「……むぅ、寒い」
人間の里の大通りを歩きながら、私は誰にともなく呟いた。尻尾を丸めて、両腕で肩を抱く様にしても、吹きすさぶ風が避けられる訳もない。
今年もこの季節がやってきたかと思うと、増々寒くなる様な気がして頭を振った。冷えた耳が帽子に擦れて少し痛い。
幻想郷は地理的には山奥にあるから、冬の寒さが非常に厳しい。十一月にもなれば、もう完全に冬だ。その上妖怪の山から吹き下ろす山颪も冷たい。
すっかり冷え込んだ気候は火鉢に当たって尻尾を抱いても堪え難い物がある。勿論、尻尾のない人間にはもっと辛い季節だろう。
雪が降るには未だ暫くあるだろうが、里の人々は口を揃えて冬だと言う。さっきだって寄った豆腐屋の主人からも「こんなに寒いのに精がでますねぇ」と挨拶された。
しかし、まぁ、寒さはまだ良いのだ。人間だって寒冷の厳しさは理解している筈だし、故に凌ぐ術はいくらでもある。だから会話の始めに寒さの文句をまず交わすのはほんの様式美程度の物なのだろう。
それよりも今、私を憂鬱にしているのは「冬が来た」という根本的な問題に他ならない。暦が冬になると言う事は、つまり紫様が冬眠なさると同義である。
式神になってから幾度となく迎えた時ではあるが、私は未だに慣れていない。
紫様が眠ると屋敷の世話が要らなくなるから、式神達はみんな野生に還してしまう。主人は眠り、橙はなかなか帰ってこない。その間屋敷で動くのは私だけだ。
数ヶ月続くその沈黙は、生き地獄と形容してまず間違いない。
友人が居るなら少しは寂寥感も紛れるだろう。だが残念ながら私には友人が少ない。それはもう、両の手で足りる位だ。
立場上付き合いのある霊夢や慧音、阿求様。それから彼女達を取り巻く数人と問題なく盃を交わせるくらいで、他とはなんとなくぎこちない会話しかできない。式神の地位にかまけて色々と切り捨ててきた弊害である。
それにこの三人は、これまた立場上あまり易々と訪ねられる相手ではない。博麗の巫女は”本来であれば”妖怪とは相容れない存在だし、御阿礼の子も妖怪ばかり招いていてはその記述の如何を問われかねない。慧音だって基本的には人間の味方だ。
その上、交友関係を広げられるのかと問われれば、それもかなり厳しい。情けない事に私は初対面の相手とはなかなか話を広げられないのだ。狐の縄張り意識と、式神の学習速度限界が両方備わり足を引っ張る。
酒に任せたり、感情に任せればなんとかなるのだが。実際霊夢と最初に会った時も、橙を苛められた怒りに任せていたし。
気安い友は居らず、交友関係を構築するにはちょっと難しい。
つまり、今の私に出来るのは二つ。「一人で孤独に冬を越す覚悟を決める」か、或いは「早急に友人を作る努力を始める」か。
例年の私であれば、間違いなく前者を選択した事だろう。そうして過ごしてきたのが八雲藍という式神だからだ。
しかし、今の天秤は後者に傾きつつある。最近孤独の辛さを何となく理解し始めた私には、しかしそれを癒す友人が存在しない。今後の為に腹を決めるのが最良だろう。
「……むむ」
まぁ、そんな都合の良い相手が居る筈もないのだけれど。そもそもここは人間の里。人間なんかと仲良くなった所で、然程会わずに死んでしまう。
虚しいだけだ。
これまでにも何人かは、どういう訳だか道具である私と馬の合う人間も居たのだが、殆どは二度顔を合わせるまでに死んでしまった。
ああ、いかんいかん。
そんな諸行無常を託ちつつ、豆腐屋でおまけしてもらった大きないなり寿司をかじる。なんとなくマイナスに働いていた感情が相殺されて、俄に元気が出てきた。
そういえば、あの豆腐屋がこうして施しをしてくれる様になったのはつい最近の事だ。時候の挨拶を交わす様になったのも殆ど同じ時期……。
合わせて考えると、私が笑いながら話すのを心がけ始めた頃か。
チョロい……とは思わないが、案外コミュニケーションなんてそんなものなのかも知れない。
気持ちを改め、決意を新たにした私は、残ったお稲荷さんを一息に飲み込んだ。この気概の挫けぬうちに何か行動しなければ。友人……友人……。
しかし、当てがまるでないのだから始末に置けない。腹の奥にやり場のないやる気だけが残る。
どうにか発散しようとして、ぐるりと辺りを睨み回す。相当飢えた目つきをしていたのか、周囲の人間達が皆たじろいでしまった。嗚呼、もう。今日は空回りしてばかりだ。
小さく溜め息を吐いてから、ゆっくりと視線を戻していく。
「あ」
「ひっ」
正面の少年と視線がかち合った。私を正面から見つめたまま、全身を強ばらせて動こうとしない。幻想郷の人間の本能に刻まれた恐怖心の発現である。
私の失態だ、取り除いてやらなければ、とその子供に歩み寄って行く。近くの誰かが固唾を飲む音が聞こえた。
目の前で失禁直前の表情を浮かべるその頭にそっと手を乗せた。敵意はないと示す為に、精一杯笑顔を作りながら。
背丈は私よりもほんの僅かに高い。十と少しを数えたくらいの年齢だろうか。
その子は、一瞬目をまんまるにして……。
声の限りに絶叫した。
「で、私の所に来た、と」
「んむ。まあそんな所だ」
里から大きく離れた所にある、寂れた神社。現博麗の巫女がその務めを執り行う、幻想郷の最重要施設。少年を失禁させ、里人に刃物を持って追いかけ回された私は無様ながらそこに逃げ込んだのだった。
今回のは流石に応えたが、涙は既に止まっている。切り替えは割と早い方なのだ。
私の側頭部に乗ったお盆の上で器用にお茶を入れながら、霊夢は「バカじゃないの?」と辛辣に罵倒した。
「……ぐぅ」
実際我ながら助走つけて殴りたいレベルの愚行だったのだから否定は出来ない。怯え上がっている相手に、その上で近寄られたら、そりゃあ叫びたくもなるだろう。挙句、私の方も恥も外聞もなく泣き出して逃げたときている。
膝枕要求をしてスカートを涙で濡らした時の、霊夢の蔑む様な視線を避ける権利など、端から存在していないのであった。
「慣れない事なんかするからよ。式神なら式神らしくメカニックに行動してればいいの」
メカニックって、何?
「でも、私にだって寂寥感の欠片くらいはあるんだよ。寂しいのは寂しいし、そのせいで狂う事もある」
正に先ほど体験してきた事だ。
「わっかんないわねぇ。友達が居たって寂しいもんは寂しいって出来てるのよ。大体、あんたそんなに必死になって何がしたいの?」
「……盃を交わしたり、お話したり、兎に角一人じゃできない事だよ」
無論、もう少し深い所まで突っ込む理由はあるのだが、細かに語ったところで霊夢相手では一笑に付されるのが関の山だ。嘘を吐いている訳ではないし、この程度で十分だろう。
「ああ、それならわからないでもないわね。一人晩酌は寂しいもんねぇ」
間の抜けた霊夢の言葉。てっきり反駁してくるものと思っていたから、少し拍子抜けした。
「でも、寂しいからって毎日来るのも迷惑だろ?」
「うん、大迷惑ね」
即答である。酷い。
「だから他に友人が欲しくなったんだ」
本心も、まぁ大体そんなところであった。しかしお盆の向こうから、霊夢の唸りが聞こえてくる。釈然としない事でもあるのだろうか。
「他にって、あんた友達居たっけ?」
なんだろう、今なにかとてつもなく恐ろしい事を告げられた気がする。
「いや、だって、お前……」
「私はそもそも、あんたの友達じゃないし……。だとしたら橙? でもあれは奴隷よね」
「ちょ、ちょっと……」
「他にあんたに繋がりのある相手って居ないわよね」
私の絆は一人で終了かよ。じゃなくて。
「……あ、う?」
あ、あれ?
いや、まぁ、うん。そうだ。何もショックを受ける事はない。こいつはそう言う奴なのだ。誰にだって平等だから、多分友人知人の区別もつかないのだ。
きっと。うん、そう。そう信じないと色々と崩壊してしまう。
「って、なんでまた泣いてるのよ。スカート濡れちゃうじゃない」
霊夢はお盆を退けて、それから私の頭をやや乱暴に撫でた。見下ろす表情は少し含みのある笑顔だ。もしかしたら、今の辛辣な言葉は冗談だったのかもしれない。が、それにしては声音が本気だったような……。
読めない。この博麗霊夢という少女が。
「ね、ねぇ、霊夢」
「何よ」
「失礼かもしれないけど、その、お前には友人は居ないのか?」
「……。あー、そう言えば居ないかもね」
「魔理沙は?」
「違うわ」
「早苗は?」
「違う」
「華扇は?」
「違うったら」
「じゃあ、光の三妖精はどう? この辺りに住んでいるんだろ?」
「違うって。しつこいわね」
絶句した。私の知る限り、霊夢には今挙げた以外にも大勢知り合いが居る筈だ。全てが友人でないにしても、その内何割かはそういった関係にあると了解していた。それが、なんだ。こいつは一体どういう感性を持っているのだ。
「……じゃあ、逆に訊くけどさ。お前にとってどういう人物像が友人と言えるんだよ?」
「当然、お賽銭入れてくれる人よ」
予め用意してあったかの様な、見事な即答だった。私の好奇心のアンテナが盛大に反応しはじめる。殆ど反射的に、懐から小銭を取り出していた。因みに寛永通宝。
私が虚空に向けて投げた一文銭を、霊夢の視線が追いかける。綺麗な放物線を描いて、迷いなく賽銭箱に吸い込まれていく。
それから一拍おいて、ちゃりん、と軽快な音が響いた。
静寂。私が霊夢を見上げる視線と、霊夢が私を見下ろす視線が交錯する。
そして。
「ユウジョウ!」
「アイエエエエエエエ狂人!」
霊夢が上半身を折り畳んで、私を抱き潰そうとしてくる。太腿と胸の間に挟まれた顔が悲鳴を上げた。霊夢の胸の形(つまり平坦)に変形してしまいそうだ。
さっきよりも優しく、却って痛みを感じる程丹念に、頭を何度も撫でられた。頭の中が霊夢の匂いでいっぱいに満たされて、酔っぱらった様な感覚に陥る。
ぐったりとして霊夢のスカートに頭を埋め、「もうやめろ」とサインを送った。幸いすぐに伝わったのか、霊夢は体を放してくれた。しかし側頭部を往復する手はそのままだ。
「なんだ、あんた案外良い奴じゃない!」
「……わたっ、けほっ、私の、望んでる友人と、ちがっ……」
この、友情観念のぶっ壊れている巫女にすっかり打ちのめされた私は、なんだか純粋な気持ちを裏切られた気分になって、霊夢の太腿にがしりと爪を立てた。
鈍感な霊夢でも私の心中をそれとなく察してくれたのか、それからは何も言わずに頭を撫でる事しかしなくなった。
それから暫くは、互いに黙ってそれはそれは平穏な時間を過ごした。私が友人に望む、静かな空間。こういうので良いのだ、こういうので。
しかし、それもすぐに終わりを迎える事になった。
まず初めに聞こえたのは、何かが空気を裂く音だ。魔法の森の方から、そいつは結構な速度でこちらに接近してくる。やがて輪郭が見える様になると、ますます速度を上げて神社の上空を数回回った。
およそ侘び寂びとはほど遠い、騒がしい奴が来たらしい。私は備えて体と耳を縮こまらせた。あいつは、少し苦手なのだ。
私が顔を伏せて、果たして数秒後に爆音めいた着地音が鳴り響き、同時に砂埃が舞い始める。霊夢のスカートをまくり上げてやり過ごしてから、私はそちらを窺った。
ちなみに霊夢、微動だにせず。
「よっ、霊夢!」
幼い声に、白黒の影。自分の起こした強風に、とんがり帽子が靡いている。そいつは霊夢に向けて大きく手を振り、とてとてと近づいてきた。
「あら、魔理沙じゃない。なんで来たの?」
意外そうでありながら、やや淡白な声が挨拶に応える。いつも思うのだが、霊夢の肝っ玉の座りっぷりはちょっと群を抜いている。絶対に驚かないのに妖怪に好かれるとは、一体どういった理屈なのだろうか。
「さっきまで香霖のとこにいたんだがな。午後は貸本屋に行くってんで、追い出されちゃったぜ」
「貸本屋? 何を借りるつもりかしら。霖之助さんも物好きよね」
「いや、今日は寄本だそうだ」
「何を?」
「えっと、『非ノイマン型計算機の未来』」
大概幻想郷にはそぐわない題名だ。どうしてそんな書籍が幻想郷に存在するのだろうか。
ノイマン、計算機の単語から察するに、恐らく式神を題材にしたものか。そう言えば、よく紫様がおっしゃっていたな。「外の世界のコンピュータは皆ノイマンの考案した原理を利用しているの。勿論、貴方も例外ではないわ」と。そう考えると、私にも関係の深い書物である可能性が高い。
「魔理沙、その貸本屋の名前、教えてくれないか」
「うわっ、お前居たのかよ。只の毛玉だと思ってたぜ」
気付いてたくせに。
「へへん、まぁ良いや。ってことで、遊びにきたぜ」
どうやら私の質問は意識に引っかからなかったらしい。ふん、いいよいいよ。どうせ貸本屋なんて数える程しかないんだ。勝手に探してやるさ。
「はいはい、ゆっくりしていきなさいな」
私の”切り替え”をいじけていると判断したらしい霊夢は、苦笑いを浮かべてから魔理沙へ隣に座る様に促した。しかしこの天の邪鬼はわざわざ指された方の反対、つまり私が体を横たえている方に腰を下ろす。
「ぐぬぅ」
腕を尻に敷かれて、思わず情けない呻きを漏らしてしまった。見上げれば、魔理沙は底意地悪く笑っている。
やっぱりこいつは苦手だ。霊夢とは違った意味で自由奔放で、生半可な計算が通用しない。
全く、厭らしい奴だ。
「で、霊夢。なんで藍なんか膝枕してやってるんだ?」
「こいつが泣きながら抱きすがってきたからね。引きはがすのも面倒だから、そのままにしてるだけよ」
「は? 泣きながら?」
「そう。泣きながら」
魔理沙の、私を見る目が変わった。それはもう、わかりやすく疑問の視線から好奇の視線に変化する。
「ほぉう、なるほどな……」
遠慮容赦なく接近する、魔理沙の顔。耐えきれなくなって顔を伏せて、視界をシャットアウトする。恐らく真っ赤に染まっているであろう表情を見られるのは嫌だし、それを見る二人の表情を見るのも嫌だ。
暗い視界の反対側で二人がなにやら話しているのが聞こえる。はっきりと声は聞こえているが、頭がそれを解析するのを拒んだ。
恥ずかしいにも程がある。今日はどれだけ恥を重ねればいいんだ。
しかし予想に反して、魔理沙の反応は穏やかな物だった。
「いや、わかる。わかるぜ藍。そういうんなら仕方ないっ」
後頭部に手の温もりを感じた。少し粗雑だが、優しい撫で方だ。
そこで私は一つ思い当たった。そう言えば、こいつは実家を勘当されて長い間一人暮らししてるんだっけ。それも、よりによって人里から離れた魔法の森の中で。魔理沙の身の上を考慮すると、もしかしたら私の焦燥を理解してくれたのかも知れない。
これならば、或いは……。そう考えて顔を上げてみた。
だが。
目の前に魔理沙の顔。如何にも楽しそうに、そしてやはりいやらしく笑っている。対する私の顔は、多分色々な感情が混じり合ってわけがわからなくなっているに違いない。
「ぐ、む、む、む」
「お?」
「うにゃああああああ!」
「おお、キレた」
「壊れたんじゃないの?」
平静を取り戻すには、それほど長くはかからなかった。時間にすれば、ほんの二、三分程度の事だっただろう。
しかし精神に負ったダメージは計り知れない。今だって霊夢の太腿に齧り付きながら、なんとか自我を保っている状態だ。涙で前が見えない。
「や、あの、すまんな。お前がそんなに……」
「うるひゃい」
口が塞がれているからおかしな発音になってしまったが、しかし魔理沙が笑う様子はない。私の正気が飛んでいた数十秒の間に、とんでもない恐怖を植え付けられてしまったらしい。
こんな子供に手を上げる(危うく手にかけるところだったかもしれないが)なんて、私もまだまだだ。精神の安定を保つためにも、よりどころを見つけなければ。
そう決意を新たにした私を挟み、霊夢と魔理沙がなにやら話始めた。
「全く、もっと行動を慎みなさいよ」
「だってさ、こんなんみたら弄りたくもなるだろ?」
「だからあんた友達居ないのよ」
霊夢の容赦ない言葉に、思わず私は顔を上げた。魔理沙を覗いてみれば、目を丸くして絶句している。少し前の私を見ている様だ。
「……え?」
今にも泣き出しそうな顔で、絞り出す様に言葉にならない呻きを絞り出す。恐らく、霊夢には届いていない。それどころか、表情の意味すらわかっていないのだろう。
「は、はん。なら良いぜ、私はお前なんか捨ててこいつと友達になるからな」
魔理沙はその平坦な胸を張り、私の尻尾を抱いた。私と違って随分プラス思考な奴だ。ちょっと声が震えているが。
その提案は結構だが、しかし引っかかる点があった。「友人を作る」と言った私が持つべき疑問ではないのだろうけど……。
「魔理沙」
「どうした、親友っ?」
「一体、どうしたら友人なんだ? どこからが友人なんだ? 「なる」って宣言したら、か?」
「……そ、そりゃあ、お前、あれだよ」
どうやら当人も理解していないらしい。明らかに動揺している。子供にするには、酷な質問だったのだろうか。
しかし考えてみれば「友人を作る」だとか「友人になる」だとかは、何かずれている様な感じがするのだ。交友関係というのは、もっと時間をかけて築いていくものなのではないか、という意見が頭を擡げてくる。
尻尾を抱く魔理沙の腕から力が抜けた。そのまま、神社で聞こえる音は霊夢が定期的にお茶を啜る音だけになった。
なんとなくどんよりとした空気のまま、その日はお開きになった。霊夢と私に打ちのめされた魔理沙があまりにも可哀想だったので、別れ際にそっと抱き締めてやったが、それでも飛び去る背中は不安定に揺れていた。
まぁ、心配する事はない。どうせ明日になれば二人とも忘れてしまうだろう。いつも通りに神社に来て、いつも通りに薬にも毒にもならない話をして過ごす筈だ。
幻想郷の住人というのは、兎に角そういう風に単純に出来ているのだから。
一方私の方は、直ぐに切り合えて再び人間の里に戻った。午後は、里の権力者や識者に挨拶周りをするよう仰せつかっている。
冬の間は冬眠する紫様の代わりに私が行動する。普段の結界の検査に加え、人間、妖怪の賢者との会談、重要度の高い宴会への出席。主にそのあたりだが、他にも細かい仕事が幾つかある。今日の挨拶はそれらの為の布石だ。
日が高くなる前に、朝の早い老人や霧雨店なんかの商店へは済ませておいた。
今から向かうのは、まだ若い娘が当主を務めている家……つまり稗田家である。こちらを後回しにしたのには勿論理由がある。
若いとはいえ、御阿礼の子は他の人間に比べて寿命が大幅に短く、体も弱い。そのせいで、目を覚ますのが遅い事が多い。だから午前のうちに訪ねていくのは迷惑になるのだ。
それに、私は楽しみを取っておくタイプである。
別に少年を泣かせて多いに狼狽えてど忘れしていたとか、そういう下らない理由などではない。断じて。途中天狗の新聞が降ってきて、それを拾った里人の何人かが私に恐怖や怯懦の視線を向けてきたが、それも私の与り知らぬ事である。
稗田の屋敷は里の中心近くにある。幻想郷有数の旧家と言う事で、大通りに面した門の構えも中々の物だ。この門の前に立つと、無意識に色々な思いがこみ上げてくる。
一番最初の幻想郷縁起が書かれたのは、千年以上も前の事だと聞いている。私が幻想郷で過ごしたものよりもずっと長い歴史を、この屋敷は刻んでいる。私の知らない事を、この屋敷は知っている。蔵書に、或いはその柱や床板に至るまで、この屋敷は全てを”記憶”しているのだ。
私が御阿礼の子と個人的に親睦を持つ様になったのは、今の阿礼乙女、阿求様の代になってからだ。最初はこれまでと変わらない仕事上の付き合いだった。
御阿礼の子が生まれた時、数日間は乱痴気騒ぎが繰り広げられる。殊に阿求様の時は、妖怪まで混ぜての大騒ぎになった。
博麗大結界が成立してから初めての御阿礼の子。そして妖怪と人間が新しい関係を築き始めてからの初めての御阿礼の子。当時の様子を、私は細かに”記録”している。
もう十八年にもなろうか。私も随分丸くなった。
「あの、もし?」
「あっ……」
気付いたら、侍女らしき人物が門扉から顔を出していた。私の姿を見て緊張しているのが伝わってくる。
……私が妖怪である事が原因だと信じたい。新聞なんか読んでないと信じたい。
「八雲様、ですね。一体どういったご用件でしょうか」
「私の主人が間もなく冬眠に就くと言うことで、代理の挨拶に伺いました。阿求様にご面会願いたい」
「は、暫くお待ち下さい」
小さく一礼して、とてとてと駆けていく侍女を見送り、私は背後を振り返った。さっきから、なんとなく視線と敵意を感じるような……。
――あいつ? あいつだよ。石投げてみる? おっ、そうだな。妖怪だもんな。退治しないと。でも怒らせたら怖そうだぜ。大丈夫だよ、あんなちびが強いわけないだろ? 俺知ってるぜ。あいつらは里の中じゃ人間襲えないんだよ。そうか。じゃあ。
――退治しちゃおうぜ。
「お待たせしました……。って、藍様?」
聞き覚えのある声がして我に返った。大きな門が全開になっていた。目の前に阿求様が居る。腰を屈めて如何にも心配そうに、私の顔を覗き込んでいた。
「あ、や……。阿求様、ご無沙汰しております」
「ええ、お久しぶりです。お話は中で伺いますから、どうぞ上がって下さい」
「では失礼させて頂きます」
どうにも阿求様は急いでいる様に見える。礼を終えるより前に、足早に門の中へと引きずり込まれてしまった。
ばたん、と門が閉じる。それっきり外の音は聞こえなくなった。
「どうかなされたのですか?」
「……いえ、なんでもありません。あんまり寒いものですから、ちょっと火鉢が恋しくなって」
はにかみながらそう言う阿求様。今のはまるっきり嘘に聞こえた。らしくもない、わかり易い嘘だ。しかい詮索するのも憚られて、私はそれで納得する事にした。
「お茶を入れてきますから、先に書斎へ行っていて下さい」
屋敷に入ってすぐにそう伝えられて、素直に従った。阿求様とてもう子供という訳でもないのだから、お茶の一杯や二杯で失敗する事もないだろう。
かなり大きな屋敷だが、構造は頭に入っている。迷う事なく書斎の扉の前に着いた。
稗田家は幻想郷で唯一真実の歴史を記憶する役割を持っているだけあって、書斎の規模は立派なものだ。歴史に関する記述に絞れば、その知識量は群を抜く。
紫様が編纂した書物から、かつての博麗の巫女が記した風土記まで、印刷技術の存在しなかった遠い過去の書物も多く見られる。全てオリジナルではなく、御阿礼の子の持つ記憶力を活かして作られた写本である。
ここに存在する歴史は稗田家の者以外の影響を受けない。記録ではなく、記憶されているからだ。
その時、書斎の中から何か物音が聞こえた。本を本棚に戻す音と、直後に本を取り出す音。
誰か居るのだろうか。阿求様以外の誰かが。
少し肝が冷えたが、まさか泥棒と言う事はないだろう。ここに保存されている資料に手を出したところで、大した金にもなるまい。
扉に手をかけ、一思いに開く。古く、少し黴臭い空気が廊下に流れ込んできた。
書斎の中にはランプ一つ分の灯りしか見えない。まだ日中で、カーテンを開けばもっと明るくなると言うのに、その人物はどういう訳だか窓もカーテンも締め切って真っ暗な部屋を演出していた。
灯りが動くと、それに追従してりん、という鈴の音が聞こえてくる。
「阿求ー? 扉閉めてくれないと」
ランプの動く方を注視してみると、その声の主の姿が僅かに見えた。二色の正方形を交互に並べた模様の和服。緑色の袴。明るい色の髪の毛に、二つの鈴が金色に輝いている。
背丈は低い。もしかしたら魔理沙よりも小柄かも知れない。
確か……、そうだ。本居小鈴。名前と顔は一致するが、そこまで会話した事はないという、極めて微妙な関係だ。彼女が居るなら前もって教えてくれれば良いのに、阿求様も意地が悪い。
恐る恐る書斎に足を踏み入れた。床板の軋む音が、やけに大きく聞こえる。あちらはまだ私が阿求様だと勘違いしている様だ。それだけ本に集中している証拠だろう。
丁度手を肩に置ける位置まで近づいて、ようやく彼女は振り向いた。
「あきゅ……、って、違う?」
視線が交わる。重苦しい沈黙が二人の間に流れた。光源がランプしかないという状況もそれに拍車をかけている様だ。
「……どうも、小鈴ちゃん。八雲藍です」
「どうも、藍さん」
そんな他人行儀な挨拶だけを交わして、再び沈黙が訪れる。酷く間が持てない。かちり、かちりと古時計が時を刻む音だけが響く。
助けて阿求様。
「えっと、どうして藍さんはこんなところに?」
とうとう沈黙に耐えきれなくなったのか、小鈴ちゃんがしどろもどろに切り出した。こうしてくれれば、こっちだって話し易い。
「ああ、もうご主人様が冬眠する季節だからね。それで阿求様に挨拶に来たんだ」
「ほぇー、大変ですねぇ」
胸元に本を抱きかかえ、素直な感嘆の声を上げる。仕草から容姿まで非常に可愛らしく、幼い印象を受けた。
「お前の方は、一体どうしてこんなところに? 暗いところで本読むと目が悪くなるよ」
「いや、わかってはいるんですけどね。どうにも癖でして……。それに、ほら。こうしていると雰囲気でません?」
ちょっとよくわからない。少し変わった感性の持ち主らしい。
「ここは珍しい本がたくさんあるから、よく遊びに来るんです」
そう言って私の眼前に突き付けた本の表紙には『本当は近い月の裏側』と仰々しく書かれている。どう見ても紫様の著作です本当にありがとうございました。
小鈴ちゃんは本の重みにふらふらと揺れながら、客用の椅子まで歩いていく。見ていて危なっかしいが、慣れた足取りだった。
椅子に腰を下ろし、数冊の分厚い本を床に積んで一息吐く。ランプの灯りを全て本に傾け、懐から取り出した丸眼鏡をかけて、黙って本の世界へと潜っていく。
取り残された私はその隣に突っ立って、ぼうっとしている他はなくなった。阿求様はまだこないのだろうか。黴の匂いに混じって、僅かに紅茶の匂いが漂ってきている。
目の前の本居小鈴は、幼いながらも里で『鈴奈庵』という貸本屋を営んでいる。幾つかある貸本屋の中でも、特に色物ばかりが集まっていると評判だ。
本人もただの子供だと思ったら大間違いで、最近如何なる書物でも読み解く能力を手に入れたらしい。愛書家が高じた結果であるならば、多少人道を外れても幸せだろう。
本に目を落とすその表情はどこか恍惚的ですらある。これほどまでに書物にのめり込む人間を、私は見た事がなかった。
紅魔館地下の図書館に住む魔女も有数の愛読家として知られているが、それともどこか性質が違う。
書物そのものを愛する、生粋の”ビブロフィリア”。それが本居小鈴という少女だった。
「あらあら、小鈴ったら……」
不意に聞こえたその声に振り向いてみれば、すぐ傍に阿求様が立っていた。湯気を立ち上らせる紅茶をお盆に乗せ、呆れ顔で小鈴ちゃんを見下ろしている。
「藍様は随分子供が好きなのですね」
いつ書斎に入ってきたのかまるで意識に引っかからなかったが、阿求様の少し小馬鹿にした様な口ぶりを鑑みるに、どうやら私は熱心に小鈴ちゃんの読書する様を観察していたらしい。
「否定はしません。体はかつてのまま、知識ばかりで頭を肥やした私には、幼さとか若さが眩しく映るのですよ」
「わかります。私も似た様なものですから」
口元を緩め私を肯定した阿求様は、まるで母か姉の用に小鈴ちゃんの頭を小突きながら、「ほら、小鈴」と呼びかけた。
「藍様も来たのですから、そろそろお茶にしましょ。目も悪くなっちゃうわ」
しかしそれでも反応はない。俄に表情に影が落ちた。
「この子はいつもこうなんですよ……、っと」
そう言いながら、普段腰掛けているであろう机の、すぐ近くに垂れた紐を引いた。一斉に書斎中の窓とカーテンが開き、目が眩む程の西日が射し込んでくる。
眼前の本に食い入っていた小鈴ちゃんは、突然の光の出現に「ひにゃああ……」と弱く叫びながら椅子から転げ落ちた。可哀想だが非常に可愛らしい。
「……むー。なんだ阿求、戻ってきたんだ」
「ちょっと前から居たわ。そこの椅子を藍様に取ってあげて」
阿求様の声は小鈴ちゃんに向いていたが、私は自ら取りに動いた。書物の重みに翻弄される乙女にそんな労働を任せるわけにはいかない。
幾つかある椅子から、背もたれの無い物を選んで腰を下ろした。ソファとかの隙間のない椅子なら背もたれが合った方が楽ではあるが、そうでなければ尻尾が伸ばせなくて窮屈なだけだ。
三人で長方形の机を囲む。大抵挨拶に来るときは阿求様と二人で挟む事になるから、この眺めは新鮮だった。
阿求様の白い手が、私と小鈴ちゃんの前に紅茶を並べていく。幻想郷では貴重な砂糖の山が中央に置かれた。
「さて、と」
一通り準備が済んだところで、阿求様が仕切りの溜め息を吐いた。
「では、藍様。用件はわかっていますから、取り敢えず形だけで」
「ええ。それでは……」
去年も聞いた記憶のある台詞で挨拶を促され、私も原稿でも読むかの様に同じ挨拶をした。あまりにも儀礼的でつまらない物なので全編カットである。
小鈴ちゃんも最初だけは物珍しそうに清聴してくれていたが、開始から十分が経つ頃には、はわわと大きく欠伸を繰り返していた。
「……よくわかりました。いつも通りに」
阿求様は欠伸こそ噛み殺していたが、退屈そうな表情は隠しきれていない。二人をしらけさせてしまったのはなんとも忍びないが、まぁ儀礼なんてそんなものだ。
私の話が恙無く終わると、そのまま自然に茶会の空気になった。三人揃って紅茶を傾け、三人揃って息を吐く。砂糖を多めに入れた私のは、口当たりが良く冷えた体に染み渡った。
妖怪と御阿礼の子。その上にただの子供を加えてお茶を味わうなど、大結界が成立する前ではまずあり得なかった光景だ。
人と妖怪の新しい関係。こんな幻想的な繋がりが永遠に続いていくならば、そんなに素敵な事はない。
「藍様も随分よく笑う様になりましたね」
「そう、ですか?」
首を傾げる私に、阿求様は嬉しそうに頷いた。少し恥ずかしいが、悪い気はしない。
「よく笑うって、前は違ったの?」
会話を聴き、私と同じ角度で首を傾げる小鈴ちゃんに向け、再び頷く阿求様。
「ええ、それはもう。初めて会った頃はいつもむっつりしてらしたわ」
続く言葉にさらに引き込まれたのか、小鈴ちゃんは身を乗り出して阿求様の声に耳を傾けた。これは、なんというか、複雑な気分だ。
「何年前? いつ頃の事? もしかして、まだ阿求が阿求じゃなかった昔の事だったり?」
「そうねぇ、十年くらい前かしら」
顎に手を当て、記憶を辿る”ふり”をしながら、阿求様は小さく私を一瞥した。少々苦々しい記憶を蘇らせつつ、その視線に視線で応える。勿論、肯定の意味だ。
阿求様はわざとぼかしたが、実際には八年程前だ。
そうか、もうそんなにもなるのか。当時の私を振り返るとちょっと悶絶したくなる。
霊夢と初めて出会った春雪異変まで、私は人との関わりというものを殆ど持ってこなかった。
あの時、霊夢は私を道具としてではなく、妖怪として扱った。極めてぞんざいに、自然に、彼女は私を意思のある妖怪だと見なしたのだ。
不思議な感覚だった。それまで自分を単なる端末だと思っていた私に、ある一定の感情をもたらすのに十分な衝撃だった。他人に興味を持ち始めたのは、まさしくあの瞬間だった。
それから、慣れないコミュニケーションをとろうと、色々な事をしてきた。すれ違っただけの人間と挨拶を交わしたり、なるだけ長く会話が続く様に言葉を選んだり。
散々遠回りして私が理解したのは、大抵の連中が私を妖怪だと思っている事実だった。
そこから世界は広がり始めた。友人はあまり出来なかったが、話せる相手は増えていった。
やがて阿求様と交友を持つに至った。その結果がこれである。
私は、きっと式神の中で最も幸せだ。他とは違って自我があり、考え、望み、行動する事ができるのだから。
「ほら、にやにやしてるでしょ?」
「だねぇ」
「あ、う……」
その代償として、他人を前にしても思考に没入してしまう癖があるのが、我ながら残念だ。孤独を拗らせすぎた結果である。
「もー、そんなに見ないでくださいよ。私だって気にしてるんです」
「へぇ……」
「にやにやも禁止!」
こういう場面での阿求様は、普段の超然、諦観した雰囲気とは違い、非常にその年齢に相応しい少女の様な振舞いをする。稗田阿礼の生まれ変わりであることを感じさせない天真爛漫さを振りまきながら。
「でも、昔よりは可愛らしいじゃありませんか」
「可愛らしいって、私は威厳の方が欲しいのですが」
「威厳なんてあったって避けられるだけだよ?」
机に頬杖を突きながら現役人間の小鈴ちゃんにそう言われると、考えが揺らぎそうになるが、しかしそこはなんとか耐えた。いくらなんでも、融和する為に妖怪としてのプライドを投げ捨てる程私は愚かではないのだ。
「大体、私とそんなに変わらない位のちまっこい体で威厳なんて、望むべくもないと思いますけど……」
この子供は……。
「小鈴ちゃん、ちょっとそれは酷いんじゃないか?」
「そもそも時代錯誤も良いところです」
この御方は……。
「まぁ、時代錯誤と言うのは否定できませんが……」
実際、プライドと人間関係の間で空気抵抗を失った振り子の様にフラフラしているのが今の八雲藍だ。数年も努力しておいて友人が増えないのも、恐らくそのあたりに根ざしている。
全くもう。向いていないな。
「過去の慣習を捨ててこそ見えてくる物もあるのです。今回の幻想郷縁起を公開したのだって、そういう観点からのアプローチなのですよ」
なんだかスケールの大きい例えのようだが、的は射ている。幻想郷縁起は新しい時代に進み、「後世に残す為の資料」から「ちょっとした読み物」にその意義を変えた。妖怪も同じ様に変わっていくべきだと、阿求様は言いたいのだろう。
私がここまで変化するまで八年かかった。これ以上変わるのに、一体どれだけの時間がかかるのだろうか。
「そんな遠い目をする必要はないんじゃないですか?」
少し遠のいた意識が、小鈴ちゃんの言葉に引き戻された。
「どういう意味よ……?」
「人間だってすぐに死ぬわけじゃないんです。きっと私達が死ぬまでに変われますよ、藍さんなら」
可愛い顔をして随分と気の長い事を言う奴である。
でも、まぁ、うん。中々嬉しい事を言ってくれる。
「じゃあ、私が変われたら友人になってくれるか?」
「うん、喜んでっ!」
そのまま時間も忘れて話し続け、稗田の屋敷を出る頃にはすっかり日が暮れていた。空には丸い丸い月が昇り、妖しく輝いている。
「うぅ、流石に寒いな」
「ですねぇ」
私の迫真の感想に対し、背中で尻尾にくるまっている小鈴ちゃんの声は大変のんびりとしていた。背負うと言い出したのは私なのだし、気にはならない。
風に晒されている手を揉んで暖めつつ、提灯に照らされた道を鈴奈庵へと歩いていく。山に二柱の神様が現れて以来、里のインフラは整備され電気も引かれているが、夜の間は専ら火の光が用いられる。電気の光には謂れが無いからだ。
幽霊だとか、或いは極めて力の弱い妖怪だとかは火を使えば退ける事が出来る。火は日に通じ、夜を昼に変えてしまうからだ。
勿論私がそれを恐れるなんて事は無い。私自身の妖力に加え、「狐火」と言う様に狐は元より火と関わりが深いのだ。尻尾がいつだって暖かいのも、それを表している。表してるかな? 違うかも。
小首を傾げていると、背中の小さいのが「藍さん」と如何にも眠そうに呟いた。
「どうした? まさかこのまま寝たいなんて言わないでしょうね」
「その、まさかです……」
今にも消え入ってしまいそうなか細い声が返答に嘘が無い事を示している様で、却って私を困らせた。
鈴奈庵まで送ったとして、身内の方々にどう説明したら良いのかわからない。妖怪が里に入るのを見咎める人間はもう居ないが、付き合いを避ける人間は一定数存在する。もしも小鈴ちゃんのそう言った人種だったらと思うと、どうしても運ぶ足が重くなる。
絵面だってまさしく誘拐最中といった様相で、昼間の騒動も合わせてまずい。
よもや屋敷に連れ込む訳にも行くまいし、かといって、起きるまで揺りかごを演じていれば夜が開ける。
私は、取り敢えず眠らせない為に会話を試みた。
「ぱ、パンはパンでも食べられないパンは?」
「P≠NP……」
一体どんな幻覚を見ているのだろうか。
「よ、妖怪の賢者は千年前に月に攻め込みました。ナンデ?」
「ゲイのサディストだから」
「…………」
もうだめだ。意識が混濁しているらしい。
寒風の吹き抜ける大通りの真ん中に立ち止まって、私は暫く途方に暮れた。周囲の人々は、各自身につけた防寒着を肌に押し付けて寒そうに私の脇を抜けていく。私も尻尾に丸まりたい気分だが、状況がそれを許さないのだった。
酒場から料理と酒の匂いが漂ってくる。
「はぁ……」
こんなところでぼあっとしていても何も始まらない。かじかんだ手に息を吐きかけて暖め、私は一歩踏み出した。
尻尾から伸びている腕の力が俄に強くなる。首筋に触れる体温を感じる。
「ま、良いか」
今晩も明日も、特に与えられた仕事は無い。門限が定められている訳でもあるまいし、一晩くらい屋敷に帰らなくても叱られるなんて事はないだろう。この我が儘娘に付き合ってやるのも悪くはない。
これから始まるであろう、この幼い人間との付き合いに思いを馳せながら、私は夜の闇へ溶けていった。
人間の里の大通りを歩きながら、私は誰にともなく呟いた。尻尾を丸めて、両腕で肩を抱く様にしても、吹きすさぶ風が避けられる訳もない。
今年もこの季節がやってきたかと思うと、増々寒くなる様な気がして頭を振った。冷えた耳が帽子に擦れて少し痛い。
幻想郷は地理的には山奥にあるから、冬の寒さが非常に厳しい。十一月にもなれば、もう完全に冬だ。その上妖怪の山から吹き下ろす山颪も冷たい。
すっかり冷え込んだ気候は火鉢に当たって尻尾を抱いても堪え難い物がある。勿論、尻尾のない人間にはもっと辛い季節だろう。
雪が降るには未だ暫くあるだろうが、里の人々は口を揃えて冬だと言う。さっきだって寄った豆腐屋の主人からも「こんなに寒いのに精がでますねぇ」と挨拶された。
しかし、まぁ、寒さはまだ良いのだ。人間だって寒冷の厳しさは理解している筈だし、故に凌ぐ術はいくらでもある。だから会話の始めに寒さの文句をまず交わすのはほんの様式美程度の物なのだろう。
それよりも今、私を憂鬱にしているのは「冬が来た」という根本的な問題に他ならない。暦が冬になると言う事は、つまり紫様が冬眠なさると同義である。
式神になってから幾度となく迎えた時ではあるが、私は未だに慣れていない。
紫様が眠ると屋敷の世話が要らなくなるから、式神達はみんな野生に還してしまう。主人は眠り、橙はなかなか帰ってこない。その間屋敷で動くのは私だけだ。
数ヶ月続くその沈黙は、生き地獄と形容してまず間違いない。
友人が居るなら少しは寂寥感も紛れるだろう。だが残念ながら私には友人が少ない。それはもう、両の手で足りる位だ。
立場上付き合いのある霊夢や慧音、阿求様。それから彼女達を取り巻く数人と問題なく盃を交わせるくらいで、他とはなんとなくぎこちない会話しかできない。式神の地位にかまけて色々と切り捨ててきた弊害である。
それにこの三人は、これまた立場上あまり易々と訪ねられる相手ではない。博麗の巫女は”本来であれば”妖怪とは相容れない存在だし、御阿礼の子も妖怪ばかり招いていてはその記述の如何を問われかねない。慧音だって基本的には人間の味方だ。
その上、交友関係を広げられるのかと問われれば、それもかなり厳しい。情けない事に私は初対面の相手とはなかなか話を広げられないのだ。狐の縄張り意識と、式神の学習速度限界が両方備わり足を引っ張る。
酒に任せたり、感情に任せればなんとかなるのだが。実際霊夢と最初に会った時も、橙を苛められた怒りに任せていたし。
気安い友は居らず、交友関係を構築するにはちょっと難しい。
つまり、今の私に出来るのは二つ。「一人で孤独に冬を越す覚悟を決める」か、或いは「早急に友人を作る努力を始める」か。
例年の私であれば、間違いなく前者を選択した事だろう。そうして過ごしてきたのが八雲藍という式神だからだ。
しかし、今の天秤は後者に傾きつつある。最近孤独の辛さを何となく理解し始めた私には、しかしそれを癒す友人が存在しない。今後の為に腹を決めるのが最良だろう。
「……むむ」
まぁ、そんな都合の良い相手が居る筈もないのだけれど。そもそもここは人間の里。人間なんかと仲良くなった所で、然程会わずに死んでしまう。
虚しいだけだ。
これまでにも何人かは、どういう訳だか道具である私と馬の合う人間も居たのだが、殆どは二度顔を合わせるまでに死んでしまった。
ああ、いかんいかん。
そんな諸行無常を託ちつつ、豆腐屋でおまけしてもらった大きないなり寿司をかじる。なんとなくマイナスに働いていた感情が相殺されて、俄に元気が出てきた。
そういえば、あの豆腐屋がこうして施しをしてくれる様になったのはつい最近の事だ。時候の挨拶を交わす様になったのも殆ど同じ時期……。
合わせて考えると、私が笑いながら話すのを心がけ始めた頃か。
チョロい……とは思わないが、案外コミュニケーションなんてそんなものなのかも知れない。
気持ちを改め、決意を新たにした私は、残ったお稲荷さんを一息に飲み込んだ。この気概の挫けぬうちに何か行動しなければ。友人……友人……。
しかし、当てがまるでないのだから始末に置けない。腹の奥にやり場のないやる気だけが残る。
どうにか発散しようとして、ぐるりと辺りを睨み回す。相当飢えた目つきをしていたのか、周囲の人間達が皆たじろいでしまった。嗚呼、もう。今日は空回りしてばかりだ。
小さく溜め息を吐いてから、ゆっくりと視線を戻していく。
「あ」
「ひっ」
正面の少年と視線がかち合った。私を正面から見つめたまま、全身を強ばらせて動こうとしない。幻想郷の人間の本能に刻まれた恐怖心の発現である。
私の失態だ、取り除いてやらなければ、とその子供に歩み寄って行く。近くの誰かが固唾を飲む音が聞こえた。
目の前で失禁直前の表情を浮かべるその頭にそっと手を乗せた。敵意はないと示す為に、精一杯笑顔を作りながら。
背丈は私よりもほんの僅かに高い。十と少しを数えたくらいの年齢だろうか。
その子は、一瞬目をまんまるにして……。
声の限りに絶叫した。
「で、私の所に来た、と」
「んむ。まあそんな所だ」
里から大きく離れた所にある、寂れた神社。現博麗の巫女がその務めを執り行う、幻想郷の最重要施設。少年を失禁させ、里人に刃物を持って追いかけ回された私は無様ながらそこに逃げ込んだのだった。
今回のは流石に応えたが、涙は既に止まっている。切り替えは割と早い方なのだ。
私の側頭部に乗ったお盆の上で器用にお茶を入れながら、霊夢は「バカじゃないの?」と辛辣に罵倒した。
「……ぐぅ」
実際我ながら助走つけて殴りたいレベルの愚行だったのだから否定は出来ない。怯え上がっている相手に、その上で近寄られたら、そりゃあ叫びたくもなるだろう。挙句、私の方も恥も外聞もなく泣き出して逃げたときている。
膝枕要求をしてスカートを涙で濡らした時の、霊夢の蔑む様な視線を避ける権利など、端から存在していないのであった。
「慣れない事なんかするからよ。式神なら式神らしくメカニックに行動してればいいの」
メカニックって、何?
「でも、私にだって寂寥感の欠片くらいはあるんだよ。寂しいのは寂しいし、そのせいで狂う事もある」
正に先ほど体験してきた事だ。
「わっかんないわねぇ。友達が居たって寂しいもんは寂しいって出来てるのよ。大体、あんたそんなに必死になって何がしたいの?」
「……盃を交わしたり、お話したり、兎に角一人じゃできない事だよ」
無論、もう少し深い所まで突っ込む理由はあるのだが、細かに語ったところで霊夢相手では一笑に付されるのが関の山だ。嘘を吐いている訳ではないし、この程度で十分だろう。
「ああ、それならわからないでもないわね。一人晩酌は寂しいもんねぇ」
間の抜けた霊夢の言葉。てっきり反駁してくるものと思っていたから、少し拍子抜けした。
「でも、寂しいからって毎日来るのも迷惑だろ?」
「うん、大迷惑ね」
即答である。酷い。
「だから他に友人が欲しくなったんだ」
本心も、まぁ大体そんなところであった。しかしお盆の向こうから、霊夢の唸りが聞こえてくる。釈然としない事でもあるのだろうか。
「他にって、あんた友達居たっけ?」
なんだろう、今なにかとてつもなく恐ろしい事を告げられた気がする。
「いや、だって、お前……」
「私はそもそも、あんたの友達じゃないし……。だとしたら橙? でもあれは奴隷よね」
「ちょ、ちょっと……」
「他にあんたに繋がりのある相手って居ないわよね」
私の絆は一人で終了かよ。じゃなくて。
「……あ、う?」
あ、あれ?
いや、まぁ、うん。そうだ。何もショックを受ける事はない。こいつはそう言う奴なのだ。誰にだって平等だから、多分友人知人の区別もつかないのだ。
きっと。うん、そう。そう信じないと色々と崩壊してしまう。
「って、なんでまた泣いてるのよ。スカート濡れちゃうじゃない」
霊夢はお盆を退けて、それから私の頭をやや乱暴に撫でた。見下ろす表情は少し含みのある笑顔だ。もしかしたら、今の辛辣な言葉は冗談だったのかもしれない。が、それにしては声音が本気だったような……。
読めない。この博麗霊夢という少女が。
「ね、ねぇ、霊夢」
「何よ」
「失礼かもしれないけど、その、お前には友人は居ないのか?」
「……。あー、そう言えば居ないかもね」
「魔理沙は?」
「違うわ」
「早苗は?」
「違う」
「華扇は?」
「違うったら」
「じゃあ、光の三妖精はどう? この辺りに住んでいるんだろ?」
「違うって。しつこいわね」
絶句した。私の知る限り、霊夢には今挙げた以外にも大勢知り合いが居る筈だ。全てが友人でないにしても、その内何割かはそういった関係にあると了解していた。それが、なんだ。こいつは一体どういう感性を持っているのだ。
「……じゃあ、逆に訊くけどさ。お前にとってどういう人物像が友人と言えるんだよ?」
「当然、お賽銭入れてくれる人よ」
予め用意してあったかの様な、見事な即答だった。私の好奇心のアンテナが盛大に反応しはじめる。殆ど反射的に、懐から小銭を取り出していた。因みに寛永通宝。
私が虚空に向けて投げた一文銭を、霊夢の視線が追いかける。綺麗な放物線を描いて、迷いなく賽銭箱に吸い込まれていく。
それから一拍おいて、ちゃりん、と軽快な音が響いた。
静寂。私が霊夢を見上げる視線と、霊夢が私を見下ろす視線が交錯する。
そして。
「ユウジョウ!」
「アイエエエエエエエ狂人!」
霊夢が上半身を折り畳んで、私を抱き潰そうとしてくる。太腿と胸の間に挟まれた顔が悲鳴を上げた。霊夢の胸の形(つまり平坦)に変形してしまいそうだ。
さっきよりも優しく、却って痛みを感じる程丹念に、頭を何度も撫でられた。頭の中が霊夢の匂いでいっぱいに満たされて、酔っぱらった様な感覚に陥る。
ぐったりとして霊夢のスカートに頭を埋め、「もうやめろ」とサインを送った。幸いすぐに伝わったのか、霊夢は体を放してくれた。しかし側頭部を往復する手はそのままだ。
「なんだ、あんた案外良い奴じゃない!」
「……わたっ、けほっ、私の、望んでる友人と、ちがっ……」
この、友情観念のぶっ壊れている巫女にすっかり打ちのめされた私は、なんだか純粋な気持ちを裏切られた気分になって、霊夢の太腿にがしりと爪を立てた。
鈍感な霊夢でも私の心中をそれとなく察してくれたのか、それからは何も言わずに頭を撫でる事しかしなくなった。
それから暫くは、互いに黙ってそれはそれは平穏な時間を過ごした。私が友人に望む、静かな空間。こういうので良いのだ、こういうので。
しかし、それもすぐに終わりを迎える事になった。
まず初めに聞こえたのは、何かが空気を裂く音だ。魔法の森の方から、そいつは結構な速度でこちらに接近してくる。やがて輪郭が見える様になると、ますます速度を上げて神社の上空を数回回った。
およそ侘び寂びとはほど遠い、騒がしい奴が来たらしい。私は備えて体と耳を縮こまらせた。あいつは、少し苦手なのだ。
私が顔を伏せて、果たして数秒後に爆音めいた着地音が鳴り響き、同時に砂埃が舞い始める。霊夢のスカートをまくり上げてやり過ごしてから、私はそちらを窺った。
ちなみに霊夢、微動だにせず。
「よっ、霊夢!」
幼い声に、白黒の影。自分の起こした強風に、とんがり帽子が靡いている。そいつは霊夢に向けて大きく手を振り、とてとてと近づいてきた。
「あら、魔理沙じゃない。なんで来たの?」
意外そうでありながら、やや淡白な声が挨拶に応える。いつも思うのだが、霊夢の肝っ玉の座りっぷりはちょっと群を抜いている。絶対に驚かないのに妖怪に好かれるとは、一体どういった理屈なのだろうか。
「さっきまで香霖のとこにいたんだがな。午後は貸本屋に行くってんで、追い出されちゃったぜ」
「貸本屋? 何を借りるつもりかしら。霖之助さんも物好きよね」
「いや、今日は寄本だそうだ」
「何を?」
「えっと、『非ノイマン型計算機の未来』」
大概幻想郷にはそぐわない題名だ。どうしてそんな書籍が幻想郷に存在するのだろうか。
ノイマン、計算機の単語から察するに、恐らく式神を題材にしたものか。そう言えば、よく紫様がおっしゃっていたな。「外の世界のコンピュータは皆ノイマンの考案した原理を利用しているの。勿論、貴方も例外ではないわ」と。そう考えると、私にも関係の深い書物である可能性が高い。
「魔理沙、その貸本屋の名前、教えてくれないか」
「うわっ、お前居たのかよ。只の毛玉だと思ってたぜ」
気付いてたくせに。
「へへん、まぁ良いや。ってことで、遊びにきたぜ」
どうやら私の質問は意識に引っかからなかったらしい。ふん、いいよいいよ。どうせ貸本屋なんて数える程しかないんだ。勝手に探してやるさ。
「はいはい、ゆっくりしていきなさいな」
私の”切り替え”をいじけていると判断したらしい霊夢は、苦笑いを浮かべてから魔理沙へ隣に座る様に促した。しかしこの天の邪鬼はわざわざ指された方の反対、つまり私が体を横たえている方に腰を下ろす。
「ぐぬぅ」
腕を尻に敷かれて、思わず情けない呻きを漏らしてしまった。見上げれば、魔理沙は底意地悪く笑っている。
やっぱりこいつは苦手だ。霊夢とは違った意味で自由奔放で、生半可な計算が通用しない。
全く、厭らしい奴だ。
「で、霊夢。なんで藍なんか膝枕してやってるんだ?」
「こいつが泣きながら抱きすがってきたからね。引きはがすのも面倒だから、そのままにしてるだけよ」
「は? 泣きながら?」
「そう。泣きながら」
魔理沙の、私を見る目が変わった。それはもう、わかりやすく疑問の視線から好奇の視線に変化する。
「ほぉう、なるほどな……」
遠慮容赦なく接近する、魔理沙の顔。耐えきれなくなって顔を伏せて、視界をシャットアウトする。恐らく真っ赤に染まっているであろう表情を見られるのは嫌だし、それを見る二人の表情を見るのも嫌だ。
暗い視界の反対側で二人がなにやら話しているのが聞こえる。はっきりと声は聞こえているが、頭がそれを解析するのを拒んだ。
恥ずかしいにも程がある。今日はどれだけ恥を重ねればいいんだ。
しかし予想に反して、魔理沙の反応は穏やかな物だった。
「いや、わかる。わかるぜ藍。そういうんなら仕方ないっ」
後頭部に手の温もりを感じた。少し粗雑だが、優しい撫で方だ。
そこで私は一つ思い当たった。そう言えば、こいつは実家を勘当されて長い間一人暮らししてるんだっけ。それも、よりによって人里から離れた魔法の森の中で。魔理沙の身の上を考慮すると、もしかしたら私の焦燥を理解してくれたのかも知れない。
これならば、或いは……。そう考えて顔を上げてみた。
だが。
目の前に魔理沙の顔。如何にも楽しそうに、そしてやはりいやらしく笑っている。対する私の顔は、多分色々な感情が混じり合ってわけがわからなくなっているに違いない。
「ぐ、む、む、む」
「お?」
「うにゃああああああ!」
「おお、キレた」
「壊れたんじゃないの?」
平静を取り戻すには、それほど長くはかからなかった。時間にすれば、ほんの二、三分程度の事だっただろう。
しかし精神に負ったダメージは計り知れない。今だって霊夢の太腿に齧り付きながら、なんとか自我を保っている状態だ。涙で前が見えない。
「や、あの、すまんな。お前がそんなに……」
「うるひゃい」
口が塞がれているからおかしな発音になってしまったが、しかし魔理沙が笑う様子はない。私の正気が飛んでいた数十秒の間に、とんでもない恐怖を植え付けられてしまったらしい。
こんな子供に手を上げる(危うく手にかけるところだったかもしれないが)なんて、私もまだまだだ。精神の安定を保つためにも、よりどころを見つけなければ。
そう決意を新たにした私を挟み、霊夢と魔理沙がなにやら話始めた。
「全く、もっと行動を慎みなさいよ」
「だってさ、こんなんみたら弄りたくもなるだろ?」
「だからあんた友達居ないのよ」
霊夢の容赦ない言葉に、思わず私は顔を上げた。魔理沙を覗いてみれば、目を丸くして絶句している。少し前の私を見ている様だ。
「……え?」
今にも泣き出しそうな顔で、絞り出す様に言葉にならない呻きを絞り出す。恐らく、霊夢には届いていない。それどころか、表情の意味すらわかっていないのだろう。
「は、はん。なら良いぜ、私はお前なんか捨ててこいつと友達になるからな」
魔理沙はその平坦な胸を張り、私の尻尾を抱いた。私と違って随分プラス思考な奴だ。ちょっと声が震えているが。
その提案は結構だが、しかし引っかかる点があった。「友人を作る」と言った私が持つべき疑問ではないのだろうけど……。
「魔理沙」
「どうした、親友っ?」
「一体、どうしたら友人なんだ? どこからが友人なんだ? 「なる」って宣言したら、か?」
「……そ、そりゃあ、お前、あれだよ」
どうやら当人も理解していないらしい。明らかに動揺している。子供にするには、酷な質問だったのだろうか。
しかし考えてみれば「友人を作る」だとか「友人になる」だとかは、何かずれている様な感じがするのだ。交友関係というのは、もっと時間をかけて築いていくものなのではないか、という意見が頭を擡げてくる。
尻尾を抱く魔理沙の腕から力が抜けた。そのまま、神社で聞こえる音は霊夢が定期的にお茶を啜る音だけになった。
なんとなくどんよりとした空気のまま、その日はお開きになった。霊夢と私に打ちのめされた魔理沙があまりにも可哀想だったので、別れ際にそっと抱き締めてやったが、それでも飛び去る背中は不安定に揺れていた。
まぁ、心配する事はない。どうせ明日になれば二人とも忘れてしまうだろう。いつも通りに神社に来て、いつも通りに薬にも毒にもならない話をして過ごす筈だ。
幻想郷の住人というのは、兎に角そういう風に単純に出来ているのだから。
一方私の方は、直ぐに切り合えて再び人間の里に戻った。午後は、里の権力者や識者に挨拶周りをするよう仰せつかっている。
冬の間は冬眠する紫様の代わりに私が行動する。普段の結界の検査に加え、人間、妖怪の賢者との会談、重要度の高い宴会への出席。主にそのあたりだが、他にも細かい仕事が幾つかある。今日の挨拶はそれらの為の布石だ。
日が高くなる前に、朝の早い老人や霧雨店なんかの商店へは済ませておいた。
今から向かうのは、まだ若い娘が当主を務めている家……つまり稗田家である。こちらを後回しにしたのには勿論理由がある。
若いとはいえ、御阿礼の子は他の人間に比べて寿命が大幅に短く、体も弱い。そのせいで、目を覚ますのが遅い事が多い。だから午前のうちに訪ねていくのは迷惑になるのだ。
それに、私は楽しみを取っておくタイプである。
別に少年を泣かせて多いに狼狽えてど忘れしていたとか、そういう下らない理由などではない。断じて。途中天狗の新聞が降ってきて、それを拾った里人の何人かが私に恐怖や怯懦の視線を向けてきたが、それも私の与り知らぬ事である。
稗田の屋敷は里の中心近くにある。幻想郷有数の旧家と言う事で、大通りに面した門の構えも中々の物だ。この門の前に立つと、無意識に色々な思いがこみ上げてくる。
一番最初の幻想郷縁起が書かれたのは、千年以上も前の事だと聞いている。私が幻想郷で過ごしたものよりもずっと長い歴史を、この屋敷は刻んでいる。私の知らない事を、この屋敷は知っている。蔵書に、或いはその柱や床板に至るまで、この屋敷は全てを”記憶”しているのだ。
私が御阿礼の子と個人的に親睦を持つ様になったのは、今の阿礼乙女、阿求様の代になってからだ。最初はこれまでと変わらない仕事上の付き合いだった。
御阿礼の子が生まれた時、数日間は乱痴気騒ぎが繰り広げられる。殊に阿求様の時は、妖怪まで混ぜての大騒ぎになった。
博麗大結界が成立してから初めての御阿礼の子。そして妖怪と人間が新しい関係を築き始めてからの初めての御阿礼の子。当時の様子を、私は細かに”記録”している。
もう十八年にもなろうか。私も随分丸くなった。
「あの、もし?」
「あっ……」
気付いたら、侍女らしき人物が門扉から顔を出していた。私の姿を見て緊張しているのが伝わってくる。
……私が妖怪である事が原因だと信じたい。新聞なんか読んでないと信じたい。
「八雲様、ですね。一体どういったご用件でしょうか」
「私の主人が間もなく冬眠に就くと言うことで、代理の挨拶に伺いました。阿求様にご面会願いたい」
「は、暫くお待ち下さい」
小さく一礼して、とてとてと駆けていく侍女を見送り、私は背後を振り返った。さっきから、なんとなく視線と敵意を感じるような……。
――あいつ? あいつだよ。石投げてみる? おっ、そうだな。妖怪だもんな。退治しないと。でも怒らせたら怖そうだぜ。大丈夫だよ、あんなちびが強いわけないだろ? 俺知ってるぜ。あいつらは里の中じゃ人間襲えないんだよ。そうか。じゃあ。
――退治しちゃおうぜ。
「お待たせしました……。って、藍様?」
聞き覚えのある声がして我に返った。大きな門が全開になっていた。目の前に阿求様が居る。腰を屈めて如何にも心配そうに、私の顔を覗き込んでいた。
「あ、や……。阿求様、ご無沙汰しております」
「ええ、お久しぶりです。お話は中で伺いますから、どうぞ上がって下さい」
「では失礼させて頂きます」
どうにも阿求様は急いでいる様に見える。礼を終えるより前に、足早に門の中へと引きずり込まれてしまった。
ばたん、と門が閉じる。それっきり外の音は聞こえなくなった。
「どうかなされたのですか?」
「……いえ、なんでもありません。あんまり寒いものですから、ちょっと火鉢が恋しくなって」
はにかみながらそう言う阿求様。今のはまるっきり嘘に聞こえた。らしくもない、わかり易い嘘だ。しかい詮索するのも憚られて、私はそれで納得する事にした。
「お茶を入れてきますから、先に書斎へ行っていて下さい」
屋敷に入ってすぐにそう伝えられて、素直に従った。阿求様とてもう子供という訳でもないのだから、お茶の一杯や二杯で失敗する事もないだろう。
かなり大きな屋敷だが、構造は頭に入っている。迷う事なく書斎の扉の前に着いた。
稗田家は幻想郷で唯一真実の歴史を記憶する役割を持っているだけあって、書斎の規模は立派なものだ。歴史に関する記述に絞れば、その知識量は群を抜く。
紫様が編纂した書物から、かつての博麗の巫女が記した風土記まで、印刷技術の存在しなかった遠い過去の書物も多く見られる。全てオリジナルではなく、御阿礼の子の持つ記憶力を活かして作られた写本である。
ここに存在する歴史は稗田家の者以外の影響を受けない。記録ではなく、記憶されているからだ。
その時、書斎の中から何か物音が聞こえた。本を本棚に戻す音と、直後に本を取り出す音。
誰か居るのだろうか。阿求様以外の誰かが。
少し肝が冷えたが、まさか泥棒と言う事はないだろう。ここに保存されている資料に手を出したところで、大した金にもなるまい。
扉に手をかけ、一思いに開く。古く、少し黴臭い空気が廊下に流れ込んできた。
書斎の中にはランプ一つ分の灯りしか見えない。まだ日中で、カーテンを開けばもっと明るくなると言うのに、その人物はどういう訳だか窓もカーテンも締め切って真っ暗な部屋を演出していた。
灯りが動くと、それに追従してりん、という鈴の音が聞こえてくる。
「阿求ー? 扉閉めてくれないと」
ランプの動く方を注視してみると、その声の主の姿が僅かに見えた。二色の正方形を交互に並べた模様の和服。緑色の袴。明るい色の髪の毛に、二つの鈴が金色に輝いている。
背丈は低い。もしかしたら魔理沙よりも小柄かも知れない。
確か……、そうだ。本居小鈴。名前と顔は一致するが、そこまで会話した事はないという、極めて微妙な関係だ。彼女が居るなら前もって教えてくれれば良いのに、阿求様も意地が悪い。
恐る恐る書斎に足を踏み入れた。床板の軋む音が、やけに大きく聞こえる。あちらはまだ私が阿求様だと勘違いしている様だ。それだけ本に集中している証拠だろう。
丁度手を肩に置ける位置まで近づいて、ようやく彼女は振り向いた。
「あきゅ……、って、違う?」
視線が交わる。重苦しい沈黙が二人の間に流れた。光源がランプしかないという状況もそれに拍車をかけている様だ。
「……どうも、小鈴ちゃん。八雲藍です」
「どうも、藍さん」
そんな他人行儀な挨拶だけを交わして、再び沈黙が訪れる。酷く間が持てない。かちり、かちりと古時計が時を刻む音だけが響く。
助けて阿求様。
「えっと、どうして藍さんはこんなところに?」
とうとう沈黙に耐えきれなくなったのか、小鈴ちゃんがしどろもどろに切り出した。こうしてくれれば、こっちだって話し易い。
「ああ、もうご主人様が冬眠する季節だからね。それで阿求様に挨拶に来たんだ」
「ほぇー、大変ですねぇ」
胸元に本を抱きかかえ、素直な感嘆の声を上げる。仕草から容姿まで非常に可愛らしく、幼い印象を受けた。
「お前の方は、一体どうしてこんなところに? 暗いところで本読むと目が悪くなるよ」
「いや、わかってはいるんですけどね。どうにも癖でして……。それに、ほら。こうしていると雰囲気でません?」
ちょっとよくわからない。少し変わった感性の持ち主らしい。
「ここは珍しい本がたくさんあるから、よく遊びに来るんです」
そう言って私の眼前に突き付けた本の表紙には『本当は近い月の裏側』と仰々しく書かれている。どう見ても紫様の著作です本当にありがとうございました。
小鈴ちゃんは本の重みにふらふらと揺れながら、客用の椅子まで歩いていく。見ていて危なっかしいが、慣れた足取りだった。
椅子に腰を下ろし、数冊の分厚い本を床に積んで一息吐く。ランプの灯りを全て本に傾け、懐から取り出した丸眼鏡をかけて、黙って本の世界へと潜っていく。
取り残された私はその隣に突っ立って、ぼうっとしている他はなくなった。阿求様はまだこないのだろうか。黴の匂いに混じって、僅かに紅茶の匂いが漂ってきている。
目の前の本居小鈴は、幼いながらも里で『鈴奈庵』という貸本屋を営んでいる。幾つかある貸本屋の中でも、特に色物ばかりが集まっていると評判だ。
本人もただの子供だと思ったら大間違いで、最近如何なる書物でも読み解く能力を手に入れたらしい。愛書家が高じた結果であるならば、多少人道を外れても幸せだろう。
本に目を落とすその表情はどこか恍惚的ですらある。これほどまでに書物にのめり込む人間を、私は見た事がなかった。
紅魔館地下の図書館に住む魔女も有数の愛読家として知られているが、それともどこか性質が違う。
書物そのものを愛する、生粋の”ビブロフィリア”。それが本居小鈴という少女だった。
「あらあら、小鈴ったら……」
不意に聞こえたその声に振り向いてみれば、すぐ傍に阿求様が立っていた。湯気を立ち上らせる紅茶をお盆に乗せ、呆れ顔で小鈴ちゃんを見下ろしている。
「藍様は随分子供が好きなのですね」
いつ書斎に入ってきたのかまるで意識に引っかからなかったが、阿求様の少し小馬鹿にした様な口ぶりを鑑みるに、どうやら私は熱心に小鈴ちゃんの読書する様を観察していたらしい。
「否定はしません。体はかつてのまま、知識ばかりで頭を肥やした私には、幼さとか若さが眩しく映るのですよ」
「わかります。私も似た様なものですから」
口元を緩め私を肯定した阿求様は、まるで母か姉の用に小鈴ちゃんの頭を小突きながら、「ほら、小鈴」と呼びかけた。
「藍様も来たのですから、そろそろお茶にしましょ。目も悪くなっちゃうわ」
しかしそれでも反応はない。俄に表情に影が落ちた。
「この子はいつもこうなんですよ……、っと」
そう言いながら、普段腰掛けているであろう机の、すぐ近くに垂れた紐を引いた。一斉に書斎中の窓とカーテンが開き、目が眩む程の西日が射し込んでくる。
眼前の本に食い入っていた小鈴ちゃんは、突然の光の出現に「ひにゃああ……」と弱く叫びながら椅子から転げ落ちた。可哀想だが非常に可愛らしい。
「……むー。なんだ阿求、戻ってきたんだ」
「ちょっと前から居たわ。そこの椅子を藍様に取ってあげて」
阿求様の声は小鈴ちゃんに向いていたが、私は自ら取りに動いた。書物の重みに翻弄される乙女にそんな労働を任せるわけにはいかない。
幾つかある椅子から、背もたれの無い物を選んで腰を下ろした。ソファとかの隙間のない椅子なら背もたれが合った方が楽ではあるが、そうでなければ尻尾が伸ばせなくて窮屈なだけだ。
三人で長方形の机を囲む。大抵挨拶に来るときは阿求様と二人で挟む事になるから、この眺めは新鮮だった。
阿求様の白い手が、私と小鈴ちゃんの前に紅茶を並べていく。幻想郷では貴重な砂糖の山が中央に置かれた。
「さて、と」
一通り準備が済んだところで、阿求様が仕切りの溜め息を吐いた。
「では、藍様。用件はわかっていますから、取り敢えず形だけで」
「ええ。それでは……」
去年も聞いた記憶のある台詞で挨拶を促され、私も原稿でも読むかの様に同じ挨拶をした。あまりにも儀礼的でつまらない物なので全編カットである。
小鈴ちゃんも最初だけは物珍しそうに清聴してくれていたが、開始から十分が経つ頃には、はわわと大きく欠伸を繰り返していた。
「……よくわかりました。いつも通りに」
阿求様は欠伸こそ噛み殺していたが、退屈そうな表情は隠しきれていない。二人をしらけさせてしまったのはなんとも忍びないが、まぁ儀礼なんてそんなものだ。
私の話が恙無く終わると、そのまま自然に茶会の空気になった。三人揃って紅茶を傾け、三人揃って息を吐く。砂糖を多めに入れた私のは、口当たりが良く冷えた体に染み渡った。
妖怪と御阿礼の子。その上にただの子供を加えてお茶を味わうなど、大結界が成立する前ではまずあり得なかった光景だ。
人と妖怪の新しい関係。こんな幻想的な繋がりが永遠に続いていくならば、そんなに素敵な事はない。
「藍様も随分よく笑う様になりましたね」
「そう、ですか?」
首を傾げる私に、阿求様は嬉しそうに頷いた。少し恥ずかしいが、悪い気はしない。
「よく笑うって、前は違ったの?」
会話を聴き、私と同じ角度で首を傾げる小鈴ちゃんに向け、再び頷く阿求様。
「ええ、それはもう。初めて会った頃はいつもむっつりしてらしたわ」
続く言葉にさらに引き込まれたのか、小鈴ちゃんは身を乗り出して阿求様の声に耳を傾けた。これは、なんというか、複雑な気分だ。
「何年前? いつ頃の事? もしかして、まだ阿求が阿求じゃなかった昔の事だったり?」
「そうねぇ、十年くらい前かしら」
顎に手を当て、記憶を辿る”ふり”をしながら、阿求様は小さく私を一瞥した。少々苦々しい記憶を蘇らせつつ、その視線に視線で応える。勿論、肯定の意味だ。
阿求様はわざとぼかしたが、実際には八年程前だ。
そうか、もうそんなにもなるのか。当時の私を振り返るとちょっと悶絶したくなる。
霊夢と初めて出会った春雪異変まで、私は人との関わりというものを殆ど持ってこなかった。
あの時、霊夢は私を道具としてではなく、妖怪として扱った。極めてぞんざいに、自然に、彼女は私を意思のある妖怪だと見なしたのだ。
不思議な感覚だった。それまで自分を単なる端末だと思っていた私に、ある一定の感情をもたらすのに十分な衝撃だった。他人に興味を持ち始めたのは、まさしくあの瞬間だった。
それから、慣れないコミュニケーションをとろうと、色々な事をしてきた。すれ違っただけの人間と挨拶を交わしたり、なるだけ長く会話が続く様に言葉を選んだり。
散々遠回りして私が理解したのは、大抵の連中が私を妖怪だと思っている事実だった。
そこから世界は広がり始めた。友人はあまり出来なかったが、話せる相手は増えていった。
やがて阿求様と交友を持つに至った。その結果がこれである。
私は、きっと式神の中で最も幸せだ。他とは違って自我があり、考え、望み、行動する事ができるのだから。
「ほら、にやにやしてるでしょ?」
「だねぇ」
「あ、う……」
その代償として、他人を前にしても思考に没入してしまう癖があるのが、我ながら残念だ。孤独を拗らせすぎた結果である。
「もー、そんなに見ないでくださいよ。私だって気にしてるんです」
「へぇ……」
「にやにやも禁止!」
こういう場面での阿求様は、普段の超然、諦観した雰囲気とは違い、非常にその年齢に相応しい少女の様な振舞いをする。稗田阿礼の生まれ変わりであることを感じさせない天真爛漫さを振りまきながら。
「でも、昔よりは可愛らしいじゃありませんか」
「可愛らしいって、私は威厳の方が欲しいのですが」
「威厳なんてあったって避けられるだけだよ?」
机に頬杖を突きながら現役人間の小鈴ちゃんにそう言われると、考えが揺らぎそうになるが、しかしそこはなんとか耐えた。いくらなんでも、融和する為に妖怪としてのプライドを投げ捨てる程私は愚かではないのだ。
「大体、私とそんなに変わらない位のちまっこい体で威厳なんて、望むべくもないと思いますけど……」
この子供は……。
「小鈴ちゃん、ちょっとそれは酷いんじゃないか?」
「そもそも時代錯誤も良いところです」
この御方は……。
「まぁ、時代錯誤と言うのは否定できませんが……」
実際、プライドと人間関係の間で空気抵抗を失った振り子の様にフラフラしているのが今の八雲藍だ。数年も努力しておいて友人が増えないのも、恐らくそのあたりに根ざしている。
全くもう。向いていないな。
「過去の慣習を捨ててこそ見えてくる物もあるのです。今回の幻想郷縁起を公開したのだって、そういう観点からのアプローチなのですよ」
なんだかスケールの大きい例えのようだが、的は射ている。幻想郷縁起は新しい時代に進み、「後世に残す為の資料」から「ちょっとした読み物」にその意義を変えた。妖怪も同じ様に変わっていくべきだと、阿求様は言いたいのだろう。
私がここまで変化するまで八年かかった。これ以上変わるのに、一体どれだけの時間がかかるのだろうか。
「そんな遠い目をする必要はないんじゃないですか?」
少し遠のいた意識が、小鈴ちゃんの言葉に引き戻された。
「どういう意味よ……?」
「人間だってすぐに死ぬわけじゃないんです。きっと私達が死ぬまでに変われますよ、藍さんなら」
可愛い顔をして随分と気の長い事を言う奴である。
でも、まぁ、うん。中々嬉しい事を言ってくれる。
「じゃあ、私が変われたら友人になってくれるか?」
「うん、喜んでっ!」
そのまま時間も忘れて話し続け、稗田の屋敷を出る頃にはすっかり日が暮れていた。空には丸い丸い月が昇り、妖しく輝いている。
「うぅ、流石に寒いな」
「ですねぇ」
私の迫真の感想に対し、背中で尻尾にくるまっている小鈴ちゃんの声は大変のんびりとしていた。背負うと言い出したのは私なのだし、気にはならない。
風に晒されている手を揉んで暖めつつ、提灯に照らされた道を鈴奈庵へと歩いていく。山に二柱の神様が現れて以来、里のインフラは整備され電気も引かれているが、夜の間は専ら火の光が用いられる。電気の光には謂れが無いからだ。
幽霊だとか、或いは極めて力の弱い妖怪だとかは火を使えば退ける事が出来る。火は日に通じ、夜を昼に変えてしまうからだ。
勿論私がそれを恐れるなんて事は無い。私自身の妖力に加え、「狐火」と言う様に狐は元より火と関わりが深いのだ。尻尾がいつだって暖かいのも、それを表している。表してるかな? 違うかも。
小首を傾げていると、背中の小さいのが「藍さん」と如何にも眠そうに呟いた。
「どうした? まさかこのまま寝たいなんて言わないでしょうね」
「その、まさかです……」
今にも消え入ってしまいそうなか細い声が返答に嘘が無い事を示している様で、却って私を困らせた。
鈴奈庵まで送ったとして、身内の方々にどう説明したら良いのかわからない。妖怪が里に入るのを見咎める人間はもう居ないが、付き合いを避ける人間は一定数存在する。もしも小鈴ちゃんのそう言った人種だったらと思うと、どうしても運ぶ足が重くなる。
絵面だってまさしく誘拐最中といった様相で、昼間の騒動も合わせてまずい。
よもや屋敷に連れ込む訳にも行くまいし、かといって、起きるまで揺りかごを演じていれば夜が開ける。
私は、取り敢えず眠らせない為に会話を試みた。
「ぱ、パンはパンでも食べられないパンは?」
「P≠NP……」
一体どんな幻覚を見ているのだろうか。
「よ、妖怪の賢者は千年前に月に攻め込みました。ナンデ?」
「ゲイのサディストだから」
「…………」
もうだめだ。意識が混濁しているらしい。
寒風の吹き抜ける大通りの真ん中に立ち止まって、私は暫く途方に暮れた。周囲の人々は、各自身につけた防寒着を肌に押し付けて寒そうに私の脇を抜けていく。私も尻尾に丸まりたい気分だが、状況がそれを許さないのだった。
酒場から料理と酒の匂いが漂ってくる。
「はぁ……」
こんなところでぼあっとしていても何も始まらない。かじかんだ手に息を吐きかけて暖め、私は一歩踏み出した。
尻尾から伸びている腕の力が俄に強くなる。首筋に触れる体温を感じる。
「ま、良いか」
今晩も明日も、特に与えられた仕事は無い。門限が定められている訳でもあるまいし、一晩くらい屋敷に帰らなくても叱られるなんて事はないだろう。この我が儘娘に付き合ってやるのも悪くはない。
これから始まるであろう、この幼い人間との付き合いに思いを馳せながら、私は夜の闇へ溶けていった。
霊夢さんの友情観念があんまりすぎて振り回される魔理沙と藍様可愛かったです。
神社の縁側での会話と行動を見る限り3人ともしっかり友人出来てるから大丈夫だよ!
藍様なら友達百人できる…ハズ!
あと、誤字報告をば 前半の方の霊夢のセリフにて
>友達が至って寂しいもんは~
“いたって”や“居たって”が正しいかと
いい雰囲気でした
小鈴の寝顔はちょっと見てみたい願望が。
絶対に可愛いでしょうから。
前半の霊夢と魔理沙との絡みは読んでいて微笑ましいものです。
私も博麗神社にお賽銭を入れにいきたくなりました。
阿求も可愛らしくてたまりませんでした。
色々と楽しめた作品でした。