こいしに逃げられたその次の日、こころは朝食の片づけの済んだ居間でぼんやりとしていた。頭の中を巡っているのはこいしのことばかりだ。しかし、何かを考えているというわけでもない。あの宴会から帰ってきてからもずっと考え込んでいたせいで、何かを考えるという気力も残されてはいなかった。こいしの残した絶望の残滓が緩やかにこころを追いつめていっている。
そんな彼女を心配するように、周りには狸たちが集まってきている。膝の上に乗ったり、鳴き声で呼びかけたりとしているが、今のこころはそれに反応するだけの余裕を持っていない。
「いつだったかも悩んどったようじゃが、今回のはかなり深刻そうじゃな」
食器を洗い終えたマミゾウが居間へと入ってくる。その後ろには気遣わしげな表情を浮かべた狸の少女がついて歩いている。
「あんまり溜め込んでおっても仕方ないじゃろう。儂に話したところでどうすることもできんかもしれんが、端から見ておる奴らに心配されるような悩み方をするようなことなら、一人で抱えておると潰されるぞえ?」
「……師匠、聞いてくれる?」
マミゾウからそう言われるまで相談するという選択肢を持っていなかった。だから、その声は憔悴混じりの縋るようなものとなっていた。
こころは自分が未熟なことを知っている。だから、他人に頼ることを厭うようなことはない。しかし、彼女は周りが見えづらくなりやすいので、結果として一人で抱え込みやすい。
だから、今回マミゾウがそうしたように、誰かが手を差し伸べる必要がある。
「構わんよ。儂もお前さんがそこまでして悩むことに興味もあるしの」
マミゾウはこころの正面に座り込んで聞く体勢となる。
「話す前に、皆にはここから離れてほしい。……たぶん、色んな人に聞かれるのは嫌がるだろうから」
こいしの様子を思い返しながらそう言う。誰にも話さないのが一番なのだろうが、今のこころにそれだけの余裕は残っていない。自分のせいでこいしを追いつめてしまったのかもしれないという思いはそれだけ重圧となっている。
マミゾウを除く狸たちは素直に部屋から出ていく。少女の姿を取っている狸は、部屋から出る直前にこころへと小さくガッツポーズを見せる。そして、たたたた、と足音を立てながら離れていった。彼女なりの励ましだったのだろう。
「狸たちにも随分と気に入られたようじゃな。まあ、それは今はよいか。では、何があったか話してくれるかの」
「うん……」
こころは頷くと、これまでこいしとの間にあったことを話す。昨日のことは当然として、そこにはこいしがやたらと絡んできたことも含まれている。そこまで含めて話さなければ、正確に伝わらないだろうと考えて。
「ふぅむ……」
こころが話し終えてから、マミゾウはしばらく考え込む。こころもただ待つばかりではなく、再びこいしのことを考え始めていた。話をしているうちに思考が働き出していたのだ。
「一つ聞いてみたいんじゃが、こいしがお前さんに希望を見出そうとしとるらしいことがわかったとき、お前さんはどう思ったんじゃ?」
「どう思ったか……?」
こころは首を傾げて、しばらく考え込む。しかし、それほど悩むことなく答えは出てきていた。
「私みたいなまだまだ頼りないのを希望にしちゃっていいのかなと思ったけど、それ以上にこいしの中での私がそういう特別な位置にいるのが嬉しかった。私の仲間意識は決して一方的なものなんかではなかったんだって。だから、こいしが私に頼ってきてるならしっかり助けになってあげたい」
「その言葉を届けられたらそのまま解決しそうじゃな。まあ、そう簡単にはいかないんじゃろうがな」
マミゾウは眩しいものでも見るかのような視線をこころに向ける。
「そこまでしっかりと考えがまとまっとるなら、ここで立ち止まっておる理由はないはずじゃよ。後悔なんぞ時間の無駄じゃな。落ち着いてからゆっくりと反省すればよい」
「うん……。でも、どうやってこいしを見つければいいの?」
「住んどる場所はわかっとるんじゃから、とりあえず行ってみればいいんじゃないかの」
「あ……、そういえばそうだった」
いつもふわふわとしていて、どこにでも現れるという印象が強かったせいで、定住しているという記憶は完全に抜け落ちてしまっていた。
「やれやれ、先行きがちょいと不安じゃな」
マミゾウは呆れたような笑みを浮かべる。こころは自分のうっかりさ加減から目をそらすように、視線をあらぬ方へと向ける。
「儂から言えそうなのはこのくらいかの。それで、どうするんじゃ?」
「とにかく地霊殿に行ってみる。そこにいなかったら、さとりさんから話を聞いて……、それからまた考えてみる」
「現状思いつく限りではそれが最良じゃろうな」
マミゾウが頷くのを見てこころは立ち上がる。こうすると決めればすぐに動くのがこころという少女のやり方だ。
「じゃあ、早速行ってくる」
「うむ、健闘を祈っとるよ」
こころはマミゾウに見送られながら地底へと向かっていくのだった。
◆
地底の旧地獄街道を通り抜けて大きな屋敷の前にたどり着く。
そして、大扉の前で大きなため息一つ。そこに込められていたのは、緊張ではなく安堵だった。
こころは地底のどこか陰鬱な雰囲気が苦手だった。その上、地上で聞く様々な噂話によって、必要以上に危険な場所だという印象を抱いてしまっているのだ。
実際は鬼とサトリの存在のおかげで歩いていれば襲われるというほどの無法地帯とはなっていないのだが、地底の事情に疎いこころがそれを知る由もない。
余談だが、もしこころが古明地と関わりがあると言えば一層その安全は保障されることだろう。地底の噂に怯える地上の妖怪が地底で最も恐れられている存在には全く気後れしないというのも皮肉なものである。
こころは片手を塞ぐ黒帽子を意識しながら、空いている手でドアノッカーを掴んで大扉を叩く。そうすると、「ばうっ!」という、野太い犬の鳴き声が聞こえてきた。動物の声が返ってくるとは思っていなかったこころは、その声に大いに驚いた様子を見せる。頭の面も驚きに目を見開いている。
しかし、その後に続く硬質なもの同士がぶつかり合うような音を聞いて、先ほどの鳴き声が「そこで待っていろ」の意だということを理解する。賢い犬だなーと内心で感心しながら扉が開かれるのを待つ。
こいしの姉であるさとりとどういった話をするか考えておいた方が良いのだろうかと思うが、聞くべきことはあまり思い浮かんでこない。こいしに直接言いたいことだとかは結構思い浮かんでくるのだが。
そう思っている間に、扉が開かれる。
「こんにちは、こころさん。……何やら面倒くさいことになっているようですね。こいしがいるかどうかはわかりません。今すぐ覗いてみましょうか」
扉を開いて出てきたさとりは、こころの顔を見るなり一人で話を進めてしまう。サトリらしいといえばその通りだが、心を読まれることに慣れていないこころは、多少考え込んでしまう。
「えっと、こんにちは、さとりさん。えーっと、早速こいしのところに行ってみましょう」
答え方は違和感の塊のようになっていた。
「はい。では、上がってください」
そうした反応にも慣れているのか、気にした様子もなくこころを招き入れる。自分自身でも違和感を抱いていたこころはさとりの反応に少々拍子抜けしてしまうが、気にしすぎても仕方がないと思い直してさとりを追うように屋敷の中に入る。
と、さとりの隣に薄茶色の大型の犬がいることに気が付く。その犬がこころのノックに気づき、さとりを呼んできてくれたのだろう。
「ええ、その子はいつも来客があれば私に教えてくれるんですよ。仕事は滅多にないんですけどね」
「そうなんですか。ありがとう」
こころは笑みの代わりの面を浮かばせながらその頭を撫でる。犬は嬉しそうに尻尾をぱたぱたと振っている。
そんな犬の姿を見ながら、こいしもこれくらいわかりやすければいいのになー、と思う。
「そうですね。あの子のことは難しいですね」
さとりの同意の声は寂しげに響くのだった。
こころのさとりとの面識は、こいしから元希望の面を返してもらいに行った際に少し話をした程度だが、心を読まれて先回りされてしまうということを除けば話しやすい人という印象が強かった。心を読まれてしまうということ自体はあまり気にしていない。読まれて困ることは何だろうかと考えて特に何も浮かんでこないのがその主な理由だ。
「そうして油断していると、記憶の奥底に眠らせているトラウマを引きずり出されるかもしれませんよ」
こころの対面に座るさとりが澄ました表情を浮かべてそう言う。二人の間では湯呑みに注がれた茶が湯を立ち上らせている。
ここは地霊殿の食堂。こいしの部屋を訪れてはみたものの、誰もいなかったので、何かの参考になるかもしれないとさとりからこいしのことを聞くこととなったのだ。
「さとりさんはそういうことをするつもりなんですか?」
トラウマと聞いてこころが思い浮かべるのは、希望の面をなくしてしまっていたと気づいたときのことだ。自分の身体の一部をなくしてしまうような出来事だ。他人から見れば大したことのないように映るかもしれないが、本人としてはあれ以上に強烈で動転し冷や汗が流れっぱなしになるような場面はない。今思い出すだけでも背中が冷えるのを感じる。そして同時にこれからはなくさないようにしようという決意を新たにする。
「理由もなくそういったことはしませんよ。今の生活を捨てたくないので不用意に敵を作りたくないですし、あの子の希望であるこころさん傷つけたくはないですし。ただ、無防備すぎるので多少の忠告くらいはしておこうかなと」
こころはさとりの捻くれ方の中にこいしの影を見つける。多少攻撃的な忠告の仕方が似ているなーと感じたのだ。
「脱線してしまいましたね。さて、こいしのことですけど、今のこいしのことに関しては正直に申し上げて私もよくわかりません。こころさんの記憶の中のこいしでさえも私の知らない姿を見せていますし」
さとりは自虐的な笑みを浮かべる。しかし、それはすぐに引っ込められて元の柔和な笑みへと戻る。簡単に零れ出てきて、それでもすぐに隠せてしまうほどに、彼女は一人自虐し続けることに慣れてしまっているのだろう。
「ですので、代わりに昔話をしましょう。私もあの子もお互いにお互いの全てを知っていたときのことを。構いませんよね?」
「はい、お願いします」
椅子に座ったままではあるが、ぺこりと頭を下げる。昔のことでも今のこいしに繋がる部分はあるはずだ。
「わかりました。では、話させて頂きましょう」
そこから少し間を置いてから昔話が始まる。
「昔のあの子は今とは比べものにならないくらい素直な性格をしていました。心が読めずとも何を考えているのかわかるほどに。それに、感受性も強い子だったので、あの子の心越しに見る世界は眩しいほどに輝いて見えました。世界をそうして見ることのできるあの子は、私の自慢の妹だったんです。……今にして思えば、素直な心も強い感受性もサトリにとっては重荷にしかならないものだったのですけれど」
それは端的に言ってしまえば、こいしはサトリとして異端の存在だったということだ。今も彼女はサトリを外れた存在であるが、それは生まれたときから宿命づけられたものだったのだろう。運命に呪われていると言っても過言ではないのかもしれない。
「あの子は他の種族から嫌われるということを非常に嫌がっていました。あの子は他人と関わるのが好きだったんです。だから、そのうち自分のことを受け入れる存在が現れると信じて広い繋がりを持とうとしていました。当然、自分の心が読まれているとわかって受け入れるのは少数でしたけどね。その少数にしたって子供ばかりで、あの子と関わっているのを見かけた親に言い聞かせられて、あの子を避けていくようになったのばかりでした。稀にそれを無視してあの子に関わり続けるのもいましたが、成長するにつれて避けるようになってしまっていました。あの子にとってはそれが一番辛かったようですね。他とは違って疑いようもない裏切りなのですから。そうやって、避けられ、嫌われ、受け入れてくれていた人たちにも見放されるということを何度も何度も積み重ねてあの子の心は次第に擦り減っていってしまっていました」
普通の感性を持つサトリであればそうした拒絶は歯牙にもかけない。そもそもが心を暴き、感情を恐怖に染め上げ、時には心を壊してしまうことがサトリの在り方なのだから。
そうしたことから無理せず距離を取っているように見えるさとりも多少は異端としての素質があるのかもしれない。
「私はそれに気づいていながら、どうすることもできませんでした。いつかこころさんのように心を読まれることを気にしないような方と出会えることがわかっていれば、それまで鎖にでも繋いで閉じこめておけばよかったのでしょうけどね」
さとりの声に冗談の色は見受けられない。彼女は妹を守る為ならば、なんだってする覚悟を持っているのだろう。それこそ、世界の全てを敵に回すようなことにだって手を染めるかもしれない。
「……心が擦り減っていく度にあの子の表情からは笑顔が失われていっていきました。それでも、私が不安そうにしていると無理矢理笑顔を見せてくれていたんですよ。……心が見えずとも痛々しいと感じるようなものでしたけれどね。そして、それを私の心越しに見たあの子は笑顔をなくして走って逃げ出すんですよ。あの頃は私も本当に辛かったです。もしかしたら、私の方が心を閉ざすという結末もありえたかもしれませんね」
言外に、そうなっていればこいしが心を閉ざすようなことはなかったかもしれないと言っているかのようだった。
「そして、あるときついにあの子の心は見えなくなってしまいました。それと同時に、また誰とでも関わるような明るさを取り戻したのです。私には空っぽな容器がただ風に流されているようにしか見えませんでしたけどね。後は、あなたの知るこいしのままです。何を考えているのかわからなくて、何を拠り所にしているのかわからなくて、何を求めているのかわからない。わからない尽くしのまま、空虚にさまよっているだけです」
どこか投げ遣りな様子で詠うように語る。どれだけの間、心を閉ざしたこいしの世話をしたてきたのかはわからないが、その言葉の隙間からはさとりの心労が窺える。
「……ただ、霊夢さんと魔理沙さんに出会って以降は、時折昔のような笑顔を見せてくれることもあるんですよね。あなたもその笑顔はしっかりと見ていますよ。あの幻想郷中が祭りのごとき騒ぎに沸いていたあの異変。あのときのこいしが見せていた表情こそが、昔あの子が浮かべていたものなのですよ」
過去を懐かしむように笑みを浮かべた後、疲れをはらんだため息を付く。
「……すみません。普段、あまり長話はしないので、疲れてしまったようです」
「気にしてないからだいじょうぶです」
ふるふると首を左右に振る。元々そうした細かいことにこだわらないというのもあるが、それ以上に先ほど聞いたこいしの過去の話というのが、決して少なくない衝撃をこころに与えていた。
なんとなくなんらかの事情を抱えているだろうとは思っていたし、それが軽いものでもないだろうとは考えていた。それでも、こいしの血縁であるさとりから強い感情の混じった話を聞いて、無視できないほどの衝撃を受けていた。
「……思っていた以上にこいしが私に向ける期待が重いことを知ってしまった気がする」
気が付けばそんな言葉が漏れてくると同時に、さとりに渡し損ねていたこいしの帽子をそっと抱いていた。
「だからといって、こいしを裏切るつもりはないんですよね」
「はい」
さとりの言葉にこくりと頷き返す。多少重さが増したとはいえ、そこに無茶な要求が付随したわけではない。こころの憶測が間違っていないのなら、変わらず前に進み続ける姿を見せていればいいのだから。
「……でも、どうしてこいしは私から逃げたんでしょうか」
不用意にそうした繊細な問題を口に出されてしまうのを嫌がったというのはわかるが、逃げるほどのものだろうかと思うと首を傾げたくなる。
「私なら、期待が負担になってしまわないだろうかと考えてしまうでしょうね。そして、その負担が悪い方向へ働いて、最後には嫌われたり、避けられたりしてしまうのではないだろうかと思ってしまうでしょう。そうなっていく様を見せつけられるくらいなら、逃げてしまいたいと思うのも仕方がないことだと思います」
「確かに重い期待だとは思いましたけど、だからといって嫌ったり避けたりするようなことはしません」
「今はそうでしょう。しかし、精神への重荷は総じて遅効性を持っているのです。なんとも思っていなかったものがあるとき不意に邪魔なものだと感じるようになることもあります。相手がそれをも凌駕するほどの想いを持っていればそういったことはないのでしょうけど、私はそれを信じることは出来ません。なので、決して裏切られたくない期待は誰にも見せることなく私の内側へと隠しておきます」
さとりもまた何かに裏切られたことがあるのかもしれない。それも、相手をただ糾弾すればいいという単純なものではなく、諦念と無常さに打ちひしがれるような形の。
「とと、私の話になってしまいましたね。まあ、私はそう考えるというだけです。こいしはこいしでまた違った考えのもとにこころさんを避けているのかもしれません」
取り繕うように若干明るめの声でそう言う。見えない壁を張って触れられないようにしているかのようだ。
「さて、聞きたいことはこれくらいでいいでしょうか?」
「え、っと……、こいしがよく行く場所を知りませんか?」
元々さとりとそれほど親しいわけでもなく、無暗に過去を掘り返してどうしようもない問題に首を突っ込んでも単なるお節介以上のものとはならないだろう。だから、あまり気にしすぎない方がいいのだろうと考えて、忘れかけていた質問を掘り起こして気持ちを入れ替える。
「それは私にもわからないです。あの子からどこそこに出かけたという話は聞きますけど、特にお気に入りの場所があるといった風でもありませんし。ですが、今回の出来事の要因がこころさんだというのなら、二人に関係のある場所にいるかもしれませんね」
「そうですか……。じゃあ、まずはこいしと一緒に行った場所を回ってみようと思います。今日はありがとうございました」
こころは椅子から立ち上がって頭を下げる。焦らなければならない理由はないのだが、こいしのことを放っておいてのんびりしていようという気分にもなれない。
「こいしの助けになろうとしてくださる方に情報を提供するのは当然のことですよ。ああ、そうだ。私から何かこいしに伝えておいてほしいことはありますか?」
「え……、んー……、頼りにしてるから、またいつか一緒にどこかに行こう、って伝えておいてください」
会いに来てほしいと伝えたとしても、それに応えてもらえるということはほぼないだろう。だからといって何も残しておかないのも味気ない気がする。だから、少し考えて約束を残しておくことにした。細いながらも何かの繋がりとなってくれるのではないだろうかと思って。
「わかりました。確かに伝えておきますね」
そう答えるさとりはどことなく嬉しそうな表情を浮かべている。こころは思わずその表情をじーっと見つめてしまう。
「こいしが頼られるようなことがあるんだなぁ、と思っていたんですよ」
しみじみとした様子でそう言う。いつも明確な目標など持っていないようにふらふらとしているこいしの姿ばかりを見ていたので、誰かからそうやって好意的に受け止められているのが本当に嬉しいのだろう。
こころはそうした姿を見てさとりはこいしのことを大切にしているんだなーと思う。
「あ、それと、この帽子も返しておいてくれますか?」
ずっと手に持っていたこいしの帽子をさとりの方へと差し出す。
「いえ、それはこころさんが返してあげてください。こいしにとって、帽子がないということがこころさんを意識するきっかけとなるはずですから」
「……この帽子って、そんなにこいしにとって大切なものなんですか?」
いつも被っているからお気に入りのものなのかなー、という程度の認識はしていた。しかし、さとりの口ぶりからすると、それだけでもないように感じられる。
「そうだといいなとは思いますけど、実際はどうなんでしょうね。まあ、毎日のように被っているのなら特別なものでなくても、いつもの場所にないというのは意識の表層に上がってきやすくなるものですよ」
「もしかしてこれって……」
「はい。私がこいしにあげたものですよ」
そう答える声は少し嬉しげに弾んでいるのだった。
◆
こころは太陽に照らされる地上を歩く。いつこいしを見つけることができるかもわからないので、こいしの帽子は部屋に置いてきている。
今現在目指しているのは、幽香と出会った花畑だ。幽香との別れ際の会話を思い出すと少々足が引けてしまうのだが、これもこいしを見つけるためだと思って足を動かす。それに、必ず幽香がいるとも限らない。そうであってほしいという望みにすぎないが。
こころがこいしと関係のある場所と聞いて真っ先に思い浮かんだのが秋桜畑だった。初めてこいしに助けてもらったということで、かなり印象深い場所である。
もしかしたらこいしが付いてきているかもしれないと思い、周囲を見渡しながら歩いているうちに秋桜が咲く花畑へとたどり着く。こころが世話をした後よりは花の数は減っているが、まだまだ見頃である。
そんな花畑の中には二人分の人影がある。大きいのと小さいのだ。
大きい方は楽しげに花の世話をしている幽香だ。いるなら仕方がないと思っていたので足は止めない。苦手意識は持っているが決して嫌っているというわけでもないのだ。
小さい方は一生懸命な様子で花に水をやっているメディスンだ。このような所で会うとは思っていなかったので、多少の驚きを抱く。
「あら、こころじゃない。こんなところで会うなんて奇遇ね。これは、あなたは私の同志となるべきだという運命の導きに違いないわ」
「何を言ってるのよ。あの子は花の僕となってもらわないといけないのよ。貴女の自己否定の下らない運動になんて参加させられないわ」
こころが近づいてきていることに気が付いた二人はそれぞれが勝手にそんなことを言う。こころは二人に挟まられるような形となって、今更のように二人とも自らの主張に自分を引きずり込もうとしているという共通点があることに気が付く。
お互いの対抗心のせいで面倒なことになる前に逃げようかとも思ったが、逃げ出した方が酷いことになるのではないだろうかと考えて思いとどまる。メディスンはともかく、幽香には気迫だけで負けてしまっているので、逃げる足を止められてしまう可能性もある。
「自己否定の下らない運動ですって!? 冗談だとしても許さないわよ!」
「冗談でもなんでもなく事実を言ったまでよ。貴女みたいに自我に目覚めているならともかく、空っぽの人形が自由を手にするなんてちゃんちゃらおかしな話だわ」
「なっ! 物言わぬ人形たちだって、意識は持ってるのよ!」
「まあ、貴女がそう言うんならそうなんでしょうね。でも、どっちだろうと人形の行く末に興味なんてないわ」
メディスンは自らの使命とも言える活動を否定されて感情的になっているが、火付け役となった幽香は余裕の態度で言い返している。
仲が良くないのだろうかと思ったが、嫌い合っているなら共にいる理由がわからない。どういう関係なのだろうかと蚊帳の外に追いやられてしまったこころは首を傾げる。
二人ともこころの存在を忘れてしまったかのように、不毛な言い争いを続ける。争うというには少々一方的だが、間違った表現でもないだろう。
今なら簡単に逃げられそうだなーと思いつつ、一応あたりを見回してみる。そこに望んだ姿はない。
立ち去っても問題がなさそうなことが確認できたので、一歩後ろに下がる。しかし、二歩目が地面から離れることはなかった。いつの間にか足下に現れていた蔓が足を絡め取っている。
「ふふ、私から隙を奪おうだなんて生意気なことをしようとしてくれるわね。でも残念。貴女じゃあ私に敵いはしないわ」
「えっと、今少し急いでるので今度でいいですか?」
聞き入れられないだろうと思いながらも、少しでも抵抗するためそう口にする。
「だーめ。そう簡単に逃がすわけが――」
「何か困りごとがあるなら私が聞いてあげるわよ!」
メディスンが割って入ってくる。こちらは幽香とは違って、恩を着せて自分の領域へと引きずり込む算段なのかもしれない。特に計算も何もなくこころを助けようとしているように見えなくもないが。
幽香は邪魔が入ったことに不満そうな表情を浮かべていたが、何か思いついたのかそれを口にすることなく傍観している。
「どこかでこいしを見なかった?」
こころはこの場から逃がして欲しいと言おうとしたが、その前にこいしのことを聞いてみるだけ聞いてみることにした。どこかで見かけたという可能性がないとも言い切れない上に、こちらを先に聞かなければ聞く余裕がなくなることも考える。
「こいし……? ……あー、あいつかぁ。見てないわよ」
メディスンはあまりこいしのことを覚えてはいなかったようだが、なんとか思い出すことはできたようだ。こころを仲間に誘ったのとアリスに弄ばれたのとが強烈に印象に残っていたせいで、もともと記憶に残りづらいこいしの印象が薄いものとなっていたのだろう。
「ふーん、私を前にしてあいつの名前を出すのね。横取りされたときの記憶を思い出させて、私を強硬手段に出させる気かしら」
「そ、そんなつもりはありません!」
雰囲気が一段階冷たくなった幽香に対して慌ててそう言う。
メディスンとは対照的に、幽香はこいしを忘れられない存在としているようだ。目の前で獲物を横取りされたようなものだから、目の敵としているのかもしれない。
「なんて冗談よ。私も見てないわ」
少しも冗談に聞こえない声色でそう言う。そもそも、逃げることが出来ないようにしている時点で、冗談も何もあったものではない。
「こころ、事情はよくわからないけど、こいしを探しているのでしょう? だったらここは私に任せてちょうだい。さあ、足を上げて振り向かずに逃げて!」
こころは不意の勢いづいた言葉に反射的に従う。そうすると、足を地面へと縫いつけていた蔓があっさりと解ける。
「あらメディ、余計なことをしてくれたわね」
「悪逆無道な花狂いの手から未来の同志を救い出すのは当然のこと! ほら、こころ。ぼさっとしてないですぐに逃げて逃げて」
「え……、うん。あ、ありがとう?」
事態を把握しきる間もないまま勢いに押されて、花畑に背を向けて駆け出す。メディスンのことは心配だが、正面から幽香に挑んでもどうしようもないのも事実だった。
それに、力強い声には案外なんとかしてくれるのではないだろうかと思わせるほど頼りがいがあった。
「お礼なんて必要ないわ!」
そして、勇壮なメディスンの声を背に受けて、次なる場所へと向けて小走りで向かっていくのだった。
◆
次に向かったのは、アリスの家だった。今度メディスンに会ったら、ちゃんとお礼を言っておこうと思いながら、木製の扉の前に立つ。
ここは初めてこいしの行動の不可解さに言及した場所であるが、他人の家を逃げ場所にするだろうかという思いがないでもない。しかし、人の意識の隙間に割り込んで、物理的に侵入できない場所以外には好きなように出入りすることの出来るこいしだ。絶対にないと言い切ることは出来ない。
こころは扉をノックする。そうすると、すぐさま扉が開けられていつもアリスの傍にいる人形、上海人形が顔を覗かせる。
そして、無表情な者同士が見つめ合う形となる。こころの方は困ったような表情の面を付けて、どうしたらいいのだろうかと考えているところだが、上海の方は内面の情報がさっぱり表に出てきていない。アリスの人形は意思を持っているように見せかけているだけで、実際はそうした精神的なものは持っていないので当然のことではあるが。
「ハイッテイイヨー」
上海が抑揚の少ない無機質な声でそう言って手招きをしながら家の中に入っていく。アリスの人形が入って良いと言っているのだから問題はないはずだが、慣れない状況に少々躊躇してしまう。
しかし、手招きをし続ける上海を見ていると可哀想になってきたので、躊躇を放り捨てて家の中へと入る。これぞ人形といった感じで一定の速度を維持しているわけではなく、段々と必死な様子となってくるのだ。愛くるしい姿と相まって、それを無視し続けるのは大変難しい。
上海はこころが家の中に入ってくるのを見て満足げに頷くと、こころを誘導するようにリビングを目指していく。こころもそれを追って奥へと進んでいく。
「スワッテマッテテー」
上海はそう言うとキッチンを目指していく。その際、近くの棚にいた人形もそれに続く。紅茶と、もしかするとお茶菓子の用意をしに行ったのかもしれない。
こころは無断で人の家に入ってしまったかのような居心地の悪さを感じながら部屋の中を見回してみるが、家主は見当たらない。こいしも当然のようにいない。
「ナンデタッテルノー?」
こころが部屋の中で立ち尽くしていると、上海が戻ってきて首を傾げる。彼女は主に接客をするよう役割づけられているのかもしれない。
「えっと、アリスさんは?」
「アリスハサギョウチュウー。ダカラ、スワッテマッテテー」
「そうなの?」
「ソウナノー」
もしかしたらアリスの邪魔をしてしまったのではないだろうかと思ったが、今更人形たちが用意してくれたものを無碍にしてしまうのも気が引ける。だから、こころはおとなしく座って待っていることにするのだった。
「こんにちは。待たせちゃって悪かったわね。それで、私に何か用?」
人形たちの淹れてくれた紅茶を飲んだり、マフィンを頬張ったり、人形たちの姿をじーっと見つめたりして時間を潰していると、アリスがリビングへと入ってきた。こころの向かい側に座ると、マフィンの一つを手にとって一口かじる。
「今、こいしを探してるんだけど、アリスさんはどこかでこいしを見なかった?」
「見てないけど、そのためにわざわざここまで来たの?」
「うん。……邪魔してごめんなさい」
「いや、別に責めてるわけではないんだけどね。邪魔だったら追い返してるし」
さばけた様子でそう言うアリスの前に、一体の人形が淹れ立ての紅茶を運んでくる。
「ただまあ、一人でティータイムも寂しいから誘ってみたのにすぐに帰られるっていうのはつまらないわね。少しでもいいから、付き合ってくれないかしら?」
「うん、いいよ」
こいしを探すのはそれほど急ぐことでもない。放置することはできないが、多少のんびりしているくらいの余裕はある。
「ありがとう」
アリスは柔らかな笑みを浮かべる。自ら望んでこうした僻地にいるのだろうが、自分自身以外の気配を感じられない場所にいれば人恋しくもなるのかもしれない。
「それで、こいしを探してるとか言ってたけど、喧嘩でもしたのかしら?」
「……ほんとに、ティータイムの相手が欲しいだけ?」
早速こころの事情に突っ込んでくる態度に不審を抱く。面が警戒するように疑わしげな表情を浮かべている。
「だけ、と言った記憶はないわね」
それに対してアリスは悪びれた様子を見せない。
「まあ、どうしても話したくないなら聞かないわよ。変にこじれた話を聞かされて巻き込まれたくはないし」
「こいしが話してもいいって言ったら話してもいい」
「了解。あまり期待はしないでおくわ」
「うん、その方がいいと思う」
そう簡単に素直にはならないだろうというのが共通認識となっているようだ。
「でも、こいしを探すって言っても当てはあるのかしら? 当てがあったとしても見つけるのは相当難しい子でしょう?」
一度紅茶に口を付けてから、アリスは疑問を発する。こいしの力のことを少しでも知る者なら当然たどり着く疑問だろう。
「一応、私がこいしと一緒に行った場所を回ってみてる。……アリスさんの言うとおり、それでも見つけられないかもしれないけど」
「無意識を操るってのもなかなか厄介な力よね。私たちじゃどうしようもないし。……あ、そうだ」
アリスは何か思いついたのか、不意に立ち上がる。そんな彼女の傍へと上海が寄ってくる。
「アリスさん……?」
「意識と無意識は表裏一体。なら、意識を持たない人形なら問題ないんじゃないかしら?」
「おおー、なるほど」
こころの口から感心の声が漏れてくる。アリスの家を訪れたことは無駄足にならずにすみそうである。
「というわけで上海、近くにこいしがいないか探してみてちょうだい」
「リョウカイー」
上海はびしっと敬礼を決めると辺りをきょろきょろと見回し始める。そして、何もない一点を見つめたかと思うと、
「アソコニイルー」
アリスの方へと振り返るとその何もない一点を指さした。
こころはまさか本当に近くにいる上に、ここまであっさりと見つかるとは思っていなかった。それでも、そこにこいしがいるのだと思って視線を向けてみれば、確かにそこにはこいしがいた。
しかし、こいしを認識して行動するよりも一拍早く、こいしはその場から逃げ出す。声をかけようと思ったときにはすでにリビングから姿は見えなくなってしまっていた。
「待ってこいし!」
こころは慌てて立ち上がり、こいしを追いかける。しかし、一度も影さえ捉えることができずに扉が開け放たれた玄関までたどり着いてしまう。
そのまま玄関から飛び出して左右へと視線を走らせるが、誰の姿も見えない。こころはそこで立ち尽くすことしかできなかった。
「あっさり見つかるかなぁ、とは思ってたけどまさかここまで本気で逃げられるとは。ごめんなさい、私の見通しが甘かったわ」
上海を抱き抱えたアリスが追いついてこころへと謝る。
「ううん。こいしが私の近くに隠れてるってわかっただけでも収穫」
「そう言ってもらえると助かるわ。でも、これからどうするの? この子を貸してあげてもまた逃げられるだけでしょうし」
アリスの胸の中で上海は役に立てないことを嘆くようにしゅんとうなだれた様子を見せている。いちいち細かい動作を見せているのはアリスの拘りなのだろう。
「……どうしよう。とにかく、こいしと行った場所には全部行ってみて、こいしがこっちに働きかけてくるかを探ってみる。それでだめなら……、しばらく地霊殿のお世話になってみようかな」
家にまで押し掛ければそのうち嫌でも顔を見せてくれるないかなーと考えつつそう答える。
「そう。なら、私は応援しか出来そうにないわね。あ、そうだ。うまく収まったら何かお祝いでもしてあげる。事前に言ってくれてれば、ケーキとかも用意できるし」
「アリスさんは、どうしてそこまで世話を焼いてくれるの?」
「前にも言ったけど、あなたを見てると助けてあげたくなるのよ。たぶん、一生懸命な姿についつい心動かされてしまうんでしょうね。まあ、結末が気になるから、元凶ともども根ほり葉ほり聞いてみたいって魂胆がないこともないけど」
親切半分好奇心半分といったところなのだろう。
もし無事に終わってこいしをここに連れてきたら怒られそうだなー、とこころは思うのだった。
◆
花畑、アリス宅と訪れた翌日、こころは妖怪の山へと向かう。最初は間違って天狗の領分に入ってしまうのではないだろうかと怯えたりもしていたが、四度目ともなれば慣れが出てくる。
山の入り口に鎮座する立て札の前で足を止めると、今日もこいしは付いてきているのだろうかと思いながら、注意深く辺りを見回してみる。しかし、当然のように誰もいない。昨日のことがきっかけで付いてこなくなっているのではないだろうかという不安もふとよぎったが、後ろ向きに考えても仕方がないので立て札を追い越して山へと入る。
妖怪の山でのこいしとの思い出は、こいしのことを頼りにしていると言ったところ、不機嫌にさせてしまったということ。さとりと話をしたときにはそこまで思い至らなかったが、もしかしたらそうして頼られることを負担に思っていたのではないだろうかと思う。だとしたら、さとりのところに残してきた伝言は失敗だったかもしれない。
だからといって、今更伝えないで欲しいと言っても後の祭りだろう。それなら、そうしたことを気にさせないために何を言うべきかというのも考えておいた方が良いかもしれない。
そうして自分がどこを歩いているのかという意識を疎かにしているうちに、こころの足は山の奥へ奥へと向かって行ってしまっている。
「待ちなさい!」
不意に鋭い声が響く。どこか切羽詰まった雰囲気のその声は、こころの意識を外側へと引きずり出し、身体を大きく震わせる。驚いた表情の面も跳ね上がっていた。
知らずのうちに天狗の領地に入ってしまっただろうかと思ったが、その声が聞き覚えのあるものだと気づく。
「雛、さん……?」
胸を押さえて高鳴る鼓動を落ち着かせるようにしながら振り返ってみれば、雛の姿が視界に入ってきた。声を掛けてきたのが見知った者であることに安堵する。
「人形が勝手に動き出すからまさかと思って来てみたけれど、こんなところで何をしているの?」
そう言う雛の傍らには、こころの姿を模したアリス製の人形が浮かんでいる。こころは受け取ったときに、いくつか細かな機能を積ませているというのは聞いていたが、その具体的な内容がどういったものとなっているのかは知らない。
「こいしが出てきてくれないかなと思いながらちょっと考え事をしていたんです。雛さん、止めてくださってありがとうございます」
ぺこりと頭を下げてお礼を言う。
「そんなに改まなくてもいいわよ」
「うーん……、そうかも。じゃあ、ありがとう、雛さん」
敬語で話していると態度までそれにつられて丁寧になってしまうので、敬語を使うのを止めてみる。丁寧なのが悪いとは思っていないが、他人行儀な感じとなってしまうのは些か寂しいものがある。
「……わざわざ言い直さなくても良いわよ」
雛は気恥ずかしそうに視線を逸らす。こころはその表情をじーっと眺める。そうした反応は多少なりとも自分が関わることを許されているということなので嬉しいのだ。
「あー、えっと、忙しいならすぐに行った方がいいんじゃないかしら? 帰り道がわからないなら案内するわよ?」
こころの視線に耐えられなくなった雛が意識をそらさせるようにそう言う。
「そんなに急ぐことでもないからだいじょうぶ。それに、今私が考えてたことに対する雛さんの考えも聞いてみたい」
「大したこと答えなんて返してあげられないわよ」
「わからないならわからないでいいから、聞くだけ聞いて欲しい」
「そう、分かったわ。じゃあ、この前の所に行きましょう? こんな所で話してたら、いつ天狗に目を付けられるか分からないわ」
「うん」
こころは頷いて、雛との距離を詰めようとする。
「こころ、それ以上近づかないでちょうだい」
「あ……、そうだった」
雛に近づいてはいけないということを忘れていたこころは足を止める。そして、雛との距離を意識してしまい、寂しさを感じる。
「はあ……、厄神と一緒にいるっていう自覚をちゃんと持って欲しいわね」
それに対して、自主的に距離を詰めようとしてくれた存在のいなかった雛は呆れながらもどことなく嬉しそうなのだった。
「雛さんは誰かから期待されるということをどう思う?」
こころは川の傍に鎮座する岩の上に座り込んで一枚のカードへと向けて喋り掛ける。声が届くか届かないかくらい離れた場所には雛がいて、同じような岩の上に腰掛けて膝の上に人形を座らせている。
こころは直接声が届くくらいの距離で話したいと提案したのだが、却下されてしまった。雛がこころのことを気遣っているという証ではあるのだが、やはりその距離はこころにとって寂しいものに感じてしまう。
『どう思うも何も私たち神様にしてみれば、そういった感情をいかに集めるかが死活問題に繋がるわね。私は人間たちが捨てる厄を集めたりしていればいいから、他の神様たちに比べれば気楽な方ではあるけれど』
「言われてみれば信仰心も期待も似たようなものか」
『そうね。厳密には違うけれど、こうしてほしい、こうなってほしいって想いが込められている点では似たようなものね。こういう話をしてくると言うことは、こころは誰かに期待されているのかしら?』
雛は神様という特殊な立場のせいで話の論点がずれてきたと感じたのか、少し無理矢理会話の舵取りをする。他人との関わりがほとんどないとはいっていたが、他人の関わりを見てこなかったというわけではないのだろう。
「うん。本人から聞いた訳じゃないから本当かどうかはわからないけど。まあ、私のことは整理ついてるからいいんだけど、私もその人のことを頼りにしてて、それが負担になったりしてないかなー、と思って」
『貴女自身はそうして期待されたり頼りにされたりするのはどう思っているのかしら?』
「私自身は今向けられてる期待は私なんかにはちょっと大きすぎるかなーとは思ってる。でも、その期待は同時に私と同じ方向に進みたがってるんだって思うと心強い。私を導いてくれる人はいっぱいいるけど、一緒に進めるような人はいなかったから」
あの異変をきっかけにこころが出会った人たちは、手を差し伸べて前への進み方を教えてくれたり、消極的ながらも助けてくれたりと自分の前に立っている人たちばかりだった。
しかし、こころがなくした希望の面に執着していたこいしは違った。出会った当初こそは前に立ちふさがってきていたが、今では手を繋いで共に歩くような間柄となっていた。
『それなら、向こうも同じように考えていると思ってもいいんじゃない? ああ、いやでも、そう思えないような状況だからそういう話をしてきたのよね。うーん……』
雛は考え込む。こころが自分に親身になってくれた存在だからか、その様子はとても真剣だ。
『……そうね。結局、意識しすぎないというのがいいんじゃないかしら? 自然に接していれば、相手もすんなり受け入れてくれるようになる、……ような気がするわ。ごめんなさい、これくらいの事しか思い浮かばないわ』
「ううん。雛さんの言うことは参考になった。確かに私は身構えすぎてたかも」
こいしに逃げられてからの自分のことを顧みてみれば、こいしのことに関して気負いすぎていたように思う。舞をする上でも見せる側が変に緊張していれば、見ている側にもその緊張がうつってしまう。生まれつき人前に出ることをどうとも思うことのないこころは、そのことを完全に失念してしまっていた。
そして早速、身構えるのをやめようとしてみる。
「自然体自然体……。か、考えれば考えるほど不自然な感じになってる気がする」
『えーっと、深呼吸なんかはどうかしら?』
「やってみる」
雛の言葉に従って深呼吸を始める。しかし、意識しすぎているせいでそれもどこか不自然な様子となっている。
そんなふうにして二人はしばらくの間、不自然さとの悪戦苦闘を繰り広げるのだった。
◆
あれからしばらくの間、こころは雛とともになんとかして不自然さを解消しようとしたものの、ますます不自然さが積み重なって行くばかりでどうしようもなくなってしまった。そして、最終的に雛が提案したのはとにかくこのことを考えるのはやめて、別のことを考えるというものだった。
そのためにこころは雛と他愛のない話をしようと思っていたのだが、雛に却下されてしまった。その理由は、普段使わないような形で頭を使って疲れたといったものだった。他人のために頑張るということがなかったので多少空回りしてしまったのだろう。
なので、こころは仕方なく雛の所を後にして、次なるこいしと訪れた場所を目指した。
その場所とは、幻想郷の東の端、博麗神社だ。最後の目的地でもあるその場所は、こいしの思いを解き明かしてしまった場所でもある。
ここでもこいしが姿を現そうとしなければ、もう一度地霊殿を訪れて、しばらく厄介になるということを本気で考えている。
しかし、今のこころには自らの全てを賭してでも、こいしとの問題を解決したいというほどの想いはないのだ。だから、時間が経てばそのうちこいしのことなどどうでもいいと思い始めてしまう可能性は大いにある。
そんなことになってしまう前にこいしに会いたいなー、と思う。それに、少しきつい言い回しや、そんな口調とは裏腹に思いの外距離を詰めてくる態度が懐かしく思えてきた。こいしに避けられてからほとんど日数は経っていないが、逃げられてからずっとこいしのことを考えているのだから仕方のないことかもしれない。
そう、気がつけばこころの中にはこいしの居場所が作られていたのだ。これは放っておけばそのうち埋まってしまうものかもしれないけど、今はこいしが入れるだけの穴が確かにぽっかりと空いている。
神社の階段の前にたどり着く。長く長く続く階段の頂上を見上げてみると、空の青さが目に染み入る。当然ながら、境内の様子は見えない。
赤い鳥居を越えて、賽銭箱の前の階段にこいしが腰掛けている姿を思い描く。こいしと神社との間に関連性はほとんどないにも関わらず、その姿はやけにしっくりときた。誰であろうとそこに入れば取り込まれる。そんな不思議な印象がこの神社にはある。
姿を見せてくれればいいな。そう思って、こころは階段を上り始めるのだった。
たんっ、と最後の一段は気持ち力を込めて乗り越える。思い描いた世界が現実に影響を与えてくれればいいと思いながら。しかし、境内にこいしの姿は見つからない。相も変わらず、すぐ傍に隠れているようだ。
その代わりに、掃除をしていたらしい霊夢と目が合う。気配に気づいたのか、足音に反応したのかは定かではない。
「なんだ、あんたか。なんか用?」
箒を手にしたままどこか投げ遣りな様子でそう聞いてくる。彼女は妖怪なら基本的に追い返そうとするので、これでも破格の良対応だ。
「霊夢さん、こんにちは。特にこれといった用事はないけど、少しここにいさせてもらっていい?」
「はあ。まあ、掃除の邪魔をしないっていうなら別に良いわよ」
霊夢は不思議そうな表情を浮かべるが、理由を聞くのが面倒くさいのか疑問をそのままに許可を出す。こころのことは多少なりとも信用しているのである。
「ありがとう」
「うーん……、このくらいのことでお礼を言われると調子が狂うわね。いや、いいことなんだけど」
笑顔の代わりに現れた笑みの面を見ながら霊夢は複雑そうな表情を浮かべる。わがまま自分勝手な妖怪ばかりの相手をしているので、否が応でもそういった態度に慣れてしまっているようだ。
霊夢のそんな事情を知っているこころは内心で苦笑しながら、境内にこいしの姿を探しつつ拝殿を目指す。
賽銭箱の前に立つと、気休めくらいにはなるかなーと考えて一枚の硬貨を投げ入れる。人里で舞を見せたときにもらったものだ。生活に困っていることはないので、断るのだがいつも押しつけられてしまう。
金属が木とぶつかる音を聞きながら、先ほどまで自分の足の下にあった階段の土を払いそこに腰掛ける。椅子などといった気の利いたものは置いていないのだ。
霊夢が掃除をしている様子を眺めながら、こいしの影を探す。向こうから姿を現す気にならなければ決して見つからないというのはわかっているが、意識のどこかが勝手にこいしを求めてしまう。
一休みするように霊夢へ意識を向ける比率を高める。そうすると、一定のタイミングで響く箒の音が心地よく聞こえてくる。
「……霊夢さん?」
こころはふと霊夢がちらちらとこちらに視線を向けてきていることに気がつく。こころがいるから気が散って掃除が出来ないというわけではないはずだ。他者の存在を気にせず掃除をする霊夢の姿は何度か見たことがある。
「あー……、そろそろ休憩するからお茶でも飲もうかと思ってるんだけど、あんたもいる?」
「え? えっと、じゃあ、もらう」
霊夢の様子と提案とが噛み合わず反応が若干遅れる。霊夢からの印象がいいこころは、お茶に誘われること自体は珍しくない。
「わかったわ。じゃあ、母屋の縁側に座って待っててちょうだい」
「う、うん」
こころが戸惑いを解消する暇もなく、霊夢は箒を適当な場所に立てかけて母屋の方へと向かってしまう。
こころは一人で首を傾げながらも、立ち上がって霊夢に言われたとおり縁側を目指すのだった。
「お待たせ。熱いから気を付けなさいよ」
霊夢の態度の意味を考えながら大人しく待っていると、こころの隣に霊夢が腰掛けた。木の盆から持ち上げた湯気を上げる湯呑みをこころへと差し出す。
「ありがとう」
霊夢を待っている間に戸惑いに押しやられていた平静は取り戻したので、落ち着いた声で礼を言いながら湯呑みを慎重に受け取る。その際、物問いたげな視線を込めたつもりだが、霊夢が無視しているのか、それとも無表情だからか気が付かなかったのか目立った反応はない。
だからといってせっかく淹れてもらったものを冷ましてしまうのも勿体ないので、霊夢の少々不審な態度は脇に置いておいてゆっくりと湯呑みに口を付けて熱い茶の表面をすする。舌を焼きそうなほどに熱い温度が喉を通り過ぎた辺りで、湯呑みから口を離して、ほう、と息を吐く。
こんな状況でも人を落ち着かせることのできる茶は偉大である。こころが本来のんびりとした性格であるというのも無関係ではないだろうが。
「まだ暑いと思う日もあるけど、熱いお茶でも快適に飲めるような季節になってきたわねぇ」
霊夢も同様にしてお茶の一口目を味わった後、しみじみとそう言う。そして、湯呑みを持ったまましばしぼんやりとし始める。
「霊夢さん、なんとなく様子がおかしいけど、どうかした?」
そのうち霊夢の方から口を開いてくれるかもしれないとは思ったが、わざわざ待つ理由もないのでこころの方から脇に置いていたものを拾い上げて投げ掛ける。
「あー……、いや、実は私、あの宴会での二人の話聞いちゃってたのよね。ほんとは関わるつもりなんてなかったんだけど、あんたの様子がなんとなくおかしいのに気づいたら、放っておけなくなったのよ」
あのとき、こころたちは騒ぎ疲れて眠っていた霊夢の傍で話をしていた。だから、その話し声によって目を覚ましていたとしても不思議なことではないだろう。
霊夢は普段こうしたことに自分から首を突っ込むことがないからか、少しばかり居心地が悪そうにしている。
「なんでかあんたのことは助けないでいられないのよね。あんた、私になんかしてる?」
霊夢の問いに、こころはふるふると首を横に振って答える。こころは感情を多少操ることはできるが、だからといって自分の望み通りに相手を動かすことはできない。誰もが同情を抱いたからといって行動を起こすわけではないのだ。
「ならいいんだけれど」
どちらでも良さそうな態度だが、首を縦に振っていれば札か針が飛んできていたことだろう。人間に仇なす妖怪に容赦がないのが霊夢という巫女の在り方だ。その代わり、こころのような大人しい妖怪を前にすると調子が狂ってしまうようであるが。
「それで、その様子だと逃げられたままなのよね」
「うん……。たぶん、今も近くにいるんだろうけど、全然姿を見せてくれなくて」
「いるようには見えないけど……、確か面倒な力を持ってるんだったわよね。でも、別に本当に姿形もなくなってるわけじゃないんだから、適当に石でも投げてれば見つかるんじゃないかしら? こんなふうにっ」
霊夢はそう言いながら、鎮守の森の方へと向けて懐から取り出した札を投げつけた。その洗練された動きはあまりにも自然すぎて、高速で飛んでいく札が目に入ってきても、こころは霊夢が札を投げたのだとは認識できなかった。
投げやりな口調から、霊夢のその動作は冗談の類であったことが窺える。しかし、霊夢は周囲から勘が冴えていると言われている。とはいえ、その対象が妖怪限定であることから、単純に無意識下で霊力や妖力といった類の力の流れを感じ取っているのだと思われる。
だから――
「わわっ!」
森の方から焦ったような声が聞こえてくる。それと同時に、二人は一人の妖怪少女の姿を認識する。
そして、霊夢が投げた札は逃げる間も与えず命中する。弾幕ごっこ用の単純に威力だけがあるものではなかったようで、少女は声もなくその場に崩れ落ちる。
「こいし!」
この場で真っ先に我を取り戻したのはこころだった。湯呑みを置いて、前のめりに倒れたこいしの方へと駆け寄る。そして、脱力した身体を抱き起こすと、胸の辺りに張り付いた札を引っ剥がして地面の上へと捨てる。こころも妖怪なので、長時間触ってはいられない。
「だ、だいじょうぶ?」
こころの頭には心配そうな表情の面が現れている。しかし、そうしてこいしの心配する一方で、こいしを抱く腕に力を込めている。こちらはこいしを心配してのものではなく、逃げられてしまわないようにするためのものだ。偶然か必然かはわからないが、この機会を逃してしまうわけにはいかない。
「……だいじょうぶじゃない」
こころから顔を逸らしながらそう答える。表情は空っぽで、感情を窺い知ることはできない。
「えっ! どこか痛むの? それとも、お札のせいでどうかなったのっ?」
あたふたとしながら、こいしがどこか怪我をしていないかを調べ始める。さすがに抱きしめるのはやめるが、代わりに手首をぎゅっと握って離そうとしない。
こいしは顔を逸らしたまま何も反応を見せようとしない。こころは、そんな態度に対して色々と言いたいことがあるが、それは後回しにしてこいしの服や顔についた土をはたき落としていく。とにかく、こいしの無事を確かめるのが第一だった。
「……私、表の方にいるから、なんかあったら呼んでちょうだい」
自分のしたことを正しく認識した後も、置いてけぼりにされていた霊夢がそう言いながら拝殿の方へと向かっていく。
「あ、霊夢さん、ありがとう!」
こいしの手首を握ったまま振り返る。受け身の体勢ではそのうちこいしのことを忘れてしまうのではないだろうかと思っていたこころにとって、霊夢の起こした偶然は感謝すべきものだった。
「こんなことで感謝されるのは何とも言えないところだけど、まあとりあえず、どういたしましてとは言っておくわ」
そして、そそくさと立ち去ってしまう。自分には関係がない上に、真面目な雰囲気の中に身を置いていたくないのだろう。
霊夢がいなくなって、こころとこいしの二人きりとなる。こころはそのことを大して気にすることなくこいしの方へと向き直って、傷の有無の確認を再開する。
しばらく二人の間に会話がないまま、鳥の鳴き声と木々のざわめき、こころがこいしの服から砂をはたき落としつつ傷を探す音だけが響く。
こころの頭には真剣な表情の面がついている。どんな些細な傷でも見落とすつもりはない。
「怪我はなさそうだけど……、だるいとかない?」
一通りこいしの服を綺麗にし終えて、怪我がないということを確認し終える。そして、今度は外からではわからない問題がないかを確認し始める。
しかし、こいしは反応を見せない。相変わらずこころから視線を逸らしている。物理的に逃げられなくはなったが、精神的な面ではまだ逃げ続けているようだ。
こころは物言わぬ横顔をじーっと見つめる。穴が開いてそこから思いが溢れ出てきて欲しいなんて願いながら、真っ直ぐに見据える。
その横顔に苦痛や気だるさといったものは見られない。隠している可能性もないとは言い切れないが、本当に辛ければ僅かでもその兆候は見られるだろう。こいしの無表情はこころのそれとは違い、表情を浮かべられないというわけではないのだから。
だから、身体的な面で今すぐどうにかすべき問題はないと判断する。
「こいしが何を本当に怖がっているかはわからないから的外れなことを言ってるかもしれないけど、私はこいしを見捨てたりなんてしないから安心して。こいしにいくら期待されても、私の期待通りにならなかったとしてもそれを受け入れるから」
そして、本題へと立ち入る。さとりと話をして、それから色々な場所を回りながら考えたことを言葉にする。それでもこいしは、反応を見せようとはしない。
一方的に話しかけようと思えば不可能ではない。しかし、こころとしては反応の一つくらい見せてほしいものだと思う。自分の考えを伝えるだけでは意味がないのだ。こころが今言うことが出来るのは、あくまで自分の予測に基づいたことだけであり、こいしが本当に望んでいることに対する答えかどうかはわからないのだ。
少しでも反応させる方法がないかなーと考える。そして、思い浮かんだのは悪戯っぽい笑みを浮かべるアリスの顔だった。下手をすると完全に口を聞いてもらえなくなりそうなので、とりあえず最終手段として頭の片隅に置いておく。
「こいし、ちゃんとこっち見て話聞いて」
聞き入れられないんだろうなー、と思いながらもとりあえず頼んでみることにしてみる。
そして案の定、こいしは何も言わずに明後日の方を向いたままだ。ちらりともこころの方へと視線を向けようとしない。
「黙ってるとくすぐるよ?」
最終手段をちらつかせてみる。それでもこいしが見つめるのは遠いどこか。
「こいしは私にくすぐられたい。異論がなければすぐにでも実行に移す」
少しばかり高圧的な口調でそう言いながら、どこをくすぐるのがいいだろうかと考え始める。ぱっと思い浮かぶのは、脇の辺りだろう。しかし、脇を締められてしまえばどうしようもなくなる。
次に思い浮かんだのは首筋だ。こちらなら、正面から抱きしめれば比較的簡単に触れることができる。だから、こちらを採用する。
思い浮かんだ時点ではあまり乗り気でなかったこころだが、今ではすっかりこいしの反応を思い浮かべて胸を弾ませている。こいし自身が望んだことなのだから仕方がないと納得することによって、彼女の悪戯な部分が表に出てきているのだ。
本来はあまり他人に迷惑をかけたがらない性格なのだが、狸たちとの生活の中で悪戯を楽しむという考えがうつってしまったのだろう。友達は選ぶものとはよくいったものである。
「じゃあ、いくよー?」
ここで疑問系な辺りが、こころの人の良さを表している。彼女に影響を与えた者たちであれば、問答無用で手を下していることだろう。
そんな温情を向けられてもなお、こいしは反応を見せようとはしない。
もはや返事を期待していなかったこころはいったん手首を離すと、頭一つ分小さなこいしをすぐさま抱きしめる。そして、片方の手で首筋へとそっと触れる。
それだけのことだったが、こいしの身体がぴくりと震える。さすがに生理的な反応までは抑えきれないようだ。
こころのしなやかな指が、すすすーと肌の表面をなぞる。こいしはその感触から逃げるように身体をよじらせるが、元々力のない妖怪である上に体格差もあるせいで逃げることは出来ない。
こいしが止めて欲しいと一言でも言えばいいのだ。しかし、意地でも言わないつもりなのか、口は固く閉ざされたままである。
こころの指は首筋を一通り触れ回った後、首根の辺りに触れる。そこが弱いのか、それとも首筋の方に意識を向けていたせいで過敏になっていたのか、一際大きく身体が震える。それでも声が漏れてこないのは意地の賜物なのだろうか。
なんにせよ、興が乗ってきたこころの頭には子供の面が浮かんできている。
もしかすると、彼女の中から沸き上がってくる悪戯心は、本来持ち合わせていたものだったのかもしれない。類は友を呼ぶ、とも言うのだから。
あまりにもこいしが意地になるので、首の辺りだけでなく抱きしめたまま触れられそうな場所は全て触れて回り、特に反応が良かった場所は重点的にくすぐったりもしていた。
「も、もう、やめ、て……」
最初に無理だろうと諦めていた脇の辺りに触れていたとき、こいしはようやく制止の声を上げる。その声は今まで聞いたことがないくらいに弱々しく、ずっと堪え忍んでいた影響か息も絶え絶えだ。
こころは意地の悪さを持ち合わせているようなこともないので、素直に手を止める。それと同時にこいしの身体から力が抜けて、荒れた息を整えるような呼吸となる。
こころは少しだけこいしの身体を離して、様子を窺うように見下ろす。そうすると、頬を紅潮させたこいしに涙目で睨まれた。ずっと見つめていることは憚られて、顔をそらす代わりにこいしを抱きしめ直す。
そしてそのまま、こいしが落ち着くのを待つ。こいしはこころに体重をかけて寄りかかっている。自らの足で立っているだけの気力も体力も残っていないようだ。こころはいつもよりも小さく感じるこいしの身体を支えながら、やりすぎたかなーと少しだけ反省する。その一方で、しっかりと応対してくれなかったこいしが概ね悪いと思っておく。
しばらくして、こいしの息が整う。それでもこころに寄りかかるような体勢で、こころがその気になれば簡単に倒すことができてしまいそうな状態だ。
「こいし、私の話、聞いてくれる気になった?」
「……あんな変態的な趣味を持ってるようなのと話すようなことなんてない」
返ってくるのは、ふてくされたような声だった。いいようにされていたのが余程気に入らないようだ。しかし、言葉が返ってくるだけでもましにはなったと言えるだろう。
「いやあれはこいしが反応してくれないから引っ張り出してきた手段であって、趣味とかそういうものじゃない」
楽しいと感じていたのは確かだが、趣味だと呼べる段階のものでもない。それに、認めてしまうとこいしがまともに話をしてくれなくなりそうなので、慌てて弁解しておく。
「……ふーん。まあ、こんな状態になってる時点で私はいいように弄ばれるだけなんだろうけどさ。首輪でも付けてペットにでもする?」
投げやりな態度で全てを諦めたようにそう言う。
「私はそんなことするつもりはない。ただ、今までみたいに私がどこかに行くときはこいしの気まぐれで勝手に付いてきてくれるようになればそれで十分。今までも楽しかったから」
「……どうせ今は私がいるのが物珍しいだけなんでしょ」
「物珍しいだけなら、多分こんなにこいしが私の前に出てくることを待ち望むことはなかったと思う」
何故か付いてくる不思議な雰囲気の妖怪少女程度の認識であれば、こいしがいなくなったとしても少し変わった天候が通り過ぎていったというくらいの印象しか抱かなかったことだろう。そもそも、こいしがこころに期待していることに気づくこともなかっただろうが。
「最初は私の面を返してくれないから意地悪な奴だと思ってたし、返してもらってからはふわふわとしててよくわかんない奴だなーって思ってた。でも、さり気なく助けてくれてるってことに気づいたら、ちょっと特別な存在だと思うようになってた。その後でこいしが私から希望を見出そうとしてくれてるってことを知って嬉しかった。あのとき私はこいしに対して仲間意識を抱いてるって言ったけど、それが私の一方的なものじゃないってわかったから。そのときから、こいしは私にとって特別な存在になってる」
「仲間意識なんて捨てちゃえばいい。明確な線引きなんていらない。今まで通りの曖昧な関係のままでいい」
何の感情も込められていない冷たい感じの声で突き放すような言葉を放つ。時折感情的になる姿を知っているからこそ、本心からの言葉ではないだろうというのは窺える。
「……私のこと、玩具だかなんだか言ってなかった?」
素直に聞いても答えてくれることはなさそうなので、矛盾していそうな部分を引き合いに出してみる。
「別にこころもそう思ってたわけじゃないでしょ? 私とこころの認識の差こそが関係の曖昧さ。それを今更一致させて、はっきりさせたくなんてない」
こいしの言葉は遠回しに彼女もこころに対して仲間意識を抱いているということを示している。こころはそれを嬉しさとともに受け取りながら、こいしがそんなことを言う理由をはっきりと言葉にする。
「それは、見捨てられたときの傷が大きくなるから?」
さとりの価値観をもとにそう聞くとこいしは黙り込んでしまう。図星ということなのだろう。いつものように誤魔化すような気力はないようだ。
「私はこいしを見捨てたりなんてしない。それじゃあ、だめ?」
「口先ではどうとでも言える。まあ、こころがそんな器用なことできるとは思えないけど、この先もそう思い続けてる保証はどこにもない」
こころはその言葉に納得する。否定の言葉も思い浮かんではこない。
「まあ、確かにそれはその通りかも。でも、そうやって逃げてばっかりって言うのも勿体ないと思う。それに、こんな子供みたいな怯え方してたらそう簡単に見捨てられな――って、ちょっとそれやめて、地味に痛い」
こころの言葉の途中でこいしがぐりぐりと頭を押しつけ始める。子供扱いされたのが気に入らなかったのかもしれない。
制止の言葉だけで止まるようなことは当然ないので、きつく抱きしめて押しつける余裕をなくすことで何とか止める。
「……そうやって付け入る隙を見せるようなことして私が依存でもするようなことになったらどうするつもり?」
「その対象が私だけだったら受け止めきれる自信はないかも。でも、さとりさんが私以上にこいしのことを考えてくれてるから、そっちにも頼ってあげて。絶対に喜んでこいしの助けになってくれるはずだから」
憂いを帯びた様子でこいしのことを饒舌に語っていたさとりのことを思い出しながらそう言う。こいしに頼られてそれを無碍にするということは絶対にないだろう。
「……他力本願」
「こいしと二人きりの世界に生きてるわけじゃないから。こいしにとって私を特別な存在にするなとは言わないけど、盲目的にはならないで欲しい。暗闇を照らす為の光が、それを感じるための目を潰してしまったら意味がないから」
こいしの希望となることに異論などはない。多少縋られるような形となったとしても、彼女の過去を鑑みれば仕方のないことだろう。
しかし、世界を狭めてしまうことだけはしないでほしい。こいしがこころから見ようとしている希望は他でもないその広い世界からもたらされたものなのだから。
「……余計なものが見えない方が幸せ」
しかし、こいしは視野を広げて不幸を視界に納めてしまうことを極端に恐れているようだ。
「私に会ったこともこいしにとっては不幸だった?」
「うん。こころがいなければ、こうやって不安を取り戻すようなこともなかった」
「なら、私と色んな場所に行ったけど、それは楽しかった?」
「……うん」
少しの躊躇の後に頷く。そうした幸せの片隅に不幸が映り込んでくることに怯えるように。
「なら、こいしは余計なものに触れて、余計なものを手に入れちゃってるけど、ちゃんと価値あるものも手に入れられてる。それは、目を塞いでたら絶対に手に入らないもの」
こころはそんなこいしの怯えを取り除くように背中を優しく叩きながら話しかける。
「知らないものに触れるのが怖いなら私を盾にしてくれればいい。もし足を進められなくなったなら私が引っ張ってあげる。それもいやになったら、さとりさんの所に逃げ込んで少しの間休めばいい。まあ、私もいやがるこいしを無理に連れ出そうとは思わないけど。なんにせよ、自分が知ってる世界だけに閉じこもるのは勿体ないと思う」
夏の異変の後から急速に関わりが広がっていったこころだからこそ思うことだ。
他人との繋がりは新たな何かを手に入れるためのきっかけとなる。それは、こころのように前に進むためのものだったり、こいしのようにその場に立ち止まらせるきっかけかもしれない。良いも悪いもそこにはある。
もし悪いものを引き当て続けてしまったのなら、触れること自体を忌避してしまうのも仕方のないことだろう。しかし、こいしはこころに対して希望を見た。そして、その希望であるこころは前に進むことを肯定している。こいしがそれを拒むには、こころ自身を否定するしかないだろう。
「だから、逃げてばかりいないで一緒に歩こう? 私が信じられないなら、少し後ろについてきてくれるだけでも良いから」
「……私なんかと関わって、こころにいいことあるの?」
「んー? そういうことを考えて付き合う人を選んでるわけじゃないから聞かれてもわからない。こいしといるのが好きだから、とかじゃだめ?」
普段ならそんなものはないと断言するところだが、今は情緒不安定となっているこいしを安心させるために少し無理に理由を持ってくる。嘘というわけではないのだが、なんとなく取って付けたような感じとなってしまっていた。
「……そういうのは、ずるい……」
しかし、こころが嘘をつけないというのがわかっているこいしにはそれでも十分だったようだ。こいしは感情でいっぱいになってしまったような声でそう言った。
「えー……、これ以上ないくらい素直な言葉だと思うけど。好きだから一緒にいたいっていうのも十分利点として考えられるし」
「そういうことじゃないっ。……というか、こんなわけわかんないののどこが好きなの?」
少しばかり鈍い反応を見せるこころにこいしは怒ったような反応を見せる。しかし、その後の質問を発した声は不安に彩られていた。
「好きに理由は必要ないと思うけど、強いて挙げるなら遠回りに優しいところ?」
「……なにそれ」
「ほんとは優しいのに臆病なせいなのか、回りくどい方法で私を助けてくれてるってこと。助けてくれてるのかって聞いても頷いてくれないし。素直になればもっと色んな人に振り向いてもらえるようになるんだろうけど、それも怖いんだよね」
「……うるさい」
今にも消え入りそうな声は、慣れない評価の受け止め方がわからないのか、それとも知ったような口をきくなということなのだろうか。どちらも当てはまりそうなので、判断ができない。
「まあ、そんなに付き合いのない私がこいしの考えを変えるのは不可能に近いんだろうけど、私はこいしに期待されてもそれが重荷だとは思わないし、私はこいしに仲間意識を抱いてる。それだけは覚えといて」
「……覚えとくだけなら」
「うん。今はそれだけでもいいよ」
頭ごなしに否定しなくなっただけでも多少の進歩はあったと言える。それらのことを受け入れて応えるのはまだ先のことだろう。
一段落ついたところで二人は黙り込む。こころは話題がなければ無理に話すようなことはしないし、こいしは無駄口を叩いていられるような心境ではないのだろう。
「……ねえ、いつまで抱きしめてるつもり」
「うーん……、今の状態でこいしを離すのは微妙に不安なんだけど、ああ言った手前、離さないわけにもいかないよね。はい」
両手を広げてこいしを解放する。こいしの体温で温まっていた部分が秋の涼やかな風に触れて肌寒さを訴える。だからといって、再びこいしを抱きしめるようなことはしないが。
こいしもこころが感じたのと同じものを感じたのか、こころから少し距離を取ったところで少し身体を震わせる。
「霊夢さんにお茶、淹れてもらおうか」
こいしの方へと手を差し出しながらそう言う。
「なにその手」
「霊夢さんの所に行ってる間にこいしにいなくなられるのもいやだから、一緒に行こう?」
こころがそう答えると、こいしはこころの手をじっと見つめる。そして、躊躇するような様子を見せながらもそっとその手を握った。
こころは満足げな面とともに、ほんの少し頬を緩ませながらしっかりとその手を握り返すのだった。
こころは縁側に腰掛けて熱いお茶を啜り、ちょっと渋くなりすぎたかなー、という感想を思い浮かべる。隣にはこころに寄りかかってそっと湯呑みに口を付けるこいしの姿がある。
二人並んで茶の催促に行ったところ、面倒くさいの一言で断られ、その代わりに台所への進入を許された。なので、今二人が口を付けているのはこころが他の人たちが淹れていたときの記憶を頼りに見様見真似で淹れたものなのだ。
今度、師匠か霊夢にちゃんとした淹れ方を聞いてみようかと考えながら、再びお茶に口を付ける。自分の知っているものよりも劣っているとはいえ、少し肌寒さを感じるときの熱いお茶が美味しいというのにそれほど変わりはない。
「家の主がいないってのに、随分くつろいでるのね」
掃除が終わったのか、それとも一人で掃除なんてやっていられなくなったのか、霊夢が顔を覗かせる。真っ直ぐに二人の方へと近づくと、こころの隣に腰を下ろす。
「こころは変態的な趣味を持ってるからあんまり近づかない方が良いよ」
「手を出してきたらその手を床に縫いつけるから大丈夫よ」
「何それ怖い。というか、私はそんな趣味持ってない」
霊夢の容赦ない発言に多少物怖じしながらも、こいしの発言に対する訂正を口にする。変な噂が広がってしまってはたまったものではない。
「心配しなくても、こいしが引っ付いてる時点で信じてなんてないわよ」
「そう、よかった……」
ほっと胸をなで下ろす。こいしもわざわざ引っ張るつもりはないようで、足をぶらぶらとさせながらお茶をすすっている。自分は寄り添っているという事を深く突っ込まれたら、面倒なことになるとでも思ったのだろう。
「とりあえず、問題は解決?」
「んー……、よくわかんない。これからの流れ次第?」
悪い方向に向かっていかないような気はするが、こうなったと断言できるような形に落ち着いてもいない。これから少しずつ固めていけばいいのだろう。
「そ。もう私に迷惑かけないでよね」
「今のところは大丈夫。ね?」
他人事のような態度を取っていたこいしへと話題を振る。ぷいと顔をそむけられてしまうが、身体に預けられた体重の分だけ逃げられることはないと確信する。ただそれは同時に、それだけ依存されかねないということも表しているのだが、なんとかなるだろうと深刻に考えすぎないことにしておく。
「ほら」
「今のでどうやって大丈夫だと判断できたのか謎だけど、まあ当人たちにしかわからないやり取りってのもあるわよね」
霊夢は多少納得がいかないようだが、言及するのは面倒くさいようだ。彼女自身に何もなければそれでいいのである。
そこで話題は尽きて、三人とも何も言わなくなる。
こんな時間がこれからも続いてくれればいいなーとこころは思う。
「そういえば、ふと気づいたんだけどこいしって結構嫉妬深い? さっきは霊夢さんを私から離すようなこと言ってたし、この前の宴会だと私が注目を浴びた後からとたんに甘えるような態度を取るようになったし」
「自意識過剰なんじゃない? こころが誰と付き合おうと私には関係ないし」
そう言いながらもこいしはこころへと身体を押し付けている。多少心を許してはくれたみたいだけど、まだまだ素直じゃないなーとこころは思うのだった。
◇
こころは己の感情の補強と表情の習得のため、今日も今日とて当てもなく幻想郷のどこかをのんびりと歩く。当てなんてものは道のどこかで拾えばいいのだ。彼女に焦る理由はない。
彼女の片手には黒帽子。彼女の歩みに合わせて、黄色いリボンがゆらゆらと揺れている。
そんな彼女の隣にさり気なくこいしが並ぶ。しばらくこころはそのことに気がつかなかったが、ふとしたときに視界の端に映るこいしに気がつく。
こころが不意に足を止めると、こいしに一歩分追い抜かれる。そんなこいしへと挨拶をすると、気まずそうに顔をそらされてしまう。先日のことがあったせいで、普段通りに接することができなくなっているのかもしれない。
こころはそんなこいしに帽子を被せて、彼女の手を勝手に握る。そして、再び前へと向けて歩き始める。こいしに立ち止まる暇を与えないかのような態度で。
こいしは少し抵抗する素振りを見せるが、振り払うようなことはせず結局大人しくこころの隣に並ぶ。
そして、一人と一人は二人になってお互いの求める何かを探すべく歩くのだった。
Fin
止めで
心の働きのどこかに欠損がある二人が、色んな人妖と交じりながら心を通わす物語。
こいしがこころに依存する(物理的にも!)いびつな関係が、対等で信頼あるパートナーのような関係へと昇華する様が丁寧に描き出されていて、心に訴えます。
不思議な距離感にあるこの二人がこのあとどうなるかの予想が全くつきません。
そうなるからこそ面白いんです。先の展開が読みにくいのは恐らくこの二人だと思います。
良いこいこころでした。
次回もまた、素晴らしいこいこころをお待ちしております。
とても良かったです
でも、フランが出なかったことにこの話はフラこいの連作とは違う世界軸なのか?
はたまた、フランに依存しつつもこころにも希望を見出してるのか疑問に思いました。
また、どうしてもこころがフランの上位互換みたいに写りました。