『雨の道に』
雨の音。
対抗するような風の音は、不自然なまでになく。この雨はしばらく続きそうであった。
既に、太陽が隠れ始めてから優に三時間は経過しているというのに、目の良い大男が空を一杯に見上げても、重雲が視野の端まで広がっていて。
そんな天気の中、わざわざ外を出歩くような奇人もなく。
平時であれば人で賑わう大通りには、人影一つなかった――――そのように、見えた。
先程述べたような、目の良い大男であっても、少し離れれば見つけられないかもしれないほど、目立たないながらも、大通りには一つの人影があった。
その人影は、顔を俯け、髪はしとどに濡れ、ただでさえ小さな背丈が、余計に、惨めなほどに小さく見える、幼い少女であった。
その少女は、雨宿りのつもりなのか、誰かの家の壁に背を預け、じっと濡れた地面を俯視ていた。
しかし、申し訳程度にしか飛び出ていない屋根下では、無情な雨は彼女に降り注ぎ続け。
染み込む場所もない雫は、俯いた彼女の髪先からぽたりぽたりと落ちていく。
慈悲の心のある人間が見れば、いや悪人であっても心動かさずには居られない、そんな無惨な光景。
だが、その光景を見る者は誰一人なく。
救いのない街中で、時間はただ過ぎていった。
ふと、前触れもなく少女は顔を上げる。
憔悴しきった表情に浮かぶ、年齢不相応に濁った目は或る物を見つけた。
それは、端的に事実だけで言えば、傘であった。
ただ、それを傘と呼ぶには、あまりにも違和感がある。
柄は朽ち、骨は曲がり、穴だらけ。
しかもその割に、人に使われた形跡はなく。
新品のまま時の経過により劣したような。
ような、というか、その傘は事実、新品のまま飽きて捨てられた傘であった。
放り投げられ、閉じたまま雨に当たり、柄は手に包まれず急ぐ人の足で蹴飛ばされ。
じっとその場で拾う者を待ち続けていた、そんな傘だったのだ。
しかし少女は、ふらふらと、ばちゃりばちゃりと、覚束ない足でぬかるんだ地面を、その傘に向かって一心に歩いた。
それだけが、この世界の希望であるかのように。暗闇で見つけた一筋の光明であるかのように。
少女も、同じであった。
かつての傘と同じように、何も知らないまま、捨てられた。
そして一人で、生きてきた。
そんな少女は、傘の元へ、歩き続けた。
傘に辿りつくまでの二丈もないような道で、少女は何度か地面に倒れこみそうになった。
瞼が瞳を永遠に覆い隠しそうになったことも。
しかし少女は、無事傘に辿り着いた。
いっぱいに伸ばした手が、触れる程度に届く、その距離まで。
少女は、笑った。
両手を伸ばして。
冷たくなりきった指先が、痛んだ傘に触れた瞬間。
少女は、事切れた。
ぐしゃり、と、泥が跳ねて少女と傘を汚す。
熱と生きる力を徒に奪っていた雨は、しかし泥を洗い流すことだけはなく。
少女は、最後に傘を抱き締めた。
雨はまだ、降り続けそうだ。
結局、雨は一晩続いた。
朝になり、もっとも早起きの者が表に出ると、昨日が嘘であるかのように燦々と注ぐ太陽に喜んだ。
大通りには、人影一つなかったが、しかし代わりに、不自然に抉れた跡があった。
誰かバカな奴が転んだのだろうと、その者はそのまま忘却した。
忘れられた。
最後の最後までも、あの一人と一つは。
大通りには、人影一つなかった。
雨の音。
対抗するような風の音は、不自然なまでになく。この雨はしばらく続きそうであった。
既に、太陽が隠れ始めてから優に三時間は経過しているというのに、目の良い大男が空を一杯に見上げても、重雲が視野の端まで広がっていて。
そんな天気の中、わざわざ外を出歩くような奇人もなく。
平時であれば人で賑わう大通りには、人影一つなかった――――そのように、見えた。
先程述べたような、目の良い大男であっても、少し離れれば見つけられないかもしれないほど、目立たないながらも、大通りには一つの人影があった。
その人影は、顔を俯け、髪はしとどに濡れ、ただでさえ小さな背丈が、余計に、惨めなほどに小さく見える、幼い少女であった。
その少女は、雨宿りのつもりなのか、誰かの家の壁に背を預け、じっと濡れた地面を俯視ていた。
しかし、申し訳程度にしか飛び出ていない屋根下では、無情な雨は彼女に降り注ぎ続け。
染み込む場所もない雫は、俯いた彼女の髪先からぽたりぽたりと落ちていく。
慈悲の心のある人間が見れば、いや悪人であっても心動かさずには居られない、そんな無惨な光景。
だが、その光景を見る者は誰一人なく。
救いのない街中で、時間はただ過ぎていった。
ふと、前触れもなく少女は顔を上げる。
憔悴しきった表情に浮かぶ、年齢不相応に濁った目は或る物を見つけた。
それは、端的に事実だけで言えば、傘であった。
ただ、それを傘と呼ぶには、あまりにも違和感がある。
柄は朽ち、骨は曲がり、穴だらけ。
しかもその割に、人に使われた形跡はなく。
新品のまま時の経過により劣したような。
ような、というか、その傘は事実、新品のまま飽きて捨てられた傘であった。
放り投げられ、閉じたまま雨に当たり、柄は手に包まれず急ぐ人の足で蹴飛ばされ。
じっとその場で拾う者を待ち続けていた、そんな傘だったのだ。
しかし少女は、ふらふらと、ばちゃりばちゃりと、覚束ない足でぬかるんだ地面を、その傘に向かって一心に歩いた。
それだけが、この世界の希望であるかのように。暗闇で見つけた一筋の光明であるかのように。
少女も、同じであった。
かつての傘と同じように、何も知らないまま、捨てられた。
そして一人で、生きてきた。
そんな少女は、傘の元へ、歩き続けた。
傘に辿りつくまでの二丈もないような道で、少女は何度か地面に倒れこみそうになった。
瞼が瞳を永遠に覆い隠しそうになったことも。
しかし少女は、無事傘に辿り着いた。
いっぱいに伸ばした手が、触れる程度に届く、その距離まで。
少女は、笑った。
両手を伸ばして。
冷たくなりきった指先が、痛んだ傘に触れた瞬間。
少女は、事切れた。
ぐしゃり、と、泥が跳ねて少女と傘を汚す。
熱と生きる力を徒に奪っていた雨は、しかし泥を洗い流すことだけはなく。
少女は、最後に傘を抱き締めた。
雨はまだ、降り続けそうだ。
結局、雨は一晩続いた。
朝になり、もっとも早起きの者が表に出ると、昨日が嘘であるかのように燦々と注ぐ太陽に喜んだ。
大通りには、人影一つなかったが、しかし代わりに、不自然に抉れた跡があった。
誰かバカな奴が転んだのだろうと、その者はそのまま忘却した。
忘れられた。
最後の最後までも、あの一人と一つは。
大通りには、人影一つなかった。