その人形は、かなりの自信作だった。
普段は同じようなデザインの人形ばかりをつくっているわたしだけれど、今回作った新作は、いつもとは作り方を大胆に変えたものだった。そのため不安な部分も多かったのだが、いざ完成させてみると、自分でも十二分に納得の出来る品となった。昨日の夜、人形作りにおける全ての工程を終えた瞬間には、今までにない達成感と満足感を得られたほどだ。
それだけに、わたしは本気で怒りを覚えていた。机の上に突っ伏して眠りについてしまったわたしの、すぐそばに置いてあったあの人形を、わたしが寝ている隙に奪い去ってゆくなんて。相変わらず非常識な人間だ。たまには本気で退治してやらないと、と思いながら、わたしはいくつかの人形たちと共に家を出た。
しかし、すぐに足を止める。ドアのそばに、見慣れた妖怪が立っていたからだ。こんな所で見かけるのは、初めてだったが。
「御機嫌よう。珍しいわね、お出かけ?」
こんな暗くて日の当たらない場所だというのに、優雅に日傘なんか差して。その妖怪は、不気味なくらいにやさしく微笑んだ。
「あんたこそ珍しいわね。……こんなところで何をしているの?」
彼女は答えず、愉快そうに笑う。何故だかとても上機嫌のようだ。いや、この妖怪のことだ、ただ"そう見せかけている"だけの可能性もあるが。
ふと、わたしの視界に気になるものが入ってきた。それは、この距離からだと人間なら見えないだろうほどに、ちいさなものだった。けれどわたしは見逃さない。そしてそれが何なのかを理解した瞬間、わたしの表情はますます険しいものに変わっていった。
「……ああ、……面倒だわ。あの盗っ人魔法使いなら、本気を出せばすぐに倒すことが出来るでしょうけれど。あんたには、そう簡単に勝てる気がしない」
「あら何、物騒なことを言って。まるであなたが、私に喧嘩を売ろうとしているみたいじゃない」
「わたしだって売りたくないわよ。でも、話し合いで解決出来るような相手じゃないでしょう、あんたは」
「話し合う?何をかしら?」
「とぼけないで。ほらそこ、服についてるわよ。金色の糸が一本、生成色の繊維が数本」
そう、それは、糸だった。
普段とは違ったタイプの人形を作るということで、わたしは材料にもかなり気を遣っていた。糸なんて、微妙に異なる同じような色のものを何種類も見比べながら、数十分も掛けて選んでいた。だから、目の前に立っている妖怪の服についていた細い糸が、昨日完成した人形の金髪部分と靴下の部分に使用した糸だということが、すぐに分かった。
「あらら。ばれちゃった?」
悪びれる風もなく、笑顔のままでこちらを見つめてくるスキマ妖怪。
こんな奴が、一体何のためにわたしの人形を奪っていったのかは分からないけれど。その表情から、穏便に返してくれる気はさらさらないことが伺えた。
「悪いわね、あの人形、ちょっぴりわたしに似ていたから。気に入って持っていっちゃったの」
「聞く耳なんて持っていないでしょうけれど、一応、言っておくわ。返して頂戴」
「駄目よ、今は使用中だから。借りているあいだ、代わりにこっちの人形を貸しておきましょうか?」
言いながら、彼女は扇子で弧を描くように空間を切り裂き、そこから一体の人形を取り出した。水色のワンピースを着せた少女人形。わたしが作る人形とは比べものにならないくらい、拙い出来のものだった。
なめないで、とわたしは叫び、それを戦闘開始の合図とした。ポケットからスペルカードを取り出し、発動させようとする。
けれどその刹那、ぐらりと視界が歪み、わたしは体勢を崩してしまう。
何が何だか分からないまま目を見開いていると、あのスキマ妖怪がにこにこ笑顔でこちらに手を降っているのが見えた。そしてその姿は、どんどん、どんどん、ちいさくなってゆく。
やがてわたしは、じぶんの足が地についていないことに気がつく。
わたしはいつの間にか、深い穴のなかを、落ちていっていたのだ。
文系学科の講義室が連なっている棟の構内を歩きながら、私はメリーのはなうたを聴いていた。
曲名は忘れてしまったものの、ちいさな頃に聴いた覚えのあるメロディだ。何かのアニメの主題歌だったか。それとも、学校で習った歌だったか。
「子供の頃に見たものや聴いたものって、その後の人生を大きく左右させると思うの」
歌い終えると、メリーは上機嫌に話しだす。
「だから、むかし聴いた御伽噺を、どう解釈するかがとても重要。わたしの友人には、白雪姫の話が子供の頃から大嫌いだったっていう子がいたわ。なんの苦労もせず、器量と友人に恵まれただけで、死にかけたところを助けてもらうだなんて気に入らない、ってね」
「成る程。確かに、御伽噺にはたくさんの解釈がある。そのうちのひとつ、メリーが解釈した御伽噺を表したものが、今日これから観せてくれる劇な訳ね」
そう!と言いながらこちらを振り向くメリー。その拍子に手が滑り、段ボールを落としそうになったのを、わたしが両手でフォローする。
メリーはたくさんの荷物をその手に抱えていた。大きな段ボールのなかには、数多くの人形が。短い期間に急いで作ったものなのだろう、作りはあまり良くないが、いかにも"手作り"な感じがして味わい深い。
メリーは授業の一環として、人形劇の発表をすることになったらしい。課題自体は幼少期の経験に因する精神のうんたらかんたら、と割と畏まったものなのだけれど、メリーの班はそれをオリジナルの人形劇という形で提出することにしたのだとか。
課題といえば実験、調査、考察、レポート、というような学科に籍を置いている私からすれば、浮かれたお遊びにしか見えないのだが。脚本を担当したメリーが自信作だとしつこく言ってくるので、私は今日提出の課題をなんとか昨日までに終わらせ、発表を観にくることにしたのだった。
「で、内容は完全にオリジナルなのかしら?」
「いいえ、正確にいうと違うわね。色々なお話をモチーフにしているの。けれどメインはなんといっても、あれよ。不思議の国のアリス」
ほらこれよ、取ってみて、とメリーが促す。私はそれに従って、メリーがあごで指し示した人形を取り出してみる。
それは、紫色のワンピースを纏った少女人形だった。他のものとは作りも雰囲気も明らかに違う。出来栄えも、他の人形たちとは比べものにならないほど精巧だった。プロが作った市販のものだろうか。
「これがアリス?なんだかイメージに合わないけれど…」
「実はね、今日の朝、アリスの人形だけ失くしちゃったのよ。水色のワンピースを着た自信作、昨日の夜まではちゃんと机の上にあったのに、不思議よね。だからこの子は代理。家のなかを引っかき回して、いちばん可愛い人形を持ってきたの」
「綺麗な人形ね。なんだかメリーに似ている気がする」
「そう?それにしても、こんな人形いつからうちにあったのかしら。私も家族も、誰も見覚えがなかったんだけれど……まあ、細かいことは気にしないことにするわ」
私はその人形を段ボールのなかに戻した。メリーはさっきからずっと機嫌がいいらしく、またはなうたなんかを歌い始める。
やがてちいさな教室に着き、メリーは舞台裏へ、私は客席へと向かう。使い古された椅子には可愛らしい座布団が敷かれており、部屋全体を見渡してみても、いかにもメリー好みの装飾が施されているようだった。
もうメリーってば、遅いよ、心配したんだから、などと会話が聞こえてくる。実はメリーが遅れたのは私を教室まで案内してくれたからなのだ。この棟の構造はよく分からないからと案内を頼んだのだが、いつも通り私が待ち合わせ時間に遅れたものだから、メリーの到着がかなり遅くなってしまったのだ。
メリーの遅れによって舞台裏はばたばたしているようだった。けれど、劇はきちんと予定通りの時間に始まった。
ちいさな枠のなかに、あの紫色の服を着たアリスが現れ、ちょこんとお辞儀をする。
私は他の客に倣って、ぱちぱちと拍手を送っていた。
Alice in the merry land
1.
アリスは穴を落ちていきました。
どうしてなのかは覚えていません。いつどこで落ちたのかは、まったく思い出せません。しかし落とし穴にはまり、落ちてしまったことは覚えていました。アリスはそのまま、深く深く、落ちていきました。
長いあいだ落下していたにも関わらず、アリスのからだはふわりと、足から静かに着地できました。どうしてだろう、と不思議に思い、アリスは地面を見下ろしました。
「危なかったわね、あなた」
後ろから声がしたので、アリスはすぐに、振り返りました。
そこに立っていたのは、青いずきんをかぶった女の子でした。
「どこから落ちてきたのかは知らないけれど。この雲がクッションにならなかったら、かたい地面に真っ逆さまだったわよ」
よく見ると、アリスは雲の上に立っていました。ほんのり桃色に染まった、おおきくてやわらかい雲です。青ずきんの女の子も、その上に立っているようでした。
「雲って、霧みたいなものなんじゃなかったかしら?こんなに、ひとの体を受け止められるほどの密度があるものなの?」
青ずきんは、そうなの?と首をかしげます。これが普通なんじゃないの?と呟きながら、しゃがみこんで雲にそっと触れていました。
「ところであなたは、なんでこんなところに落ちてきたのかしら?」
「それは、……。困ったわ、思い出せない」
「あら、奇遇ね。実はわたしもなの。どうしてわたしがここにいるのか、全く思い出せない」
青ずきんは、ちいさな籠を腕からぶら下げていました。そのなかには、何かの破片のようなものがたくさん入っています。
「それは何?」
「わからないわ。なんにもわからないの。ただ、わたしはこれを集めなきゃいけないような、集めて何かを成し遂げなきゃいけない気がするの」
「何かをって、何かしらね」
「さあ……。誰かに会いにいきたくて、それで出かけていったような気もするわ。誰だったかしら……」
青ずきんはうーんと考え込んでいる様子でした。
と、いきなり雲が動き始めたので、アリスはよろめきつつ驚きます。
「わあっ、何事?」
「何事、って。雲が動いたのよ。ここという場所に飽きたんじゃないかしら」
「飽きるって……雲に感情なんかあるの?」
「この雲にはあるみたいね。あ、分裂した。あなたとはもうお別れのようだわ、さようなら」
切り離された雲の欠片に乗ったまま、アリスはどんどん、青ずきんの乗っている雲から遠ざかっていきました。その速さに倒れそうになり、アリスは慌ててしゃがみ込みます。
いつか、青ずきんが自分の使命を果たせる日がくるといいな、とアリスは思いました。
2.
雲はアリスを乗せたまま、ゆるりと降下していきました。
地面がすぐそこまで近づいてきたのを認めると、アリスはそこからジャンプして、綺麗に着地しました。アリスが降りてからも、雲はそのまま低空飛行で進んでゆきます。ふしぎな雲だなあ、と思いながら、アリスはそこに立っていました。
見渡すと、どうやらそこは街のようでした。たくさんのお店が並び、多くのひとで賑わっています。そのなかで、ひとり目を引く女の子がいました。
その子は真っ黒な髪に真っ黒な服、真っ黒な靴下を履いた女の子でした。背中からは何やら奇妙なかたちの羽根が生えています。地べたに座り込み、何かをじっと見つめていました。
近づいてみると、その視線の先には、真っ赤な靴がありました。ワンストラップの可愛らしい靴で、ストラップの部分から値札がぶら下がっているのですが、裏返っていてここからでは値段が確認できません。しかし、その完成度とお店の雰囲気からして、高価な靴であることは想像に難くありませんでした。
「あの靴が欲しいの?」
アリスが話しかけると、女の子は面倒くさそうに振り返りました。その目はとても不機嫌そう。話しかけなければよかったかしらと、アリスは少し後悔しました。
「欲しいけど。……わたしが買わなきゃいけないのは、あっちの黒い靴なんだ」
女の子が指し示したのは、隣のお店に展示してある、真っ黒な靴でした。
「なら両方買えばいいじゃない」
「駄目だよ、赤い靴を買ったら黒い靴を買えなくなる。わたしが買わなきゃいけないのは黒い靴のほうなんだから」
「じゃあ黒い靴を買えば?」
「やだ。こっちの赤い靴が欲しい」
言っていることは滅茶苦茶ですが、なんとなく気持ちはわかります。欲しいものが目の前にあるのに、手に入れることが許されないのは、つらいものです。
なんで黒い靴じゃなきゃいけないの?と尋ねると、こんどお葬式があるんだ、と返ってきました。けれど、誰の?と尋ねると、わからないと返ってきました。
「そういえば、誰のだっけ。忘れちゃったな」
肩をすくめる女の子に、アリスは思わずこう言ってしまいました。
「なら、お葬式のことなんて忘れて。赤い靴のほうを買っちゃえば?」
女の子は眉をひそめながらも、その瞳にほんの少しだけ、希望のひかりを宿しました。
「で、でも。……黒じゃなきゃだめなんだ。こんなに派手で明るい色、わたしには、合わない……」
「そんなことないわよ。女の子はね、自分がすきなものを身につけているときがいちばん可愛いの。だから、買っちゃいなよ」
「でも、……でも……」
言葉を詰まらせながらも、女の子の心は明らかに、赤い靴を買いたいきもちにぐっと傾いていました。それを見てとったアリスにますます説得され、女の子は、ついに立ち上がりました。
赤い靴を手に取って、震える手で、店員さんに預けます。するとたくさんの小銭と引き換えに、赤い靴はあっという間に、女の子のものとなりました。
履いてみなよ、とアリスは言います。女の子は、恐る恐るそれを履いてみました。その赤い靴は、真っ黒な姿をした女の子に、存外よく似合いました。
「すごい、すごい……。買ってよかった。なんだか踊りたい気分!」
興奮した様子でそう叫ぶと、女の子はくるくると躍るように、その場を去っていきました。追いかける必要もないと思い、アリスはそれを見届けます。
女の子は、いつからあそこに座っていたのでしょうか。どれだけ長いあいだ、じぶんのすきなことを出来ずに、あそこに縛られていたのでしょうか。アリスが話しかけなければ、あのまま永遠に素直になれず、笑顔になれずにいたのでしょうか。
躍りながら去っていった赤い靴の女の子が、ほんとうに素直になれるような場所を見つけられたらいいな、とアリスは思いました。
3.
街を出てみると、今度はまた違った雰囲気の町が見えてきました。
その町に足を踏み入れたとたん、アリスは違和感を感じたのですが、その理由はすぐに分かりました。町の建物がみな、ちいさく、おもちゃのようなかたちなのです。それだけではありません。その町を行き交っているのはなんと全員、子供なのでした。
「おや、見かけない顔を発見。あなたはだあれ?」
話しかけてきたのももちろん、子供でした。そこまで幼くは見えませんでしたが、それでも、大人とはいえないような風体の女の子でした。
「わたし?名前はアリスよ」
「名前なんて関係ないよ。名前は、大人が子供につけるものなんだからね。大人がいないこの国には、必要ない」
その子はこのちいさな町を、国と表現していました。帽子をかぶり、緑の袖の、水兵さんのような服を着たその子の顔は、とても明るいものでした。
「なんでここには子供しかいないの?」
「みんな大人にならないからだよ。子供のままでいたい、とみんな思っているから」
「ふうん。変なの」
そのアリスの一言に、明るかったその子の表情が一瞬にして、翳りました。
「……変って何?わたしはもうずっと昔から、この姿のままよ。これ以上、退化しない。あなただって、出来るならずっと子供のままがいいでしょう?」
その子の声は、さっきまでよりも少しだけ、低くなっていました。
「そんなことないわよ。わたし、大人になってやりたいことがいっぱいあるもの」
「本気でそう思っているなら、可哀想に。大人になるということは、老いるということだよ。次第に出来ないことが増えていって、そして最後には、何も出来なくなる」
「しぬってこと?」
しぬ、という単語を出した瞬間、その子は苦い顔をしました。
「……そうだよ。あなたには分からないだろうけれど、……しぬのは、怖いことだよ。でもそれを超越したとき、わたしたちは、永い時を得ることができる。ずっと子供でいられる、いちばん出来ることの多い時期で、ずっといられる」
「出来ること?子供に出来ることなんて限られ」
「そんなことはない!」
アリスの言葉を遮ったその声は、本気の怒鳴り声でした。
目をぱちくりさせているアリスの前で、その子は両手の拳を、ぎゅっと握りました。手首に筋が浮き出るほど、かたく、ぎゅっと。
「出来るよ、……出来るよ!でも、老いたらできない。早くしないといけないんだ。わたしがこの姿でいられるうちに、助け出さないと……」
その子が何のことを言っているのか、アリスにはさっぱりでした。でも、その子が何か思い詰めているのだということを理解できないほど、アリスは無神経ではありませんでした。
これ以上余計なことを言って、その子を怒らせてはいけない。そう思い、アリスは黙ってその子に背を向けました。その子は呼び止めることも、追いかけることもしません。
背後に立っているであろうその子が、どんな表情をしているのかは分かりませんでしたが。
その子がこれから、時の流れを恐れずに、一緒に時を過ごせるようなたいせつな仲間を得られたらいいな、とアリスは思いました。
4.
町を出た先に広がっていた光景に、アリスは驚かざるを得ませんでした。
そこは、砂漠でした。もう日が傾き、空には星がきらきらと瞬いていましたが、まだそれなりに明るいので随分と遠くまで見渡すことができます。見渡す限り、延々と、砂漠でした。
人影は見当たらない……と思っていましたが、それは間違いでした。遠くにちいさな影が見えたので、蜃気楼でないことを祈りながら、アリスは足早に近づいていきました。近づいてみると、そこには、おおきな耳を生やしたねずみのような女の子が座っていました。
「ああ、なんだ」
ねずみさんは苦笑します。
「別人か。……駄目だな私は。期待を裏切られたときのことを考えて、元から期待なんてしないのが正解なのに」
ねずみさんの笑い方は、なんだか、自虐的に見えました。
「よく分からないけれど、期待を裏切ったようで悪かったわね。……誰かを待ってるの?」
まあね、とつまらなさそうに答えるねずみさん。暗い空を見上げながら、独り言のように呟きます。
「まったく、どこに行ったのか。……いや、それは愚問だな。何をしに行ったのかなんてよく分かってる。ただ、……どうしてわたしを連れて行かなかったんだ、君は……」
星に向かって話しているように見えました。ねずみさんがとても悲しそうな様子なので、アリスは励ますように言います。
「待っても来ないのなら、探しに行ってみれば……」
「いや、いけないんだ。探せばすぐ見つかるだろう。でもそれじゃあ、意味がないんだ」
「そう。……一体何をしに行っているの?そのひとは」
ねずみさんは、声色を変えることなく、けれど淋しげな表情で、言いました。
「たいせつなひとを、探しているのさ」
ねずみさんと別れてしばらく砂漠を歩いていくと、また人影を見つけました。
今度はこちらが歩み寄るより早く、相手からこちらへ向かってきました。背が高く、美人で、中性的な顔立ちをしているひとでした。
まるで王子さまみたい、とアリスは思いました。王子さまのようなそのひとは、やさしい瞳で語りかけてきます。
「こんにちは。珍しいですね、こんなところにひとが来るだなんて」
そのせりふから、そのひとが長いあいだここにいるのだということが伺えました。
「あなたはここで何をしているの?」
「私ですか?私は、ひと探しをしているのです。けれどそのひとがいる場所は遠すぎて、今のままでは会いに行くことが出来ないのです」
王子さまは笑顔のまま、悲しげに、すこしだけ目を細めました。
「だからずっとここにいるの?」
「ええ。でも、それだけではないのです。私は何か、大事なことを忘れているような気がして……」
その言葉を聞いて、アリスはひらめきました。
きっと、さっきのねずみさんの待ちびとは、このひとなのです。ねずみさんにとってこのひとは大事なひとで、このひとにとっても、ねずみさんは大事なひとなのです。
しかしそれを、このひとは思い出せずにいる。遠くにいるたいせつなひとを想うあまり、こんなに近くにいる大事なひとを、思い出せずにいる。このひとに思い出してもらえるまで、あのねずみさんは、きっと、ずっとあそこで待ち続けるのでしょう。
伝えようかと、アリスは思いました。あのねずみさんのことを、この王子さまに教えてあげようかと。けれどアリスは、それをしませんでした。
そう、意味がないのです。ねずみさんが探しに行けば、アリスが一言教えてあげれば、王子さまとねずみさんはすぐにでも会えるでしょう。ですが、それではたぶん、何の意味もないのです。
「見つかるといいね。たいせつなひと」
アリスは二重の意味で言いました。それはきっと、いまの王子さまには伝わらないでしょうけれど。
この星空の下、王子さまとねずみさん、いちばん近くにいるふたりが再び笑顔で出会えるといいな、とアリスは思いました。
5.
砂漠を抜けようとしていた頃、辺りはすっかり暗くなり、アリスは困ってしまいました。
ふしぎと喉がかわいたり、おなかが空いたりはしないのですが、睡魔はすこしずつ襲ってきていました。出来るなら、このままここで野宿なんてしたくない、とアリスは思っていました。
それでも疲れ果ててしまった体は、その場に座り込むことを本能的に選びとります。重くなるまぶたをなんとか持ち上げようと、アリスは必死に顔をぱんぱん叩きました。
すると、その叩く音の合間に、何かが聞こえた気がしました。アリスは手を止め、それを聞き取ろうとします。
……どくん、どくん。
それは心臓の音でした。アリスの?いいえ、違います。地に、空に、あたまのなかに直接響くかのように、誰かの心臓の音が確かに聞こえてくるのです。
「これ以上はだめよ」
唐突に声がしたので、アリスは驚いて振り向きます。暗い視界のなかにぼうっと、人影が浮かび上がります。
「ここから先は、わたしたちの世界だから。あなたはまだ、知ってはだめ」
大きな傘のようなものが見えます。その下から覗くふたつのまるい瞳は、左右で色が違っていました。
どくん、どくん。
そのあいだにも、心臓の音はどんどん大きくなってゆきます。
人影はもう何も言うことはなく、ふわりと、溶けるように消えていきました。それでも音は止まりません。アリスは耳をふさぎました。けれど、その音を少しでも遮ることは、できませんでした。
視界が闇に染まってゆきます。それはアリスがまぶたを閉ざしてしまったからでしょうか、夜の帳が降りてきたからでしょうか、それとも……。
アリスの意識は、いつの間にか、途切れてしまいました。
*
片づけを終え、再び段ボールを抱えながら廊下を歩くメリーの愚痴を、私は延々と聞かされる羽目になった。
「だから、おかしいのよ!絶対誰かの悪戯なんだわ」
彼女はもうさっきからずっと同じ言葉を繰り返している。
「まあ、落ち着きなよメリー……。私は面白かったよ、あの劇」
「面白かった?私はこの一ヶ月間、ずっと脚本を推敲し続けてきたのよ?」
ああ、これは駄目だ。私がなだめたところで収まるような、簡単な問題ではないらしい。
メリーが怒っているのは、当然といえば当然だった。人形劇自体は上手くいき、拍手喝采のもと幕を下ろしたのだが、それがますますメリーの怒りを逆立てた。それもそのはず、なんと、メリーが書いたはずの脚本が、全く違う内容の脚本にすり替わっていたのだという。
メリーは脚本を班のメンバーに手渡したあとは、ずっと人形作りに集中し、劇の練習やリハーサルには一切参加していなかった。なので、本番が始まるまでは脚本が違っていることに気づかなかったのだとか。しかし劇を中断させるわけにもいかず、そのまま口出しはせずに終わるまで見届け、終わったあとにこうして私に愚痴っているというわけなのだ。
班の誰もが、渡された台本はメリーが書いたものだと信じて疑わなかった。当たり前だ。メリー本人の手から渡された台本が、一体どこで別のものとすり替わるというのだろう。普通に考えればとても不思議な話だが、不思議な現象にすっかり慣れてしまっている私たちは、その奇妙さに首を傾げたりはしなかった。
私はあの劇を面白いと思ったし、メリーは自信作を披露出来ずに怒っているし。
けれど、それはただそれだけのことで、不思議なことでもなんでもないのだ。
「もういいわ、劇のことは諦める。でもあれは本当に自信作だったの、蓮子だけにでも聞いてほしいわ。あのね、私のシナリオではね……」
愚痴が収まったと思ったら、今度は真のシナリオ語りに切り替えるメリー。普通の人間なら鬱陶しく感じるのかもしれないが、あいにく私は普通でないし、メリーも普通ではない。だから、普通ではないはずのメリーのシナリオに興味を持ち、耳を傾ける。
ふと、メリーの持っている箱の中身が視界に入った。そのなかに詰められている人形のうちの一体が、私の目を引いた。
それは、少女人形。水色のワンピースを纏った、恐らくメリー手作りの、人形。
劇に使われていたアリスの人形は、終始あの紫色の服を着た人形だった。水色の服のアリス人形は、メリーが昨日、自宅で失くしたんじゃなかったっけ?
まあいいや、と私は思い、メリーの話を聴くことにした。脚本がすり替わっていようが、人形が消えたり現れたりしようが、そんなのは気にするほどのことでもないのだ。だって。
秘封倶楽部の日常とは、そういうものなのだから。
立ちくらみのような感覚に襲われたあと、わたしは周りを見渡してみた。
そこは、いつも窓越しに見ているのと同じ景色。なんの変哲もない、魔法の森の風景。さっきの、穴に落ちてゆくような感覚はなんだったのだろうか。いや、その後にも何かを見たり聞いたりしていたような……?
曖昧になっている記憶をなんとか整理しようとしたが、それを可笑しそうににやにや見てくるあのスキマ妖怪の姿に気づき、わたしははっと背筋を伸ばした。
「そうよ、人形!返してくれないのなら、ちからづくで取り返すわよ」
スキマ妖怪は、再び扇子を翻し、空間を切り裂いた。その手にあったはずの、あの水色のワンピースを着た拙い人形は、いつの間にか消えている。それを不思議がるわたしをよそに、彼女は空間の亀裂部分から、わたしが昨日完成させたあの人形をずるりと引き摺り出した。
それをぽんと手渡してきたのだが、安心したのも束の間、その人形を見たわたしはまた怒りを覚えて叫んでいた。
「ちょっと、何よこれ!ああもう、せっかく綺麗に整えた髪がところどころ千切れてるし、服にも皺が……元に戻してよ!」
「あら、それはわたしのせいじゃないわ。劇で主役を担当した女の子に言って頂戴」
「は?」
「それはそうと、幻想郷でも、また新しい劇が始まるようですよ。SFチックなものになるのかしら。今回は守矢の巫女も参加するみたいね、面白いものが見られそうだわ」
相変わらず、この妖怪の言うことは訳が分からない。まともに会話しようとしても無理だと判断したわたしは、乱れた人形の髪や衣服を直すため、家に戻ることにした。
そう、なにか不思議なことがあっても、不思議なことを言う妖怪に会っても、別に気にすることではない。だって。
幻想郷の日常とは、そういうものなのだから。
普段は同じようなデザインの人形ばかりをつくっているわたしだけれど、今回作った新作は、いつもとは作り方を大胆に変えたものだった。そのため不安な部分も多かったのだが、いざ完成させてみると、自分でも十二分に納得の出来る品となった。昨日の夜、人形作りにおける全ての工程を終えた瞬間には、今までにない達成感と満足感を得られたほどだ。
それだけに、わたしは本気で怒りを覚えていた。机の上に突っ伏して眠りについてしまったわたしの、すぐそばに置いてあったあの人形を、わたしが寝ている隙に奪い去ってゆくなんて。相変わらず非常識な人間だ。たまには本気で退治してやらないと、と思いながら、わたしはいくつかの人形たちと共に家を出た。
しかし、すぐに足を止める。ドアのそばに、見慣れた妖怪が立っていたからだ。こんな所で見かけるのは、初めてだったが。
「御機嫌よう。珍しいわね、お出かけ?」
こんな暗くて日の当たらない場所だというのに、優雅に日傘なんか差して。その妖怪は、不気味なくらいにやさしく微笑んだ。
「あんたこそ珍しいわね。……こんなところで何をしているの?」
彼女は答えず、愉快そうに笑う。何故だかとても上機嫌のようだ。いや、この妖怪のことだ、ただ"そう見せかけている"だけの可能性もあるが。
ふと、わたしの視界に気になるものが入ってきた。それは、この距離からだと人間なら見えないだろうほどに、ちいさなものだった。けれどわたしは見逃さない。そしてそれが何なのかを理解した瞬間、わたしの表情はますます険しいものに変わっていった。
「……ああ、……面倒だわ。あの盗っ人魔法使いなら、本気を出せばすぐに倒すことが出来るでしょうけれど。あんたには、そう簡単に勝てる気がしない」
「あら何、物騒なことを言って。まるであなたが、私に喧嘩を売ろうとしているみたいじゃない」
「わたしだって売りたくないわよ。でも、話し合いで解決出来るような相手じゃないでしょう、あんたは」
「話し合う?何をかしら?」
「とぼけないで。ほらそこ、服についてるわよ。金色の糸が一本、生成色の繊維が数本」
そう、それは、糸だった。
普段とは違ったタイプの人形を作るということで、わたしは材料にもかなり気を遣っていた。糸なんて、微妙に異なる同じような色のものを何種類も見比べながら、数十分も掛けて選んでいた。だから、目の前に立っている妖怪の服についていた細い糸が、昨日完成した人形の金髪部分と靴下の部分に使用した糸だということが、すぐに分かった。
「あらら。ばれちゃった?」
悪びれる風もなく、笑顔のままでこちらを見つめてくるスキマ妖怪。
こんな奴が、一体何のためにわたしの人形を奪っていったのかは分からないけれど。その表情から、穏便に返してくれる気はさらさらないことが伺えた。
「悪いわね、あの人形、ちょっぴりわたしに似ていたから。気に入って持っていっちゃったの」
「聞く耳なんて持っていないでしょうけれど、一応、言っておくわ。返して頂戴」
「駄目よ、今は使用中だから。借りているあいだ、代わりにこっちの人形を貸しておきましょうか?」
言いながら、彼女は扇子で弧を描くように空間を切り裂き、そこから一体の人形を取り出した。水色のワンピースを着せた少女人形。わたしが作る人形とは比べものにならないくらい、拙い出来のものだった。
なめないで、とわたしは叫び、それを戦闘開始の合図とした。ポケットからスペルカードを取り出し、発動させようとする。
けれどその刹那、ぐらりと視界が歪み、わたしは体勢を崩してしまう。
何が何だか分からないまま目を見開いていると、あのスキマ妖怪がにこにこ笑顔でこちらに手を降っているのが見えた。そしてその姿は、どんどん、どんどん、ちいさくなってゆく。
やがてわたしは、じぶんの足が地についていないことに気がつく。
わたしはいつの間にか、深い穴のなかを、落ちていっていたのだ。
文系学科の講義室が連なっている棟の構内を歩きながら、私はメリーのはなうたを聴いていた。
曲名は忘れてしまったものの、ちいさな頃に聴いた覚えのあるメロディだ。何かのアニメの主題歌だったか。それとも、学校で習った歌だったか。
「子供の頃に見たものや聴いたものって、その後の人生を大きく左右させると思うの」
歌い終えると、メリーは上機嫌に話しだす。
「だから、むかし聴いた御伽噺を、どう解釈するかがとても重要。わたしの友人には、白雪姫の話が子供の頃から大嫌いだったっていう子がいたわ。なんの苦労もせず、器量と友人に恵まれただけで、死にかけたところを助けてもらうだなんて気に入らない、ってね」
「成る程。確かに、御伽噺にはたくさんの解釈がある。そのうちのひとつ、メリーが解釈した御伽噺を表したものが、今日これから観せてくれる劇な訳ね」
そう!と言いながらこちらを振り向くメリー。その拍子に手が滑り、段ボールを落としそうになったのを、わたしが両手でフォローする。
メリーはたくさんの荷物をその手に抱えていた。大きな段ボールのなかには、数多くの人形が。短い期間に急いで作ったものなのだろう、作りはあまり良くないが、いかにも"手作り"な感じがして味わい深い。
メリーは授業の一環として、人形劇の発表をすることになったらしい。課題自体は幼少期の経験に因する精神のうんたらかんたら、と割と畏まったものなのだけれど、メリーの班はそれをオリジナルの人形劇という形で提出することにしたのだとか。
課題といえば実験、調査、考察、レポート、というような学科に籍を置いている私からすれば、浮かれたお遊びにしか見えないのだが。脚本を担当したメリーが自信作だとしつこく言ってくるので、私は今日提出の課題をなんとか昨日までに終わらせ、発表を観にくることにしたのだった。
「で、内容は完全にオリジナルなのかしら?」
「いいえ、正確にいうと違うわね。色々なお話をモチーフにしているの。けれどメインはなんといっても、あれよ。不思議の国のアリス」
ほらこれよ、取ってみて、とメリーが促す。私はそれに従って、メリーがあごで指し示した人形を取り出してみる。
それは、紫色のワンピースを纏った少女人形だった。他のものとは作りも雰囲気も明らかに違う。出来栄えも、他の人形たちとは比べものにならないほど精巧だった。プロが作った市販のものだろうか。
「これがアリス?なんだかイメージに合わないけれど…」
「実はね、今日の朝、アリスの人形だけ失くしちゃったのよ。水色のワンピースを着た自信作、昨日の夜まではちゃんと机の上にあったのに、不思議よね。だからこの子は代理。家のなかを引っかき回して、いちばん可愛い人形を持ってきたの」
「綺麗な人形ね。なんだかメリーに似ている気がする」
「そう?それにしても、こんな人形いつからうちにあったのかしら。私も家族も、誰も見覚えがなかったんだけれど……まあ、細かいことは気にしないことにするわ」
私はその人形を段ボールのなかに戻した。メリーはさっきからずっと機嫌がいいらしく、またはなうたなんかを歌い始める。
やがてちいさな教室に着き、メリーは舞台裏へ、私は客席へと向かう。使い古された椅子には可愛らしい座布団が敷かれており、部屋全体を見渡してみても、いかにもメリー好みの装飾が施されているようだった。
もうメリーってば、遅いよ、心配したんだから、などと会話が聞こえてくる。実はメリーが遅れたのは私を教室まで案内してくれたからなのだ。この棟の構造はよく分からないからと案内を頼んだのだが、いつも通り私が待ち合わせ時間に遅れたものだから、メリーの到着がかなり遅くなってしまったのだ。
メリーの遅れによって舞台裏はばたばたしているようだった。けれど、劇はきちんと予定通りの時間に始まった。
ちいさな枠のなかに、あの紫色の服を着たアリスが現れ、ちょこんとお辞儀をする。
私は他の客に倣って、ぱちぱちと拍手を送っていた。
Alice in the merry land
1.
アリスは穴を落ちていきました。
どうしてなのかは覚えていません。いつどこで落ちたのかは、まったく思い出せません。しかし落とし穴にはまり、落ちてしまったことは覚えていました。アリスはそのまま、深く深く、落ちていきました。
長いあいだ落下していたにも関わらず、アリスのからだはふわりと、足から静かに着地できました。どうしてだろう、と不思議に思い、アリスは地面を見下ろしました。
「危なかったわね、あなた」
後ろから声がしたので、アリスはすぐに、振り返りました。
そこに立っていたのは、青いずきんをかぶった女の子でした。
「どこから落ちてきたのかは知らないけれど。この雲がクッションにならなかったら、かたい地面に真っ逆さまだったわよ」
よく見ると、アリスは雲の上に立っていました。ほんのり桃色に染まった、おおきくてやわらかい雲です。青ずきんの女の子も、その上に立っているようでした。
「雲って、霧みたいなものなんじゃなかったかしら?こんなに、ひとの体を受け止められるほどの密度があるものなの?」
青ずきんは、そうなの?と首をかしげます。これが普通なんじゃないの?と呟きながら、しゃがみこんで雲にそっと触れていました。
「ところであなたは、なんでこんなところに落ちてきたのかしら?」
「それは、……。困ったわ、思い出せない」
「あら、奇遇ね。実はわたしもなの。どうしてわたしがここにいるのか、全く思い出せない」
青ずきんは、ちいさな籠を腕からぶら下げていました。そのなかには、何かの破片のようなものがたくさん入っています。
「それは何?」
「わからないわ。なんにもわからないの。ただ、わたしはこれを集めなきゃいけないような、集めて何かを成し遂げなきゃいけない気がするの」
「何かをって、何かしらね」
「さあ……。誰かに会いにいきたくて、それで出かけていったような気もするわ。誰だったかしら……」
青ずきんはうーんと考え込んでいる様子でした。
と、いきなり雲が動き始めたので、アリスはよろめきつつ驚きます。
「わあっ、何事?」
「何事、って。雲が動いたのよ。ここという場所に飽きたんじゃないかしら」
「飽きるって……雲に感情なんかあるの?」
「この雲にはあるみたいね。あ、分裂した。あなたとはもうお別れのようだわ、さようなら」
切り離された雲の欠片に乗ったまま、アリスはどんどん、青ずきんの乗っている雲から遠ざかっていきました。その速さに倒れそうになり、アリスは慌ててしゃがみ込みます。
いつか、青ずきんが自分の使命を果たせる日がくるといいな、とアリスは思いました。
2.
雲はアリスを乗せたまま、ゆるりと降下していきました。
地面がすぐそこまで近づいてきたのを認めると、アリスはそこからジャンプして、綺麗に着地しました。アリスが降りてからも、雲はそのまま低空飛行で進んでゆきます。ふしぎな雲だなあ、と思いながら、アリスはそこに立っていました。
見渡すと、どうやらそこは街のようでした。たくさんのお店が並び、多くのひとで賑わっています。そのなかで、ひとり目を引く女の子がいました。
その子は真っ黒な髪に真っ黒な服、真っ黒な靴下を履いた女の子でした。背中からは何やら奇妙なかたちの羽根が生えています。地べたに座り込み、何かをじっと見つめていました。
近づいてみると、その視線の先には、真っ赤な靴がありました。ワンストラップの可愛らしい靴で、ストラップの部分から値札がぶら下がっているのですが、裏返っていてここからでは値段が確認できません。しかし、その完成度とお店の雰囲気からして、高価な靴であることは想像に難くありませんでした。
「あの靴が欲しいの?」
アリスが話しかけると、女の子は面倒くさそうに振り返りました。その目はとても不機嫌そう。話しかけなければよかったかしらと、アリスは少し後悔しました。
「欲しいけど。……わたしが買わなきゃいけないのは、あっちの黒い靴なんだ」
女の子が指し示したのは、隣のお店に展示してある、真っ黒な靴でした。
「なら両方買えばいいじゃない」
「駄目だよ、赤い靴を買ったら黒い靴を買えなくなる。わたしが買わなきゃいけないのは黒い靴のほうなんだから」
「じゃあ黒い靴を買えば?」
「やだ。こっちの赤い靴が欲しい」
言っていることは滅茶苦茶ですが、なんとなく気持ちはわかります。欲しいものが目の前にあるのに、手に入れることが許されないのは、つらいものです。
なんで黒い靴じゃなきゃいけないの?と尋ねると、こんどお葬式があるんだ、と返ってきました。けれど、誰の?と尋ねると、わからないと返ってきました。
「そういえば、誰のだっけ。忘れちゃったな」
肩をすくめる女の子に、アリスは思わずこう言ってしまいました。
「なら、お葬式のことなんて忘れて。赤い靴のほうを買っちゃえば?」
女の子は眉をひそめながらも、その瞳にほんの少しだけ、希望のひかりを宿しました。
「で、でも。……黒じゃなきゃだめなんだ。こんなに派手で明るい色、わたしには、合わない……」
「そんなことないわよ。女の子はね、自分がすきなものを身につけているときがいちばん可愛いの。だから、買っちゃいなよ」
「でも、……でも……」
言葉を詰まらせながらも、女の子の心は明らかに、赤い靴を買いたいきもちにぐっと傾いていました。それを見てとったアリスにますます説得され、女の子は、ついに立ち上がりました。
赤い靴を手に取って、震える手で、店員さんに預けます。するとたくさんの小銭と引き換えに、赤い靴はあっという間に、女の子のものとなりました。
履いてみなよ、とアリスは言います。女の子は、恐る恐るそれを履いてみました。その赤い靴は、真っ黒な姿をした女の子に、存外よく似合いました。
「すごい、すごい……。買ってよかった。なんだか踊りたい気分!」
興奮した様子でそう叫ぶと、女の子はくるくると躍るように、その場を去っていきました。追いかける必要もないと思い、アリスはそれを見届けます。
女の子は、いつからあそこに座っていたのでしょうか。どれだけ長いあいだ、じぶんのすきなことを出来ずに、あそこに縛られていたのでしょうか。アリスが話しかけなければ、あのまま永遠に素直になれず、笑顔になれずにいたのでしょうか。
躍りながら去っていった赤い靴の女の子が、ほんとうに素直になれるような場所を見つけられたらいいな、とアリスは思いました。
3.
街を出てみると、今度はまた違った雰囲気の町が見えてきました。
その町に足を踏み入れたとたん、アリスは違和感を感じたのですが、その理由はすぐに分かりました。町の建物がみな、ちいさく、おもちゃのようなかたちなのです。それだけではありません。その町を行き交っているのはなんと全員、子供なのでした。
「おや、見かけない顔を発見。あなたはだあれ?」
話しかけてきたのももちろん、子供でした。そこまで幼くは見えませんでしたが、それでも、大人とはいえないような風体の女の子でした。
「わたし?名前はアリスよ」
「名前なんて関係ないよ。名前は、大人が子供につけるものなんだからね。大人がいないこの国には、必要ない」
その子はこのちいさな町を、国と表現していました。帽子をかぶり、緑の袖の、水兵さんのような服を着たその子の顔は、とても明るいものでした。
「なんでここには子供しかいないの?」
「みんな大人にならないからだよ。子供のままでいたい、とみんな思っているから」
「ふうん。変なの」
そのアリスの一言に、明るかったその子の表情が一瞬にして、翳りました。
「……変って何?わたしはもうずっと昔から、この姿のままよ。これ以上、退化しない。あなただって、出来るならずっと子供のままがいいでしょう?」
その子の声は、さっきまでよりも少しだけ、低くなっていました。
「そんなことないわよ。わたし、大人になってやりたいことがいっぱいあるもの」
「本気でそう思っているなら、可哀想に。大人になるということは、老いるということだよ。次第に出来ないことが増えていって、そして最後には、何も出来なくなる」
「しぬってこと?」
しぬ、という単語を出した瞬間、その子は苦い顔をしました。
「……そうだよ。あなたには分からないだろうけれど、……しぬのは、怖いことだよ。でもそれを超越したとき、わたしたちは、永い時を得ることができる。ずっと子供でいられる、いちばん出来ることの多い時期で、ずっといられる」
「出来ること?子供に出来ることなんて限られ」
「そんなことはない!」
アリスの言葉を遮ったその声は、本気の怒鳴り声でした。
目をぱちくりさせているアリスの前で、その子は両手の拳を、ぎゅっと握りました。手首に筋が浮き出るほど、かたく、ぎゅっと。
「出来るよ、……出来るよ!でも、老いたらできない。早くしないといけないんだ。わたしがこの姿でいられるうちに、助け出さないと……」
その子が何のことを言っているのか、アリスにはさっぱりでした。でも、その子が何か思い詰めているのだということを理解できないほど、アリスは無神経ではありませんでした。
これ以上余計なことを言って、その子を怒らせてはいけない。そう思い、アリスは黙ってその子に背を向けました。その子は呼び止めることも、追いかけることもしません。
背後に立っているであろうその子が、どんな表情をしているのかは分かりませんでしたが。
その子がこれから、時の流れを恐れずに、一緒に時を過ごせるようなたいせつな仲間を得られたらいいな、とアリスは思いました。
4.
町を出た先に広がっていた光景に、アリスは驚かざるを得ませんでした。
そこは、砂漠でした。もう日が傾き、空には星がきらきらと瞬いていましたが、まだそれなりに明るいので随分と遠くまで見渡すことができます。見渡す限り、延々と、砂漠でした。
人影は見当たらない……と思っていましたが、それは間違いでした。遠くにちいさな影が見えたので、蜃気楼でないことを祈りながら、アリスは足早に近づいていきました。近づいてみると、そこには、おおきな耳を生やしたねずみのような女の子が座っていました。
「ああ、なんだ」
ねずみさんは苦笑します。
「別人か。……駄目だな私は。期待を裏切られたときのことを考えて、元から期待なんてしないのが正解なのに」
ねずみさんの笑い方は、なんだか、自虐的に見えました。
「よく分からないけれど、期待を裏切ったようで悪かったわね。……誰かを待ってるの?」
まあね、とつまらなさそうに答えるねずみさん。暗い空を見上げながら、独り言のように呟きます。
「まったく、どこに行ったのか。……いや、それは愚問だな。何をしに行ったのかなんてよく分かってる。ただ、……どうしてわたしを連れて行かなかったんだ、君は……」
星に向かって話しているように見えました。ねずみさんがとても悲しそうな様子なので、アリスは励ますように言います。
「待っても来ないのなら、探しに行ってみれば……」
「いや、いけないんだ。探せばすぐ見つかるだろう。でもそれじゃあ、意味がないんだ」
「そう。……一体何をしに行っているの?そのひとは」
ねずみさんは、声色を変えることなく、けれど淋しげな表情で、言いました。
「たいせつなひとを、探しているのさ」
ねずみさんと別れてしばらく砂漠を歩いていくと、また人影を見つけました。
今度はこちらが歩み寄るより早く、相手からこちらへ向かってきました。背が高く、美人で、中性的な顔立ちをしているひとでした。
まるで王子さまみたい、とアリスは思いました。王子さまのようなそのひとは、やさしい瞳で語りかけてきます。
「こんにちは。珍しいですね、こんなところにひとが来るだなんて」
そのせりふから、そのひとが長いあいだここにいるのだということが伺えました。
「あなたはここで何をしているの?」
「私ですか?私は、ひと探しをしているのです。けれどそのひとがいる場所は遠すぎて、今のままでは会いに行くことが出来ないのです」
王子さまは笑顔のまま、悲しげに、すこしだけ目を細めました。
「だからずっとここにいるの?」
「ええ。でも、それだけではないのです。私は何か、大事なことを忘れているような気がして……」
その言葉を聞いて、アリスはひらめきました。
きっと、さっきのねずみさんの待ちびとは、このひとなのです。ねずみさんにとってこのひとは大事なひとで、このひとにとっても、ねずみさんは大事なひとなのです。
しかしそれを、このひとは思い出せずにいる。遠くにいるたいせつなひとを想うあまり、こんなに近くにいる大事なひとを、思い出せずにいる。このひとに思い出してもらえるまで、あのねずみさんは、きっと、ずっとあそこで待ち続けるのでしょう。
伝えようかと、アリスは思いました。あのねずみさんのことを、この王子さまに教えてあげようかと。けれどアリスは、それをしませんでした。
そう、意味がないのです。ねずみさんが探しに行けば、アリスが一言教えてあげれば、王子さまとねずみさんはすぐにでも会えるでしょう。ですが、それではたぶん、何の意味もないのです。
「見つかるといいね。たいせつなひと」
アリスは二重の意味で言いました。それはきっと、いまの王子さまには伝わらないでしょうけれど。
この星空の下、王子さまとねずみさん、いちばん近くにいるふたりが再び笑顔で出会えるといいな、とアリスは思いました。
5.
砂漠を抜けようとしていた頃、辺りはすっかり暗くなり、アリスは困ってしまいました。
ふしぎと喉がかわいたり、おなかが空いたりはしないのですが、睡魔はすこしずつ襲ってきていました。出来るなら、このままここで野宿なんてしたくない、とアリスは思っていました。
それでも疲れ果ててしまった体は、その場に座り込むことを本能的に選びとります。重くなるまぶたをなんとか持ち上げようと、アリスは必死に顔をぱんぱん叩きました。
すると、その叩く音の合間に、何かが聞こえた気がしました。アリスは手を止め、それを聞き取ろうとします。
……どくん、どくん。
それは心臓の音でした。アリスの?いいえ、違います。地に、空に、あたまのなかに直接響くかのように、誰かの心臓の音が確かに聞こえてくるのです。
「これ以上はだめよ」
唐突に声がしたので、アリスは驚いて振り向きます。暗い視界のなかにぼうっと、人影が浮かび上がります。
「ここから先は、わたしたちの世界だから。あなたはまだ、知ってはだめ」
大きな傘のようなものが見えます。その下から覗くふたつのまるい瞳は、左右で色が違っていました。
どくん、どくん。
そのあいだにも、心臓の音はどんどん大きくなってゆきます。
人影はもう何も言うことはなく、ふわりと、溶けるように消えていきました。それでも音は止まりません。アリスは耳をふさぎました。けれど、その音を少しでも遮ることは、できませんでした。
視界が闇に染まってゆきます。それはアリスがまぶたを閉ざしてしまったからでしょうか、夜の帳が降りてきたからでしょうか、それとも……。
アリスの意識は、いつの間にか、途切れてしまいました。
*
片づけを終え、再び段ボールを抱えながら廊下を歩くメリーの愚痴を、私は延々と聞かされる羽目になった。
「だから、おかしいのよ!絶対誰かの悪戯なんだわ」
彼女はもうさっきからずっと同じ言葉を繰り返している。
「まあ、落ち着きなよメリー……。私は面白かったよ、あの劇」
「面白かった?私はこの一ヶ月間、ずっと脚本を推敲し続けてきたのよ?」
ああ、これは駄目だ。私がなだめたところで収まるような、簡単な問題ではないらしい。
メリーが怒っているのは、当然といえば当然だった。人形劇自体は上手くいき、拍手喝采のもと幕を下ろしたのだが、それがますますメリーの怒りを逆立てた。それもそのはず、なんと、メリーが書いたはずの脚本が、全く違う内容の脚本にすり替わっていたのだという。
メリーは脚本を班のメンバーに手渡したあとは、ずっと人形作りに集中し、劇の練習やリハーサルには一切参加していなかった。なので、本番が始まるまでは脚本が違っていることに気づかなかったのだとか。しかし劇を中断させるわけにもいかず、そのまま口出しはせずに終わるまで見届け、終わったあとにこうして私に愚痴っているというわけなのだ。
班の誰もが、渡された台本はメリーが書いたものだと信じて疑わなかった。当たり前だ。メリー本人の手から渡された台本が、一体どこで別のものとすり替わるというのだろう。普通に考えればとても不思議な話だが、不思議な現象にすっかり慣れてしまっている私たちは、その奇妙さに首を傾げたりはしなかった。
私はあの劇を面白いと思ったし、メリーは自信作を披露出来ずに怒っているし。
けれど、それはただそれだけのことで、不思議なことでもなんでもないのだ。
「もういいわ、劇のことは諦める。でもあれは本当に自信作だったの、蓮子だけにでも聞いてほしいわ。あのね、私のシナリオではね……」
愚痴が収まったと思ったら、今度は真のシナリオ語りに切り替えるメリー。普通の人間なら鬱陶しく感じるのかもしれないが、あいにく私は普通でないし、メリーも普通ではない。だから、普通ではないはずのメリーのシナリオに興味を持ち、耳を傾ける。
ふと、メリーの持っている箱の中身が視界に入った。そのなかに詰められている人形のうちの一体が、私の目を引いた。
それは、少女人形。水色のワンピースを纏った、恐らくメリー手作りの、人形。
劇に使われていたアリスの人形は、終始あの紫色の服を着た人形だった。水色の服のアリス人形は、メリーが昨日、自宅で失くしたんじゃなかったっけ?
まあいいや、と私は思い、メリーの話を聴くことにした。脚本がすり替わっていようが、人形が消えたり現れたりしようが、そんなのは気にするほどのことでもないのだ。だって。
秘封倶楽部の日常とは、そういうものなのだから。
立ちくらみのような感覚に襲われたあと、わたしは周りを見渡してみた。
そこは、いつも窓越しに見ているのと同じ景色。なんの変哲もない、魔法の森の風景。さっきの、穴に落ちてゆくような感覚はなんだったのだろうか。いや、その後にも何かを見たり聞いたりしていたような……?
曖昧になっている記憶をなんとか整理しようとしたが、それを可笑しそうににやにや見てくるあのスキマ妖怪の姿に気づき、わたしははっと背筋を伸ばした。
「そうよ、人形!返してくれないのなら、ちからづくで取り返すわよ」
スキマ妖怪は、再び扇子を翻し、空間を切り裂いた。その手にあったはずの、あの水色のワンピースを着た拙い人形は、いつの間にか消えている。それを不思議がるわたしをよそに、彼女は空間の亀裂部分から、わたしが昨日完成させたあの人形をずるりと引き摺り出した。
それをぽんと手渡してきたのだが、安心したのも束の間、その人形を見たわたしはまた怒りを覚えて叫んでいた。
「ちょっと、何よこれ!ああもう、せっかく綺麗に整えた髪がところどころ千切れてるし、服にも皺が……元に戻してよ!」
「あら、それはわたしのせいじゃないわ。劇で主役を担当した女の子に言って頂戴」
「は?」
「それはそうと、幻想郷でも、また新しい劇が始まるようですよ。SFチックなものになるのかしら。今回は守矢の巫女も参加するみたいね、面白いものが見られそうだわ」
相変わらず、この妖怪の言うことは訳が分からない。まともに会話しようとしても無理だと判断したわたしは、乱れた人形の髪や衣服を直すため、家に戻ることにした。
そう、なにか不思議なことがあっても、不思議なことを言う妖怪に会っても、別に気にすることではない。だって。
幻想郷の日常とは、そういうものなのだから。
メリーの書いた本来の脚本、どんなのだったのかな。
後は各話、および全体に何かしら共通するテーマやストーリーがはっきりしてればいいな、と思いました。