こころは布団から身体を起こすと、腕を伸ばして伸びを一つする。寝巻きとしている襦袢に覆われるすらりとした細身の身体は猫を彷彿とさせる。
そして、腕を下ろすと目の端に浮かんだ涙を拭い、ぼんやりとし始める。ぼんやりとは言うが、彼女は無表情なので端から見ると宙をじっと見つめているようにも見える。頭に付いた眠そうな面のおかげで、そうした誤解を抱く者は少ないだろうが。
しばしの間そうしてからようやく起き上がり、布団を畳んで部屋の隅へと片づける。その隣には別の畳まれた布団が置かれている。
それから、寝巻きからさっと着替えると、襖を開けて寝室から出る。腰の辺りまで伸びた髪は寝癖が付いたままだが、彼女は手櫛で無造作に整えるだけで大して気にしてはいない。
のんびりと廊下を歩く途中、何匹かの狸とすれ違ったり追い越されたりする。こころはそのたびに挨拶をし、狸たちも鳴き声を返す。彼らはここに住んでいるというわけではないが、頻繁にこの家を訪れてくる。
「おはよー、師匠」
狸たちが集まっていた居間を通り抜けて、竈の前に立って鍋をかき混ぜているマミゾウへと声をかける。鍋の横には、大きな釜が鎮座している。マミゾウの足下には、火吹き竹を持って火の加減をじっと見守っている小柄な少女がいる。彼女の服の間から、狸の尻尾が伸びているのが見える。朝食を用意しているところのようだ。
「んむ、おはよう。こころ、そろそろ朝餉もできるから、ごはんをよそっておいてくれるかの」
マミゾウは鍋の方を向いたままそう言う。
「わかった」
こころはこくりと頷き返すと、居間にいた狸の数を思い出しながら、食器棚から茶碗を取り出す。人間の食事に興味のある者が朝食の席に顔を出しているのだ。
ここは狸の大将であるマミゾウが家主となっている一軒家。だから、狸がいくら集まってこようとも文句を言う者はいない。
こちらに来たばかりのマミゾウは命蓮寺の一室を借りていたのだが、寺の雰囲気に耐えられず、こちらで得た部下たちの力を借りて、森の中にこうした一軒の家を建てたのだ。普通に暮らすには一切の不満が出てこないほどの出来となっている。
しかし、素人の造ったものだということで、天気が荒れたり、極端に寒くなったりすれば寺の方へと避難をしている。利用できるものは利用するのが彼女なりのやり方のようだ。
こころは夏の異変以来、この狸屋敷に住まわせてもらっている。命蓮寺や神霊廟の面々も彼女を受け入れる姿勢を見せていたが、彼女は最も信頼を寄せたマミゾウの庇護化に入ることを決めた。
「む、お前さん、今日も髪を梳いとらんじゃないか」
茶碗としゃもじを持って釜の前に立ったこころは、ちらりと横を向いたマミゾウにそんなことを言われる。
「手で直した」
素っ気ない口調でそう言いながら、釜の蓋を開けて、白い湯気を立ち昇らさせるごはんをしゃもじでほぐし始める。
元が道具だったというだけあり、自分で自分を綺麗にしようという意欲はあまり持っていないのだ。だから、手で少し整えてしまえば、多少乱れていようとほとんど気にしない。
「そんなのは梳いたとは言わんよ。折角綺麗な髪をしとるのに、勿体ないことを言う奴じゃな」
「そう?」
首を傾げながら、ごはんを茶碗へとよそい始める。ごはんをよそった茶碗は、マミゾウの足下にしゃがみ込んでいた狸の少女に運んでもらう。朝食の準備は大体この三人で行っている。
「お前さんの髪を見て羨ましいと思う奴は多いじゃろうよ」
「ふーむ?」
こころは師の言葉に納得がいかないようで、反対側へと首を傾げる。その間もこころの手は止まらない。すでに定番のやりとりとなっているのだ。
「いつになったら自覚が芽生えるんじゃろうな。朝餉の後に梳いてやるから、勝手に出かけるんじゃないぞ」
「うん」
こころはほんの少しだけ頬を緩ませながら、弾んだ声とともに素直に頷く。髪を整えることに興味はないが、マミゾウに髪を触ってもらえるのは嬉しいと思うのだった。
◆
今日はどこに行こうかなー。
家を出て、土を踏み固めただけのような道を進みながら、こころはいつものようにそんなことを考える。マミゾウに梳いてもらった髪は、彼女の歩みに合わせて上機嫌に揺れている。今日も散歩日和だ。
「そこのあなた! ちょっと待ちなさい!」
とりあえずいつものように人里の方に行こうと決めたこころの耳に、甲高い声が届いてきた。思考に没頭していた彼女は、突然の大きな声に驚く。
「わ、私のこと?」
振り返ったこころは、背後に赤いドレス風の洋服を纏った小柄な金髪の少女を見つける。上は暗色、下は明色で暗い印象を受ける服装だが、少女の快活な表情のおかげか、雰囲気はどちらかといえば明るい。
「ここにそれ以外の誰かがいる?」
その言葉を聞いて、こころは律儀に辺りを見渡して誰もいないことを確認する。それだけ、今まで周りを見渡していなかったというわけだ。単純に少し抜けたところがあるせいでもあるのだが。
「いないみたい。それで、私に何か用?」
改めて金髪の少女へと視線を戻すと、不思議そうな表情を浮かべた面とともに首を傾げる。見知らない自分になぜ声をかけてくるのだろうかと。夏の異変の時に、あちこちで派手に決闘をしたおかげで彼女の知名度は高いのだが、彼女にその自覚はあまりない。
「人形解放運動の同志になってほしい」
少女の言っていることの意図が掴めないこころの首は傾いたままだ。むしろ、更にその角度は大きくなっている。
少女はその反応を予想していたのか、すらすらと次の言葉を口にし始める。
「道具であるあなたにとっては、道具解放運動と解釈できるかもしれない。私は常々思ってるのよ、人間や妖怪は自分たちの手で作ったからって、私たちみたいな人形やあなたみたいな道具を酷使しすぎてるって。その上、ろくに労いもしないで簡単に捨てるようなやつもいる。私はそんなやつらが許せなくて、立ち上がった。今こそ、人形や道具は自由になるべきだってね。でも、私一人ではこの世界は変えられない。だから、私と似たような境遇のあなたに手伝ってほしいのよ」
熱のこもった口調でそう述べる。幾度となくその言葉を誰かに聞かせてきたのだろう。それだけ、彼女は語り慣れている。彼女にとって、人形解放は悲願とも呼べるものなのだろう。
こころはそんな彼女が浮かべる怒りの表情をじーっと見つめていた。単純な怒りではなく、強い意志の混じった怒りは滅多に見ることができないのだ。だから、今のうちにできるだけ観察をしようとしている。
「ふふん、私の演説に感動して返事もできない?」
少女はこころの熱心な視線を勘違いして受け取ってしまったようだ。得意げな表情を浮かべて胸を反らしている。そのせいで、せっかく決まっていた雰囲気も台無しである。
「それで、私の同志になってくれる? 付喪神であるあなたなら、無条件で大歓迎よ」
決して断られるはずがない。そんな思いが透けて見える自信満々な表情でそう言う。こころの抱える事情を詳しく知らなければ、仕方のないことなのかもしれないが。
「あ、えっと、……ごめんなさい。そういうのには、興味がない」
我に返ったこころは自分の態度が、相手に誤解を与えてしまうものだと気が付いた。かといって、自分の意志を無視して相手の意向に応える訳にもいかず、素直にそう言うしかない。
彼女の思想は少女とは真逆で、人間の味方をしたいというものだ。自我が尊重されてしかるべきだというのには同意できるが、それ以外は受け入れられない。
「むぅ……、すっごく真剣に聞いててくれたみたいなのに、どうしてそんな返事になるのよ」
絶対に新しい仲間となってくれると確信していたらしい少女は、不満そうに口を尖らせる。そんなころころと変わる表情は、こころの気を引く。自分の欲しいものがすぐそばにあるのだから、当然である。
「私と同じ、人を模して作られた存在なのに表情豊かだなー、って思って観察させてもらってた」
「それは、人形に求められるのが人そのものの模倣で、面に求められるのが役割と感情を引き立てることだからね。そこには当然、あなたたちの間にあるような違いが生まれてくるはずだよ」
二人の間に三人目の声が割って入ってくる。まるで、最初から会話の輪に加わっていたかのような自然さだった。
「こいしはそういうの詳しいの?」
「ううん。取り留めのないことを考えるのが好きなだけ」
「そうなんだ」
こころはこいしのことを何の疑問も抱くことなく受け入れていた。ある程度付き合いがあるので、そういう存在だと刷り込まれているからというのも関係なくはないだろう。
「へぇ……。じゃなくて! あなたは誰? なんだか、どこかで見たような気はするけど」
それとは対照的に、金髪の少女は自然に溶け込んでいるという不自然さに気がついて、闖入者へと疑問を向ける。
こいしも一時はこころと同程度の知名度を誇っていたのだが、それは希望の面によってもたらされたものだった。だから、元来人々の意識の隙間をふらふらと漂う彼女は、面を失ってしまえば忘れ去られてしまう。印象的な姿が残っていればまた別なのかもしれないが、同時期に活躍している存在が多すぎた。
「私は古明地こいし。あなたの言う人形が解放された世界が面白そうだなぁって思ってこうして出てきた。ねえ、私のこと仲間にしてくれない?」
忘れ去られていることを気にした様子もなく自己紹介をする。わざわざ思い出してもらうようなこともしない。
「……あなた、人形を使って遊んだことは?」
第一印象は怪しいやつといったところだろう。少なくとも、少女がこいしへと向ける視線に好意的なものは見られない。
「さあ? 昔のことなんていちいち覚えてないし。でも、今の私の趣味は他人の観察だってことは明言できるよ」
「むむむ……」
はぐらかされていると思ったらしい金髪の少女は、難しい表情を浮かべて悩み始める。普通ならここまで怪しいのをそう簡単に仲間に招き入れるようなことはできないだろうが、きっぱりと断らない辺り、仲間はさほどいないか、誰もいないというのが窺える。
「……こいし?」
少女が悩んでいる間に、こころがこいしへと声をかける。その声を聞きつけたこいしは、こころの方へと視線を向けると、口の前で人差し指を立てる。
その向こう側に浮かんでいる表情は、こころもよく見る表情だ。悪戯を企む狸が総じてこういった表情を浮かべるのだ。
こいしが何をしようとしているのかおおよそ察しの付いたこころは、少女へと同情を向ける。
「……なんだか怪しいところがあって信用できないから、今のところは仮の仲間として迎え入れてあげる。しばらく様子を見て、信用できそうならそのときは改めて正式な仲間として扱ってあげるわ」
こいしの企みに気が付いていない少女は、一端様子見をすることにしたようだ。いくら余裕がないとはいえ、むやみやたらと仲間にしないだけの判断力はあるようだ。猫の手を借りたいような状況でも、その手が自分に振り下ろされてしまえば元も子もない。
「ふーん。まあ、妥当な判断だろうね。下手な奴を招き入れれば、組織の腐敗なんてすぐに進んじゃうから」
「……仮にでも仲間にしたこと自体間違いだったかも」
こいしの発言を聞いて、少女は早くも後悔し始めているようだった。しかし、ここで切り捨てる余裕は持ち合わせていないようだ。苦悩している表情を浮かべるだけで、その先の決断を下そうとはしていない。
「あー、えっと……、こいしは――」
さすがに不憫に思って放っておけなくなったこころは、こいしの企みを伝えようとする。しかし、すかさずこいしに手で口を塞がれてしまい、真実を伝えることはできなくなってしまった。こころはもごもごと抗議の声を上げるが、当然のようにこいしはそれを黙殺する。
少女は二人の行動を見て、特にこいしへと疑わしげな視線を向ける。
こいしはその視線を平然と受け止めて、少女を懐柔するための提案を口にする。
「私を仲間にしたことが正解だったって思えるくらいのアドバイスを一つあげよう。思想が一致せず引き込めなかったなら、今度は現状を伝えてみたら? あなたの言う悲惨な現実を目の当たりにすれば、仲間になろうって思ってくれるかもしれないよ」
「……確かにそれは重要ね。じゃあ、早速私たちが目下倒さねばならない目標のところに行きましょう。そこで、現実を知ることができるはずよ」
信頼も信用もしていないようだが、一理あるとは思ったようだ。こころに一度視線を向けてから歩き始める。
こころは付いていった方がいいんだろうかと考えるが、こいしに手を引かれて素直にそれに従うことにする。逆らったら、面倒くさいことになりそうだと思ったのだ。
「あ、そういえば自己紹介してなかった。私は秦こころ」
「ええ、知ってるわ。あの夏のやたら騒がしかった時期に活躍してたわよね」
そう言って、少女は足を止めて振り返る。
「私はメディスン・メランコリーよ。将来の同士として、あなたのこと期待してるわ」
そして、笑顔をこころへと向けてそう名乗る。絶対に彼女の考えに同意できないだろうと思っているこころは、居心地の悪さしか感じないのだった。
◆
メディスンに連れてこられたのは魔法の森だった。この森はこころの住む家がある森と違い、普通の動物はいない。妖怪化した動物でも、ここに近寄るようなのは稀にしかいない。この森に自生する植物やキノコの類が、妖怪にも悪影響を与えるほどに特異な進化を遂げているのだ。
しかし、そんな劣悪な環境においても居を構える者はいる。それが、魔法使いと呼ばれる者たちだ。妖怪さえも退ける植生を構成する森だが、だからこそ魔法使いたちの目には宝の山として映る。
メディスンが二人を案内したのも、そんな魔法使いがいる家の傍だ。人里でも有名な魔法使いが二人いるのだが、この家はその内の一人のものである。
幻想郷でも数少ない洋風の白亜の一軒家が、森のおどろおどろしい雰囲気をぶち壊しにしている。家の周りには木が一本も生えていないというのと、森の瘴気が家を避けているのもその原因だろう。
「ここに住んでる人形遣い。そいつが、人形たちを酷使してるのよ」
メディスンに促され、こころは中から気づかれないよう注意しながら窓から家の様子を覗く。その隣ではこいしが堂々とした様子で窓の前に立っているが、それを指摘する者はいない。こころはこれまでの付き合いから、メディスンはこれまでの振る舞いから、こういった場面でこいしが気づかれることがないというのを身を持って知っている。
家の中では整った顔立ちの金髪の少女が、人形たちに囲まれて何かの作業を行っていた。周囲の人形たちはまるで意志を持っているかのように別々の作業を行っている。ある人形は少女に何かを手渡し、ある人形は別の人形から道具を受け取って何かの作業を始めたり、またある人形は少女から何かを受け取ってどこかへと運んでいっている。
「あ、アリスさんだ。ここに住んでるんだ」
こころは思わぬところで知り合いの姿を見つけて声を漏らす。アリスも人里で活動することが多いので、お互いに見知った仲なのである。
「……知り合いなの?」
「うん。里で人形劇をしてるのをよく見せてもらってる」
少し不穏の色が見え隠れするメディスンの言葉にこころは多少疑問を抱きながらも頷く。
感情に付随する表情を学ぼうとしているこころにとっては、それらが単純化された人形劇というのはちょうど良い学習教材なのだ。それに、劇としての完成度も高いので、娯楽として楽しみにもしている。だから、こころとアリスとの接触は結構多い。
「それを見て、どう思った?」
「え? うーん、劇としての完成度も高いし、あれだけの人形を一度に動かせるのはすごいと思う。あと、人形でもあそこまで表情を動かせるのは羨ましいなーって」
「そうじゃなくて、自分たちの意志とは関係なく動かされてる人形たちを見てどう思ったのかってこと」
メディスンの声には押し殺したような怒りが込められている。ここまであからさまとなれば、さすがにその存在に気づき、どこに向いているかもわかる。
「……良い人に作ってもらって、大切に使ってもらわれてるんだなって思った」
その言葉がメディスンにとってどういった意味合いを持つ言葉なのかは理解していた。それでも、舞台の上で使われる道具だったこころとしては、その想いを偽ることはできない。
「私も皆に見てもらうための道具だからわかる。あの子たちはあそこに立って、観客たちを楽しませることができるのを喜んでるんだって」
例えそこに他者の意識が介在しているのだとしても、ただの飾りの一部だとしても、舞台を楽しんで賞賛を送られるというのは、そうした感情が自分たちに向けられるのと大差はない。大切に扱われる道具たちは、自分がいなければ舞台は味気なくなってしまうと知っているのだ。
「……あなたは、どうして付喪神になったの?」
「ん……、どうしてなんだろ。気が付いたら私は私になってた。師匠は私の持ち主が私を大切にしてくれてたからかもとは言ってたけど」
付喪神が生まれる原因は基本的には二つだ。あまりにも杜撰に扱われたあげく忘れ去られるか、大切に扱われるが何らかの変化があり忘れ去られてしまう場合だ。
前者の場合、道具を使う者たちに恨みを抱き悪さをするが、後者の場合は逆に感謝の念を抱き恩返しをしようとする。
こころも夏の異変では、自分自身が原因ではあるものの、事態を収束させようと動いていた。道具を使う者たちに反感を抱いていれば、そうした動きを見せることはなく、むしろ最悪な事態を招こうと奔走していたかもしれない。
そんな彼女がメディスンの考えに賛同できないのは、当然のことだ。それでもここまで付いてきたのは、こいしに引っ張られて逃げることもできなかったからにすぎない。
「……どうやら、あなたとは根本的に相容れないみたいね」
「うん、そういうことになるの、かな?」
こころはメディスンの中で何かが切り替わるのを感じた。それでも、自分自身の考えは変えない。鬼気迫る様子に少々怖じ気付いてしまっているが。
「こうなれば、最終手段を使うしかないわね。私の実力でもって、あなたを私の仲間に引きずり込んでやるわ」
「それは仲間とは言わないんじゃ……」
戦闘態勢に入るメディスンを見て、こころは逃げる用意をしながらそう突っ込みを入れる。何とか落ち着かせようと試みるくらいの余裕はある。
これでも一応、決闘ルール内ではあるものの、幻想郷における実力者を三人同時に相手にして退けた実績はあるのだ。仮に不意に襲われて後手に回ったとしても一方的に負けることはないと思えるくらいの自信はある。いつかの花の大妖怪のような圧倒的な地力の差を見せつけられるようなことがなければだが。
「えっと、そこまで私に執着する必要もないんじゃないかなー、と思うんだけど」
「そうかもしれない。でも、私たちと同じ付喪神なのに、人間や妖怪に肩入れしてるのが気にくわない。……まあ、単なる八つ当たりなんだけどさ」
しかし、メディスンは思ったよりもあっさりと落ち着いた様子を見せ始める。もしかすると、最初に会話をしたときから、こころからの返答はあらかじめ予想していたのかもしれない。
「あーあ、せっかく強そうなのが仲間になってくれそうだって思ってたの……に……」
メディスンは拗ねたような様子で、未練を口にしながらこころへと背を向けた。しかし、そこに何かを見つけたのか、目を見開いて動きを止める。
微かに震える背中からは恐怖のようなものが読み取れる。
「あら、私のことは気にしなくてもいいわよ。貴女たちの話がキリのいいところに行くまで待ってるくらいの堪え性はあるから」
こころも声に釣られるように、メディスンの見ている方へと視線を向ける。
視線の先にいたのは、無数の人形を従える人形遣いの少女だった。人形たちの手に武器の類はないが、代わりに触り心地の良さそうな毛玉や、毛先の柔らかそうな筆が握られている。
こころはその異様な光景に首を傾げるが、メディスンはそれの意味するものを知っているのか、こころの手を取って逃げ出そうとする。しかし、人形たちに行方を遮られてしまう。
メディスンは人形の壁に向けて、悔しそうなそれでいて申し訳なさそうな表情を向けるだけで、無理矢理前進するような真似をしようとはしない。人形解放を謳う彼女は、人形たちに対して攻撃を加えることはできないようだ。
「人形の意志を弄ぶ卑怯者め!」
代わりに、アリスの方へと怒りをこめた言葉を投げつける。
「卑怯じゃなきゃ魔法使いなんてやってられないわ」
激情を露わにするメディスンとは対照的に、アリスの態度は落ち着いたものだ。魔法使いらしい冷静さというよりは、何度も悪戯を繰り返す悪餓鬼を前にしたような冷静さではあるが。
「こころ、今回は家の中を覗いてたことは見逃してあげるから、こっちに来なさい。まあ、その子と同じ目に遭いたいならいてくれても構わないけどね。……あなたを苛めて、どんな反応をするのか観察するのも面白そうだし」
アリスは人形のようだと評される整った顔に、嗜虐的な笑みを浮かべる。そこには、どこか妖艶な雰囲気がある。
こころは本能的な危険を察知して、慌てて人形包囲網の中から逃げ出す。頭には怯えたような表情の面が付いている。ここでメディスンも連れて逃げだそうとするだけの勇気はなかった。
「良い子ね。後で一緒にお茶でもしましょう?」
「う、うん」
こころは先ほどの雰囲気とは全く相容れない和やかな笑顔に戸惑いつつも頷く。そして同時に、アリスを絶対に怒らせるようなことはしないようにしようと誓う。それだけの迫力が今のアリスにはある。
「さて、こっちの悪い子にはちゃんとお仕置きしてあげないといけないわね。何度言い聞かせてもわからないみたいだし。ふふっ……、どうしてあげようかしら」
「ひ、ひぃ……っ」
アリスと人形たちがメディスンの方へと迫っていく。距離に反比例して、メディスンの表情は恐怖に染まっていく。人形たちの持つ得物からして痛めつけるつもりは全くなさそうだが、じわじわと迫ってくる大量の人形と遊び道具を見つけた猫のような雰囲気のアリスとを前にして平静でいるのは難しいだろう。更には、アリスの言葉から以前にも同じようなことをしたようだ。そのときの記憶もまた、恐怖に一役買っているのだろう。
「なんだ、見逃されちゃったんだ。つまんないの」
今まで気配を消していたこいしが後ろからこころに抱きついて、内緒話でもするように耳元へと話しかける。声量は普段通りのものだから、二人の方へと意識を向けていれば、その内容はしっかりと聞き取れるだろう。
「……私はこいしを楽しませるのが役目じゃない」
「こころが何と言おうと私の玩具なんだから、反論するだけむだむだ」
笑顔で放たれる自分勝手な言葉に、疲れ切った老婆のような面が現れる。そうして放たれたこころのため息は、メディスンの悲鳴にかき消されてしまうのだった。
アリスの家では、多くの人形たちが働いているのと同時に、数え切れないほどの人形が飾られている。こころたちが案内された居間もその例外ではない。
こころはアリスが紅茶を淹れてくると立った後、部屋の中を見渡していた。外から部屋の様子を見ていたとはいえ、中に入ってみればその印象はまたがらりと変わってくる。
どこを見ても人形が置かれているという状況に物珍しさもあるし、全方位から視線を感じるという不気味さも感じる。人形遣いの家らしい雰囲気がこの家には満ちている。
そうして距離を取って好奇心を満たすこころとは違い、こいしは人形に触れて回っている。そこに好奇心が伴っているかは判然としないが、彼女がそうしたいと思ってそうしているのだろうから、それでいいのだろう。
のんびりとしている二人とは対照的に、部屋の隅にいじけたように俯いて座っているのがメディスンだ。あの後、疲れ果てるまでくすぐり続けられ、動けなくなったところをアリスに運び入れられた。一刻も早くここから出たいといった雰囲気を醸し出しているが、動くだけの元気はないようだ。
「何か面白いものでもあるかしら?」
四人分のティーセットとクッキーの乗ったトレイを持ったアリスが三人のいる部屋へと戻ってくる。
声か、もしくは紅茶の香りにつられたのか、メディスンが一瞬顔を上げるが、すぐさま慌てたように俯いてしまう。アリスはちらりとそちらを見るが、特に何かを言うことはなかった。
「こんなに人形があるのを見るのは初めてだから」
「確かにこの光景を見ることができるのはここくらいね」
アリスはトレイをテーブルの上に乗せると、誇らしげな様子で自らが作り上げた領域を見回す。どれだけの時間をかけて作り上げられたのかはわからないが、それだけ感慨深いものもあるのだろう。
こころはじーっとアリスの顔を見つめる。
「そんな熱心に見つめたくなるような表情してる?」
こころの事情を把握しているアリスは、冗談めかした様子でそう聞く。
「うん。アリスさんは自分のしてることに誇りを持ってるんだなーっていうのが一目でわかるような表情」
「あー……、真面目にそう言うこと言われると少し恥ずかしいわね」
少々ひねくれた面のあるアリスにとっては、真っ直ぐな言葉を受け取るには気恥ずかしさを伴わなければならないようだ。少し頬を赤く染めて、青い瞳は落ち着きなくさまよっている。
「アリスは自分のしてることに誇りを持ってるような表情浮かべてるー」
こいしはそう言いながら、こころの隣の席に腰掛ける。何の感情も込められていないどころか、これ以上ないくらいに棒読みとなっていた。
「その言い方はものすごく腹が立つわ」
「知ってる」
平然とそう言いながら、クッキーを手に取りかじり始める。アリスの反応に大して興味はないようだ。
「良い度胸してるわね。まあ、それはいいとして、こころも遠慮せず食べてちょうだい」
「うん。じゃあ、いただきます」
こころは一度手を合わせてそう言ってから紅茶に口を付ける。何も言わずにクッキーを口にしたこいしとは対照的に礼儀正しい態度だ。
「……あ、おいしい」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
アリスは言葉通り嬉しそうな様子でそう言って、観察するようにこころへと視線を向ける。こころの頭には喜色を浮かべた面が付いていたが、既に困惑を浮かべた面に変わっている。注目される理由がわからずたじろぐ。
「な、なに?」
「……なんだかあなたって色んな人たちに助けられてるって印象だけど、その理由がわかった気がするわ。こういうのを、庇護欲がそそられるって言うのかしらね」
しみじみとした様子で言う。彼女自身、こころに何かしてあげたいという気持ちを抱いているのか、目元は優しげに緩んでいる。
「さっきは苛めたいって言ってた」
こころは人形たちに包囲されていたときのことを思い返しながら言う。彼女があのときの表情を忘れることはないだろう。
「庇護したくなるくらい良い子だから、苛めてみたくもなるのよ。……純粋そうなぶん、反応も良いでしょうしね」
その発言に身の危険を感じたこころは、ぶるりと身体を震わせる。そして、あまりアリスには隙を見せないようにしようと決意する。メディスンがどのようなことをされたのかを目撃しただけに、その思いは強固なものとなっていた。
アリスはそんな反応でさえも楽しんでいるようで、笑みを浮かべてこころを観察している。
「性悪という言葉をあげよう」
横で二人のやり取りを聞いていたこいしがアリスをそう評する。
「性根は優しいつもりよ? ただ、時々悪戯心が抑えられなくなるというだけで」
「自分で優しいとか言ってるし」
「誰も言ってくれないから自分で言っておくのよ。それに、優しいって言った手前、酷いことをするわけにもいかないでしょう?」
「だったら、優しいアリスに紅茶のおかわりを所望する」
いつの間にやら紅茶を飲み干していたこいしが、カップを持ち上げながら自らの要求を訴える。そこに遠慮は一切見られない。
「後でね」
「嘘つき」
「あなたよりも先に優しさを見せないといけないのがいるというだけよ」
「打算的」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
アリスは澄ました表情でこいしの言葉を受け流し、一人分の紅茶とクッキーとを乗せたトレイを持って立ち上がる。向かうのは、いまだに部屋の隅でいじけているメディスンの方だ。
こころはアリスの動きを目で追い、最終的にメディスンの方へと視線を向ける。頭には弱ったような表情の面がついている。
「悪いことをしたって思ってる?」
こころの視界にこいしの顔が割って入ってくる。こいしが浮かべているのは、何を考えているのかわからないような笑みだ。こころを慰めようとしているようにも見えるし、あざ笑おうとしているようにも見える。
「……うん」
こころは胸中に抱く思いに従って頷く。自分が関わっていなければ、メディスンが部屋の隅でいじけるようなこともなかっただろう、と。
「こころは良い子だねぇ」
こいしの声に込められた思いはやはり不明瞭だった。しかし、こころの頭を撫で始めた辺り、慰めようという意志は多少なりとも混じっているのかもしれない。ただ、こいしの方がこころに比べると幼い姿をしているし、撫でられている方は無表情で見返しているしで、アンバランスな光景となっている。
「……こいしは、私をどうしたいの?」
こころの意志を無視して引っ張り回して、厄介ごとに巻き込まれそうになったら安全地帯で観察して、けど落ち込んだ様子を見せれば慰めるような仕草を見せる。その裏にあるものが見えてこないのだ。敵として見ればいいのか、味方として見ればいいのかもわからない
「私は遊んでるだけ。色んな状況でこころがどんな行動に出るのか試してね」
「じゃあ、今こうして慰めるようなことをしてくれてるのは?」
「これも遊びの一環。まあ、これでちょろいこころが私に信頼を寄せて、思い通りになりやすくなってほしいってのもあるけどね」
こいしの笑みが深くなる。こころは背中に冷たいものが走るのを感じたが、恐怖はなかった。冷静に考えてみれば、こいしが言ったことはおかしいのだ。そうすることを狙っているのに、自分で言葉にしてしまっては本末転倒だ。
だから、こいしの行動の裏には何かがあるのだと思う。しかし、その何かを具体的なものとして思い描くことはできない。
「玩具が難しいこと考える必要なんてないよ。何にも考えず、ただただ私を楽しませてくれさえすればいい」
こいしの手が苦悩を浮かべた面を優しく奪い取り、無防備にさらされたこころの頭をより一層柔らかな手つきで撫でる。しかし、それに反してこころが抱くのは、安心とはほど遠いものだ。
「あなたたち、他人の家でいちゃついてるんじゃないわよ」
二人の間にアリスが割って入ってくる。彼女の手には何もなく、こころが少し顔を傾けてみると、不機嫌そうな様子でクッキーをかじるメディスンの姿が見えた。どうやら、言葉巧みに誘導するなりして押しつけたようだ。
「いやいや、ただ単に私の玩具にその在り方を教えてあげてただけ。私といちゃつこうだなんておこがましい」
「ちょっとこいしの行動に気になるところがあったから問いただしてただけ」
二人の答えは一致していなかった。しかし、互いにそれを訂正させようとはしない。お互いの主観ではどちらも真実なのだ。
「ふーん。まあ、何だっていいけど」
そして、アリスはアリスで早々に興味を失ってしまう。どちらかが少しでも照れるような様子を見せれば、からかうつもりだったのかもしれないが。
「それよりも、どうしてあなたたちはあの子と一緒になって、家の中を覗いてたのかしら?」
こころとこいしの正面に座り直しながらそう問う。事情を聞かずに許してしまうほどお人好しではないようだ。
「面白そうだったから」
「こいしに誘われて、その成り行きで」
「へぇ、じゃあ、大した理由があるわけでもないのに人様の家の中を覗いてたってわけなのね」
「ご、ごめんなさい……っ」
アリスの声が冷たくなったのを聞き取ったこころは、慌てて謝罪を口にする。
「まあ、見逃すって言っちゃったし、今回は許してあげるわ。私に対して不実なことをすればどうなるかってのは、見てわかってるでしょうし。身体に教え込まないとわからないほど、物分かりが悪いというわけではないのでしょう?」
こころはこくこくと何度も頷いて、二度と同じことをしないということを示す。公開処刑の効果が如実に現れている。
「人形に対して不実なことをしているあなたには言われたくないわ!」
処刑の対象となっていたメディスンが、少しも怯んだ様子を見せずアリスの言葉に横から噛みつく。メディスンの中では、アリスは自身の主張の真逆の位置に存在するものとなっていて、その反発心はそう簡単には折れたりしないようだ。
アリスは笑みを浮かべてこころの頭を撫でると、再度メディスンと対峙する。
こころはやたらと撫でられる自分の頭を不思議そうに触れつつ、二人の方へと意識を向ける。
「前にも言ったかもしれないけど、私は自分の作った人形たちが何を考えているのか知らないわ。でも、私の目標は、人形たちに意志を宿すこと。だから、私なりの筋は通してるつもり。ま、エゴを押しつけてるだけって言われれば、反論できないのだけれどね」
開き直ったかのような態度だが、それは他者の意見を聞くつもりがないというよりは、自分自身にはどうしようもないといった諦めの類の開き直り方だ。別の意見があれば、しっかりと耳を傾けるだろう。
「そう言えば、前はこんなことも聞いたんだったわよね。人形にとっての幸せとは何?」
「そんなの、人形を使う人間や妖怪から解放されて自由になることに決まってるじゃない」
それを言葉にすることに迷いはないようだったが、視線は泳いでいる。
「そんな答えじゃあ納得できないとも言ったわよね。幸せへの過程にそれはあるのかもしれないけど、それじゃあその先は? 自由になって、それではいお終い、とはいかないわよね? 私はあなたが出す答え、結構楽しみにしてるのよ? 人形から直接話が聞けるなんてこと、滅多にないんだから」
「人を実験道具みたいに言わないで」
アリスの言葉へ答えない辺り、メディスンは答えを持ち合わせてはいないようだ。視線が泳いでいたのは、こうなるのがわかっていたからだろう。しかし、それを素直に認めてしまうのも癪なようで、答えの代わりにアリスの態度を批判する。
「うんうん、言い返すくらいはできるようになったようね。成長はしているようで何よりだわ」
アリスの余裕の態度が気に入らないようで、メディスンはうなり声を上げている。しかし、アリスはそれを全く気にしていないようだ。
「捨てられた人形と人形遣いって仲が悪いんだねぇ」
「うーん……、メディスンさんが一方的に嫌ってるだけで、アリスさんはむしろ気に入ってるような気がするけど」
「でも、仲がいいとは言えないでしょ?」
「うん、まあ」
蚊帳の外に追いやられた二人は、暢気な様子でそんなやり取りをするのだった。
◆
アリスの家からの帰路。こころとこいしは並んで歩いている。
あの後、結局メディスンは逃げ出して、こころたちはその背中を追うことにした。追いついた後は、情けない姿を見せてしまったことに対して居心地が悪そうにしていたが、なんとか立ち直ることは出来たようだった。
先ほどまでは、メディスンも一緒だったのだが、途中で「あなたを諦めたわけじゃないわ」と言う捨て台詞を聞かされながら別れた。
「どうだった? 今日の観察は」
二人きりになってから会話一つなかったのだが、不意に口を開いたこいしがこころへとそう聞く。
「えっと……、ちょっと待って」
こいしに話しかけられないので一人ぼんやりと今日のことを思い返していたこころは、慌てて意識を人と話すためのものへと切り替える。
「……こう言うのはメディスンさんに悪いけど、貴重なものを見ることができたと思う。その場の成り行きで怒りを見せるっていうのは時々見かけるけど、常にあるものに対して怒りを見せて、それを行動の指針にしてるっていうのはなかなかいないから」
「ふぅん。見習おうとか考えてるの?」
こいしの問いに、こころは首を横に振って答える。面に浮かぶのは羨望の色。
「ううん。でも、あそこまでして押し通したい主張があるっていうのは、ちょっと羨ましいと思う。まあ、主張じゃなくても、アリスさんみたいにやりたいことがあるっていうのも羨ましい。今の私は、感情と表情を結びつけるのでいっぱいいっぱいだから、そこまで考えてる余裕はないし」
「それも十分、やりたいことの範疇に入るんじゃないの? 別に他人から言われて、嫌々やってるようにも見えないし」
「なんとなくだけど、私のやりたいことと憧れてる人たちのやりたいことは違う気がする。んー……」
そう言って、自分の中にあるものを言葉にまとめるために考え込む。火急速やかにどうにかすべき事柄でもないから、漏れ出てくる声は間の抜けたものではあるが。
「私がしてるのは、他の人たちがすでに踏み越えてる始まりを踏むためのことだから、かな? それに、そうしないとまた迷惑をかけるかもしれないし」
「ふむ、他の人たちは自分のため、もしくは自分を高めるために努力してるけど、自分は欠陥を直すためであり、かつ他人のために努力してるから違う、と」
「そうそう、そんな感じ。メディスンさんは、主張を通した後にやりたいことを聞かれてたけど、私はそこまで全然たどり着けてない」
こいしのより普遍化された言葉に、こころはこくこくと頷く。こころはそれらのことを事実として受け入れ、改善しようとしているので、そこに卑屈さといったものはない。
「でも、こうして色んな人たちと関わるのも楽しいから、目的を達成しても続けていくかも」
「なら、それをそのままやりたいことにしちゃえばいいんじゃない?」
「それはそのときに考えることにする。色々な人と関わってる内に、何か見つけられるかもしれないし」
そう言うこころの声は希望に満ちて弾んでいる。相変わらず無表情だが、楽しげな表情の面によってどことなく笑みを浮かべているように見えなくもない。それくらい、今の彼女の感情は素直に表に出てきている。
「ふぅん」
こいしの声はこころの先に興味を持っているようでもあり、持っていないようでもあった。こころとは対照的に感情の込められていない声からは、何も判別することはできない。わざとらしく澄ました顔だけが、何か隠しごとをしているように見せている。
「ねえ、こいしはほんとに私で遊んでるだけなの? さっきは真面目に私の問答に付き合ってくれたし」
こころはこいしの表情を見つめながら首を傾げる。確かに、茶化すような真似をして楽しんでいる様子はあるが、それで投げっぱなしという感じでもない。こころがメディスンの様子を見て罪悪感を抱いていたときも、慰めるようなことをしていた。メディスンに対しては、煽るだけ煽ってその後は何もしなかったというのに。
「知的な私の遊戯をこころが理解できっこないって」
こいしは足を止めて、煽るようにそう言う。
しかし、こころはそれくらいで逆上して話を有耶無耶にしてしまうほど短絡的ではない。足を止めて、こいしよりも前に出た分だけ振り返って、感情の読めない顔をじっと見つめる。
こいしはそれに挑み掛かるかのように、こころとの距離を詰めてこころの目尻に指を当ててつり上げる。それは、メディスンが浮かべていた怒りの表情だ。
「むぅ……」
こころはこいしのその行動を誤魔化すためのものだと解釈して、不満そうな声を上げる。こいしによって作られている表情には、全く合っていない声だ。
「あははっ、怒ってるのに声は間抜けっ」
こころの疑問を吹き飛ばすように、こいしは快活な笑い声をあげる。
しかしそれは、より一層こころに疑問を抱かせてしまうだけなのだった。