机に並んだ大量のキャッサバを前にして私は溜め息をついた。
香霖が半ば押しつけるようにして置いていった大小様々の芋は一人で食べるには多すぎたし、何より――あの吝嗇家がタダでくれるというのだから予想できたことではあるが――味がいただけない。
これでも多少は料理の心得があるのだが、この単調で朴訥としたでんぷん塊に満足のいく味を付することがどうしてもできなかった。
味も去ることながら、同じものを食べていると食感にも飽きがきて、三日目ともなると口にした途端にもう食欲が萎えてしまうくらいだ。
香霖は昔の癖が抜けきらないのか食べる前の毒抜きの必要性をくどくどと説いてきて(キャッサバの皮と芯には毒がある)、しかし毒抜きをすると尚更日持ちがしなくなるものだから調理の直前にそれを行わなければならず面倒は倍加した。
そんなに嫌ならいっそのこと捨ててしまえば良いと思うのだが、昔からの癖で食べられるものを捨てるという行為を頭は了解しても身体がそうさせなかった。
ああ、そうだ、もういっそ毒ごと食べてしまえば少しは刺激が増して良いかもしれないな、などと考えているところで玄関のドアがノックされる。
香霖だったら一発ひっぱたいてやろうと決心して玄関に向かう。
ドアを開けてみるとそこにいたのは灰色モヤシではなくて、けれども昔馴染みの七色魔法使いだった。
肩の辺りに蓬莱人形だけが浮いている。
「おはよう」
「おはよう。上海は?」
「お料理中よ」
「そうか。何の用?」
「食前の運動」
何のために来たかだなんて顔を見ればすぐに分かるのに、それでもお互いいつまでもこういうやりとりをやめようとしないのはどうしてだろう?
玄関に立てかけてあった箒を掴む。
振り返って開けた場所まで歩いていくアリスに少し遅れてついていく。
アリスが飛び上がるのと同時に私も箒に跨って地を蹴る。
地上の音と光が一気に遠ざかる。
夏の太陽がぎらぎらと肌を焼いて、脇の下に汗が吹き出す。
胸の鼓動が大きく聞こえて身体の中に芯のある熱を感じるけれど、頭だけは妙に冷めている。
高揚感。
少し耳鳴りがする。
悪い気分ではない。
アリスと視線が合う。
どちらともなく頷く。
さて……。
一度だけ深呼吸をして、目の前の人形遣いに向けて私は最初の魔法を放った。
§
いつだって勝負の時には適度に手を抜くアリスだけれど、今日はその抜き方の質がいつもと違う。
ほとんど神経症的な緻密さで構築された弾幕と人形の配列には明確に意図された抜け道があって、そこを通る私は攻撃を避けているというよりも避けさせられている恰好だった。
パズルを出題されている側は、それを解けようが解けまいが問いを出されている時点で既に出題者の掌の上だ。
そういった弾幕勝負だった。
おかげで久方ぶりの勝利もちっとも嬉しくない。
先に地上に降りていたアリスに噛みついてしまう。
「何笑ってんだ」
「? 何が」
「いいよ、もう」
それ以上続けると弾幕程度では済みそうになかったので、私は溜め息だけをその場に残して踵を返した。
身体はすっかり冷めきっていて汗だけが全身からとめどなく吹き出す。
高揚は跡形もなく消え失せていた。
アリスの方を見ないようにしてドアを開け、中に滑り込む。
置いてあったタオルで顔と手足を拭き、一つ舌打ちをした後で頭を振って部屋へと戻った。
§
机の上からは大量のキャッサバが消えて、その代わりに小さな黒い球が水の中にたくさん沈んだボウルがあった。
隣に一仕事を終えた満足げな表情の上海人形が座っている。
「……何やってんだお前」
私が声をかけると上海は顔を上げて右手に持った旗を振った。
アリスの「ドッキリ大成功!」の字が踊っている。
私はボウルを指さす。
「何これ」
「タピオカ」
「ふうん」
「オドロイタ?」
「まあまあかな」
その時またノックが聞こえて、今度は誰が来たのかはっきりと分かる。
「いらっしゃい」
「あはは……」
たっぷりと含みを持たせた私の低い声に、アリスは照れたように小さめの袋を持った手で頭を掻いた。
もう片方の手にはキャッサバのたくさん入った大きな袋が提げられている。
窺うような目で私の顔を覗く。
「お前も押しつけられた口か」
「そう。これはあなたのだけどね」
「?」
「そんな一瞬でタピオカなんて作れないわよ。あれは私の」
「まあいいじゃん。一度持ってったんだからそれ引き取ってくれ」
「ええ? 勘弁してよ……」
いたずらについてきた思わぬ対価に困り顔のアリスを見て少し私の溜飲が下がった。
彼女の持っているもう一つの袋からは紅茶の良い匂いがしていてそれは更に一段階下がった。
「まあ、何だね、上がっていきなさい」
「失礼致します」
冗談めかした私の低い声に、安堵したようにアリスは微笑んだ。
§
もはや繁茂するキャッサバで形成された熱帯林の東屋と化した古道具屋と、増えすぎた芋を知り合いに配り歩いているその店主の話を面白おかしく語りながらアリスは牛乳で紅茶を煮出してチャイを作った。
二つのカップに水を切った黒いキャッサバを敷き、その上から少し冷ましたチャイを注いで、たっぷりの砂糖を入れてかき混ぜる。
「……熱い」
「氷があれば良かったんだけどね」
「でも美味しい」
「それは良かった」
チャイを日常的に飲む熱帯の地域(南の海の果てだ。しかもその海すら私は見たことがない)では夏でも熱いまま飲むこと、しかしミルクティーにタピオカを入れて飲む地域では冷やして飲むことなどを静かに語るアリスの声を茶の湯気にあてられてぼんやりとした頭で聞いていた。
茶の熱に少しずつ溶けていくタピオカの食感は弾力があって柔らかく、芋の堅さに辟易していた私の口にも抵抗なく受け入れられた。
飲み終える頃には私はすっかり良い気分になっていた。
「じゃあ、またね」と席を立つアリスがキャッサバの袋を置き去りにしているのに気づいても何も言う気が起こらなかったほどだ。
§
ちりん、と風鈴が鳴った。
目が覚めると、横向きになった地平線に向かってこちらからたくさんの線がまっすぐに伸びている。
ニスの塗られた木の板の冷たさが左頬に気持ち良い。
地平線の彼方から肌色がぺたぺたとこっちにやってくるのが見えて私は身体を起こした。
「そんなところで昼間から寝ないの」
「だって暑いんだよ」
縁側の表にきちんと揃えた両足を出して霊夢が座る。
彼女の運んできた盆から片方の湯呑みを取って口を付けた。
昔馴染みの避暑地である神社の縁側は、屋根を贄にして真夏の直射日光から逃れたおかげで夜の残滓のような冷気を贅沢に溜め込んだまま昼間を生き延びている床板を好きなだけ楽しめるし、もちろん友達の顔だって見られる。
「ねえ、あんたが来るのってずいぶん久しぶりじゃない?」
「そう?」
「そうよ。前は桜の盛りで……」
私が呷ろうとした杯に桜の枝から大きな毛虫が落ちてきたこと、私たちが大騒ぎしている間に文の鴉が杯に大きな嘴を突っ込んで毛虫を丸飲みしてしまったこと、潰れた早苗を屋内の煎餅布団に着陸させようと私が足を霊夢が頭を抱えてこの縁側をゆっくりと上ったこと、月の光に照らされたその髪の緑色、夜の縁側の匂い、言われるまで私が忘れていた小さな思い出の数々を両手で寄せて集めてすくい上げるかのように愛おしげに語る霊夢の後ろ姿が、夏の光に照らされた明るい庭を背景にぼうっと浮き上がって見えていた。
うん、うん、と頷いて聞いている私を霊夢が振り返る。
外に降ろしていた足を上げる。
長い足。
右手を私の左膝の左に、左手を右膝の右につく。
長い腕。
それから私の顔を正面から覗き込む。
少女のものと呼ぶには些か成熟した憂いと喜びと哀しみとを既に経験した後の透明な表情。
二つの目が私を見つめていた。
私は瞬きも出来ない。
「ねえ」
「なに」
「弾幕ごっこしない?」
「もうそんな年でもないだろ」と私は笑って言った。
笑うのが精一杯だった。
「そう……うん、そうか。そうかもね」
霊夢は私の右隣に座り直した。
私より頭半分高い位置に顔がある。
彼女は自分の腹に手をやる。
それを優しく撫でる。
ゆっくりと。
私はそれを見る。
私はそれを知っている。
私は霊夢の横顔を見上げる。
「最後に……と思ったんだけどね」
私は口を開ける言葉を探す自分の中の言葉を貯めてある場所にもぐって言葉を探すけれどすべての言葉は暗がりに隠れて出てこない私は何も言えない何か言わなくちゃ喉が乾いてちぎれそうだでも一体何を言えばいいんだろうか私はそうだろう何を言ったところで今更変わりはしないじゃあなんでこんなに胸の奥が掻き毟られるように痛むんだ私は何がしたいんだ私は一体ああそうだ私は本当は霊夢の肩を掴んで泣きつきたいんだ足にすがって叫びたいんだ私を置いて行かないでくれって頼むから私の知らないところに向かわないでくれってでもそんなことを言って何になるだけどどこから一体
ちりん、と風鈴が鳴った。
§
荒い息をついて跳ね起きた。
全身にびっしょりと汗をかいている。
今度こそ目が覚めた。
異常な喉の渇きに突き動かされて立ち上がり、ふらつく足の指の柔らかい部分で座っていた椅子を蹴倒してしまう。
痛みに呻きながら床に丸まっているとこのまま床の一部に溶けてなくなってしまいたい気持ちと喉の渇きが戦い始めて、それでも結局渇きが勝った。
這うようにして流しに向かう。
流しの角に伸ばした左腕を引っかけてよじ登り、顎を縁に乗せる。
コップを水に浸すようにして汲み、一杯、二杯……。
どれだけ飲んでも渇きは一向に癒えず、腹の中に降りていった水が不気味な音を立てるだけだ。
うっとえずいて慌てて顔を下に向けると熱と胃液でほとんど溶けてもろもろになったタピオカが茶色い液体に混ざって口から溢れた。
流しの表面を打つ吐瀉物がかつんと乾いた音を立てる。
頭がふらつくのを流しの縁の内側にかけた左肘で何とか踏ん張る。
目を瞑って深呼吸をする。
少し落ち着いて安心していると、その隙を狙っていたかのようにさっきの夢を悪夢として見ていた自分の限りない醜さと汚らわしさに対する嫌悪が一気に襲いかかってきた。
濡れた服を脱いで皮膚の上にまだ残った汗を拭い、ゴミ箱に投げ込む。
私が袂を分かったのだ。
自分のために。
自分の魔法のために……。
その癖に未だに食べて、飲んで、眠って、吐いて、まるで人間みたいに振る舞って。
霊夢が人間としてまっとうな幸せを得ることが私にとって不幸だというのであれば、私は今すぐに喉を掻き切って死ぬべきだ。
水では癒えない喉の渇きをその血で満たしたその後で私はようやく少しだけまともな存在として死んでいけるだろう。
喉を裂けば魔法使いは死ぬのだろうか?
分からない。
死なないことに夢中でそれを追い求めて這いずり回って生き延びてきて、いざ死のうという時になってその方法が分からないだなんて。
馬鹿げていすぎて冗談にもならない。
アリスに頼めば殺してくれるだろうか?
恐らく無理だ。
パチュリーなら?
殺してくれるような気がする。
そこまで考えたところで、己の醜いエゴを消し去る死に際してすら他人に負担を強いようとしている自分に気づいて愕然とする。
ついでにその辺りでようやく夢の余波から冷めた。
一つ息をついて流しに向かい、流しの中腹に溜まっている吐瀉物に水をかけて流す。
ゴミ箱から服を拾い上げて洗濯カゴに投げ込み直した。
倒れたままだった椅子を立てる。
「あーあ。散々だな」
独り言も自然に口をついた。
胸の動悸もおさまっている。
角砂糖を取り出してかじりながら舐め、もう一度汲んだ水を啜り込む。
片手にコップを持ったままでベッドにゆっくりと腰掛けた。
この辺りの感情の処理は少しずつだけれど着実に上手くなっている。
様々な変化に泣いたり吐いたりしながら、それでも同時に自分の胸の傷を月のクレーターのように指さして笑っていられる自分も日増しに存在を増している。
しかし、気が付けば霊夢の歳を数えている自分もまたしつこく居座っている。
私たちが共に人間であった時間とその後の時間を天秤の両側に乗せて、それから霊夢がまだ少女でいる時間、まだ生きている時間と次々に重りの種類を変えていく。
まだたくさん時間はあるんだと自分に言い聞かせる言葉の比重が、空虚と不誠実と焦りの混入で毎月少しずつ軽くなっていくのを知っていてもそれを止めることが出来ない。
ふと机の上に目を遣ると、タピオカの残ったボウルの陰から上海人形がこっちを見ていた。
私の視線に気づいてこちらに向かって飛んでくる。
「あれ、帰ったんじゃなかったのか」
「イッショニ イテヤレッテ」
「それは頼もしいな」
私は笑って上海の頭を撫でた。
上海は頭をよじって私の方を見た。
「ウナサレテタ」
「うん」
「ナンデ?」
「子供のまま大人にならなくちゃいけないから」
上海は首を傾げていたけれど、それ以上は説明しなかった。
できなかった。
嵐の向こうに何があるのかを私はまだ知らない。
§
アリスが置いていったキャッサバの皮を剥いて芯を取り除き、時間をかけて毒抜きをした後で擦り潰してでんぷんを取りだす。
鍋に入れて火にかけながら、できるだけ昨日の物に近い形になるよう整える。
汗まみれになって煮込んでいるうちに幾らかそれらしくはなってきたものの、アリスが昨日持ってきた黒いそれとは違う芋の色が微かに残った透明の球体の中で、白く濁った芯がいつまでも消えない。
「なあ、これ、なくなるまで煮なきゃ駄目だよな?」
「シラン」
夜になってシャワーを浴びて野菜とキノコを煮た簡単なスープを作って啜りこみ、さっさと寝床に着いた。
夢は見なかった。
翌朝、まず上海を送り届けた。
玄関から出てきたアリスは星座を見る目つきで私の顔をじっと覗き込んで何らかのしるしを読み解こうとしていた。
浮かんでいたのは彼女にとって満足のいくものだったようで、アリスは僅かに微笑んで頷いた。
「神社に行くのね?」
「そう」と私は答えた。
「ちゃんと恐れと戦ってきなさい」
「え、なに?」
「ううん。気をつけて」
「どうも」
「バイバイ」
「ばいばい」
左手に提げている袋の中で身じろぎをするタピオカの重みが箒の先を僅かにぶれさせる。
夏の朝の光は何もかもを透き通らせる清らかさで降り注いでいて、右手に提げた袋の中から紅茶の葉がその光に満遍なく匂いをつけていた。
紅茶の匂いのする光が私の中に沈み込んだ澱を明るく照らし出して比重を軽くするので、それは身体の表面にぽつぽつと浮き上がってくる。
あとはこれを誰かに祓い清めてもらうだけだ。
何から何まで人任せだ。
神社の境内には掃除をしている人影があって、私はそちらに向けてゆっくりと高度を落とす。
埃を散らさないように出来るだけ静かに着陸すると、霊夢が振り返って私の背負った太陽に顔をしかめた。
§
神社にあるのは湯呑みだけだったけれど、構わず私たちはそこにタピオカを敷きつめる。
沸かした紅茶と牛乳を競いあうようにして注ぎ込んで、砂糖をかき混ぜて溶かした。
「美味しい」
「良かった」
「これなに」
「お前も芋もらっただろ」
「うん」
「あれ」
へえ、と霊夢は目を開いて口の中から紅茶に染まって白くなったタピオカを取りだして眺め、端の方を少しだけかじった。
片目を瞑ってその断面をしげしげと見ている。
頭の位置が私よりも半分高い。
春の陽気と梅雨の憂鬱とを順番に吸いあげて、霊夢の背はするすると伸びた。
おかげで今年に入ってから二回も香霖は霊夢の服を作り直さなければならなかった。
体つきに以前にはなかった柔らかな線が、声に一段階深い響きが、混じった。
時折、一時間のうちに三秒ほどだが、私の知らない表情が顔をよぎるようになった。
「どうしたの、ぼうっとして」
「ん、いや、別に」
「ねえ、これの作り方教えてよ。私も芋が余って困ってるの」
「いいよ、もちろん」
二人で台所に並んで立って芋の皮を剥く。
この数日間飽きるほどやったので嫌でも上手くなる。
皮は包丁に吸い着くようにしてするすると剥けていった。
「上手いわね」
「まあな」
しかしそういう霊夢も相当な物で芋生活の長さが偲ばれた。
芯を抜いて毒抜きをする。
交代で鍋の番をしながら中心の白い芯が溶けてなくなるまでタピオカを煮た。
ボウルがないというので桶に水を張って出来たタピオカを冷やす。
そうした作業の一つ一つを手を抜かずに丁寧にこなした。
霊夢の手つきを時折盗み見て、私の知らない新しい動きを探す。
それが見つかった方が良いのか見つからない方が良いのかを自分に問いかけながら。
「あんたね、ほんとじろじろと」
「え」
こっそり見ていたつもりだったのに。
「どうしたのよ。何かあるなら言ったら?」
「うーん、いや、別に」
「嘘」
うりうりと霊夢が人差し指で頬を突ついてくるので身を捩ったり手を掴んだりして躱そうとする。
「ちょっと、やめろよ」
「言うまでやめない」
「だって笑うだろお前」
「それはまあ面白かったら笑う……ごめん笑わない笑いません」
「誰にも言わない?」
「言わない」
「……えーと」
「うん」
私は息を吸い込んだ。
言葉は何に向かって言えばいいのか、霊夢か、頭半分の高さか、私の知らない表情や曲線や声か、よく知っている今までのいつもの霊夢か、それとも私自身か、分からないけれど、言いたいことはどれにしても同じだったので喉の辺りで追いつ追われつしながらもろもろと出てきた。
「私を置いて霊夢だけがどんどん大人になっていくのが寂しい。私が選んだことの結果で当然霊夢は何一つ悪くないって分かってるし、私は何も後悔してないけれど。でもそれは別にしてやっぱり寂しい。こうやって会う度に私たちは少しずつ離れていくんだって分かるから」
最後の方は霊夢にちゃんと聞こえていたか怪しい。
口が霊夢の肩と胸の途中の空間に塞がれたからだ。
私を抱きしめたままでしばらくじっとしていたその後で霊夢は言った。
「ねえ」
「なに」
「弾幕ごっこしない?」
耳元で聞くその声は昔から私が知っている霊夢の声で、なんだちゃんとそんな声も出せるんじゃないかって息が震えて仕方がなかったけれど私は泣いている場合ではなくて答えなくてはならない。
「……する」
どこかで蝉が鳴き始めた。
§
熱帯林を抜けると、日によく焼けた屋根とその下に安楽椅子を出して前後に揺れている主とが順番に現れた。
恐らく度の入ったサングラスをしている。
いたずらを見られた子供のような表情を一瞬だけ浮かべ、押しやり、香霖は椅子を足で止めた。
「やあ」と香霖が言った。
「かっこいいじゃん」
「からかうなよ。何か飲むかい」
「ありがとう。でもいらない。キャッサバの苗木が欲しいんだけど」
「良いよ。適当に見繕って持っていきなさい。地面に挿すだけで勝手にどんどん伸びる。スコールはないけど、夕立ちがあるから、あまり神経質にならなくても枯れやしない。嫌になるほど増えるよ」
「その割には楽しそうに見えるけど」
「楽しいんじゃない。楽しんでるんだ」
「それはそれは」
二年の歳月は香霖の表情にも背丈にも声にも何の変化も与えていなくて、ともすると彼の身体を巡る半分の人間の血を忘れそうになる。
それは本当はちゃんとくっきりと存在していて単純に私が霊夢の劇的さに目を奪われて見落としているだけだろうか。
もっともっと時間が経てば私にも見える形で顕現するのだろうか。
二本の苗木を両脇に抱えて、両手が塞がったままで箒に乗るわけにも行かないので右脇に箒も挟んで、家路を歩きながら思う。
半妖はどれだけ生きられるのか、人間とあまり変わらないのかそれとも妖怪とあまり変わらないのか、有限と半永久とを平均したら何になるのか、分からないままでいられることをありがたく思う。
同時に二つのものとはとてもじゃないが戦えない。
アリスの持ってきた黒いタピオカ。
わざわざ染めるのは手間だっただろう。
あの中には一粒だけ混ざっていたのだと思う。
胡蝶夢丸ナイトメア。
恐れを顕現して悪夢を見せる黒い丸薬。
そう考えると彼女の言動が一本の線で繋がるのだ。
さて、「ちゃんと恐れと戦ってきなさい」とアリスに送り出された私がちゃんと恐れと戦ったかというとそれは怪しいところで、まだせいぜい顔合わせと自己紹介くらいのものだろう。
多分戦いはこれからゆっくりと始まって知らないうちに終わるのだ。
そういう気がする。
庭に挿した二本の苗木は今までずっとそこにあったかのような自然さで足下に夏の濃い陰を伸ばしている。
思い出を仮託した木と、木に仮託した思い出と、どちらが長くここに留まるのだろうか。
スコールの代わりの夕立ちが黒い雲を引き連れてあと何時間もしないうちにやってくるのを知っていながら、私は水で満たしたコップを苗木にゆっくりと傾けた。
香霖が半ば押しつけるようにして置いていった大小様々の芋は一人で食べるには多すぎたし、何より――あの吝嗇家がタダでくれるというのだから予想できたことではあるが――味がいただけない。
これでも多少は料理の心得があるのだが、この単調で朴訥としたでんぷん塊に満足のいく味を付することがどうしてもできなかった。
味も去ることながら、同じものを食べていると食感にも飽きがきて、三日目ともなると口にした途端にもう食欲が萎えてしまうくらいだ。
香霖は昔の癖が抜けきらないのか食べる前の毒抜きの必要性をくどくどと説いてきて(キャッサバの皮と芯には毒がある)、しかし毒抜きをすると尚更日持ちがしなくなるものだから調理の直前にそれを行わなければならず面倒は倍加した。
そんなに嫌ならいっそのこと捨ててしまえば良いと思うのだが、昔からの癖で食べられるものを捨てるという行為を頭は了解しても身体がそうさせなかった。
ああ、そうだ、もういっそ毒ごと食べてしまえば少しは刺激が増して良いかもしれないな、などと考えているところで玄関のドアがノックされる。
香霖だったら一発ひっぱたいてやろうと決心して玄関に向かう。
ドアを開けてみるとそこにいたのは灰色モヤシではなくて、けれども昔馴染みの七色魔法使いだった。
肩の辺りに蓬莱人形だけが浮いている。
「おはよう」
「おはよう。上海は?」
「お料理中よ」
「そうか。何の用?」
「食前の運動」
何のために来たかだなんて顔を見ればすぐに分かるのに、それでもお互いいつまでもこういうやりとりをやめようとしないのはどうしてだろう?
玄関に立てかけてあった箒を掴む。
振り返って開けた場所まで歩いていくアリスに少し遅れてついていく。
アリスが飛び上がるのと同時に私も箒に跨って地を蹴る。
地上の音と光が一気に遠ざかる。
夏の太陽がぎらぎらと肌を焼いて、脇の下に汗が吹き出す。
胸の鼓動が大きく聞こえて身体の中に芯のある熱を感じるけれど、頭だけは妙に冷めている。
高揚感。
少し耳鳴りがする。
悪い気分ではない。
アリスと視線が合う。
どちらともなく頷く。
さて……。
一度だけ深呼吸をして、目の前の人形遣いに向けて私は最初の魔法を放った。
§
いつだって勝負の時には適度に手を抜くアリスだけれど、今日はその抜き方の質がいつもと違う。
ほとんど神経症的な緻密さで構築された弾幕と人形の配列には明確に意図された抜け道があって、そこを通る私は攻撃を避けているというよりも避けさせられている恰好だった。
パズルを出題されている側は、それを解けようが解けまいが問いを出されている時点で既に出題者の掌の上だ。
そういった弾幕勝負だった。
おかげで久方ぶりの勝利もちっとも嬉しくない。
先に地上に降りていたアリスに噛みついてしまう。
「何笑ってんだ」
「? 何が」
「いいよ、もう」
それ以上続けると弾幕程度では済みそうになかったので、私は溜め息だけをその場に残して踵を返した。
身体はすっかり冷めきっていて汗だけが全身からとめどなく吹き出す。
高揚は跡形もなく消え失せていた。
アリスの方を見ないようにしてドアを開け、中に滑り込む。
置いてあったタオルで顔と手足を拭き、一つ舌打ちをした後で頭を振って部屋へと戻った。
§
机の上からは大量のキャッサバが消えて、その代わりに小さな黒い球が水の中にたくさん沈んだボウルがあった。
隣に一仕事を終えた満足げな表情の上海人形が座っている。
「……何やってんだお前」
私が声をかけると上海は顔を上げて右手に持った旗を振った。
アリスの「ドッキリ大成功!」の字が踊っている。
私はボウルを指さす。
「何これ」
「タピオカ」
「ふうん」
「オドロイタ?」
「まあまあかな」
その時またノックが聞こえて、今度は誰が来たのかはっきりと分かる。
「いらっしゃい」
「あはは……」
たっぷりと含みを持たせた私の低い声に、アリスは照れたように小さめの袋を持った手で頭を掻いた。
もう片方の手にはキャッサバのたくさん入った大きな袋が提げられている。
窺うような目で私の顔を覗く。
「お前も押しつけられた口か」
「そう。これはあなたのだけどね」
「?」
「そんな一瞬でタピオカなんて作れないわよ。あれは私の」
「まあいいじゃん。一度持ってったんだからそれ引き取ってくれ」
「ええ? 勘弁してよ……」
いたずらについてきた思わぬ対価に困り顔のアリスを見て少し私の溜飲が下がった。
彼女の持っているもう一つの袋からは紅茶の良い匂いがしていてそれは更に一段階下がった。
「まあ、何だね、上がっていきなさい」
「失礼致します」
冗談めかした私の低い声に、安堵したようにアリスは微笑んだ。
§
もはや繁茂するキャッサバで形成された熱帯林の東屋と化した古道具屋と、増えすぎた芋を知り合いに配り歩いているその店主の話を面白おかしく語りながらアリスは牛乳で紅茶を煮出してチャイを作った。
二つのカップに水を切った黒いキャッサバを敷き、その上から少し冷ましたチャイを注いで、たっぷりの砂糖を入れてかき混ぜる。
「……熱い」
「氷があれば良かったんだけどね」
「でも美味しい」
「それは良かった」
チャイを日常的に飲む熱帯の地域(南の海の果てだ。しかもその海すら私は見たことがない)では夏でも熱いまま飲むこと、しかしミルクティーにタピオカを入れて飲む地域では冷やして飲むことなどを静かに語るアリスの声を茶の湯気にあてられてぼんやりとした頭で聞いていた。
茶の熱に少しずつ溶けていくタピオカの食感は弾力があって柔らかく、芋の堅さに辟易していた私の口にも抵抗なく受け入れられた。
飲み終える頃には私はすっかり良い気分になっていた。
「じゃあ、またね」と席を立つアリスがキャッサバの袋を置き去りにしているのに気づいても何も言う気が起こらなかったほどだ。
§
ちりん、と風鈴が鳴った。
目が覚めると、横向きになった地平線に向かってこちらからたくさんの線がまっすぐに伸びている。
ニスの塗られた木の板の冷たさが左頬に気持ち良い。
地平線の彼方から肌色がぺたぺたとこっちにやってくるのが見えて私は身体を起こした。
「そんなところで昼間から寝ないの」
「だって暑いんだよ」
縁側の表にきちんと揃えた両足を出して霊夢が座る。
彼女の運んできた盆から片方の湯呑みを取って口を付けた。
昔馴染みの避暑地である神社の縁側は、屋根を贄にして真夏の直射日光から逃れたおかげで夜の残滓のような冷気を贅沢に溜め込んだまま昼間を生き延びている床板を好きなだけ楽しめるし、もちろん友達の顔だって見られる。
「ねえ、あんたが来るのってずいぶん久しぶりじゃない?」
「そう?」
「そうよ。前は桜の盛りで……」
私が呷ろうとした杯に桜の枝から大きな毛虫が落ちてきたこと、私たちが大騒ぎしている間に文の鴉が杯に大きな嘴を突っ込んで毛虫を丸飲みしてしまったこと、潰れた早苗を屋内の煎餅布団に着陸させようと私が足を霊夢が頭を抱えてこの縁側をゆっくりと上ったこと、月の光に照らされたその髪の緑色、夜の縁側の匂い、言われるまで私が忘れていた小さな思い出の数々を両手で寄せて集めてすくい上げるかのように愛おしげに語る霊夢の後ろ姿が、夏の光に照らされた明るい庭を背景にぼうっと浮き上がって見えていた。
うん、うん、と頷いて聞いている私を霊夢が振り返る。
外に降ろしていた足を上げる。
長い足。
右手を私の左膝の左に、左手を右膝の右につく。
長い腕。
それから私の顔を正面から覗き込む。
少女のものと呼ぶには些か成熟した憂いと喜びと哀しみとを既に経験した後の透明な表情。
二つの目が私を見つめていた。
私は瞬きも出来ない。
「ねえ」
「なに」
「弾幕ごっこしない?」
「もうそんな年でもないだろ」と私は笑って言った。
笑うのが精一杯だった。
「そう……うん、そうか。そうかもね」
霊夢は私の右隣に座り直した。
私より頭半分高い位置に顔がある。
彼女は自分の腹に手をやる。
それを優しく撫でる。
ゆっくりと。
私はそれを見る。
私はそれを知っている。
私は霊夢の横顔を見上げる。
「最後に……と思ったんだけどね」
私は口を開ける言葉を探す自分の中の言葉を貯めてある場所にもぐって言葉を探すけれどすべての言葉は暗がりに隠れて出てこない私は何も言えない何か言わなくちゃ喉が乾いてちぎれそうだでも一体何を言えばいいんだろうか私はそうだろう何を言ったところで今更変わりはしないじゃあなんでこんなに胸の奥が掻き毟られるように痛むんだ私は何がしたいんだ私は一体ああそうだ私は本当は霊夢の肩を掴んで泣きつきたいんだ足にすがって叫びたいんだ私を置いて行かないでくれって頼むから私の知らないところに向かわないでくれってでもそんなことを言って何になるだけどどこから一体
ちりん、と風鈴が鳴った。
§
荒い息をついて跳ね起きた。
全身にびっしょりと汗をかいている。
今度こそ目が覚めた。
異常な喉の渇きに突き動かされて立ち上がり、ふらつく足の指の柔らかい部分で座っていた椅子を蹴倒してしまう。
痛みに呻きながら床に丸まっているとこのまま床の一部に溶けてなくなってしまいたい気持ちと喉の渇きが戦い始めて、それでも結局渇きが勝った。
這うようにして流しに向かう。
流しの角に伸ばした左腕を引っかけてよじ登り、顎を縁に乗せる。
コップを水に浸すようにして汲み、一杯、二杯……。
どれだけ飲んでも渇きは一向に癒えず、腹の中に降りていった水が不気味な音を立てるだけだ。
うっとえずいて慌てて顔を下に向けると熱と胃液でほとんど溶けてもろもろになったタピオカが茶色い液体に混ざって口から溢れた。
流しの表面を打つ吐瀉物がかつんと乾いた音を立てる。
頭がふらつくのを流しの縁の内側にかけた左肘で何とか踏ん張る。
目を瞑って深呼吸をする。
少し落ち着いて安心していると、その隙を狙っていたかのようにさっきの夢を悪夢として見ていた自分の限りない醜さと汚らわしさに対する嫌悪が一気に襲いかかってきた。
濡れた服を脱いで皮膚の上にまだ残った汗を拭い、ゴミ箱に投げ込む。
私が袂を分かったのだ。
自分のために。
自分の魔法のために……。
その癖に未だに食べて、飲んで、眠って、吐いて、まるで人間みたいに振る舞って。
霊夢が人間としてまっとうな幸せを得ることが私にとって不幸だというのであれば、私は今すぐに喉を掻き切って死ぬべきだ。
水では癒えない喉の渇きをその血で満たしたその後で私はようやく少しだけまともな存在として死んでいけるだろう。
喉を裂けば魔法使いは死ぬのだろうか?
分からない。
死なないことに夢中でそれを追い求めて這いずり回って生き延びてきて、いざ死のうという時になってその方法が分からないだなんて。
馬鹿げていすぎて冗談にもならない。
アリスに頼めば殺してくれるだろうか?
恐らく無理だ。
パチュリーなら?
殺してくれるような気がする。
そこまで考えたところで、己の醜いエゴを消し去る死に際してすら他人に負担を強いようとしている自分に気づいて愕然とする。
ついでにその辺りでようやく夢の余波から冷めた。
一つ息をついて流しに向かい、流しの中腹に溜まっている吐瀉物に水をかけて流す。
ゴミ箱から服を拾い上げて洗濯カゴに投げ込み直した。
倒れたままだった椅子を立てる。
「あーあ。散々だな」
独り言も自然に口をついた。
胸の動悸もおさまっている。
角砂糖を取り出してかじりながら舐め、もう一度汲んだ水を啜り込む。
片手にコップを持ったままでベッドにゆっくりと腰掛けた。
この辺りの感情の処理は少しずつだけれど着実に上手くなっている。
様々な変化に泣いたり吐いたりしながら、それでも同時に自分の胸の傷を月のクレーターのように指さして笑っていられる自分も日増しに存在を増している。
しかし、気が付けば霊夢の歳を数えている自分もまたしつこく居座っている。
私たちが共に人間であった時間とその後の時間を天秤の両側に乗せて、それから霊夢がまだ少女でいる時間、まだ生きている時間と次々に重りの種類を変えていく。
まだたくさん時間はあるんだと自分に言い聞かせる言葉の比重が、空虚と不誠実と焦りの混入で毎月少しずつ軽くなっていくのを知っていてもそれを止めることが出来ない。
ふと机の上に目を遣ると、タピオカの残ったボウルの陰から上海人形がこっちを見ていた。
私の視線に気づいてこちらに向かって飛んでくる。
「あれ、帰ったんじゃなかったのか」
「イッショニ イテヤレッテ」
「それは頼もしいな」
私は笑って上海の頭を撫でた。
上海は頭をよじって私の方を見た。
「ウナサレテタ」
「うん」
「ナンデ?」
「子供のまま大人にならなくちゃいけないから」
上海は首を傾げていたけれど、それ以上は説明しなかった。
できなかった。
嵐の向こうに何があるのかを私はまだ知らない。
§
アリスが置いていったキャッサバの皮を剥いて芯を取り除き、時間をかけて毒抜きをした後で擦り潰してでんぷんを取りだす。
鍋に入れて火にかけながら、できるだけ昨日の物に近い形になるよう整える。
汗まみれになって煮込んでいるうちに幾らかそれらしくはなってきたものの、アリスが昨日持ってきた黒いそれとは違う芋の色が微かに残った透明の球体の中で、白く濁った芯がいつまでも消えない。
「なあ、これ、なくなるまで煮なきゃ駄目だよな?」
「シラン」
夜になってシャワーを浴びて野菜とキノコを煮た簡単なスープを作って啜りこみ、さっさと寝床に着いた。
夢は見なかった。
翌朝、まず上海を送り届けた。
玄関から出てきたアリスは星座を見る目つきで私の顔をじっと覗き込んで何らかのしるしを読み解こうとしていた。
浮かんでいたのは彼女にとって満足のいくものだったようで、アリスは僅かに微笑んで頷いた。
「神社に行くのね?」
「そう」と私は答えた。
「ちゃんと恐れと戦ってきなさい」
「え、なに?」
「ううん。気をつけて」
「どうも」
「バイバイ」
「ばいばい」
左手に提げている袋の中で身じろぎをするタピオカの重みが箒の先を僅かにぶれさせる。
夏の朝の光は何もかもを透き通らせる清らかさで降り注いでいて、右手に提げた袋の中から紅茶の葉がその光に満遍なく匂いをつけていた。
紅茶の匂いのする光が私の中に沈み込んだ澱を明るく照らし出して比重を軽くするので、それは身体の表面にぽつぽつと浮き上がってくる。
あとはこれを誰かに祓い清めてもらうだけだ。
何から何まで人任せだ。
神社の境内には掃除をしている人影があって、私はそちらに向けてゆっくりと高度を落とす。
埃を散らさないように出来るだけ静かに着陸すると、霊夢が振り返って私の背負った太陽に顔をしかめた。
§
神社にあるのは湯呑みだけだったけれど、構わず私たちはそこにタピオカを敷きつめる。
沸かした紅茶と牛乳を競いあうようにして注ぎ込んで、砂糖をかき混ぜて溶かした。
「美味しい」
「良かった」
「これなに」
「お前も芋もらっただろ」
「うん」
「あれ」
へえ、と霊夢は目を開いて口の中から紅茶に染まって白くなったタピオカを取りだして眺め、端の方を少しだけかじった。
片目を瞑ってその断面をしげしげと見ている。
頭の位置が私よりも半分高い。
春の陽気と梅雨の憂鬱とを順番に吸いあげて、霊夢の背はするすると伸びた。
おかげで今年に入ってから二回も香霖は霊夢の服を作り直さなければならなかった。
体つきに以前にはなかった柔らかな線が、声に一段階深い響きが、混じった。
時折、一時間のうちに三秒ほどだが、私の知らない表情が顔をよぎるようになった。
「どうしたの、ぼうっとして」
「ん、いや、別に」
「ねえ、これの作り方教えてよ。私も芋が余って困ってるの」
「いいよ、もちろん」
二人で台所に並んで立って芋の皮を剥く。
この数日間飽きるほどやったので嫌でも上手くなる。
皮は包丁に吸い着くようにしてするすると剥けていった。
「上手いわね」
「まあな」
しかしそういう霊夢も相当な物で芋生活の長さが偲ばれた。
芯を抜いて毒抜きをする。
交代で鍋の番をしながら中心の白い芯が溶けてなくなるまでタピオカを煮た。
ボウルがないというので桶に水を張って出来たタピオカを冷やす。
そうした作業の一つ一つを手を抜かずに丁寧にこなした。
霊夢の手つきを時折盗み見て、私の知らない新しい動きを探す。
それが見つかった方が良いのか見つからない方が良いのかを自分に問いかけながら。
「あんたね、ほんとじろじろと」
「え」
こっそり見ていたつもりだったのに。
「どうしたのよ。何かあるなら言ったら?」
「うーん、いや、別に」
「嘘」
うりうりと霊夢が人差し指で頬を突ついてくるので身を捩ったり手を掴んだりして躱そうとする。
「ちょっと、やめろよ」
「言うまでやめない」
「だって笑うだろお前」
「それはまあ面白かったら笑う……ごめん笑わない笑いません」
「誰にも言わない?」
「言わない」
「……えーと」
「うん」
私は息を吸い込んだ。
言葉は何に向かって言えばいいのか、霊夢か、頭半分の高さか、私の知らない表情や曲線や声か、よく知っている今までのいつもの霊夢か、それとも私自身か、分からないけれど、言いたいことはどれにしても同じだったので喉の辺りで追いつ追われつしながらもろもろと出てきた。
「私を置いて霊夢だけがどんどん大人になっていくのが寂しい。私が選んだことの結果で当然霊夢は何一つ悪くないって分かってるし、私は何も後悔してないけれど。でもそれは別にしてやっぱり寂しい。こうやって会う度に私たちは少しずつ離れていくんだって分かるから」
最後の方は霊夢にちゃんと聞こえていたか怪しい。
口が霊夢の肩と胸の途中の空間に塞がれたからだ。
私を抱きしめたままでしばらくじっとしていたその後で霊夢は言った。
「ねえ」
「なに」
「弾幕ごっこしない?」
耳元で聞くその声は昔から私が知っている霊夢の声で、なんだちゃんとそんな声も出せるんじゃないかって息が震えて仕方がなかったけれど私は泣いている場合ではなくて答えなくてはならない。
「……する」
どこかで蝉が鳴き始めた。
§
熱帯林を抜けると、日によく焼けた屋根とその下に安楽椅子を出して前後に揺れている主とが順番に現れた。
恐らく度の入ったサングラスをしている。
いたずらを見られた子供のような表情を一瞬だけ浮かべ、押しやり、香霖は椅子を足で止めた。
「やあ」と香霖が言った。
「かっこいいじゃん」
「からかうなよ。何か飲むかい」
「ありがとう。でもいらない。キャッサバの苗木が欲しいんだけど」
「良いよ。適当に見繕って持っていきなさい。地面に挿すだけで勝手にどんどん伸びる。スコールはないけど、夕立ちがあるから、あまり神経質にならなくても枯れやしない。嫌になるほど増えるよ」
「その割には楽しそうに見えるけど」
「楽しいんじゃない。楽しんでるんだ」
「それはそれは」
二年の歳月は香霖の表情にも背丈にも声にも何の変化も与えていなくて、ともすると彼の身体を巡る半分の人間の血を忘れそうになる。
それは本当はちゃんとくっきりと存在していて単純に私が霊夢の劇的さに目を奪われて見落としているだけだろうか。
もっともっと時間が経てば私にも見える形で顕現するのだろうか。
二本の苗木を両脇に抱えて、両手が塞がったままで箒に乗るわけにも行かないので右脇に箒も挟んで、家路を歩きながら思う。
半妖はどれだけ生きられるのか、人間とあまり変わらないのかそれとも妖怪とあまり変わらないのか、有限と半永久とを平均したら何になるのか、分からないままでいられることをありがたく思う。
同時に二つのものとはとてもじゃないが戦えない。
アリスの持ってきた黒いタピオカ。
わざわざ染めるのは手間だっただろう。
あの中には一粒だけ混ざっていたのだと思う。
胡蝶夢丸ナイトメア。
恐れを顕現して悪夢を見せる黒い丸薬。
そう考えると彼女の言動が一本の線で繋がるのだ。
さて、「ちゃんと恐れと戦ってきなさい」とアリスに送り出された私がちゃんと恐れと戦ったかというとそれは怪しいところで、まだせいぜい顔合わせと自己紹介くらいのものだろう。
多分戦いはこれからゆっくりと始まって知らないうちに終わるのだ。
そういう気がする。
庭に挿した二本の苗木は今までずっとそこにあったかのような自然さで足下に夏の濃い陰を伸ばしている。
思い出を仮託した木と、木に仮託した思い出と、どちらが長くここに留まるのだろうか。
スコールの代わりの夕立ちが黒い雲を引き連れてあと何時間もしないうちにやってくるのを知っていながら、私は水で満たしたコップを苗木にゆっくりと傾けた。
良いお話でした
アリスと魔理沙の関係もいい。ほどよく苦い良い短編を楽しめました。
デーツ(ナツメヤシ)共々、自分の好みではなかったなあ。不味いよ、あれ。
関係無いこと書いたけど、話自体は面白かった。
霊夢と歳が離れる途中の話ってあんまり見なかったので新鮮。
人間に拘る魔理沙もいればこういう魔理沙もいて、話を書く上で良いテーマだと思います。
どこか切なくて温かい良い作品でした。
みょんにぼやかすよりかは最初から前提明らかにした方が話はすんなり読めるんでないかと。
どうせイモ植えるんならサトイモが良いな。
細かいところのバレが、オシャンティなキャッサバ作品に少し曇るかなぁと。
それにしても、タピオカミルクってアリス味だよな
贅沢を言えば、霖之助がもう少し話に絡むところが見たかったかも。
せっかく出てきたのにグラサンとキャッサバだけの人になってますし。
キャッサバの山がその効果を高める役割を果たしているあたり、見事な技巧です。
別々の道を歩むことになり、惑う魔理沙が良く表現できていたと思います
東南アジア風の世界というのも面白いですね
キャッサバ、黒タピオカ、置き上海、と一連の流れから来るオチ(ナイトメア)も都会派で素敵でした。
対比が凄く良いですね。2つの苗木を抱える魔理沙からは、人間らしさとも魔法使いらしさとも向かい合っていく覚悟を感じられました。心の風化と体の風化、成熟した魔法使いと未熟な魔法使い、湯のみとミルクティー、泣かない魔理沙と鳴く蝉、あげたらキリがないですね(汗
昨今の亜熱帯化した日本への風刺も入っているんでしょうか?
あと霊夢孕ませたの誰だコラ