毎月毎月、その封筒は一定の厚さを保っていた。
だがどうだろうか、この日に届いた封筒はやたらと薄く、受け取った瞬間、霧雨魔理沙の脳裏に凶兆めいたものが走ったのだった。
「たしかに渡しましたからね、魔理沙さん」
新聞屋の射命丸文は、時折こうして郵便屋も兼ねていたりする。
そんな文の言葉もろくすっぽ届かず、魔理沙の指先はわなわなと震え、膝はがくがくと震え、おそるおそる開封してみるとどうだろうか、案の定である。
薄っぺらな封筒の中には薄っぺらな紙切れが一枚。不合格通知ではない。それは父親からの手紙であった。
「…くっ」
とうとう腰が砕け、へたりと座り込んだ姿勢のまま魔理沙はしばし動けなくなってしまった。頭の中を巡る巡るは明日への漠然とした不安。
いったい何が少女にここまでショックを与えたのだろうか。
そう、その一枚の紙切れには、父の仕事の失敗と、それにより仕送りが不可能となった旨が、淡々とした文体で綴られていたのだった。
仲の悪い実の父親から叩きつけられた予想外のアクシデントは、この先、魔理沙の生活を大きく狂わせて行くことになる。
こうなることを、魔理沙は予想していなかったわけではない。
前々から父の店が危ないということは短い手紙のやり取りの中で薄々勘付いてはいたのだ。
だが、性根がどこか楽天家に出来ているのか、もしくは見たくもない現実から目をそらし続けていたのか、仕送りが途絶えたときのことなどこれっぽっちも考えずに遊び惚けていたのだ。事実、霧雨魔法店なんぞというのも所詮はお遊びであり、もとより趣味の延長線上、実利を得られるとはこれっぽっちも思っていないし得られたことなどほとんどない。
『なぁにどうにかなるさ』という言葉はまことポジティブであり、魔理沙自身も好んで使っていたが、あまりにリアルな問題を目の前にするとどこか空々しいものがある。
とはいえ魔理沙、自分は主人公格の存在だからなんとかなるに違いないなどといった、幼稚な世界観を引きずった若者のような感覚がどこか拭い切れず、手紙を受け取ってからしばらくすると、その深刻さが次第に薄れてきた。
「なぁにどうにかなるさ。私は主人公格の存在だろうからな、仕送りがなんだっていうんだい」
そのまんまのセリフを自分に言い聞かせ、ベッドに寝転んでみたものの、事実として手の平と足の裏には脂汗が滲んでおり、不吉な動悸が苦しい。落ち着き無く寝返りを打つその様はまさに七転八倒。これまでの生活が嫌でも変わってしまうという、曖昧な輪郭をした恐怖が魔理沙の頭上でゲヘヘと笑う。
「大丈夫、なんとかなるぜ、なんとか、なんとか、なんとか、」
その場しのぎの言葉を呟き、この日は明け方近くまで悶々としながらようやく眠りに落ちたのだった。
ほぼ勘当状態にありながらも今まで自分を養ってくれた父親が夢枕に出てきたのだが、やはりゲヘヘと意地悪に笑っていた。
翌日のことである。
普段起きないぞっという早い時間にふと目を覚ましてしまったのは、精神状態が良好でないからであろう。
それまでののほほんとした昨日と、得体の知れぬ恐怖が待ち受ける今日との間には、何か越えられない断絶線のようなものが感じられる。
昇り切っていない朝日に焦りを覚える日がこれまであっただろうか?居ても立ってもいられず、魔理沙が脚を運んだところはといえば博霊神社であった。
どうしてこんなチョイスをしてしまったんだろう?
魔理沙は鳥居をくぐり抜けながらふと思った。冬の早朝は肌を刺すような寒さで、その心持ちと正反対に景色は黄色い朝陽でキラキラと眩しかった。
砂利道を踏みしめると冷たい音がして、ふと前を見るとどうだろうか、そこには見慣れた紅白の巫女が箒を持っているではないか。
「あら魔理沙、ずいぶんと朝早いじゃないの」
「なんだ、お前こそこんな時間から起きてるのか」
「毎日そうよ。それはそうと、魔理沙何かあったの?」
「は?」
「なんだか昨日は様子がおかしかったって、文がうちに新聞を突っ込みざまに言ってたわよ。そういえばばあんた、ずいぶんと顔色悪いわね?」
「あの鴉め…」
狭い狭い幻想郷のネットワークである。こと噂話はすぐに広まるものであるが、ああ、まさかこんなにも早いとは。
魔理沙はといえば、本音としてはあまりこのことを知られたくなかった。なにせ性根がちょっとばかり見栄っ張りな魔理沙である。周囲には喰わねど高楊枝を貫くつもりでおり、自分がメソメソと小銭に困窮しているとは思われたくなかったのだ。
だが、どうだろうか、霊夢の落ち着いた目を見ていると心がちょっとばかり緩み、精神的な疲れもあってか魔理沙は今の状況をべらべらと話してしまった。疲れは人の心を弱くさせるものがある。
「へぇ、それにしても、あんた親からの仕送りで暮らしてたんだ、知らなかったわ」
「あまり胸を張って言えることじゃないからな。所詮私は親のスネを齧ってたってことだよ、恥ずかしいけどな」
「あら、恥ずかしいことなんてないわ。私も似たようなものだしね。紫のお小遣いが頼みよ」
「…お前、賽銭で暮らしてるんじゃなかったのか?」
「なによそれ。そんなんで暮らしていけるわけないじゃないの」
「あーあ、私も幻想郷に毒されたぜ」
「まぁ、私もそんな身分なのよ。だからちょっとくらい神社の仕事はしようかなって思って早起きしてるわけ」
「霊夢、お前って偉かったんだなぁ」
「よくサボったりもするけどね」
こうしたやり取りを繰り返すうちに、自然と心が軽くなっていくのを感じた。
打ち明け話は進み、友人の大切さという言葉は嘘じゃなかったんだと魔理沙は実感、ちょっとだけ目が潤んでしまったのを帽子で隠した。こうなると次から次へと言葉が溢れ出て、止まることを知らなかった。すると先ほどまでの暗雲は忽ち消え去り、自然と心がフワリと軽くなってゆく。
(なるほど、私が博霊神社に求めていたのは、気兼ねなく話せる友人か)と魔理沙は理解したのであった。
「藍とかは毎日毎日何してるんだ?」
「宴会や例大祭が近付けばその準備に追われてるけど、それ以外のときは私と同じ雑務よ、あとは橙の世話」
「じゃあ橙は何してるんだ?」
「子供は遊ぶのがお仕事よ。まぁ、他所の詮索はともかくとして、ところであなた今後についての具体的なことって考えてるの?」
「さぁなぁ、まったく考えられないぜ。今までさんざ魔法少女を気取ってた私だからなぁ、生計を立てるとかリアルなことって想像したこともなかったんだ」
これこそが魔理沙の本心である。つまりはさっぱり分からないのである。
弾幕だ、お宝だ、魔法だ研究だ、それ異変だびゅーん、などとお気楽に暮らしていた魔理沙にとっては、仕事だの生活だのという実感そのものが未だ非常に希薄なのだ。もちろんまだまだ若年者であるのもその一因であり、仕送りに全てを委ねていたというのも要因の一つだろう。
そんなもんだから、これから何をすればいいのかまったく分からず、それゆえに『なにかおそろしいことが起こっちまうぞ』という得体の知れない恐怖がひたすら魔理沙の胸をキリキリと締め付ける羽目になる。
「たとえばの話よ?萃香はいつもフラフラしてるように見えるけど、どうやって生活してると思う?」
「あいつ、ただのヒッピーじゃなかったのか?」
「…違うわ」
軽い冗談に、ちょっとだけ霊夢の目が鋭くなり魔理沙は思わずたじろいだ。
子供の悪ふざけを大人がピシャリと制するかのような、そんな怖さと凄味を湛えていたのだ。
霊夢にこんな目ができるだなんて、魔理沙は思ってもみなかった。
「萃香はね、あのひょうたんから湧いて出てくる酒を売ってるのよ」
「なんだ、意外と想像通りだな。でも、なんだかそれってズルいような、」
「そうなの、人によってはズルいと思うかもしれない。でも萃香は長年生きてるだけあってそれも知ってる。だから萃香は少量しか売らないって決めてるのよ。あくまで、自分一人が、一日だけ生活できるような、そんな量しか他人に売ったりしない。もしも萃香があの酒を大量に回し始めたらどうなると思う?人間の里で酒造を営んでいる人達の仕事を、一挙に食い潰しちゃうのよ。そうなれば相当な恨みを買ってしまうだろうし、萃香も鬼とはいってもそうした遣り口は望んでない。だからこそ、日銭を稼いだ後はそれ以上仕事をしないでフラフラしてるってわけ」
「ほー…」
「ま、そうした能力があるっていうのは羨ましいし、やっぱりちょっとズルいと思っちゃうわよね」
そう言いクスクスと笑う霊夢の横顔は普段の少女に戻っており、魔理沙は安心した。
しかしまぁ、どの世の中にも色々な事情があるのだなぁと、月並みな感慨を覚えた魔理沙であったが、同時に、果たして自分には萃香のように社会を考えられるだけの素養があるだろうかと不安にもなった。内心、ちょっとばかり萃香のことを見下していたからこそヒッピーなどという発言が出たのだが、そのアホウっぽい萃香も言うまでもなく一人前の存在なのだ。そう思うと笑えないものがある。
「魔理沙も、なんかそういうの探してみたら?」
「ったく軽く言ってくれるぜ。私だって何かしらして働かなきゃならないとは思ってるぜ、でもな、」
「でも?」
脳裏に浮かぶのは先日の手紙。
仕送りが途切れることはもちろんショックであった。だがしかし、それと同じくらいショックを受けたのは父親の失敗という事実であった。
つまりは、父は何かの形で仕事をしくじったのだ。これが魔理沙の心の深い部分にザクリと深い傷を残している。
(父が出来なかったのだ。それが私に出来るだろうか?)
その感情は魔理沙を余計に労働から遠のかせている。「働かなきゃならないとは思ってるぜ、でもな、」の続きは「でもな、怖いんだ」なのだ。ましてや霧雨魔法店の再開など出来るであろうか?店を持てば父親の二の轍を踏むことが目に見えており、あれにばかりは決して手を出すまいと決心している。
「…なんでもないぜ」
「よく分からないけど、大変なのね」
あっ、こいつ他人事のように言いやがって、と魔理沙は内心毒づいた。
いっぱしに社会を語るこの霊夢も、所詮はヌクヌクした家の中から眺めてるだけじゃないか、それに比べ私は裸で放り出されたも同然なんだぞ。そう思うと魔理沙、急に霊夢の境遇が羨ましくて羨ましくてたまらなくなった。背後に庇護者がいるというのはなんと安心できることか。
するとどうだろうか、労働拒否の態度と、恨み妬みと、その他諸々が魔理沙の脳内で負の反応を起こし、一つの答えを導き出したのだ。
「ところでさっきの話だけどさ、紫って、二人も三人も養えるほどの力を持ってるんだなぁ」
「あまり他所の家庭事情は詮索しないでって、言ったでしょ?」
「いやいや、別にどうしてだのという話を聞きたいわけじゃないんだ。しかしまぁ、なんとも余裕があるんだな」
「…魔理沙」
「え?」
「あなたまさか、『紫に養ってもらいたい』とか言い出さないわよね?やめてよね、そういうの」
図星であった。先回りされてドンピシャの釘を刺された魔理沙は絶句。
言い逃れをすることもできずに閉口するばかりであり、このとき、魔理沙は親友の霊夢の目に冷たい軽蔑の色を見た。
堕落した人間を見る、そんなひややかな色だった。
「忘れてあげるわ。でも、二度とそういうこと言わないでよね」
帰り道の頃にはすでに太陽は昇り、小春日和の陽気を見せていた。
しかし魔理沙の精神状態は裏腹で、箒を握る手はといえばわなわなと震えていたのだった。
「なんだよ、あいつ…」
それだけが、辛うじて魔理沙が吐いた精一杯の負け惜しみである。
下卑た人間だと思われてしまった。屈辱、その原因は100%で魔理沙にあるのだが、今まで経験したことのない種類の敗北感、惨めさが魔理沙の胸を覆う。
『いやいや冗談だぜぇ』などとおどけて回避してみたりもしたが、すでに霊夢にはそれが本心、本音であることが看破されており、話をさっさと切り上げ逃げるように飛んだのだ。まこと惨め、惨めな敗走である。
「ったく、たかが生活費の問題だってのに、どうしてこんな気持ちになるんだ」
そんなたかが生活費の問題が、次第に魔理沙をじわじわと締め付けてゆくのは言うまでもない。
これまでの仕送りをこっそり貯金しておくなどといった知恵が回らなかった魔理沙は、現在すでに困窮の最中におり、一週間、二週間が過ぎた時点ですっかり干上がってしまった。
メシを喰おうにも食材を買う金がいよいよ底を尽きはじめ、今更のように倹約倹約を叫んでみても結局のところ延命でしかないのである。あまり今まで現実感が無かったこの危機であるが、埋めがたい空腹感は言うまでも無く現実だと悟った。もちろんだが、交遊費なんぞも捻出できるわけもなく、めっかり家にひきこもりがち、おまけに何もしてないのに腹は空くというトホホな状態。
こうした事態に陥ってようやく魔理沙は生活設計をリアルに考えだしたのだが。
「そうだなぁ、まずは当面の金が欲しいぜ。にとりにでも頼んで河童どもに混じってエンジニアの真似事でもしてみようか?でもなぁ、次の給料日なんて言ってたら即身仏になっちまう。するとなんだ、まずは期間工、いや日雇いからか?」
日雇い労働者、という言葉に言いようのない嫌悪感を覚えた。
実態はともかくとして、日雇いという言葉はどうにもイメージの悪いものがあり未だ拭い切れないものがある。『そんなに困ってるのに贅沢言ってるんじゃねぇ』と言える者はオトナであるが、どうにもコドモの魔理沙にとっては避けねばならない事態に感ぜられた。
ぶつぶつと独り言を呟く魔理沙であるが、いざ実行というところに辿り着こうとするたびに蘇るのは父の失敗という事実。
ひょっとしてアイツはロクに働ける人間じゃなかったんじゃないか?という疑念まで起こり、ひょっとしたら私も職業に適していないダメ人間の類なのではないか?という負の想像が膨らむ。答えは『やってみなけりゃ分からない』のだが、にとりに仕事の失敗をこっぴどく叱られ挙句に解雇になったとしたら、魔理沙のプライドはズタズタにされるし、世間体も悪い。成功のイメージをもって臨もうにも、それにストップをかけるのが父の失敗である。どうにも失敗の図しか浮かばず、まこと余計なことをしてくれたと魔理沙は父を呪った。
「なんだってんだ、まったく。そもそも私には労働者の身分なんざ似合ってないんだ。もちろん雇用者なんぞにもなりたくない。そうだ、魔法の研究でもして成果でも上げようか?うん、そっちのほうが余程私に似合ってる。ちまちまやるのは云々、適性が云々、意欲が云々、」
そしてダメ人間の思考へ陥る魔理沙であった。
研究したとしても成果が出るのがいつ頃になるかをろくすっぽ考えておらず、研究期間中のメシをどうするのかも考えられず、成果が出なかったらどうするのかも、そもそも成果が対価へと繋がるのかも、何もかも考えていない。華々しい道には相応のリスキーな要素があるのだが、それを思考拒否し、ただただ憧れるのみの人間はいくら行動しようとも必ず死ぬ。
パチュリー・ノーレッジの助手として働くこともふとよぎったが、そもそも大魔道師と魔法使いですらない人間の分際には途方も無い隔たりがある。魔法に対しそれなりに造詣のある魔理沙は薄々そのことを理解していたからこそ、その選択肢を回避したのだが、次第に自分の想像が妄想でしかないのではないかと気付き始めると全てがアホらしくなった。
「ええい、知るか。何が悲しくて日銭が目当ての労働者にならなきゃいけないんだ。情熱を金に換えるのも浅ましいったらありゃしないぜ」
ついに不貞腐れて毛布に潜り込んだが、今までの魔理沙の生き方を鑑みるに仕方の無いものがある。
なにせ、弾幕だなんだと遊びまわっては楽しく酒を飲み、気が向いたら好きなだけ研究をし、お宝蒐集に没頭していた彼女なのだ。そのくせ、周囲からはやたらと人気があり、ちやほやされることが多く、知らず知らずのうちに魔理沙はそれを分相応と考えてしまったのだから、今更堅実な生活など考えられないのだ。
思慮熟考と自暴自棄を繰り返す日々を続けたある日、不意にひきこもり少女・魔理沙のドアがノックされた。
まったく誰とも会いたくなかった魔理沙ではあったが、こうして何者かが尋ねて来たとなると、何者であっても有難く感じられた。
「こんばんわ、魔理沙」
「アリスか…」
「あら、意外と元気そうね。ちょっと頬がこけてるけど」
「ちょっと疲れちゃってな。近頃ほとんど喰えてないし、あまり寝れないんだ」
「呆れた、まったく魔理沙らしくないわね」
「そんなことで呆れられても、ちょっと困る」
「呆れるわよ。たかが仕送りがどうのって話でしょ?人間ってどうしてそんな小さなことに悩んで壊れちゃうのかしら」
「壊れ気味なのは認めるが、人間ってな、お前が思ってる以上に大変なんだよ」
「人間のスケールに直しても、それは小さなこと。さっ、うちに来てシチューでも食べなさい」
「は?」
アリス・マーガトロイド。魔理沙にとって友人の一人だが、そのアリスの訪問は果たして魔理沙を救うのか、それともさらなる堕落への使者なのか。
少なくとも今の魔理沙にとっては後光射す天女のように思えたのだが。
「いいのか?」
「たいしたことじゃないって言ってるでしょ。そんな大層な恩に感じなくていいから、さっさと来なさいよ」
「アリスぅ」
「あらやだ、泣いてるの?」
「うぇ、うぇ、うぇ、アリス、アリス、うぇ、うぇ、うぇ、」
「もう、そんなになるまで苦しむ必要ないのに」
「すまない、アリス、すまない、うぇ、うぇ、うぇ、アリス、アリス、うぇ、」
かくして、魔理沙はアリスの家へ入り浸ることになった。
アリスの家はといえば、古風なロッジを思わせる風情で、中を覗けば各種各様の人形のコレクションたちが整然と並べられている。室内はすっきりと片付けられており、アリスが如何に几帳面な人柄であるかということが窺えるのだ。食器の類も余計な装飾の無いすっきりとした印象のものが多く、おまけにベッドはアロマの香りすら漂う。
「ここでゆっくりと考えればいいわ。急いで出した答えには良い結果が伴わないものよ」
「お世話になります」
「…よく分からないけど、あまり恐縮しなくていいわ。私がいいって言ってるんだもの。上海たちだってあなたを歓迎してるわ」
「厚く御礼申し上げます」
「気色悪いからやめなさい、それ」
「ありがとな、アリス」
こうなると魔理沙、始めのうちは二つの家を行ったり来たり繰り返していたが、次第に元の家に戻ることが少なくなり、やがて当然のごとく同棲へと至るのであった。
アリスのベッドのほかに魔理沙専用の布団が敷かれることもあったものの、これもやがて必要なくなり、共に寝ることにもなった。朝昼晩、食事には事欠かないなんとも優雅でお気楽な生活。とはいえ決してアリスは交遊費などを出してくれることはなく、家にひきこもりっぱなしであることに変わりは無い。
(ゆっくり考えるっていったって、何を考えりゃいいんだろう?)
緊迫感が完全に無くなり、安定を手にした魔理沙は以前のように必死こいて考えることをしなくなってきた。
ただ、毎日本を読み漁ったりするのみであり、その傍らではアリスが5時間も10時間も人形を作っていた。時にかなり夜遅くまで作業をしていたときもある。
「なぁ、アリスのそれって仕事か?」
「まぁそんなところね。そもそも私、人形作りがライフワークみたいなものだから、たまに人間の里にも卸したりしてるわ」
卸すという言葉に聞き馴染みの無い魔理沙であったが、この生活は傍から見ていて実にうらやましいものがあった。
好きなことを仕事にできるなんて、途方も無くステキなことだ、魔理沙はそう確信する。おまけにこの生活のゆとりはいったい何なのだろう。急にセコセコ働くことがバカバカしく思えた。今まで知らないアリスの側面を色々知ったりもしたのだが、魔理沙にはどうしても聞きたいことが一つあった。
「今日もポトフになるけど、いいわね?」
「ああ、アリスの作ったものはなんでも美味いからな」
無料だし、というゲスな言葉が出掛かって止めた魔理沙。
とはいえ、どうしてだろう?キッチンに立つアリスの後姿は常にウキウキしていて、なんだか生活ぶりを見てても楽しそうに見える。これまで割りとツンツンとした表情ばかり見てきたような気がするのだが、同棲生活を始めてからというものの笑顔しか見てない気がする。これが魔理沙にとってはむしろ少々不安であり、『どうしてここまで良くしてくれるんだ?』という疑問が嫌でも付きまとう
だが、聞いたら何かが変わってしまいそうで、このままの生活を保つべく黙っておくことにした。
しかし倦むものである。
数日、数週間と、こうもすることもなく、家に篭りっぱなしというのはヒマであり、興味のある本もあらかた読みつくしてしまった。
「なぁ、アリス、ちょっと本代だけでも貸してくれないか?」
「仕方ないわね?どれくらい必要なの?」
こうして金を握った魔理沙は久方ぶりの空を飛び、充分に羽を伸ばした。
近くをあてもなく散歩することはあったが、こうしてちょっと離れた書店まで脚を伸ばすということが、今の魔理沙にとってはたまらなく心地良い。ついつい寄り道などするうちに、顔の広い魔理沙は様々な友人たちと出会い、「しばらくぶりだね」「どうしてたの」などと話すうちに長引き、流れでそのまま軽く呑みに行くことになった。そんなに金の持ち合わせも無い(家に置いてきた)などと嘘をつき、この日は奢ってもらう次第になった。やがて夜も更けてきた。
「よう、ただいまアリス」
「…ずいぶんと遅かったじゃない」
「ちょっとにとりや椛に会っちゃってな、軽く御馳走になってきたんだ」
「魔理沙!アンタ私が渡したお金でそんなことしてたの!?」
今まで聞いたことも無いようなアリスの金切り声交じりの大声で怒鳴られ、魔理沙はたじろいだ。
「そ、そんなんじゃないぜ、本は本で買ってきたんだ。酒代はあいつらに奢ってもらって、」
「奢ってもらったって、そういうのあまり良くないわ、二度としないでよね」
「分かった、分かったぜ」
「それに、私もう晩御飯用意しちゃったのよ。しかも魔理沙が帰ってくるまでずっと食べるの待ってたんだから!」
「悪かった、悪かった、もう二度と、二度としないぜ、二度と…」
結局この日、アリスはこれ以上魔理沙と口を利くこともなく黙々と人形制作に取り掛かっていた。
アリスの細い指先で糸を引っ張ると人形は首を上下し、動作を確認するとアリスは安心したかのように次の糸を仕掛け始める。魔理沙は自分の生活という重要な糸がアリスによって握られている心地がした。無性に自分が情けなくなった。
これにすっかり懲りた魔理沙は、それからというもの極力アリスの機嫌を損ねないように努めた。
たまには紅茶を振舞ったり、自分で掃除や炊事を行ってみたり、夜遅くまで作業するアリスの肩を揉んだりしたときは「もっと、ここ、お願い」などと言われ操り人形と大差ない自分の身分を思い知らされたりもした。しかし、これが案外にも魔理沙の性に、不本意ながらも合っており、関係は大幅に改善。長い贖罪の期間を終え、またニコニコのアリスが戻ってきたのだ。
だが、どうした加減か、数ヶ月も過ぎるとアリスの作業時間は初めと比べてやたらと増えてきたではないか。
10時間どころか15時間近くも人形に向き合うことが続き、悪くすると徹夜をしていることも増えた。
作業時間がエスカレートを続けるある日、アリスが材料の買出しに行き家に一人残された魔理沙のもとへ訪れた者がいた。
「こーんにーちわー」
「なんだよ文か…」
「あやや、あまり歓迎されてないようですね」
「アリスは留守だぜ。残念だが出直してくるんだな」
「いえいえ、私が用があるのはアリスさんじゃなくて、魔理沙さんのほうなんですよ」
あっ、こいつタイミングを見計らっていやがったな、と気付いた。
とかくロクなことをしないことで有名な文である。やましいところのある魔理沙にとしては正直あまり応対したくなかったのだ。
「なんだか随分と見掛けなくなって、みなさん心配してますよ?いやいや、人気者はつらいですねぇ」
「それで、何の用事だよ。どうせ私の境遇を面白おかしく記事にして載せようっていうんだろ?その手には乗らないぜ」
「今日は仕事ではありません、私用ですよ。魔理沙さんに少しばかり忠告に参りまして」
「忠告だと?」
「ええ、魔理沙さん、今どういう生活をされてます?」
「お前も知っての通りだよ」
「まぁ、ヒモ生活と」
「くやしいけど、そんな感じだな」
「でも、それって本当に悪いことでしょうか?」
「は?」
白いブラウスの胸を張って、魔理沙の目をしげしげと見詰める文。
思わず目を逸らす魔理沙であったが、視界の端に、唇だけで笑うにんまりといやったらしい文の笑みを見た。
「私はですよ?そういうの悪いって思ってないんです。ヒモ生活なんて誰にだってできるようなことではありませんよ」
「まぁ、そうかな」
「ええ、その人に人間的魅力が無ければ決してできません。つまり魔理沙さんはその魅力を対価にアリスさんから報酬を貰っているんです」
「そいつは、なんだか言葉遊びじゃないのか」
「いえいえ、そんなことありませんよ。たとえば人間の世界でも、プロ未満で芸術やスポーツに思う存分打ち込んでいる人間なんて、家が金持ちか、背後にパトロンがいるかのどちらかです。パトロンたちはその人達の活躍や魅力、または将来性などに対して報酬を支払っている。それは何もやましいことではありませんよ」
なるほど、そういうものかもしれないと魔理沙は納得した。
「ただですねぇ、魔理沙さんの場合ですと少しばかり上手く行かないでしょうね」
「どういうことだよ」
「問題はアリスさんの方にあるんですよ。私は事情通ですからあの人のことをよーく知ってます。魔理沙さんはアリスさんのことをもっと良く観察するといいですよ」
「もったいぶるなぁ。忠告だっていうならさっさと言ってくれよ」
「あやや、以上が忠告です。あとは魔理沙さん次第。あと、これも言っておかなくちゃいけませんね」
鴉と新聞記者は死臭の漂う者に付きまとうのですよ、と付け加えて文は去っていった。
取り残された魔理沙は、いったい何が忠告かと、心の中で毒づいたが、どうにも不吉な気配が拭い切れなかった。
それから数日後、アリスの作業は加速度的にせわしなくなった。
寝るとき意外は手を動かし続けながらも、寝る時間そのものが削られるといった切り詰め具合である。
「なぁ、そろそろ休めよアリス」
「…私は充分休んでるわ」
「身体壊すぜ」
「壊れたら直せばいいのよ、人形みたいにね」
「なぁ、やっぱり私も手伝おうか?」
「触らないでっ!素人が手出しすると商品の出来が狂うんだから!こういうのって品質下がったら得意先から信用されなくなっちゃうの!アンタに分かる!?」
こうしたやり取りを繰り返すうちに、魔理沙は邪魔をしないことが一番の手伝いだと気付き、自分にやれることはただ家事全般を手伝ってやれるのみだと知った。
納期、という言葉はピンとこなかったが、どうやらアリスはそれに追われているとのことである。
「私だってね、いつもいつもこんなに切羽詰ってるわけじゃないの。そりゃ納期が迫ってくると徹夜もあるけどね、でも、こんな忙しいのは初めてなの」
「それってもしかして」
「魔理沙は何も気にしなくていいわ。私が好きでやっていることだもの」
「なぁ」
「何よ」
「ひょっとして私、出て行ったほうがいいか?」
「…私にだってそれくらいの甲斐性はあるわよ。一人が二人になったところで支えていけるくらいの器はあるわ。だからこうして無理してやってるんじゃない!」
今までというもの、アリスは一人きりで一人分の生活費を稼ぐのみであった。
だからこそ余裕のある暮らしを維持できていたものの、魔理沙一人が加わるとすぐに貯金が切り崩される赤字財政へと変わり、今になって急ピッチで仕事量を増やしているのだ。アリスの人形は品質の高さから需要があり、今までライフワークとお気楽に割り切って一定数のみ生産し、注文を断ることもあった。しかし、こうした事態になると多少無理してでも仕事を請け負うようになり、とはいえクオリティを落とすわけに行かず、それがアリスを苛烈な作業へと陥れている。
「私だって」
「え?」
「私だってこんな仕事がしたいわけじゃないの。なんでこんな地味なことしなきゃいけないのって、何度も思った。もっと時間とお金をかければ余程素晴らしい人形を仕上げられるのにって、思いながらも、相手方の注文通りに作らなくちゃいけなくて、くやしい思いを何度もした。そのたびに、私の人形師としてのプライドっていうのがね、傷付いていったの。分かる?私もうすでにボロボロなのよ。あなたと同棲生活をする前からも、ずっとそうだったの。でもね、だからといって他の仕事を選べないの。私って人前に出て何かするのが、苦手なのよ。だからなるべく人と接触しない仕事をと思ってこの道を選んだの。もちろん後悔してるわよ。こういう内職じみた作業を続ければ続けるほど、周囲とのコミュニケーション能力って育たないままになっちゃうものね。本当は世間知らずよ、私。そのことで陰口とかも叩かれてるってことも知ってる。みんな噂してるでしょう?アリスの奴はコミュ障だって言って、笑っているでしょう?だから今の私は、もう外に出る仕事ができないの。できるかもしれないけれど、自信が無いわ。人形師から抜け出せないの。あなたみたいに選択肢がある人が羨ましい」
納品予定のダンボールは大量に積み重ねられ部屋を圧迫し、ランプで照らされたアリスの影が黒く映る。
いびつな、異形の怪物のようなシルエットに魔理沙には見えた。
「ふふふ、ねえ、私の作った人形を業者が回収したあとどうなってると思う?その先には箱詰めや包装を丁寧に施す人達がいるの。その人達もきっと、私と同じようなどうしようもない思いを抱えているんだわ。そう思うと、苦しんでるのって私一人じゃないんだなぁって思って、意地悪だけど嬉しくなっちゃう」
「アリス、もう人形師なんてやめろよ。私もう出て行くからさ、今まで通りの生活に戻れよ」
「嫌よ」
「だから、なんでだよ!」
「私ね、あなたのことが好きなの」
ああ、愛の告白とは本来美しくあるべきではなかったのか。
少なくとも額に脂汗を浮かべ、憔悴した状態で言うべき言葉ではないのだが。
まこと痛々しい響きを持ったアリスの声を聞き、魔理沙は、これこそが地獄だと思った。
ヒモというが、どっちがどっちに主導権を持っているのだろうか。それは当事者同士でしか分からないのかもしれない。ただ、金銭を支配している側がそれを糸のように括り付け、相手を操り人形のように操ることもある。それは交友関係すらをも絶ち、家になかば軟禁状態に置くことであたかも人形のように独占することができるのだ。
さて、アリスはといえばその甲斐性が足りずにこうした地獄を作り出してしまったが、魔理沙はといえば「私が養ってやるから」などとその場限りのヒロイックな約束をし、それはそれで互いに抱き合い涙するといった美しい光景をちょっとばかり作り出したりもしたものの、結局はアリス家で味わった無銭飲食が忘れられず、ろくすっぽ仕事に就くことはなかった。やがて約束どおり鴉が降りてくるとその惨状を面白おかしく記事とし載せ、そのせいで魔理沙はあらゆる友人関係を失ってしまったが、一方、魔理沙の浮気性を疑っていたアリスは口には出さねどこれに安心した。霊夢がその記事を見て魔理沙との絶交を決めたことを、魔理沙は知らないままである。
数ヶ月、数年が経っても魔理沙は無職であり、余裕を欠いた生活の中、やがて二人は夕餉の鶏肉を多く喰った喰わないのケンカをして、繋がれていたはずの糸も今では切れかかっている。
アリスは相も変わらず人形師であった。
だがどうだろうか、この日に届いた封筒はやたらと薄く、受け取った瞬間、霧雨魔理沙の脳裏に凶兆めいたものが走ったのだった。
「たしかに渡しましたからね、魔理沙さん」
新聞屋の射命丸文は、時折こうして郵便屋も兼ねていたりする。
そんな文の言葉もろくすっぽ届かず、魔理沙の指先はわなわなと震え、膝はがくがくと震え、おそるおそる開封してみるとどうだろうか、案の定である。
薄っぺらな封筒の中には薄っぺらな紙切れが一枚。不合格通知ではない。それは父親からの手紙であった。
「…くっ」
とうとう腰が砕け、へたりと座り込んだ姿勢のまま魔理沙はしばし動けなくなってしまった。頭の中を巡る巡るは明日への漠然とした不安。
いったい何が少女にここまでショックを与えたのだろうか。
そう、その一枚の紙切れには、父の仕事の失敗と、それにより仕送りが不可能となった旨が、淡々とした文体で綴られていたのだった。
仲の悪い実の父親から叩きつけられた予想外のアクシデントは、この先、魔理沙の生活を大きく狂わせて行くことになる。
こうなることを、魔理沙は予想していなかったわけではない。
前々から父の店が危ないということは短い手紙のやり取りの中で薄々勘付いてはいたのだ。
だが、性根がどこか楽天家に出来ているのか、もしくは見たくもない現実から目をそらし続けていたのか、仕送りが途絶えたときのことなどこれっぽっちも考えずに遊び惚けていたのだ。事実、霧雨魔法店なんぞというのも所詮はお遊びであり、もとより趣味の延長線上、実利を得られるとはこれっぽっちも思っていないし得られたことなどほとんどない。
『なぁにどうにかなるさ』という言葉はまことポジティブであり、魔理沙自身も好んで使っていたが、あまりにリアルな問題を目の前にするとどこか空々しいものがある。
とはいえ魔理沙、自分は主人公格の存在だからなんとかなるに違いないなどといった、幼稚な世界観を引きずった若者のような感覚がどこか拭い切れず、手紙を受け取ってからしばらくすると、その深刻さが次第に薄れてきた。
「なぁにどうにかなるさ。私は主人公格の存在だろうからな、仕送りがなんだっていうんだい」
そのまんまのセリフを自分に言い聞かせ、ベッドに寝転んでみたものの、事実として手の平と足の裏には脂汗が滲んでおり、不吉な動悸が苦しい。落ち着き無く寝返りを打つその様はまさに七転八倒。これまでの生活が嫌でも変わってしまうという、曖昧な輪郭をした恐怖が魔理沙の頭上でゲヘヘと笑う。
「大丈夫、なんとかなるぜ、なんとか、なんとか、なんとか、」
その場しのぎの言葉を呟き、この日は明け方近くまで悶々としながらようやく眠りに落ちたのだった。
ほぼ勘当状態にありながらも今まで自分を養ってくれた父親が夢枕に出てきたのだが、やはりゲヘヘと意地悪に笑っていた。
翌日のことである。
普段起きないぞっという早い時間にふと目を覚ましてしまったのは、精神状態が良好でないからであろう。
それまでののほほんとした昨日と、得体の知れぬ恐怖が待ち受ける今日との間には、何か越えられない断絶線のようなものが感じられる。
昇り切っていない朝日に焦りを覚える日がこれまであっただろうか?居ても立ってもいられず、魔理沙が脚を運んだところはといえば博霊神社であった。
どうしてこんなチョイスをしてしまったんだろう?
魔理沙は鳥居をくぐり抜けながらふと思った。冬の早朝は肌を刺すような寒さで、その心持ちと正反対に景色は黄色い朝陽でキラキラと眩しかった。
砂利道を踏みしめると冷たい音がして、ふと前を見るとどうだろうか、そこには見慣れた紅白の巫女が箒を持っているではないか。
「あら魔理沙、ずいぶんと朝早いじゃないの」
「なんだ、お前こそこんな時間から起きてるのか」
「毎日そうよ。それはそうと、魔理沙何かあったの?」
「は?」
「なんだか昨日は様子がおかしかったって、文がうちに新聞を突っ込みざまに言ってたわよ。そういえばばあんた、ずいぶんと顔色悪いわね?」
「あの鴉め…」
狭い狭い幻想郷のネットワークである。こと噂話はすぐに広まるものであるが、ああ、まさかこんなにも早いとは。
魔理沙はといえば、本音としてはあまりこのことを知られたくなかった。なにせ性根がちょっとばかり見栄っ張りな魔理沙である。周囲には喰わねど高楊枝を貫くつもりでおり、自分がメソメソと小銭に困窮しているとは思われたくなかったのだ。
だが、どうだろうか、霊夢の落ち着いた目を見ていると心がちょっとばかり緩み、精神的な疲れもあってか魔理沙は今の状況をべらべらと話してしまった。疲れは人の心を弱くさせるものがある。
「へぇ、それにしても、あんた親からの仕送りで暮らしてたんだ、知らなかったわ」
「あまり胸を張って言えることじゃないからな。所詮私は親のスネを齧ってたってことだよ、恥ずかしいけどな」
「あら、恥ずかしいことなんてないわ。私も似たようなものだしね。紫のお小遣いが頼みよ」
「…お前、賽銭で暮らしてるんじゃなかったのか?」
「なによそれ。そんなんで暮らしていけるわけないじゃないの」
「あーあ、私も幻想郷に毒されたぜ」
「まぁ、私もそんな身分なのよ。だからちょっとくらい神社の仕事はしようかなって思って早起きしてるわけ」
「霊夢、お前って偉かったんだなぁ」
「よくサボったりもするけどね」
こうしたやり取りを繰り返すうちに、自然と心が軽くなっていくのを感じた。
打ち明け話は進み、友人の大切さという言葉は嘘じゃなかったんだと魔理沙は実感、ちょっとだけ目が潤んでしまったのを帽子で隠した。こうなると次から次へと言葉が溢れ出て、止まることを知らなかった。すると先ほどまでの暗雲は忽ち消え去り、自然と心がフワリと軽くなってゆく。
(なるほど、私が博霊神社に求めていたのは、気兼ねなく話せる友人か)と魔理沙は理解したのであった。
「藍とかは毎日毎日何してるんだ?」
「宴会や例大祭が近付けばその準備に追われてるけど、それ以外のときは私と同じ雑務よ、あとは橙の世話」
「じゃあ橙は何してるんだ?」
「子供は遊ぶのがお仕事よ。まぁ、他所の詮索はともかくとして、ところであなた今後についての具体的なことって考えてるの?」
「さぁなぁ、まったく考えられないぜ。今までさんざ魔法少女を気取ってた私だからなぁ、生計を立てるとかリアルなことって想像したこともなかったんだ」
これこそが魔理沙の本心である。つまりはさっぱり分からないのである。
弾幕だ、お宝だ、魔法だ研究だ、それ異変だびゅーん、などとお気楽に暮らしていた魔理沙にとっては、仕事だの生活だのという実感そのものが未だ非常に希薄なのだ。もちろんまだまだ若年者であるのもその一因であり、仕送りに全てを委ねていたというのも要因の一つだろう。
そんなもんだから、これから何をすればいいのかまったく分からず、それゆえに『なにかおそろしいことが起こっちまうぞ』という得体の知れない恐怖がひたすら魔理沙の胸をキリキリと締め付ける羽目になる。
「たとえばの話よ?萃香はいつもフラフラしてるように見えるけど、どうやって生活してると思う?」
「あいつ、ただのヒッピーじゃなかったのか?」
「…違うわ」
軽い冗談に、ちょっとだけ霊夢の目が鋭くなり魔理沙は思わずたじろいだ。
子供の悪ふざけを大人がピシャリと制するかのような、そんな怖さと凄味を湛えていたのだ。
霊夢にこんな目ができるだなんて、魔理沙は思ってもみなかった。
「萃香はね、あのひょうたんから湧いて出てくる酒を売ってるのよ」
「なんだ、意外と想像通りだな。でも、なんだかそれってズルいような、」
「そうなの、人によってはズルいと思うかもしれない。でも萃香は長年生きてるだけあってそれも知ってる。だから萃香は少量しか売らないって決めてるのよ。あくまで、自分一人が、一日だけ生活できるような、そんな量しか他人に売ったりしない。もしも萃香があの酒を大量に回し始めたらどうなると思う?人間の里で酒造を営んでいる人達の仕事を、一挙に食い潰しちゃうのよ。そうなれば相当な恨みを買ってしまうだろうし、萃香も鬼とはいってもそうした遣り口は望んでない。だからこそ、日銭を稼いだ後はそれ以上仕事をしないでフラフラしてるってわけ」
「ほー…」
「ま、そうした能力があるっていうのは羨ましいし、やっぱりちょっとズルいと思っちゃうわよね」
そう言いクスクスと笑う霊夢の横顔は普段の少女に戻っており、魔理沙は安心した。
しかしまぁ、どの世の中にも色々な事情があるのだなぁと、月並みな感慨を覚えた魔理沙であったが、同時に、果たして自分には萃香のように社会を考えられるだけの素養があるだろうかと不安にもなった。内心、ちょっとばかり萃香のことを見下していたからこそヒッピーなどという発言が出たのだが、そのアホウっぽい萃香も言うまでもなく一人前の存在なのだ。そう思うと笑えないものがある。
「魔理沙も、なんかそういうの探してみたら?」
「ったく軽く言ってくれるぜ。私だって何かしらして働かなきゃならないとは思ってるぜ、でもな、」
「でも?」
脳裏に浮かぶのは先日の手紙。
仕送りが途切れることはもちろんショックであった。だがしかし、それと同じくらいショックを受けたのは父親の失敗という事実であった。
つまりは、父は何かの形で仕事をしくじったのだ。これが魔理沙の心の深い部分にザクリと深い傷を残している。
(父が出来なかったのだ。それが私に出来るだろうか?)
その感情は魔理沙を余計に労働から遠のかせている。「働かなきゃならないとは思ってるぜ、でもな、」の続きは「でもな、怖いんだ」なのだ。ましてや霧雨魔法店の再開など出来るであろうか?店を持てば父親の二の轍を踏むことが目に見えており、あれにばかりは決して手を出すまいと決心している。
「…なんでもないぜ」
「よく分からないけど、大変なのね」
あっ、こいつ他人事のように言いやがって、と魔理沙は内心毒づいた。
いっぱしに社会を語るこの霊夢も、所詮はヌクヌクした家の中から眺めてるだけじゃないか、それに比べ私は裸で放り出されたも同然なんだぞ。そう思うと魔理沙、急に霊夢の境遇が羨ましくて羨ましくてたまらなくなった。背後に庇護者がいるというのはなんと安心できることか。
するとどうだろうか、労働拒否の態度と、恨み妬みと、その他諸々が魔理沙の脳内で負の反応を起こし、一つの答えを導き出したのだ。
「ところでさっきの話だけどさ、紫って、二人も三人も養えるほどの力を持ってるんだなぁ」
「あまり他所の家庭事情は詮索しないでって、言ったでしょ?」
「いやいや、別にどうしてだのという話を聞きたいわけじゃないんだ。しかしまぁ、なんとも余裕があるんだな」
「…魔理沙」
「え?」
「あなたまさか、『紫に養ってもらいたい』とか言い出さないわよね?やめてよね、そういうの」
図星であった。先回りされてドンピシャの釘を刺された魔理沙は絶句。
言い逃れをすることもできずに閉口するばかりであり、このとき、魔理沙は親友の霊夢の目に冷たい軽蔑の色を見た。
堕落した人間を見る、そんなひややかな色だった。
「忘れてあげるわ。でも、二度とそういうこと言わないでよね」
帰り道の頃にはすでに太陽は昇り、小春日和の陽気を見せていた。
しかし魔理沙の精神状態は裏腹で、箒を握る手はといえばわなわなと震えていたのだった。
「なんだよ、あいつ…」
それだけが、辛うじて魔理沙が吐いた精一杯の負け惜しみである。
下卑た人間だと思われてしまった。屈辱、その原因は100%で魔理沙にあるのだが、今まで経験したことのない種類の敗北感、惨めさが魔理沙の胸を覆う。
『いやいや冗談だぜぇ』などとおどけて回避してみたりもしたが、すでに霊夢にはそれが本心、本音であることが看破されており、話をさっさと切り上げ逃げるように飛んだのだ。まこと惨め、惨めな敗走である。
「ったく、たかが生活費の問題だってのに、どうしてこんな気持ちになるんだ」
そんなたかが生活費の問題が、次第に魔理沙をじわじわと締め付けてゆくのは言うまでもない。
これまでの仕送りをこっそり貯金しておくなどといった知恵が回らなかった魔理沙は、現在すでに困窮の最中におり、一週間、二週間が過ぎた時点ですっかり干上がってしまった。
メシを喰おうにも食材を買う金がいよいよ底を尽きはじめ、今更のように倹約倹約を叫んでみても結局のところ延命でしかないのである。あまり今まで現実感が無かったこの危機であるが、埋めがたい空腹感は言うまでも無く現実だと悟った。もちろんだが、交遊費なんぞも捻出できるわけもなく、めっかり家にひきこもりがち、おまけに何もしてないのに腹は空くというトホホな状態。
こうした事態に陥ってようやく魔理沙は生活設計をリアルに考えだしたのだが。
「そうだなぁ、まずは当面の金が欲しいぜ。にとりにでも頼んで河童どもに混じってエンジニアの真似事でもしてみようか?でもなぁ、次の給料日なんて言ってたら即身仏になっちまう。するとなんだ、まずは期間工、いや日雇いからか?」
日雇い労働者、という言葉に言いようのない嫌悪感を覚えた。
実態はともかくとして、日雇いという言葉はどうにもイメージの悪いものがあり未だ拭い切れないものがある。『そんなに困ってるのに贅沢言ってるんじゃねぇ』と言える者はオトナであるが、どうにもコドモの魔理沙にとっては避けねばならない事態に感ぜられた。
ぶつぶつと独り言を呟く魔理沙であるが、いざ実行というところに辿り着こうとするたびに蘇るのは父の失敗という事実。
ひょっとしてアイツはロクに働ける人間じゃなかったんじゃないか?という疑念まで起こり、ひょっとしたら私も職業に適していないダメ人間の類なのではないか?という負の想像が膨らむ。答えは『やってみなけりゃ分からない』のだが、にとりに仕事の失敗をこっぴどく叱られ挙句に解雇になったとしたら、魔理沙のプライドはズタズタにされるし、世間体も悪い。成功のイメージをもって臨もうにも、それにストップをかけるのが父の失敗である。どうにも失敗の図しか浮かばず、まこと余計なことをしてくれたと魔理沙は父を呪った。
「なんだってんだ、まったく。そもそも私には労働者の身分なんざ似合ってないんだ。もちろん雇用者なんぞにもなりたくない。そうだ、魔法の研究でもして成果でも上げようか?うん、そっちのほうが余程私に似合ってる。ちまちまやるのは云々、適性が云々、意欲が云々、」
そしてダメ人間の思考へ陥る魔理沙であった。
研究したとしても成果が出るのがいつ頃になるかをろくすっぽ考えておらず、研究期間中のメシをどうするのかも考えられず、成果が出なかったらどうするのかも、そもそも成果が対価へと繋がるのかも、何もかも考えていない。華々しい道には相応のリスキーな要素があるのだが、それを思考拒否し、ただただ憧れるのみの人間はいくら行動しようとも必ず死ぬ。
パチュリー・ノーレッジの助手として働くこともふとよぎったが、そもそも大魔道師と魔法使いですらない人間の分際には途方も無い隔たりがある。魔法に対しそれなりに造詣のある魔理沙は薄々そのことを理解していたからこそ、その選択肢を回避したのだが、次第に自分の想像が妄想でしかないのではないかと気付き始めると全てがアホらしくなった。
「ええい、知るか。何が悲しくて日銭が目当ての労働者にならなきゃいけないんだ。情熱を金に換えるのも浅ましいったらありゃしないぜ」
ついに不貞腐れて毛布に潜り込んだが、今までの魔理沙の生き方を鑑みるに仕方の無いものがある。
なにせ、弾幕だなんだと遊びまわっては楽しく酒を飲み、気が向いたら好きなだけ研究をし、お宝蒐集に没頭していた彼女なのだ。そのくせ、周囲からはやたらと人気があり、ちやほやされることが多く、知らず知らずのうちに魔理沙はそれを分相応と考えてしまったのだから、今更堅実な生活など考えられないのだ。
思慮熟考と自暴自棄を繰り返す日々を続けたある日、不意にひきこもり少女・魔理沙のドアがノックされた。
まったく誰とも会いたくなかった魔理沙ではあったが、こうして何者かが尋ねて来たとなると、何者であっても有難く感じられた。
「こんばんわ、魔理沙」
「アリスか…」
「あら、意外と元気そうね。ちょっと頬がこけてるけど」
「ちょっと疲れちゃってな。近頃ほとんど喰えてないし、あまり寝れないんだ」
「呆れた、まったく魔理沙らしくないわね」
「そんなことで呆れられても、ちょっと困る」
「呆れるわよ。たかが仕送りがどうのって話でしょ?人間ってどうしてそんな小さなことに悩んで壊れちゃうのかしら」
「壊れ気味なのは認めるが、人間ってな、お前が思ってる以上に大変なんだよ」
「人間のスケールに直しても、それは小さなこと。さっ、うちに来てシチューでも食べなさい」
「は?」
アリス・マーガトロイド。魔理沙にとって友人の一人だが、そのアリスの訪問は果たして魔理沙を救うのか、それともさらなる堕落への使者なのか。
少なくとも今の魔理沙にとっては後光射す天女のように思えたのだが。
「いいのか?」
「たいしたことじゃないって言ってるでしょ。そんな大層な恩に感じなくていいから、さっさと来なさいよ」
「アリスぅ」
「あらやだ、泣いてるの?」
「うぇ、うぇ、うぇ、アリス、アリス、うぇ、うぇ、うぇ、」
「もう、そんなになるまで苦しむ必要ないのに」
「すまない、アリス、すまない、うぇ、うぇ、うぇ、アリス、アリス、うぇ、」
かくして、魔理沙はアリスの家へ入り浸ることになった。
アリスの家はといえば、古風なロッジを思わせる風情で、中を覗けば各種各様の人形のコレクションたちが整然と並べられている。室内はすっきりと片付けられており、アリスが如何に几帳面な人柄であるかということが窺えるのだ。食器の類も余計な装飾の無いすっきりとした印象のものが多く、おまけにベッドはアロマの香りすら漂う。
「ここでゆっくりと考えればいいわ。急いで出した答えには良い結果が伴わないものよ」
「お世話になります」
「…よく分からないけど、あまり恐縮しなくていいわ。私がいいって言ってるんだもの。上海たちだってあなたを歓迎してるわ」
「厚く御礼申し上げます」
「気色悪いからやめなさい、それ」
「ありがとな、アリス」
こうなると魔理沙、始めのうちは二つの家を行ったり来たり繰り返していたが、次第に元の家に戻ることが少なくなり、やがて当然のごとく同棲へと至るのであった。
アリスのベッドのほかに魔理沙専用の布団が敷かれることもあったものの、これもやがて必要なくなり、共に寝ることにもなった。朝昼晩、食事には事欠かないなんとも優雅でお気楽な生活。とはいえ決してアリスは交遊費などを出してくれることはなく、家にひきこもりっぱなしであることに変わりは無い。
(ゆっくり考えるっていったって、何を考えりゃいいんだろう?)
緊迫感が完全に無くなり、安定を手にした魔理沙は以前のように必死こいて考えることをしなくなってきた。
ただ、毎日本を読み漁ったりするのみであり、その傍らではアリスが5時間も10時間も人形を作っていた。時にかなり夜遅くまで作業をしていたときもある。
「なぁ、アリスのそれって仕事か?」
「まぁそんなところね。そもそも私、人形作りがライフワークみたいなものだから、たまに人間の里にも卸したりしてるわ」
卸すという言葉に聞き馴染みの無い魔理沙であったが、この生活は傍から見ていて実にうらやましいものがあった。
好きなことを仕事にできるなんて、途方も無くステキなことだ、魔理沙はそう確信する。おまけにこの生活のゆとりはいったい何なのだろう。急にセコセコ働くことがバカバカしく思えた。今まで知らないアリスの側面を色々知ったりもしたのだが、魔理沙にはどうしても聞きたいことが一つあった。
「今日もポトフになるけど、いいわね?」
「ああ、アリスの作ったものはなんでも美味いからな」
無料だし、というゲスな言葉が出掛かって止めた魔理沙。
とはいえ、どうしてだろう?キッチンに立つアリスの後姿は常にウキウキしていて、なんだか生活ぶりを見てても楽しそうに見える。これまで割りとツンツンとした表情ばかり見てきたような気がするのだが、同棲生活を始めてからというものの笑顔しか見てない気がする。これが魔理沙にとってはむしろ少々不安であり、『どうしてここまで良くしてくれるんだ?』という疑問が嫌でも付きまとう
だが、聞いたら何かが変わってしまいそうで、このままの生活を保つべく黙っておくことにした。
しかし倦むものである。
数日、数週間と、こうもすることもなく、家に篭りっぱなしというのはヒマであり、興味のある本もあらかた読みつくしてしまった。
「なぁ、アリス、ちょっと本代だけでも貸してくれないか?」
「仕方ないわね?どれくらい必要なの?」
こうして金を握った魔理沙は久方ぶりの空を飛び、充分に羽を伸ばした。
近くをあてもなく散歩することはあったが、こうしてちょっと離れた書店まで脚を伸ばすということが、今の魔理沙にとってはたまらなく心地良い。ついつい寄り道などするうちに、顔の広い魔理沙は様々な友人たちと出会い、「しばらくぶりだね」「どうしてたの」などと話すうちに長引き、流れでそのまま軽く呑みに行くことになった。そんなに金の持ち合わせも無い(家に置いてきた)などと嘘をつき、この日は奢ってもらう次第になった。やがて夜も更けてきた。
「よう、ただいまアリス」
「…ずいぶんと遅かったじゃない」
「ちょっとにとりや椛に会っちゃってな、軽く御馳走になってきたんだ」
「魔理沙!アンタ私が渡したお金でそんなことしてたの!?」
今まで聞いたことも無いようなアリスの金切り声交じりの大声で怒鳴られ、魔理沙はたじろいだ。
「そ、そんなんじゃないぜ、本は本で買ってきたんだ。酒代はあいつらに奢ってもらって、」
「奢ってもらったって、そういうのあまり良くないわ、二度としないでよね」
「分かった、分かったぜ」
「それに、私もう晩御飯用意しちゃったのよ。しかも魔理沙が帰ってくるまでずっと食べるの待ってたんだから!」
「悪かった、悪かった、もう二度と、二度としないぜ、二度と…」
結局この日、アリスはこれ以上魔理沙と口を利くこともなく黙々と人形制作に取り掛かっていた。
アリスの細い指先で糸を引っ張ると人形は首を上下し、動作を確認するとアリスは安心したかのように次の糸を仕掛け始める。魔理沙は自分の生活という重要な糸がアリスによって握られている心地がした。無性に自分が情けなくなった。
これにすっかり懲りた魔理沙は、それからというもの極力アリスの機嫌を損ねないように努めた。
たまには紅茶を振舞ったり、自分で掃除や炊事を行ってみたり、夜遅くまで作業するアリスの肩を揉んだりしたときは「もっと、ここ、お願い」などと言われ操り人形と大差ない自分の身分を思い知らされたりもした。しかし、これが案外にも魔理沙の性に、不本意ながらも合っており、関係は大幅に改善。長い贖罪の期間を終え、またニコニコのアリスが戻ってきたのだ。
だが、どうした加減か、数ヶ月も過ぎるとアリスの作業時間は初めと比べてやたらと増えてきたではないか。
10時間どころか15時間近くも人形に向き合うことが続き、悪くすると徹夜をしていることも増えた。
作業時間がエスカレートを続けるある日、アリスが材料の買出しに行き家に一人残された魔理沙のもとへ訪れた者がいた。
「こーんにーちわー」
「なんだよ文か…」
「あやや、あまり歓迎されてないようですね」
「アリスは留守だぜ。残念だが出直してくるんだな」
「いえいえ、私が用があるのはアリスさんじゃなくて、魔理沙さんのほうなんですよ」
あっ、こいつタイミングを見計らっていやがったな、と気付いた。
とかくロクなことをしないことで有名な文である。やましいところのある魔理沙にとしては正直あまり応対したくなかったのだ。
「なんだか随分と見掛けなくなって、みなさん心配してますよ?いやいや、人気者はつらいですねぇ」
「それで、何の用事だよ。どうせ私の境遇を面白おかしく記事にして載せようっていうんだろ?その手には乗らないぜ」
「今日は仕事ではありません、私用ですよ。魔理沙さんに少しばかり忠告に参りまして」
「忠告だと?」
「ええ、魔理沙さん、今どういう生活をされてます?」
「お前も知っての通りだよ」
「まぁ、ヒモ生活と」
「くやしいけど、そんな感じだな」
「でも、それって本当に悪いことでしょうか?」
「は?」
白いブラウスの胸を張って、魔理沙の目をしげしげと見詰める文。
思わず目を逸らす魔理沙であったが、視界の端に、唇だけで笑うにんまりといやったらしい文の笑みを見た。
「私はですよ?そういうの悪いって思ってないんです。ヒモ生活なんて誰にだってできるようなことではありませんよ」
「まぁ、そうかな」
「ええ、その人に人間的魅力が無ければ決してできません。つまり魔理沙さんはその魅力を対価にアリスさんから報酬を貰っているんです」
「そいつは、なんだか言葉遊びじゃないのか」
「いえいえ、そんなことありませんよ。たとえば人間の世界でも、プロ未満で芸術やスポーツに思う存分打ち込んでいる人間なんて、家が金持ちか、背後にパトロンがいるかのどちらかです。パトロンたちはその人達の活躍や魅力、または将来性などに対して報酬を支払っている。それは何もやましいことではありませんよ」
なるほど、そういうものかもしれないと魔理沙は納得した。
「ただですねぇ、魔理沙さんの場合ですと少しばかり上手く行かないでしょうね」
「どういうことだよ」
「問題はアリスさんの方にあるんですよ。私は事情通ですからあの人のことをよーく知ってます。魔理沙さんはアリスさんのことをもっと良く観察するといいですよ」
「もったいぶるなぁ。忠告だっていうならさっさと言ってくれよ」
「あやや、以上が忠告です。あとは魔理沙さん次第。あと、これも言っておかなくちゃいけませんね」
鴉と新聞記者は死臭の漂う者に付きまとうのですよ、と付け加えて文は去っていった。
取り残された魔理沙は、いったい何が忠告かと、心の中で毒づいたが、どうにも不吉な気配が拭い切れなかった。
それから数日後、アリスの作業は加速度的にせわしなくなった。
寝るとき意外は手を動かし続けながらも、寝る時間そのものが削られるといった切り詰め具合である。
「なぁ、そろそろ休めよアリス」
「…私は充分休んでるわ」
「身体壊すぜ」
「壊れたら直せばいいのよ、人形みたいにね」
「なぁ、やっぱり私も手伝おうか?」
「触らないでっ!素人が手出しすると商品の出来が狂うんだから!こういうのって品質下がったら得意先から信用されなくなっちゃうの!アンタに分かる!?」
こうしたやり取りを繰り返すうちに、魔理沙は邪魔をしないことが一番の手伝いだと気付き、自分にやれることはただ家事全般を手伝ってやれるのみだと知った。
納期、という言葉はピンとこなかったが、どうやらアリスはそれに追われているとのことである。
「私だってね、いつもいつもこんなに切羽詰ってるわけじゃないの。そりゃ納期が迫ってくると徹夜もあるけどね、でも、こんな忙しいのは初めてなの」
「それってもしかして」
「魔理沙は何も気にしなくていいわ。私が好きでやっていることだもの」
「なぁ」
「何よ」
「ひょっとして私、出て行ったほうがいいか?」
「…私にだってそれくらいの甲斐性はあるわよ。一人が二人になったところで支えていけるくらいの器はあるわ。だからこうして無理してやってるんじゃない!」
今までというもの、アリスは一人きりで一人分の生活費を稼ぐのみであった。
だからこそ余裕のある暮らしを維持できていたものの、魔理沙一人が加わるとすぐに貯金が切り崩される赤字財政へと変わり、今になって急ピッチで仕事量を増やしているのだ。アリスの人形は品質の高さから需要があり、今までライフワークとお気楽に割り切って一定数のみ生産し、注文を断ることもあった。しかし、こうした事態になると多少無理してでも仕事を請け負うようになり、とはいえクオリティを落とすわけに行かず、それがアリスを苛烈な作業へと陥れている。
「私だって」
「え?」
「私だってこんな仕事がしたいわけじゃないの。なんでこんな地味なことしなきゃいけないのって、何度も思った。もっと時間とお金をかければ余程素晴らしい人形を仕上げられるのにって、思いながらも、相手方の注文通りに作らなくちゃいけなくて、くやしい思いを何度もした。そのたびに、私の人形師としてのプライドっていうのがね、傷付いていったの。分かる?私もうすでにボロボロなのよ。あなたと同棲生活をする前からも、ずっとそうだったの。でもね、だからといって他の仕事を選べないの。私って人前に出て何かするのが、苦手なのよ。だからなるべく人と接触しない仕事をと思ってこの道を選んだの。もちろん後悔してるわよ。こういう内職じみた作業を続ければ続けるほど、周囲とのコミュニケーション能力って育たないままになっちゃうものね。本当は世間知らずよ、私。そのことで陰口とかも叩かれてるってことも知ってる。みんな噂してるでしょう?アリスの奴はコミュ障だって言って、笑っているでしょう?だから今の私は、もう外に出る仕事ができないの。できるかもしれないけれど、自信が無いわ。人形師から抜け出せないの。あなたみたいに選択肢がある人が羨ましい」
納品予定のダンボールは大量に積み重ねられ部屋を圧迫し、ランプで照らされたアリスの影が黒く映る。
いびつな、異形の怪物のようなシルエットに魔理沙には見えた。
「ふふふ、ねえ、私の作った人形を業者が回収したあとどうなってると思う?その先には箱詰めや包装を丁寧に施す人達がいるの。その人達もきっと、私と同じようなどうしようもない思いを抱えているんだわ。そう思うと、苦しんでるのって私一人じゃないんだなぁって思って、意地悪だけど嬉しくなっちゃう」
「アリス、もう人形師なんてやめろよ。私もう出て行くからさ、今まで通りの生活に戻れよ」
「嫌よ」
「だから、なんでだよ!」
「私ね、あなたのことが好きなの」
ああ、愛の告白とは本来美しくあるべきではなかったのか。
少なくとも額に脂汗を浮かべ、憔悴した状態で言うべき言葉ではないのだが。
まこと痛々しい響きを持ったアリスの声を聞き、魔理沙は、これこそが地獄だと思った。
ヒモというが、どっちがどっちに主導権を持っているのだろうか。それは当事者同士でしか分からないのかもしれない。ただ、金銭を支配している側がそれを糸のように括り付け、相手を操り人形のように操ることもある。それは交友関係すらをも絶ち、家になかば軟禁状態に置くことであたかも人形のように独占することができるのだ。
さて、アリスはといえばその甲斐性が足りずにこうした地獄を作り出してしまったが、魔理沙はといえば「私が養ってやるから」などとその場限りのヒロイックな約束をし、それはそれで互いに抱き合い涙するといった美しい光景をちょっとばかり作り出したりもしたものの、結局はアリス家で味わった無銭飲食が忘れられず、ろくすっぽ仕事に就くことはなかった。やがて約束どおり鴉が降りてくるとその惨状を面白おかしく記事とし載せ、そのせいで魔理沙はあらゆる友人関係を失ってしまったが、一方、魔理沙の浮気性を疑っていたアリスは口には出さねどこれに安心した。霊夢がその記事を見て魔理沙との絶交を決めたことを、魔理沙は知らないままである。
数ヶ月、数年が経っても魔理沙は無職であり、余裕を欠いた生活の中、やがて二人は夕餉の鶏肉を多く喰った喰わないのケンカをして、繋がれていたはずの糸も今では切れかかっている。
アリスは相も変わらず人形師であった。
幻想郷の中なのにこの生々しさ、堪らなかったです。
後味の悪いストーリーですが,そういう感情を喚起するのも筆力だと思います.
アリスにミミズジュース飲ませて喜ぶような
場所に投稿した方がいい。
その方がもっと高い評価を受けられるでしょうね。
多分貴方は某画像サイトの疑似SSの作者と同じ人種なんでしょうなあ
あまりライト層読者の多いこの板向きではないかもしれん
こうしとけばなんでも深く見えると思い込んでるんですかね
堕落系は余り好まれないと思われる。
でも、文体とか小粋だし。私は嫌いじゃないです。たまに入ってるハッカ飴みたいな感じ。
場所を変えるべきと言っている人もいますが、この作品は規約には全く違反していないので気にしないでこれからも投稿を頑張ってください(私が言うまでもなく、元々そんな声を気にしたりしていないでしょうが)
幻想郷なのに無駄に現実的でネガネガした話が逆に上手くて、最後までざっくりと読ませてもらいました。
リアルにもいるよなぁこういうのと思いつつ、とりあえず魔理沙はそもそも勘当されたくせに仕送りなんぞもらってるんじゃねーよw と思わずにはいられませんでした。
自分のイメージとは違いましたが面白かったです。無理に救われなくてもいいかな
やはりあなたには相応しい場所が別にあると思いますよ
楽しんで読めました。
個人的にはこういうの好きです というか魔理沙が自分そっくりで笑えないや…
でも、この結末がしっくりくる 読了感も可もなく不可もなくといった感じ
強いていうならば、割と予想通りの展開だったかなと思うくらい。このまま深みにはまっていくのを見たいような、救われるのを見たいような…
「ヒモ」と「糸」を掛けたわけなんですが、まぁ、どうでもいいすね。
それにしても、ヒモの関係性って面白いなぁと思うわけです。
果たしてどっちがどっちをヒモとして糸を手繰っているのか、分からない。
養ってもらう側がブイブイ言わせてるのかと思いきや、よくよく見てるとそうでもない。
このあたりは観察してみると、または当事者になってみると思いのほか楽しいですよ。
たくさんのコメントありがとうございます。
たぶん自分はここではイロモノで、高評価をして下さった方々はモノズキというふうになるんだと思います。
でも、エログロをメインとした場に投稿するのもなんか違うなぁと思うのです。
そういうわけなので、本気で嫌な思いをした方はゴメンナサイ、次からは踏まぬようお願いします。
それでもまぁ、こちらとしましては低評価のコメントもしっかり読ませていただいてますし、点数だけの評価からも感じ入るものがあります。
すべてひっくるめて、読んでいただきありがとうございます。
博霊神社の誤字はパラレル要素を出すためにあえて間違えたんですかね
んなこたわかってんだよ
100にすべきか0にすべきか分からん
例えるなら、
「貯金が毎日ジワジワと減っていくが現実味が無く仕事はしなくちゃと思うけど今度にしよう」
と言う様な得体の知れない不安感や苦鳴が自分の心にダイレクトに突き刺さってくる(マゾ的な楽しみ方かもしれない)
新聞記者みたいなバックステップで前に進んでいくようなのも好きですが
あと、作風がなんやかんやと言うのは気にしないで良いと思います
規約に違反していないモノを住み分けがどうとか言うのは愚かな話です
同じ東方のSSには違いないのですから
幻想郷は(それを根底から破壊しない限り)全てを受け入れると言うのに全く情けない
これからも創作頑張って下さい。
「ありす は ごはん たべなくても だいじょうぶ なんだ ぜ」
幻想郷という世界の中で、ここまで現実味を帯びた問題を考えなければいけないとは。
そちらの方向に心を動かされたので、90点差し上げます。
こういう話をすんなりと読ませてしまう文章に憧れます
税が無い森の中、水は川から、薪は森から
捨食を会得すれば金なんて要らんだろうに