「なあ」
「なあに?」
囲炉裏端で、目の前に並べられた夕飯の膳を眺め、みよの父がぽつりとつぶやく。
台所に居るみよの母は、どこか戸惑い気味に聞こえる夫の声に首をかしげた。
「どうしたの?虫でも入ってた?」
「いや、そういうわけじゃないんだけどさ」
「?‥‥みよー!晩御飯よー!手洗ってらっしゃい!」
つっかけを脱ぎ、畳に上がりながら妻は外に声を張り上げる。はあい、と娘の声が家の外から響いた。
眼の前の膳には、山盛りの大根と菜っ葉の“かて飯”に、味噌汁と漬物。小鉢に入った少量のシカ肉の味噌焼きに、なんと鹿刺しが上がっていた。2切れ3切れ程度だが。
妻が囲炉裏端に座るのを見てから、彼は言葉を続けた。
「最近、肉、多くないか?」
「そう?今日も安かったのよ。シカの肉。嫌なの?」
「いや、鹿は好物だよ」
「でしょ?」
妻はそういうと、わたしも好きなのよねー、と嬉しそうな顔をする。
養豚場や食肉加工場が一般的にある訳ではない幻想郷では肉はご馳走である。最近、妖怪の山の神様のおかげで猪や鹿が増えているらしいとも聞くが、それでも大量消費されるほどではない。まあ、妻が安かったと言っているからこそ、こうして今日の夕飯に上がっているわけだけども。
代々家が農家であった彼からすれば、普通の夕飯に肉が出てくるのはちょっと違和感があるのだ。
「わあ!おニク!」
「ちょっとだけどね。今日も安かったから」
「じゃ、食べようか」
「いただきます!」
娘はパン、と手を合わせると、真っ先に鹿の生肉に箸を伸ばす。
「おいしー!」
「‥‥」
あまり上等な肉ではないので、結構硬く筋もあるのだが、娘は気にせずにブチっ!と豪快に噛み切ってむしゃむしゃやっている。隣を見れば妻も鹿刺しからもぐもぐやっている。‥‥二人とも、何もつけずに。
父は手元の膳を見る。小皿の上の鹿肉は、綺麗に血抜きをしてある。‥‥自分のは。妻と娘の、箸の先の肉をみれば、瑞々しく滴る赤い血液が。
彼の妻は鴉の妖獣である。生肉が好きなのは先刻承知だ。出会ったころは自分が喰われそうになったこともあるからして。あのころは本当に死ぬ思いを何度もしたものだ。それから色々あって、結婚して、こうして娘もできたわけだが、娘は最近まで、あまり妻のように肉好きな方では無かったはずなのだ。普通に美味しく食べている程度だった。ここ最近なのである。妻に好みが似てきたのは。‥‥生肉を、それも血の滴る肉を好んで食べるようになってきたのは。
「お前たち、好きだよなぁ。肉」
「お父さん嫌いなの?」
「いや、好きだよ?」
「やっぱり、血が疼くのよね。たまに食べたくなるの。こういうの」
「だよな」
「私も最近うずくの。血が!」
「!?」
「お、いい傾向。女の子だって肉は食べなくちゃ強くなれないわ。じゃなきゃ、またキョンシーに負けちゃうわよ」
「うん!」
「‥‥あれは特別な場合だろが。まあ、どんどん食べなさい」
「食べちゃったよ」
「早いな!」
あっという間に鹿刺しを平らげ、みそ焼きの小鉢も空にした娘は、自分の手に持つ小皿をじい、と見つめている。
「やめなさい」と妻がたしなめているが、目線は生肉から離れない。その視線に、父は出会ったばかりのころの妻の顔を思い出す。
‥‥自分を美味しそうに眺めていた妻の顔を。気が付けば、彼は手に持った小皿を娘に差し出していた。
「‥‥喰うか?」
「いいの!?」
「みそ焼きはあげないよ。俺が食うんだからな」
「ありがとう!」
「だめよ、あんまり甘やかしちゃ。みよ、獲物を分けてもらってるうちは配られた分だけ食べなさい。自分で獲物とれるようになってからよ。好きなだけ食べるのは。今日の獲物はお父ちゃんの育てた米を使って獲ってきたんだから」
「はふ」
「獲る違う。買う。獲物じゃない。晩御飯」
「あ!ごめんなさい!」
突如妻から発せられた野生の台詞に、父は速やかに突っ込んだ。
美味しそうに肉を食む娘。その姿は無邪気で、元気で、この上なく可愛い。羽は黒いが、彼には西の国に住むという天使のように見える。妻も同様だ。
しかし、最近彼は思うのだ。だんだん、母親の血が濃く出てきた娘を見るたびに、戸惑い気味な、その感情が。
‥‥いつか、自分のことを美味しそうと言って、肉を見る様な目で眺めてくるのではないかと。そのうち、娘も気が立って自分に反抗するようになる時が来る。そのとき、反抗する代わりに、昔の妻のように獲物を見る様な目で見られるのではないかと。‥‥その年頃の娘に嫌いと言われて大いにへこむ父親たちはたくさん知っている。だが、娘に美味しそうと言われる父親なんて、まずいない。知る限りいない。そのとき、自分はどんな顔をすればいいのだろうか?最近の娘の味覚の変化を見ていると、それはもうすぐなのではないかと、強く強く思うのだ。‥‥余計な心配だとおもいたい。ただ、娘に流されるように、妻まで最近、昔のような言動をする時があるのだ。さっきのように。黒い羽を持つ彼女達を見ていると、案外取り越し苦労ではないような気が、彼の胸に湧いてくるのだ。
「‥‥なあ、みよ」
「なに?」
突然、真面目な声を掛けられて、きょとん、とした顔で娘はこちらの顔を覗き込んでくる。
ちょっとためらったが、彼はそのセリフを口にした。言わずにはいられなかった。
「お父さんを食べるなよ」
「へ!?」
「いや、間違えた。お父さんのを食べるなよ」
「食べないよ?もうお腹いっぱいだもん」
「‥‥そうか」
――――お腹がいっぱいじゃなきゃ、喰うんだろうか。
「どうしたのよ」
「ううん。なんでもない。沢山食べすぎるとお腹壊すからさ」
「‥‥?」
夫の不可解な言動に、怪訝そうな顔をする妻。娘は気にせず、腹いっぱいと言ったくせに大根飯をかき込んでいる。そんな彼女達を横目に「また体、鍛えとこうかなぁ」と、彼はぼんやり口の中で呟いたのだった。
‥‥娘の友人の父親から、半妖ではない彼の娘まで最近生肉をむさぼりだしたことを聞き、二人して里の居酒屋で戦々恐々として肩を叩きあうことになるのは、そう遠くない未来の話である。
了
面白かったです
芳香ちゃん良いですね。子供たちも親しみが持てるキャラしていて夫婦漫才も楽しかったです。