ぺたぺたぺたぺた。
うっすらと水気を帯びた両足を何とか駆り立てて、少女は走る。紅潮する頬、上下する肩。切れ切れの息は動揺の思いに満ちていて、白く宙に浮かんでは消えていく。
(「まさか魔理沙がっ……」)
濡れそぼった金髪がじっとりと頬に絡みついて鬱陶しい。少女はぐい、と頬を拭い、なお走る。髪にぶら下がる玉のような雫が飛び散る度に、板敷の床に透明な痕を残す。
(「まさか魔理沙がっ……!」)
目指すは自室。ひたすら長い廊下をただ走る。早く荷物をとって、こんなところからはさっさとおさらばしなければならない。
(「まさか魔理沙があんな最低の奴だったなんてっ!」)
暗い暗い長回廊、凍み入る寒さを堪えながら、アリス・マーガトロイドはバスタオル一枚に身を包み素足で駆けていた。
‡
ふと窓の向こうを見遣ると、五月の陽に燃ゆる新緑が慌ただしく揺れていた。嫌な風だ。どっかの誰かが箒で空気を切るようなそんな風。軽いため息を吐き、キッチンへと足を運ぶ。二人分のカップにソーサー、スコーンとクリーム。
「よう」
案の定、キッチンから戻ったアリスの目に入ったのは霧雨魔理沙だった。さも当然のように席についている。きちんと帽子を脱いでいるあたり行儀がいいのか悪いのか。手には葉書程度の紙をぷらぷらさせている。
「温泉?」
「ああ」
「どうしてまた」
「なんだかさとりたちが開いた温泉旅館の招待券が当たってな。なんと二名様一組のやつ」
そうだ、温泉にいこう。紅茶をずずっと啜った魔理沙が開口一番発したセリフは、相変わらず突拍子もないものだった。
そもそもなぜ温泉なのか。その始まりは霧雨魔法具店に届けられた一部の新聞らしい。
今朝、お気に入りのナイトキャップを被り、安眠を貪っていた魔理沙を突如轟音が襲った。店全体を貫く衝撃に跳び起きた魔理沙が目を白黒させて表へでると、そこにあったのは木製の扉から生えている新聞。やれやれ、またあの天狗かよと万感の思いをため息に換え、斧のごとく突き刺さるそれをひっこ抜くと、見慣れない葉書がこぼれ落ちる。曰く『大当たり!お二人様でいくペア地霊殿温泉旅行』。
「購読なんてしてないけどな。まあ、せっかく当たったんだから行かない手はないぜ」
「それで私のところへ来たのね」
「うん」
「へー」
「な、なんだよ」
紅茶を片手、頬杖をついてマリサをじっとりとにらむ。また、妙な魔法の実験だとか、地底に生えるキノコの収集だとかを手伝わせる魂胆だろうか。魔理沙と温泉だなんて願っても無いことだけれど、熱に浮かされた後の落胆ほどつらいものはない。
「べつにー。何で私なのかと思って。霊夢とか温泉好きじゃない。誘わないの?」
「まあ、そうだけど……。ほ、ほらっ、アリスには普段から世話になってるから。炊事、洗濯おまけに掃除と。だからたまにはお礼でも」
確かに理由としては真っ当だ。慌てた素振りが少し気にかかるけれども、魔理沙のせっかくの気遣いを無碍にはしたくない。
「あら、殊勝ね。じゃあ、仕方がないからお言葉に甘えさせてもらおうかしら」
「お、決まりだな。明日迎えにくるから待ってろよ」
「はいはい。なるべく楽しみにしないで待ってるわ」
箒にまたがり、浮かれた気配で去っていく魔理沙だったが、その気持ちはアリスも同じで、一挙一足に桃色の柔らかい空気が満ちている。鼻歌なんて歌ってしまいそうな雰囲気だ。
ティーセットを手際よく片づけながら逡巡する。さて、温泉に行くと決まったら当然準備をしなければならない。身体の手入れはもちろん、着替えに下着の選定、化粧は妥協にするにしてもなるべく細部まで気を巡らせる。失敗は許されないのだ。
何せ魔理沙との初めての温泉旅行。
いつぞやの異変の際は逃したものの今回ばかりは。降って湧いた幸運はものにせねばならない。
改めて考え直すとアリスの頬は林檎のように紅潮した。これまで魔理沙が自宅に泊まることは何度もあったけれど、一緒に入浴というのは当然ない。普通の友人としての適当な距離を自分なりに保ってきたつもりだった。
しかし、今日まで続いた微妙な友人関係は、明日を境にして一線を越えてしまうかもしれない。魔理沙からの誘いを受けて、そんな淡い期待とも不安ともつかない思いが、胸に渦巻くのをアリスは感じていた。
「ふう……」
ティーセットの片づけを終え、気分を落ち着かせるためにベッドに腰をかける。軽く伸びをするとぱきぽきと小気味のいい音がする。
あれで魔理沙も意外に気が利くものだ。完成させたい試作品のために根を詰めていたからだろうか、最近やけに肩が重い。人間とは違うといっても、それでも疲れは溜まるし、降り積もれば精神的疲労にもつながってしまう。魔理沙もその辺りを薄々と察してくれていたのだろう。さりげない観察眼は、なるほど腐っても魔法使いのものである。
「私のこと、思ってくれてるのかな……」
横たわり、ひとりごちる。スプリングの軋むかん高い音とともに身体が沈む。大きく深呼吸をすると、さわやかな空気が肺いっぱいに入ってきて、箒で飛び立つ魔理沙の後ろ姿が想起された。なんだか頭がかき乱される。
斜に構えた太陽がカーテン越しにゆらゆらとした赤みを落とす。その不安定な色味に、アリスは自分のおぼろげな期待を重ねるのだった。
‡
絶好の温泉日和、というのがどんな天気を指すのか分からないけれど、今日がいい天気ということは確かだった。 五月晴れのからっとした風がアリスと魔理沙の髪を攫って、棚引かせる。アリスは魔理沙の操舵する箒に横座りになって、地霊殿の運営する温泉へと向かっていた。
「今日は風が気持ちいいぜ」
「そうね。やっぱり箒に乗った方が気持ちいいわ」
「だろ? 魔法使いといったら箒だな」
「私は嫌だけど」
「どうして?」
「だって都会派だもの。箒なんて野暮よ」
「はいはい……じゃあ掃除機にでも乗ればいいじゃないか」
けたけたと笑う魔理沙の後頭部にでこピンをお見舞いする。馬鹿にされたのが悔しかったり嬉しかったり気恥ずかしかったり。べしっ、べしっ。年下のくせに生意気な奴だ。箒の操舵で手が放せないのをいいことに思う存分意趣返しをする。ふんわりと舞う魔理沙の髪は若葉の香りをめいっぱいに含んでいて、いい匂いだ。
「いたっ、痛いぜ、アリス。ごめんごめん」
「だーめ。温泉につくまで止めてあげない」
「勘弁してくれよ。そこだけ禿げちゃうぜ」
「愛のしるしだもの。感謝なさい」
「そんな愛があってたまるかよ」
「ふふ、じゃあ許してあげるからこっち向いて。ね」
アリスはいじらし気に、ぐいぐいと魔理沙の袖を引く。
「んなこと言ったって今は箒が」
「いいから、早く。私帰っちゃうわよ」
「なんだよ……」と面倒そうにぼやいて振り向く魔理沙は、やっぱりちょっと赤くなっていて、どこか恥ずかしそうにもじもじしている。
わざとその黄色の瞳をじっと覗きこんでいると、まるで太陽を眺めている気分になった。数秒経つと、魔理沙は真っ赤な顔を戻そうとする。
だから、
ベシッ!!
おでこに特大の一発をお見舞いしてやった。
「いってぇ!」
額を抑えて嘆く魔理沙をみて、アリスは笑う。魔理沙だってわたしをからかって笑ったのだから、これで対等だ。等価交換は魔法の原則。
「だからって他に何かあるだろ……」
「ふふ、いいじゃない、別に。ほら、もう少しで神社よ」
「人の不幸で笑うなんて流石魔女だぜ……」
下らないやりとりをしていると、眼下に博麗神社が見えてくる。灰色の石階段が連なって、その先には際立つ朱の鳥居。鎭守の杜は若葉と深緑で濃淡を描きながら本殿をぐるりと取り囲み、陽を照り返す瓦は黒々と輝いている。
そんなのどかな光景の中心で、紅白の巫女装束に身を包む少女と背中に黒い翼を付けた少女が言い合いをしている。
「おっ! 霊夢に文じゃあないか。昼間からなにいちゃついてるんだ」
箒から降りるが早いか魔理沙は二人に駆け寄った。博麗霊夢と射命丸文だ。
「あややややや、これは魔理沙さんにアリスさん。あなたたち二人には言われたくないですね」
「まったくだわ。ていうかいちゃついてないし。そもそも文が悪いのよ」
ばさっ。勢いよく霊夢が広げた紙は「文々。新聞」。
「そんな……霊夢さんは私の新聞を読みたくないと仰るのですね」
「そこまで言ってないでしょ。配達方法を変えろって言ってるのよ。毎回毎回縁側に突き刺されても困るの。むしろどうやってるのか気になるわ」
ジト目で睨む霊夢とたじろぐ文の二人は、例の新聞配達の方法について揉めているようだった。
「ああ、うちにも刺さってたぜ。まあ、迷惑半分、感謝半分ってとこだがな」
少しはにかんだ笑顔でそう言う魔理沙を見て、霊夢が訝しがる。
「感謝? 変な奴ね」
「はは、まあな。それじゃちょっとお暇させてもらうぜ。なんせこれから探検に行くんでな」
「探検じゃないでしょ?」
魔理沙の不穏な発言にアリスが口を挟む。
「ごめんごめん。冗談だよ。じゃあまたな、お二人さん」
くるりと箒を構えると、魔理沙とアリスの二人は縦穴の方へ浮き上がり、やがて見えなくなった。
神社に残るのは霊夢と文。言い争いも済み、縁側で出涸らしの茶を啜っている。
「あいつら地底にでも行くのかしらね」
「そうみたいですね、霊夢さん。お熱いようで羨ましい限りです」
「あんたの羽も時々暑苦しいけど」
「冬は暖かいですよ」
「羽毛布団は間に合ってるわ、あいにくね」
「それは残念……」
湯呑みを置くと、文はすっと胸からキセルを取り出し、一服。
のどかな青空に紫煙が一筋、流れるそれをぼんやりと眺める。
「落ち着きますねぇ」
「そうねぇ……って、あんたも地霊殿に行くんじゃなかったっけ?」
「あはは、そうなんですけど。追いついちゃってもまずいので、時間でもつぶそうかと思いまして。これが終わったらいきますよ」
口からわっかを吐き出す文。
「また何か企んでるの? あんた。取りあえずお土産、温泉卵。よろしくね」
「了解ですよっと」
文が手首を返しキセルの首を叩くと、まだ少し赤い火種が吐き出される。下駄で器用にそれを踏みつぶすと、そのまま地面を踏みしめ、飛翔する。
一瞬、強い風が吹いたかと思うともうそこに文の姿はない。宙を漂う二、三の羽根と空の湯呑み、そして茶を啜る霊夢だけが縁側にちょこんと座っていた。
‡
地霊殿旅館は意外にも純和風の佇まいだった。陽も当たらないと言うのに、間口に続く石畳には打ち水がされており、古風な玄関を構えている。おそらくは地底に昔からある古民家などを買い取り、修繕するかたちで利用しているのだろう。杉材の柱に滲む黒染みや、風雨に欠けたであろう瓦は長年家屋を支えてきた威厳を示している。
「おお、随分と本格的だな」
「人のものを盗んだら駄目よ」
「いきなり人を泥棒みたいに言うなよ」
「じゃあ、考古学者?」
「違う。お客様だよ」
「その通りだといいのだけど」
魔理沙ががらがらと格子戸をあけると、着物に身を包んだ女性が二人、しずしずと小袖を丹田の前に重ねて座っている。古明地さとりと火焔猫燐だ。
「ようこそいらっしゃいました。霧雨魔理沙様、アリス・マーガトロイド様。この度は遠路はるばるご足労いただき感謝しております」
「お、おう」
アリスが横を見ると魔理沙は戸惑っている。地霊殿旅館は予想以上に旅館の体をなしていて、むしろこちらが気後れしてしまいそうだった。
「ああ、そんなご遠慮なさらずにくつろいでくださいな。我々としても商売ですから、この程度のことは当然ですので」
胸元の第三の眼が煌々と光る。どうやら着物であろうと外に出すものらしい。
「じゃあ思う存分羽を伸ばさせてもらおうかしら。随分立派な造りみたいだし、落ち着けそうだわ」
「それは有り難いお言葉です。お燐、ご案内を」
一通りの会話の後、燐が恭しく頭を下げ、客間へと連れだってくれる。さとりが女将、燐が仲居といった感じだろうか。板敷の床を音もなく擦る白足袋は、流石猫というべきだろうか。
延々と続く回廊は迷路の様で、竹林の屋敷を想起させた。襖が途切れることはない。先へ進む魔理沙に続くとまるで永夜異変のようだ。異なるのは兎ではなく猫に先導されていることと、お目当てが月ではなく温泉であるということぐらい。好奇に光る魔理沙の目は考古学者もとい盗賊の目だ。せっかくの温泉なんだからもめ事はお断りしたいのだけど。
「こちらがお客さんたちのお部屋だよ」
燐に通されたのは十二畳程度の、いかにも温泉旅館といった質素な部屋だった。二脚の座椅子、卓袱台、青磁の花器に活けられた二輪の花、それと掛け軸。必要以上も以下もない、よく誂えられている。
「お部屋を出て右手に階段。それを下ったところに浴場があるからね。お夕飯の方は追って係りのものが案内にくるから」
燐が急須から熱い緑茶をそそぐ。湯呑みに収まった暗緑色の液体は目の冴えるようなきりりとした香りを立てている。
ぴんと猫背を伸ばし、正座をした燐が礼をする。
「あ。あと階段の手前にある扉には触れないでくれると嬉しいな。従業員の休憩所になってるから、あんまり見ても気持ちのいいものじゃないと思うよ。じゃあまたね!ごゆっくり」
すすす、と襖が閉じられると、部屋にはアリスと魔理沙の二人だけが残された。
荷物を下ろすと、決して短くはない旅路の疲れが段々とやってきて、アリスは二、三息を落として座椅子に腰掛ける。
魔理沙は案の定部屋の探索に勤しんでいるようで、押入の中に畳まれている布団を裏返してみたり、掛け軸の裏に秘密の入り口がないか探してみたりと忙しそうだ。少しは落ち着けばいいのに、そう思った矢先のこと。
魔理沙は部屋の出口へ通じる襖に手をかけ、言い放った。
「さて、探検と洒落込もうか」
「待った」
そそくさと襖を開け、駆け出そうとする魔理沙の襟をアリスが掴む。ぐぇっとひしゃげた声を挙げて、せき込む魔理沙。
「なっなにするんだ……」
「せっかく出してくれたんだからゆっくりお茶でも飲みましょうよ。温泉に来たんだからちょっとは落ち着きなさい」
「ま、まあ、それもそうだな」
到着していきなり面倒なんて起こされるのはアリスもごめんだった。予想以上に聞き分けよく席に着いた魔理沙に安心して、湯呑みを口に運ぶ。
目を軽く閉じ、そそり立つ香りと苦みに感覚を傾ける。
やはり良いお茶だ。口の中で転がすと、目の冴える香ばしさが鼻孔を抜けてすがすがしい。
閉じていた瞼を上げて魔理沙の様子をうかがう。
「ぶっ」
魔理沙はおもむろに服を脱ぎ始めていた。突如現れたあどけない肢体に白い下着、ほんのりと汗ばんでいるその姿に、思わず飲んでいた茶を噴いてしまう。
「ちょ、ちょっと! 何いきなり脱いで・・・・・・」
「え? なに言ってるんだ、アリス。温泉といったら浴衣に限るぜ」
「あ、あぁ」
魔理沙はするりと着替えるとアリスに浴衣を渡してくる。白地に河原撫子が染め付けられている。ふと目を上げると、魔理沙の浴衣は紺地に鮮やかな黄色の菊が踊っていて、よく似合っていた。
着替えを促す魔理沙に見えないよう、アリスもこっそりと着替える。あとでどうせ裸になるといっても恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。それに、心の準備もまだない。
「おっ、似合うじゃないか」
「……ありがと」
白地の上に淡紅色の河原撫子が数輪。細く、儚い花弁が糸状に細裂してまばらに走っている。アリスの肌が白いのも相まって、彼女自身に花を落とし込んでいるようだった。
なまじ自分でも気に入っただけに、魔理沙からの素直な言葉はアリスもうれしかった。
‡
どこか遠くから獅子脅しの音色が響いて、部屋に染み入っては消えていく。
浴衣に着替えた二人は、ゆっくりと流れる時にまばらな会話を散らして過ごしていた。
「こうやってアリスと過ごすのも新鮮だな」
湯呑み片手、茶請けの饅頭片手に魔理沙がつぶやく。
「そうね」
緑茶を紅茶に茶請けを洋風にすれば普段と同じようにも思えるけれど、それでも二人の間に漂う空気はアリスにとって新鮮なものだった。
緊張と安らぎ。その相入れない二つが仲睦まじく同居している雰囲気だ。魔理沙の何気ない挙動が、奇妙な緊張感を伴って立ち現れてくる。それはどこかよそよそしいのだけれど、必ず柔らかな温かみを帯びていて、アリスを不思議と安らかな気持ちにしてくれる。
魔理沙の急須からお茶を注いでくれる仕草だって、沈黙を破るように言葉を紡ぐ唇のかたちだって、いつもなら何てことのない動作の一つ一つが新しい意味をもっているようだ。
ああ、きっとこれが既存の関係を捨てて、新たな関係を築き始める二人の間に流れる空気なんだと、アリスは察した。蕾がその花弁をようよう開かせる瞬間、蛹が蝶へ羽化する緊張を伴った瞬間。自分たち二人の関係も、今日を機に花を咲かせることになるのだろうか。
そんな淡い期待をアリスが浮かばせていると、魔理沙の声が耳に入る。
「な、なあ、アリス」
「なにかしら」
「ちょっと話があるんだ……。あのさ、今日わたしが温泉に誘った理由って覚えてるか?」
「ええ、当たり前じゃない。昨日のことだし。日頃のお礼のためでしょう」
「まあそうなんだけど……」
「丁度、研究に根を詰めてるところだったから助かったわ。初めはまた何か企んでるのかな、って疑ったりもしたけど」
「酷いぜ……旧地獄キノコ狩りツアーとか?」
「ふふ、そうそう」
また、ひどいぜ、とだけ言って魔理沙はいじけたようにそっぽを向いてしまった。日頃の行いよ、なんて返してからかいたい気持ちもあったけれど、せっかく誘ってもらったのだ。感謝を伝えるのが筋というものだろう。
「でもたまには旅行っていうのもいいわね。すごい落ち着けるし。誘ってくれてありがとう魔理沙」
「う、うん……」
ややどもりながら、再びそっぽを向いてしまう。よくよく目を凝らしてみると耳の先はほんのりと赤く染まって、机の上に置かれた小さな手が不規則にリズムを打っている。
「それで話ってなに?」
「じっ実はわたしが誘ったのにはもう一つ理由があってだな……その、アリスに言いたいことがあるんだ」
がばっと有り余る勢いでこちらに向き直る魔理沙の顔はさっきよりも赤みを増していて、その突然さにアリスの方も戸惑ってしまう。
「い、いいか?」
「え……うん」
熱を宿した黄色い瞳はアリスの顔をまっすぐに見据えている。その目線から魔理沙の並々ならぬ緊張や覚悟が伝わってくるのを感じると、アリスの脳裏に先ほどの期待が走った。
蕾が花開く瞬間。
もしかしたらそれが今なのかもしれない。
「あのだな……その……」
「えーっと……」
「うん……」
魔理沙は正座をしたかと思うとすぐに崩したり、両の目をきょろきょろと動かしてせわしない。
一方のアリスも、突然の展開に視線を魔理沙の顔へ向けることができずにいた。
少し前の落ち着いた雰囲気はどこかへ霧散して、衣擦りの音や魔理沙の声ともいえない声ばかりが響く。
「わたしは、アリスのことが・・・・・・!」
ついに意を決した魔理沙が、アリスを正面にとらえた。
息を呑むような気迫にアリスも伏せていた目線を上げる。
その瞬間、黄色いまっすぐな瞳と、青い憂いを含んだ瞳とが重なった。
「あっあっアリスのことが・・・・・わたしは・・・・」
魔理沙は思わず口を噤んでしまう。
口をパクパクとする魔理沙も、たじろぐアリスも互いに顔を真っ赤に染めて、すぐさま目を逸らしてしまう。
完全に機を逃した魔理沙は、それからも意味を為さない言葉を数度重ねるけれど、思いの内を告げられない。
無情にも訪れる沈黙。
あざ笑うように獅子脅しが鳴る。
「だぁぁぁぁぁ!」
それに耐えられないように、魔理沙が髪をかきむしりながら立ち上がる。そのまま出口に手をかけ、一言。
「ちょっといってくる」
「え?」
襖を引いてそのまま出ていこうとする魔理沙に面食らいながらも、アリスは袖を引っ張り必死に制止する。
「ち、ちょっと魔理沙。どこ行くのよ」
「どこって探検だよ。てきとうに襖でも開けて惨めさを吹き飛ばしたいんだ。もうこんな情けないわたしのことは放っておいてくれ!」
「だからダメって言ったでしょ! 落ち着きなさいよ」
自棄になる魔理沙を羽交い締めにして何とか座らせる。
二人とも肩を上下させて荒い息を吐くばかりで、もはや告白だなんて空気ではない。魔理沙は目をうっすらと潤ませて、アリスはやはり気恥ずかしげに俯いている。
それから後に残ったのは開花を逃した蕾の寂寥とした様子だけで、それを誤魔化そうとするばかりのぎこちない会話と、気まずい沈黙が後に続くばかりだった。
‡
コンコン。
なんだか上手くいかないなぁ、戸を叩く音が聞こえたのは、アリスがそんなことを考えていたときだった。
「失礼しまーす。お食事をお持ちしました」
襖を勢いよくがらっと開け夕食を運んできたのは、くすんだ金髪を後ろに結わい、宝石のような緑眼の女性。
端正な顔立ちだ。突然目の前に現れた女性に思わずアリスは見とれてしまった。過度の光に身を窶してしまったような髪色に、射角によってさまざまに瞬く緑の眼。完全な美しさというよりは、腐りかける花のような甘ったるい美しさだった。
「おっ、パルスィじゃないか」
「あら、魔理沙。久しぶりね」
パルスィという名と彼女の声を聞いて合点がいった。前の異変では人形を介してしか接触しなかったため、実際に彼女を目にするのは初めてだ。
パルスィはこちらを向いて頭を下げてくる。
「初めまして、御食事の用意をさせていただく水橋パルスィといいます。といっても運んで並べるだけなんだけど」
「アリス・マーガトロイドよ。初めまして」
パルスィの眼は正面から見ると海のような底知れぬ深さを持っている。流石地底の妖怪なだけあって、一癖も二癖もありそうだ。
「なんかさとりやお燐たちと違って随分とてきとうだな、お前」
「そうかしら?まあ、半分嫌々やらされてるようなものだしね。こんな茶番に大して興味はないの。妬ましいだけだし」
「茶番だなんて辛辣だな。さとりに怒られるぜ」
「それこそ隠したって意味がないわ」
「まあ確かにそうだけど」
二人は笑いながら話している。最近あった宴会のこと、鬼が醸造した美味しい酒や地底で人気の飲み屋のことなどなど。
会話は軽妙にとんとんと進む。パルスィと初対面のアリスは中々会話に加わるきっかけを見つけられない。流れゆく川の水をただ呆然と眺めるしかない、そんな心地だった。
僅かな疎外感が胸にささり、段々と姿を変えて痛みだす。
それを知覚するのとパルスィが部屋を後にするのは同時だった。妙に艶めかしい笑みを描く彼女の唇と緑色の光が、ぼうっとした視覚に残像を落としている。眼の奥がじくじくと熱を帯びていく気がして、アリスは思わず目頭を押さえる。
「アリス?どうかしたか?」
魔理沙の声にぼんやりとした意識が徐々に引き揚げられる。
「……ごめんなさい、何でもないわ」
明瞭になった意識には、心配そうに伺う魔理沙と様々な器に盛られたご馳走が映った。さっきのような錯覚は影すらも見あたらないけれど、代わりに心の奥底で何かが胎動するような感覚が響いている。
「大丈夫そうならいいんだけど。顔色が少し悪くないか」
「そうかしら?」
平気よ、平気。そう返して気丈に振る舞う。本当は魔理沙の言いたいことも分かるけれど、そんな心配を吹き飛ばしてしまいたかった。
「心配してくれてありがとう、魔理沙。けどもういいの。それより冷めないうちにご飯食べちゃいましょうよ。ほら美味しそうだわ」
魔理沙の返答を待たずに、一人でいただきますを済ますと、やにわに箸を伸ばす。
「あっ! 一人だけずるいぜ」
遅れて魔理沙も箸を持つ。旅館といいうだけあって料理も大層な懐石だった。
箸も進めば会話も進む。美味しい馳走に酒の効果も相まって、二人は楽しい一時を過ごす。お互いの研究の近況やらお馴染みの共通の友人たちのくだらない話やら、話題には事欠かない。
ただ、食事の最中もアリスの中では不気味な感情が胎動していた。酒を呷り、噛み砕かれた料理をえんかする度に、魔理沙との闊達な会話の度に脈打つそれが気持ち悪い。けれど、折角のご馳走なのだ。誤魔化すためにも明るく振る舞う。
すると当然会話も弾み、胎動は強くなる。悪循環をなしているのは明らかだった。
胎動の揺れ幅が大きくなるのは、決まって他人の話題に切っ先が向いたときだ。笑顔の魔理沙が霊夢やパチュリーのことを話しているのが、どうしようもなく嫌でたまらない。胸に渦巻くものはどんどん大きくなる。
それで霊夢がさ――
そうそうこの前パチュリーに――
香霖が全裸で爺さんと――
そんな名前が耳に入る度に、激昂しそうな自分に気づく。どうして魔理沙は他人のことばかり話すのだろうか。目の前にいるのはわたしだっていうのに。
そんなことを考えてもどうにもならないのは分かってる。魔理沙だって魔理沙なりに会話をスムーズにしようと努力をしているのだ。
けれど、それでも意味をなさない問いかけだけが胸に空転し、わだかまる。
とどのつまり、それは溢れんばかりの嫉妬心だった。
「霊夢がこんなご馳走みたらびっくりするだろうな」
魔理沙のそんな何気ない一言がきっかけだった。
「……じゃあ来ればいいじゃない」
「え?」
「霊夢と一緒に来ればいいじゃないって言ったのよ。温泉に。わたしなんて誘わないで」
わたしはなにを言っているのだろう、アリス自身にも分からない。けれど口に出さずにはいられないのだ。でないとこの嫉妬心が猛り狂っておかしくなってしまう。
「いや、わたしは……」
「なにが、いや、なのよ! 聞いてればさっきから霊夢だのパチュリーだの……パルスィさんとも楽しそうにお喋りしてたわね……! 目の前にいるのは私なのにあいつらの話なんてやめてくれる? ねぇ、魔理沙。今日は私のために温泉にきたんでしょう? ならちゃんと私のことを思ってくれなきゃおかしいわ。それなのに魔理沙ったら、口を開けば霊夢霊夢霊夢。どうせさっきだって探検だなんて口実で霊夢に会いに行くつもりだったんでしょう。縦穴を上っていけばすぐに霊夢のいる博麗神社ですもんね。ああ妬ましい。いけばいいじゃない! 行けば! もういいわよ、私のことなんて! 婚期を逃して一人で温泉旅行する三十路前の女みたいに、一人で温泉にはいって旧都で一人酒して真っ暗な洞窟の中を一人寂しくとぼとぼ飛んでやるわよ! それで慰め代わりの人形たちに囲まれながら寂寥と眠りにつくんだわ! うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
アリスは両の眼から大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら、魔理沙が言葉を挟む隙もなく言い切った。魔理沙はただ呆然と口を開けたまま目を白黒させている。
その顔を見た途端、アリスの心に申し訳なさが滲む。実際、アリスにもどうしようもなかったのだ。這い打ちまわる感情の激流が身を乗っ取って、気づいたら口が動いてしまっていた。
涙が頬を次々に伝い、しばらくはアリスの鼻をすする音しかなかった。
次第に落ち着いてくると、涙を呑み、呟く。
「ごめんなさい……魔理沙。私……」
思ってもいないこと、とは言わないけれど、それでも酷いことを言ったと思う。
「あっあはは。いいんだよアリス、悪いのはわたしだな、うん。せっかくのアリスとのデートなのに。ごめんごめん」
魔理沙は何事もなかったように笑いながら謝ってくれる。それが尚更つらい。悪いのはこちらなのに。
「そんな暗い顔するなよ。いいんだって、大方パルスィにでもからかわれたんだろ」
納得したような顔で魔理沙は言う。確かに彼女の能力はそういうものだったし、冷静に思い返してみれば符合することはいくつもある。やたら眼を合わせる仕草に不気味な笑み。能力を行使するには十分なような気もする。
「でも……」
けれどそれでも、自分があんなことを口走ってしまったという事実は心に重くのしかかる。
「ほら、もういいからさ。な?落ち着いたら温泉に入ろう。背中でも流すついでにこのことも水に流しちゃおうぜ」
「……うん」
魔理沙の前向きな言葉は、渦巻く罪悪感を消してしまう程ではなかったけれど、僅かな慰めとなってアリスの胸に染みていく。
まだ、心の中は嫉妬の残滓や後悔など様々な色で塗りたくられていたけれど、魔理沙の言うとおりかもしれない。いつまでもくよくよしてたらせっかくの温泉までだめになってしまう。過ぎたことは過ぎたことだなんて、虫のいいことは言わないけれど、いつまでも後ろばかり向くのは魔理沙に失礼というものだ。今は、自分なりに精一杯温泉を楽しむようにしよう。
‡
それがどうしてこうなってしまったのだろう。
アリスは裸体にバスタオルを一枚巻いただけという格好で、旅館の暗い廊下を駆けていた。
あわただしく脚を動かしながらアリスは考える。
果たして今日自分がここに来た意味はあるのだろうか。魔理沙から誘われた初めての旅行。そこに寄せていた期待はすべてため息となって散ってしまったように思う。昨夜、恋する乙女のように浮き足立って準備を進めていた自分は何だったのだろう。
蓋を開けてみれば上手くいかないことだらけだ。
客室では喧嘩をしてばかりだし、いくらパルスィのせいだとはいえ、食事の席では酷い暴言を吐いてしまった。それに先の温泉でのできごとだ。
「こんなことなら来るんじゃなかった……」
息を荒げながらつぶやく。部屋まではもうすぐだ。魔理沙には少し、ほんの少しだけ悪い気もするけれど、こんなところからはもう帰りたい。
勢いよく襖を開けると荷物に手を伸ばし、着替えを漁る。
白いケープ。
青のワンピース。
桃色のリボン。
カチューシャをつけて…………ってあれ?
途端にアリスの顔が青ざめた。
……ない。下着がない。着替えはあるものの、換えの下着は脱衣所に置いてきてしまったのだ。
ええい、ままよ!そう言って下着抜きで空を飛ぶには、アリスは都会派過ぎた。乙女足るもの貞操は命である。
とりあえず、下着を穿かずに普段着に着替えたアリスは頭を全力で回転させた。魔理沙がいるであろう脱衣所に戻るわけにはいかないし、かといってこのまま帰るのは危険すぎる。こんなときに頼もしい人形たちはみんな仲良くお留守番だ。
数分の思考の末、叩き出された結論は従業員休憩室のことだった。あそこにいけば下着の一つや二つあるかもしれない。
来た道をひたすら走る。翻るスカートの裾から冷気を含む空気が流れ込んでくると、すうっとした言うに言えない感覚が身体を貫いて、鳥肌が立った。これはまずい、色々と。早く下着を手に入れなければ。白くほっそりとした脚は薄暗い闇の中をひた駆ける。
暫くすると木製の扉が現れた。取っ手に手をかけるとすんなりと開く。鍵がかかっていないことに安堵しつつも、その先に広がる光景にアリスは不意をつかれた。
これまでとは打って変わって、石畳に赤い絨毯、並ぶ石柱、装飾のされた窓と西洋の佇まいが続いている。きっとこれが本来の地霊殿なのだろう、扉を開けて一拍の後、アリスはそう予想した。
少し離れたところに立つ、薄紫色の髪をした少女。身にしているのは着物ではない。胸に輝く赤い眼を光らせながら口を開く。
「あらあら、アリスさん、困るのですけどね。こちらに来られると」
「……ごめんなさい。無礼を承知でお願いがあるのだけれど、いいかしら」
「……はぁ、またなんとも珍妙なお願いで。何とかなくも出来ないことはないですが。それにしても、ずいぶん変わったご趣味ですね」
「趣味じゃないわよ! 心が読めるのなら分かるでしょう」
さとりはくすくす、と心底愉悦に浸った笑みを浮かべる。なるほどパルスィにしてもさとりにしても地底に封印されている妖怪にはやはり相応の理由があるらしい。胸元の眼に射抜かれる度に、色々と見透かされる気がして背がぞくぞくする。
「ああ、透視のような能力はないのでご安心を」
「……分かってるわよ」
さとりは不気味な笑みを常に携えている。非常にやりづらい。それに――
「下着でしたら少しお待ちください。というか、もうお連れの方がやってくると思うので」
「え?」
訪れた沈黙にアリスが耳を澄ましてみると、微かに板を踏む音が響いていて、段々と大きくなっている。
「もしかして……」
ばん、と木扉の開かれる音が回廊にこだました。
「アリス!」
次いでなじみのある声。
「魔理沙……!」
アリスの顔が真っ赤になる。脳裏には温泉での出来事。いったいどの面を下げてやってきたのだろう。もう一度桶ではたき飛ばしてやろうかしら、そう思ってアリスは振り返った。
「こんばんわ、おねーさん」
そこにいたのは息を荒くする魔理沙と、色の抜けたような銀髪の少女。
「古明地こいし、こいつが犯人だ。アリス」
「へ?」
魔理沙の突然の告白、アリスの気の抜けた声が石造りの回廊に響く。
「背中でも流し合おう」。魔理沙のその提案をアリスは快諾した。些細な言い争いも食事の席での失態も忘れさせてくれるような気がしたからだ。
仲良く背中でも流した後に湯船に浸かって、前の出来事なんて笑って飛ばせればいい。なにせ今日のメインは温泉なのだ。それさえ上手くいけば今回の旅行は成功じゃないか。そう思ってアリスと魔理沙は二人、軽い足取りでもって浴場へと向かっていた。
「ね、ねえ魔理沙。ちょっといい?」
「ん? なんだ?」
「あなたバスタオルとかは巻かないの?」
「おう。邪魔だしな」
「そう……」
魔理沙の裸体にアリスは温泉に浸かる前にのぼせる思いだったけれど、なんとかしげしげと脱衣して、バスタオルを巻いた。
魔理沙から一つ離れたシャワーに席を取ると、湯栓を捻る。瞬間、勢いよく温かい湯が頭上から降り注いでくる。
ああ、この一瞬のために今日一日はあったのかもしれない。そう思うに十分な快感だった。身体全体を流れ落ちる熱の塊は筋肉のこわばりをほぐし、言いようのない脱力感を味わう。
横目で魔理沙を見遣ると、白い靄の中、頭を振ってご自慢の長いブロンドから滴を飛び散らしている。
まるで猫みたいだ。といっても猫はお風呂を嫌うはずだけど。
「おーい、アリス」
「なにー?」
「そろそろ流しっこしようぜ」
「ああ、うん。わかったわ」
改めて魔理沙の背中を前にすると、心臓の鼓動が高まるのを感じた。
小さな背中だ。触れてみると湯とはまた違った温もりが伝わってくる。芽吹きの熱。これからの成長を内に秘めた幼い身体。こうやって直に触れると改めて魔理沙は人間なんだと、否が応にも実感させられた。
石鹸をタオルで泡立てて洗ってやると、こそばゆいのか身を捩って逃げようとする。
「ほら、魔理沙、動いたら洗えないわよ」
「くくっ、だってくすぐったいぜ、アリス。洗うんならもっと強くこすってくれよ」
「はいはい」
言われたとおり力を強めて洗う。人形を扱うほど丁寧やったら物足りないらしい。それでもなるべく手を抜かずにくまなく洗う。徐々に赤みを帯びる魔理沙の背中と、泡の白さが妙に艶めかしくて、洗い終えるとさっさと流してしまう。
「じゃあ交代だな」
「え、ええ」
魔理沙に触れられるのだと思うと、アリスは緊張に身体がこわばるのを感じた。視界は湯気で白く染まっている。
これだけ靄がかかっていれば、魔理沙だって自分の身体を禄に見ることは出来ないはずだ。
そう思うと少しは緊張が和らいだ気がしたけれど、それでもやっぱり身体はこわばっているし、心臓は鼓動音が聞こえるんじゃないかと思うぐらいに鳴っていた。
じっと目の前の白い空間を眺めながら魔理沙をまつ。
「よし、いくぜ」
ついに来た。無意識にぎゅっと両の眼を瞑って、背中に全神経を集中する。
「ひぁっっ!」
次の瞬間に何が起きたのかアリスには理解出来なかった。
頭の中が真っ白なのか、視界が真っ白なのかそれすらもわからない。ただはっきりしているのは、背中にあるはずの魔理沙の手が胸にあると言うことだった。
「あはは、変な声出してくすぐったいのか」
もみもみ。
まっさらな脳を何とか働かせて、恐る恐る目線を下に向ける。
間違いない。両腕の外から伸びる白い二つの手が、形のいい双丘を覆い、転がしている。
「ちっちちちちちょっと魔理沙!?」
事態を理解するとかぁっと頬が熱を帯びて、アリスの頬はとたんに真っ赤になる。
「気持ちいいだろ? こういうの結構得意なんだぜ。霊夢にもよくマッサージとかしてやってるしな」
頭の中を様々な感情が走り回る一方で、次第に意識が明瞭になる。気持ちいいって、霊夢ってなにが!
「ね、ねえ! 魔理沙もうやめて?ほら分かったから……」
手は胸からわき腹、腰へと徐々に下がっていってお尻の辺りを撫でてくる。アリスは言葉を失い、絶句した。
「それにしても痩せてるなあ。もう少しご飯食べた方がいいぞ。心なしか背中も小さい気が……」
両手で制止するも、次第にエスカレートする手つき。
「ひっっ!も……もう……」
我慢の限界だ。
「ばかばかばか! もうやめてっていってるでしょう! このけだもの!」
立ち上がってバスタオルを巻き直すやいなや、手近の桶をとって振りかざす。
「アーティフル桶!!」
魔力を込められた桶の爆発音を後に、アリスは遮二無二走りだした。
「――で、その子、古明地こいしがわたしの身体をまさぐっていた犯人だと」
「そうだよ」
「じゃあ魔理沙は必死にこいしの背中を洗っていたの?」
「そうなるな。わたしがこいしの背中を洗ってやって、こいしがアリスの背中を流してやってたわけだ」
「魔理沙は背中を流すのが上手だね。気持ちよかったよ」
「お、サンキューこいし」
魔理沙とこいしはずれた会話を繰り広げる。
「どうして気づかないのよ、魔理沙? 馬鹿なの?」
あまりにも馬鹿馬鹿しい事態に赤面しながらうなだれるアリス。
「湯気がすごくてよく見えなかったんだよ。っていうか気づいた頃には目の前で桶が炸裂してたんだ」
傷をいたわるような仕草で魔理沙が頭に手を運ぶ。申し訳ない気がしないでもないが仕方のないことだ。
「じゃあどうしてそのこいしがわたしの身体をさわったのかしら?」
「趣味だよ。おねーさんは美乳できれいなお尻だね」
地底に似つかわしくない満面の笑みを浮かべるこいし。純粋すぎる笑顔が吐き出した言葉に、アリスは背筋に鳥肌の立つのを感じた。
「趣味なのか……って、そうじゃなくて本当はさとりに命令されたからだろ。どうなんだ? さとり」
アリスとこいしに向けられていた魔理沙の視線が、一転、さとりへ突きつけられると、彼女の紫色の瞳が所在なさげに宙を漂う。
「どう、と言われましてもね」
「ふん、とぼけやがって、全部お前の仕組んだことだろう。パルスィを仕向けたのだって、こいしを風呂場に送ったのだって」
さとりは口を噤む。
「思い返してみれば最初から妙だったんだ。偶然券が当たっただけだっていうのに、待ち伏せたかのように玄関にいたよな? いくらお前の能力だってあんな真似はできないはずだ。それにこれだけ立派な旅館に他の客がいないっていうのもおかしい」
怪訝な顔の魔理沙だが、さとりは余裕を含めて口を開いた。
「それはあれですよ。あなた方を見かけたヤマメが連絡を寄越した、というのでどうでしょう」
「へぇ。じゃあそれでわたしたちを待っていたと」
「そうです」
さとりは未だ悠々と視線を泳がしている。
その一方、魔理沙は語気を強めて言い放った。
「けどなんでわたしたちの目的がここだってわかったんだ? もしかしたら旧都や地霊殿の方かもしれないっていうのに」
紫陽花の瞳が一瞬震え、空気が張り詰める。
「最初から分かってたんだろ、何もかも。そもそもあの券だってお前と文の仕業じゃないのか。でないと説明がつかないぜ。あの天狗が何を考えてるのかは知らないけど、まあどうせ新聞のネタかなんかだろ」
「え?」
思わぬ名に驚いて声を発するアリスだったが、確かに最初の最初から仕組まれているとなると、文とさとりがグルである他に可能性はない。この二人が何かを企んでいることは明白だ。
アリスと魔理沙、二人の刺すような視線を受けて、さとりは一つ息を吐く。
ため息が白い形を取って薄暗い廊下の闇に溶け込むと、観念したように言葉を紡ぎ始めた。
「はあ、もう隠さなくてもいいですかね。概ね分かっていらっしゃるようですし」
さとりが不適に笑う。
「魔理沙さんが仰るように全て私の企図したことです。なんの為に、ですか。ふふ、そんなもの言わずとも分かることでしょう。お二人の仲を引き裂くため、それに尽きます。なんたってここは「悲恋殿」温泉なのですから」
「悲恋殿……?」
突然の言葉にアリスと魔理沙も顔をしかめる。
「そうです。温泉旅館は表の顔。ここの本当の顔はキャッッキャウフフと乳繰り合いながらやってきたカップルが一晩の後、仲違いをして後にする悲恋に満ちた旅館なのですよ。
パルスィに嫉妬心を煽らせて喧嘩をさせたのだって、こいしに指示をだしたのだってそのためです。あと、襖ですね」
「襖だって?」
笑みを絶やさぬさとりの独白に魔理沙が口を挟む。
「ええ、あの襖はダミーの襖です。前の異変で魔理沙さんの性格は掌握していましたから。普段より襖五割増しで操業させていただきました。こちらの予想通りシャイな魔理沙さんは彼女と二人っきりの状態に耐えられず、襖の旅へ出ようとする。違いますか」
「うっ……」
おそるべし、こめいじさとり。アリスは憤慨も忘れて、むしろ軽い感嘆すら覚えそうだった。たった一度の邂逅で魔理沙の性格をそこまで把握するとは。唇を噛みしめる魔理沙が何となしに滑稽に映る。
けれどそもそも何故わたしと魔理沙が標的となったのか、アリスがそう思いを巡らしたとき、さとりの赤い眼が輝きを増す。
「それはですね、アリスさん。あなたたち二人がこの幻想郷でもっともラブラブなカップルだからですよ……!」
「へ……? なっなに言ってるのよ!魔理沙とわたしはそんな……」
にやり、さとりの唇がいびつにゆがむ。
「ふふ、お二人とも素直じゃないですね。残念ながら私にはお見通しなのですよ、全部ね。もっと自分の心象を相手に伝えてみたらどうです。お互い好意を向け合っているのに、いつまでも続く平行線よろしく永遠にお友達だなんて、ねぇ?初心の乙女が書く青臭い三文小説じゃあるまいし、もっと己の欲望に即すべきですよ。相手に触れ、夜伽を交わそうとするのは恋仲ならば当然の事でしょう」
言葉の濁流に二人は胸の内を引っかき回される思いだ。
「ばっバカ! 勝手なこといいやがって。お前には関係ないじゃないか」
反応する魔理沙も動揺を隠せないようで赤面している。
「ふふ、これは失礼いたしました。想いを告げる度量もない魔理沙さんには出すぎた助言でしたかね。それに私の目的はお二人のそんな純愛を刈り取ること。何事も腐りかけが美味いとは謂いますが、こと恋に関しては青く瑞々しい果実は甘露にも勝ります。
……まあ御託はこれで終いにしましょう。既に目的がバレている以上、力ずくでいかせてもらいます」
煌々とした赤が胸元の眼から広がり、廊下の隅々にまで染み入っていく。臨戦態勢だ。
「魔理沙……!」
「ああ、分かってるぜ」
目配せをすると、魔理沙がミニ八卦炉を取り出しアリスは三歩後退する。人形抜きでは返って邪魔だ。
幸いにしてこいしは手を出さないようで、二対一の状況は避けられた。変わらぬ笑みでもって、いつの間にかさとりの背後に立っている。
ひりつく空気。ゆらゆらと不規則にたゆたう赤色が、場の不安定さに拍車をかける。
瞬間、さとりが札を掲げる。
――それを見逃す魔理沙ではない。
次の瞬間には静謐で満たされていた廊下を、段幕勝負のけたたましい騒音が支配していた。
‡
決着は実にあっけなく着いた。地に臥せているのはさとり。魔理沙の一枚目のカードが放った星形弾にあっという間に被弾し、これまたあっけなく自らの非を認めたのだった。
魔理沙とアリスの二人はその様子を訝しがりながらも、こんなところに居たくないとばかりに足早に地霊殿を後にした。こいしの姿はもう見えない。
再び静寂に包まれた廊下には、結局さとり一人が取り残されている。そこにかつん、かつんと石畳を打つ音が響く。
「あややや、お疲れさまです、さとりさん」
闇の塗りたくられた廊下の向こう、高下駄を鳴らして現れたのは射命丸文。
「中々気合いの入った茶番でしたね。演技には見えませんでしたよ。悦に入ったやられ役は流石というかなんというか」
「……ありがとうございます。`やられる”のは慣れているのですよ。何かと迫害される身でしたから」
片目を瞑り、先ほどの被弾が嘘のように平然とさとりは立ち上がる。
「へえ、いずれそのことも記事に……って冗談ですよ、そんな睨まないで下さい」
「睨んでいません。元からこういう目つきなもので」
気だるそうな眼を細めて諫めるように言った。過去のことに触れられるより、自分のジト眼を気にしているようだった。
「それより、今回の記事に必要な写真の方はどうでしょう」
半ば話題を断ち切る形で本題を問う。
「ああ、それはお任せを。ばっちりです。っていうかわざわざ訊ねなくとも、さとりさんならお分かりでしょう。
しかしびっくりしましたよ。話を頂いたときは。表の顔は温泉旅館。裏の顔は恋路を裂く悲恋殿。そしてそのさらに裏の顔がこれだなんて――」
時は数日前、射命丸文はブン屋よろしくネタの収集に勤しんでいた。格別窮していた分けでもないが備蓄は多いに越したことはない。
特に地底は、最近交流が再開されただけあって話題に事欠かないネタの宝庫であったが、その中でも地霊殿が温泉を経営するというのは格段のニュースである。当然文の黒羽の矢が立った。
犬猿の仲である鬼たちを避けながら手練手管を尽くし、目ざとくも古明地さとりと席を持つことに文は成功した。ところが、そこで思いも寄らない計画を知らされる。
その計画は地底の復興を願う館の主が提案したものだ。これからの復興には地上との関わりを積極的に取り入れる必要がある。そもそも温泉もその一環だったのだが、それだけでは弱い。旧地獄の温泉にわざわざ浸かりにくる地上人が稀であることはたやすく予想できた。
そのため温泉に付加価値が必要となる。そこでさとりの提案したものが、地底の住人の力でもってカップルの仲を取り持つという奇妙奇天烈極まりない計画だった。
忌み嫌われる妖怪達によってもたらされる数々の困難を乗り越える二人。黒幕であるさとりをやっつけて前よりずっとラブラブに!
さとりの読心を以てカップルの特長を把握。鈍感な二人にはパルスィが嫉妬心を煽り、こいしが肉体的な積極性を促し、さとりがさりげなく互いの気持ちの代弁をする。
そして地上に帰ったカップルが幸せになれば、次第に地底の温泉は恋人の湯として噂の種に。ようよう親しみ易くなることだろう。
――まさか忌み嫌われてきた地底の住人たちがそんなことを考えているなんてねぇ」
ネタ帳とペンを手に、大げさな身振りで文が言う。その中に多少侮辱の気が混じっていることに気づきつつも、さとりは落ち着いている。
「先の異変で事情が変わりましたから。青臭い言い回しですけれど、これからは地底にも新しい風が吹かなければならない。一応はその第一歩のつもりです。
――じゃあ何故こんな面倒な真似を、ですか。仲違いなんてさせずに、素直に恋を成就させるために能力を利用すればいい、と。では聞きますが射命丸さん、地上から疎まれ続けた者たちが他人の恋路を素直に応援するとでも?」
第三の眼から鋭い光を放ちながら毅然と言い放つさとりの姿は、地霊殿の主にふさわしいものだった。その気配に圧されながらも、文は平常を装い、返す。
「あやや、それはないでしょうね、多分」
「これは調整も兼ねているんです。地底と地上との距離のね。何せ交流が再開したのが突然のことでしたから、いきなり手を取り合って、なんて無理でしょう。生憎、地底の住人はひねくれ者が多くてですね。こんな悪戯紛いの行為で徐々に適当な距離を探っていくしかないんですよ」
さとりの瞳にはおよそ地底に似つかわしくない慈愛が浮かんでいる。地下に住まうもの全員を思う母のようにすら思えた。
「素敵な計画ですねぇ。まあ、取りあえず目先の二人が成功しなければ意味がないわけで。まさかこれでお終いなんてことはありませんよね」
「ええ、手は打ってあります。この計画の広告塔となるであろうお二人には、是非とも幸せになっていただかないと困りますので。先の異変への感謝も込めて、ね」
耐えきれないようにさとりは薄い笑みを浮かべる。その厚ぼったい双眸はいつしか窓の向こうの旧都を見据え、鈍い輝きを放っていた。
「アリス……もうあきらめて呑もうぜ」
「でも……」
「捕まったのが運の尽きさ。残念ながらな」
色めく街灯に湧き立つ酒気。
道行くものは皆頬を赤く染め、おぼつかない足でもって通り過ぎる。
ところは旧都の歓楽街。
「おーい、お二方! 飲んでるか?」
額に朱の角を伸ばした鬼、星熊勇義が声を飛ばす。
「まさか地霊殿からでた途端、あいつに出くわすとはな」
さとりとの勝負を終え、館を後にするやいなやアリスと魔理沙は彼女に遭遇した。
「酒でも呑もうじゃないか」
出会い頭に開口一番。拒否の言葉にも聞く耳持たず、鬼の膂力の為すがまま、二人は旧都の居酒屋で酒を呑んでいる。
肝心の勇義は「あんたら二人を肴に呑ませてもらうよ」と言い放ち、離れた席で他の鬼たちと盃を交わしている。
魔理沙とアリスは店の奥まった席に通され、勇義たちは入り口近くの座敷で酒宴と決め込んでいる。喧噪から離れているのはありがたかったが、それは出口を防がれることと同義だった。
「乾杯」
酒精に魅入られ、あちこちへと杯が飛び交う鬼たちの様子をみてアリスも観念したようで、二人は猪口を交わす。
「おいしい……」
半ば惚けるかたちでアリスは呟いてしまう。濃厚でありながら洗練された水のような滑らかさがある。
「だろ?パルスィに教えてもらったんだ、その酒」
何気ない一言に地霊殿での一幕が二人の脳裏をよぎると、魔理沙が申し訳なさそうに笑う。
「まさか温泉旅行がこんなになるなんてな」
「……別にいいわよ」
「その、アリス、ごめ――」
言葉を紡ごうとする魔理沙の唇。その前にはアリスの白い指が一本たてられている。
「ダメよ、謝ったら。せっかくのお酒なんだから。もうさとりたちのことは忘れましょう」
「ああ、悪い悪い。悲恋殿だなんて笑っちゃうよな……。あいつらも性格悪いぜ」
「そうね。人の恋路を邪魔しようだなんて――」
「うん」
「そもそもそんな関係じゃないのにね、私たち」
「う、うん」
返事をつっかえる魔理沙をみて、アリスは内心ため息を打つ。どうして自分はこんなに距離をとる言い方をしてしまうんだろうか。すげない言葉ばかり重ねていては、関係が進展しないのも仕方がないのかもしれない。
もっと自分の気持ちを伝えようかしら。気付くとさとりの言葉を反復してしまっていて、やるせない。忘れようと努めてもあの薄い笑みが想起されてしまう。猪口に酒を注ぎ、一息に呷る。
「そのことなんだけどな……」
おずおずとした調子ながらも、真剣さの伺える目つきで魔理沙がアリスを見据える。
「そのこと?」
「ああ、恋路云々についてだ」
逡巡するアリス同様、魔理沙の胸の中でもさとりの残滓は渦巻いていた。温泉が駄目になってしまった以上、この旅行のもう一つの目的――告白は成功させたい。その想いが、さとりの度胸なしという言葉に反発するかたちのものであることは分かっていたけれど、それでも構わない。
「言いたいことがあるって話したよな」
「えっ、……ああ」
魔理沙がゆっくり語り出すと、突然あたりの喧噪が控えめになった。ふと見遣ってみると、朱色の杯を片手に鬼たちが肘で互いを小突きつつ、にやにやと視線を飛ばしている。
まさに酒の肴だ。魔理沙はそんな様子に気付く様子はなく、アリスはあの旅館で経験した再び妙な緊張感を味わっていた。
自然と猪口を口に運ぶ回数が増えていく。
「あの……その……えーっと…………」
重大決心に身を固めたかのように見えた魔理沙は、相変わらずどもってばかりで、ちっとも意味のある言葉を吐いてくれない。いざ腹を括ったように向き直っても、お互いの目が合うや否やすぐさま逸らしてしまう。
彼女なりにタイミングを測っているのだろう。最善の瞬間にナイフを突き立てて、わたしの心を恋で殺してしまおうと企んでいるのだ。そんな希望的観測に身を委ねてアリスはちびちび酒を呑む。
容量の小さな猪口は、まるで底に穴でも空いているかのように空になった。矢継ぎ早に喉を通る吟醸に身体は火照り、熱を帯びていく。
横をみれば徳利が三つ。仲良く身を寄せあって、過ぎた時間の虚しさを表している。
魔理沙はまだ無為に言葉を重ねるだけで、アリスは諦めをだんだんと募らせていた。
やっぱり駄目なんだろうか。そう思ってため息を吐こうとした瞬間、目の前で鈍い音が炸裂した。
魔理沙が机にめり込まんばかりに突っ伏している。背後には赤い角に星形マーク。勇義が魔理沙を叩いた手をぷらぷらとさせている。
「いってぇぇぇ!」
「ちょいと魔理沙、こっち来な」
額を押さえ涙を浮かべる魔理沙を悠々とさらっていく。向かうは鬼の酒宴場。
「お前、あれは無いだろう」
「あれってなんだよ。人のことぶっ叩きやがって!」
「はあ、とぼけるかねぇ。さっさと告白しちまえって言ってるんだよ。酒の力まで借りといて情けない」
「うっうるさいな。お前には関係ないだろ・・・・・・」
「大有りだね。こっちはあんたら肴に酒呑んでんだ。うじうじされたら酒も不味くなる」
「滅茶苦茶言いやがって」
「鬼の論理さ。大体、女一人口説くのにどうしてそんなに苦労すんだい?お前が好きだ。この一言でお終いだろう。酒呑んだら家に連れ込んでしっぽり決め込んじまえばいいじゃないか。その程度も出来ないなんて見損なったよ。ああ情けないったらありゃしない」
どうやら魔理沙は鬼たちの説教に見舞われているらしい。単純明快を好み、竹を割ったような性格の彼女らには魔理沙の態度が気に食わなかったのだろう。
所々耳に入ってくる言葉が少し恥ずかしい。好きだとか、連れ込むだとか、しっぽりだとか。酒で頬が熱を持つのを誤魔化す。
「どうやら喧嘩をご所望らしいな……!」
「おっいいねぇ! やっぱりそう来なくっちゃ。少しは酒が美味くなりそうだ」
喧噪が一際大きくなると二人は連れだって表へでた。大方、スペルカードを使った喧嘩だろう。野次を飛ばす鬼たちも全員外へ出てしまったようで、店内は比較的静かになった。
新しい徳利が運ばれてくる。
デートで彼女を一人にするなんて一体どういう了見だ。魔理沙にそう言ってやりたい気持ちもあったけれど、アリスの心中はどういうわけだか不思議と穏やかだった。
温泉旅行はさとりのせいで失敗したし、今は置いてけぼりを食らって一人お酒を呑んでいる。結局、アリスの慰安という当初の目的は大して果たされていないし、むしろ疲労の方が募っている。それに加えて、二人の関係性だってさしたる進展は見せていない。
けれど今日一日を振り返って見ると、逆にこれでよかったのだと、アリスには何となくそう思えた。
だってこの方がずっと私たちらしい。旅行だなんて息巻いて、結局はごたごたに巻き込まれてしまうのだ。きっとそれはどうしようもない私たちの日常で、霧雨魔理沙という人間の側にいる以上避けられないこと。
でも、そんな騒がしい日々がなによりも落ち着ける。魔理沙と出会ってから過ごす日々のうちで、自然とそう思えるようになっていた。だからこれが二人にとって丁度いい距離なのだと思う。その距離を大事に扱って、ゆっくりと仲を深めていけばいい。
そこで思惟を止めて、アリスは猪口を一息に呷った。
隣には徳利が二つ、仲良く並んで佇んでいる。ずいぶん呑みすぎたようだ。熱に浮かされた頭でアリスはただぼんやりと漂う幸福を味わっていた。
ふと、寒風が吹き込んでいって、アリスの身体を冷気が浚っていく。脚から背へ駆け上がってくるそれに身震いしそうだったけれど、そんな感覚は目の前の人物を見るとたちまち消えていく。
お気に入りのエプロンドレスを所々焦がした、黄色いまっすぐな瞳の女の子。
「すっ好きだ…………!」
鬼に何を入れ知恵されたのかは知らないけれど、一拍置いて、アリスは思わずくすくすと笑ってしまった。
だっておかしいじゃないか。色々と。勝手に置いてけぼりにして、いざ帰ってくるなりこれだ。一人にしてごめん、とか雰囲気作りだとか、もっと他に掛けるべき言葉があるだろう。けれど、それを無視する突拍子のなさも、不器用さも、あれだけ優柔不断にしていたのにきっぱり言い切ってしまうところも、何だか妙に魔理沙らしくて笑ってしまう。
「知ってるわよ。……ばか」
そう、知っている。あれだけ期待した言葉と瞬間は、蕾が花を開かせるようなものでも、ナイフのような鋭いものでもなかった。むしろさっきまで感じていた茫洋とした日常の幸福、その延長線上に違和感なく置かれていて、アリスの心に劇的に響くわけでもなく、ただじんわりと、そうであるのが当然のように染み込んでいくのだった。
「そっそうか。……それでアリスは、その、わたしのことを……」
少し土の付いた、真っ赤な頬で魔理沙が問う。握りしめたこぶしがぷるぷると震える様を見るに緊張の限界なのだろうか。一言、きっと一言で張りつめた糸は切れてしまうだろう。
「…………好きだけど」
言うが早いか視界がこがね色に染まる。目の前をふわっとブロンドが舞って、魔理沙の柔らかい腕がアリスの首に巻き付いていた。普段なら鬱陶しくてちょっと窮屈なそれが、今のアリスには心地よい。シャンプーと土の匂いが半々の微妙な香りだって、幸せのかけがえのない一部分のようだ。
いつの間に戻ったのか、勇義たちのはやし立てる声やら口笛やらが店内には満ちていて、騒がしい宴会の様相を呈していた。机には、杯やらお猪口やらグラスやらジョッキやらボトルが整列している。
どうやらまだ帰ることは叶わないらしい。
‡
「くしゅんっ」
居酒屋をでると、薄黒い天井から淡い雪が降っていた。そのひとひらがそっとアリスの頬を撫でる。
一年を通して気温の低い地底。地上ではまだ五月とはいえ、それでも夜の冷え込みは身に染みるものがある。
「おいおい、アリス。風邪でもひいたのか」
「引いてないわよ。人間と違って丈夫なんだから」
「ならいいんだけどな。おでこで熱測ってあげようか」
「調子に乗らないの」
差し出されたおでこに、でこぴんを一発。はにかみながら額の手を当てて、魔理沙は笑う。
「痛いな。けどほっぺた赤いぜ?」
「これはあれよ。お酒呑みすぎちゃったから……」
アリスはそう言って魔理沙を見ると、その顔は意外なほどに酒気を含んでいなかった。
「そういえば今日はあんまり呑まなかったのね、お酒」
「へへ、今日は運転手だからな」
「私だけ酔っちゃってずるいわ」
「無茶言うなよ。ほら酔っ払いはさっさと乗った乗った」
箒に跨り、後ろをぽんぽんと叩く。アリスが仕方なしに腰掛けると少しの間を置いて箒が浮上し始める。
酔いの廻る意識の仲、徐々に遠ざかる旧都の艶やかな色彩が雪と暗闇に溶けていくのを、アリスはぼんやりと眺めていた。
時々吹き付ける寒風と、肌に張り付く雪がにわかに体温を奪う。スカートから冷気が潜り込んで、すぅとアリスの全身を撫でていく。
「っくしゅん!」
不意にくしゃみが出た。続いて鼻をすする。いがらっぽい喉。わずかな頭痛。先ほどのくしゃみとは性質が違う。
これは……風邪?
そう思った途端、微かな悪寒が背筋を走るのをアリスは感じた。醒めてきた酔いに身体が段々と震え、体調の悪さに拍車をかける。意識は徐々にぼんやりとしていく。
「魔理沙……」
「うん?」
「わたしやっぱり風邪引いちゃったかも」
「妖怪は丈夫なんじゃないのか?」
「だって……ごめんなさい」
「まさかヤマメの仕業だったりしてな。まあいいさ。今回の旅行はアリスのためだから。お前の家まで無事送り届けるよ」
「魔理沙……目的、覚えてたのね。ありがとう」
「と、当然だぜ」
いつしか肌を舐める風が変わっていた。夜気を含みながらもからりとした地上の風。天蓋には星々が薄い光を灯している。
急な温度の変化に寒気は増していたけれど、目の前の背中にそっと触れると、アリスは自分の芯に熱が灯るのを感じた。
家に着いたらこの温もりも離れてしまうのだろうか。眠気にゆっくりと靄のかかる意識の中、そう思うと胸がわずかに締め付けられる。
夜伽とはいかないでも魔理沙に触れていたいと思うのは自然のこと。さとりの言葉が慰めのように想起された。もう少し積極的になってた方がいいのかな、魔理沙だって思いを告げてくれたのだ。
そう、等価交換は魔法の原則。
なら私だって一歩踏み出さなきゃ――アリスは慎重に口を開いた。
「ねえ……やっぱり魔理沙の家がいい」
「えっ? ど、どうしたんだいきなり」
「ほっほらっ、私の家、風邪薬切らしちゃってるし魔理沙の家のほうがここから近いし……。その……」
「わかったよ。魔理沙様が朝まで付きっきりで看病してやるから覚悟しとけよ」
「まりさ……」
ぎゅっと魔理沙のお腹に腕を回し、アリスが抱きつく。
「うわっ! おいおい、そんなしがみつかなくたって落ちないぜ」
突然の衝撃に振り返る魔理沙。その目に映ったのは安らかな寝顔だった。
「……って寝てるのか。本当にわたしがいないとだめなやつだな。まあ、お前のそんなところがわたしは――」
魔理沙の最後の言葉をアリスが聞くことはなかった。
すぅという寝息と、静かに風を切る音だけが満ちる空、淡い流れ星が一つ、暗い暗い森の中へゆっくりと降りていった。
変態はアリスだろwww
……何か忘れている気がしないでもないけど。
面白いドタバタラブコメでした。
きっと人生が58%くらい楽しくなる
距離がもっと縮まった二人も見てみたいですね
ニヤニヤさせていただきました。とくに前半のでこピンのシーンとか
何だかんだで仲の良い魔法使い組が可愛らしかったです
ただまぁ、色々はらはらさせられながらも話自体は楽しめたのと、さとりが色々と巧かったのでこのくらいの点数で。
御馳走様です。
情景描写が綺麗で好みです。今後のご活躍を期待しております。
やっぱマリアリ最高。