吸い込まれたくなるような澄んだ青い空の下、神社には古びた箒が地面を擦る音だけ。
最近は大それた異変はなく、霊夢は清々しさを満喫しつつ掃き掃除をしていた。
一通り掃き終わったら、縁側に座って淑やかに過ごそうか。頭の中に茶と茶の子の饅頭を浮かべ参道の辺りに移動する。
貰い物の饅頭があり、渋目のお茶と小皿に乗せた饅頭とゆっくり食べるのが霊夢のマイブームだった。
参道には神の道にそぐわぬ皺の寄った新聞が落ちていた。
霊夢は不思議そうに見つめるが昨日魔理沙がキャベツを新聞にくるんで持ってきてくれた事を思い出す。
拾い上げるとインクと微かに葉物の匂いがしてその時のものと確信させる。ついでにと記事を見てみると、三日前の新聞だったが、霊夢は記事の内容に些か興味が湧いた。
里では今、新聞で遊ぶのが流行っているらしい。なぜ流行ったかというと、処分に困った紙が多いからだという。もっとも、その処分に困る紙というのが天狗の新聞大会でばら撒かれた新聞だったと。
上手く正方形にして、昔ながらの紙鉄砲や兜を作って遊ぶ子供がいたり、ただ単に巻いてチャンバラする元気溢れる子供がいたり。記事はそんな遊び盛りの子にインタビューした、という内容。
でも果ては硝子掃除やら、油捨てに便利、という明らかに子供じゃない意見も目につく。
何とも締りのない話でもあるが、天狗の社説によれば。
──我々の新聞が、紙の名を問わず活用されているという意味では、これほど嬉しい事はない。──
読んだ後の物使ってるのだろうけど、嬉々としてこんな事書いて良いのだろうか。
魔理沙が新聞に包んで来たのも要らない新聞だったのかな。霊夢は微笑ましい里の異変に少し気を緩めつつ、新聞は折り畳むと後で捨てようと参道の端に置いた。
天狗の新聞大会は丁度一昨日辺りに落ち着きを見せ始めた。
実際に終ったのは二週間ほど前だが、その盛り上がりは大抵後を引き号外が闇雲に出て配られる。
大会の終わりを記事にすることで初めて大会は落ち着いた過去の物へと推移していくからだ。
今回は前回が派手で苦情が相次いだことから、比較的落ち着いた新聞大会だったらしく、その分人も新聞に対して遊び心を持って接する事が出来た。
「ひゃあっ」
ぼんやり箒を動かしていると奇妙な声がして霊夢は空を見上げた。陽の光に思わず手をかざしつつ見えたのはひらひらと舞う影とその中に大きな影が一つ。
直後大量の紙と共に人が一緒に落ちてきた。本当に人だったら神社が鈍い音と共に赤く汚れたかもしれないが、幸い人の姿をしているだけで人ではない。
「いたた、まったく何なんですか」
落ちて来たのは紫の髪に、やたらとフリルが揺れ羽衣を纏う永江衣久だった。
「それはこっちの台詞なんだけど、勝手に神社に落ちてきて、折角掃除したのに土埃が舞う」
霊夢が寄ると、衣久は帽子の上から頭を数回撫でてからよいしょと起きあがった。
「これは失礼しました……っていつぞやの巫女でしたか。ちょっと空で何かにぶつかってしまいまして、申し訳ない」
衣久は深々と頭を下げる。
「まあいいけど、早く散らばった紙集めないと、風で行方不明になるわよ」
紙を舞い上げる程度の風は吹いていて、落ちてきた紙は気ままに飛び始めていた。
「ああっ! そうでしたそうでした!」
慌てて周りに散らばった紙をかき集める衣玖を横目に、霊夢も側にあった紙の束を拾い上げた。
少々かび臭い和紙には人とも魚とも付かない奇妙な生き物が描かれている。首より上だけの所謂日本の人魚の様な格好だが、胴体がまるで蛇というか竜というか妙に長くて不気味だ。
描かれていた奇っ怪な生物に霊夢が頭をひねっていると衣久がそれに気づき、照れ笑いした。
「すみません、実は天界の資料を倉庫に移している最中だったんですが……」
「ふーん、天界も大変なのね」
霊夢が資料と言われた紙を差し出すと、衣久は全ての紙の束を纏めて重ねると紐で十字で縛る。羽衣を少し手で整えてから抱えた。
「いやはや、お恥ずかしい所をお見せしました。お礼と言ってはなんですが……」
「もしかして龍宮城に連れてってくれるとか?」
「それはちょっと。ただ、気になる事を報告しておこうかと。幻想郷で悪い空気が出ているようです」
「悪い空気?」
「本当に微量で消えるか育つか分かりませんが、気にかけるに越したことはないでしょう」
「気にかけるって言ってもね。空から竜宮の使いが降ってくる様な時世に……」
失態を恥じたのか少し顔を赤くして衣久はふわり浮かんだ。
「まあ気になっただけですよ。ありがとうございました」
そのまま天へと飛んでいった。ぽつんと残された霊夢は再び箒を動かし始める。
悪い空気、というのを頭の片隅に霊夢が参道を掃き終わった頃、今度は二つの影が降りて来た。
大して珍しくもない魔理沙と早苗。だが、早苗は何故か新聞紙の兜を被っていた。
「よう、遊びに来たぞ」
「私も遊びに来ましたよ」
「何その頭」
「流行ってるらしくて、里の子供にもらったんです。似合ってますかね?」
冷ややかに聞く霊夢に、早苗は満面の笑みを見せる。
「なんかつよそう」
「雑な感想だな」
「私は本当に強いですけどね!」
「今日は一人でゆっくりしようと思ってたのになあ。……今集めた塵を片してくるから。ちょっと待ってて」
参道の脇に寄せていた塵芥を箕に入れて捨て場に運んだ。新聞もクシャクシャにした。
これじゃ被れる兜を作るには足りないな、等と思いつつ戻ってきた霊夢は縁側で話し込んでいた二人に加わる。
早苗はまだ新聞紙の兜を被っていた。
「何の話?」
二人とも悩ましそうな顔をしていた。
「今日変な妖獣みたいなのを里の近くで見たんですよ」
「咲夜もそんな話していてな。それに近い物を私も見て……少し怪しいと思っているんだが、霊夢の所には何か来ていないか?」
「うーん、私の所に来たのは竜宮の使いだけだけど。どんな奴かしら」
「私が見たのはだな―――って、居た! あいつだ!」
身を少し乗り出して話す魔理沙は不意にそう言うと神社の境内の隅の方を指さした。早苗と霊夢は弾かれたようにその先を向く。
霊夢が見たのはイタチ程の大きさの動物で、見た目も犬の様な狐のような、何とも言えない出で立ちの獣だった。
走っている姿が見えただけだったが、何故か胴が黄色という不自然な配色が見えた。気がした。
怪動物はそのまま走って茂みに突っ込み姿を消す。見えなくなってもがさがさという音が聞こえ、徐々に神社から遠ざかりやがて音も消えた。
「……今の?」
音が完全に聞こえなくなって、霊夢は二人にぽつりと聞いた。
「そうです、あの狼みたいな」
「いや、あれは狐っぽいだろ?」
「私は鼬みたいにも見えたけど」
三人で顔を見合わせて、首を傾けた。早苗の兜がぽろりと落ちて、あわてて被りなおす。
姿形が釈然とせず三人は今一つ腑に落ちない。でもそう言われれば狼のようだったし、狐のようだし、鼬にも思えた。
「確かに普通の動物じゃなさそうだけど、動き回って姿を見せるだけなら相手する必要も無いんじゃないの」
「まあな、話の通じない動物を捕まえるのは大変だし」
「うーん、何だか少し気になるんですけどね」
妖獣なんてのはちらほら居る。見たのも殆ど刹那的で、怪しけれども、今回はともすれば幻覚ではないかという位の獣。
それに対し危機感が煽られるわけでも興味を引かれるわけでもない。特に大それたな話になることの無いままその日は解散した。
ところが、五日経つと事態は確実に表面化していた。
「魔理沙? 生きてる?」
霊夢は魔理沙の家を訪ねた。此処最近、伝染する病が流行っているという話題で里は持ちきりだ。普段見る人を見ない時は病に伏せっているという。魔理沙や早苗もまた霊夢の周りから姿を見せなくなっていた。
魔理沙は五日前まで連日顔を合わせていたのに、急に五日も姿を見ないのに不安を感ぜざるを得ない。
五日程度なら当たり前とも考えたが、霊夢は事態を現認するために魔理沙の所に来たのだ。一向に待っても返事はなく、霊夢は恐る恐る扉を開けた。
すると
「おう、どした……」
魔理沙は奥の寝床で毛布にくるまり、明らかに具合が悪そうな、乾いた声で応答した。
「無事、でもなさそうだけど生きてて良かったわ」
「こんな所で死んでたまるか、それより流行病らしいから、あんまり来ない方が良いぞ……」
「魔理沙が掛かってるなら私も手遅れの気がするし、でも私はまだ平気みたい。医者の所には行ったの?」
絶望的に体調が悪いというわけでは無さそうな魔理沙に、霊夢は少し安堵した。
「んー、よし今からいく。どっこいせ」
霊夢が寝床の方に寄って行くと、魔理沙は散歩でも行くかという声色で何故か布団の中から箒を取り出した。霊夢が驚くのを後目に窓から外に出ていく。霊夢が慌てて追うと、魔理沙は空でも当然元気が無くふらふらと飛んでいた。
呆れて霊夢は横に並び声をかける。
「何してるの? 病人は寝てなさいよ。移るんならあんただけの問題じゃないんだからね」
「分かってるって。さっさと竹林に行こう、あっちなら人は少ないし平気だろう……。霊夢も気づいているだろうが、やっぱり前に見た奇妙な動物が怪しい……。里でも獣を見た後に病気になったって奴が居たんだ。あの時は偶然かと思ったが……でも病気のことは医者に聞くもんだ、手がかりを探す為にも寝てる場合じゃない」
「うーん、確かにあいつは怪しかったけど……。今回はあんたは寝てても良いわよ。前に病気が流行った時よりも具合悪そうだし」
魔理沙は帽子を深めに被り直し、時折休むように数秒目を閉じる。
「まだ読んでない本もあるし、死にはせんから安心してくれ」
ふてぶてしい魔理沙に軽く吹き出しつつ、霊夢も永遠亭に行くことは悪くないとも考えていた。
治療の腕は確からしいので寝てるよりも寧ろ良いかもしれない。結局魔理沙と共に行くことにした。
早速永遠亭に着き、息切れくたびれている魔理沙に代わり霊夢が適当な兎に病人が居ると話す。
すぐに永琳の所に案内された。二人が廊下をひたひた歩き、襖を開けると永琳は机で紙の袋に薬を入れている。
袋の口を三回程折ると霊夢達の方に向きを変える。呆れたような声で霊夢に聞いた。
「最近話題の流行病の話かしら?」
「話が早くて助かるわ。魔理沙も掛かっちゃったんだけど、動きが鈍くなってるから直しといて」
「そんな故障品みたいに言うなよ……」
「そうよ、欠陥品の間違い」
「お、お前等……病人を労るとかそういう気持ちはないのか」
魔理沙が辛いのか怒っているのか息も絶え絶えに言葉を漏らしている。
「完璧じゃない方が普通って事よ、病人が自力でこんな所来るもんじゃないわ」
「まったくね。それで薬みたいなのはあるの?」
「今流行ってる病の特攻薬は材料が貴重であまり出せないのよ。でもこの病は対処がしっかりしていれば死ぬ事はない」
永琳は言いながら薬の袋を軽く揺すった。
「そうか、一安心かな。それでこの病気は何なんだ……熱は出てないんだが、吐き気とおなかの調子が悪くて適わん……」
「コレラでしょうね、その症状も間違いないわ」
「はぁ、コレラなぁ……具体的にはどうすりゃ直る」
立って聞くのが辛くなった魔理沙はその場にへたり込むように座った。
「コレラって昔流行った病気よね。死人も多かったんじゃないの」
「症状の下痢や嘔吐が激しく出て脱水症になると死に至ることもある。とはいえさっき言った通り掛かったら確実に死ぬような物ではないの、そこまで酷い症状の人はまだ居ないみたいだし。
ただ今回は治した後にすぐ再発したりしてね、どうやら原因が特殊だから治ってもそのまま終わるかどうか……」
それを聞いて魔理沙と霊夢は顔を見合わせ頷く。
「やっぱりあの動物は怪しい。妖獣が病の源泉なら再発するのも頷けるし……心当たりはあるから私が捕まえてくるわね」
早速部屋を後にしようと霊夢が踵を返すと、魔理沙がそれを引き留める。
「まて、私も行くぞ」
「医者に見てもらうって言ったじゃないの」
「さっきからじろじろ見られてるし、薬も一応あるんだろ?」
魔理沙は重々しい動きで永琳の持つ薬を指さす。それを見て永琳はやや冷たく笑った。
「しっかり水分取って大人しくしてないと快復しないないわよ。変に無茶する馬鹿に付ける薬はないし」
「ほら、大人しくしてろってさ」
すかさず霊夢がバンバンと魔理沙の両肩を叩く。
「何か普段より酷いこと言われてる気がするぞ」
「病人にこそ容赦しないのが医者って物よ」
「今回は私に任せなさい」
霊夢は手早く部屋を出て、笑顔でじゃあねと襖から覗くように加えた。
名残惜しそうにする魔理沙を襖で隔て、怪動物を捕える為に永遠亭を出た。
「と言っても手がかりがある訳じゃないのよね」
里に出た霊夢は早速手をこまねいていた。あの動物が犯人なら確実に里にも来ているはずと踏んだが、行き当たりばったりで見つかるはずもない。
困り果てた霊夢は村人の会話に耳を傾けてみる。
「やっぱりコレラの話ばっかり」
井戸端会議も道行く人の話も殆どコレラの話ばかり。
ようやく聞けた関係ない話は、有害インクを使用した新聞があり、新聞で折り紙やら遊んだりするのは全面禁止されたという話だった。
微笑ましい子供達から、兜でも貰えないかと密かに期待していた霊夢はほんの少しだけ残念に思う。
魔理沙にもらった野菜が大丈夫かも心配に成ったが、もう幾らか食べているので気にするのは辞めた。
では代わりに何をしているのかと言うと、今は子供ですら病気の話をしていた。
勿論コレラという名前は出ていないが……誰も彼もみなコレラを恐れ、また話にする事でその恐怖を共有している。
霊夢はそんな里の状態に焦燥感を煽られた。
しばらく歩いていると霊夢は見知った後ろ姿ならぬ耳を見つける。薬箱を背負った永遠亭の鈴仙だ。
鈴仙は里の地図を見ながら長い兎の耳を揺らしていた。霊夢は横に並び歩幅を合わせ、挨拶もしないで聞く。
「儲かってるかしら?」
「まあ、残念ながらね」
意地の悪い質問に鈴仙は顔を上げ苦笑いを浮かべた。
「薬は貴重で数が出せないってあんたのとこの医者は言ってたけど……」
「薬とまで行かなくとも摂取しやすい水と、対処法を軽く教えて上げてるの。元々うちは置き薬主体だけど、今は急遽ね」
「ふーん、でもそんな事してたらあんたが掛かるんじゃないの。余計広めたりしてないでしょうね」
「獣の類はあまりコレラに掛からないってお師匠様が。それより貴女が掛かってない方が意外かも、緑の巫女や紅魔館の人間メイドも掛かったって噂だったから」
早苗達も掛かっていたのか、やっぱりあの動物を見た人は掛かりやすいのだろう。事は急くべきだと霊夢は改めて認識した。
「これ以上広がらないならいいけど……私は病には詳しく無いから、流行具合が読めないのよね」
「感染の予防についても薬師達に教えているし、これだけ伝染病だって噂が立てば表に出てくる人も減って被害も徐々に落ち着くんじゃない。元々平気だっていう人も居たし」
「元々平気?」
「詫び状や件《くだん》の絵を持ってるからうちは平気だって人も居て……私は呪術とかは詳しくないけど、病除けなんでしょ」
「確かに病除けではあるけど……」
詫び状……もしかして疫病神の詫び状? 霊夢は疑問に思う。
疫病神を倒したり夢で直接話したりすることで得られる誓いの書が疫病神の詫び状だ。この家には悪さしない、または目印を授けその目印が居るところには入らないという契約を取り付ける。そうすると病人は忽ちに復し、以後病には見舞われる事は無いという。
でも今回は効くだろうか? 詫び状は文書という性質から人型の疫病神が書くものであるし、その疫病神より格上の疫病や、派閥が違えば当然意味は無い。今回は原因が妖獣だから望み薄だ。
件の絵の方も確かに厄除けだ。頭が人間で身体が牛という奇妙な生き物である件は凶作、疫病、干魃、と何でもござれの凶事の前に出てきてその凶事を予言するという。
皿にその姿を写し絵として持っていれば難を逃れるという。もしかしたらこっちは効くかもしれない。
写し絵でも良い為、凶事があるとしばしば注目されるのだが、何故かこの手のものは大抵病が流行り切った後に流行る。
それだともう遅い。今回はもう流行らせるには間に合わないだろうが、しっかり持ち続けて信仰していた人には恩恵があって然るべきだろう。
そういえばこの手のものにも種類があるが……。
「一応症状が酷い人には薬も売るつもりだから、死人は出ないわよ、安心して」
「治療は任せるにしても、予防はしなくちゃね」
まだ行ってない方があるからと言い鈴仙は道を曲がって行き、別れた霊夢は再び情報収集を試みる。
暫く耳を傾けると怪動物を見かけたという情報も既に広まっている事が分かった。狼みたいだとか、狐みたいだとか、狸みたいだとか、そんな動物だという噂があちこちで聞こえた。
きっとあいつが病を流行らせているに違いない。これは由々しき問題ではないか。そんな声もあり、恐怖と共に怒りの色も見える。
しかしその会話の食い違うシルエットが浮かんでいるのは何故か。
「狼とか、狐とか、狸とか、いくら何でも同じ動物を見た感想に思えないけど……」
霊夢は歩みを止めてその場で手を組み考えてみる。
そういえばあの時、最初見た時も釈然としなかった。
早苗と魔理沙と私で別の動物を挙げて、その時は一瞬だしそんなもんだろう、と。しかし私たちだけでは無いのか。
妖獣というのは基本的に元が分かるような形状の筈だ、本質的に全く別の物に成るというわけではない。
それなのに何故か里の人は皆明確にどの動物だという話はしていない。
実際には出来ないのが正しくて、自信が無いのだろう。だからこそどの話も完全には否定されずに残っている。
つまり本当は全て当てはまる奇怪な動物で……そこから自分の理解できる形の物を当てはめて話にしている。が、そんな動物は存在するのだろうか。
うん? そういえば前にもこんな話を聞いたことがあるような。
霊夢はふと空を仰いだ。そうだ、こんな青空の日に飛倉が別の物に見えた事があったじゃないか。
ぱっと理解できない物をそれっぽいと思った別の物に姿形を変えてしまう。
「あれは――」
鵺の力だ! 霊夢は考える前に確信し命蓮寺へと走り始めていた。
「たのもー!」
言いながら霊夢は命蓮寺の塀を飛び越える。目的の妖怪はのんきに屋根の上で霊夢に背を向けて横向きに寝っ転がっていた。
霊夢の声に気が付き起き上がって向けた顔には瓦の跡がくっきりと頬に残っている。
「うるさいな! 人の昼寝を邪魔するな、門はあっち!」
ぬえは指と口を尖らせてしきりに命蓮寺の門を指す。
「私はあんたに用があるのよ、良くも里をこんなにしてくれたわね」
「あー? 何だ巫女だったのか……」
「寝ぼけてるの? さっさと白状しなさいよ」
霊夢は瓦の上に降りるとわざと音を立てて歩き、鵺の元まで寄った。
「ちょっとちょっと、何の話?」
「流行病の事にきまってんでしょ!」
ぐいぐいと迫る霊夢から逃げるように、ぬえは四肢を駆使し後ずさる。
「わ、私を疑ってるのか? 私はこんな闇雲に病気流行らせたりはしないの。もっと尊き人を苦しめるのが、ぐっとくるよね?」
「知らないわよ。里の人が狼だか狐だか狸だかって一向に正体がつかめない動物見てるの。あんたの仕業に決まってるじゃない」
「違うって。そいつは虎狼狸の仕業だよ」
「ころり?」
霊夢が首を傾げるのを見て、ぬえはゆっくりと身体を起こす。そのままあぐらをかいて屋根から命蓮寺の敷地を見下ろした。
「そ、虎の頭に狼の上半身、それに狸の下半身を持った妖怪」
「あんたの仲間にしか思えないんだけど。それも正体不明の種とやらで化けてるんじゃないの?」
「虎狼狸は幻想郷の結界ができるちょっと前位の妖怪だ、だから私はそんな詳しくない。
でも原因不明で一世風靡した病が虎狼狸に姿を与えたのは間違いないだろうから、似たような力はあるかもね。里の奴らは別個の単一動物を挙げているんでしょ。相変わらず進歩しないねぇ」
どうやら当てが外れたらしい。霊夢は額に手をやりうなだれる。
「あんたじゃないなら余計に面倒だわ、何処にいるか分かったもんじゃない」
「里は流行病にあったときどうしてたのさ、今まで全くなかったって事も無いだろう」
「前は身代わりの犯人を仕立てて封じたけど……今回は実体として里の人が見ちゃってるから、どうにか虎狼狸を晒し首にでもしないと……」
物騒な言葉が引っかかり、ぬえは冷ややかな目で霊夢を睨んだ。
霊夢は怯むことなく睨み返した。
「……本気でいってるの?」
「まだ寝ぼけてる? 里は人間の安全領域。例えまだグレーだとしても、人間が死んだら里を妖怪が襲ったに等しいじゃないの。被害がもしも拡大するようなら、遅かれ早かれ力を持った妖怪達も黙ってないわよ」
「そうかぁ……やっぱりどっちにしろ地下に押し込められるのは決定か」
ぬえは気が抜けたようにぼんやり言うと、再びがちゃっと寝ころんだ。
「というわけで自力で捕まえなくちゃ、あんたは騒ぎ起こさないで大人しく寝てて」
「待った。捕まえるなら良い手があるよ」
屋根から再び飛ぼうとしていた体を、霊夢はどうにか止める。
何でそんなこと教える気になったのか、不思議に思いつつも、ぬえの言葉に食指を動かさずには居られない。
「聞くだけ、聞いとくけど……」
ぬえはニッコリと笑った。
「こんなもんで本当に捕まるのかしら」
霊夢は里のいくつか見通しの良い辻に皿を置いた。皿にはぐったりした鼠が横たわっている。ぬえの言った良い手というのが只単に罠を仕掛けろという事だった。
あまりにヘンテコで疑ったが、どうやら正体はあくまでも獣と考えた方が良いらしい。それなら説得力が無くもない。
何を食べるのかよく分からなかったが、虎も狼も狸も食べそうな鼠を置いた。そして宙に浮かんで空から里を見守る。
先ほどと打って変わって里の人はあまり外出しなくなっていた。人から人に移り、怪動物が原因でそれが徘徊しているかもという話が流布していれば、当然だ。
それと同時に里中に虎狼狸の恐怖が知れ渡っているという事でもある。
人もまばらな里を霊夢が見定めるように里を俯瞰していると、物陰からさっと動物が飛び出すのが見えた。目を凝らしてみる。確かに頭が虎で上半身が狼、下半身は狸の怪獣だった。
まあ鵺の様な力があるなら本当の姿がこれなのかは分からないが。正体を聞いていた風に見えたのだから当たりだ。
しかし思ったより大きくない。少し拍子抜けしつつも、大きさ自体はごまかせないのかもと霊夢は一人納得した。
一息飲んでそのまま急降下で虎狼狸に近づく。すかさず懐から御札を取り出し構えた。
「よくも里で暴れ回ってくれたわね! 御用よ虎狼狸!」
霊夢は狙いを定めて三枚の札を落下の勢いに乗せて放った。当の虎狼狸は頭上からの声に体をこわばらせその場で動きが固まる。札は虎狼狸めがけ真上から刀の一振りの如く押し迫った。
もう避けられまい、霊夢が討ち取ったりと思った瞬間――
「なっ、何すんのよあんた!」
何処からともなく現れたぬえが、間一髪という所で虎狼狸を抱え札の着弾点から逸らした。札は地面に叩きつけられて軽い破裂音が辻に響く。
「何って捕まえたんだよ」
「なら、さっさと寄越して」
「こいつをどうするのさ」
「晒し首は行き過ぎとしても……事態を収集させて貰うのよ、多少無理矢理でもね」
ぬえは虎狼狸を抱き抱えたまま霊夢に身構える。虎狼狸は意外にも大人しく、霊夢とぬえとの間の張りつめた空気を物ともせずきょろきょろと周りを見回していた。
「それはつまり、病が流行りきった今、この里の状況を収集しろというのはこいつだけには荷が重いって事だろ」
「ちょっと時間が経ち過ぎたわね」
その通りだった。流行らせた張本人であるなら、恐らく病を幾分和らげることも可能だろう。
でももうそれだけでは済まない。病にすっかり怯えている人たちは、和らげ弱くなった病にも心が負けてしまう。
純粋に病に負けて元の木阿弥になってしまうだろう。だからこそ見て分かる虎狼狸の敗北が必要になる。
「ひとまず私に任せてよ。巫女が事前に防げばこんな事にはならなかったんだし」
「あんたに任せるなんて出来るわけ無いじゃないの」
霊夢は言うのと同時に痺れを切らして今一度御札を放った。
「逃げるのは結構得意なんで、悪いね」
ぬえは難なくかわすと、黒雲と光弾を出し、本人も光の玉のように姿を変えた。
霊夢がどうにか避けきると、もうぬえの姿は弾と雲に紛れて何処に行っているのか分からなくなってしまった。
「里の人間が治ればいいんだろ?」
何処からとも無くぬえの不気味な声が聞こえた。
「何考えてんだかあいつは……」
霊夢は仕方なくその場に残された罠用の皿を回収する。しっかりと鼠は無くなっていた。ちゃっかりした奴だと思いつつ頭を掻き里を後にした。
無論そんなことだけで諦めない霊夢は命蓮寺を始めぬえを探したが、その日見つけることはできなかった。
翌日。
神社でいざぬえ虎狼狸を捕まえんと、座卓で作戦を練っていた霊夢の元に、あろうことかぬえと早苗がやってきた。
驚きを隠せない霊夢をよそに、早苗とぬえはへらへらと胡散臭い笑いを浮かべていた。
「わざわざ出てくるとは思ってなかったわね。早苗は虎狼狸のせいで伏せってるってと聞いたけど……大丈夫なの?」
「大丈夫です。あ、これ快気祝いがてら……です」
「ありがとう、でもなんでそんな早く治ったのかしら」
饅頭らしい箱を受け取り霊夢が不思議がっていると、二人は楽しげに座卓を挟んで前に座った。
「この鵺がある紙を見せてくれて、それをみたら一発で治ったんです!」
満面の笑みで語る早苗にほら胡散臭いと心でつぶやきながら霊夢は聞く。
「紙? 御札でもつくったの?」
「じゃーん、これです」
早苗は目に入らぬかと言わんばかりに折り畳んで持っていたらしい紙を縦に広げた。ぴんと張った紙を霊夢はまじまじと読み上げる。
「なにこれ汚い字ね。早苗さんへ ごめんねもう来ません byころり」
そこにはミミズが這っている様な絵とも記号ともつかない辛うじて読める字が書かれていた。
早苗は霊夢が読み終わると再び折り畳んで懐に仕舞った。ぬえはそれを見て微笑み霊夢の方を向く。
「これで良いんだろう?」
「良いんだろうって、もしかしてこれ詫び状のつもりなの?」
「そうだよ、虎狼狸に書かせてみた。勿論本人の同意の上でだし」
「書かせたって、どうやって」
「虎狼狸の手に筆を巻き付けて、私が手伝ってね」
霊夢はがっくり呆れ返る。
「何それ、殆どあんたが書いたんじゃない」
「でも現に私は治りましたし。写しでも効くらしいので、里でも今朝から猛烈に流行ってるんですよ、虎狼狸の詫び状。すぐに治ったなんて人もいたとか」
「原本だってあれから沢山書いたんだ、だからもう里の人は大丈夫だよ」
早苗は自分も病に伏せた事など全く気にしていない様子で、意気揚々と話し、ぬえもそれに乗る。
確かに。詫び状を見ることによって里の人の心に安堵が芽生えるだろう。病を克服できるだろう。
しかし、霊夢は釈然としない。特にぬえの笑みは空元気の様に映る。だから問う。
「虎狼狸はそれで本当に良かったの?」
「……」
「詫び状なんて配ったら、もう誰も怖がってくれなくなるんじゃない。それは妖怪としていいのわけ?」
霊夢の問に、ぬえは引きつった笑顔を崩さない。
「確かに妖怪としてはもう終わりと言っても過言じゃない。あいつは神になれるような玉でもないし。ただ……私はそれでも良いと思うよ、そこも虎狼狸は納得した」
「え? そうなんですか、それはそれで寂しい気もしますね」
「寂しかないけど。あんたって妖怪の味方してるのかと思った。そうでもないのね」
ぬえは分かりやすくむっと顔を歪めたが、直ぐに元の顔に戻って目を伏せる。
「虎狼狸は好きで本人が化けてたんじゃないんだよ。里の人間の流行病に対する恐怖が里に偶々いた動物を虎狼狸に変えてしまっただけ。
人は犯人探しが大好きだからね。巫女が犯人をでっち上げなくたって、怪しい奴を犯人に仕立て上げた。
人は正体不明が嫌いなんだね、例えで害があろうが目に見える存在にして考えた。それが虎狼狸の本当の正体だ、だから……」
しばしの間に風が差し込み、ぬえの髪が少し揺れる。霊夢も早苗もぬえの言葉の続きを待った。
「私は別に味方でも敵でもないよ、虎狼狸には虎狼狸なりに幸せになって貰いたいって同胞の願いかな。恐怖や人間を糧に生きる妖怪は決して楽じゃない、特に病とかに関わる奴は幻想郷ですら除け者でその中でも流行る奴ときたもんだ」
「でも元々今の虎狼狸は只の動物だったんですよね? 始めに流行っていたのはあくまで病気って事じゃ……」
早苗は少し萎れたような口調で聞いた。
「そこが始まりでも、噂の流行を挟んで因果関係は逆転してしまうのさ。あいつはもう間違いなく病気を流行らす獣になってたよ」
「……じゃあもう普通の動物としても生きていけないんじゃないの」
「だから、本人の力に加えて私が正体不明の種を付けた。虎狼狸は基本姿を見せるだけだし、病を流行らすって行動も実は特別な行動が必要じゃない。
ひょんな事から病気が広がるかも、っていうのは心の底で誰しも理解しているんだ。だからありふれた行動しかしないし、その行動で虎狼狸だと分かることはないだろう。
ついでに虎狼狸が病をかけられるのは人間ぐらいな物だから、自然に生きるのも容易い」
「それで人間を恨んだりするんじゃないの、虎狼狸もあんたも」
「別にどうでもいいよ。私にしてみたら人間だって流行に振り回されてる哀れなやつらだ」
「あはは、良くも悪くも人間って流行には弱いかもしれませんね」
「新聞遊びも虎狼狸も同じだ。本当はつまんない物なのにさ、さも面白い物の様に語って、気がついたら流行ってて、気づいたら廃れてる」
「よく分かんない物こそ流行るの物よね、狐狗狸とかもそうだし」
「外の世界でも一時的に流行ったものは、何だか後から思うと不思議だったと思い返す多い気がします」
「ま、兎に角あいつは許してやってくれ、もう私は命蓮寺に帰るから」
そう言うとぬえは返事も待たずに空に飛び立った。
「行っちゃいましたね」
「里の方が元に戻るならいいけど……野生動物に混じった虎狼狸探すのも大変だろうし」
「ええ……そういえば、何で霊夢さんは虎狼狸の病気に掛からなかったんですかね」
早苗は自分で持ってきた饅頭の方をちらちらと見ながら言う。
そちらの方は霊夢自身見当が着いていた。衣玖が落とした人の頭と蛇体を持ったあの絵。
あの絵が疫病避けの力を持っていたのだと。
「それは……多分神社姫の絵を見ていたから」
「神社姫? 何ですかそれ、まさか自分の事を姫と……」
「違うわよ! 竜宮からの使いの一種で、疫病が流行るけど、自分の姿を写し絵にして見ると難を逃れて長寿を得られると言って人の前に出てくる生き物。
私は写し絵しか見てないけど、そういう瑞獣みたいな奴がいるのよ。人面と蛇体の人魚みたいな奴」
「へぇ……件みたいな感じですかね? ああいうのって本当に効果あるんですか」
早苗は頭を傾け姿を思い浮かべた。
「件よりも古いけどね。神社姫の写し絵も流行っていくらかの家では宝とされたとか……」
霊夢は鵺の去った空を見て思う。
思い返せば神社姫の紙を見たあの日、衣久は何かにぶつかったと言って落ちてきた。
それにぬえの言った「巫女が事前に防げばこんな事にはならなかったんだ」という言葉と、用意していたかの様な虎狼狸の詫び状を里に撒くという荒技。
衣久が落ちてきて、神社姫を見たのも偶然では無かったのかもしれない。
もし私が神社姫を流布らせていたら、虎狼狸はもう少し虎狼狸として生きていくことができただろうか。
でもそうすると、虎狼狸は病を流行らせる力を持ち続けただろう。誰もが神社姫を忘れた頃に虎狼狸が再び現れて、また神社姫も思い起こされる。
狭い幻想郷ならきっと流行は繰り返し、ある種の定期的な行事に成ったかもしれない。
それは冷静に考えれば恐ろしいことで、勿論私がそんな事をお膳立てする必要もない。
むしろ今回は上手く断ち切れて良かったと考えるべきだ。
ぬえの言うことが本当なら、流行の一番の被害者は他ならぬ虎狼狸なのだから。
早苗も霊夢の目を追って空を見たが、すぐに飽きて視点を降ろした。
「でもこれで決着ですよね」
「かしら。お饅頭食べる? お茶淹れてくるから」
それを聞いて早苗は楽しそうに笑う。
霊夢はいつもの様に濃い目のお茶を用意し、皿に乗せて出した。
二人は白い皮のありきたりな饅頭を普通に堪能する。
少し頬を綻ばせた早苗だったが、お茶をぐいと飲むと今度は顔をしかめた。
「なんかこのお茶ちょっと渋くないですか」
「……分かってないわねぇ、饅頭には濃いのがいいのよ」
「それにしても濃すぎですよ」
早苗はぶつぶつ言いながら、饅頭を口に含みちびりとお茶を啜る。
その様子を見て、何となく詰まらないと想った霊夢は反論しようとしたが、辞めた。
……今回は誰が悪かったのだろうか。
虎狼狸は流行病の原因は何かという噂話の末に、人が仕立て上げた妖怪だった。
それは病気と、流行への恐怖だったのかもしれない。
和やかな新聞遊びの流行が、紛れ込んだ有害インク新聞のせいで悪しき物に転化した。
盲目的でなく、流行り物にも的確な情報共有が必要と成った上で、正体不明の病が流行ってしまった。
だから里の人達は逸早く犯人を見つけたいと願った。これは誰が悪いとも言えない。
でも虎狼狸にしろ、新聞遊びにしろ、こじんまりとしていれば変に幕引く事には成らなかった筈だ。
流行は人の落ち付きを奪い、なんでもない事でも裏返ると凶事に成りかねない。得している奴もいるのだろうけど……。
そういう意味では件や神社姫だって流行らないほうが安心できる。
虎狼狸みたいな奴に振り回されるのはもう懲り懲り。
ここで早苗を納得させて広まったりしたら面倒。流行なんて自分の中にだけ有る位が丁度良いのかもしれない。
変わらぬ青空の下、変哲のない風に、いつもの神社。
霊夢が渋目のお茶を口を付けると、やっと一息付けた気がした。
最近は大それた異変はなく、霊夢は清々しさを満喫しつつ掃き掃除をしていた。
一通り掃き終わったら、縁側に座って淑やかに過ごそうか。頭の中に茶と茶の子の饅頭を浮かべ参道の辺りに移動する。
貰い物の饅頭があり、渋目のお茶と小皿に乗せた饅頭とゆっくり食べるのが霊夢のマイブームだった。
参道には神の道にそぐわぬ皺の寄った新聞が落ちていた。
霊夢は不思議そうに見つめるが昨日魔理沙がキャベツを新聞にくるんで持ってきてくれた事を思い出す。
拾い上げるとインクと微かに葉物の匂いがしてその時のものと確信させる。ついでにと記事を見てみると、三日前の新聞だったが、霊夢は記事の内容に些か興味が湧いた。
里では今、新聞で遊ぶのが流行っているらしい。なぜ流行ったかというと、処分に困った紙が多いからだという。もっとも、その処分に困る紙というのが天狗の新聞大会でばら撒かれた新聞だったと。
上手く正方形にして、昔ながらの紙鉄砲や兜を作って遊ぶ子供がいたり、ただ単に巻いてチャンバラする元気溢れる子供がいたり。記事はそんな遊び盛りの子にインタビューした、という内容。
でも果ては硝子掃除やら、油捨てに便利、という明らかに子供じゃない意見も目につく。
何とも締りのない話でもあるが、天狗の社説によれば。
──我々の新聞が、紙の名を問わず活用されているという意味では、これほど嬉しい事はない。──
読んだ後の物使ってるのだろうけど、嬉々としてこんな事書いて良いのだろうか。
魔理沙が新聞に包んで来たのも要らない新聞だったのかな。霊夢は微笑ましい里の異変に少し気を緩めつつ、新聞は折り畳むと後で捨てようと参道の端に置いた。
天狗の新聞大会は丁度一昨日辺りに落ち着きを見せ始めた。
実際に終ったのは二週間ほど前だが、その盛り上がりは大抵後を引き号外が闇雲に出て配られる。
大会の終わりを記事にすることで初めて大会は落ち着いた過去の物へと推移していくからだ。
今回は前回が派手で苦情が相次いだことから、比較的落ち着いた新聞大会だったらしく、その分人も新聞に対して遊び心を持って接する事が出来た。
「ひゃあっ」
ぼんやり箒を動かしていると奇妙な声がして霊夢は空を見上げた。陽の光に思わず手をかざしつつ見えたのはひらひらと舞う影とその中に大きな影が一つ。
直後大量の紙と共に人が一緒に落ちてきた。本当に人だったら神社が鈍い音と共に赤く汚れたかもしれないが、幸い人の姿をしているだけで人ではない。
「いたた、まったく何なんですか」
落ちて来たのは紫の髪に、やたらとフリルが揺れ羽衣を纏う永江衣久だった。
「それはこっちの台詞なんだけど、勝手に神社に落ちてきて、折角掃除したのに土埃が舞う」
霊夢が寄ると、衣久は帽子の上から頭を数回撫でてからよいしょと起きあがった。
「これは失礼しました……っていつぞやの巫女でしたか。ちょっと空で何かにぶつかってしまいまして、申し訳ない」
衣久は深々と頭を下げる。
「まあいいけど、早く散らばった紙集めないと、風で行方不明になるわよ」
紙を舞い上げる程度の風は吹いていて、落ちてきた紙は気ままに飛び始めていた。
「ああっ! そうでしたそうでした!」
慌てて周りに散らばった紙をかき集める衣玖を横目に、霊夢も側にあった紙の束を拾い上げた。
少々かび臭い和紙には人とも魚とも付かない奇妙な生き物が描かれている。首より上だけの所謂日本の人魚の様な格好だが、胴体がまるで蛇というか竜というか妙に長くて不気味だ。
描かれていた奇っ怪な生物に霊夢が頭をひねっていると衣久がそれに気づき、照れ笑いした。
「すみません、実は天界の資料を倉庫に移している最中だったんですが……」
「ふーん、天界も大変なのね」
霊夢が資料と言われた紙を差し出すと、衣久は全ての紙の束を纏めて重ねると紐で十字で縛る。羽衣を少し手で整えてから抱えた。
「いやはや、お恥ずかしい所をお見せしました。お礼と言ってはなんですが……」
「もしかして龍宮城に連れてってくれるとか?」
「それはちょっと。ただ、気になる事を報告しておこうかと。幻想郷で悪い空気が出ているようです」
「悪い空気?」
「本当に微量で消えるか育つか分かりませんが、気にかけるに越したことはないでしょう」
「気にかけるって言ってもね。空から竜宮の使いが降ってくる様な時世に……」
失態を恥じたのか少し顔を赤くして衣久はふわり浮かんだ。
「まあ気になっただけですよ。ありがとうございました」
そのまま天へと飛んでいった。ぽつんと残された霊夢は再び箒を動かし始める。
悪い空気、というのを頭の片隅に霊夢が参道を掃き終わった頃、今度は二つの影が降りて来た。
大して珍しくもない魔理沙と早苗。だが、早苗は何故か新聞紙の兜を被っていた。
「よう、遊びに来たぞ」
「私も遊びに来ましたよ」
「何その頭」
「流行ってるらしくて、里の子供にもらったんです。似合ってますかね?」
冷ややかに聞く霊夢に、早苗は満面の笑みを見せる。
「なんかつよそう」
「雑な感想だな」
「私は本当に強いですけどね!」
「今日は一人でゆっくりしようと思ってたのになあ。……今集めた塵を片してくるから。ちょっと待ってて」
参道の脇に寄せていた塵芥を箕に入れて捨て場に運んだ。新聞もクシャクシャにした。
これじゃ被れる兜を作るには足りないな、等と思いつつ戻ってきた霊夢は縁側で話し込んでいた二人に加わる。
早苗はまだ新聞紙の兜を被っていた。
「何の話?」
二人とも悩ましそうな顔をしていた。
「今日変な妖獣みたいなのを里の近くで見たんですよ」
「咲夜もそんな話していてな。それに近い物を私も見て……少し怪しいと思っているんだが、霊夢の所には何か来ていないか?」
「うーん、私の所に来たのは竜宮の使いだけだけど。どんな奴かしら」
「私が見たのはだな―――って、居た! あいつだ!」
身を少し乗り出して話す魔理沙は不意にそう言うと神社の境内の隅の方を指さした。早苗と霊夢は弾かれたようにその先を向く。
霊夢が見たのはイタチ程の大きさの動物で、見た目も犬の様な狐のような、何とも言えない出で立ちの獣だった。
走っている姿が見えただけだったが、何故か胴が黄色という不自然な配色が見えた。気がした。
怪動物はそのまま走って茂みに突っ込み姿を消す。見えなくなってもがさがさという音が聞こえ、徐々に神社から遠ざかりやがて音も消えた。
「……今の?」
音が完全に聞こえなくなって、霊夢は二人にぽつりと聞いた。
「そうです、あの狼みたいな」
「いや、あれは狐っぽいだろ?」
「私は鼬みたいにも見えたけど」
三人で顔を見合わせて、首を傾けた。早苗の兜がぽろりと落ちて、あわてて被りなおす。
姿形が釈然とせず三人は今一つ腑に落ちない。でもそう言われれば狼のようだったし、狐のようだし、鼬にも思えた。
「確かに普通の動物じゃなさそうだけど、動き回って姿を見せるだけなら相手する必要も無いんじゃないの」
「まあな、話の通じない動物を捕まえるのは大変だし」
「うーん、何だか少し気になるんですけどね」
妖獣なんてのはちらほら居る。見たのも殆ど刹那的で、怪しけれども、今回はともすれば幻覚ではないかという位の獣。
それに対し危機感が煽られるわけでも興味を引かれるわけでもない。特に大それたな話になることの無いままその日は解散した。
ところが、五日経つと事態は確実に表面化していた。
「魔理沙? 生きてる?」
霊夢は魔理沙の家を訪ねた。此処最近、伝染する病が流行っているという話題で里は持ちきりだ。普段見る人を見ない時は病に伏せっているという。魔理沙や早苗もまた霊夢の周りから姿を見せなくなっていた。
魔理沙は五日前まで連日顔を合わせていたのに、急に五日も姿を見ないのに不安を感ぜざるを得ない。
五日程度なら当たり前とも考えたが、霊夢は事態を現認するために魔理沙の所に来たのだ。一向に待っても返事はなく、霊夢は恐る恐る扉を開けた。
すると
「おう、どした……」
魔理沙は奥の寝床で毛布にくるまり、明らかに具合が悪そうな、乾いた声で応答した。
「無事、でもなさそうだけど生きてて良かったわ」
「こんな所で死んでたまるか、それより流行病らしいから、あんまり来ない方が良いぞ……」
「魔理沙が掛かってるなら私も手遅れの気がするし、でも私はまだ平気みたい。医者の所には行ったの?」
絶望的に体調が悪いというわけでは無さそうな魔理沙に、霊夢は少し安堵した。
「んー、よし今からいく。どっこいせ」
霊夢が寝床の方に寄って行くと、魔理沙は散歩でも行くかという声色で何故か布団の中から箒を取り出した。霊夢が驚くのを後目に窓から外に出ていく。霊夢が慌てて追うと、魔理沙は空でも当然元気が無くふらふらと飛んでいた。
呆れて霊夢は横に並び声をかける。
「何してるの? 病人は寝てなさいよ。移るんならあんただけの問題じゃないんだからね」
「分かってるって。さっさと竹林に行こう、あっちなら人は少ないし平気だろう……。霊夢も気づいているだろうが、やっぱり前に見た奇妙な動物が怪しい……。里でも獣を見た後に病気になったって奴が居たんだ。あの時は偶然かと思ったが……でも病気のことは医者に聞くもんだ、手がかりを探す為にも寝てる場合じゃない」
「うーん、確かにあいつは怪しかったけど……。今回はあんたは寝てても良いわよ。前に病気が流行った時よりも具合悪そうだし」
魔理沙は帽子を深めに被り直し、時折休むように数秒目を閉じる。
「まだ読んでない本もあるし、死にはせんから安心してくれ」
ふてぶてしい魔理沙に軽く吹き出しつつ、霊夢も永遠亭に行くことは悪くないとも考えていた。
治療の腕は確からしいので寝てるよりも寧ろ良いかもしれない。結局魔理沙と共に行くことにした。
早速永遠亭に着き、息切れくたびれている魔理沙に代わり霊夢が適当な兎に病人が居ると話す。
すぐに永琳の所に案内された。二人が廊下をひたひた歩き、襖を開けると永琳は机で紙の袋に薬を入れている。
袋の口を三回程折ると霊夢達の方に向きを変える。呆れたような声で霊夢に聞いた。
「最近話題の流行病の話かしら?」
「話が早くて助かるわ。魔理沙も掛かっちゃったんだけど、動きが鈍くなってるから直しといて」
「そんな故障品みたいに言うなよ……」
「そうよ、欠陥品の間違い」
「お、お前等……病人を労るとかそういう気持ちはないのか」
魔理沙が辛いのか怒っているのか息も絶え絶えに言葉を漏らしている。
「完璧じゃない方が普通って事よ、病人が自力でこんな所来るもんじゃないわ」
「まったくね。それで薬みたいなのはあるの?」
「今流行ってる病の特攻薬は材料が貴重であまり出せないのよ。でもこの病は対処がしっかりしていれば死ぬ事はない」
永琳は言いながら薬の袋を軽く揺すった。
「そうか、一安心かな。それでこの病気は何なんだ……熱は出てないんだが、吐き気とおなかの調子が悪くて適わん……」
「コレラでしょうね、その症状も間違いないわ」
「はぁ、コレラなぁ……具体的にはどうすりゃ直る」
立って聞くのが辛くなった魔理沙はその場にへたり込むように座った。
「コレラって昔流行った病気よね。死人も多かったんじゃないの」
「症状の下痢や嘔吐が激しく出て脱水症になると死に至ることもある。とはいえさっき言った通り掛かったら確実に死ぬような物ではないの、そこまで酷い症状の人はまだ居ないみたいだし。
ただ今回は治した後にすぐ再発したりしてね、どうやら原因が特殊だから治ってもそのまま終わるかどうか……」
それを聞いて魔理沙と霊夢は顔を見合わせ頷く。
「やっぱりあの動物は怪しい。妖獣が病の源泉なら再発するのも頷けるし……心当たりはあるから私が捕まえてくるわね」
早速部屋を後にしようと霊夢が踵を返すと、魔理沙がそれを引き留める。
「まて、私も行くぞ」
「医者に見てもらうって言ったじゃないの」
「さっきからじろじろ見られてるし、薬も一応あるんだろ?」
魔理沙は重々しい動きで永琳の持つ薬を指さす。それを見て永琳はやや冷たく笑った。
「しっかり水分取って大人しくしてないと快復しないないわよ。変に無茶する馬鹿に付ける薬はないし」
「ほら、大人しくしてろってさ」
すかさず霊夢がバンバンと魔理沙の両肩を叩く。
「何か普段より酷いこと言われてる気がするぞ」
「病人にこそ容赦しないのが医者って物よ」
「今回は私に任せなさい」
霊夢は手早く部屋を出て、笑顔でじゃあねと襖から覗くように加えた。
名残惜しそうにする魔理沙を襖で隔て、怪動物を捕える為に永遠亭を出た。
「と言っても手がかりがある訳じゃないのよね」
里に出た霊夢は早速手をこまねいていた。あの動物が犯人なら確実に里にも来ているはずと踏んだが、行き当たりばったりで見つかるはずもない。
困り果てた霊夢は村人の会話に耳を傾けてみる。
「やっぱりコレラの話ばっかり」
井戸端会議も道行く人の話も殆どコレラの話ばかり。
ようやく聞けた関係ない話は、有害インクを使用した新聞があり、新聞で折り紙やら遊んだりするのは全面禁止されたという話だった。
微笑ましい子供達から、兜でも貰えないかと密かに期待していた霊夢はほんの少しだけ残念に思う。
魔理沙にもらった野菜が大丈夫かも心配に成ったが、もう幾らか食べているので気にするのは辞めた。
では代わりに何をしているのかと言うと、今は子供ですら病気の話をしていた。
勿論コレラという名前は出ていないが……誰も彼もみなコレラを恐れ、また話にする事でその恐怖を共有している。
霊夢はそんな里の状態に焦燥感を煽られた。
しばらく歩いていると霊夢は見知った後ろ姿ならぬ耳を見つける。薬箱を背負った永遠亭の鈴仙だ。
鈴仙は里の地図を見ながら長い兎の耳を揺らしていた。霊夢は横に並び歩幅を合わせ、挨拶もしないで聞く。
「儲かってるかしら?」
「まあ、残念ながらね」
意地の悪い質問に鈴仙は顔を上げ苦笑いを浮かべた。
「薬は貴重で数が出せないってあんたのとこの医者は言ってたけど……」
「薬とまで行かなくとも摂取しやすい水と、対処法を軽く教えて上げてるの。元々うちは置き薬主体だけど、今は急遽ね」
「ふーん、でもそんな事してたらあんたが掛かるんじゃないの。余計広めたりしてないでしょうね」
「獣の類はあまりコレラに掛からないってお師匠様が。それより貴女が掛かってない方が意外かも、緑の巫女や紅魔館の人間メイドも掛かったって噂だったから」
早苗達も掛かっていたのか、やっぱりあの動物を見た人は掛かりやすいのだろう。事は急くべきだと霊夢は改めて認識した。
「これ以上広がらないならいいけど……私は病には詳しく無いから、流行具合が読めないのよね」
「感染の予防についても薬師達に教えているし、これだけ伝染病だって噂が立てば表に出てくる人も減って被害も徐々に落ち着くんじゃない。元々平気だっていう人も居たし」
「元々平気?」
「詫び状や件《くだん》の絵を持ってるからうちは平気だって人も居て……私は呪術とかは詳しくないけど、病除けなんでしょ」
「確かに病除けではあるけど……」
詫び状……もしかして疫病神の詫び状? 霊夢は疑問に思う。
疫病神を倒したり夢で直接話したりすることで得られる誓いの書が疫病神の詫び状だ。この家には悪さしない、または目印を授けその目印が居るところには入らないという契約を取り付ける。そうすると病人は忽ちに復し、以後病には見舞われる事は無いという。
でも今回は効くだろうか? 詫び状は文書という性質から人型の疫病神が書くものであるし、その疫病神より格上の疫病や、派閥が違えば当然意味は無い。今回は原因が妖獣だから望み薄だ。
件の絵の方も確かに厄除けだ。頭が人間で身体が牛という奇妙な生き物である件は凶作、疫病、干魃、と何でもござれの凶事の前に出てきてその凶事を予言するという。
皿にその姿を写し絵として持っていれば難を逃れるという。もしかしたらこっちは効くかもしれない。
写し絵でも良い為、凶事があるとしばしば注目されるのだが、何故かこの手のものは大抵病が流行り切った後に流行る。
それだともう遅い。今回はもう流行らせるには間に合わないだろうが、しっかり持ち続けて信仰していた人には恩恵があって然るべきだろう。
そういえばこの手のものにも種類があるが……。
「一応症状が酷い人には薬も売るつもりだから、死人は出ないわよ、安心して」
「治療は任せるにしても、予防はしなくちゃね」
まだ行ってない方があるからと言い鈴仙は道を曲がって行き、別れた霊夢は再び情報収集を試みる。
暫く耳を傾けると怪動物を見かけたという情報も既に広まっている事が分かった。狼みたいだとか、狐みたいだとか、狸みたいだとか、そんな動物だという噂があちこちで聞こえた。
きっとあいつが病を流行らせているに違いない。これは由々しき問題ではないか。そんな声もあり、恐怖と共に怒りの色も見える。
しかしその会話の食い違うシルエットが浮かんでいるのは何故か。
「狼とか、狐とか、狸とか、いくら何でも同じ動物を見た感想に思えないけど……」
霊夢は歩みを止めてその場で手を組み考えてみる。
そういえばあの時、最初見た時も釈然としなかった。
早苗と魔理沙と私で別の動物を挙げて、その時は一瞬だしそんなもんだろう、と。しかし私たちだけでは無いのか。
妖獣というのは基本的に元が分かるような形状の筈だ、本質的に全く別の物に成るというわけではない。
それなのに何故か里の人は皆明確にどの動物だという話はしていない。
実際には出来ないのが正しくて、自信が無いのだろう。だからこそどの話も完全には否定されずに残っている。
つまり本当は全て当てはまる奇怪な動物で……そこから自分の理解できる形の物を当てはめて話にしている。が、そんな動物は存在するのだろうか。
うん? そういえば前にもこんな話を聞いたことがあるような。
霊夢はふと空を仰いだ。そうだ、こんな青空の日に飛倉が別の物に見えた事があったじゃないか。
ぱっと理解できない物をそれっぽいと思った別の物に姿形を変えてしまう。
「あれは――」
鵺の力だ! 霊夢は考える前に確信し命蓮寺へと走り始めていた。
「たのもー!」
言いながら霊夢は命蓮寺の塀を飛び越える。目的の妖怪はのんきに屋根の上で霊夢に背を向けて横向きに寝っ転がっていた。
霊夢の声に気が付き起き上がって向けた顔には瓦の跡がくっきりと頬に残っている。
「うるさいな! 人の昼寝を邪魔するな、門はあっち!」
ぬえは指と口を尖らせてしきりに命蓮寺の門を指す。
「私はあんたに用があるのよ、良くも里をこんなにしてくれたわね」
「あー? 何だ巫女だったのか……」
「寝ぼけてるの? さっさと白状しなさいよ」
霊夢は瓦の上に降りるとわざと音を立てて歩き、鵺の元まで寄った。
「ちょっとちょっと、何の話?」
「流行病の事にきまってんでしょ!」
ぐいぐいと迫る霊夢から逃げるように、ぬえは四肢を駆使し後ずさる。
「わ、私を疑ってるのか? 私はこんな闇雲に病気流行らせたりはしないの。もっと尊き人を苦しめるのが、ぐっとくるよね?」
「知らないわよ。里の人が狼だか狐だか狸だかって一向に正体がつかめない動物見てるの。あんたの仕業に決まってるじゃない」
「違うって。そいつは虎狼狸の仕業だよ」
「ころり?」
霊夢が首を傾げるのを見て、ぬえはゆっくりと身体を起こす。そのままあぐらをかいて屋根から命蓮寺の敷地を見下ろした。
「そ、虎の頭に狼の上半身、それに狸の下半身を持った妖怪」
「あんたの仲間にしか思えないんだけど。それも正体不明の種とやらで化けてるんじゃないの?」
「虎狼狸は幻想郷の結界ができるちょっと前位の妖怪だ、だから私はそんな詳しくない。
でも原因不明で一世風靡した病が虎狼狸に姿を与えたのは間違いないだろうから、似たような力はあるかもね。里の奴らは別個の単一動物を挙げているんでしょ。相変わらず進歩しないねぇ」
どうやら当てが外れたらしい。霊夢は額に手をやりうなだれる。
「あんたじゃないなら余計に面倒だわ、何処にいるか分かったもんじゃない」
「里は流行病にあったときどうしてたのさ、今まで全くなかったって事も無いだろう」
「前は身代わりの犯人を仕立てて封じたけど……今回は実体として里の人が見ちゃってるから、どうにか虎狼狸を晒し首にでもしないと……」
物騒な言葉が引っかかり、ぬえは冷ややかな目で霊夢を睨んだ。
霊夢は怯むことなく睨み返した。
「……本気でいってるの?」
「まだ寝ぼけてる? 里は人間の安全領域。例えまだグレーだとしても、人間が死んだら里を妖怪が襲ったに等しいじゃないの。被害がもしも拡大するようなら、遅かれ早かれ力を持った妖怪達も黙ってないわよ」
「そうかぁ……やっぱりどっちにしろ地下に押し込められるのは決定か」
ぬえは気が抜けたようにぼんやり言うと、再びがちゃっと寝ころんだ。
「というわけで自力で捕まえなくちゃ、あんたは騒ぎ起こさないで大人しく寝てて」
「待った。捕まえるなら良い手があるよ」
屋根から再び飛ぼうとしていた体を、霊夢はどうにか止める。
何でそんなこと教える気になったのか、不思議に思いつつも、ぬえの言葉に食指を動かさずには居られない。
「聞くだけ、聞いとくけど……」
ぬえはニッコリと笑った。
「こんなもんで本当に捕まるのかしら」
霊夢は里のいくつか見通しの良い辻に皿を置いた。皿にはぐったりした鼠が横たわっている。ぬえの言った良い手というのが只単に罠を仕掛けろという事だった。
あまりにヘンテコで疑ったが、どうやら正体はあくまでも獣と考えた方が良いらしい。それなら説得力が無くもない。
何を食べるのかよく分からなかったが、虎も狼も狸も食べそうな鼠を置いた。そして宙に浮かんで空から里を見守る。
先ほどと打って変わって里の人はあまり外出しなくなっていた。人から人に移り、怪動物が原因でそれが徘徊しているかもという話が流布していれば、当然だ。
それと同時に里中に虎狼狸の恐怖が知れ渡っているという事でもある。
人もまばらな里を霊夢が見定めるように里を俯瞰していると、物陰からさっと動物が飛び出すのが見えた。目を凝らしてみる。確かに頭が虎で上半身が狼、下半身は狸の怪獣だった。
まあ鵺の様な力があるなら本当の姿がこれなのかは分からないが。正体を聞いていた風に見えたのだから当たりだ。
しかし思ったより大きくない。少し拍子抜けしつつも、大きさ自体はごまかせないのかもと霊夢は一人納得した。
一息飲んでそのまま急降下で虎狼狸に近づく。すかさず懐から御札を取り出し構えた。
「よくも里で暴れ回ってくれたわね! 御用よ虎狼狸!」
霊夢は狙いを定めて三枚の札を落下の勢いに乗せて放った。当の虎狼狸は頭上からの声に体をこわばらせその場で動きが固まる。札は虎狼狸めがけ真上から刀の一振りの如く押し迫った。
もう避けられまい、霊夢が討ち取ったりと思った瞬間――
「なっ、何すんのよあんた!」
何処からともなく現れたぬえが、間一髪という所で虎狼狸を抱え札の着弾点から逸らした。札は地面に叩きつけられて軽い破裂音が辻に響く。
「何って捕まえたんだよ」
「なら、さっさと寄越して」
「こいつをどうするのさ」
「晒し首は行き過ぎとしても……事態を収集させて貰うのよ、多少無理矢理でもね」
ぬえは虎狼狸を抱き抱えたまま霊夢に身構える。虎狼狸は意外にも大人しく、霊夢とぬえとの間の張りつめた空気を物ともせずきょろきょろと周りを見回していた。
「それはつまり、病が流行りきった今、この里の状況を収集しろというのはこいつだけには荷が重いって事だろ」
「ちょっと時間が経ち過ぎたわね」
その通りだった。流行らせた張本人であるなら、恐らく病を幾分和らげることも可能だろう。
でももうそれだけでは済まない。病にすっかり怯えている人たちは、和らげ弱くなった病にも心が負けてしまう。
純粋に病に負けて元の木阿弥になってしまうだろう。だからこそ見て分かる虎狼狸の敗北が必要になる。
「ひとまず私に任せてよ。巫女が事前に防げばこんな事にはならなかったんだし」
「あんたに任せるなんて出来るわけ無いじゃないの」
霊夢は言うのと同時に痺れを切らして今一度御札を放った。
「逃げるのは結構得意なんで、悪いね」
ぬえは難なくかわすと、黒雲と光弾を出し、本人も光の玉のように姿を変えた。
霊夢がどうにか避けきると、もうぬえの姿は弾と雲に紛れて何処に行っているのか分からなくなってしまった。
「里の人間が治ればいいんだろ?」
何処からとも無くぬえの不気味な声が聞こえた。
「何考えてんだかあいつは……」
霊夢は仕方なくその場に残された罠用の皿を回収する。しっかりと鼠は無くなっていた。ちゃっかりした奴だと思いつつ頭を掻き里を後にした。
無論そんなことだけで諦めない霊夢は命蓮寺を始めぬえを探したが、その日見つけることはできなかった。
翌日。
神社でいざぬえ虎狼狸を捕まえんと、座卓で作戦を練っていた霊夢の元に、あろうことかぬえと早苗がやってきた。
驚きを隠せない霊夢をよそに、早苗とぬえはへらへらと胡散臭い笑いを浮かべていた。
「わざわざ出てくるとは思ってなかったわね。早苗は虎狼狸のせいで伏せってるってと聞いたけど……大丈夫なの?」
「大丈夫です。あ、これ快気祝いがてら……です」
「ありがとう、でもなんでそんな早く治ったのかしら」
饅頭らしい箱を受け取り霊夢が不思議がっていると、二人は楽しげに座卓を挟んで前に座った。
「この鵺がある紙を見せてくれて、それをみたら一発で治ったんです!」
満面の笑みで語る早苗にほら胡散臭いと心でつぶやきながら霊夢は聞く。
「紙? 御札でもつくったの?」
「じゃーん、これです」
早苗は目に入らぬかと言わんばかりに折り畳んで持っていたらしい紙を縦に広げた。ぴんと張った紙を霊夢はまじまじと読み上げる。
「なにこれ汚い字ね。早苗さんへ ごめんねもう来ません byころり」
そこにはミミズが這っている様な絵とも記号ともつかない辛うじて読める字が書かれていた。
早苗は霊夢が読み終わると再び折り畳んで懐に仕舞った。ぬえはそれを見て微笑み霊夢の方を向く。
「これで良いんだろう?」
「良いんだろうって、もしかしてこれ詫び状のつもりなの?」
「そうだよ、虎狼狸に書かせてみた。勿論本人の同意の上でだし」
「書かせたって、どうやって」
「虎狼狸の手に筆を巻き付けて、私が手伝ってね」
霊夢はがっくり呆れ返る。
「何それ、殆どあんたが書いたんじゃない」
「でも現に私は治りましたし。写しでも効くらしいので、里でも今朝から猛烈に流行ってるんですよ、虎狼狸の詫び状。すぐに治ったなんて人もいたとか」
「原本だってあれから沢山書いたんだ、だからもう里の人は大丈夫だよ」
早苗は自分も病に伏せた事など全く気にしていない様子で、意気揚々と話し、ぬえもそれに乗る。
確かに。詫び状を見ることによって里の人の心に安堵が芽生えるだろう。病を克服できるだろう。
しかし、霊夢は釈然としない。特にぬえの笑みは空元気の様に映る。だから問う。
「虎狼狸はそれで本当に良かったの?」
「……」
「詫び状なんて配ったら、もう誰も怖がってくれなくなるんじゃない。それは妖怪としていいのわけ?」
霊夢の問に、ぬえは引きつった笑顔を崩さない。
「確かに妖怪としてはもう終わりと言っても過言じゃない。あいつは神になれるような玉でもないし。ただ……私はそれでも良いと思うよ、そこも虎狼狸は納得した」
「え? そうなんですか、それはそれで寂しい気もしますね」
「寂しかないけど。あんたって妖怪の味方してるのかと思った。そうでもないのね」
ぬえは分かりやすくむっと顔を歪めたが、直ぐに元の顔に戻って目を伏せる。
「虎狼狸は好きで本人が化けてたんじゃないんだよ。里の人間の流行病に対する恐怖が里に偶々いた動物を虎狼狸に変えてしまっただけ。
人は犯人探しが大好きだからね。巫女が犯人をでっち上げなくたって、怪しい奴を犯人に仕立て上げた。
人は正体不明が嫌いなんだね、例えで害があろうが目に見える存在にして考えた。それが虎狼狸の本当の正体だ、だから……」
しばしの間に風が差し込み、ぬえの髪が少し揺れる。霊夢も早苗もぬえの言葉の続きを待った。
「私は別に味方でも敵でもないよ、虎狼狸には虎狼狸なりに幸せになって貰いたいって同胞の願いかな。恐怖や人間を糧に生きる妖怪は決して楽じゃない、特に病とかに関わる奴は幻想郷ですら除け者でその中でも流行る奴ときたもんだ」
「でも元々今の虎狼狸は只の動物だったんですよね? 始めに流行っていたのはあくまで病気って事じゃ……」
早苗は少し萎れたような口調で聞いた。
「そこが始まりでも、噂の流行を挟んで因果関係は逆転してしまうのさ。あいつはもう間違いなく病気を流行らす獣になってたよ」
「……じゃあもう普通の動物としても生きていけないんじゃないの」
「だから、本人の力に加えて私が正体不明の種を付けた。虎狼狸は基本姿を見せるだけだし、病を流行らすって行動も実は特別な行動が必要じゃない。
ひょんな事から病気が広がるかも、っていうのは心の底で誰しも理解しているんだ。だからありふれた行動しかしないし、その行動で虎狼狸だと分かることはないだろう。
ついでに虎狼狸が病をかけられるのは人間ぐらいな物だから、自然に生きるのも容易い」
「それで人間を恨んだりするんじゃないの、虎狼狸もあんたも」
「別にどうでもいいよ。私にしてみたら人間だって流行に振り回されてる哀れなやつらだ」
「あはは、良くも悪くも人間って流行には弱いかもしれませんね」
「新聞遊びも虎狼狸も同じだ。本当はつまんない物なのにさ、さも面白い物の様に語って、気がついたら流行ってて、気づいたら廃れてる」
「よく分かんない物こそ流行るの物よね、狐狗狸とかもそうだし」
「外の世界でも一時的に流行ったものは、何だか後から思うと不思議だったと思い返す多い気がします」
「ま、兎に角あいつは許してやってくれ、もう私は命蓮寺に帰るから」
そう言うとぬえは返事も待たずに空に飛び立った。
「行っちゃいましたね」
「里の方が元に戻るならいいけど……野生動物に混じった虎狼狸探すのも大変だろうし」
「ええ……そういえば、何で霊夢さんは虎狼狸の病気に掛からなかったんですかね」
早苗は自分で持ってきた饅頭の方をちらちらと見ながら言う。
そちらの方は霊夢自身見当が着いていた。衣玖が落とした人の頭と蛇体を持ったあの絵。
あの絵が疫病避けの力を持っていたのだと。
「それは……多分神社姫の絵を見ていたから」
「神社姫? 何ですかそれ、まさか自分の事を姫と……」
「違うわよ! 竜宮からの使いの一種で、疫病が流行るけど、自分の姿を写し絵にして見ると難を逃れて長寿を得られると言って人の前に出てくる生き物。
私は写し絵しか見てないけど、そういう瑞獣みたいな奴がいるのよ。人面と蛇体の人魚みたいな奴」
「へぇ……件みたいな感じですかね? ああいうのって本当に効果あるんですか」
早苗は頭を傾け姿を思い浮かべた。
「件よりも古いけどね。神社姫の写し絵も流行っていくらかの家では宝とされたとか……」
霊夢は鵺の去った空を見て思う。
思い返せば神社姫の紙を見たあの日、衣久は何かにぶつかったと言って落ちてきた。
それにぬえの言った「巫女が事前に防げばこんな事にはならなかったんだ」という言葉と、用意していたかの様な虎狼狸の詫び状を里に撒くという荒技。
衣久が落ちてきて、神社姫を見たのも偶然では無かったのかもしれない。
もし私が神社姫を流布らせていたら、虎狼狸はもう少し虎狼狸として生きていくことができただろうか。
でもそうすると、虎狼狸は病を流行らせる力を持ち続けただろう。誰もが神社姫を忘れた頃に虎狼狸が再び現れて、また神社姫も思い起こされる。
狭い幻想郷ならきっと流行は繰り返し、ある種の定期的な行事に成ったかもしれない。
それは冷静に考えれば恐ろしいことで、勿論私がそんな事をお膳立てする必要もない。
むしろ今回は上手く断ち切れて良かったと考えるべきだ。
ぬえの言うことが本当なら、流行の一番の被害者は他ならぬ虎狼狸なのだから。
早苗も霊夢の目を追って空を見たが、すぐに飽きて視点を降ろした。
「でもこれで決着ですよね」
「かしら。お饅頭食べる? お茶淹れてくるから」
それを聞いて早苗は楽しそうに笑う。
霊夢はいつもの様に濃い目のお茶を用意し、皿に乗せて出した。
二人は白い皮のありきたりな饅頭を普通に堪能する。
少し頬を綻ばせた早苗だったが、お茶をぐいと飲むと今度は顔をしかめた。
「なんかこのお茶ちょっと渋くないですか」
「……分かってないわねぇ、饅頭には濃いのがいいのよ」
「それにしても濃すぎですよ」
早苗はぶつぶつ言いながら、饅頭を口に含みちびりとお茶を啜る。
その様子を見て、何となく詰まらないと想った霊夢は反論しようとしたが、辞めた。
……今回は誰が悪かったのだろうか。
虎狼狸は流行病の原因は何かという噂話の末に、人が仕立て上げた妖怪だった。
それは病気と、流行への恐怖だったのかもしれない。
和やかな新聞遊びの流行が、紛れ込んだ有害インク新聞のせいで悪しき物に転化した。
盲目的でなく、流行り物にも的確な情報共有が必要と成った上で、正体不明の病が流行ってしまった。
だから里の人達は逸早く犯人を見つけたいと願った。これは誰が悪いとも言えない。
でも虎狼狸にしろ、新聞遊びにしろ、こじんまりとしていれば変に幕引く事には成らなかった筈だ。
流行は人の落ち付きを奪い、なんでもない事でも裏返ると凶事に成りかねない。得している奴もいるのだろうけど……。
そういう意味では件や神社姫だって流行らないほうが安心できる。
虎狼狸みたいな奴に振り回されるのはもう懲り懲り。
ここで早苗を納得させて広まったりしたら面倒。流行なんて自分の中にだけ有る位が丁度良いのかもしれない。
変わらぬ青空の下、変哲のない風に、いつもの神社。
霊夢が渋目のお茶を口を付けると、やっと一息付けた気がした。
うつろわないのは自然。
その狭間にあるのが流行。
だと私なりに抽象的に纏めてみました。
他にも色々あるでしょうが、私的にはこれが代表的だと思います。
良い作品でした。やっぱり貴方の作品はどんなものでも楽しめます。
あれ?そういえば魔理沙は?
人間の思念から生まれた虎狼狸が悪い原因だとしてもそれを生み出したのは人間。一番の被害者は文中にあるように虎狼狸なのかもしれません。
とても深いです。
キュンとした
今回はちっと誤字が多い印象ですねぇ
>「妙蓮寺」
>「神に慣れるようなタマじゃない」(文脈からして、「なれるような」、或いは「成れる」?)
>「何すんよ!」(「何すんのよ」?そのままでいいのか)
…あれ、ヤマメの立場は?
原作の空気を感じました
イタズラっ子ぽくも優しいぬえが良い味出てます