Coolier - 新生・東方創想話

歩け! イヌバシリさん vol.10

2014/01/06 02:37:26
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【 episode.2 変化と進歩 】



大天狗の屋敷。

「すべては陰謀だったのよ。どっかの組織が私にモテさすまいと暗躍してるのよ」
「ついに仮想の敵を作ることで逃避しちゃいましたか」
「やつらの首に懸賞金をかけるわ」
「税金の無駄なんでやめてください」

報告書を持って来たついでに愚痴を聞かされてうんざり気味の椛。

「ここ最近のモテなさっぷりは異常よ。ちょっと前は大勢の男が言い寄って来たくらいなのに」
「ちょっと前って、何百年前の話をしてるんですか?」
「あの頃と何が違うっていうの!? 肌年齢以外で!」
「内面だけで語るなら、安定を求めて結婚したいっていう守りの姿勢が悪いんじゃないですかね? 昔の大天狗様は猛獣みたいにギラギラしてましたから、それを魅力に感じてたとか?」
「守る? 今のほうがガンガンに攻めてるわよ!」

なおも熱弁は続く。

「言い寄って来ないだけならまだ良いわよ! 最近は露骨に避けられてるからね!」
「みたいですね」
「私は弾幕や毛玉かっ!?」
(そんなのよりももっとヤバイ代物ですよ貴女は)

口にしないのは最後の良心だった。

「なんか私主催で合コンやるっつっても集まり悪いし」
「でしょうね」
「それでねモミちゃん」

両手をパチンと合わせて椛を見る。
こういう時、ろくな事を言い出さないのを長い付き合いから知っている。

「文ちゃんとはたてちゃんは、男連中に人気があるそうね?」
「駄目ですよ。彼女らを出汁に合コンなんてやったら」
「時にモミちゃん」
「はい」
「ここに一枚の申請書があります」
「それは確か」

椛が提出した経費申請書だった。

「なんと、私が判子を捺さなければ経費として落ちません! さあ困った!」
「書類に不備はないハズです! 申請が通らぬわけが…」
「ふっふっふ。何年大天狗をやってると思ってるの? 気に入らない奴からの申請なら、ありとあらゆる難癖をつけて突っぱねてきた確かな実績があるわ!」
「最低だこのヒト」
「剣を三本新品と交換かぁ、自腹じゃちょ~~とばかしキツいわねぇ?」
「ぐっ」
「フフフフ! これが欲しいのかしら仔犬ちゃん? 跪きなさい! 大天狗様とお呼び!」
「普段通りじゃないですか」
「というわけで。文ちゃんとはたてちゃんに話し通してくれない?」
「あくまで話すだけですよ。お二人が拒否したら話はそこまでですからね?」
「十分よそれで」

ポンと書類に判が捺された。




「あーまったく、あの人は」

廊下を進み玄関へと向かう。
下駄を履き、戸を開けると、玄関の前を大きな影が横切った。

「あ、どうもご無沙汰しています」
「おお。椛か、久しいな」

見知った者と出くわして、思わず足を止め、声をかけた。

「貴方も大天狗様に御用ですか?」
「従者殿に預けていた物を取りに来た。もう帰るところだ」
「そうだったんですか」
「隊長職には慣れたか?」
「ちっとも。部下との折り合いや、仕事の段取りで四苦八苦です」
「まだ一年と少しだろう? 直にコツが掴み慣れる」
「だといいのですが」














天魔の屋敷。
敷地内に設けられた道場、道着を着たはたてと、肩にタスキを巻いたこの屋敷の女中が薙刀を模した棒を手に向き合っていた。

「やぁ!」
「ッ!?」

女中が繰り出した袈裟斬り。それをはたては棒の先で払い軌道を下方にずらす。

「はぁ!」

女中は払われた勢いを利用してそのままはたての足元を払った。

「うわっ!?」

まるで自分が倒れたのではなく、地面がせり上がって来るような奇妙な感覚に陥りながら、肩から床に落ちた。幸い受身はとれていたため、大した痛みはなかった。

「大丈夫ですか?」
「なんとか」

女中が差し出した手をはたては掴む。

「あれは払うよりも、棒を立てて受け止めないと今みたいな事になります」
「咄嗟にそこまでの動きできるかな?」
「咄嗟に動いてくれなければ困ります。ゆくゆくは棒無しで私の打ち込みを全て躱せるようになっていただかないと」
「それはちょっと」

女中は、はたてに薙刀の指導をしているが、この鍛錬の目的は使い方を覚えることではない。
はたては天魔から瞬発力と集中力を磨くよう命じられ、そのために提示された鍛錬の内容がこれだった。
薙刀を持って向かい会い、仕掛けきた女中の攻撃を防ぐ。
仕掛けてくるタイミングはまったくのランダムで、向かい合いすぐに動く時も有れば、十分、十五分、長ければ三十分はじっとしている時もある。

「私って上達してますか?」
「鍛えてもすぐに結果が出るとは限りません。成果を焦っても良いことはありませんよ?」
「あう」

遠まわしに上達してない事を告げられた。

「自分は武術全般がダメなんでしょうか? 椛から剣術教わってもそれほど上達しなかったですし」
「…そうですねぇ」

その発言にしばし女中は考え込む、やがて一つの結論に至り、口を開いた。

「犬走さんは達人ですから。『相手にはこの技が有効だ』とか『相手がこう打ってきたらこう返そう』って相手の体格や獲物、癖から瞬時に戦略を立てちゃえますけど。はたてさんは直感に身を任せたほうが良いのかもしれません」
「直感、ですか?」
「私の勘ですが。はたてさんは、何も考えず脊髄反射だけで動いた方が良い結果が出るような気がするんです」

「それには私も同意ですね」
「 ? 」

二人が声のした方を向くと、道場の入り口から文が顔を覗かせていた。

「お邪魔してます。今日は女中さんが先生なんですね」
「天魔様の身長で対人訓練をしても、あまり参考にはなりませんから」
「それもそうですね。しかし、成果はあまり芳しくない御様子」
「うう」

不出来な自分が情けなくなり縮こまってしまうはたて。
そんな彼女の前にやって来る文。

「良い事を教えてあげましょうはたて。スクワットを50回やってから再挑戦してみてください」
「50回も?」
「ごちゃごちゃ考えなくていいからさっさとやる! はいイーチ!」
「え、あ、う、うん?」

文に促されてスクワットを始めるはたて。
普段から天魔の言いつけで基礎体力も鍛えているおかげで、なんとか途中でバテることなく50回を完遂した。

「もう駄目」
「良く頑張りましたねはたて。では早速やってきましょう」
「もうこの時点でクタクタなんだけど」

肩で息をするはたて。首を横に振って動けないとアピールする。

「それでいいんです。はい、構えて構えて。あ、薙刀は持たなくてもいいですよ」
「というか持つ体力ない」

女中だけが薙刀を手に、両者向かい合う。

「頭を真っ白にして、叩かれたら痛いだとか、目に入ったら危ないとか、余計なことは考えないで。体が動きたいように動いてあげてください」

背後から肩をつかみ、そう助言してから文は離れる。
その瞬間、女中が動いた。

「やっ!」
「ッ!!」

胸の中心を狙った突き。これをはたては半身を引いて躱す。

「てぇ!」

胸元を削ごうと、空を切った先端を素早く旋回させるが、後方に跳ぶことでその射程から逃れる。

「せぃ!」

伸ばした腕を引き、薙刀を両手で強く握り直し横薙ぎに大きく振るった。
はたてはそれを体を仰け反らせることで回避。胸元を冷たい風が通っていった。

「あれ? できた?」
「……お見事です」

完璧に女中の薙刀を避けきった。劇的な変化に女中は目を丸くする。

「ほら。やれば出来たじゃないですか」

満足げに文は頷く。

「今の感覚を忘れてはいけませんよ?」
「うん。今度からそうしてみる。ありが…おっとと」

はたては集中力が切れたのと溜まった疲労で、その場に座り込んだ。

「そういえば、どうして射命丸さんはこちらに?」

女中が訪問の理由を尋ねる。

「天魔様に出来上がったばかりの新聞をお届けに。はたての新聞も刷りあがってるんじゃないですか? 確か私と同じ日に印刷所に持っていきましたよね?」
「あ、そうかも」
「でしたら。今日はもうここまでにしましょうか」

女中は棒を壁の棚に戻した。片付けを始めるようだ。
はたてもそれを手伝おうとするが、

「はたてさんの本分は新聞記者。天魔様のお言いつけも大事ですが、本業を疎かにしてはいけません。新聞は鮮度が命ですからお早く」

と断られた。

「すみません。お言葉に甘えます」

一礼するとはたては道場の更衣室で普段着に着替え、勢い良く飛び出していった。

「どうですかはたての上達具合は?」
「飲み込みが早い種目と遅い種目が極端で、天魔様も手を焼いておられます」
「あの子のセンスは独特ですからね。スイッチが一回入ると凄いんですけど」

文はこれまではたてと行動を共にして、何度か彼女の底に眠る力の鱗片を垣間見ていた。

「そういえば天魔様もそのようなことを仰ってました。能力が飛躍的に上がる瞬間があると」
「天魔様の一族の血というやつですかね?」
「かもしれません」
「なんにせよ。その時の力がいつでも引き出せるようにビシバシ鍛えてあげてください。普段の彼女は本当に危なっかしい」
「ご期待に沿うよう。頑張りますね」

会釈し、女中は道場の片付けを再開させる。

「あ、お手伝いします」
「構いませんよ。文さんも配達の途中。時間を無駄にしてはいけません」
「恩に着ます。では天魔様にご挨拶だけしてお暇しようと思います」
「実は天魔様は、生憎とまだ寝ていらっしゃいまして。昨日は遅くまで起きて何やら調べていたようで…」

「おきたぞー」

浴衣姿にボサボサの髪のまま、目を擦りながら天魔が気だるい足取りで道場に入ってきた。
まだ寝ぼけているのか、緩んだ帯のせいで胸元は大きくはだけ、足袋の片方が脱げてしまっている。

「まぁまぁ何て格好をしてるんですか?」

女中が駆け寄り、中腰になって天魔と同じ目線になり、着崩れを直す。
天魔はまだ眠いのか、目をしょぼしょぼさせて、頭を揺らしている。

「はたての奴が来ているのを思い出してな」
「それで無理して起きちゃったんですか?」
「あいつは今、何をしておる?」
「新聞が刷り上ったと連絡を受けまして。ついさっき配達に行きました」
「なんじゃ、そうじゃったか」

はたてがもう帰ったことを知った天魔は、女中にもたれかかり、その小さな体を預けた。

「あのー、天魔様。お身体の具合でも悪いんですか?」

小声で女中に話しかける。

「天魔様は最低でも八時間は寝ないと、調子が出ないんですよ」
「儂も歳かのぉ」
(いつもより早起きしちゃって母親にグズる幼児にしか見えませんがねぇ)

とても女中の介護を受ける老人という絵には見えなかった。

「その声、文が来ておるのか?」
「ええ。新聞を届けに」
「文、ちょっと良いか」
「はい、なんでしょうか?」
「配達が終わってからで良い。もう一度ここへ寄ってくれ」
「畏まりました」
「すまんな」

そう告げて、女中の胸に顔を強く押し付ける。

「どうします? 一回寝ますか? ご飯にします?」
「コーンフレークが良い」
「駄目です。皆の上に立つ方がそんな軟弱な物を摂ってはいけません」
「牛乳もおかわりする」
「今日もご飯とお味噌汁です」
「老い先短い老人じゃぞ、好きなものを食わせてくれても良いではないか?」
「食後にチョコレート食べていいですから。お米を食べてください」
「むぅ、仕方ない」

女中に手を引かれ、おぼつかない足取りで屋敷の方向へ向かっていった。

(今の様子、カメラに撮っておけば良かったですね)

その場に残された文は、ふとそんなことを思った。













はたては、大天狗の屋敷の門前に降り立った。
そこで掃き掃除をしている大天狗の従者に挨拶をする。

「こんにちはー」
「いらっしゃいませ。大天狗様に新聞ですか?」
「はい」

はたては新しく刷ったばかりの新聞を、購読者の一人である大天狗へと届けにきた。
ここが最後の配達場所だった。効率良く回ることを考えると、どうしてもここを最後にしなければいけなかった。

「ちょうど今、大天狗様は暇しているので、喜ばれますよ」
「そ、そうなんですか」

やや顔を引き攣らせるはたて。大天狗のことは嫌いではないが、目上の者と長話するのは若干苦痛だった。

(パッと置いてパッと帰ろうと思ったんだけどな……あれ?)

門から玄関の方を見て、椛が白狼天狗の男と一緒にいるのが見えた。

(誰だろうあの人?)

男は長身で、胴着の上からでもわかる筋肉の持ち主だった。

(それにしてもおっきい)

体躯の恵まれている白狼天狗だが、彼ほどの肉体はそうそうお目にかかった事がなかった。
会話の途中に時おり笑顔を見せる椛。二人はとても仲睦まじく思えて、気になって掃除途中の従者に尋ねた。

「椛と一緒にいる人なんですけど」
「おや。珍しいですな。あのお二人が一緒にいるなんて」

従者は気付いていなかったが、椛達はもうかれこれ三十分以上話し続けていた。

「とても仲が良さそうですけど、ひょっとして元彼とか?」
「元同僚ですよ。かなり長い付き合いだったと聞いております」
「結構偉い人?」
「元々、白狼天狗の中でも身分が高い家の生まれでして、過去の功績もあり、何度も分団長のお誘いが来ています」
「来ています?」
「辞退しているんですよ。現場を第一に考える御仁ですので」
「へー」

談笑が続く二人には悪いと思いつつ、はたては玄関の前を通る。

「前、すみません」
「おや、はたてさん。新聞の配達ですか?」
「うん」
「ちょうど良かった。大天狗様が連絡を取りたがっていましたよ」
「私に?」
「ものすごーく面倒かもしれませんが、聞くだけ聞いてあげてください」
「う、うん」

椛の含みのあるその言い方に嫌な予感を感じつつ、はたては大天狗の自室に向かい歩いていった。
そんなはたてを見送ってから、男の方に向き直る。

「私もそろそろ私も失礼します。色々と参考になりました。それでは…」
「なぁ椛よ」

踵を返そうとしたところを呼び止められ、中途半端な姿勢で制止する。

「折角だ、少し歩きたい」















配達を終えた文は、天魔の屋敷に戻ってきた。
応接用の広間。女中に髪を梳かされて、普段の正装に身を包んだ天魔と向き合う。
少し前にあったあのだらしない雰囲気はどこにもない。

「羽を休める間もなく呼びつけてすまない」
「構いませんよ。何やら深刻な御様子」

場の空気が、これから始まるのは決して雑談でないことを文に伝えていた。

「我々、天狗の組織が一枚岩でないことは理解しておるな?」
「痛い程に」
「守矢神社を迎合し、取り入ろうとする連中もいれば、その逆もいる」
「保守派の方達のことですか?」
「左様」

天狗に仇なす者の一切を排除するという思想を持った者たち。
過激派とも呼ばれている集団だった。

「ここ数年、大人しくしておったが最近また大々的に活動を始めた」
「それは穏やかではありませんね」
「目的達成のためなら手段を選ばん連中じゃ。何をしでかすかわからん」
「なぜその情報を私に? まさか奴等の動向を探れなんて言うんじゃないでしょうね?」

どんな報酬を積まれようと、断るつもりでいた。まだ死ぬ気は無い。

「そんなことはさせんから安心せよ。ただ、この情報を守矢神社にも伝えておいて欲しい」
「私が守矢神社にですか?」
「ダム騒動の後も懇意にやっておるのだろう?」
「そ、それはその…」

どう弁解すべきかと言葉を詰まらせる文。

「良い。お主が守矢に魂を売るとは到底思えん」
「信頼されてるんですね」
「仲間を裏切る者と裏切らん者の区別がつかん程、耄碌してはおらんよ」

身に余る言葉だと、文は両手を突いて身を低くした。

「しかし何故守矢にこの情報を? こう言ってはなんですが、保守派が守矢を消してくれた方が都合が良ろしいのでは?」
「本音を言えばそうじゃが、気に入らんから皆殺しなどという考えには賛同できん。それに正面きっての抗争は他の勢力まで巻き込む恐れがある。そうなればまた昔に逆戻りじゃ」

露骨な争いとなれば、守矢との結びつきが強い勢力に山に干渉する大義名分を与えてしまう。
騒ぎすぎて鬼が様子を見に来るなんて事になれば最悪の極みだった。

「申し訳ありません。浅はかでした」
「では頼んだぞ」
「はっ」

再度深く頭を下げ、屋敷を後にした。







守矢神社。

「どうも」

鳥居の手前、石段に洩矢諏訪子が腰掛けていた。

「カラスがウチに何の用? 神奈子なら早苗と麓で布教活動だよ」
「いえ、諏訪子様に御用が。天魔様からのおことづけです」
「聞こうか。ちょうど昼前で参拝客も途切れて暇してたんだ」

文は保守派の動きに注意するよう伝え、保守派の主要な幹部の名も出した。

「私らを排除するために? それはそれはご苦労様」
「冗談の通じない相手です。くれぐれもご用心を」
「早苗の周りだけはしっかり固めておくよ」
「そうしてください。きっと天魔様も、政(まつりごと)の小競り合いに早苗さんが巻き込まれるのは、本意ではないはずですので」
「本当にあの人は子供に弱いねぇ」

言ってすぐ「まぁ私も似たような者か」と自嘲する。

「ところで、そちら側についた連中とは上手くやっているんですか?」
「守矢派の天狗達のこと? そいつらの扱いは全部神奈子に丸投げしてるよ。そういえば、こないだアイツ『使えそうな奴が少ない』って愚痴ってたね」
「そうですか、せいぜいコキ使って、使い潰してください」
「裏切り者には容赦ないってか? アンタだって同類のクセに」
「魂までは売ってないのでご安心を」
「はんっ」














天狗の集落。
新聞配達で訪ねた際、大天狗に捕まってしまったはたては、多くの店が立ち並ぶ大通りを歩いていた。

「良いんですか? お昼ご馳走になっちゃって?」
「良いの良いの。そのかわり、次の合コンは文ちゃんにも参加するよう頼んでね」
「わ、わかりました」

正直断りたいが、大天狗の頼みを断れるほど、はたては図太くなかった。

「ここで良いかしら?」
(高そうなお店だなぁ)

常連のようで、店内に入ると奥の席に通されて『いつものでよろしいですか?』と店員が訊いて来た。
料理ができまる手持ち無沙汰になる二人。

「そういえば知り合いで他に可愛い子いない? いたら誘うけど」
「文以外にですか?」

はたては知り合いの顔を一人ずつ浮かべていく。

(文より美人はいないけど、私以上なら沢山いるなぁ)

同じ新聞記者の繋がりで知り合いの鴉天狗が大勢いる。
その娘たちで構わないかと、大天狗に話そうとした時だった。

「私(わたくし)では駄目でしょうか大天狗様?」

二人が向かい合って掛けているテーブル。その真横に何者かが立っていた。

(綺麗な人)

その女性を見た時の第一印象がそれだった。
涼しげな薄い藍色の着物を着た鼻高天狗の女性が大天狗に微笑んでいた。

(この人、確か幹部の)

女性がしている銀色の髪留めに見覚えがあった。
かつて幹部が一同に介する会合に偶然居合わせてしまった時、この女性がいたことを思い出した。

「その席、ご一緒してもよろしいですか? 大天狗様」
「やーよ。一緒の席に座りたいならこの娘とつり合う男連れてきなさい。後ろにいる連中はお断りよ」

女性の後ろにいる側近と思わしき男女二人を見る。大天狗の睨みを受けて平然としている様子から、只者でないとはたては感じる。

「我々の言葉に、少しくらい耳を傾けてくださっても良いのでは?」
「見てわかんないの? これから食事なの」
「貴女様が我々のことを全く取り合っていただけないので、こうせざるを得ないのです」
「時代錯誤の危険思想者が偉そうに」
「我々は純粋に天狗社会を愛しているに過ぎません」
「愛郷心も過ぎればただの精神疾患よ。保守派なんて組織さっさと解散して、でっかい病院に入ってなさい」
「日和りましたね大天狗様。昔は、天狗社会平定のためならどんな手段も犠牲も厭わぬ素晴らしい方だったのに。私がお慕いした貴女はどこへ行ってしまったのですか?」
「女に好かれたって嬉しかないわよ。このサイコレズが」

シッ、シッとまるで犬でも追い払うかのように手を振った。

「大天狗様。いくら貴女様でも、主人へのこれ以上の狼藉は看過できませぬぞ?」

男の方の側近が冷静な、しかし確実に怒気をはらんだ声で近づき、テーブルの端を掴んだ。
この男がしようとしている事を察知して、はたては咄嗟に体を引いた。
男の手に血管が何条にも浮き上がる。

「おい貴様」

トン、とテーブルに大天狗は人差し指を置き、冷たく言う。

「よもや『引っくり返す』などという短慮極まった真似をするつもりではあるまいな?」

公事用の口調で語りかけた。

(動かない)

岩すら軽々と持ち上げる腕、その力が指一本に太刀打ちできなかった。
片手が駄目ならと、もう一方の手でも掴もうとする男、しかしそれは主人によって遮られた。

「あ゛あ゛!!」

男の自由だった方の手が不自然な方向に曲がった。折ったのは主人である。
主人はそのまま地面に男を引き倒すと、その顎を容赦なく踏み砕いた。
それを最後に、強張っていた男の体から力が抜けた。

「部下が大変失礼致しました。後できつく叱っておきます」
「いいわよ別に。まだまだ若いんだから、これから気をつけてくれれば全然」

平然とする二人。はたては二人の間で漂う空気が猛毒の瘴気のように見えた。

「先ほどの圧とお力。やはり確信しました。我々の首領に最も相応しいのは、貴女様しかいないと」
「私が保守派の頭になれって?」
「そうなれば妖怪の山は千年は安泰です。守矢の好きなどさせません」
「断るに決まってるじゃん」
「なんとしても、貴女様にはその気になっていただきま…」
「商売の邪魔よ、どいてあげなさい」

女性の背後、注文した料理を手に持った店員が、怯えた表情で突っ立っていた。

「ほらタイムアップよ。客じゃないなら出て行きなさい」
「それではまた参りますね」
「二度と来るな」

女性の方の側近が伸びた男の方を担いで店を出て行く。
はたては終始、この光景を口を押さえてただ見ていることしかできなかった。



「困りましたね、やはり大天狗様は手厳しい」

店外に出て、女性は困った顔を浮かべる。

「やはり外堀から埋めていくしかありませんね。大天狗様に纏わりついている犬の方の勧誘は順調ですか?」

進捗状況を女の側近に尋ねる。

「犬走椛の勧誘でしたら、同じ白狼天狗のあの男に任せております」
「断られた場合はどうするかも伝えましたね?」
「一文字一句違わず」
「よろしい」

女性は薄く嗤った。














山道。
雑談の続きをしながら、椛と男は歩いていた。
そろそろ話題が尽きかけたという時。不意に男はこう切り出した。

「お前は、今の天狗社会に未来はあると思うか?」
「なんですか藪から棒に?」

唐突な話題に訝しむ椛。

「このままではそう遠くない未来、この山の全権を守矢が握る」
「…かもしれませんね」

多くの人材が守矢に流れ、また守矢自身、山の外の者達と親交を深め、着実に力をつけてきている。
天狗社会と守矢神社、今は拮抗しているが、いずれそれが崩れることは薄っすらとだが予感としてあった。

「お前は知らぬだろうが、守矢は悪だ。表向きこの山に住む者達との友好を謳っているが、その実、裏では私利私欲のための暗躍を繰り広げている。守矢に負ければ我々は一生搾取され続ける」
「知っていますよそんなこと」

守矢の行いで、彼女がどれほどの被害を被ったか知る者は少ない。

「知っているなら話は早い。今、俺と同じような考えを持ち、決起した者が大勢いる」
「私もその過激派に加われと?」
「過激派ではない。我々は純粋に故郷を想う者達の集まりだ」

最近保守派が活発化したという話は大天狗から聞いていた。
それにこの男も加わっていたというのは、椛にとって少しばかり意外だったが。

「我々は今、守矢と戦うための力を蓄えている。お前の力は買っている。主も歓迎すると言っていた」
「慎んでお断りします」
「なにも無償で働けと言っているだけではない。対価も支払い、それ相応の待遇を用意しよう」
「金も名誉もいりません。私のことは放っておいてください。そっちで勝手にやってください」

話しているとちょうど、椛の詰所の前だった。

「それでは私はここで。今の事は全部忘れますので、どうぞ私を巻き込まずご自由にやっててください」

男に背を向け、そそくさと詰所に向かう。

「俺と立ち合え」

その背中に男は声をかけた。

「俺が勝てば、嫌でも籍を置いてもらう」
「私が勝ったら引き下がってくれるんですか?」
「そうだ」
「馬鹿馬鹿しい。そもそもなぜ私に拘るのです? 大した戦力にならない事くらいわかるでしょう?」
「お前がこちらに付けば、大天狗様もこちらに引き込みやすくなると主はお考えだ」
「つまり私自身は必要ないと?」
「そうは言っていない。今は一人でも多くの手が必要だ」
「お引取りを」
「受けぬつもりか?」
「当たり前です。私には何の得も無い」
「受けねばお前の詰所の中で暴れる」

ピクリと椛の肩が跳ねる。

「俺がその気になれば、甚大な被害が出せると自負している」
「白狼天狗の模範とまで言われた貴方だ。そのような真似、出来るはずがない」
「俺が大義の為なら何だってする事を、知らぬとは言わせない」
「本気、なんですね?」
「もとよりそのつもりだ」
「二人分、木刀を持ってきます。ここでお待ちください」
「わかった」

椛が戸を開けて詰所の中に入った時、部下の数名がやってきた。

「隊長。あの方と何かあったんですか?」

耳の良い隊員には、二人の問答が聞こえていたらしく、椛を心配しているようだった。

「気にするな。つまらない事で因縁を付けられただけだ」

椛は壁にかかった木刀を無視して通り過ぎ、詰所の裏手の窓に足をかけた。

「すまない。今日はこれであがる」
「戦わないんですか?」
「何が楽しくてあんな猪天狗とチャンバラしなきゃいけないんだ」

椛は初めから決闘を受ける気などサラサラなかった。

「あいつが何か言ってきても、適当に聞き流しておけ」
「本当に怒って暴れたりしたら…」
「大丈夫だ。アイツは仲間を傷つけたりしない。暴れるというのも私をその気にさせるための方便だ」
「じゃあですよ、隊長」

いつも椛に剣の勝負を挑む白狼天狗の青年が集団の中からずいっと顔を出した。

「なんだ?」
「俺が隊長の代わりに戦っても構いませんよね?」
「駄目だ。時間稼ぎなんてしなくてもいい」
「そうじゃありません。俺が戦いたいと思ってるんです。俺みたいな平隊員があんな大物に挑める機会なんて、これを逃したら一生ありません」

他の白狼天狗よりも剣の道に執着する彼は、この時、まるでご馳走を前に主人から「待て」と命じられた犬のように、体をうずかせていた。

「本気なんだな? 頭をカチ割られても文句言えないぞ?」
「本望です」
「…」

大きな溜息をついてから椛は彼を見る。

「一番厄介なのはあの馬鹿力だ。間違っても打ち合おうだなんて思うな。剣が三回もぶつかる頃には手が痺れて何も握れなくなる。狙うなら下だ、大振りが来たら姿勢を低くして飛び込め」
「はい!」
「あとそれとな」
「 ? 」
「アイツは分別の利く奴だ。若くてやる気のある者を決して邪険しない。胸を貸してもらうつもりで挑め」

そう告げてから窓から飛び出し、音もなく着地した。
椛を見送った彼は踵を返し、壁にかかっている木刀を二本とり、詰所の外で待っている男のもとへと向かった。







「隊長はどうした?」

男の問いかけられると、彼は声を張り上げた。

「手前! 白狼天狗最強の剣客になるのが夢であります! 是非! 剣豪と謳われる貴殿よりご指導賜りたく存じます!」

学も教養もロクに無い彼なりに精一杯考えた口上であった。

「足止めするよう、隊長に命令されたのか?」
「俺の意思です! 何卒! 剣のいろはも解らぬ若輩者に! ご教授の程!」

深く頭を下げる。

「そうか」

男は椛が逃げたであろう方角を見る。

(もう追っても、間に合わないか)

今日の追跡は諦め、目の前にいる、任務の遂行を邪魔した者を見る。

「いいだろう。一本をこちらに」
「ありがとうございます! お好きなほうをお取りください!」

顔を上げ、男に持参した同じ大きさの木刀を二本差し出す。
選ばせるのは、細工がされていないことを示すためだ。
右手の方を受け取って男は数歩下がり構え、彼も左手に残った木刀を手に構えた。
明確な始めの合図は無い。

(大きい)

間合いを計りながら思う。
彼とて、体躯には恵まれている方だが、男はそんな彼よりも頭一つ分高く、体つきも二回り大きい。
さらに威圧感も相まってか、まるで自分の体が子供になってしまったかのような錯覚に陥る。

(呑まれるな。同じ白狼天狗。同じ白狼天狗だ)

気を強く持ち自分を保つ。
僅かな動揺が、咄嗟の反応を鈍らせると心に言い聞かせる。
そんな時、男の木刀の先が右に大きく揺れた。

(ッ!?)

反射的に腕を上げ、頭を守る姿勢を取るが、男は打ち込んでこない。

(しまった!)

気を張りすぎて兎のような小心になっていた事を後悔する。
がら空きになった胴を見逃さぬ達人はいない。

(打ってこない?)

しかし男は、剣先をやや右に傾けた姿勢で止まっている。
青年は慌てて正眼の構えに戻る。

(どうして打ってこなかった?)

警戒すること数秒、やがて彼は男の構えの意味を、その真意を理解した。

(待っているんだ、俺を)

男の取った姿勢は剣道で言うところの『面を開けている』状態だった。

(打って来いと言っているのか)

舐められているという考えが一瞬頭を過ぎったが、男の視線は真剣そのもの、彼の瞬き、息遣い、何一つ見落とさないという気迫が伝わって来る。

(本当に指導してくれるのか)

本来なら始まったと同時に勝敗が決してしまう程の実力差。
しかし、男はあえてそうせず彼に一太刀入れる機会を与えた。
椛の言っていた『胸を貸してもらうつもりで挑め』という言葉の意味が今になってわかった。

(それなら)

ずっと固まっていた彼の体がゆったりと動く。
剣を握る手を顔の真横までもってくる。剣の先は天を、柄は大地をまっすぐ指した。
腕、腹、脚の三点に力を溜め、自分の呼吸と心臓の鼓動が重なった瞬間、彼は飛び込んだ。

「でりゃぁ!!」

振り下ろされる袈裟斬り。彼が最も自信のある技である。
彼が踏み込んだと同時、男もまた動いていた。袈裟斬りとは対をなす、水平方向に振るう真一文字の横薙ぎ。

刹那の静寂。

向き合い、木刀を振り抜いた姿勢で静止する二人。

(そんな事が…)

青年の木刀は柄から先が消失していた。
後方からカランと、消えた刀身の落ちる音がした。
渾身の力を篭め振るった彼の木刀は、男の木刀によってへし折られていた。

「踏み込みに迷いが無い。恐れを知らぬ真っ直ぐな太刀だ。同じ振りが出来る者は俺の隊にもそうはおるまい」

自身の木刀を彼の前に置いた。

「備品を壊してすまなかった。明日、俺の隊の者に新しい物を持ってこさせよう」

図体に似つかわしくない丁寧なお辞儀をして、男はその場を後にした。

「…」

彼は手元に残った柄をじっと見つめる。

(なんて力だ)

木刀が粉砕されたことで、殆どの力が外に逃げたにも関わらず手が痺れていた。
規格外の力、その鱗片を味わった。

(それだけじゃない)

恐ろしいのは怪力だけではない。木刀で木刀を砕くなど、速さと精密さがあって初めて実現する芸当である。

(隊長が避けたのも頷ける。真っ向から挑んで勝てる奴なんて)

握力を失った手は、まるで花が咲くようにゆっくりと開き、柄をすべり落とした。














守矢神社。

「帰ったよ」
「ただいま戻りました!」

布教から帰ってきた東風谷早苗と八坂神奈子。

「お帰り早苗。ついでのついでに神奈子も」

それを諏訪子が出迎えた。

「どうだった成果は?」
「上々だよ」
「お前じゃなくて早苗に聞いてるんだよ」
「そんなこと言っちゃ駄目ですよ諏訪子様。里への分社を増やす話は順調に進んでます」
「そっか。結構結構」

叱りつつも律儀に答えてくれるのが嬉しかったのか、頬を緩ませる。

「すぐに夕飯の支度しますね」
「疲れてるだろうし、ゆっくりで構わないよ」

パタパタと台所へと向かっていく早苗を微笑ましく諏訪子は見送った。

「神奈子、ちょっといいかい?」

しかし微笑ましかったのは早苗がいた瞬間まで、鋭く冷たい目が神奈子に向けられた。

「何か面白い情報を仕入れたって顔ね?」
「奥で話すよ」

場所を移し、文から聞いた事を伝えた。

「保守派の連中ねぇ」
「早い内に何かしらの手を打っておいたほうが良いよ。カラスの言うようにヤバイ連中なら」
「そうね」

神奈子はおもむろに玄関へ向かい歩き出した。

「おい、何処に行く?」
「早く手を打った方が良いと言ったのは諏訪子でしょう?」
「早苗が夕飯の用意してるんだぞ?」
「先に食べるように伝えてちょうだい」



神社を出た神奈子がやって来たのは、仲間である天狗より守矢神社を優先すると誓った、とある幹部の屋敷だった。

「ようこそいらっしゃいました神奈子様。先日の河川の御祓いでは大変…」
「時間が無いから手短に用件を伝えるわ」

背中を丸めた好々爺の話を遮り、出された茶にも手をつけないまま、神奈子は本題を切り出した。

「お前達がこちらに付いた動機は『大天狗のことを恨んでいる』って事で良かったわね?」
「その通りでございます。奴によって昔、大勢の身内が暗殺されました」
「一矢報いるのに力を貸して進ぜよう、と言ったら迷惑かしら?」
「滅相も無い。願っても無い申し出でございます」

老人は畳に両手を着き、頭を下げた。

「お前の部下で、大天狗を強く恨んでいる者はいるか?」
「おります。様々な理由で、私にも劣らぬ憎悪を抱く者が何人も」
「明日、その者達を私に貸して欲しい。人数はそうね、四人……いや、五人ばかりいると助かる」
「すぐ用意いたしましょう」
「ただ、五体満足で返せるかはわからないわよ?」
「奴に一矢報いるのならばいくらでも寄進致しましょう。生贄にでもなんでもお使いくださいませ」

顔を上げた老人の目は血走り、額には畳の線の跡がくっきりと残っていた。
練り上げられた深い狂気が、そこにはあった。












河城にとりの家。

「すみませんにとり、急に押しかけてきて、夕飯どころか寝床まで」

すでに夕飯を済ませた二人。
にとりはベッド、椛はソファ。部屋の明かりはすでに消えている。
二人共疲れていたという理由から、普段より早めの就寝だった。

「いいよいいよ気にしなくて。椛が平隊員やってた頃はよく泊まってたじゃないか」
「そういえばそうでしたね」

今、椛は隊長、にとりは優秀な発明家として一目置かれるようになり、双方忙しくなったことで、一緒にいる機会がめっきり減ってしまった。
時間に囚われず将棋盤を囲んでいた頃を懐かしく思う。

「今日はどういう風の吹き回し?」
「ちょっと変な奴に絡まれまして」

事の顛末をにとりに伝える。天狗社会として伏せておきたい事情はボカシながら話した。申し訳ないと思いつつ。

「なんていうか災難だね」
「全くです」
「で、椛はその勧誘してくる人をどう思ってるの?」
「この山で強いと思う白狼天狗を5人挙げろといわれたら、間違いなく入りますね。絶対に真正面から戦いたくはないです」
「いやいや、そうじゃなくてさぁ」
「 ? 」
「色々と苦楽を共にした仲なんでしょ? 何もなかったのかなって」
「にとりが面白がるような事はありませんでしたよ。ただ、尊敬はしてました」

愚直な性格で裏表がなく、自分に非があればすぐに頭を下げる。どんな仕事でも手を抜かない。良くも悪くも融通の利かない男だった。
任務で仲間が死んだ時は、置き去りにした遺体の代わりに遺品を持ち帰り、それを手厚く葬った。誰よりも仲間思いだったのを覚えている。
そしていざ戦いになれば、あらゆる敵をその怪力をもって薙ぎ払い、矢で射られようと、槍で突かれようと決して進撃を止めない、まさに鬼神の如き活躍だった。
頑丈で生命力に満ち溢れた彼は、組合の初期メンバーでありながら、最後まで生き残った。
組合が解体された後、隊長職につき、多くの場面で白狼天狗の先頭に立ち、彼らを率先した。
男に出世欲があれば、今頃はどの地位にいたかわからない。

「すごい人なんだね」
「尊敬はしてましたがそれだけです。別に特別な感情を抱いたことは一度もありませんでした」
「なんだ。てっきり椛から色恋沙汰が聞けると思ったんだけどなぁ」
「そういうにとりはどうなんですか? 浮いた話の一つでもあるんですか? 増えたのは依頼だけですか?」
「わ、私はホラ! 機械に没頭しててそれどころじゃないっていうか、機械が恋人っていうか、あ、そういう意味で言ったんじゃなくて、普通に異性に興味あるし、村長からも色々と勧められてるし
 ほらでも私って機械いじってばっかりで料理とかも簡単なものしかつくれないし、花嫁修業? でもそういうことするより、まだまだ作りたいものとか一杯あるからそっちに時間を割きたいっていうか…」
「にとり」
「ひゅぃ!?」

椛は苦笑する。
普段通りの彼女に、とても大きな安心感を得ている自分に気付いた。

「この椅子。昔のままですね」

自らが寝るソファの表面をなぞる。

「え? あ、うん。そういえばずっと使ってるなぁ。ホコリっぽいならそろそろ新調しちゃおうかな?」
「いえ。このままで構いません。なんか落ち着きます。あの頃のままって感じがして」
「そっか」
「貴女は、変わらないでくださいよ?」
「うん」

そこで会話は終わり、やがて部屋に二つの寝息が聞こえ出した。













――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




土と木と岩がグチャグチャに混ぜ合わされた地面。
その中から、男は這い出てきた。

「はーはー、ゲホッ、ゲホッ」
「やはり頑丈だなお前は」

この場に唯一立っている女性。大天狗が彼にそう投げかけた。
この男を含めた白狼天狗の数名は、山の一角に居座っていた鬼の始末を命じられ、ついさっきまでここはその任務が遂行されていた現場だった。
鬼を討伐の最中、山の上部で起こった突然の土砂崩れにより、その場にいた全員が生き埋めになった。

「これは一体どういうことですか大天狗様!?」

大天狗の足元には、鬼の死体がある。眉間と心臓の位置に一本ずつ矢が刺さっていた。
おそらく、土砂から這い出てきた無防備なところを、近くに潜んでいた大天狗に狙われたのだろう。

「“偶然”にも土砂崩れが起き、鬼ともども白狼天狗を生き埋めにした。それだけだ」

遥か上から静かに、しかし濁流のような速度で押し寄せてきた土石流。
戦いにより高揚していた全員が気付いたのは、それが目の前まで迫っていた時だった。
『飛べば助かる』そんな単純な答えを導き出せる暇すら、自然の驚異は彼らに与えてはくれなかった。

「我々を土砂崩れに気付かせないための囮に使ったのですか!?」
「ではあのまま続けていたら勝てたのか? すでに半数が八つ裂きにされていたようだが?」
「はじめからこのような手段であの鬼を始末しようとお考えだったのか!?」
「白狼天狗だけで仕留められるようなら使うつもりはなかった。本当に、貴様たち白狼の脆弱さには失望させられる」

悪びれる様子も無くそう言い放つ大天狗に、目を血走らせ、全身が震えるほど強く奥歯を噛んだ。

「ごほっ、ごほっ」
「ッ!?」

咳が聞こえ、地面が僅かに動いた。
男はたった今まで抱いていた怒りを忘れて、駆け出した。

「待ってろ! 今出してやる!」

シャベルのような手が土を掴んで捨てる。それを数回繰り返して一人の少女が救出された。

「ぁ…ぅ」
「おい、しっかりしろ!」

少女の体を揺すっていると、大天狗が興味深そうな顔をして近寄ってきた。

「不可解だ。こんな小柄な餓鬼がどうやって助かった? ただの幸運か?」
「今はそんな事どうだって良いでしょう! 痛むところはあるか犬走!?」

大天狗は意識が朦朧とする椛の顔を覗きこんだ後、彼女が埋まっていた場所を見た。
その瞬間、彼女は「ほう」と小さく息を漏らした。

「ふむ、咄嗟に落ちてる盾を拾い。二つの盾で頭を守っていたようだな」

彼女が引張り出される際に出来た穴に、二つの盾が埋まっていた。

「お前もそいつのように機転を利かせられるようにな。優れた膂力だけでは、いつまでも通用しな…」
「これにて御免!」

男は椛を担ぎ、診療所がある方へと駆け出していた。

「んもう! 聞きなさいよ!」

大天狗の叫びは、誰の耳にも届いていなかった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――










早朝、にとりが寝息を立てている中、椛は目を覚ました。
外はまだ薄暗く、起きたばかりの鳥はまだ寝ぼけているのか、普段より一段音程が低い声で囀(さえず)っている。
にとりを起さぬよう静かに起き上がり、借りていた寝巻きを丁寧に畳んでから、普段着ている胴着に袖を通した。
軽い柔軟体操をした後、剣と盾を背負い、一切の音を立てずに扉を開きにとり宅を出た。

「人ん家の前で、そうやってるの止めてくれませんか?」

地べたに正座する男に向かい、そう言った。
その両肩には朝露が凍ってできた霜が降りていた。

「ここでは近所迷惑です。場所を変えましょう」
「ああ」

立ち上がるその姿には、体力の消耗など微塵も感じさせなかった。
集落の外れに向かい歩いていく。

「昨晩、昔の事が夢に出ていた」
「それは災難でしたね」
「昔から、大天狗様は俺よりお前のことを評価していたのを思い出した」
「そうでしたっけ?」
「その事が、今も不思議でならない」
「同感です」

やがて木々が開けた場所に出たため、そこで立ち止まり向き直る。

「昨日の返事を聞かせてもらおう」
「何度も言わせないでください。断ります」
「そうか。ならば致し方ない」

素早く刀を抜いた。男の剣は、彼の体に合わせての特注なのか、椛が扱っている正規品のものより一尺ばかり長かった。
刀身から放たれる重圧が椛の体に重くのしかかる。

「仲間にならないなら殺すつもりですか? 些か極端では?」
「お前が仲間にならぬ場合、大天狗様が覚醒するための生贄にせよ、と主から仰せ付かっている」
「話が見えませんね」
「今の大天狗様は腑抜けきっている。長らく続いた平和のせいで血の臭いを忘れておられる。近しい者の血が流れれば、かつての自分を思い出し己の使命に目覚めるだろう」

それが彼の主人の考えだった。

「お前を殺せば、大天狗様の殺意の矛先はまず我々に向かう。しかし、その次は間違いなく守矢だ。修羅と化した大天狗様なら、必ずや奴等を滅ぼす」
「だから保守派の連中は嫌なんだ。意味のわからない自論を展開して、外敵を排除するためなら自分の命を平気で差し出す。心底理解できない」
「我々は誰よりも天狗社会の先を見据えている。惰性で生きてきた貴様に理解できるはずもない」
「思い込みも大概にしてください」

その言葉を皮切りに両者は動く。
男は前進し剣を振りかぶり、椛は後ろに跳びながら背中に掛けていた盾を取った。
体を目一杯まで伸ばし片手で振るわれた男の剣を、椛は盾で受け止めた。

「私が死んだところで、あの方は何も変わりませんよ?」
「かもしれん。しかし、何かが起こる切っ掛けくらいにはなるやもしれん」

片手で咄嗟に振るわれた斬撃とは到底思えない重さに、椛の両肩が震える。

(この馬鹿力め)

男は柄を両手で握り、さらに二度三度と力任せに剣を振るうが、椛は最適な角度で斬撃を受け流した。

「ぁ…っぅ…」

それでも、骨の芯まで響いた。
男は何度も防がれ警戒を強めたのか、攻撃の手を止め、椛の出方を窺いだした。

(盾で防いでいても、このままではジリ貧か)

やるしかない、と椛は腹を括る。
盾を前に突き出して体の半分を隠し、相手に気取られぬよう剣の柄を逆手で握って鞘から抜く。
これで準備は完了した。

(さあ打って来い)

盾を少し下げて、面を開けてやる。
男はそれを隙だと判断したのか、剣を振り上げて踏み込んできた。

(かかった)

盾を高くかざし真正面から受け止める。
剣と盾がぶつかった瞬間、椛は盾から手を離し、すばやく地面を転がり相手の脇を通り過ぎた。
すれ違う際、逆手で握った剣で足元を撫でた。逆手なのは、少ない動作で広い範囲を削ぐことができるからである。

(手ごたえはあった、が)

急ぎその場から跳び去る。たった今いた位置に、分厚い剣が振り下ろされた。

「一対一の時、お前はよく今の技を使っていたな」

男の足は無傷だった。

「脛から足首にかけて、丈夫な脚絆を巻いておいた」

避けた袴から鎖帷子が覗いていた。

「お前ならこれで盾を捨てると思った」
「狙ってやったとでも言うつもりですか?」
「貴様の戦い方は熟知している。故に、罠に掛けるのは容易い。ああ攻めればあっさりと盾を手放すと確信があった」
「頭を使うようになったんですね」
「散々、大天狗様から言われていたからな。お前を見習えと」
「さっきから何ですか? ひょっとして僻んでるんですか?」

逆手から正手に持ち替えて男と向き合う。

(迂闊だった。こうなることだけは避けたかったのに)

真正面で打ち合って勝てる相手ではないと十分に理解していた。
椛は男が剣を抜いてから、ずっと逃げ出す機会を窺っていた。
しかしその目論見は失敗し、真正面から挑まざる状況に追い込まれた。

「ふっ!!」
「くぅ!」

再び男は前進し、椛は後退する。
全力でかわし、避けられないものだけ椛は剣で受け止める。その度に剣が吹き飛ばされぬよう柄を強く握り直した。
並の天狗なら即死してもおかしくない一撃一撃を、椛はこれまで培った全てを総動員して捌いていく。

(肩がイカれそうだ)

四度、剣で防いだ。たったそれだけで椛の剣は、刀身はうっすらと曲がり、ところどころ刃零れし、柄の金具は緩んでいた。
もうあと何回も持ちそうにない。

「諦めろ」

男も、今の椛の状態が詰みの一歩手前だとわかっていた。

「今から盟に加えてくれと言ったら。助けてくれますか?」
「もう遅い。もとより、忠誠心のない者など入れるわけがあるまい」
「ですよね」

このまま鍔迫り合いにでもなれば、簡単に押し切られる。

(本当にまずい)

打開策が浮かばず、嫌な汗が頬を伝う。
その時。

「ぐっ!」

男の体に何かがぶつかり、タタラを踏んだ。

「なんだ!?」

直後に発生する煙。
二人の足元にはいくつも発炎筒がばら撒かれた。

「椛こっち!!」
「にとり!?」

煙幕の中、にとりが椛の手を掴んで駆け出した。

椛が出て数分後、目を覚ましたにとり。
嫌な予感がして、リュックを引っ掴んで家を飛び出した。
探して辺りを回っている最中、とても訓練とは思えない勢いで剣を振り回す二人を見つけ、いてもたってもいられず割り込んだ。











にとりは椛の手をとって集落から更に奥まった林の中に、逃げ込んだ。

「はぁはぁはぁ。ここまでくれば、少しは」
「助かりましたにとり」
「あれって昨日椛が話してた人でしょ!? それがなんで戦ってるのさ!?」
「さぁ? 振られたからその腹いせじゃないですか?」

茶化してつつ、目を先ほど自分がいた場所に向ける。

「いました」
「何処にいるの?」
「まだずっと下です」

椛とにとりが駆け上ってきた山道を男は歩いていた。

「アイツは鼻が利くから、臭いで私達を追っているんでしょう」

不意打ちや罠を警戒しながら進んでいるため、ここに辿り着くまでまだ時間がかかりそうだった。

「このまま大天狗様か天魔様のところに逃げ込んで助けてもらおうよ」

にとりが最もな案を提示する。

「それは出来ません」
「なんでさ!?」

しかし椛はそれを拒んだ。

「この件が上層部の耳に入ったら、事態がもっとややこしくなる。アイツとはここで決着をつけます」
「その剣じゃ無理だよ!」

男と打ち合い損傷した剣に目をやる。
刃零れは酷く、刀身も微妙に歪んでおり、目を凝らせばヒビが何本も走っていた。

「アイツは相手の武器を破壊して、無防備になったところで止めを刺すという、体力馬鹿しかに出来ない戦法が得意ですからね。本当に化物ですよ」
「武器がないんだから戦うことだって…」
「そのリュック、いつも工具とか入ってますよね? 当然材料も」
「そ、そりゃあ金具やボルトとか一式入っているけど」
「ごめんなさいにとり」
「あ、おいちょっと!?」

椛はリュックのポケットにいつも入っている縄を拝借すると、一瞬でにとりを後ろ手で縛り、縄の先を木に括りつけた。

「しばらくリュック、お借りしますね」
「待って! 何で縛るのさ!」
「貴女の手を汚すわけにはいきませんから」

リュックの中を漁り、道具を出す。
金具にネジに釘、ドライバー、金槌と必要な物を並べていく。
男を出し抜く為には、どうしてもこれらが必要だった。

(これだけあればなんとかなるな)

過去、にとりの手伝いを買って出た際に、道具の扱い方は一通り教わっている。
なれた手付きで金具を固定していく。

「よしこれならすぐに…」
「それじゃダメだよ。ワッシャーも一緒に噛ませないと」
「にとり」
「河童の腕は柔軟なんだ。縛るならもっときっちりやっておかないと」

手をぶらぶらと振って縄抜けの際に伸ばした関節を元に戻す。

「貸して。そんな手付きじゃ夜になっちゃうよ」
「しかし」
「いいから」

強引に取り上げて、椛の手直しをしていく。

「私はこれからこの剣で同族を斬ります。その片棒を担ぐことになるんですよ? 貴女の信念に反します」

にとりのモットーは発明で皆を幸せにすることである。これはその真逆の行為だ。

「友達のピンチなら、そんな信念、いくらでも捻じ曲げるよ」
「…」

これで何度だろうかと椛は後悔する。

(本当に、なんと詫びればいいんだろう)

今まで何度、彼女が自分の身を案じてくれていたかわからない。その度に無茶をさせてしまったことも、一度や二度ではない。
そして今、それに甘えることしか出来ない自分が恨めしくてしょうがなかった。

「はいできた。次はどこを補強すれば良い」
「いえ。修復はもう結構です。釘と金槌がありますよね?」
「あるけど、これで何するのさ?」
「補強の代わりのやって欲しいことがあります」

だからといって、ここで死ぬわけにはいかなかった。













右側は高い土壁、左側は木が等間隔で生える急斜面という、崖の間に出来た細い道を男は二人の臭い頼りに進んでいた。

「てっきりどこかに隠れて不意打ちを狙っていると思ったぞ」

十数メートル先、自分が来るのを待っていた椛を見る。
彼らが立っている道は緩やかな傾斜になっており、椛の方が高い位置にある。

「お前に小細工は通用しないからな」

椛の後ろには、彼女の剣を持つにとりがいた。
取り付けられた金具のせいで、鞘に納まらないため、抜き身の状態である。

「“補強”は完璧ですよね?」

補強ということばを強調する。
男はここまで来る途中、二人の臭いが強く残った場所を通った。おそらくそこで補強する作業を行ったのだと推測する。

「う、うん」
「ありがとうございます」

手を出して、柄をつかむ。
しかし、にとりは中々手を離そうとしない。

「にとり?」
「さっきは思わず協力しちゃったけど、やっぱりこんなのおかしいよ」

柄を通して、その手が震えているのがわかった。

「二人はもともと同僚なんでしょ!? 背中を預けて頑張ってきた仲じゃないか! それがなんで殺しあいなんかしなきゃいけないのさ! お互いに恨んでるわけでも、憎んでるわけでもないんでしょ!?」
「手を開いて、これは貴女が持つべきものではありません」
「そこの天狗さん! 命令なら仲間斬っても良いの!? 後悔しないの!? そんなに上からの命令が大事なの!?」
「そうだ」

たった一言で、にとりの悲痛な叫びを両断した。

「失せろ。また邪魔をするなら容赦はせぬぞ」
「っ!」

男から向けられる視線ににとりは気圧され、ビクリと震えた。そして、思わず手は離してしまった。
椛は手首を一回転させて剣の重量を確認する。

「二人とも死なないよね?」
「大丈夫。私もあいつも白狼天狗。ちょっとやそっとじゃ死にません」

いつも通りの笑顔を椛は見せた。

「信じていいんだよね?」
「もちろんです。私もアイツも、命を取ろうだなんて本心じゃ思っていません。きっと寸止めしてしまいます」

口から出任せだと薄々わかっていた。しかし、今のにとりにはその言葉に縋るしかなかった。

「終わったら、家に寄ってきてよ?」
「ええ。朝飯もまだですし」

にとりは帽子を深くかぶり直し、踵を返して坂を上っていった。
友人を見送ることなく椛は前方の敵を見据える。

「話の途中で襲ってこなかったことに感謝します」

腰から下げた剣に触れることなく二人のやり取りを見ていた男に、椛は礼を言った。

「良い友を持ったな。白狼天狗の身をあそこまで案じてくれる者などそうそうおるまい」
「自慢の友達です」

ようやく男は剣を抜いた。規格外の刀身に一瞬だけ椛の姿が映る。

「いい加減。どちらが強いかはっきりさせねばな」

両手で握った手を腰の横にくっ付ける。横振りに最も適した構えである。

「そういえば昔、大天狗様が訊いて来ましたね。私と貴方、どちらが上か」

椛は両手で持った剣を肩に担ぎ、腰を低く落とした。

「大天狗様はお前が上だと仰っていた」
「そうでしたっけ? 確か貴方じゃありませんでした?」

十数メートル。
離れているようで、数歩で縮められる難しい距離。

「剣を重くすれば俺と渡り合えるとでも思ったか?」
「打ち合えばわかります」

その頃、坂を上っていたにとりはちょうど曲がり道に入ったようで、その姿が見えなくなった。
その瞬間、椛は地面を蹴った。別ににとりの姿が見えていたわけではなく、全くの偶然だった。

(本当に真正面から向かってくるとは)

肩に剣を担いだまま、坂を駆け下り距離を詰める椛を見据える。

(高さの地の利を得て、武器の重量を増せば、俺の剣に対抗できると思ったか?)

迫ってくる椛に慌てる事なく、右肩を前に突き出し、体を前のめりにする。
丹田に力が溜まるのを想像し、捻れている筋肉に力を篭める。



坂を駆け下りながら椛は思う。

(お前はさっき言っていたな)

――― 貴様の戦い方は熟知している。故に、罠に掛けるのは容易い

(その言葉、そっくりそのまま返してやる)

同時に放たれる椛の袈裟切りと、男の薙ぎ払い。
振り下ろされた椛の剣。その剣の柄から二寸上の位置を、男の剣が真横から叩いた。
椛の剣の刃は、叩かれた箇所を起点に砕けた。

「終わりだ」

高速で動く武器を捉える動体視力。狂いなく狙った位置を叩く技巧。鋼を砕く膂力。
それら三つが揃い初めて可能となる武器破壊。彼にとっての常勝の型である。

(せめて恐怖も苦痛も感じぬよう一瞬で)

確信した勝利、しかし気を抜くことなく、素早く腕を振り上げる。これで椛の頭を割れば終わる。
はずだった。
ここで本来有り得ない現象がおきた。

(なに?)

椛の手に短刀が握られていた。

(なぜだ?)

武器である剣はたった今砕いたばかり、仮に予備の武器を懐に隠していたとしても、持ち変える時間などありはしない。

(なぜだ!?)

椛の体が男と密着する。
男の脇腹に、椛の短刀が突き刺さった。
かつて、武器を失いヤケになって、男に組み付いてきたり、素手で挑む者はいたが、そんなものはこの巨体には全く無意味で、全員、今まさに振り下ろそうとする太刀で斬り伏せてきた。
だからこのような事態、まったく予想だにしていなかった。
仏頂面が常である男の表情が、今、大きく歪んだ。

(浅い)

一方の椛は歯噛みしていた。
分厚い筋肉に阻まれ、刃は半分しか刺さっていなかった。
男の目はまだ生気を失っておらず、剣も未だに握ったままである。

(これじゃあ決め手にならない)

手首を回し、傷口を抉る。広がった傷口からじわじわ溢れた血が、椛の手を赤く染める。
この時、ようやく男の手から剣が落ちた。
落ちた男の剣は、衝撃で斜面へ転がり、そのまま真下の平地まで止まる事無く滑り落ちていった。

(よし、あとは)

この場を離れて男が弱るのを待つ。そう考えたときだった。

「 ? 」

男はこの場から離脱しようとする椛の襟を掴んだ。

(殴ってくるのか、締めてくるのか?)

何をされようと耐えてやると、身を固くする。
直後、男の体が傾き、椛もつられて引張られた。
男の意図がわかり椛は狼狽する。

「オイ! クソ! 冗談だろ!!」

男はあろうことか、崖へと身を投じようとしていた。
勝てぬと踏み、道連れにしようという魂胆だった。

「離せ!!」

両手で剣を押して傷口を広げ、首を回して男の腕に噛み付くがビクともせず、そのまま徐々に体が傾いていく。
飛ぼうと試みるが、男が掛けてくる力の方が大きいため、そのまま引張られていく。

「くそ」

道と崖の境界線から傾いて生えている木へ懸命に手を伸ばし、枝を掴む。
しかし、枝は握ったすぐ先で、ブチリと千切れた。

崖から突き出すように露出していた岩がすぐ目の前まで迫ってくる。

(ああ、やっぱり愛されてないな)

意識を失う前に、そんなことを思った。


















転がりきった崖の下で起き上がる椛。

「が……ほぉ」

体中の骨は軋み、筋肉は悲鳴をあげている。
目の前には落葉を終えた針葉樹林が広がっていた。

「あっ、ぐ」

痛む体に鞭を打って立ち上がる。
幸い、骨が折れていたり、危険な箇所からの出血はなかった。

「奴は」

そう思い眼球を動かすと、すぐに見つかった。

「なんだ、随分と元気そうじゃないか」

敬語をやめ、ぶっきらぼうな口調の椛。
男は近くの木に背中を預け、弱々しい呼吸を繰り返していた。

「そんな事はない、一番荒れている場所を転がったらしい。気を張らなければ、今にも意識を失いそうだ。ここまでどうやって這って来たのかも、よく覚えていない」

短い距離だが体を引きずったような跡があり、その上には一定の間隔で血痕があった。

「こっちだって散々だ。木やら岩やら、しこたま体を叩かれた」
「落ちる直前、枝を掴んだように見えたが?」
「掴んだ矢先にポキリと折れたよ。どうやら私は、山に愛されていないらしい」
「お互い嫌われているな」
「それだけのことを、してきたからな」
「そうだな」

椛は笑おうとしたが急にむせてしまい、血の混じった唾を吐いた。
怪我の功名か、顔を下に向けた際、男を刺した剣がすぐ足元に転がっているのに気付いた。
拾い、深呼吸を繰り返し気持ちを落ち着けてから、血が乾きかけている切先を男に向ける。

「何か遺言があれば聞きますが?」

口調は敬語に戻っていた。

「お前の剣がその形に砕けたのは、偶然ではないな?」
「ええ、そうなるように細工をしました」

にとりに頼み、刀身を釘と金槌で叩いて、即席の切り取り線を刻んでもらった。

「あとは俺がお前の剣を叩けば、そこだけ残るという仕組みか。なにが『小細工は通じない』だ。女狐め」
「狼です。他に言いたいことは? どうせ最後です聞いてあげますよ」

これだけの怪我を負っても、剣を握る椛の手は少しも震えておらず、眼光に強い光が宿っていた。

(綺麗だ)

唐突に、目の前で佇む彼女に対してそんな感情を抱いた。
体中に擦り傷を作り、土で汚れた彼女が何故かとても美しく見えた。

(この女の手に掛かった者達は皆、死ぬ間際、一様にこう思ったんだろうか)

そう考えていると、椛は剣を振りかぶった。

「もう宜しいんですね?」
「知っての通り、俺は昔、非道な事をいくつもしてきた。明日その全部のツケが回ってきたとしても、大人しく受け入れる覚悟はできている」
「首を上げてください。動脈を切れば、短い時間で逝けるでしょう」

男は言われた通りに首を向ける。

「今日までお勤め、ご苦労様でした」

一瞬の間の後、それは振り下ろされた。



























大天狗は天魔の屋敷を訪れていた。

「こっちかしら? こんちはー」

門を潜ってすぐ道場から物音がしたため、まずはそちらに立ち寄った。

「てぇい! やぁ!! はぁ!!」

「おー。やってるやってる」

女中の薙刀を懸命に躱すはたての姿があった。

「せぇい!!」
「あだっ!」

しかし回避は何度も続かず、大上段がはたての脳天に直撃した。

「あっ、すみません!」

頭を押さえて悶絶するはたてに慌てて駆け寄る。

「あらー、大丈夫はたてちゃん?」

大天狗も道場に上がってきた。

「大天狗様。いらしてたんですか?」
「いつもこんなに容赦無いの?」
「いえ、さっきまで寸止めしてたんですけど。何度も避けられる内、私も熱くなってしまい」
「確かに、結構良い動きしてたわね」

大天狗は、目の焦点が合わずぐらぐらと揺れるはたての前にしゃがむと、人差し指を立てた。

「はい、何本ある?」
「一本、二本、三本、四本、五本、六本、ななほ……あぐっ」

アイアンクローではたての視界を遮断する。

「誰が私の顔の皺の数を訊いたかしら?」
「え、違ったんですか?」

不思議そうな声色で問い返した。

「悪意が無いようだから今回は特別に許してあげる」
「 ? 」

グローブのような手から開放されたはたて。両目の焦点はすでに戻っているようだった。
渋い顔の大天狗に女中が話しかける。

「天魔様にご用ですか?」
「もしかして出かけちゃってる?」
「いえ、まだ眠っております。昨日、夜更かしされていたので」
「そっかー。じゃあ出直した方がいいわね」
「いえ。そろそろ起きる時間のはずです。少々お待ちください」

女中は天魔の様子を見に道場を出て行った。

「天魔ちゃんが夜更かしなんて、何かあったのかしら? はたてちゃん知ってる?」
「すみません。何か調べものをしているとしか」
(まぁだいたい察しはつくけど)

大方、保守派の動きでも探っていたのだろうと予想はついていた。

「そういえば昨日はごめんね。変なことに巻き込んじゃって」
「あ、いえ。そんなことないです」

口では否定しつつも、顔が僅かに引き攣っていた。大天狗はそれを見て見ぬ振りをした。

「あの時、あの女の人が話してた事って、その、昔存在してたっていう組合の話ですか?」
「ひょっとして興味あるの?」
「少しだけ」
「話してもいいけど。結構エグいことにも触れちゃうけど良い?」
「それはえっと、構いません」
「じゃあ所々ぼかしながら話してあげる」

はたての言葉に含まれる戸惑いを感じ取った大天狗はそう前置きして話し始めた。

「まぁ組合なんていっても、私が組員に『こいつ始末して来い』って命令するだけの集まりよ。で、始末されるのは天狗組織にとって都合の悪い奴。そいつが善人か悪人かなんて関係なくね」

ここまでは知ってるのよね?というニュアンスの視線を送られたため、無言で頷き返した。

「内容も結構えげつなかったわよ。一人一殺って具合に、ほとんど鉄砲玉ね。運よく生き残っても知りすぎたから口封じされた子や、捕まって犯罪者として処刑された子もいたわ」
「…」
「こっから先、こんなのばっかりだけど大丈夫?」
「……お願いします」
「キツかったら何時でも言いなさいね」

そう念押しして続ける。

「で、目的達成の為なら何でもしたわけよ。盗み、放火、脅迫、誘拐に人質。手段は選ばなかったわ。冤罪でっちあげて死罪に追い込むなんて日常茶飯事」

昨日、過激派の女性が言っていたのは、この辺りの事なのだろうとはたては思う。
しかし、はたてが知りたいのはそこではなかった。

「その組合に、椛もいたんですよね」
「うん。居たわ。いっぱい残酷なことをしたし、させた」
「それって…」
「ごめんね。その辺はあまり触れないで頂戴」

大天狗の雰囲気が変わった。

「きっと知れば、モミちゃんのこと幻滅しちゃうかもよ?」
「そんな事は…」
「受け入れる優しさがあるなら、聞かないっていうのも有りなんじゃない?」

ここまで話した時、道場の扉が開いた。天魔の様子を見に行っていた女中だった。

「天魔様、少し前に起きてらしたみたいで。どうぞ広間へ」
「はいはーい。じゃあまたねはたてちゃん」
「は、はい。それでは」

大天狗は道場を去ると、はたては鍛錬を再開させた。











「今日はここまでにしましょうか」
「はい。ありがとうございました」

正午前に鍛錬の時間は終わりを告げた。

「よろしければ、お昼はこちらで召し上がっていってください」
「折角ですけど、午後一番に取材に行きたい所があるので」
「そうですか。残念です」

道場の掃除を終わらせて、はたては屋敷を後にする。



「おーい、はたてちゃん」
「?」

門を潜ってすぐ、いざ飛ぼうとした所を呼び止められた。
振り返ると大天狗が立っていた。

「今から帰り?」
「はい」
「里まで一緒に行かない?」

断れるはずもなく、浮きあがりつつあった足は、ぴったりと地面に着いた。
話しながら山道を進んでいく。

「今日はすみませんでした」
「どうしたの?」
「興味本位で椛の過去を掘り起こそうとしました」

過去、椛から執拗に白狼天狗のことを訊いて怒鳴られた事を思い出す。
あの時、最終的に椛に皺寄せがいき、彼女を傷つける結果となった。

(全然学んでないなぁ、私)
「さっきは私も悪かったわ」
「え?」

突然の謝罪に面食らう。

「私的にもさ、あんまり組合の頃はロクな事が無かったから、なるべくなら思い出したくないのよ。だからああ言っちゃの。本当に身勝手な話よね。全部自分でやっておきながら、思い出したくないなんて」

一瞬だけ見せた悲しげな表情に、はたてはどう反応していいのかわからず、口が止まる。
このままではまずいと思い別の話題を振った。

「そういえば大天狗様は、椛と親しくなった切欠って何だったんですか?」
「悩み事とか愚痴は、口に出すと楽になるっていうのはわかる?」
「えっと、まぁ」
「今も昔も中間管理職だから、やっぱり色々とストレスが溜まるのよ。でも立場上悪口なんておおっぴらに言えない、でも言わなきゃやってられない。そういう時期があったのよ」

そんな頃に組合の中で椛を見つけた。

「そんな時にさ、ふと思ったのよ『どうせこの子ならすぐ死んじゃうでしょ』って。王様の耳はロバの耳ってやつ? 今の口調はね、その時初めて使ったの。その時までずっと堅苦しい喋り方だったわ」
「へぇ」

「ん?」

この時、大天狗は自分達に付きまとう気配に気付いた。

(なんか視線を感じるわね。保守派の連中かしら?)

面倒事が起こる前にと、はたてを見る。

「ねぇはたてちゃん。ここから全力で飛んで2分以内の場所に、助けを求められる場所ってある?」
「えっと無いです」

椛の詰所が脳裏に浮かんだが、流石に2分以内には無理だった。

(まずいな。いっそ抱えて飛ぶか)

そう考えた時だった。
二人の向かおうとした方向から、何者かが一人、ゆったりとした歩みで表れた。
顔を頭巾で隠しているため、種族はおろか性別すらわからない。
露出した血走った目から、狂気に近いものは大天狗は感じる。

「大天狗様、あの」
「うん、大丈夫。わかってる」

現れたのは一人ではなかった。二人を四方から囲うように、左右と背後からも頭巾で顔を隠した者が姿を見せた。

「これがモテ期ってやつ?」
「ち、違うと思います」
「で、なにアンタたち? ナンパしたいなら顔見せなさいよ」

最初に現れた者に尋ねる。

「貴女様から過激派と揶揄される一派と言えば伝わりますかな?」
「それがそんな物騒な身なりで何の用?」
「日和見の貴女では天狗社会は守れません。よってここでお役御免していただきたく存じます」
「あれ? 昨日、私に指揮を執れって言ったのはなんだったわけ?」
「我々も一枚岩ではありません故、方針に多少の不一致もありましょう」
「ふーん」

刺客たちは徐々にその囲いを狭めていく。
刀、団扇、錫杖、槍と四人とも異なる獲物を携えている。

「まさかたった四人で私が仕留められるとでも?」
「我々もそこまで傲慢ではありません。我々の命と引換えに、腕の一本でも落とせれば御の字でございます」
「この腕がアンタ達の命と吊り合うと思ってるの?」
「試す価値はあります」
「はたてちゃん。私の前に来て」

自分の背後にいたはたての襟を掴み、胸の前まで引き寄せると、その両耳を塞ぐようにはたての頭を両手で押さえつけた。

「あの、大天狗様?」

はたては体の自由の一切を奪われ困惑する。

「その娘を盾にしてこの窮地を脱するおつもりですか? 貴女は昔から、ここぞという時はそうやって生き延びてきましたな」
「五月蝿い黙れ」

四人はジリジリと距離を詰め、互いに目線を交わして飛び掛る頃合を探している。
二人から見て左側の刺客、扇を持った者が腕を振り上げたとき、四人が一斉に動いた。

(ああ、しかたない)

大天狗は息を吸いそして、




< ア゛ッッ!!!!!!!! >



大声を発した。

飛び込んできた四人は大天狗に到達する事無く、彼女達の手前で倒れこんだ。
四人全員の頭巾に、徐々に赤い染みが広がっていく。
目、耳、鼻から血が溢れ出していた。
四人はピクリとも動かない。

「はっ、何が腕一本よ。溜息以下どもめ」

自分に刃向かった四人を一瞥する。

「驚かせてごめんねはたてちゃん」

両手を離し、はたてを開放してやる。

「あ…ぅぅ」

片膝をつき、コメカミを押さえる。

「歩ける?」
「ちょっと頭痛がするけど、大丈夫です」
(耳を塞いであげてたとはいえ、この距離で頭痛程度か)

小さく驚嘆し、はたての肩を貸してやる。
ゆっくりとその場から離れようとする。

「今のは一体?」
「周りの大気を肺に取り込んで、体内で妖力と練り合わせて特殊な音域に変換して……まぁようは妖力でブーストした馬鹿でかい声ね。今度教えてあげよっか?」

天狗が扱う基本妖術の一つだが、本来相手を驚かせる程度で、殺傷能力など皆無である。

「い、いえ。いいです。元引篭もりにはちょっとハードルが高いかなって」
「そーお? はたてちゃん才能あるか…」

言葉の途中で、大天狗は顔を強張らせた。

「あーくそ。ぬかった」
「どうしたんですか?」
「悪いんだけどはたてちゃん。ここから全速力で離れてちょうだい」

突然大天狗は膝をついた。

「大天狗様? え、嘘?」

大天狗の脇腹から細長い棒から生えていた。

「なんで!?」

状況が飲み込めないまま矢が飛んで来たであろう方向を見る。
遠方の木の上、そこに弓を携えている者がいた。
声が殺傷能力を失うか失わないかのギリギリの距離に居たため難を逃れたのだろう。

(嘘。もう一人いた)

刺客は全部で五人だった。
五人目の頭巾が木々を蹴って移動して、はたて達の前に着地する。

「娘。貴様は大天狗の身内か?」
「身内?」
「血縁者かと訊いている」
「いいえ。違います」
「では手下か?」
「部下、でもありません」
「なれば去れ。用があるのはその化物だけだ」

手にしていた弓を左右に振った。

(見逃してくれる?)

地獄で仏に出会ったような気持ちになるはたて、しかし、それも一瞬。

(でも、私がここから逃げ出したら)

苦悶の表情の大天狗を見る。

「ぁ、ぃいって、ぁたしのこ、と、は。に、げな…さい」

無理矢理に笑顔を作って手を振る大天狗。

「あ…」

はたての視界にノイズが混じる。
苦しい中で必死に笑おうとする大天狗の表情が、過去の光景と重なった。かつて、引篭もりになる切欠となった光景と。

(ここで逃げたら)

はたては自分の中から恐怖や戸惑いが徐々に薄れていくのを感じる。

(きっと私は、引篭もりだった自分に逆戻りだ)

それはかつて椛を守るために洩矢諏訪子と対峙した時と同じ感覚だった。

「どうした? さっさと去れ。こちらとて年端もいかぬ娘を射殺したくはない」
「…」

幽鬼のように佇むはたて。
その場から動く気配は無い。

(構うものか)

大方、気が動転して放心してしまったのだろう。そう思い矢を番える。
大天狗の射線上にはたての体が半分掛かっていたが、それを避けて大天狗に当てるくらいの技量は持ち合わせていた。

「報いを受けよ」

引き絞り、躊躇なく放つ。
放った矢は寸分違わず大天狗へと飛んで行く。

しかし、甲高い音がした後、矢は大天狗から逸れて後方の茂みの中へと消えた。

(何が起きた?)

急に矢が打ち落とされた。原因はわからない。
はたての足から下駄の片方がなくなっていた。

(落ち着け。今、自分がすべきことに集中を)

再び矢を番え、一瞬で狙いを大天狗に定めて手を離す。
直後にはたては足を振って下駄を飛ばし、飛んできた矢にぶつけて軌道を変えた。キィンと甲高い耳ざわりな音が残響としてはたての耳に残る。

(下駄を当てただと!?)

射の邪魔をした者の正体を理解して驚愕する。

(何者だこの娘は?)

上層部とその血縁者の顔は大体覚えているが、その中に目の前の少女は記憶に無かった。だから最初にあれだけ念入りに聞いておいた。

(だがこれで…)

驚きはしかたがそれだけ。
下駄を両方使いきり、矢を防げそうなものを一切持たないはたてを脅威とは感じていなかった。

「今なら見逃してやる。これが最後の警告だ」
「聞けません」
「恨むならその女を恨め」

一抹の同情を砕き、はたてと大天狗の境界線を狙い放った。

(どうしよう。下駄もう無いし)

動けば大天狗に当たる。

(携帯だと小さすぎるし、ポケットのハンカチじゃ頼りないし)

羽の模様がはっきりと見える程近くまで迫ってくる。

(ああ、そっか)

はたての手が無意識に動く。

(掴んじゃえば良いんだ)

矢の先端である鏃、そこから十センチほど後ろの場所をはたては掴んだ。

「熱っ!」

摩擦熱が彼女の手の薄皮を焦がし、痛みに耐えきれずすぐ投げ捨てた。

「馬鹿な!!」

弓の鍛錬に長い月日を費やしてきたが、掴まれるなどというのは初めての経験だった。
それも年端も行かぬ同族がやってのけたという事実が驚きを倍増させる。
はたてに対して得体の知れない恐怖を感じた。

(だからといって!)

想定外の事態。通常なら撤退も検討する場面だが、今の彼らにその選択肢はない。
矢筒から残り二本の内の一本を取り、素早く番える。
すかさずはたてが警告する。

「弓を戻してください」
「断る!」

圧倒的有利にも関わらず、まるで追い詰められているような表情で声を張り上げる。

「それを外したら。次の一本を打つ前に、貴方を捕まえられます」
(あれ? 何言ってるんだろう私?)

普段なら絶対に口にしない自惚れとも取れる言葉。
はたては自分の意思とは関係なく口が動いていることに気付く。

「今なら見逃してあげます」
「よかろう」

張っていた弦を緩め、矢を外した。

(退いてくれた?)

諦めてくれたとホッと一息ついたその瞬間。相手は素早くその動作に移っていた。

「これならば防げまい」

残った最後の一本も取り出し、二本同時に矢に番えた。

(うっそ)

熟練者ですら、狙いが定まらずあらぬ方向へ飛んで行く同時矢。
長い修練の末、彼はそれを習得していた。
弓をへし折る勢いで弦を引き、躊躇無く放った。
矢は使用者の意志を汲み取ったかのように、二本とも同じ軌道で僅かな距離を保ちつつ二人へ迫る。

「警告はしましたからね」
(大丈夫。ちゃんと見えてる)

すべてがゆっくりに感じられた。
飛んできた矢も、近くの木の枝の上で踊る小鳥達も、自分の心臓の鼓動も。
すべてが緩やかに流れる世界で、はたての目と頭だけは、普段と変わらぬ速度で動いていた。

(何回も見てれば、いい加減に目も慣れる)

一本を掴み、それによって伸びたリーチを利用して、もう一本を払う。
半回転して勢いを失った矢は、大天狗のすぐ隣に落ちて、惰性で二~三メートル地を這って止まった。

(あとは)

矢を全て使い切った頭巾を見る。
今まで気付かなかったが、懐から短刀の柄がはみ出ている。
弓を捨てた彼の手が今まさにそれを掴もうと伸びる。

(それはマズイ)

素手で相手を制するほど、体術に自信は無い。

(その前に捕まえないと)

時間がゆっくりと流れる世界。目と思考だけが通常の速度。逆にそれがなんとももどかしい。

(もっと速く)

短刀を抜かれれば折角の傾きかけた戦況がまた膠着してしまう。
大天狗をいつまでもあの状態で放っておくわけにはいかなかった。

(なんでもいいから速く)

体がまるで水の中にいるかのように鈍い。蔦が絡みついているかのように重い。
ゆっくりと動いていた敵の手がようやく短刀の柄を掴んだ。

(ああもうっ!)

はたての中で、何かが吹っ切れた。
直後、恐ろしいほど体が軽くなった。

(あれ?)

鉛のように重かった足が軽々と上がる。
刺客はこれから短刀を鞘から抜こうとしている。

(変なかんじ)

普段と変わらぬ歩調で相手に近づき、短刀を払い落とし、無防備になった胸を足の裏でやや強く押した。
その瞬間、世界は元の速度に戻った。

「おぐぅ!!」

それほど強く押してないにも関わらず、その体は軽々と飛んだ。
背後の木に背中を強打し、何かがベキリと折れる音がした。
悶絶する頭巾の目の前に、ずっと握ったままだった矢の先を突きつける。

「この矢、先に毒が塗ってありますよね? 何の毒ですか?」
「附子(トリカブト)だ、深く刺されば熊だって殺せる量が塗ってある」
「解毒剤は?」
「教養の無い娘だな。附子の治療薬などこの世に存在せん」
「じゃあもういいです」

矢を握る力を強める。どこを刺すべきかと鏃が揺れ動く。

(あれ?)

ここではたては我に返る。
今まさに自分がしようとしていることに気付き、慌てて矢を捨てた。

「違う! 私、別にそんなことしようだなんて…」

自分の中にあった殺意を懸命に否定する。

「 ? 」

刺客は様子がおかしくなったはたてを不審に思い、その顔をじっと見る。
じっと見て、その顔が誰かに似ていることに気付いた。

「おい、娘」
「ひゃ、ひゃい?」

突然の呼びかけに驚き、上擦った声で返事をしてしまう。

「苗字はなんという?」
「姫海棠、ですけど?」

敵に名を教えるという、本来なら有り得ない行為。しかし咄嗟に訊かれたことと、実践経験の無さから、思わず話してしまった。

「姫海棠…そうか通りで」

一人納得する。

「思い出したぞ。お前、あの女の娘だな?」
「なんのこと、あの女って?」
「見れば見るほど面影がある。通りで、あんな芸当ができるわけだ」
「何か知ってるんですか? 母さんのこと?」
「くぅ」
「あっ!」

動揺するはたての隙をつき、刺客は最後の力を振り絞り駆け出した。

(逃げられる。追わなきゃ。追いかけてそれで今度こそ…)

駆け出そうした時、裾を誰かに掴まれた。

「え?」

背後を見る。

「なんで?」

幼い頃の自分が、自分の裾を掴んでいた。
かつての自分は大天狗の方を指差した。

「そうだ。大天狗様、怪我をして」
『どうした? 追えよ』
「っ!?」

今度は正面から声がした、前を向き直すと、側頭部に仮面を付けた自分が逃げる刺客の背中を指差していた。
彼女の事も知っている。かつて、何らかの奇跡的な出来事によって出会えた未来の自分だ。

『スイッチが入ってるその状態なら何だってできる。追いつくのだってあっという間だ』
「でも」
『アイツを逃がしたら、今度はお前の身がヤベェぞ? それでも良いのか?』
「それもそうだ。なんとかしないと」
『だろ? 今のお前なら、ドアを開けるように、椅子に座るように、息を吐くように何の躊躇いもなくアイツを殺せる』

そう言って未来の自分は仮面を揺らしてケタケタ笑いだした。
その声を対抗するように、背後にいる幼い自分は握る手を強める。

「私は」

負傷した大天狗と、自分の今後に関わる何かを知る刺客。
どちらへ向かうか選ばなければならない。
人生の分岐点に立っているような気がした。

「…こっち」

決断に時間は掛からなかった。
踵を返して大天狗の方へ向かう。

『そっちを選んだか。まあいい。好きにやりな。お前の道だ』

振り返ると、そこには過去の自分も、未来の自分もいなかった。

(何だったんだろう今の? っと、今はそんなことより)

大天狗まで駆け寄り、肩を持つ。

(ここから一番近い診療所は確か)

担ごうと両足に力を篭める。

「重っ」
「重くない」

耳元で声がした。
大天狗は目を開けていた。

「大天狗様!?」
「揺らさなくて良いから、刺さった矢が揺れて余計痛い」
「でもこのままじゃ。それに毒だって」
「大丈夫。このくらいじゃ死なない。つーか昔もおんなじようなことがあって普通に生きてた」
「すごいですね」

見れば、最初はあれだけ荒かった息も、もう整っていた。

「せめて矢、抜きましょうか?」
「この矢の鏃って特殊でさ、小さい返しが表面にいくつも付いているせいで、無理矢理抜いちゃいと、周りの肉も一緒にくっ付いて出て来ちゃうのよ」
「じゃあどうしたら」
「こっからちょっと下ると診療所があるから、そこにいる爺さんを呼んできて。『六番の型の矢が刺さった』って言えば伝わると思うから」
「でも大天狗様を一人でなんて」
「大丈夫、その気になればいくらでも身が守れるわ、簡易の結界だって貼れるし。ていうかさっきまで張ってた」
「そうなんですか?」
「だからゆっくりでいいわよ」

全速力ではたては診療所を目指し飛んでいった。
はたての姿が見えなくなると、大天狗は腹を庇いながら起き上がった。

「あんたらさっさと起きなさい」

倒れたままの刺客四人の一人に近づき、つま先で小突く。

「今回は見逃してあげるから、さっさと消えなさい」

よろよろの起き上がる四人。
毒矢を射られても平然とされていては勝てぬと判断して、その場からおぼつかない足取りで逃げ去っていった。

「はぁ、いってぇ…」

顔をしかめて木に背中を預ける。
矢の構造上、僅かに動くだけでも被害者に激痛を与えるようになっているのを忘れていた。

「誰よこんなふざけたもん考案した奴………ああ、私か」

今度は痛みで痛みが朦朧としてきた。

「どうせ刺されるなら、モミちゃんが良かったなぁ」

次に気がついた時、彼女は病室のベッドの上だった。

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