Coolier - 新生・東方創想話

運命の愚者・第ニ部

2013/01/22 20:13:07
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作品集173に収録の運命の愚者・第一部
の続編です。





 寝室に転がる二つの男の真新しい死体を眺めながら、私はぼんやりと考えた。彼らの襲撃に平穏な生活の崩壊を直感し、故郷であるこの国を離れるとは決めた。だがもともとこの館に落ち着いたのも行くあてもないままなし崩し的にこの屋敷に留まることを決めたからであり、祖国を捨てたところで、向かうべき目的地などは存在するはずもなかった。

 だが行くあてがないとはいえ、私はどうしても愛する父を奪った戦争の原因となった南の異教の大帝国へは向かう気になれず、また敬愛した主君ヴラド公を裏切り、その名誉を傷つけた北のハンガリーにも旅をする気にはなれなかった。

 しかしこのワラキアはその二国によって囲まれており、この国を出るのであればいずれかの国に足を踏み入れなければならなかった。私は考えに考えたが、どうしても辛い戦乱の記憶を思い起こさせる異教徒たちの土地には移動しようとは思えず、北に向かうことを決意した。

 私の生家からトゥルゴヴィシュテほどの距離とは比べ物にならないほどの長距離を移動するはるかな旅路になることは目に見えていたので、私は入念に旅支度を整えた。館の保管庫から古びたかばんを見つけ出すと、その中に気持ち幾許かの替えの服を、空の葡萄酒瓶に詰めた血液とともにしまいこんだ。

 唯一の弱点である直射日光を防ぐための日傘を手に持ち、道中で無用な騒動を起こさないために異様な青色の髪を帽子で隠し奇妙な翼を目立たないように小さくたたむと、日没とともに私は数十年間の退屈な日々を過ごした館を後にした。遠くの神殿からは依然として、不気味な旋律に乗せられた耳障りな異国語が高らかに響いていた。



 思えばこのように夜道を一人で歩んでゆくのも、まだ私が人間だった頃に家族と住んでいた屋敷を失い、追手を逃れてヴラド公の保護を求めてその居城へと夜通し歩いていった時以来のことであった。今回も再び住む場所を追われたがゆえの彷徨と言えば確かにそうなのかもしれなかった。

 だがこの旅はかつてのようにいつ襲いかかるともしれない追手や盗賊に恐れおののきながら進む旅路とは比べ物にならないほどの気楽な旅であった。むしろ野盗のたぐいが襲いかかってくることは、私にとっては何もせずとも食料が向こうから飛び込んできてくれる素晴らしい機会であったし、現に私は道中何度もその幸運の恩恵に預かった。

 私は空に散らされた星屑や日ごとに現れる時間やその姿を変える移り気な月を見ては、かつて家庭教師から習った星座の位置や天体を舞台としたはるか昔の神々が織りなす物語を思い出していた。

 人間を辞めた私には夜間の徒歩の移動程度では一切疲労を感じることもなかった。その気になれば早足で駆けたり、持ち前の翼を広げて夜空を旅したりすることでもっと早く移動することは可能だったのだろう。しかし特に目的地のない旅をしていた私には旅路を急ぐ必要性は一切感じられなかった。

 それにあらゆる定命の者が恐怖する寿命という時間の存在も、私にとってはもはや縁のない話であったこともその理由の一つであった。

 日傘を差し直射日光を防いでしまえば太陽が現れても行動することはできたが、長年の習慣から昼間にはどうも動く気にはなれず、日中は洞窟や廃屋など、適当な日陰を見繕ってはそこで休みながら私は旅を続けた。

 あてのない旅は数ヶ月にも及んだ。雨や風で歩く気が起こらない日は大人しく滞在を延ばし、新鮮な血液が欲しくなった時は手頃な人間を静かに襲って渇きを癒し、気ままに私は歩みを進めていった。



 そうするうちに私の旅路は暗い思い出と結びついたハンガリーを越え、鬱蒼とした森の広がる「神聖ローマ帝国」などという大仰な名前を冠したドイツ人たちの国に入った。

 彼らの言葉はかつて授業で教えられていたため、私にも理解することができた。はるか遠い国の言語ゆえ、実際に役に立つことは私の人生ではないのだろうと習った当時は思っていた。だが放浪の旅の半ばで耳に飛び込んでくる他人の会話を理解するという形でその技能が多少なりとも活かされる事になったということは、不思議な因果であった。

 そしてそろそろ長旅に飽きを感じた私は、もはや祖国とは何の関係もないこの国で新たな生活を築こうと決意した。多くの町や村を渡り歩いたが、最終的に森林も途切れた帝国の北西の果て、フランデレンと呼ばれる地にあった、アントウェルペンという都市に落ち着くことに決めた。

 この都市に辿り着いた時には既に激しい陽光は鳴りを潜め、吹き付ける風は少しずつ冷気を持ちつつあった。この地域で多く話されるドイツ語は私の習ったその発音や語彙とは非常に異なったものになっていたが、彼らの話はどうにかこうにか理解することはできた。

 だがそもそも人間たちとの関わりを持たないであろう私にとっては、彼らの話が分かろうが分かるまいがあまり関係のないことであるはずであった。



 小さな領主貴族の娘として地方の屋敷に生を受けそこで育ち、人の姿を捨てた後は人間との関わりを極力断ってきた私にとって、狭い土地に人間たちがひしめき合う都市という存在は非常に新鮮なものであった。

 かつて祖国にいた時にも、数少ない都市といえるような街、トゥルゴヴィシュテに足を踏み入れた時にその村との違いに衝撃を受けたものであった。だがこの街アントウェルペンで受けた衝撃は、不気味さをはらんだトゥルゴヴィシュテでの衝撃と非常に性質を異にするものであった。

 天にも届くような壮麗な鐘楼は街の中心にそびえ立ち、上質な石材とれんがを用いられた美しい建物は通りに何棟も立ち並んで、連なる露店には様々な種類の品々が数多く陳列されていた。心地よい香りの香辛料や鮮やかな色をした布生地、見たこともない形の野菜など、この街には世界の全てからあらゆるものが集められていた。その「世界」の中には十数年前に発見され、そしてつい昨年その発見者にちなんで「アメリカ」と名付けられたという遠い西の新たな世界も含まれていた。



 世界中から集まってきたのは商品だけではなかった。それを取り扱う商人はもとより、街の繁栄に惹かれたそれ以外の者たちも国や民族を超えてこの街へとやって来ていた。言ってしまえば、私もその集団の一員に過ぎなかった。

 そしてそれを反映して、この地方の名は彼らの訛りをもって様々に呼び表された。フランデレンという名以外でもある者はフランダースと呼び、またある者はフランドルとも呼んだ。土地の呼び名も違えば、街の呼び名も言葉ごとにわずかに異なった。この街アントウェルペンをアントワープと呼ぶものもいれば、アンヴェルスと呼ぶものもいた。

 彼らはこの地に集まった地上の富を大いに享受し、この街に活気を与え、彩りを添えていた。実際私がこれまでに見た都市の中で、このアントウェルペンの繁栄にかなう都市など、祖国ワラキアやハンガリー、そして帝国のどこを探しても見つからないほどであった。

 だが相変わらず都市の宿命か、この街の路地にも汚物が撒き散らされ、芳しいとは決して言うことのできない香りが満ち満ちていたことだけは、私が初めて訪れた祖国の都市トゥルゴヴィシュテとなんら変わることはなかった。

 この土地にも領主はいたようではあったが、繁栄をもたらす商人たちには強く出ることはできなかったのか、実質的には領民であるはずの商人たちがこの街を支配していた。

 身分の差をわきまえず、単なる市民が領主をないがしろにするというこの街の現状は少々私の癪に触ったが、それ以上に私はこの街の開放的な文化や人種の多様性に魅了された。この街ならば、どんな出自の者でも自由に平等に受け入れてくれるような気がした。



 だがしかしそれらこの街の特徴も、幼い身体のまま吸血鬼と化し、人間社会を拒絶し拒絶された私にはあまり関係のないことであるはずであった。もしかしたら私は、長い孤独の生活の中でいい加減人恋しさを思い出し、人の活気に満ちあふれた場所を無意識に求めたのかもしれなかった。

 私は街の中心部からは離れた所にあった、空き家となっていた小屋を運良く発見し、そこに居を構えた。

 新たな住居は地下に作られた貯蔵庫を除けば、客間も寝室も台所も区別はなく、ただ一つの部屋がそのすべての役割を担っていた。家具は貧相な机が一つと小さな椅子が二つ、そして麦わらの上に布をかぶせただけの、簡易な寝台が一つあるだけであった。

 生まれた屋敷や以前の館と比べて格段に居住空間は狭まったが、一人きりの生活に広い部屋や豪華な家具は無駄であるということは、長年の経験から身にしみて実感していた。

 住む国と環境が変わってもしばらくの間は、日没の頃に目を覚まし、日の出とともに床に就くという私が作り上げた一人きりの生活様式は保たれた。だがそれもすぐに、私の全く予想だにしなかった形で変革の時を迎えた。



 新居へと越してきてしばらく経った満月のある夜、血の渇きを覚えた私はいつもの様に食料を求め、人間たちが静かに眠る真夜中に街へと繰り出した。既に秋は近づき、吹き付ける夜風は冷たく厳しいものとなっていたが、通りには未だ宿も取らずに野宿をする者たちは多かった。だがそれも、常に宿からあふれるほどの旅人がこの街を訪れているからなのだろうと深く考えることはなかった。

 今夜の食事にふさわしいのはこの中の誰であろうかと、私はゆっくりと品定めをしながら月光が照らす真夜中の道を静かに歩いた。その時私は通りに眠る男たちの集団からは離れた場所にうずくまる、小さな影を見つけた。



 その影の正体はいまだ幼い、十歳前後の年恰好をした女の子であった。暗がりの中でも一段と目立つ、透き通るようなつやのある黄金色の髪をしたその少女は、小さな頭を並行に重ねた両腕の上に置き、折りたたんだ足を胸に押し付けるようにしながら、横向きに丸まったはりねずみのような姿で石畳の上に穏やかに眠っていた。彼女の服はこの時期には似合わないほど薄手であり、生地は擦り切れそうなほどぼろぼろであった。

 私はふと彼女のそばで足を止めた。もちろん彼女を今日の晩餐の主菜にしようなどというつもりではなかった。まだ年端も行かない子供がこんな真夜中にたった一人で眠っているという奇妙な状況が気にかかったのだ。

 私は彼女の周りを今一度見渡したが、やはり保護者らしき大人の姿は見当たらなかった。ますます不思議に思い、私は彼女をより一層詳しく観察しようと近づいた。

 だがその瞬間、その少女のまぶたはゆっくりと開かれ、輝く青い瞳が月明かりを反射して私を覗きこんだ。思わずたじろぐ私に彼女はゆっくりと、不思議な訛りの現地語でこう言った。

「あなた、誰?」



 この質問はこれまでに何度も受けてきた。そしてそれに対する私の返答はその質問者の首筋を掴み、頚椎をへし折るというものであった。吸血鬼という人間たちの現実の世界に存在してはいけない者にとって、自分の姿を見た者を始末することが人間社会に禍根を残さない最善の方法であった。そしてこの時も、全く同じ対応を路上の哀れな少女に行うべきであったのかもしれない。

 だが私はそうすることはできなかった。彼女の無垢な蒼眼が、私が数十年前にかつての姿とともに捨てたはずの人間性や、母性本能の欠片を再び呼び起こしたようであった。私は振り上げかけた右腕を静かに下ろし、そっと慣れない外国語でこう言った。

「別にいいでしょう、私が誰かなんて」

そして言葉を継いだ。

「早く家に帰りなさい、夜は人間を襲う怖ーい化物が出てくるんだからね」

 彼女はゆっくりと身体を起こして、私のほうを見ると、こう言った。

「じゃあ、どうしてあなたも帰らないの?」
「あんたと違って子供じゃないからよ、子供はもうとっくに家に帰る時間は過ぎてるわ」
「あなたが子供じゃないなら、私だってそうよ、そんなに背も変わらないじゃない」

 私はすっかり、子供のまま成長の止まった自分の姿を忘れかけていた。本来ならもう老婆と呼ばれるべき年齢に手が届きつつあった私も、見た目の上ではこの時話していた女の子と同じ程度の、わずか十歳前後の少女に過ぎなかった。

「ま、まあそんなことは関係ないわ、いいから早く家に帰りなさい、こんな時間まで外にいると何があっても知らないわよ」

私は追い払うような手振りとともに、少し厳しめにそう言った。だがその少女は寂しげにうつむくと、静かにこう答えた。

「でも、私には帰る家がなくて」
「家がない、ってお父様とお母様は?」
「母さんは…私がもっと小さい時に死んだらしいわ。父さんはずっといなくて。だからずっと孤児院にいたんだけど、お前たちを置いておけるお金がなくなったって言われて、そこから追い出されたの。その時に、お前の父さんはアントワープにいる、って言われてここに来たんだけど」
「それだけしか言われなかったの?お父様の名前は?」
「うん、父さんの名前は神父様にも分からないみたいだったの。でもこの街に来ればきっと会えるって、そう思ってたけど…」

 最後までその文を言い終わらないうちに、彼女の声と身体はかすかに震えはじめ、嗚咽の声が小さく響いた。幼子の涙に動揺した私は、慌てて彼女を慰める言葉を探した。

「わ、分かったから泣かないでよ、大丈夫、お父様はちゃんと見つかるわ」
「でも、こんな大きな街で私一体どうやって探せばいいの…」
「この街のどこかにいるんだったら、絶対に見つかるに決まってるわ。何だったら私も一緒に探してあげるから」
「本当?」

 彼女はゆっくりと頭を上げ、私の顔をそっと見つめた。その美しい碧眼は溢れる涙で輝きを増していた。

 私は深い考えも無しに口にしてしまったとんでもない自分の発言を後悔したが、僅かな希望を見つけた眼前の少女を裏切ることはできなかった。
「もちろんよ、いくらなんでもあんたみたいな子供がこんな生活を続けてるとろくな目に遭わないわ、そうなる前に早くお父様のところに帰さないとね」
「ありがとう…」

 少女はやっとほほえみを浮かべ、そう言った。
「じゃあ早速お父様を探しにいきましょう。とりあえず、どこから始めればいいのかしら」
「こんな夜に?みんな寝てるのに?」
「それも、そうだったわね」

 再び私は人間社会と自分の感覚との断絶を実感した。

「私も、また眠くなってきちゃったわ」

彼女はあくびを交えながらそう言った。

「またこんなとこで寝ちゃったら、化物が襲ってこなくても風邪ひいちゃうわよ」
「でも、宿のお金なんて私には」
「分かったたわ、広くはないけど、しばらくの間は私の家に泊めてあげる。その間、一緒にお父様を探しましょう」
「いいの?本当にありがとう、あなたって聖母様みたいに優しい人ね!」

 彼女は明るい声でそう言うと、私に抱きついた。

 彼女の「聖母様みたいな優しい人」という言葉に、私は思わず苦笑した。人間の生き血をすすり、時にはそれを殺すことも厭わない人外の存在である自分が降って湧いた感情でこのように表現されることは、意図せずして生まれた最高の皮肉であった。

 そしてその感情の発作は、似つかわしくない美称とともに私にとんでもない面倒事を押し付けた。



 小屋への帰り道で、少女は当然の疑問を口にした。

「そういえば、あなたの名前をまだ聞いてなかったわ、私に教えてくれない?しばらくは一緒に暮らすんだから」

 私は少し実名を口にするのを躊躇した。だがもはや祖国から遠く離れ、戦乱の影もないこの地でわざわざ一人の少女に偽名を使うこともないだろうと思い、正直にこう言った。

「レミリア、よ」
「レミリア…?少し不思議な名前だけど、素敵な名前ね。昔の聖人様で、レミ様って人がいたって、神父様から聞いたことあるわ。もしかしたらあなたの名前も、その聖人様と関係があるのかもね!」

 先ほどと同じ純真な口調で、少女は聖人の名を引いてまで私の名前を褒めそやした。だが祖国の戦乱の一因となった宗教に絡んだ賛辞は私の心に響くことはなかった。むしろ先ほどの皮肉とともに、私の心に暗い影を落とした。

「そういえば、あんたの名前は?子供の名前も分からずにお父様なんて探せないわよ」
「えっとね、フランドール、っていうの」
「フランドール?あんたこそ珍しい名前じゃない」
「うん、お前はフランダースから来た子だから、って言って神父様が地名をもじってつけてくれたの」
「地名をもじってって、大体ここらへんに住んでる人はフランダースの生まれじゃないの?かえってややこしいじゃない」
「いや、私の孤児院はカレーにあったから、フランダースの子は私だけだったわ」
「カレーって西のイングランドとかいう国の…あんた結構遠いとこからよく来たわね」

 彼女の名前はあまりにも珍妙で、あまりにもその由来は単純なものであった。私は彼女の名前に哀れみを感じた。だが少し考えてみれば多くの人々がその子供に付ける名も、あやかるという名目で生まれた日の聖人暦を引いてその名を単純に付けるものだ。結局名前などというものは、他のものと区別が出来ればそれでいいものであるのかもしれない、とふと思った。



 小屋にたどり着き、その少女フランドールをその中に招き入れた。

「広くはないけど、まあそこら辺は我慢して頂戴」
「他の人は住んでないの?あなたの父さんとか、母さんとか」

フランドールはそう尋ねた。

「いえ、私だけよ」
「すごーい、じゃあ家事とかも全部一人でやってるの?」
「まあ、そうよ。だから言ったじゃない、あんたみたいな子供じゃないって。それより、眠かったんでしょう?ベッドはそこにあるから早く寝なさい」
「分かったわ、ありがとう」

そう言うと彼女は寝台に素早く潜り込んだが、しばらくして私にこう言った。

「レミリアは、寝ないの?」
「ええ、眠くないからね」

まだ日の出には時間があり、床に就くには早すぎる時刻であった。

「嘘よ、もうこんな時間なのに眠くないはずないわ。もしかして、私に気を使ってるの?」
「別にそんなつもりじゃないわ、変な気は使わないでさっさと寝なさい、ろくに寝ないでお父様を探す気なの?」
「そんな事言ったらレミリアだって、一緒に探してくれるんでしょう?寝ないでどうするのよ。いいから一緒に寝ましょ、ね?」

そう言うと彼女は寝台から上体を起こし、私に笑顔で手招きをした。

 これ以上の拒否はくだらない言葉の応酬にしかならないと思い、私は大人しく彼女の言葉に従った。少しの気恥ずかしさを覚えながら、私は彼女が横たわる寝具に身を差し入れた。大きな寝台では決してなかったが、それは女児二人が身を寄せ合って眠るには充分な大きさであった。

「じゃあ今度こそ、おやすみなさい」

彼女がそう言って数分が経った頃には、既に静かな規則的な呼吸音が聞こえはじめていた。
 彼女の穏やかな寝息と暖かな体温は、私に不思議な安心感を与えた。それはかつて私が幼い頃、母の腕に抱かれた時に感じたような感情だった。長い間ずっと忘れていたむず痒くも心地よい感情と温度に包まれながら、私はいつの間にか眠りに落ちていった。



 「レーミーリーアー、起きてよー!もう朝だよー!」

フランドールの元気の良い声とともに体を勢い良く揺すられ、私は目を覚ました。

「何よ、まだこんなに明るいじゃない、もうちょっと寝させなさいよ」

窓掛けの隙間から差し込む光にまぶしさを感じながら、うっとおしげにそう答えた。

「なんだか、レミリアって変なことよく言うわね。もうこんなに明るいからさっさと起きなきゃいけないんでしょ」

 寝ぼけた頭を整理しながら、私は昨日自分が言ってしまったことを思い出した。そして彼女をこの小屋に迎え入れたことで、私は再び人間たちの生活習慣に巻き込まれてしまったのだと実感した。

「ああ、そうだったわね。お父様を探しに行かなきゃいけないのよね。ちょっと待って、今準備するから」

 そう答えて、私は目をこすりながら寝台から身を起こした。
「レミリアってお寝坊さんね。ところで、夜は暗くて気づかなかったけど、レミリア、あなた不思議な髪の色してるのね」
「え?あ、いや、違うのよ、これは、その」

私は帽子を外していたことを思い出し、慌てて自分の姿をごまかす言葉を探した。

「素敵な色ね、まるで忘れな草みたい。あなたの赤い目も、なんだかうさぎさんみたいで可愛いと思うわ」
「え…、そう?ありがとう」

フランドールは特に私の異様な髪と目を特に不審に思ってはいないようであった。彼女の反応に私は胸をなでおろしたが、同時にそのあまりの純真さに一抹の不安も覚えた。

 私は改めて寝台から立ち上がり、今度こそ人間たちに自分の髪を見られることがないように帽子を目深に被り、そばに放っておいた日傘を手に持った。

「レミリア、準備できた?早く行こうよ」
玄関扉の前で、フランドールは私を急かした。
「今用意が済んだところよ。じゃあ、行きましょうか」
私はそう言って扉を開くと、フランドールとともに光の満ち溢れる昼間の街へと歩き出した。



 朝夕の時間ですら他と比べるべくもなかったこの街の活気は、太陽が高く輝く昼間にはさらにその程度を増していた。人間たちは私が日傘を持ってその間を通り過ぎるのが難しいほどに隙間なく石畳の上にごった返しており、想像をはるかに超える群衆は陽光と相まって私にほんの少しめまいを覚えさせた。

 この人間の大河の中からたった一人の男を探すなど、とんでもない仕事の片棒を担いでしまったのだと改めて実感した。

「ねえフランドール、あんたのお父様の名前は分からないみたいだけど、せめてどんなことをしてるのか、ぐらいは聞いてないの?」
「ううん、何にも。ただこの街にいるってことしか聞いてないの。だからここに来てもどうしようもなくて」

私は思わず頭を抱えた。よくこの少女は僅かな情報だけを頼りに見知らぬ土地まで遠路はるばるやってきたものだと思ったが、考えてみれば私もかつて同じようなことをやっていたことを思い出した。だがあの時は、少なくとも会うべき人の名も地位も分かってはいたが。

「まあ、でもわざわざこの街にいるって言われたんだから、多分ほんのちょっとしかここに留まらないような行商人じゃないはずよ。とりあえずそこらへんの人に聞いてみましょう」
「まあ、そう…なのかしら。そこらへんはよく分かんないから、レミリアに任せるわ」
フランドールは曖昧にそう答えた。



 私は彼女とともに近くの露店に向かい、店番をしていた商人に尋ねた。

「すみません、人探しをしているのですが、何か情報がありましたらお聞かせいただけませんか?」

彼はまず私の衣服に目をやると、即座に不器用な笑顔を作り出し、明らかに作り出した調子の声色でこう言った。

「おや、この街の方ではなさそうですが、貴女のような小さなお嬢様がどなたをお探しでしょうか。私の知っている範囲であれば、情報をお伝えすることはできるでしょうが」

彼の対応は私の調子が狂ってしまいそうなほど予想外のものであった。だが他の人々も全てこのように対応してくれれば、比較的早くフランドールの父親を見つけ出すことができるかもしれないという楽観が生まれた。

「この子の父親を探しているのです。もともとこの子はカレーの孤児院にいたのですが、どうやら父親がこの街にいるらしくて」

私はフランドールの手を引き、彼女を商人と引きあわせた。だが彼はフランドールの姿を見るなり、不自然に作っていた笑顔を少し濁らせて、私にこう言った。

「この子は、お嬢様のお友達でいらっしゃいますよね?」
「まあ、そのような感じですね」
「失礼でございますが、この子のお父様の名前や職業をお聞かせ願えませんか?」
「残念ながら、それすらも分からなくて困っているのです。それでももし何かしらの情報をいただけたら、と思ったのですが」

私がそう言うと、彼は不恰好な笑顔を保ちながらも心なしか意地悪気な声でこう答えた。

「と、なりますと、こちらとしてもお力になることはできませんね。なんせこの街にはその子供のような貧乏人は数多くいますので」
「そうでしたか、では失礼いたしました」

 彼の発言に内心同意しながら、私はその露店の前を離れた。

 他の商人や道行く者たちに尋ねてみても、そんな僅かな手がかりで求める情報など出てくるはずもなかった。むしろ情報を聞き出すどころかフランドールの服装を目にすると皆が皆冷淡な対応を取り、まともな対応を得ることすら難しい状況であった。まるで貧乏人の子供の下らない人探しに付き合う暇はないとでも言うように、彼らは私達を適当な言葉であしらっては店から追い出したり、私達から離れて雑踏へと消えて行ったりした。



 そんな状況下でも必死に情報を集めようとしていたさなか、フランドールはぽつりとこう漏らした。

「ねえレミリア、私お腹すいちゃった」
「お腹空いた?ああ、そういえばあんた今日何も食べてなかったわね」

血液さえ飲めばそれで問題のない私と違って、人間であるフランドールには固形物の食事が必要なのだということを私はすっかり忘れていた。

「そうね、そろそろいい時間だし、食事にしましょうか」
「レミリア、でも…」
「何かあるの?大丈夫よ、ここには食べ物を置いてる店もいっぱいあるじゃない。ほら、あそこでりんご売ってるわよ、あれなんか美味しそうじゃない?」

 私も久々に血液以外のものを口にするのも悪くないと思い、彼女よりも早く青果店へと駆け寄った。私は軽く店主に挨拶をして、積み上げられたりんごの山から二玉を手にとった。だがそれを持ち店から離れようとした瞬間、彼は慌てた様子で私を引き止めた。

「ちょ、ちょっとお待ちくださいそこのお嬢さん、お代をまだ頂いてないのですが」
「お代?一体何のこと?」
「一体何のこと、ではないのですよ。…その上等な服を見るに、お嬢様は貴族の方でしょうか。お嬢様はまだお若いのでご存じないのでしょうが、我々商人はあなた方のように領民の年貢で暮らすのではなく、物を売って、代金を受け取って生計を立てているわけでございます。我々は施しを行なっているわけではございませんので、お金をいただかなくては生活していけないのです。というわけで、りんごの代金をお願いいたします。銅貨二枚で結構ですよ」

 貨幣の存在ぐらいはもちろん知識として知ってはいたが、これまでの私の生活に全く必要とされず、目にすることもほとんど無かったものであるため、その記憶はほとんど抜け落ちかけていた。もちろんそのような状況で、彼の求める果物の代金など持ち合わせているはずもなかった。

 思わずしどろもどろになっていた私のもとに、少し遅れてフランドールが駆け寄った。

「だから言おうとしたのに。レミリアもお金持ってきてないでしょうって」

彼女の言葉と格好に商人は顔をしかめると、冷たい様子で私にこう言った。

「全く、冷やかしはやめて頂きたいものですな」

そしてこう付け足した。

「自分はそんな服を着ておいて、こんな乞食の餓鬼と付き合ってその真似事をするなど、お嬢様も人が悪いものですね」

その言葉を聞いて、フランドールが視界の端で軽くうつむくのが見て取れた。私もその言葉に反感を覚えると同時に、不思議と少しばかり罪悪感も覚えた。私は黙って腕に抱えたりんごを山に戻すと、軽く商人に非礼を詫びてその店を離れた。



 この街にはこの世の全ての品々が並んでいたが、貨幣がなくては何も手に入れることはできなかった。かつては何もせずとも毎年秋口に農民たちが持ってきていた小麦ですらも、ここでは金銭による対価なしには手にすることはできなかった。

「ねえフランドール、あんたもお金は持ってないみたいだけど、昨日まではどこで食事をしてたの?」

通りを歩きながら私はそう尋ねた。

「実はお金がなかったから、この街に来てからまだ何も食べてなくて」
「何も食べてないって、いつからなの?」
「えっと、多分一昨日からだったと思う」
「一昨日からって…」

極度の空腹からか彼女の顔色はますます悪くなっていた。そして彼女の様子を見るうちに、私も昨晩血液を摂取できなかったことによる渇きを思い出した。

 香ばしい匂いを放つパン屋の前を通りかかった時、フランドールは足を止め、じっと物欲しそうに焼き上げられたばかりの黒パンの山を眺めた。彼女の心情を汲み取ることは容易であったが、その実現は出来ない相談であった。



 「おやそこの金髪のお嬢ちゃん、お腹空いてるのかい?」

彼女の姿を見たパン屋の店主らしきやや恰幅の良い白髪の老人は、優しく朗らかな笑顔と声で彼女にそう話しかけた。その問いに弱々しく、フランドールは頷いた。

「じゃあほら一つあげるよ、持って行きな」

店主はそう言って積み上げられたパンの一斤を掴むと、彼女に渡そうとした。

「いえ、結構です。お恥ずかしいのですが、今日はあいにく持ち合わせがなくて」

冷たい言葉を聞きたくはなかった私はそう言ってフランドールの手を握り、彼女とともにそこから去ろうとした。だが店主は私達を引き止めて、穏やかにこう言った。

「いやいやそんな。お代なんかいらないよ」

 先ほどの青果店のように、心無い対応をされるものと思っていた私は耳を疑った。

「え、本当?おじいさんありがとう!」

フランドールは無邪気にそう言うと、脇目もふらず大きな黒パンにかじりつき始めた。

「本当に腹ぺこだったんだね。ちゃんと噛まないと喉につまらせるよ」

柔和な笑顔を保ちながら、彼はフランドールを見つめてそう言った。

「よろしかったのですか、このようなことをして頂いて」

予想外の反応に驚いた私は、店主にそう尋ねた。

「そりゃ黙ってお腹を空かせてる子供を放ってはおけないからね。困った人は誰であれ助けないと、だよ」

彼は私の服ではなく、顔を見ながらそう言った。

「ありがとうございます。そのお気遣い、心から感謝いたします」

昼間の通りに出た本来の目的を思い出した私は、礼を述べた後に質問を付け足した。

「そうです、それとは別に、この子フランドールの父親を探しているのです。名前は分からないのですが、どうやらこの街にいるらしいのです。何かご存知ありませんか?」
「この子、ってのはお嬢ちゃん方は姉妹じゃないのかい?」
「ええ、そうなんです。あくまでこの子の父親だけを探しているのです」
「ふむ、こんな大きな街で人探しとは大変だね。でも残念だけど、この子ぐらいの娘がいたって男には心あたりがないよ。力になれなくて悪いね」

そう言った彼の口調は今日出会った人の中で誰よりも、温かく人情味に満ちたものであった。

「いえ、ありがとうございます。お気になさらず」
「ところでお嬢ちゃん、凄い眼の色してるけど、大丈夫かい?目の病気は怖いからね。俺も最近目が霞んでなあ」
「あ、いえ、これは、大丈夫ですから。さあ行くわよ、フランドール」

私は万が一にも自分の正体が発覚することを恐れて、日傘で自分の姿を彼から隠すようにしながら、パンを頬張る彼女の手を引いて足早に店の前を後にした。他の商人たちとは違う雰囲気を醸し出していたパン屋の老人の姿と表情は、私の印象に妙に残った。



 結局夕暮れまで通りに出ても、探し求める人どころかそれに繋がる情報すらも手には入らなかった。ただ確実に分かったことは、打算的な商人たちが支配するこの街では基本的に見返りが期待できなさそうな貧者には冷たく、そしてここで人間として生活を営むには、どうしても金銭が必要になるということであった。

 今日はたまたま親切な人間に出会うことができたが、初めから人の好意を当てにすることなどこの街では不安定すぎたし、そもそもそのように物乞いのような真似を進んですることは、私の矜持が許さなかった。



 その晩、私はフランドールが眠りについたことを確認すると、昨晩結局摂ることができなかった自分の食事をするため、そっと真夜中の通りに繰り出した。寒空の下で眠る、昼間より随分数の減った人間たちを眺めていると、もしかしたら彼女の探す父親がこの中にいるのかもしれないという考えがふと浮かんだ。

 とはいえ人間たちを起こして尋ねるといったことはできるわけもない以上、そう思ったところでどうしようもないことであった。だがその晩から私はこれまで特に気にしていなかった獲物の容姿をよく観察するようになった。そして彼女と同じ髪の色を持つ金髪の男性からは、なるべくその血を吸わないようにした。



 次の日、私はフランドールからぼろ衣のような服を脱がせ、私の持ってきた着替えから一着を選んで、彼女に着せた。基本的に人間を服装だけで判断するこの街で数少ない手がかりから人を探すにおいて、外見による不利益は避けたかった。

 その美しい碧眼と金髪には薄汚れた貧相な服よりも、赤く映える新たな衣装のほうが何倍もふさわしいように思えた。

「やっぱり、よく似合ってるわよ。フランドール、この服はあんたにあげるから、今日からこれを着なさい」
「わあ素敵な服、ありがとう!でもどうしてわざわざ?」
「そりゃお父様に会うんだからよ。いつでも会っていいように、ちゃんとした服を着ておかないとね。それとあんな薄い服だと、これからの季節体に悪いわよ」

純粋な少女に、乞食みたいな服を着ていてはここの人がちゃんと取り合ってくれないから、と言うことはなんとなく憚られ、私は婉曲的にそう言った。

 彼女の身仕度をした後、私はもう一着服を鞄に入れ、二日目の捜索に繰り出した。



 通りに出た私はまず、服飾店へと足を伸ばした。

「すみません、こちらの店は服の買い取りは行なっておりますか?」

私は店の扉を開け、細長い台の向こう側に立つ男にそう尋ねた。

「おや、あなたのような小さなお客様は珍しいですね。で、買い取りでございますか。基本的には行なっておりませんが、物によっては」
「ではこれはどうですか?ちょっと家で手に余ったものを持ってきたのですが」

私は鞄の中から着替えを取り出すと、彼に広げて見せた。

「おお、これは珍しい」

男は目を見張ると、少し興奮した様子で言葉を継いだ。

「こんな絹の、しかも丁寧に作り上げられた上質なお召し物はこの地では作られないものですよ。よろしければ、どちらから手に入れられたのかお聞かせいただけませんか?」
「いえ、どちらから、と言っても別に家にあったものですから」

思わず口調が早まる商人に少し気圧されながら、私はそう答えた。

「家に、ですか。なるほどやはりお嬢様の口調から薄々は感じておりましたが、お嬢様はこちらのお生まれではございませんな?」
「ええ、確かに出身はこの地ではありませんが」

祖国のことを聞かれるのではないかと思い、私は心なしか身構えた。

「やはりそうでしょう。その優美な口調は、恐らくはヴィーンやミュンヒェンといった街かその近くのお生まれでしょう。以前、皇帝陛下がこの街に御行幸された時がありましたが、その時も陛下は側近たちとの会話はお嬢様のような言葉で話しておられました。こんなイタリア産の美しい衣服をお持ちであるとは、お嬢様もやはりそのような素晴らしいお家柄であるのでしょう」

慣れないこの地の音韻とは違う私の言葉は、もしかすると不審な、下賎な印象を持っていけ止められているのかのしれないと考えていたが、どうやらそうではなく、高貴な印象を持って受け入れられているようであった。

「まあお世辞は結構です。そんなことより、この服はいくらで買い取っていただけるのでしょうか?」
「あ、そうでありました。ええと、こちらであれば、金貨三枚ほどになるでしょうか」
「分かりました、ではその代金をいただきましょう」

それだけの金額でいったい何がどのくらい買えるのかは私には全く見当もつかなかったが、少なくとも数日分の食料を調達する資金にはなるのだろうと、彼の差し出す三枚の黄金の薄く丸い板を受け取って店を出た。



 とりあえずの貨幣を手にした私たちは、ようやく昨日の仕事の続きを始めた。

 私の予想したようにフランドールの着る服を一枚取り替えただけで、人間たちの反応は面白いほど単純に、これ以上ないほど丁寧なものへと切り替わった。結局この街の人間たちは他人をその人柄や中身ではなく、ただそれを飾る服飾からなる身なりでしか判別することはなかった。

 しかしその市民たちの浅はかさは、私にとって好都合なことこの上なかった。もし私の正体が感付かれてしまえば、私は再び新たな住処を見つけねばならなくなるであろうことは分かりきっていた。

 だが冷淡な反応を受け取ることが無くなったといっても、相変わらずフランドールの父親を探すには、私達が持っている情報はあまりにも微小であった。その日も決して、有益となる情報を手にすることはできなかった。



 小屋へと帰る前に、私は食料品店へと立ち寄り、日用品やフランドールの食事の材料となるものを買い揃えた。私が代金を払おうと金貨を一枚勘定台に置き、その場を去ろうとするとその店の店員は私を呼び止め、これだけの商品でこんな大金を受け取ることなどできないと動揺した様子で言った。

 ならば釣りをと要求したが、店員は私の店にはそれを払えるだけの銀貨も充分にはないと答えたので、私は彼がお釣りを払えるようになる金額まで食材を買い込み、フランドールと二人、両手で必死にそれを抱えながらその店を後にした。

 かつて父がこのような金貨を積み上げ、何か難しい顔をしてその数を数えていたことは覚えている。だが金貨一枚というものがそこまで価値があるものであったと知ったのは、故郷を離れ生まれてから数十年の年月を重ねた、この時が初めてであった。



 小屋にたどり着くと、私たちは買ってきた品物を、それまで何も置かれていなかった地下の貯蔵庫へとしまいこんだ。

「これだけあれば、何日かは買い物に行かなくても済みそうね。昨日はろくに食べさせてあげられなくてごめんなさいね、フランドール。だから今日はいっぱい食べていいわよ。じゃ早速作り始めちゃいましょうか」

 私はそう言って食材を適当量手に持つと、炊事場へと向かった。そこには鍋や包丁のような調理器具も薪も揃ってはいたが、いざ調理に取り掛かろうとした時、私は重大なことを忘れていたことに気がついた。

 私はそれまで料理をしたことどころか、その過程を見たことすらなかったのだ。曲がりなりにも労働の必要がない貴族の生まれであったことはもとより、吸血鬼になってしまった後は食事として調理された食材を必要としないこともその一因であった。

 しかし料理を作るといってしまった手前引き下がることはできず、私はとりあえず野菜を切ろうと包丁の柄を両手でつかみ、頭の上まで振り上げると真一文字にかぶへと振り落ろした。しかし中心点を外し、均衡を失ったかぶは宙に舞い、床へと転がった。

「えっと…どうかしたの?」

ぽかんとした様子でフランドールは床に落ちたかぶを見つめた後、私を見つめた。

「ま、ちょっと手が滑っただけよ」

なるべく冷静さを保とうとしながら、私はそう答えた。

「手が滑った…ね。私、包丁をそんなふうに使う人って初めて見たわ。やっぱりお姉様って不思議な人ね」

彼女が何気なく言った最後の言葉が、私の耳に不思議な感覚を与えた。



「ちょっと待って、お姉様って誰のこと?」
「そりゃ、レミリアお姉様のことよ。いきなり出会った見ず知らずの私のためにこんなに親切にしてくれて、毎日親身に私のお父様探しを手伝ってくれるし、なんだか他人に思えないの。それになんだかところどころ変なところもあるけど、私と同じくらいなのに私よりも言葉遣いも丁寧で上品で、まるでお姉様みたいだもの」

 兄弟姉妹もおらず、同年代の子供たちと付き合うこともなかった幼年時代を送ってきた私には、フランドールの言う「お姉様」という言葉の響きは決して不快なものではなかった。私はあくまで老婆心で彼女の手助けをしているつもりではあったが、子供のままのこの外見上の姿は、フランドールにとって「おば様」や「お婆様」としてではなく「お姉様」として受け取られたようであった。

 だが貧しいながらも純真な人間の少女に、私のような人外と同族であるようなことを口にさせるのはほんの少し罪悪感が持たれた。人間の世界に本来存在してはいけない私のような魔物とは、彼女はできるだけ早く離れるべきであると私は感じていた。

「お姉様、ね。面白いじゃない、気に入ったわ、フラン」

私はほほえみを浮かべながらそう言った。

「えへへ、そうでしょ。ところで、フランって私のこと?」
「そうよ、もう私たちは姉妹なんだから、妹のことくらい愛称で呼んでもいいじゃない」

そう言った後、私は気持ち語気を強めながら言葉を継いだ。

「でもね、そう言っていいのはあんたのお父様が見つかるまでの間、二人でいる時だけよ。外でそんな事言ったら、お父様に会えたとしても余計な混乱になるだけよ。それともしお父様が見つかったら、その時からもう私はあんたのお姉様じゃないわ。そしたらそれからは私のことを忘れて、お父様と一緒に暮らすのよ、分かった?」
「え、どうして?」
「どうしてもよ」

しばらくあっけにとられたような顔をした後、フランは少し寂しげに答えた。

「うん、分かったわ。でもそれまではちゃんと、私のお姉様でいてくれるのね」
「ええ、それだけは絶対に約束するわ」

身寄りをなくした少女の肉親を求める気持ちは、私が誰よりも知っていた。

「それよりも、料理の続きをしましょ。何だったら私も手伝うわ」

そう言うとフランは床に落ちたかぶを拾い、水がめの水で埃を落とすと、右手だけでしっかりと包丁の柄を持ち、てきぱきと準備を始めた。もともと料理の何たるかを全く知らない私には、彼女を手伝うことなどできなかった。

「フランって、料理上手なのね」
「うん、孤児院で料理のお手伝いをしてたから」

 あっという間に彼女は私の目の前でかぶのスープを作り上げ、二つの器に注ぎ分けて小さな机に並べた。私はもともと食べるつもりはなかったが、彼女の行為をむげにするわけにもいかず、彼女と食卓を共にした。気は進まなかったがフランに言われるまま二人で食事の祈りを捧げると、私たちは木製のさじでスープを口に運び始めた。

 その味はやはり血液に優るはずもなかったが、何故かその料理は私の食欲ではなく、別の欲求を満たしてくれたような気分になった。

 食事を取り身体も暖まった私は、フランと同じ時間に寝台へと入り、彼女とともに眠った。人間たちの基準で言う私の「昼夜逆転」の生活は、次第に「正常」なものへと戻ろうとしていた。



 それからしばらくの間、私たちは朝から夕方まで、時おり服を売ってフランの食費を確保しながら、なかなか見つかることのない彼女の父親を探し続けた。膨大な人間たちの中から外見的特徴すらもつかめない一人の人間を見つけ出そうとするのは不可能とさえ思えたが、こうする他には、今や会ったことのない父親以外に頼れる者のいなくなった彼女を私のような人の生き血をすする悪魔のそばから安全に引き離し、人間たちの世界へと帰す方法は思いつかなかった。

 とはいえ人探しなどというものは短期間に根を詰めて行なっても成果は出ないだろうということは分かっていたので、通りに人も少なくなる風雨の日はおとなしく小屋から出ずに、フランの遊びに付き合ったりもした。買い物の際におまけとしてもらった素朴な人形で彼女とともに声を当てながらごっこ遊びをしたり、積み木を積み上げて城を作り上げたりしていると、私はまるで童心に戻ったような気がした。

 むしろ幼年期からあらゆる教育漬けで遊ぶ暇もほとんど無かった私にとって、彼女と遊んであげる事は私の失われていた少女時代を取り戻すような気さえした。遊んであげる、と言うよりも、フランと遊んでもらっている、といったほうが正しいのかもしれなかった。

 本来なら玩具で遊ぶ私の姿は孫娘の遊びに思わず熱を上げる愉快な祖母のように映るはずであったが、自然の法則をねじ曲げた外見を持つ私は、まるで彼女と本当の姉妹であるように見えたに違いない。

 フランは年齢相応の物事への好奇心に満ち溢れていたが、それはしばしば好ましくない方向へも向かった。彼女にはよく遊んでいる人形や玩具を意図的に壊してしまう悪癖があった。

 私はそのたびに叱責をしたが、フランはただ中身が気になっただけだと特に悪びれる様子はいつもなく、何故怒られなければならないのかとでも言うふうに状況を飲み込めていない様子であった。罪の意識のない子供にそれ以上厳しく言うのはなんとなく憚られたため、私はフランに物を壊すことはいけないことだ、と丁寧に言葉で何度も説明したつもりであったが、彼女にはどうも腑に落ちないところがあるようであった。

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