Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第十話

2013/10/03 22:14:06
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 もう直ぐ決戦なのだという噂が諏訪方の将兵たちに走ったのは、『晩の食事を摂る頃合いは全軍で統一せよ』という下知がくだされたのと、まったく同じ段でのことだ。

 三千を超える規模の集団へ、あたかも夏の夜に走る稲妻のような勢いで決戦近しの噂が行き渡ったのは、それだけ皆が、迫りくる戦いに不安と期待を抱いているせいだ。兵の大半は、各地で召集された農民兵である。何せ冬場は農閑期であるから、その間の収入は途絶えがちになる。しかしこの降って湧いたような辰野でのいくさのおかげで、いわば『臨時収入』の当てが立った。上手く勝てれば、戦地での略奪もできるという腹である。

 が、それは裏を返せば、いくさという命がけの場で無事に生き残るというのが前提にして絶対の条件。負ければ臨時収入どころか野ざらしの骸となり、野の鳥獣の腹を満たすことになってしまうだろう。かてて加えて、

「くそっ、咳が止まらねえ」
「こんなときにいくさなんて……いくらこっちには神さまがついてらっしゃるとはいえな」

 咳やくしゃみの音々とともに、そんな恨みごとが各々の陣営から漏れ伝わってくるのであった。少なからざる兵たちが疲弊し、風気や咳病といった冬場の病に罹る者も出始めているのである。軍団の大半を構成する三千の北科野兵は、元をただせばジクイたち南科野勢への牽制として挙行する狩競のため、数月前に召集された軍勢だ。郷里を離れた場でいつ始まるか解らぬいくさを待ち続けていれば、心身ともに相応の疲れが溜まっていく。病者が蔓延し始めるのも無理からぬことではあった。

 だからこそ、今、この段階でのいくさは半ば賭けに等しき部分がある。
 自ら陣営を突っ切って、横目に将兵の様子を観察しながら、諏訪子はひしひしとそう感じていた。

「口にする飯は温かそうであるのに、皆々、いずこの兵を見回しても寒々としたものを抱えておるように見える」

 歩くたび、甲冑から金属(かね)の音を立てながら、諏訪子は呟いた。諏訪方の本陣へ続く道すがらのことだ。ちらと各所の陣に眼を配りつつ歩いてきたが、食事の頃合いというのに兵たちの顔には喜びようが少ない。血気盛んに手柄立てんと息巻くことの多い若年の者たちですら、汁の入った椀を手にしたまま、咳と溜め息の入り混じったものを吐いている有り様だ。まずもって容体の軽い重いを問わず、大勢の将兵は風気の気味のようである。「困ったな」と、諏訪子はまた呟く。

「決戦を前にして飯を食わすに異論はないが……こうも士気の上がらぬでは、数で押しても苦しい戦いを強いられるに違いない」

 諏訪子の供をしていた将が、やはり困り顔でうなずいた。

「おまけに、ジクイどの率いる赤須勢の抜け駆け、さらにまたその敗戦で各陣営に動揺が走っておりまする。この士気の低さに手をこまねいていては、いずれ諏訪方より離反する――とまでは言わぬまでも、八坂さまより下知を受けても動かぬ隊がいくさ場にて出始めるやも」
「功名は惜しいが、それ以上に兵の命が惜しい。それはいずこの将とて同じことであろう。兵らは普段、鋤(すき)や鍬(くわ)や鎌を握っている者たちだ。いたずらに死なせたではその者たちの郷里に残してきた父母や妻子に申しわけが立たぬし、何より田畑を耕す者が居なくなり、結果として作物の出が悪くなる。そうなると、税も思うさま上がらぬ」
「実は、余計に士気を損ねる恐れがあるので大きな声では言えませぬが…………」

 供の将は、身を屈めて諏訪子に耳打ちをした。
 歩みを止めることなく、それに聞き入る彼女。
 もう神奈子が待つ本陣までは、あと少しである。

「すでに、方々では少数ながら脱走者が出始めておるとか」
「ほおう。病んで気弱になったものかな」
「いっそわれら後詰めの下諏訪勢も、病者多きを口実として動かぬという手もございまする。味方が弱っておるのであれば、あとあと後詰めの軍が引っ張り出される事態になるのは容易に想像がつき申す」

 冗談とも本気ともつかぬ将の提案を、諏訪子は「何をばかな」と一蹴した。
 確かに、それもひとつの『やり方』ではあろう。南科野の安定のためユグルを討つという大義のもと、この辰野に集まった科野諸軍。腹のうちには各々で黒いものを秘めていようとも、皆でその黒さはきっと違う。斯様な場所で戦力を減らすことなく、“後々のため”に温存すべしという発想には一応の理があろう。だが。

「今は未だ、利あらず。――――そのように申せば其許は満足か?」

 供の将は、何も言い返さなかった。
 諏訪子の方でも、今この場ではっきりとした結論を彼に伝えるつもりはない。しかし、ひとつだけ解りきったことは、『現在の情勢において八坂神奈子に対抗するのは無謀である』ということだ。そこまでは、さすがに諏訪子も口には出さなかった。将はしばし無言でいたが、やがて彼の腹からはぐうぐうと空きっ腹の音が鳴った。思わず、諏訪子と将とは顔を見合わせて苦笑いする。

「ま、ともかくよ。ひとまず粥でも啜って粥を満たしてくるが良い。本陣までの供、御苦労であった」

 そう言うと諏訪子は将に背を向けた。今度はひとりで歩き出す。行き交う将兵の足取りで幾度となくかき混ぜられた雪の地面は、その下の土と混じって白と茶の“まだら”と化していた。それを踏み越えていく諏訪子の背に向けて、将は最後に頭を下げたが、彼女の方ではもう振り返りもしない。このいくさの行く末が――、つまりは今後の政の行く末こそ、王としての彼女の眼が見ているものであるに違いない。

「戦力の温存か。……よもや、神奈子とは互いに兵を構えて相対する事態には、二度はなりとうないものだが」

 それでもどうにか――ギジチさえ上手く飼い慣らせば、流れを手にする助けにはなろう。
 飯炊きの煙が幾筋も刻まれる夜空を睨み、諏訪子は歯を軋らせるのだった。
 目前には、神奈子の待つ本陣が在る。


――――――


「来たか」

 諏訪子が陣幕を手で除け、本陣に入っていくと、総大将はちょうど食事の最中であった。床几に腰を下ろし、椀から粥をすすっている神奈子。辺りには他に将らしい将もない。皆それぞれの陣営に帰って、しばしの休息を取っているのだろう。実際のいくさで命の遣り取りをせずとも、いつ戦いがあるかというその事実だけで心身に疲労は溜まるものだ。

 箸の先で、飯粒のひとつひとつまでていねいに口のなかへ取り込みながら、神奈子はじいろと諏訪子を見た。促されるともなく、彼女は空いた床几に腰を下ろした。ちょうど、ふたりは真っ直ぐ向かい合うかたちになる。神奈子が食事を終えるまで、しばし諏訪子は待っていた。神奈子の方では相も変わらず悠然と粥を掻き込んでいるが、その手つきはさすがに最初よりすばやくなっている。眼の前の相手を待たせるまいということだろう。

「飯はもう食うたか」
「粥と、草醤(くさびしお)を少し」
「なら良し。いくさ場では塩こそ貴ばれるものであるからな」

 ふたりのあいだには、やはり数枚の矢盾を組んでつくった即席の机がある。
 ことりと、神奈子は椀と箸を机に置いた。懐から布一枚を取り出して、口元を拭いてから話を再開する。

「先にも伝えた通りだ。降将ノオリのもたらした報せにより、ようやく辰野攻略の糸口が見えてきた。すべての陣営に一時に晩の飯を摂らせたのも、次こそまことの決戦と定めたがため」

 むろん、解っておろう……と。

 床几をわずか軋らせるように、神奈子は身を乗り出して諏訪子を見る。彼女もこくりとうなずいて、それからひとつ、溜め息を吐いた。重々しく双肩に圧し掛かっていた荷物をようやく取り除ける――そんな期待が兆してきたからだ。「次こそ決戦であると、兵らのあいだではとうに噂になっておりまする」と、諏訪子は言った。「皆々、さすがに“読めて”おりましょう。いかに兵らが無学な民百姓といえど、実際の戦いにおいて命がけで戦うは他ならぬ彼ら。何とはなしに、いくさが放つにおいのようなものを嗅ぎ取っているのです。あたかも鳥獣が、山に踏み込んできた狩人の持つ、弓矢の金気(かなけ)を知るように」。

 そうまで言われると、神奈子の方でもうなずかざるを得ない。

 自信たっぷりに彼女はうなずいた。すでにノオリから得た情報を基に、戦いの算段はおおよそつけられているに違いない。未だ秘して明かされぬその策に、支えられている八坂神奈子の戦意であろう。諏訪子は、少しく安堵した。総大将とはそういうものだ。いちばん上に立つ将が真っ先に動揺してしまっては、下の兵らに示しがつかぬ。士気が低下し、戦いにならない。だからこそ、

「なれど、兵らは疲弊しておりまする」

 と、諏訪子ははっきりと告げることをした。
 くいと神奈子の目蓋が上がる。面白いものを見たという顔に、軍神はなった。

「兵らは疲弊しておりまする。あまり出兵が長きに渡り、いつ戦いが始まるかという不安のゆえに。また、冬の寒さで風気や咳病に蝕まれるがゆえに」

 手のひらの上で握り締められた諏訪子の両の拳は、その内側ですっかり汗をかいていた。
 ひょっとすると、今このときにもっとも口にしてはいけない事実を口にしたのではないかという気持ちもあった。相手は次こそ決戦との気運を昂ぶらせているのだ。そんなときにいたずらに意気を喪わすようなことがあっては、本当に、この戦いにおける最適の『勝ちどき』というものを見失ってしまう。

 ――しかし、神奈子は笑った。

 いつもの彼女らしい、尊大で、余裕に満ちた大笑であった。
 怒りを買わぬまでも、“梯子を外される”ことでいら立ちくらいはするだろうと思っていた相手が、予想外に上機嫌の面構えを見せたことで、諏訪子は驚くどころかむしろ狼狽する。手のひらに汗の滲んだ拳を開く。緊張が、ちょっとばかりも和らいでいく。

「むろん、諏訪子の気にかけておることは、この八坂にも解っておる。だからこそ、ジクイの敗戦に際して軍団の再編を命じたのであるし、」

 少しだけ首を伸ばし、耳打ちをしたいかのような姿勢に神奈子はなった。
 あいだに机を挟んでいるから、むろん、本当の耳打ちはできないが、さすがにその声だけはすぼめられている。風が吹き抜けて声音の漏れるを防ぐ幕となり、ふたりの話は本陣から外には決して届きはせぬだろうと思われる。

「何より諏訪子、そなたに頼んで“アレ”を用立てておいてもろうたのだ。このようなこと密かに頼めるは、そなたしかおるまい。使うは今ぞ」
「……承知しておりまする。今も、ほらこうして」

 言うと諏訪子は懐から、金属(かね)の片の束を取り出した。
 いや、金属の片とは言っても、路傍に転がる石ころのようにまったく不揃いの見た目をしているわけではない。形こそそれぞれに歪なものを残しながら、それらの金属はおおよそ薄く円いかたちをしていた。中央部分には例外なく穴が開けられており、そこに紐を通すことで束と成し、持ち運べるようになっている。この種の金属に特有の血液に似たにおいが、風に混じって諏訪子の鼻に触れた。件の金属の束なるもの、それは鉄を連ねたものであった。

 小柄な少女の体格ゆえ机に大きく身を乗り出し、諏訪子は『束』を神奈子に渡す。
 それを受け取りながら、相手はにやと満足げな微笑を見せる。

「仰せの通り――鉄の金屑を五十枚で一束、確かに下諏訪より用立ててまいりました」
「うん、御苦労であった。ひとまずこれで十分だ」
「鍛冶場に赴いて調達して参ったものにございまするが、職人たちからは相当に訝しがられましたぞ。いくさへ赴くに剣や矛や鏃(やじり)なら未だ解るが、わざわざ鉄の金屑を持って行くなど聞いたことがないと」

 諏訪子も神奈子も、苦笑をした。

「は、は……。しかし、いくさに間に合うてくれたのが何よりのさいわいだ。否、武器をつくるのに出る屑鉄なれば、そう焦らずとも良かったか」
「なれど、八坂さま」
「どうした」
「いくさに鉄の金屑など、いったい何に使うおつもりにございまするか」

 満足げな神奈子に、フと諏訪子が訊ねる。

 それは出兵前、神奈子に五十枚の鉄片の調達を命じられたときから、ずっと抱いていた疑問であった。すなわち彼女もまた、この道具が戦場でどのように活かされるのか、まるで見当もつかなかったのである。武器や農具にも使えず、貨幣としても小遣い程度になるかならぬかというような、正真正銘の粗悪な『屑』の鉄だ。元より神奈子は策が漏れるのを怖れて秘密を貫いていた。重臣の筆頭のような立場にある諏訪子にさえ、詳しいことは解らない。

 ふふン、と、神奈子はやはり自慢げに鼻を鳴らす。
 己の作戦に、よほどの自信があるのが窺われる。
 彼女の手から机の上に横たえられた鉄片が立てる「じゃりり」という音は、あたかも勝利を確信する笑い声のように聞こえた。それに乗ずるかのごとく、神奈子はいっそう深く笑む。そして、おもむろに訊ねてきた。

「諏訪子。この科野一帯の民人のあいだでは、土着の神にも拠らぬような卜占(うらない)として、斯様な鉄片を用いたものがあるらしいな」
「は、あ……。それほどよく存じ上げてはおりませぬが。先々に行われる物事の是非を見るに、身の周りの道具を用いた戯れじみた卜占がまま行われるとか」

 諏訪子は小首を傾げた。
 卜占といっても、民衆のあいだに在るのは祭祀や信仰を伴わないほど簡素なものだ。顕著な例を挙げるなら、――放り投げた靴の向きで明日の天気を見るとか、花占いで異性の気持ちを窺い知るとか、そういう、ごく些細で素朴なものである。鉄片を用いたものもまた、鍛冶場から出たような屑鉄を拾って誰かが始めたものであろう。なれどよもや、と、諏訪子は考える。

「いくさの命運を、児戯のごとき卜占に託するつもりにございまするか」

 だが、神奈子はやはりにやにやと笑っているだけだ。
 すると、いっこうその悠然たる態度を崩さず、軍神はこう答えたのである。

「塵も積もれば山となる、とも申す。ひとつひとつは小遣いにすらならぬ屑鉄でも、われらはこの五十枚により、三千の兵の“意気を買う”のだ」


――――――


 大勢の将兵がいちどに動いてひとつの場所を目指すというのは、あたかも、小さな山がまるごと地表を移動しているかのような感がある。山上に布陣するユグル陣営と相対する諏訪方の軍もまた、小さな山が動くかのように、ぞろぞろと移動を開始した。

 とはいってもそれは、ついに諏訪の本隊が進軍を開始したということではなかった。

 諸軍の将兵は晩の食事を終え次第、各々の陣を出、総大将の居る本陣近くにまで参じよという布告(ふれ)が下ったのである。将たち――少数でも兵を統率する立場にある部隊長格まで含めて――は、億劫げな兵たちの尻をひっぱたくみたいにして、どうにか皆を立ち上がらせる。折からの雪、風、寒さ。病から来る咳やくしゃみ。つけ加えるなら食後の眠気に襲われる諏訪方の者たちは、先ほどまで粥を熱していた焚き火の温かさを惜しみつつ、ぶつくさ文句を言いながら、ついにとぼとぼと歩きだした。

 種々の愚痴やら根拠のよく解らない噂が、移動中の兵たちの口からは次から次へと飛び出した。兵が寒さに耐えて薄い粥をすすっているのに、将たちは館に居るのと同じようにあたたかな酒と飯を貪り、女遊びをしているとか。山々の稜線を這うような、巨大な狼の大群を見たとか。あるいは敵の勢力はこちらが見積もっているよりはるかに強大であり、朝焼けのときには山を駆け下って総攻撃を行う予定だとか。その手の噂話の類は、まこと、枚挙にいとまがないのである。そして取りも直さず、そういういら立ち混じりの言葉が誰に吹き込まれるでもなく出てくるというのは、

「いったい、いつまでいくさ支度のままで居れば良いんだ……」

 という、これもまた誰が最初に抱いたか解らない不満が沈滞しているということを、証明していると言えるのであろう。命じられた通り歩みを進めるよりも、口を動かして愚痴を言い合う方がより活発なのは、どこの陣営の兵もだいたい同じ様相であった。

 とはいえ、そのようななかにあってもなお、

「ようよう、皆も集まってきたな」

 未だ本陣のうちに身を置いて、神奈子はあくまで余裕ぶりを崩さない。
 彼女は陣幕を指でわずかに除け、ちらと“外”を覗いている。
 いずこの陣営でも『いよいよ総攻めで城を落とさんとしている』――と考えてか、直後にあるだろう戦いに備えるかたちで、将兵はみな手に手に矛や盾を持ち、続々と陣の周囲に集結してくる。晩飯を食ったばかりなので空腹こそ誰の顔にもなかったが、夜の寒さにぶるぶると肩を震わせて、斯様な集まりを疎んじているというのだけは遠くから見ても明らかだった。

「ちょっと迂闊なことを言えば……」

 本陣で床几に腰を下ろしていた諏訪子が、ちらと眼ばかりで神奈子の姿を追い、語る。

「相手が軍神八坂とはいえ、石つぶてのひとつやふたつ、投げつけられましょう」

 そこまで言って、諏訪子はぷッと吹きだした。
 自分で言って、やけに可笑しかったのである。いつも自信満々な神奈子が、一介の兵士たちに石を投げつけられて不満をぶつけられる。今までだったら想像もできないような光景だが、そんな情けなさがもしあるなら反対に気になってしまうというもの。着物の袖で唇こそ隠しながら、声ばかりは憚ることなく笑っていた。応じて、神奈子も笑った。

「好き勝手なことを申すやつめが。“策”が失敗すれば、芋の蔓を引くように、この八坂に従うそなたもまた兵らには嫌われよう」
「さあ、て。そうならぬよう願うておくが、今は諏訪子の仕事にございまするが……」

 笑いも、話していれば段々と静まってくる。
 諏訪子はいつもの表情に戻り、涼しい眼で神奈子を見る。
 軍神の髪は先立って櫛を通され、一本の乱れもなくなっている。いくさに向かう陣のさなかとはいえ、総大将が身綺麗にしておらぬでは格好もつかぬというものだ。

 まして、――これから神奈子は大勢の将兵の前に出で、“ひと芝居”を打たねばならぬという立場。そのことを諏訪子は知っている。此度の“策”に関しては、先ほど、ようやく神奈子から聞かされた。乾坤一擲、とはまさにこのことだと、人の運命を左右することのできる神の身ながら、彼女は呆れ果ててしまったくらいであった。いや、その神の存立さえ人の思いの中から生まれるのだから、“策”によってその気持ちを動かすことも決してばかにはできまい。とにかく、これから行われる神奈子のひと芝居が、いくさの勝敗を左右することになるに違いない。

「準備が整いました。各陣営の将兵、皆々、揃って本陣に集まり終えたとの由」

 やがて伝令の兵が駆けこみ、状況を報せてくる。
 諸軍は怠りなく集結し、後は総大将が姿を現すのを待つばかりである。

「ようし、解った。直ぐに参ろう。……諏訪子、そなたは先に行っておれ」
「は」

 促され、諏訪子は立ち上がる。
 外で待っていた幾人かの供回りを引き連れ、足早に自軍のもとへと引き返していった。
 もう彼女は本陣を振り返らなかった。他人に石を投げつけられる情けない神奈子を、ちょっとは見てみたいという気持ちのせいだろうか。

 一方、諏訪子を見送りながら、神奈子は大きく息を吐いた。

 これはユグルとの決戦に先駆けた、いわば『緒戦』に位置づけるべきもの。兵たちの腹を満たし、心を満たさねば、いくさはいくさとならぬ。そのために使われる道具立てに、武器かそうでないかの明確な区別など必要ではない。いや、それが有用であると解ったならば、どんな下らぬ物を使用したとて勝たねばならぬ。いくさは命の遣り取りである。将兵を無駄に死なせるは、いくさに対してもっとも大きな冒涜である。どうせ死ぬなら、皆々、有意に死なねばならぬ。そのための手段を、神奈子はいま持っているのだ。

「よし」

 短く呟くと、神奈子はようやく本陣を出た。
その手に提げた五十枚の鉄片が、風に揺られて耳に障る音を立てていた。



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