寒い日が続いている。
例年であれば、既に春告精が春を告げに来てもおかしくない時期にさしかかっていた。
でも未だに、手元のマグカップからコーヒーの熱が痛いほどに感じられた。
一口飲むと、熱さが不快だったわけではないが、喉を鳴らした時、無意識に眉をひそめた。
ふと顔を上げると、結露した窓の上を一粒の水滴が、右へ左へと優柔不断に揺れながら窓縁へと落ちていくさまが目に入った。
「はぁ…」
金色の滑らかさが自慢の髪を、手櫛でとかしながらため息をつく。
というのも、ここ最近、調子が芳しくない。
ふとした時に気分が滅入ったり、普段特別気にしないことがやけに気になったりと、どうにも疲れる。
そして、そんな時は大体アイツが関係していた。
ソレは『人間』の魔法使い。私のような『種族』が魔法使いでは無い。
ときたま私の所に足を運んでは、我が物顔で茶菓子を要求し、私が集めた魔法アイテムを無断で持っていったりする ―最もこれに関しては、私以上に被害に遭っている魔女が吸血鬼の館にいたりするのだけれど― 迷惑な奴。
ただその性格に反して、やけに努力家である点は自分も見習うべきだとは思っている。
最初は彼女の傍若無人な態度に気が滅入っているだけだと思っていた。ただここ最近はそんな振る舞いにも慣れてきた。
それでも、この拭い切れない不快さは収まるどころか、ますます肥大化していった。
そんな時は人形作りをして気持ちを切り替える、というよりはむしろ気を紛らわせている。
私はマグカップを片手に作業場へ足を運んだ。
中は多少散らかってはいるものの、作業をするには充分なぐらいには整頓されている。
作業台には、今制作中の人形が座ったまま、私に目を注いでいる。
殆ど仕上がっているので、今日中に完成させられるだろうと考えながら私は作業台に向かった。
作業を始めてから数時間が経ち、もうじきお昼に差し掛かるという時間に、突然戸を殴ったような音に続いて誰かが家の中に入ってきたようだった。
私の返事を待たずに、人の家にずかずか入ってくるのは、一人しか思い当たらなかった。
作業を邪魔する闖入者にまたかと思いつつも、無視して部屋を荒らされるのは後片付けの手間が面倒になると思い、応対するために仕方なく腰を上げた。
部屋から出ると、黒と白を基調とした服を纏い、肩幅よりもずっと広がった帽子を被った少女、霧雨魔理沙がいた。
その顔を見て、私は今朝と同じようなため息をついた。何を隠そう、彼女こそ最近私を憂鬱な気分にさせている本人だ。
「よぉ、邪魔しているぜ」
「返事を聞く前に開けたらノックの意味無いじゃないの」
悪びれた様子もなく、手に持っていた空を飛ぶための箒を玄関口に立てかけると、無邪気な笑顔で早速といった様子で部屋を物色し始めた。
「ちょっと、またなの?」
「いやぁ最近研究中の魔法に必要なアイテムが底をついてしまったんだ。そこでアリスに少しばかり借してもらおうと思ってなっ」
そう口にしながら、手と目は忙しなく物色を続けていた。
居間の戸棚を一つ一つ開けて中を確認していた。
最も、数日前に戸棚の整理をした際に、魔法アイテムの類は別室に移しているため、この部屋には置いていないからいくら探しても無駄なのだけれど。
「そもそもどうしてここに来るのよ。私が分けてあげるとは限らないでしょ?」
「パチュリーの所には前に全部借りたばかりで既に無い筈なんだ。だからここなら手に入ると思って…。それに貰うんじゃなくて借りていくだけだぜ?ちゃんと借りた分は返すぜ」
私が死んだらなって続くいつもの文句を私は聞き流す。
なんともちぐはぐな会話だった。
普段は自分で採りにいく癖に、ときたまたかりに来るものだから図々しいばかり。
そういえば、パチュリーはよく魔道書を盗られると話に聞いていたけれど、アイテムも盗られていたみたい。
門番も毎回酷い目にあって災難だ。
そもそも彼女は妖怪だから、いくら魔法が使えても人間程度なら敵う筈が無いのだけれど…。
そう考えていたら、今朝も感じた胸の中を鉛のように重い無形の怪物が蠢くようなむかつきを覚えた。
「どこにも無いな。なぁアリス…」
身長が低いので引き出しを開けてその上でつま先立ちをした不安定な体制で、棚の上にある箱の中身を確認していた魔理沙がふと私に振り返った。
その拍子に踏み台にした引き出しからぎりぎりと音がした。
「何?」
意識した訳でも無いのに少しだけ声のトーンが落ちた。
一瞬背筋がひやりとしたが、目の前にいる黒服の人間には私の小さな変化を悟ることはできなかったようだった。
向けられた大きな眼はそれの髪の色と同じく曇りのない金色だった。
「ん?どうかしたか」
「別にどうもしないわよ」
また一段とトーンが落ちた気がする。
今はどういうわけか自分の平静が保てる確証が得られなかった。
特別精神が不安定でもなく、ただ単に目の前の人間に憤りを感じているだけだ。
それも普段なら意識もしないほど小さな憤り。
それが私の無意識の中で破裂してしまうのではないかと、理由のわからない不安が頭をもたげた。
「そうか?なんとなくだが、ただでさえ景気の悪い顔が輪をかけてひどくなっている気がしてな」
「残機減らされたいのかしら?」
「おっとそりゃ勘弁」
足場にしていた引き出しの上から飛び降りると―その時に木材が割れたような音がした―私の横を颯爽と通り過ぎ、玄関に立てかけてあった箒をしっかり回収した。
ついでにダイニングテーブルの上の果物かごにまとめて入れてあったリンゴを一つ、慣れた手つきで一つ自分の大きなスカートのポケットにしまうと、箒に乗って飛んで行ったと思ったのもつかの間、数回の瞬きのうちに既にその姿は見えなくなっていた。
開け放たれた玄関からは、冷たく乾燥した、草木の香りを含んだ風が部屋を吹き抜けていく。
先ほどとはうってかわって、森の奥に建っているこの家らしい静けさが戻り、まるで魔理沙がいた痕跡も残ってはいないかのようだ。
強いて挙げるならば、一部が若干歪んでしまっている引き出しの開け放たれた棚と…。
「何をイライラしているのだろう…」
正体の分からない胸のつかえだった。
魔理沙の訪問から一週間ほど過ぎた。以前として気分は優れない。
だから気分転換をするつもりは無かったものの、今日は珍しく外に出ている。
目的はパチュリーに会いに紅魔館へ行くため。
紅魔館には大図書館と呼ばれている大きな書庫があり、そこには魔道書が豊富に貯蔵されているため、魔法の研究のためによく利用させてもらっている。
加えてその管理人兼所有者であるパチュリーは私の数少ない交流相手の一人なので、彼女と紅茶を飲みながら雑談することが私の数少ない楽しみだったりする。
それをふまえるならば、これはれっきとした気分転換になってしまうのだろうかと、わりとどうでもいい自問自答をしてみる。
外は雪こそ積もっていないものの、まだまだマフラーと手袋は手放すことができないほどの寒さだった。
吐く息も真っ白で、衣類で防げない顔には冷たい風が吹き付け、つねられたような痛みすら感じる。
辺りには人の気配はもちろん、元気に遊びまわっている妖精の姿すら見えなかった。
ひたすらにものわびしいこの場所には、並木道の木々だけが、与えられた使命を全うせんといった様子で立ち並んでいたが、葉の衣を奪われたその姿はあまりにたよりなく、ぶるぶるとその身を震わせているようにも見えた。
森を抜けてしばらく歩くと、目的の洋館が見えてきた。
開けた場所にあるその紅い建物は、背負った青い空に一切溶け込まず独特で威容を誇り、遠目でもかなり目立つ。
さらに近づいてみると、館と外界を隔てる高くてこれまた紅い壁が仁王立ちしていた。
その壁の内側へ入れる唯一の門は、外壁よりも一層高い門柱を両脇に従えていた。
門扉には漆黒の鉄格子が使われていて、牢獄のそれのような堅牢なつくりになっている。
紅い館の正面に仁王立ちしているその門を改めてみると、もしかしたらこれは外敵から館を守るためにあるのではなく、もっとほかの理由があるのかもしれない。
かたく閉ざされた門の前にはいつものように門番、紅美鈴が門柱に背をもたれた少しだらしのない恰好で立っていた。
しかし、目線だけは常に周りを見渡し、侵入者を警戒しているのが遠目でも分かった。
私を視界に捉えると、いかにも門番していますと言わんばかりに背筋を正し、軽く手を振ってきた。
お互いに表情が分かる位置まで来ると、彼女の方から私の方に近づいてきた。
「こんにちは、アリスさん。お久しぶりですね」
会釈した際に、長い赤髪が肩口からさらさらと舞った。
人懐っこい笑顔とともに応対してくる姿に、彼女が妖怪であることをたまに忘れるのは私だけじゃない筈だ。
「お久しぶりね。パチュリーはいる?」
「勿論です。パチュリー様が不在の時なんて殆どあり得ませんからね。今日みたいに天気のいい日ぐらい外に出ればいいのに」
「そうね、私からも言っておくわ」
「お願いしますね。それじゃ、門を開けますので少々お待ち下さい」
美鈴は門柱から離れると、ポケットから鍵を取り出して門扉へ近づいた。
観音開きのそれは中央部分に鍵穴があり、持っていた鍵をそこへ入れると金属がかみ合う音の後に黒い鉄格子のそれが鈍い音を響かせて開いた。
開かれた門の先では、紅い煉瓦を纏った西洋風の屋敷が、訪問者を歓迎することも拒絶することもなく佇んでいた。
開けてもらった門をくぐろうと美鈴の横を通り過ぎる際、
「あ、それと魔理沙にも一言いってくださいよ。パチュリー様の本さえ盗っていかなければ、ちゃんとおもてなしできますよ~って」
ついでにお願いしますと付け加えた。
それで、先日魔理沙が来た時のことがフラッシュバックした。
そういえば魔理沙は直接話さなかったが、内容から美鈴を ―いつも通り― 打ち負かしたらしい。
美鈴が魔理沙をどう考えているのか興味が湧き、この機会に訊いてみたいと思ったので、私は足を止め、美鈴に向き直った。
「そういえば、この前その黒白が私の家へ来た時に話していたわよ。門番が弱いから本を借り放題だぜ、ってね」
もちろん魔理沙はそんなこと口にはしなかったけれど、心なしか皮肉の色が滲んだ。
多分今の私は色々な意味でいい顔をしていることだろう。
それに対して美鈴は痛いところをつかれ、当惑した表情で頭を掻いた。
「うぅ…確かに私はそれほど強くないですが、仮にも紅魔館の門番を任されているぐらいですから弱くはないのですよ。ただ…」
美鈴はため息をつき、右手で前髪をかきあげた。
「負けている手前、魔理沙の強さは疑いようがないですね。本当に人間か疑いたくなります。まぁ、そんなことより彼女には加減というものを覚えてほしいものです。毎回全力で攻撃してくるものですから、私の方も生傷が絶えないし、その上咲夜さんとお嬢様とパチュリー様に叱られるし…」
美鈴が延々と日ごろの気苦労を語っている。
でも私の耳には既に入ってきていなかった。
というのも、先ほどの彼女の言葉が延々と頭の中で繰り返し響いていたから。
魔理沙は人間でありながら、妖怪である美鈴にそう言わしめるまでに実力を認められていた。
普段なら、あぁそうなんだといった具合に軽く受け止められたと思う。
でも、今はこの言葉を受け止める器に致命的な傷がついていたらしい。
そこへ唐突に突きつけられた言葉にあわてて器を差し出したために、余計な負荷がかかってその傷がさらに深くなってしまった。
「…アレは人間よ。本当なら妖怪にも敵わないし、ましてや本物の魔法使いになんて勝てっこないわ。貴女はそれこそ妖怪の癖して優しい、というか甘いから無意識に手加減していたじゃないかしら」
どうして美鈴を擁護する気になったのだろう。
しかも、言っていることが滅茶苦茶なのは火をみるより明らかだった。
それでも、一言言い訳せずにはいられない気持ちに駆られた。
「アリスさん?」
美鈴も私の様子が普段と違うことに気づいたのかもしれない。
わざわざ顔色を伺うために正面にまわりこみ、顔を覗き込んできた。
それによって私も自分が無意識に顔を俯いていたことが分かった。
視界に入ってきた美鈴の顔には不思議そうとも、心配そうにも見て取れた。
「いえ…なんでもないわ。通していただけるのでしょ?」
「そうでした。ようこそ紅魔館へ」
美鈴は私を長い間引き留めていたことに気づいたらしい。
先ほどまで私の顔を覗き込んでいた顔をぱっとあげると、最初の挨拶の時と同じ無邪気な笑顔で私の先を促してくれた。私は一呼吸置いた後で、さっきよりも少しだけ頼りなく感じる紅魔館の門をくぐった。
建物へ入るとすぐにメイド妖精が私を出迎えてくれた。
いつもだと咲夜が私を出迎えてくれた上に大図書館までお伴までしてくれていたけれど、今は生憎と買い出しに行っているらしかった。
この妖精はその代わりらしく、どことなく初めて留守番を頼まれた子供みたいに気合いが入っていた。
いつもより少しだけ違った案内で通された大図書館はいつも通りで、見渡す限り天井近くまで届くような本棚にぎっしりと古めかしい本が収められていた。
窓は無く室内はところどころに浮いている丸い発光体で照らされているものの、それでも全体に明りを行き届かせることが出来ていなかった。
目線を正面に向けると、よく整理された室内でただ一箇所だけ、本が雑多に山積みされていた。
本の合間からは、紫色の衣装を纏ったこの部屋の管理人の姿がちらっと見えた。
本に囲まれながら読書するパチュリーの姿はいつもどおりだけれど、同じ魔女として畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
彼女がいる場所は私がいる館と大図書館とを隔てる扉からはそれほど離れていないものの、集中していためか私の訪問に気付いていないようだった。
「こんにちはパチュリー、相変わらずそうね」
私が声を私は彼女に近づいてそっと声をかけると、ようやくこの部屋に自分 ―と小悪魔― 以外に誰かがいるのに気がついた様子で手元の本から目線を私の方に向けた。
常に眠そうな表情はいつも通りで、長時間本を読んでいたせいなのか少しだけ疲れの色がみえた。
「ちょっと大丈夫?」
「大丈夫、問題ないわ。長い間本を読んでいたせいだからすぐに良くなるわ。それよりいらっしゃい。今紅茶を淹れさせるわ」
パチュリーはとりわけ気にした様子もなく、私をもてなそうとしてくれた。
そこでタイミング良く奥にいた小悪魔が私たちの元へ来たので、パチュリーが彼女に紅茶を淹れるよう指示した。
数分後、私たちの目の前には紅茶の入ったティーポットが運ばれてきた。
私は小悪魔に淹れてもらったそれに口を付けた。
淹れたての紅茶は熱く少しずつしか飲めなかったけれど、一口飲むだけで独特の味わいが口内に広がった―結構渋みが強かったのでアッサムだろうか―。
「それで今日はどのようなご用件?別にお茶をしに来たわけでもないのでしょう?」
「あら駄目なの?」
「いいえ、むしろ歓迎よ。ただ貴女がそれだけのためにココに来ること自体が滅多にないじゃない。貴女にとって私とのお茶の時間はついででしかないのが残念で仕方がないわ」
私が非難の声をあげても ―もちろん本心じゃないけれど― パチュリーは眉ひとつ動かさず受け流し、逆に私へ苦言を漏らした。
その声には少しも不快感がなかった。
そういえばお茶するだけの目的でここへ来たことはあまりないかもしれない。
「確かにそうかも。今日だって図書館を使わせてもらうついでだしね」
「やっぱりね」
パチュリーはカップの中の紅茶をぐいっと一気に飲み干した。
「ごめんなさい。次来る時はついでではなくお茶をしに来るわ。私が焼いたお菓子も持ってきてあげる」
「別に無理して来る必要ないわよ」
「私が来たいのよ。それでも駄目なの?」
パチュリーは黙ってしまった。
相変わらず無表情ではあるけれど今はうれしそうなのが雰囲気でわかった。
それからはしばらく他愛もない雑談を交え、その後図書館を使わせてもらった。
普段はあまり触れることがない貴重な魔道書が多数あるので時間も忘れて作業に没頭していった。
室内からは外の様子は分からないけれど、おそらく夕方に差し掛かっても、私は未だに図書館で本に目を通していた。
そのとき、手にした本に先日魔理沙が持っていこうとしたアイテムについての記述を見つけてしまった。
それと同時にまたしてもあの人間の魔女の顔が浮かび、私は表情が強張った。
ここ最近の悩みの種、だがどうしてこれほど気になってしょうがないのかが全く分からず、またどうしたら解消できるのかがまるで見当もつかない、たちの悪いビョウキ。
私はふとパチュリーの方を見た。
自分の定位置で私と同じように本に目線を落としていた。
先ほどからお互いに会話も無く自分の研究のために夢中になっていた。
パチュリーはどうなのだろうか?
魔理沙をどう捉えているのだろうか?
今朝美鈴と会った時と同じく無性に知りたくなった。
「ねぇパチュリー。最近…魔理沙にまた盗られたでしょ?」
「魔理沙に盗られた魔導書なんてあまりに多すぎて、どれのことを指しているのかわからないわね」
「いえ、そっちじゃなくてアイテムの方。魔導書についてはいつものことだけれど、アイテムまで被害に遭っているとは知らなくて」
ここでパチュリーは初めて顔だけを私の方へと向けた。その表情からは彼女の心情を伺うことは出来なかった。
でも、見慣れた筈の紫色の瞳の中に今まで気付かなかった底知れない深みを見た気がした。
私は思わず委縮してしまい、私は彼女から目を逸らさずにいることで精一杯だった。
「ということは今度は貴女のところに来たのね」
パチュリーはなんだそんなことかといった様子で、いつもより表情が読み取りづらい今でも、特別気にしていないらしかった。
「ええ。ま、当然追い返したけれどね」
「あら、そうなの?」
パチュリーは不思議そうに首をかしげたものの、その表情からは相変わらず何を考えているのかは読めなかった。
「だってそうでしょ?盗みに入った泥棒は撃退しないと…」
「盗み、ねぇ…。何か勘違いしているようだけれど、私は盗まれたわけじゃないわ。単純に分けてあげただけよ。こういうことは前々からよくあることだし。まぁ、何度もたかられに来たらそれはそれでメイワクではあるかも…。」
一瞬、彼女が何を言っているのかが分からなかった。分かった時には体中からさーっと血の気が引いた。
図書館は静かだったが、今は普段の比ではなく、一瞬 ―だったと思う― あらゆる音が排除されたこことは別の世界に突然放り込まれたような疎外感を感じた。
「ど、どうして?パチュリーはいつも盗まれて困っているとばかり…」
地に足がつかない気持ちの悪い浮遊感の中、私は必死に言葉を絞り出した。
今の私を普段の私が見たとしたらひどく驚き、また恥かしく思うぐらいに。
そんな私をパチュリーはどう見ているのだろう。
無表情な顔は相変わらず彼女の心情を暗幕で覆い隠し、今の私では到底その考えを読み取ることが出来なかった。
「それは魔道書の話。一つしかない貴重な魔道書を勝手に持っていかれたらそれは困るわ。でも魔法研究に必要なアイテムは後でいくらでも補充できるもの。私には優秀な使い魔もいることだしね。それに彼女は普段の彼女からは想像し難いけれど、相当の研究家なのは貴女も知ってのこと。彼女の発想は私に無いもの故に、それがもたらす成果は、私にとっても少なからず有益なの。だから協力もする。貴女も同じことを考えていると思っていたのだけれど。よく魔理沙と一緒にいるところを見かけると咲夜が言っていたし、魔理沙自身からも貴女の話を聞くものだから。」
淡々と語るパチュリーの偽りのない言葉が、深く私の胸に突き刺さった。
傷口から痛みがじわりじわりと全身を蝕んだ。そして全身に行き届いた時、ようやく私は彼女の言葉の意味が理解できた。
パチュリーも認めているのだ、と。
一番言ってほしく無かった相手から帰ってきた答えに、私の頭の中はぐちゃぐちゃになり、今にも泣き出しそうなほど情緒が不安定だった。
「私は…私は魔理沙を同じ魔女とは認めていないわ。彼女はいくら実力をつけようとも所詮は人間よ。決して…魔女ではないわ」
胸の内で留めていた感情が言葉として漏れ出た。
パチュリーに当たり散らしたかったわけでは無かったけれど、どうしてか普段よりも心の蓋が緩くなってしまうらしかった。おかげで、自分の今の行動を顧みるぐらいに冷静になることができた。
「…ごめんなさい。熱くなりすぎたわ」
パチュリーは変わらず無表情だったが、どことなく包容力のある雰囲気が感じられた。
「気にしないで」
短い言葉に罪悪感がひとしお込み上げてきた。
「ごめんなさい…今日はもう帰る」
「いいの?手元の本はまだ読んでいる最中でしょ?ちゃんと返してくれるなら貸し出しを受け付けてもいいのだけれど?」
「遠慮するわ、それじゃ」
私は軽く言葉を交わした後、図書館を後にしようと扉の方へと足を向けた。
固く閉ざされたそれに手を伸ばし力を込めるけれど、私の背丈の倍以上あるそれはとても重く、開けるにはかなりの力が必要だったが、今はいつも以上に、私の腕にずしんとのしかかったように感じられた。
そんな時、突然後ろから声が投げかけられた。
「ねぇアリス、人間であることって、そんなに悪いことではないんじゃないかな」
それがパチュリーの言葉だとすぐには理解出来なかった。
普段と違う少しばかり砕けた話しぶりに、私は今日何度目かの驚きを隠せず、思わず振り返って彼女を見た。
先ほどと同じく、私の事を真正面から見つめていたが、その雰囲気は先ほどとは打って変わって、包容力があった。
「魔理沙は確かに人間だけど、妖怪に勝るとも劣らない実力を身につけているのは事実よね?それは、彼女が努力したからなの。そこに、人間などの種族が絡んでくる余地は無いと思うの。そんなあの子に、周りにいる私たちが出来ることは、ちゃんと褒めてあげること。それはあの子の力になるし、褒められてうれしいって気持ちもまた、種族は関係ないからね。それに、今の貴女があるのは、かつての貴女の努力の賜物なのだから、人間を否定してしまっては、かつての貴女を否定しているみたいで、少なくとも私はあまりいい気がしないわ。たとえ本人でも、数少ない私の友人を悪く言われるのは、ね」
それだけ言うとパチュリーは再び目線を手元に戻した。
私はただぼうっと彼女の言葉を聞いていた。私のいる位置からでははっきりと見ることができなかったけれど、その顔にはほんのりと笑顔が浮かんでいたと思うのは私の気のせいだろうか。
ただ、さっきは要石のようにずっしりとした重みを感じられた扉を、私の家の寝室と居間とを隔てる片開きの扉のようにすんなりと開けることができた。
前にそっと差し出したその腕には、今までとは異なる、新たな蛇らしきものがいやらしく纏わりついていた。
紅魔館を出て、今朝も通った魔法の森へと続く並木道の途中で、私はここ最近の事を思い返していた。
ずっと抱えていた、重苦しい枷について、ようやく答えが、ようやくみつかり、その整理のために。
今日一日は、私のこの疑問を解決するには充分すぎた。
もっとも、そんな必要はないかもしれないけれど。こんなに気分が沈んだり、ぐらぐらと煮詰めたような激しい感情が湧き出したりと不安定にさせたそれは、知ってみれば、それはひどく単純で、幼稚で、情けないものだった。
私が不安定になるのは、総じて魔理沙、さらに言えば、魔理沙への賛辞の声が私の気に障ったからだった。
何故魔理沙に対してそれほどまでに、それこそ敵意を抱いたのか。
それに対する賛辞の言葉が、私の胸に深く突き刺さったのか。答えは簡単で、ある意味清々しいほどだった。
私は、
「魔理沙に」
あの魔理沙に、
「……………嫉妬していた」
一言で言い終わるほどに。ただ、本当にそれだけの理由だった。
「…ばっかみたい」
言葉にしてみても、何か難しい理屈をこねようとしても、しきれないほどひどく幼稚だった。
永らく悩んで、ひょっとしたら病気なんじゃないかと思ったこともあった。
それが他人への賛辞に嫉妬していただけなんて、とんだ道化もいいところ。いくら自虐しても気が晴れなかった。
「ホント、最低だな、私」
自分の惨めさもさることながら、私の勝手で冷たくあしらったり、陰口を叩いてしまった、魔理沙にも申し訳なくて仕方がない。
次に彼女に会った時、どんな顔をして、何て言えばいいのだろうと考えると、自責の念に押しつぶされそうになる。私は俯けていた顔を思い切り上げて空を仰いだ。
空は夕日で真っ赤に染まっていた。その中で、大小さまざまな雲が寄り添うように集まり同じ方向へと流れていた。
その中で一つだけ小さな雲がぽつんと取り残されているのがみえた。
「…っ」
泣きだしたくてたまらないのに、ぐっと堪え、取り残された雲から顔を逸らすように再び顔を俯けた。
きっと、今の私は、ひどい顔をしているだろうなぁ。
そんな時だった。
なんてタイミングのいい…いえ、悪いことか。
聞きなれた声とともに、背後に誰かが降り立ったようだ。
私が後ろを一瞥すると、そこにはあの顔があった。空を飛んでいたせいで乱れた、長い金髪を手櫛で整えつつ、魔理沙は子供みたいに笑いかけてきた。
「よっ」
いつもながら清々しくも馴れ馴れしい挨拶だった。
「今日の私は結構ラッキーだ。わざわざお前の家に行く手間が省けたぜ。実はお前に頼みたいことが…」
そこで魔理沙は私の顔を初めてしっかりと見たのだろうか、言葉を詰まらせ、目を大きく見開き、いかにも驚いたといった表情になった。彼女が驚くなんて、私はどんな顔をしているのか、さきほどよりも不安になった。
「な…どうしたんだお前!目が真っ赤だぞ!泣いていたのか」
言われて初めて、私は自分の頬にそっと触れた。
覗き込むと、先ほどまで握りしめていたせいだろうか、枝のような指の生えた白い手に、紅い三日月の爪痕と、満月のようなどこまでも丸い涙が浮かんでいた。
ああ、こらえたつもりだったけれど、やっぱり泣いてしまったようだった。
再び魔理沙の顔を見た。見慣れた彼女の顔は常に笑顔だったのに、今は普段では想像出来ないほどに驚愕に染まっていた。
その表情に、私は深く彼女を傷つけてしまった錯覚を覚えた。
途端に、今まで枷でしかなかった胸のつかえが、急に肥大化し、私の未熟な器から溢れ出てしまった。
「ご…ごめんなさい…魔理沙…ごめんなさい、…ごめんなさい!」
とどめていた感情は謝罪の言葉に変えて、私の口から押し出された。
「え?いきなりどうしたんだよ…やっぱりおかしいぞお前」
魔理沙の言葉も今まで以上に狼狽の色を濃くしていた。
おそらく表情も、それに比例しただろうけど、今は魔理沙の顔を見ることができなかった。
「おかしい…そうね、確かに私おかしいのよ。だって私は、貴女に、とてもひどいことを…!」
「何言っているんだよ?私は別に何もされていない…」
「貴女がニブいから気付かなかっただけなの!」
「な、誰がニブいって…!」
理性の検閲を受けなかった、胸のうちから湧いてくる言葉、魔理沙に伝えたかった言葉を、力任せにぶつけるようだった。
「私、貴女に嫉妬していたの。貴女の実力を認めたくなくて、でも周りからは認められている貴女が気に入らなくて…自分勝手に!」
「お前、何言って…」
「なんでだと思う?認めたくなかった理由。聞いたら笑っちゃうわよ?それはね、貴女が人間だからって、ただそれだけ。魔法使いの自分と同じく、いいえ、モノによっては自分以上に認められている貴女が気に入らないって、それだけで!ひどいよね?こんなくだらない理由で、貴女に前々から辛くあたっていたんだよ?貴女は気付かなかったみたいだけれど、私、本当にひどいことを…」
恥ずかしいくらいに幼稚な言葉しか出てこなかった。
でも、込められた感情は、非力な人間を食い殺す常闇のようにどす黒かった。
「ごめんなさい…ごめんなさい…!」
許してくれるとは思ってはいないけれど、こういう時は、たとえ魔法使いになっても、謝ることしかできないものなんだね。
「あー」
魔理沙の声に、心臓が止まりそうになった。
彼女が思案する時に決まって発するものだった。
おそらく私に言うべき言葉を整理しているのだと思う。
私は、次に彼女から掛けられる言葉が恐ろしくてたまらなかった。
それなのに、彼女はいつまでも先を続けなかった。
私はただただ小動物のように肩を震わせることしかできなかった。
長い沈黙に、喉まで伝う涙の感触が、鋭利な刃物を思わせた。
その時、魔理沙がうんと言葉を発した。
ついに審判が下ることに、私はようやく解放される素直に思った。
「何て言ったらいいかわかんないのだけれど…まぁ、いいんじゃないのか?」
時間が止まった。
先ほどまでで渦巻いていた、恐怖や、罪悪感、涙すらも巻き込んで、全てが止まったような気がした。
予想していた言葉からは、遥かかけ離れたそれを上手く嚥下出来ずにただ立ち尽していた。
まるで、見渡す限りの大平原の真ん中に取り残され、あらゆる音がかき消された世界で、私はただ地平線をぼぅっと見つめているみたいに。
どれだけの時間そうしていたのだろうか、ようやく現実世界に戻ってきた私は、ふと顔を上げた。
そこには、無邪気に遊びまわっている妖精たちが浮かべるよりも、より喜びに満ちた笑顔があった。
それが魔理沙のものであると理解するのに、私は一瞬だけ戸惑いを感じた。
「私に嫉妬ってことはさ、お前も私を認めてくれているんだろ?だったらむしろ嬉しいくらいだ。私はお前から褒められたことって無かったからさ」
「そ、そうだったっけ?」
「おいおい気づいてなかったのかよ。ひどいなー。私は繊細な乙女だから心に深い傷を負ってしまうじゃないか。ま、いいけどな。私は今すごくうれしいってことだけは信じてくれていいんだぜ。何故なら、この私の、崇高な野望が成就へ向けて着々と歩を進めている事が実感できたのだからな」
「や、野望?」
魔理沙の熱弁にたじろきながらも、その言葉をオウム返ししてしまった。
「お、聞きたいか?聞きたいのか?しょうがないな、特別に聞かせてやるぜ。他には誰にも喋ったことがないから、お前が第一号だ。ちゃあんと聞け!」
魔理沙は仰々しく咳払いをし、大舞台に臨むような気迫で言い放った。
「私の野望はな…最強になることさ!」
ここ最近で一番意味不明な発言を聞いた気がした。
その台詞が、紅魔館の近くにある湖によく出没する、氷の妖精がよく口にしていたと気付くのはずいぶん先のことだったりする。
「は?」
「人間ってさ、お前の言うとおりすげぇ弱いんだよな。まぁ霊夢は別格だけど。そんな人間が、妖怪みたいな圧倒的に実力差のある強いヤツらに勝つ。燃えるし、何よりも、カッコいいだろ?」
自慢げに宣言した魔理沙はニカッと笑った。
既に日が落ち、辺りに夜の帳が下りた中であっても、彼女の屈託のない笑顔がよく映えた。
「え?…え?」
「え?じゃないだろう。少しはいい反応してくれてもいいじゃないか~」
先ほどまでの力説の反動からか、輝かんばかりの笑顔から一転して力の抜けた表情でがっくりと肩を落とした。
私はと言うと、うなだれる魔理沙そっちのけで、心の中で彼女の言葉を繰り返していた。
どう色眼鏡で見たとしてもそれは本当に単純な理由で、にも関わらずこともなげに語る魔理沙に私は面食らった。
でも、
「ふ、ふふっ」
自然と笑みがこぼれた。
「か、かっこいいからって…それも子供っぽいわね」
「わ、笑うなよ!これでも結構恥ずかしいんだからなっ!」
「ご、ごめんなさい…でも可笑しくって…」
「うぅ…ひどいぜ…」
顔を真っ赤にした魔理沙は帽子を深く帽子をかぶりなおした。
そんな仕草も子供っぽくて愛らしい。
彼女を見ていると、不思議と子供っぽいのも決して悪くは無いなと思えてくる。
魔理沙の前でこんなに穏やかな気持ちになれたのはいつ以来だろう。
岩のように重い荷を背に先が視えず足場も悪い山道を、当てもなく進んでみたけれど、結局一人では頂上には至ることができない。
私よりも前に山に登った、彼らが残した道しるべ、進むべき道を指し示してもらわなければ、きっと道を誤っていた。
示された道が険しくても、進む勇気がなければ、たどり着けなかった。
一筋縄ではいかなかったからこそ、その先で観ることができる絶景に、この上なく心が洗われる。
それは人間も、妖怪も、元人間の魔法使いも同じだったみたい。
「まぁ…でも」
魔理沙は恥ずかしさを振り払うわけでもなしに、唐突に顔を上げて、ニカッと笑って見せた。
その顔はまだ李のようにほんのりと赤いままだった。
「久々だな、アリスが笑うの見たのはさ」
「!…そうね、すごく久しぶり」
魔理沙の前で、笑顔になれるのは…。
私は空を見上げた。里の人々が恐れる幻想郷の夜、その天蓋は深淵の闇で覆われ、数多の星々と新円の満月が浮かんでいた。
月はあまりに明るすぎて、その周りには星が見えないと本で読んだことがあったけど、今日はどういうわけか、満月の真横にほのかに光を放つ小さな星が見えたのは気のせいかな。
朝食を済ませたばかりのリビングに、朝日がすっと差し込んできた。
食後のコーヒーは淹れたてだったけれど、つい先日まで見られたカップから立ち上る白い湯気が、今日は見られない。
一口飲んでみる。
やはりまだ熱い。
次いで独特の苦みが口の中に広がった。
その熱さと苦みが、とても心地が良く、目覚めの一杯の筈が、このままもうひと眠りできたらどんなに気持ちがいいだろうかと、想像を膨らませずにはいられなかった。
まだパジャマのままだし、そんな日もあっていいかも知れない。
そう思いつつも、根っからの生真面目さが、そんな怠惰な欲求を受け入れるはずもなかった。
こんなときぐらいいいじゃない、と自分自身に不満をこぼしそうになったが、私は残りのコーヒーとともにそんな想いを飲み干した。
そんな時、玄関の戸がやや乱暴に叩かれた。
その音に、来客者が誰なのかがすぐにわかった。
彼女なりに加減したのだろうけれど、私からすればまだまだ荒々しい。
それでも勝手に入らなくなっただけ、ましになったものだ。
そんなことを思いながら、私は家へ招き入れるために戸口へと向かった。
以前ならこんな恰好のまま出迎えることなんて考えられなかったけれど、まぁ彼女なら気にもしないし、いいかなと思えるようになっている。
彼女だけでなく、私も色々な意味で影響を受けているんだなと考えつつ、それが不快どころか、いたずらをした子供みたいに楽しんでいる今の自分が好きだった。
そんな中、未だに延々と叩かれ続けている玄関がそろそろ泣きをこぼしそうになっていた。
やれやれと思いつつも、私は取っ手に手をかけようとした。
その時、玄関扉の近くに設けられた窓が視界に入り、ふと足を止めてしまった。
綺麗に磨かれた、曇り一つない窓の外で、金色の長い髪を風になびかせた白い服の妖精が、満面の笑顔で元気に飛び回り、春の訪れを告げていた。
初投稿ということですが、レベルは十分にあると思いました
次回も期待したいです
>美鈴が魔理沙をどう考えているのか興味が湧き、?
たまにこういう作品に出会えるから点数低いものも見逃せない…。
こういうまったりとした日常の中での出来事、大好物ですw