
「私のベッドだから、いつでも使っていいよ」
「わぁいありがと蓮子」
「ちょっとストップストーップ!」
私は蓮子の頭を叩こうとして、思い留まった。
私のチョップで脳挫傷したら冗談じゃないからね。
「わ、びっくりした。なによメリー?」この発音は蓮子だ。
「蓮子あなた、起きてたの?」
「まあね」
「まあね、じゃないが」
「うぃ」
「頭は大丈夫なの?」
「うぃ」
「うぃ、じゃないが」
「じゃあなんて言えばいいのよ?」これは霊夢の発音である。
「説明しなさい」
「朝起きたら霊夢が居た脳内」蓮子が言った。
「蓮子の脳内の霊夢の蓮子の脳内ェ」これは霊夢だ。
「下らないネタを教えないの!」
「大きな声を出さないでよ」霊夢。
「で、どうする?」蓮子。
「どうするって、なにが?」
「いや幻想郷に帰りたいって言ってるし。そうだよね霊夢?」
「うん、ちょっと心配だなー、なんてね」
それと、と蓮子は中折れ帽子を人差し指でくるくると回しながら。
「尺の問題もあるし。20kb超えたら中編って感じじゃん?」
「いや多分これ長編で読みたいってコメントされると思うよ?」
私よりも先に霊夢が突っ込んだ。
私は第四の壁を越えたセリフに辟易としつつ。
「はあ、まあいいわ。それであてはあるの?」
「あらあらメリーったら、秘封倶楽部で行ったの忘れちゃったの?」
蓮台野の奥にある忘れ去られた社、博麗神社。
肌寒い気温だったが、参道の階段を上っている内に汗をかいた。
石畳は割れて荒れ果てて、あちこちから雑草が生い茂っている。
到着したとき、霊夢がまあと声を上げた。
「これはひどい」
まあそりゃそうだろうね。
霊夢の記憶からすれば一世紀半以上も放置された計算になる。
彼岸花を踏まない様にひょいひょいと足を進めて境内へ。
「まりさー? さくやー? 帰ったわよー! さなえー! すいかー!
あれぇ? 一人くらいいてもいいのになぁ。おーい、誰もいないのかーい」
人の気配などどこにもない事を教えてあげることは憚られた。
この叫びがあまりにも悲痛で、悲壮で、哀愁に満ちていたからだ。
「博麗の巫女の帰還よー! 盛大にもてなせーい!」
こんな事を叫びながら霊夢は私を置いて先へ進んで行く。
ここで待っていようとしていると、霊夢がくるりと振り返った。
「なにしてるの紫、はやく来なさいって」
「だから私は紫じゃないって。メリーだって」
「だってそっくりなんだもの」
「容姿がでしょ」
「うーん、まあいいや。おーい、アリスー? 居るでしょ出てきなさーい」
もはやただの木片と化した賽銭箱を覗き込み、裏手へ回って行く。
邪魔はしないように後ろに続く。
静かな、――いや、静寂な空間に、霊夢の声が木霊する。
だけど聞こえてくるのは風に揺れる木の葉の擦れる音だけだ。
「ほら紫、ここで私が茶を飲んでたの、覚えてない?」
「覚えてないよ。っていうか別人だし」
「ほらほら、ここでこうやって正座してさ」
草が繁茂し荒れ放題の境内裏。社務所の中だって雑木林と大差ない有様だ。
そこに霊夢は靴を脱いで上がりしとしとと歩き、穴だらけの縁側に正座した。
「ああほら、やっぱり何も変わってないや」
「あらそう」きっとこれが済んだら霊夢は居なくなってしまうのだろう。
だったら気が済むまで好きにさせてやろうと思い、なんとなく返事を返した。
「メリー、」いきなり、蓮子が言った。
「すごいわ。あなたもここに来なさい」
「え? どうして?」
「いいから、靴は脱いで、隣に座りなさい」
と言っても荒れ放題の廃屋に等しい。
渋っていると霊夢がえへへと笑った。
「蓮子は見えてるみたいだね。多分紫も、見えてるよ。
今見えてないのはメリーだけだね。まあ見なくてもいいけどさ」
こんな風に言われたら見る他無い。
靴を脱ぎ、つま先立ちで縁側を歩き、霊夢の隣に正座する。
そうして、はっと息を呑んだ。
「お裾分けにキノコ持って来たぜ霊夢。夕飯は鍋にしようか」
魔女の格好をした少女が、三角帽子に一杯のキノコを抱えて、こちらに屈託のない笑みを見せている。
「キノコの水炊きじゃ酷いでしょうに。はい霊夢、この具材もどうぞ」
青色のワンピースを着た白い肌の女性が、籠に白菜や水菜などの野菜を入れて、こちらに差し出してきている。
「ワインを持ってきましたわ。ウチで作ったのよ」
メイド服を着た少女がワインを持って立っている。
「味は保障する。鍋に合うかどうかは別問題だが」
ワンピースドレスに蝙蝠の様な翼をもつ少女が言った。
「山で腕相撲大会があったんだ、はいこれ景品、河童が造った日本酒だってさ」
頭部から日本の角が生えている女の子が、一升瓶を掲げてこちらに歩いてきた。
「私ったら鼻がいいですね。遊びに来たら偶々鍋大会とは」
緑色の髪の毛をした、装束衣装の少女が笑っていた。
わいのわいのと勝手に上り込んできて、居間へ長机を出して食器を並べ。
鍋を二つも三つも用意し、各々が勝手に煮込み始めた。
「なにこれ、――どうなってんの?」
居間の方向へ立ち上がり、数歩進もうとして。「ぐへっ」コケた。
ぱちくりとすると、居間に空いた巨大な穴に片足を突っ込んでいた。
一転、静寂だけが支配する神社に戻っていた。
「もう紫ったら、いつになってもどんくさいわねぇ」
霊夢がそう言って、手を差し出してきた。
ムッとしながらその手を掴むと――。
「わはははは!」「床踏み抜いてやんの!」「冬眠のしすぎで太ったんじゃないか?」
「失礼な、紫様はちょっとふくよかなだけです!」「おい式にまで言われてんぞ!」
指を指され四方から笑い声が追ってくる。
ぎょっとして手を払いのける。やはり、再度静寂。
「本当に、何も変わっていないようね」蓮子が言った。
「“裏”はね。でも“表”はどうしてこんなことになっちゃったんだろう?」
途端にしょぼくれた霊夢は、力なく縁側に座り込んだ。
「博麗大結界が見当たらない。どこかに行っちゃったわ」
私はやっとのことで穴から抜け出すと、縁側に戻ってきた。
隣に座っても、さっきの賑やかな風景は見えてこなかった。
「ねえ紫、知ってるんでしょ? 教えてよ」
とまたもや霊夢が私に問いかけてくる。
私は何も知らない。何も教えてあげることは出来ない。
とても悲しい事だけは確かだけれど、力になってあげることは出来ない。
そうして首を振ろうとして、鼻の頭を掻こうとして。
“涙を流している事に気付いた”。
「ごめんなさい、霊夢」
妙な感覚だった。胸がどうしようもなく苦しくなって、呼吸が上手くできない。
思っても無い事が、考えてもいないことが、勝手に口を継いで言葉が出てくる。
心臓の少し下あたりに強烈な何かが詰まっていて、外に出たいと暴れているようだった。
「幻想郷は、亡くなったわ」
嗚咽をかみ殺すように、苦しそうに息を吸い。
「どうしようもなかった。崩壊はあっという間だった。手の施しようが無かった。
だけど、私の力が足りていれば、きっと回避できた。私が不甲斐ないばかりに……ッ!」
霊夢が手を伸ばし、私の背中をさすってくれた。
それで張り裂けそうな胸の痛みが、少し和らいだ。
「最後は地力を全員に分け与えて、全員が解散するしかなかった。
能力を失った者もいた。あなたの墓も暴いて、霊力を使わせてもらった。
私も四身を切り捨てて、妖怪達に分け与えた。だけど全員を救うには全く足りなかった。
結局、ノアの方舟の様になってしまった。選び出した一握りを救う事しかできなかった。
ここに残ったものは死んで、一握りも散り散りになって、没した先も分からない。
だけど明らかなのは、誰も生き残れなかったってこと。誰一人として、全員が死んだわ」
私が、私のみが罪なのよと、紫は繰り返した。
「ごめんなさい霊夢。あなたが愛していた幻想郷を、結局捨てる事しかできなかった。
いいえそれどころか、地力さえも使い切って、名残りさえも残さずに、土地を手放した。
ここに有るのは残骸とも言えない、死の行きあたりよ。あなたが愛した幻想は、もうどこにもないわ」
私を罵って頂戴。私を軽蔑して、呪ってちょうだい。
たったそれだけを望んで私はここにいるのよ霊夢。ただ償いがしたくて。
「あなたは悪くないわ」
霊夢は縁側に正座したまま、遠くを眺めて言った。
視線の先は雑木林が茂るだけで、草木が繁茂した風景が視界を埋めるだけだ。
「あなたは悪くない」
霊夢が繰り返した。
そうしてから、紫を見た。
「また作ればいいじゃん。それだけよ、紫」
霊夢が、紫の頭を撫でた。
「私とあなたがここでこうして会えたんだもの。
他のみんなも、どこかで何かをして、日々を過ごしているわ。
だから、探しに行きましょう。全員を探し出して、全員で顔をそろえて。
そしてまた毎日を過ごしましょう。
昔みたいに、いいえ、――昔と同じように」
霊夢は、紫の頭を抱きしめてから。
「あなた達も、付き合ってくれるわよね?」と問いかけてきたのだった。
蓮子が諸手を上げて叫んだので、隣に立っている私も真似をすることにする。
「イェーイ来たぜゲレンデ!」
「蓮子とメリーテンションあがりすぎィ!」
「バスの中ではあんなにローだったのに!」
「っていうか着替えるの速すぎでしょ!」
「はいはい皆さんご一緒に。来たぜゲレンデ!」
蓮子が腕を下から上へ仰ぐようにあげると、総勢6人の友人たちも同調した。
「イェーイ! ゲレンデ!」「デンレゲ! イェーイ!」「謎の語感ぎゃははは」
「ゲレンデは犠牲になったのだ」「デンレゲの犠牲にな」「デンレゲェ、オレオ取って」
「ゲレンデの犠牲のデンレゲの犠牲の犠牲」「ゲレンデェ」「お前の前の棚の棚の前の棚のオレオのオレオェ」
要約すると一行で済むあらすじ。
みんなでデン、……げふん、ゲレンデに来ました。
私は日本に来るまで雪を見たことが無かった。
少し前までは山ほど降っていたらしいけれど、温暖化の影響で積雪が無くなったのだ。
そのためウィンタースポーツにはからっきしで、去年は蓮子のお世話になったけれど。
今は初級者コースならば一人で一度も転ばずに下って来れる程度の能力がついた。
そう。蓮子はスキーもスノボーもめちゃくちゃ上手い。
雪を見ると際限なくテンションが上がり私に雪玉をぶつけてくるし。
デン、……げふん、ゲレンデに来れば水を得た魚の如く縦横無尽に動き回ることができる。
私は上も下も全部レンタルだが、蓮子が来ているウェアはもちろん自前だ。
いつもは白か黒かしか着ないのに、ゲレンデに来るとはしゃぐのだからおかしな話だ。
曰く、カタカナで五文字くらいの、めちゃくちゃ高いウェアらしい。ノローナとかなんとか。
上も下も赤色で、ヘルメットだけは白色。雪の保護色で首無しが滑ってるように見える。ばんきっき。
「メリー! オレオのオレオの棚のお前のデンレゲのオレオの棚の棚! 見てて!」
「はいはいオレオオレオ、見てますよ」
私はボードを外し上級者コースの外を歩いて下り、キッカーのところでビデオカメラを構えた。
傍にも大学の友人が四人ほど。私同様、蓮子の神がかったジャンプを記録しようとしている。
「スイッチバックサイドテンやるから!」
いやそんな事言われても分からんし。まあ蓮子のカッコいい所が見れればいいや。
去年は縦方向に二回転をやってたけれど、今年はさらに腕を上げたと豪語していた。
何であんなこと出来るのかな。ああきっと空間把握能力があるのね。あんな目を持ってる具合だし。
さて私の背丈の二倍以上はある巨大なジャンプ台へ向けて加速を行い――。
「イイイイィィィヤッホオオオオォォォウウ!」
奇声を上げて大ジャンプした。
縦方向に一回、二回、三回。ああテンって1080ってことね。
空中を蓮子が舞う。友人たちが歓声を上げる。
美しい弧を描いてギャップの陰に消えて。ここからでは見えない向こう側に着地した。
なんか蓮子のヘルメットと、分離したボードだけがちらりと見えた気がした。
「……ん? なんかヤバいんじゃないか?」
隣の友人がぼそりと言った。わらわらと足に板を付けて坂を下って行く友人たち。
私の隣にいた友人も、木目柄茶色のボードを足にはめて、斜面を下って行く。
もちろん私は上級者コースなんて滑れない。歩いて行くことになる。
自分の息遣いだけが温かい。体が震えているのは寒さのせいだ。
いやに呼吸音だけが大きく聞こえる。まるで夢の中を走ってるみたい。
雪に足を取られ、斜面に転びながら、中々前に進まない。
ギャップを超えて、お尻で滑る。
そうして目に飛び込んできた光景に、身が凍る気がした。
蓮子が倒れてる。
ヘルメットがずっと遠くに転がっていて、ボードは斜面のずっと下の方へ滑っている。
手足を投げ出し、遠目でわかるほどにぐったりとしている。
友人が屈んでこう言ったのを聞こえた。
――耳から血出てるぞ。
蓮子、緊急搬送。最寄りの病院に担ぎ込まれた。
救急カプセルが病院前に着くと医者がストレッチャーを転がしてきた。
付添いの私には目もくれず、掛け声を合わせて蓮子を移して。
なんかのドラマみたいにガラガラと音を立てて院内へ運んでゆく。
耳から血を流す蓮子はそのまま病院の奥に消えて行った。
震えが止まらない。
膝が自分のものじゃなくなったみたいに、がたがたとする。
病院の廊下で椅子に座っていたら、お医者さんが来た。
「あの子の友人だね?」
「はい」
「この子の両親の連絡先は分かる?」
「連絡します」
蓮子のお母さんが電話に出た。
名前は京子さんだ。
挨拶すると声色がぱっと明るくなる。
「あらメリーちゃん、どうしたの?」
「京子さん、蓮子がゲレンデで頭を打って」
「あらそう。大丈夫なの?」
「30分前からずっと――、」
意識不明って言うのかしら? なんて言えばいいんだろう?
重体? かなりやばい? 的確な言葉が見つからない。
もたもたとしていると京子さんも異常を察知したのだろう。
落ち着いて話してなどと言って私から言葉を絞り出そうとしている。
目の前に立つお医者さんが手を差し出してきた。
「えっと、上手く説明できるお医者さんに代わりますね」
京子さんは90分で病院まですっ飛んできた。
父親の武さんも、10分遅れてきた。
私は何も言わないでじっとしていた。
7時間待った。
宇佐見家の両親には経過が伝えられているようだが、私には当然何の処置も無い。
ここら辺になって、武さんは私に配慮できる余裕が出てきたようだった。
「ハーンちゃんは、近くのホテルを取ってるんだろう?」
「いいえ取ってません。大学の友人たちと日帰りツアーできたので」
「何人で来てるんだね?」
「私を入れて、7人です」
「帰りの時間は?」
「二時間前に過ぎました」
「友人たちは?」
「全員その時間に帰ったみたいです」
「……ここに居ても仕方ないから、ね?」
私は時刻を確認した。まだ夕方だ。
でも京都に帰ろうと思えば、1時間後には自宅にいるだろう。
武さんの判断は正しい。というより、とても常識的だ。
それに、武さんだけが、私に許可を出せる立場だ。
帰って良いと言う許可を。
イヤです、と言おうと思って武さんの顔を見る。
そして頑固たる表情に負けて、私の気骨は薄皮一枚残してぽきりと折れた。
だが、その薄皮一枚が大事だ。
「あと3時間だけ居させてください」
さらに2時間待った。そこで、動きがあった。
医者が静かにこちらへ歩いてきて、四方を見回して、宇佐見夫妻を見た。
病院の待合スペースで宇佐見夫妻からは距離を開けていた私は、立ち上がりかけてやめた。
常識的な分別が働いたからではない。遠慮した訳でもない。ただ、恐ろしかった。
ほぼ確信的な事実を聞くのが、怖かった。だけどこれも言い訳だなと思った。
宇佐見夫妻の方がずっと恐ろしいに違いない。
私はここまで来て、逃げたんだ。
医者が夫妻を呼び、武さんだけが立った。
だが医者は武さんが接近する前に、四方に部外者が居ない事を確認してから。
「意識が戻りました」と言った。
メリーちゃんも来たいだろう。と武さんが言ってくれた。
夫妻の後ろをついていく形で、私は廊下を歩く。
「脳と言うのは、頭蓋骨に守られている状態で、中で体液に浮かんでいる状態です。
動きがあれば液体と一緒に連動して、脳を守っているので、」
「脳脊髄液のことですね、分かります」武さんは余裕が無い様子だ。
「ですがこれが強い衝撃になると、脳が頭蓋骨に衝突して、」
「脳振盪の事ですね、分かります」武さんは余裕が無い様子だ。
「主な症状は一時的な記憶混乱と」
「娘の容体だけ教えてください」武さんは余裕が無い様子だ。
「記憶の混乱が見られます」
「記憶の混乱? たったそれだけ?」
「それだけです」
「耳穴から出血したんだろう?」
「はい」
「錐体部骨折、頭蓋底骨折は?」
「していませんでした」
「なぜ?」
「軽度の脳振盪だからです」
「外傷性クモ膜下出血や硬膜下血腫の心配は?」
「今のところはありません」
「セカンドインパクトシンドロームの心配は無いという事ですね?」
「今のところはありません、歩行も行っていますし」
「なんだと!? キサマ娘を立たせたのか!?」
武さんが怒鳴った。まあそうだね。
脳を揺さぶられたのならば絶対安静だ。
だけど医者は両手を上にあげて、嫌々と言う風に首を振った。
「安静にするように言っても、自力で立ち上がるんです」
「平衡機能検査はしたのか? 眼振は見たのか? してないんだろう?」
「していません」
「そんなこともせずに立たせたのかキサマは!」
「……そちらです」
医者が手で個室を指し示した。
夫妻と共に個室へ入る。
「お、ついに軟禁解放?」
一人シャドーボクシングしてる蓮子がいた。
京子さんはその場にへなへなと座り込み、武さんは頭を抱えた。
「蓮子、寝ていなさい」
「へーい」
次にはベッドの上で腹筋してる蓮子がいた。
「静かにしていなさい」
「体がなまっちゃってさ」
「何かの間違いか? 即死の可能性さえあった筈だぞ?」
「私に言われましても……」とお医者さん。
「失礼を承知で言わせてもらいますが、あなたは医者でしょう?」
「御覧の通り、常軌を逸した症例なので」
「痛みは無いのか?」
「どこも痛くないよ」
「めまいがするとか、眠いとかは?」
「なんにもないね」
武さんは蓮子に近寄り、ポケットからペンライトを取り出して蓮子の目を照らした。
次に両手を握ってみろと言い、足の指を動かしてみろと言い。
手足の指を一本一本刺激して感覚があるか聞き。
次には蓮子の脳の断層撮影写真を医者に持ってこさせ、日の光で見て。
「正常だ」
はあとため息をついた。
理解不能だ、と言いたげに再度頭を抱えて。
「蓮子、帰るぞ」
「はぁい、やったぁ」
蓮子の荷物を回収するために一度ゲレンデへ戻った。
移動中は京子さんと話が弾んだ。
当然だけど荷物をまとめるのは、全て武さんがやった。
蓮子は両親と私はきちんと覚えていた。
ただ細かい素振りにところどころ、蓮子っぽくない所作があった。
あとは細かい発音の仕方とか、目の動き方とか。
「メリー、言ってみて」
「メリー?」
「メリー」
「メリー?」
「うーん、若干違うんだよなぁ」
「でも良かったわ。私も武もメリーちゃんも、忘れられてなくてね」
夫妻は蓮子を京都の自宅へ送り、私と蓮子を下ろして、東京へ帰って行った。
私は蓮子の分と自分の分の荷物を運び、蓮子の家へ行った。
ばたりと扉を閉めて荷物を置いて、ふうと一息。
「よっし、これでオッケーと」
「ここが私の家?」
「そそ。覚えてないの?」
「まあね」
「蓮子は大学生なのよ? で、一人暮らししてるの」
「メリーってあだ名だよね?」
「うん、本名はマエリベリー・ハーン」
「ふうん」
蓮子は部屋を見回し、適当な椅子に座って。
「それで、説明してよ」
「あなたは、宇宙が好きだったわ」
「宇宙?」
「そそ。特に月が好きだった」
「ああそういうのいいからさ。説明して」
「? 説明って? なにを?」
「ここにいていいの?」
「そりゃ、あなたの家だもの」
「結界の管理は? 神社はどうなるの?」
「神社? どこの神社? 結界って?」
「博麗大結界よ。私がいなくなったら幻想郷どうなるの?」
「博麗大結界? 幻想郷?」
「あそっか、代わりの巫女を見つけたから、私は外の世界に来たのね」
納得が行ったという風に、拳を手の平で受け止めてぽんと打つ。
私は少しずつ、怖くなってきた。そして同時に、確信を得てきた。
これは“蓮子じゃない”んだという確信。“別の誰か”だという予想。
「そうと分かれば話は早いわ」
“蓮子”はにこにことして話を始めた。
「縁側でお茶を飲んでたところまでは覚えてるんだけどさ」
「そ、そうなの?」
「ええ。で、病院で目が覚めた」
「頭を打ったのよ。蓮子パパが言ってたでしょ?」
「ああだからそういうのいいからさ」
蓮子は髪をかきあげて。
“無い髪”をかき上げて。
“あたかもそこに長い髪があるかのように”
そうしてから、“蓮子”は言った。
「紫、幻想郷に帰りたいんだけど、私はずっとこのままなの?」
話を聞いた。
“彼女”は博麗霊夢と言う名で、幻想郷と言う隠れ里で巫女をやっているのだと言う。
博麗神社は幻想郷を形作る博麗大結界と言う結界の為に必要で。
博麗霊夢はその神社で博麗大結界の管理をやっているということだ。
博麗神社とは、どこかで聞いたことがある気がする。
思い出せないから後回しだ。
「幻想郷では結界術とか使えたんだけど」
「ここでは無理なの?」
「うん、体に霊力が全く無い」
「結界術を使うには、霊力が必要なのね?」
「そそ。私は霊力だけが取り柄みたいなものだからね。
霊力さえあれば何でもできる! 霊力ですかー!」
「何でもできるって、例えば?」
「未来を予知したり」
「うっそぉ、未来予知!?」
「あ、これは勘みたいなものなんだけどね。未来予知だってよく言われるからそう言う事で。
あとは空飛んだり瞬間移動したり、まあ色々ね」
「巫女さんっぱねぇ……」
少し話をして分かったが、霊夢は少し年下なようだ。
風呂に入って蓮子の体を見て、うおお大人の体だ、と呟いていたし。
やはり私の観察は当たっていたようで、手足の使い方がまだあどけない。
と、会話に付き合いながら考察をする。
蓮子ったら、多重人格が芽生えちゃったみたいね。
この霊夢と言う人格は、子供の頃に妄想した物語の主人公か何かだろう。
どちらにせよ頭部を強打して死にかけたことには変わりはない。
とりあえずは安静にして、詳しい事は明日調べればいい。
蓮子(霊夢?)にご飯を食べさせて、私は蓮子の家に泊まることにした。
霊夢人格は寝つきが良い方らしく、ふかふかのベッドに興奮してから、すぐに眠った。
私も、数時間とは言えボードを楽しんだのだ。あと、精神的な疲労もあった。
蓮子の寝息が聞こえてきたのを確認してから、眠った。
朝、まどろみから目が覚める。
目をぱちりとあけ、その場で軽く寝返りを打つ。
椅子に座り、端末を操作する蓮子の姿があった。
寝返りで気付いたのだろう。蓮子は私を振り返り、頷いた。
「あ、おはようメリー」
「うん、おはよう蓮子、じゃなくて霊夢。ご飯作るね」
「お? マジで? 作ってくれるの? あざぁす」
体を起こして簡易ベッドを片付けながらおやと違和感。
蓮子がなにやらぶつぶつと独り言をつぶやいている。
そっと接近し蓮子の後ろ頭へ耳を傍立てる。
「霊夢が居た時代とはちょっとズレがあるみたいだねぇ」
「あらホントに? どれくらい違うの?」
「百数十年くらいかな。昭和なんてずっと昔よ」
「へえどうりで景色さえも全然違うと思ったわ」
「便利になったでしょ」
「蓮子は便利な暮らしをしてるのね。ベッドとか最高だったわ」
「私のベッドだから、いつでも使っていいよ」
「わぁいありがと蓮子」
「ちょっとストップストーップ!」
私は蓮子の頭を叩こうとして、思い留まった。
私のチョップで脳挫傷したら冗談じゃないからね。
「わ、びっくりした。なによメリー?」この発音は蓮子だ。
「蓮子あなた、起きてたの?」
「まあね」
「まあね、じゃないが」
「うぃ」
「頭は大丈夫なの?」
「うぃ」
「うぃ、じゃないが」
「じゃあなんて言えばいいのよ?」これは霊夢の発音である。
「説明しなさい」
「朝起きたら霊夢が居た脳内」蓮子が言った。
「蓮子の脳内の霊夢の蓮子の脳内ェ」これは霊夢だ。
「下らないネタを教えないの!」
「大きな声を出さないでよ」霊夢。
「で、どうする?」蓮子。
「どうするって、なにが?」
「いや幻想郷に帰りたいって言ってるし。そうだよね霊夢?」
「うん、ちょっと心配だなー、なんてね」
それと、と蓮子は中折れ帽子を人差し指でくるくると回しながら。
「尺の問題もあるし。20kb超えたら中編って感じじゃん?」
「いや多分これ長編で読みたいってコメントされると思うよ?」
私よりも先に霊夢が突っ込んだ。
私は第四の壁を越えたセリフに辟易としつつ。
「はあ、まあいいわ。それであてはあるの?」
「あらあらメリーったら、秘封倶楽部で行ったの忘れちゃったの?」
蓮台野の奥にある忘れ去られた社、博麗神社。
肌寒い気温だったが、参道の階段を上っている内に汗をかいた。
石畳は割れて荒れ果てて、あちこちから雑草が生い茂っている。
到着したとき、霊夢がまあと声を上げた。
「これはひどい」
まあそりゃそうだろうね。
霊夢の記憶からすれば一世紀半以上も放置された計算になる。
彼岸花を踏まない様にひょいひょいと足を進めて境内へ。
「まりさー? さくやー? 帰ったわよー! さなえー! すいかー!
あれぇ? 一人くらいいてもいいのになぁ。おーい、誰もいないのかーい」
人の気配などどこにもない事を教えてあげることは憚られた。
この叫びがあまりにも悲痛で、悲壮で、哀愁に満ちていたからだ。
「博麗の巫女の帰還よー! 盛大にもてなせーい!」
こんな事を叫びながら霊夢は私を置いて先へ進んで行く。
ここで待っていようとしていると、霊夢がくるりと振り返った。
「なにしてるの紫、はやく来なさいって」
「だから私は紫じゃないって。メリーだって」
「だってそっくりなんだもの」
「容姿がでしょ」
「うーん、まあいいや。おーい、アリスー? 居るでしょ出てきなさーい」
もはやただの木片と化した賽銭箱を覗き込み、裏手へ回って行く。
邪魔はしないように後ろに続く。
静かな、――いや、静寂な空間に、霊夢の声が木霊する。
だけど聞こえてくるのは風に揺れる木の葉の擦れる音だけだ。
「ほら紫、ここで私が茶を飲んでたの、覚えてない?」
「覚えてないよ。っていうか別人だし」
「ほらほら、ここでこうやって正座してさ」
草が繁茂し荒れ放題の境内裏。社務所の中だって雑木林と大差ない有様だ。
そこに霊夢は靴を脱いで上がりしとしとと歩き、穴だらけの縁側に正座した。
「ああほら、やっぱり何も変わってないや」
「あらそう」きっとこれが済んだら霊夢は居なくなってしまうのだろう。
だったら気が済むまで好きにさせてやろうと思い、なんとなく返事を返した。
「メリー、」いきなり、蓮子が言った。
「すごいわ。あなたもここに来なさい」
「え? どうして?」
「いいから、靴は脱いで、隣に座りなさい」
と言っても荒れ放題の廃屋に等しい。
渋っていると霊夢がえへへと笑った。
「蓮子は見えてるみたいだね。多分紫も、見えてるよ。
今見えてないのはメリーだけだね。まあ見なくてもいいけどさ」
こんな風に言われたら見る他無い。
靴を脱ぎ、つま先立ちで縁側を歩き、霊夢の隣に正座する。
そうして、はっと息を呑んだ。
「お裾分けにキノコ持って来たぜ霊夢。夕飯は鍋にしようか」
魔女の格好をした少女が、三角帽子に一杯のキノコを抱えて、こちらに屈託のない笑みを見せている。
「キノコの水炊きじゃ酷いでしょうに。はい霊夢、この具材もどうぞ」
青色のワンピースを着た白い肌の女性が、籠に白菜や水菜などの野菜を入れて、こちらに差し出してきている。
「ワインを持ってきましたわ。ウチで作ったのよ」
メイド服を着た少女がワインを持って立っている。
「味は保障する。鍋に合うかどうかは別問題だが」
ワンピースドレスに蝙蝠の様な翼をもつ少女が言った。
「山で腕相撲大会があったんだ、はいこれ景品、河童が造った日本酒だってさ」
頭部から日本の角が生えている女の子が、一升瓶を掲げてこちらに歩いてきた。
「私ったら鼻がいいですね。遊びに来たら偶々鍋大会とは」
緑色の髪の毛をした、装束衣装の少女が笑っていた。
わいのわいのと勝手に上り込んできて、居間へ長机を出して食器を並べ。
鍋を二つも三つも用意し、各々が勝手に煮込み始めた。
「なにこれ、――どうなってんの?」
居間の方向へ立ち上がり、数歩進もうとして。「ぐへっ」コケた。
ぱちくりとすると、居間に空いた巨大な穴に片足を突っ込んでいた。
一転、静寂だけが支配する神社に戻っていた。
「もう紫ったら、いつになってもどんくさいわねぇ」
霊夢がそう言って、手を差し出してきた。
ムッとしながらその手を掴むと――。
「わはははは!」「床踏み抜いてやんの!」「冬眠のしすぎで太ったんじゃないか?」
「失礼な、紫様はちょっとふくよかなだけです!」「おい式にまで言われてんぞ!」
指を指され四方から笑い声が追ってくる。
ぎょっとして手を払いのける。やはり、再度静寂。
「本当に、何も変わっていないようね」蓮子が言った。
「“裏”はね。でも“表”はどうしてこんなことになっちゃったんだろう?」
途端にしょぼくれた霊夢は、力なく縁側に座り込んだ。
「博麗大結界が見当たらない。どこかに行っちゃったわ」
私はやっとのことで穴から抜け出すと、縁側に戻ってきた。
隣に座っても、さっきの賑やかな風景は見えてこなかった。
「ねえ紫、知ってるんでしょ? 教えてよ」
とまたもや霊夢が私に問いかけてくる。
私は何も知らない。何も教えてあげることは出来ない。
とても悲しい事だけは確かだけれど、力になってあげることは出来ない。
そうして首を振ろうとして、鼻の頭を掻こうとして。
“涙を流している事に気付いた”。
「ごめんなさい、霊夢」
妙な感覚だった。胸がどうしようもなく苦しくなって、呼吸が上手くできない。
思っても無い事が、考えてもいないことが、勝手に口を継いで言葉が出てくる。
心臓の少し下あたりに強烈な何かが詰まっていて、外に出たいと暴れているようだった。
「幻想郷は、亡くなったわ」
嗚咽をかみ殺すように、苦しそうに息を吸い。
「どうしようもなかった。崩壊はあっという間だった。手の施しようが無かった。
だけど、私の力が足りていれば、きっと回避できた。私が不甲斐ないばかりに……ッ!」
霊夢が手を伸ばし、私の背中をさすってくれた。
それで張り裂けそうな胸の痛みが、少し和らいだ。
「最後は地力を全員に分け与えて、全員が解散するしかなかった。
能力を失った者もいた。あなたの墓も暴いて、霊力を使わせてもらった。
私も四身を切り捨てて、妖怪達に分け与えた。だけど全員を救うには全く足りなかった。
結局、ノアの方舟の様になってしまった。選び出した一握りを救う事しかできなかった。
ここに残ったものは死んで、一握りも散り散りになって、没した先も分からない。
だけど明らかなのは、誰も生き残れなかったってこと。誰一人として、全員が死んだわ」
私が、私のみが罪なのよと、紫は繰り返した。
「ごめんなさい霊夢。あなたが愛していた幻想郷を、結局捨てる事しかできなかった。
いいえそれどころか、地力さえも使い切って、名残りさえも残さずに、土地を手放した。
ここに有るのは残骸とも言えない、死の行きあたりよ。あなたが愛した幻想は、もうどこにもないわ」
私を罵って頂戴。私を軽蔑して、呪ってちょうだい。
たったそれだけを望んで私はここにいるのよ霊夢。ただ償いがしたくて。
「あなたは悪くないわ」
霊夢は縁側に正座したまま、遠くを眺めて言った。
視線の先は雑木林が茂るだけで、草木が繁茂した風景が視界を埋めるだけだ。
「あなたは悪くない」
霊夢が繰り返した。
そうしてから、紫を見た。
「また作ればいいじゃん。それだけよ、紫」
霊夢が、紫の頭を撫でた。
「私とあなたがここでこうして会えたんだもの。
他のみんなも、どこかで何かをして、日々を過ごしているわ。
だから、探しに行きましょう。全員を探し出して、全員で顔をそろえて。
そしてまた毎日を過ごしましょう。
昔みたいに、いいえ、――昔と同じように」
霊夢は、紫の頭を抱きしめてから。
「あなた達も、付き合ってくれるわよね?」と問いかけてきたのだった。
座敷童子を外に出してみるとかいろいろあがいていたんですけどねー、ついにダメだったかー。科学の勝利。結界すら説明できる。理解できる。日本国民の生命を、モンスターの魔の手から守るのだ。
このシリーズに期待しちゃってもいいんですか?
紫→メリーか。
言われて見れば、有りかもしれない。
年下の姉みたいな考え方だな。
誤字なんだろうけど、確かに勇儀姐さんのはアメリカンだよな、とか妙に納得してしまった。
これ長編で読みたいなあと思ったら、ずばり言われて悔しい。
霊夢の言うとおり、このネタは長編でじっくり読みたかった。言葉は悪いけど、せっかくのネタを浪費しているように感じられてしまう(本当に失礼な言い方だけど)。だって冒頭は人を選びそうな台詞ネタ(個人的には)からスタートで肝心のメインのネタは中盤あたりにならないと出てこないし、出てきたと思ったらもう風呂敷たたみ始めちゃうし。もうちょっとギャグの勢いに頼らずにネタを光らせられたんじゃないかなあと思うと、素直にもったいない。
いやまあ、この作品好きですけどね?