Coolier - 新生・東方創想話

歩け! イヌバシリさん ~ andante ~(vol.9)

2013/08/25 10:26:48
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※超絶オリジナル設定・オリキャラ注意。
※一部残虐表現有り。



一作目は作品集144
二作目は作品集148
三作目は作品集154
四作目は作品集159
五作目は作品集165
六作目は作品集171
七作目は作品集174
八作目は作品集178 にあります。




【登場人物】

犬走椛:白狼天狗。天狗社会が産んだ異能生存固体。どんな戦場に放り込まれて生きて帰ってくる。
    大天狗とは長い付き合い。大天狗の下で公に出来ない任務を多々こなしていた。
    幼い頃、天狗社会の上層部の手違いによって家族を含めた集落の全員を殺された。
    現在は哨戒部隊の隊長を務めている。

射命丸文:鴉天狗。新聞記者。清く正しいマスゴミ。頭脳、能力、行動力は天狗の中でもトップクラス。椛のことを好いている。

姫海棠はたて:鴉天狗。新聞記者。まだ若干の対人恐怖症ぎみ。山で唯一、天魔の血縁者であるが、本人はそのことを知らない。

大天狗:地位、実力ともに天狗社会のNo.2。哨戒部隊の総統括者。天狗社会の裏も表も精通している。
    独身。でもまだ本人はチャンスがあると本気で思っている。

天魔:天狗の親玉。天狗で最も高齢だが、それを感じさせないほど見た目が幼い。
   はたてのことを常に気にかけている。和菓子より西洋菓子の方が実は好き。

















式典が始まる夕方になるまで暇を持て余した大天狗は、話し相手として椛を呼びつけていた。

「もうね、あれよ。私がモテないのは、私が強過ぎるっていう認識をもたれてるせいなのよ。自分より強い彼女なんて嫌でしょ?」

長い黒髪を後ろで結わえた妙齢の女性、大天狗が熱く語る。

「大天狗様よりも強い男ってこの山にいるんですか?」

天狗社会で地位・実力共にナンバー2の大天狗を凌ぐ男の天狗がいるのかというと甚だ疑問である。

「そんなことしなくても、私が弱い女を演出すれば良いのよ。男から見て『ああ、大天狗様って本当はか弱いんだ。守ってあげなきゃいけないんだなぁ』って思わせれば勝ちなの」
「肉食獣が手負いの振りをして獲物を油断させるのと同じ発想ですね」

自然界ではそれを擬態ということを椛は知っている。

「身も蓋もないこと言わないで」
「で、どうやって演出するんです? 片目でも潰すんですか?」
「違います」
「まさか隻腕に?」
「なんで毎回発想がヴァイオレンスアマゾネスなわけ? そろそろ女バーバリアンと呼ばざるを得ないわよ?」
「じゃあ何がしたいんですか!?」
(なんでキレ気味なの!?)

椛の態度に戸惑いつつも答える。

「涙は女の武器っていうでしょ? 涙でか弱い女の子を演出するのよ。男の前で泣けば弱い自分を演出できると思うのよ」
「大天狗様が泣く光景が全然頭に浮かばないんですが」
「そうなのよ。私泣き真似が下手なのよ。モミちゃんコツとか知ってる?」
「その前に確認したいんですが。血も涙もないことで有名な大天狗様の体に、涙を流す為の器官が備わってるんですか?」
「ちゃんとありますー。バリバリ現役ですぅー」
「じゃあ鼻毛でも抜けばいいんじゃないですか? 泣くならそれが一番てっとり早いですよ」
「乙女として。それはちょっと」
「乙女?」
「その顔やめて傷付く。てか、なに。なんか私怒らせるようなことした?」

今日の椛は何時に無く言葉に容赦が無い気がした。
普段より言葉の端に棘がある。

「ようやく気付きましたか?」
「心当たりが無いんだけど?」
「今日が何の日かご存知ですか?」
「サラダ記念日?」
「…」

ボキボキと無言で指の骨を鳴らし始める椛。

「ごめん」

本能的にその音を危険なものだと判断してすぐ謝った。

「じゃあ何? あとは上半期最終日くらいしか思いつかないんだけど?」
「そう。私が隊長になって半年が経過しました」
「この半年間、隊長お疲れ様です」
「いえいえ。これもひとえに大天狗様のご助力があったからこそ」

両者座り直し。姿勢を正してから軽く会釈を交わす。

「隊長をやってみてどうだった?」
「面倒臭いことばっかりでしたね。定例会議とか報告書の作成とか、行事の段取りとか」
「あと半年もこれの繰り返しだから、一周しちゃえばあとは楽よ」
「最初の半年をちゃんとやりきったら、大天狗様に言ってやろうって思っている事がありまして。よろしいですか?」
「うん。どうぞ」
「では失礼して」

目を閉じてから、椛は大きく息を吸った。
十分に肺と腹に空気が溜まったらカッと目を開いた。

「なんなんですかアイツ等はぁぁッ!!!!」

自分が出せるであろう最大のボリュームを腹から出した。

「聞けばあの隊の人選は全て大天狗様によるものだと!!」

バンバンバンと畳を叩く。

「やっぱり苦労した?」
「当たり前じゃないですか!」

椛の隊に配属されたのは、一癖も二癖もある連中ばかりだった。

「素行が悪かったり! 好戦的な性格だったり! 他の隊で問題を起した奴ばっかりで固めるとか、どんな嫌がらせですか!」
「モミちゃんならチンピラ相手でも何とかしてくれるかなーって思って」

使い物にならない連中を、まとめて椛に押し付けた。
ちょっとやそっとでは動じない椛を信じてのことだった。

「チンピラなんて可愛いモンじゃないですよアイツ等! 山賊ですよ山賊! 言う事を聞くようになるまでどれだけ苦労したか」
「なんだかんだでしっかり手綱握ってるじゃない」

問題児ばかりを集めた部隊だが、椛自身の人柄、人柄で足りない分は腕っ節でねじ伏せることで、今ではすっかり統率の取れた部隊になっている。

「やっぱり任せて正解だったわ」
「あ゛あ゛?」
「ごめんなさい」
「どれだけ苦労したと思ってるんですか。こっちは初めての隊長職で右も左もわからないっていうのに」
「ちゃんと埋め合わせするから機嫌直してくれると嬉しいんだけど?」
「はした金握らされても納得しませんよ?」
「くっ」

懐からケバケバしい装飾の巾着袋を取り出そうとする大天狗は先手を打たれて渋い顔をした。

「じゃあ。今度またあの屋台に連れてってあげる。覚えてる? ダム騒動の最中に私が案内した」
「あそこですか…」

当時はダムの件で頭が一杯で特に何も感じなかったが、酒も料理も自分が普段口にしているものとは格段に質が違っていた。
隊長になった自分の給料でも、軽く飲み食いしただけで一月分が消し飛んでしまうであろうと、今にして思う。

「高い酒とか料理とか、遠慮なく頼みますからね」
「覚悟しておきます。はい」

ようやく椛の機嫌が直り、安堵する大天狗。
用件が終わり、椛は立ち上がる。

「ではこれで」
「夕方の式典遅れちゃ駄目よ」
「わかってます。楽しみにしてますよ、大天狗様のご高話」
「私あの喋り苦手なのよねぇ」













椛が大天狗の屋敷を出た頃。
射命丸文は椛が指揮する部隊のいる詰所へやって来ていた。
詰所の場所は以前椛が平隊員だった頃と変わらず滝の裏側。
前に椛がいた部隊は解体され、それぞれが人員の足りない部隊へと散り、新たに編成された椛の部隊がこの場所に納まった。

「どうもこんにちは」

入ってすぐ。机に向かい報告書に筆を走らせる部下を見つけ、その向かいに座る。

「これ。皆さんで召し上がってください」

机の邪魔にならない位置に差し入れを置いた。
文が話しかけた相手は、哨戒の任について3年か4年といったところか。まだあどけ無さの残る白狼天狗の少女であった。

「いつもありがとうございます射命丸様。本日は式典の取材ですか?」
「そんなところです」

今日が上期の最終日であり。半年間の訓練を終えた新米の白狼天狗がそれぞれの部隊に配属される日だった。
新入りの白狼天狗に配属先が言い渡され、最後に大天狗が訓示を述べる短時間の式典なのだが、哨戒に就く白狼天狗の大部分が集まるため、白狼天狗にとっては年間の行事の中でも重要な部類に位置づけられている。

なお、椛の隊は編成されたばかりのため、今年編入される新人はいない。

「椛さんは?」
「隊長なら大天狗様の屋敷に。式典の時間も迫ってますし、もう少ししたら帰ってくるかと」
「ちょうど良かった」
「ちょうど?」

文はメモ帳を取り出す。

「今日できっかり半年ですし。隊の皆さん訊いておきたいと思っていたんです」
「我々に?」
「犬走隊長の働きぶりはいかがですか?」

文はそこそこの頻度で詰所に顔を出し、その度に差し入れを置いていくことで、隊の者からは邪険にされない程度の距離感を獲得していた。
隊の中で揉め事があっても干渉はせず、隊の成り行きと椛の行動に全てを委ねて文はこの隊を影で見守ってきた。
今日はその判断が正しかったかどうか確認する良い機会だと思った。

「良い隊長だと思いますよ」
「具体的には?」
「色々とありますけど、まず挙げるなら、他の隊長みたいに高圧的じゃない所ですかね。こっちの言い分もちゃんと聞いてくれますし」
「ふむ」

新聞記者の目で彼女を見る。
文くらい経験を積めば、取材対象の表情、声色、抑揚、発汗の具合から話しの正誤や隠し事の有無が大体読める。

(嘘やオベッカではない、と)

本心であることを確認し、次の質問に移る。

「結成当初は荒れたんじゃないですか? 椛さんに喧嘩を売った方も多かったとか」
「よくご存知ですね。仰る通り、血の気が多い腕っ節自慢が何人か挑みましたよ。隊長には色々と噂がありましたからね。『昔、暗部に所属して活躍していた』とか、確かめたいという好奇心もあったのでしょうね」

挑んだ者の中には、椛より優れた膂力を持つ者、瞬発力を備えた者、剣術の達者な者が混じっていた。

「結果は?」
「全員相手になりませんでした」
「でしょうね」

どの白狼天狗よりも修羅場を潜っている椛。駆け引きや読み会いで彼女の右に出る者はおらず、一太刀も浴びることなく挑戦者を片付けた。

「負けた者の殆どが、次の日から大人しく隊長の言う事を従うようになりましたよ」

もともと『なんで俺よりも弱いそうな奴の命令を聞かねばならんのだ?』という傲慢な疑問を抱えていた者たちである。
負けたことで、挑んだ大半の白狼天狗は潔く椛を認めた。

「負けたクセに納得しなかった連中も、同じ時間を過ごす内に、段々と隊長の命令に従うようになってましたね」
「それが今のこの部隊、と」
「全員、口には出しませんけど、隊長には感謝しているんですよ。爪弾き者だった私達に居場所をくれたんですから」

周囲を見回す。
武器の手入れをする者、遊びに来た河童と将棋を打つ者、仮眠をとる者、新聞を読んでいる者、外で鍛錬を積む者。
よく見る哨戒部隊の詰所の風景である。

「ここにいるほぼ全員が軽い前科持ちだっていうのが、嘘みたいでしょう?」
「皆さんそれぞれの隊で相当やんちゃしてたみたいですね。貴女も」
「いやぁ…あはは」

恥ずかしそうに頭をかいた。
文はこの隊に配属された者達の経歴は調査済である。
彼女の経歴にも『素行に問題あり』という一筆があるのを知っていた。

「それがたった半年で随分と変わるものですね」

文のその言葉に、彼女は小さく首を横に振った。

「十年もあれば世間が変わります。ならば、個人が変わるのなんて、半年もあれば十分だとは思いませんか?」
「言われてみれば」

妙に納得できる言葉だった。
メモ帳のページをめくり、次の質問に移る。

「椛さんに何か要望なんかはあったりします? 直して欲しいところとか?」
「さして不満はありませんけどね。あえて挙げるんでしたら。面倒臭い状況になると力技で解決しようとしたり、女性なのに美容にトコトン無頓着だったりな所が」
「あー分かります分かります」
「でしょう? 特に美容の面です。可愛いんですからもっと女らしく振舞うべきだと思うんです」
「全力で同意しましょう」
「普段は凜としてる女丈夫ってカンジですけど。詰所で壁により掛かって無防備な寝顔を晒したり、甘いものを食べたときに綻ぶ顔とか。同性でもドキりとしますね」
「そうでしょうそうでしょう」
「あと、結構着やせするみたいでして、一緒に水浴びした時は自分を抑えるのに必死でした」
「ん?」

不穏な言動に文は怪訝な顔をする。

「ところで射命丸様は、私が前の隊で何をやらかしたかご存知ですか?」
「いいえ。特には」
「不倫してたんです。前に所属してた隊の隊長と。それで移籍させられたんです」

彼女だけ詳細が載って無かったのは、公になるのを恐れた隊長がそうなるよう取り計らったからだった。

「そうだったんですか」
「ちなみに、前にいた隊の隊長は女性でした」
「何が言いたいんですか?」
「隊長との子供はぁ、相撲部屋が開けるくらい欲しいなぁって話しです」
「…」

文は静かにメモ帳を閉じた。














詰所に帰って来た椛が最初に見たのは、部下に奇妙な関節技を掛ける文だった。

「何やってるんですか?」
「ロメロ・スペシャルです」
「技名聞いてるんじゃなくて」
「いだだだだ!! ギブ! ギブですって射命丸様!!」

体を限界まで反らされている部下がもがく。

「ネバー! ネバーです! 諦めたらそこで試合終了ですよ!」
「仕掛ける側が言う台詞じゃないでしょソレ! あだだだだだ!!」
「そろそろ離してやってくれませんか?」
「チッ、椛さんに救われましたね」
「私はゴングかなんかですか?」

ようやく解放された部下を横目に、椛は他の隊員に向かい指示を飛ばす。

「私達もぼちぼち式典に向かう。揃っているか?」
「それがまだ、何人か哨戒に出たままで」
「いつもより早めに戻って来いと言っておいたんだがな」

仕方ないと呟き、詰所の外に設置された物置から一本の細長い木の筒を持って戻ってくる。

「回ってる連中をこれで呼び戻せ」

文に関節技を掛けられていた隊員に笛を渡す。

「えー、私がこれ吹くんですか?」
「我慢しろ」
「なんですかそれ?」

二人のやりとりを見ていた文が尋ねた。

「犬笛みたいなものです。天狗の中で白狼天狗しか聞こえない音が出ます」
「ちょうど良かったじゃないですか隊長。射命丸様に吹いて貰えば」
「ああ、そうか」
「なんか見た目がすんごいホコリ臭そうなんですけど」
「ちゃんと手入れしてますよ。昨日私が吹いたばっかりですし」
「全身全霊を持ってお受けしましょう」

諸手を出して受け取る。
椛が口をつけたという事実があればそれで十分だった。
手にとってすぐに口をつける。

「フー、フー、フー……これ本当に音が出てるんで……あれ?」

詰所にいるほぼ全員が耳を塞ぎ、文を見ていた。
一部の部下は頭をぐわんぐわんと揺らしている。

「いきなり吹かないでくださいよ! しかも室内で! 遠方にいる仲間に伝えるための笛なんですから! とんでもなくうるさいんです!」
「目が回る~」
「耳鳴りが止まんねぇ」

「す、すみません」





全員の聴力が回復する頃には、部隊の全員が集まった。

「今日、ここに来たってことは、式典の取材ですか?」
「はい。会場まで同行してもよろしいですか?」
「構いませんよ」

緊急時のために三人を詰所に残して、他は会場に向かう。

歩きながら文は去年の式典のことを思い出した。

「今年はまともな式典になれば良いんですけどね」
「去年は酷かったですね」
「大天狗様の暴走っぷりがヤバかったですもんね」




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

去年の式典。

式は順調に進行し、最後の大天狗の訓示も終わろうとしている。

「新しき者も、古く者も、この山の平和と繁栄の為、心して励め。以上だ」
「全員。礼!」

高台から演説する大天狗に一礼して、式典は無事終了した。

「はい。んじゃ。業務連絡するんで。哨戒の白狼天狗はまだ残ってて」

威厳に満ちていた姿から一変、気だるそうに壇上の隅にある台に持たれかかる。

「でかい声出すのしんどいからマイク使うわねー」

マイクのスイッチを入れ、表面をポンポンと叩きちゃんと効いていることを確認してから話し始める。

「はいどーも。今年も理想の上司ランキングで一位に輝きました大天狗です」

<うそこけー!>
<捏造すんなー!>

一気に緩くなった場の雰囲気に便乗してヤジが上がる。
大勢が密集しているということもあり誰が言ったか特定されないため、言いたいことを素直に叫ぶ輩が何人もいた。
この光景は式典の恒例となっていた。

「まず始めの連絡。毎年この時期にやってる新人の歓迎会を目的とした大宴会だけど、中止になりました」

<えー!>
<そんなー!>
<なんでですかー!>
<楽しみにしてたのにー!>

不満の声が一斉に上がる。

「なんかカップル成立に一役買ってたみたいでねー。あれは歓迎会であって婚活パーティじゃないのよ? 全員が趣旨を履き違えてると見なして今年は中止にしました」

<横暴だー!>
<僻んでじゃねぇぞクソババア!!>
<大天狗様だって毎年あれで男釣ろうと躍起になってたじゃないですかー!>
<そんなひん曲がった性格してっから貰い手がねぇんだよブス!>
<嫉妬するババア可愛い!>

「うっせ! うっせ!」

声が上がった方向に大天狗が指先を向けると、そこから拳大の礫が何発も連射された。
この時、大天狗は少しだけ涙目だった。

<大天狗様の天狗礫だー!>
<避けろ! 当たると骨折じゃすまんぞ!>
<盾を持っている者で隊列を組めー!>
<ありがとうございます! ありがとうございます!>


(ダム関係で一時的に予算が減って、歓迎会の費用の捻出が難しくなったって正直に仰ればよろしいのに)

集団の端っこにいた椛は呆れ顔で会場に上がる土煙を見ていた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「今年も中止にするみたいですよ歓迎会」
「やっぱり予算不足が原因ですか?」
「今年はちょうど備品の総入替の年なので資金繰りが厳しいそうです」
「全くもって世知辛い」
「大天狗様も本当の事を言えば良いのに」
「トップとして、そういう事は極力伏せておきたいのでしょう。はたてみたいな子を不安にさせないように」
「そういえば今日は、はたてさんは一緒じゃないんですね」
「ええ。はたてなら朝から天魔様の所に」








天魔の屋敷。
師弟関係を解かれてはいるものの、姫海棠はたては定期的に天魔のもとを訪れ、術の指導を受けていた。

「んんんー」

屋敷に隣接する茶室で、携帯型カメラを握り、肩をぷるぷると震わせていた。

「おりゃあ!」

集中力を限界まで高めた(と本人は思っている)状態で、シャッターボタンを押した。

「今度こそ」

恐る恐る画面を覗き込む。

「…これも駄目みたいです」

画面を見たはたては、両肩から力を抜きへたり込んだ。

「上手くいかんか?」

傍らで彼女を見守っていた天魔も、はたての肩によじ登り画面を覗き込む。画面は真っ暗で何も写ってはいなかった。
はたては先ほどから『未来の自分』や『外国』というキーワードを入れて念写を行っていた。

「やっぱり私の能力は他人が撮った写真限定みたいです」
「かつて、未来の映像や、遥か離れた異国の景色を視る技を持つ天狗が何人かおった。お主の念写からはやつらと似た系統のものを感じたから、鍛えれば同じことが出来ると思ったのじゃがな」

朝から色々と試しているのだが、一向に進展は無い。

「私の能力って鍛えられるモノなんでしょうか?」
「諦めたらそこで念写終了じゃぞ」
「どんな格言ですか?」
「しかしこれ以上このやり方では成果は望めそうにないのう」

いい加減やり方を変えることにした天魔。

「お主の念写は篭める妖力の大小で何か変わったりするのか?」
「えっと、変わります」
「どう変わる?」
「妖力が少なすぎたら何も写らないですし、多めに篭めると鮮明な画像になります。でも一定量を超えちゃうと携帯が負荷に耐えられずにエラーを表示して何も写りません」

幼い頃から幾度となく繰り返した経験から、はたては適量の範囲を感覚を掴み、念写を行ってきた。

「限界まで妖力を篭めて念写したことはあるか?」
「無いです」
「一回くらいあるじゃろう? 能力を覚えたばかりの頃に知らずにやってしまったとか」
「その頃は、母さんから色々と指導されて使っていたので」

当時まだ存命だった母の管理下で慎重に念写の使い方を覚えていた。

「母さんから『必要以上の妖力は篭めるな』とキツく言われていたので。妖力の篭め過ぎだけは徹底してました」
「懸命な判断じゃな」

妖力とは妖怪にとって命の源である。
大量に妖力を失うというのは、それに見合う分の血を失うと言っても過言ではない。

「今回は儂がちゃんと見ておるから、ありったけの妖力を篭めた念写をしてみんか?」
「え、でも」
「不安か?」
「それもありますが、携帯が壊れちゃうんじゃないかなって。なんか私の携帯、負荷を掛けすぎると爆発しちゃうみたいで」
「怖いなそれ……案ずるな、儂も助力する。胡坐をかけ」
「こうですか?」
「うむ」

はたての太ももの上に座った天魔は、両手で携帯を持つはたての手に、自らの手を重ねる。
天魔の小さな体躯がはたての腕にすっぽり包まれる形になる。

「カメラを一時的に強化し頑丈にしてやる。その間に妖力を篭めよ」
「そんなことできるんですか?」
「儂は天魔ぞ? 強化の術くらい朝飯前じゃ。それに忘れたのか? お主が諏訪子神と競り合えたのは誰のお陰かを?」
「そうでした…」

ダム計画の最中に、はたては守矢諏訪子と対峙した。
その際、天魔がはたての携帯の力を増幅させており、それが大きな武器となった。
あの時、携帯が負荷に耐えられずに爆ぜなければ、山の歴史は変わっていたかもしれない。

「それでは始めるぞ」
「お願いしま…」

―――くれぐれも、念写する時は適度な妖力を心がけるのよ?

「っ!」

その声は、はたての頭の中、小さな頭痛を伴いながら響いた。

「どうした?」
「……いえ、なんでもありません」
「緊張しすぎて固くなってはいかんぞ?」
(なんだったんだろうあの声)

不思議と懐かしい感じがした。

(おっと。今は集中、天魔様の期待に応えないと)

はたては大きく深呼吸をする。

「絶対に無理はするな。妖力の枯渇は命に関わる、手抜きは許さんが、無理はもっと許さん。『これ以上篭めたら辛い』と思ったら遠慮なく止めよ」
「はい!」

かくして、はたてにとって人生初の試みが始まった。

「ゆっくりじゃ。先の細いジョウロで水を注ぐようにゆっくりと妖力を篭めよ」
「わかりました」

―――よく聞いてはたてちゃん。その力はね、とても異能なものなの。

「ッ!」

妖力を開放すると、再びあの声が聞こえた。

(この言葉って確か)

―――天狗の多くは、瞳術や妖術を特化したような固有能力を持って生まれてくるけど、たまに貴女のような特殊なモノを持つ子がいるわ。

(やっぱりそうだ)

―――念写というのはね『時間を飛び越える窓』なの。その窓は、いつの時代のどんな場所の風景も覗き見ることができる。

(この台詞は私が幼い頃に)

―――それはとてもすごい事なの。だからね、慎重に使いなさい。

(念写を覚えたての頃に)

―――窓は本来、覗き込む為だけにある。加減を間違えてその窓を割ってしまっては駄目よ。

(母さんから言われた事だ)

―――割ってしまったら、向こう側とこちら側が繋がってしまうから。

「はたて、もうかなりの量を注いだ気がするが?」
「えっ、あ、はい」

天魔の声で、現実に引き戻される。
無意識のうちに、自分の体に貯蔵している半分近くの妖力を流し込んでいた。

「そろそろシャッターを押してみるか?」
「そ、そうですね」
「初めての試みじゃ。やはり怖いか?」
「大丈夫、です」

はたてはシャッターボタンに上に指を置く。

(母さんは昔ああ言っていたけど、今は天魔様もついてるし、大丈夫だよね?)

そしてボタンを押した。
その瞬間、修行の現場である茶室の壁が吹き飛んだ。














「あたたたた」

茶室のすぐ外。自身に覆いかぶさる壁の瓦礫を、その人物は自力でどかして空を仰ぐ。

「何が起こった? 仕事がひと段落して、自分の部屋で茶菓子食ってたよな? 何処だココ?」

妖怪の山だということは肌の感覚でわかったが、見える景色に違和感があった。
とりあえずその場所から離れようとする。

「何の騒ぎですか!?」
「ッ!?」

爆発に驚いた女中が駆けつけてきたため、再び瓦礫をかぶって身を隠した。









「大丈夫ですか!?」

半壊した茶室の中に女中が踏み込むと、呆然とした表情のはたてと天魔の姿があった。

「何があったんですか一体!?」
「うむ。ちょっとばかり加減を間違えたみたいじゃ。はたて、怪我は無いか?」
「はい。どこも…」
「はたてさん、顔色が悪いようですが?」
「一気に妖力を放出したからな。慣れていない体には相当な負担のはずじゃ。すまんがはたてを運んでやってくれ。儂は大工に連絡する」
「わかりました。あら?」
「どうした?」
「今、壊れた壁の向こうに人影が」
「なんじゃと?」

天魔が壁の大穴の前に立ち、左右を確認するが何も見つからなかった。

「何もおらんぞ?」
「どうやら見間違いだったみたいです」









その人物は天魔の屋敷の門まで逃げてきていた。
ここに来る途中、玄関から下駄を1足拝借した。

(何か情報が欲しいが…おっ、ちょうど良い)

門の郵便受け、そこに投函されている新聞を一部引っ掴む。

(なんでこんな古新聞が入ってんだ?)

日付を見て思わず首を捻る。別の新聞を取って読むが、それを同じ日付だった。

(これも古新ぶ……いや、ちょっと待て)

鼻を近づけるとインクの香りがした。

(今日刷ったばかりだ)

自身も若い頃は新聞記者だった為わかる。

「タヌキに化かされてるって事は無いよな?」

現状について段々と飲み込めてきたが、にわかに信じることが出来なかった。














今年も歓迎会を目的とした大宴会は中止という発表のせいで、式典が終わってからの会場は非常に騒がしかった。

会場を出た椛は、文たちと別れ、ダムに立ち寄っていた。
ダムの壁の片隅。そこに置かれた小さな石碑に手を合わせる。

「とと様、かか様。まだ半年ですが、隊長になって一つの区切りを迎えました」

石碑はダムが竣工してすぐ、表向きはダム建設の記念碑として設置された。
この石碑が置かれた本当の意味を知る者はあまりにも少ない。
設置に関わった全ての費用は天魔が出している事は、もっと知られていない。

「大勢の同胞を見捨ててきた私が隊長なんてやっていいものか、未だに迷いながらこなしています」

かつて椛が手を合わせていた楓の木はダムの底に沈み、この石碑が新たな墓標となっていた。

「ダム建設以来、文さんやはたてさんとも、さらに親密になったような気がします。にとりとも相変わらずで賑やかに…」

「おーい椛!」
「噂をすれば」

振り向くと、遠くで手を振るにとりの姿があった。

「また来ます。次は冬前にでも」

そう告げてにとりのいる方へ歩いていった。

「この辺に来るなんて珍しいね」
「ええ、ちょっと野暮用で。にとりはここに何か用が?」
「私は守矢神社に届け物をした帰りだよ」

偶然通りかかった時、石碑に手を合わせる椛を見つけて手を振った。

「届け物?」
「もうすぐお祭りでしょ? その時に飾るお面が欲しいって話が来てさ。こんな感じの」

にとりはリュックから、手作りの面を取り出して見せてくれた。
色黒で尖った嘴を持った鴉天狗をイメージした面だった。

「よく出来ていますね」
「でしょ? 力作だよ」
「どうして余ってしまっているんですか?」
「裏側にヒビがあってさ。それで引き取り拒否されちゃったんだ」
「この程度のキズでいらないとは贅沢な」
「相変わらず守矢のことが嫌いなんだね」

にとりは遠くにある石碑を一瞬だけ見て、すぐに椛に視線を移した。

「そういえば今日はもうあがり? 久しぶりに一杯?」

親指と人差し指で作った盃を傾ける。
酒飲みの誘いである。

「いいですね。これから詰所に報告書を置きに戻るのでその後合流しましょう」
「うん。わかった。じゃあ家で待ってるね」

にとりが踵を返した時だった。

「訊かないんですか?」

その背に、椛が問いかけた。

「うん?」
「ダム建設の時に何があったのか? とか、あの石碑は何なのか? とか」

ダムの建設が決まってから今日まで、にとりは何一つ訊いてこなかった。
にとりは部外者だったにせよ、自身が失踪中、一番心配してくれていたのは彼女である。
それに自分がダム反対で奔走している時に支えてくれた。
彼女になら、聞かれれば全てを話すつもりでいた。自身の名前についても、何一つ包み隠さず。

「正直、すごく気になってるよ。でもさ、このダムの話題になると、椛はいつも辛そうな顔をしてるからさ。そんな椛に教えてくれなんて言えないよ」
「そうでしたか?」
「何年友達やってると思ってるんだい?」

大天狗に次いで、関わりが長いのが彼女である。

「椛の気持ちの整理がついてからでいいからさ。冗談混じりで話せるくらい癒えてからで構わないから。その時まで待つよ」
「…」

喉が詰まった。

「それじゃあまた後でね」
「ええ」

たった二文字の言葉を、喉から絞り出すのが精一杯だった。











「ん?」

椛と別れて数百メートル歩いた時だった。
にとりは、前方に知り合いの天狗の姿を見つけた。

「なにしてんだろう?」

その天狗はポカンと口を開けて、ダムの外壁を見つめていた。
















その人物はダムの外壁を目の当たりにして、口をあんぐりと開けていた。

「何でだ?」

彼女はそっと外壁に触れる。

「このダムは老朽化の問題で、五年前に取り壊したハズだぞ?」

コケは愚か、ヒビ一つないその表面を確かめるように撫でた。

「どうやら本当に…」
「どうしたの? 何か見つけたの?」
「ッ!?」

ふいに、にとりに声を掛けられて、彼女は肩をビクリと震わせた。

「今日はいつもと違う服装なんだね? 黒い着物だなんて何か特別な行事でもあっ…」

彼女は手刀を振るった。
神速で振るわれたそれは、にとりの顎に軽く触れるだけだったが、意識を刈り取るには十分だった。
あまりの速さに周囲の鳥が驚き一斉に飛び上がった。

「ヤベっ。突然背後に立たれたものだから咄嗟にやっちしまった。どこぞの殺し屋か俺様は」

倒れるにとりの体を受け止めながら後悔する。

「誰だっけコイツ? 知り合いみたいなカンジだったが」

気を失ったその顔を見つめ数秒、ピンと来て目を大きく見開く。

「お前さんにとりか!? すっげ肌ピッチピチだ! ヨボヨボのババアじゃない! てかなんで生きてんの!?」

頭を揺らさないように気をつけながらそっとその身体を横たえた。
その際、彼女のリュックの中身が散乱した。

「おーおー相変わらず器用だな。ちょっと見ていいか?」

天狗の仮面を拾い、しげしげと見つめる。
その時、背後からジャリリと、砂と小石を踏みしめる音がした。
明確な敵意が、彼女の背中をなぞった。

「誰だい?」

仮面を被ってから、背後に立つ者に問いかけた。

「先に名を名乗るのはそちらだ」

抜刀し、彼女のうなじに切先を突きつけながら椛はそう返した。
椛はにとりと別れてすぐ、にとりが向かった方向から鳥が飛び上がったのを不審に思い反転し、この場に駆けつけ、にとりが気絶させられる場面に出くわした。

「そこの河童になにをした?」
「急に話しかけられて驚いて、つい手刀を。いや悪いとは思ってる」
「河童に狼藉を働いたら処罰されるのは理解しているな? 両手を頭に組んでゆっくりと立…」
「それには従えない」
「ッ!?」

仮面を被った天狗は身を翻した。
激しい金属音の後、宙を舞った剣が地面に転がった。

「おおう…」
「無駄な抵抗はするな」

宙を舞ったのは、仮面の天狗が所持していた剣だった。
完全な不意打ちで振るわれた剣を、椛はしっかりと反応し迎撃していた。

「こりゃ驚いた、剣を払おうとして、逆にこっちが払われるとは」

仮面の天狗の手には、空になった鞘だけが残っている。

「何か仕掛けてくるっていうのが、背を向けた状態でもひしひしと伝わってきたからな」
「以後、気をつけるよ」
(それにしても)

ちらりと、地面に転がる剣を見た。
刀身だけで5尺はある獲物だった。

(今この長剣をどこから出した?)

目の前の不審な天狗の体躯は決して大きくは無い、持っていれば必ずはみ出す。しかし背後から見た感じ、そんな様子は無かった。
まるで剣だけが突然現れたようだった。

(何者なんだコイツは……っ!?)

視線を正面に戻すと、仮面を付けた天狗の姿がなかった。

「天狗の子達の枕物語の一つにな」

声はたった今まで見ていた剣の方から聞こえてきた。

「どんな戦地に放り込まれても、必ず生きて帰って来る白狼天狗というのがある。あたりは敵だらけ、後方に居る仲間は自分ごと敵を殺そうと遠慮なく撃ってくる状況でもだ」

話しながら、仮面の天狗は自分の武器を拾おうと屈む。

「くっ!」

そうはさせまいと椛は盾を捨てて身軽になってから地面を蹴る。
一瞬で距離をつめ、峰で腕を殴打すべく横薙ぎに振るう。

「ぐぅ!」

しかし、峰が腕に当たる直前で、椛は身体を強く後方に押し戻され、タタラを踏んだ。

(なんだ?)

衝撃を感じた肩を見る。しかし肩には何の痕跡も痛みも無い。

「安心しなよ。空気を圧縮して作った塊に触れただけだから」

剣を拾い終えた仮面の天狗は指先に小さな竜巻を起しながらそう言った。

「この風の塊をな、機雷のように空中に設置したんだ。運が良かったな。威力は最小限に抑えてあるとはいえ、顔に当たったら結構痛いんだぞ?」

椛が目を凝らすと、相手の周りの空気が所々ぼやけているのが見えた。

「さて、色々と立て込んでるんでこれで失礼する」

鞘に納めると長剣だったものは一枚の札に姿を変えた。

「追ってくるなよ? お前を傷つけてしまうのは本意じゃない」
「待て! 貴様は何者だ! その札といい、術といい、こんなの見たことも聞いたこともないぞ!? 面を取れ!!」

背を向ける天狗を呼び止める。

「会えて嬉しかったぞ椛。達者でな。もっと身体を大事にしろよ」
「待て!! なぜ私を知っているっ!?」


突然の突風に目を怯むと、仮面の天狗は姿を消していた。



「帰る方法に心当たりはあるが、このまますぐ戻るのもなぁ」

椛がいるダムの外壁とは反対側の壁の上を仮面をつけた天狗は歩いていた。

「ちょっとだけ山を満喫してから帰るか」

正体不明の天狗は夜の帳の中に溶け込むようにして消えた。









【 二日目 】


翌日。
大天狗の屋敷。
昨日のことを大天狗の報告にやってきた椛。
門で掃き掃除をしていた従者に用向きを伝えて、入館の許可を貰う。

(ん、先客か?)

玄関には、無駄に意匠の凝った下駄があった。
下駄の歯は一般的なものに比べて拳一つ分高い。

(こういうのを好んで履いている奴にロクな奴がいないんだよな)

蔑むようにその下駄を一瞥してから廊下を進んだ。
大天狗の部屋の前でやってくると、中から話し声が聞こえてきた。

(やはり来客中だったか)

相手はあの下駄の持ち主だろうと想像する。

(出直そう)

そう考え、身体の向きを変えようとした時、ちょうど襖が開いた。
出てきたのは若い男の鴉天狗だった。

「いいですね大天狗様。くれぐれも隠し立てのないように」

男は襖を閉め、玄関に向かうべく、椛がいる方へと向かってくる。
井出達から、天狗社会でもそれなりの地位だとわかった椛は、すれ違いざまに小さく会釈をする。

「オイ」

唐突に話かけられた。

「……何か?」
「無礼者め」
「はい?」

男の天狗は不機嫌極まりないとばかりに、椛を睨みつける。

「白狼天狗ならば、俺が道を歩く時、立ち止まり道の隅に寄り深く頭を垂れるのが筋というもの」
「ああ、これは失礼致しました」

言われた通り、壁際までよって頭を下げる。

「以後気を付けます」

どんなに理不尽でも、相手にテキトウに合わせてその場を納める。椛の処世術である。
しかし今回は相手が悪かった。

「心が篭っておらぬ。俺を心から敬う気持ちが感じられない」
「お許しを。これが誠心誠意でございます」
「言い訳するでない!」

「騒がしいぞ。どうした?」

二人のやりとりが耳に入った大天狗が自室から顔を出した。

「大天狗様。この犬は貴女様の部下だな?」
「いかにもそうだが?」
「犬の躾くらいはちゃんとやって頂きたい」
「善処する」
「もし今後同じような事があれば、父上に報告し、しかるべき処分とらせてもらう」
「肝に命じておこう」
「ふん」

息巻いて男は立ち去る。
玄関で鉢合わせた従者を「どけ」と肩で乱暴に突き飛ばすのが見えた。

「いや~災難だったねぇモミちゃん」
「なんですかアイツ?」
「えっとなんだっけ、幹部で骨董品集めが趣味のジジイがいるでしょ?」
「ああ、あの余計なことしかしないって有名な老害」
「あれの直属の部下、というか息子。自称エリートの七光り君」
「通りで頭の作りがおかしいワケです」
「それよりどうしたの? 昨日の今日じゃん」
「ちょっと得体の知れない天狗を見まして報告に」
「廊下じゃなんだし、入りなよ」

椛は昨日の出来事を話した。

「始めて見る術ばかり使う天狗でした。身のこなしも、その辺の天狗とは一線を画しておりました」
「モミちゃんの言うのが本当なら、そいつは幹部クラスの実力よ」
「お心当たりは?」
「皆目見当も。そもそも御札が長刀に変わるとか、風の塊を機雷みたいに設置するなんて私も初耳だし。出来たとしたらすごい高度な技術よそれ」
「そうですか」
「ひょっとしてタヌキにでも化かされたんじゃない?」
「…そうかもしれませんね」

その天狗の姿を見たであろうにとりは脳を揺らされたせいか、その時の記憶がごっそりと抜け落ちていた。
椛と飲むという約束すら覚えていなかった。

「どうやら大天狗様が仰ったように。狐狸にでも謀られたのでしょう。失礼します」
「ちょい待ち。せっかく来たんだから、私の話しも聞いてよ」
「また愚痴ですか?」
「まあそんな所」

持っていた扇を上下に振り、立ち上がろうとしてた椛にまた座るよう促す。

「ずっと昔にさぁ、とある“笛”を探して貰ってたの覚えてる?」
「笛?」
「モミちゃん達が大嫌いな音が鳴る笛」
「ああ、なんかありましたねそんな任務」

古い記憶からその時のことを引っ張り出す。

「なぜ今更そんな話を?」
「さっきモミちゃんが廊下ですれ違ったクソ七光りがこう言ってきたのよ。『大天狗が隠し持ってるんじゃないか? 持っていたら売ってくれ』って」
「で、持ってるんですか?」
「持ってないわよそんなの。だから『あるかボケ』っていう意味の言葉をオブラートに包んで言ってやった」
「貴女らしい」
「そしたらあんの餓鬼んちょネッチネッチと嫌味と遠回しな侮辱よ」

よっぽど不愉快な思いをさせられたのだろう。歯軋りしながら、煙管に火をつける。
イライラを体から追い出すように煙を吐き出した。

「ふーーー。親父の方も大概だけど、あのクソ餓鬼は昔っから気にいらなかったのよ。親の権力を傘にワガママ三昧。中途半端に才能があるせいか、調子の乗りまくり」
「お察しします」
「アレで、性格が良くて、目がパッチリで、鼻がスラッとしてて強くて、もっと身長が高かったらイイ男なんだけどね」
「ほぼ全部足りないじゃないですか。むしろ何があるんですかアイツに?」

話が脱線したので戻す。

「でさぁ、今、巷で密かにその笛の噂が出回ってるらしいんだけど、聞いたことある?」
「生憎と噂話には疎いもので」
「私としてはさぁ、笛の存在を公にしたくないのよ。噂の発信源を突き止めて潰したい」
「噂なら鴉天狗の奴等のほうが敏感なんじゃないですか?」
「そっか。じゃぁあの子なら知ってるかしら?」
「あの子?」
「モミちゃんと仲の良い鴉天狗ちゃんよ」












河童の集落。

「へぶっしっ!」

盛大にくしゃみをした。

「大丈夫ですか?」
「すみません村長」

文は河童の長である村長の取材を行っていた。
今文がいるのは村長の自宅である。

「他に、何かお聞きしたいことは?」
「今のが最後です。お忙しい中、お時間を割いてくださってありがとうございます」
「とんでもありません。これからもどうか私達河童の声を、山に発信してくださいね」
「はい。必ずや。ですのでどうか、今後とも清く正しい文々。新聞をご贔屓に」

普段、気になる人物や事件を面白可笑しく取り上げる文だが、河童村長のコラムだけは一切の歪曲ないく真面目に掲載していた。
村長からの評価の高ければ、大勢の河童達が買ってくれるというのもあるが、真剣に山の未来を案じるその想いを無下にしたくないと考えていた。
私利私欲で動く者が大半の天狗社会の上層部と違い、部下を思いやるこの村長は尊敬に値する人物だった。

「そういえば射命丸さんは、こんな噂をご存知ですか?」
「噂、ですか?」
「とある“笛”にまつわる噂です」











天魔の屋敷。

「昨日は無理をさせてしまったな。すまなんだ」
「いえ」

一晩、天魔の屋敷で養生させてもらったはたては、玄関で天魔と女中に見送られていた。

「来週、もう一度試したいのだが大丈夫か?」
「はい、お願いします」
「今日くらいは安静にしておくのだぞ? 妖力切れは場合によっては死ぬからな」
「そうします」

一礼してから、玄関を出るその背中を見送る。

「はたてさん最近」
「どうした?」

はたてが門を潜った頃に女中が口を開いた。

「お母様に似てきたと思いまして。見た目も、雰囲気も」
「あやつは優秀な術師じゃったからな。はたてはその血を色濃く継いでいるようじゃ」
「そしてそれは貴女様の血でもあります」
「…」

天魔は押し黙る。

「ダム騒動が終わり師弟関係を解いてから一年。またこうして修行させるということは、真剣にご自分の手元に置こうとお考えなのですか?」
「まだ保留じゃ。力量を見て鍛錬が必要なら置き、自立できるようなら好きにさせる」
「話さないのですか? ご自分が血縁者だと」
「あやつにはそういうことに縛られて生きて欲しくない。そもそも、はたての母親にした仕打ちを考えれば、儂に血縁者を名乗る資格は無い」

天魔がそう言う頃には、はたての姿はもう見えなくなっていた。












(なんか空腹とは違った喪失感がある)

妖力を枯渇寸前まで使うという滅多に無い状態に違和感を感じつつ家路につく。

「おや、はたてじゃないですか」

天狗の集落を縦断中に声をかけられた。
振り向くと、河童の村長の取材を終えた文だった。

「顔色が優れませんね?」
「んー、ちょっとダルいかも」
「そうですか。ムリしてはいけませんよ。往来の真ん中で立ち話もなんです。どこかに入りましょう。面白い話も仕入れましたし」
「あ、うん」

すぐ近くにあった茶屋に二人は入った。




「呪われた笛?」

胡散臭い単語にはたてに眉根を寄せた。
水饅頭を竹串で突いていた手が止まる。

「なんでも、龍の子供の骨を加工して作った笛に、そう呼ばれているものがあるそうです」
「呪われたってどういうこと? 持ってるだけで不幸になるとか?」
「なんでも、吹けば白狼天狗を意のままに操れるとか」
「どうして白狼天狗だけ?」
「その素材となった龍の子供は、白狼天狗に斬られ、三日三晩苦しみぬいて死んだらしく、遺された骨には白狼天狗に対する強力な怨みが宿っているのだそうです」

そうとは知らずに職人が加工して作ったのがその笛だという。
以上が、文が村長から聞いた内容だった。

「そういえば子供の頃、そんな怪談聞いたことある」
「ずっと昔からあった噂話ですからね。都市伝説とでもいいましょうか」
「なんでそれが今更?」
「そう、それです。廃れたはずの噂がまた出回り始めるだなんて、何かあると思いませんか? 新聞記者の血が騒ぎませんか?」
「生憎と今は貧血気味だから」

テーブルに突っ伏す。

「あやや。本当に大丈夫ですか? 家まで送りま…ん?」

二人の席がある窓辺にカラスが一羽降り立った。

「君、大天狗様のカラスですね。え? 私に用ですか?」

カラスは一度だけ頷くと、すぐに飛び去ってしまった。

「すみませんがはたて」
「いいよ。行って行って」
「先に失礼しますね」

はたての分の会計もして、文は店を出る。

「重い日は家で大人しくしていなさい」
「うーそうじゃないー」

変な誤解をして文は飛び去った。






大天狗の自室に通された文。

「お昼食べた? まだならちょっとランチ食べにいかない?」

外食に誘われるのは初めてのことだった。

「別に話しならココでも」
「いい場所があるのよ。人目を気にせずにゆっくり話せる店が」
「…」

大天狗が言わんとする事を察した文。

「あまり持ち合わせないですよ?」
「大丈夫。おごるから。でもその為にはまずクリアしなければいけない障害があるわ」
「障害?」
「ちょっとこれ見て」

ドンと紙の束を机の上に置いた。

「今日の夕方が期限なの」
「まずいんじゃないですか量的に」
「だから従者の奴を突破しなきゃならないのよ」
「やっぱり出前とりましょうか?」
「諦めたらそこで脱獄終了よ」
「仕事が溜まってるのに抜け出したら駄目ですって」
「だから勧進帳作戦よ」
「勧進帳?」
「昔、私が目を掛けてやった人間のエピソードなんだけどね。なんか指名手配されてるから山伏の格好して検問?を通ろうとしたら案の定疑われて、ヤベエって時に部下が機転を利かせて殴ったら通してくれた、みたいな?」
「超アバウトなんですけど説明が。意味がわかりませんよ」
「いいから実行よ」






大天狗と文は、部屋を出てすぐの縁側で従者とエンカウントした。

「どちらに行かれるのですか大天狗様? お仕事は終わったのですか?」
「私は新人リポーターの大ちゃんだから、なんの事かサッパリです」

眼鏡にツインテールで変装というよりもイメチェンに近い格好をした大天狗。
懸命な若作りが中々に痛々しい。

「おえっ」

こみ上げてくる吐き気に耐えられず、従者はえずいた。

「もぉ。失礼なオジさん。行きましょう文先輩」
「え、あ、はい」

これには文も顔を引き攣らせる。

「ふざけてないで仕事に戻ってください大天狗様。提出の期日まで時間がありません」

なんとか持ち直した従者が再び二人の前に立ちはだかる。

「どうやら新米新聞記者に偽装してここを抜けるという作戦は失敗に終わったみたいね」
「成功させる気だったんだですか!?」
「セカンドフェイズよ文ちゃん。打ち合わせ通りにやりなさい」
「本当にやらなきゃ駄目ですか?」
「いいからやるのよ」
「わかりました、では」

力がまったく篭っていない拳を、大天狗の腹に当てる。

「ええーい。お前が大天狗様に似ているからメンドーな事になってしまったではないかコイツめー」
「ぐわー」
「こいつめーこいつめー」
「ぐえー」

棒読みの台詞を述べつつ、肩たたきのような力加減で蹲る大天狗を叩く。

「…」
「…」
「…」


なんとも形容し難い空気が辺りを包む。

「はい。というわけで通して」
「何が『というわけ』なんですか?」

立ち上がり通ろうとした大天狗の袖を従者は掴む。

「もー! ここまでやったら通すのが筋ってもんでしょうが! あれよ!? 部下は主君の命を守るためにあえて主君を殴ったのよ!? 見事な忠義だと感動しないわけ!?」
「少なくとも、今の茶番にその要素はありませぬ」
「くぅ。人情のわからぬヤツめ」
「某、天狗である故」
「ぐぬぬぬ」
「気が済んだらそろそろお部屋の方へ戻っ…」
「あ。見てあれ」
「何か?」
「行くわよ文ちゃん!!」
「え? ちょ!? わッ!?」

大天狗は従者の視線が逸れると、文を抱えて全力で飛んだ。









「はい。到着」

木々がまばらな平地に大天狗は降り立つと、文を解放する。

(すごいGだった)

終止抱えられていたにも関わらず、体を鉛のような疲労感が襲う。

「文ちゃん、こっちこっち」

手招きする彼女の背後には一台の小さな屋台がポツンと立っていた。

「ここなら内緒話するにはもって来いでしょ? おいっす大将」
「いらっしゃいませ」

暖簾をめくると、壮齢の鴉天狗の男が会釈した。

「悪いね。昼間っから開けてもらって」
「大天狗様の頼みとあっては断れませんよ」
「どうしたの文ちゃん、早く入ったら?」

屋台の前で固まる文。

「あ、貴方は…」
「お前も出世したな射命丸」
「なに、知り合い?」
「私が駆け出しだった頃にお世話になってた大先輩です」

一線を退き、隠居していることは知っていたが、まさかこんなことをしてるとは思ってもみなかった。

「もう用意してある?」
「こちらに。有り合せで作ったもので申し訳ありませんが」

席についた二人の前に、定食が並べられる。
その使われている素材に文は目を丸くした。

「有り合わせって仰いましたが、これってすんごい高価じゃないんですか?」

出てきたのは、高官達に祝いの席で振舞われている料理や、幻想郷であるが故に滅多に手に入らない海の幸だった。

「こんなの食べさせて私に何させようっていうんですか?」

食事に誘われた時点で、何か厄介ごとを押し付けられると思っていたが、この待遇を見るに、予想より大事のようだった。

「なんか最近、変な噂が流れてない?」
「変な、と申しますと?」
「笛よ笛」
「ああ、それですか」
「さすが文ちゃん、やっぱり知ってたみたいね」
「私もつい最近聞いたばっかりですよ」
「ちょっと噂を流した奴を突き止めて欲しいのよ。少し危険が伴うかもしれないけどやってくれる?」
「まぁそういう事なら引き受けましょう。記事のネタになりますし」
「助かるわ」
「ちなみに報酬は?」
「大将聞いてよ。以前この子、私に向かって『大女』って言ったのよ」
「お前よく生きてたな」

一年ほど前、ダム騒動の最中のことである。

「なんで蒸し返すんですか!? その件についてはきっちり謝罪と償いをしたじゃないですか!? 合コンだってセッティングしたじゃないですか! 引き立て役の女子を集めるのにどれだけ苦労したか!」
「心の傷は簡単には癒えないのよ?」
「それをネタにこれからずっとタダ働きさせる気ですか?」
「じゃあこれっきりにしたげる」
「うう…」
「まあとにかく。商談も成立したし食べましょ食べましょ」

しばし、両者は無言で箸を進める。
デザートが出された頃に大天狗はおもむろに口を開く。

「そういえば文ちゃん。私を大女って呼んだ時、守矢の放火写真をネタに私の地位寄越せって言ったよね?」
「もう止めませんかその話題は。あれは大天狗様を怒らせるためであって本心では…」
「やってみる? 大天狗の仕事? 私もういい加減お役御免したい。ほんと面倒事が次から次へと。勘弁して欲しいわ」
「何を仰るんです。貴女様の代わりなんて誰が勤められるんですか?」
「私だって何時死ぬかわかんないし。私が急死したら跡目争いで山が荒れるなんて嫌だし」
「確かに、大天狗様の後釜を狙う幹部は多そうですね」

天狗社会の軍権の半分以上を掌握できるのだ、出世を狙う天狗にとってこれ以上のポストは無い。

「それなら自分が健在の内に誰か指名して、そいつにノウハウを叩き込んでから引退したほうがスマートよ」
「私は駄目ですよ」
「はたてちゃんとかどうだろう? あの子、伸びシロあるから今から大天狗候補として育てれば」
「はたても駄目ですよ。天魔様のお気に入りですから」
「だよねぇ。天魔ちゃんが唾つけてるもんねぇ」
「そもそもアレは素質はあってもメンタルが豆腐を通り越してオカラですからね、高い地位にはつけませんよ。プレッシャーで自滅します」
「むー。あの子なら白狼天狗を差別しないし、適任だと思ったんだけど」
「ならそこそこ見込みの有りそうな天狗を後継者にした後、椛さんを補佐役に立てては? 椛さんなら白狼天狗の表も裏の事情も知ってますし」
「モミちゃんは駄目よ。あれで結構歳だから、体中ガタガタだろうし。そろそろ休ませてあげたいのよねぇ。隊長を何年かやらせたら、新人指導の教官に任命しようと思うの。で、頃合を見て引退。出来れば寿退社の方向で」
「…」

不思議そうな目で文は大天狗を見ていた。

「どうしたの?」
「まさか大天狗様の口からそのようなお言葉が出るとは」
「私だってモミちゃんには色々と押し付けて悪かったって思ってるわよ」

何度貧乏くじを引かせたか分かったものではない。

「罪滅ぼしのつもりですか? 今更」
「そろそろ帰ろうか。従者のやつも待ってるだろうし。大将、お勘定」

強引に話題を断ち切った。
この後、会計の額を聞かされて、文は開いた口がしばらく塞がらなくなった。

「じゃあ。私はこれで。笛の件、情報が入り次第ご連絡します」
「手掛かりになるかわかんないけどさ。今日、私んトコに笛の話しをしにきた奴がいるのよ」
「誰ですか?」
「骨董品集めが好きな幹部の息子」
「あの七光り君ですか?」
「そうそう」
「もし笛が実在して、それをあの一派が手に入れたら厄介ですね。確か守矢派でしたよね?」

表向き否定しているが、その一派こそが一番最初に守矢神社に寝返った連中だった。
ダム騒動の際、真っ先にダムに賛成もしていた。

「下手したら守矢の手に渡るかも。実在すればの話だけど」
「ホントの所、実在するんですか?」
「微妙」
「なんですかその表現?」

有るか無いかのハズなのに、随分と中途半端な返答に困惑する。

「椛さんに協力を依頼してもよろしいですか? 昔のことを色々と知ってるようですし」
「別に良いけど、たいした情報は持ってないわよ。『探せ』って命令しただけだし」
「おや? 反対しないんですか?」

休ませると言っていた手前、断られる可能性も考慮していた文。

「良いんじゃない? 文ちゃんならモミちゃんを悪いようにしないだろうし。協力させるかどうかの判断は任せるわ」
「私って意外と信頼されてるんですね」
「だからモミちゃん、あんまりコキ使っちゃ駄目よ?」
「貴女様にだけは言われたくありません。どうもご馳走様でした」

明日からどう調査するかを考えつつ、文は帰路に発った。
文が居なくなってから大天狗は大将の方を見る。

「悪いんだけど大将、明後日の夜、この場所で店構えててくれない? 予約料払うからさ」
「かしこまりました」













白狼天狗の詰所。
仮眠用に設けられた空間で、椛はまどろんでいた。


『ただちに我が隊は、やつらの篭城する屋敷に吶喊せよと指令が下された』
『ッ!? 待ってください隊長!』
『どうしたイヌバシリ?』

(伏兵がどこに潜んでいるのかわからないのに本丸に突っ込む? 私達を餌にして伏兵を誘き出すのが見え見えじゃないか)

『敵の数も満足に分からぬ今、不用意に飛び込むには得策ではないかと』
『命令に従えぬというのかこの腰抜けが!』
『ごっ』
『足手まといはいらん。そこで這いつくばってろ! 皆者、出陣ぞ!』
『待ってください隊長! 隊長!』

遠くなる仲間の背中。
彼らの身に突き刺さる矢、斬られる手足、今まで何十年と育んできた命をあっさりと散らしていく。
椛は生まれて初めて、自身の目が良いことを悔やんだ。彼らの死に様が、あまりにも鮮明に見えすぎた。






「隊長、いますか隊長ー?」

隊員の一人が自分を呼ぶ声が聞こえて、夢から覚める。

「どうした?」
「すみません。お休み中でしたか」

仕切りから顔を出す椛を見て、隊員は申し訳なさそうな顔をする。

「気にするな。それで用件は?」
「はい、大天狗様からの使いのカラスが手紙を」

受け取って封を開ける。『明後日の夕方。開けておいてね』とだけ文面に書かれていた。

(昨日の話か)

屋台への誘いだとすぐにわかった。

「変な姿勢で寝ていたらしい。ちょっと体を動かしてくる」

隊員にそう告げて、外へ出た。












(隊長か、未だに馴染まないなこの呼ばれ方は)

川に足を入れて水面を見つめる。

「犬走隊長ー」

数名の部下が椛のもとへ集まって来た。

「何かあったか?」
「あ、いえ。我々、これから夜勤組と交代してお先に失礼するのですが。隊長ももう少しで上がりですよね? 我々、これから酒を飲んで帰るのですが、隊長もいかがですか?」
「すまない。今日はもう他で約束があるんだ」
「そうですか。残念です」

心の底からそう呟き。彼らは去っていった。

(本当に隊長に向いていないな。私は)

先約があるというのは嘘である。単に行き辛いから断った。

(今更、仲間の命を背負う資格が、私にあるのだろうか)

夕暮れの生暖かく湿った風が、彼女の頬を優しく撫でた。

(そろそろ戻るか)

そう思った矢先だった。

「うわっすっげ! 川めっちゃ綺麗! 魚の種類多ッ! タニシ小っちぇー!」
「ッ!?」

川の反対側に、昨日目撃した仮面の天狗がはしゃいでいた。

「よーし、釣るぞー!」
「おい」

川を飛び越え、すぐ傍まで近づいて話しかける。

「おう椛じゃん。ここの魚ってどんな餌が一番食いつくか知ってる?」
「貴様は何者だ? なぜ私の名を知っている?」
「それは教えられないね。悪いけど」
「この山の者ではないな?」
「そうです。ロッキー山脈から来ました。あっちは地球温暖化とかそういう事情で住めなくなったので引越してきました」
「嘘だな」
「そうだよ畜生!」」

仮面の天狗の手が水面に手を触れると、一瞬で半径10mの範囲に濃霧が立ち込めた。

「フハハハハ! 今日は所はこのくらいにして……って、ついてくんなよ!!」
「断る」

濃霧から飛び出し逃走する彼女の背を、椛は追っていた。

「あの程度のモヤで私の目を誤魔化せると思うな」
「あい変わらず目ぇ良いなオイ! 小さい秋でも探してろ!」

密林の中、二人の追いかけっこが始まる。

(遮蔽物があるからって理由で、ココに逃げたのは失敗だったか)

仮面の中で歯噛みした。

(木が邪魔で全力で飛べんし、それに)

背後を振り返ると、椛は木々を蹴って加速し、彼女の速さに喰らいついていた。
飛ぶと跳ぶ。両者は着かず離れずの距離を維持していた。

「いい加減帰れよ椛! 武器も無いんだし!」
「その心配は無い」

駆けながら椛は横に手を伸ばす。
伸ばした先には、木の枝から吊るされた麻袋があった。それを掴む。
麻袋の中身は一振りの小太刀だった。

「ここは我が隊の哨戒区域だからな、万が一の時に備えて武器を配置してある」
「万が一ってどういう時だよ!?」
「こういう時の為だ!」
「ていうかドスをギラつかせて追いかけてくるな! めっちゃ怖い!」
「なら大人しく掴まれ!」
「それもヤダ!」

密林を抜けた二人。密林のその先は崖になっていた。

(よしっ、これで撒ける)

自身が全力で飛べる空間が出現し、安堵する。
飛翔に勢いをつけるべく、一度崖の手前で足をつけようとする。

「逃がすか!」
「うわっ!」

着地しようとした地点に、椛の投擲した小太刀が突き刺さる。

「危ねぇ!」

それによってバランスが崩れた隙を見逃す、椛は一気に距離を詰めてついにその袖を掴んだ。

「おい放せって!」

二人は崖から真っ逆さまに落ちていった。



















「椛、椛ってば」
「ん?」

優しく肩を揺すられて椛は意識を覚醒させた。

「良かった。生きてた」
「はたてさん? ここは?」

見上げると、自分が落ちた崖が見えた。
辺りには自分とはたて以外の姿は無い。

「びっくりしたよ。たまたま通りかかったら、椛が崖に寄りかかってるんだもん」
(きっと私は落下する最中にアイツに気絶させられたんだろうな。その後ココに)

自身に何の外傷もないことからそう推測した。

「ご心配おかけしました」

椛は立ち上がる。部下に何も告げずに飛び出したのを思い出した。
太陽の位置を見るに、気絶していたのは幸いにも短い間だった。

「動いて大丈夫? 医者にいかなくても…」
「このくらい平気です」
「あ、ちょっと」

はたての制止を振り切って、椛は行ってしまった。

「全く、そんなんだから早死にしたんだよお前は」

はたてだと思われたその人物はそう呟いてから、指を鳴らす。
次の瞬間、彼女の普段着が黒い着物に変わった。

「こうなると、山をぶらつくより、どっかに潜伏した方が良さそうだな……あそこに行ってみるか」

天狗の仮面をかぶり、その場所へ向かった。












夕暮れ、はたて宅。

「誰だろ。こんな時間に?」

ソファで横になっていたはたては、誰かが玄関を叩く音を聞いた。

「どなたですかー」
「よっ」
「…」

開けると、天狗の仮面を被っている者がいたので、ゆっくりとドアを閉め、鍵をかけた。

(なにあれ!? 今日ハロウィンだっけ!?)

正体不明の来訪者に軽く混乱するはたて。

「おいおい閉めるなよ。お前と私の仲だろ」
「えっと、どちら様ですか?」

ドア越しに問いかける。

「それは言えん」
「駄目じゃないですかそれ。そもそも何の用ですか?」
「色々あって、2~3日、泊めてくれると嬉しいなーなんて」
「知らない人を家に入れるのは流石に」
「なんでだよーお前の母ちゃんだって言ってたろ? 『困っている人がいたら、多少怪しくても助けてあげなさい、まぁ、うん、多分大丈夫よ』って」
「どうしてその言葉を!?」

思わずドアを開けて相手を見た。彼女の言葉は、母が生前に言っていた言葉と、一文字一句同じだった。

「俺様も世話になっていたからなその人に。今も心の底から尊敬している」
「母さんのこと、色々と知ってるんですか?」
「そう多くはないがな」
「教えていただけますか?」
「何日か泊めてくれたらな。あ、もちろん生活費とかもろもろはコッチで…」
「いえ。お世話させてください」
「そんなに母ちゃんのことが知りたいか?」
「はい」

強く頷き、玄関に彼女を通した。
廊下に案内しつつ、相手の素性をうかがう。

「ところで、どうしてお面を?」
「酷い火傷を負ってね。他人には見せられない顔なんだ」
「普段は何をされているんですか?」
「幹部だよこの山の。内勤が主な業務だからあまり人前には出ないけれど」
「えっ! そうだったんですか!?」

それを納得させる雰囲気が、不思議とその人物にはあった。天魔に良く似た雰囲気を彼女も持っていた。

「そんな偉い方がなんで私の家に?」
「ちょっと内輪で揉めてな、頭に来て屋敷を飛び出したのさ。雨風をしのげる場所を探していたらこの家が目に付いた」
「家出ですか?」
「そんな所だ。だから私がココにいることは誰にも言わないで欲しい」
「お名前を伺っても?」
「できれば素性は伏せておきたいんだよな。好きに呼ぶと良い」
「じゃあ『仮面さん』と呼んでもいいですか?」
「安直だなオイ」


こうして、はたての家に奇妙な居候が転がりこんだ。







【 三日目 】


翌日の朝。
玄関をリズミカルに叩く音が聞こえた。

(うるせーな。今日び借金取りだってもっと弁えて叩くぞ)

ソファで横になっていた仮面の天狗が体を起して家主が熟睡するベッドへ向かう。

「おい、起きろ。起きろったら起きろ」
「朝ごはんなら台所のパン食べていいんで」
「メシの話しじゃない。目ん玉開けろコラ」
「うわっ!」

視界一杯に広がる天狗面に驚かされ、はたての目は完全に覚めた。

「び、びっくりした」
「そんなことより。誰かがドア叩いてるぞ。うるせーから黙らせてこい」

玄関の方を顎でしゃくる。

「ちょっと見てきます。多分、知り合いだと思うので」
「ヒグマだったら鍋にして喰っちまおうぜ。ラフメイカーなら返り討ちにしろ」
「そんなワケないじゃないですか…はい、今あけます」

ドアを開けるとはたてが予想した通り、文が立っていた。

「おはようございます。体調はどうです?」
「一晩寝たら全快したよ」
「それは重畳。はたてがいると心強いです」
「ひょっとして、昨日言ってた笛の調査?」
「ええ、そうです。お邪魔してもよろしいですか?」
「あーそれはちょっと…」

気まずそうな顔をして、背後を振り返るはたて。
居候がいる今、誰かを入れに入れるのは憚られた。

「まぁ私のほうも時間を押していますし、ここで手短に要件を」

文は大天狗から直々に調査を頼まれた事を話した。
場合によっては危険が伴うことも、一切の情報を伏せることなく伝えた。

「それで、私は何をすれば良いの? いつもみたいに念写?」
「念写の方はもっと情報が集まってからお願いします。その前にまずは会って欲しい人物が」
「誰?」
「天魔様です。ぜひ笛のことを聞いて来て欲しいんです」
「話してくれるかなぁ?」
「貴女なら天魔様はアポなしで大歓迎でしょうから、多分大丈夫です」

その間に、文は椛を連れて聞き込みに回るのだという。

「それじゃあ頼みましたよ。日の沈んだ頃にいつもの居酒屋で落ち合いましょう。時間が押しているので私はこれで……あ、そうそう」

背中を向けた文だったが、立ち止まり振り返った。

「家の中とはいえ、あんまり大きな声での独り言は関心しませんよ」

そう忠告して飛び去った。

「ドア越しだったからハッキリ聞こえなかったのかな?」

仮面の天狗との会話を、独り言だと思われたようだ。
結果的に、家に第三者がいることが知られなかったので良しとする。

(それにしても『頼みましたよ』か)

文の言葉を噛み締める。
ダム騒動の時に感じていた、小さな疎外感をもう感じなくて良いと思うと嬉しくなった。










椛の部隊がいる詰所へやって来た文。
入り口から顔を覗かせると、部下と河童の将棋を観戦している椛を見つけた。
視線を感じたのか、顔を上げた椛と目が会った、手招きして外まで呼ぶ。

「なんですか?」
「ちょっとデートに行きませんか?」
「ご覧の通り仕事中です。またの機会に」
「何時なら都合が良いですか?」
「うーん、百年後?」
「思ったより早いですね」
「詰まらない事を言ってないで本題を」
「ちょっと巷に出回ってる笛の噂の出所の調べるよう大天狗から依頼されまして」
「大天狗様が私も調査に加えろと?」
「いいえ。そこは『任せる』だそうです」
「随分と買ってくれてるんですね」

ここまで話しがついていて、仕事も特に忙しくないと来たら椛の返事は決まっている。

「構いませんよ別に、お役に立てるかわかりませんが」
「本当ですか!?」
「ただ、私が勝手に抜けて部下がなんと思うか」
「そういうことならお任せください」

椛を入り口に残し、文は詰所の中に入る。
詰所の奥、車座になって花札をしている集団を見つけて声をかける。

「どーもー、勝ててますか?」

話しかけたのは、先日、文が取材して関節技を極めた白狼天狗の少女だった。

「どうも射命丸様、最近良くお見えになりますね」
「隊長をお借りしたのですが宜しいですか?」
「いいですよ別に。だたちょっとお願いが」
「私に出来ることなら」
「射命丸様は隊長と親しいじゃないですか。隊長に私達と飲みに行くようソレとなく促して欲しいんですよ」
「飲みにですか?」

気付けば、他の隊員達も真剣な眼差しで文を見ていた。

「どうにも隊長。我々と飲むのを避けている節があるようで」
「隊長が不器用な性分なのは重々承知しておりますから、それについて悪い印象は誰も持っていないのですが」

他の隊員も口々に言い出す。

「あっしらの殆どが、他の隊じゃ爪弾き者でさ。こうして毎日が楽しいは隊長のお陰です」
「私達は、隊長のことがもっと知りたいですし、親しくもなりたいんです」
「そんなことならお安い御用です。一席でも二席でも、いくらでもセッティング致しましょう」
「お願いします」

全員が膝を折って頭を下げた。




「話はつきましたよ、行きましょうか」
「相変わらず交渉がお上手ですね……どうしたんですかニヤけて?」
「いえ、ちょっと」

自分とはたて以外にも、椛を気にかけている者がいてくれることが嬉しかった。

「それで、まずどこに向かうのですか?」
「守矢神社です」
「…」

椛は歯茎を剥き出しにして、露骨に嫌そうな顔をした。







「どうもこんにちはー」

祭の準備で騒がしい守矢神社。
境内で陣頭指揮を執っていた八坂神奈子を見つけ文は話しかけた。
神奈子に会いたくない椛は石段の下で文を待つことにした。

「おや、文じゃない。祭の取材かい?」
「それもありますが、一つ別件でも御用が」
「ほう。聞こうか」

あえて声のトーンを落として言うことで、神奈子の興味を引かせる。
二人は人ごみからやや離れた場所で会話を再開させた。

「笛の噂をご存知ですか?」
「ああ、なんでも白狼天狗を意のままにできるとか」
「やはりお耳が早いですね」
「つい先日、その話を持ってきた天狗がいてね」
「誰ですか?」
「さあ。誰だったけねぇ」

意地の悪い笑みを文に向ける。

「私の頼み事を聞いてくれれば、思い出すかもしれないね」
「ぐ、何が望みですか?」
「その笛とやらが実在し、もしお前さんが手にしたなら、私に譲って頂戴。もちろん対価は払わせて貰うわ」
「お断りします。貴女にそんなのが手に入ったら、一体どれだけの白狼天狗が不幸になるか」
「そんな無粋な使い方しないわよ。ただ壊してやろうと思って」
「壊すんですか?」
「大勢の天狗が見ている前で、私が格好良い事を言った後にその笛を粉々に砕けば、こちらを信仰する天狗も増えるでしょうね」
「そういうことですか」
「そもそも、神がそんな道具に頼るなんて論外よ」
「貴方ならそう言うと思っていたよ」

神奈子の性質をある程度を理解する文は、その言葉に偽りがない事がわかる。

「いいでしょう。万が一、億が一。それが手に入ればお譲りしましょう」
「やはりお前さんは賢明だね」

こうして契約が成立した。

「私の下にその話を持ちかけた天狗だが、お前達の中では骨董品集めが趣味で通っているらしいな」
「やっぱりそいつらですか」

大天狗の情報どおり、今回はその一派が水面下で動いているようだった。

「『笛が手に入った暁には、献上するから。我々と最も懇意にしてくれ』と言ってきたよ」
「それだったら、何故私に彼らの情報を? 私に期待するよりも彼らを野放しにしておいた方が笛が手に入る確率が上がるんじゃないですか?」

文が笛を手に入れる確率など、ほぼ0である。
それなのにあえて情報を渡して彼らの妨害を促す意図がわからなかった。

「気に喰わないからさ。私も神奈子もあいつ等が」
「 ? 」

真上から声がしてすぐ、洩矢諏訪子が両手両足を地面について着地した。

「あいつ等さぁ。その話しを持ってきた時に『守矢と我等の友好の証として、早苗を嫁に貰ってやっても良い』っていう意味の言葉を遠まわしに言ってきたんだよ。本当にふざけんじゃないよ」

握り拳を作り、忌々しそうに諏訪子は語る。

「こんなカンジで、私達はあの天狗に良い印象を持っていない。あれは味方にしてはいけない部類の連中だよ」
「ですよね」
「だから良い物をやろう。あいつらに近づき易くなる」

一枚の御札を手渡される。

「これは?」
「守矢神社が“特別に贔屓”にしている天狗や河童だけに渡している御札よ」

天狗社会を切り、守矢側についたという証明書だと理解する。

「それがあればあの連中の屋敷にも入り易いでしょう?」
「貰ってしまっていいのですか?」
「一度はこちらに加担した身だろう? いいよいいよ。ダム計画の時は良く働いてくれたしね」

ニタニタと諏訪子は笑う。

「必ず返しにきます」
「そう言うな。これから常に勝つのは守矢よ。今回だってそう。天狗は損をして、最終的に我らが得をする形で終わるわ」
「それってどういう意味で…」
「さて、そろそろ祭の準備に戻ろうか諏訪子」
「あいよー」

意味深な言葉を残して、文に背を向ける神奈子。

「今度は椛も連れて来ると良い。歓迎するよ」
「姫ちゃんもね」

諏訪子は手を振って神奈子の後に続いた。
やがて二人は人ごみに混ざり、見えなくなった。





守矢神社の次は河童の集落に足を踏み入れる。

「村長、留守みたいですね」

村長の家の門に備え付けられた呼び鈴を押した椛が戻ってくる。

「にとりなら居場所を知っているかもしれません」
「そうですね。行ってみましょう」

この場所からすぐ近くにあるにとり宅へ向かう。

「にとりー、ちょっとすみません」

やや強めにドアを叩くと、家主はすぐに現れた。

「ありゃどうしたのお二人さん? デート?」
「はい!」
「違います。私たち村長に用があったんですが居ないみたいで、にとりなら知ってると思って」
「村長ならこの時間帯は工場だね。川沿いの。行ってみると良いよ」
「助かります」
「あ、そうそう」

踵を返す二人を呼び止める。

「明日から没頭したい事があって地下の工房に潜るから、今の内に直しておいて欲しいものとかある?」

その昔、河童の集落の地下に掘られ、現在は廃棄された地下道をにとりが改造して作った工房がある。
誰にも邪魔されない作業空間がコンセプトのその場所は、にとり以外の者が入れぬよう、工房に至るまでの通路に殺人級の罠が満載されていた。

「大丈夫ですよ。あったら直接お願いしに行くので」
(こうくるんだもんなぁ)

近年、難攻不落の通路であったそれは文、椛、はたてによって何度も破られていた。
危険を冒してまで頼ってくれるのは嬉しいが、そっとしておいて欲しい彼女としては複雑な胸中だった。

(今回も罠を強化したけど、結局無駄に終わるんだろうなぁ)

大きく溜息をつくにとりの苦悩を、二人は知らない。





河童の工場。
受付で渡されたぶかぶかのヘルメットを手で押さえながら文と椛は通路を進む。

「ここの開発室にいるそうです」
「じゃあアッチですね」

にとりとつるむ関係で、椛はこの工場に何度も足を運んでおり、内部の構造はだいたい頭に入っていた。
すれ違う作業着の河童達に会釈をしながら目的地を目指す。
開発室というプレートが掛かった部屋は、すぐに見つかった。

「失礼します」

ゆっくりとノブを回して入る。
ひんやりとした中の空気が、通路で熱せられた二人の体を冷ます。
部屋はシンプルな内装をしていた。
壁際にデスクが一つ、その隣には設計図の貼り付けられたマグネットボード。その反対側の壁には工具が並んだ台に本棚と、ごく少数で作業することを想定したこじんまりとした空間だった。

(ここにあるのが工具じゃなくて、カメラ関係の道具だったら、完全に鴉天狗の作業部屋だな)

椛はなんとなく、文やはたてが新聞を執筆する作業部屋に似ていると思った。

目的の人物である村長はデスクに向かい、工具と格闘していた。

「んぎぎぎぎ」

作業着姿で、髪を帽子の中に納めた村長は万力のハンドルを掴み、悶えていた。
歯を食いしばり、体ごと傾けた際、ようやく二人の入室に気付いた。

「あ、良い所に。すみません天狗さん。ちょっと手を貸していただけないでしょうか?」
「えっと。何をすれば?」
「このハンドルを右に」

力に自信のある椛の方が手を貸すと、万力に挟まれてたモノが圧迫から開放されてデスクの上に落ちた。

「はぁはぁ。助かりました。かれこれ30分このままだったので、もう駄目かと…」
(どんだけ非力なんだこの人)

これでもかつては工場長を務め、にとりを始めたとした多くのエンジニアの育成に努めたというのだから驚きである。

「えっと、射命丸さんと…」
「犬走椛です。文さんの付き添いですので私のことはお気になさらず」

自己紹介をして文の後ろに下がった。






「大したもてなしはできませんが、ゆっくりしていってくださいね」

予備のパイプ椅子に座らされた文に、コーヒーが振舞まれる。
椛はそれを辞退して壁にもたれている。

(にして、相変わらず作業着が致命的に似合ってないな)

椛は、文と向かい合う形で椅子に座る村長を見る。
おっとりとした印象を受ける垂れ目に、腰まで伸びる長い髪に肉つきの良い体。
麦藁帽子にワンピース姿で、どこかのご令嬢だと自己紹介されたらすんなり信じてしまいそうになると、椛は村長を見る度に思っていた。

(この方は一体どこまで知っているのか)

椛は静観を決め込み、二人のやり取りを見守ることにした。

「本日はどういったご用件でしょうか?」
「それはですね…」

文は思考を巡らせる。

(さて、単刀直入に訊くべきか? 世間話から始めるべきか?)

場の雰囲気、村長の顔色を窺いながら、最初の一手を画策する。
すると。

「あの、ひょっとして。笛の噂についてですか?」

幸いなことに、村長から本題を切り出してくれた。

「はい。あの後、噂がどこまで本当か知りたくなりまして。可能なら次回の新聞の記事にしようかと」
「そうだったんですか。でも、ごめんなさい。私もここの食堂で女の子達が面白おかしく話しているのを聞いただけなんです」
「それは弱りましたね」

渋い顔をする文に、村長はこう続ける。

「先ほど助けてくださった方を、手ぶら返しては申し訳が立ちません。もしよろしければ。大昔に出回っていた方の噂をお話をしましょうか?」
「っ!」

椛の眉がピクリと動く。

「お願いします。今は少しでも情報が欲しいので」

文が頼むと村長は当時の噂を語り始めた。

内容はこうだ。
白狼天狗が原因不明の死を遂げる事件が頻発した。
不審に思った上層部が捜査したところ、とある笛の音がその惨劇を引き起こしているという情報を得た。
上層部は血眼になってその笛の所在を追い、何人もの白狼天狗の犠牲を経て、その笛の職人がとある河童であることを突き止めた。
かくして河童の職人は討たれ、笛は捜査部隊の手に渡った。
しかし、捜査部隊から上層部の手に移る途中、笛は忽然と姿を消してしまった。
以来、笛の所在は誰にも掴めていない。

「大体こんな感じでしょうか」
「どうして笛は消えてしまったのでしょうか?」
「この噂のオチには色んなパターンがありまして、代表的なものを挙げるとすると三つですかね」

一つ、白狼天狗を恨み、まだまだ殺し足り無い呪いの笛は、自らの意志でその身を隠し、今もどこかで吹き手を求めて彷徨っている。
二つ、職人の弟子が隙を見て盗みだし、師匠の遺作を守るべくどこかに隠した。今も大切にどこかに保管されている。
三つ、捜査隊にいた白狼天狗たちによって笛は粉々に砕かれて燃やされた。こうして笛の驚異は永遠になくなった。

「…」

村長が話している間、椛はずっと監視するような鋭い目つきで見ていた。

「今日はありがとうございました」

メモ帳を閉じた文は礼を言う。
今の時間を確認しようと思い視線をデスクの上の時計に目をやる。その時、ある物が目に付いた。

「そういえば、アレは一体?」

指差したのは、ここに来た時に万力に挟まっていた物だった。
話題作りや何かを聞き出す為のキッカケではなく、純粋な好奇心から尋ねた。

「江戸時代ごろでしょうか、河童の里に迷い込んだ人間がおりまして、無事に故郷まで送ってあげた際、お礼に置いていったのです」
「ぱっと見て、火縄銃のようですが。だいぶ小さいですけど」

筒先の長さはせいぜい20cmも満たない。

「元はもっと長い物だったんですけど、改良を繰り返したら、いつの間にかこんなにコンパクトになってしまいまして」

護身用として、たまに持ち歩くようにしているという。発砲に火縄が不要な構造に改造されていることも嬉しそうに語った。

「ずっと仕舞っていたので、メンテナンスをと思い、引張りだしたのは良かったんですけど、最後の最後であの万力に捕まってしまい。金具が曲がってなければ良いのですが」

様々な角度から眺めて、不備が無いことを確認。

「よろしければ試し撃ちするのを見ますか?」

目をキラキラと輝かせてそう問いかけてきた。
自身の発明の成果を見せたくてウズウズする河童のそれだった。

「お邪魔にならなければ」
「すぐ準備しますね」

ホワイトボードの裏側から畳を一畳引っ張り出して壁に立て掛ける。

「ここでやるんですか?」

てっきり屋外でやるものとばかり思っていた文は困惑する。

「護身用でそれほど威力はありませんし、何より早く撃ちたいじゃないですか」

どうやら時間が惜しいだけのようだった。
村長は銃の上部をスライドさせ、出現した空間に小さく丸い鉄球を納めた。

「大きな音がしますので、耳を塞いでいてください」
「それでもう撃てるんですか?」
「ええ、ちゃんと装填され、暴発の可能性が無ければ」
「ちゃんと装填されないと出ないんですか?」
「はい。スライドが僅かに空いていたり、弾がちょっとでもズレた位置にあると、引き金が固定されたままで、いつまで経っても撃てません」

不良品の火縄銃が暴発して持ち主の手や、周囲にいる者に重大な怪我を負わせてしまう事故が何件も発生したため、その対策だった。

「何事も安全第一ですから。それでは失礼します」

乾いた発砲音が部屋に響く。
弾は畳の中心にめり込んで止まった。

「次はワザと装填に不備があるようにして」

スライドを中途半端の開いている状態にしたのを文達に見せる。

「動かすたび、中でカラカラと音がしているのがわかりますか? 弾が正しい位置に無い証拠です」
(聞こえるような、聞こえないような)

的に向けて引き金を引こうとするが、ガチガチに固まったそれはびくともしない。

「とまあこんな様子で……あっ」

ここまで語り、村長はハッとして顔を赤らめた。

「すみません。私、聞かれて無いことまで長々と」
「あ、いえ。大変興味深い話しでしたよ? やっぱり道具は、安全に使えてこそですもんね」
「その通りです。しかし最近はどこも不景気なせいか、クライアントの皆さんからは低予算での注文が多くて、安全が二の次になってしまっているのが現状でして」

コスト削減を意識すると真っ先に削られるのが安全面である。それを彼女は嘆く。

「当然、私達もコスト削減の努力には全力を尽くします。しかし限界はありましてやはり…」

(文さん、また長話になりそうです。撤退を)
(そうですね)

目配せと僅かなハンドサインで意思疎通する椛と文。

「次回のコラムでそれをテーマにしたら、いい記事になりそうです。また取材に来ますので、その時にじっくりと」
「はい。是非お願いします」

自身の作品を語れて満足顔の村長に一礼して、二人は開発室を出て、次の場所へ向かった。





















夕暮れ時、方々を回ってから、はたてと合流場所に指定していた居酒屋に到着した文と椛。

「はたてはまだ着いていないみたいですね」
「約束の時間までまだ少しありますよ」

ちょうどカウンターが三人分空いていたのが目に付き、店員に後からもう一人来る旨を伝えてからそこに座った。

「先に注文しておきましょうか。いつくるかわからないですし」
「そうですね」

それぞれ飲みたい酒を頼んでから品書きを見て、適当に料理を注文した。

「…」
「どうしました椛さん? 何か気になることでも?」
「今日回った場所。守矢と工場以外は全然関係の無い所だったなぁと」

工場を出てから、集落にある小物屋や甘味処、着物屋など情報収集とは関係の無さそうな場所を連れまわされた。

「あれ? 最初に言ったじゃないですか『デートしましょう』って。守矢と工場なんてオマケで立ち寄っただけですよ」
「いいんですかもっと情報収集しなくて?」
「大丈夫ですよ。きっと今頃はたてが天魔様からわんさか情報を集めてるでしょうし」
「まぁはたてさんに任せておけば安心ですね」
「それに、こうでもしなければ椛さん付き合ってくれませんし」
「偶に、貴女はどこまでが冗談でどこまでが本気からわからなくなりますよ」
「少なくとも、椛さんに対する想いは本物ですよ」
「はいはい」

ちょうどそこへ、二人が注文した酒と料理のいくつかが運ばれて来た。
はたてが着くまで雑談に興じる二人。

「隊員の方達とは上手くやれてますか?」
「まぁ、そこそこ」
「駄目ですよ。一緒に飲みくらい行ってあげないと。一杯奢ってあげるくらいは貰ってるでしょう?」
「そんなケチな理由で断ってるんじゃないですよ。ただ…」
「ただ?」
「これまで私と親しい白狼天狗は、どいつもこいつも長生きした記憶が無いもので。どうもそれが頭の片隅に引っ掛かってて」
「…」

二人の間の空気が急に重みを増した。
十秒ほどの沈黙の後、おもむろに椛が口を開く。

「文さんは“死相”ってわかります?」
「ええ。ぼんやりとしたイメージ程度ですけど」
「あれが視えると言ったら、笑いますか?」
「視えるんですか?」
「昔、見えていた時期があったんです。今は全くですけど」

大天狗の下につき、裏で動いていた頃、天狗同士の覇権争いが最も激化した時期の話である。

「薄い紫色のモヤみたいなのが掛かっている者がいると、そいつが病人だろうが元気だろうが、2~3日中には必ず死ぬんです」

モヤが掛かっていない者は、3日経っても4日経っても死ななかった。

「そのことを長老に相談すると『戦渦で研ぎ澄まされた5感が、生き延びるためにあらゆる情報を拾い、結果、死相という形で現れているのでは?』と。呆けてるのか呆けてないのかわからない顔で言われました」

そう言われてから、椛は死相を上手く活用するようになった。

「殺す相手に死相が出ていたら、恐れることなく突っ込みました。逆に出ていないと、いつ逃げようかと引き際を探るようにしました」

そうやって椛はのらりくらりと任務をこなしていった。
当然、その途中で何度も命を落としかけた。楽な任務など何一つとしてなかった。

「それである時、死相についてある発見しました」
「発見?」
「死相は伝染するんです。長い時間傍にいると、親しくすると、モヤはその者にも掛かるようになって、一緒にいる者を道連れにするんです」

そうと知ってから、椛は仲間と距離を置くようになった。

「味方に死相持ちがいたら、そいつとは真逆のことをしました。そいつが走ったら止まって、そいつが止まったら私は走るといった具合に、絶対に足並みを揃えない様にしました」

麦の穂が零れるように、仲間が次々と死んで行くなかで、椛だけが生き延び、数々の死線を潜り、本人の望む望まないに関わらず、その剣の腕は練磨されていった。

「やがて天魔様が山の実権を完全に掌握し秩序ができて血生臭い任務が激減すると、自然とモヤは見えなくなりました」

ここまで話して、椛はお猪口をひと舐めした。

「今にして思えば、あんなのは恐怖に取り憑かれていた私が勝手に見ていた幻覚なのかもしれません」
「…」

文は未だに何と声を掛けて良いかわからず、椛の言葉をただ黙って聞く他なかった。

「私は、とんでも無い卑怯者です。自分の命を優先して、仲間を救う素振りさえ見せなかった。そんな私に、隊長なんてやって良かったのでしょうか?」
「そんなこと…」

「いらっしゃいませー」

文がようやく声を絞り出した時、店主の姿勢の良い声が店内に響いた。
はたてかと思い振り返る二人。
しかし、やって来た人物はその予想を裏切った。

「これはこれは若旦那」

店主が揉み手をして応対した客は、取り巻きを引き連れた鴉天狗。昨日、大天狗の屋敷で椛に因縁をつけてきた男である。

「席はあるか?」
「おい! 奥の座敷を開けろ! 少々お待ちくださいませ」

従業員に檄を飛ばして、再び媚びへつらいの表情に戻る。

(あれは確か、骨董品好き幹部の一人息子)

要注意人物の息子の登場という思わぬ事態に、そのまま彼を凝視する。
そして彼と目が合ってしまった。

「射命丸か。久しいな」
「ご無沙汰しております」

男は取り巻き達を先に奥に行くように命じてから、はたての為にとっておいた席に座った。
文はその優れた容姿と能力から、大勢の天狗の男に声を掛けられる。
この男もまた彼女を狙っている男の一人で、過去に何度も言い寄られたことがあり、その度にやんわりとかわしていた。

「一人か?」
「いえ」

視線を男の座るテーブルに送り、そこが予約席であることを遠まわしに伝える。

「男を待っているのか?」
「女友達です」
「そうか。まあ当然だな。お前につり合う男などそうはおるまい」
(貴方は論外ですけどね)
「こんな席では酒も不味かろう。奥に移らんか? 友の分も馳走するぞ?」
「そんな、悪いです」
「男ばかりで華が無いと思っていたのだ、手下共も喜…」
「ゴホン」
「んん?」

文を口説くのに夢中だった男は、椛が咳払いすることでようやく彼女の存在に気付いた。

「どうして貴様のような犬がここにいる?」
「その節は大変失礼致しました」
「ふんっ、これはますます席を変わるべきだな射命丸。こいつの隣では酒が不味くなる」
「あの、彼女は…」

言葉の途中で、椛は手を軽く挙げて文の言葉を遮った。

「そうしてくれるとありがたいです。私も、そのご婦人に申し訳がないと思っていたところです」

言って、お互いに他人として振舞うよう、文に目配せをした。

「気に入らんな、その口ぶり」

どういう基準かはわからないが、椛のその態度はまたしても彼の癪に障ってしまったらしい。
男は椛に詰め寄る。

「俺は情報通だからな、貴様のことはあれからすぐ小耳に挟んだぞ。こっちを向け」

椛の髪を掴み、文の方を向けさせる。

「知っているか射命丸。この犬はかつて、大天狗の下で相当な悪行を働いていたそうだ」
(椛さんのそれは悪行ではありませんし、元はと言えば、貴方の父上のような上層部が私利私欲で好き勝手やってたせいじゃないですか)

喉まで出かかった反論の言葉をなんとか飲み込む。

「お役御免となって何の咎も受けずに今までのうのうと生きている天狗の風上にも置けぬゴミだ」
(こいつ。言いたい放題…)

ハラワタが煮えくり返る思いだが、何とか感情は表に出さず、驚いた顔で相槌を打つ文。
自らを抑えるために、腕組を装って自分の二の腕を強くつねっていた。

「大して山にも貢献せず、子も残さず、貴様は何のために生きている?」
「…」

椛はただ無表情で、男の言葉を聞いていた。
今の彼女からは怒りも悔しさも読み取ることは出来ない。
無抵抗を良いことに男はさらにつけ上がる。

「見るといい射命丸よ。この犬の身体を」

椛の襟を掴む、他の客が見ている前で胴着を肌蹴させ、肩まで露出させた。
サラシで隠れていない部分を指さす。

「なんと醜いことか」

斬られ、抉られ、噛まれ、削がれ、討たれ、刺され、様々な状況を思わせる数々の傷跡を見て、男は笑った。
着直そうと椛が肩を動かした時。

「誰が着なおして良いと許可した?」
「ぐっ」

肌蹴た箇所を直そうとした椛だったが、男に膝裏を蹴られてその場で跪いた。

「昔は名家の特権で、数え切れんほどの白狼天狗を水揚げしたが、貴様には全く食指が動かんな」

ここまで話して男がようやく椛から離れたが、下手に動けばまた蹴られ可能性があったため、椛は肌蹴る胴着を無視した。

「あの、食事の場でこのような事をするのは些か…」

文は彼の気に障らぬよう注意しながら、これ以上椛に男の関心が向かないように試みる。

「嫉妬か文? 案ずるな、白狼天狗の女が何千匹いようと、お前の美しさを越える者などおらんよ。もとより白狼天狗など道楽でしか抱かん。こう見えて俺は一途でな」

何を勘違いしたのか、今の文の発言をそういう風に受け取った。

「白狼天狗は丈夫なだけが取り得で、加減せずヤっても中々壊れんから使っていたも過ぎん、まぁ中には一晩共にしただけで使い物にならん欠陥品も大勢いたがな」

この話は男にとって自慢話の部類にあたるのだろう。嬉々として語っていた。

「もしや、お前が子を産まぬ理由はそれか? どこぞの高官の道楽のせいで子袋が使い物にならなくなったか?」
「…」
「なんとか言わぬか? 自分の初めてを捧げた男の顔くらい覚えていよう?」
「わかりません」
「わからぬだと? 自分の初めての相手をか? これだから誰にでも股を開く白狼天狗は汚らわしい。子を残さぬほうが正解だ」

男は椛が飲みかけだった酒のグラスを取り、椛の頭にこぼした。
十分に残っていたため、椛の白い髪は存分に濡れた。

「この酒は俺が奢りだ。どうだ? 少しは消毒になったか?」

空になったグラスを置くと屈み、俯く椛と同じ目線になる。

「貴様の名『椛』と書くそうだな? 秋を象徴する木と同名とはずいぶんと傲慢だな。貴様などこれで十分だ」

男は箸を握ると、それで床に落ちた酒の水滴をなぞり漢字一文字を書いた。

「これは埖(ごみ)と呼ぶ。明日からこう名乗ると良い」

耳元でそう囁いた。

「消えろ。これから俺はこの店を貸し切る。もうお前の席は無い」
「…」

椛は手拭で顔を拭き、胴着を着なおしてから、出口に向かう。

「感謝の言葉が聞こえんぞ? 酒も飯代も出してやったのに無言で立ち去る気か?」

丸まったその背中に追い討ちをかけた。

「ご馳走様でした」
「心が篭ってないがまあいい。今回は多めにみてやろう。俺は寛大だからな」

椛が緩やかな動きで戸を開けると、すぐ目の先に立っている少女がいた。

「ッ!」

椛ははたての姿が他の者に見えぬよう慌てて戸を閉めた。

「いつからココに?」
「全部聞いてた。文の隣にいた奴があの声の主?」
「駄目です。奴に手を出しては」
「そこをどいて」

多くの修羅場を潜った椛ですら、はたてから発せられる威圧感に圧されていた。

「中に入ったら、上手いこと文さんを連れ出してください。あいつらと一晩も飲まなければならないなんて堪ったもんじゃないでしょうから」
「椛は平気なの!? あんなことされて!?」
「慣れてますから。まぁアレは極端な例ですが」
「あんな事されて何とも思わないわけないじゃない! それなのに…」
「私は平気ですから。文さんのこと、くれぐれもお願いしますね」

そう言い残し、椛は帰っていった。

(ごめん椛。そのお願いは、聞けそうにない)

心の中で謝罪してから、はたては店の戸をあけた。

「はたて?」

はたての入店に最初に気付いたのは文だった。

(あの子まさか)

はたてから尋常でない殺気が漏れていることがわかるのも、文だけだった。

「おおっ。射命丸の待ち人は姫海棠だったか。美人で有名な二人と酒が飲めるとは、今夜はついている」

男ははたてに近づく。彼は文だけでなく、はたても手篭めにしたいと思っていた。

「こんばんは」

冷めた目で男を見る。

「どうしたその表情? 緊張しているのか? 脱引篭もりしたと聞いて久しいが、まだ男と接するのは慣れておらんか? 俺はお前と妹のように思うている。気を楽にすると良い」

男が完全に自分の間合いに入った瞬間、はたては握っていた手を開き、先を尖らせた。

(まずいっ)

文は椅子を倒して立ち上がった。

「いや~、すいませんはたて。先に一杯やっていたら、どうやら酔ってしまったようでして」

はたての腕を文は掴んでいた。

「ッ!?」
「すみませんがはたて。外に連れて行ってくれませんか?」

言いながら文は、はたての腕を握る力を弱めては強めてを繰り返す。

(これって)

握る強弱によって、文が何かを使えようとしているのだとわかった。

(わ、た、し、に、あ、わ、せ、ろ。こ、こ、か、ら、は、な、れ、る)

白狼天狗が仲間と連絡を取る手段として使う点と線を用いた信号を、文は腕を握る感覚で表現した。
過去に大天狗の頼みごとに関わった際、二人ははからずしもこれの読み方を覚えていた。

「すみません。文の調子が悪いみたいなんで失礼しますね。これお勘定です。足りなかったら言いに来てください」
「おい。待て」

カウンターにサイフの中身の半分を置くと。はたては肩で文を支えて足早に去った。









集落から遠く離れた林道までやって来て、二人は向き合う。

「何考えてるんですか貴女は!?」
「なんで邪魔したの!!」

両者の怒声が交錯する。

「椛にあそこまで酷いこと言われて我慢できるの!?」
「アイツの胸倉を掴むような事をしてみなさい! 今までと同じ生活が送れなくなりますよ!?」
「そんなのおかしいよ! 椛は散々侮辱されて、脱がされてお酒までかけられたんだよ!?」
「身分が違うからに決まってるでしょうが! アイツは大幹部の息子で時期幹部候補! 片やしがない哨戒天狗の隊長!」
「関係ない!!」
「大有りですよ! あいつがその辺にいる天狗だったら、今頃は八つ裂きにしてゴキブリの餌にでもしてますよ!」

怒り心頭なのは文も同じだった。
しかし、あの状況では我慢する他なかった。

「今日はもう解散しましょうはたて。報告は後日でいいです。お互いに頭で血が昇っている状態じゃ、まともに会話できないでしょう?」
「あいつ、椛の名前を馬鹿にした。椛がどんな思いで名乗っているのかもしらずに。身体の傷だって」
「いい加減にしなさい。悔しかったら偉くなりなさい。それで片っ端から締め出しなさい」
「そんなこと簡単に…」
「出来なきゃ黙ってろ餓鬼が!……ああ、ごめんなさい。違うんです。そんなこと言うつもりじゃなかったんです」

文は両目に腕を当てて、近くの木に寄りかかる。
何度も深呼吸を繰り返し、昂ぶった感情を冷却する。

「椛さん本人が耐えたんですよ、私達が一緒に耐えてあげないでどうするんですか」
「……ごめん」
「いつか必ず後悔させてやりましょう」
「うん、必ず」

それだけを誓い。挨拶も交わさずにその場で別れた。


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