一体、どうしてこんな事に?
「ひっぐ……う゛ぇぇぇっ……びえええええ゛っ……」
私の目の前では、水色の服を着た地上の妖精が地団駄を踏んで泣き叫んでいた。
おまけに、ちょうど私の右横にある、永遠亭の縁側では、お姉様と八意様が冷たい目で私を観察している。
「さすがに大人げないというか……ねえ」
「そうですねぇ。妖精一匹にそこまでの力を使役するなんて……」
この妖精は、自分の服が半分焼け落ちて、右胸の恥ずかしい部分、おおよそ梅干しといわれる所がばっちり露出しているのにもかかわらず、全身全力で悔しさを表現していた。
彼女の周りの地面も、草木一片残らず黒こげている。
そこからうっすらと立ち上る煙を、下から上に順繰りに見上げ、私は心の中で呟いた。
いたたまれない。
なぜ、私がこんな針のむしろに座る気持ちを味わわなくてはいけないのだろうか?
どうしてこんな事に?
地上から、吸血鬼やら紅白巫女やらが押し寄せてきた事変の後、月での私達姉妹の役割を、最大限拡大解釈して地上の八意様にお会いしたときは、このようなことになるとは夢にも思わなかった。
永遠亭という御屋敷でお会いすることが出来た八意様は相も変わらずお美しく、お体も健康そうだった。
私達の突然の来訪に、驚いて多少引きつった顔をしながらも微笑みながら歓迎してくださった際には、私達姉妹、感極まって泣きながら八意様に二人して抱きついてしまった。
そのときの八意様の身体の、月に住む物とは違った、少し泥臭くてそれでもほのかに安らぐ暖かなにおいを私は一生忘れないだろう。
と、いうか、今でもその記憶を引き出すだけで思わず顔がゆるむのが分かる。
八意様のてっぺんからつま先まで見回して、身長、体重、髪型から眉毛の形、私と不意にお会いした時のほのかにしっとりとした冷や汗のかきかたまで、どこにもお変わりのないことを目で確認したのち、つもる話を私はお姉様と競い合いながら話したのだった。
そうこうしているうちに、当初の予定では日帰りする筈が、八意様の住まわれる永遠亭に、ずるずると日を越えて滞在してしまった翌朝、この妖精が勇んでやってきたのだ。
「たのもー!」
その妖精は、なにも考えていないかのように脳天気に、永遠亭の中庭に降り立ったのだった。
あろう事か、私達姉妹が楽しく八意様とおしゃべりしている最中に。
許されない事に、あの妖怪、八雲紫の紹介だと言って。
「あたいのさいきょー仲間の紫を負かした、月のなんたらがいるって聞いて、わざわざ真のさいきょーのあたいが駆けつけてやったわ!」
その時、丁度、姉様と八意様は中庭に通じる縁側でおしゃべりしていて。
私はといえば、八意様のお美しい御髪を背中から梳いて差し上げていたのだが。
その妖精が発するひんやりとした空気の波が、私と、なにより八意様の顔を汚したのが、わたしにはどういうわけか、何より気になった。
「あら、涼しいわね」
幻想郷はまだまだ残暑が厳しいせいか、八意様は何事も無かったかのようにそうおっしゃったが。
私はこの時、八意様と私達姉妹のだけの、三人の空間に現れた侵入者が、何より許せなくなっていたのだ。
「どなたですか。騒々しい」私は言った。
「あ。あんたね? 見慣れないその姿。げんそーきょーの外に住むあんたが、紫や霊夢をぎったんぎたんのけっちょんけちょんにしたって、紫に聞いたわ。でも、残念でした! げんそーきょーで本当に最強なのはあたいなの。だから、あんたがげんそーきょーを見くびらないように、わざわざあたいが来てやったってわけ!」
「私も姉様も、あの妖怪より強いわ。それに、どう見ても貴方は八雲のあの妖怪より弱いでしょうに」
「なにいってんの? 紫はさいきょーだけど、あたいはもっとさいきょーよ。紫もそういってたもん」
最初は、私もそのような言葉を鼻で笑ったものだった。
「嘘おっしゃい。どう見ても妖精の貴方より八雲の妖怪が強いわ」
そういった私の言葉を、あろう事か八意様が翻したのだった。
八意様は微笑みながら、
「あら、この子の言っていることはあながち嘘じゃないわ。ある意味では、この子は間違いなく最強ね。紫よりも強いわ。ひょっとしたら、私の力も危ういかもしれない」
「そうなのですか? お言葉ですが、とても信じられません」
「そうはいってもねえ。実際この前、この子は紫に三回くらい勝ってたし」
八意様がそうおっしゃるのなら、この妖精には、私などには理解できない強大な力があるのだろう。
私はそう結論づけた。
「どうなの? あたいとやりわないの? それとも、そんな勇気はないってわけ?」妖精が言う。
「いいでしょう。私が相手をしましょう」私は応えた。
私は相手を睨み付けながら縁側を降り、突っかけで中庭に降り立った。
結局、この妖精が、この前三回くらい勝ってた時に、八雲の妖怪に五千回程負けていた事を知るのはずいぶんと後になる。
「さあ、どこからでもかかってきなさい!」そういった妖精は、自分の周りにある空気を凍らせ始めた。
だが。
私は攻撃を躊躇した。
このときに気づくべきだったかもしれない。
八意様のお言葉の真意を。
どこからどう見ても、この妖精は隙だらけなのだ。
はっきり言って、月にやってきたあの紅白巫女の方がよほど強敵に見えるくらいに。
さて、どうするか。
どう攻撃しよう?
打かかる? 切り結ぶ? 撃ち放つ?
可能に思える行動の選択肢が多すぎる、というのも私を悩ませた。
私の目には弱そうに見えているこの姿。
事実として、八雲の妖怪と、何より八意様が認めている。
その点は忘れてはならない。
おそらく、八意様と比べてまだまだ未熟な私などには思いも付かない道の力を隠し持って居るのだろう。
ならば。
戦において、大いに正統的な道をとろう。
実力の不明な相手には、これが一番。
自分の持つ最大限の技をたたき込む。
「では、いきます」そういって、私は目を閉じた。
いつもしてきたように、神の力をこの身に宿す。
今回の力は、天照大御神。
自分の物ではない力が、体中に溢れ、精神が燃え始めることを感じて、私は只一度、技を放った。
「日輪の力をお借りして、今、必殺の――」
さあ、見せてみなさい。
あなたの隠された力を。
八意様に認められたという、その格を!
……
……
……
と、言うのが今までの流れでした。
私の一撃であっけなく沈んだ妖精は、今では、すでに着替えを済ませ、今は八意様とお姉様に挟まれた位置でちゃぶ台の前に座り、永遠亭のおやつの梨をほおばっています。
「あなた、チルノっていうの。へー。ねえ、あなたのこと、ちーちゃんってよんでもいい?」お姉様がにこやかに言った。
「別にいいよ。あたいに免じて許してあげる。ところで、あんたの名前はなんて言うの?」
右手には梨を剥く八意様。左手には、楊子で、切り剥かれた梨を口元まで運んでやっているお姉様。
チルノと名乗った妖精は、その接待に大層ご満悦のようだった。
当然よ。
むしろ、そんな夢のような状況で鼻血を噴出しないこの妖精が信じられないわ。
「私は綿月豊姫。あちらは、妹の依姫」
「すげー。女なのに、とーちゃんだ! で、あんたはよっちゃんね。おーけー。あたい、覚えた!」
「ちょっと」
待ちなさい。なぜ貴方なんかに愛称で呼ばれなくちゃいけないの?
そう、私が口に出しかけたところで八意様が言った。
「あら、あなたたちはうらやましいわね。私なんか、『えーりん』って、そのまんまでしか呼んでもらえないのに」
「だって、えーりんはえーりんじゃん。それでいいのよ!」
チルノは偉そうにふんぞり返っている。
「ところで、依姫。いつまでそこに突っ立ってるの? 貴方もこっちに来て一緒に座ったら?」
未だ縁側に立って、なかなか会話に入りづらい私を、畏れ多くも八意様は気遣ってくださった。
が。
「八意様、この妖精ですが、何故、私とそっくりな衣装を着てるのですか?」
私が着ている服を、サイズをそのまま小さくしただけで、本当にそっくりなのだ。
「だって、これ。貴方の小さい頃のお古だもの」
平然とおっしゃる八意様。
「え?」
「ここに居着くとき、本当は月の物を全て捨てる予定だったのだけれど、あなたたちの小さかった頃にね。私が、仕立てた服。こういうのは、どうしても捨てられなくて」
私が見たところ、その服は裾が少し綻びてはいたが、どう見ても、千年以上歳を経た様な古さを感じさせなかった。
八意様。そんなにまで私達のことを思ってくださったんですね。
思わず涙が溢れそうになる。
ですが。
「なぜ、そういう物を、ここで、この妖精に着せるんですか?!」
「ほら、依姫。この妖精なんていわない。ちゃんと、『チルノ』って紹介してもらったでしょう?」
八意様が少し困った顔で言った。
ああ、この顔は。
私達が子供の頃、粗相をしてしまったときに叱る顔だ。
八意様が、この、八意のお母様の顔になって仕舞われたら、もう私達姉妹がどんなに言い訳しても意味がない。
「ならば、なぜ、私の古着をチルノに?」
「うーん。古着だって、箪笥の肥やしになるよりは誰かに着てもらった方が良いでしょ? それに、チルノに着てもらった方が、元の持ち主である貴方も喜ぶと思って」
「ううう、分かりました」
そんな。
八意様にそういわれたら。
納得するしかないじゃないですか!
私がちゃぶ台の席に入ろうとしたとき、チルノが言った。
「ねえ、あたいは梨をたんのうしたし、今度はあたいがあんた達をもてなしてあげる。あんたたちのたべる梨をほんの少しだけ凍らせてあげるよ。加減が難しいんだけど、大丈夫、あたいにまかせて!」
「あら、じゃあお願いしようかしら」
包丁をもった八意様は、それはそれは他意のない笑顔をチルノにむける。
うらやましい。
「でも、ちゃぶ台のざるには、梨はもうないわ」お姉様が言った。
「あ、これですか?」
私は、部屋の隅にぽつんと一つだけ置かれた茶色の見た目が柔そうな箱に手を伸ばす。
そのとたん、
「違うわ。こっちよ」
八意様は私に鋭くそうおっしゃられて、八意様の丁度後ろにあった木箱から、おがくずまみれの梨を数個取り出して見せた。
「えーりん、よっちゃん手を伸ばした箱って、一体できてるの? ひょっとして紙?」
「そうよ、チルノ。あれはね、段ボールっていう外界の箱よ。時々紫に頼んで、外界の物を調達して貰ってるのよ。この段ボールにつめて貰って、ね」
八意様の口から、信じられない人物の名が飛び出る。
「八意さま! 八意様はあの八雲の妖怪と縁があるのですか? あの、月の敵と。一体なぜなのですか?!」
「そんな些細なこと、地上では気にしないものよ」
平然とおっしゃる。
「そうよ依姫、地上に居る限りは、私達も地上の流儀に従いましょ」お姉様の言葉に、八意様の口ぶりはますます朗らかになった。
「ほら、あなたもそんなところに突っ立ってないで早くこっちにいらっしゃい」
「え、ああ、まあ。……はい」
ううう、気まずい。
「ま、気にするな、よっちゃん。な!」
チルノはひたすら上機嫌だ。
なぜ?
どうして、私がこんな立場に?
私は気を取り直してちゃぶ台の一員となった。
隣には、笑顔になられた八意様。
この梨は地球でとれた物だと言うけれど、八意様が剥いてくださったんですもの。
穢れなどはとっくに吹き飛ばされてしまったでしょう。そういうことにする。
私は遠慮無く梨を口に運ぶと、とたんに、ほどよく冷たい感触が前歯に伝わった。
しゃり。
なるほど、おいしいわ。
この妖精が自慢するとおり、果物が本来持つ甘さを最も挽きだたせるような、そんな冷たさを私のかみしめた梨は保っていた。
それは姉様も同じ感想を持ったようで、
「あら、美味しい」と、食べている最中に右手で口を覆って感嘆の声を上げていた。
「永遠亭では、普段は井戸水とかで冷やすのだけど。チルノが冷やす、というのもなかなか乙なものね」
「そうなのですか。ならば、月の桃も、こうして冷やして食べると美味しいのかしら?」
姉様が首をひねっている。
「桃? 桃もね、冷やすと美味しいよ。梨よりかは冷やさない方が美味しいけど。なあ、とーちゃん。月では、なんか美味しい物ってあるの?」
チルノはちゃぶ台の上に両手をのせ、上半身を乗り出して姉様に向かっていた。
そよ、と冷たく静かな風の流れが、周りに起こる。
「いいえ、残念ながら。まともな食べ物と言えば桃くらいしかないわ」
「ちぇっ。つまんないとこね、月ってのは。じゃあ、月の桃と天界の桃はどっちがおいしいのかしらん」
ぶーたれたと思ったら、次の瞬間にはとっても面白そうな顔つきをする。
このチルノという妖精はつくづく忙しそうな奴ね。
だけど、とてつもなく幸せそうな奴だ。
同時にそう思った。
そんなこんなで、いろいろと堪能したチルノが、自分の居場所に帰ったころにはお昼時となってしまっていた。
「あなたたちもお昼まだでしょ? 一緒にしましょ。今日のお昼ご飯は鈴仙の当番なの」
「いえ、ですが……」いくら八意様の薦めとはいえ、私は未だ月の民。さすがにこの提案に安易に頷き返す訳にはいかなかった。
「あなたの言うとおり、地上のご飯は穢れているかも知れないけど、いいじゃない、そんなのを気にする者は月にだって貴方たちくらいしかいないわよ。そんなことよりそういって、あなた、昨日の夕飯も今日の朝ごはんも食べなかったじゃない。そうやって体を酷使させるほうが私は心配よ。ね、私達と一緒に食べましょうよ」
八意様に、腕を組んで心配そうに言われると、さすがの私達でも、月での私のやり方を曲げざるを得なかった。
「はい。ではご馳走になります」
「そう、よろしい」
八意様がにっこりとおっしゃると同時に、不覚にも私の腹の虫が鳴いた。
「口ではそういっても、体は正直なのね」
「お姉様、茶化すのは止めてください」
そういいつつも、お姉様も私と同じく二食抜いてるにもかかわらず、おなかを鳴らすようなはしたない真似をしないあたり、やはりというかなんというか、肝要なところはしっかりとしているような。
「と思ったでしょ? 私、朝食はしっかりいただいたから。八意様の手料理」
「えっ」
「あなたの分もおいしくいただいたわ」
「えっ」
八意様と一緒にちゃぶ台を囲むなんて、初めての経験だった。
大きく外部に開け放たれた和の部屋ならでは。さわやかな風が私達の間を通り道となって歩んでいた。
「今日のお昼はうどんです」
そういって、かつてのレイセンがしずしずと、ざるうどんを涼しげな摺りガラスの椀に山盛りして来た。
山と盛られたうどんに、なんと茹で上げられた豚肉が混ざっている。
なんでも、永遠亭では、夏場にこのうどん料理を食べるそうで、その調理法は以下の通りとのこと。
豚スライスを大なべの湯でしっかりと茹で上げ、その後、うどん玉を放り込むのだ。
そうして、うどん玉が開くか開かないか、といったところでうどんを豚肉ごとざるに掬い、さっと湯切りだけを。そして最後に、カイワレ大根を少しのせる。
これに、生醤油のみをかけ、いただく、とのこと。
「豚肉でカイワレと一緒にまきつけて一緒に食べるのがおいしいのよね」
八意様は、まだほのかに湯気がのぼっているそれを平然と口に運び、いかにも美味しそうに租借している。
「ねえ、うどんげ。タレが何かいつもと違うようだけど」
「おととい診察にきた斉藤さん、いえ、患者さんにすだちを頂いたので、果汁を少し」
そういった会話を交わしつつも、二人は私達を見つめている。
観念した私は、うどんをつまみ上げ、一息に口にへと運び込んだ。
意外なことに、豚肉の脂でヌメリを増したうどんの食感は、私の舌にはむしろ快感ですらあった。
しっかりとしたうどんのコシと相まって、消して不快ではないヌメリが喉をテカテカと這いずり回り、胃にストンと落ちる感覚を楽しむことが出来た。
また、豚肉と生醤油がお互いの風味を倍増させるように競い合い、そこに、カイワレのシャキシャキとした食感が二つの味覚を加速させる。
そして、確かに八意様のいうとおり、ほんのわずかに全体的に、風味を損ねない程度に、果物の酸味が舌のうえを踊っていた。
穢れているか否かで問えば、確実に穢れきっているこの料理はしかし、
「――おいしい!……」
残念ながら、今の私は、この感想しか持つことが出来なかった。
身体全体がいつの間にか火照っていて、顔から汗が噴き出し始めてきたとき、
「どうぞ」
と、ガラスのコップに並々とつがれた麦茶が、完璧なタイミングで差し出された。
「ありがとう、頂くわ」
私は躊躇なく、一気に麦茶を飲み下した。喉を、冷たい快感が走り抜けていく。
コップを置いたとき、中の氷が、
からん、と、透明な音を奏でた。
「ごちそうさま」
普段は腹八分目を心がけているものの、このときばかりはおなかいっぱい食べてしまった。
罪ではないのに、少しだけ罪悪感が私の脳裏をよぎる。
「お粗末さまでした。お口に合いましたようでなによりです」
そう、地上へ逃げていったかつてのレイセンが応じた。
「おいしかったわ。って」
いやいやいや。
「その前に、なんであなたがここにいるんですか? レイセン!」
一応再度慎重に確認したが。以前に比べて身体的に成長はしていたが、彼女は、どこからどう見ても、あの、月から逃げ出して行方がわからなくなったはずのレイセンだった。
驚愕に近い感情を持った私と比べ、隣に居るお姉様はレイセンの態度と同じように実に平然としていた。
「あ、そういえば依姫にはまだ言ってなかったわね、レイセンが永遠亭で生活してるってこと。ねえレイセン、麦茶下さる?」
「はいどうぞ、豊姫様」
「言わなかったっけ?」とは八意様の談。
「初耳ですよ!」
「鈴仙、昨日のあいだに会ってなかったの?」
「あ、昨日はちょっと夜通し人里のほうへ行ってましたから。豊姫様には朝方お会いしましたけど」
「そういえば報告を聞いてなかったわね。近藤さんの具合、どう?」
「もうとっくに峠は越えました。血中濃度も安定してますし、後は通院治療で十分だと思います」
「そう」
八意様との会話を終え、食器を下げようとした月兎に私は毅然とした口調で命じた。
「ちょっとそこに座りなさい」
「え、はい」
「レイセン、貴方が八意様の所にいること、私はたった今初めて知りました」
「……はい」かつての私のペットが、身体を自分の耳のようにしおれさせて頷く。
「そのことの是非はこの際捨て置くとして。一体あの時なぜ急に月の都を離れたというのですか? ひょっとして私になにか落ち度があったのですか?」
「あ、いえ、まあ、そんなことはありません」
歯切れ悪く返すレイセンのそんな言葉に、お姉様が口添えをなさった。
「この子もこの子なりの事情があるのよ。あの都から、自分のことを誰も知らないこの地上へ逃げ出すだけの理由が」
月の地から穢れのある地上へ逃げるのですもの。それはそうでしょうけれども。私は納得がいかない。
私は記憶を探る。この子は本当に突然に、何の前触もなく消え去ってしまったものだから、私やこの子の友人はたいそう驚き、また悲しんだものだった。
私は当時の月での騒ぎを思い出し、言った。
「それにしても、あなた。急に逃げ出してしまうんだのもの。私は本当に驚きました。たしか、あの少し前に、あなたはどなたかの子供を身籠もっていた筈。そういった身体なだけになおさら心配しました。その後、貴方の子供はどうしたのですか? 地上で元気にしていますか?」
そういったら、何故かレイセンは固まってしまった。
「いやその」
「依姫は人の急所を無自覚に突き刺すのがうまいわね」お姉様は、扇子で口を隠してはいたが、その扇子は不自然に震えていた。
「どういう事です?」
「こうなっては、あなたと八意様にも本当のことを言う潮時かしらね」
「あら? 地上人との戦争がどうとかいうのは違ったのかしら?」
首を傾げた八意様に、お姉様がさらりとお答えになった。
「ええ。それは私が上役へ公式に報告した内容ですわ。当時、いい具合に表の月に人間がいらしたものですから」
「お願いします! 止めてください! いやほんとマジで勘弁してくださいよう……」
土下座するレイセンの哀願虚しく、お姉様は真実を告げられ始めた。
「月にいた頃のこの子は、本当に初心な、私の事を何でも素直に、熱心に良く聞く可愛い子でした。ある日、彼女に用事を言いつけた折、首尾良く仕事を終わらせたレイセンに、私が褒美というか悪戯を行ったのです。そうしたら、レイセン、『私、豊姫様の子供が出来ちゃうんですか?』と大層慌てていて」
私達がこれを聞いている間、レイセンはこの世の終わりといった顔をしていた。
「その狼狽ぶりが可愛らしくていじらしくて、私は少し彼女をからかいたくなりまして。『そうね、人の形をした者なら十月十日で生まれるから、生まれたら名前を一緒に考えましょうね』って言いましたの」
レイセンの瞳から光の輝きが消えた。
「そのすぐ後に地上人が表の月でなにやらしていたので、私と依姫、二人だけで二月ほど出かけていまして、その時はこの子に会いだせなかったのです。そうして私達が月の都市へ帰還しましたら、この子のお腹、既に大きくなった後でして」
つまり、どういうこと?
お姉様は、なんでもないことのようにさらりと口走った。
「兎も想像妊娠するの、私はあの時始めて知りました」
レイセンは肩の力が完全に抜けて、おまけに口から白い霊のような何かを吐いている。
「この子ったら。うれしそうに、兎の仲間に話をしていまして。さすがに私との子だとは言わなかった様ですけど、それがかえって玉兎達の興味を引いてしまったみたいで、あの時の玉兎のうわさ話の話題は『レイセンのお相手は誰?』一色でしたの」
お姉様。私、いろんな事が初耳です。
「それでですね。私の知らない間に、レイセンに良い人が出来たのかとも思って、本人にそれとなく聞いてみたのですけれど、どう聞いてみても彼女のお相手は私の様でした。そうなれば、私があの子にしたことだけでは子供など産むことは出来ないのは確実。その後、私から真実を聞いて、いたたまれなくなったこのレイセンは、私の薦めもあって、地上の、八意様の住んでおられるであろう所へ逃げるように移住したのです」
「本当なの?」そういって、泣いているレイセンの頭を撫でる八意様は、はたして身体が震えていた。
が、断じて、同情や嗚咽の時のような身の震え方ではなかったことを確かに記憶にとどめておく。
「うううう。……はい」滝のような涙を流しながら、レイセンはそう答えた。
結局はお姉様のせいじゃない!
「レイセン。私の姉が本当に住まないことをしました。御免なさい。ほら、お姉様も謝る!」
「いいんです」
気丈なレイセンは涙を拭いてそう答える。
私は地に頭を擦りつけた。ついでにお姉様のそれもそうさせた。
「そんな! 依姫様、頭を上げてください」
レイセンが私の頭を引っ張り上げる。
「私は今の地上の暮らしが気に入っています。師匠の所でお薬の修行をすることが生き甲斐ですし、てゐとか……出会って本当に良かったと思えるかけがえのない地上の兎達もいます」
「でも」
「それにですね」
レイセンは、優しく私の頬を持ち上げ、私の頭を上げさせた。
「逃げるとき、豊姫様のほっぺ、思いっきりひっぱたいてやりましたから」
そう左右に身振り手振りをするレイセンは、可憐な笑顔だった。
「ところで、依姫。豊姫の事なんだけれど、そろそろ頭押さえつけるの止めてあげて。そろそろ呼吸困難で死んでしまうわよ」
ああそうだった。私はお姉様に土下座させるために腕で頭を無理矢理押さえつけたんだった。と、いうか、お姉様の顔が半分ほど畳にめり込んでいることに、私はその時ようやく気がついたのだった。
それにしても。
話を総合してみると、お姉様は八意様の居場所を、レイセンが家出するときにすでに知ってらしたということだ。
「それにしてもお姉様は水臭い。レイセンの真相もですけど、なんでいままで私に八意さまの居場所すらおっしゃってくれなかったのですか」
「だって、あなた。嘘つくの下手じゃない。あなたが月の世界でそういう秘密を守り続けられるとは到底思えないし」
「たしかに」
「そうですね」
普通に頷く八意様とレイセン。普通に傷つく。
翌日、私達姉妹はいまだ永遠亭にいた。
本当は昨日のうちに月に帰るつもりだったのだが。
以前からの長い習慣のごとく、私は抵抗を感じずに朝の食卓についた。
月での食事は、基本的にはお姉様と二人だけなので、こういった、みなでちゃぶ台を囲んでで食事をする風景は私にとっては新鮮であった。
隣に居るレイセンのまねをしながら食事を始める。
生卵をとき、しょうゆをさし、箸でよくかき混ぜてから、茶碗いっぱいのご飯にそれを注ぎ込む。
しょうゆの香りとご飯の湯気の二重奏は、私の食欲を無理なく引き出すことに成功していた。
ところで。
お姉さまがまだ食卓についていない。
昨日私が寝る前に、お姉様がうきうきとした様子でレイセンの寝室へ向かっていったことを思い出す。
「レイセン、お姉様は?」
「まだお眠りのようです」
「珍しいわね」
お姉様は別に寝坊助ではないはずなのだけれど。こんなにおいしいお料理があるというのにまだ寝ていらしているとは、ちょっと信じがたい。
「月からはまあ長旅でしたし、疲れているんじゃないでしょうか?」
そのとき、レイセンの隣に座っていた地上兎が、大げさそうにため息をついた。
「昨日はお楽しみでしたからね」
「うっ」
なぜか言葉を詰まらせて顔を赤くするレイセン。
「でも鈴仙、いくら久しぶりだからってさあ……。おかげで私は寝不足だよ」
「あはは、そんなにうるさかったかな?」
「なので、てゐさんはご飯食べたらちょっと寝ます。鈴仙、お師匠様の手伝い、代わりにやっといてね」
地上のウサギはそういって、ご飯を食べ終えたらさっさと自室へといってしまった。
レイセンは今日も何か別の仕事があるらしく、私が八意様のお手伝いをする、ということで。
私はてっきり、八意様と二人っきりの濃密かつ濃厚な仕事を想像していたのだが、現実は残念ながら違った。
永遠亭には、地上のさまざまなところから、八意様の術を求め、病人やそれに近いものが毎日のように来訪する。
いくら超人的な八意様といえども、万能ではあっても完全ではない。
そのような人が複数来た場合、どちらかをしばらく待たせることもそれなりにあるのだそうだ。
私は、あの地上の兎の代理として、それらのものを応接間とされたかつての客間に案内する仕事を、今日一日だけ行うことになった。
この役割には、患者が万が一、応接間で待っている間に容態が急変した場合、仕事場にいらっしゃる八意様にお知らせするという役割も含まれている。
当然そのようなことはめったに起こらないため、特別何かを行うことも無く。
この日、私は日中のあいだ、基本的には来訪客の話し相手をするような仕事をしていたのだった。
「今日はたぶんこれで終わりかな。夜とかの急患は別としたら」
案内人を名乗る白髪の少女が、今日、人里からつれてきた最後の老人を背負い、夕日の中の竹林をゆっくりと歩み去っていった。
私はやかんに入った麦茶を淹れ、飲む。
ごみごみとはしていなかったが、とぎれることが無かった客足が途切れた。
よかった。いまさらながらに思う。
八意様は、このような地上でも慕われているようだった。
月からの異邦人であり、不死の肉体でもある八意様。
それが、ごく普通に人間や妖怪の居る社会に混じって健やかに生きていらっしゃった。
私は、その事実にいまさらながら強い新鮮味を感じた。
地上の定命の人間はすべて、不死の八意様を妬んで迫害しているものとばかり思っていた。
それが、どうやら私の勘違いであったことに気づく。
地上の民の中には、自分の死を悲愴感も無く平然と話題にする者までいたことに、月の民である私は意外なほど衝撃を受けた。
「先生、あっしは後どれくらいのもちそうなんですかい?」
「五郎さん、前にも言ったとおり、あなたの症状は老化からくるもので重大な疾病ではないんですから。今のあなたは、幻想郷の人間の平均寿命より十五年ほど年をとっているんですよ」
「そうだっけ? まあいいや。でも、そろそろ墓の準備をしねえとなあ」
「五郎さんは外界から来た人だから先祖代々の墓が無いんでしたっけ。やはり命蓮寺に?」
「いんや。あすこは確かに安いが、住職が美人過ぎるのがいけねえ。かあちゃんが嫉妬すらあ。妖怪の山んとこは遠いし。いつもの感じで、霊夢ちゃんとこなら、なんとかかあちゃんに言い訳も立つし、やっぱりあすこにしようかなあ」
つい、二時間ほど前に戯れに交わされた、八意様と老人の話だ。
その人間の老人にとって、死は私が感じているほど重い存在ではないようだった。あるいは、月の民にとっての死の存在感が重過ぎるのか。
どうやら、私は地上に対するものの見方を少しばかり修正したほうがいいのかもしれない。
そう、思ってみたり。
そのとき、玄関に二つ、飛来するものがあった。
「まだやってるかい?」
その姿は、意外なことに私の見知ったお姿であった。
「八坂様。こちらにいらしたんですか?」
「おや、依姫。奇遇だねえ。ああそうか、永琳の前身を考えると、ここには遊びに来たのかい?」
八坂神奈子様。以前、月にて何度かお力をお借りしたことがある。
そのとき拝見した姿より、神奈子様はいくらか力を増して健康そうに見えた。
「ええ、まあ。そんなところです」
「八坂様のお知り合いですか?」
神奈子様の連れが言った。
「そうだ、紹介するよ。この子は綿月依姫。神々の力をその身におろして使うことができるんだ」
「あっ、霊夢さんとかに聞いた、月のアレなひとですね!」
アレな?
まあ、その緑の髪の少女は東風谷早苗という神奈子さまに従っている者らしい。
「どうも。以前、神奈子様のお力にはお世話になったことがあります」
「私も八坂様の神力をこの身に宿すことができますよ」
そういって、早苗は私に意味深に近づき、上目遣いにからんできた。
「ライバルですね!」
なぜか得意げだった。
そして、
「そうですか……ふうん」
そういって、まるで姑のように見回す。
「一体なんだとういうのですか?」
「巫女としての力は霊夢さんより上と聞きましたが……その様子だと、その、一部は霊夢さんよりもさらに御神徳に乏しいようですね」
そういって、わざとらしく自分お胸を張る。このやろう。
「そうだ。いっそのことあなたも守矢神社専属になりませんか? いまなら清く正しい乙女の神、八坂様の御神徳で、あなたのそれが神奈子様みたいな大きさになれますよ!」
「それまでだ、早苗。てか、神徳はそういうもんじゃないし」
「えー。嘘も方便ってゆーじゃないですかー」
「方便て。それ、仏教じゃん」
神奈子様はちょっと泣きそうだった。
そのとき、仕事に一息ついたらしき八意様が、客間にやってきた。
「あら、二人とも。いつもの軟膏?」
「ああ。切れちゃってね。次に兎がウチにくるまでにはまだ少し時間が空きそうだしな」
「そうなの。ずいぶんと減りが早いのね」
「まだこっちにはなれないからな」
八意様は、考え事をするように腕を組み、首をかしげた。そのまま来訪者二人の目を、探るように、深く、交互に見る。
「ねえ、この軟膏使ってるの、本当に神奈子なの? 早苗なんじゃなくて?」
「どうしてそう思うんだい?」
「だって、あまりにも薬の消費量が多すぎるもの。神奈子用に調剤した薬を早苗とかが使ってるならともかく。神奈子と早苗では調合する割合がことなるから」
「そうか。実はな永琳、本当は早苗なんだ」
「やっぱり」
そういって、八意様はにっこりとまさしく女神そのものの笑顔を浮かべた。
「今度からそういうのは正直に言ってね。神奈子用に調剤した軟膏だからあまり効き目がなかったのね。でも、あなたのこの症状――」
「わー! わー!」なぜか早苗が必死に八意様の話をさえぎろうとするも、
「――ぎっくり腰は、最近は若い人にだって結構あるから」
早苗は相当恥ずかしかったのか、顔をほのかに紅く染めていた。
「そうか。痛みの引きが遅いのは薬が良くなかったためか。良かったな早苗!」
神奈子様が気を利かせたつもりなのか、精一杯拍手をしている。
パチパチとたった一人で鳴らされるそれは、むなしく当たりに響き渡くだけだった。だが、それも、当の早苗に睨みつけられて、徐々にペースを落とし、やがて完全にやむ。
「ちなみに人間用のぎっくり腰の薬は、座薬ね。はい、これ」
「え?」
早苗の時間が止まった。
手渡されたそれは、確かに大きく、太かった。飲み薬の大きさでは、決してなかった。
「気にするな、早苗。私は早苗を見捨てないぞというか、なんだ、その。なんというか、座薬もなれれば快感になるらしいというか、座薬のはいった早苗、私はとても魅力的だと思うぞ!」
「八坂様のばかー! 諏訪子様にいいつけてやるー!」
そういって、緑の巫女は、わあわあ泣きながら、あっという間に逃げていってしまった。
「ああ、今日は夕飯抜きだろうなあ。なあ、永琳、『ソノフザケタゲンジツヲブチコワース』とかないかね」
「ないわ」
まさに一刀両断でした。
翌朝、今度こそ、今日帰るつもりの私達綿月姉妹であった。
「今日も今日とて真剣勝負よ!」
中庭に、一昨日と全く同じように、元気のよいチルノがいた。どこから来るのか、自信にあふれる、胸を張って仁王立ちをしている。
「勝負は別にいいですけれど、本当に真剣勝負をするのですか? あなたが、その、私と?」
困った。手加減したら、たぶんこの妖精は怒るだろう。にしたって、真剣勝負をしても、この前のようにこの子を泣かせて、私は八意様とお姉様の前でのあの拷問のような心地なんか、もう味わいたくない。
「あなたが、一切攻撃に該当する行動を行わなければいいんじゃない?」私の心を見透かしたかのように、八意様は私におっしゃった。
「どういうことです?」
八意様は私に対して直接答えず、チルノに対しても言った。
「チルノ、こういうのはどう? あなたはスペルカードを宣言して、弾幕を張る。依姫、あなたはそれに対して反撃をすることなく、攻撃がやむまでひたすら体術を駆使して回避するの。で、弾幕があたったらチルノの勝ち。当てられなかったら依姫の勝ち」
「耐久スペルってやつね! いいわ。あたいはやったことはないけど原理はしってる。まあ、いいわ。今日はそういう感じで遊んであげるわ!」
「八意様、それは、一体……?」
「ま、あなたもやってみればわかるわ」
一昨日の日と同じく、チルノは中庭で私に正対した。
自信満々に、何かを宣言するかのように手を振り上げる。
「じゃあいくよ!」
そういって、チルノは自分を中心に四方八方あらゆる方向、凶器の指向性など考えずに、滅茶苦茶な量の光弾を放ってきた。
チルノが放ったこの光弾幕は、力強く優雅ではあったが、ただひたすらに儚かった。神の力でかき消そうと思えば、私は一歩も動くことなく、全ての弾幕を処理することができただろう。
しかし、それをするよりも、八意様のおっしゃるとおり、私はこの身を動かす事にしてみた。
改めて前方を見やる。
無数に近い玉の数ではあるが、その実、私の方向へ向かってきている弾は、全体の五分の一にも満たない。
なるほど。
私は一つ一つの玉を見ながらも、同時にその場全体を眺めるように観察した。
大きめに左右に歩みを進め、弾をひとつひとつではなく、塊ごとにはっきりと体の立ち居地を変えた。
そのたびに、右へ、左へと光の提灯の群れが私の周囲の空気に凶暴にじゃれ付いては、去っていった。
チルノは、
「まだまだ、これからよ!」
私をを囲む円の動きで、私自身とは距離を保ちつつ、光弾の勢いを保ちつつも、ほかに氷の散弾を新たに放つ。
氷の滝、という名の、氷の打ち上げ花火。
私を中央目標に、扇状に拡散しながら飛翔する氷の弾幕は、光弾よりはやや遅かった。
耐久スペルとやらに詳しくない私でも、落ち着きさえすれば、十分安全によけられると私は見た。
だが。
「……?」
この時、まるで私の心の中を読んだように、
「今よ!」そう、チルノが叫んだ。
「きゃっ!」
瞬間、扇状に拡散していたはずのそれは、中空で一瞬すべてが停止したと思うと、すべての気配がスピードを上げ、私の身体めがけて横列を整え、それぞれが一直線に襲い掛かる。
一瞬の判断。
左右に逃げ場は?
ない。
ならば。
三秒前進、コンマ五秒待機。その後、二秒前進。
僅かにあいた間隙に。
半ば無理矢理、体をねじりこませるように。
私の体を圧迫するかのように、氷の圧力が、かつて私のいた場所めがけて私の後方で収束殺到する。
目の前の景色が、右に左に。飛びかかる玉ごと揺れ動く。
一見単純な弾幕も、チルノなりに複層的に作ってるようで、立体的になっていることに、私は動いてから始めて気がついた。
綺麗だ。
単純に、そう思った。
かき消すのではなく、我が身を弾と弾の間に器用に滑り込ませることで、飛びかかってくる危害を背後にいなす。
ただそれだけなのに、私は、身体が妙にうれしく、純粋に無邪気に血が滾るのを感じていた。
たぶん、子供が、生まれて初めて自分の力だけで立ち上がれた時、こんな興奮の仕方をするんだろうな。
やだ、ちょっとたのしい。
緑、赤、白。そして限りなく透明に近い青。
色とりどりに工夫したマイナス温度の綺麗な景色。一つでもふれれば、か弱い普通のな人間であれば、直ちに致命傷になりうるであろう本来ならば凶器の奔流の中にいて、私はこのとき確かに魅了されていたのだった。
しばらくの時が立ったのだろう。既に時間の感覚を失っていた私は、ふと、自分の感覚が宙に浮いていることに気がついた。確かに自分の両目で見ているはずなのに、どういう訳か、自分の背後から景色を鳥瞰しているような妙な異世界感。
その時、私の右腕に僅かな痛みが走った。
「あ! あたった! あたいの弾あたった!」
向かい合っているチルノがジャンプして喜んでいる。
チルノのその両手からは、氷の枝が、まるで御神渡りのように伸びていて、もう一方の先はといえば、それはそれは見事に、私の前腕に食いついていたのだった。
また、わずかに左頬からも、そこはかとない痛みを感じる。
触れてみた人足し指に、ほんのり紅が付いていた。
「私、擦った?」
「うん。あたった!」
私のつぶやきに、無邪気に答えるチルノ。
「負けちゃった?……か」
「でも、あたいの弾幕にあそこまでたえられるなんて、よっちゃんもすっげーな。なかなかやるな!」
ビシッと、親指を立てて見せてくれる。
私を褒めているはずなのに、なぜだか自信たっぷりに胸をはるチルノをみて、思わず吹き出してしまった。
「あなたの攻撃はとても綺麗ね、チルノ」
私は彼女に近づこうとしたが、どういうわけか足が動かない。
見れば、私の足先と腕の先が、黒い異質な空間に挟まれ、飲み込まれていた。
「これは!」
間違いない、八雲の妖怪の仕業だ。
そう思うまもなく、私の目の前の空間に怪しげな裂け目がうまれ、そこから八雲紫本人が不遜にもに出現した。
「あらまあ、情けない格好です事」
「これはあたいとよっちゃんの一対一の真剣勝負なの! たとえあたいのさいきょー友達のゆかりだって邪魔はゆるさないわ!」
チルノのそんな憤りも、この妖怪は意に介さない。
だがしかし、
「この程度の妖怪の力など、神の力をこの身におろしさえすれば、破ることなどたやすいわ」
私は術を打ち破るべく、即座に心の中で神々に向かい呼びかけを始めた。
でも、どういうわけか、このときばかりはどの神も私の呼びかけに答えない。
「何故?」
思わずそんなことを言ってしまった私の背中に、お姉様が冷徹な言葉を発せられた。
「御免なさい依姫。本当なら私もこんな事したくなかったのだけど……今だけ、貴方と神々のつながりを断ち切らせてもらったわ」
空間の裂け目が移動する力によって、私は大股開きのような屈辱的な格好で仰向けにさせられつつある。
「どういう事ですか、お姉様。まさか、脅されて……?」
この八雲の妖怪は、お姉様に一体どのような卑劣な脅しをかけてきたというの?
「だって、協力すれば、貴方のうれし恥ずかし画像を分けてくれるっていうんだもの。ならば、この場は綿月の姉として、最大限美しく、五体投地をしてでも脅迫に屈するのが最善の策」
いやそのりくつはおかしい。
このようなやり取りをしている間にも、私の体内には、八雲のスキマから何か邪悪な妖力が侵食し、私の血管のなかを縦横無尽に駆け巡りつつあった。
八雲の妖怪が、異空間から上半身を突き出した格好で、私を愉快そうに見下ろす。
「そうなのよ。今回は月の都なんか関係ないんですわ。頼みの姉はあっという間に裏切り、貴方が敬愛する八意永琳はぶっちゃけ呆れて無関心だから完全中立! 今の貴方は完全に孤立無援ってわけ! いまこそ、貴方が普段バカにしている地上の、とりわけ外界の技術の粋をつくした、この、でじかめとかいう物で貴方の痴態を思う存分撮り尽くしてやりますわ!」
妖怪は得意満面に、手に持った面妖な金属の箱を操作した。
「体が、言うことをきかない? お願い、動いて!」
嫌だというのに、私の体内に流れる不浄の力はそれを無視した。
私は、近くに置かれていた大きなダンボールの上にまな板の上のうなぎのように貼り付けにされて、完全に不自然かつ非常に屈辱的な体勢をとることを強いられていた。まるで、ピンで打ち付けられた蛙か何かの標本だ。
「外界じゃ、こういうのがはやってるんですってよ。たしか、だぼーぴーすとかいうの。あら、依姫様ったら案外お似合いですことよ。将来はその方向でお仕事なさったらいかがかしら?」
「ふざけたことを!」
「それではポチッとな。……あれ、これちゃんと撮れたのかしら? なにのぴっぴぴっぴいう音は……? なんか音の間隔短くなってる? まさか壊しちゃった? やだこまる! 借り物なのにー!」
あわてた様子で箱を弄繰り回しているところで。
パシャッ。
珍妙なタイミングで箱が光った。
「あらまあ。私がとれてる」
がっかりしたのかほっとしたのかよく分からないその妖怪が改めて向き直ったとき、チルノが動いた。
「れーむにいいつけるよ!」
八雲の妖怪は一瞬あっけにとられたようだった。
そうして面妖に微笑み、
「まあ、興がそがれたからもういいわ。この子に免じて、私が写真を撮るのは勘弁してあげるわ。感謝しなさい」
そういって、私を縛っていた束縛と共に、あっという間に姿を消してしまった。
「あ、そうそう。ばーかばーか。あんたのかーちゃんでーべーそー。ところで、明日の文々。新聞が楽しみねー藍? あら、藍、らーん? どこいったのー?」
そんな台詞を虚空に響かせて、今度こそ彼女の気配が完全に消える。
私は、勝ったのだろうか?
今回もあの妖怪を退けることが出来たのだから、分類上はたぶん勝利の範疇に入るに違いない。
が、この全身に駆け巡る敗北感は一体何だというのでしょう?
せめてものこと、お姉様には恨み言の一つでも言おうかと思って向き直ったが、お姉様の姿は既に消え去ってしまった後だった。
『思うところがあるので、一寸ゆかりんのうちにミーティングしに行ってくるわね☆』という書き置きをのこして。というか、ゆかりんって誰?
脱力感。
思わず四つん這いになってしまった私を、冷たい手が支える。
顔を上げると、やはりチルノだった。
と、唇に不意に柔らかく冷たい感覚が走る。
それが唇と唇の接触だと気がつくまでに結構時間がかかった。
というか、接吻だった。いわゆるキスである。
「突然なにをするのですか!」
思わず払いのけた私にかまわず、チルノは笑顔で迫ってくる。
「大ちゃんがね、こうやるのが一番だって、あたいが元気でてないときにやってくれるの!」
でも、女性同士でだなんて。
私だって、そういうことに別に偏見があるわけじゃないというか私だって本当は八意様とやりたいけど今までなぜかきっかけがつかめなくてそんなことした覚えが無いというのに。いや、今はそういうことじゃない。
「そういうのは相手の同意を得てからやりなさい。嫌がる人もいるでしょうに」
「え、よっちゃんあたいとするの嫌だった?」
とたんに落ち込む。
「え、いや、ええとそこまで嫌って訳じゃなく」
「じゃよかったんだ。元気出たみたいだし、よかった!」
そう屈託無くわらうチルノに向かって、私はこれ以上怒る気にはなれなかったのだった。
ちなみにこのやりとりをやらしい目つきで見ていた旧レイセンには、塩のでる石臼を腰に紐でくくりつけてマラソン二周させたのだった。まる。
まあ、結果的に元気が出て立ち直ったのは事実なのだ。私は、まあいいか、という、月の使者としては大変に非常識的な態度を取ることとした。
次の日の朝、配達された新聞の一面に、いつの間にかとられていた私の恥ずかしい写真がドアップに掲載されて幻想郷を滅ぼしたくなったのだが、チルノに免じて、旧レイセンに新聞社の粛清を命じることで勘弁してやることにもした。
そんなこんなで。
楽しい時間の月日は早く過ぎ去るよく言ったもの。
あっという間に月に帰らねばならない状況の日が来てしまった。
月に代理として残してきた現役の方のレイセンが、大泣きで「もお無理です」と毎日通信してきたことも今となっては懐かしい思い出となりつつある。服装だけ似せてお姉様の振りをさせ、上司との定例会議に参加させるのも、ひと月以上もったのだから、レイセンはまあそれなりに。彼女は仕事の義務を果たしたといえなくもない。
お元気な八意様に会えて本当に良かった。
それに、期せずして地上の面白い側面を楽しめた気もするのだ。
穢れという点では穢れているのだろうが。
私は何となく、以前から無意識に背負っていた背中の荷物が軽くなったように感じ始めていた。
お姉様の力を使って月に帰る。
道中はこんなにも簡単に行き来できるというのに。実際は、なかなか気軽に行くことができない。
そういうことが、いまさらながら、あまりにももどかしく思えてくる。
「またいけると良いわね。依姫」
お姉様の、月の我が家に帰っての最初の声がこれだったが、私は余裕を持って答えることが出来た。
「そうですね。そのためにも溜まりきった仕事を支障無く片付けなければ」
「依姫は本当にまじめね。私はさっそく八意さまに、お土産に頂いた天界の桃を頂くとするわ。こちらの桃とどちらが美味しいかしら?」
そういって、お姉様は背中に背負った、自分の身長程もある竹の籠にをおろし、中に山と積まれたお土産の桃を一つ一つ物色し始めた。
「でも、これだけの桃、例えお姉様でも悪くしてしまう前に食べきるのは難しいのではないですか?」
この桃で、月のお酒を造ってみるのもいいかもしれない。私はそう思った。
「大丈夫よ。ほら、保冷剤も一緒に連れてきたし」
そうやって、籠の中からズボッと抜き出したそれは、明らかに人の形をしたなにかだった。
「うーん……むにゃ……ふぁああ、よくねたぁ……あれ、よっちゃん? ここはどこぉ……?」
「何やってるんですかおねえさまあぁぁ?!」
~
「姫様、お茶です」
「ありがとうイナバ」
「所で、綿月のお二方がいらしてたとき、姫様はどちらにいらしたのですか?」
「なにいってるの。ちゃんとウチにいたわよ。スネークごっこしてたけど」
「?」
「おかげで、コラ素材を沢山撮影出来たし。ふふ、ブン屋に売れた依姫画像のお金、何に使おうかしら」
「その分来月のお小遣いから引いときますね、姫様」
「えーりんのけちー」
「ひっぐ……う゛ぇぇぇっ……びえええええ゛っ……」
私の目の前では、水色の服を着た地上の妖精が地団駄を踏んで泣き叫んでいた。
おまけに、ちょうど私の右横にある、永遠亭の縁側では、お姉様と八意様が冷たい目で私を観察している。
「さすがに大人げないというか……ねえ」
「そうですねぇ。妖精一匹にそこまでの力を使役するなんて……」
この妖精は、自分の服が半分焼け落ちて、右胸の恥ずかしい部分、おおよそ梅干しといわれる所がばっちり露出しているのにもかかわらず、全身全力で悔しさを表現していた。
彼女の周りの地面も、草木一片残らず黒こげている。
そこからうっすらと立ち上る煙を、下から上に順繰りに見上げ、私は心の中で呟いた。
いたたまれない。
なぜ、私がこんな針のむしろに座る気持ちを味わわなくてはいけないのだろうか?
どうしてこんな事に?
地上から、吸血鬼やら紅白巫女やらが押し寄せてきた事変の後、月での私達姉妹の役割を、最大限拡大解釈して地上の八意様にお会いしたときは、このようなことになるとは夢にも思わなかった。
永遠亭という御屋敷でお会いすることが出来た八意様は相も変わらずお美しく、お体も健康そうだった。
私達の突然の来訪に、驚いて多少引きつった顔をしながらも微笑みながら歓迎してくださった際には、私達姉妹、感極まって泣きながら八意様に二人して抱きついてしまった。
そのときの八意様の身体の、月に住む物とは違った、少し泥臭くてそれでもほのかに安らぐ暖かなにおいを私は一生忘れないだろう。
と、いうか、今でもその記憶を引き出すだけで思わず顔がゆるむのが分かる。
八意様のてっぺんからつま先まで見回して、身長、体重、髪型から眉毛の形、私と不意にお会いした時のほのかにしっとりとした冷や汗のかきかたまで、どこにもお変わりのないことを目で確認したのち、つもる話を私はお姉様と競い合いながら話したのだった。
そうこうしているうちに、当初の予定では日帰りする筈が、八意様の住まわれる永遠亭に、ずるずると日を越えて滞在してしまった翌朝、この妖精が勇んでやってきたのだ。
「たのもー!」
その妖精は、なにも考えていないかのように脳天気に、永遠亭の中庭に降り立ったのだった。
あろう事か、私達姉妹が楽しく八意様とおしゃべりしている最中に。
許されない事に、あの妖怪、八雲紫の紹介だと言って。
「あたいのさいきょー仲間の紫を負かした、月のなんたらがいるって聞いて、わざわざ真のさいきょーのあたいが駆けつけてやったわ!」
その時、丁度、姉様と八意様は中庭に通じる縁側でおしゃべりしていて。
私はといえば、八意様のお美しい御髪を背中から梳いて差し上げていたのだが。
その妖精が発するひんやりとした空気の波が、私と、なにより八意様の顔を汚したのが、わたしにはどういうわけか、何より気になった。
「あら、涼しいわね」
幻想郷はまだまだ残暑が厳しいせいか、八意様は何事も無かったかのようにそうおっしゃったが。
私はこの時、八意様と私達姉妹のだけの、三人の空間に現れた侵入者が、何より許せなくなっていたのだ。
「どなたですか。騒々しい」私は言った。
「あ。あんたね? 見慣れないその姿。げんそーきょーの外に住むあんたが、紫や霊夢をぎったんぎたんのけっちょんけちょんにしたって、紫に聞いたわ。でも、残念でした! げんそーきょーで本当に最強なのはあたいなの。だから、あんたがげんそーきょーを見くびらないように、わざわざあたいが来てやったってわけ!」
「私も姉様も、あの妖怪より強いわ。それに、どう見ても貴方は八雲のあの妖怪より弱いでしょうに」
「なにいってんの? 紫はさいきょーだけど、あたいはもっとさいきょーよ。紫もそういってたもん」
最初は、私もそのような言葉を鼻で笑ったものだった。
「嘘おっしゃい。どう見ても妖精の貴方より八雲の妖怪が強いわ」
そういった私の言葉を、あろう事か八意様が翻したのだった。
八意様は微笑みながら、
「あら、この子の言っていることはあながち嘘じゃないわ。ある意味では、この子は間違いなく最強ね。紫よりも強いわ。ひょっとしたら、私の力も危ういかもしれない」
「そうなのですか? お言葉ですが、とても信じられません」
「そうはいってもねえ。実際この前、この子は紫に三回くらい勝ってたし」
八意様がそうおっしゃるのなら、この妖精には、私などには理解できない強大な力があるのだろう。
私はそう結論づけた。
「どうなの? あたいとやりわないの? それとも、そんな勇気はないってわけ?」妖精が言う。
「いいでしょう。私が相手をしましょう」私は応えた。
私は相手を睨み付けながら縁側を降り、突っかけで中庭に降り立った。
結局、この妖精が、この前三回くらい勝ってた時に、八雲の妖怪に五千回程負けていた事を知るのはずいぶんと後になる。
「さあ、どこからでもかかってきなさい!」そういった妖精は、自分の周りにある空気を凍らせ始めた。
だが。
私は攻撃を躊躇した。
このときに気づくべきだったかもしれない。
八意様のお言葉の真意を。
どこからどう見ても、この妖精は隙だらけなのだ。
はっきり言って、月にやってきたあの紅白巫女の方がよほど強敵に見えるくらいに。
さて、どうするか。
どう攻撃しよう?
打かかる? 切り結ぶ? 撃ち放つ?
可能に思える行動の選択肢が多すぎる、というのも私を悩ませた。
私の目には弱そうに見えているこの姿。
事実として、八雲の妖怪と、何より八意様が認めている。
その点は忘れてはならない。
おそらく、八意様と比べてまだまだ未熟な私などには思いも付かない道の力を隠し持って居るのだろう。
ならば。
戦において、大いに正統的な道をとろう。
実力の不明な相手には、これが一番。
自分の持つ最大限の技をたたき込む。
「では、いきます」そういって、私は目を閉じた。
いつもしてきたように、神の力をこの身に宿す。
今回の力は、天照大御神。
自分の物ではない力が、体中に溢れ、精神が燃え始めることを感じて、私は只一度、技を放った。
「日輪の力をお借りして、今、必殺の――」
さあ、見せてみなさい。
あなたの隠された力を。
八意様に認められたという、その格を!
……
……
……
と、言うのが今までの流れでした。
私の一撃であっけなく沈んだ妖精は、今では、すでに着替えを済ませ、今は八意様とお姉様に挟まれた位置でちゃぶ台の前に座り、永遠亭のおやつの梨をほおばっています。
「あなた、チルノっていうの。へー。ねえ、あなたのこと、ちーちゃんってよんでもいい?」お姉様がにこやかに言った。
「別にいいよ。あたいに免じて許してあげる。ところで、あんたの名前はなんて言うの?」
右手には梨を剥く八意様。左手には、楊子で、切り剥かれた梨を口元まで運んでやっているお姉様。
チルノと名乗った妖精は、その接待に大層ご満悦のようだった。
当然よ。
むしろ、そんな夢のような状況で鼻血を噴出しないこの妖精が信じられないわ。
「私は綿月豊姫。あちらは、妹の依姫」
「すげー。女なのに、とーちゃんだ! で、あんたはよっちゃんね。おーけー。あたい、覚えた!」
「ちょっと」
待ちなさい。なぜ貴方なんかに愛称で呼ばれなくちゃいけないの?
そう、私が口に出しかけたところで八意様が言った。
「あら、あなたたちはうらやましいわね。私なんか、『えーりん』って、そのまんまでしか呼んでもらえないのに」
「だって、えーりんはえーりんじゃん。それでいいのよ!」
チルノは偉そうにふんぞり返っている。
「ところで、依姫。いつまでそこに突っ立ってるの? 貴方もこっちに来て一緒に座ったら?」
未だ縁側に立って、なかなか会話に入りづらい私を、畏れ多くも八意様は気遣ってくださった。
が。
「八意様、この妖精ですが、何故、私とそっくりな衣装を着てるのですか?」
私が着ている服を、サイズをそのまま小さくしただけで、本当にそっくりなのだ。
「だって、これ。貴方の小さい頃のお古だもの」
平然とおっしゃる八意様。
「え?」
「ここに居着くとき、本当は月の物を全て捨てる予定だったのだけれど、あなたたちの小さかった頃にね。私が、仕立てた服。こういうのは、どうしても捨てられなくて」
私が見たところ、その服は裾が少し綻びてはいたが、どう見ても、千年以上歳を経た様な古さを感じさせなかった。
八意様。そんなにまで私達のことを思ってくださったんですね。
思わず涙が溢れそうになる。
ですが。
「なぜ、そういう物を、ここで、この妖精に着せるんですか?!」
「ほら、依姫。この妖精なんていわない。ちゃんと、『チルノ』って紹介してもらったでしょう?」
八意様が少し困った顔で言った。
ああ、この顔は。
私達が子供の頃、粗相をしてしまったときに叱る顔だ。
八意様が、この、八意のお母様の顔になって仕舞われたら、もう私達姉妹がどんなに言い訳しても意味がない。
「ならば、なぜ、私の古着をチルノに?」
「うーん。古着だって、箪笥の肥やしになるよりは誰かに着てもらった方が良いでしょ? それに、チルノに着てもらった方が、元の持ち主である貴方も喜ぶと思って」
「ううう、分かりました」
そんな。
八意様にそういわれたら。
納得するしかないじゃないですか!
私がちゃぶ台の席に入ろうとしたとき、チルノが言った。
「ねえ、あたいは梨をたんのうしたし、今度はあたいがあんた達をもてなしてあげる。あんたたちのたべる梨をほんの少しだけ凍らせてあげるよ。加減が難しいんだけど、大丈夫、あたいにまかせて!」
「あら、じゃあお願いしようかしら」
包丁をもった八意様は、それはそれは他意のない笑顔をチルノにむける。
うらやましい。
「でも、ちゃぶ台のざるには、梨はもうないわ」お姉様が言った。
「あ、これですか?」
私は、部屋の隅にぽつんと一つだけ置かれた茶色の見た目が柔そうな箱に手を伸ばす。
そのとたん、
「違うわ。こっちよ」
八意様は私に鋭くそうおっしゃられて、八意様の丁度後ろにあった木箱から、おがくずまみれの梨を数個取り出して見せた。
「えーりん、よっちゃん手を伸ばした箱って、一体できてるの? ひょっとして紙?」
「そうよ、チルノ。あれはね、段ボールっていう外界の箱よ。時々紫に頼んで、外界の物を調達して貰ってるのよ。この段ボールにつめて貰って、ね」
八意様の口から、信じられない人物の名が飛び出る。
「八意さま! 八意様はあの八雲の妖怪と縁があるのですか? あの、月の敵と。一体なぜなのですか?!」
「そんな些細なこと、地上では気にしないものよ」
平然とおっしゃる。
「そうよ依姫、地上に居る限りは、私達も地上の流儀に従いましょ」お姉様の言葉に、八意様の口ぶりはますます朗らかになった。
「ほら、あなたもそんなところに突っ立ってないで早くこっちにいらっしゃい」
「え、ああ、まあ。……はい」
ううう、気まずい。
「ま、気にするな、よっちゃん。な!」
チルノはひたすら上機嫌だ。
なぜ?
どうして、私がこんな立場に?
私は気を取り直してちゃぶ台の一員となった。
隣には、笑顔になられた八意様。
この梨は地球でとれた物だと言うけれど、八意様が剥いてくださったんですもの。
穢れなどはとっくに吹き飛ばされてしまったでしょう。そういうことにする。
私は遠慮無く梨を口に運ぶと、とたんに、ほどよく冷たい感触が前歯に伝わった。
しゃり。
なるほど、おいしいわ。
この妖精が自慢するとおり、果物が本来持つ甘さを最も挽きだたせるような、そんな冷たさを私のかみしめた梨は保っていた。
それは姉様も同じ感想を持ったようで、
「あら、美味しい」と、食べている最中に右手で口を覆って感嘆の声を上げていた。
「永遠亭では、普段は井戸水とかで冷やすのだけど。チルノが冷やす、というのもなかなか乙なものね」
「そうなのですか。ならば、月の桃も、こうして冷やして食べると美味しいのかしら?」
姉様が首をひねっている。
「桃? 桃もね、冷やすと美味しいよ。梨よりかは冷やさない方が美味しいけど。なあ、とーちゃん。月では、なんか美味しい物ってあるの?」
チルノはちゃぶ台の上に両手をのせ、上半身を乗り出して姉様に向かっていた。
そよ、と冷たく静かな風の流れが、周りに起こる。
「いいえ、残念ながら。まともな食べ物と言えば桃くらいしかないわ」
「ちぇっ。つまんないとこね、月ってのは。じゃあ、月の桃と天界の桃はどっちがおいしいのかしらん」
ぶーたれたと思ったら、次の瞬間にはとっても面白そうな顔つきをする。
このチルノという妖精はつくづく忙しそうな奴ね。
だけど、とてつもなく幸せそうな奴だ。
同時にそう思った。
そんなこんなで、いろいろと堪能したチルノが、自分の居場所に帰ったころにはお昼時となってしまっていた。
「あなたたちもお昼まだでしょ? 一緒にしましょ。今日のお昼ご飯は鈴仙の当番なの」
「いえ、ですが……」いくら八意様の薦めとはいえ、私は未だ月の民。さすがにこの提案に安易に頷き返す訳にはいかなかった。
「あなたの言うとおり、地上のご飯は穢れているかも知れないけど、いいじゃない、そんなのを気にする者は月にだって貴方たちくらいしかいないわよ。そんなことよりそういって、あなた、昨日の夕飯も今日の朝ごはんも食べなかったじゃない。そうやって体を酷使させるほうが私は心配よ。ね、私達と一緒に食べましょうよ」
八意様に、腕を組んで心配そうに言われると、さすがの私達でも、月での私のやり方を曲げざるを得なかった。
「はい。ではご馳走になります」
「そう、よろしい」
八意様がにっこりとおっしゃると同時に、不覚にも私の腹の虫が鳴いた。
「口ではそういっても、体は正直なのね」
「お姉様、茶化すのは止めてください」
そういいつつも、お姉様も私と同じく二食抜いてるにもかかわらず、おなかを鳴らすようなはしたない真似をしないあたり、やはりというかなんというか、肝要なところはしっかりとしているような。
「と思ったでしょ? 私、朝食はしっかりいただいたから。八意様の手料理」
「えっ」
「あなたの分もおいしくいただいたわ」
「えっ」
八意様と一緒にちゃぶ台を囲むなんて、初めての経験だった。
大きく外部に開け放たれた和の部屋ならでは。さわやかな風が私達の間を通り道となって歩んでいた。
「今日のお昼はうどんです」
そういって、かつてのレイセンがしずしずと、ざるうどんを涼しげな摺りガラスの椀に山盛りして来た。
山と盛られたうどんに、なんと茹で上げられた豚肉が混ざっている。
なんでも、永遠亭では、夏場にこのうどん料理を食べるそうで、その調理法は以下の通りとのこと。
豚スライスを大なべの湯でしっかりと茹で上げ、その後、うどん玉を放り込むのだ。
そうして、うどん玉が開くか開かないか、といったところでうどんを豚肉ごとざるに掬い、さっと湯切りだけを。そして最後に、カイワレ大根を少しのせる。
これに、生醤油のみをかけ、いただく、とのこと。
「豚肉でカイワレと一緒にまきつけて一緒に食べるのがおいしいのよね」
八意様は、まだほのかに湯気がのぼっているそれを平然と口に運び、いかにも美味しそうに租借している。
「ねえ、うどんげ。タレが何かいつもと違うようだけど」
「おととい診察にきた斉藤さん、いえ、患者さんにすだちを頂いたので、果汁を少し」
そういった会話を交わしつつも、二人は私達を見つめている。
観念した私は、うどんをつまみ上げ、一息に口にへと運び込んだ。
意外なことに、豚肉の脂でヌメリを増したうどんの食感は、私の舌にはむしろ快感ですらあった。
しっかりとしたうどんのコシと相まって、消して不快ではないヌメリが喉をテカテカと這いずり回り、胃にストンと落ちる感覚を楽しむことが出来た。
また、豚肉と生醤油がお互いの風味を倍増させるように競い合い、そこに、カイワレのシャキシャキとした食感が二つの味覚を加速させる。
そして、確かに八意様のいうとおり、ほんのわずかに全体的に、風味を損ねない程度に、果物の酸味が舌のうえを踊っていた。
穢れているか否かで問えば、確実に穢れきっているこの料理はしかし、
「――おいしい!……」
残念ながら、今の私は、この感想しか持つことが出来なかった。
身体全体がいつの間にか火照っていて、顔から汗が噴き出し始めてきたとき、
「どうぞ」
と、ガラスのコップに並々とつがれた麦茶が、完璧なタイミングで差し出された。
「ありがとう、頂くわ」
私は躊躇なく、一気に麦茶を飲み下した。喉を、冷たい快感が走り抜けていく。
コップを置いたとき、中の氷が、
からん、と、透明な音を奏でた。
「ごちそうさま」
普段は腹八分目を心がけているものの、このときばかりはおなかいっぱい食べてしまった。
罪ではないのに、少しだけ罪悪感が私の脳裏をよぎる。
「お粗末さまでした。お口に合いましたようでなによりです」
そう、地上へ逃げていったかつてのレイセンが応じた。
「おいしかったわ。って」
いやいやいや。
「その前に、なんであなたがここにいるんですか? レイセン!」
一応再度慎重に確認したが。以前に比べて身体的に成長はしていたが、彼女は、どこからどう見ても、あの、月から逃げ出して行方がわからなくなったはずのレイセンだった。
驚愕に近い感情を持った私と比べ、隣に居るお姉様はレイセンの態度と同じように実に平然としていた。
「あ、そういえば依姫にはまだ言ってなかったわね、レイセンが永遠亭で生活してるってこと。ねえレイセン、麦茶下さる?」
「はいどうぞ、豊姫様」
「言わなかったっけ?」とは八意様の談。
「初耳ですよ!」
「鈴仙、昨日のあいだに会ってなかったの?」
「あ、昨日はちょっと夜通し人里のほうへ行ってましたから。豊姫様には朝方お会いしましたけど」
「そういえば報告を聞いてなかったわね。近藤さんの具合、どう?」
「もうとっくに峠は越えました。血中濃度も安定してますし、後は通院治療で十分だと思います」
「そう」
八意様との会話を終え、食器を下げようとした月兎に私は毅然とした口調で命じた。
「ちょっとそこに座りなさい」
「え、はい」
「レイセン、貴方が八意様の所にいること、私はたった今初めて知りました」
「……はい」かつての私のペットが、身体を自分の耳のようにしおれさせて頷く。
「そのことの是非はこの際捨て置くとして。一体あの時なぜ急に月の都を離れたというのですか? ひょっとして私になにか落ち度があったのですか?」
「あ、いえ、まあ、そんなことはありません」
歯切れ悪く返すレイセンのそんな言葉に、お姉様が口添えをなさった。
「この子もこの子なりの事情があるのよ。あの都から、自分のことを誰も知らないこの地上へ逃げ出すだけの理由が」
月の地から穢れのある地上へ逃げるのですもの。それはそうでしょうけれども。私は納得がいかない。
私は記憶を探る。この子は本当に突然に、何の前触もなく消え去ってしまったものだから、私やこの子の友人はたいそう驚き、また悲しんだものだった。
私は当時の月での騒ぎを思い出し、言った。
「それにしても、あなた。急に逃げ出してしまうんだのもの。私は本当に驚きました。たしか、あの少し前に、あなたはどなたかの子供を身籠もっていた筈。そういった身体なだけになおさら心配しました。その後、貴方の子供はどうしたのですか? 地上で元気にしていますか?」
そういったら、何故かレイセンは固まってしまった。
「いやその」
「依姫は人の急所を無自覚に突き刺すのがうまいわね」お姉様は、扇子で口を隠してはいたが、その扇子は不自然に震えていた。
「どういう事です?」
「こうなっては、あなたと八意様にも本当のことを言う潮時かしらね」
「あら? 地上人との戦争がどうとかいうのは違ったのかしら?」
首を傾げた八意様に、お姉様がさらりとお答えになった。
「ええ。それは私が上役へ公式に報告した内容ですわ。当時、いい具合に表の月に人間がいらしたものですから」
「お願いします! 止めてください! いやほんとマジで勘弁してくださいよう……」
土下座するレイセンの哀願虚しく、お姉様は真実を告げられ始めた。
「月にいた頃のこの子は、本当に初心な、私の事を何でも素直に、熱心に良く聞く可愛い子でした。ある日、彼女に用事を言いつけた折、首尾良く仕事を終わらせたレイセンに、私が褒美というか悪戯を行ったのです。そうしたら、レイセン、『私、豊姫様の子供が出来ちゃうんですか?』と大層慌てていて」
私達がこれを聞いている間、レイセンはこの世の終わりといった顔をしていた。
「その狼狽ぶりが可愛らしくていじらしくて、私は少し彼女をからかいたくなりまして。『そうね、人の形をした者なら十月十日で生まれるから、生まれたら名前を一緒に考えましょうね』って言いましたの」
レイセンの瞳から光の輝きが消えた。
「そのすぐ後に地上人が表の月でなにやらしていたので、私と依姫、二人だけで二月ほど出かけていまして、その時はこの子に会いだせなかったのです。そうして私達が月の都市へ帰還しましたら、この子のお腹、既に大きくなった後でして」
つまり、どういうこと?
お姉様は、なんでもないことのようにさらりと口走った。
「兎も想像妊娠するの、私はあの時始めて知りました」
レイセンは肩の力が完全に抜けて、おまけに口から白い霊のような何かを吐いている。
「この子ったら。うれしそうに、兎の仲間に話をしていまして。さすがに私との子だとは言わなかった様ですけど、それがかえって玉兎達の興味を引いてしまったみたいで、あの時の玉兎のうわさ話の話題は『レイセンのお相手は誰?』一色でしたの」
お姉様。私、いろんな事が初耳です。
「それでですね。私の知らない間に、レイセンに良い人が出来たのかとも思って、本人にそれとなく聞いてみたのですけれど、どう聞いてみても彼女のお相手は私の様でした。そうなれば、私があの子にしたことだけでは子供など産むことは出来ないのは確実。その後、私から真実を聞いて、いたたまれなくなったこのレイセンは、私の薦めもあって、地上の、八意様の住んでおられるであろう所へ逃げるように移住したのです」
「本当なの?」そういって、泣いているレイセンの頭を撫でる八意様は、はたして身体が震えていた。
が、断じて、同情や嗚咽の時のような身の震え方ではなかったことを確かに記憶にとどめておく。
「うううう。……はい」滝のような涙を流しながら、レイセンはそう答えた。
結局はお姉様のせいじゃない!
「レイセン。私の姉が本当に住まないことをしました。御免なさい。ほら、お姉様も謝る!」
「いいんです」
気丈なレイセンは涙を拭いてそう答える。
私は地に頭を擦りつけた。ついでにお姉様のそれもそうさせた。
「そんな! 依姫様、頭を上げてください」
レイセンが私の頭を引っ張り上げる。
「私は今の地上の暮らしが気に入っています。師匠の所でお薬の修行をすることが生き甲斐ですし、てゐとか……出会って本当に良かったと思えるかけがえのない地上の兎達もいます」
「でも」
「それにですね」
レイセンは、優しく私の頬を持ち上げ、私の頭を上げさせた。
「逃げるとき、豊姫様のほっぺ、思いっきりひっぱたいてやりましたから」
そう左右に身振り手振りをするレイセンは、可憐な笑顔だった。
「ところで、依姫。豊姫の事なんだけれど、そろそろ頭押さえつけるの止めてあげて。そろそろ呼吸困難で死んでしまうわよ」
ああそうだった。私はお姉様に土下座させるために腕で頭を無理矢理押さえつけたんだった。と、いうか、お姉様の顔が半分ほど畳にめり込んでいることに、私はその時ようやく気がついたのだった。
それにしても。
話を総合してみると、お姉様は八意様の居場所を、レイセンが家出するときにすでに知ってらしたということだ。
「それにしてもお姉様は水臭い。レイセンの真相もですけど、なんでいままで私に八意さまの居場所すらおっしゃってくれなかったのですか」
「だって、あなた。嘘つくの下手じゃない。あなたが月の世界でそういう秘密を守り続けられるとは到底思えないし」
「たしかに」
「そうですね」
普通に頷く八意様とレイセン。普通に傷つく。
翌日、私達姉妹はいまだ永遠亭にいた。
本当は昨日のうちに月に帰るつもりだったのだが。
以前からの長い習慣のごとく、私は抵抗を感じずに朝の食卓についた。
月での食事は、基本的にはお姉様と二人だけなので、こういった、みなでちゃぶ台を囲んでで食事をする風景は私にとっては新鮮であった。
隣に居るレイセンのまねをしながら食事を始める。
生卵をとき、しょうゆをさし、箸でよくかき混ぜてから、茶碗いっぱいのご飯にそれを注ぎ込む。
しょうゆの香りとご飯の湯気の二重奏は、私の食欲を無理なく引き出すことに成功していた。
ところで。
お姉さまがまだ食卓についていない。
昨日私が寝る前に、お姉様がうきうきとした様子でレイセンの寝室へ向かっていったことを思い出す。
「レイセン、お姉様は?」
「まだお眠りのようです」
「珍しいわね」
お姉様は別に寝坊助ではないはずなのだけれど。こんなにおいしいお料理があるというのにまだ寝ていらしているとは、ちょっと信じがたい。
「月からはまあ長旅でしたし、疲れているんじゃないでしょうか?」
そのとき、レイセンの隣に座っていた地上兎が、大げさそうにため息をついた。
「昨日はお楽しみでしたからね」
「うっ」
なぜか言葉を詰まらせて顔を赤くするレイセン。
「でも鈴仙、いくら久しぶりだからってさあ……。おかげで私は寝不足だよ」
「あはは、そんなにうるさかったかな?」
「なので、てゐさんはご飯食べたらちょっと寝ます。鈴仙、お師匠様の手伝い、代わりにやっといてね」
地上のウサギはそういって、ご飯を食べ終えたらさっさと自室へといってしまった。
レイセンは今日も何か別の仕事があるらしく、私が八意様のお手伝いをする、ということで。
私はてっきり、八意様と二人っきりの濃密かつ濃厚な仕事を想像していたのだが、現実は残念ながら違った。
永遠亭には、地上のさまざまなところから、八意様の術を求め、病人やそれに近いものが毎日のように来訪する。
いくら超人的な八意様といえども、万能ではあっても完全ではない。
そのような人が複数来た場合、どちらかをしばらく待たせることもそれなりにあるのだそうだ。
私は、あの地上の兎の代理として、それらのものを応接間とされたかつての客間に案内する仕事を、今日一日だけ行うことになった。
この役割には、患者が万が一、応接間で待っている間に容態が急変した場合、仕事場にいらっしゃる八意様にお知らせするという役割も含まれている。
当然そのようなことはめったに起こらないため、特別何かを行うことも無く。
この日、私は日中のあいだ、基本的には来訪客の話し相手をするような仕事をしていたのだった。
「今日はたぶんこれで終わりかな。夜とかの急患は別としたら」
案内人を名乗る白髪の少女が、今日、人里からつれてきた最後の老人を背負い、夕日の中の竹林をゆっくりと歩み去っていった。
私はやかんに入った麦茶を淹れ、飲む。
ごみごみとはしていなかったが、とぎれることが無かった客足が途切れた。
よかった。いまさらながらに思う。
八意様は、このような地上でも慕われているようだった。
月からの異邦人であり、不死の肉体でもある八意様。
それが、ごく普通に人間や妖怪の居る社会に混じって健やかに生きていらっしゃった。
私は、その事実にいまさらながら強い新鮮味を感じた。
地上の定命の人間はすべて、不死の八意様を妬んで迫害しているものとばかり思っていた。
それが、どうやら私の勘違いであったことに気づく。
地上の民の中には、自分の死を悲愴感も無く平然と話題にする者までいたことに、月の民である私は意外なほど衝撃を受けた。
「先生、あっしは後どれくらいのもちそうなんですかい?」
「五郎さん、前にも言ったとおり、あなたの症状は老化からくるもので重大な疾病ではないんですから。今のあなたは、幻想郷の人間の平均寿命より十五年ほど年をとっているんですよ」
「そうだっけ? まあいいや。でも、そろそろ墓の準備をしねえとなあ」
「五郎さんは外界から来た人だから先祖代々の墓が無いんでしたっけ。やはり命蓮寺に?」
「いんや。あすこは確かに安いが、住職が美人過ぎるのがいけねえ。かあちゃんが嫉妬すらあ。妖怪の山んとこは遠いし。いつもの感じで、霊夢ちゃんとこなら、なんとかかあちゃんに言い訳も立つし、やっぱりあすこにしようかなあ」
つい、二時間ほど前に戯れに交わされた、八意様と老人の話だ。
その人間の老人にとって、死は私が感じているほど重い存在ではないようだった。あるいは、月の民にとっての死の存在感が重過ぎるのか。
どうやら、私は地上に対するものの見方を少しばかり修正したほうがいいのかもしれない。
そう、思ってみたり。
そのとき、玄関に二つ、飛来するものがあった。
「まだやってるかい?」
その姿は、意外なことに私の見知ったお姿であった。
「八坂様。こちらにいらしたんですか?」
「おや、依姫。奇遇だねえ。ああそうか、永琳の前身を考えると、ここには遊びに来たのかい?」
八坂神奈子様。以前、月にて何度かお力をお借りしたことがある。
そのとき拝見した姿より、神奈子様はいくらか力を増して健康そうに見えた。
「ええ、まあ。そんなところです」
「八坂様のお知り合いですか?」
神奈子様の連れが言った。
「そうだ、紹介するよ。この子は綿月依姫。神々の力をその身におろして使うことができるんだ」
「あっ、霊夢さんとかに聞いた、月のアレなひとですね!」
アレな?
まあ、その緑の髪の少女は東風谷早苗という神奈子さまに従っている者らしい。
「どうも。以前、神奈子様のお力にはお世話になったことがあります」
「私も八坂様の神力をこの身に宿すことができますよ」
そういって、早苗は私に意味深に近づき、上目遣いにからんできた。
「ライバルですね!」
なぜか得意げだった。
そして、
「そうですか……ふうん」
そういって、まるで姑のように見回す。
「一体なんだとういうのですか?」
「巫女としての力は霊夢さんより上と聞きましたが……その様子だと、その、一部は霊夢さんよりもさらに御神徳に乏しいようですね」
そういって、わざとらしく自分お胸を張る。このやろう。
「そうだ。いっそのことあなたも守矢神社専属になりませんか? いまなら清く正しい乙女の神、八坂様の御神徳で、あなたのそれが神奈子様みたいな大きさになれますよ!」
「それまでだ、早苗。てか、神徳はそういうもんじゃないし」
「えー。嘘も方便ってゆーじゃないですかー」
「方便て。それ、仏教じゃん」
神奈子様はちょっと泣きそうだった。
そのとき、仕事に一息ついたらしき八意様が、客間にやってきた。
「あら、二人とも。いつもの軟膏?」
「ああ。切れちゃってね。次に兎がウチにくるまでにはまだ少し時間が空きそうだしな」
「そうなの。ずいぶんと減りが早いのね」
「まだこっちにはなれないからな」
八意様は、考え事をするように腕を組み、首をかしげた。そのまま来訪者二人の目を、探るように、深く、交互に見る。
「ねえ、この軟膏使ってるの、本当に神奈子なの? 早苗なんじゃなくて?」
「どうしてそう思うんだい?」
「だって、あまりにも薬の消費量が多すぎるもの。神奈子用に調剤した薬を早苗とかが使ってるならともかく。神奈子と早苗では調合する割合がことなるから」
「そうか。実はな永琳、本当は早苗なんだ」
「やっぱり」
そういって、八意様はにっこりとまさしく女神そのものの笑顔を浮かべた。
「今度からそういうのは正直に言ってね。神奈子用に調剤した軟膏だからあまり効き目がなかったのね。でも、あなたのこの症状――」
「わー! わー!」なぜか早苗が必死に八意様の話をさえぎろうとするも、
「――ぎっくり腰は、最近は若い人にだって結構あるから」
早苗は相当恥ずかしかったのか、顔をほのかに紅く染めていた。
「そうか。痛みの引きが遅いのは薬が良くなかったためか。良かったな早苗!」
神奈子様が気を利かせたつもりなのか、精一杯拍手をしている。
パチパチとたった一人で鳴らされるそれは、むなしく当たりに響き渡くだけだった。だが、それも、当の早苗に睨みつけられて、徐々にペースを落とし、やがて完全にやむ。
「ちなみに人間用のぎっくり腰の薬は、座薬ね。はい、これ」
「え?」
早苗の時間が止まった。
手渡されたそれは、確かに大きく、太かった。飲み薬の大きさでは、決してなかった。
「気にするな、早苗。私は早苗を見捨てないぞというか、なんだ、その。なんというか、座薬もなれれば快感になるらしいというか、座薬のはいった早苗、私はとても魅力的だと思うぞ!」
「八坂様のばかー! 諏訪子様にいいつけてやるー!」
そういって、緑の巫女は、わあわあ泣きながら、あっという間に逃げていってしまった。
「ああ、今日は夕飯抜きだろうなあ。なあ、永琳、『ソノフザケタゲンジツヲブチコワース』とかないかね」
「ないわ」
まさに一刀両断でした。
翌朝、今度こそ、今日帰るつもりの私達綿月姉妹であった。
「今日も今日とて真剣勝負よ!」
中庭に、一昨日と全く同じように、元気のよいチルノがいた。どこから来るのか、自信にあふれる、胸を張って仁王立ちをしている。
「勝負は別にいいですけれど、本当に真剣勝負をするのですか? あなたが、その、私と?」
困った。手加減したら、たぶんこの妖精は怒るだろう。にしたって、真剣勝負をしても、この前のようにこの子を泣かせて、私は八意様とお姉様の前でのあの拷問のような心地なんか、もう味わいたくない。
「あなたが、一切攻撃に該当する行動を行わなければいいんじゃない?」私の心を見透かしたかのように、八意様は私におっしゃった。
「どういうことです?」
八意様は私に対して直接答えず、チルノに対しても言った。
「チルノ、こういうのはどう? あなたはスペルカードを宣言して、弾幕を張る。依姫、あなたはそれに対して反撃をすることなく、攻撃がやむまでひたすら体術を駆使して回避するの。で、弾幕があたったらチルノの勝ち。当てられなかったら依姫の勝ち」
「耐久スペルってやつね! いいわ。あたいはやったことはないけど原理はしってる。まあ、いいわ。今日はそういう感じで遊んであげるわ!」
「八意様、それは、一体……?」
「ま、あなたもやってみればわかるわ」
一昨日の日と同じく、チルノは中庭で私に正対した。
自信満々に、何かを宣言するかのように手を振り上げる。
「じゃあいくよ!」
そういって、チルノは自分を中心に四方八方あらゆる方向、凶器の指向性など考えずに、滅茶苦茶な量の光弾を放ってきた。
チルノが放ったこの光弾幕は、力強く優雅ではあったが、ただひたすらに儚かった。神の力でかき消そうと思えば、私は一歩も動くことなく、全ての弾幕を処理することができただろう。
しかし、それをするよりも、八意様のおっしゃるとおり、私はこの身を動かす事にしてみた。
改めて前方を見やる。
無数に近い玉の数ではあるが、その実、私の方向へ向かってきている弾は、全体の五分の一にも満たない。
なるほど。
私は一つ一つの玉を見ながらも、同時にその場全体を眺めるように観察した。
大きめに左右に歩みを進め、弾をひとつひとつではなく、塊ごとにはっきりと体の立ち居地を変えた。
そのたびに、右へ、左へと光の提灯の群れが私の周囲の空気に凶暴にじゃれ付いては、去っていった。
チルノは、
「まだまだ、これからよ!」
私をを囲む円の動きで、私自身とは距離を保ちつつ、光弾の勢いを保ちつつも、ほかに氷の散弾を新たに放つ。
氷の滝、という名の、氷の打ち上げ花火。
私を中央目標に、扇状に拡散しながら飛翔する氷の弾幕は、光弾よりはやや遅かった。
耐久スペルとやらに詳しくない私でも、落ち着きさえすれば、十分安全によけられると私は見た。
だが。
「……?」
この時、まるで私の心の中を読んだように、
「今よ!」そう、チルノが叫んだ。
「きゃっ!」
瞬間、扇状に拡散していたはずのそれは、中空で一瞬すべてが停止したと思うと、すべての気配がスピードを上げ、私の身体めがけて横列を整え、それぞれが一直線に襲い掛かる。
一瞬の判断。
左右に逃げ場は?
ない。
ならば。
三秒前進、コンマ五秒待機。その後、二秒前進。
僅かにあいた間隙に。
半ば無理矢理、体をねじりこませるように。
私の体を圧迫するかのように、氷の圧力が、かつて私のいた場所めがけて私の後方で収束殺到する。
目の前の景色が、右に左に。飛びかかる玉ごと揺れ動く。
一見単純な弾幕も、チルノなりに複層的に作ってるようで、立体的になっていることに、私は動いてから始めて気がついた。
綺麗だ。
単純に、そう思った。
かき消すのではなく、我が身を弾と弾の間に器用に滑り込ませることで、飛びかかってくる危害を背後にいなす。
ただそれだけなのに、私は、身体が妙にうれしく、純粋に無邪気に血が滾るのを感じていた。
たぶん、子供が、生まれて初めて自分の力だけで立ち上がれた時、こんな興奮の仕方をするんだろうな。
やだ、ちょっとたのしい。
緑、赤、白。そして限りなく透明に近い青。
色とりどりに工夫したマイナス温度の綺麗な景色。一つでもふれれば、か弱い普通のな人間であれば、直ちに致命傷になりうるであろう本来ならば凶器の奔流の中にいて、私はこのとき確かに魅了されていたのだった。
しばらくの時が立ったのだろう。既に時間の感覚を失っていた私は、ふと、自分の感覚が宙に浮いていることに気がついた。確かに自分の両目で見ているはずなのに、どういう訳か、自分の背後から景色を鳥瞰しているような妙な異世界感。
その時、私の右腕に僅かな痛みが走った。
「あ! あたった! あたいの弾あたった!」
向かい合っているチルノがジャンプして喜んでいる。
チルノのその両手からは、氷の枝が、まるで御神渡りのように伸びていて、もう一方の先はといえば、それはそれは見事に、私の前腕に食いついていたのだった。
また、わずかに左頬からも、そこはかとない痛みを感じる。
触れてみた人足し指に、ほんのり紅が付いていた。
「私、擦った?」
「うん。あたった!」
私のつぶやきに、無邪気に答えるチルノ。
「負けちゃった?……か」
「でも、あたいの弾幕にあそこまでたえられるなんて、よっちゃんもすっげーな。なかなかやるな!」
ビシッと、親指を立てて見せてくれる。
私を褒めているはずなのに、なぜだか自信たっぷりに胸をはるチルノをみて、思わず吹き出してしまった。
「あなたの攻撃はとても綺麗ね、チルノ」
私は彼女に近づこうとしたが、どういうわけか足が動かない。
見れば、私の足先と腕の先が、黒い異質な空間に挟まれ、飲み込まれていた。
「これは!」
間違いない、八雲の妖怪の仕業だ。
そう思うまもなく、私の目の前の空間に怪しげな裂け目がうまれ、そこから八雲紫本人が不遜にもに出現した。
「あらまあ、情けない格好です事」
「これはあたいとよっちゃんの一対一の真剣勝負なの! たとえあたいのさいきょー友達のゆかりだって邪魔はゆるさないわ!」
チルノのそんな憤りも、この妖怪は意に介さない。
だがしかし、
「この程度の妖怪の力など、神の力をこの身におろしさえすれば、破ることなどたやすいわ」
私は術を打ち破るべく、即座に心の中で神々に向かい呼びかけを始めた。
でも、どういうわけか、このときばかりはどの神も私の呼びかけに答えない。
「何故?」
思わずそんなことを言ってしまった私の背中に、お姉様が冷徹な言葉を発せられた。
「御免なさい依姫。本当なら私もこんな事したくなかったのだけど……今だけ、貴方と神々のつながりを断ち切らせてもらったわ」
空間の裂け目が移動する力によって、私は大股開きのような屈辱的な格好で仰向けにさせられつつある。
「どういう事ですか、お姉様。まさか、脅されて……?」
この八雲の妖怪は、お姉様に一体どのような卑劣な脅しをかけてきたというの?
「だって、協力すれば、貴方のうれし恥ずかし画像を分けてくれるっていうんだもの。ならば、この場は綿月の姉として、最大限美しく、五体投地をしてでも脅迫に屈するのが最善の策」
いやそのりくつはおかしい。
このようなやり取りをしている間にも、私の体内には、八雲のスキマから何か邪悪な妖力が侵食し、私の血管のなかを縦横無尽に駆け巡りつつあった。
八雲の妖怪が、異空間から上半身を突き出した格好で、私を愉快そうに見下ろす。
「そうなのよ。今回は月の都なんか関係ないんですわ。頼みの姉はあっという間に裏切り、貴方が敬愛する八意永琳はぶっちゃけ呆れて無関心だから完全中立! 今の貴方は完全に孤立無援ってわけ! いまこそ、貴方が普段バカにしている地上の、とりわけ外界の技術の粋をつくした、この、でじかめとかいう物で貴方の痴態を思う存分撮り尽くしてやりますわ!」
妖怪は得意満面に、手に持った面妖な金属の箱を操作した。
「体が、言うことをきかない? お願い、動いて!」
嫌だというのに、私の体内に流れる不浄の力はそれを無視した。
私は、近くに置かれていた大きなダンボールの上にまな板の上のうなぎのように貼り付けにされて、完全に不自然かつ非常に屈辱的な体勢をとることを強いられていた。まるで、ピンで打ち付けられた蛙か何かの標本だ。
「外界じゃ、こういうのがはやってるんですってよ。たしか、だぼーぴーすとかいうの。あら、依姫様ったら案外お似合いですことよ。将来はその方向でお仕事なさったらいかがかしら?」
「ふざけたことを!」
「それではポチッとな。……あれ、これちゃんと撮れたのかしら? なにのぴっぴぴっぴいう音は……? なんか音の間隔短くなってる? まさか壊しちゃった? やだこまる! 借り物なのにー!」
あわてた様子で箱を弄繰り回しているところで。
パシャッ。
珍妙なタイミングで箱が光った。
「あらまあ。私がとれてる」
がっかりしたのかほっとしたのかよく分からないその妖怪が改めて向き直ったとき、チルノが動いた。
「れーむにいいつけるよ!」
八雲の妖怪は一瞬あっけにとられたようだった。
そうして面妖に微笑み、
「まあ、興がそがれたからもういいわ。この子に免じて、私が写真を撮るのは勘弁してあげるわ。感謝しなさい」
そういって、私を縛っていた束縛と共に、あっという間に姿を消してしまった。
「あ、そうそう。ばーかばーか。あんたのかーちゃんでーべーそー。ところで、明日の文々。新聞が楽しみねー藍? あら、藍、らーん? どこいったのー?」
そんな台詞を虚空に響かせて、今度こそ彼女の気配が完全に消える。
私は、勝ったのだろうか?
今回もあの妖怪を退けることが出来たのだから、分類上はたぶん勝利の範疇に入るに違いない。
が、この全身に駆け巡る敗北感は一体何だというのでしょう?
せめてものこと、お姉様には恨み言の一つでも言おうかと思って向き直ったが、お姉様の姿は既に消え去ってしまった後だった。
『思うところがあるので、一寸ゆかりんのうちにミーティングしに行ってくるわね☆』という書き置きをのこして。というか、ゆかりんって誰?
脱力感。
思わず四つん這いになってしまった私を、冷たい手が支える。
顔を上げると、やはりチルノだった。
と、唇に不意に柔らかく冷たい感覚が走る。
それが唇と唇の接触だと気がつくまでに結構時間がかかった。
というか、接吻だった。いわゆるキスである。
「突然なにをするのですか!」
思わず払いのけた私にかまわず、チルノは笑顔で迫ってくる。
「大ちゃんがね、こうやるのが一番だって、あたいが元気でてないときにやってくれるの!」
でも、女性同士でだなんて。
私だって、そういうことに別に偏見があるわけじゃないというか私だって本当は八意様とやりたいけど今までなぜかきっかけがつかめなくてそんなことした覚えが無いというのに。いや、今はそういうことじゃない。
「そういうのは相手の同意を得てからやりなさい。嫌がる人もいるでしょうに」
「え、よっちゃんあたいとするの嫌だった?」
とたんに落ち込む。
「え、いや、ええとそこまで嫌って訳じゃなく」
「じゃよかったんだ。元気出たみたいだし、よかった!」
そう屈託無くわらうチルノに向かって、私はこれ以上怒る気にはなれなかったのだった。
ちなみにこのやりとりをやらしい目つきで見ていた旧レイセンには、塩のでる石臼を腰に紐でくくりつけてマラソン二周させたのだった。まる。
まあ、結果的に元気が出て立ち直ったのは事実なのだ。私は、まあいいか、という、月の使者としては大変に非常識的な態度を取ることとした。
次の日の朝、配達された新聞の一面に、いつの間にかとられていた私の恥ずかしい写真がドアップに掲載されて幻想郷を滅ぼしたくなったのだが、チルノに免じて、旧レイセンに新聞社の粛清を命じることで勘弁してやることにもした。
そんなこんなで。
楽しい時間の月日は早く過ぎ去るよく言ったもの。
あっという間に月に帰らねばならない状況の日が来てしまった。
月に代理として残してきた現役の方のレイセンが、大泣きで「もお無理です」と毎日通信してきたことも今となっては懐かしい思い出となりつつある。服装だけ似せてお姉様の振りをさせ、上司との定例会議に参加させるのも、ひと月以上もったのだから、レイセンはまあそれなりに。彼女は仕事の義務を果たしたといえなくもない。
お元気な八意様に会えて本当に良かった。
それに、期せずして地上の面白い側面を楽しめた気もするのだ。
穢れという点では穢れているのだろうが。
私は何となく、以前から無意識に背負っていた背中の荷物が軽くなったように感じ始めていた。
お姉様の力を使って月に帰る。
道中はこんなにも簡単に行き来できるというのに。実際は、なかなか気軽に行くことができない。
そういうことが、いまさらながら、あまりにももどかしく思えてくる。
「またいけると良いわね。依姫」
お姉様の、月の我が家に帰っての最初の声がこれだったが、私は余裕を持って答えることが出来た。
「そうですね。そのためにも溜まりきった仕事を支障無く片付けなければ」
「依姫は本当にまじめね。私はさっそく八意さまに、お土産に頂いた天界の桃を頂くとするわ。こちらの桃とどちらが美味しいかしら?」
そういって、お姉様は背中に背負った、自分の身長程もある竹の籠にをおろし、中に山と積まれたお土産の桃を一つ一つ物色し始めた。
「でも、これだけの桃、例えお姉様でも悪くしてしまう前に食べきるのは難しいのではないですか?」
この桃で、月のお酒を造ってみるのもいいかもしれない。私はそう思った。
「大丈夫よ。ほら、保冷剤も一緒に連れてきたし」
そうやって、籠の中からズボッと抜き出したそれは、明らかに人の形をしたなにかだった。
「うーん……むにゃ……ふぁああ、よくねたぁ……あれ、よっちゃん? ここはどこぉ……?」
「何やってるんですかおねえさまあぁぁ?!」
~
「姫様、お茶です」
「ありがとうイナバ」
「所で、綿月のお二方がいらしてたとき、姫様はどちらにいらしたのですか?」
「なにいってるの。ちゃんとウチにいたわよ。スネークごっこしてたけど」
「?」
「おかげで、コラ素材を沢山撮影出来たし。ふふ、ブン屋に売れた依姫画像のお金、何に使おうかしら」
「その分来月のお小遣いから引いときますね、姫様」
「えーりんのけちー」
もう少し短く、キャッチーにかけたらよいと思います
まさにタイトル。
そして後書きの大ちゃんこわいよww
そう思ったのは私だけではなかった
(幻●師範「お前に比べたらきもけーねの方がまだ強い」)