描写、表現に不快の念を抱かれる方がいらっしゃるかも知れません。
また、独自の解釈が多く見られます。
御注意をお願いします。
ジギタリス
花ことば――誠心誠意・胸の想い・熱い胸の内・熱情・隠されない恋・熱愛・青春・健康的・不誠実・ふまじめ
――――花ことばと神話・伝説
伊宮伶/2006年
1
紫色の花が空に向かって突き出すように咲いていた。釣鐘が幾重にも連なったような形をしている花だ。
森近霖之助はその花に奇妙な既視感を覚えていた。
それを見つけたのは人里へ向かう道の途中だった。
――何の花だったかな……。
確かに見覚えがある。しかし、暑さのあまり思考が麻痺しているのか思い出せない。物の名前に拘りがある霖之助が物の名前を忘れていることはごく稀だった。
森からけたたましい音がしている。
その音は蝉の鳴き声に似ていたが、今まで聞いたどの蝉の鳴き方にも当てはまらない特徴があった。
幻想郷ではどんな不可思議なことも起こり得る。山では天狗が自然ではあり得ないような音を出すこともままある。今、外縁を歩いている魔法の森でも同じようなことがないとは言い切れない。
しかし、霖之助には確信があった。木の近くで少し小さな蝉の抜け殻を見つけたのだ。
答えは単純明快である。普段は複雑な理論を巡らせることが多いが、単純な論理も悪くない。
原因は判明したものの、この度を越して五月蠅い音を止める方法が思い浮かばない。窓を開けられないほど蝉の声が騒々しい以上、この暑い時期に屋内に篭っているのは具合が悪い。霖之助は道具屋であるから商品の状態も気になる。
避暑と蝉の駆除法を求め、人里に向かうことにしたのだった。
炎天下の道程は想像していた以上に厳しいものだった。汗が滝のように流れ出る。服が汗を吸ってべたつき、気持ちが悪い。道がでこぼこと起伏に富んでいるため、余計に体力を奪われる。
面倒臭がらず夏服を用意すれば良かったと霖之助は今更ながら後悔した。
正午に近づくにつれて日差しはますます強くなる。風も申し訳程度のそよ風で、吹いたところで少しも涼しくならなかった。
霖之助は少しくらりとした。
――さっきの花は……。
頭が呆けているのかさっき見た花が妙に気になる。だが、もう大分離れている。この熱気の中わざわざ引き返して摘む気にもなれなかった。
脱水症状を起こしているのか目眩と頭痛がした。
空は雲一つなく底抜けに青いというのに気分が優れない。
地面から起こる陽炎のせいで遠くの景色が揺らいで見える。不安定な道を歩いているせいか平衡感覚も狂っているようだった。現と幻が、現在と過去が入り混じっているような気がした。
霖之助はガラス魔法瓶に詰めた水を一口呑んだ。
2.
道具屋の大きな敷地の隅に小さな庵があった。
横には小さな畑があり、茄子や胡瓜がなっていた。手入れが行き届いている畑の隅に花が最近摘み取られた跡がある。
畑の周りには動物除けの風車が挿してあるが、風が弱くどれも回っていない。
庵の主は霖之助の知己である。だが、しばらく会ってない手前、ひどく緊張して戸を叩いた。
入りなさい霖之助、と中からよく響く声がした。
戸を開けると風が通り抜け、線香の臭いが鼻をついた。
部屋の奥には一人の老人が座っていた。肺病でも患ったかのように痩せさらばえているが、にこにこと愛想は良い。
霖之助が座る前から、二人分の座布団と冷たいお茶に切り分けた西瓜が用意されていた。
「お久しぶりです、親父さん」
「本当に久しぶりだな、霖之助」
最後に会ってからもう十年以上になるか、と親父さんは言った。
「僕が来ることを知っていたんですか」
「さあてね」
老人は柔和な笑みを浮かべながら答えた。太い眉の下がった優しそうな顔立ちをしている。
「僕が来るところを見ていたんでしょう?」
「どうして突然来たのに来客の準備がしてあるんだとか、千里眼が使えるんですかとは言わないんだな。
昔はしょっちゅうそんなことを言っていただろう。変に理屈を飛躍させないあたり、お前も少しは成長したのかな」
くっくっくと親父さんはからかうように声を上げて笑った。
「女将さんとお嬢さんの墓参りに行っていたのですか」
この庵の裏手には二人の墓がある。そこからはかなり遠くまで見通せるはずだった。
「随分と唐突だな。どうしてそう考えたんだ?」
「畑に花を摘んだ跡がありました。
八月半ばのこの時期に花を摘むとなれば仏花にして墓に供えるのが普通でしょう。
それに部屋に入ったときに線香の匂いがしましたから。
墓の辺りからは僕が来るところも見えたはずです」
「畑にあったのが花だと、どうやって断定したのかを詳しく聞きたいところだが……。
確かにその通りで、さっき墓参りしたところからお前が来るところが見えただけだよ。
本当に多少はましになったみたいだな」
からかわないで下さいよ、と霖之助は言った。
親父さんがあまり変わっていないことに霖之助は安心した。
十年前よりも白髪は増えたが、まだかくしゃくとしていて、背も曲がっていない。
以前よりも部屋にある本が増えたようで、和綴じの黄表紙からキリル文字で書かれたハードカバーまでが整然と積まれている。
出して貰った西瓜を口にする。やけに良く冷えている。一、二時間程度ではここまで冷えないだろう。しかし、それでは霖之助が来ることを知ってからでは間に合わない。
そもそもこの庵で一人暮らしをしている親父さんが二人分の西瓜を用意していることも不思議である。
「やはり親父さんはだいぶ前から僕が訪れることを予知していたのですか」
やっぱり何も変わっていなかったな、と親父さんは溜息をついた。
「西瓜のことを言っているのなら、ただの偶然だぞ。
たまたま今日貰ったもので、わざわざ冷やした状態でその人が持ってきてくれただけのことだ。
それにしてもわからないのは仕方がないが、いい加減な論理を口にするなとあれほど言っていただろうに」
あっさりやり込められてしまった。親父さんは寺子屋の先生の様な話し方をする。半人半妖の霖之助の方が年上なはずなのだが、話していると自分が子供のように思えてくる。
親父さんも隠居する前は道具屋の主人をしていて、霖之助もそこで修業をしていた。もう二十年ほど前の話である。
昔と変わらない謎かけのようなやり取りで、霖之助の緊張はほぐれてきた。
「商売は上手くいっているのか」
「ぼちぼちですよ」
一週間絶食しない程度には食べられている。
親父さんは霖之助をじろりと見た。
「お前は昔からずぼらだからな。
幾らお前が半分妖怪で体は平気でも、心の健康には注意しなければならない。
ちゃんと食事をとって、生活のリズムを整えることも大切だ」
心中を見透かされたような気がした。これ以上自分のことについて話すのは具合が悪そうだ。
「僕に関することはいいとして……、あの子も元気にしていますよ。
どうせこちらには顔も見せていないんでしょう?」
「……」
親父さんはしばらく黙っていた。
ふうん、元気ね、と気のない声で親父さんは言った。
平静を装っているが、抑揚のない物言いが逆に白々しい。
本当は心配で仕方がないのだろう。たった一人の孫娘である。
あの子は父親とは仲たがいしているはずだが、祖父であるこの人とは特に仲が悪い訳ではない。
この老人の七面倒臭い性格を苦手にしているところはあるのかもしれないが。
しかし、ここに寄りつかないことは彼女の強い自立心の表れに違いない。親父さんに会えば里心が付くし、世話も焼かれることも知っているのだ。
今でも親父さんは気付かないところで、あの子の世話を焼いているのだろう。間接的な援助というなら、霖之助が時々お節介をすることもその範疇に入りそうである。
「あんな奴だが、一応私の孫だ。余裕があれば気にかけてやってくれ」
言われるまでもない。霖之助もあの子には思い入れがある。
世間話を一通りしたところで本題を切り出す。
「ところで親父さん、今聞こえている低いうねりのような音――十一年前にも聞いたことのある音なのですが、これは蝉の鳴き声で間違いなさそうですよ」
「へぇ、知らなかったな。それは確かなのか」
「ええ間違いありません。森の木の上から聞こえてきましたし、その木のそばに抜け殻がありましたから」
親父さんの目つきが鋭くなる。
「そうとは限らないぞ。
蝉の抜け殻とは直接関係がないことだって考えられる。
たまたま今年は珍しい鳥が渡ってきて、それが鳴いているだけ、という可能性もある。蝉は良い餌になるから鳥も呼び寄せられるかもしれん」
確かな自信があったのに難癖をつけられたようで納得がいかない。
「そんなの屁理屈じゃないですか」
親父さんは呆れたように返した。
「さっき話したばかりだろう。
冷えた西瓜を出したことと、お前が来ることをだいぶ前から察知していたかもしれないと言うことは全く関係がなかった。
一見因果関係があるようなことでも、厳密に検証してみると何の関係もないことがある。
抜け殻と蝉の鳴き声を結び付けることはかなり可能性が高いだろうが、もっと確実な証拠が欲しいところだな。
特に本に載せたいなんて考えているときは慎重にならないといけない」
本を書いていることまで見透かされていたとは思わなかった。
「さらに、本当にその蝉が本当に普通の蝉と違う種類なのかも十分な検証も必要だ。
幻想郷でそこまでするのは無理だろうが、本当は多くの知識人に査読もして貰わなければならない。
本を出すことは実に大変なことなんだ。それがお前が憧れている外の世界で本を出すときの基準だ。
一先ず、過去の記録を確認するなり、蝉を実際に捕まえてみるなりもっと詳しく調べてみなさい」
記録を調べるなら稗田の家に行くと良いだろう、と親父さんは付け加えた。
小言を言いながらも助言をしてくれた親父さんに霖之助は感謝した。
帰り際、機会があればあの子にも分けてやってくれと、親父さんは蜆の佃煮を持たせてくれた。
たまにはここに顔を出すよう、さり気なくあの子にも言っておかなければと霖之助は思った。
午後も過ぎていたが、まださんさんと太陽が照りつけて外は暑かった。
3
気が付くと朝日が差し込み、雀が鳴いていた。佃煮を肴に晩酌をしているうちに寝てしまったらしい。
昨日は稗田家に寄って帰って来るとすでに日が暮れていて、蝉について調べることができなかった。
相変わらず眠りは浅かったが、体は十分に動いてくれそうだ。
――早速、検証をしないと。
椅子で寝たせいで強張った体を起こした。
蝉は簡単に捕まえられた。昨日、稗田家に寄るついでに貸本屋で図鑑を借りたのだが、確かにこの蝉は本に載っていない。
しばらく虫籠に入れて置くと、例の声で鳴いた。
これだけの証拠が集まれば本に載せるのにも十分と言えるだろう。
森の近くで、昨日見つけた紫色の花が憂鬱そうに咲いていた。
やはり見覚えがあるのだが、名前が思い出せない。
少々不気味な姿をしているが美しい花だった。霖之助は奇妙に惹かれるその花を一本摘んだ。
空が暮れなずんでいた。もうお盆過ぎである。すでに日暮れが早くなってきていることを感じた。
山が、森が茜色に染まる。ねぐらへと帰るカラスの鳴き声がどこか郷愁を誘う。
店に入ってすぐに花を活けた。いずれ名前を調べなければならない。
夕食を取った後、検証した事項を本に書きつけた。日中と比べると涼しくなってきたので、本の執筆もはかどる。
確かに十一年前にもあの蝉の鳴き声を聞いた。稗田家の記録によるとその十一年前にも鳴いていたそうだ。
外の世界では十三年や十七年と言う素数の周期で発生する蝉がいるらしい。この蝉は十一年周期で発生する素数ゼミなのだろう。
――十一年前か……。
十一年前の今頃、何をしていただろうか。
――さらにその十一年前は……。
筆を置き、酒をあおった。
強さが売りの安酒だ。酒が血を巡り、頭がぼやける。
霖之助は欠けた花瓶に活けた花を見た。
――この花は……。
この花は何か大切なものであったような気がした。
――これは確か……。
霖之助の意識は過去に飛んだ。
4
かつて恋い焦がれた女性がいた。
その女性の心は自分に向けられていなかった。片想いだった。
彼女は道具屋の娘で、霖之助が店に修行に来た時には十にも満たない子供だった。
小さいころから気立てが良く、鬱屈とした霖之助にもよく懐いた。
霖之助にとって妹や娘のような存在だった。無愛想で人付き合いが苦手な霖之助は彼女がいることで救われたとことが幾度もあった。
幼子は成長し、少女になる。
年頃の少女の成長は素晴らしく、日に日に美しくなっていくのが目に見えてわかった。そのさまは感動的で、小さな蕾が膨らみ、美しく花開いていくかのようだった。
いつしか彼女に対する霖之助の感情も焼けつくような想いへと変わっていた。
容貌は、派手さがなく平凡で十人並みだったかもしれない。しかし、霖之助にとって彼女はこの世で最も美しい存在だった。
何より心惹かれたのは彼女の心持だった。一見すると大人しいだけだが、明るく、よく冗談を言った。優しく温かみのある性格だった。
霖之助は彼女に贈り物をしたことがある。
用事で神社に向かった帰りに、道端で咲いていた綺麗な紫色の花を摘んで来たのだ。
特にどうしようという意図があったわけではない。ただ漠然と彼女が喜んでくれることを期待していた。
――欲しいと言えば分けてやろうかな。
自分の方から送ることなど考えられなかった。女性が苦手な訳ではないが、どうしても彼女に対してそんなことは出来なかった。
花を持っている姿を見ても彼女が何も言わなければ、適当に自分の部屋にでも飾ろう、と思っていた。
店に帰った霖之助が花を持っているのを見て彼女は、くすりと笑った。
――霖兄さんったら、それは狐の手袋――ジギタリスって言う毒草ですよ。
顔から火が出た。のぼせ上って確認することさえ忘れていた。
――お父さんに見つかると、色々と面倒ですよ。
彼女は花をそっと受け取った。その時、彼女の髪から芳しい香りがしたことを昨日のことのように覚えている。
彼女は誰にも見つからないようにジギタリスを自分の部屋と霖之助の部屋に活けた。
――毒草でも綺麗だから良いじゃないですか。
――鈴蘭も水仙も毒があるんですから。
彼女は無邪気に笑って言った。
ジギタリスは枯れるまで二週間ほど大切に飾られていた。
彼女は崇高で侵されざる存在だった。霖之助は生まれてこの方、これほど美しく慈しむべきものに出会ったことはなかった。
触れてはならないとわかっていた。
――僕は人間ではないから。
幾ら他人への関心が薄いとは言え、彼女とそういう関係になれば店や彼女にどれほど大きな迷惑が掛かるかは理解しているつもりだった。
そもそも年齢や寿命が違い過ぎて、深い関係になったとしても上手くいきそうにもない。
愛し渇望しながらも触れることさえできない高嶺の花だった。
ただ、そばで見守ることさえできれば良い。そう考えていた。
ちょうど、二世代前の十一年蝉が現れる頃、霖之助は店で働いていた男に誘われ、二人で酒を呑んだ。
男は霖之助よりも後に道具屋に入ったが、店を切り回す能力に長けていて親父さんにも目をかけられていた。少々頭の固い性格だったが、その堅実さが受け入れられたのか得意先からの信頼も篤かった。
霖之助とは対照的な男だった。認めたくはないが霖之助は客商売に向いているとは言い難い。しかし、二人は妙に馬が合った。霖之助もそんな彼のことを弟のように可愛がっていた。
彼のほうでも霖之助を慕ってのことか、人付き合いの苦手な兄貴分をよく呑みに誘った。
その日は妙な空気があった。普段は配分を考えて呑む弟分が、やけに早い間隔で酒を頼む。何か重大なことを話そうとしている。そんな雰囲気があった。
二人とも十分に酒が回った後、男は切り出した。
――霖兄さん、俺、お嬢さんに結婚を申し込んだんだ。
彼は店に来てからずっと彼女に想いを寄せていたこと、婿養子に入って店の看板を継ぎ、彼女を幸せにする覚悟があることを語った。
そうか、と答える他になかった。
血が逆流しそうだった。深酒で意識を飛ばしてしまいたくなる。なんとかこらえて、平静を装った。
――それで親父さんはなんて言っているんだい?
――お嬢さんに任せるってさ。
あの人らしい意見だと思った。相変わらず娘に甘い。この男に店を継がせれば、次世代の店の繁栄は確実だとわかっているだろうに。
――お嬢さんは?
――いいって言ってくれたよ。
がつんと強い力で頭を殴られたようだった。
男は霖之助の気持ちも知らず、話を打ち明けた勢いに任せて酒を呑んだ。普段は気遣いができる癖に、肝心な時に限って感情の機微が読めていない。
反面その無神経さに感謝した。誰にも自分の想いが知られることがなくて安心した。
その日は、珍しく酔いつぶれたこの真面目な男を抱えて帰路に付いた。
祝言の日取りもとんとん拍子で決まった。
これで良いと思った。誰よりも彼女の幸せを望んでいたのは自分ではないかと。そもそも自分が彼女と結ばれるなどあり得るはずがないではないか。どこぞの馬の骨と結婚するより信頼できる弟分の方がずっと良い。いや、むしろこの二人は結ばれるべくして結ばれる良縁だ。良い家庭を築き、店を発展させるに違いない。
二人の幸せを願い、身を引くこと。それが最善の道のはずだった。
その日の夜、彼女の部屋に忍び込んだ。自分がどれだけ思いを寄せていたのかを知って欲しかった。
想いが報われなくとも、伝えることすらできないことは余りにも苦しかった。
手前勝手なのは理解していた。あまりにも遅すぎるし、今更こんなことをしても彼女に重荷を背負わせるだけである。
しかし、理屈ではなかった。ただ自分の想いを伝えることしか頭になかった。その先の結果を考慮する余裕などなかった。
彼女は何も言わず霖之助を部屋に入れてくれた。夜に婚姻の決まった女性が部屋に相手や家族以外の男を入れることはまずあり得ない。
やはり自分は兄のような存在でしかないのか、と霖之助は思った。この期に及んでこんなことを考えている自分の女々しさに呆れた。
一言も話せなかった。二人で押し黙ったまま、何時間も向き合っていたように思う。
勇気のなさが恨めしい反面、彼女を傷つけることなく済んで安堵する気持もあった。様々な感情がない交ぜになっていた。
顔を上げ、彼女と目を合わせた。
瞳の奥には憐憫の情があった。
――結局、そういうふうにしか見られていないんだな。
霖之助は立ち上がり立ち去ろうとした。もうこれ以上居ても辛いだけだった。
その時、彼女に袖を引かれた。
崇高な存在を汚した。
終始、彼女は憐れみの目で霖之助を見ていた。
罪悪感と劣等感に苛まれ、その日から熟睡できた日は一日としてない。
その一方で、背徳的な悦びを覚え、彼女の温もりを忘れることができない自分が酷く醜悪に思えた。
祝言はつつがなく済んだ。
二人は幸せそうだった。当然だが、あの日のことは霖之助と彼女しか知らない。
忘れてしまえば良い。忘れて欲しい。そう強く願った。
しかし、あの日覚えた二つの意味での敗北感を拭うことなど出来なかった。
店にいることが辛かった。周囲に露見することが怖かった。本当はもう皆知っていて、自分を蔑んでいると疑ってしまう。何より、自分が彼女に腫れ物のように思われているのでは、と考えてしまうことが嫌だった。
独立を考えるようになった。もう修業を始めて十五年近くになる。それに霖之助は年を取るのが普通の人間より遅い。人里に長居をすることは望ましくないだろう。潮時なのかもしれない。
彼女たち夫婦を初め、店の人たちは皆、霖之助が去ることを惜しんだ。
特に親父さんは強く引き留めてくれた。彼は霖之助の生い立ちを隠して雇い入れ、年齢も上手く誤魔化してきたのだ。
半妖であることを気に病んで霖之助は店を出ようとしている――自分に対して遠慮している、と親父さんは取っていたのだろう。
でも、それは違うのだ。
自分は彼に対しても酷い裏切りを働いている。それに、ここにいれば苦い思い出や強迫感に苛まれることになる。耐えられそうもなかった。
いっそ、親父さんに全て話してしまおうかとも思った。彼ならばどれほど酷いことをしたと言っても全てを受け入れて、何か解決策を考え出してくれるような気がした。
しかし、それは途方もなく卑怯な方法のように思えた。これ以上、愚劣な所業を重ねたくはなかった。
霖之助が新しい店を持って暫くした頃、彼女たち夫婦に娘が生まれた。
当然、霖之助の子ではない。
だが、彼女に良く似たその子も霖之助にとって崇敬の存在だった。
その子もまるで伯父や兄のように霖之助を慕ってくれた。
一家は一見、幸福に満ちていた。おそらく見た目通り幸せなのだろう。
しかし、霖之助は常に疑問に思っていた。
――僕が付けた瑕がなければ、彼女はもっと幸せになれたのだろうか?
見えないところで苦悩している彼女を想像するたび、醜いエゴで行動したことを激しく後悔した。
――あの子が瑕を負うことなく成長すれば、それを見届ければ、確かめられるのか?
――それで僕の罪は贖われるのだろうか?
あの子が幸せになれば自分は解放されるのではないか、漠然とそう考えるようになった。
自尊心を取り戻し、罪の意識を拭う方法はそれしかないと強く思い込んだ。ひどく歪んだ思考だった。
彼女は娘が生まれて数年で亡くなった。
――僕が関わらなければ彼女が早世することもなかったのかもしれない。
後悔の念はますます強まった。
それから霖之助はあの子にさらに拘るようになった。それはもはや強迫感と言って良いものだった。
5
東向きの窓から、陰鬱な部屋に朝日が差し込んでいる。
結局、一晩中椅子に座りながら考え事をしていた。
――眠りなど必要ない、か。
どうせ眠りは浅い。悪夢にうなされることも多い。
――こんなこと、親父さんに知られたら叱られそうだな。
霖之助はしばらくの間呆けていた。
女性の幻が見える。
金属細工のような美しく華奢な手で、花を活けていた。
彼女は霖之助の方に目を向けた。
――止めろ!
憐憫の籠った眼差しで霖之助を見つめる。
――そんな目で僕を見るなッ!
憐れみを拒否しながらも、神秘的で優しい眼差しに心が掻き乱される。
――僕は捻じれている。
矛盾した感情ばかり抱え込んでいる。
神聖にして侵されざる存在を独占したいと思い、憐れまれることを嫌いながら彼女の優しさに甘えてきた。
その感情は純粋なようで不純だった。様々な感情が不気味に混じり合い、狂っていた。
――僕は生まれながらにしていびつな、畸形児だ。
本来半人半妖などというものは有り得ないのだ。本来、人と妖が交わっても産まれるのは必ず人間である。
多くの場合、生まれた子供には特殊な力が備わるが、あくまで人間の範疇であり、半妖などと言う半端な存在ではない。
妖でありながらも、完全に妖ではない。当然人間でもない。どちらの世界に属することのできない歪んだ存在。
生まれながらにして呪われていると言うに相応しい。捻じれた人格も当然のことだ。
今見ているものが幻であると、幻覚であるとは頭では理解できている。しかし、逃れることも抗うことも出来なかった。
女性が若返っていく。少女と言っていいような容姿になった。ちょうどあの子と同じくらいの年齢だ。
――僕はあの子に彼女の影を見ているのか。
心の底で、彼女に求めたのと同じものをあの子にも求めているのかもしれない。
あの子が初めて店を訪れたとき何を感じた?
膝の上に乗ってじゃれついてきたときにどう思った?
実家との縁が切れても頼ってくれた時は?
火炉を修理してやって喜ばれた時は?
あの子と踏み込んだ関係になりたいのではない。
かつて犯した過ちがなければ、彼女がどれほど幸せに生きられたのかを知りたい。
あの子が成長して幸せになるのを見守ればそれがわかりそうな気がするのだ。
それで過ちが消えることなどない。
彼女とあの子は同じではない。
結局、為そうとしていることは、あの子を彼女と同一視して一人の人間として扱わない最低の行為に過ぎない。
――僕は下卑た、唾棄すべき存在だ。
生まれたときから全てが狂気に満ちている。
本来であれば彼女たちに関わって良い筈などない。関わらない方が良かった筈なのだ。
――わかっている。
――そんな事、本当はわかっているんだ。
――けれど……。
――あの子は僕の唯一の希望なんだ。
報われることも救われることもない。いくら偽ろうとも、わかり切っている。
――ただ、見守ることだけは許して欲しいんだ……。
あの子の幻が――、
彼女と同じ憐れむような目で霖之助を見た。
「うわああああッ!」
霖之助はジギタリスの花をむしり取った。
花がぐしゃりと潰れ、花瓶が落ちて割れた。
少女の幻が霞のように消えた。
(了)
また、独自の解釈が多く見られます。
御注意をお願いします。
ジギタリス
花ことば――誠心誠意・胸の想い・熱い胸の内・熱情・隠されない恋・熱愛・青春・健康的・不誠実・ふまじめ
――――花ことばと神話・伝説
伊宮伶/2006年
1
紫色の花が空に向かって突き出すように咲いていた。釣鐘が幾重にも連なったような形をしている花だ。
森近霖之助はその花に奇妙な既視感を覚えていた。
それを見つけたのは人里へ向かう道の途中だった。
――何の花だったかな……。
確かに見覚えがある。しかし、暑さのあまり思考が麻痺しているのか思い出せない。物の名前に拘りがある霖之助が物の名前を忘れていることはごく稀だった。
森からけたたましい音がしている。
その音は蝉の鳴き声に似ていたが、今まで聞いたどの蝉の鳴き方にも当てはまらない特徴があった。
幻想郷ではどんな不可思議なことも起こり得る。山では天狗が自然ではあり得ないような音を出すこともままある。今、外縁を歩いている魔法の森でも同じようなことがないとは言い切れない。
しかし、霖之助には確信があった。木の近くで少し小さな蝉の抜け殻を見つけたのだ。
答えは単純明快である。普段は複雑な理論を巡らせることが多いが、単純な論理も悪くない。
原因は判明したものの、この度を越して五月蠅い音を止める方法が思い浮かばない。窓を開けられないほど蝉の声が騒々しい以上、この暑い時期に屋内に篭っているのは具合が悪い。霖之助は道具屋であるから商品の状態も気になる。
避暑と蝉の駆除法を求め、人里に向かうことにしたのだった。
炎天下の道程は想像していた以上に厳しいものだった。汗が滝のように流れ出る。服が汗を吸ってべたつき、気持ちが悪い。道がでこぼこと起伏に富んでいるため、余計に体力を奪われる。
面倒臭がらず夏服を用意すれば良かったと霖之助は今更ながら後悔した。
正午に近づくにつれて日差しはますます強くなる。風も申し訳程度のそよ風で、吹いたところで少しも涼しくならなかった。
霖之助は少しくらりとした。
――さっきの花は……。
頭が呆けているのかさっき見た花が妙に気になる。だが、もう大分離れている。この熱気の中わざわざ引き返して摘む気にもなれなかった。
脱水症状を起こしているのか目眩と頭痛がした。
空は雲一つなく底抜けに青いというのに気分が優れない。
地面から起こる陽炎のせいで遠くの景色が揺らいで見える。不安定な道を歩いているせいか平衡感覚も狂っているようだった。現と幻が、現在と過去が入り混じっているような気がした。
霖之助はガラス魔法瓶に詰めた水を一口呑んだ。
2.
道具屋の大きな敷地の隅に小さな庵があった。
横には小さな畑があり、茄子や胡瓜がなっていた。手入れが行き届いている畑の隅に花が最近摘み取られた跡がある。
畑の周りには動物除けの風車が挿してあるが、風が弱くどれも回っていない。
庵の主は霖之助の知己である。だが、しばらく会ってない手前、ひどく緊張して戸を叩いた。
入りなさい霖之助、と中からよく響く声がした。
戸を開けると風が通り抜け、線香の臭いが鼻をついた。
部屋の奥には一人の老人が座っていた。肺病でも患ったかのように痩せさらばえているが、にこにこと愛想は良い。
霖之助が座る前から、二人分の座布団と冷たいお茶に切り分けた西瓜が用意されていた。
「お久しぶりです、親父さん」
「本当に久しぶりだな、霖之助」
最後に会ってからもう十年以上になるか、と親父さんは言った。
「僕が来ることを知っていたんですか」
「さあてね」
老人は柔和な笑みを浮かべながら答えた。太い眉の下がった優しそうな顔立ちをしている。
「僕が来るところを見ていたんでしょう?」
「どうして突然来たのに来客の準備がしてあるんだとか、千里眼が使えるんですかとは言わないんだな。
昔はしょっちゅうそんなことを言っていただろう。変に理屈を飛躍させないあたり、お前も少しは成長したのかな」
くっくっくと親父さんはからかうように声を上げて笑った。
「女将さんとお嬢さんの墓参りに行っていたのですか」
この庵の裏手には二人の墓がある。そこからはかなり遠くまで見通せるはずだった。
「随分と唐突だな。どうしてそう考えたんだ?」
「畑に花を摘んだ跡がありました。
八月半ばのこの時期に花を摘むとなれば仏花にして墓に供えるのが普通でしょう。
それに部屋に入ったときに線香の匂いがしましたから。
墓の辺りからは僕が来るところも見えたはずです」
「畑にあったのが花だと、どうやって断定したのかを詳しく聞きたいところだが……。
確かにその通りで、さっき墓参りしたところからお前が来るところが見えただけだよ。
本当に多少はましになったみたいだな」
からかわないで下さいよ、と霖之助は言った。
親父さんがあまり変わっていないことに霖之助は安心した。
十年前よりも白髪は増えたが、まだかくしゃくとしていて、背も曲がっていない。
以前よりも部屋にある本が増えたようで、和綴じの黄表紙からキリル文字で書かれたハードカバーまでが整然と積まれている。
出して貰った西瓜を口にする。やけに良く冷えている。一、二時間程度ではここまで冷えないだろう。しかし、それでは霖之助が来ることを知ってからでは間に合わない。
そもそもこの庵で一人暮らしをしている親父さんが二人分の西瓜を用意していることも不思議である。
「やはり親父さんはだいぶ前から僕が訪れることを予知していたのですか」
やっぱり何も変わっていなかったな、と親父さんは溜息をついた。
「西瓜のことを言っているのなら、ただの偶然だぞ。
たまたま今日貰ったもので、わざわざ冷やした状態でその人が持ってきてくれただけのことだ。
それにしてもわからないのは仕方がないが、いい加減な論理を口にするなとあれほど言っていただろうに」
あっさりやり込められてしまった。親父さんは寺子屋の先生の様な話し方をする。半人半妖の霖之助の方が年上なはずなのだが、話していると自分が子供のように思えてくる。
親父さんも隠居する前は道具屋の主人をしていて、霖之助もそこで修業をしていた。もう二十年ほど前の話である。
昔と変わらない謎かけのようなやり取りで、霖之助の緊張はほぐれてきた。
「商売は上手くいっているのか」
「ぼちぼちですよ」
一週間絶食しない程度には食べられている。
親父さんは霖之助をじろりと見た。
「お前は昔からずぼらだからな。
幾らお前が半分妖怪で体は平気でも、心の健康には注意しなければならない。
ちゃんと食事をとって、生活のリズムを整えることも大切だ」
心中を見透かされたような気がした。これ以上自分のことについて話すのは具合が悪そうだ。
「僕に関することはいいとして……、あの子も元気にしていますよ。
どうせこちらには顔も見せていないんでしょう?」
「……」
親父さんはしばらく黙っていた。
ふうん、元気ね、と気のない声で親父さんは言った。
平静を装っているが、抑揚のない物言いが逆に白々しい。
本当は心配で仕方がないのだろう。たった一人の孫娘である。
あの子は父親とは仲たがいしているはずだが、祖父であるこの人とは特に仲が悪い訳ではない。
この老人の七面倒臭い性格を苦手にしているところはあるのかもしれないが。
しかし、ここに寄りつかないことは彼女の強い自立心の表れに違いない。親父さんに会えば里心が付くし、世話も焼かれることも知っているのだ。
今でも親父さんは気付かないところで、あの子の世話を焼いているのだろう。間接的な援助というなら、霖之助が時々お節介をすることもその範疇に入りそうである。
「あんな奴だが、一応私の孫だ。余裕があれば気にかけてやってくれ」
言われるまでもない。霖之助もあの子には思い入れがある。
世間話を一通りしたところで本題を切り出す。
「ところで親父さん、今聞こえている低いうねりのような音――十一年前にも聞いたことのある音なのですが、これは蝉の鳴き声で間違いなさそうですよ」
「へぇ、知らなかったな。それは確かなのか」
「ええ間違いありません。森の木の上から聞こえてきましたし、その木のそばに抜け殻がありましたから」
親父さんの目つきが鋭くなる。
「そうとは限らないぞ。
蝉の抜け殻とは直接関係がないことだって考えられる。
たまたま今年は珍しい鳥が渡ってきて、それが鳴いているだけ、という可能性もある。蝉は良い餌になるから鳥も呼び寄せられるかもしれん」
確かな自信があったのに難癖をつけられたようで納得がいかない。
「そんなの屁理屈じゃないですか」
親父さんは呆れたように返した。
「さっき話したばかりだろう。
冷えた西瓜を出したことと、お前が来ることをだいぶ前から察知していたかもしれないと言うことは全く関係がなかった。
一見因果関係があるようなことでも、厳密に検証してみると何の関係もないことがある。
抜け殻と蝉の鳴き声を結び付けることはかなり可能性が高いだろうが、もっと確実な証拠が欲しいところだな。
特に本に載せたいなんて考えているときは慎重にならないといけない」
本を書いていることまで見透かされていたとは思わなかった。
「さらに、本当にその蝉が本当に普通の蝉と違う種類なのかも十分な検証も必要だ。
幻想郷でそこまでするのは無理だろうが、本当は多くの知識人に査読もして貰わなければならない。
本を出すことは実に大変なことなんだ。それがお前が憧れている外の世界で本を出すときの基準だ。
一先ず、過去の記録を確認するなり、蝉を実際に捕まえてみるなりもっと詳しく調べてみなさい」
記録を調べるなら稗田の家に行くと良いだろう、と親父さんは付け加えた。
小言を言いながらも助言をしてくれた親父さんに霖之助は感謝した。
帰り際、機会があればあの子にも分けてやってくれと、親父さんは蜆の佃煮を持たせてくれた。
たまにはここに顔を出すよう、さり気なくあの子にも言っておかなければと霖之助は思った。
午後も過ぎていたが、まださんさんと太陽が照りつけて外は暑かった。
3
気が付くと朝日が差し込み、雀が鳴いていた。佃煮を肴に晩酌をしているうちに寝てしまったらしい。
昨日は稗田家に寄って帰って来るとすでに日が暮れていて、蝉について調べることができなかった。
相変わらず眠りは浅かったが、体は十分に動いてくれそうだ。
――早速、検証をしないと。
椅子で寝たせいで強張った体を起こした。
蝉は簡単に捕まえられた。昨日、稗田家に寄るついでに貸本屋で図鑑を借りたのだが、確かにこの蝉は本に載っていない。
しばらく虫籠に入れて置くと、例の声で鳴いた。
これだけの証拠が集まれば本に載せるのにも十分と言えるだろう。
森の近くで、昨日見つけた紫色の花が憂鬱そうに咲いていた。
やはり見覚えがあるのだが、名前が思い出せない。
少々不気味な姿をしているが美しい花だった。霖之助は奇妙に惹かれるその花を一本摘んだ。
空が暮れなずんでいた。もうお盆過ぎである。すでに日暮れが早くなってきていることを感じた。
山が、森が茜色に染まる。ねぐらへと帰るカラスの鳴き声がどこか郷愁を誘う。
店に入ってすぐに花を活けた。いずれ名前を調べなければならない。
夕食を取った後、検証した事項を本に書きつけた。日中と比べると涼しくなってきたので、本の執筆もはかどる。
確かに十一年前にもあの蝉の鳴き声を聞いた。稗田家の記録によるとその十一年前にも鳴いていたそうだ。
外の世界では十三年や十七年と言う素数の周期で発生する蝉がいるらしい。この蝉は十一年周期で発生する素数ゼミなのだろう。
――十一年前か……。
十一年前の今頃、何をしていただろうか。
――さらにその十一年前は……。
筆を置き、酒をあおった。
強さが売りの安酒だ。酒が血を巡り、頭がぼやける。
霖之助は欠けた花瓶に活けた花を見た。
――この花は……。
この花は何か大切なものであったような気がした。
――これは確か……。
霖之助の意識は過去に飛んだ。
4
かつて恋い焦がれた女性がいた。
その女性の心は自分に向けられていなかった。片想いだった。
彼女は道具屋の娘で、霖之助が店に修行に来た時には十にも満たない子供だった。
小さいころから気立てが良く、鬱屈とした霖之助にもよく懐いた。
霖之助にとって妹や娘のような存在だった。無愛想で人付き合いが苦手な霖之助は彼女がいることで救われたとことが幾度もあった。
幼子は成長し、少女になる。
年頃の少女の成長は素晴らしく、日に日に美しくなっていくのが目に見えてわかった。そのさまは感動的で、小さな蕾が膨らみ、美しく花開いていくかのようだった。
いつしか彼女に対する霖之助の感情も焼けつくような想いへと変わっていた。
容貌は、派手さがなく平凡で十人並みだったかもしれない。しかし、霖之助にとって彼女はこの世で最も美しい存在だった。
何より心惹かれたのは彼女の心持だった。一見すると大人しいだけだが、明るく、よく冗談を言った。優しく温かみのある性格だった。
霖之助は彼女に贈り物をしたことがある。
用事で神社に向かった帰りに、道端で咲いていた綺麗な紫色の花を摘んで来たのだ。
特にどうしようという意図があったわけではない。ただ漠然と彼女が喜んでくれることを期待していた。
――欲しいと言えば分けてやろうかな。
自分の方から送ることなど考えられなかった。女性が苦手な訳ではないが、どうしても彼女に対してそんなことは出来なかった。
花を持っている姿を見ても彼女が何も言わなければ、適当に自分の部屋にでも飾ろう、と思っていた。
店に帰った霖之助が花を持っているのを見て彼女は、くすりと笑った。
――霖兄さんったら、それは狐の手袋――ジギタリスって言う毒草ですよ。
顔から火が出た。のぼせ上って確認することさえ忘れていた。
――お父さんに見つかると、色々と面倒ですよ。
彼女は花をそっと受け取った。その時、彼女の髪から芳しい香りがしたことを昨日のことのように覚えている。
彼女は誰にも見つからないようにジギタリスを自分の部屋と霖之助の部屋に活けた。
――毒草でも綺麗だから良いじゃないですか。
――鈴蘭も水仙も毒があるんですから。
彼女は無邪気に笑って言った。
ジギタリスは枯れるまで二週間ほど大切に飾られていた。
彼女は崇高で侵されざる存在だった。霖之助は生まれてこの方、これほど美しく慈しむべきものに出会ったことはなかった。
触れてはならないとわかっていた。
――僕は人間ではないから。
幾ら他人への関心が薄いとは言え、彼女とそういう関係になれば店や彼女にどれほど大きな迷惑が掛かるかは理解しているつもりだった。
そもそも年齢や寿命が違い過ぎて、深い関係になったとしても上手くいきそうにもない。
愛し渇望しながらも触れることさえできない高嶺の花だった。
ただ、そばで見守ることさえできれば良い。そう考えていた。
ちょうど、二世代前の十一年蝉が現れる頃、霖之助は店で働いていた男に誘われ、二人で酒を呑んだ。
男は霖之助よりも後に道具屋に入ったが、店を切り回す能力に長けていて親父さんにも目をかけられていた。少々頭の固い性格だったが、その堅実さが受け入れられたのか得意先からの信頼も篤かった。
霖之助とは対照的な男だった。認めたくはないが霖之助は客商売に向いているとは言い難い。しかし、二人は妙に馬が合った。霖之助もそんな彼のことを弟のように可愛がっていた。
彼のほうでも霖之助を慕ってのことか、人付き合いの苦手な兄貴分をよく呑みに誘った。
その日は妙な空気があった。普段は配分を考えて呑む弟分が、やけに早い間隔で酒を頼む。何か重大なことを話そうとしている。そんな雰囲気があった。
二人とも十分に酒が回った後、男は切り出した。
――霖兄さん、俺、お嬢さんに結婚を申し込んだんだ。
彼は店に来てからずっと彼女に想いを寄せていたこと、婿養子に入って店の看板を継ぎ、彼女を幸せにする覚悟があることを語った。
そうか、と答える他になかった。
血が逆流しそうだった。深酒で意識を飛ばしてしまいたくなる。なんとかこらえて、平静を装った。
――それで親父さんはなんて言っているんだい?
――お嬢さんに任せるってさ。
あの人らしい意見だと思った。相変わらず娘に甘い。この男に店を継がせれば、次世代の店の繁栄は確実だとわかっているだろうに。
――お嬢さんは?
――いいって言ってくれたよ。
がつんと強い力で頭を殴られたようだった。
男は霖之助の気持ちも知らず、話を打ち明けた勢いに任せて酒を呑んだ。普段は気遣いができる癖に、肝心な時に限って感情の機微が読めていない。
反面その無神経さに感謝した。誰にも自分の想いが知られることがなくて安心した。
その日は、珍しく酔いつぶれたこの真面目な男を抱えて帰路に付いた。
祝言の日取りもとんとん拍子で決まった。
これで良いと思った。誰よりも彼女の幸せを望んでいたのは自分ではないかと。そもそも自分が彼女と結ばれるなどあり得るはずがないではないか。どこぞの馬の骨と結婚するより信頼できる弟分の方がずっと良い。いや、むしろこの二人は結ばれるべくして結ばれる良縁だ。良い家庭を築き、店を発展させるに違いない。
二人の幸せを願い、身を引くこと。それが最善の道のはずだった。
その日の夜、彼女の部屋に忍び込んだ。自分がどれだけ思いを寄せていたのかを知って欲しかった。
想いが報われなくとも、伝えることすらできないことは余りにも苦しかった。
手前勝手なのは理解していた。あまりにも遅すぎるし、今更こんなことをしても彼女に重荷を背負わせるだけである。
しかし、理屈ではなかった。ただ自分の想いを伝えることしか頭になかった。その先の結果を考慮する余裕などなかった。
彼女は何も言わず霖之助を部屋に入れてくれた。夜に婚姻の決まった女性が部屋に相手や家族以外の男を入れることはまずあり得ない。
やはり自分は兄のような存在でしかないのか、と霖之助は思った。この期に及んでこんなことを考えている自分の女々しさに呆れた。
一言も話せなかった。二人で押し黙ったまま、何時間も向き合っていたように思う。
勇気のなさが恨めしい反面、彼女を傷つけることなく済んで安堵する気持もあった。様々な感情がない交ぜになっていた。
顔を上げ、彼女と目を合わせた。
瞳の奥には憐憫の情があった。
――結局、そういうふうにしか見られていないんだな。
霖之助は立ち上がり立ち去ろうとした。もうこれ以上居ても辛いだけだった。
その時、彼女に袖を引かれた。
崇高な存在を汚した。
終始、彼女は憐れみの目で霖之助を見ていた。
罪悪感と劣等感に苛まれ、その日から熟睡できた日は一日としてない。
その一方で、背徳的な悦びを覚え、彼女の温もりを忘れることができない自分が酷く醜悪に思えた。
祝言はつつがなく済んだ。
二人は幸せそうだった。当然だが、あの日のことは霖之助と彼女しか知らない。
忘れてしまえば良い。忘れて欲しい。そう強く願った。
しかし、あの日覚えた二つの意味での敗北感を拭うことなど出来なかった。
店にいることが辛かった。周囲に露見することが怖かった。本当はもう皆知っていて、自分を蔑んでいると疑ってしまう。何より、自分が彼女に腫れ物のように思われているのでは、と考えてしまうことが嫌だった。
独立を考えるようになった。もう修業を始めて十五年近くになる。それに霖之助は年を取るのが普通の人間より遅い。人里に長居をすることは望ましくないだろう。潮時なのかもしれない。
彼女たち夫婦を初め、店の人たちは皆、霖之助が去ることを惜しんだ。
特に親父さんは強く引き留めてくれた。彼は霖之助の生い立ちを隠して雇い入れ、年齢も上手く誤魔化してきたのだ。
半妖であることを気に病んで霖之助は店を出ようとしている――自分に対して遠慮している、と親父さんは取っていたのだろう。
でも、それは違うのだ。
自分は彼に対しても酷い裏切りを働いている。それに、ここにいれば苦い思い出や強迫感に苛まれることになる。耐えられそうもなかった。
いっそ、親父さんに全て話してしまおうかとも思った。彼ならばどれほど酷いことをしたと言っても全てを受け入れて、何か解決策を考え出してくれるような気がした。
しかし、それは途方もなく卑怯な方法のように思えた。これ以上、愚劣な所業を重ねたくはなかった。
霖之助が新しい店を持って暫くした頃、彼女たち夫婦に娘が生まれた。
当然、霖之助の子ではない。
だが、彼女に良く似たその子も霖之助にとって崇敬の存在だった。
その子もまるで伯父や兄のように霖之助を慕ってくれた。
一家は一見、幸福に満ちていた。おそらく見た目通り幸せなのだろう。
しかし、霖之助は常に疑問に思っていた。
――僕が付けた瑕がなければ、彼女はもっと幸せになれたのだろうか?
見えないところで苦悩している彼女を想像するたび、醜いエゴで行動したことを激しく後悔した。
――あの子が瑕を負うことなく成長すれば、それを見届ければ、確かめられるのか?
――それで僕の罪は贖われるのだろうか?
あの子が幸せになれば自分は解放されるのではないか、漠然とそう考えるようになった。
自尊心を取り戻し、罪の意識を拭う方法はそれしかないと強く思い込んだ。ひどく歪んだ思考だった。
彼女は娘が生まれて数年で亡くなった。
――僕が関わらなければ彼女が早世することもなかったのかもしれない。
後悔の念はますます強まった。
それから霖之助はあの子にさらに拘るようになった。それはもはや強迫感と言って良いものだった。
5
東向きの窓から、陰鬱な部屋に朝日が差し込んでいる。
結局、一晩中椅子に座りながら考え事をしていた。
――眠りなど必要ない、か。
どうせ眠りは浅い。悪夢にうなされることも多い。
――こんなこと、親父さんに知られたら叱られそうだな。
霖之助はしばらくの間呆けていた。
女性の幻が見える。
金属細工のような美しく華奢な手で、花を活けていた。
彼女は霖之助の方に目を向けた。
――止めろ!
憐憫の籠った眼差しで霖之助を見つめる。
――そんな目で僕を見るなッ!
憐れみを拒否しながらも、神秘的で優しい眼差しに心が掻き乱される。
――僕は捻じれている。
矛盾した感情ばかり抱え込んでいる。
神聖にして侵されざる存在を独占したいと思い、憐れまれることを嫌いながら彼女の優しさに甘えてきた。
その感情は純粋なようで不純だった。様々な感情が不気味に混じり合い、狂っていた。
――僕は生まれながらにしていびつな、畸形児だ。
本来半人半妖などというものは有り得ないのだ。本来、人と妖が交わっても産まれるのは必ず人間である。
多くの場合、生まれた子供には特殊な力が備わるが、あくまで人間の範疇であり、半妖などと言う半端な存在ではない。
妖でありながらも、完全に妖ではない。当然人間でもない。どちらの世界に属することのできない歪んだ存在。
生まれながらにして呪われていると言うに相応しい。捻じれた人格も当然のことだ。
今見ているものが幻であると、幻覚であるとは頭では理解できている。しかし、逃れることも抗うことも出来なかった。
女性が若返っていく。少女と言っていいような容姿になった。ちょうどあの子と同じくらいの年齢だ。
――僕はあの子に彼女の影を見ているのか。
心の底で、彼女に求めたのと同じものをあの子にも求めているのかもしれない。
あの子が初めて店を訪れたとき何を感じた?
膝の上に乗ってじゃれついてきたときにどう思った?
実家との縁が切れても頼ってくれた時は?
火炉を修理してやって喜ばれた時は?
あの子と踏み込んだ関係になりたいのではない。
かつて犯した過ちがなければ、彼女がどれほど幸せに生きられたのかを知りたい。
あの子が成長して幸せになるのを見守ればそれがわかりそうな気がするのだ。
それで過ちが消えることなどない。
彼女とあの子は同じではない。
結局、為そうとしていることは、あの子を彼女と同一視して一人の人間として扱わない最低の行為に過ぎない。
――僕は下卑た、唾棄すべき存在だ。
生まれたときから全てが狂気に満ちている。
本来であれば彼女たちに関わって良い筈などない。関わらない方が良かった筈なのだ。
――わかっている。
――そんな事、本当はわかっているんだ。
――けれど……。
――あの子は僕の唯一の希望なんだ。
報われることも救われることもない。いくら偽ろうとも、わかり切っている。
――ただ、見守ることだけは許して欲しいんだ……。
あの子の幻が――、
彼女と同じ憐れむような目で霖之助を見た。
「うわああああッ!」
霖之助はジギタリスの花をむしり取った。
花がぐしゃりと潰れ、花瓶が落ちて割れた。
少女の幻が霞のように消えた。
(了)
もしも娘が生まれたのが十月十日後だったとしたら……
人にも妖怪にもなれない霖之助はとても悲しい男ですね
このような霖之助はなかなか貴重な気がします。
『「親父さん=魔理沙の父親」ではない』というのも新しく、なるほどと思いました。
具体的に言えないのが申し訳ないのですが、もっとこう惹きつけるような文があればより良かったと思います。