「総大将たる八坂さまより、お話がある! 皆、ようよう静まるように!」
いったい何があるかと思ってざわついていた兵たちへ向けて、本陣に詰めていた神奈子靡下の将のひとりが野太い声を上げた。三千のもの人々へ向けてひとりで指示を発するは、巨大な壁に針で穴を開けようとするようなものだ。いっこう静まらぬ兵たちに向け、三度、四度と大声が張り上げられる。その声は段々と裏返り、甲高くなっていく。五度目でようやく最前から幾列かという将兵にまで行き渡った。そこから先は特にも労せず、瞬く間に末端の者にまで向けて行き届いていく。沈黙せる諏訪方の将兵三千のあいだを、さっきまでの騒がしさを懐かしむかのように風が吹き抜けていった。
そして、その静粛を見計らってか――新たに将たちの一団が本陣から姿を現した。
いずれも、普段は上諏訪の政所に身を置く評定衆の顔ぶれであった。今は政の場にあらず、甲冑を身につけたいくさの装束であるとはいえ、誰の顔も戦勝を手にするという自負に溢れている。その中にあって、ひときわ輝くように満々たる意気をみなぎらせた者がひとり。このたびの辰野攻めの総大将、他ならぬ八坂神奈子。
「皆、ようく聞け」
朗々と揺らぐことなく放たれた一声は、寒さに因るいま少しのいらだちを溜めこみ、肩を震わせていた最前の兵を、一挙に黙らせるにも足るものだ。かすかな暖を求めるようにして、矛を握り締める手の指同士をこすり合わせる彼らは、総大将の声に打たれ、にわかに己の居ずまいを正す。ぴんと伸びた背筋は真新しい魚の骨のごとくである。
いかに大音声とはいえ神奈子の声は、三千の将兵の隅々にまではいちどに届かぬはずであった。そのはずであったにもかかわらず、彼女の声が直には聞こえぬ位置に立つ者たちさえ、神に相対したときのまっさらな敬意を思い出したかのように、自らのうちに在るいらだちを封じた様子だったのである。眉根に寄りだす皺さえも、誰の顔にも今はない。
「すでにそれと気づいておる者が大半であろうが。此度、われら諏訪方は、いよいよ総攻めに移ることを決めた。決行はこの夜半より」
辺りには盛んに篝火が焚かれ、随伴していた諸軍の将も、今はみな床几に腰を下ろすことなく立ち上がっている。他の将の面前で神奈子に敗戦を痛罵されたジクイも、今まで本陣に居た諏訪子も。さらにまた、降将のノオリもだ。誰ひとり欠けることなく立ち上がり、神奈子の姿を見つめていた。兵たちと相対する、唯一無二の総大将。
皆の注目をその全身に浴びながら、その総大将たる神奈子は一片も臆することなく話を続ける。
「さて、今となっては隠すことも叶わぬゆえ、改めてそなたたちには申しておく。わが諏訪の軍は、辰野の山上に籠りしユグルの軍に負けておる。一度ならずと二度までも。あたら敵をはるかに凌ぐだけの兵を有しておきながら、二度も土をつけられておるのだ。これが恥でなくて何であろうか。将兵の無駄死にでなくて何であろうか。男と生まれた者であれば、たとえ武人でなかったとしても、敗戦の恥に顔も上げられぬはずであろう」
ジクイが眼を泳がせ、しばし視線を沈ませた。
彼をいじめるような意図は、別段、神奈子にもなかったろうが。
「いくさの場にて華々しく散るは、われら武人の悲願である。なれど、そなたたちには家がある。郷里で帰りを待つ父や母、妻や子がある。春が来れば、また耕さねばならぬ田畑もあろう。手柄首を幾つも上げて、後の子や孫らに誇る褒美も欲しいと思うであろう」
兵たちひとりひとりの顔をていねいに撫でてやるかのように、神奈子の眼はゆっくりと周囲に注がれた。彼女の視線が移動するたび、それを惜しむかのように兵たちの眼もゆっくり巡る。
「と、なれば、われらは必ず勝たねばならぬ。南科野に騒乱を巻き起こした逆賊ユグルを必ずや討ち取り、そなたたちは生きて郷里に帰らねばならぬ」
何人かの兵が矛を宙にかざし、盾を震わせた。
神奈子の言葉を是とする証であったろう。それに応ずるかのごとく、彼女もまた幾度も大きくうなずいた。
「むろん、この八坂には、此度のいくさに参じてくれたそなたたち将兵を、ひとりも無駄死にさせるつもりとてない。そのつもりはないが、此はいくさにて、いかに勝つとはいえ傷を負い、命を落とす者が出ること――これを免れるは難しきものがある。しかし、それでも勝たねばならぬ。勝って帰らねばならぬのだ。死ぬるを怖れて逃げ、その果てに背中を打たれ死ぬより、死ぬるをむしろ誉れとして敵の一矢に胸つらぬかれ、己が骸を仲間の通る道として捧げる覚悟がなければならぬ。その覚悟さえあれば、きっと勝って生きることさえ叶うはず。死中にこそ、真実(まこと)の生あり。それが、いくさというものだ」
固く握った拳で、神奈子は自らの胸を打ち叩いた。
わが一念、このなかにこそ在りと示すように。
「怖れを棄て、恥を棄て、死を厭う心さえ棄てよ。しかし代わりに棄ててならぬのは、何より信ずること。己が生きるを信じ、仲間が生きるを信ずることである。信ずればこそ、生き、勝てる。信ずればこそ、己のなかに力みなぎり、天の意志、時の運さえも味方につけ、いかなる強敵もはね返すことができる」
何人か、――たぶん、この寒さと疲れの坩堝のなかにあってもなお戦意を失わぬ若手の将兵が、雄々しいばかりの声を挙げた。だが、それは三千を超える人々のなかでのほんの一隅を占めるに過ぎぬ。大半の者たちは神奈子の訓示に共感と感嘆こそ覚えど、本心からして称える気持ちにはなれないようだった。力強く矛を震わす者たちでさえ、ひょっとしたら空元気でしかなかったかもしれない。それもまた、当然だ。彼らはいつ終わるともないいくさの風に吹かれ続け、すっかり疲れてしまっているのだ。そして二度の敗戦を、その眼にはっきりと焼きつけている。いかに勇ましい言葉で戦意を鼓舞されようと、手足を失い、顔を潰された死傷者の姿が脳裏にちらつけば、実戦へ向かう足取りも鈍るというもの。
だが神奈子はそれをも呑みこんで見せるかのように、呵々と笑った。
鷹揚に、横柄に、しかして慈悲と尊大とを同居させて笑った。すべてを赦すという笑みであった。将兵の意気上がるを称え、さらにまた依然としていくさを怖れる気持ちをも、当然、あるべきものとして受け容れるという大器の色であった。
「そなたたち将兵はただ己を、仲間を、そしてこの八坂の神を信じよ。我もまた、我を信ずるそなたたちの勇気をこそ信じよう。信じ、祈れば、神は必ずやそれに報いる! そして今、この八坂神みずからが、その証を見せようと思う」
言って神奈子は、今までその手に提げていた物を、さッ、と、ばかりに掲げて見せた。
それまで彼女の言葉に聞き入っていた兵たちは初めてその持ち物に気づき、総大将へさらなる視線を注ぐ。洩矢諏訪子が下諏訪から用立て、先に本陣のうちで神奈子に手渡されたあの鉄片一束が、篝火のもと明々と照らし出され、ちゃりンと音を立てていた。
ついさっきまで静まりかえっていた兵たちは、またにわかにざわめき始める。
いったい、あんな鉄の束で何をしようとしているのか、……という意味の呟きが、控えていた各陣営の将たちの耳を打った。それも当然だ、と、皆うなずく。然してそうした反応さえも折り込み済みか、神奈子はなおも微笑して言い放った。
「此は、卜占(うらない)に使われる鉄片なり。全部で五十枚ある。それぞれ真ん中に穴を開けて紐を通し、ひとつの束にしてあるものだ」
意図が、読めぬ。
と言いたげに、将兵の顔は訝しげだ。
神奈子はなおも続ける。
「そなたたちも、郷里に帰れば矛ではなく、鋤や鍬で田畑に豊かな実りもたらすのが仕事。となれば日々の暮らしのうち、身の周りの道具を用い、明日は晴れるかなど試みに占うてみたことがあろう」
幾百人もの兵がいちどにうなずいた。
徴兵された農民主体の諏訪方の兵に、神奈子の喩えは実に解りやすい。戯れか本心からかを問わず、実際にそういう占いを行ってみた者も混じっているに違いない。
「その卜占を、今、行う。我がこの鉄片を宙に投げて地に落ちたとき、五十枚すべてが表側をこちらに向けていれば、このいくさにはきっと勝てる」
神奈子はそう言うと、束のうちいちばん上になっている一枚を紐から外した。
「表側にのみ、このように、紐通しの穴を囲んで丸い彫り込みが入れてある」
確かに彼女の言う通り、鉄片――その表と称する側には、紐を通すために開けられた穴を囲んでひと回り、丸がひとつ彫られている。その印をよくよく擦り込むように、神奈子は念入りに兵たちに見せた。
「良いか。斯様につまらぬ、たかが鉄片の向きでさえ翻せなかったとなれば、端からわれらに勝ち目なし。皆、一心に祈れ。これもまたいくさと思うて八坂を信ぜよ。さすれば、鉄片の向きが揃うごとく、皆々うちそろって郷里に凱旋すること叶うであろう」
兵たちのざわめきはさらなる訝しみをも含み、なお成長していった。
神とはいえど頻りの敗戦は正気を喪わすものであろうか。彼らはそれぞれに違う言葉を駆使していて、それぞれに語る相手こそ違えていたが、その言うところはやはり自分たちの総大将の挙を疑う一事であった。神奈子の言い分は、尋常の大将であれば絶対に行うはずがない。何がしかの祀りを行い、戦勝を祈願するのは、いくさの前には決して珍しくないことだ。だが八坂の神がいま行おうとしているのは、鉄片の表に勝利を、裏に敗北を賭けているということではないか。博打も博打、どんな博徒でもそうそうはやらぬような大博打。しかもその選択は、ぜんぶで五十度もくり返されるという。常識で考えれば、五十枚すべてが都合よく表を向いてくれるはずがない。必ず何枚かは裏を向ける。そんなことは子供でも解る。
そして五十枚の鉄片のうち、一枚でも裏を向けてしまえば――このいくさは負ける。兵たちもきっと無駄死にに終わる。そう言っているのと同じことだ。ならばこんな卜占になど、何の意味もないはずなのだが。
予想だにしない総大将の言と、それが意味する極限の危うさを瞬時に察せぬほど、兵たちが愚かであるはずがない。暴れ出したり逃げ出したりする者こそいなかったが、大勢の者の顔がさッと青ざめるのは、いずれの将の眼にも明らかだった。どうしてこんな大将に率いられねばならぬのだと、溜め息を吐く者まで居たのである。
幾人かの将官が兵たちの動揺に対し、「静まれ! 御大将の御前である!」と声を張り上げても、いっこう、秩序は戻ってこない。彼ら自身、あまりのことに声がすっかり震えていたのである。さらに極めつけは、
「お待ちくだされませ!」
と、諸将の筆頭である洩矢諏訪子が兵たちの前に飛び出してきたことだった。
何があるかと、さっきまでとは違う驚きに眼を丸くする将兵たち。
諏訪子は皆の視線を小さな背にて引き受けながら、素人芝居の役者のように、両手をいっぱいに振って訴える。
「御大将にあらせられる八坂さまは、此度こそ決戦と仰せられました。斯様に大事なる戦いの勝敗を児戯にも等しきやり方で見定むるは、甚だ乱暴というもの! 成功すればよろしうございまするが、失敗すれば皆の士気は地に落ちまする!」
両手を固く固く握り締め、少女の顔には焦りによるものか、薄らと赤みが差していた。
だが神奈子は、諏訪子の必死の訴えにうなずきもしなければ、かぶりを振ったりすることもない。にやりと不敵に含み笑いして、相手の肩に手を掛けた。「しばし、どいておれ」ということである。神奈子は、こうなれば意固地だ。いちど“やる”と決めた方法は、いくさであれ政であれ撤回することはそうそう無い。為すすべもなく諸将の列に戻っていった諏訪子を、兵たちは最後の望みが絶たれてしまったという顔で見送っている。
「では、始める。矢盾をこれへ」
命ずると、衛兵が渋々といった態で、一枚の矢盾を神奈子の前に運んでくる。
木製の、何の変哲もない盾だ。衛兵はそれを、床を敷くように地面に横たえた。
「一枚ずつ、この矢盾の上へ鉄片を放っていく」
兵の誰もが、神奈子の行動を制止したい気持ちで見守っていた。
数人こそ「せめても」という面持ちで成功を祈る風なのも居たようだが、大半の連中の肩が震えているのは、決して寒さのせいだけではなかっただろう。
「一枚目」
言い終わらぬうちに、神奈子は最初の鉄片を盾に放った。
軽い金属の塊が木の板を叩き、ちゃりんと消え入りそうな音がする。
表と裏、向きがどちらに決定されるかが明らかになるまでのほんの短い時間は、それこそ幾百年、幾千年にも渡る責め苦のように、人々には感じられていたことだろう。
そのように張り詰めた緊張のなか、鉄片が上へ向けていたのは、
「見よ、まずは表が一枚」
確かに、紐通しの穴の周りに丸く印を彫り込んだ、表側であった。
おお――! と幾人かから安堵とも称賛ともつかぬ溜め息が漏れる。が、そんな者らも直ぐに冷静さを取り戻して沈黙した。この鉄片には表と裏しかないのだから、適当に投げても必ずどちらかが出る仕組み。確率としては二分の一ゆえ、むしろ本番はこれからである。
「二枚目」
いや増す皆の不安を押し返すように、神奈子は投げた。
一枚目よりも注目の度合いは高い。最前に居並ぶ兵の眼がいっせいに矢盾の上に注がれる。すると――。
「二枚目も、表だ!」
直に結果を目にした兵のひとりが、歓喜に揺れる声を絞り出す。
確かに、二枚目の鉄片も表を向けていた。
続けざまに神奈子は三枚目を放つ。これも表。前に立つ者の肩越しに身を乗り出して、続きを見たがる者が出る。次の四枚目も表。後ろの列の兵たちが、訝しみとは違う色でざわめき始める。五枚目、表。曇っていた若年の兵の顔つきが、にわかに明るくなっていく。六枚目、表。両手を握り締めて、天を仰ぐ者が数人。七枚目、表。両隣りや前後の列の仲間たちと顔を見合わせ、何ごとか話す者が目立ち始めた。八枚目、表。眼を閉じ、無言となる者の姿が見える。九枚目、また表。悲嘆に沈んでいたはずの声々が、いつしか明るいものとなっていく。十枚目、これも表。この場にいることを嫌がっていた者たちも、その頬に厳粛さを取り戻していく。そして十一枚目、表。十二枚目、表、十三枚目、表。十四枚目も十五枚目も十六枚目も十七枚目も、みな表。出る目、出る目が、みな表。
三十枚、四十枚と。
神奈子が鉄片を放って枚数を重ねていくうち、怪訝そうであったりいら立ったりしていた将兵の顔は、ひとり、またひとりと、自信を取り戻していく。勝利への自信であった。生きて帰れるかもしれぬということへの自信であった。然るにそれは、最初に神奈子が口にしたごとく、皆が信頼を取り戻していったことの謂いに他ならなかったであろう。勝利への、生還への信頼。仲間への信頼、郷里で待つ家族への信頼。そして自分たちを導いてくれる御大将たる八坂の神と、この神に信じられることができているという、自分たちの勇気への信頼。
「勝てる」
誰かが、そう口にした。
「生きて帰れる」
別の誰かが、そう言った。
「このいくさに勝てるぞ。おれたちは、生きて帰れる」
絶えざる風の音さえ突き破って、唄うごとく皆が言った。
「そうだ、勝てる。われらは勝てる。見よ、これが最後の一枚ぞ」
自身もまた兵たちと同じように呟いて――神奈子はその手に在った最後の鉄片、五十枚目を放って見せた。
その出目は…………確かに、間違いようもなく、表。
紐通しの穴を囲む丸い彫り込みが、王者の栄冠のように輝いてさえ見える。
瞬間、「どッ!」とばかりに、三千の男たちが一斉に湧き返った。人のかたちをした洪水が、大歓喜の鯨波となって、天地を幾度もどよもした。雄々しく響き渡る狂喜の渦は、眼にこそ見えぬ音の大波と化したものか、本陣を押し包む篝火の明るみをも一瞬、揺るがせたかのようである。男たちは諦めと後悔とを食んでいた口で次々に八坂神を称え、その不可思議にして精妙な霊感の偉大さを謳った。諸軍率いる大将たちは、未だ訝しげなものを頬の真裏に張りつかせていたようではあったけれど、しかし、実際に眼の前に起こったことである。信じられぬが信じざるを得ぬ、と、いったように、感嘆ばかりが浮かび上がっていた。
神奈子は、皆の喜びをその身いっぱいで引き受けるように大きくうなずくと、おもむろに片手を上げて兵たちの騒ぎを制した。いかにこの『儀式』が成功して戦勝が占われたとしても、狂騒ばかりが先走っていては一軍の形成はおぼつかない。
皆が静まりかえり、心から御大将の話を聞こうとする準備を調えるまで、神奈子はまたしばし待つ。そして、自身、大きな力を振り絞ったのだとでも言うごとく、幾度か深い呼吸をした。
「卜占の結果はこの通り。見られぬ者には、見た者たちが口で伝えよ。皆が力を合わせ、一心に勝利を祈念し、この八坂を信じてくれれば――先ほどすでに起こったごとく、天地の道理さえ操れるのだと。時々の運さえ手にできるのだと」
兵たちはうなずくことも忘れ、夢中に神奈子の“次”を待っている。
皆が取り戻した士気、そのすべてに今度こそ真の許しを与えるべく、神奈子は力強くうなずいた。
「喜べ。われらは勝つと、今このときに定まったのだ!」