「けーねせんせーも酷いよねー。お使いって、私達だって放課後なんだから遊びたいのに」
「みよちゃん。ここは我慢すべきだと思うよ」
「えー」
「悪いことしたのは私達なんだから」
「悪い事って、納得できないんだけどー」
「飛ぶ練習だっていってみよちゃんが屋根から飛び降りるのはまずかったかもしれないよ」
「こっちに飛んでって指示したのはハルちゃんだよね」
「か、瓦を蹴り落すことはなかったと思うよ」
「クッションだってハルちゃんが持ってきたのが寺子屋の座布団だったのもねー」
「だってほかになかったじゃない」
「ちゃんと着地できるって言ったのに、ハルちゃん心配してさぁ」
「着地はちゃんとできてたけど、もう少しずれてたら庭の松の木に引っかかってたよ。座布団があるから安心してまっすぐ飛べたと思うな」
「肝試しダメ!って言ってたお利口さんのすることじゃないとおもうんだけどー」
「こ、これは寺子屋の中でやったことだもん。別にお化けに危ない目されるわけじゃないし」
「ハルちゃんもなんかずれてるよね」
「そんなことないよ」
「そんなことあるよ。中途半端に良い子」
「私はちゃんと良い子だよ」
「良い子は自分で良い子って言わないよ」
夕暮れの秋空の下を、少女が二人、愚痴を言いあいながら歩いていた。二人の目的地は里はずれのお寺、命蓮寺である。
今日は慧音先生のお使いで来ている。風呂敷包みを両手でぶら下げ、背中にしょって。中にはお寺から借りた巻物や読本他が包まれており、二人は授業で使ったそれらを返しに来たのだ。‥‥またも寺子屋で騒動を起こした罰として。
今回はハルも共犯である。先ほどの二人の会話の通り、今日は二人そろって騒動を引き起こしたのだ。赤くじんわりと腫れた二人の額は、慧音の頭突きが二人に叩き込まれたことを示している。すっかり翼の毛が生え変わったみよと、軟膏のおかげで綺麗に手が治ったハルは、快気祝いとばかりに特別飛行訓練と称し、みよの屋根からの飛び降り、ならびに着地点への座布団ばらまき、破裂といった豪快な遊びをしたのである。
顛末はこうだ。放課後の寺子屋で、生え変わりの終わったすっきりした翼を羽ばたかせ、ぴょんと跳ねたみよは、思いのほか勢いがついてしまい寺子屋の屋根に飛び乗ってしまった。これを見たハルは、ただ飛び降りるだけじゃつまらないと、みよにコースを指示し、着地点まで滑空の練習をするように言ったのだ。数日前、肝試しは危ないとお利口な意見を述べたハルだったが、何から何までお利口ではなかった。鳥が羽ばたくのは自然の道理。ならば降りるのも自然の道理。道理に背いているわけではないのに何が危ないことがあろうか。‥‥道理と難しい言葉を使ったが、ハルがそのように感じているということであって、彼女達はそこまで難しいことを考えて判断したわけではない。簡単に屋根に飛び上がれるのなら、飛び降りるのもまた簡単なはず。そう思ったのだ。結局はみよもハルもまだまだ子供なのである。
その結果、飛び降りる瞬間みよが勢いをつけて屋根を蹴ったため屋根瓦が数枚落下し、盛大な音を立てて割れ、何事かと飛んできた慧音の前で、ハルが用意した寺子屋中の座布団に勢いよくみよが飛び降り、はじけ、あわれ座布団は綿をまき散らしながら土まみれで宙を舞ったのだ。
‥‥寺子屋の生徒の間ではそこそこ良い子という評判で通っている二人だが、実態はこの通り。
このようなとんでもないことをしでかすときは決まって二人きりの時なので、同級生の目撃者は大抵がおらず、怒られていることを周りが知らないために良い子と思われているだけなのだ。
結局、先生のすぺしゃるな頭突きで二人そろって悶絶した後で、さらに長々とお説教を喰らった挙句、罰として命蓮寺へのお使いを言いつけられた二人は、放課後の貴重な遊びの時間をそのために裂くことになったのだ。二人の背中に一つずつ背負われた風呂敷包みはずっしりとした重さを持って二人の肩に食い込む。風呂敷包みの重みがなんだか命蓮寺で見た地獄絵図で罪人や鬼が付けている枷のように思えて、とぼとぼと歩くお寺までの道のりは二人にとってちょっぴりみじめな気分であった。ときおり、道端の木の上からカラスが鳴く。あほー、と言っているように聞こえなくもない。みよが「うるさいよ!」とか言っているところを見ると、本当にあほと言われているのかもしれない。‥‥みよがカラス語を解するのかどうか、本人に聞いたことが無いので不明なのではあるが。
命蓮寺へのびる道の周りには、すでに稲刈りを終えて“はざがけ”をしている田んぼが続いている。木で組んだ櫓に掛けられた稲の穂は、香ばしい匂いを漂わせている。このにおいを嗅ぐと、間近に迫る秋祭りといよいよ来る冬の雪が合わせて思い出されて、ハルは切ない気分になる。でも、好きな匂いだ。
「いいにおいー」
「あ、こら!」
親友もこのにおいが好きなようである。いつの間にか落ち穂を拾って鼻に当てていた。
「返してきなよ!農家さんのお米だよ!」
「あっちのカラスが落として行った奴だよ。あげる、だってさ」
「あ、あげるって、みよちゃん、カラスさんの言葉分かるの?」
「さあ?」
「‥‥さあ、って」
「何だかそんなこと言ってるような気がしただけ。あ、カラスが持ってきたのはほんとだからね」
「ふーん‥‥」
友人のまたカッコいい一面が見れるかと思ったのだが、そうではなかったらしい。ハルがつまらなさそうな顔をするのを、みよは不思議そうに首をかしげてみていた。
***************
「あらあらあら!ご苦労様でした。重かったでしょう?ちょっと待っていてくださいね。いーちーりーん!」
命蓮寺の玄関で出迎えてくれた女性の住職さんは、満面の笑みで二人の労をねぎらってくれた。
奥の方に声を張り上げると、「ちょっと待っててね」と二人の持ってきた本をすべて片手で軽々と抱え、自分も奥の方にパタパタと駆けていく。その後ろ姿はどこかの友達の家のおばあちゃんのようだ。課外授業で来たことがあるので、二人ともこの住職さんには会ったことがあるのだが、その時はもうちょっと物静かな感じだったので、意外な一面を見られて二人はなんだか得した気分になった。
「いちりーん!」と叫ぶ声と、足音が遠ざかる。玄関から音が消えた。
「‥‥」
「‥‥」
「いっちゃったね」
「そうだね」
二人は住職さんが消えて行った方向を見つめて、静かに待っていた。
遠くでカラスのなく声がする。
「こないね」
「そうだね」
「‥‥」
「‥‥」
「ねえ」
「帰りにお墓覗いて行こうとか言わないでね」
「‥‥」
「‥‥」
「ハルちゃんのいけず」
「使い方間違ってると思うよ」
「おまたせっ」
『わあああああああっ』
待っていた声は突然後ろから聞こえた。
二人があわてて振り返ると、満面の笑みを浮かべた住職さんが、竹かごを持って立っていた。足音もなく。
「あらごめんなさい、びっくりさせちゃって」
「あ、ああああー、は、羽抜けるかと思った」
「痛かったよっ、みよちゃん。羽広げるときは周り見てよ!」
「あ、ごめん」
「はい、重たいの持って、よっぱら歩いてきて疲れたろー?これ、お土産に持っていって?」
「へ?」
「‥‥?」
竹かごの中に入っていたのは4つの桃だった。初秋に桃とは、滅多に食べることのできないご馳走である。
「桃だぁ!」
「ありがとうございます!」
「室で冷やしてたの。遠慮なく持って行ってちょうだい」
「いいんですか!?」
「わあ‥‥」
満面の笑みではしゃぐ二人を見て、住職さんも相好を崩す。
「ふふ。めんこいですねぇ、二人とも」
「へへへ」
「‥‥あら、もうお土産もらっていたのですね」
「!?」
「ふえっ!?」
またしても後ろから声が聞こえた。‥‥住職さんの声が。
「え!、えええ!?」
「あら、私が二人」
「え‥‥」
外から来た住職さんと、玄関の板の間に立つ住職さん。二人には一体全体何が起こっているのか分からない。
「え、えええ」
「ふた、ふたり‥‥」
「ふふふ」
「どうしたのです?そんな狸に化かされたような顔をして」
「!」
「狸!そうか!」
玄関の住職さんからあっさりと放たれたヒント。みよは、ばさっ!と羽を広げると、人差し指をびしっと住職さんに向け‥‥
「えーと」
どっちを指さしていいのか分からず、へにゃりと指を下に向けてしまった。二人の住職さんは相変わらず楽しそうに笑っている。
「ハルちゃん、どっち?」
「私に聞くの?」
「わ、わたし馬鹿だから」
「野生の勘は!?」
「野生じゃないよ!わたし野生じゃないよ!」
「あら、降参ですか?」
「あらら」
「ハルちゃん!」
「さ、さっき奥の方に入っていったし、足音もしなかったし‥‥」
「匂いはどっちも同じだよ!」
「それ野生だよ!十分野生の能力だよ!」
「そ、そうかなぁ?」
「そうだよ!え、えーと‥‥あなた!」
みよの手を取ると、ハルはその手をビシッと向ける。外から来た住職さんに。
――よっぱら歩いてきて疲れたろー?――
そんな言葉、住職さんから聞いたこともない。いや、幻想郷でも聞いたことない。間違いない。そんな変なことを言うのは、狸だ。狸は、こっちの住職さんだ。
自信満々に、自分を指さすハルを見て、“狸”の住職さんは「あら!」と驚いた顔をした。
「あら。私?」
「なんか、喋り方の雰囲気が違いましたもん。なんか、さっき」
「へえ。それだけで?」
住職さんはふっ、と二人を見下ろして笑う。――――薄目を開けて。
「ひ!?」
「へえ、私が狸だっていうんですねえ‥‥」
「そ、そうです!」
途端に住職さんから漂う威圧感。みよが小さく悲鳴を上げる。ハルも思わず涙が出そうになるのを、ぐっとこらえる。
「ほうほう。私が狸とは‥‥見上げた度胸ですねえ‥‥」
「ひ、ひいい‥‥」
「み、みよちゃん負けちゃダメだって!目そらすな!」
「おっかないってばさ」
自分より背の高いみよがぎゅうとしがみついてくる。こっちだって泣きそうなのではあるが、ハルは涙をこらえて狸の住職さんを睨み続けた。
「姐さーん。風呂敷持ってきましたけどー。って、あれ、何やってんですか」
「あ、一輪、ありがとう」
奥から響いてきた明るい声に、場の空気が少し緩む。頭巾をかぶった若いお姉さんが、奥の方から紫の手拭いを持って出てきた。
彼女は住職さんが二人いる光景を見て、やれやれとため息をついた。玄関に居た住職さんが、一輪と呼ばれたその女性に声を掛ける。
「こちらの方たちに桃を包んでさしあげて。桃はそちらの私が持ってますから」
「はいはい」
「‥‥」
「‥‥」
さも二人いるのが当然とでもいうように、全くこの状況を気にしている様子もない一輪という女の人。淡々と場の状況が進行していく様子に、二人は面食らう。
つっかけを履いて三和土に降りる一輪さんは困惑しきりの二人を見て、ごめんねーと笑った。
「えーと‥‥」
「そろそろ種明かししてあげてくださいよ。あんまりふざけてちゃかわいそうですよ」
『はいはい』
二人そろって返事をした瞬間、ぼおん、と、住職さんの体が煙に包まれた。‥‥二人が睨んでいた三和土に立つ住職さんでなく、玄関の中に居る住職さんが。
「そっち!?」
「ざんねん、はずれじゃったな」
聞こえてきたのは鷹揚とした女性の声。煙が晴れた玄関には、茶色の服を着た女の人がたっていた。狸の尻尾を持った。
「驚かして申し訳ない。儂はここの居候でな。二ツ岩マミゾウと申す。見ての通りの化け狸じゃ。よろしくな。がきんちょ共」
――――がきんちょ。
むかっ。その言葉に、ハルの心の中のハルが「なんだとー!」と怒号を上げた。
静かにぶりぶり怒り出すハルをよそに、みよは気の抜けた様子で笑っている。
「は、ははは‥‥じゃあ、こっちが」
「はい、私が本物です。ごめんなさいね。ちょっとびっくりさせたくなっちゃって」
うふふ、と竹かごを持ったまま、本物の住職さんは笑った。
「じゃあ、あのしゃべり方も」
「咄嗟の“あどりぶ”にしちゃなかなかだったぞい。のう。越後の言葉を混ぜて」
「ふふふ。騙されてしまいましたか。まだまだでしたね」
「そんな‥‥」
「に、匂いは!?おんなじだったよ!?」
「見る聞く嗅ぐに味と手触り、五感すべて騙してこその化け狸じゃよ」
「ずるい‥‥それ反則‥‥」
「大人はずるいんですよ」
「!」
「姐さん‥‥」
むかっ、第二弾。呆れる一輪と暢気に笑う住職さんをよそにハルの頬がますます膨れてゆく。
――――『信じる者は救われる。前に騙される』。守矢の巫女さんの台詞が、なぜか頭に浮かんだ。別に彼女らを信じたりしたわけじゃないんだけども。
「しかし、儂が化けて出てくる前にその“あどりぶ”をしとったからな。大したもんだ、というか、分かっておったのか?儂が化けて来ることが」
「ふふふ。さあ?」
「‥‥この不良尼公め。それが坊さんのする顔か」
「うふふふ」
「ふあああ‥‥びっくりしたぁ‥‥」
「はははは。化け勝負、とりあえずは儂らの勝ちじゃな」
「勝負だったの!?」
「ぬきうちてすとじゃよ」
うー、と頬を膨らませるみよとハルをみて、楽しそうに笑う妖怪、いや、大人達。ハルの心が負けん気によってぐいぐいと立ち上がる。ぎっ、と歯を食いしばると、ハルは化け狸と住職さん交互にを睨んで、啖呵を切った。ちょっと涙目で。
「つ、次は負けませんからね!」
「おお、悪かった悪かった。そんな怖い顔するな」
ぶう、とさらに頬を膨らませて睨み付けるその様子を、見どころがあるわいとしゃがみ込んでマミゾウが頭を撫でてくる。姐さんもお茶目ですねえ、と一輪が笑っている。しばし笑いが命蓮寺の玄関に満ちた。怒るハルとは対照的に、大人たちのからかいを気にした様子もないみよが、あはは、とつられて笑い、「じゃあ‥‥」とマミゾウに尋ねる。
「じゃあ、お墓のお化けもマミゾウさんが‥‥」
「は?」
「はい?」
「え」
ハルの頭を撫でるマミゾウの手がぴたりと止まる。そしてすぐに手を横に振った。
「そりゃ儂じゃないぞい。小傘の奴じゃろ、まだうろついておるのか。いつの話だ?」
「先週ですけど」
「小傘ちゃんはこないだから守矢神社に出かけてますけどねえ」
「え‥‥」
大人たちはいっせいに、首をかしげた。
******************
「‥‥お化けの正体は少なくともあの狸さんじゃないってことだよね。じゃあ、やっぱりホントのお化けなのかな‥‥」
「居なかったじゃん、結局」
「そーだけどさー。じゃあ、先週お団子屋のおじさんが見たお化けってなんだったんだろ」
もらった桃を齧りながら、みよが夕焼け空を見上げてつぶやく。
あのあと、マミゾウ本人に案内してもらって、二人は命蓮寺の墓場を一周してきた。
夕焼けの下の墓場は静かで、誰かが居る様子はどこにもなかった。ずっとお化けを楽しみに(?)していたみよはつまらなそうな顔をしていたが、しぶしぶ納得して二人は命蓮寺を後にしたのだ。
ハルはまだちょっぴり機嫌が悪かった。石を蹴飛ばして、また頬を膨らませる。
「どーでも良いじゃんそんなの。お化けなんて。あー、悔しいなぁ、この。大人だからって、ずるい」
「まださっきのこと怒ってんの?大人は関係ないんじゃない?みんなふざけて遊んでくれたんだよ。そんな気にすることないって」
「みよちゃんは良い子だよね、ほんと。素直でさ」
「‥‥ハルちゃんて結構負けず嫌いだよね」
「そう?」
あたしは馬鹿なだけだからーとつぶやいて、頭の後ろで腕を組んで、みよがぷっ、と桃の種を吐く。
賢くて強い子。数日前、女の人から言われた言葉が、ハルの頭の中でぐるぐるとまわる。あのときは褒められてうれしかったけれど、今日の自分は、馬鹿なことやって怒られて、おまけにまだまだ大人に敵わないって思い知らされて。子供な自分と、それは当然の事なのに、それに腹が立つ自分がイヤで。心の中で黒いもやが湧いてくるような気がして、それがまた悔しくて。
「うがー!」と吠えると、ハルは手に持った桃にかぶりついた。ぶしゅぶしゅ汁をまき散らしながら齧る。妖怪みたいに。‥‥ちょっぴり、強くなったような気がした。
「うわあ、豪快」
「ふんっ」
皮を投げ捨て、種を藪の中に吐き捨てる。さっさと早く帰ってご飯を食べよう。そう、ようやく気持ちを切り替えた時だった。
「いやああああああああ!」
「!」
「!?」
突然、森の方から悲鳴が響く。
二人は道の横に広がる暗がりを凝視して立ち止まった。
「なに!?」
「女の人の声だよ!」
声はすぐ近くから聞こえているように思える。藪はそんなに茂っておらず、腰の高さの笹林になっている。ハルとみよは顔を見合わせると思わず藪の中に飛び込んでいた。
「だれか!誰かいるんですか!」
「みよちゃん!こっち!」
二人で手を繋ぎながら進むやぶの中、先頭に立つハルは声の出所を見つけ、みよを引っ張る。
「お姉さん!?」
「あ、あなた、たち‥‥」
藪を抜けた先、大きな杉の木の根元で笹林が開けている場所があった。そこに、悲鳴の主が居た。
数日前、ハルとぶつかった、あの女の人だった。
転んだのか、着物は土にまみれ、頬からは血がにじんでいる。
「お姉さん!」
「大丈夫!?」
「す、すぐに逃げて!妖怪が、妖怪が!」
「え!?」
ハルの腕にしがみつき、青ざめた顔でハルに訴える女の人。ハルは戸惑い、ガクガクと揺さぶられるままだった。みよは後ろを振り向き、来た道を確認している。「ハルちゃん、どうする?」と聞かれて、ハルも後ろを振り向く。二人が歩いてきた道からここまで、そう遠くない。10代の少女の背丈でも、藪の向こう、そう遠くない距離に田んぼのはさがけが見えた。
大丈夫、そう判断したハルは、まず女の人に問いかける。
「おねえさん!どうしたの!?何があったの?妖怪って!?」
「坊やが、うちの、坊やが‥・・!」
「お姉さんの子供?」
「迷子になってしまって!キノコ、取りに来たんだけど、いつの間にかいなくなって‥‥!探してたんだけど、さっき、妖怪が‥‥!追いかけられて、もう、あの子かどこに行ったか分からなくなっちゃって‥‥!」
「妖怪が!?」
「こ、こんなとこで!?」
二人はここで妖怪に襲われたという女の人の言葉に目を丸くする。ここは命蓮寺からそう離れても居ないし、第一、里の中だ。こんなところで人間を襲おうものなら、どうなるか分からない妖怪など居るはずがない。
震える女の人の手を、ハルはぎゅっと握りしめる。あの日、手当てをしてもらったあの日に、あんなに頼もしかったはずの女の人が、こんなにも頼りなく見えるなんて。
ハルはつとめて静かな声で、動揺する女の人に尋ねる。
「お姉さん。お姉さんの子供はどっちの方に行ったの?」
「あ、あっち‥‥」
女の人の顔が向いたのは、命蓮寺の方向。
「さっき、叫び声が‥‥きっと、あっちに居るんだわ!」
「ハルちゃん‥‥」
みよが覗き込んでくる。二人はちょっと見詰め合うと、頷きあった。
「おねーさん、私達が来た方向に行けば、道に出られるよ。そこを通って、おねーさんは道の方からお寺に行って」
「あなた達!?」
「私達、坊やを探しに行くから。大丈夫だよ。お寺の方に行ったんでしょ?ここからお寺の裏、お墓の方にまっすぐ行くだけだから。途中で見つけたら、連れて行くから。見つからなくても、そのままお寺に行って、誰か連れてくるから」
「でも!」
「大丈夫、近道するだけだよ。私達、さっきお墓にも行ってきたところだもん」
「‥‥」
―――― 自分から危ない目に突っ込むべきではないと思うの。
いつかのこの女の人の言葉がハルの頭に浮かぶ。でも、大丈夫だ。さっき、お墓を歩いてお化けはいないって確かめたし、妖怪だって、こんなにお寺の近くなら手を出せないはず!
それに、薬と包帯の恩返しもしなくちゃ!
「じゃあ、お姉さん、急いでね!お寺はすぐそこだよ!」
「ちょっと!」
「みよちゃん!」
「了解!」
止める女の人の手を握って静かに離すと、二人はお墓の方に向かって駆け出した。夕暮れ時の、目の前の笹薮は、まるで壁のように見えたが、二人は構わずに突撃する。
がさりと藪をかき分けようとした、その時だった。
「ごめん、なさい‥‥おねがい、あの子を、お願い‥‥!」
「まーかせて!」
みよが、天を指さして笑う。それはこのあいだみよが話していた小説に出てくるカラスのお姉さんのきめポーズ。
「気を付けてね!」
心配そうなお姉さんの声を聴きながら、二人は藪の中へ突入していった。
「‥‥ほんとう、強い子だわ‥‥本当に‥‥」
一人残された女性が、藪を見てつぶやく。
「本当に、強くて‥‥お馬鹿さんなんだからぁ」
‥‥かくして、常識知らず達は死者の領域にと、足を踏み入れたのである。
***************
「みよちゃん、見える?」
「うーん、藪が深くてわかんない‥‥」
木の枝に飛び乗って辺りを見渡すみよだったが、そう簡単に目標が見つかる訳もなく。
ばさっ、と一回羽ばたくと、みよは下で待つハルの元に戻ってきた。
散々やった特訓のおかげで、みよはなめらかに着地する。
「お墓からはそんなに離れてないから、もう少し進めばお墓の端っこまで行けるよ」
「探していくのは無理だね。はやくお寺に行って、みんな呼んで来よう」
「うん」
二人とも、髪や羽が引っかかるのをものともせずに、藪の中をお墓に向かって突き進んでゆく。お姉さんがさっき言っていた、妖怪の気配もしない。
「ついたぁ!」
先頭を行くハルが叫ぶ。目の前の藪の向こうには、命蓮寺の墓場を囲む石塀が見えていた。手前には排水用の小さな堀があるが、今は水は溜まっていない。
がさがさと藪を抜け、二人は堀を駆け下り、石塀の下までたどり着く。
「ここから登れるかな‥‥」
「向うから行けるかも」
「みよちゃん、私かかえて飛べる?」
「それはまだ無理だよ‥‥」
みよ一人だけなら簡単に飛び越えられる石塀だが、ハルを抱えてはさすがに無理なため、二人は石塀が一段低くなっているところまで移動する。次々と増築しているのか、どうなのか、石塀はすべて同じつくりではなく、ところどころ高かったり低かったり、まちまちだ。そんないびつな塀の中に足が掛けられそうなくぼみを見つけ、二人は石塀をよじ登る。向こうに見えたのは、薄暗い、夜の墓場だった。気が付けば、日が落ちている。山陰に隠れた太陽はもう二人を照らしてくれない。まだ明るさを残す空を頼りに、二人は塀を乗り越え、墓場の中に降りた。
「あれ‥‥」
「どうしたの?」
パンパンと手についた土埃を払うと、みよはあたりを見回した。すんすん、と鼻を鳴らしている。
「あっちからなんか匂いがする」
「なんの」
「えーっと」
なんの匂いだっけ、と考え込むみよ。ハルは答えを聞かずに、みよが指差した方向に歩いてみる。
青白いゆうやみの光が満ちる墓場は、やっぱり少し怖い。みよが付いてくる足音を聞きながら、ハルはゆっくりと墓の中を歩いて行った。
「こっち?」
「そう、そっち‥‥あーっ!」
「ひい!?」
突然大声を出すみよにハルの肩がびくんと跳ねる。みよは走り出すと、ハルのところまで来た。
「なんなの!?」
「これこれ!」
青ざめるハルをよそに、みよはよいしょ、と手を伸ばし、傍らの墓に手を伸ばす。石の上には、何か白くて細長いものが引っ掛かっていた。
ゆらゆら風に揺れる正体不明の物体にハルはまたしても「ひい!?」と小さな悲鳴を上げるが、みよは躊躇なくそれを手に取る。
包帯だった。
「ほら、これこれ。こないだおねーさんからもらった薬の匂いだよ。これ」
「へ‥‥」
胸を張るみよの手に握られた包帯の匂いを、ハルは恐る恐る嗅いでみる。確かに、あの日お姉さんに塗ってもらった不思議な軟膏の匂いがした。と、いうことは。
「お姉さんの子供はお墓の中に居るんだ!」
「うん、よかったぁ、藪の中で迷ってるんじゃないんだ‥‥」
「案外、近くに居るのかも‥‥」
ハルはそういうと、あたりを見回す。空もすっかり夜の色に染まり、墓場はすっかり暗闇に包まれていた。
「‥‥」
「‥‥」
お姉さんの子供を探すと言って使命感に燃え、すっかりハイになっていたため、暗い墓場にも躊躇なく突入した二人だったが、冷静になると実は自分たちがとんでもないところに居るのだということが分かってきた。明かりも道案内も地図もなしに、夜の墓場の最深部に二人きり。普通の肝試しでもこんな難易度が高いものはない。
「‥‥そういやさ、みよちゃん」
「な、なに?」
「その、お団子屋のおじさんが言ってた“お化け”って、どんなの?」
「‥‥」
「みよちゃん?」
「ハルちゃんは知ってる?」
「私に聞かないでちょうだいな、みよ先生」
「‥‥」
「知らないんだね?」
「‥‥うん」
昼間お化けが居ないか確認したつもりだったが、そもそもどんな相手か分からないのだ。
気が付かなかっただけで、実は居たのかもしれない。
とんでもない状況に置かれていることに気が付き、二人の少女の頬に冷や汗が伝う。
「‥‥ハルちゃん。できればそれ、気が付かないでほしかったな」
「ごめん」
無茶苦茶なみよの抗議にも、なんとなく素直に謝ってしまうほどに。
「‥‥」
「とりあえずさ、は、早く、お寺にいこう」
「う、うん」
「‥‥」
「‥‥どっちに?」
「えっ」
おまけに、帰り道もわからないときたもんだ。
*******************