失礼な! 少ないんじゃなくて、悩みなんて無いわ!
――東方妖々夢:アリス・マーガトロイド
――東方妖々夢:アリス・マーガトロイド
きゅっと、シャワーのノズルを締める。頭上から降り注いでいた温かな雨が止む。金糸に垂れる滴を払ってから、アリス・マーガトロイドはバスルームを出た。
脱衣所は造りこそ簡素だが、よく掃除が行き届いているようだ。シミ一つ見受けられない。洗面台の横に据えられた脱衣籠にはバスローブとハンドタオルが入っていた。ローブをさっと羽織ると、魔法で吹かせた風を当てつつ、タオルで毛先を丁寧に拭う。足下のマットも含めて、アリスを囲んでいるのはどれもが彼女のハンドメイド。細やかな部分にまで神経を通わせた品々は、およそ一人の魔法遣いの手によるものには見えない。
タオルを頭に軽く巻き付け、アリスはベッドルームまで戻る。
「あやや、どこ行ったのかなーと思ったらシャワーでしたか」
こちら射命丸文はベッドの上にいた。真っ裸のまま、シーツの海でくるくる遊んでいる。寄せた眉根で一瞥くれてやってから、アリスはドレッサーに腰掛けた。
「あんたもたまには入ったら?」
髪の湿り気をもう一度タオルで拭ってから、アリスは化粧箱のクリームをとる。自前で精製した保湿薬だ。掌に落として、じっくり揉み込む。そして頬に染み込ませた。
「別にいいですよ。あれくらいじゃ天狗は汗かきませんし」
鏡の端には文がいる。依然として下着をつける様子もなく、うつ伏せのまま足をパタパタと。思わず溜息が漏れたアリス、鏡の文から顔のマッサージへ意識を戻す。周りを取り巻くのは無数の人形。主の体を拭き、節々にスキンオイルを塗り、髪を梳かしている。
文もようやく動き出す。ううんと軽く伸びをして、ベッドから跳ね下りる。健康的でみずみずしい肢体が鏡の中を飛び回っていた。締まるべきところはきちんと締まっているが、痩せぎすというわけでもない。肌もきめ細やかで、血色も良い。ろくに手入れもしていないのに、まあ綺麗なもんだとアリスは思う。
チェストの上に畳まれていた――畳んだのはアリスだが――服一式から下着を引っ張り出すと、文はせかせかと身につけ始めた。
「そういう問題じゃないの。うちの匂い体から撒き散らして取材なんかされちゃいい迷惑よ。浴びてきなさい」
「大丈夫じゃないですか? アリスさんいい匂いですから、誰も気にしませんって」
「私が気にするの」
文はブラジャーのフロントロックを留めていた。小ぶりな胸が、色気もへったくれもない布地にくるまれる。
一方のアリスといえば人形たちのされるがまま。差し出される衣服へオートマティックに袖を通していく様は、もはやどちらが操り人形なのか分からないほどで。
レース地の下着に、シルクのブラウス。ブーツと青のワンピースは魔力を織り込んだ特製の一品。どれも彼女が縫ったものだ。当のアリス本人は化粧をしていた。とはいってもごく軽く。目元を整え、ほんのわずか粉を叩き、唇に薄く紅を載せる。
「というかですね、わたくしなんかから致しますと、そんな仰々しくめかし込むアリスさんの方がよっぽどけったいに見えます」
「別にめかし込んじゃいないわ。これくらいは女として当然の嗜み。あんたが野暮ったいだけよ」
「と言い張る楽屋裏のレディーをズバっと激写」
服より先にカメラを掴んだ文、着替え途中のあられもない人形遣いをパチリと収める。盗み撮りでなく、ちゃんとフラッシュを焚いて。でもアリスは眉一つ動かさない。鏡の中でにんまりする文さえ見ずに、冷ややかに返した。
「どうでもいいけど、今の角度じゃ鏡の中にいたブン屋さんも一緒に写ってるんじゃない? 下着姿の」
「あや?」と再び同じアングルでファインダーを覗き込む。果たしてアリスの言葉通りだった。けれど文も決して動じない。さらりと笑い飛ばす。
「あややー レインボーショットボーナスだけで十分だったんですが、セルフショットボーナスまで付いちゃいましたね。まあ記事になる写真じゃないので問題ないでしょう」
カメラを一旦置いて、鼻歌交じりにシャツを取った。鼻歌の選曲は「風神少女」。あのセンスはどうにかならないものかと眉をひそめるアリス。立ち上がり、人形に腰布を巻かせる。違う一体はカチューシャの位置を整え、別の一体はケープを肩に被せ、もう一体はチョーカーを首に巻いている。手持ちぶさたのアリスはひょいひょいと文を手招きした。
「? なんですか?」
のこのこやってきた文の顔面めがけ消臭コロンをシュッと。「あやっ!」と間抜けな声が出た。してやったりの表情になったのはアリスだ。
「やっぱりあんた臭うわ。まだ足んないわね」
「勘弁してくださいよー。うひゃぁ」
手をかざして二噴き目をしのぐ文。やろうと思えば風を吹かせて消し飛ばせるのに、あえてしないのはゆとりを見せつける為か。アリスは少し苛っとした。
「ほら、座って」
だからきゃっきゃと騒ぐ文を無理矢理ドレッサーに座らせる。続けざまの攻め矢も、この天狗はあくまで余裕綽々のようで。
「おや、今度は何をぶっかけるおつもりですかアリスさん?」
「黙っておとなしくする。髪ぐしゃぐしゃじゃない。ちゃんと梳いてるの?」
駄々っ子みたいに落ち着きのない頭を押さえ込んで、櫛を当てる。本当に手入れをしてないんだろう、黒い毛があっちこっちへ跳ねながら絡まり合っている。なのに髪質はさらさら。一度櫛を通せばはらりと解ける。アリスは思わず吐息が漏れた。
一方の文はと言えば、柄でもなくしおらしい。鏡の前でされるがまま、ひどく居心地悪そうだ。5秒とてじっとしていられないのか、視線さえきょろきょろと定まらない。アリスはその度ごとに文の顔を両手で掴み、正面を向かせる。
「アリスさーん。まーだーでーすーかー」
「子供みたいなこと言わない」
鏡の文は不満たらたらに唇を尖らせている。見ればシャツも羽織っただけで前は全開。人形にボタンを留めさせる。こそばゆそうに体をよじる文。ベッドで攻めてた時よりずっとかわいい反応だ。
「はい、もういいわよ。ほら、さっきよりずっと素敵になった」
満足げな面持ちで、アリスは鏡に映る少女を文へ紹介する。確かに黒髪はいっそう艶を増したふうに見えた。「ほぅほぅ」と自分の髪を撫でる文へ、今度は人形がスカートを持ってくる。もちろん消臭コロンは噴き掛け済だ。
「さ、いつまでもそんな格好してないの。早く着なさい」
「あや、これはこれはすみません」
特にすまなそうでもない感じで文は受け取る。せかせかとスカートを穿く相手すら待ちたくなかったのか、その間もアリスは人形に文のネクタイを締めさせ、頭襟を被せ、終いには高下駄まで履かせようとする。もはやただの意地悪にしか見えないお節介に「やめてくださいよー」と抗弁するも、そのふざけた口調をアリスが聞き入れるわけもない。
「コーヒー飲むでしょ?」
ひと段落ついた寝室に、新たな人形の一団が入ってきた。トレイには湯気を上らせるコーヒー二人分に、砂糖とミルク。一分の隙もないもてなしだ。文も慣れているのか「よっ、待ってました」といい加減な相槌を打つだけ。コーヒーの薫りに落ち着くかと思えた部屋の空気も、この鴉天狗には関係ないらしかった。
「しかし今日はずいぶん急かしてません? いつもより」
「そんなことないわよ」
と即答したのはアリス。ドレッサーでコーヒーを嗜みながら、櫛に残った文の黒髪を取り除いている。
「そうかなあ。もしかして嫌われちゃいました?」
「元から好いちゃいないけど? まあシャワー浴びれば見直すかもね」
そして除けた毛をティッシュでくるんでゴミ箱に捨てた。聡い新聞記者はぱっと目を光らせる。
「ああ、なるほどなるほど。この後魔理沙さんが来るんですか。こりゃまた失礼いたしました。お邪魔する日時を間違えましたかね」
すかさず手帖とペンを取り出した文。カップを一旦ベッドに置いて、したり顔でメモを取り始める。一仕事終えたアリスはコーヒーを一口。
「だからさ、あいつとはそういうんじゃないんだって」
「ありゃそうでしたか。こいつはまたとんだ早合点を。それで挙式はいつ頃で?」
文は絶好調だ。ペンをくるくる回し、息吐くように軽口を叩く。アリスは平然としたもの。コーヒーをゆったりと味わい、薫りを楽しむついでといった感じで、まくし立てる天狗を受け流していく。
「いやはやしかし、アリスさんも罪な女ですよねえ。あんな可愛らしいカノジョさんがいらっしゃるのに、わたくしなんかとこんなことしてるなんて」
「恋愛と性交は別物でしょ。性交に魔力を高める効果があるのは広く知られたこと。まともな魔法遣いにとっちゃ修行みたいなもんよ。操を捧げる、なんて趣味も持ち合わせてないし」
「あやー 魔理沙さん泣いちゃいますよ、恋人が別の女にそんなこと言ってるなんて知ったら。というかそれなら魔理沙さんとエッチすればいいじゃないですか。魔法遣いが魔法少女にいろいろ教えてア・ゲ・ルとか……ふむピンク欄には使えるかな」
「あんたの新聞って官能小説載せなきゃいけなくなるまで落ちぶれたの?」
アリスはわざとらしい間を設けた。飲み止しのコーヒーカップを膝元に抱えしばしの沈黙。ようやく話に戻る。
「だからね、魔理沙とは一応そういう関係ではあるんだけど、でも違うのよ。あんたにも前説明したでしょうに」
「そんだけ仲がいいってことじゃないですか。押し倒しちゃえばいいんですよ。やっちゃえやっちゃえ」
そんなことを言いつつ、さらさらとペンを走らせる文。アリスは首をすくめるだけ。新聞記者も単にからかっているだけなのだろう。深く詰め寄る様子はない。メモを終えた文は、少し温くなったコーヒーをくいっと一気飲みする。
「はい、ごちそうさまでした」
満面の笑みでカップを人形に返す。この笑顔は果たして何パーセントくらいの営業スマイルで構成されているのか、アリスは未だ計りかねるところがあった。
ベッドからぴょんと跳ね上がり、漆黒の翼を広げる。せっかちなのはどちらかというと文の方だ。
「では、取材がありますので」
「はいはい、じゃあね」
追っぱらうようにアリスは手を振る。文はにっと笑って部屋を後にした。
*
「アリス、いるか?」
霧雨魔理沙はノックもせずに入って来る。アリスはうんざりしたように眉根を寄せながら、いつも通りの皮肉で"恋人"を出迎えた。
「あらごめんなさい。ドアノッカー、取れちゃってた?」
「そんなもんあったか?」
「……今度はもっと大きいのつけとくわ。ドアより大きいやつ」
アリスの二の矢は、魔理沙の注意を惹くものではなかったらしい。曲がりなりにも"付き合っている"という義理が咎めたのか、実際嫌みに威力は感じなかった。箒を下駄箱に立てかけると、客人は家主を置いてさっさとリビングへ駆けていく。人形を追わせる一方で、アリスは腕を組み目を閉じた。刹那の黙考を挟んで、ようやく今あるべき"アリス・マーガトロイド"を作り上げる。
「アリス、お前やっぱ飯食ってないんだな?」
魔理沙はキッチンにいた。人形が浴びせる制止も聞かず、せかせかと鍋やらオーブンを覗き込んでいる。リビングのテーブルには三角帽が乱雑に脱ぎ捨てられていた。ひっくり返った円錐形を上に向けてから、アリスはそれっぽい笑顔を拵えキッチンへ向かおうとする。が、そこで彼女は気付いた。キッチンの床に落ちていた黒い物体――鴉の羽に。
「魔理沙が来ると思ってたから。待ってたの」
「おっ、珍しくかわいいこと言ってくれるじゃないか」
にかっと笑いかける魔理沙。芝居臭さ満点の愛想を振りつつ、アリスは羽と魔理沙の間に立った。そして人形を使って先客の置き土産を回収する。あの狡猾な天狗のことだ。わざと落としていったんだろう。アリスに一杯食わせてやる為に。
「でもさ」魔理沙は気づいてないようだ。「この感じじゃ昼飯も食べてないんじゃないか?」
「ちょっとあってね、忙しかったの」
アリスは何食わぬ顔だ。それも当然か。こういうやり取りを見越してキッチンをピカピカに磨き、魔理沙が使う料理器具を予め用意し、腹まで空かせておいたのだから。魔理沙もふてぶてしさ全開の笑みを口端に浮かべた。
「そんなんだから青っちろいしかめっ面しかできないんだぜ」
「顔は生まれつきよ」
「だったら余計食って直さないとな。なんか食べたいもんあるか?」
腕をまくるしぐさをして、魔理沙は調理場に立つ。半袖のくせして何やってんだと心中で呟くアリス。
「キノコ以外」
「まかしとけ。美味いキノコ持ってきたんだ。ちょっと待ってろ」
アリスは何も返さずその言に従う。言っても無駄なことはよく知っていた。だったらおとなしくリビングで待ってた方がいい。徒労はアリスの趣味ではなかった。
他に羽が落ちていないか確認しつつ、テーブルで三角帽と一緒に待つ。ああ見えて料理は上手い。だから人形は一体しか付かせなかった。調理器具の場所が分からないと言われた時の為の保険だ。そんなことでいちいち呼び出されるのはご免だったし、厨房を好き勝手いじられるのも堪忍ならなかったから。
間を持たせるため帽子を手に取る。ひさしのところがほつれていた。また弾幕ごっこか――アリスもすっかり心得ている。人形に裁縫箱を持って来させると、待ち時間を使ってほつれを繕う。大した手間でもない。アリスの腕なら魔理沙が料理を仕上げるまでにフリルがもう一つ付く。
「お前何やってんだ?」
本当にフリルまで縫い直していたら、食事の支度もとうに済んでいたらしい。目の前には皿を持った押しかけ女房が立っていた。手元を覗き込んでくる魔理沙、アリスは身を逃がしながら三角帽を突き返す。
「愛しい旦那様のフリルが汚れてたから付け替えてたの。ちゃんと洗ってるのこれ?」
「そりゃサンキュだけどさ、帽子はこれっきりしかないんだよ。洗ったら外出れないじゃん」
「……あんたねぇ」思わず溜息が漏れる。「スペアぐらい用意しときなさい。なんなら今度作ってあげるわ」
そう言い終わる前に、人形が塗れ布巾を持って飛んできた。アリスは帽子が触れたテーブルと手を念入りに拭く。嫌みなまでの几帳面さに渋い顔をする魔理沙。だからといって、配膳の手が止まることはなかったが。
「ほれ、食おうぜ」
「また和食?」
「私はジャパニーズだかんな」
言葉通り運ばれてきたのは白米とキノコの味噌汁。他はキノコの炒め物とお浸しときて、干した魚と漬物は持参した物か。料理自体は悪い出来じゃないとアリスは見て取る。でもこの献立を洋食器に盛るセンスは正直いただけないと思った。
「いただきます」
「……じゃ、ご馳走になります」
一つ遅れてアリスも従う。魔理沙は"恋人"が口を付けるのも待たず、ぱっぱと食べ始めていた。食事は黙々と続く。相手の手料理をやたら誉めそやす声も、相手が自分の手料理に満足してくれているかとそわそわする様子もない。聞こえる物といえばナイフやフォークが食器と擦れる音くらい。カチャカチャと響く金属音は、また随分と味気ない。
アリスの皿はみるみるうちに空となっていった。別に食べるのが早いわけではない。お浸しと炒め物は一つの皿に纏めて盛られている。相手が箸をつけた皿に自分も箸をつけるのは、どうにも彼女の美意識が許さなかったのだ。魚と米だけ食べていたら、案の定魔理沙が愚痴を垂れてくる。
「お前どんだけキノコ嫌いなんだよ」
「だから最初から嫌だって言ってるじゃない。献立に気配りがないの」
「せめて味噌汁ぐらいは飲めよ。体に良くないぜ?」
母親みたいな小言を垂れる魔理沙に、アリスはめんどくさそうに従う。スプーンですくって一口。妙な感じだ。
「どうだ?」
「ちょっと香りが飛んじゃってるかな。お味噌入れてから火を通しすぎたんじゃない?」
「……そこはお世辞でも美味いと言うところだろ」
呆れる魔理沙。アリスは涼しい顔だ。先に食事を済ますと、自分の皿だけをさっさと人形に片づけさせる。本当にさっきまで食べ物が載っていたのかと思うほど、食べ滓一つないきれいな皿であった。
「ま、アリスらしいっちゃらしいけどな。次はもっと精進するよ」
最後の米粒をかっ込み、魔理沙はぴっと親指を立てた。アリスからは激励も拒絶も出てこない。空になった残りの皿を人形達に運ばせるだけ。
「今、お茶淹れるわね」
そんな言葉と一緒にアリスは立ち上がる。もっともキッチンへ向かったのは人形だったけれど。アリス本人の行き先は魔理沙のすぐ後ろ。別の人形が寝室から持ってきた櫛を受け取ると、目の前の金髪を一撫でする。髪をいじられる方も今さら何か言わない。今はアリスが付けた新品のフリルに興味津々らしい。背中越しでも零れそうな笑みは見て取れた。
こちらもひどい絡まりようだ。手入れの程はさておき、魔理沙の場合日々の生活がワイルドすぎる。それでも髪質としては惚れ惚れするくらいの金糸、そこだけ抜き出せばまごうことなき乙女の象徴と言っていい。隅にちょこんと結ばれた三つ編みを解いてから、きつめのウェーブがかかった量感ある髪を整えていく。文に比べれば櫛の通りは悪かったが、妖怪と人間を比べるのは無粋というものだろう。
「うん、いい感じね」
人形が紅茶を運んできたと同時に、髪のセッティングも終わる。魔理沙から特段感謝の言葉はない。あまりにありふれたことだからか、それともアリスの心持ちを知っているからか。
人形が注いでくれた紅茶を、魔理沙はストレートで啜る。アリスも最初の一口は同じ。でも香りを愛でた後は、耳かき3杯ほどの砂糖を足すのが彼女の飲み方だ。適度な糖分は脳の働きを活性化させる。全ての活動の基盤はブレインなのだから。
またしじまが下りた。アリスは当たり前のように人形作りを再開する。置いてけぼりの魔理沙もエプロンスカートから本を一冊取り出した。古めかしい装丁は、紛れもなく紅魔館の製本。今日の行き先はそこか――ちらと向かいを覗いたアリスは得心する。
「どう、実験の具合は?」白々しく尋ねるアリス。
「お前が今それを訊くかね?」魔理沙は本から目を上げる。「なあアリス、やっぱなんか違くないか?」
「何がよ?」アリスはそっけないままだ。
「私らってさ、どうもカップルっぽく無い気がするんだよなあ」
「そんなの知らないわよ。あんたが言い出したんだから。逆にどうしたらいいのかこっちがお伺いしたいくらいだわ」
ううむと唸る魔理沙。何も考えてなかったのかいなと眉間にしわを寄せるアリス。毒気の混じった凝視は、魔理沙が口を開くまで続いた。
「今日パチュリーにも相談してさ、一応叩き台は作ってみたんだよ。どうかな?」
と言って本の隙間から一片の紙を取り出す。アリスもこの時ばかりは神妙な面持ちで受け取った。さっと目を通す。予想以上によく出来ていると感心した。もちろん穴は幾らでもある。でも試みの斬新さを思えば軽々しく指摘する気にはなれない。それは魔法遣いとしての礼儀だ。
「と言われてもねぇ。私にだって想像つかないわよ。『恋心の結晶化』なんてさ」
結局アリスは首を捻るだけ。術式の書かれた紙をテーブルに滑らせる。それは魔理沙の前に置かれていたスペルカードに当たった――「恋符」に。
「私の直感はいけると叫んでるんだがなぁ。ほら、どこぞの小説家が言ってたろ、『恋は結晶作用である』って」
「だからそれを錬金術で実体化すると。発想自体はおもしろいと私も思う。賢者の石を持ち出すまでもなく、錬金術の本質とは即ち心性の物質化なわけだし」
「だろ? フロギストンなんざ目じゃないくらいの火力を得られるはずなんだよ。なんつっても心が放ち得る最大最強の動力源だもんな」
テーブルにさっきまでのぎこちない空気はない。むしろ熱さえあった。気付けばアリスも針仕事の手を止めている。向かい合う二つの面持ちは今や完全に魔法遣いのそれであった。
無論アリスは錬金術の専門家ではない。とはいえ魔理沙が知己を得ている魔法遣いに生粋の錬金術師はいないわけで、その意味でアリスやパチュリーを相談相手に選ぶことは間違ってはいない。それに彼女らを錬金術の素人と見なすのもまた適切でなかろう。
パチュリーが関心を抱いている「賢者の石」は本来錬金術の究極目標だし、白蓮の身体強化魔法は大陸の内丹法をルーツに持つという。丹の精製は云わば錬金術の東洋版。だから青娥を始めとした道教師も広い意味では錬金術師に含めてよいかもしれない。もちろんアリスとて錬金術と無縁ではない。自立人形の作成に当たって、不老不死をもたらす霊薬――やはりこれも「賢者の石」のバリエーションと言える――の錬成は重要な基礎研究の一つである。
つまるところ、錬金術を無視した魔術体系などありえず、然るにこの分野に興味を持たぬ魔法遣いなどいるはずがないのだ。
人形遣いは、一つ一つ言葉を拾い上げるように見解を述べる。
「着眼点は良いんだけど、やっぱり土台の部分が弱いのかなあ。心と金属との関連性を掘り下げ切れていない気がするの。愛情と憎悪の概念区分についても指摘がないし。もうちょっと基礎的な定義を固めてみたら?」
「そう思って今日も本を借りてきたんだ。ただやたら難しくてなこれ」
魔理沙は読んでいた本の表紙を見せつける。題名を見てアリスはかぶりを振った。
「魔理沙は上級書から入り過ぎなのよ。いつも言ってるでしょう。初歩から一つ一つ積み上げなさいって」
「そういうちんたらしたの好きじゃないんだがなぁ」
アリスは手早くペンを走らせ、メモを魔理沙の前へと滑らせる。そこには錬金術の基礎文献がいくつか列挙されていた。言葉と裏腹に魔理沙も大事そうにそれを胸元へしまう。
「あとね、まあこれはあくまで個人的意見だけど、もっと身体的性愛に目を向けても良いと思うのよ。あんたも前話してたでしょう、例の尼さんから似たような助言受けたって」
「ああ。身体と精神は合一したものだって言われてな。それでアーユルヴェーダの外典とかタントラ教の性戯の奥義書とか見せてはもらったよ。でもな、あれはやっぱり身体能力を高める技術なんだ。心の結晶化って精神を純化する作業だろ。だったら身体的性愛はこの際排除した方が良いんじゃないかな?」
アリスは「うぅん……」と唸る。確かに一理ある言い分だ。魔理沙も頭の奥から一個一個取り出すように続ける。
「それにさ、恋愛感情の錬成実験するんだったら一線超えちゃいけない、とも思うんだ。そっちの方が気持ちも高まるというか。繋がり合いたいけどできないっていうもどかしさ、これこそがエネルギー源なんじゃないか? だから下手に繋がっちゃったらエネルギーが発散しちゃう気がしてさ」
そこまで言い終え、半分ほど残っていた紅茶を一飲みする。アリスは虚空に視線を泳がせ、思案に耽るだけ。コツコツとテーブルを指で叩く音は、秒針が時を刻むリズムを彷彿とさせた。
「だから、この"恋人実験"もちょっと方向性を変えてみようかなって思うんだよ」魔理沙はずいと顔を寄せてくる。「飯作りに来るだけじゃなくてさ、こうなんつうんだろうな、もうちょっとアクティブというか、ときめき感がほしいというか。そうだ、デートとかどうだ? 弁当持って、山にハイキングとか」
「また突然話がせせこましくなったわね」アリスはおどけたふうに表情を崩す。「あの山はハイキング向きじゃない気がするけど」
「じゃあアリスの行きたいところでいいぜ?」
「特にないなあ、今さら」
「あのなあ……」と頬杖の上で嘆息されてもアリスは動じない。意識はもうほとんど人形作りに傾いていた。
「アリスはさ、外に興味がなさすぎなんだって。もうちょい他人様に関心持ったらどうだ?」
「別にいいじゃない。まめに外出はしてるし、人付き合いもちゃんとある。孤独ってわけじゃないわ」
「そういう問題じゃないんだ」魔理沙は下を向いたアリスをぴっと指差す。「どこ行ったって、誰といたって一人なんだよアリスは。見てると危なっかしくてしょうがない」
「ご生憎様、これでも毎日楽しく優雅に暮らしてるんですの。誰かさんみたいに忙しなく生きてないだけでね」
「屁理屈垂れる口は忙しないぜ。太鼓判を押すよ」
結局会話は普段の応酬に戻っていた。お小言など一顧だにせず針仕事を続けるアリス。それを見つめる魔理沙の顔は、不思議と生き生きしているふうにも見えて。
「まあいいさ。そうやってしれっとした顔してるアリスも嫌いじゃないしな」
「はいはい。私も愛してるわ、魔理沙」
「そりゃどうも」
空になったカップを片づける人形たちと会釈を交わし、魔理沙は椅子から立ち上がる。アリスは目の端だけでそれを追っていた。
「んじゃ、また来るぜ」
「せめてノックはしなさいよ」
「覚えてたらな」部屋を出る手前で、魔理沙は一度振り向いた「ああそう。飯、少し多めに作っといたぜ。朝ちゃんと食えよ」
相変わらず口だけで生きてるんだなぁ。
天狗は昔っから強い者には下手に出て、弱い者には強気に出る。
本当はもの凄く強い癖に適度に手を抜く、頭が切れる筈なのに惚ける。
――書籍版東方文花帖:伊吹萃香
天狗は昔っから強い者には下手に出て、弱い者には強気に出る。
本当はもの凄く強い癖に適度に手を抜く、頭が切れる筈なのに惚ける。
――書籍版東方文花帖:伊吹萃香
「――とまあこんな感じなのよ」
射命丸文はベッドで胡座をかいていた。今日はショーツ一枚である。視線の先にはドレッサーに腰掛けるアリス。憮然としているのが後姿からでもひしひしと伝わってくる。
「いや、そんなのろけ話聞かされてもわたくし答えようがないのですが」
「今ののどこがのろけ話なのよ?」
「うざいカップルって大抵そう言って自分達の横暴を正当化するんですよねぇ」
「ただの愚痴よ、愚痴。こういう時は黙ってただ聞き流してればいいの。別に答えなんか求めてないんだから」
「そういうのこそ人形相手にやってください」
今日もアリスはせっせと身支度に勤しんでいる。化粧の類に興味のない文にとって、その光景はまさしく魔法の儀式だ。人形に囲まれた少女は、さながら召使いを侍らせたお姫様を思わせる。
「何で私なのかしらねえ。相手だったら他に幾らだっていそうなもんなのに」
「それだけアリスさんにぞっこんなんですよ。可愛いもんじゃないですか。『やっぱり肉体関係の方が燃えるわよん、ま・り・さ』とか言ってベッドに押し倒しちゃいましょうよー」
「鴉って見た目と腹は黒いけど脳味噌はピンクなのね」
鏡に映るアリスはうんざり顔だ。この路線でからかうのも潮時かなと文は考える。あんまりしつこいと芸がないと思われてしまう。
アリスは一旦立ち上がる。人形の一団がバスローブを脱がせ、別の一団が下着を持ってくる。滑らかな光沢を放つキャミソールとドロワーズ。でもそれに覆い包まれるアリスの肌の方がよっぽど綺麗だと文には思える。抜けるような白さには一点の歪みも曇りもなく、至高の白磁を彷彿とさせる。もし彼女を人形のような少女と喩えるならば、一つ注釈が必要だろう。ただの土くれからこんな人形を創れるのは、おそらく創生の神くらいだ。
「ところで前から一つ気になっていたのですが、わたくしにこんなお話をペラペラなさるってことは、要するに記事にしても構わないと捉えて宜しいのでしょうか? 『人形遣いと魔法少女、禁断の契約!?』みたいな見出しで」
「色恋沙汰なんか載せるとたださえスッカラカンなあんたの新聞の品位がマイナスになるわよ」
アリスはいつもと同じ皮肉で返すだけ。そんな記事を載せるのはブン屋のプライドが許さないとよく弁えているのだろう。文は「むぅ」と唇を尖らせる。
化粧水が馴染んだ肌に、申し訳程度の化粧が被せられていく。正直あの顔に何か塗るなんて蛇足でしかないと感じていた文だったが、おめかしをしているアリスを眺めるのは嫌いでない。少女が女性になっていく様を見ていると、とても貴重な場に立ち会っているように思えてきて、新聞記者の好奇心が大いにくすぐられる。
「まあ魔法に関してはわたくし全くの門外漢ですが」文は少しばかり真面目路線で攻めることにした。「そんなおままごとみたいなやり方じゃ……なんでしたっけ? 恋の結晶作用でしたっけ、到底無理そうに思えますけどねぇ」
「その指摘はもっともね」アリスも今度はちゃんと答える。「だからといって恋愛感情にどっぷりのめり込んでしまうやり方が最善策かと言うと、そうとも断定できない。だって魔理沙の目的は恋の実践や成就ではなく、恋の研究なのだから。客観的視座を必ずどこかに設置せねばならないのよ。逆に言えばそれこそあの研究が抱えている根元的難しさなわけだけれど」
文も着替えには取りかかっていた。しかし今は魔法遣いとの会話をメモする方が優先事項らしい。シャツを羽織ったところで長らく中断している。
鏡の中のアリスは既にほぼ身支度を終えている。青のワンピースに茶のブーツ、白のケープは黒いラインに縁取られ、金髪を囲むのはピンクのチョーカーと赤のカチューシャ――過剰なまでに色とりどりの装飾品は、持ち主を現から乖離させることに見事なほど貢献している。
そう思って見てみれば、部屋の装飾もまた同じ。明確な意思の下で歪み無くしつらえられた調度品は、もはや絵本の世界だ。生活感という言葉は、この部屋から最も遠い。
「なんだかなあ。客観的な色恋沙汰なんて、とても成功するようには思えません」
「私だって実現するとは思っていない」アリスは立ち上がりカチューシャの位置を確認する。「少なくともあの子が人間でいるうちはね。どれだけ好意的に見積もっても、完成には数百年を要するでしょうよ」
「また悲観的ですねえ」くるりとペンを回す文。「じゃあなんで恋人ごっこなんかしてまで協力など」
「それだけ壮大な研究だからよ」こちらはチョーカーをきゅっと結び直した。「恋愛というのは古来魔術の対象として私たちと密接な関係を持ってはいた。でも恋愛を体系的に扱った研究はほとんどない。恋占いは主として占星術のテリトリーにあったし、惚れ薬なんかは薬術の一種。性戯はさしあたり身体生理学かな、あの尼さんが専門にしてる丹術みたいな。恋まじないはそれこそ悪魔学やら言霊論やら、呪術なんかの学際分野よね。
つまりね、魔理沙がやってるのはそういう点在する諸研究を『恋の魔法』として統一しようとする試みなわけ。こんな一大プロジェクト、同じ魔法遣いとして敬意を払わないわけにはいかないわ。たとえそれが荒唐無稽な話であっても」
「いやはや」文は小さくかぶりを振りながらペンを置いた。「魔法遣いとは面妖な生き物ですねえ」
「それが魔法遣いよ」
アリスは鏡の前でくるり。そのまま文の真正面まで進む。こちらは思い出したようにシャツのボタンを止めていた。しっかり洗濯され清潔感は保たれているが、ずいぶん着倒しているらしくよれよれである。
「脱いで」
文はすっとんきょうな顔を持ち上げる。言ったアリスは至って真面目な顔つきだ。
「へ? えと、もしや第二ラウンドのゴングが鳴っちゃいました?」
「なわけないでしょ」
裾のところを摘み上げる。「いやん」とおどける文。
「ベルト穴がほつれてる。縫ったげるから脱いで」
「いいですよそんなの。誰も気にしませんって」
「私が気にするのよ」
アリスに裾を離す気配はない。文は渋々脱ぎだした。相手の心持は知っていたし、すぐ終わるとも思っていたから。
予想に間違いはなかった。文のすぐ横に腰掛け、人形遣いは淀みない手つきで緩んだベルト穴を繕っていく。普段から反応が薄いといえ、この時のアリスはまた段違いだ。針仕事する様を接写されても文句一つ出ないほど。
「はい。終わったわ」
投げ捨てるみたいにしてシャツを持ち主に返す。「ありがとうございまーす」と営業スマイルをかます文をぞんざいに扱って、アリスは人形達が運んできたコーヒーに口をつける。文もちゃっちゃと身支度を済ませた。スカートを纏い、ベルトとネクタイを締め、靴下と高下駄を履く。
ナイトテーブルに置かれているのは毎度おなじみのコーヒーに、シュガーポットとミルクポット。紅茶と同じくアリスは砂糖を耳かき3杯分入れるだけ。一方の文は、いつも通りたっぷりのミルクと砂糖をコーヒーへ注ぎ込んだ。そして人形遣いをからかう作業に戻る。
「しっかし、魔理沙さんと色恋研究開いたり、わたくしとエッチな修行したりと、アリスさんも忙しないですねえ。もっと真面目に生きた方が宜しいのでは?」
「至って真面目よ。魔術的見地に即せばね」
アリスはぶっきらぼうに返す。とはいえ面持ちにはうんざりした様子がはっきりと浮かんでいた。嫌気が差したのは止まることを知らぬ文の皮肉に対してではない。この天狗が甘ったるいコーヒーをさも美味しそうに飲んでいたから、それだけだ。相手の冷たい視線を物ともせず、文は滑稽さの混じる口調で揶揄し続ける。
「アリスさんって絶対本気で人を好きになったことないですよね。知ってます? 外の世界じゃアリスさんみたいな人を干物女って言うそうですよ」
「あら、それいいわね。いかなる食べ物であれ、乾物はナマ物よりずっと滋味深く栄養価も高い。これ以上の賛辞はないわ」
「なるへそ。確かに今のは失言でした。アリスさんは干物女じゃなくて蛙女ですね。顔におしっこ引っ掛けられても平気そうですし」
「蛙のぬいぐるみって里じゃ人気あるのよ?」
勝ち誇ったふうに口元を緩めるアリス。文はひょいと首をすくめて白濁したコーヒーを飲み干す。
「あんたこそ、本気で誰かを好きになったことあるの?」
立ち上がった文へ今度はアリスが尋ねた。「あるわけないわよね」と言下に臭わす口ぶりだった。新聞記者は頭襟を被り翼を広げる。おちゃらけたそぶりばかり見せる彼女も、この時ばかりは勇壮な天狗としての顔を表に出す。
「もちろんです。わたくしは幻想郷に生きとし生けるもの全てを心から愛してますよ。『文々。新聞』の記者として」
自信たっぷりの宣言に、アリスは苦笑いを漏らした。今度は文が勝ち誇ったふうに微笑む。挨拶ともいえない挨拶を交わした後、文は出ていった。
*
「あーやー。朝だよー」
射命丸文はその声で目を覚ました。肩を揺すってくる手を払って、彼女はシーツに潜り込む。安い造りのベッドが、ぎしぎしと軋んだ。
「文ぁー起きなって」
「うるさいなあ、寝かせてよ……」
必死の抵抗空しく、遂に引っぺがされるシーツ。丸まっていた文の体が弾みでぐるんと転がる。半開きの視界に紫と黒の市松模様が広がった。
「……昨日は夜通し新聞書いてて寝てないの。勘弁してよ」
「『私たち新聞記者に睡眠など不要』って、こないだ偉そうに高説垂れてたの誰だったかなー?」
そんなことを言いながら、姫海棠はたては木の実みたいに丸まった同僚をつつく。こちらはもぞもぞと抵抗するのがやっと。長い溜息を一つ挟んでから、はたては引き剥がしたシーツを4つに畳みだした。
ここは文の部屋、山の中腹に設けられた鴉天狗向け公営宿舎の一室だ。もっとも客観的には一介の弱小記者でしかない彼女、たいした部屋に住める訳でもない。間取りはシャワートイレつきのワンルーム、外界の安アパートと造りはさして変わらない、インテリアも輪をかけて質素、文のしがみつくベッドの他には新聞作成用の机、後は下着や小物を入れる粗末なサイドボードが一つあるだけだ。
室内で目立つ物といえば在庫の山と化した「文々。新聞」のバックナンバーくらいか。ところどころにできた紙の塔を除くと、残りの床面には書き損じの丸め紙がひしめいている。はたてが動くたび、足に紙くずがぶつかってカサカサと音を立てた。
一向に起き上がる気配のない文を放って、はたては最低限の生活空間を作りに掛かる。まずはベッド、枕元にはカメラやら手帖やら団扇やらが持ち主を侵食するように転がっている。拾い上げ机へ置き直そうとするも、そもそも机上は作業途中の原稿に完全占拠されている状態。はたてとて下手にこの空間をいじるのは記者心が許さない。
仕方ないと、彼女はサイドボードから手をつけることにした。天板一面に散らばった酒瓶や食べかけの乾き物をどけ、ベッドに散乱していた品をこちらへ移す。頭の上でせかせか動く節介焼きに我慢ならなかったのか、文もようやく寝ぼけ眼をはたてへ投げた。
「なにしてんのよ……はたて」
「何って、どっからどう見ても掃除でしょ。どんだけ寝ぼけてんの文」
「だから、なんでそんなことしてんのかって訊いてんの。人様んちで」
寝癖の混じった黒髪を掻き上げながら、文はむにゃむにゃとした声で言った。着ているのは普段外で見るのと同じシャツとスカート。ベルトやネクタイさえ身につけたままだ。また記事を書いてる最中にぶっ倒れて寝たのだなこいつは――はたては呆れる。
「とりあえず顔でも洗って着替えたら?」
「私の質問は無視かい」
文はぐずる赤ん坊のように寝返りを打った。会話の合間もはたての手が休まることはない。栗色のツインテールが部屋を踊る。落ちていた紙くずをゴミ袋に詰めていくと、ようやく床がその姿を現してくれた。別に何が敷いてあるわけでもない、極々ありふれたフローリングではあったけれど。
続いて洗濯物に取り掛かる。脱ぎっぱなしのままで洗面所に転がった衣装。どれも同じ服――白のシャツと鉄紺のスカートだ。一つだけ持っている縮緬柄入りの一張羅以外は、文はこれしか持っていない。持っていないといっても、そもそも持っている服の数が圧倒的に少ないのだが。インク染みのできた服や下着を、はたては洗濯籠へぐいぐいと押し込んでいく。
文もそろそろ籠城に飽きてきた。むくりと半身を起こし、とりあえずネクタイとベルトを外す。上着を脱ぎ、ブラジャーのホックを外しながら、一っ風呂浴びようかとベッドを抜ける。リビングを出た所にあるキッチンには、湯でも沸かすつもりなのか見覚えのないやかんがあった。原色眩しいおしゃれな湯沸しは、「ケトル」とでも言ってやる方が良いのだろう。それが灰色の部屋に据えられた簡易コンロの上で、一種異様な存在感を放っている。"ケトル"横目に流し場へ入る文、びっくりしたのは洗濯物を選り分けていたはたてだ。
「あ、おはよ」
「ちょっ……なんて格好してんのよ、ばかっ!」
トップレスの文を見るや否や、はたては逃げるみたいにしてリビングへと引っ込んでしまった。着替えろと言ったり着替えるなと言ったり、めんどくさい奴だと心中で愚痴る文。残りの衣服を乱雑に脱ぎ捨て、シャワー室へ。建物が古いせいか、降り注ぐお湯も半端に温い。口をすすぎ、顔と髪をざっと洗ってから、残りを適当に流しシャワー室を後にする。脱衣籠には丁寧に四つ折りされたバスタオルと揃いの服が置かれていた。一応気は遣ってやるべきかと、文はシャツやスカートまでちゃんと身につけてから流し場を出た。
「もう……ちょっとはデリカシー持ちなさいよね」
部屋に戻るやいなや文はそう戒められた。言い返す代わりに、「タオルあんがとね」と儀礼的な謝辞を投げる。不機嫌だったはたての面差しが心なしか赤く染まった。文はベッドに胡座をかくと、タオルで生乾きの髪を押し撫でる。昔からこれだけで髪は整う。愛憎半ばの眼で艶のある黒髪を見つめていたはたては、ベッドに脱ぎ捨ててあったシャツを拾い上げる。
「ああ、いいって。それまだ着れんでしょ」
「何ばっちいこと言ってんのよ」
ぴしゃりと言われる。下らないことに頭を使いたくなかったのか、文は何も言い返さなかった。代わりに遣り場のない目をうろつかせる。シャワーの合間にやったのか、部屋はそれなりに片付いている。壁には洗濯しとくと前回押収された服が、シャキッとした状態で吊るされていた。
味も素っ気もない室内、無論壁とて例外ではない。飾ってある物といえば取材や草稿の際に書いたメモの切れ端くらい。黄ばんだテープで上へ上へと貼り重ねたせいで、文本人が見てももはや判別不能な域にある。そんな"壁紙"も、糊の効いたシャツ一枚掛けるだけでだいぶ格好がついた気がした。
文がたらたらと髪を拭く横ではたては忙しない。既に山盛りの洗濯籠へ、今しがた回収した脱ぎたてのシャツを足そうとする。
「あ、ここ繕ったんだ」
意外だという心境を隠さず、はたては声を漏らした。彼女が見入ったのはシャツの裾近くに開いたベルト穴であった。確かにほつれていた部分がぴっちりと閉じている。縫い跡一つ見えない完璧な仕上がりだったから、前もってほつれていたと知らねば気づかなかったであろうが。
「へー文もお裁縫なんかするんだね」
「こないだクリーニングに出した時、サービスで修繕してくれたのよ。私がやるわけないじゃない」
「クリーニング屋さんに行くってだけで見直した」
うんうんと、はたては満足げに頷く。起き掛けの文は鈍い。ようやく髪を乾かすと、枕元にあったはずの手帖を手だけでまさぐり出す。しかしいつまで経っても見つからない。やっとこさ何かに勘付いたのか、改めて室内を見回す。サイドボードに移動していた商売道具をようやく見つけると、億劫そうに立ち上がった。
「そうそう、試作持ってきたの。ほらこないだ教えてもらったやつ、一応作ってみないと記事にできないからさ。感想聞かせてよー」
洗濯物の整理を終えたはたて、今度は持参の包みを開き出す。手帖を奪還しベッドへ戻った文、ろくに視線も遣らず「はいはい」とだけ答える。はたては待ちきれないといった感じだ。弁当箱とコーヒーセットをいそいそと並べていく。それはさながらピクニック。もちろん二人が居るのは殺風景な部屋に据えられたベッドの上ではあったけれど。
「そんなん一々自分で作ってみなくてもいいじゃん。写真は取材の時撮ってあんだし、試食だってしたんでしょ?」
「そんな適当なことばっか言ってるから、いい加減な記事しか書けないの文は。それに昨日だってお酒とおつまみくらいしか食べてないんでしょ、どーせ」
どうやら中身はサンドウィッチのようだ。なんでも紅魔館のメイドから教わったらしい。「花果子念報」の生活欄に新しくレシピコーナーを設けるとか何とかで、最近料理に凝っているのだ。促されるまま、文は一切れ掴んで口に放り込む。
「……血の味しかしないんだけど」
「そりゃそうよ。血のソーセージに、ブラッドソース。パンにも血液練り込んで――」
「誰向けのメニューなのよそれ」
思わぬ不評にはたては釈然としない様子だ。文の隣に内股でぺしゃんと座り、同じサンドウィッチをもぐもぐ食べる。「美味しいのになぁ……」と首を傾げる新米記者の味覚を横目で危ぶみつつ、文は予定を確認しようと手帖を開く。
「あ、もしかして食材選びミスった? これは鹿使ってみたんだけど、やっぱ人間で作るレシピの方がウケいいかなー?」
「巫女にぶっ飛ばされたいんならどうぞ。ところで火、大丈夫?」
「やばっ!」と言い残し、はたてはベッドから跳ね降りた。忙しなさに文も落ち着く暇がない。ここの所ずっとそうだった。
一方的にライバル宣言を受けてからずっと、はたてに付き纏われる日々が続いている。気付けば部屋にまで上がり込んでくる始末。しかも初めて訪問された際の第一声が「うわ、きったな」である。以来こうやってちょこちょこお節介を焼いてくるようになった。
二切れ目を食べ終わった頃、やかんを持ったはたてが戻ってきた。おしゃれな柄のマグカップに粉コーヒーを入れ、お湯を注いでいく。カップまで持ってきたのかと閉口する文。もっともこの部屋にカップは二つもなかったなと、すぐさま思い直したが。
紙の塔をくぐってきたはたては文より少しばかり小柄で、肉づきも貧相。でも身につけている物は無駄に凝っている。市松模様のスカートに紫のリボン。シャツも文と同じようで、よく見れば毎回違うフリルに彩られている。リボンをあしらった靴下なんかも他では見ない品だ。
「はいどうぞ」
文は返事もせず受け取る。はたてはさっきと同じくちょこんと腰掛けた。
「砂糖要る?」とはたて。「いらない」と文。そのままブラックで啜る。アリスが煎れるものとは風味が雲泥の差だが、比較するのは酷だろう。なんせあっちは豆から選び抜いたもの、こっちは安いインスタントだ。
「で、徹夜までして結局新聞は仕上がったわけ?」
「んー記事は書けた。後はレイアウトだけ」
四切れ目にぱくつきながら文は答える。はたては眼を輝かせてにじり寄ってくる。
「どんなのどんなの?」
「教えない」とすり寄る後輩から距離を取る文。
「いいじゃーん。写真だけでも見せてよ」
しばしの逡巡を挟み、文は手帖からどうでも良さげな写真を見繕う。はたては肩をぴたりと寄せて覗き込んできた。
「ああ、遊覧船かー」
「魔界ツアーの体験記。ちょっと"つて"があったもんだから」
「あたしもやろっかなーって考えはしたんだけどね」
文ごと齧り付くように、はたては写真を持つ手を掴んでくる。一方の吐息が散切りの黒髪を揺らし、栗色の結わえ髪がもう一方の手首にしな垂れかかる。迫られる方はうんざり顔で身を逃がした。
「はたて、重い」
「重くなんかないわよ、失礼ね」
はたては唇を尖らせる。鈍感な奴だなぁと文は腹の中で毒づいた。このままだと胡座の中に潜り込まれかねないと考えた彼女は、立て膝をついてこれ以上の侵入をガードする。
「あたしは例の道教徒にしたんだけどさー」と言って写真と手帖を引っ張り出してくるはたて。「あいつら取材しても何言ってんだかよく分かんないんだよねー 文は分かる?」
今度は突き立てた膝にもたれ掛かってくる。五切れ目を口にくわえたまま、文は差し出された手帖に申し訳程度目を通す。
「別にいいんじゃない?」すぐさま突っ返し、市松模様のマグカップを取った。「こんなん適当に書いとけば。どうせ若い妖怪は宗教の教えなんか興味ないし、長く生きてる連中は読まなくても知ってるわけで。真面目に書くだけ無駄無駄」
「相変わらずテキトーだなあ文は。そんなんだから嘘ばっかの新聞って言われちゃうのよ」
「前も言ったでしょ? 小難しい解説文なんて、誰もまともに視界に入れちゃいないの。せいぜい見出しと文字数で目を引ければ、細かいところなんか何書いたって同じ。博麗の巫女は年中暢気だなあとか、紅魔館は相変わらず喧しいなあとか、山の神社の巫女はほんと常識知らずだなあとか、まあそれぐらい読み取ってもらえれば十分よ」
「うーん……でもなあ、なんか空しくないそれ?」
はたては納得いってない顔だ。それはそうだろうと文は思う。新聞なんて、書きたいものを書けばいい。はたてだって同じことを考えていると、文は前からよく知っていた。それでもわざわざこんなふうに諭してやるのは、つまるところはたてが内容度外視で”アドバイスされるという行為”を望んでいるからだ――文はそんなふうに考えている。あれこれ世話を焼いてくる一方で、同時に助言を仰いでくるということは、つまりこの新米記者が自分に「抜けたところもあるけど面倒見のいい記者仲間」なる役割を期待しているからに他ならないのだと。
だったら応えてやればいいだけ。部屋を荒れるままに放置しているのも、服をあえて脱ぎっぱなしにしているのも、新聞談義に付き合いながら、血生臭いサンドウィッチを完食してやるのも、この賢しい新聞記者にとっては取材で見せる満面の営業スマイルと同じ。あくまで自己の信条に則った"もてなし"の一種でしかない。
「はいごっそさん」
少し慣れ慣れしげな調子で文は弁道箱を閉じる。はたてはちょっと照れたふうに睫毛を伏せた。目を反らす文。食べ終えた感想を言おうかと思ったが、喉奥に引っ込んでしまった。どんな期待にも応えてやれる自信はあった。でも、さすがに"そういう関係"にまで進むのはどうかと思う。
「あっ、そうだ!」ほんの僅かな沈黙にも耐えきれなかったのか、はたては声を爆発させる。「今日はどっか取材行くの?」
「今日は行けないんじゃない? まずは校正と編成やんなきゃね。うちはもう締め切り近いし」
「あ、そうか……」
見当はずれな質問をしてしまったと、申し訳なさそうなはたて。フォローは必要だろうという結論に文は至る。
「今んとこ予定入ってるのは、里の甘味屋かなあ。ほら、こないだ白玉楼のお嬢様からお墨付きもらったとかいう。一段落したら取材してみようかなって」
「ああ、それいいね。おもしろそう」はたてもすかさず話を合わせる。「あたしも次のレシピコーナーはお菓子にしよっかなって思ってたんだよね……」
そこで口ごもる。文はもどかしくなった。なんと続けたかったのか見え見えだったから。一秒頭を回す。にこりと笑い掛けた。
「じゃあ一緒に行こっか。今度さ」
「え、あ……いいの?」
「別にネタかぶってるわけでもないし。いいんじゃない?」
はたては完全に狼狽していた。視線をふらふら揺らし、頭からは湯気が上りそうなほど。ようやく「うん、わかった……」と頷いた。まあこういう顔が見られたのならいいかと、文は楽観的に捉える。
「じゃあ、帰るね。あたしは取材あるし、文の邪魔しちゃ悪いし」
わたわたとした手振りではたてはピクニックセットを片づけ出す。洗濯籠に弁当包みを放り入れ、ぎこちない感じで立ち上がる。その様子をじっと観察していた文、言い忘れていたことを思い出す。
「じゃあまた後で連絡するから。ごちそうさま。美味しかったよ」
文はそこそこ満足していた。一応期待には沿えたかなと。はたては相手の方を振り向くことなく部屋を出ていった。
嘘吐いているつもりは無いんだがな
――東方花映塚:霧雨魔理沙
――東方花映塚:霧雨魔理沙
「どうもー。毎度お馴染み『文々。新聞』でーす」
アリスはうんざりした様子で魔導書から顔を持ち上げた。少しだけ間を持たせた後、窓際へと向かう。その間も来客はやかましい。しきりにとんとん窓ガラスを叩き、自らの訪問をこれでもかとアピールしてくる。
「もしもーし? 生きてますかー」
「うるさい」
窓越しに満面の笑顔を向けてくる文へ、アリスは容赦なく雨戸をぴしゃり。鴉の愛想笑いも鳴き声も残らず部屋から閉め出される。家主はなおも続くノックを無視して玄関へと向かう。いつもと同じ流れならば、そろそろドアの前に立っているはずだと踏んで。
「いらっしゃい」
「あやー どうも失礼します」
文は何食わぬ顔で上がり込んだ。嘆息を漏らすアリス。こっちは魔理沙と違って一応ノックはするのだ。やり方が色々間違っているのだが。
「今日はだめよ」
先手を打ってアリスは告げた。一瞬目をぱちくりさせる文、でもすぐさま事情を察した。さすがにすまなそうな様子で軽く頭を下げる。
「ああ、申し訳ありません。"あの日"でしたか。配慮が足りませんでした」
「いいわよ。きっちり把握でもされてたら、そっちの方が気味悪いもの」
アリスも珍しく文を慰めた。なおも恐縮げに頭を掻く客人を、懇ろにエスコートする。文もおとなしく従う。何か策があるなとアリスは読んだ。会話無く、二人はリビングへと進む。アリスが元いた席に着いたのを見届けて、文は真向かいに腰掛けた。キッチンからはすでにコーヒーの薫りが漂ってくる。
「ちょっと待っててね」と切り出すアリスに、「いえ、お構いなく」と返す文。携えていた手帖とカメラをテーブルに置いた頃には、この天狗はいつもの面立ちを取り戻していた。
「悪いけど、新聞のネタになるような話題は持ち合わせてないわよ」
今日のアリスは攻め手を弛めない。頭痛と腹痛で気が立っていたからかもしれない。もちろんそれを面に出すことはなかったが。
だが文とて引き出しは幾らでも持っている。したり顔をずいと寄せ、ひそひそと囁きかける。
「いえいえ。実はですね、今日はわたくしのプライベートに関することで一つご相談したいことがあるのですよ」
ここでコーヒーが運ばれてきた。ミルクポットとカップを文へ振舞う人形達。アリスが勧めると同時か少し早く、文は多めの砂糖とたっぷりのミルクをコーヒーに注ぎ出した。
「実はちょっと困ったことになりまして、ここはぜひアリスさんのお知恵を拝借したいと。あや」
ぜんぜん困った感じでもなく、文はカフェオレ風の飲み物を美味そうに啜る。同じタイミングでカップに口を付けながら、アリスは無言で続きを促す。
「今度、里へ取材に行くんです。アリスさんはご存じですか、最近新しくできた甘味屋。里ではまださして話題に上っていないようなのですが、なんでもあの幽々子さんが大変ご贔屓にしてらっしゃるそうで、妖怪界隈では秘かに名が知られているという」
「小耳に挟んだことはあるわね」
「へえ、やっぱり!」文はこれ見よがしに身を乗り出す。「それなら今度一緒に行きましょうよー 桜餅がつとに評判ですが、葛切りなんかも負けず劣らず絶品という噂です。なんでも砂糖からして違うそうで。甘過ぎもせず、かといって物足りなくもなく、舌にすっと溶ける上品な感じが、得も言われぬ爽やかさを醸し出すとかなんとかで。どうです? あや……そういえばアリスさんって甘いものお嫌いでしたっけ?」
アリスは伏し目がちのままかぶりを振る。いつまで経っても本題に入らないまま、文はのらくらと話を引き延ばした。アリスに焦れる様子はない。人形にヤスリを持ってこさせると、おもむろに爪の手入れを始めた。
「――で、この店主がなかなか面白い方らしくてですね、まだ若いんですが店を開く前はって、ああすみません話が逸れましたか」期待した効果は得られぬと、文は手法を変える。「実はまあ本題はこっからなんですが、後輩の鴉天狗が一人いるんですよ。で、件の甘味屋へ取材に行くことがそいつの耳に入っちゃったらしくてですね。これがついうっかり」
文は「ついうっかり」をことさら強調した。アリスは甘皮を剥き始める。
「それで、後輩――はたてって言うんですが、はたての奴が一緒に行きたいと言ってどぉーしても譲らないもんでして。まあもちろん先輩後輩が一緒に取材へ行くくらいだったら、わたくしも一向に構わないんですよ、ええ。でもどうもですねぇ……その、はたてがわたくしを見る目が、なんと言えばいいでしょうか、ちょっと危ない気がするんですよ。
まあ聞いてください。こないだなんかもですね、わたくしが寝てる隙に部屋へ勝手に上がり込んできて、部屋の掃除とか洗濯とかしだすんですよ。下着まで洗われちゃう始末で、もうたまったもんじゃありません。それだけじゃなくてですね、ご飯まで作って持ってくるんですこれが。サンドウィッチ作りすぎちゃったぜーみたいな感じで。それで人の手帖やら写真やらを覗き込んできましてね。見せて見せてと駄々こねてくるわ、隙あらば盗み見ようとするわ。もうこれがしつこいのなんのって。
どう思いますアリスさん? やっぱりちょっとただならぬ感じですよねぇ? こんな感じのまま一緒に取材なんか行ったら、あっちがいらぬ勘違いを起こしそうで……ズバリこういう時ってどうしたらいいんでしょう?」
やたら冗長な相談はようやく区切りをみた。されど返事はない。一旦コーヒーを啜るそぶりを見せてから、「あのー もしもーし?」ともう一言付け足す文。話の最中ずっと爪研ぎに集中していたアリスは、ようやく意識を客へ遣る。
「こないだ教えてあげたでしょ?」
「なんか伺いましたっけ?」
「愚痴とのろけ話は聞き流してあげるのがマナーだって。遠慮なさらず続きをどうぞ」
「やっぱりアリスさんは悪女です」
ミルクで濁った褐色の水面に文の嘆息が溶ける。甘皮を剥き終わったアリスも、いったん手を休めコーヒーを一つ口へ。
「別にいいじゃない。デートでも何でもすれば。それとも嫌いなの? そのはたてさんとか言う後輩のこと」
「嫌いじゃないですよ」文は軽く首をすくめる。「まあ若干鈍くて人の話聞かなくて、ついでに変なとこでくそ真面目な癖に肝心なところが抜けてたりしますけど、基本いい子です。天狗には珍しいタイプじゃないでしょうか」
「なら相談もへったくれもないじゃない。行けば?」
「ああ、アリスさんはとんだ冷血女です」
よよと泣き真似をする文。今度溜息を吐いたのはアリスの方。人形に膝掛けを持ってこさせる。冷えは女性の大敵だ。
「だたですねぇ……」持ち上がったのはいつもの小憎らしい笑顔だった。「どうもべたべた引っ付いてくるきらいがありまして、それがちょっち苦手と言いますか。こう、おわかりでしょう、意味もなくスキンシップ求めてくるような」
「そんなのいつもみたいに『あややーあややー』とか言って誤魔化せばいいだけのことでしょ。っていうか普通さ、そんなこと私に相談する? 散々乳繰り合ってきた相手に、よりにもよって触られるのが嫌なんですーとか」
「アリスさんは違うんですよ。ぶっちゃけお嫌いでしょう? べたべたするのもされるのも」
文は自信満々に言い切る。アリスはやすりで爪先を整えていた。人形遣いにとって、喩えではなく指は命だ。並々ならぬ目つきは、文の話など一切耳に入ってないふうにも見える。
「そういう時以外に触ると露骨に嫌そうな顔されますし、ほら、キスだって一度足りとてして下さったこと無いですし」
「キスは好きじゃないのよ」目もくれず答える。「なんかさ、本気っぽいじゃない。だから嫌」
「でしょう? はたてはその手のいちゃいちゃオーラびしびし飛ばしてくるタイプなんですよ、逆に。こう、一緒にいる時も常に体くっつけてきて……だから是非いなし方のご教授を。いつもどうやってるのかだけで構いませんから」
文はパチンと手を合わせ、拝み倒す格好をつくった。アリスは片目を瞑り爪の形を確認する。それはもはやミクロの世界。実際そこまで神経質になる必然性があるかというと微妙なところだが、アリスの美意識が許さないのだ。
文の魂胆はそれなりに読めていた。魔理沙絡みでうっかり余計な口を滑らさないかと、困り人のふうを装いながら裏で舌なめずりしているのだろう。実際恋愛相談なんて襤褸(ぼろ)を出させるには格好のネタだ。だから本気で取り合うつもりは毛頭なかった。
「簡単よ。『はたて、キスよりいいこと教えてア・ゲ・ル』とか言ってベッドに押し倒しちゃえばいいの。知り合いの鴉天狗さんもお勧めしてたわ」
「アリスさんは性悪女です」
爪に保護液を塗り、ハンドクリームを掬う。職人が道具に油を挿すのと似た感覚があるのかもしれない。指先まで丁寧にマッサージしながら、傷や凝りがないかを一本一本入念に調べていく。
「魔理沙さんから迫られたことは無いのですか?」
今度は単刀直入だった。あれこれ手先を変えて攻めてくる新聞記者も、アリスにとっては慣れた相手。息吐くような調子で答える。
「無いわね。体寄せられたこともほとんど無い」
「枯れてるなあ。もし迫ってきたら?」
立ち上がり、文の後ろへ。近づいてきた人形が差し出したのは櫛。となればすることは同じ。自身の手入れを終え、次は目の前の客人を、というわけだ。
「簡単よ。嫌だって言えばいい」
「それって芸が無い気がします」
「本音は包み隠さず言う主義なの。あんたと違ってね」
黒髪に櫛が通る。やはり手間は要さない。この髪質の理由を、天狗という種族だけに求めるのは誤りだろう。これはあくまで文個人が天から授かった物なのだ――賜り物の一つと言うべきかもしれないが。
「あーあ」髪を梳かれながら、文は露骨に落胆してみせる。「アリスさんなら、わたくしの立場を鑑みたそれはそれは素晴らしい助言を下さると思ったんですが」
「へえ、そんな仁徳があるように見えた? 私」
「そりゃもう。なんだかんだ言ってこうやって髪梳かしたり色々と世話焼いて下さるじゃないですか」
整髪料を吹きかける。魔力の籠もった特製の品だ。この後手入れしないことは承知済み、これでどれだけ乱雑に扱おうと2,3日は今の仕上がりを保つことができる。
「手を入れるのは当然でしょ。私の側にいる以上、こちらが許容し得る最低レベルには達してくれないと目障りだもの」
そして手鏡を文に渡す。鏡の中には以前よりふっくらした黒髪と、満足げなアリスの顔があった。文は苦笑いで返す。
「――おう、アリスいるか?」
今日もノックはなかった。ドアを荒々しく押し開ける音。鏡の中のアリスもさすがに一瞬真顔になった。余裕なく視線を玄関へ遣る。それは新聞記者がずっとカメラに収めたかった顔でもあったろう。もっとも、文も同じように音の方へ視線を動かしてしまった為、慌てた人形遣いの表情を拝むことは叶わなかったが。
アリスは素早かった。髪を整えるのに使った道具を大急ぎで人形に片づけさせつつ、流れるような足取りで玄関へと進む。
「あら、今日は用事があるんじゃなかったの魔理沙?」
「いや、それが思わぬめっけもんがあってさ」
玄関でスカートを叩いていたのは魔理沙、迎え出たアリスにへへんと笑い掛けてくる。笑みを向けられた家主はほんの僅か口角を持ち上げた。魔理沙の全身から舞い上がる土ぼこりに、心中で場違いな苛立ちを覚えていたりはしたけれど。
「また何か盗んできたわけ?」
「違う違う。ほら、アリス前言ってたじゃんか。実験に足りない鉱石があるって。実は今日地下に潜ってたんだが、旧都で見っけたんだよ、その鉱石。だから持ってきてやったぜ」
エプロンスカートの中をごそごそやりながら、魔理沙は滔々と解説を続ける。いっそ永遠に見つからないよう祈っていたアリス、柄でもない願掛けが通じるはずもない。
「おおあったあった。ほれ」
ビー玉くらいの鉱石が、やっとのことでアリスの掌に転がされる。確かに彼女が欲しがっていたものだ。「ありがとう」の言葉さえ待たず、土ぼこりを叩き終えた少女はリビングへ急ぐ。箒とともに取り残されて、しかしアリスは身を引き締める――取りあえず部屋を片付ける時間は稼いだ。さあこれからが本番だと。彼女は骨の髄までよく理解していたのである。もう一方の客人の底意地悪さを。
「さて、今日こそは美味いキノコ汁を――」
「おや、魔理沙さんですか。どうもお邪魔しております」
そう、この鴉天狗はまだ帰っていなかった。テーブルで悠々とコーヒーを嗜みながら、まるで主人のような態度で新客を迎え入れたのである。快活だった魔理沙の面立ちが露骨に強ばった。アリスもこれくらい表情を露わにしてくれればいいのになと、文は常々思う。
「あ、もしやご夕食の支度とか?」
「ん、まあな……」
魔理沙は手にあった食材袋を背に隠す。文はすかさず覗き込むそぶり――もっとも本当に覗くつもりなんて更々無かったものの。
向こうは子供みたいにいじましく身をよじった。にっと相好を崩す文、素知らぬふりで手帖を開く。まだ帰るつもりはないという意志を見せつける為に。
「あら、まだいたの?」
アリスもリビングへ戻ってきた。こちらはさすが、一片の揺らぎも無い。しぐさ、声色、立ち振舞い――彼女の全てが緊迫した鉢合わせをありふれた日常の一幕へと引き戻す。魔理沙の肩をとんと叩き、優しい、しかし少しだけ無理につくったような笑みを向けた。これもいつも通り。
「取材とか言って居座られてね。困ってたの」
「そんな、人を押し売りみたいに言わないでくださいよー」
こちらはいつにも増して馴れ馴れしく茶々を入れた。首をすくめるアリス。魔理沙もさすがと言うべきか、「ああ、取材か」の言葉と共に小憎らしい笑みをつくり直す。突っ立ったままの二人に腰掛けるよう促して、文は場の空気をいっそう我が物としていく。
「取材なんて大層なものじゃありません。ネタがあんまりに見つからなかったもんでして、それで仕方なくアリスさんのところへ。ここなら何かあるだろうと」
「ふーん、アリスがそんなネタの宝庫だったとは知らなかったぜ」
「そんなわけないでしょうが」
話題を自分のペースに引き戻そうとする魔理沙と、流れそのものを断ち切ろうとするアリス。しかしこの鴉天狗がむざむざと主導権を引き渡すはずもなく。
「またまたぁ、ご謙遜を」持ちうる愛想を残らずつぎ込み、文は踊る。「こうやってお伺いする度、いつもいつも的確なアドバイスを下さるじゃありませんか。先日一面に使わせて頂いた魔界ツアーの記事だってアリスさんの口利き様様ですし、今日だって助かりましたよー」
そして曰くありげに魔理沙へ視線を送る。
「ほんと、アリスさんは"誰にでも"お優しいですからねぇ。困ってる人を見ると区別なく手を差し伸べ、甲斐甲斐しく尽くして下さる。ねえ魔理沙さん?」
「そうか? 私にゃ嫌みばっかだけどな」
ウィンクで同意を求めてくる文を、魔理沙は皮肉めいた調子ではぐらかす。皮肉に裏の意味を察した狡猾な新聞記者は、一気に畳みかける。
「もちろんですよ。こないだも里でとある取材をしましてね。人外に対する好感度を里の人間に尋ねてみようなる企画でして。まあアンケートみたいなものですか。そしたら男衆からもうでるわでるわ、どれもアリスさんの話題です。まあ当然でしょうかねえ。こんなにお美しくて、頭も良い。才色兼備なんて言葉が霞んでしまいます。放っておけという方が無理ありますよ。もちろん妖怪からも――」
「魔理沙、紅茶飲む?」
よくぞまあ次から次へ出てくるものだという出任せを、アリスは強引に打ち切った。聞いているだけでむず痒くなりそうな誉め殺しにも、この人形遣いは眉一つ動かさない。返事も待たず人形をキッチンへ向かわせる。
「ああアリスさん、わたくしもお代わり。"いつも"ので」
魔理沙より早く文が答えた。ペースを握られっぱなしの魔理沙は、ようやく「ああ、私も"いつも"のだ」と一言。そしてぽんと放るような口ぶりで続けた。
「アリスがそんなにモテるとは知らなかったな。みんな夜雀に目やられちまったんじゃないか?」
ははっと空笑いを漏らして、足を組み背もたれに身体を投げる。向かい合う文とアリスの横でことさら横柄に振舞う様は、どこか拗ねた子供にも見えて。
「そうでしょうか? わたくしから見てもアリスさんはとても魅力的な女性に映りますよ」文はカメラをアリスへ向けた。「少女的な風貌を残しながら、自立した淑女の持つ逞しさと、こなれた艶っぽさを併せ持っていると言えばよいのでしょうかね。もちろん報道に携わる者として、主観的な好き嫌いは排除せねばなりませんが、そうでなければ――」
「お茶入ったわ」
またアリスの横やりが入る。もっとも視線はとうの昔から魔導書の中。行商はだしの美辞麗句を並べ立てる文など端から眼中にないかのようで。
主の声と同時に、お茶汲みの任に当たっていた人形達が姿を現す。必要以上と断言していい大所帯であった。わらわらと押し寄せる大群に、文のにやけ面もたちまち埋もれてしまう。しばし込み合うテーブル、小さなメイド達が掃けた跡には、アールグレイの入った三脚のティーカップが整然と並んでいた。
「あれ、わたくしはコーヒーじゃ――」
「はい、もしよかったらあんたも召し上がれ」
有無を言わさず紅茶を押しつけるアリス。しかし文も簡単には引き下がらない。ストレートで啜る魔理沙へ見せつけでもするように、残っていたミルクを紅茶へ注いでいく。そして「ああ、やっぱりこれですねえ」と白々しく一人ごちる。
「魔理沙、今日は私が作りましょうか?」
アリスが矢庭に口を開いた。魔理沙は少し不服そうに「何言ってんだよ。私がやるって」と言い返す。ティーカップから立ち上るベルガモットの香りを愛でながら、アリスは「そう、じゃあお願いして良い?」と微笑みかける。
「あんたはどうする?」
アリスは間を置かず文に尋ねた。言下に辞退を求める口調で。文はパチンと手帖を閉じる。
「いえ、わたくしはこれを飲み終えたら帰ります。これ以上はお二人に悪いですしね」
その言葉をしかと聞き遂げ、魔理沙はせかせかとキッチンへ向かっていった。二人きりに戻ったリビング、魔導書に眼を置いたままのアリスへ、文はとってつけたような調子で言葉をかける。
「これで今夜はスキンシップ三昧間違いなしですね。いやぁめでたいめでたい」
「あんたの方がよっぽど性悪女じゃない」
「なにを仰います」と一笑に付す新聞記者、紅茶を一気に飲み干して意気揚々と立ち上がった。翼を広げ、恩着せがましく言い足す。
「というか、早く行ってあげた方が宜しいかと。せっかくの晩ご飯が涙味になってしまうかもしれません」
「ご忠告痛み入るわ」
アリスも立ち上がり長客を見送る。勝ち誇った背中に、異様に優しく声を掛けた。
「そうだ忘れてた」
何事かと振り向く文。シュッと霧を吹きかけられた。思わず目を瞑った鴉天狗に、アリスはくすりと笑みを零す。
「今日もお風呂入ってかなかったでしょ? 性悪妖怪はちゃんと消臭消毒しとかないとね」
手足をばたつかせる文の全身に、もう二度三度振りかける。一応付き合ってやったものの、文はどこか物足りなくもあった。もっとひねりのある仕返しがくると期待していたから。
「ひゃあ。アリスさん、勘弁勘弁」
だから特に取り合うこともなく、文は玄関へと駆けていった。去りゆく背中に、アリスはぼそりと、しかしたっぷりの嘲りを纏わせ告げる。
「あんたもせいぜい頑張ることね、かわいい後輩とのデート」
文は返事無く部屋を後にした。適当に手だけ振って、アリスはすぐさまキッチンへと踵を返す。あの天狗に従うのは癪だが、忠告には一理あると思った。音のない厨房へ無言のまま入る。小柄な人影がまな板の前で俯いていた。
「魔理沙、今日は何作ってるの?」
「っ! なんだアリスか、脅かすなよ……」
魔理沙はアリスが想像していた以上に肩を震わせた。バンダナで纏め上げていた後ろ髪をさっと手で覆い隠す。絶対に来ないと思われていたのだろう。アリスは少しだけむっとした。
アリス邸のキッチンはさして広くない。といっても充実していないわけではない。在る空間を無駄なく使い切った造りになっているのだ。最初この厨房に立った時はどこか使い辛さを覚えた魔理沙も、何度か利用するにつれ、その絶妙な造りに感嘆したほど。使い辛く思えたのは、配置が一見複雑で慣れが必要なことと、高さが全て家主に――魔理沙より少し背の高いアリスに――合わせて造ってある為だろう。
魔理沙は野菜を切っていたらしい。アリスはちらと覗きみる。切る幅が安定してないように思えた。同じようにバンダナを頭に巻きながら、
「野菜は切るわ。魔理沙はお米炊きなさい」
とアリスは提案する。魔理沙も改めてバンダナを巻き直しながら、ややつっけんどんな口調で答えた。
「いいよ。体調悪いんだろ? 膝掛けなんかしちゃってさ」
「あれは少し寒かったから。春めいては来たけど、まだレティは健在でしょ?」
魔理沙は納得しているのかしてないのか判然としない顔で頷いた。アリスはざっと手を洗い包丁を取る。何から何まで一人用に拵えられたキッチンは、二人並んで料理するには不向きだ。
「あいつ、よく来るのか?」
米を研ぎながら、魔理沙がふいに尋ねてくる。アリスは落ち着き払った声で、
「まあ、たまにね」
とだけ返す。「ふーん」と魔理沙。とぎ汁を捨てながら、零すように呟いた。
「結構くつろぎ慣れてる感じだったけどな」
「あいつはいつでもどこでもあんな感じでしょ」
「そりゃそうか」
アリスはキノコの石づきを取る。食材を刻む音と米を研ぐ音が、微妙にずれたアンサンブルを奏でる。
「しっかしアリスがそんな人気者だったとは知らなかったぜ」
棘のある独り笑いが演奏を止める。魔理沙は研ぎ終えた米を火にくべた。アリスは空いたシンクでキノコを丁寧に水洗いする。
「あんなの適当な出任せに決まってるじゃない。大方人形劇を観た帰りの子供達に訊いたとか、そんなオチよ。ただ私をおちょくってるだけ」
「わかんないぜ。アリスがモテモテだってんなら私も鼻が高い」
魔理沙は悪戯っぽく笑いかけてくる。アリスは首をすくめた。
「もういいぜ。あんがとな。あっちで待ってろよ」
野菜とキノコを切り終えたアリスに投げられたのはそんな言葉。告げられた方は小さく頷くと、おとなしくその言に従う。
一人きりのリビングは緩やかな沈黙に包まれていた。アリスが魔導書を眺めている間、聞こえてくる物といえば鍋蓋がコトコトと揺れる音、そして大時計が時を刻む音色くらいのもの。
大して読み進めるまでもなく夕食が運ばれてくる。配膳しやすいようにと、アリスは本と三角帽を予めどけておいた。献立は筑前煮と炊いた蕗(ふき)、後は白米とキノコがたっぷり入った味噌汁だ。
「魔理沙、そこでいいの?」
皿の並びを見てアリスは思わず声を上げた。確かに魔理沙の皿はアリスの向かい――文の座っていた席――ではなく、さっきまで魔理沙自身が座っていた場所に並んでいる。
「いいだろ、今日はこっち」
そう言って椅子を寄せてくる。"恋人"のすぐ隣へ。アリスは閉口した。魔理沙はぴょんと席に飛び乗る。一つ遅れてアリスも座り直した。二人の肩が触れ合わんばかりの距離に並ぶ。
「いただきます」
「……いただきます」
魔理沙はさっさと食べ始める。アリスはまず味噌汁を一口。少しばかり塩辛く感じるのは、自分の気が立っていたからか、はたまた料理人の気が立っていたからか。
「どうだ?」という横からの声に「香りはちゃんと出てる。でも今日は気持ちしょっぱい」と正直に返す。魔理沙は慌てて味噌汁を啜る。そして「うぅむ……」と首をひねった。
「まあ、精進しなさい」
「へいへい。そうするよ」
今日は大皿に盛られたおかずしかないことに気づく。戸惑う暇もなく、魔理沙は煮物と蕗を"恋人"の小皿に取り分けた。アリスも異論なくそれに手をつける。今日はいつにも増して口数少ない晩餐だった。
あっという間に空となった皿を人形達が片づける間も、二人は押し黙ったまま。魔理沙は手持ちぶさたに眼を徘徊させる。されどこの部屋に今更彼女の気を引くものがあるはずもなく。ヴィクトリア調で揃えられた内装は美術館を思わせるところがあったが、展示品の入れ替えが全くないという欠点がある。散々見慣れた華麗な調度品をひとしきり眺め回した魔理沙は、アリスの手元にある本を覗き込む。すぐさま遮られた。
「お茶、淹れるわね」
逃げるように立ち上がったアリス、人形が運んできた櫛片手に魔理沙の髪を一撫でする。もちろんさっき櫛に絡んだであろう余計な黒髪は人形に除かせてある。耳元のリボンを外し、金糸を優しくほぐしていく。
「そういやさ」動けぬ魔理沙が声を上げる。「今度また神社で宴会やるって霊夢が言ってたぜ。アリスはどうする? こないだは来なかったろ」
「宴会かぁ……」そこでアリスは一息。もちろん手は休めない。「ま、せっかくだからお邪魔しようかな」
取りあえず首肯した。宴会自体に特段興味はない。前回行けなかったのは単に魔法の実験で抜けられなかったからだが、また行かないとなると付き合いが悪い印象を与えるだろう。それは好ましくないと思った。頷いたのにはもう一つ理由があったが。
魔理沙は黙ったまま。言おうか言うまいか戸惑っているのが背中越しのアリスからもありありと見て取れた。そう、首肯してしまったのもこのしぐさが故。本当に訊きたいことは別にあるのだろうと酌んで。
「――アリスってさ、他の奴の髪もこんなふうにいじったりするのか?」
量感のある金髪からとうとう問いが漏れた。アリスは珍しくゆっくり間を置いて答える。
「たまにね」
やはり返事はない。淀みなく動く手が、独特の癖っ毛を手懐けていく。
「勘違いしないでよ。これは私が気に食わないからやってるだけ。嫌なのよ、乱れてたり、崩れたりしてる物が近くにあると」
「そりゃ知ってるよ」
今度ははっきりとした声が飛んできた。再びリボンを結びつけ、アリスは手鏡を渡す。魔理沙はしげしげと鏡を見つめていた。アリスが梳いてくれた髪を見ていたのか、その向こうに立つアリス本人を見ていたのかは判らなかったが。
紅茶が運ばれてきた。アリスは席に戻る。双子のように並ぶティーカップ、取ったのは人形遣いだけ。
「ミルクまだあるか?」
しばしの間。カップから口を離したアリスが呟く。
「あるけど?」
すぐさま人形がキッチンへ飛んでいった。ルーティンを曲げるのはアリスの好みでない。不服そうに横目で見遣る。魔理沙は意味もなくティースプーンを手中で転がしていた。
「どうしたの?」
「さあな。ただの気まぐれだよ」
ミルクポットが運ばれてきた。軽く垂らして、スプーンでかき混ぜる。澄み切った紅がたちまちにして濁っていく。真っ先にアリスの脳裏を掠めたのは、最初からミルクティーにすると言ってくれたらそれに合った茶葉でそれに合った淹れ方をしたのにな、という口惜しさだった。
「そういえば」アリスは前を向いたまま口を開く。「例の結晶化の術式、どうだった?」
「何とも言えんな。そもそも上手くいったかいかなかったかの評価基準が判らん」
質問した人物とは思えぬ佇まいで、アリスは砂糖を落とした紅茶をかき混ぜていた。魔理沙は両手でカップを抱え、肘をついて溜息を一つ。赤褐色の水面に波紋が揺れる。
「やっぱりさ」独り言のようにアリスは続ける。「私に問題があるんじゃない? 何か、ゲームみたいでしょ私たちのやりとりって。もっと素直に情熱を傾けられる相手を選んだ方が成功率上がると思うんだけど。あんたなら他にいくらでも相手いるでしょう?」
「そんなことないさ」
魔理沙はさっきから紅茶に眼を落としたまま。アリスはちらとまなじりで横の少女を追った。
「他の奴には頼んでないし。それに私はそれなりに情熱的なつもりだぜ?」
ガタゴトと椅子ごと近寄ってくる音。アリスの肩に肩がぶつかった。
「だからさ、アリスはそんなこと気にしないで、いつも通りでいてくれりゃいいんだよ」
そのまま肩に頭を載せてくる。二秒ほど猶予を与えてから、アリスは上体を逃がす。分かりやすい反応に魔理沙は噴き出した。無表情の"恋人"を慈しみを込めて盗み見ながら。
おっと二匹目のサトリね
私の楽しい心の中を読ませて喜んで貰おうっと
――ダブルスポイラー:姫海棠はたて
私の楽しい心の中を読ませて喜んで貰おうっと
――ダブルスポイラー:姫海棠はたて
文ははたてとの待ち合わせに少しだけ遅刻した。10分ほどだろうか。それが一番イメージに沿っていると考えたからだ。早く行くと楽しみにしていると勘繰られかねないし、かといって遅すぎるのも失礼だ。心証を害する振舞いは避けるべきだろう。とはいえ時間ぴったりというのもはたての「射命丸文」象に反する気がした。少しぐらいズボラな方が整合性が取れている。
「文、遅いよー」
予想通りの反応であった。里の入口にある門、待ち合わせ場所で長い長い10分を味わっていたはたては、腕を組んだまま文に突っかかる。軽らかに着地した文は、いかにもそっけないそぶりで応じた。
「ああ、ちょっと前の取材が延びちゃってさ」
「もう……」
適当な釈明に、はたては憮然とした様子だ。文は傲岸な表情にほんの少しだけ申し訳なさ気な印象が滲むよう、小さく笑みを載せる。これくらいが丁度いいと思った。これで昨晩から延々頭の中で捏ね回していた甘酸っぱい妄想はすっかり消し飛んだろう。
「ほら、早く行くわよ」
今度はやや上からの物言い。ぷりぷりする後輩に取り合わず先へ進もうとする。やや遅れて後追うはたて、文の通り道には一風変わったものが残っていた。
「およ? 文香水つけてんの?」
ぎくりとする――もちろん心中のみで。聡い鴉天狗の頭にすかさず心当たりが浮かんだ。昨日人形遣いの家へ行った時、別れ際に噴き掛けられた消臭剤――いや"芳香剤"か。
文の動揺など関係なく近寄ってきたはたて、そのまま襟元の辺りをすんすんと嗅ぎ回る。無論シャワーは浴びたし服も替えたが、なんせ相手は魔法遣いだ。少し流したくらいじゃ落ちない特製の品だったとしてもおかしくない。
「へーいい香りだね。ベルガモットかな?」
「あ、ああうん」
「ふーん。そっかそっか……」
はたての顔がにんまりと光りだす。文は腹の中で舌打ちした。機嫌を取り戻した眼前の鴉天狗にでも、自身にでもない――アリスにだ。よくよく思い起こせば、帰宅直後に妙な匂いが残っていた。でもアリス邸では何度も嗅いだ記憶のある香りだったから、特別気に留めもしなかった。ベルガモット――紅茶がアールグレイだったのもそれが狙い。紅茶の香りでカモフラージュするための。
まんまとしてやられたと、文はほんの僅か表情を強ばらせる。はたてはそれを照れと取った。
「よく見たら髪もちゃんと梳かしてきたんだねー。なんかいつもよりふんわりしてる」
「そんなことないわよ」
つっけんどんな口ぶりも、今や完全に逆効果でしかない。文はまた思い出す。そういえば髪を梳かれた時仕上げに何か掛けられた。あれもまた魔力入りの整髪料か。であればいくらシャワーで漱ごうと、安ベッドに押し付けようと形は変わらない。アリスが整えた時のままだ。
「いーからいーから。さ、早く行きましょ」
苦々しさで口を一杯にしていた文の手を取って、はたてはぐいぐいと大通りを進んで行く。スキップを思わせる軽快な足取りだった。こうなってはわざと10分遅れて行ったことも、気の無いそぶりを見せたことも、はたてのいじましい妄想をいっそう掻き立てるだけとなろう。すなわち端から全てお見通しだったわけだ。文が何を考え、どう行動するか、あの狡猾な人形遣いには。
引きずられるままだった文だが、大通りから一本中に入った頃にはすっかりいつもの"射命丸文"を取り戻していた。いや、ブン屋である"射命丸文"にシフトチェンジしたと言うべきか。そろそろかなと彼女は様子を窺う。行き先はたいそう判りにくい。近所の人しか知らないような店だ。白玉楼で仕入れた情報がなければ、文も気づき得なかったろう。予想通り、細い路地を幾本か抜けたところで、前を行くはたてが後ろの文へと振り返った。
「えっと、どっちだっけ?」
「右」
文は指差しで答える。指示通りに路地を進みしばらくすると、再び同じ問いがはたてから飛んでくる。こんなやり取りを数度繰り返す内に、文は後輩記者の真横、そして前へと位置取りを変えていった。それでも繋いだ手をはたては離してくれなかったが。
「ここよ」
「へー」
間抜けた調子で感嘆を口にするはたて。確かに店構えはぱっと見普通の民家そのもの、看板らしい看板も見当たらない。何の情報もないまま発見するのは難しそうだ。
きょろきょろと落ち着きのない新米記者の手をほどき、文はお得意の営業スマイルで店に入っていく。はたても慌てて続いた。
外見の印象に違わず、店内はこじんまりしていた。卓も4つほど。ぱっと見およそ繁盛しているふうには思えないが、僅かな席はそれなりに埋まってはいる。棚に並んだ和菓子をしげしげと眺め入るはたての横で、文はさっさと交渉に取り掛かる。相手は普通の人間だ。いつものような圧迫取材は得策で無いと考えたのだろう。
店を切り盛りしているのはまだ若い女性であった。何でも最近店を開いたばかりらしい。文は自分が天狗であること、白玉楼から推薦があったことを簡潔に伝え、ぜひ幾つかお話を伺いたいと順を追って取材を申し込んだ。先方も妖夢や噂を聞いた妖がちょくちょく訪れるせいで慣れているのか、はたまた若さか、天狗相手にも嫌な顔を見せなかった。もちろん、文の態度が徹頭徹尾紳士的だったことも一因だろうが。
文の取材は基本時間を取らない。相手が里の人間となればなおさら。妖夢が普段どんな物を何個買っていくか、その時の様子はどんなか、他にどんな人外が店を訪れたかを手早く尋ね、後は店の簡単なPRポイントを教えてもらう――こんなものだ。彼女が知りたいのはありふれた人間の生活などではなく、幻想郷の人外が主役の面白おかしい事件だけなのだから。
一通り写真も撮ったところで文の勤めは終わる。店主へ後輩記者の身上をかいつまんで紹介し、後ははたてに場を譲った。生活欄のレシピコーナーに和菓子を載せたいのだが、何か一つ教えてくれないか――引き続いての無茶な申し出も、店主は快く引き受けてくれた。もっともこれから今すぐとはいかないし、レシピを考える必要もあるので、後日また改めてという話で纏まったようだ。
無駄に長ったらしい交渉過程をテーブル席から眺めていた文は、はたてがいつも以上に化粧をしていることに気づく。頬にはおしろい、唇には薄紅、アイメイクもばっちりだ。でもファンデーションは彼女の地肌には白すぎるように思えたし、アイラインも引きすぎ、口紅も色が合ってなく感じた。大人っぽい雰囲気を狙ったのだろうが、背伸びしすぎた印象は拭えない。思わず漏れそうになる溜息を飲み込んで、代わりに文の頭をなんとなしに過ぎったのは、ドレッサーに腰掛けるアリスの後姿であった。
ようやく交渉を終え、はたては同僚のいる卓まで戻ってきた。向かいの席に着くのを待って、文は声を掛ける。
「お疲れさん。オーケーもらえた?」
「あ、うん。来週また来てって。それまでにレシピ考えといてくれるみたい」
「そりゃよかったわね」
そう労って微笑みかけてやる。はたても照れたようにはにかんだ。これで期待料分の役割はこなせただろうと、文は視線をお品書きへ移す。取材させてもらった以上食べずにとはいかない。はたてもいそいそとお品書きを手に取る。店主が茶を運んできたところで、文は相客の準備が整うのを待たず注文を告げた。
「葛切りで。はたては?」
「え、ちょ、ちょっと待ってよー」
「ちんたらしない」
あえてはたてを急かす。慌てふためく後輩を文は一顧だにしない。手帳を取り出し何某かを書き込み始めた。仕事に集中しているふうを装うために。
「えーと……じゃあ私は桜餅とーうぐいす餅とー あと道明寺も食べちゃおうかな……それと白玉抹茶クリームぜんざいに杏を追加で載っけてもらうとかできます?」
しかしこれには腰を折られてしまう。店主も笑みを隠せなかった。呆れた目つきで向かいの同僚を見遣る。こちらはたいそうご満悦だ。
「どんだけ食うんじゃお前は」
「えーどれも美味しそうだったじゃん。クリームぜんざいか杏ぜんざいで迷ったんだけど、じゃあみんな一緒にしちゃえーみたいな?」
店主は「大丈夫ですよ」と快諾した。「あ、杏は3つでお願いしまーす」の声にまた頭を抱えながら、文は一旦手帖を閉じる。
「あのねぇはたて、今は取材中なのよ。わかってる?」
「だからじゃない」はたてはふふんと鼻を鳴らす。「お品書き完全制覇するくらいの意気込みがなきゃ、お店のこと取材したなんて言えないでしょ」
文は押し黙ってしまった。理屈としては間違ってない気がしてしまったから。足を組み、頬杖の上でこめかみをとんとんと叩く。内股気味に腰掛けていたはたては、興味津々とばかりに店内をきょろきょろ見回しては、目に付いた物を次々カメラへ収めていた。普段の文なら負けじとカメラを構えたに違いあるまい。なのに今日は悉く鈍い。どこか悶々と手帖を眺めながら、彼女は注文の品が届くのを待っていた。
さして時間を置くことなく、文の葛切りとはたての和菓子が運ばれてきた。店主へ懇ろに礼を伝え、早速頂くことにする。確かに噂に違わぬ味であった。葛の香りがしっかり立っている。蜜もその香りを殺さないよう、抑え目の味付けだ。唇から喉にちゅるりと抜ける爽快感が、曇っていた心持ちを一掃してくれる。
一方のはたて、まず運ばれてきた和菓子を一つ一つ丁寧に撮影する。そして一気にぱくり。たちまち恍惚に身悶えた。
「んー! ほへおいひー!」
「口入れたまま喋んないの」
文の小言も和菓子の味には勝てないようだ。目を瞑り歓喜に肩を震わせた勢いそのままに、桜の葉が付いたままの道明寺を一口。また奇声が上がる。別客の視線が文の背中に刺さる。渋面を隠せなかった。
悪いことは重なると言うべきか、はたてが素っ頓狂な声を上げたのと丁度同じタイミングで、店主がぜんざいを持って出てきた。予想に違わぬてんこ盛りだ。周囲から浴びる生温い注目に文は頭痛すら覚えた。葛切りの爽快感もたちまち吹っ飛んでしまいそうになるほど。
はたては今や天人はだしの有頂天。注文を運んできた店主に喝采を上げると、その流れで和菓子の味をこれでもかと誉めちぎる。文からすれば正直語彙力を感じない賛辞の嵐だったが、口ぶりに素直な気持ちが溢れていたのは明らかだった。実感のこもった感想に、若い店主とのやりとりも弾む。
そういえばはたての取材風景を見るのは初めてだったな――文はふと思う。自分から取材に出ると啖呵を切ったのはついこの間。さぞかし稚拙なんだろうと高を括っていたが、それは間違いだったかもと文は反省した。もちろんケチの付け所は幾らでもある。あんなまっ正直なやり方じゃ、幻想郷の猛者どもには軽く丸め込まれてしまうだろう。でも取材対象の懐にあれだけ入り込んで、心開かせるのは文にできない芸当だ。少しだけ羨ましくもあった。
そんなことを考えている合間にも、ぜんざいの山は順調に削られていった。相変わらず一口ごとに「美味しい美味しい」を連発しながら、はたては易々と甘味を腹に収めていく。文が葛切りを食べ終わるのと、はたてが完食するの――さして時間は変わらなかった。
「あー美味しかったねー」
「はたて」〆のほうじ茶を啜りながら、文は右の頬を指差す。「ほっぺ、あんこ付いてる」
はたてはさっと左の頬をまさぐる。すかさず「逆、逆」とたしなめる文。いっそう慌てた様子で、はたては桜色に染まった逆の頬を拭う。
先ほどまでの元気はどこへやら、途端に恥入るはたて。指に付いたあんこを素早く舐め取って、「へへ……」と照れ笑い。文はなぜかものすごく悪いことをした気分になった。互いにばつの悪そうな顔で、鏡合わせのようにほうじ茶を啜る。
「そろそろでよっか」
「うん、そだね」
二人はおもむろに立ち上がる。先に勘定口へ進む文をはたても慌てて追う。どうやら勘定を全部持つ気のようだ。文は自分の代金だけはたてに渡し、後は任せて店を出た。「店の外観取り忘れた」と言って。
文がカメラを構えているさなか、店主とはたては勘定口でなにやら話し込んでいた。やけに打ち解けた様子で、妖が人の言うことに合いの手を打ったり、かぶりをぶんぶん振ったりと、いちいち大仰な反応を示している。遠目から見ているだけで力が抜けてしまう。文が写真を撮り終え、さらにしばらく時間を置いて、やっとこさはたては勘定を済まし店から出てきた。こちらはあくまでマイペースのようで。
「おまたせ、写真撮った?」
「とっくに」文は嫌みっぽくカメラを振る。「もう満足した? なら私これから――」
「ねえ文、ついでに買い物とかどうよ?」
文が言い切るより一歩早く、はたてが口を挟む。話を切られた方は鋭い眼差しを返した。はたては爛漫さをくすませることなく続ける。
「ほら、文って服とか全然持ってないじゃん。だから。こっから大通り出てすぐの所に、あたしがよく行く洋服屋さんがあるの」
「興味ないわよそんなの。さっきの取材できるだけ早く纏めときたいんだけど」
「いいじゃーん。まだ締め切りには余裕あるでしょ? たまには自分の為に時間使いなって」
はたてにめげる様子はない。文はいい加減腹が立ってきた。目の前の鈍感女に、ではない。自分自身にだ。なぜだか今日は思うように事が進まない。本来ならば、こんな提案口に出させもしなかったはずだ。それがこのざまである。
さっきのだってそうだ。勘定口での長いやりとり、あの歓談は結果としてはたての背中を押したのだろう――この後"デート"に誘おうという決意を。先に店を出てはたてを一人残すという選択は明らかにミスであった。どうも今日は冷静さを欠いている――文は自省した。
それと平行して、ひどく余裕のない自分に彼女は気づく。落ち着いて考えれば別にたいしたことではないのだ、はたての遊びに一時付き合ってやるくらい。なのにそれを回避しようと必死に足掻く自分がいる。文は己にひどく幻滅した。恋着であれ逃避であれ、本気になっていることには変わりないのだから。
「……ま、いっか」と、文は息を吐くついでのような小声で首肯した。はたては逃がさんとばかりに文の腕を絡め取る。
「よーしっ、じゃあ行きましょうー!」
今度は主導権の取り返しようがない。はたてに導かれるまま、文はどこぞと知れぬ目的地まで引っ立てられていく。確かに道のりは無かった。目抜き通りに出てすぐ、やはりさして大きくない店であった。
軽い挨拶と共に戸を開き、勝手知ったる様子で店内を闊歩するはたて、その数歩後ろの位置を文は保つ。彼女には絶対に縁のなさそうな品が――即ちはたてが好んで身に纏う品が――並ぶ棚をちらちら眺めながら。
ここでも店主と新米記者は昵懇の様子だ。先ほどの和菓子屋よりもう4、5若そうな女性――もちろん人間――と、はたては挨拶もそこそこに世間話を始める。里に顔を出すようになってまだ日も浅かろうに、よくもまあこんなに打ち解けられるものだと文は素直に感心する。以前より人妖の垣根が低くなったとはいえ、妖怪が里に入り込むことを警戒する者は依然多いのだから。
文もいつもの愛想で店主と挨拶を交わす。とはいっても勝手は掴めないようで、どのくらい親密さを示すべきかという深慮が滲む愛想ではあった。あくまで"記者目線"から店内の品々にあれこれ感想を述べるしかできない自分に、文自身どこか場違いな感を抱いていた。
そうこうしている内に、服を見繕ったはたてが文のところへ戻ってきた。文が普段着ている服は基本的に上からの支給品。天狗の郷にも色々洒落た装束は売っているが、彼女にとってそうした諸々は全く関心の埒外にあるらしい。最近若い鴉天狗がよく着ている肩の空いた天狗装束も、文は持っていなかった。
「文、これなんかどう?」
はたてが差し出したのは色違いのブラウス。白地の方はカラーのところに赤のフリルが付いた、はたての服に近いデザインで、もう一方のグレー地は前立てのところにフリルがあしらってある。
「で、これにチェックのスカート、それとネクタイは――」
「いや、派手でしょ」
文は即突っ返した。はたては「派手、かなぁ……?」と首を捻る。一旦退却し、店主とあれこれ相談しながら別の服を持って戻ってくる。そんなやり取りが2度3度。文も愚図っている自分がいい加減馬鹿らしくなったのだろう、はたてのいる方まで進み寄ると、一緒に服を選び出す。向こうはしきりにフリルとチェックを勧めてきたが、文にはどうも敷居が高かったらしい。矢継ぎ早に服を差し出してくるはたてに、ああだこうだと難癖つけながらも付き合う文。店主から見れば、十分微笑ましい間柄に見えた。
双方が譲歩に譲歩を重ねた結果、買い物はネクタイに絞られたようだ。最終的にワインレッドのストライプ柄と紺地のタータンチェックで文は手を打つことにする。どうにか店から脱することが出来たものの、外は既に茜色。先に店を出、軒下で一人待ちながら、どこか苦々しげな顔で朱に染まった空を見上げていた。
ようやく店主との談笑を終え店から出てきたはたてと共に、文は家帰りの人が大勢行き交う往来を進む。
「もう、せっかく来たんだから試着とか色々してみればいいのに」
「いいの」唇を尖らすはたてに、文は気のない声を投げ返す。「おしゃれなんて柄じゃないわ。私は新聞記者なんだから」
「新聞記者は関係ないと思うんだけどなー」
夕焼け空に溜息を放るはたて。横を進む同僚より一歩前に飛び出し、くるりと向き直る。
「ま、いっか。今日は一歩前進ってことで。ちゃんとそれ付けてよ? タンスの肥やしにしちゃダメだからねー」
はにかまれる。残光が栗色の髪にきらきらと散った。文が何某か声を掛ける前に、はたてはまた前を向いてしまう。そのまま、両の手を後ろで組んだ格好で、鼻歌交じりにぴょこぴょこと。咄嗟に返事が出来なかったことを、文は忸怩たる思いで受け止めていた。ネクタイが包まれた紙袋を胸に抱きながら、頬を軽く掻く。
そこからしばし会話が止んだ。夕餉前の買い物客でごった返す一画をくぐり、一つ曲がる。とたんに人けが失せた。
「まあ、今日はそれなりに楽しかったわよ」
文はようやく声を出せた。はたては依然前を向いたまま。軽やかな足取りも同じ。
「そう? なら良かった、けどさ……」
これだけ返ってきた。文は前を行く新米記者に肩を並べる。はたては横目でちらり。同じ歩幅で進む。
しばらく進むと橋が見えてきた。それは里に沿って流れる小川に架けられた橋。渡った先には門がそびえている。行きとは逆の口であった。こっちの道に来てしまったのかと、文は当惑する。
「わぁきれい」橋の真ん中ではたては歩みを止めた。「ほら、見て文。夕日がすっごい」
確かにはたての指差した先、真っ直ぐ伸びる川と地平線のあわいには落陽が見えた。河原と橋全体を朱に染めながら、残照を下流へと溶かしている。川面からゆらゆらと立ち昇るのは、溶け切れなかった金色の光か。
はたては欄干に肘を乗せ、夢中で夕焼けを写真へ収めていた。文も数枚。でもそれ以上はシャッターが伸びない。人一人分の間を置いて欄干に背を預け、横のはたてをちらちらと。隙だらけの姿態に、携帯型カメラがすかさず火を吹いた。
「黄昏にしんみりしちゃう文ゲット!」
「はいはいそりゃあ良かったわね」
軽くあしらう文。はたてはむうと頬を膨らます。どうもいけないなと文は思った。さっきから何故か心を乱されっぱなし。もっとしっかり立ち振舞える自信があったのに。
「文さ、ほんとに楽しかった?」
欄干に頬杖をつき、はたては問う。不満と不安がない混ぜになった声。そう疑われてしまっても致仕方なかろう。文はしっかりと笑顔をつくり直した。
「もちろん。なんでよ?」
「だってどう見てもそんな楽しそうじゃないしー」
はたては川面に視線を落とした。文は変わらず欄干にもたれたまま、視線を茜空に向ける。
「そもそも新聞書いてる以外の文って、あんまりイメージ無いんだよね。休みの日とかいつも何してんの?」
「さあ。お酒呑むくらい? 休みなんてめったに取らないし」
他人事のように文は答えた。全然違うところを向いたまま会話は続く。
「一緒に遊んだりする友達とかいないの? あとほら……付き合ってる人とか」
「いるわけないでしょ」文は自嘲を一つ。
「もったいないなあ」こちらは溜息で応える。「文だったら相手なんかすぐ見つかるでしょうに。その気になればさ」
欄干から身体を起こし、はたては横の同僚へ首を向ける。文の目尻に映った表情は、中々に形容しづらかった。怒っているようにも、呆れているようにも、口惜しそうにも、安堵しているようにも見えた。
「そんなことないわよ」文は千切り捨てるように言う。「私なんかに興味持つ奴いるわけないでしょ。所詮しがないゴシップ記者。嫌われはしても好かれなんて」
「そんなこと言って、結局誰かと真剣に関わろうとしないだけじゃん。文って」
はたては一歩踏み出す。すっと肩を寄せた。だらりと下がったままだった文の手に、はたての腰がぶつかる。胸の高鳴りまで届きそうだった。
「あんたはね、このあたしがライバルと認めた相手なんだから。魅力が無いわけ無いの。だから冗談でもそんなこと言って欲しくないわけ。分かる? あたしが嫌なの」
文の胸がざわついた。ネクタイの入った紙袋、何故か人っ子一人通らない橋、鮮やか過ぎる夕日――全てが出来すぎたセッティングだ。今日は本当にちっとも上手くいかない。何もかもアリスが悪いような気がしてきた。出鼻を挫かれ、なんら巧い打開策を講じられぬまま、ずるずるとここまで来てしまった。文の脳裏には得意げに微笑む人形遣いの澄まし顔がくっきりと浮かんでいた。
「……善処はしてみるわ」
一つ大きなまばたきをする。欄干から身を跳ね上げ、今更ながら黒い翼を開く。振り返らず、世辞だけ残して。
「じゃ、私急ぐから。ネクタイありがとね」
「またそやって……ずるいよ」
ぽつりと声が返ってきた。文の心には諦めにも似た感覚があった。もう手遅れだと。そして予想通りそれは来た。
「……あたしね、一度でいいから見たいの。本気の顔してる文を」
文は振り返る。最初は首だけ。でも覚悟を決めねばと悟ったのだろう。しっかりと向き直り正対する。はたての眼差しは彼女のみに注がれていた。
「だから、もしあたしが本気で文のこと好きになったら、文も本気で応えてくれる?」
見つめあいは5秒ほど続いた。最初に挫けたのは、はたて。ふらふらだった視線を地面へ落とす。文も鏡合わせのように俯く。突如笑いが漏れた。
「ははっ……なーんてね」唐突におどけた面持ちをつくるはたて。「文が柄にでもなくしおらしいもんだから、思わずからかっちゃった。ふふっ……もーそんな真面目な顔しないでよー! 言ったあたしがバカみたいじゃん」
一方的にはしゃぐ。焼き尽くさんばかりに注ぐ斜陽を払うように。そして文と同じく翼を開いた。
「今日は色々つき合ってくれてありがとね。じゃあ、また」
笑顔のまま、はたては橋から飛び立って行った。文は漫然と見送る。口が動くことは、最後までなかった。
心を読む嫌な奴です
私だって色々考え事してますから心を読まれると困るのです
――ダブルスポイラー:射命丸文
私だって色々考え事してますから心を読まれると困るのです
――ダブルスポイラー:射命丸文
アリスはシャッターの音で目を覚ました。
「ああ、おはようございます」
フラッシュの瞬きに次いで見えたのは笑顔の文。寝ぼけ眼には少々酷な刺激であった。アリスはしかめ面をのろのろと持ち上げる。
「あや、大丈夫ですか。あまりご気分が優れないように見えますが」
そんなことをいけしゃあしゃあと宣う文を、アリスはもはや構うそぶりすら見せなかった。自身に覆い被さるような体勢でカメラを構えていた天狗からするりと身を抜くと、ベッドを下りて部屋の真ん中へ。
「……寝坊ね」
ナイトテーブルに据えられた時計を見ながら、不機嫌そうにアリスは一人ごちる。確かにいつもより15分ほど遅い起床であった。それはアリスの許容範囲を著しく逸脱する時間でもある。
「ええ。ぐっすりお休みのようでしたから起こしませんでしたが、まずかったですか?」
白々しさ満点で加えられた文の釈明にも、やはりアリスは取り合わない。こめかみの辺りを指でとんとん叩く。頭がひどく軋んだ。もしや何か盛られたか――そんなことを巡らせつつ、チェストの引き出しを開けようとする。
「ああ、バスローブとタオルなら脱衣籠に入れておきましたよ」
計ったようなタイミングで飛んできた声。アリスの視線が初めて文へと向く。とびっきりの笑顔があった。くるりと向き直り、シャワー室へ向かう能面のアリス。謝辞も皮肉もなかった。
「ごゆっくりー」とのお見送りをドアで無慈悲に遮って、朝のルーティンをこなすことに集中する。なにせ貴重な時間を惰眠に費してしまったのだ。どこかで埋め合わせねばならない。纏っていたネグリジェを脱ぎ、浴室へ。雑な仕事にならないようにしつつ、なるたけ手早く髪と体を流す。脱衣籠には言葉通りの品が入っていた。タオルの色は今日の気分と違ったけれど。
いそいそと寝室へ戻る。文は人形が煎れた――即ちシャワーを浴びていたアリスが煎れた――コーヒーを啜っていた。この天狗にしては珍しく、シャツのボタンを上までちゃんと留めている。家主の帰還に、彼女は立ち上がり仰々しく会釈した。
「おかえりなさいませ。いかがでした湯加減は?」
「いつも通りよ」
どちらが家主が判らぬような問答を挟みつつ、アリスはドレッサーに腰掛ける。さっさと身支度を済ますつもりであった。でも座った瞬間気付く。鏡に映る金髪少女の眉が明らかに歪む。
「あんたいじった?」と鏡越しに鋭い問いを投げつけるアリスへ、「ああはい、ちょっと気になったもので」とあっけらかんと返す文。クリームやオイルの入った瓶の配置が微妙にずれていた。アリスがもっとも嫌う行為――故意と彼女は判断した。この人形遣いにしては荒っぽい手つきで元に戻す。この時ばかりは人形の大群も、主の心持ちそのまま大人しくなる。鏡の端っこに映る文はと言えば、ベッドの上で悠然と胡座をかいていた。達磨のようにゆらゆら揺れながら、身支度に耽る女王陛下を涼しげに観賞して。
「シャワー、使っていいわよ」
「いえいえ、実はアリスさんが起きる前に軽く浴びちゃいました」
今日の文は遠慮がない。ここまで惜しみなくカードを切ってくるのはもはや異様でもあった。前回の仕込みがさぞ堪えたのだな――アリスは逆に気取る。とすればこちらもそれにふさわしいやり方で応じるべきだろう。彼女は途端に作業の速度を緩めた。いつも通り、しっかりと時間を取って。
文も変化に気付く。こちらも負けじとベッドに根を下ろし、コーヒーをゆったり嗜み始めた。砂糖とミルクがたっぷり入ったコーヒーを。
「そういえば、先日は助かりました」アリスの頭にカチューシャが載った頃、文はようやく口を切った。「髪を梳かして下さいまして。おかげではたてにも好い印象を与えられたみたいです」
アリスは鏡の隅にいる少女へ久方ぶりに一瞥を投げた。コーヒーをちびちび啜り、手帖に眼を落としながら、ペンをくるくる回している。暇を持て余しているのが一目で伝ってくる佇まい。
文の口からそれ以上の言葉は出てこない。香水の件は、まるで無かったかのよう。チョーカーとケープの形を整え、アリスはドレッサーから腰を上げる。そして手招きした。文も当然といった感じでドレッサーの元へ歩み寄る。ぴょこぴょこと、まるで母親に呼ばれた幼子のような足取りだった。
「で、結局上手くやれたの? 例のはたてさんって娘との取材」
文を座らせ、後ろに立ったアリス。櫛を構える彼女へ文はさらりと告げる。
「ああ、告られちゃいました」
鏡の中にいたアリスは、その瞬間どこからどう見ても間の抜けた表情になった。鏡に映る鴉天狗はまさに泰然自若。鼻歌でも出そうな面持ちだ。
「――で、なんて答えたの?」
アリスはようやく声を引っ張り出した。文は待ち構えていたように答える。
「それがまだ。保留中といった感じでして、どうしたもんですかねぇ」
櫛は柔らかな黒髪を優しくほぐしていく。文は頭も瞳も動かさず、ただじっと鏡の人形遣いを見据える。アリスの関心は既に髪のみへ向けられていた。
「知らないわよ」シンプルに溜息を挟んだ。「というかさ、あんた告白までされておいて、ここ来て私とあんなことしたわけ?」
「またまたー」説教じみた相手の言い方にも、こちらは愛くるしい振舞いを変えない。「魔理沙さんを差し置いてわたくしとイケない"修行"してるアリスさんらしくもない。それにこっちがいざ答えようと思った瞬間、あっちが逃げちゃったんですよ。判ります? 一方的に『好きだ』って言われたと思ったら、一方的に置いてけぼり食らっちゃったんです。その上貞操まで求められても困りますでしょう? アリスさんも昔似たようなこと仰ってたじゃないですか」
「覚えてないわ。そんなこと言ったっけ?」
むふふと含み笑いをする文。そんな誤魔化し方じゃダメですよ――そう仄めかされた気がした。渋々譲歩する。
「まあ、その考え自体は間違ってないと思うけどね。他人を変に理想化するの、勘弁してほしいとは常々思ってるわ。私達は人形じゃないわけだから」
「人形に取り憑かれた方がその喩えを用いるのは如何と思いますが、仰っていることはわたくしも基本的に大賛成ですよ。ええ、実に"幻想郷のアリス"らしい、卓見したお考えかと」
と鏡のアリスへおべんちゃらを投げてから、文は思わせぶりな態度へと一変する。
「いえですね、実際わたくしも戸惑ってしまったのは確かなんですよ。告白された瞬間、お恥ずかしながら」ここでううむと唸り声。「先日も申し上げた通り、はたての人間性――あ、妖怪性ですかね――これは全く問題ありません。自信を持って保証できますね、はい。ただ、まさしく今しがたアリスさんが仰った点なのですよ。わたくしが懸念を抱いたのは。だからこそアリスさんの正鵠を射た表現に思わず感じ入ってしまったのです。
ああ、つまりわたくしが言いたいのはですね、あの子が好きになったのって、結局は理想化された"射命丸文"だってことです。ええ全く。そこに一抹の不安を覚えるのです。ほら、アリスさんもご存じの通りわたくしってこう……癖がありましょう? はたてはわたくしのそういう面イマイチ分かってないっぽくて。アリスさんだってイヤでしょう、例えばいざ付き合うことになった相手がアリスさんの嗜好を理解せず物の配置を勝手にいじったり、その他ルーティンを乱すような真似してきたら」
相変わらずまだるっこしい、評論家然とした語り口であった。相手のことが好きなのか嫌いなのかという肝心要な点はぼかしたまま、新聞記者はお仕着せの言葉でただただ人形遣いをからかう。アリスは髪を梳き終えた。この間と同じ整髪料を取り、黒髪に吹きかける。文は嫌がるそぶりを一切見せなかった。
「それってこないだあんたが言ってたこと?」アリスは相手の髪を軽く撫で付ける。「スキンシップが嫌とかなんとか」
「まあそれもありますかね。はたては恋人に毎日キスせがんでくるタイプでしょう、絶対。一緒にいる時は始終べたっとひっついてきて、いやそもそも一人きりにさせてすらもらえないかもしれませんねぇ。うーん困った困った」
最後に前髪の形を微調整し、アリスは文の両肩をぽんと叩く。叩かれた方は会釈を返すと、そのまま振り子のように顔を天井へ振り上げた。
「そうだ。いいこと思いつきました」
にんまりと口角を持ち上げる文。すぐ上にあるアリスの顔へ向かって、"いいこと"を伝える。
「実際どんなものか試してみるというのは? イチャイチャする練習みたいな感じで。どうでしょうかアリスさん」
「私が相手やるの?」
「ちょっとした実験ですって。軽いごっこ遊びみたいなもんだと思って下さい。じゃあいきますよー。オホン、愛してるわ……アリス」
そっと目を瞑り、「んー」と唇を持ち上げる。アリスの両手は依然文の肩に置かれたままだった。一時の逡巡を置いて、上にあった唇がそろそろと落ち始める。二人の面が、互い違いのまま距離を詰めていく。
「アダッ!!」
そしてゴチンという音がした。思わず見開いた文の視界に、目的の唇は見当たらず。
「ちょっ、頭突きとかシャレになってませんよ!?」
「あらごめんなさい。慣れてないもんだから照準がずれちゃって」
くすくすと笑うアリス。天狗の肩から手を外し、くるりと踵を返した。文は額を押さえながら、悔しさを滲ませた眼差しで鏡に映る背中を見ていた。
「まあ、いい練習にはなったんじゃない? 初めて同士だと距離感が取れなくて前歯と前歯がごっつんことかあるらしいし」
そう得意げに解説したアリスは、人形からコーヒーを受け取ると、流れるような動きでベッドに腰を落ち着ける。立ち上る薫りに大層ご満悦の様子だ。
文もずっとおでこをさすっているわけにいかない。人形が運んできたスカートを受け取って、ドレッサーから立ち上がる。いそいそと鉄紺のスカートに足を通す鴉天狗へ、今度は人形遣いが攻撃を見舞う。
「まあ、もし正式に付き合うことになったら教えて頂戴な」
「あやや、了解しました。万一そんな事態に陥った暁には真っ先にご報告します」
「なんなら直接連れて来てもらっても構わないわよ。私もぜひお会いしてみたいし、そのはたてさんって人と」
アリスはポットから少量の砂糖を掬いカップへ落とした。文はスカートを履き終える。
「あややや? 別にいいですけど、でも修羅場とかは勘弁して下さいよ。社会の木鐸たる新聞記者が、痴情の縺れで殺害さるる! とかみっともないですからね」
「そんな見苦しい真似しないわよ」コーヒーの水面にアリスの微笑が浮かぶ。「私はただ、その新米記者さんに教えてあげなくちゃと思っただけ。あんたの感じやすいところ全部」
文はベルトを通しているところだった。俯くアリスへ一瞬目を遣り、すぐさまベルト穴へ視線を戻す。
「自らの秘め事を口外せんとするその勇気には敬意を払いたいところですが、止めといた方がいいですよ。アリスさんが床下手だということがばれてしまいますからね」
「あらまあ、昨日はベッドの上で赤ん坊みたいにしがみついてきて離してもくれなかったってのに、もう忘れちゃったんだ。さっすが鳥頭」
アリスはカップを一旦ナイトテーブルへ置き、ベッドから立ち上がる。人形達は既に高下駄と取材道具一式を持って文の元に集結していた。
「お褒めいただき光栄です。でもどうかご安心を。天狗はあれくらいの攻めじゃ気を遣りません。さすがにあんな本気モードで来られたら、一応付き合ってあげないと失礼というものですからね。まあ、アリスさんは巧い方なんじゃないでしょうか、客観的に見て」
「そりゃどうも。だったら今度はもう少しきつめにしてみようかしら。強がりが専売特許の鴉天狗さんが腰を抜かして取材に行けなくなっちゃうと可哀想だから、今まではちょっと撫でるくらいにしといてあげてたんだけど」
会話の相手に背を向けたまま、アリスはチェストの天板に置いてあった頭襟を摘み上げる。文はネクタイを締めるため鏡の方を向いていた。ネクタイといっても、黒紐を首元で蝶結びにするだけの、至ってシンプルなものだったけれど。
「さすがアリスさん、たくましいまでの虚勢には毎度ながら感服致しますよ。さっき絶頂した折りに拝聴した可愛らしい声色のせめて一割でも混じっていれば、その強がりにも多少は愛嬌が出たんでしょうが」
「あら、あんた認めちゃったじゃない。私が床上手だって。相手に興奮と満足をもたらす発声・演技、これもテクニックのうちよ?」
高下駄を履き、人形から手帖とカメラを受け取る文。手帖と団扇を腰に差し込むこの鴉天狗に、アリスは甲斐甲斐しく頭襟を被せてやる。顔を向け合うのはさっきの頭突き以来。頭襟の紐を結わえてくれた人形遣いに「どうもー」と軽い礼を投げ、文の身支度も整った。
「コーヒー、もう一杯飲んでく?」
「いえ、申し訳ありませんがそろそろお暇させて頂きます」
「そ」
一時の躊躇もなく、流暢に言葉を交わし合う。それは今の社交辞令の時も、一つ前の辛辣なやり取りの時も変わらない。棘のある言い回しを除けば、むしろ睦まじさすら感じる会話であった。
「あ、そういえば」漆黒の翼を広げながら、文は思い出したふうに声を上げる。「明日、博麗神社で宴会があるそうですが、アリスさんは出席なさいますか?」
「ええ」やはり即答するアリス。「魔理沙から話は聞いてた。今回は行くつもりよ」
「それはよかったです」
文は子供みたいに頬を綻ばせた。アリスはとびきりの営業スマイルにとっときの愛想笑いを返す。
「では、お邪魔しました」
「じゃあね」
*
翌日はとても暖かな陽気に包まれた。すっかり春めいた博麗神社、九分を超えた境内の桜は、白の石畳に薄紅を散らすまでになった。花見には絶好の舞台と言ってよかろう。もっとも幻想郷の連中にとって、花の咲き具合と宴会の開催にさしたる関連性なぞ無いのかもしれないが。
文が神社に到着したのは開始予定時刻よりやや早い頃、日暮れ前であった。この時分となると境内にはそれなりの数が集まっている。霊夢に召集された一部の――仕事のできそうな――常連は、早くから準備に駆り出されていたし、他にも暇な妖精や気の早い妖怪なんかは、まだ陽が高いうちから来て勝手に杯を空けてたりもした。要するに予定なんぞ関係なしにどんちゃん騒ぎは始まっていたわけである。「一緒に呑んでけ」や「お前も手伝え」といった挨拶代わりを適当にいなしながら、文は目的の人物を捜した。
「どうも魔理沙さん、お疲れさまです」
声を掛けられた幹事は縁側で仕事をサボっている真っ最中だった。文の姿を確認した魔理沙の表情には、微かな緊張が窺えた。軽く腰を屈めた姿勢で、新客である鴉天狗は努めて気さくに話しかける。
「如何ですか、集まり具合は?」
「そりゃ見ればわかるだろう。相も変わらず盛況さ」
魔理沙はへへんと鼻をこすった。文は手帳に何某か書き込みながら、同じ調子で続ける。
「どれくらいの方に声をお掛けになったのですか?」
「冬が明けて一発目だからなぁ、めぼしいのにはみんな声掛けたぜ。日が暮れたらもっと集まるんじゃないか。それよか霊夢にはちゃんと挨拶したのかよ?」
「ええ先ほど。『手伝え手伝えさもなきゃ酒呑ませないぞ』とうるさいもんで、たった今逃げてきた次第で」
「ははっ、そうかそうか」
サボり魔同士笑い合う。哄笑が止まぬうちに文は切り込んだ。
「ところでアリスさんは来てらっしゃるのですか?」
魔理沙からふつと笑みが消える。文は不思議そうな面持ちをつくった。
「あや? わたくし何か変なこと訊きました?」
「いや、そんなことはないぜ」魔理沙は三角帽のひさしを引っ張る。「あいつの名前が文の口から出てくるとは思わなかったからさ」
「いえいえ、別に深い意味はないのです」文はやんわりと掌を前に向ける。「ほら、アリスさん前回の宴会には参加なさらなかったでしょう。ですから今日はどうなのかなあと。魔理沙さんならよくご存じでしょうから」
魔理沙は視線を上げる。真正面に立つ文と目が合った。新聞記者はにこりと口角を持ち上げる。魔理沙は一旦目を伏せてから、改めて相好を崩す。
「ああ、来るとは言ってたよ。まだ姿は見てないけどな」
「それは安心しました。やっぱりアリスさんがいないと華に欠けますからねぇ」
何度も頷きながらペンを走らせる文。魔理沙は矢庭に縁台から身を起こす。
「じゃあ私はそろそろ行くとするか。いい加減にしとかないと霊夢にどやされちゃうしな」
「ああ魔理沙さん」そこで文は宝刀を抜いた。「どうです? さしで一杯」
懐から取り出したのは酒瓶。見慣れぬ銘だった。魔理沙は素直に振り向く。
「これ、天狗の秘蔵品でしてね。本来山から持ち出してはならない掟になっているのですが、まあその分味は保証しますよ」
「……ほう」
蒐集家の性と言うべきか、魔理沙の目の色が変わった。文は見せつけるように酒瓶を振る。
「たいした量もありませんからどうしたもんかなぁと思っていたのですが、こんなところで二人きりってのも何かの縁かもしれません。せっかくですから如何ですか? 二人で呑むなら、まあこれでも十分でしょう。魔理沙さんにはいつもいつも面白いネタを提供してもらってますし」
「お前がそういうこと言うととてつもなく胡散臭いぜ」
魔理沙は皮肉めいた調子で茶化した。文はひょいと首をすくめる。
「ひどい言われようですねぇ。まあ無理にとは言いません。元が天狗向け故かなり強いですから、魔理沙さんのお口には合わないかもしれませんしね。後で霊夢さんにでもこっそり献上しますか」
「ちょっと待てよ」懐に酒をしまおうとする文を、魔理沙が制する。「言っとくが、私は霊夢より酒は強いんだ。あいつが呑めて私が呑めないなんてあるか」
「ありゃそうなのですか?」予想通りの反応を、文はとぼけた表情で歓迎する。「じゃアリスさんにしましょうかね。アリスさんにも毎度毎度お世話になっておりま――」
「いいよ。呑もうぜ。そんなレア物あいつに渡せるかよ」
魔理沙は明らかに憤りを隠せていなかった。こんなものだと文は思う。大抵の者は、こうやって自分の思った通りに動いてくれる。それはもはや懸念を挟む余地も無いほど。この新聞記者にとって、未来は予測の範囲内に収まるのが常であった。別に今更退屈さなど感じない。誰が息をすることに飽きるだろうか。
二人はそのまま境内隅の雑木林に潜った。ここなら巫女にあれこれどやされることもなかろう。木立の間、ぽっかりと空いた一角に、文と魔理沙は向かい合うように腰掛ける。居間の卓袱台から拝借したコップに酒を注ぎ、それぞれ手に取った。
「では、乾杯」
「ああ、頂くぜ」
魔理沙が呑み干したのを確認して、文も一息に杯を空ける。胸がかっと熱くなる。山でも指折りに強い酒。魔理沙もくらっときているようだ。
「如何ですか?」
「ああ、確かにこりゃ効くな」魔理沙はふてぶてしく笑みをつくる。「もう一杯いいか?」
文は嬉々として注ぎ直した。その後も巧みにおだて、囃し、負けず嫌いの性格をくすぐりながら、天狗は人を酔わせていく。客観的に見て魔理沙は強い方であったろう。しかし天狗さえ満足させる酒をこうも立て続けに呑まされては、正気でいられるはずもない。
「大丈夫ですか、魔理沙さん」
「……ック、別に。私は何ともないぜ……」
明らかに覚束ない声で強がる魔理沙。虚勢もこうなると微笑ましくある。文は露骨に同情を臭わせながら言葉をかける。
「そんな無理して呷ってもよくありません。ああ、お水でもお持ちしましょうか?」
「いいよ……」魔理沙は帽子を脱いだ。「それよかさ、文。お前に訊きたいことがあんだけど」
帽子のひさしが外れて、面差しが露わとなる。魔理沙の眼は据わっていた。頃合いかなと文。
「お前さ、よく行くのか。アリスんち」
『そうそう、それそれ』と、文は腹の中で頷いた。面に出す表情は、やや神妙な感じで。
「ええ、割とよくお邪魔しています。それが?」
「いや別に何がってことはないんだ」余りにあっけらかんとした返答に魔理沙は言い淀む。「ただ、ほらこないだあいつんちでお前とばったり出くわしたじゃんか。ああいうこと今までなかったから、何してたんかなって……」
酒の力を借りたとしても、ここら辺りが限界だったらしい。文はこの魔法少女をどこか愛おしく感じた。すっとすり寄り、肩に手を回す。そして耳元に囁いた。
「別に……やましいことはないんですよ。妙な勘違いさせてしまったのなら謝ります」とびきり真摯な口調であった。「魔理沙さんのお邪魔をしたりは致しません。ええ、大事な"もの"を盗ったりなんか」
「お前こそなんか勘違いしてるな」こちらは自嘲交じりに吐き捨てた。「別にあいつとはなんともないぜ。文の好きそうなネタはないよ」
「でも、アリスさんにご協力してもらっているのでしょう? "恋人ごっこ"」
さっと魔理沙の面が上がる。半ば予想はしていたのだろう、染まった表情に憤怒の色はない。動揺の色だけ。
「へっ、アリスの奴余計なこと喋りやがって……」
「いえいえ違います。わたくしが無理に訊き出したのです。アリスさんを責めるのはお門違いですよ」文は介抱する少女の肩をぽんぽんと叩く。「まあ、別に宜しいではありませんか。ごっこでもなんでも。わたくしが邪魔立てするつもりが無いことには変わりません。お二人の仲をね」
優しく頷きかけて、文は一瞬だけ空へと眼を移す。予想通り――狡猾な新聞記者は、ちょうど真上を過ぎったアリスに目だけで挨拶した。
*
アリスは、幹事である魔理沙から聞いていた開始予定時刻ちょうどに到着しようと考えていた。「手伝いに来い」という呼びかけも一応は受けたが、正直そこまでの義理は感じなかった。人手は十分足りているように思われたし。
ついでに言えばアリスは移動の際常に最短コースを取るよう心掛けている。だからこそ、待ち伏せには格好の相手と言えただろう。予想通りのタイミングに、予想通りの地点を通過した彼女が、木陰で肩を寄せ合う文と魔理沙を目撃する――この鴉天狗にとっては造作もないことであった。
アリスも当然二人の姿には気付いた。文の目配せにも、その魂胆にも。もちろん事前にこうくるとまでは予想していなかったが。ふいの一撃に、だがそう易々と揺らぐ彼女でもない。アリスは何事もなかったようにその場を通過し、境内へ降り立った。
既に桜の下で出来上がっていた顔馴染みと簡潔な挨拶を交わし、一応霊夢にも声を掛けに行く。ここでも宴にはおよそ似つかわしくない醒めた態度を方々から冷やかされた。一旦境内へ戻り、適当な輪に加わろうと考える。そんな時であった、アリスが彼女と出くわしたのは。
「――だからそんなんじゃないって!!」
急に立ち上がった少女とぶつかったのだ。少し後ろへよろめくアリス。相手はまた随分とバタバタした雰囲気を纏っていた。
「あっ、ごめんなさい!」
「別に大丈夫よ。貴女こそ大丈夫?」
アリスは努めて穏やかに応対する。相手を狼狽させまいと。
「あ、ああ……はい……」
俯いてしまった。アリスはどうもこういうタイプに弱いらしい。構ってやりたくなるのだ。自分から声を掛けることにする。
「お隣、いいかしら?」
「あ、えと、はい……」
返事を待たずアリスは腰掛ける。少女は一時置いて少し遠くへ腰を落した。
座を構成していたのは主に山の連中であった。バザーなんかで顔見知った妖怪もいる。軽く挨拶を交わし、さっそく乾杯。こういう輪にすぐ溶け込む術に、意外にもアリスは長けていた。そこが自分の意思で飛び込んだ場であれば、周囲と調子を合わせることへの躊躇いはない。どうしても耐えられないと思えばおとなしくこちらから立ち去ればよいだけ、変に我を張って居座ったりするのは理性ある者の振舞いとはいえない――そんなふうにアリスは考えている。
宴は和やかに進む。アリスは酩酊するでもなく、かといって勧めを固辞するでもなく淡々と杯を傾けていた。そして歓談と平行し、場の力学を観察する。話題の流れを作っているのはどうやら山の神様連中、それに他の妖怪や妖精が合いの手を入れるという構図のようだ。先程の少女は座の中心でこそないが、時折いじられ役を担う立ち位置らしい。会話の端々から、彼女が鴉天狗であること、そして最近"同僚"と一悶着あったことをアリスは推しはかる。
そこまで仕込みを済ませたところで、魔法遣いはほろ酔い気分に戻っていた横の少女へ話を切り出した。
「そういえばさっきはごめんなさいね」
「あ、いえ、私こそ周り見てなくて……」
少女はすまなそうにはにかんだ。やや人見知りするのだなとアリスは見て取る。
「私はアリス。貴女は?」だから自分から名乗った。
「あ……私は、姫海棠はたてっていいます」
ぺこりと頭を下げられる。二束に分けられた栗色の結わえ髪が、ふわりと薄暮に棚引いた。ああ、やっぱりこの子が――アリスは胸中で得心する。
少しばかり予想とは異なる風貌をしていた。もとより文の説明など欠片も信じてはいなかったが、もっとずけずけした感じかと思っていたからである。それはおそらく天狗一般に対してアリスが抱いていたイメージであったのだろう。もう一つ予想と違っていたのは纏っている物。おしゃれに気を遣っていることは、一目で伝わってくる。しっかりとしたこだわりを感じさせるコーディネート――文の相手としては意外に思えた。
「そう。よろしくね、はたてさん」
「は、はい。私こそはじめまして」
淑やかさを帯びた笑みに、はたては思わず気後れした。彼女もアリスのことは新聞や噂を通して間接的に知っていた。だからこそ驚いたのである。浮かぶ柔和な面差しは、話で聞いていた"アリス・マーガトロイド"とは大違いであったから。
そして何より美しい。顔のつくり云々以前に、佇まいが美しいのだ。もちろん立ち振舞いの美しさなら、他にも当てはまるのがたくさんいる。向こうの輪にいる竹林のお姫様や、あちらにいる亡霊のお嬢様なんかはそれこそ魅入ってしまうほど美しい。でもアリスはそういうのとも違う気がした。何というか、親しみのある気品をはたては感じたのである。見る者全てを圧倒する高貴さではなく、自分の手に届きそうな範囲で最上に磨き抜かれている――そんな居心地の良さを。
「そのスカート、可愛いわね」
アリスは休むことなく話を振る。市松模様のスカートを指差し、「見せてもらってもいい?」と一言。はたても「いいですよ」と快諾する。
「ふぅん、珍しいデザインね。どこで買ったの?」
「あ、これオーダーメードなんです。前からこういう感じのスカートが欲しくて色々探してたんですけど、どこ行っても見つからなかったから」
「ふふっ。そりゃそうね、私も初めて見たわ。じゃあこの靴下も?」
と言って紫のリボンが巻きつけてあるハイソックスを指差す。はたては「そうです」と顔を明るくした。どうやら話題の選択は間違っていなかったようだ。
「紫と黒の取り合わせって、確かに扱ってる所少ないでしょうね。赤と黒の市松模様だったらこの間里の洋服屋で見かけたけど」
「あ、それってもしかして大通りの曲がり角にある?」
「ええ、そうそのお店よ。貴女も知ってるの?」
「はい! よく行きます。このブラウスもあそこで買ったものなんですよ」
さっきまでのぎこちない様子はどこへやら、はたてはまくし立てるように自分の着ている物を説明し出す。こういうことを話せる相手があまりいないのだろう。アリスは聞き役に回る。
「――あとそれでですね、このストラップは、古道具屋で売ってた煙草入れに付いてた根付けだったんですけど、なんか可愛くて気に入っちゃったから、これだけ使ってるんです。変ですかね?」
「そんなことないわよ」
はたては「へへ……」と照れる。確かにいい子なんだろうとアリスは思った。こんなにも素直に喜怒哀楽を面に出す天狗を、彼女は知らない。
「でもうれしいです」はたては畏まったふうに頬を掻く。「こんな恰好してる人って山にいないから、派手過ぎかなとか、変なのかなって不安だったんですけど。こんなふうに言ってもらえたの初めてで……」
「別にそんなの気に病むことじゃないわ。センスがどうとか趣味がどうとかなんて、最後は主観的な好みだもの。大事なのは着ている本人が心から満足して着こなしているかどうかよ。持ち主が自信を持って着てあげれば、服は勝手に輝き出すの。はたてさんの装いからはちゃんと持ち主の愛着を感じるわ」
そう言ってアリスは優しく微笑み掛ける。酔ったはたての顔がいっそう赤らんだ。勢いそのままわたわたと話題を戻す。
「あっ、いや、でもアリスさんの服の方がずっとカッコいいです。どちらで?」
「ああこれ? これは全部私が縫ったの。買った物じゃないわ」
「ホントですか!?」と身を乗り出してくるはたて。羨望の眼差しが注がれる。「すごいなあ。私も裁縫ちょこっとだけやるんですけど、こんなカッコいいの絶対できないなー 型紙から全部自分で?」
「ええもちろん」と笑顔のアリス。彼女もそこを褒められるのは満更ではないようで。「まあ人形遣いですから。自然と腕もつくわ。商売道具みたいなもんだし」
「じゃあこの人形も全部アリスさんが縫ったんですか?」
「この子達が着てる服もね」
感嘆の声を漏らしながら、はたては主人を囲う人形達を見る。そしてカメラに収めていった。いい切欠かと、アリスは話題をずらす。
「ああ、それカメラだったの?」
「あ、そうですよー」はたてはすっかり打ち解けた様子だ。「河童に作ってもらったんです。デコったのは私ですけど」
「じゃあ貴女もしかして鴉天狗?」
アリスは白々しく尋ねる。無論有頂天のはたてに人形遣いの魂胆が分かろうはずもなく。
「はい。そういえばまだ言ってませんでしたっけ?」
「ええ聞いてなかった。ふぅん、気付かなかったわ」
「えーそうですか?」
アリスは笑みを湛えたまま頷き、告げた。
「顔見知りの鴉天狗がとんだひねくれ者だから、全然イメージと違うなあって」
はたての表情が明らかにくすんだ。アリスは手早く進める。
「はたてさんは御存じ? 射命丸文っていうんだけど」
「え、ええ……知ってます」
視線を膝頭に突き刺したまま、機械的に首肯する。アリスはたまらない後ろめたさを感じた。そんな資格が無いことは重々承知した上で。
「その……アリスさんは仲良いんですか? 文と」
「うーん、よく顔を合わせはするけど、仲が良いとは違うかな。いつも勝手に家へ上がり込まれては取材とか言って居座られて……でもここにいる連中はみんなそうよ。誰だって同じ目にあってるんじゃない?」
「そっか……」と呟くはたて。様々な感情を忍ばせた声だった。アリスはそっとにじり寄る。
「はたてさんは文と親しいのかしら?」
「まあ、親しいというか……」はたては口ごもる。「その、んと、ライバルみたいなもんかな。一緒に新聞の売上を競ってるっていうか……」
「そうだったんだ。知らなかったわ。文って滅多に自分のこと話さないから」
はたては黙りこくってしまった。アリスはしばし間を持たせる。俯く新米記者が沈黙に苦痛を感じ始めるまで。頃合いを見計らって、背中にそっと手を添わせ、耳元へゆっくりと囁いた。
「ねえはたてさん、少しお散歩しない?」ちらと目配せ。「ここだと落ち着けないでしょう」
とんと肩を叩き、先に立つアリス。はたても少し間を置いて続いた。境内の喧騒をくぐり、端の方へ。純粋に桜を愛でるのであればこちらの方がずっとふさわしい。すっかり日も落ち空は薄墨色。桜の薄紅がよく映えた。
「文とは昔からのお知り合い?」
肩を並べてゆらゆらと歩を進める二人、先に声を上げたのは半歩前を歩くアリスの方。
「ううん、そんな昔じゃないです。ちゃんと話すようになったのは、つい最近かも」
はたては猫背気味に横を進む。並ぶ肩の高さこそアリスと同じだが、それは高下駄を履いているからだろう。
「ちょっと興味があったんです。文の新聞って、適当だし嘘ばっかりで。でもなんか面白いなあって」
「……そうね」アリスは小さく相槌を打つ。
「だからなんとなく気になったんですよ。それであいつの記事を書いてみようかなって思ったんです。でも文ってちっとも素顔を見せてくれなくて」
つらつらと、訊かれてもないことを零してくれるはたて。アリスはただ伏し目がちに歩調を合わせていた。
「なんでなのかなーって。私のせいなんだろうなって思ってたんですけど、でもアリスさんの言う感じだと誰にでもそんな感じなのかな……」
「おそらく、そうでしょうね。あの子はあれで誰にも心開かない感じがするもの」
気付けば二人が居たのは雑木林の手前。宴会場に据えられた行燈の光も闇に溶け出す辺りだ。アリスは立ち止り、おもむろに掌を上に向ける。ぽっと光が灯った。光源をしげしげと眺める無邪気な鴉天狗、そのしぐさに人形遣いも自然と笑みを零す。
「でも平気。はたてさんがちゃんと向き合ってあげれば、あいつだってその内本音を出すわ。根は悪い奴じゃないもの、たぶん。だからね、もっと自信を持って」
と説き掛けながら真正面にあったはたての顔を撫でる。
「ほら、服には自信が漲ってたけど、お化粧はまだぐらぐら。こんな隙だらけの顔してたらあいつには簡単に付け込まれちゃうわよ」
「え、あ」はたては魅入られたように動けなくなった。「ごめんなさい……なんか、どうやっていいかよく分からなくて」
「いいのよ」アリスは腰に差していたポーチを開く。「最初は誰だってそんなもの。ちょっと塗り過ぎかな。別の何かになりたくて化粧をする――でもどんなに巧く自分を偽ったって、最後まで隠せないものはある。だからお化粧の基本は、素の自分を活かし、よりよく魅せること。はたてさんは元が可愛らしい顔立ちなんだから、無理して大人らしく見せようとすることはないわ」
ポーチから出てきたのは常備している化粧道具一式。厚めのファンデーションを拭ってやり、無理に盛ったアイメイクを落とす。
「変に白くしようとせず、ソフトに、ナチュラルに。はたてさんは血色がいいからピンク系の方が映えるかな。健康的で快活な印象に見える。チークを載せてみてもいいかもね。
あと、はたてさんは元々目がぱっちりしてるから、あんまり強調しようとしなくても平気。逆にくどく見えちゃうもの。こんな感じにアイシャドウでちょっと立体感を足せば十分ね。アイラインももっと軽めの色で、うん、これくらいかな」
と解説を交えつつ、薄暗い木陰で化粧を直していく。指だけ使い、手早く無駄なく。はたてからしたらおっかなびっくりであった。余りに手さばきが早いので、適当にまさぐられているだけのような感じがしたから。目を瞑ったまま、怯えの混じった表情でこちらに全てを託してくる天狗の少女は、アリスの目にも十分愛らしく映った。
「代わりにリップで少しアクセントを利かせましょうか……うん、かわいい」一つ頷き、コンパクトをはたてに渡す。「どうかしら? あり合わせの道具しかなかったから、ちょっと違和感あるかも」
はたてはそろりと目を開く。手鏡に映る少女は見違えるように自然な面差しを浮かべている。それが自分であることを確かめる為か、はたてはひっきりなしに顔を上下左右に振ったり、表情を変えたりしていた。
「うわ……」
「ご満足頂けた?」
にっこり笑うアリス。彼女としても会った当初から修正したかった点を直せて満足であった。はたてはぱぁっと顔を光らせる。表情に元の輝きを灯せたことも、アリスの心を満たす一要素となった。
「ごめんなさい、すごいびっくりしちゃって……」はたては胸が詰まって上手く言葉が出てこないふうだ。「何て言ったらいいか……でもすごい嬉しいです」
「お礼なんていいの。喜んでもらえたなら十分」広げた化粧道具をてきぱきポーチに収めながら、アリスは優雅に言葉を紡ぐ。「それより大事なのはその顔。自信にあふれた今の表情よ。それを忘れないでいてね。文と居る時もその顔でいられるように、はたてさんに必要なのはそれだけだから」
微笑みかけ、手で先へ進むよう促す。行き先は雑木林の中。はたては疑う様子もなく従う。アリスは半歩後ろへ。
「あの、アリスさん」はたてはどぎまぎした様子で持ちかける。「今度、アリスさんのお宅へお伺いしてもいいですか? ぜひ改めてちゃんとお話を訊いてみたいなって」
「ええ、喜んで」アリスは即答した。待ち構えていた問いだったから。「いつでもいらっしゃいな」
「ホントですか!?」
はたては跳びあがらんばかりに表情を踊らせた。こちらを向いた新米記者に、アリスは体を寄せる。
「もちろん。私もはたてさんとは気が合いそうだし、お化粧のこともさっきのだけじゃピンとこないでしょうから。家ならもっと色んな化粧道具が揃ってるしね」
「お裁縫のことも伺って宜しいですか?」
「私なんかでよければ幾らでもどうぞ」
とびきり愛想良く、アリスは申し出を引き受ける。はたてはすっかりはしゃいでいた。和気藹々と言葉を交わす姿は、見ようによっては仲睦まじい姉と妹のようでもあった。すべてアリスの思惑通り。
ぴたりと寄り添いながら木立の奥へ。この狡猾な人形遣いにすっかり魅了されていたはたてが、アリスの手を取って歓喜の声を上げたその時、急に視界が開けた。
「じゃあ今度お邪魔した時はぜひ――」
「あら、文じゃない?」
そう、二人の前に広がったのは、小さな空間――文と魔理沙が酒を酌み交わしていた場所だった。
*
アリスがはたてを籠絡しているさなかも、文は魔理沙と二人酒を続けていた。アリスに無視を決め込まれたのが大きかったのかもしれない。別にむきになったわけではない。あのまま黙って指をくわえているアリスでないと確信していたからだ。何か策を打ってくると。
だから文としては全くのふい打ちでもなかった。ただはたてが宴会に参加していたことだけは本当に予想外。こういう手口は頭になかった。もちろん文に表面上の動揺は窺えない。だが相方はそうもいかない――どちらの相方も、だが。
はたては絶句した。こんなところに文がいるなんて夢にも思わなかったから。先程までの上機嫌は何処へやら、今度こそ完全に表情を凍てつかせ、下を向くことすら忘れてしまう。この反応にはさすがの文も堪えるものがあった。
「なんだ、魔理沙も一緒だったんだ。どこ行ったのかと思ったら」
アリスだけが一人完全に落ち着き払っていた。開けた一角へ躊躇いなく足を踏み入れると、腰掛けたまま微動だにしない魔理沙へそろりと近寄る。こちらの魔法少女はといえば、積もり積もった酒気もたちまち霧散してしまったかのよう。さっと目を伏せる。今や場は完全にアリスの支配下。真ん中にあった酒瓶を全員へ見せびらかすように摘み上げる。
「なるほど、二人で隠れてお酒呑んでたってわけか。あんたららしいわね」と取って付けたような含み笑い。「魔理沙、大丈夫? 顔色が良くないわ。こいつがあんたにだけ酒を奢るなんて怪しいもの。変なものでも盛られたんじゃない?」
「あややー! 実はそのお酒ちょいと訳ありでして。ねぇ魔理沙さん?」
文はどうにか切り返した。魔理沙の返答など更々待たず、アリスと一人対峙する。
「あんまり大っぴらに呑めないものなんですよ。だからこんなところで。はたてなら知ってるでしょう? ねえ」今度ははたてを強引に巻き込もうとする。されどやはり返事はなく。「それよりアリスさんこそ、はたてなんかとこんなところで何――」
しかし文の悪あがきは通じない。文がそう言いかけた瞬間はたてが駆け出してしまったのである。それこそ脱兎のごとく。薄闇には雫が舞ったようにすら見えた。アリスは魔理沙の横に立ったまま、眼だけで文をなじる――「追わなくていいの?」と。
文は臍(ほぞ)を噛んだ。そしてアリスの狙い通り動く他思いつかなかった。はたてを追って駆け出す文。瞬間二人の眼が合う。交錯する火花。満足げな微笑を泳がすアリスを横目でしかと見届けながら、文は藪に飛び込む。木々を縫い、闇を駆ける栗色の結わえ髪を捕えんと。華奢な肢体に手を掛けたのは、林を抜ける一歩手前だった。
「はたてっ!!」
腕を掴んで引っ張る。はたては振り解かんともがく。
「いやっ、ダメっ!」
「はたて聞いてっ! あれは――」
「違うの。文、違うの……」
文が走りながらこさえた言い訳の文句は、はたてにするりと盗られてしまう。口に出せた側の方が、ずっと胸に響く声ではあったけれど。
「あれは、あの人とはたまたま席が隣になって話してただけで……だから違うの、そういうんじゃないの……ごめんなさい。でも信じて、お願い……」
動揺したのは告げられた方だった。文は誤解していた。はたてが逃げ出したのは、文が魔理沙と二人っきり、隠れて杯を交わしていたのを見てショックを受けたせいだと思っていた。でもそうじゃない。自分がアリスと親密に会話しているのを、文に見られてしまったから、なのだ。少なくともあの刹那はたてを苛んだのは、自らの不貞に対する罪悪感のみであった。
文は慄然とするものを感じた。同時に敗北感に似たものを覚えた。この後輩天狗が自分の予測に反する行動をしたのは初めてであった。文は力を込めて答える。
「別に、そんなこと疑っちゃいないわ。あの人形遣いは、他にちゃんと付き合ってる人がいるんだもの」
はたての顔が持ち上がった。文は視線を外さず続きを伝える。
「ほら、あんたも知ってるでしょ? さっき私と呑んでたあの人間」
「え、あの魔理沙って奴?」
「そ。もうずっと前から噂になってんのよ。だからね、はたてとあいつが、なんてことはありえないの」
はたての腕からみるみる力が抜けていくのを文は感じていた。もう逃げないだろうと察知して、彼女は掴んでいた手をほどく。はたては唇を噛んだ。
「え、あ、ゴメン文……あたしなんか勝手に勘違いして」
「だからいいって」文は頬を掻く。「事情を話してなかった私が悪い」
文は混乱していた。何故かさっきから言い訳してばかりな気がする。しかも無意識につらつらと、まるで本当に心底すまないと思っているみたいに。はたては遣る瀬無い気持ちを逃がしたかったのか、ぷいと横を向いて恨み言を垂れた。
「そうよ、そもそも文は何してたのよ。あんたとこで二人きりでさ……」
今更それを言うのかと文。本当に面倒くさい奴だと思う。
「いや、だから酔い潰してあれこれ訊き出そうと思ったのよ。あいつらの仲とかをさ。なんか二人でこそこそ妙な実験してるみたいだったし。そしたらあんたを出しにしっぺ返し食らったってわけ。まさかこう来るとはね……」
「え、じゃあ……もしかして?」
「そうよ」やっと先輩然たる態度で物が言えた。「次からは気をつけなさい。あの人形遣いは、ああ見えて相当の曲者なんだから。大方私が魔理沙と一緒にいたから、仕返しのつもりであんたをここまで引っ張って来たのよ。ったく……」
「そんなこと、ないんじゃないかな。あの人は、いい人だと思うよ……」
はたては思い出したように顔を上げた。視線は真っ直ぐ文へ、嫌な予感がした。艶っぽい口調になった気がしたから。
「あたしね、あたしやっぱり文のこと好きだよ」
迷い無い言葉であった。宵闇の下、文はようやく気付く。はたての表情が一変していることに。化粧の仕方が前と全然違う。この塗り方は、文がずっとドレッサーの姿身越しに見ていたのと同じ。びっくりするくらい可愛くなっていた。
そして何より面立ちに自信が溢れている。眼差しは一切揺るがす、文だけを射抜いている。彼女の知るはたてと同一人物とは思えなかった。いったい何時何処で誰が彼女をこんなふうに変えたのか――どきりと文の胸が跳ねる。
「こないだはちゃんと言えなくて、誤魔化しちゃったけど……でも今日はちゃんと言うね。好きだよ。冗談なんかじゃなくて、文のこと、本当に好きなの」
答えようとした舌が上手く動いてくれない。場を切り抜けるための美辞麗句は腐るほど頭に浮かべど、どれも今ここで口に出す水準に達していないことは明らか。文は認めざるを得なかった。自分ははたてみたいなのがとことん苦手なんだなと。こうも正面からばかりぶつかって来られるとやりにくくてしょうがない。すっかり調子が狂わされてしまう。
はたては動かない。動かせてくれない。今や押さえつけられているのは文であった。口が勝手に動き出す。どうして自分がこんなことを言ったのか、文には分からなかった。文だからこそ分からなかったのか。
「私こそ……ごめん。あの時ちゃんと答えてあげられなくて」両肩を掴んで、負けないくらいの眼差しを返す。「私も、はたてのこと好きよ。うん」
*
一方のアリス。こちらは走り去る文を笑みで以って見送ると、そのまま魔理沙の横へ腰を落とした。無論はたてを此処に連れ込むと決めた時点で、傷心の魔理沙と二人きりになる可能性が高いのは、彼女も織り込み済みのはずだった。けれど実際その状況に立ってみると、予想以上に気まずいものがあった。怒りや不快感に似たもの――しかもそれは自身へ向けられたものなのだ――さえアリスは覚えていたのである。
魔理沙はいつもの彼女が嘘みたいにおとなしい。色の失せた無表情で斜に構えた態度は、どこか不貞腐れた子供のよう。悪酔いのせいか、意気消沈しているのか――どちらにしてもアリスは見ていられなかった。
だからだったのかもしれない。こちらもまた普段のアリスからは想像もできないほど感情を滲ませた、当たり散らすような声で口を開いた。
「どうしたのよ、黙りこくっちゃって。あんたらしくもない」
「いいじゃんか別に。お前にゃ関係ないだろ」
「……あんたホントに大丈夫? どれだけ呑まされたのよ」
「さあ。んなもん覚えてない」
溜息を漏らすアリス。どうやら今の魔理沙には軽口を叩く余裕もないらしい。それどころか眼を合わせようともしない。転がっていた三角帽を掴み上げるついでといった感じで、アリスは切るように告げる。
「お水貰ってくるわ。あんたは少し横になってな――」
「待てよアリス」
ぐっとスカートを掴まれる。続けて腿にじんわりとした重み。正座するアリスの膝にはふわふわの金髪と童顔が載っていた。
「水なんかいらない。ここにいろよ」
アリスはひと際大きな嘆息を吐いた。一体の人形がふよふよと夜空を飛んでいく。
「私が直に取りに行くわけないでしょ」
顔に掛かった金糸を除けてやる。むくれた青い顔が、真上のアリスを凝視していた。
「何してたんだよ。あいつと」
「別に。席がたまたま隣になって、あれこれお話を聞いてただけ。文のこと、探してたみたいだったから」
魔理沙は眼を横へ逃がした。アリスは三角帽のほこりを払うと、持ち主の胸にそっと被せる。
「鴉天狗には随分と好かれるんだな。人形遣い辞めて鳥遣いにでもなったらどうだ?」
今出せる精一杯の皮肉だったのだろう。アリスは苦笑いを零してやる。魔理沙は中途半端な笑みで応えるだけ。
人形が水を持って帰ってきた。ハンカチを湿らせ、4つに折って額に被せる。水を注いだコップを火照った頬に軽く当て、少女の目に入る位置へ置く。魔理沙は片の手で両目を覆った。
また、後ろめたさをアリスは感じていた。それは先程はたての表情を曇らせた時と同じ。魔理沙の視線が途切れて、自由になったアリスは意識を自身の内へと向ける。ざわつきがあった。動揺している気がした。膝枕を許すなんて、自分らしくないなと今更ながら思った。でも同時にそれも良いかという、諦めに似た気持ちもあった。
ほんの僅か顔を持ち上げる。無音の林には、月影が煌々と注がれている。いつだか二人で満月を見に行ったことをアリスは思い出した。歪んだ月と終わらない夜、竹林の奥にあった屋敷に乗り込んで、薬師の罠に嵌ったあの日――思い返せば、あれが魔理沙と初めて出かけた夜だったなと。
「文からね、相談を受けてたの」金髪をさすりながら、水のように言葉を落とす。「さっき一緒にいた鴉天狗の娘に告白されたって。こないだもその話をしてただけ」
「だから誘い出して鉢合わせさせたってのか? ったく、アリスは変なところだけお人好しだな」
アリスの胸に不思議な想いが去来していた。魔理沙の瞳を見てみたいと思ったのである。掌のひさしに隠された先がどうなっているか、知りたいと。
「あのさアリス」魔理沙の口調が変わった気がした。「こないだからさ、どうも上手くいかないんだ」
「それって、あの術式の話?」
魔理沙は歯をちらっと覗かせた。
「なんかさ、もやもやして全然集中できないんだよ。ほら、こないだお前んちに飯作りに行ったろ。あの日から変なんだ。何やってても余計なことばっか頭に浮かんじまって、実験もろくすっぽ手に付きやしない。なんでだろな」
アリスは投げっぱなしになっていた魔理沙の手を握った。手を繋いだのは、たぶん初めてだった。
「それは上手くいってる証拠よ、きっと」
「……どうだかね」
そう吐き捨てて、魔理沙は寝返りを打ち横を向く。依然目元は隠したままだが、心持ち顔色がさっぱりしたふうに見えた。アリスは繋いでいた手をほどき、また髪を撫で始める。腿に頬を擦り付けられたが、これくらいは多めに見るべきだと思った。
「――おやおや、これはまた仲睦まじいことで」
藪からの声。あの慇懃無礼な声だ。振り向いた先にいたのは二人の鴉天狗。こちらは手を繋いだまま。
「あんたらこそ、ちゃんと仲直りできたの?」
「ええ、ご心配をおかけしました。おかげ様でこの通り」
と言って繋いだ手を見せ付ける。はたては恥ずかしそうに文の後ろへ引っ込んだ。でも膝枕をしていたアリスのことは、背中越しにもしっかり見届けたらしい。魔理沙も天狗達に気付いたのか、目を覆っていたひさしを下ろす。
今日一日振りまわされっぱなしだったはたてと魔理沙にとって、双方のカップルが見せる仲睦まじい姿は、お互いのパートナーが述べた釈明に絶好の裏づけを与えたようだ。特に魔理沙はすこぶる元気を取り戻したふうに見えた。
「よう、随分とべったりじゃないか。お前らそんな仲良かったのか?」だから自然と軽口も漏れる。
「ええ、めでたくこの度お付き合いすることになりまして、それでご報告をと思いまして」
と言って文はウィンクする。アリスに向かって。この意外と義理固い鴉天狗が最後に投じたおちょくりを、アリスは涼やかに祝福した。
「それはよかったじゃない。おめでとう」
我々妖怪は、如何なる状況下でもそれを愉しむ事をモットーとしている。
――書籍版東方文花帖:射命丸文
――書籍版東方文花帖:射命丸文
柔らかなベッドの上で、文は目を覚ました。
少し寝過ごしたようだ。掛けていたシーツを外し、体を持ち上げようとする。腰に重みを感じた。
「う、ん……文、どこ行くの?」
「どこって、起きるのよ」
ベッドの奥で丸くなっていたのははたて。絡みつく腕を文はほどこうとする。思いの外抵抗してきた。
「いいじゃーん……もうちょっと寝よ?」
「バカ言ってんじゃないの。ほら、あんたも起きなって」
文は体を振り回す。細腰がやっとのことで細腕から抜ける。はたてはシーツから顔だけ出して「……もう、いけず」と不貞腐れていた。ラベンダーのベッドから跳ね下りた文は、一路洗面所を目指す。
はたての部屋は、間取りだけで言えば文と同じだ。パステル調に統一された調度品の只中で、文は唯一纏っていたショーツを脱ぐ。ざっとシャワーを浴び、肩からタオルを掛けただけの格好で戻ってくる。香ばしい匂いが迎えてくれた。
「あ、もう出たの」
「うん。はたても入ったら?」
「あたしは食べてからにするよ」
はたてもネグリジェの上に一枚羽織っただけ。まだ髪も下ろしたままだ。寝起きにしか見られない彼女の姿だろう。
「文も食べてくでしょ?」
「ああ、ありがと」
どうやら朝食の準備をしていたらしい。文はおとなしく待つことにした。下着の上にシャツだけ羽織り、席に着く。手帖で今日の予定を確認しながら、キッチンに立つはたてを横目で追う。焼いているのはハムか何かか。原色そのままのやかんやフライパンも、お手製のテーブルクロスも、すっかり見慣れてしまったのか違和感一つ覚えなくなっていた。好みかと問われると、今でも答えに窮する部分があったが。
トースターが甲高い機械音を上げた。「文お願い」の台詞を待つまでもなく、同居人は席を立ってパンをテーブルまで運ぶ。ほぼ同時にハムも焼けた。
「コーヒーでいいよね?」
「うん」
やかんはまだ甲高い音を立てていないようだ。はたてはコーヒードリッパーにフィルターを載せ、粉を入れている。最近は豆を挽くところから自分でやるようになった。文からすれば何もそこまでと思うのだが、恋人はこれでなかなかに凝り性なのだ。"先生"の教えが細かすぎるせいかもしれないが。
「とりあえず先食べない? コーヒーは後でもいいじゃん」
「んー文は先食べてていいよー」
完全に沸騰する直前でやかんをあげ、慎重に湯を注いでいく。こうなるともう何を言っても聞かない。文は仕方なく先に頂くこととした。トーストを咥えながら、抽出具合を真剣に計るはたてを眺める。
「な、何じっと見てんのよ……」どうやら視線に気付いたらしい。途端に照れるはたて。
「別に」文はとぼける。「それよりほら、もういいんじゃない?」
「あっ」とふためくはたて。大急ぎでドリッパーを外す。部屋いっぱいにコーヒーの薫りが広がった。確かに煎れるのは格段に上手くなった。パンを焼くのも、化粧も裁縫も。
注がれたコーヒーを文はブラックで頂く。トーストを口に押し込み、続いてハムをぺろり。こちらのせっかちは依然癖が抜けないようで。
「はい、ごっそさん」
「なによ、もう食べちゃったの?」
食後のコーヒー片手に、文はどこか得意げな様子だ。はたては少し不満げ。ご丁寧にパンでハムを挟み、ぱくぱくと口に運んでいく。文はカメラの点検をしながら食べ終わるのを待つことにする。
「今日はどこ取材行くの?」となんとなしに尋ねるはたて。
「どこ行こうかねぇ。ネタ探すとこからやんなきゃ。まあ最悪妖精か巫女のところ行けば、なんかあるでしょ」と文。続けて「はたては今日どうするの?」と訊く。
「うーん。取材は済ませてあるから、後は書くだけなんだよねー」
はたては口に食べ物を詰めたまま喋っていた。ようやくこくんと飲み込むと、耳かき3杯程の砂糖を溶かしたコーヒーを啜る。そんな相方の一挙手一投足を、文はカメラレンズ越しにちらちら覗いていたようだった。
「じゃあ今日は一日缶詰めか。どうする? 帰りになんか買ってこうか?」
「いいの? じゃあお味噌が切れそうだったから、お願いしてもいいかな?」
「あいよ」
ふふっと幸せそうに微笑むはたて。もう一口コーヒーを含み、戸惑い気味に首を傾げる。しばし悩んでから砂糖をもう一杯注ぎ足した。どうやら口に合わなかったらしい。
向かいの文はコーヒーを飲み干すと、身支度を済ましに立ち上がる。今度ははたてがその様子を目で追う。
ベッドの上に転がっていたスカートを履き、シャツのボタンを留め、ベルトを締める。振り向くと食事を終えたはたてが立っていた。
「顎上げて。ネクタイ締めてあげる」
「……いや、いいって」
「遠慮しない遠慮しない」
構わずはたては首に巻き始めた。鼻唄交じりに首元をまさぐられるのは、文とすれば居心地の悪いところがある。無防備に身を任せる感覚に、首をくっと絞められる圧迫感が加わる。
「はいできた」
「あんがと」
姿見に視線を移す。赤いストライプのタイはやはり派手で、自分には合ってない気がした。もっとも同じ姿見に映る向かいの少女はたいそう満足げであったから、別に構わないのだが。
手櫛で軽く髪を整える。はたてから手渡された頭襟を被り、手帖と団扇、それにカメラを持てば身支度は完了だ。
「じゃあ行ってきます」
「待ってよ、一つ忘れてる」
はたては「ん」と顎を持ち上げた。文は思わず耳の後ろを掻く。本当にこれだけは、いつまで経っても恥ずかしさが抜けない。
「ねえはたて、もうそろそろこれ止めない? 子供じゃないんだから」
「だーめ。キスしてくれなきゃ、行かせてあげない」
はたては動かない。まぶたをそっと結んだまま、手を後ろで組んで、じっと待っている。文は渋々彼女の肩に手を載せた。
朝だから軽く唇をくっつける程度で。濃いのは昨夜散々したから。はたてはぱっと目を開いた。この時見せてくれる笑顔は、文もなんだかんだ言って嫌いじゃない。高下駄を履いて、彼女は恋人のアパートを後にした。
*
「どーもー」
とんとんと、窓ガラスを叩く音。ひっそりとした部屋ににこやかな声が響く。アリスは針仕事の手を一旦止め、玄関口へと進む。
「いらっしゃい」
「こんにちはー」
相変わらず文は愛嬌たっぷりだ。アリスは自分の胸元をとんとんと叩きながら、元気よく飛びこんできた新聞記者へ先制打を見舞う。
「よく似合ってるじゃない、それ」
「ああ、これですか?」言われるがまま文もワインレッドのネクタイを摘み上げた。「いいでしょう? わたくしももうすっかり気に入っちゃいまして」
「へぇ、そういうの好きだったんだ? ちょっと前まで年中同じ格好しかしなかったあんたが、人って変わるものね」
「ええ、朱に交われば赤くなると言いますし。お付き合いする相手が変わってわたくしも趣味が良くなったのではないでしょうかね」
「なるほど。今度"あの子"が遊びに来た時にそう言っといてあげる。前のとは大違いだってあんたが褒めてたわよって。きっとあの子喜ぶわ」
傍目には和やかに、その実辛辣さを潜ませたエスコート。含みのある会話を交わしながら二人はリビングへ。
「今コーヒー出すわ。ちょっと待っててね」
アリスも負けず劣らず余裕たっぷりだ。忙しないのは部屋を駆け回っている人形だけ。客人が席に着くのも待たず裁縫仕事に戻る。縫っていたのは黒く、一際大きな三角帽子――文も散々見慣れた帽子だ。
「修繕ですか?」と自然に切り出した文、アリスは顔も上げず「違うわ」と答える。
「こないだ約束したのよ。スペア持ってないって言い出すもんだから」
針は舐めるように布地を這う。時たまくっと持ち上がり、糸がぴんと張る。文は頬杖をつきながらしばし針の演舞を眺めていた。
「今日は、これまでお世話になったお礼とお別れの言葉をお伝えせねばと思いまして」
文はいきなり本題に入った。アリスは目線だけを上げる。しばしの見つめ合い。きょとんとする人形遣いへ、鴉天狗は小さく首をすくめる。
「意外ですか?」
「いえ、ちょっと見直しただけ」
「あややーひどいですー」文はひょうきんに身を揺らす。「わたくしこれでも基本真面目で清く正しい射命丸で通ってるんですよ。正式に交際を始めた相手がいるのに、アリスさんと今の関係をだらだら続ける気はありません。ほら見て下さい。これアリスさんを盗み撮りした写真です。わたくしなりのけじめを見せる意味でも今この場で処分させて頂きます。あの子に念写でもされたら、アリスさんにとっても不都合でしょうしね」
そこまで言い切ると、胸元から取り出した写真をアリスへ見せつけた。ドレッサーに腰掛けるアリス、寝起きのアリス、シャワー上がりのアリス、寝顔のアリス――よくぞまあこれだけ撮ったという写真は、どれも人形遣いを冷やかす為だけに写されたものだ。文はその写真をまとめて掴み上げると、これ見よがしに掲げながら、細々になるまで手で裂いた。
見え透いた小芝居は、向かいのアリスにさしたる関心をもたらさなかったらしい。気のない声で返した。
「それはほっとしたわ。この写真をネタにゆすってくるんだろうなって、心配で夜も眠れなかったの」
「見くびられたもんですねぇわたくしも。そんな碌でなしじゃございません。魔理沙さんに隠れてわたくしとイケないことしてた誰かさんじゃあるまいし」
「ああそうなの。そっちは正直意外かな」アリスは手仕事を再開する。「それで、どうなの。はたてさんとは?」
文は頬杖の上で含み笑いを浮かべる。ちっとも反応してくれない相手を愛でるように。
「それはわたくしに訊かずともよぉく御存じなのでは? はたてから散々聞いてるでしょう」
「そりゃあの子が幸せそうなのはよく知ってるわよ。あんたはどうかって訊いてるの。大丈夫? 慣れない共同生活は辛くない?」
文は思わず苦笑した。飛んできた嫌みへ皮肉たっぷりに答える。
「いえいえ。お陰さまで料理も、裁縫も、コーヒーの煎れ方も見違えるように上達いたしました。化粧を覚えたせいか、色気なんかも最近出てきましてね。あの子が日々愛らしく成長する姿を間近で見ることができ、わたくしも毎日がハッピーですよ。そのうち髪を金色に染めて、しかめっ面しながら人形でも作り始めるんじゃないかと今からワクワクしております」
アリスもようやく顔を上げてくれた。涼やかな面持ちを互いに見せつけ、にやりと笑みを交わし合う。同時にコーヒーを持った人形達が到着した。
「私はただ、はたてさんが教えてほしいと言ってきたことにその都度応じてるだけよ。こっちの趣味を押し付けたりなんかしてないわ。寝とり魔みたいに言われるのは心外ね」
「あや滅相もない。私は単にアリスさんって心底悪女なんだなあと再確認しただけですよ」
「そりゃどうも。さあ召し上がれ」
そうこう言い合っているうちに支度が整った。甲斐甲斐しく働く人形たちと会釈を交わしてから、文は早速カップへ砂糖とミルクをつぎ込む。そして一口。
「ふーむ、やっぱり本家にはまだまだ及ばないかなあ……」
しみじみと呟いてみせる。アリスは眉根を寄せた。あんなにたくさんぶち込んでおいて味も薫りもないだろうと思ったから。耳かき3杯ほどの砂糖をティースプーンに取って、コーヒーに落とす。スプーンでかき混ぜるかちゃかちゃという音だけが、しばしリビングに響いた。
「そんなことないでしょ? はたてさんはよく頑張ってる。あんたのために」
そう言いながら目配せする。文はぱっと背もたれに身を預けた。そのままおどけるようなしぐさで無言の責めをいなす。
「もちろんです」文はカップを取る。「ですからアリスさんには感謝しているのですよ。これからもあの子のこと、宜しくお願いしますね」
「喜んで」アリスもカップを取った。「私もうっかり寝とったりしないよう気をつけるわ。こわぁい新聞記者さんが眼を光らせてるみたいだから」
鏡合わせのように口をつけ、カップを置く。向かい合ったのは小生意気な営業スマイルと、小憎らしい澄まし顔。間に飛び交うのは悪態と皮肉ぐらいのもの。なのにとびきり愉楽に満ちた、ひねくれ者の笑みが二つ。
「魔理沙さんとはその後如何ですか?」
すっと、絶妙な間を挟んで文は問うた。縫い止しの三角帽をちらつかせながら、アリスはさらりと答えを返す。
「まだ実験は継続中。一応乗りかかった船だしね、区切りのいいところまでは付き合うつもりよ。魔理沙が飽きるか、死ぬかするまでは」
文はふっと笑みを浮かべる。多分一番の笑みであったろう。アリスも釣られて相好を崩す。
「――死が二人を別つまで、ですか」手帖をパチンと閉じた。「なるほど。それさえ聞ければ十分です。お邪魔しました」
残りのコーヒーをくいと一気飲みして、文は慌ただしく席を立った。アリスは真っ直ぐ顔を上げる。
「あら、もう行くの?」
「はい。色々予定も詰まっておりますし」
「そ」
大仰なしぐさで頭を下げて、カップを片づけに来た人形の頭をぽんぽんと撫でる文。はしゃぎ回る姿は最後まで愛嬌たっぷりだ。アリスも立ちあがる。見送りかと思った新聞記者は、握手でもと近付く。腕を組んだままの人形遣いが矢庭に口を開いた。
「そういえばずっと訊きたかったんだけど、なんであんたは私の"修行"にわざわざ付き合ってくれてたわけ?」
ずっと取って置いた問い。ずっと待ちかねていた問い。文は瞬間真顔をつくる。とっときの当惑顔を。アリスはじっと相手を見据えたまま。じりじりとした緊張感――きっともう味わうこともないだろうと、互いにどこか名残惜しそうに。
文は目を反らす。耳の後ろをぽりぽりと掻きながら、照れくさそうな面持ちをする。
「聞きたいですか?」
「ええ、是非」
「どうしても?」
「別にいいじゃない。もうそういう仲じゃなくなったんだから」
はにかみながら、文は指でちょいちょいと質問者を招き寄せる。アリスはあえて無防備に従った。顔を寄せ、耳を貸してやる。「実はですねぇ……」と文はようやく届くような声でささめく。耳を欹てていたアリス、瞬間ぐっと顎を掴まれ、引き寄せられる。瞳いっぱいに広がったのは、してやったりの表情をした文であった。
「――っ!?」
アリスが覚えていたのは、唇に残る柔らかな感触だけ。初めてのキスはあまりにあっけなくて、記憶にも残らなかった。首に抱きつく文は、鼻と鼻が擦れ合わんばかりの距離でにひひと笑っている。そう来るのかとアリスは苦笑いするだけ。
「やりました! 遂にゲットしちゃいました! アリスさんの唇」抱き合ったままきゃっきゃと飛び跳ねる。「どうでした? わたくしとの念願のファーストキス」
「……砂糖とミルク入れすぎたコーヒーの味がした」
唇を拭いながら、アリスは何事もなく言い返す。文はにんまり顔であった。スキップするようにアリスから離れ、おちょくるみたいに指を振る。
「女を一番きれいに見せるのは"秘密"ですよ、ア・リ・ス・さん。だからこれ以上は教られませーん!」
悪戯っぽく舌を出し、くるりと踵を返す。黒髪をふわふわ揺らしながらドアまで進み、ノブを掴んだ。
「――シャワーは貸さないけど、お茶くらいならいつでも出すわよ」
その背中へ一言。文は振り返る。たまらなく魅力的な少女が立っていた。何もかもうっちゃってこの娘と一緒にいたい――そんな迷妄に思わず身を任せたくなる程の。
「なんなら、お二人一緒でも構わないけど? 目の前で不必要にイチャついたりとかしないなら、喜んでご招待する」
「考えときます」
文も見返り姿のまま顔をいっぱいに綻ばす。このまま出て行ってしまうなんて、耐えられない――そんな変心を誘い出そうと。
アリスはひょいと首をすくめる。文は躊躇なくドアを開け、リビングを飛び出していく。
「じゃあ、ご馳走様でした」
「お粗末さま」
最後に交わされたのはごくごく簡素な言葉。ドアが閉じられて、そして二人は別れた。
―了―
ややくどく感じました。
ラストは綺麗な恋話としてまとまった感じがします。
魔理沙の印象が他3人に比べてやや薄めなのが惜しかったかな。
感想書くのは苦手なんで一言
とっても面白かったですよ!
やっぱり魔理沙が薄いかな、とは思いましたけど
ごちそうさまです
緻密な描写で生彩に富んだ二人の生活を生々しく切り取るのが上手だなあと思いました
確かにちょっとくどいけど、文章のうまさも相まってさして気にはならなかったです。
そしてアリスと文のキャラ付けも実にいい。素直になれない二人っぽさがちゃんと描かれてると思います
むしろラストがきれい過ぎな気がしなくもない
おしゃれ風なテキストと雰囲気
なかなか読み応えのあるやりとりと長さ
おもしろかった
文とアリスが勘違いの偏屈男みたいに思えてしまったのが原因かも
ただ、そういう視点からはすごく面白かったです
アリスと文の関係がとても好み
そして、文の心理描写が緻密でよかった。
文章も好み。
満足です。
文さんもアリスもこえー、っと終始にやにやしながら読みました。
でもてっきり魔理沙とはたてにそれぞれ呆れられてアリスと文がそのままずるずるだらだら流れるラストかと予想してたら裏切られたww
次はストレートな文アリ書いてもいいのよ?(チラッ
それをはたてが念写しちゃうフラグかと思いきや違ったか・・・
正直、ちょっと敬遠気味なジャンルだったんですがこれは面白かったわー。
魔理沙とはたてだけじゃなく、あくまで直球を投げない事に拘る文とアリスもなんかいじましくて可愛かったです。
や、実際こういう人に遭遇したら余裕で手玉に取られそうで怖いですけど。
ただ、欲を言うとここでひねくれ二人の心情を読んだ上で直球を投げてくるキャラ(個人的に霊夢とか)が出て来て更に引っ掻き回すのを見てみたかったです。面白そう。
あと最後に一つ、題名でちょっと損してるかもしれないです。
私がこの作品読むまで幾分間が空いたのが題名から厨二っぽい空気を感じて手が出し辛かったという理由ですので。余計なお世話やも知れませんが参考になれば。
では、大変面白いお話をありがとうございました。持ってけ満点!!
2人とも「確固たる自分」というよりは「周りに合わせて変わる自分」を確固たるものとして持ってるように感じました。
似た者同士の2人。こんなことを考えるのはアレですが、何らかの理由でお互いパートナーを失ったら
また関係を築けそうな。
ゲームの行方はアリスに軍配が上がり文の挑戦は惨敗に終わった、と思ったら最後の最後に文が切り札を出して一矢報いた感じ。さすが天狗、やられっぱなしで終わらない。
それにしても最後の数行を見てると実は文はアリスを手に入れたかったんじゃないかと思ってしまいます。もちろん無理は承知で。
しかし魔理沙もはたてもとんだ連中に惚れたもんですね。
腹に一物抱えた者同士のこういう関係性は個人的に新鮮に感じました
良いSSでした。
どこに真意があるのかわからないあたりがモヤモヤしていいですね
楽しい、とか鳥肌、とか全然なかったですが、とても面白かったです
文とアリスがくっついて終わるかと思ってたので、意外でした。
本当にありがとうございます。楽しい時間をいただきました。
甘苦かったです。
こんなアリスが読みたかったと言わざるを得ない、理想的なアリスでした。
文や魔理沙、はたてたちもよく描写されていて、読んでいて心地の良い作品だと感じました。
充実した時間を、ありがとうございました。
面白かったです。
人間関係の生臭さが少々ですが強めに感じられました(個人の好みの範囲ですが)
構成上はたてや魔理沙がうぶなのは理解できるけど、海千山千の相手にあっさりNTRられてしまいそうで先行き不安です
文とアリスは非常に魅力的なキャラですが、二人を中心に据えたお話はうれしかったですよ
初であれ、翻弄に一役かったはたても、奔走させられながらもいみじくアリスを思う魔理沙も、キャラが立っていたと思います。
一人のキャラの様々な面が見れる作品は、良作。
御馳走様でした。