ギリギリ、ガリガリ、擬音に直せばそのような陳腐な言い草に堕するであろう音。
だがその音は、屠殺場で絞め殺される畜生の呻き、髄の轢みであり、餓鬼道に堕ちたが如くの有様の、寸毫の後に死に到らしむ咎人の、か黒き咽喉から捻り出される声未満の音の連なりであり、客死 の後も郷里に赴きその自らの末を峻拒 し己が身の無事を叫ぶ唖の亡者の膚受之愬 であった。
つまりは空を震わす、物理としての波ではなく、心に忍び寄る空理としての音であった。それら一切合切、聞く者の心ならず全てを削り取る、愚鈍な駄馬すら一瞬たりとも耳にするのを忌避する音を、いっそ粛々と、夏の羽音を聞くかの如く彼女は独り 、聞いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
森閑。森の閑かさと書くこれは、元は深閑と、深き閑けさを表しそう書いた。
何の、澄ますがいい。畜生に劣るその耳にも、生ある者共の忙 しさと必死さが聞こえるだろう。頭垂れた巡礼の群を模す虫螻の足掻き、刃物を見咎め賤民を磔刑に処す処刑鳥の羽音、強姦者の如き目の口角に泡を浮かべた狂獣の唸り、腐臭放つ腸の底に稚児を宿した力無き贄の慟哭、そして魔を宿す妖の哄笑。それら一切を耳にして森閑との酔言をどうして吐けようか。
それでも森閑などと嘯くならばその者は余程の阿呆か、酔漢か、それとも聾 か。何れでも無いならばこの森中で、胸の虚に足を踏み入れた瘋癲 か。
「閑かだな。」
そして彼女は何れだろうか。墓というには憚る物が多すぎる、幼子がてんで好き勝手に粘土を捏ね繰り回したかのような、不恰好で苔生した石塊 の前に立つ彼女は。彼女にとっては森は森閑と、没くなった巫女と己自身を悼むかのように閑かであるのだ。
その墓は彼女の友人であった博麗の巫女が為、彼女自身が誂えた。博麗の巫女に墓所は無い。だから、これは彼女の個人的な友誼の証だ。その石塊―――墓は、民家の奥で女房が作物を漬ける際に丁度いい、というには少し不気味すぎる嫌いの在る趨きで、無縁仏にすら見えぬ有様でそれは彼女の性格か、故人との縁故が故か、しかしそれならば何故墓を、と彼女らの関係と為人を知らねば直角ほどにも首を傾げかねないくらい、怠慢で放縦過ぎる物であった。
「誓いなんて物は無いな、けども、私は勝手に誓ったんだ。」
墓を前に独り佇む彼女の装いは、喪服の如き黒だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
知識とはそれ自体に意味は無い。雑多な者共が乱雑に保持し、それらを寄せ集め、整理し、系統立て、それを必要とする者が手に入れてこそ意味を持つ。故にそれら浮遊物は水底漂う者共と同じく、何も無ければ唯朽ち行き堆積し、澱 と成り化石と化す。
忘れられた幻想科学を初めとする多種多様の知識/書物が集う其処は正に知識の積る海床だ。其処に坐すのは二人の魔女。一人は客人、一人は主人。供に人と手を取る人外だ。
二人は語る、他愛無き近々の、短観たる四方山話。博麗の継ぎ手、外来からの珍客、森に籠もった黒の魔女。迂遠で韜晦に満ちたその会話、其れは一つの儀礼を帯びる。此れは会話の十三階段、首を吊るには昇らねば。
そして、漸う至った話題の涯は互いに沈めし、魔導の紫海。互いが焦がれた嘗ての自身、その憧憬。語り、交わし、止揚して、止まらぬ終らぬ言葉の螺旋。
二人が繰りし言の葉は、其れは則ち、幻想世界の夢幻、現象世界の御伽噺、命に成し得る霊威霊妙。一個生命が行う奇跡/奇蹟/軌跡。魔造の核では掴ない、刹那にして永劫の、無始無終の無限瞬間、万世不易の回光返照、淵源 の開闢たるアルケの火。
頂に座す極彩極光、地殻に潜む無窮金剛、水面に揺れる幽玄月影。
届かず、仰げず、然して、脆 く。魄持つモノに許される、決して掴めぬ、極大恒星。ただ、仰ぐしか人には出来ず、人を超えてもまだ足りぬ、この世は等しく保存され、対称性は破れない。その閃光は孤高に在りて、仰臥 以外を許さない。
だがしかし、それがどうした、我らは超える。その道程が如何に峻険 で在ろうとも、其処に地割れが在ろうとも、魔道を翼と飛翔して、知の光芒を糸として、その全霊を以ってして、その天険 を踏破する。
故に、造る/作る/創るのだ。道なら見える。術なら見える。
無数の道程、渺茫 たる閃き。則ち、銀鍵/無限の螺旋/力の極点/形而変換/幻想世界のクォーク/非存在概念、これ等全て。
だが然し、それ等全て、求めた空理は未だ閾 を超えられぬ。
ならばこそと、甲斐のないと、二人息吹を吐き出して、語る囀る二人であれど姦しく。足りぬものは数あれど、骨子、魂、アストラルその悉くが薄皮一枚の閾に阻まれ、もはやアガルタにでも縋るかと、一つ自嘲が零れ落ち、その時一人の人間が姿を見せた。
それは昵懇 にしてはや長く、然し如何したものか森に籠もりて近々は、頓と姿を表さぬ、久しき人の魔女であった。
星辰が巡り、幾月も廻れば人は変わる。彼女も人であるが故に、片生 りな少女の頃の蛹から、孵化し羽ばたく見目麗しき女へと、しかしその無邪気さは些かも色褪せぬ、実に彼女らしいとそう云える、そんな変化を遂げていた。
主人たる魔女は声をかけ――しかし、奇妙に咽喉を止めた。
客人たる魔女は一瞥し――やにわ眉間に力を入れた。
その様を呵呵と愉快げに、それはもう愉快げに、人たる魔女は久闊を叙す。人外の二人は奇妙な物でも見たかのように、何かを秘めるように、そしてどこか感嘆するように言葉を返す。いまや人たる彼女は使用者ではなく探求者なのだと、そして恐らく彼女は閾の上に意図的に立っているのだと、二人は悟り、その道程を推し測る。
奇妙な遅滞が寸毫過り、微かな塵がやにわ鎮まり、人たる彼女が口を開く。教えてくれと、正に二人の議題その一端を、諮詢 に来たのだと、昔日と変わらぬ少女の如き笑顔でそう云った。その意や良しと、先に口を開いたのはどちらだったか。互いの友に先の語りを言って聞かせる。
特に興味を引いたのは極小の極点、阿頼耶 とも言えるその域の、事象の始まり、エーテルの媒介、超深奥に仰臥する、未現の/未知のその概念。恐怖、信仰、畏れ、気、霊子、字祷子 、思い、そして妖怪、其れ等全ての根幹にして根源、其れ等を象る無窮にして無謬の概念。極小と極大の涯、不可説を超えたその涯の涅槃に沈んだその最奥。円環の壺の構成因子、尾を食む蛇のその一鱗。空に坐する唯一無二。
則ち、――――幻想 である。
人たる魔女が去り、二人の魔女は一つの嘆息と一つの感嘆を溢 す。それは違えた道を賛えるものか、それは人としての強さを憂うものか。
位階には届いていただろう、そう心中で溢すのは主人たる魔女だ。ならば彼女の前にも死が現れたはず。
死を見つめ、生を携え、何時尽きぬとも識れぬ荊棘 の道を歩むこと。種族として至るとは其処から逃げるということだ。
死を殺し、生を踏み越え、無限の轍を引き釣りながら、ただ、虚空を歩み続ける。それが位階を超え種族として至ったものの宿命だ。
ならば位階を超え尚、種族を捨てぬのならば。その荊棘の世界で地に這い、泥を啜り死を凝視し続けることに成る。
長くはない、唯人ならば。もしもそれでも超えるのならば。
あるいは―――
友たるもう一人は先ほどから押し黙る。だがしかし、その心中は手に取るように理解できる。喝采しているのだ、礼賛しているのだ、彼女の目指す輝きが今其処に在ったのだから。
肝胆相照らした友人が一人去る。その事に、小さな痛痒と大きな快哉 を感じつつ、二人の魔女は二度の吐息を静かに漏らした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
魔の森、魔法の森、魔道の森。
遠く天竺国で畏れられ、殺害、死、それ等衆々の負の概念を備え、善なるものに対する悪意であると称されし魔羅から生まれたのが「魔」なる一語であるが、妖怪の山より見下ろす様の、波立て蠢くその躍動たるや、海と形容して何ら遜色る事のないこの樹海は、その実原生林が立ち並び、飢えた野生が谺 して、妖 百鬼が群潜み、踏み入るモノを問答無用で引釣り引裂き堕さんと、常の様からそんな様子で、それは生々しくも酸鼻であり、凄惨であり、腑肉の如き美しさは洵 、魔的としか形容し難く、その名を冠するのに些かの疑問も抱かせない。
そんな死と、怪異な命が我が世の春よと謳歌するその森で、見るが言い、自身が友と呼ぶ者の墓の上に腰掛ける、あの傍若無人な怪女の姿を、幼き頃から変わらぬ奔放と言うには言葉が些か以上に足りぬその振る舞い、老いて二度 び稚児に成るとも言うが、彼女は嘗てより転ずることなく、たとえ見目が変わろうと、その心魂は未だ不変、ただ真っ直ぐと駆け抜ける、人間らしいと言うには余りある人がましさだった。
もしも、彼女の友が言の葉を紡げば何と言うか、上に座るを憤るか、その老骨でこの森での振舞いに冷や水と笑いながらも安堵をするか、兎にも角にも、奥津城 からでも文句を溢すかと、そんな微笑ましい、そして儚き一齣 を思いながら、彼女は苦笑する。
墓に座り、昔日を思う彼女の姿は一種物悲しく、憐憫を抱かなくもない。
しかしここは先にも述べた魔法の森/死の森、常人ならば疾うに妖に喰われるこの場所でそんな彼女はやはりどこか歪 で異常で、そして余りにも自然で、自若 で、普 く通る様だった。
そも彼女の生は異端であった。
始まりこそはこの地の常人の如く、人の里であったが、やがて行き着いたのは人外楽園。
妖怪変化が友であり、妖魔怪異が隣人で、唯一同種が博麗、異端の、よくもまあ黄泉路に迷わなかったとその足跡を思わずには居られない。
夜毎に軋む家鳴りは潜んだ悪意やも知れぬ、湯浴みに感じる幻視線は果たして誠に幻なるや、音に聞こえる雨音は妖の松涛 であるを否むを難く、夜道を照らす月光は我が身を救う糸には成らず、更には己自身が誘蛾の灯と成り果てる。
その暗中行路、唯只管 と愚直に愚直に僅かばかりの同種と供に、駆け抜けたのがはて、何時の事やらと、それ程までには年月を重ねた彼女はしかし、それでも尚、常の人種と在り続けたその狷介 さたるや、石塊穿つ水滴すらも人の生では時が足らぬと、三尺 の童子 の頃より重ねるならば、衆人であれば破瓜で事足り若干までにはもう保たぬ、ましてや而立 を超えて不惑 を過ぎて、尚知命 をも踏破するとなればと、閉口以外の道が残されていようかとの塩梅で、なればこそ、その不相応な擦 れの無さこそ肯 んずるしか他は無く、未だ角張る原石の様な珠であると、矛盾諸共飲み込んだ、そんな形容が相応しい。
更には彼女は至った者だ。
魔道の世界の頂にして開闢点。魔力を帯びた百花繚乱百獣百頭、その楽園の深淵に、我が身を沈めし少女はやがて、幻魔外法のその掩蓋 、其処に到りて、その刹那、己が自身を魔と変ず、極の資格を遂に得た。
魔を踏み越えた人の子は、それでもやはり狷介固陋 。
呆れるほどの頑強さ、驚嘆すべきその心胆、愚者の極みに至った逸脱者。異体で異形で異様で異質な尋常ならざる人道の踏破者は、それでも尚、其れは矜持か、沽券か自負か、語るのだ。
その様か、その魄か、その身か。只々彼女は斯く語る。
「普通だぜ。」
確かにそうだ、その様は確かに過 たず、普通で不変で尋常で、しかしそれでも、だがしかし、その轍 を、その曳濤 を越えて尚、この魔の森/死の森で、嘗てと変わらず独り宣 う、貴様は果たして――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
長く生きると柵 が増える。
頚木 の様に鎖の様に、己を掴んで放さない。
引き千切り、破壊して、己一つを身に抱いて、只々奔 れば良いものを、然し忸怩と痛むのだ、己の魄が心胆が。人から外れ、人に沈み、わが身半身に憎悪して、然し半身は許容する。
悩ましき哉、彼の者よ。人に非ずば良かったものを、常人なれば心弛 びて平 らかなるを。
半身は幻、半身は現。半人とは斯様な労苦を背負うものか。
然し、否。
外界なれば左様であろう。だが然し、ここは幻想、幻影衆生の怪異が呻く、条理破綻の末世界。なれば彼の者は現世の条理に縛られぬ。
無論頚木はあるだろう。破綻はしても条理は条理、鏡像たるこの郷も、写し重ねて彼らを覆う。
気には病まぬさ、だが然し、互いに手と手を取り合った、異端の園の人外風情も、己が轍を省みて、唯ひと時の嘆息を、隠れ溢すも偶さかに。
却説、人は人たるを知り、人外は人外たるを知る。
故、帰結として手を取り合えど心は汲めぬ。雑貨の店主の心持、人も怪異も理解は出来ぬ。
―――等々徒然、斯々然々、彼是云々 。
器物、機物、奇物。
雑多雑貨の占領地、中に座るは唯一人。虚空で心を遊ばせた、半人半妖、痩身長躯の眼鏡をかけた棚主だ。
心は搖蕩 い、思考は踊る、無為に無策に無造作に、堂々巡りのトートロジー、空に波紋を広げたら、さてはて己は何処に飛ぶ。
無念無思慮のその彼の、酔眼やにわに定まった。
激烈な光に照らされて、表はその目を焼き焦がす。
灯りの足りぬ舗中は、天に背を向け暗きに染まる。
彼を現世と戻すのは戸口に立った客影二つ。暗明境に立つ客は真 正しく影二つ。
然して、店主の眼は像を編み、持ちえし能を行使する。
正しく定めたその像は、幻想世界に降立った、神とその巫女、現人神。
解して店主は思索を巡す。香霖堂たる、この店は、現世幻想総 ゆる物を混ぜ込んだ、正に坩堝の有様で、さて、此度は何の用件かと首を傾げば想起する。二人の客は現世からの来訪者、さては其方が目当てかと、店主は心中言葉を溢した。
戸外で野鳥が一声上げて、余韻の残滓が立ち消えて、言の葉紡いだその顧客。
己の所見、其れが正鵠射たものと、理解したのは、客人の、違わぬ言葉のそのためだ。
迎えて掛けたは、歓待含んだ阿諛 に阿附 、反った言葉は苦笑と無用。
ならばと一つ、胸襟 開いて出向えば、やはり苦笑がまた一つ。
店主に一言、自身の恣意を伝えれば、これは店主も苦笑い。
物色始める客人に、己の役を放棄して、さて如何したものかと、再び無私に帰るかと、無聊を覚えて天を仰いだその時に、空飛ぶ一つの黒点を、見留めた店主は溜息一つ。
溜息一つが溶け切る前に、宙舞う一つの黒点は、果たして大地に降立った。
やはりと見留めたその黒は、人に混ざりて過ごした時分、その頃からの誼みを交わした逐電 娘。一人巣立ったその後も、偶の時には訪れる、人の身持った魔女だった。
久闊侘びたその後は、特に用もなかったか、二人歓語と花咲かす。二人の話柄は自然と巫女へ、消えた先代、新たな博麗、代の変わったその事に。
ある日突然消えた巫女、隙間の怪異が連れた巫女。嘗ての時と、同じであると店主は語る。
唐突と消え、唐突と現れる、幻想の、博麗の、巫女。
やがてその名は喪われ、次代の名のみが残される。
この世の誰もが知らぬ律。
あれや、是也と語りつつ、やがて店主が見留めたは、語る魔女のその瞳。
熾火 が、燃える 。
咄嗟言葉の詰まりし店主、声を掛けたは先の客。
おやと、言葉を交わす魔女。
おやと、言葉を返す神に風祝。
神は店主に向けて不平を一つ。古い旧い糟糠 か。
香霖堂のその品は、渡来の外様の現し世の、忘れて迷って薄まった、此所に堕ちたる拾い物。
ならば外と同様の、利便の器物があるやもと、抱いて思いて来たものの、其れ等は総じて古過ぎた。
堪らないのはその店主。唯の拾いし物故に、不平の出るのは詮方無し。
然してそれをその侭告げるのは、何か癪だと、矜持が一つ。煙に巻こうと、紫煙噴く、店主と抗う一柱。
古きを念って想起せよ、その時心は違い無く、正しく過去へと飛び立てる。心と思いは過去にも渡れば未来も超える。我らの意は時間などには縛られぬ。
侃々、諤々、出るわ出るわ店主の口から与太に妄誕 、箆棒 が。やいやいやと喧々と。
囃す魔女に諌める御供、場の溌剌は好ましく、彼ら彼女ら言葉は舞う。
半妖一匹、神一柱、現人神の一人とそして、熾火を湛えた人たる魔女が唯独り 。
人の思いは可逆で自由。
思い/畏れ/信仰は頚木も鎖も引き千切る。時も世界も境界も、砕いて壊して踏み潰す。
結果起こるは因果の逆転、不可逆変化の可逆性。
常住坐臥の不態物/継続性独立変化 にしてラウダトレス を殺す偏在幻想。流れぬ、落ちぬ高次の力。
超現実たる幻想は総ゆる全てと独立する。時も、境 も、空さえも。
時空の流れに搖蕩うは、則ち不可避必然、必至の末路。
独立世界の超幻想、枷を嵌める例外は、産みの親たる人のみで――――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
溢れる緑は何処か油性の彩の具めいて、気狂いが勝手気儘に色具をぶちまけた画布を指し、己が芸術だと声高に主張する様を想起させ、地に流れる黄土の色は吐瀉物の様で、赤色粘土は鉄錆びた臭気を漂わし、黒に翳った木色は唯光のみを希求して、乳白色のその靄は、唯一吸いで常人ならばその魄の尾を貪り尽くす。
その様は正に魔の森との形容が相応しく、暗く湿った魔性の香気が靄になり、光を閉ざして尋常なる植生を妨げる。
そして、その地を奔る獣がある。地に充ち足る黄土と赤は脂肪と血肉、母の胎を食い破り、尚腹が満たんとす、黒色の犬だ。
暗い幽い、極彩色の暗澹は、根源たる恐怖と畏怖、生持つモノ等のその本能を刺激する。
その只中、己を包みし魔性の彩を我が身を孕む母の如しと感じ入り、さてその母も如何に己が舌を抜けたものかと思い出す、正に畜生獣たる妖犬は吐瀉を踏み越え血溜まり割って、途上に影する哀れな痩木表皮には、光に代えて己が犬歯を突き立てて、気狂う緑の氾濫を、引き裂き引き割り潜り抜け、微かな臭気にひた走る。
爬獣 の如き頭部、太く歪な曲線描く注射針の鋭舌、全身から脳漿の如き粘液を垂れ流し、狂い悶える黒妖は、その実未だ嬰児の域から抜け出せぬ。
故に喰らう、微かに漂う極上臭気、魔を孕んだ人の匂い。喰らう喰らうと思考の全てが叫び出し、風すら越えて疾駆する。
溢れる緑を掻き分けて、やがて見分けた黒の魔女。石の上に腰掛けて、どうやら心は空に飛び、虚を露したその姿。
襲って喰らって貪って、腑を掻き分けて漿を散らして、心の臓に己が鋭舌突き立てて、啜ってくれよう枯れるまで。黒獣に浮かんだ思考はそれのみで、茂みを散らして飛び掛る。
魔女は以前そのままで、魔獣は心中涎を啜る。魔女と黒犬、両者の間合いが寸部刻みに消えて行く。
一跳の間、一足の間、一指の間。もはや躱せぬ、今見留めてももう遅い。
そして顎が開かれて、ここに自然の連鎖は完遂する。
瞬間、柘榴が炸けて飛び散った。
音に聞こえし猟犬の、開いた顎は閉じられず、その命脈は今切れた。
「相変わらずだな、この森も。」
苦笑が一つ。
――――だけど、だけども、だけれども、
なんて、閑か――――
そう心中で溢す魔女。柘榴と化した角度の魔犬、この光景を満ても尚、そう宣もうたその異態。
ああ、やはり、この女は狂している。
そんな付箋を貼り付けるのは容易いが、自体は少し違えている。
欲に駆られてその本能を埋めた犬。その光景に良く似てる。魔女を埋めるは無数の唯一。それは音だ。
絶え間無き積雪の微細な音の只中で、家鳴りは息を潜めて隠れ消え、無限蔵書の図書の間に濫れ零れた塵海に、蠧魚 は溺れて波間に消えて、死が溢れたる戦場で、友も親も尊人も、等しく土塊肉袋。そして、死音に苛む唯人は死の森すらも己が庭。
獣、道士、牛頭人足揃えて二寸、以てこれ等を三尸と呼ぶは道教の因習であるが、果たしてこれを魔道に組んだは誰なのか。三尸は天に悪を告げると伝わるが、此方の三尸は人に死を告げるのだ。
故潰す、眼前で自身の死を囁かれ、その魂喰らう悪虫三尸。至りし者には見えるのだ。魔道の掩蓋、其処に至れば自ずと見える。
ならばどうする、寿命諸共その虫を、自身の果てを捨てるのだ。何故なら虫は自身に憑き、徒只管と死を垂れ流す。起床も、食事も、探求も、探索も散策も語らいも友誼も就寝も、昼夜日中終日常時。空理の音が歪を上げて、条理の果てが底を見せ、世界を死滅に至らしめる。もう止めてくれ沢山だ。
これ等を捨てぬ愚鈍な輩など何処に居る。否、愚鈍は此所に在る。
墓に腰掛け、口唇上げる。尋常たる己を矜る、尋常ならざる魔女が独り。
彼女は未だに人なのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
博麗神社。
幻想にありて現を見やる、特異故に特別な、そんな神祠 。信仰は無く、だけども畏れ畏敬の或るそんな宮。
「あら、また来たの」
「なんだよ、来ちゃ悪いのか?」
「別に、素敵なお賽銭なら其処よ。」
何時ものやり取り、何時もの会話。其処に立つは在りし日の巫女、在りし日の魔女。供に胸張り人と言う、そんな二人だ。
だから、この会話もその延長。唯いつも通りに、普段通りに交される、そんな言葉。
「なあ、何でこの神社って外に向いてんだ?」
魔女が見やるは太陽背負った朱鳥居。
博麗神社は下界を覗く。幻想の端に立ち、幻想に背を向けて、それでも尚、幻想の楔たる博麗神社。その特異。
「さあ、昔からそうだったし、気にしたこと無かったわ。
ただ、この神社って結界の境界にあるのよね、それが関係しているのかもね。」
巫女は知らぬ。知っても知らぬ。あり方故に。
幻想護る大結界、その境たる博麗神社。失われしその役目、果されるのははて、何時か。
鳥居が背負った天日は、時が移ろい傾いて、何時しか担うは本殿に。
そして始まる逢魔が時。寄って集まる妖怪変化。博麗巫女の百鬼夜行。
新たな規範、新たな決闘、深く奥地に潜みし妖魔も釣られ寄せられ騒めき立てる。
人の信仰は集まらぬ、妖の信仰も集まらぬ。
しかし、より重く、萃まり集うは友誼と誼み。大なる者の友誼は重く、小なる者も誼みは深い。同時集うは感嘆賞嘆。
萃まり集って聚合 す、根源幻想、幻想概念。
だけども巫女が背負いしその能は、それら一切振り払う。
孤高に咲く、一輪の花。
只、その思いを受け止め身に纏い、しかし魄には沁み込まぬ。
ふらりふらり、掻き分けて、一人佇み無想/無双/夢想。
その様を見て魔女は一人思うのだ。立たねば成らぬ、その隣へと。
何時しか其れは涯となり、終に果たすは到達変化。違和を知りしはその時分。
はて何時からだこの違和は、音が聞こえる軋みし音が。ずれた歯車、外れた音階、軋んだ音ははて、なんだ?
だが、しかし、己は誓ったあの時に。供に並ぶ。
ならばと思い巡りては、捜し求めたその鍵を。その時迄はと止まって、さて幾年音と在る。
巫女と歩いた月日を超えて、気付けば己は死と供に。叫びは上げぬ、苦悶も泄らさぬ、違和の結びが解けるまでは今少し、いいや未だ。
そして果して辿り着くのは、今や先代、巫女の墓。
さて少し、あと少しと彼女は未だ独り在る。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
日は陰り、森は愈々闇が訪れ、魑魅魍魎が動き出す。天はこの日もまた巡り、空は魑魅の者共の、腸色彩る土留の色で、彩も色も総ゆる全てが模糊の薄闇に覆われた。
それはこの地を覆う粘つく鉄錆も、染みた嘔吐も、気狂い緑も同様で、しかし盛りは此れからなのだ。
斜陽を揺籃とし、凋落を爛熟とし、再起を黄昏とする凡そ天に叛いた天の邪鬼。奴等の時間がやって来る。
だがしかし、魔女はやはり唯独り。何かを待つように、何かを探すように。
「答えは見つけた?」
「ああ勿論。
見つけたさ」
それは唐突な問い掛けで、その場が暗き森の只中である事を差引いても、尋常なら叫びの一つ上げても奇異ではなく、即ち其れほどにはその言葉の卒爾たるや、山に没む日輪の瞬刻返す夕映えの、その儚き光と比しても尚薄く、須臾の合間に陰潜む、無理に挿んだ有理の如き間隙をその狭間 こそが我が領分と、笑い潜める怪異でなくば察すことなど不可能で、故にこそ声の主人は推し量れる。
一字に割けた白絹か、はたまた逃げ水負った陽炎か、書割の森を押し広げ、割き開かれた空の釁 。その只中から韻く声は、その起りからして妖しく奇怪で正しく妖魔変幻と言わざるを得ぬが、何より妖しきはその艶声。これほどの異体を前にして、それでも尚耳中に韻き残響し、耳奥で谺が鳴り止まぬ。その不斉の滅裂は実に胡散で妖 がましい。
「では、聞きましょう」
果たして姿を見せたは美女だった。その者こそが幻魔妖鬼の大賢者。モノの境と閾を越えて、超え過ぎたが故それらを握る、単一孤高の一人の妖魔。その心中を覗くは能わず、起源も由縁も誰も知らぬ。唯幾らかの了解は、巨大な力と至大の知識、以って束ねて賢者と通る。故に愚問も愚答も流されて、自身の掴んだ真を語れと魔女に告ぐ。
受けて返すは人の魔女。満ちて溢れた言の葉は、その身に風雪を刻んでも、なお退えぬ張を残した嫗 の言の葉。
しかし不思議と響きは残り、繰返す毎嘗ての面影が蘇り、気付けば其れは何時かの時分、巫女と並んだ若き魔女と軌を一する。
「まず前提として人も妖怪も抱く思いは全て同質だ。
深さとか重さとか、愛しいとか憎いとか、その桁や中身を言っているんじゃない。
平たく言えば、原材料が同じなんだ。
魔力、霊力、妖力、神力。これも同じ原材料だ。
乱暴に言えば、すべての存在は魔であり、人であり、妖怪であり、神なんだ。
仮に言うならそれは幻想 」
何か了解が合ったのか、かつて交わした役でも在るか、倏忽たる登場に悠然自若と臆面失く。無論、役など何も無く、心中刻んだ誓いが一つ。帰結果たせば支障なく、賢者を前に唯語る。
魔女の言葉は滾々 と湧く泉の如く、実に場違いな涼やかさと供に、間など知らぬ存ぜぬと、言外どころか声音で語る。
果たして、この言葉は真実先の問いに答えたとものだと言えるのか。
言えぬであろう。しかし、何事にも順序というものがある。
大海を満たすのは儚く細やかな細流 であり、掌に乗る矮小な芥子粒が地を覆う樹海と成る。況 や、空に漂う微細塵を因として、星光食らう暗黒虚空を想起するなど委細誰もが承知せぬ。右の足を踏み込むならば、左の足も踏み込むべし。
故に黙せ、只ひと時を甘受して、魔女の弁に酔いしれろ。見れば賢者は何も語らず、ただ一つの微苦笑を漏らす。
その含意、根源が同じであるのなら、その性質も全て同質、かつてどこぞの店主が語ったであろう与太はその実ひどくその枢要を握っていた。
「だから、搖蕩う。
数多幻想渦巻く郷は、幻想なき世と供には在れない。
ここはまるで漂流する孤島だ。
文字通り、搖蕩う幻想の郷。それがここだ」
ならばこそ疑問が生じる。
時に搖蕩う夢幻の泡沫。収束望まぬ無限量子。時間の縛鎖に囚れず、其れは即ち孤独で自由な無間収監。
だが果たして、この泡沫は現と沿えずに孤独と在るか。
否である。少なくともそうは変わらぬ歩幅と歩調で、今この時も近しい歩みを続けている。
「幻想を産むのは生命だ。
幻想が傅 くのは生命だ。
幻想を定めたのは生命だ。
それはそうあるように、そうあれかし ってな。
だからこそ、此処を外から縛ってもらわなきゃならない。
人に、命に、肉を持った生命に」
かつて紅魔の館に人が来た。
外の郷より訪れし、境界越えた観測者。外の生まれし異能の徒。
そうして漸く幻想郷は収束し、流れの中に碇を下ろす。
「だけど外だけじゃあ足りんよなあ、ちゃんと内にも用意しないと。
其れが博麗だ。
何処とも知れん馬の骨には任せられん。
天秤を管理するなら、数を増やすより質を上げた方がより易い」
こうして形創られた幻想の統理 。
しかし歪も又生まれる。
後継者の不在。それを発さぬ為には如何様にすべきか。
決まっている。単純で分かりやすく、営繕不要。
創ればよいのだ 。
「博麗の巫女は特別な存在だ。
どう在ろうとこれは変わらない。
向けられる思いも桁が違う。
天秤の絶対者 、誰も彼もが目を外らそうとして外らせない。
故に生まれる。
人から生まれる幻想が産みだした、幻想から生まれた人間が」
何処から其れは産まれ出でる?
決まっている、人の意を身に受け、妖の思いを心に受ける。
幻想の郷に数多蔓延 る生命を、余すことなく受けるには。
郷そのものを覆えばよい 。
「言いえて妙だな。博麗大結界。
どちらが先とは聞かないよ。
本当はいつから、何てことも聞かないさ。
兎も角、博麗は人としてある人外だ 。
最も妖怪に近い人、肉を持たない幻想人」
語る魔女はどこか遠く、聞く妖は淡く笑む。
幻想から産まれたならば、帰結としては其処に肉は宿らない。幻想収斂による個体獲得。齎す因果はやはり易い。
幻想郷が搖蕩って、しかしそれでも確固を保つはその巨大。矮小微小な博麗ならば。
「博麗の巫女は、何れ搖蕩う運命だ」
そして博麗は新生し、幻想郷は何時ぞやぶりかの産声上げる。
数多の幻想を貪って、喰らい尽くして収縮した、超高密の微細塵。果ては自身も併呑し、輻輳 起こす飢餓虚構。遂にはその領分を曝 さんと、時の縛鎖と次元の檻をも砕いて潰す。
千々に解れた時間と次元。飲み込み続けて穴と開けたる特異の極へと巫女は落ちる。
「そう、時間と空間の境に落ちる。
其処は何処だ ?
……なあ、お前は何だった ?」
不意に問いは投げられる。響いた声は決して大きなものでなく、だがそれは異様な程に普く通る。
森の瘴気を素通しし、空舞う無量の幻素を貫いて、全てを孕んだ幻想結界、幻想郷の掩蓋に響き渡れと通される。
そして、俄に大結界は身動 ぎ起す。幻想郷を一握する大結界の、脈打つまでの生々しさ。人は気付かぬ、怪異も識らぬ気付くは滄海 の一滴、極々限られた人妖のみ。
それはこの場の両者のみ、その身一つの大妖と、その身独りの人たる魔女 。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
在りし日、魔女が人であった頃、幻想郷の涯の地で零れ落ちた一つの言葉。
「ああ、そうか」
昔日、彼女が見たのは酷く白けて褪せきった 、己の知らない博麗神社。
朱鳥居、拝殿、本殿、分社に倉庫。今この瞬間から振り返り、自身の轍を眺めても、委細は寸毫たりとも変化は無く、静かに佇むその神祠。
そも、己はつい昨日も目には留めた。箒に跨がり空を行く、そんな気侭な逍遥 道中、神祠の上を行ったのだ。轍に残った確かな形、違えることはありえない。
ありえぬ筈の変容は触れた大気から伝わった。
白けている 。空々と呆けた様に、褪せて憔 れた骨壷の無い伽藍の如く。
咄嗟己の眼の虚ろなるを疑うを否めぬが、奈落壺中の心奥からの、響く喚呼が面 を叩く。
耳目は明瞭、鼻孔は快活、口舌は淀み無く、運指は虚空に真を掴み、意識は透徹、つまりは末那 を通した阿頼耶の呼号は無視できぬ。
ならばそう、その形は変わらぬのだ。故、帰納するのは唯二つ。
その一つ、己の変事は自覚が持てぬが、我が透徹は自明の如く。
一先ず保留と脇に除け、それより何より明白地 、様が変じて形は同じ、ならば中身が異なると、それが阿頼耶が叫んだ魄の意思。
否、其は変容とは言い難し、神祠は伽藍と化した のだ。
博麗の巫女が住む博麗神社。
そこに巫女は居なかった。
そして彼女は看取した。博麗巫女の消失を。総ゆる思考を置き去って、枝葉の思惟を鑑みず、その結論へと飛翔した。
なぜなら己の第一声は何だった?
疑問でなく、納得で、それは這い出た一つの確信。余りに容易く潜み込み、ふと気が付けば自己の内奥に鎮座して、その痕跡も雲煙模糊、ただ魂に癒着した。今の今迄、焦点結ばず勘付かず、自然と居付いたその了解。今この時に転 び出た。
同時、染み出すいつかの心。そこに銘んだ一方的なその契り。己は並ぶと誓ったと。
彼女の霧消と己の意思。
二つ並べて風通し、火の粉がちらりと顔見せた。
「だから―――」
熾火が燃えた 。
並ぶのだ、故、見つけるのだ。
己は彼女の手を取らねばならぬ。多くの人妖に囲まれて、一人であった。
世界の喧騒と畝 りにあって、静かであった。
地を延い叫ぶ人妖を、常に空から眺めていた。
その魂に嫉妬した。天座す孤高の極魂と、地舐める衆愚の雑魂と。
探し、高めて上り詰め、解き明かして届かせる。たった一言。留めはせぬ、人の運命は違えはせぬ。
だけどせめて、最後に、甲斐の無い ―――
此処が分水嶺、此処が境界。
掩蓋を踏破するはこの帰結。
その程度の些事、雑魂らしい無価値な誓い。安い矜持と愚かな思想を携えて、この時彼女は踏み越えた 。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
幻想を覆う博麗大結界、世界を分かつ境界線 。
「お前は其れだ 」
内と外との境界線、隔てた世界の領土線。深淵を覗く物は深淵にも覗かれる。外の世界を観測すれば外は内へと逆転し、外の世界に踏み入れる。隙間を覗かば 、汝隙間へ姿を変ず 。
八雲紫は境界だ 。
「正解」
やにわ溢れた声色は、喝采と礼賛に満ちていた。
嘆息と感嘆、僅かな羞恥と溢れんばかりの顕彰 が滲み出る。
見縊っていた、軽く見ていた。その事実に深い謝罪を。そして感謝を。
終に貴女は此処まで来た。
孤高の御座、世界の揺籃、偉大な母 、庇護する巨鳥 、蜜壷抱えた絶対者 。
子よ、良くぞ此処まで這い上がった。
「博麗大結界、結界。
即ち境界 、答えは最初からそこにあったんだな。
……なあ、冬眠は終ったか?」
紛れも無い賞賛を眇め見て、それでも魔女は自然と問うた。
これよりは、儀式。予定調和の回答採点。
眠りによって成されるは、自己の同一、主我の回帰。双生児存在による拒絶反応の緩和抑制。
「ええ 、ええ 、ええ 。
ええ 、勿論 。
貴女がそこに至ったならば、私も決して無碍にはしない。
おめでとう、人道を踏破し、非人道を破却して、魔導も闇も神代さえも跳ね除けて。
素晴らしい。叙説無用の唯一無二。
それでも貴女は人のまま。
人外としてある人 なのね」
それは有り得ぬ矛盾である。人道を超え、なお人であり続ける矛盾。
人としてあるべきを希求し続け、激甚な自負を抱えた超人 性。
たった独りで立ち続け、死を凝視続けた自立性。
何れも筆舌に尽くし難く、その根底すら、愚昧で蒙昧。
安く下らぬ、余人には決して解せぬ一つの誓い。
ああ確かに、その一言を忘れては、人は後悔するだろう。せめてもの、楔だ。先の為の縁 だ。
だがしかし、たったその程度 だ。常人ならば年月と供に洗い流す些細な事。
唯それだけを忘れぬよう、残り全ての生涯かけて、追って駆けた。それが普通と、普く通る道理だと。その道を征くものは誰も居ない。前に広がるは無明の荒野、振り返ればかつての自身が立っている。
故に独り 。
そう在った 。
「改めて、おめでとう。
独りじゃないわ 。」
そして続いたその声は、
―――久しぶり、魔理沙 ―――
そして、返したその声は、
「ああ、久しぶり、霊夢 。
そして―――」
嗄れた、枯れ木のような、老女の声。
そして、積年の、唯それだけの為に生きた誓い。
捩 れる咽喉。
今しがた迄明朗に、発され続けたその声は、正に消える蝋燭の回光返照。
擦れ声は風に乗り、蹂躙されても這いずって、主人の意思を届かせる。
唯、それだけを。
じゃないとなあ、甲斐が、無いじゃ、ないか……
「さようなら 、霊夢 」
やっと届いたその声は、唯それだけの常套句。
別れを告げる結目 の言葉。
遥か遠くに置き去った、誼みと交わす最後の一句。
「ええ、さようなら 。
そして、お休み 魔理沙。」
魔女では無い。
人でも無い。
唯独りの霧雨魔理沙。
友に告げた万感篭ったその声で、彼女の生涯は此処で閉じる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼女は眠る。
森閑としたその場所で。
自分自身で誂えた、魔理沙自身の友誼の証。
不恰好で苔生した、その石塊を枕とし、たった一人 でこの場所で。
end
だがその音は、屠殺場で絞め殺される畜生の呻き、髄の轢みであり、餓鬼道に堕ちたが如くの有様の、寸毫の後に死に到らしむ咎人の、か黒き咽喉から捻り出される声未満の音の連なりであり、
つまりは空を震わす、物理としての波ではなく、心に忍び寄る空理としての音であった。それら一切合切、聞く者の心ならず全てを削り取る、愚鈍な駄馬すら一瞬たりとも耳にするのを忌避する音を、いっそ粛々と、夏の羽音を聞くかの如く彼女は
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
森閑。森の閑かさと書くこれは、元は深閑と、深き閑けさを表しそう書いた。
何の、澄ますがいい。畜生に劣るその耳にも、生ある者共の
それでも森閑などと嘯くならばその者は余程の阿呆か、酔漢か、それとも
「閑かだな。」
そして彼女は何れだろうか。墓というには憚る物が多すぎる、幼子がてんで好き勝手に粘土を捏ね繰り回したかのような、不恰好で苔生した
その墓は彼女の友人であった博麗の巫女が為、彼女自身が誂えた。博麗の巫女に墓所は無い。だから、これは彼女の個人的な友誼の証だ。その石塊―――墓は、民家の奥で女房が作物を漬ける際に丁度いい、というには少し不気味すぎる嫌いの在る趨きで、無縁仏にすら見えぬ有様でそれは彼女の性格か、故人との縁故が故か、しかしそれならば何故墓を、と彼女らの関係と為人を知らねば直角ほどにも首を傾げかねないくらい、怠慢で放縦過ぎる物であった。
「誓いなんて物は無いな、けども、私は勝手に誓ったんだ。」
墓を前に独り佇む彼女の装いは、喪服の如き黒だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
知識とはそれ自体に意味は無い。雑多な者共が乱雑に保持し、それらを寄せ集め、整理し、系統立て、それを必要とする者が手に入れてこそ意味を持つ。故にそれら浮遊物は水底漂う者共と同じく、何も無ければ唯朽ち行き堆積し、
忘れられた幻想科学を初めとする多種多様の知識/書物が集う其処は正に知識の積る海床だ。其処に坐すのは二人の魔女。一人は客人、一人は主人。供に人と手を取る人外だ。
二人は語る、他愛無き近々の、短観たる四方山話。博麗の継ぎ手、外来からの珍客、森に籠もった黒の魔女。迂遠で韜晦に満ちたその会話、其れは一つの儀礼を帯びる。此れは会話の十三階段、首を吊るには昇らねば。
そして、漸う至った話題の涯は互いに沈めし、魔導の紫海。互いが焦がれた嘗ての自身、その憧憬。語り、交わし、止揚して、止まらぬ終らぬ言葉の螺旋。
二人が繰りし言の葉は、其れは則ち、幻想世界の夢幻、現象世界の御伽噺、命に成し得る霊威霊妙。一個生命が行う奇跡/奇蹟/軌跡。魔造の核では掴ない、刹那にして永劫の、無始無終の無限瞬間、万世不易の回光返照、
頂に座す極彩極光、地殻に潜む無窮金剛、水面に揺れる幽玄月影。
届かず、仰げず、然して、
だがしかし、それがどうした、我らは超える。その道程が如何に
故に、造る/作る/創るのだ。道なら見える。術なら見える。
無数の道程、
だが然し、それ等全て、求めた空理は未だ
ならばこそと、甲斐のないと、二人息吹を吐き出して、語る囀る二人であれど姦しく。足りぬものは数あれど、骨子、魂、アストラルその悉くが薄皮一枚の閾に阻まれ、もはやアガルタにでも縋るかと、一つ自嘲が零れ落ち、その時一人の人間が姿を見せた。
それは
星辰が巡り、幾月も廻れば人は変わる。彼女も人であるが故に、
主人たる魔女は声をかけ――しかし、奇妙に咽喉を止めた。
客人たる魔女は一瞥し――やにわ眉間に力を入れた。
その様を呵呵と愉快げに、それはもう愉快げに、人たる魔女は久闊を叙す。人外の二人は奇妙な物でも見たかのように、何かを秘めるように、そしてどこか感嘆するように言葉を返す。いまや人たる彼女は使用者ではなく探求者なのだと、そして恐らく彼女は閾の上に意図的に立っているのだと、二人は悟り、その道程を推し測る。
奇妙な遅滞が寸毫過り、微かな塵がやにわ鎮まり、人たる彼女が口を開く。教えてくれと、正に二人の議題その一端を、
特に興味を引いたのは極小の極点、
則ち、――――
人たる魔女が去り、二人の魔女は一つの嘆息と一つの感嘆を
位階には届いていただろう、そう心中で溢すのは主人たる魔女だ。ならば彼女の前にも死が現れたはず。
死を見つめ、生を携え、何時尽きぬとも識れぬ
死を殺し、生を踏み越え、無限の轍を引き釣りながら、ただ、虚空を歩み続ける。それが位階を超え種族として至ったものの宿命だ。
ならば位階を超え尚、種族を捨てぬのならば。その荊棘の世界で地に這い、泥を啜り死を凝視し続けることに成る。
長くはない、唯人ならば。もしもそれでも超えるのならば。
あるいは―――
友たるもう一人は先ほどから押し黙る。だがしかし、その心中は手に取るように理解できる。喝采しているのだ、礼賛しているのだ、彼女の目指す輝きが今其処に在ったのだから。
肝胆相照らした友人が一人去る。その事に、小さな痛痒と大きな
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
魔の森、魔法の森、魔道の森。
遠く天竺国で畏れられ、殺害、死、それ等衆々の負の概念を備え、善なるものに対する悪意であると称されし魔羅から生まれたのが「魔」なる一語であるが、妖怪の山より見下ろす様の、波立て蠢くその躍動たるや、海と形容して何ら遜色る事のないこの樹海は、その実原生林が立ち並び、飢えた野生が
そんな死と、怪異な命が我が世の春よと謳歌するその森で、見るが言い、自身が友と呼ぶ者の墓の上に腰掛ける、あの傍若無人な怪女の姿を、幼き頃から変わらぬ奔放と言うには言葉が些か以上に足りぬその振る舞い、老いて
もしも、彼女の友が言の葉を紡げば何と言うか、上に座るを憤るか、その老骨でこの森での振舞いに冷や水と笑いながらも安堵をするか、兎にも角にも、
墓に座り、昔日を思う彼女の姿は一種物悲しく、憐憫を抱かなくもない。
しかしここは先にも述べた魔法の森/死の森、常人ならば疾うに妖に喰われるこの場所でそんな彼女はやはりどこか
そも彼女の生は異端であった。
始まりこそはこの地の常人の如く、人の里であったが、やがて行き着いたのは人外楽園。
妖怪変化が友であり、妖魔怪異が隣人で、唯一同種が博麗、異端の、よくもまあ黄泉路に迷わなかったとその足跡を思わずには居られない。
夜毎に軋む家鳴りは潜んだ悪意やも知れぬ、湯浴みに感じる幻視線は果たして誠に幻なるや、音に聞こえる雨音は妖の
その暗中行路、唯
更には彼女は至った者だ。
魔道の世界の頂にして開闢点。魔力を帯びた百花繚乱百獣百頭、その楽園の深淵に、我が身を沈めし少女はやがて、幻魔外法のその
魔を踏み越えた人の子は、それでもやはり
呆れるほどの頑強さ、驚嘆すべきその心胆、愚者の極みに至った逸脱者。異体で異形で異様で異質な尋常ならざる人道の踏破者は、それでも尚、其れは矜持か、沽券か自負か、語るのだ。
その様か、その魄か、その身か。只々彼女は斯く語る。
「普通だぜ。」
確かにそうだ、その様は確かに
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
長く生きると
引き千切り、破壊して、己一つを身に抱いて、只々
悩ましき哉、彼の者よ。人に非ずば良かったものを、常人なれば心
半身は幻、半身は現。半人とは斯様な労苦を背負うものか。
然し、否。
外界なれば左様であろう。だが然し、ここは幻想、幻影衆生の怪異が呻く、条理破綻の末世界。なれば彼の者は現世の条理に縛られぬ。
無論頚木はあるだろう。破綻はしても条理は条理、鏡像たるこの郷も、写し重ねて彼らを覆う。
気には病まぬさ、だが然し、互いに手と手を取り合った、異端の園の人外風情も、己が轍を省みて、唯ひと時の嘆息を、隠れ溢すも偶さかに。
却説、人は人たるを知り、人外は人外たるを知る。
故、帰結として手を取り合えど心は汲めぬ。雑貨の店主の心持、人も怪異も理解は出来ぬ。
―――
器物、機物、奇物。
雑多雑貨の占領地、中に座るは唯一人。虚空で心を遊ばせた、半人半妖、痩身長躯の眼鏡をかけた棚主だ。
心は
無念無思慮のその彼の、酔眼やにわに定まった。
激烈な光に照らされて、表はその目を焼き焦がす。
灯りの足りぬ舗中は、天に背を向け暗きに染まる。
彼を現世と戻すのは戸口に立った客影二つ。暗明境に立つ客は
然して、店主の眼は像を編み、持ちえし能を行使する。
正しく定めたその像は、幻想世界に降立った、神とその巫女、現人神。
解して店主は思索を巡す。香霖堂たる、この店は、現世幻想
戸外で野鳥が一声上げて、余韻の残滓が立ち消えて、言の葉紡いだその顧客。
己の所見、其れが正鵠射たものと、理解したのは、客人の、違わぬ言葉のそのためだ。
迎えて掛けたは、歓待含んだ
ならばと一つ、
店主に一言、自身の恣意を伝えれば、これは店主も苦笑い。
物色始める客人に、己の役を放棄して、さて如何したものかと、再び無私に帰るかと、無聊を覚えて天を仰いだその時に、空飛ぶ一つの黒点を、見留めた店主は溜息一つ。
溜息一つが溶け切る前に、宙舞う一つの黒点は、果たして大地に降立った。
やはりと見留めたその黒は、人に混ざりて過ごした時分、その頃からの誼みを交わした
久闊侘びたその後は、特に用もなかったか、二人歓語と花咲かす。二人の話柄は自然と巫女へ、消えた先代、新たな博麗、代の変わったその事に。
ある日突然消えた巫女、隙間の怪異が連れた巫女。嘗ての時と、同じであると店主は語る。
唐突と消え、唐突と現れる、幻想の、博麗の、巫女。
やがてその名は喪われ、次代の名のみが残される。
この世の誰もが知らぬ律。
あれや、是也と語りつつ、やがて店主が見留めたは、語る魔女のその瞳。
咄嗟言葉の詰まりし店主、声を掛けたは先の客。
おやと、言葉を交わす魔女。
おやと、言葉を返す神に風祝。
神は店主に向けて不平を一つ。古い旧い
香霖堂のその品は、渡来の外様の現し世の、忘れて迷って薄まった、此所に堕ちたる拾い物。
ならば外と同様の、利便の器物があるやもと、抱いて思いて来たものの、其れ等は総じて古過ぎた。
堪らないのはその店主。唯の拾いし物故に、不平の出るのは詮方無し。
然してそれをその侭告げるのは、何か癪だと、矜持が一つ。煙に巻こうと、紫煙噴く、店主と抗う一柱。
古きを念って想起せよ、その時心は違い無く、正しく過去へと飛び立てる。心と思いは過去にも渡れば未来も超える。我らの意は時間などには縛られぬ。
侃々、諤々、出るわ出るわ店主の口から与太に
囃す魔女に諌める御供、場の溌剌は好ましく、彼ら彼女ら言葉は舞う。
半妖一匹、神一柱、現人神の一人とそして、熾火を湛えた人たる魔女が唯
人の思いは可逆で自由。
思い/畏れ/信仰は頚木も鎖も引き千切る。時も世界も境界も、砕いて壊して踏み潰す。
結果起こるは因果の逆転、不可逆変化の可逆性。
超現実たる幻想は総ゆる全てと独立する。時も、
時空の流れに搖蕩うは、則ち不可避必然、必至の末路。
独立世界の超幻想、枷を嵌める例外は、産みの親たる人のみで――――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
溢れる緑は何処か油性の彩の具めいて、気狂いが勝手気儘に色具をぶちまけた画布を指し、己が芸術だと声高に主張する様を想起させ、地に流れる黄土の色は吐瀉物の様で、赤色粘土は鉄錆びた臭気を漂わし、黒に翳った木色は唯光のみを希求して、乳白色のその靄は、唯一吸いで常人ならばその魄の尾を貪り尽くす。
その様は正に魔の森との形容が相応しく、暗く湿った魔性の香気が靄になり、光を閉ざして尋常なる植生を妨げる。
そして、その地を奔る獣がある。地に充ち足る黄土と赤は脂肪と血肉、母の胎を食い破り、尚腹が満たんとす、黒色の犬だ。
暗い幽い、極彩色の暗澹は、根源たる恐怖と畏怖、生持つモノ等のその本能を刺激する。
その只中、己を包みし魔性の彩を我が身を孕む母の如しと感じ入り、さてその母も如何に己が舌を抜けたものかと思い出す、正に畜生獣たる妖犬は吐瀉を踏み越え血溜まり割って、途上に影する哀れな痩木表皮には、光に代えて己が犬歯を突き立てて、気狂う緑の氾濫を、引き裂き引き割り潜り抜け、微かな臭気にひた走る。
故に喰らう、微かに漂う極上臭気、魔を孕んだ人の匂い。喰らう喰らうと思考の全てが叫び出し、風すら越えて疾駆する。
溢れる緑を掻き分けて、やがて見分けた黒の魔女。石の上に腰掛けて、どうやら心は空に飛び、虚を露したその姿。
襲って喰らって貪って、腑を掻き分けて漿を散らして、心の臓に己が鋭舌突き立てて、啜ってくれよう枯れるまで。黒獣に浮かんだ思考はそれのみで、茂みを散らして飛び掛る。
魔女は以前そのままで、魔獣は心中涎を啜る。魔女と黒犬、両者の間合いが寸部刻みに消えて行く。
一跳の間、一足の間、一指の間。もはや躱せぬ、今見留めてももう遅い。
そして顎が開かれて、ここに自然の連鎖は完遂する。
瞬間、柘榴が炸けて飛び散った。
音に聞こえし猟犬の、開いた顎は閉じられず、その命脈は今切れた。
「相変わらずだな、この森も。」
苦笑が一つ。
――――だけど、だけども、だけれども、
なんて、閑か――――
そう心中で溢す魔女。柘榴と化した角度の魔犬、この光景を満ても尚、そう宣もうたその異態。
ああ、やはり、この女は狂している。
そんな付箋を貼り付けるのは容易いが、自体は少し違えている。
欲に駆られてその本能を埋めた犬。その光景に良く似てる。魔女を埋めるは無数の唯一。それは音だ。
絶え間無き積雪の微細な音の只中で、家鳴りは息を潜めて隠れ消え、無限蔵書の図書の間に濫れ零れた塵海に、
獣、道士、牛頭人足揃えて二寸、以てこれ等を三尸と呼ぶは道教の因習であるが、果たしてこれを魔道に組んだは誰なのか。三尸は天に悪を告げると伝わるが、此方の三尸は人に死を告げるのだ。
故潰す、眼前で自身の死を囁かれ、その魂喰らう悪虫三尸。至りし者には見えるのだ。魔道の掩蓋、其処に至れば自ずと見える。
ならばどうする、寿命諸共その虫を、自身の果てを捨てるのだ。何故なら虫は自身に憑き、徒只管と死を垂れ流す。起床も、食事も、探求も、探索も散策も語らいも友誼も就寝も、昼夜日中終日常時。空理の音が歪を上げて、条理の果てが底を見せ、世界を死滅に至らしめる。もう止めてくれ沢山だ。
これ等を捨てぬ愚鈍な輩など何処に居る。否、愚鈍は此所に在る。
墓に腰掛け、口唇上げる。尋常たる己を矜る、尋常ならざる魔女が独り。
彼女は未だに人なのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
博麗神社。
幻想にありて現を見やる、特異故に特別な、そんな
「あら、また来たの」
「なんだよ、来ちゃ悪いのか?」
「別に、素敵なお賽銭なら其処よ。」
何時ものやり取り、何時もの会話。其処に立つは在りし日の巫女、在りし日の魔女。供に胸張り人と言う、そんな二人だ。
だから、この会話もその延長。唯いつも通りに、普段通りに交される、そんな言葉。
「なあ、何でこの神社って外に向いてんだ?」
魔女が見やるは太陽背負った朱鳥居。
博麗神社は下界を覗く。幻想の端に立ち、幻想に背を向けて、それでも尚、幻想の楔たる博麗神社。その特異。
「さあ、昔からそうだったし、気にしたこと無かったわ。
ただ、この神社って結界の境界にあるのよね、それが関係しているのかもね。」
巫女は知らぬ。知っても知らぬ。あり方故に。
幻想護る大結界、その境たる博麗神社。失われしその役目、果されるのははて、何時か。
鳥居が背負った天日は、時が移ろい傾いて、何時しか担うは本殿に。
そして始まる逢魔が時。寄って集まる妖怪変化。博麗巫女の百鬼夜行。
新たな規範、新たな決闘、深く奥地に潜みし妖魔も釣られ寄せられ騒めき立てる。
人の信仰は集まらぬ、妖の信仰も集まらぬ。
しかし、より重く、萃まり集うは友誼と誼み。大なる者の友誼は重く、小なる者も誼みは深い。同時集うは感嘆賞嘆。
萃まり集って
だけども巫女が背負いしその能は、それら一切振り払う。
孤高に咲く、一輪の花。
只、その思いを受け止め身に纏い、しかし魄には沁み込まぬ。
ふらりふらり、掻き分けて、一人佇み無想/無双/夢想。
その様を見て魔女は一人思うのだ。立たねば成らぬ、その隣へと。
何時しか其れは涯となり、終に果たすは到達変化。違和を知りしはその時分。
はて何時からだこの違和は、音が聞こえる軋みし音が。ずれた歯車、外れた音階、軋んだ音ははて、なんだ?
だが、しかし、己は誓ったあの時に。供に並ぶ。
ならばと思い巡りては、捜し求めたその鍵を。その時迄はと止まって、さて幾年音と在る。
巫女と歩いた月日を超えて、気付けば己は死と供に。叫びは上げぬ、苦悶も泄らさぬ、違和の結びが解けるまでは今少し、いいや未だ。
そして果して辿り着くのは、今や先代、巫女の墓。
さて少し、あと少しと彼女は未だ独り在る。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
日は陰り、森は愈々闇が訪れ、魑魅魍魎が動き出す。天はこの日もまた巡り、空は魑魅の者共の、腸色彩る土留の色で、彩も色も総ゆる全てが模糊の薄闇に覆われた。
それはこの地を覆う粘つく鉄錆も、染みた嘔吐も、気狂い緑も同様で、しかし盛りは此れからなのだ。
斜陽を揺籃とし、凋落を爛熟とし、再起を黄昏とする凡そ天に叛いた天の邪鬼。奴等の時間がやって来る。
だがしかし、魔女はやはり唯独り。何かを待つように、何かを探すように。
「答えは見つけた?」
「ああ勿論。
見つけたさ」
それは唐突な問い掛けで、その場が暗き森の只中である事を差引いても、尋常なら叫びの一つ上げても奇異ではなく、即ち其れほどにはその言葉の卒爾たるや、山に没む日輪の瞬刻返す夕映えの、その儚き光と比しても尚薄く、須臾の合間に陰潜む、無理に挿んだ有理の如き間隙をその
一字に割けた白絹か、はたまた逃げ水負った陽炎か、書割の森を押し広げ、割き開かれた空の
「では、聞きましょう」
果たして姿を見せたは美女だった。その者こそが幻魔妖鬼の大賢者。モノの境と閾を越えて、超え過ぎたが故それらを握る、単一孤高の一人の妖魔。その心中を覗くは能わず、起源も由縁も誰も知らぬ。唯幾らかの了解は、巨大な力と至大の知識、以って束ねて賢者と通る。故に愚問も愚答も流されて、自身の掴んだ真を語れと魔女に告ぐ。
受けて返すは人の魔女。満ちて溢れた言の葉は、その身に風雪を刻んでも、なお退えぬ張を残した
しかし不思議と響きは残り、繰返す毎嘗ての面影が蘇り、気付けば其れは何時かの時分、巫女と並んだ若き魔女と軌を一する。
「まず前提として人も妖怪も抱く思いは全て同質だ。
深さとか重さとか、愛しいとか憎いとか、その桁や中身を言っているんじゃない。
平たく言えば、原材料が同じなんだ。
魔力、霊力、妖力、神力。これも同じ原材料だ。
乱暴に言えば、すべての存在は魔であり、人であり、妖怪であり、神なんだ。
仮に言うなら
何か了解が合ったのか、かつて交わした役でも在るか、倏忽たる登場に悠然自若と臆面失く。無論、役など何も無く、心中刻んだ誓いが一つ。帰結果たせば支障なく、賢者を前に唯語る。
魔女の言葉は
果たして、この言葉は真実先の問いに答えたとものだと言えるのか。
言えぬであろう。しかし、何事にも順序というものがある。
大海を満たすのは儚く細やかな
故に黙せ、只ひと時を甘受して、魔女の弁に酔いしれろ。見れば賢者は何も語らず、ただ一つの微苦笑を漏らす。
その含意、根源が同じであるのなら、その性質も全て同質、かつてどこぞの店主が語ったであろう与太はその実ひどくその枢要を握っていた。
「だから、搖蕩う。
数多幻想渦巻く郷は、幻想なき世と供には在れない。
ここはまるで漂流する孤島だ。
文字通り、搖蕩う幻想の郷。それがここだ」
ならばこそ疑問が生じる。
時に搖蕩う夢幻の泡沫。収束望まぬ無限量子。時間の縛鎖に囚れず、其れは即ち孤独で自由な無間収監。
だが果たして、この泡沫は現と沿えずに孤独と在るか。
否である。少なくともそうは変わらぬ歩幅と歩調で、今この時も近しい歩みを続けている。
「幻想を産むのは生命だ。
幻想が
幻想を定めたのは生命だ。
それはそうあるように、
だからこそ、此処を外から縛ってもらわなきゃならない。
人に、命に、肉を持った生命に」
かつて紅魔の館に人が来た。
外の郷より訪れし、境界越えた観測者。外の生まれし異能の徒。
そうして漸く幻想郷は収束し、流れの中に碇を下ろす。
「だけど外だけじゃあ足りんよなあ、ちゃんと内にも用意しないと。
其れが博麗だ。
何処とも知れん馬の骨には任せられん。
天秤を管理するなら、数を増やすより質を上げた方がより易い」
こうして形創られた幻想の
しかし歪も又生まれる。
後継者の不在。それを発さぬ為には如何様にすべきか。
決まっている。単純で分かりやすく、営繕不要。
「博麗の巫女は特別な存在だ。
どう在ろうとこれは変わらない。
向けられる思いも桁が違う。
故に生まれる。
人から生まれる幻想が産みだした、幻想から生まれた人間が」
何処から其れは産まれ出でる?
決まっている、人の意を身に受け、妖の思いを心に受ける。
幻想の郷に数多
「言いえて妙だな。博麗大結界。
どちらが先とは聞かないよ。
本当はいつから、何てことも聞かないさ。
兎も角、博麗は
最も妖怪に近い人、肉を持たない幻想人」
語る魔女はどこか遠く、聞く妖は淡く笑む。
幻想から産まれたならば、帰結としては其処に肉は宿らない。幻想収斂による個体獲得。齎す因果はやはり易い。
幻想郷が搖蕩って、しかしそれでも確固を保つはその巨大。矮小微小な博麗ならば。
「博麗の巫女は、何れ搖蕩う運命だ」
そして博麗は新生し、幻想郷は何時ぞやぶりかの産声上げる。
数多の幻想を貪って、喰らい尽くして収縮した、超高密の微細塵。果ては自身も併呑し、
千々に解れた時間と次元。飲み込み続けて穴と開けたる特異の極へと巫女は落ちる。
「そう、時間と空間の境に落ちる。
……なあ、
不意に問いは投げられる。響いた声は決して大きなものでなく、だがそれは異様な程に普く通る。
森の瘴気を素通しし、空舞う無量の幻素を貫いて、全てを孕んだ幻想結界、幻想郷の掩蓋に響き渡れと通される。
そして、俄に大結界は
それはこの場の両者のみ、その身一つの大妖と、その身独りの
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
在りし日、魔女が人であった頃、幻想郷の涯の地で零れ落ちた一つの言葉。
「ああ、そうか」
昔日、彼女が見たのは酷く
朱鳥居、拝殿、本殿、分社に倉庫。今この瞬間から振り返り、自身の轍を眺めても、委細は寸毫たりとも変化は無く、静かに佇むその神祠。
そも、己はつい昨日も目には留めた。箒に跨がり空を行く、そんな気侭な
ありえぬ筈の変容は触れた大気から伝わった。
咄嗟己の眼の虚ろなるを疑うを否めぬが、奈落壺中の心奥からの、響く喚呼が
耳目は明瞭、鼻孔は快活、口舌は淀み無く、運指は虚空に真を掴み、意識は透徹、つまりは
ならばそう、その形は変わらぬのだ。故、帰納するのは唯二つ。
その一つ、己の変事は自覚が持てぬが、我が透徹は自明の如く。
一先ず保留と脇に除け、それより何より
否、其は変容とは言い難し、神祠は
博麗の巫女が住む博麗神社。
そこに巫女は居なかった。
そして彼女は看取した。博麗巫女の消失を。総ゆる思考を置き去って、枝葉の思惟を鑑みず、その結論へと飛翔した。
なぜなら己の第一声は何だった?
疑問でなく、納得で、それは這い出た一つの確信。余りに容易く潜み込み、ふと気が付けば自己の内奥に鎮座して、その痕跡も雲煙模糊、ただ魂に癒着した。今の今迄、焦点結ばず勘付かず、自然と居付いたその了解。今この時に
同時、染み出すいつかの心。そこに銘んだ一方的なその契り。己は並ぶと誓ったと。
彼女の霧消と己の意思。
二つ並べて風通し、火の粉がちらりと顔見せた。
「だから―――」
並ぶのだ、故、見つけるのだ。
己は彼女の手を取らねばならぬ。多くの人妖に囲まれて、一人であった。
世界の喧騒と
地を延い叫ぶ人妖を、常に空から眺めていた。
その魂に嫉妬した。天座す孤高の極魂と、地舐める衆愚の雑魂と。
探し、高めて上り詰め、解き明かして届かせる。たった一言。留めはせぬ、人の運命は違えはせぬ。
だけどせめて、最後に、
此処が分水嶺、此処が境界。
掩蓋を踏破するはこの帰結。
その程度の些事、雑魂らしい無価値な誓い。安い矜持と愚かな思想を携えて、
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
幻想を覆う博麗大結界、世界を分かつ
「
内と外との境界線、隔てた世界の領土線。深淵を覗く物は深淵にも覗かれる。外の世界を観測すれば外は内へと逆転し、外の世界に踏み入れる。
「正解」
やにわ溢れた声色は、喝采と礼賛に満ちていた。
嘆息と感嘆、僅かな羞恥と溢れんばかりの
見縊っていた、軽く見ていた。その事実に深い謝罪を。そして感謝を。
終に貴女は此処まで来た。
孤高の御座、世界の揺籃、
子よ、良くぞ此処まで這い上がった。
「博麗大結界、結界。
……なあ、冬眠は終ったか?」
紛れも無い賞賛を眇め見て、それでも魔女は自然と問うた。
これよりは、儀式。予定調和の回答採点。
眠りによって成されるは、自己の同一、主我の回帰。双生児存在による拒絶反応の緩和抑制。
「
貴女がそこに至ったならば、私も決して無碍にはしない。
おめでとう、人道を踏破し、非人道を破却して、魔導も闇も神代さえも跳ね除けて。
素晴らしい。叙説無用の唯一無二。
それでも貴女は人のまま。
それは有り得ぬ矛盾である。人道を超え、なお人であり続ける矛盾。
人としてあるべきを希求し続け、激甚な自負を抱えた
たった独りで立ち続け、死を凝視続けた自立性。
何れも筆舌に尽くし難く、その根底すら、愚昧で蒙昧。
安く下らぬ、余人には決して解せぬ一つの誓い。
ああ確かに、その一言を忘れては、人は後悔するだろう。せめてもの、楔だ。先の為の
だがしかし、
唯それだけを忘れぬよう、残り全ての生涯かけて、追って駆けた。それが普通と、普く通る道理だと。その道を征くものは誰も居ない。前に広がるは無明の荒野、振り返ればかつての自身が立っている。
「改めて、おめでとう。
そして続いたその声は、
―――久しぶり、
そして、返したその声は、
「ああ、久しぶり、
そして―――」
嗄れた、枯れ木のような、老女の声。
そして、積年の、唯それだけの為に生きた誓い。
今しがた迄明朗に、発され続けたその声は、正に消える蝋燭の回光返照。
擦れ声は風に乗り、蹂躙されても這いずって、主人の意思を届かせる。
唯、それだけを。
じゃないとなあ、甲斐が、無いじゃ、ないか……
「
やっと届いたその声は、唯それだけの常套句。
別れを告げる
遥か遠くに置き去った、誼みと交わす最後の一句。
「ええ、
そして、
魔女では無い。
人でも無い。
唯独りの霧雨魔理沙。
友に告げた万感篭ったその声で、彼女の生涯は此処で閉じる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼女は眠る。
森閑としたその場所で。
自分自身で誂えた、魔理沙自身の友誼の証。
不恰好で苔生した、その石塊を枕とし、たった
end
紫=霊夢=愽麗大結界っていう解釈は後者は良く聞くものの、前者は中々に新鮮でした。
視覚と聴覚の両方で楽しませてくれる文章は一層磨きがかかっていて、所々思わず声に出しながら読んでしまいました。
無茶苦茶な質量と熱量の暴風の中に巻き込まれる快感、そしてそれが瞬間、爽やかな涼風へ変化するカタルシス。
こんな特異な感覚を味わえるのはyubi先生の作品だけですねえ。
過去作品、というか『初手、第8手白の歩をd8へ(戴冠)』との繋がりも密かに仕込んであり、ニヤニヤして読んでしまいました。
魔理沙と霊夢の友情物語としても一級品で、霊夢を独りにすまいと願い、それがために独りになってしまった魔理沙の姿が
何とも切なく……しかしそれは魔理沙がいつも独りであった霊夢を見ていたときに感じていたものであるのかな、などとも思ったり。
霊夢の言葉「独りじゃないわ」はきっと魔理沙が霊夢に言ってやりたかった言葉であり、あるいは大いなる皮肉であるか、
あるいは霊夢が霊夢自身に宛てた言葉でもあったのか……
人外としてある人と、人としてある人外の結んだ友誼、大変美しいものでありました。
確かにあんな人外魔境で「普通」に暮らすって、十分普通じゃないですよね。
肝心の内容は難しすぎて理解不能でした。いや申し訳ない。
ですが分からないなりに、この小説が一つ完成された形であることは分かりました。
これだけの難解な文章を書けることも含めて、この点数を差し上げます。