*同作品集内にある稚作「ぱるぱるママの出産」の続きです。
そちらを読まなくても分かるように説明すると、「パルスィは勇儀と結婚。四人目の子供が生まれた」です。
パルスィは四女を産んだ後、しばらく勇儀の家で暮らした。生まれたばかりの子供の生命は、自分の手に責任があるのだとパルスィは思っていた。それに、子供はみな成長するにつれて「怪力乱神」の子としての一面を見せるようになり、勝気な顔で旧都をめぐるようになる。そうなるとパルスィはどことなくおいてけぼりにされたような気分になるものだ。だから赤子の間くらいは、ずっと己の腕に抱いていたかった。家族と一緒にすごす時間、パルスィはえも言われぬ幸福に包まれた。が、それでもやはり生来の性分か、時々は橋の上の静かな時間が恋しくなった。それでパルスィは時々、子供を抱いて橋まで散歩をした。そうしている間に気がついたのだが、四女は橋にくると機嫌をよくするようだった。
「本当に橋の上が好きなのね」
古ぼけた橋の中腹で、パルスィはゆらゆらと体を揺らしながら、赤子に語りかけた。
「どんなにぐずっていても、橋の上にくるととたんに大人しくなるのだから」
夜泣きがやまなかったある夜に、どうせ眠れないのだからと橋まで散歩にでてみると、ぴたりと泣くのをやめたことがあった。そのくせなんでもないときでも、街中にいるとふとぐずりだすことがある。
「さわがしいところは苦手なのね」
顔をあげて旧都の方角に目をやる。早駈けて10分ほどの距離にはもう旧都の町灯りが見えている。常闇の地底にありながら、旧都の周辺だけは、いつも明るい。勇儀や上の子供達は、あの灯りの中に在ることを好んだ。だがこの子は、パルスィの腕に抱かれたまま、ただじっと橋の上から地底世界を眺めている。そこには何もない。ただ闇があるだけだ。橋の両端の永夜灯のわずかな灯りは周囲のごく狭い範囲しか照らしてはくれない。橋げたをのぞいても小川は見えず、ただ水の流れる音だけがそう離れていない距離から届いてくる。この子はそんな場所にいて、何十分でも飽きることがない。
パルスィは子を顔の高さに抱き上げて、目で語りかけた。
「お前には勇儀みたいな立派な鬼になってほしいよ。嘘じゃないさ。心から願ってる。でもね、白状するけどね、もしもお前が母さんみたいな橋姫になってくれたら……母さんと一緒にこの橋でじっといつまでも暗闇をみつめていてくれたら……母さん多分嬉しい。ごめんな。こんな母親でごめんな。でも母さん.ね、お前が寂しくならないように、お前の幸せのためにできるかぎりをするからね」
パルスィが町外れの長屋に住まいを戻そうかと考えるようになるのは、たいてい子供を産んで3、4ヶ月がたつころだった。生まれてから数ヶ月もすれば、赤子はすでにいっぱしの童子になって、妖怪としての自我を確立する。そして母親の腕の中から飛び出していってしまうものだ。とりあえずは役目を終えた、とパルスィが感じるのがこのくらいの時期なのである。が、今度生まれた四女は、自分の足でしっかりと歩けるようになった後でも、まだまだ母親の腕の中にいたいようであった。パルスィが屋敷をでるようなそぶりを見せ始めると、まるで赤ちゃん帰りしたように、パルスィのそばから離れなくなった。パルスィの服のすそをつかんで、どこへ行くにも後をついていった。パルスィが橋に散歩にいく時は四女も必ず後をついていった。二人は何時間も橋の上で過ごすこともあった。橋の上にたっているだけなのだが、四女は少しも退屈そうではなかった。この日も娘は、母の横に立って。ただじっと、母親と同じ常闇に目を向けていた。
パルスィは自分の腰ほどの背丈の娘の姿を見下ろし、嬉しいような、このままではいけないというような、複雑な感情を得ていた。
「お前も、たまにはおねえちゃんたちと一緒に旧都で遊んできたらどう?」
「……ここがいい」
無口で無愛想な娘は、橋の手すりの間から前方の闇を眺めつつ、ぶっきらぼうに首を左右に振った。
パルスィは目の橋に皺をよせた。
――私にそっくりね
成長するにつれ、この娘はいよいよ性質をパルスィに似せた。パルスィの橋姫としての魂をそっくりそのまま受け継いだとしか思えなかった。3人の娘とは随分と違っていた。けれど上の子達との仲は悪くはなかった。むしろ、快活な姉たちはこの内気な妹を、勇儀がパルスィにそうしたように、たいそうに可愛がった。が、感情を素直に表すすべを知らない妹は、その愛情にどうこたえてよいか分からず戸惑う場面も少なくない。そんな娘の戸惑いがパルスィには手に取るように分かった。そも橋姫とは人と人との縁を恨んで生まれた妖怪である。その魂を受け継いだとするなら、愛情と向かいあうすべを本能が知らないのだ。同じく橋姫であるパルスィは、そんな娘が愛しくもあり、また母としては哀れでもあった。
「そんなんじゃ、友達できないよ」
ぷにぷにと頬をつつきながら、言ってやる。つつかれながらも、娘は不機嫌そうな顔をくずさない。その表情がおかしくて、パルスィは吹き出しそうになった。
「……いらないもん」
パルスィはくすくすと笑った。
「嘘つき屋さん」
手を差し伸べて、わが子の肩を引き寄せる。小さな体が、パルスィの太ももにキュッと抱きついた。えもいわれぬ喜びが、触れ合った場所に生まれパルスィの体を這い上がってくる。
「母さん知ってるんだからね。お前が姉妹で一番のさびしんぼうだって。そのくせ素直じゃなくて……」
「……」
むぅっと、娘が不機嫌そうに目つきを細くする。
パルスィはたまらなくなって、しばらくぶりに娘を抱き上げてやった。腕に感じる重さは、記憶にあるものよりずっと増えている。わが子を抱く感触の喜ばしさは、何も色あせていなかった。娘は甘えた。パルスィの首元に手を回して、おずおずと抱きついてくる。
「ねぇ勇儀が言っていたよ。お前があまり抱かせてくれなくて寂しいって。抱いてやろうとしても逃げてしまうって。勇儀が嫌い?」
「……」
娘が小さく首を振った。柔らかい髪の毛が、パルスィの頬をすりすりと撫でる。
「ふふ、そうだよねぇ。本当はもっと抱っこしてほしいのに、大好きで恥ずかしくて、逃げちゃうんでしょう?」
「っ……違うもん」
娘の嘘が、またパルスィを微笑ませた。そうしてパルスィは娘をぎゅっとだき子守歌を歌う。橋の上でわが子を抱くうちに、いつのまにか身についた鼻歌。
「どよさ、どよさ、どげんとしよか。あの子の嘘つきどげんとしよか、やれどげさ――」
娘の肩を手の先でぽんぽんと叩きながら、淡々としたリズムでなんどもなんども繰り返し歌う。
何度歌っても、答えはでなかった。
けれどこのときは、ふと思いつくことがあった。
「――お前、一度地上へ連れて行ってやろうか?」
「地上?」
「この世界のずっとずっと上にあるところさ。そこはお日様が照っていて、とても明るいところなんだよ。むかし勇儀はそこにいたんだ。私も妖怪になる前には、多分そこにいた」
「ふぅん……」
「よし、行こう、いまから」
パルスィは娘の手を引いてさっと橋から飛び上がった。娘は突然のことに目を白黒させている。パルスィ自身、なぜそのような思いつきにいたったのかはあまりよくわかっていなかった。
娘が自分のように橋の上でただじっと時をすごすのが哀れで、どこか、橋の他に娘の気に入る世界を見つけてやりたいと、母親ながらに思ったのかもしれなかった。
地上へ続く縦穴を上昇し、遥か頭上にかすかな光が見え始めた。
するするする、と頭上から桶が降りてきた。キスメだ。降りてきたとはあくまで相対的な話で、はたからみればキスメもまた上昇している。
キスメが桶から小さな顔をのぞかせ、相変わらずの消え入りそうな囁き声で名を呼んだ。
「ぱるしー……?」
「やぁキスメ。ちょっと地上へいってくるよ」
「へぇ……めずらしーね」
「この子に見せてやりたくて」
人見知りがちな娘は、パルスィの胸元に隠れるようにして、横目でちらちらとキスメをうかがっていた。
「こにちわ」
キスメがやんわりと挨拶をするが、返事はなかった。パルスィは少し申し訳なさそうに、キスメに苦笑してみせた。
キスメはくすくすと笑いながら、
「うちの子といっしょだね」
と、ちょっと身をかがめて、桶のなかで肩をゆらした。すると、キスメに抱き上げられる形で、幼い女の子がひょっこりと顔を現した。キスメと同じ簡素な白じゅばんをはおり、緑の髪をおかっぱにそろえている。年の初めにキスメが生んだ子であった。キスメの小さな体でよく子供を生めたものだと、パルスィは、心から関心したものだ。キスメの腕にすっぽり収まる小さな女の子は、桶の中で母に抱かれながら、子猫のようにオドオドした様子でパルスィのほうをうかがっている。
「こにちわして」
が、その子はもぐらのようにヒュッと桶の中に顔を引っ込めてしまった。母親達は顔を見合わせて苦笑する。
「ごめんね……」
「いやいや、お互い様ねぇ……そうだ、勇儀がね」
「ん?」
「その子のために新しい桶をプレゼントしたいって。匠に頑丈な桶を作らせるって言ってた」
「わぁありがとー。じゃあ……そろそろおまえも桶ばなれしなきゃね?」
キスメの言葉の後半は桶の中に向かって囁かれた。桶の中から、何かぐずるような声が聞こえてパルスィはクスクスと笑った。まだまだ母親の桶の中にいたい年頃なのだろう。
桶はもう少しゆっくりと作ってもらおうか。どこの家も大変なのね――そう考えると、何か慰められるような気がするのだった。
地上の光が、もうずいぶんと近くなっている。
地上に抜ける縦穴はいくつかあるが、今回パルスィが上ってきたのは、魔法の森のはずれにある穴の一つだった。穴を抜けたとたん、パルスィは目のくらむ輝きに包まれた。暗がりになれた地底人の目には太陽の明かりはあまりに強すぎた。
「眩しいわね……!」
目を細めながら、上昇を続ける。風の匂いが下とは明らかに違っていた。地底の風の粘りついてくるような湿り気はなく、上の風はどこからさらさらとしていて、そして匂いがある。頬に感じる陽の不思議な暖かさも、久しく得ないものだった。
「お、お母さんっ」
腕の中の娘も驚いているのか、混乱しているのか、パルスィの体にぎゅとしがみついている。200メートルほどの高さまでパルスィは上昇を続けた。
だんだんと眩しさに慣れてきた目で、幻想郷を展望する。
「……広いわねぇ」
暗い地下ではたまに視界が続いてもせいぜい100メートル。しかし今二人の前にはそれとは比べ物にならないほどの光景が広がっている。足元から広がる森の緑は、草原に変わったりしてと濃度を変えながら、地平の山々まで続いている。ところどころに、人工物があり、どれほど離れているのかもはやわからないが、果ての山々では緑がそらの青と混ざり始めていた。
「大げさな世界だこと……」
何もかもが過剰で、思わず手でかき消してしまいたくなるような感覚に襲われる。
さて娘はどうだろう? と、様子をうかがおうとした時だ。
「あややや」
と耳障りする声が、背後に聞こえた。
パルスィは顔をしかめた。勇儀と結婚したり娘ができたりで性格はいくぶん丸くなったパルスィだが、人付き合いは今だに嫌いである。家族や地底の知人ならまだしも、地上の連中とは積極的にかかわりたくはなかった。
が、子供の手前あまり大人気ない態度をとるわけにもいかなかった。
「その声は天狗」
振り向きながら、なるべく邪険にならないように声をかける。
「パルスィさんが地上に上がってくるなんてめずらしい」
嫌いな相手がそこにいた。射命丸文。人のプライベートにずかずかと遠慮も無しに踏み込んでくる天狗。パルスィにとって一番肌の合わないタイプだ。
だが一つの幸いは、天狗連中は鬼を畏れているらしいということ。星熊勇儀の嫁になってからは、パルスィへの態度は随分下手になっていた。が、それでもなおこうやって声をかけてくる気骨が、パルスィには妬ましかった。視線も自然と暗くなる。
文は、パルスィが抱いている娘を心なしか及び腰になりつつ凝視していた。
「いやはや……驚くほど勇儀さんに似ていらっしゃる」
「……まぁね」
。娘を褒められたわけでもないのに、文が娘に注目してくれていると思うと、心の中の淀みがすっと消えていく。ころころとめぐり変わる己の感情が、奇妙に思えた。
「そういえばあんた、うちのダンナのこと苦手そうだったものね」
「い、いやいや苦手なんてそんな。ええと、お元気でしょうかね勇儀さん」
「元気じゃない時なんて、見たことないわ」
「ははは……それは何より……」
「ところで。ねぇ話は変わるけど、その写真で私とこの子を写してくれない?」
へ、と文は間抜けな顔を見せた。
「い、いいんですか? パルスィさん大の写真嫌いでは」
「まぁね。けど、この子たちはとても成長が早いの。小さい頃の姿を一枚くらいのこしておいてあげたいのよ。上の子たちの写真も、撮っておけばよかったわねぇ」
「はぁ……いや、こちらとしては願ったりですけれども」
「焼きあがったら、勇儀に渡しておいてくれる? 時々博麗神社で顔をあわせるのでしょう?」
「うへ」
文が嫌そうな顔をした。
「うーん、霊夢さんに預けておきますから、勇儀さんが博麗神社をたずねた時に手渡してもらう、ということではいけませんかねぇ」
「まぁ、それでいいわ」
くくく、とパルスィは笑った。
「それでは写しますよ」
「うん。――ほら、あの四角い箱を見て?」
娘にカメラを指さしてみせる。娘は、文が現れたときから人見知り全開になってすっかりダンマリになっていた。パルスィの胸の間に顔をうずめるようにして、ずーっとそっぽを向いてしまっているのだ。
「ほらほら」
抱き方をかえて正面を向かせようとするが、そのたびに体をひねって結局そっぽを向いてしまうのであった。
その母子のやりとりをレンズ越しに眺めながら、文がさすがに笑う。
「いやぁ……勇儀さんと違ってとても可愛らしいですねぇ」
「ふふ、ありがとう。ダンナにも伝えておくわ」
「ご、ご冗談を」
結局、横顔が写っていればいいということにして写真はそのまま撮影された。
パルスィとて写真をとられるというのは慣れていない。どういう表情をみせればよいのか分からず顔がこわばってしまっていた。母はかちこち、娘はそっぽ、できあがった写真はさぞ見栄えしないものだろうな、とパルスィはわれながらきれるのであった。
「ありがとう」
「いえいえ。……ところであのぅ、このことは記事にしても……?」
おずおずと文が尋ねてくる。本心ではもちろん記事になんぞされたくはないのだが……。
「……まぁ、写真をとってくれたお礼に……いいわよ」
それは口実で、娘の顔が少しでも広まればよいかな、と親ばかなことを考えてしまったのだ。
「おお、ありがとうございます。ありがとうございます。それでは、あまりお邪魔をしてもなんなので、また」
「さようなら」
文はとたんに機嫌をよくして、手を振りながら飛び去っていったのだった。
あっという間に空の点になった文を見送り、パルスィもフゥと息をつく。おそらく文は随分と会話のしにくさを感じていたろうが……今のだってパルスィにとっては精一杯愛想よく努力したのだ。いつものごとくぶっきらぼうな返事に終始してもよかったのだが、娘のいる手前、それをしたくなかった。
「私に似てほしいのか、似てほしくないのか」
はっきりしない自分の心中にパルスィは苦笑する。娘はまだ、パルスィの胸に顔を隠していた。顔をもぞつかせるたび、額の角がパルスィの肌をくすぐる。
「困った子だね……」
そのまま少しの間、パルスィは一息ついて景色を眺めていたのだが、数分もしない間にまた別の者から声をかけられた。今度は足元からだった。
「こんにちわ~」
「……こんにちわ」
地上というところは静かに独りの時間を得ることさえできないのだろうか、と内心でため息をはく。が、声のしたほうを見下ろして、パルスィはおやと眉を上げた。
森を背景に上昇してくるのは、お腹の大きい妊婦だった。
「はじめまして……かしら。私はアリス」
白いケープから伸びる青いドレスのお腹の部分が、みごとにぽっこりと盛り上がっている。見たところ臨月であった。娘もまた、ものめずらしそうにそのお腹を見つめている。人見知りよりも興味が勝ったようだった。
そしてパルスィは、アリスの名前に聞き覚えがあった。『あの風見幽香に子ができた』その噂は地底にまで漏れ聞こえていた。そしてその幽香の子を宿した妖怪が……。
「貴方がアリス。アリス・マーガトロイド」
「ええ」
パルスィが噂を聞いていることを察したのか、アリスは少し照れがちにおどけて見せた。
「貴方と文が話しているのを家の窓から眺めていたの」
アリスが魔法の森の一角を指差す。良く見ると、少し離れた場所の木々の間に洋風の一件屋がのぞいていた。
「貴方、名前を聞いても良い……?」
「え、ああ……」
非礼をわびてから、自分と娘の名前を名乗る。
パルスィは覚えていなかったが、以前に一度、互いに声だけは聞いたことが在るそうだった。さておき、アリスは話の途中から、ちらちらとパルスィのだく娘に視線をやっていた。
「この子……見れば見るほど勇儀にそっくりね。よほど血が濃いのね」
「勇儀とあったことがあるの?」
「宴会で何度か」
「ああ……」
「けど、大人しそうな子ね」
「ええ。性格はどうやら、勇儀には似なかったみたいで」
「そうなんだ。ふふ、こんにちわ」
アリスがごく自然な手つきで、娘の頬をそっと指の背でなでる。パルスィが思わず関心してしまうような白くにごりのない綺麗な指先だった。娘はすこしおっかなびっくりしながら、頬をなでるアリスの指先を目でおう。
「ほらお前も、こんにちわしなさい」
母にいわれて、目をきょろきょろとさせながらも、なんとか小さくこくりと会釈らしきものを返す。
「可愛いなぁ……」
アリスはやわらかく微笑むとしみじみとそう言ったのだった。
「この子、貴方の初めての子供?」
「ううん。四人目だけど……」
「まぁすごい! 四人も!……私は、この子が初めてなの」
張り出した自分のお腹を、愛おしく撫でるアリス。そのしぐさには、パルスィも覚えがあった。子ができるたびに、来る日も来る日もそうして胎内の子に語りかけたものだ。
と、アリスは、パルスィの娘が先ほどからアリスのお腹を興味深そうにじっと見ていることに気づいた。アリスはまた、パルスィが思わず見惚れるような優しい笑みを見せた。
「触ってみる?」
「え……」
どうしよう、とパルスィの顔をうかがう。パルスィは娘をおろして、そっと手をつないだ。母親の手につかまり、少しおたおたとしながらもちゃんと宙に浮遊する。
「えらいね。ちゃんともう自分で空を飛べるんだ」
アリスが目ざとく気づいて、けれど少しも押し付けがましくなく、パルスィの娘の頭を撫でる。なんて母親らしい女性だろうと、パルスィは心から感心した。自分にはとてもこのようには振舞えそうにはない。
人見知りの娘も、しだいに肩の力がぬけて安心し始めているようだった。
「う、うん……」
「ありがとうを言いなさい。お姉さんが触らせてくれるって。優しく触るのよ?」
「うん……ありがと……」
ゆっくりと恐る恐る、手を伸ばす。ドレスに指先がふれ、そのまま手のひらを這わせて、今しがたアリスがしてみせたように、ゆっくりとナデナデをした。
「おっきい……」
「お前も、ちょっと前まではこうして私のお腹の中にいたんだよ」
パルスィが言うと、娘は目を丸くして、アリスのお腹とパルスィのお腹を交互に見る。
それを眺めて、二人の母親は笑った。
パルスィの子の頭をなでてやりながら、問いかける。
「ね、いくつになるの? お姉ちゃん教えてくれる?」
「えっと……0歳……」
「へ……?」
「まだ0歳なのよ。ちょうど生まれて半年かしら」
「えっ! こんなに大きいのに」
「鬼の子は成長が早いの」
「へぇ……けれどじゃあ、手がかからなさそうね」
「それはそうだけどね……。でももう少し、小さい体を腕の中で抱いていてあげたかったかも」
「そっかぁ……。……おっと」
とアリスが声を弾ませるのと同時、パルスィの娘も驚いた顔をしてアリスのお腹からぱっと手を引いた。パルスィは、すぐにぴんときた。
「おや、動いた?」
「うん。さすが幽香の子供なのかな、すごく元気な子なの。……ふふ、ごめんね、驚いた? この子がね、君に挨拶したのよ」
娘はまだ顔を驚かせて、アリスのお腹を見つめている。
「お返事、してあげてくれる?」
アリスの言葉に答えて、娘はそっと今度は口もとを、アリスのお腹に近づける。
「こ、こんにちわ……?」
するとアリスが、
「あっ……動いた。また動いたよ! ふふ、お姉ちゃんの声が聞こえたって」
嬉しそうに声をはずませた。本当に赤ん坊がお腹をけったのか、あるいはアリスの演技ではないかと、パルスィは考えたりもする。そしてそんなアリスの姿に、久方ぶりの強い嫉妬心をこっそりと覚えたのだった。
「この子、とてもいい子ね。羨ましい」
「そんな、本当はもっと無口で人見知りな子なの。貴方の子供の扱いが上手なのよ」
「そういってくれると嬉しいけど……私、すごく不安なの。ちゃんと良い母親になれるのかしら……」
「はぁ?」
パルスィは、何言ってんだお前、みたいな声を出してしまってからあわてて口をつぐんだ。思い返してみれば、パルスィとて初子のときは随分と不安になったものだった。が、今しがたうらやむほどの良母ぶりをみせたアリスに言われると、ちょっぴり嫌味にも聞こえてしまうのだ。パルスィは苦笑しながら、なれない慰めを言った。
「誰だってそうだと思うよ。自分が良い母親だったかなんて、結局、後になってみないと分からないんじゃないかな。今はただ、自分の愛情を信じるだけ」
わが子にどのような成長を望むのか、それすらはっきりと決めかねている自分がえらそうにいったい何をほざくのだろう――パルスィは自分でもあきれたが、それでもアリスには一応感じ入るところがあったらしい。少しの間無言になって、自分の腹とその腹をなでるパルスィの娘を、見つめるでもなく見つめていた。
アリスはパルスィを誘った。
「ねぇ、良ければ今から私の家に来ない?」
「へっ?」
「私、お腹がこんなだし、研究もはかどらないしお出かけもなかなかできないしで、すごく暇してるの。二人さえよければ、いろいろ話を聞かせてほしいなぁ……」
「べ、別にたいした話はできないけど……」
「パルスィの初めての子育ての話とか、聞いてみたいわ」
「え、ええと……」
パルスィがたじろいでいる間に、アリスの矛先は娘にも向けられる。
「ね、私ね、生まれてくるこの子のためにたくさんお人形を作っているの。気に入るかどうか、見てくれない? それに、一緒にお人形さんの名前を考えてくれたら嬉しいなぁ……」
「え? お人形さん……? えと、えと……」
娘は「お人形さん」というキーワードに心引かれるものがあったらしく、早くもアリスの家に行きたそうな視線をパルスィに向けている。パルスィはほんのちょっぴりそれがショックだった。わが子がお人形さんに興味があるということを、今まで知らなかったのだ。知らなかった、というほど大げさな話ではないのかもしれないが、少なくともパルスィは子供にお人形を与えたことはなかったのだ。上の子たちがみな勇儀にてそんなものにほとんど感心がなかったから、しかたないといえばそうなのだが。
パルスィはかんねんした。
「じゃあ……お邪魔させていただこうかしら……」
「うん。ぜひ!」
本当はちょっと地上を眺めてすぐ地底へ帰るはずだったのだ。それが思わぬはこびになってしまって、後悔しているような、そうでないような、パルスィは複雑な気分だった。
アリスは、パルスィの子育てに関する苦労話をわがことのように興味を持って聞き、パルスィもいつの間にか大いに気分を良くしてあれやこれやと語ってしまっていた。娘は娘でアリスの作った人形達にひかえめに目を輝かせていた。アリスもそれを喜んで、二人が驚くほどの手際でパルスィと娘の人形をササッと作り上げた。それをプレゼントにくれるというから、娘は大喜びだった。いつになく口数の増えた娘をパルスィは喜び、そして娘のそんな一面を見せてくれたアリスが妬ましかった。
アリスの家を出るとき、空はすっかり赤くなり始めていた。地上へあがってきたときは、まだ日は高かったはずだ。パルスィは楽しかったことを認めざるを得ず、アリスに再会の約束を告げた。
「またきてねー」
アリスが玄関から二人に手を振っている。パルスィは振り返ってありがとうを述べる。すると娘も、誰にいわれるでもなくアリスに手を振り替えした。人見知りのはずの娘のそんな変化が、パルスィには嬉しかった。二人は手をぎゅっとにぎりあって、森の上空へむけて、赤い空を昇っていった。
「すごい……お空の色が……」
娘のつぶやきにつられ、パルスィは空中で静止し、かなたの山の端に沈む赤い空を眺める。その反対の地平からは藍の空がすでに登り始めている。眼下の大地は黒にそまりはじめ、ところどころに頼りなさ気な小さな灯りがみえた。地底では消してみることのできない、足がすくむような広大な眺めに、改めて二人して見入る。
「地上……」
呆然とした様子で娘が声を漏らした。
「そう、これが地上だよ」
言いながら振り向いて、パルスィはあっと驚いた。
娘の目が、強く光っていた。ほとばしるような緑色の光が、妖気と共に瞳からあふれている。
「地底とはぜんぜん違う……あぁ……あぁ……妬ましい……」
パルスィの幼い娘は、深く重い息をはきながら、空のしじまに嘆いた。
「……」
パルスィは夕日を名がむるような感慨を得ながら、娘の横顔をじっと見つめる。その顔は勇儀ににている。だがその瞳に宿る情念は、まぎれもなく水橋パルスィの生き写しであった。
パルスィは囁くように告げた。
「お前、この世界で暮らしたければ、地底を離れてもいいんだよ」
「え」
「なぁに、地上にだって橋はあるさ」
「……」
娘はたいそう驚いた顔で、母を見つめ、それから地上をまじまじとみわたす。そうしている間に、瞳の輝はもいつのまにかやんでいた。
「けど……お母さんは? お母さんはどうするの?」
「私……? 私はいまさら。ずーっと地底で暮らしてきたんだ。もう、地上の環境にはなじめないよ。今だって疲れて疲れてしかたがない。けれどお前は、まだ若いんだから。それにお前の体には勇儀の血もながれている。お前ならきっと……おや?」
娘はパルスィに最後まで語らせなかった。話の途中で突然、パルスィの片腕にきゅっとしがみついたのだ。
「どうしたの」
「……」
娘は返事をしなかった。何も言わないまま、己の頬をパルスィの腕にこすり付けるようにして、強く首を左右にふった。そうしてそれきり、まただんまりになってしまった。アリスの家にいた間は、いつになく饒舌になっていた。娘の感情の発露を、パルスィは歓迎していたのだが。
「……まぁ、まだ早いか」
笑いながら、しかしパルスィは内心では安心していたのだった。娘がアリスと楽しげに会話をしているとき、なんだか娘においていかれるような気がしたのだ。
「……さ、それじゃあ地底へ帰ろうか」
パルスィは片腕にしがみつく娘を胸にだきしめなおす。そして手近な縦穴を見つけると、青を濃くしていく空に背を向け、地底の暗闇へと急降下していった。
縦穴を降りている間に、娘は眠ってしまった。初めての地上でなんだかんだで疲れていたのだろう。パルスィは速度を落として、娘を起こさないようゆっくりと地底世界を飛んだ。縦穴と旧都の間にかかる橋にまで二人が戻ってくると、勇儀がそれを迎えてくれた。橋の手すりへ背中をもたせ、酒瓶をあおりながら、パルスィに向けてせわしなく手を振っていた。
パルスィは勇儀の姿を認めたとたん、体に知らず知らずのうちにのしかかっていた正体のない重さがふっと消滅したのを感じた。
橋にそぅっと降り立ち、勇儀の隣に並ぶ。
「お帰り。地上へ行ってたんだって?」
「あら、誰に聞いたの?」
「キスメさ。気の早い礼を言いにきたんだ。桶のな」
「なるほど」
そっと肩を触れさせて、わずかに体重を勇儀に預ける。
その瞬間、パルスィはようやく、心の底から一息をつくことができたのだった。
「お姉ちゃんたちは?」
「うん、まだ町で遊んでいるよ」
「そっか。悪さしてないでしょうね」
「それほどのことはしてないさ。そっちはどうだったね、地上は。楽しかったかい」
「地上ねぇ。ああ、疲れたよ。疲れた疲れた。やっぱり上は私の居場所じゃないよ」
大げさにため息をつきながら、言う。勇儀がとなりで、そうかそうかと笑った。
もちろんアリスとの会話は楽しいものだった。が、やはりどうしようもなく、パルスィはこの地底をこそ自分の最良の居場所だと感じてしまうのだ。
地上を妬ましいと考える感情さえ、パルスィにはもうなかった。
「でもこの子には……良かったのかもしれない。友達ができたかもね。まだ、生まれてないけれど」
「そうか、友達か。それは良いことだ」
「うん。連れて行ってよかった……そう思うよ」
「そうか。パルスィは立派にお母さんを勤めているな……そうだ、ちょど良い。私にも抱かせておくれよ」
寝ている間しか愛娘を抱くことしかできない勇儀が不憫ではあるのだが、それが愛情ゆえであることを思うと、パルスィには笑いがこみ上げてくる。
勇儀はその太い腕で抱きしめながら、すりすりと頬ずりをした。なんどか互いの角が接触して、こっ、こっ、と硬質な音を鳴らした。
「かわいいかわいい……なぁ娘よ、もっと普段から抱かせておくれよ。私は嫌われてるのかと思って心配になってしまうぞ?」
「好きで好きで恥ずかしいのよ。照れやさんなのよ」
「はは、わかっているさ。つまり、昔のパルスィと同じってことだろ」
「……っ」
突然に矛先を向けられて、パルスィは言葉を詰まらせてついそっぽを向いてしまった。
くく、と勇儀の勝ち誇ったように笑うのをいまいましく思いながら、そのまま視線の先の闇を眺める。旧都の明かりも届かない地底の奥。
勇儀が娘のあれやこれやを褒める声を聞きながら、見慣れた地底の闇に目を凝らす。時折思い出したように小川の音が耳に入る。それ以外には何の変化もない停まった世界。どうようもなく心が落ち着くのだ。
「……ねぇ勇儀」
「ん?」
「私、この子みたいな子を、もっと生んであげようかと思うの」
「ふうん?」
「この子がもし地底で橋姫になったとしても……もし橋姫の姉妹がいたら、きっと私みたいな寂しい思いはしなくてすむわ」
「ありゃ、私は、パルスィに寂しい思いをさせていたかな?」
「……勇儀と出会うまでの話よ。前にもいったでしょう」
「安心した」
「四人も生めば、また一人くらいは私に似る子が生まれるでしょ」
「四人といわず、十人でも二十人でも生めばいいさ」
勇儀はパルスィが望む限り、本当に何人でも子供を作るだろう。パルスィは嬉しかった。パルスィは勇儀のたくましい腕に肩を寄せた。
「ふふ、じゃあ、頑張ってね、勇儀」
勇儀は娘を片手に抱きかえ、空いたもう片方の手でパルスィを強く抱き寄せた。
「ああ、もっともっとたくさん良い子を生んでくれ。……それとなパルスィ」
「ん?」
「この子にはパルスィがいる。私もいる。上の子たちだっているんだ。寂しい思いなんて、絶対にさせるものか」
「……うん」
勇儀の魂の熱が触れ合った箇所を通してパルスィの体にしみこんでくる。
パルスィは今、幸福だった。
絶対その橋渡りたくねぇw
そんな俺にこの話は、うん、卑怯だと思うんだよなぁ。
感動しました!なんかもう色々なツッコミがどうでも良くなる程清々しい読後感ですわ
幽アリももうじきですな、この二人の話もまた読んでみたいなあ
先生僕は先生の作品もっと読みたい
妊娠が幻想郷に浸透していると考えたら腹筋持ってかれた。
ぐっと来る読後感でした。面白かったです。
生後半年で歩いたり飛んだり喋ったり。鬼の子は本当に成長が早いんですね。
五姉妹で橋の上なんてうるさそうなw
面白かったです。幽アリの子ももうすぐですね。
おもろかった