『――言葉で伝えられることには限りがあり、手紙で伝えられることにもおそらく同様の、あるいはそれ以上の限界があるとは思います。
だけれど、今すぐ伝えなくては間に合わなくなってしまうということも、世の中には往々にして存在するのです。
私がこうして手紙を出すのは、つまりはそういうことを伝えようとしているからだと思ってください。
一言で表すならば、それはこんな言葉になるはずです。
九回目の誕生日おめでとう、御阿礼の子。――』
◇◇◇
雨、雨、曇り空、雨。
最近どうですか、と尋ねられたなら、私は恐らくそう答えるでしょう。
心地よい葉桜の季節が過ぎ、幻想郷は今年もめでたく梅雨入りを果たしました。
異変も事件もない、無事平穏な雨月。妖怪の起こす騒動も三割減、騒々しい人間の起こす事件は半減といったところ。喜ぶべきことでした。
私が書物を扱う人間でなければ、の話ですが。
私の友人に、小鈴という貸本屋の娘がいます。彼女たち貸本屋にとって、この季節は忌むべき仇敵と言えるでしょう。もとより自由闊達な者も多く、晴耕雨読を心掛ける好人物などそうそう居るわけでもありません。故に客足が遠のくうえに、貸した本の状態も湿気と水滴で劣化する、場合によっては破損の憂き目にも遭いかねない、という悪夢のような時期なのでした。先日近くを通った家人曰く、鈴奈庵の窓辺には、鈴生りに連なったてるてる坊主の集団が散見されたとか。ちょっとした恐怖スポットです。
小鈴も普段は年相応のかわいらしい娘なのですが、この時期ばかりは血走った目で「てるてる坊主ゥ……」とか歌っておりますので、敬して近寄らずを心掛けてなくてはなりません。「儲かりまっか」とか訊こうものなら等身大てるてる坊主の素材にされるでしょうね。鬼気迫るものを感じます。最近はなにやら怪しげな本の力を借りようともしているようですが……彼女が新たな異変の主犯格とならないことを、私は友人として切に願っております。
さて、それに比べれば、私の憂鬱など小さいものです。
湿気は紙を弱くします。物書きにとってそれがどういう結果を生むかといえば、書き損じが多発するわけです。
巻物の利点として、たとえ間違えたとしてもその個所を破き、新しい用紙を継ぎ貼りすることで何事もなかったかのように続きを書き始められるということが挙げられます。ですが、修復にだってそれなりに手間がかかるわけです。不毛な継ぎはぎ合戦を展開するくらいならば、その時間は極力取材や知識の蓄積に費やしたいと思うのも当然のこと。
しかしながら、梅雨の間は取材と称して出歩くことも満足にはできないのです。雨の問題だけでなく、身体に障ってはいけないとの家人たちの配慮もありまして……大事にされているのでしょうが、やや過保護のきらいがあります。
そんなわけで、この時期の私は例年書斎に籠って、これまで集めてきた書簡と資料の整理や分類に取り掛かることになっています。
ええ、それ自体はいいのです。どうせ必要なことですし、いつやるかという話なので。
問題はですね、その作業にかかりきりになることなんです。一人で、いいですか一人でですよ! じめっとした暗い書斎で、気怠い雨音を聴きながら、黙々と資料を仕分けるのです。花も恥じらううら若き乙女が! 気が滅入るどころの話ではありません。
時には気の利く家人が手伝ってくれることもありますが、ほぼ確実に分類を無視して、あまつさえ資料を行方不明にしてくださるので近頃はご遠慮願っております。
ですがまあ、それも仕方ないのかもしれません。私はよく知っています。この書庫は、酷い。
今年の梅雨は、専ら先代の残した資料の整理に追われていました。信じがたいことに先代の私はずぼらだったらしく、分類は意味不明ですし、時系列は推理小説のトリック並みに入り組んでいますし、そのくせ資料の絶対数は多いと来ています。最初のうちは綺麗にまとめてあったようなのですが、晩年には最早集めるだけ集めて片っ端から放り込んでいったとしか思えません。今整理しているものも、その殆どが晩年のものです。恐らく家人も、乱雑な複雑怪奇さにあてられて資料を分類した結果、正常な判断力を失ってしまうのでしょう。馬鹿らしい話ですが、そうとでも思わなければやってられません。
そんな負の遺産を残していった先代ですが、どんな人であったのか、実を言うと私にはよくわかっていなかったりします。具体的な挿話のほとんどは、咲き乱れた花の向こう、記憶にかかる霧の向こうにあるようで、よほど親しかった人でなければ忘れてしまう程度のものだったようです。今となっては、知り合いだったという幾人かの妖怪の証言が残るのみ。
その筆頭である文さんに聞いたところ、先代は『あれほどの物臭は珍しい』と評されるほどだったようでして、彼女は珍しく穏やかにこう語っていました。
『春生まれのせいか、どこか呑気なところがありましたね。あの時代はどうも人妖の間がピリピリしてたんですが、歯牙にもかけず吸血鬼に話を聴きに行ったり、妖精に迷わされて衰弱死ギリギリまで出歩いていたり、少なくとも私にはあの人が頭脳明晰と呼ばれている理由がよくわかりませんでした。ただの阿呆か、さもなくば無謀を大胆と取り違えているとしか。取材への熱意は凄かったですけどね。貰い物はその辺に放っておくわ、私の新聞は読まずに積むわ、あまりに整理がつかないので屋敷に小妖怪が生まれかけるわ、生活に関しては酷いものでしたよ。待ち合わせにだって遅れてくるし、気の利いた言葉の一つも――あ、いや。全く、あれでよく縁起を書き上げたものです。倉庫の整理がついてない? そうでしょうね。私の知る限り、あんなズボラな男は他に居ません。それとも、人間の男ってみんなそうなんですか?』
まさか、と答えておきました。お父様は几帳面な方ですから、先代が育ち方を間違ったのでしょう。話を聴くと、最初のうち整理がついていたことの方が奇跡に思えてくるから不思議です。他の方々の――例えば慧音さんや霖之助さんの――話や、書庫の惨状とも照らし合わせた結果として、私の中で先代はいいかげんな男と認識されています。
概ね正しい、と彼を知る誰もが頷いてくれました。私はとても複雑な気持ちになりました。
さて、そんな気の滅入る梅雨です。出歩けない私にとって、唯一の楽しみと言えば友人との書簡のやり取りですが、それもこの雨では捗りません。雨の中を走らせるのは手紙屋さんに心苦しく、そも余程でなければ梅雨が明けてから出向けば済む話も多いとくれば、果たして手紙を出す意義はあるのかと悩んでしまいます。我が儘を言うのだって特権かもしれませんが、それを臆面なく行使出来るほど私の面の皮は厚くないのです。
わかっています。私が、ちょっとだけ我慢すればいいだけの話です。例えば向こうからやってきてくれるのであれば、別にそんなことを気にする必要もないんですよ。誰も来ませんし、手紙も届かないですけど。
つまり何が言いたいのかというと、人恋しいと。そういう所存であります。誰でもいいんです。話し相手が必要でした。ちょっと狂気入っててもこの際目を瞑ります。今の小鈴はちょっとどころじゃないので除外しますが。
そうして今日も雨が降るのです。言っても宣ないことではありますが、この鬱々とした湿気にそろそろ参っているのです。
雨よ降りやめ、と私はささやかに願いました。
◇◇◇
『――あなたの知らないあなたについて、まずは語ろうと思います。
あなたが転生をはじめて、もうどれくらいになるでしょうか。幾度となく繰り返すその儀式のたび、私はあなたにこう訊ねます。
「まだ足りませんか」
どのあなたも、その問いにだけは決まってこう答えます。
「稗田の欲は深いのです」
それに私が肯くことで、転生の儀というものは始まるのです。
あなたが言うそれは、知識欲とはまた違うものだと、私は認識しています。あなたには常に、知ることと書くことの二つが頭にあるからです。
それはあるいは、物語、と言い換えてもいいかもしれません。あなたは知ることを、語ることのために費やしている。阿礼もそうでした。決して自分のうちにはおさまらない、伝えようと願う欲。
私はその意志を好ましく思いますし、今回のあなたも、きっとその意志を持って生まれてきたのだろうと思っています。あなたたちは不思議と、そこだけには絶対の自信を持っていますから。どれだけ転生をしても、たとえ記憶が失われても、その意志だけは消えないだろうと――あなたたちは確信しているのでしょうね。
あなたには、だけれど以前の記憶と言うものが存在しませんね。縁起にかかわる知識のほかには、何一つ持ち越していないはずです。
転生の際に記憶を失うのは、一つにはもちろんあなたの許容量の問題があります。あなたにはまだわからないかもしれない。でも、いつか分かる日が来ます。知らなければよかった、こんなことは覚えていたくない、そう思うようなことも、きっとあるはずです。無理に抱えようとすると――自分というものをどう保っていいかわからなくなったりもしますから――どこかで破綻するでしょう。それを避けるために、記憶の持越しはできないことにしているのです。
当然それ以外にも、機密保持という側面があります。あなたは生前の記憶を保ったまま、私の下で暫く手伝いをするわけです。当然ですが、是非曲直庁の裁判長たる私には決して疚しいことなどありません。ありませんが、例えば部下への査定が微妙に甘いだとか、裁判中くしゃみを我慢して一日中変な顔をしていたとか、人里への説教から戻るのが遅れて少しの間泰広王に裁判長を代理してもらったとか、そういった事をうっかりあなたが目撃しないとも限らない。故にこちらで過ごした記憶と言うものは、必ず持ち出せないようにしておくのです。
今挙げたのは例であり、実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。
ありませんよ?
ないんですってば。――』
◇◇◇
正午を少し過ぎた頃でした。そんな風に鬱々と資料を片付けていると、お客様です、と家人が声を掛けてきました。
おや、と窓の外を見上げれば、いつの間にやら止んだ雨。相変わらず見渡す限りの曇天でしたが、雲は薄く、今すぐに降り出すような気配もありません。
私は浮かれました。人と話せる! 穴を掘っては埋めるような資料との総合格闘技から抜け出せる、家人と「今年は浅漬けが美味しいわね」とか所帯染みた話をしなくて済む!
取るものもとりあえず、私は軽やかな足取りで客間へ向かい、討ち入りでもするような勢いで襖を開きました。
「阿求、久しぶりだな」
特徴的な角帽を被った少女が、私を出迎えました。勢いよく開いた襖に、呆れた顔をしているようにも見えました。
我が家に慧音さんがやってくることは、珍しいことではありませんがよくあることでもない、というくらいの頻度です。彼女の主な要件は、私と話すことではなく――
「慧音さん、資料の返却ですか」
彼女はうん、と首を縦に振ります。それで私は、寺子屋の授業で先代の頃の話をしたいという申し出があったこと、渡りに船とばかりに未整理の資料をいくつか押し付けたことを思い出しました。几帳面な彼女なら、返す前にきちんと分類してくれるだろう、と目論んでいたのは公然の秘密です。
「わかってはいたが、整理するのは一苦労だった」
苦い顔をしながら、それでもきれいに並べなおした資料を、私に差し出しました。
正直なところ、どれだけ授業の役に立っているのかはよくわかりません。ですがまあ、そんなことはどうでもいいです。私の管轄外の話で、資料が保全され整頓されて返却されるということの方が、余程大事なことでした。
「確かに受け取りました。今日は追加の資料を?」
「ああ、それもある」
その言葉に、私は思わず聞き返しました。声は弾んでいたかもしれません。
「それ以外、ですか?」
資料以外のことで、我が家に用があるというのであれば、これは自惚れかもしれませんが、つまり私に逢いに来てくれた、私と話がしたくて来たと、そういうことに!
「借りた資料の中に、こんな物が紛れ込んでいてな」
「……はあ」
知ってました。この人天然だって。いいんですいいんです、どうせ私は一人で資料を片付けているのがお似合いです。
慧音さんが差し出してきたのは、一通の書簡でした。ずいぶん古そう。ちら、と見えた筆跡は、几帳面な印象を私に与えました。
「冒頭だけ読んで、個人宛てだろうと思い持ってきた。御阿礼の子への手紙とくれば、私が読んでいい道理もない」
「御阿礼の子への手紙」
ぼんやりと繰り返します。その言い方は、随分あいまいな表現のように思えたからです。手紙の宛先を、団子屋の隣の家と書くようなもの。
「ならばお預かりしましょう、と言いたいところなのですが――」
「――ですが?」
多分受け取ったら、そのまま帰りますよね慧音さん。何としても引き止めなければ。一つ手紙が出てきたくらいでは、梅雨の寂しさは埋められないです。
「折角ですし、一緒に読みません?」
少し悪戯っぽい口調で、私は慧音さんを誘います。
「いや、――遠慮しておくよ。万が一懸想文だったりした日には、お互い居たたまれないだろう?」
苦笑交じりに言われました。確かにそれも道理ですが……別に私と先代の間に記憶の共通と言うのはないわけで、言うなれば父の恋文を見つけてしまった時程度の気まずさでしょう。私は別に気にしません。まるきり他人なんですから。
「残念です。それならそれで反応が気になったのですが」
「帰る」
いけない、つい本音が。見た目通りのお堅い先生なので、時々そういう風にからかってみたくもなるのです。
とはいえこんな失言で帰してしまっては、後々気まずくもなろうというもの。効果は薄いかもしれませんが、袖の下を試してみましょう。
「お茶菓子付きでも?」
「大福がいいな」
「……」
即効で、物で釣れましたよこの堅物教師。
「まあ、阿求が……んむ、この文を読めるのかというのは……うむ、これはなかなか……気になっていた。結構昔の文体だしな」
言い訳でもするように、彼女は理由を繕いました。大福を頬張りながら。話しながら食べるなって先生に教わらなかったんですか。
「いやいや。御阿礼の子ですからね。頭脳明晰とは私のためにある言葉です」
彼女はお茶を啜り、一息つくと机の上に手紙を広げました。
「ではこの字は?」
そう言いながら、慧音さんは題字の頭を指さしました。與、と言う字です。
「与える――の旧字ですね」
「うん。では、この部分を通して読むと?」
千字文でもあるまいし、寺子屋の子供と一緒にしないでいただきたい。
釈迦に説法、弘法に筆指南、御阿礼の子に文章作法です。さすがにこればかりは稗田なめんなと言わざるを得ません。
「与える、阿礼、乙女、書――漢文ですか」
「中身は普通の手紙のようだがな」
「『阿礼乙女に與ふる書』、と」
言ってから、どうもおかしいぞと気づきました。
「先代宛てなら『阿礼乙女』はおかしくないですか?」
「私もそれは気になった。あるいは先々代とも思ったのだが、ともかく先代の資料の中から出てきたのでな。何か事情があって転写したというのも考えられるが」
「あるいは手紙だけ混ざってしまったか……妙な置き土産もあったものですね」
いずれにせよ、御阿礼の子に宛てたものであれば――なるほど私が読むべきでしょう。
私が得心したのを見て、慧音さんはす、と次の行を指さしました。
「さて、こっちはどうだろう、読めるか? 人名だが」
その声がどうにも笑い含みだったので、怪訝に思いつつ連なる字を追います。大丈夫、これくらいの文なら余裕です。意識もせずに読み上げます。
「固有名詞ですね。是非曲直庁」
「うむ」
その時点でまず違和感ひとつ。
「幻想郷……担当」
「そうだ」
ツーアウト。なんだかこの単語の羅列は非常によろしくない気がするのですが。
慧音さんの顔に、意地の悪そうな笑みが浮かびました。
「続きを」
「最高裁判長、四季――え、ええっ!?」
驚愕。
手紙の差出人として、一番ありえない名前がそこには書かれていました。
え、だって、ええ? 閻魔さまですか? 私に、と言うか御阿礼の子に? 現世不干渉が基本則なのに? いや説教来てますけど手紙とかは公的なもの以外ダメだったような、ああでも以前宴会の参加確認を貰ったことがあるような、ノータイムでお断りしましたけど、そうじゃなくて!
私は一度考えることをやめ、慧音さんの顔を見上げました。
軽やかな笑い声。不覚です、こんな狼狽を見られるとは。
「これ以上一緒に読むか?」
そう言って、私と目を合わせます。その瞳はこう言っていました。
『何が書かれているかわからないんだから、見られていい内容か確認しなさい』。
「仕方ないですね」
私は長く嘆息し、追加資料の置き場を案内しました。勝手に探してください、手紙を読みますから――と言い放つのも失礼に当たりますし、私はやむなく次の資料返却の際に、話せる内容だったらお話ししますと約束しました。引き止め計画は小成功といったところ。
それでもすこし、先ほどよりは気持ちが晴れていたのも事実です。そのことにばかりは、心の内で感謝をしつつ。
◇
慧音さんが帰ると、書庫の静寂が私を再び出迎えました。
窓の外からはまた雨音が響きはじめ、憂鬱な梅雨の空気が顔をのぞかせています。
目の前には、閻魔さま直々の手紙。
さて、どんな内容か。
借金の督促状だとか、私もたまには宴会に顔を出したいだとか、小町を里で見つけたらご一報をとか、そういった返答に困るものではないことを願います。
せめてこの長い梅雨の、退屈しのぎとなりますよう。
一抹の不安と、揺るがぬ好奇心を抱きながら、私は書を開きました。
◇◇◇
『――そうしてあなたは無事転生を終えて、今、ここに生きています。
きっと、あなたは知るでしょう。
移ろえど歪む事なき花鳥風月の在りようと、儚くも移ろわざる人の在りようと、歪むゆえに美しくある妖怪の在りようと……あなたの知りうる限りのすべてを、あなたは知るでしょう。
あなたは見るでしょう。
変わり、替わり、移ろうこの箱庭の行く末は、未だ定まっていません。その道のりを、航海を、あなたは見るでしょう。何のために見るのか。もちろん答えは決まっています。あなたにだってお判りでしょう?
そうです。あなたは記すでしょう。
あなたの見た幻想郷を、そこに生きるあらゆるものを、そこに生まれた数多の出来事を、あなたは纏めることでしょう。
そしてそれが、あなたに積める悪行なのです。
ええ、私はあなたにだけは、善行を積めとは言いません。知識を求めることは、避けがたき人の罪の形です。過ぎる知識は毒と転じるかもしれませんね。転生を続けることは、ある意味で罪を贖い続けることなのです。本来なら、誰にもおすすめ出来ないことですが……
ですが私は、それを奨励することに決めています。
どうか多くのものを見て、知って、記してください。だけれど必ず、あなたの見聞きした言葉によって。
それは決して歴史にはならず、ですが必ず歴史に寄り添うものとして、あなたの手元に残るはずです。
蛇足ながら。外の世界では、そういう書物のことを稗史と呼ぶそうですよ――』
◇◇◇
一読して、私の頬は自然と緩みました。
身構えるほどのこともない。それは決して、恐るべき地獄の閻魔からの手紙ではなく――
私の、かつて私であった男の、誕生日を祝う手紙だったからです。
幼子に言い聞かせるような、柔らかい物言い。
それでいて強い意志を持った文章でした。
九歳の子供に贈るにしては、少し表現が難しい気もしますが……
それでもおそらく、私たちなら読めると信頼したのでしょう。転生を続ける御阿礼の子に向けた激励。私は、そう読み解きました。
手紙の最後には、明治X年文月、とあります。
それは幻想郷が結界に包まれる、ほんの少しだけ前の年で――私が求めてやまない、梅雨の向こうの月の異名です。
九歳の先代は、この手紙をどんな気持ちで読んだだろう。
閻魔さまはこの手紙を、どんな気持ちで書いただろう。
私はそんなことに思いを馳せました。
大変動の時代だったはずです。
人と妖怪の間は今よりずっと険悪で、話が通じるのは一部の妖怪だけ。
そんな中を、一人で駆け回ったのでしょう。
無謀と言われるような取材活動も、あるいはこの手紙を心の支えとして乗り切ったのかもしれない。
こういった手紙を、私は貰ったことがありません。
先代だけなのでしょうか。
そうだとすれば――ほんの少し、嫉妬してしまいます。
子供の頃に、こんな手紙を貰ってみたかった。
いや、今でも構わない。あの閻魔さまがこの手紙を書くこと自体が、とても大きな意味を持っていました。
私を阿礼乙女として直視して、そのうえでこんな言葉を投げかけてくれる大人なんて、屋敷にはいませんでしたから。
だけど、先代には閻魔さまがいたのです。
その結果があの物臭倉庫か、と思うと恥すら感じますが。
そんな先代ですら貰っているのに――閻魔さまは私には、手紙をくれなかったのです。
ちり、と胸が痛みました。馬鹿らしい。自分に嫉妬するなんて、ただのナルシストじゃないですか。
だけれど、手紙を読むことは決して嫌ではありませんでした。
御阿礼の子の持つ深い業を、ちゃんと言い当ててくれていたから。
背筋が伸びるような、そんな気持ちにさせてくれるから。
同時にこうも思いました。
私は貰えなかったとしても――
次の私には、この手紙を読ませてあげたい、と。
私は雨が降るたび、その手紙を読み返しました。
読み、考え、物思いに耽りながら整理を続け。
そんな繰り返しは、少しずつ胸の痛みを積み重ねもしましたが、同じように少しだけ梅雨の長さを忘れさせてくれました。
慧音さんは、なかなか屋敷を訪れませんでした。渡した資料に悪戦苦闘している、と一度だけ言伝を貰いました。
そうして資料の山が、どうにか慧音さんの手を借りずとも整いを見せはじめた頃。
――気が付けば、梅雨は明けようとしていました。
◇
長かった梅雨も終わりを迎え、小鈴がてるてる坊主を大量に河流しして厄神の顰蹙を買ったそうです。
私は再び資料を返却に訪れた慧音さんに、手紙の概要を話していました。
まだ昼間の熱が残った客間に、二人で膝を突き合わせ、傍らには麦茶を備えつつ――慧音さんは私の語る内容を神妙な顔で聴いてくれました。
「――という感じでして、どうも意外な一面を見てしまったような」
彼女もやはり、意外そうな表情を浮かべました。
「内容自体は確かにあの方らしいが、そうか。――読んでも?」
「構いませんよ。どうせ、私にとっては他人宛ての手紙です」
私はそっと、手紙を彼女の前に広げました。
蝉の声だけが響いていました。きっと、今年も暑くなるのでしょうね。
慧音さんの目が彼岸での話に差し掛かると、彼女は相好を崩しました。
「へえ、微笑ましいな」
なぜあれをそのまま書いたのか。あの人も大概正直な人なので、書き直す、という発想がなかったのかもしれません。
「――それがあなたに積める悪行です、か。先代は幸せ者だったな」
そうでしょうそうでしょう、と相槌を打ちながら、いつもの、ちり、という痛みがありました。
押しとどめながら、私は笑顔を作ります。
「伊達に元地蔵やってませんね」
地蔵は子供の守り神とも言われています。真摯な姿勢とまなざしの優しさは、あるいは教師向きなのかもしれません。
「私もこれくらいできればなあ。しかしまあ、閻魔も子供には弱――」
最後まで読み終えて、慧音さんの顔が、さっと青ざめました。
「……稗田」
呼ばれ慣れない言い方。それは、彼女が本当に真剣な話をするときだけの呼び名です。
ただ事ではない。
私は次の言葉を待ちました。
慧音さんは暫し瞠目し、永遠に何も言わないのではないかと思うほど長く思案したあと、こう口を開きました。
「先代は、春の生まれだったな」
「なんですか、いきなり――」
もう一つだ、と続けます。
「少なくとも、この日付は先代宛てで間違いない」
「ええ、それはもちろん」
明治のはじめとなれば、先代の時代でしょう。幻想郷が結界に包まれる、少しだけ前。
だとすれば。慧音さんはひとつ大きく肩を震わせ、絞り出すように言いました。
「閻魔という奴は、どうもかなりの悪趣味らしいな」
声が震えていました。様子がおかしい。私はまじまじと、目の前の彼女を見つめました。
その表情には、知人の死ぬ場面を見てしまったような、恐怖の色が見て取れたのです。
「……慧音さん?」
私の呼びかけにも答えようとせず、ただただ譫言のように彼女は呟きました。
「もちろん彼女は善意でやっているのだろう。ただの報せだ。どこに悪意があるものか」
だけど――しかし――あまりにも。
しんと静まり返った客間に、そんな微かな声だけが泳いでいました。
蝉の声も、いつしか止んでいたのです。
「なんですか、なんなんですか! 何かあるならはっきり仰ってください」
思わず声を荒げました。あの手紙を否定されたような気がして。先代の、閻魔さまの、思いを無碍にされた気がして。
言ってしまってから、気まずい沈黙に二人で押し黙っていると、さっと冷たい風が入り込み、遠雷が大地をわずかに揺らしました。
雨が降る。
もう間もなく、きっと雨が降るでしょう。
慧音さんは顔を上げました。
「後悔するなよ」
もちろん私は知っています。これはおそらく、知らないほうがいいことなのだと。
そうして私は知っています。あらゆることを知ることが、新しい物語には必要なのだと。
だから、私は――
「もう遅いです」
慧音さんは諦めたように首を振りました。決して、私の方を見ようとはしませんでした。
「この日付な。これ、たぶん――」
「――たぶん?」
ひときわ大きな雷の音。
そうして彼女は、最後の一言を口にしました。
「たぶん、あいつの――先代の命日だよ」
◇
違うのです、慧音さん。それは全く正しくて、そして全くの誤解なのです。
文さんは言っていました。『春の生まれだから、呑気なところがあった』と。
書庫は散らかっていました。晩年の資料だけが乱雑に放り込まれ、それより前のものはきちんと整理されていました。
なにより今回の幻想郷縁起は、博麗大結界が成立してから初めての縁起です。
御阿礼の子は短命です。三十までは生きられないのだとしても。
――明治のはじめに九歳なら、先代は博麗大結界を縁起に記せたはずなのです。
それらの事実は、私にある一つの答えをもたらしました。
静まり返った部屋。二人で俯いて、俄かに降り出した雨の音を私たちは聴きました。
その時私がどんな顔をしていたか、それは慧音さんにしか……あるいは、慧音さんでも、わからないと思います。
だけれど、どうか。
どうか私が笑っていたことは、誰にも知られませんように。
私はぽつりと、か細い声でこう言いました。
「なんだ、私宛てだったんですね」
◇
『――話したいことは山ほどありますが、そろそろ紙幅も尽きます。その先は向こうでのみやげ話といたしましょう。
繰り返しになりますが、祝いの言葉をもって結びに代えます。
九回目の誕生日おめでとう、御阿礼の子。
あなたの見る世界が、どうか広く美しくありますように。
明治X年文月の十三日 以て阿礼乙女に与ふる』
だけれど、今すぐ伝えなくては間に合わなくなってしまうということも、世の中には往々にして存在するのです。
私がこうして手紙を出すのは、つまりはそういうことを伝えようとしているからだと思ってください。
一言で表すならば、それはこんな言葉になるはずです。
九回目の誕生日おめでとう、御阿礼の子。――』
◇◇◇
雨、雨、曇り空、雨。
最近どうですか、と尋ねられたなら、私は恐らくそう答えるでしょう。
心地よい葉桜の季節が過ぎ、幻想郷は今年もめでたく梅雨入りを果たしました。
異変も事件もない、無事平穏な雨月。妖怪の起こす騒動も三割減、騒々しい人間の起こす事件は半減といったところ。喜ぶべきことでした。
私が書物を扱う人間でなければ、の話ですが。
私の友人に、小鈴という貸本屋の娘がいます。彼女たち貸本屋にとって、この季節は忌むべき仇敵と言えるでしょう。もとより自由闊達な者も多く、晴耕雨読を心掛ける好人物などそうそう居るわけでもありません。故に客足が遠のくうえに、貸した本の状態も湿気と水滴で劣化する、場合によっては破損の憂き目にも遭いかねない、という悪夢のような時期なのでした。先日近くを通った家人曰く、鈴奈庵の窓辺には、鈴生りに連なったてるてる坊主の集団が散見されたとか。ちょっとした恐怖スポットです。
小鈴も普段は年相応のかわいらしい娘なのですが、この時期ばかりは血走った目で「てるてる坊主ゥ……」とか歌っておりますので、敬して近寄らずを心掛けてなくてはなりません。「儲かりまっか」とか訊こうものなら等身大てるてる坊主の素材にされるでしょうね。鬼気迫るものを感じます。最近はなにやら怪しげな本の力を借りようともしているようですが……彼女が新たな異変の主犯格とならないことを、私は友人として切に願っております。
さて、それに比べれば、私の憂鬱など小さいものです。
湿気は紙を弱くします。物書きにとってそれがどういう結果を生むかといえば、書き損じが多発するわけです。
巻物の利点として、たとえ間違えたとしてもその個所を破き、新しい用紙を継ぎ貼りすることで何事もなかったかのように続きを書き始められるということが挙げられます。ですが、修復にだってそれなりに手間がかかるわけです。不毛な継ぎはぎ合戦を展開するくらいならば、その時間は極力取材や知識の蓄積に費やしたいと思うのも当然のこと。
しかしながら、梅雨の間は取材と称して出歩くことも満足にはできないのです。雨の問題だけでなく、身体に障ってはいけないとの家人たちの配慮もありまして……大事にされているのでしょうが、やや過保護のきらいがあります。
そんなわけで、この時期の私は例年書斎に籠って、これまで集めてきた書簡と資料の整理や分類に取り掛かることになっています。
ええ、それ自体はいいのです。どうせ必要なことですし、いつやるかという話なので。
問題はですね、その作業にかかりきりになることなんです。一人で、いいですか一人でですよ! じめっとした暗い書斎で、気怠い雨音を聴きながら、黙々と資料を仕分けるのです。花も恥じらううら若き乙女が! 気が滅入るどころの話ではありません。
時には気の利く家人が手伝ってくれることもありますが、ほぼ確実に分類を無視して、あまつさえ資料を行方不明にしてくださるので近頃はご遠慮願っております。
ですがまあ、それも仕方ないのかもしれません。私はよく知っています。この書庫は、酷い。
今年の梅雨は、専ら先代の残した資料の整理に追われていました。信じがたいことに先代の私はずぼらだったらしく、分類は意味不明ですし、時系列は推理小説のトリック並みに入り組んでいますし、そのくせ資料の絶対数は多いと来ています。最初のうちは綺麗にまとめてあったようなのですが、晩年には最早集めるだけ集めて片っ端から放り込んでいったとしか思えません。今整理しているものも、その殆どが晩年のものです。恐らく家人も、乱雑な複雑怪奇さにあてられて資料を分類した結果、正常な判断力を失ってしまうのでしょう。馬鹿らしい話ですが、そうとでも思わなければやってられません。
そんな負の遺産を残していった先代ですが、どんな人であったのか、実を言うと私にはよくわかっていなかったりします。具体的な挿話のほとんどは、咲き乱れた花の向こう、記憶にかかる霧の向こうにあるようで、よほど親しかった人でなければ忘れてしまう程度のものだったようです。今となっては、知り合いだったという幾人かの妖怪の証言が残るのみ。
その筆頭である文さんに聞いたところ、先代は『あれほどの物臭は珍しい』と評されるほどだったようでして、彼女は珍しく穏やかにこう語っていました。
『春生まれのせいか、どこか呑気なところがありましたね。あの時代はどうも人妖の間がピリピリしてたんですが、歯牙にもかけず吸血鬼に話を聴きに行ったり、妖精に迷わされて衰弱死ギリギリまで出歩いていたり、少なくとも私にはあの人が頭脳明晰と呼ばれている理由がよくわかりませんでした。ただの阿呆か、さもなくば無謀を大胆と取り違えているとしか。取材への熱意は凄かったですけどね。貰い物はその辺に放っておくわ、私の新聞は読まずに積むわ、あまりに整理がつかないので屋敷に小妖怪が生まれかけるわ、生活に関しては酷いものでしたよ。待ち合わせにだって遅れてくるし、気の利いた言葉の一つも――あ、いや。全く、あれでよく縁起を書き上げたものです。倉庫の整理がついてない? そうでしょうね。私の知る限り、あんなズボラな男は他に居ません。それとも、人間の男ってみんなそうなんですか?』
まさか、と答えておきました。お父様は几帳面な方ですから、先代が育ち方を間違ったのでしょう。話を聴くと、最初のうち整理がついていたことの方が奇跡に思えてくるから不思議です。他の方々の――例えば慧音さんや霖之助さんの――話や、書庫の惨状とも照らし合わせた結果として、私の中で先代はいいかげんな男と認識されています。
概ね正しい、と彼を知る誰もが頷いてくれました。私はとても複雑な気持ちになりました。
さて、そんな気の滅入る梅雨です。出歩けない私にとって、唯一の楽しみと言えば友人との書簡のやり取りですが、それもこの雨では捗りません。雨の中を走らせるのは手紙屋さんに心苦しく、そも余程でなければ梅雨が明けてから出向けば済む話も多いとくれば、果たして手紙を出す意義はあるのかと悩んでしまいます。我が儘を言うのだって特権かもしれませんが、それを臆面なく行使出来るほど私の面の皮は厚くないのです。
わかっています。私が、ちょっとだけ我慢すればいいだけの話です。例えば向こうからやってきてくれるのであれば、別にそんなことを気にする必要もないんですよ。誰も来ませんし、手紙も届かないですけど。
つまり何が言いたいのかというと、人恋しいと。そういう所存であります。誰でもいいんです。話し相手が必要でした。ちょっと狂気入っててもこの際目を瞑ります。今の小鈴はちょっとどころじゃないので除外しますが。
そうして今日も雨が降るのです。言っても宣ないことではありますが、この鬱々とした湿気にそろそろ参っているのです。
雨よ降りやめ、と私はささやかに願いました。
◇◇◇
『――あなたの知らないあなたについて、まずは語ろうと思います。
あなたが転生をはじめて、もうどれくらいになるでしょうか。幾度となく繰り返すその儀式のたび、私はあなたにこう訊ねます。
「まだ足りませんか」
どのあなたも、その問いにだけは決まってこう答えます。
「稗田の欲は深いのです」
それに私が肯くことで、転生の儀というものは始まるのです。
あなたが言うそれは、知識欲とはまた違うものだと、私は認識しています。あなたには常に、知ることと書くことの二つが頭にあるからです。
それはあるいは、物語、と言い換えてもいいかもしれません。あなたは知ることを、語ることのために費やしている。阿礼もそうでした。決して自分のうちにはおさまらない、伝えようと願う欲。
私はその意志を好ましく思いますし、今回のあなたも、きっとその意志を持って生まれてきたのだろうと思っています。あなたたちは不思議と、そこだけには絶対の自信を持っていますから。どれだけ転生をしても、たとえ記憶が失われても、その意志だけは消えないだろうと――あなたたちは確信しているのでしょうね。
あなたには、だけれど以前の記憶と言うものが存在しませんね。縁起にかかわる知識のほかには、何一つ持ち越していないはずです。
転生の際に記憶を失うのは、一つにはもちろんあなたの許容量の問題があります。あなたにはまだわからないかもしれない。でも、いつか分かる日が来ます。知らなければよかった、こんなことは覚えていたくない、そう思うようなことも、きっとあるはずです。無理に抱えようとすると――自分というものをどう保っていいかわからなくなったりもしますから――どこかで破綻するでしょう。それを避けるために、記憶の持越しはできないことにしているのです。
当然それ以外にも、機密保持という側面があります。あなたは生前の記憶を保ったまま、私の下で暫く手伝いをするわけです。当然ですが、是非曲直庁の裁判長たる私には決して疚しいことなどありません。ありませんが、例えば部下への査定が微妙に甘いだとか、裁判中くしゃみを我慢して一日中変な顔をしていたとか、人里への説教から戻るのが遅れて少しの間泰広王に裁判長を代理してもらったとか、そういった事をうっかりあなたが目撃しないとも限らない。故にこちらで過ごした記憶と言うものは、必ず持ち出せないようにしておくのです。
今挙げたのは例であり、実在の人物・団体・事件などとは一切関係ありません。
ありませんよ?
ないんですってば。――』
◇◇◇
正午を少し過ぎた頃でした。そんな風に鬱々と資料を片付けていると、お客様です、と家人が声を掛けてきました。
おや、と窓の外を見上げれば、いつの間にやら止んだ雨。相変わらず見渡す限りの曇天でしたが、雲は薄く、今すぐに降り出すような気配もありません。
私は浮かれました。人と話せる! 穴を掘っては埋めるような資料との総合格闘技から抜け出せる、家人と「今年は浅漬けが美味しいわね」とか所帯染みた話をしなくて済む!
取るものもとりあえず、私は軽やかな足取りで客間へ向かい、討ち入りでもするような勢いで襖を開きました。
「阿求、久しぶりだな」
特徴的な角帽を被った少女が、私を出迎えました。勢いよく開いた襖に、呆れた顔をしているようにも見えました。
我が家に慧音さんがやってくることは、珍しいことではありませんがよくあることでもない、というくらいの頻度です。彼女の主な要件は、私と話すことではなく――
「慧音さん、資料の返却ですか」
彼女はうん、と首を縦に振ります。それで私は、寺子屋の授業で先代の頃の話をしたいという申し出があったこと、渡りに船とばかりに未整理の資料をいくつか押し付けたことを思い出しました。几帳面な彼女なら、返す前にきちんと分類してくれるだろう、と目論んでいたのは公然の秘密です。
「わかってはいたが、整理するのは一苦労だった」
苦い顔をしながら、それでもきれいに並べなおした資料を、私に差し出しました。
正直なところ、どれだけ授業の役に立っているのかはよくわかりません。ですがまあ、そんなことはどうでもいいです。私の管轄外の話で、資料が保全され整頓されて返却されるということの方が、余程大事なことでした。
「確かに受け取りました。今日は追加の資料を?」
「ああ、それもある」
その言葉に、私は思わず聞き返しました。声は弾んでいたかもしれません。
「それ以外、ですか?」
資料以外のことで、我が家に用があるというのであれば、これは自惚れかもしれませんが、つまり私に逢いに来てくれた、私と話がしたくて来たと、そういうことに!
「借りた資料の中に、こんな物が紛れ込んでいてな」
「……はあ」
知ってました。この人天然だって。いいんですいいんです、どうせ私は一人で資料を片付けているのがお似合いです。
慧音さんが差し出してきたのは、一通の書簡でした。ずいぶん古そう。ちら、と見えた筆跡は、几帳面な印象を私に与えました。
「冒頭だけ読んで、個人宛てだろうと思い持ってきた。御阿礼の子への手紙とくれば、私が読んでいい道理もない」
「御阿礼の子への手紙」
ぼんやりと繰り返します。その言い方は、随分あいまいな表現のように思えたからです。手紙の宛先を、団子屋の隣の家と書くようなもの。
「ならばお預かりしましょう、と言いたいところなのですが――」
「――ですが?」
多分受け取ったら、そのまま帰りますよね慧音さん。何としても引き止めなければ。一つ手紙が出てきたくらいでは、梅雨の寂しさは埋められないです。
「折角ですし、一緒に読みません?」
少し悪戯っぽい口調で、私は慧音さんを誘います。
「いや、――遠慮しておくよ。万が一懸想文だったりした日には、お互い居たたまれないだろう?」
苦笑交じりに言われました。確かにそれも道理ですが……別に私と先代の間に記憶の共通と言うのはないわけで、言うなれば父の恋文を見つけてしまった時程度の気まずさでしょう。私は別に気にしません。まるきり他人なんですから。
「残念です。それならそれで反応が気になったのですが」
「帰る」
いけない、つい本音が。見た目通りのお堅い先生なので、時々そういう風にからかってみたくもなるのです。
とはいえこんな失言で帰してしまっては、後々気まずくもなろうというもの。効果は薄いかもしれませんが、袖の下を試してみましょう。
「お茶菓子付きでも?」
「大福がいいな」
「……」
即効で、物で釣れましたよこの堅物教師。
「まあ、阿求が……んむ、この文を読めるのかというのは……うむ、これはなかなか……気になっていた。結構昔の文体だしな」
言い訳でもするように、彼女は理由を繕いました。大福を頬張りながら。話しながら食べるなって先生に教わらなかったんですか。
「いやいや。御阿礼の子ですからね。頭脳明晰とは私のためにある言葉です」
彼女はお茶を啜り、一息つくと机の上に手紙を広げました。
「ではこの字は?」
そう言いながら、慧音さんは題字の頭を指さしました。與、と言う字です。
「与える――の旧字ですね」
「うん。では、この部分を通して読むと?」
千字文でもあるまいし、寺子屋の子供と一緒にしないでいただきたい。
釈迦に説法、弘法に筆指南、御阿礼の子に文章作法です。さすがにこればかりは稗田なめんなと言わざるを得ません。
「与える、阿礼、乙女、書――漢文ですか」
「中身は普通の手紙のようだがな」
「『阿礼乙女に與ふる書』、と」
言ってから、どうもおかしいぞと気づきました。
「先代宛てなら『阿礼乙女』はおかしくないですか?」
「私もそれは気になった。あるいは先々代とも思ったのだが、ともかく先代の資料の中から出てきたのでな。何か事情があって転写したというのも考えられるが」
「あるいは手紙だけ混ざってしまったか……妙な置き土産もあったものですね」
いずれにせよ、御阿礼の子に宛てたものであれば――なるほど私が読むべきでしょう。
私が得心したのを見て、慧音さんはす、と次の行を指さしました。
「さて、こっちはどうだろう、読めるか? 人名だが」
その声がどうにも笑い含みだったので、怪訝に思いつつ連なる字を追います。大丈夫、これくらいの文なら余裕です。意識もせずに読み上げます。
「固有名詞ですね。是非曲直庁」
「うむ」
その時点でまず違和感ひとつ。
「幻想郷……担当」
「そうだ」
ツーアウト。なんだかこの単語の羅列は非常によろしくない気がするのですが。
慧音さんの顔に、意地の悪そうな笑みが浮かびました。
「続きを」
「最高裁判長、四季――え、ええっ!?」
驚愕。
手紙の差出人として、一番ありえない名前がそこには書かれていました。
え、だって、ええ? 閻魔さまですか? 私に、と言うか御阿礼の子に? 現世不干渉が基本則なのに? いや説教来てますけど手紙とかは公的なもの以外ダメだったような、ああでも以前宴会の参加確認を貰ったことがあるような、ノータイムでお断りしましたけど、そうじゃなくて!
私は一度考えることをやめ、慧音さんの顔を見上げました。
軽やかな笑い声。不覚です、こんな狼狽を見られるとは。
「これ以上一緒に読むか?」
そう言って、私と目を合わせます。その瞳はこう言っていました。
『何が書かれているかわからないんだから、見られていい内容か確認しなさい』。
「仕方ないですね」
私は長く嘆息し、追加資料の置き場を案内しました。勝手に探してください、手紙を読みますから――と言い放つのも失礼に当たりますし、私はやむなく次の資料返却の際に、話せる内容だったらお話ししますと約束しました。引き止め計画は小成功といったところ。
それでもすこし、先ほどよりは気持ちが晴れていたのも事実です。そのことにばかりは、心の内で感謝をしつつ。
◇
慧音さんが帰ると、書庫の静寂が私を再び出迎えました。
窓の外からはまた雨音が響きはじめ、憂鬱な梅雨の空気が顔をのぞかせています。
目の前には、閻魔さま直々の手紙。
さて、どんな内容か。
借金の督促状だとか、私もたまには宴会に顔を出したいだとか、小町を里で見つけたらご一報をとか、そういった返答に困るものではないことを願います。
せめてこの長い梅雨の、退屈しのぎとなりますよう。
一抹の不安と、揺るがぬ好奇心を抱きながら、私は書を開きました。
◇◇◇
『――そうしてあなたは無事転生を終えて、今、ここに生きています。
きっと、あなたは知るでしょう。
移ろえど歪む事なき花鳥風月の在りようと、儚くも移ろわざる人の在りようと、歪むゆえに美しくある妖怪の在りようと……あなたの知りうる限りのすべてを、あなたは知るでしょう。
あなたは見るでしょう。
変わり、替わり、移ろうこの箱庭の行く末は、未だ定まっていません。その道のりを、航海を、あなたは見るでしょう。何のために見るのか。もちろん答えは決まっています。あなたにだってお判りでしょう?
そうです。あなたは記すでしょう。
あなたの見た幻想郷を、そこに生きるあらゆるものを、そこに生まれた数多の出来事を、あなたは纏めることでしょう。
そしてそれが、あなたに積める悪行なのです。
ええ、私はあなたにだけは、善行を積めとは言いません。知識を求めることは、避けがたき人の罪の形です。過ぎる知識は毒と転じるかもしれませんね。転生を続けることは、ある意味で罪を贖い続けることなのです。本来なら、誰にもおすすめ出来ないことですが……
ですが私は、それを奨励することに決めています。
どうか多くのものを見て、知って、記してください。だけれど必ず、あなたの見聞きした言葉によって。
それは決して歴史にはならず、ですが必ず歴史に寄り添うものとして、あなたの手元に残るはずです。
蛇足ながら。外の世界では、そういう書物のことを稗史と呼ぶそうですよ――』
◇◇◇
一読して、私の頬は自然と緩みました。
身構えるほどのこともない。それは決して、恐るべき地獄の閻魔からの手紙ではなく――
私の、かつて私であった男の、誕生日を祝う手紙だったからです。
幼子に言い聞かせるような、柔らかい物言い。
それでいて強い意志を持った文章でした。
九歳の子供に贈るにしては、少し表現が難しい気もしますが……
それでもおそらく、私たちなら読めると信頼したのでしょう。転生を続ける御阿礼の子に向けた激励。私は、そう読み解きました。
手紙の最後には、明治X年文月、とあります。
それは幻想郷が結界に包まれる、ほんの少しだけ前の年で――私が求めてやまない、梅雨の向こうの月の異名です。
九歳の先代は、この手紙をどんな気持ちで読んだだろう。
閻魔さまはこの手紙を、どんな気持ちで書いただろう。
私はそんなことに思いを馳せました。
大変動の時代だったはずです。
人と妖怪の間は今よりずっと険悪で、話が通じるのは一部の妖怪だけ。
そんな中を、一人で駆け回ったのでしょう。
無謀と言われるような取材活動も、あるいはこの手紙を心の支えとして乗り切ったのかもしれない。
こういった手紙を、私は貰ったことがありません。
先代だけなのでしょうか。
そうだとすれば――ほんの少し、嫉妬してしまいます。
子供の頃に、こんな手紙を貰ってみたかった。
いや、今でも構わない。あの閻魔さまがこの手紙を書くこと自体が、とても大きな意味を持っていました。
私を阿礼乙女として直視して、そのうえでこんな言葉を投げかけてくれる大人なんて、屋敷にはいませんでしたから。
だけど、先代には閻魔さまがいたのです。
その結果があの物臭倉庫か、と思うと恥すら感じますが。
そんな先代ですら貰っているのに――閻魔さまは私には、手紙をくれなかったのです。
ちり、と胸が痛みました。馬鹿らしい。自分に嫉妬するなんて、ただのナルシストじゃないですか。
だけれど、手紙を読むことは決して嫌ではありませんでした。
御阿礼の子の持つ深い業を、ちゃんと言い当ててくれていたから。
背筋が伸びるような、そんな気持ちにさせてくれるから。
同時にこうも思いました。
私は貰えなかったとしても――
次の私には、この手紙を読ませてあげたい、と。
私は雨が降るたび、その手紙を読み返しました。
読み、考え、物思いに耽りながら整理を続け。
そんな繰り返しは、少しずつ胸の痛みを積み重ねもしましたが、同じように少しだけ梅雨の長さを忘れさせてくれました。
慧音さんは、なかなか屋敷を訪れませんでした。渡した資料に悪戦苦闘している、と一度だけ言伝を貰いました。
そうして資料の山が、どうにか慧音さんの手を借りずとも整いを見せはじめた頃。
――気が付けば、梅雨は明けようとしていました。
◇
長かった梅雨も終わりを迎え、小鈴がてるてる坊主を大量に河流しして厄神の顰蹙を買ったそうです。
私は再び資料を返却に訪れた慧音さんに、手紙の概要を話していました。
まだ昼間の熱が残った客間に、二人で膝を突き合わせ、傍らには麦茶を備えつつ――慧音さんは私の語る内容を神妙な顔で聴いてくれました。
「――という感じでして、どうも意外な一面を見てしまったような」
彼女もやはり、意外そうな表情を浮かべました。
「内容自体は確かにあの方らしいが、そうか。――読んでも?」
「構いませんよ。どうせ、私にとっては他人宛ての手紙です」
私はそっと、手紙を彼女の前に広げました。
蝉の声だけが響いていました。きっと、今年も暑くなるのでしょうね。
慧音さんの目が彼岸での話に差し掛かると、彼女は相好を崩しました。
「へえ、微笑ましいな」
なぜあれをそのまま書いたのか。あの人も大概正直な人なので、書き直す、という発想がなかったのかもしれません。
「――それがあなたに積める悪行です、か。先代は幸せ者だったな」
そうでしょうそうでしょう、と相槌を打ちながら、いつもの、ちり、という痛みがありました。
押しとどめながら、私は笑顔を作ります。
「伊達に元地蔵やってませんね」
地蔵は子供の守り神とも言われています。真摯な姿勢とまなざしの優しさは、あるいは教師向きなのかもしれません。
「私もこれくらいできればなあ。しかしまあ、閻魔も子供には弱――」
最後まで読み終えて、慧音さんの顔が、さっと青ざめました。
「……稗田」
呼ばれ慣れない言い方。それは、彼女が本当に真剣な話をするときだけの呼び名です。
ただ事ではない。
私は次の言葉を待ちました。
慧音さんは暫し瞠目し、永遠に何も言わないのではないかと思うほど長く思案したあと、こう口を開きました。
「先代は、春の生まれだったな」
「なんですか、いきなり――」
もう一つだ、と続けます。
「少なくとも、この日付は先代宛てで間違いない」
「ええ、それはもちろん」
明治のはじめとなれば、先代の時代でしょう。幻想郷が結界に包まれる、少しだけ前。
だとすれば。慧音さんはひとつ大きく肩を震わせ、絞り出すように言いました。
「閻魔という奴は、どうもかなりの悪趣味らしいな」
声が震えていました。様子がおかしい。私はまじまじと、目の前の彼女を見つめました。
その表情には、知人の死ぬ場面を見てしまったような、恐怖の色が見て取れたのです。
「……慧音さん?」
私の呼びかけにも答えようとせず、ただただ譫言のように彼女は呟きました。
「もちろん彼女は善意でやっているのだろう。ただの報せだ。どこに悪意があるものか」
だけど――しかし――あまりにも。
しんと静まり返った客間に、そんな微かな声だけが泳いでいました。
蝉の声も、いつしか止んでいたのです。
「なんですか、なんなんですか! 何かあるならはっきり仰ってください」
思わず声を荒げました。あの手紙を否定されたような気がして。先代の、閻魔さまの、思いを無碍にされた気がして。
言ってしまってから、気まずい沈黙に二人で押し黙っていると、さっと冷たい風が入り込み、遠雷が大地をわずかに揺らしました。
雨が降る。
もう間もなく、きっと雨が降るでしょう。
慧音さんは顔を上げました。
「後悔するなよ」
もちろん私は知っています。これはおそらく、知らないほうがいいことなのだと。
そうして私は知っています。あらゆることを知ることが、新しい物語には必要なのだと。
だから、私は――
「もう遅いです」
慧音さんは諦めたように首を振りました。決して、私の方を見ようとはしませんでした。
「この日付な。これ、たぶん――」
「――たぶん?」
ひときわ大きな雷の音。
そうして彼女は、最後の一言を口にしました。
「たぶん、あいつの――先代の命日だよ」
◇
違うのです、慧音さん。それは全く正しくて、そして全くの誤解なのです。
文さんは言っていました。『春の生まれだから、呑気なところがあった』と。
書庫は散らかっていました。晩年の資料だけが乱雑に放り込まれ、それより前のものはきちんと整理されていました。
なにより今回の幻想郷縁起は、博麗大結界が成立してから初めての縁起です。
御阿礼の子は短命です。三十までは生きられないのだとしても。
――明治のはじめに九歳なら、先代は博麗大結界を縁起に記せたはずなのです。
それらの事実は、私にある一つの答えをもたらしました。
静まり返った部屋。二人で俯いて、俄かに降り出した雨の音を私たちは聴きました。
その時私がどんな顔をしていたか、それは慧音さんにしか……あるいは、慧音さんでも、わからないと思います。
だけれど、どうか。
どうか私が笑っていたことは、誰にも知られませんように。
私はぽつりと、か細い声でこう言いました。
「なんだ、私宛てだったんですね」
◇
『――話したいことは山ほどありますが、そろそろ紙幅も尽きます。その先は向こうでのみやげ話といたしましょう。
繰り返しになりますが、祝いの言葉をもって結びに代えます。
九回目の誕生日おめでとう、御阿礼の子。
あなたの見る世界が、どうか広く美しくありますように。
明治X年文月の十三日 以て阿礼乙女に与ふる』
哀しすぎます。内容も終わりも。
ただ書き出しがある以上薄々おやと思う所があるのが勿体なかったかな?あと若干オチの説明が足りない人もいるかも。
後書きの一文も、稗田と映姫の和やかな関係性が窺えて、なかなかに微笑ましかったです。
冒頭の時点で誰に充てた手紙なのかはわかっていましたが、意味合いとしては転生を約束する手紙という解釈でいいんでしょうか。
いや、訊かずとも読んだ人が好きに解釈すればいいんですね。
しかし、それを笑顔で、というのもやはり道理ですね。さすが映姫様。
面白かったです。
作者様の意図と違う所で勝手に混乱するという酷い一人相撲だった。先入観って怖い。
阿礼乙女の事前知識が無ければ、確かに九歳と読む方が素直ですね。真っ当なのに意外に感じる不思議。
八代目の性別も混乱の一因、と思ったが、それは阿礼『乙女』でない相手には与えられないというオチに繋げているのかな。
あなたの描く彼岸組が素敵すぎる
なるほどそういうことでしたか
確かに御阿礼の子にとって死は誕生でもありますね
感性が人間とは多少異なってはいますが、
閻魔らしいともいえるこの感覚は良いですね
全体的にしんみり(しつつもしんみりになりきれない三者ですが……)とした空気のまま進むのかと思いきや、
ラストにどんでん返しを持ってくるとは予想外でした。
今作品集で初めて100点を入れます。