多くの人妖が私の前を通り過ぎていった。
親しくした者がいて、敵対した者がいる。
お互いに深く踏み込むことなく、程々の距離を保ったままに終わった者もいる。
シンパシーを抱きながらもうまく声をかける機会を掴めなかった者。
表面上はいかにも親しく接しながらも心の底では憎んでいた者。
私を姉のように慕ってくれた者。
私が姉のように慕っていた者。
色々な人妖がいた。
ある者は死んだ。
病気で、寿命で、不慮の事故で、恨まれた末に殺されて、自ら命を絶って。
ある者は疎遠になった。
些細な言葉の行き違いで、なんとなく会うのが恥ずかしくなって、私が愛想を尽かされて。
ある者は行方不明になった。
自分探しの旅に出て、嵐と共に去って、ある日突然消息を絶って。
多くの人と関わって、沢山笑い、涙を流した。
しかしその誰もが今はいない。
通り過ぎていった者たちは二度と私の前に顔を見せなかった。
もちろん、それが通り過ぎるということなのだけれど、私はその本当の意味に気がついていなかったのだ。
私は若くて活力と希望に満ち溢れていた。
表向きはクールさを装って、それでも中身は無根拠な自信と全能感で一杯だった。
だから、通り過ぎていこうとする者たちの肩を掴んで引き戻したり、お願い、置いていかないでと一言声をかけたりする努力すらも怠った。
少し振り向きさえすれば、いつでも誰でも私の前に戻ってきてくれると信じていたからだ。
それが若さから来る傲慢だと気付いたときには既に遅かった。
今、私は独りだ。
もはや誰一人私を訪ねる者はいない。
部屋についた窓からは、森の様子を窺うことが出来る。
だがそれはまやかしだ。
窓の鍵は何をしても開かない。
ガラスを割ることも出来ない。
家の扉は絶望的に重い。
大きな鍵が一分の隙もなく私を家の中に縛り付ける。
日を追う毎に私は弱っていった。
ある時鏡を見ると信じられないほど年老いた女の姿があった。
深い皺が幾重にも刻まれ、口角はだらりと下がっている。
髪からは色素が抜け落ち、腰は深く曲がっていた。
老い、弱りきった私がそこにいた。
世界が私を家に閉じ込めているのではない、私が世界を家で閉じ込めているのだ。
そう思い込もうとして、しかしその妄想のあまりの虚しさに気付いた時、私は更に弱った。
もう二度と行けない場所を見たくはない。
私はすべての窓のカーテンを閉めた。
ある日、壁の隅に真っ黒な闇を見つけた。
毎日観察しているうちにどんどんそれは壁を侵食して、しかも壁から迫り出してくる。
触れてはいけないものだということは本能的に分かった。
触れたら最後、私は闇に引きずり込まれる。
毎日毎日、闇は部屋の中で存在感を増してきた。
少しずつ少しずつ、闇は私を追い詰めていた。
やがて私は部屋の真ん中から動けなくなった。
天井も壁も家具も人形も、すべてが闇に覆われた。
床の木目が一片、申し訳程度に残っている。
やがてやって来た最期の瞬間。
私は観念して目を閉じた。
目蓋の裏に、私が関わってきた人々がぼんやりと映った。
涙が、とめどなく溢れた。
そして私の視界は闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇
喉がどうしようもなく渇いていた。
動悸がする。
冷たい汗がぐっしょりと全身を濡らしていた。
肺からひくひくと迫り出された空気が声帯を掠り、ぜいぜいと情けない音を立てている。
がたがたと、体が震える。
いつの間にか、枕を固く抱きしめていることに気付いた。
枕は涙に濡れている。
被っていたはずの布団が蛇の抜け殻のように足の方に溜まっている。
「…………夢、か」
掠れた声。
自分の喉から出たように思えない。
強烈な悪夢の破片が、意識に深く影を残していた。
頭の片隅が鈍く痛む。
「上海?」
「シャンハーイ」
「コップに水入れてきてくれる?」
「ハーイ」
一番長く遣っている人形を呼ぶ。
私が動かしているのだが、自律を目指している以上、常に語りかけた方が良い影響が出るのでは、と思いいつもこのようにしている。
人前では恥ずかしいのであまりやらないが。
心はまだざわざわと蠢いていた。
両手で顔を覆い、深く溜め息をついた。
まだ体が震えていることに気付き、外敵から身を守るように両腕で自分の体を掻き抱く。
「嫌な夢ね……」
上海が水で満たされたコップを持ってくる。
透明なそれを、一息に飲む。
冷たい液体が、喉をいくらか潤した。
私が差し出した空のコップを上海が無言で受け取り、もう一度水を汲みに行く。
彼女に言葉をかけなかったことに後から気付き、今の自分の余裕のなさを再認識する。
「本当に、嫌な夢」
口に出して言うことで、少しは邪気が逃げていくような気がした。
上海が再度持ってきてくれた水を、今度は少しずつ味わって飲んだ。
きっぱりと現実の味がした。
シャワーを浴び、暖炉に火を入れ、紅茶を一口飲んだあたりでようやく私は落ち着きを取り戻した。
幻想郷の冬は寒い。
木々は枯れ果て、青々とした葉の代わりに雪を誇らしげに纏う。
夏に森を闊歩していた動物達は、秋の間に充分な脂肪を蓄えどこか暖かいところで眠りについている。
虫達の卵や幼虫もめいめいの場所で春を待ち侘びていた。
死に絶えたような森で冬を越すのは容易なことではない。
魔法使いにとって静寂は研究の味方だが、もちろん何事にも限度というものがある。
特に、食事や睡眠を摂り人間のように過ごす私にとっては、冬は他の生き物達と同じく辛く厳しいものだった。
恐らく、今夜はもう眠れないだろう。
束の間のまどろみをきっぱりと諦める。
両手で包むように持ったカップの中に入った紅茶から、ゆっくりと立ち上る湯気を見ていると心が落ち着く。
ようやくさっきの夢を冷静に振り返る余裕が出来てきたみたい。
昔読んだ心理学者の本によると、夢は現実の投影であり、現実は夢の投影であるらしい。
先刻の悪夢は私の潜在的な恐怖が投影され、形を成したということだろうか。
とすると。
家に閉じ込められて出られない自分。
誰からも見放された自分。
年老いた自分。
それがさっき、私が夢で見たものだ。
孤独と老い。
どうやらそれが、私が心の底で最も恐れていることらしい。
くすり、と思わず笑みが零れる。
なんとも軟弱なことだ。
魔法使いとは思えない。
紅い屋敷の魔女に話したら、鼻で笑われそうだ。
机の端には小袋が転がっている。
これこそが今日の悪夢の原因だ。
胡蝶夢丸ナイトメアタイプ。
主治医に夏に渡されたまま飲む気もせず放置していた薬丸。
昨日ふと出てきて、戯れに飲んでみた結果がこれだ。
こんなものを私に渡したことは許しがたいが、どうやら彼女の薬師としての技量は認めざるを得ないようだ。
小袋を手に取り、中に入っている黒く禍々しい薬丸を手に乗せ、ためつすがめつ眺める。
二度と服用することはないだろうが、成分を分析したら興味深い結果が得られるかもしれない。
袋に戻して、とりあえずソファーの傍の床に置いてあった、昨日読み終えた本の上に乱雑に放った。
カップに五分の一ほど残っていた紅茶がすっかり冷めている。
底の方に拗ねた様に居残っていた茶色い液体を一息に飲み干す。
熱かった時には感じなかった渋みに眉を顰めた。
上海に空のカップを洗うように指示し、椅子に掛け直す。
さて、本でも読もう。
本棚から新しい本を取り出して頁を捲る。
暖炉では薪がぱちぱちと爆ぜて、生きているかのように踊っていた。
どれほどの時間が経っただろう。
やがて、遠い稜線から気の抜けたような冬の太陽が顔を出す。
私は、閉じたカーテンの隙間から漏れてくる光に気付いて、読みかけの本を放り出す。
カーテンを開けて外の景色を見た。
一面の銀世界。
日光が積もった雪に反射して煌めいている。
……もちろん、綺麗と言えば綺麗なんだけど、こういつまでも続くと気が滅入る。
日の光と、それを雪が照り返した光とが睡眠不足の目に痛い。
背筋を伸ばして一つ欠伸をする。
頭が痛い。
あと、目の奥にも鈍い痛みが少し。
これは後で肩凝りに繋がる予感。
やはり寝不足は良くない。
良くないが、昼夜逆転は尚更良くないので、なんとか夜まで眠らずやり過ごしたい。
不意に、どん、どん、とドアを叩く音がした。
こんな時間にやってくる奴といえば一人しかいない。
ドアに向かい、訪問者を出迎える。
「はい」
「おお、アリス」
戸口に立っていた普通の魔法使いは、黒い帽子にこんもりと雪を積もらせていつも以上に白黒していた。
頬を紅潮させ、口から白い息を吐いている。
握っている右手ごと、箒が震えている。
「なんか、元気ないな」
「別に、いつも通りよ」
「そうかあ?」
「部屋が冷えちゃうわ。早く入って」
普段の室内着で真冬の外気に曝されると寒くてしょうがない。
魔理沙を家に入れて急いでドアを閉めた。
「あー寒いなあ」
「冬だもの。寒いならどうしてこんな朝から空飛んでたのよ」
「いやあ、昨日の晩から神社で霊夢と酒飲んでたんだけどな。酔いが醒めるとあの神社寒くて寒くて。起きてすぐとんぼ返りしてきたぜ」
「え、まだあの炬燵直してないの?」
「ああ」
「じゃあ霊夢も連れてくれば良かったのに」
「ん?うん、まあ、そうだな」
魔理沙がちょっと眉を寄せて頬を掻く。
今から嘘をつく、という時の癖だ。
本人は微塵も気付いていないようで、便利なので私も指摘したことはない。
「いや、寝てるのに無理に起こすのは悪いと思ってな」
「ふうん」
「なあ、それより何か食べるものないか?」
誤魔化そうとしているのが見え見えで可笑しいが、本当の理由は訊かないことにする。
難しい年頃だし、友達同士でも色々あるんだろう。
「私もまだなにも食べていないの。朝食にしましょう」
神経回路を上海以外の人形達にも接続する。
皆が一斉に朝餉の支度を始めた。
私が多数の人形を一度に操る時には術式のショートカットをよく使う。
頻繁に利用する一連の行動を、それに1対1対応で関連付けられた、より単純な術式で呼び出すのだ。
複数の人形に対し、それぞれに異なる指示を送り続けるのは脳を増殖でもさせない限り不可能で、それを解決するために考えたのがこのショートカット方式だ。
戦闘ではもっと繊細な動きが要求されるので、ショートカットを多数組み合わせて結局はマニュアル化しているが、家事などにおいては完全にオートマティック。
例えば朝食の動作を呼び出せば、後は何もしなくても予め設定しておいた10種類のパターンから人形達がランダムに朝食を作り、持ってきてくれる。
「しかし、いつ見てもすごいもんだな。その人形全部操ってるんだろ?」
「ええ、そうよ」
……手品というものは、タネを明かさないからこそ意味があるのだ。
魔理沙と朝食を食べ、いつもより幾分濃いコーヒーを飲む。
にげえ、と顔をしかめて彼女は砂糖とミルクを大量投下していた。
この普通の魔法使いは最近こうやって私の家を訪れることが多くなった。
知り合って間もない頃は、彼女の粗暴な言動や行動、それに彼女の実力以上に不遜な態度に閉口し、どう扱っていいか分からなかった。
いがみ合ったことも一度や二度ではない。
しかし、徐々にその粗暴さが彼女なりの照れ隠しであり、その不遜さが彼女の不安の表れであることが分かり、それらの奥に隠れた純粋さや優しさを見出した時、私は彼女を自分の妹のように感じるようになっていた。
まあ、情が移ったというやつだ。
「アリスーコーヒーおかわりー」
「はいはい」
今度は若干薄めで淹れるように、と人形に指令を送った。
「ねえ、魔理沙」
「ん、なんだ?」
「あなた、悪夢って見たことある?」
「悪夢?」
蓬莱から受け取ったコーヒーにミルクを入れてぐるぐると掻き混ぜながら、魔理沙は記憶を探るように宙を仰ぐ。
「うーん。そりゃ一杯あるぜ。風邪ひいた時とか」
「どんな夢?」
「え?そりゃあ……駄目だぜ、アリス、そんなこと訊いちゃ」
乙女の秘密ってやつだぜ、と魔理沙は照れたように笑った。
魔理沙はそれから2時間、ごろごろとソファーで寝転んだりあてもない話をしたり私のマジックアイテムを弄くり回したりと好き放題をしてして帰っていった。
なんだか、手のかかる子猫を飼っている気分だ。
悪い気分じゃない。
彼女が去ってしばらくするとまた眠気の波がやってきて、思い切り濃いコーヒーを淹れなおす。
頭の隅が鈍く痛む。
肩の凝りを軽くほぐす。
それから昨日の夢についてまた少し考える。
薬によって無理やり見せられた悪夢。
悪夢を見たこと自体は人為的なものだけれど、その内容についてはそうではない。
例えば人生を謳歌している者にとって、死ぬ夢は悪夢に違いないけれども、自殺志願者が同じものを見たらそれは甘美極まりないとびっきりの夢だろう。
要するに、私が悪夢という形式で見た内容は、とりもなおさず私自身の恐怖に他ならない訳だ。
孤独と老い。
やはりそれが、私が最も恐れていることと見て間違いないだろう。
「……はあ」
思わず溜め息が漏れる。
なんだか、気が抜けた。
ねえアリス、あなた魔法使いでしょう。
もうちょっと高尚な恐れはないの。
魔力が枯渇するとか、人形が操れなくなるとか、自分に何の才覚もないことを思い知らされるとか。
それが、よりにもよって孤独と老いとは。
ただの人間と何も変わらないじゃない。
そう思う。
しかしそう思う反面、人間を辞めた今でも、彼らと同じ恐れを抱く自分に安心する私も、また確実に存在していた。
ああ、思っていたほど、私は絶望的なまでに遠くまで来たわけじゃないんだ。
昔の私と今の私は地続きで繋がっていて、昔の自分を失わないままに、私は魔法使いとして生きているんだ。
そうも思う。
ある意味では残念で、ある意味では喜ばしい。
人間を辞めて、魔法使いとなって。
それでも毎日食物と睡眠を欲する体のシステムを、今も維持している。
それは、未練によるものなのか。
二つの種族の長所短所を吟味した上での選択によるものなのか。
答えはまだ出ていない。
要するに、まだ自分は過渡期なのだと思う。
だけど、少なくとも今は、そういう自分に満足しているし、生活を楽しんでもいる。
当分はこのままでいい。
それが今の私が下した結論。
こうやって、今の自分の立ち位置を確認し、自己と向き合うことが出来ただけでも、あの薬を飲んで良かったと思う。
まあ、二度と飲みたくはないけれど。
そして、魔理沙のことを考える。
彼女を見ていると、色々なことを思い出す。
まだ私が人間で、魔法という未知の物に恋焦がれていた頃のこと。
一つ一つの魔法を覚え、魔力の制御の仕方を習得しようと奮闘していた頃のこと。
そういう、過ぎ去った時の匂いを、彼女といるとふっと嗅ぐことがあるのだ。
それはとても得難い体験だと思う。
そう頻繁に味わえるものではない。
未知なる物へと向かう中途での、わくわくするような驚きと発見の日々。
魔理沙は今、魔法使いとして一番楽しい時期にいると思う。
やがては、超えることの出来ない自分の限界にぶちあたり。
人間として生きる未来と、妖怪として生きる未来を天秤にかけ。
そうして自分が生きる道を、どんな魔法使いでも選び取らなくてはならない。
でも、今の彼女はそんなことを考えなくて良い。
ただ目の前に迫り来る障害を飛び越え、謎を解き明かす、それだけの日々。
「いいなあ」
すごく羨ましい。
でも、そんな彼女を傍で見ているだけでも、充分に楽しい。
暖炉の火が弱まってきた。
薪が尽きてきたのだ。
少し寒いが、あまり暖かくても眠気を増長させるばかり。
そう考えたものの、さすがにこの真冬に暖房なしでやり過ごすのは辛い。
折衷案として、いつも人形に取りに行かせていた薪を、自分で取りに行くことにした。
いつもの服に上着を羽織り、マフラーを巻いて外に出た。
思わず身が竦むような寒さ。
見上げると、太陽が相変わらず寝惚けたようなぼんやりとした光を放っている。
うんざりするほどに雪が積もっている。
箒で飛んでいった魔理沙の足跡はもちろんない。
ふと、先日読んだ外の推理小説を思い出す。
もし魔理沙が私を殺して、そのまま玄関から箒で飛んで逃げたら完全犯罪の成立だ。
さしもの名探偵も手も足も出まい。
もちろん幻想郷では多くの人妖が空を飛べるので不完全極まりないが。
不毛なことを考えながら家の周囲をぐるりと周り、倉庫の扉を開ける。
埃が臭い立つ。
春になったら掃除をしないといけない。
秋に割って備蓄しておいた薪の中から手頃な数を取り出す。
それらを両手で抱え、また玄関に戻ったところ、ドアを所在無げに眺めている霊夢に出くわした。
「霊夢?」
彼女は振り向いて、少し驚いたような表情で薪を抱えている私を見た。
「あれ、今日は人形は故障中?」
「ううん、そういう訳ではないけれど」
「ふうん」
霊夢は少し目を細めて訝しむように私を見たけど、それ以上追求はしてこなかった。
勘は鋭いけど、元来他人に干渉しない子なのだ。
「入って。お茶でも飲んでいきなさい」
「うん」
少し沈黙が流れる。
霊夢が首を傾げた。
「あ、ドア開けて」
「え?あ、はいはい」
そんなに勘が鋭いわけでもないのかもしれない。
薪を暖炉に入れ、火を熾している間に人形達に紅茶を淹れさせた。
さすがにコーヒーは飽きた。
蓬莱から受け取ったカップを両手で持って、霊夢が紅茶を啜っている。
「冬はその服寒いんじゃないの?」
「うん、寒いわ」
「寒いのは平気?」
「うーん……」
ぼんやりと天井の隅辺りを見上げて、霊夢が唸った。
「考えたこともなかった」
「そう」
何とも霊夢らしいというか。
「でも、炬燵は直した方が良いんじゃない?魔理沙が寒いって嘆いてたわよ」
「魔理沙が来たの?」
「え、うん」
「ふうん」
目を細める霊夢。
少し睨んでいるようにも見える。
「それが何か?」
「ううん、何も」
返答が妙に早い。
不干渉を貫くか、少しお節介を焼くか。
少しだけ迷ってから口を開く。
「喧嘩でもしたの?」
「む……いや、うん。まあ、ちょっとね」
「そう」
「うん……」
霊夢は私の視線を避けるように俯いて、無言でカップの水面を見ている。
私もあえて何も言わない。
暖炉の薪だけが景気よく音を撒き散らしている。
かくり、と落ちた顎を慌てて引き戻す。
居眠りしかけていた。
少し俯いたまま上目遣いで対面の霊夢を観察すると、彼女は相変わらずカップと睨めっこしていた。
見られてはいないようだ、良かった。
「魔理沙がね」
ぼそりと吐き出された霊夢の呟きは、不思議とはっきりと私の耳に届いた。
「魔理沙が、言うのよ。お前には私の気持ちは分からない、努力もせずに最初から力を持っている奴には、力を得ようともがいている奴の気持ちなんて分かりっこないって」
「……そう」
「それで私も言い返して、喧嘩になっちゃって。どう思う?アリス」
ようやく顔を上げて私を正面から見た霊夢は、彼女には似つかわしくない切実な表情をしていた。
私は彼女にどんな言葉を掛けるべきなのだろうか。
いまいち、どんな状況での言葉なのかがよく分からないので何とも言えないが、魔理沙が霊夢に対してある種の劣等感を抱いているのには前から気付いていた。
天賦の才で、多くの事を特段苦労もせず成し遂げる霊夢と、真っ白な状態から努力と意地だけで今まで生き延びてきた魔理沙。
二人は友人同士だが、魔理沙が霊夢に対し複雑な感情を持っていても不思議ではない。
距離が近いからこそ余計に腹が立つ事だってある。
酒の勢いでそれがつい零れてしまったのだろう。
「あなたはそれを聞いてどう思った?」
「うーん……」
霊夢が考え込む。
私は周りからクールに見えるように、弱みを見せないように、出来るだけ自分を取り繕っているつもりだけれど、実際は魔理沙に近い努力型の魔法使いだ。
私に相談しに来たということは、恐らく霊夢の目も誤魔化せているということだろう。
ただ、霊夢の見込みが間違っているとはいえ、無碍にしたくはない。
だから、とりあえず彼女の思いを訊いてみる。
「なんというか、まずびっくりしたわ。そんな風に魔理沙を傷つけているなんて思いもしなかったから」
「うん」
「あと……そうね、なんかちょっと力が抜けちゃったかも」
「どういうこと?」
「うーん、魔理沙とは、お互い言いたいことを言える仲だと思ってたんだけど。なんだか、私が一方的にそう思ってただけみたいで。私が魔理沙にずっと我慢させてたんじゃないかって……」
霊夢の声は少しずつ小さくなっていく。
「結局言いたいことを言っていたのは私だけで。私は魔理沙と一緒にいて楽しいけれど、それが楽しいのは私だけで、ずっと魔理沙に嫌な思いを……」
最後の方は洟を啜る音に掻き消されて聞こえなかった。
いつの間にか霊夢は顔をくしゃくしゃにして涙を浮かべていた。
蓬莱が霊夢の頭を撫でると、決壊が崩れたように彼女は泣き出してしまった。
霊夢を捉えているのは、自分がずっと心を許していた者に嫌われていたのではないかという疑念だ。
彼女のある種掴み所のない超然とした態度が誤解を招くことも多いが、霊夢の精神ももちろん他の人妖と同じく、他人との関係を基盤として成り立っている。
霊夢には、知り合いは人妖問わず多いが、その実深い交流を持つ相手は少ない。
彼女の人柄から、他人は好意を持ちながらも一歩退いて接してしまいがちなのだ。
そんな彼女にとっては、一番の親友である魔理沙から嫌われているのではないかという疑いは、他人が思う以上に心に重い負担として圧し掛かっているのだろう。
立ち上がって霊夢の側に行って、何も言わず頭を優しく撫でてやる。
気休めの言葉をかけるのは憚られた。
根拠もない慰めの言葉が、かえって人を惨めな気分にさせることを私は知っているつもりだ。
霊夢も何も言わず私の体に頭を持たせ掛けていた。
幼さが残る、痩せた体躯に改めて驚く。
これで百戦錬磨の妖怪共と渡り合ってきたのだから、人はやはり見かけによらないものだ。
しかし、戦闘においてはどうあれ、精神的には年相応の悩み多き少女で、傷付きもするし、不安定になることもある。
そのことに気付いた周りの者が彼女をちゃんと守ってやるべきなのだ。
霊夢の肩を抱いてじっとしていると、またも眠気がやってきて目蓋が重くなる。
赤々と暖炉で燃える火が、私を眠りに誘う。
少しずつ下がっていってがくん、と落ちた顎が霊夢の頭とぶつかって慌てて我に返る。
霊夢がびくっ、と肩を震わせた。
顔を上げて恐る恐るこちらを見上げる。
「な、なに?」
「え、あ、ごめん」
「あのー、もしかして……寝てた?」
「えー、まあ、いや、うん。ちょっと」
ぷっ、と霊夢が吹き出した。
つられて私も笑ってしまった。
少し落ち着いた霊夢に紅茶のお代わりとサンドイッチを出してやる。
私も一緒に昼食を摂ることにした。
ローストビーフとオニオン、それにレタスを挿んだだけのシンプルなサンドイッチ。
それを家にある一番大きな皿に、端から端まで綺麗に盛り付けさせる。
人形が4人がかりで運んできたそれを、2人で手を合わせて食べ始める。
ふと、また気になって彼女にも訊いてみることにする。
「ねえ、霊夢」
「なに?」
サンドイッチを懸命に頬張っていた霊夢は、口の中のものをごくりと嚥下してこちらを見た。
「あなた、嫌な夢って見たことある?」
「嫌な夢?」
食べかけのサンドイッチを持ったまま、霊夢はぐるりと視線で円を描いた。
「うーん、あまりないかもね」
「そう?」
ある程度予想通りの返答ではあった。
あまり、彼女が悪夢にうなされている姿というのは想像できない。
うーん、と少し考えて霊夢が言った。
「ううん、今のは正しくないわね。私、夢って見ないのよ」
「あら、そうなの?」
少し驚いて目を開くと、うん、と霊夢は頷いた。
「霊の夢、なんて名前なのにね。みんなが言ってる夢っていうのがどんなものなのか、未だによく分からないの」
「ふうん……それは初耳だったわ」
「悪夢ってあれでしょ。怖くて、起きた時びっしょり冷や汗とか掻いて寝れなくなっちゃうんでしょ」
「ええ。そういうものもあるわね」
「ふーん」
じいーっと霊夢が私の顔を見る。
思わず、目を逸らしてしまう。
「……あ、分かった。アリス、昨日うなされたんでしょ」
にやり、と悪戯っぽく笑って霊夢が私を問い詰める。
変なところで勘が鋭くて困る。
それとも、単に私が墓穴を掘ったのか。
ともあれ、普段から出来るだけ隙を見せないようにしている以上、いつも通りの冷静沈着な私を保とうとする。
「さあ、どうかしらね」
「またまた、そんなこと言って。ねえ、どんな夢だったの?」
それこそ、答えられるわけがない。
「別に。いつも通りよ」
「あ、やっぱり夢は見たんだ」
「……そんなこと言ってないでしょ」
「ふふ、まあそういうことにしておいてあげるわ」
なんだか立場が逆になってしまったような気がする。
再度サンドイッチにとりかかる霊夢の表情はやたらと満足げだった。
昼食を食べ終わると、霊夢は私の本棚から恋愛小説を取り出してソファーで読み始めた。
さっきまで魔理沙がごろごろしていた場所だ。
全く以って帰る素振りを見せない。
どうも今日は一日中手のかかる妹達のお守りをしなくてはいけない日らしい。
いつもなら、照れもあってすげなく追い返してしまうところだが、あんな夢を見た後ではそんな振る舞いは憚られた。
なんというか、素直にならざるを得ない。
まあ、眠気も紛れるし、急ぎの用事もないし。
それに、彼女達に頼られて悪い気はしない。
今日くらいはとことんまで付き合ってやろう。
それで、私も霊夢の横に座って読みかけの魔法書を読むことにした。
一時間ほどが経っただろうか。
目が疲れて本から顔を上げる。
太陽はやや西に傾いている。
今日みたいな頼りないお天道様では、積もりに積もった雪を融かすことなど出来るわけもなく、窓の外は相変わらずの銀世界だ。
霊夢はずっと恋愛小説を読み耽っている。
私は肌が合わなくて三分の一も読まないうちに投げてしまったのだが、人の好みは様々だ。
本としても良い読み手が見つかって本望だろう。
一つ欠伸をしてソファーから立ちあがる。
大きく伸びをする。
本を読んで余計に肩が凝った。
キッチンに行って、棚からクッキーを出す。
人形たちに紅茶を淹れさせる。
クッキーを皿に開けてソファーに持っていく。
「少し休憩にしたら?」
「……え?ああうん」
少しのタイムラグの後に反応が帰ってきた。
余程夢中になっていたと見える。
二人でクッキーを齧っていると人形が紅茶を持ってやってきた。
今日何杯目か分からなくなってきたそれを口に含む。
「その本、面白い?」
「うん」
「どういうところが?」
霊夢は少し考える素振りを見せた。
「えっとね……この本に出てくる人たちが、自分や相手のやることとか、言うこととかについて一つ一つすごく細かく考えてるの。『私がさっき本心とは違うけれどこういうことを言ったのは、こういうことがあって、こういう気持ちになったからだ』とかね」
「うん」
「私がそんなこと考えたことないからかな。すごく面白い」
そう言って霊夢は紅茶を一口啜った。
「他人に興味がある?」
「うーん、その言い方は少し酷くない?」
霊夢は神経質そうに微笑んだ。
今まで見たことのない表情だ。
私は慌てて訂正する。
「ごめんなさい、そんなつもりはなかったの」
「いいのよ。言いたいことは分かるわ」
霊夢が少し顔を傾けて、続ける。
「私が他人に無関心に見えるっていうのは分かっているつもりよ。人にそう言われることも多いし」
本当は全然そんなことないんだけどね、と彼女は言った。
適当な言葉が見つからず、私はただ黙って曖昧に頷いた。
「でも、別に人からどう見られていたって構わないと思っていたから、特にそのイメージを変えようとは思わなかったの。巫女という立場もあるしね。けど……」
そう言って目を瞑って頭を振り、それきり霊夢は黙りこんでしまった。
その先は聞くまでもない。
やはり、彼女にとって今日の魔理沙との諍いは想像以上に大きなショックだったのだろう。
誤解を無理に解こうとしなくても、必要以上に自分について語らなくても、魔理沙なら自分の本来の姿を分かってくれるはずだ、という信頼もあったに違いない。
魔理沙だってそれをある程度分かっているはずだ。
しかし、人と人との関係はそういつも上手くいくものではない。
魔理沙には人一倍のプライドと対抗心がある。
何も悪いことではない。
それがなくては魔法使いとしてはまず成功などできない。
ポーズだと分かっていても、霊夢の飄々とした態度に腹が煮え繰り返ることもあるだろう。
そして、近しい者から浴びせられた言葉は、霊夢の見かけによらないナイーヴな内面に深く突き刺さった。
理不尽だ。
だけど、年頃の少女二人が一緒にいればそんなことだってある。
少し冷えてしまった紅茶に口をつける。
その渋さに思わず顔を顰めた。
あっという間に夜になる。
今日一日良い所なしだった太陽は、西の方にすごすごと引き下がってしまってもう影も形もない。
相変わらず本を読んでいる霊夢に、今日は泊まっていったら、と声をかけたら「うん」とのこと。
ほとんど最初からそのつもりでうちに来たのだろう。
洋食で何か食べたいものはあるか、と訊くとハンバーグがご所望のようなので、早速人形達をキッチンに向かわせる。
暖炉の火が弱くなったので、さっき玄関に持ってきた薪の残りを人形達にくべさせる。
出来上がった夕食を二人で食べる。
霊夢は美味しいと言って喜んでくれたけれど、私は出来があまりにいつもと同じで少々つまらないと感じた。
術式のショートカットにもっと揺らぎを持たせるべきか、と思う。
一定確率で調味料のバランスを変えたり、たまに失敗して端を焦がしてしまったり。
そうやってどんどん行動に揺らぎを幅を持たせるうちに、人形は自律に向かっていくのではないかと、ふと気付いた。
メカニズムと人間の一番の違いはその思考のブラックボックス性だ。
いつでも同じ反応を返すのがメカニズムで、気まぐれに反応を変えるのが人間。
刺激に対する反応をアトランダムなものにして、オプションを増やせば、人形は人間に一歩近づくだろう。
しかし。
やはりそれは表面的なものでしかないだろうな、と思う。
反応の種類が増えたとはいえ、それはあくまで有限のもの。
決められた反応を返すだけでは、それは幾分からくりの増えた人形にすぎない。
方向性としては間違ってはいないのだろうけど。
まだまだ考えるべきことは多そうだ。
霊夢がシャワーを浴びている間に彼女の服からサイズを測り、パジャマを作ってやる。
出来上がったそれを、巫女服の代わりに置いておく。
「ありがとう」
シャワーから出てきた霊夢はパジャマを着てはにかみながら言った。
「どういたしまして」
「いつもの服は?」
「洗濯しておくわ」
「乾く?」
私は微笑んで答えた。
「何言ってるの、私は魔法使いよ」
夜の森と星を映している窓に近寄る。
窓枠には新しい雪がふわりと積もっていた。
そっと、カーテンを閉める。
長く、そして厳しい冬だ。
永遠に続くようにも思える。
全てのものが今のまま、動きを止めて凍りついてしまうように。
でもそれは錯覚だ。
やがて雪は融け、春がやってくる。
動物たちも土から這い出てくるだろう。
木々もその青さを取り戻すだろう。
耳を澄ませば、鳥の歌が聴こえてくるだろう。
私は霊夢にそういうことが言いたかった。
そんなに悩むことはないんだと。
でも、なんだかそんな諭すようなことをしたり顔で言うのはどうにも恥ずかしかった。
少々押しつけがましいと思うし、まるで自分が年を取ってしまったように感じる。
何より希望の言葉というものは、自分の体で実感するまでは、気休めのスローガンにしか聞こえないものなのだ。
だから、訪ねてきた霊夢に私がしたことは、ただ優しく受け入れて、温かい食事と寝床を与えてやることだった。
それから……。
思いついて振り返り、椅子に座ってミルクを飲んでいる霊夢に声をかける。
「ねえ、霊夢」
「なに?」
「寝る前にこれを飲みなさい」
上海に取りに行かせたそれを受け取って、霊夢に渡す。
「これは?」
「大丈夫。悪いものではないわ」
霊夢は不思議そうな顔で眺めていたが、しばらくするとミルクでそれを飲み込んだ。
「ありがとう。よく分からないけれど」
「すぐに分かるわ」
その時だった。
がん、がん、と荒々しくドアが叩かれる。
「アリス!」
その声にびっくりして目を見開いた霊夢に「待ってて」と言い、玄関に向かった。
ドアを開けると、パジャマ姿の魔理沙が泣き腫らした目で呆然と立っていた。
私の姿を認めると、すぐさま私に飛びついてくる。
からん、と玄関に箒が音を立てて落ちる。
何がなんだか分からないまま、抱きついてきた魔理沙の背中をさすってやり、空いた手でドアを閉めた。
雪が魔理沙の髪にもパジャマにも降りかかっていて冷たい。
そして、それとは別に汗をびっしょりと掻いているようだ。
「こんな時間にどうしたのよ、一体」
訊いても腕の中で泣きじゃくるばかりで要領を得ず、とりあえず落ち着かせようと背中をさすり、頭を撫でてやる。
荒い息を吐き、可呼吸状態に陥っている。
意識的にのんびりとした声をかける。
「大丈夫だから。ゆっくり息を吸って。深呼吸しなさい」
すーはーすーはーと何回も繰り返させて、ようやく魔理沙が喋れるようになる。
けほ、と一つ咳をして私に捲し立てた。
「アリス、霊夢が死んじゃった。私のせいだ、私のせいで霊夢が。私が馬鹿なこと言わなければ。アリス、助けて」
……霊夢?
振り返ると、居間から霊夢が顔をちょこんと出して怖々とこちらを窺っている。
もちろんばっちり生きている。
私が見ているのが幽霊の類でなければ、だが。
魔理沙は相変わらず霊夢が霊夢がとうわ言のように繰り返している。
今日一日のことを思い出す。
頭の片隅に何かひっかかるものがあった。
「ああ」
思わず口から息が漏れた。
大体話が読めてきた。
とりあえず、魔理沙を宥めすかして居間に連れて行くと、びくり、と霊夢が震えて急いで他の部屋に逃げようとするので彼女を呼び止める。
「いいから、あなたも居なさい」
少し迷って、霊夢は戻ってきた。
魔理沙はそれに気づかずに泣きながらぶつぶつと呟いている。
「霊夢が……霊夢が……」
「あの……魔理沙?」
躊躇いがちに、霊夢が魔理沙に声をかけた。
「え?」
「あの、私、なんというか……生きてるけど」
「え……え?」
口をあんぐりと開けて、しばし固まっていた魔理沙は、ややあって霊夢に抱きついた。
「霊夢!」
腕の中でまた大泣きする魔理沙に、霊夢は戸惑ったような表情を浮かべたものの、それはすぐに嬉しそうな、照れたような笑顔に変わる。
「あーうん、大丈夫だから。よしよし」
二人をその場に残して、私はソファーの近くを確かめに行く。
ああ、やっぱり。
思わず溜め息をつく。
昨夜放っておいた胡蝶夢丸ナイトメアの小袋は、その下の魔法書ごと綺麗さっぱり消え去っていた。
こっそり盗んで行った魔理沙が、好奇心を抑えきれず飲んだのだろう。
まったく……。
振り返って二人を見る。
まあ、魔理沙も悪夢で充分罰を受けたことだし、何よりせっかくの仲直りに水を差すのはあまりに馬鹿げている。
追求するのは明日にしておいてやろう。
「霊夢、魔理沙。もう遅いから寝なさい」
「あ、うん」
霊夢がこっちを見て答える。
「客間もベッドも一つしかないから、まあ二人で仲良く寝ることね」
そう言って片目を瞑ってやる。
霊夢が少し照れたような笑顔を浮かべて、小さな声で「ありがとう」と言った。
二人を寝室まで案内する。
それから居間の灯りを消して、私も自分の寝室へと向かう。
霊夢に飲ませた胡蝶夢丸。
もちろん、悪夢を見せるナイトメアタイプではない。
紅い丸薬が霊夢に見せる、彼女にとって生まれて初めての夢は一体どんなものなのだろう。
ふわふわと蝶のように空を舞う夢は、彼女にとってはあまりにもいつも通りすぎて、いささか退屈かもしれない。
でも、少なくとも悪い夢ではないはずだ。
目を細めて欠伸をする。
視界の端が涙で少し歪む。
眠い。
とてつもなく眠い。
私が捨てなかった睡眠が、私が選び取った睡眠が、今私を呼んでいる。
寝室で私を待ち受けているベッドのことを考える。
望みうる限り最も暖かく、静かで、柔らかな寝床。
きっと、今の私にとって、世界で一番心地良い場所だろう。
そして。
そこでこれから私が見る夢だって、きっとそんなに悪い夢ではないだろうと思うのだ。
親しくした者がいて、敵対した者がいる。
お互いに深く踏み込むことなく、程々の距離を保ったままに終わった者もいる。
シンパシーを抱きながらもうまく声をかける機会を掴めなかった者。
表面上はいかにも親しく接しながらも心の底では憎んでいた者。
私を姉のように慕ってくれた者。
私が姉のように慕っていた者。
色々な人妖がいた。
ある者は死んだ。
病気で、寿命で、不慮の事故で、恨まれた末に殺されて、自ら命を絶って。
ある者は疎遠になった。
些細な言葉の行き違いで、なんとなく会うのが恥ずかしくなって、私が愛想を尽かされて。
ある者は行方不明になった。
自分探しの旅に出て、嵐と共に去って、ある日突然消息を絶って。
多くの人と関わって、沢山笑い、涙を流した。
しかしその誰もが今はいない。
通り過ぎていった者たちは二度と私の前に顔を見せなかった。
もちろん、それが通り過ぎるということなのだけれど、私はその本当の意味に気がついていなかったのだ。
私は若くて活力と希望に満ち溢れていた。
表向きはクールさを装って、それでも中身は無根拠な自信と全能感で一杯だった。
だから、通り過ぎていこうとする者たちの肩を掴んで引き戻したり、お願い、置いていかないでと一言声をかけたりする努力すらも怠った。
少し振り向きさえすれば、いつでも誰でも私の前に戻ってきてくれると信じていたからだ。
それが若さから来る傲慢だと気付いたときには既に遅かった。
今、私は独りだ。
もはや誰一人私を訪ねる者はいない。
部屋についた窓からは、森の様子を窺うことが出来る。
だがそれはまやかしだ。
窓の鍵は何をしても開かない。
ガラスを割ることも出来ない。
家の扉は絶望的に重い。
大きな鍵が一分の隙もなく私を家の中に縛り付ける。
日を追う毎に私は弱っていった。
ある時鏡を見ると信じられないほど年老いた女の姿があった。
深い皺が幾重にも刻まれ、口角はだらりと下がっている。
髪からは色素が抜け落ち、腰は深く曲がっていた。
老い、弱りきった私がそこにいた。
世界が私を家に閉じ込めているのではない、私が世界を家で閉じ込めているのだ。
そう思い込もうとして、しかしその妄想のあまりの虚しさに気付いた時、私は更に弱った。
もう二度と行けない場所を見たくはない。
私はすべての窓のカーテンを閉めた。
ある日、壁の隅に真っ黒な闇を見つけた。
毎日観察しているうちにどんどんそれは壁を侵食して、しかも壁から迫り出してくる。
触れてはいけないものだということは本能的に分かった。
触れたら最後、私は闇に引きずり込まれる。
毎日毎日、闇は部屋の中で存在感を増してきた。
少しずつ少しずつ、闇は私を追い詰めていた。
やがて私は部屋の真ん中から動けなくなった。
天井も壁も家具も人形も、すべてが闇に覆われた。
床の木目が一片、申し訳程度に残っている。
やがてやって来た最期の瞬間。
私は観念して目を閉じた。
目蓋の裏に、私が関わってきた人々がぼんやりと映った。
涙が、とめどなく溢れた。
そして私の視界は闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇
喉がどうしようもなく渇いていた。
動悸がする。
冷たい汗がぐっしょりと全身を濡らしていた。
肺からひくひくと迫り出された空気が声帯を掠り、ぜいぜいと情けない音を立てている。
がたがたと、体が震える。
いつの間にか、枕を固く抱きしめていることに気付いた。
枕は涙に濡れている。
被っていたはずの布団が蛇の抜け殻のように足の方に溜まっている。
「…………夢、か」
掠れた声。
自分の喉から出たように思えない。
強烈な悪夢の破片が、意識に深く影を残していた。
頭の片隅が鈍く痛む。
「上海?」
「シャンハーイ」
「コップに水入れてきてくれる?」
「ハーイ」
一番長く遣っている人形を呼ぶ。
私が動かしているのだが、自律を目指している以上、常に語りかけた方が良い影響が出るのでは、と思いいつもこのようにしている。
人前では恥ずかしいのであまりやらないが。
心はまだざわざわと蠢いていた。
両手で顔を覆い、深く溜め息をついた。
まだ体が震えていることに気付き、外敵から身を守るように両腕で自分の体を掻き抱く。
「嫌な夢ね……」
上海が水で満たされたコップを持ってくる。
透明なそれを、一息に飲む。
冷たい液体が、喉をいくらか潤した。
私が差し出した空のコップを上海が無言で受け取り、もう一度水を汲みに行く。
彼女に言葉をかけなかったことに後から気付き、今の自分の余裕のなさを再認識する。
「本当に、嫌な夢」
口に出して言うことで、少しは邪気が逃げていくような気がした。
上海が再度持ってきてくれた水を、今度は少しずつ味わって飲んだ。
きっぱりと現実の味がした。
シャワーを浴び、暖炉に火を入れ、紅茶を一口飲んだあたりでようやく私は落ち着きを取り戻した。
幻想郷の冬は寒い。
木々は枯れ果て、青々とした葉の代わりに雪を誇らしげに纏う。
夏に森を闊歩していた動物達は、秋の間に充分な脂肪を蓄えどこか暖かいところで眠りについている。
虫達の卵や幼虫もめいめいの場所で春を待ち侘びていた。
死に絶えたような森で冬を越すのは容易なことではない。
魔法使いにとって静寂は研究の味方だが、もちろん何事にも限度というものがある。
特に、食事や睡眠を摂り人間のように過ごす私にとっては、冬は他の生き物達と同じく辛く厳しいものだった。
恐らく、今夜はもう眠れないだろう。
束の間のまどろみをきっぱりと諦める。
両手で包むように持ったカップの中に入った紅茶から、ゆっくりと立ち上る湯気を見ていると心が落ち着く。
ようやくさっきの夢を冷静に振り返る余裕が出来てきたみたい。
昔読んだ心理学者の本によると、夢は現実の投影であり、現実は夢の投影であるらしい。
先刻の悪夢は私の潜在的な恐怖が投影され、形を成したということだろうか。
とすると。
家に閉じ込められて出られない自分。
誰からも見放された自分。
年老いた自分。
それがさっき、私が夢で見たものだ。
孤独と老い。
どうやらそれが、私が心の底で最も恐れていることらしい。
くすり、と思わず笑みが零れる。
なんとも軟弱なことだ。
魔法使いとは思えない。
紅い屋敷の魔女に話したら、鼻で笑われそうだ。
机の端には小袋が転がっている。
これこそが今日の悪夢の原因だ。
胡蝶夢丸ナイトメアタイプ。
主治医に夏に渡されたまま飲む気もせず放置していた薬丸。
昨日ふと出てきて、戯れに飲んでみた結果がこれだ。
こんなものを私に渡したことは許しがたいが、どうやら彼女の薬師としての技量は認めざるを得ないようだ。
小袋を手に取り、中に入っている黒く禍々しい薬丸を手に乗せ、ためつすがめつ眺める。
二度と服用することはないだろうが、成分を分析したら興味深い結果が得られるかもしれない。
袋に戻して、とりあえずソファーの傍の床に置いてあった、昨日読み終えた本の上に乱雑に放った。
カップに五分の一ほど残っていた紅茶がすっかり冷めている。
底の方に拗ねた様に居残っていた茶色い液体を一息に飲み干す。
熱かった時には感じなかった渋みに眉を顰めた。
上海に空のカップを洗うように指示し、椅子に掛け直す。
さて、本でも読もう。
本棚から新しい本を取り出して頁を捲る。
暖炉では薪がぱちぱちと爆ぜて、生きているかのように踊っていた。
どれほどの時間が経っただろう。
やがて、遠い稜線から気の抜けたような冬の太陽が顔を出す。
私は、閉じたカーテンの隙間から漏れてくる光に気付いて、読みかけの本を放り出す。
カーテンを開けて外の景色を見た。
一面の銀世界。
日光が積もった雪に反射して煌めいている。
……もちろん、綺麗と言えば綺麗なんだけど、こういつまでも続くと気が滅入る。
日の光と、それを雪が照り返した光とが睡眠不足の目に痛い。
背筋を伸ばして一つ欠伸をする。
頭が痛い。
あと、目の奥にも鈍い痛みが少し。
これは後で肩凝りに繋がる予感。
やはり寝不足は良くない。
良くないが、昼夜逆転は尚更良くないので、なんとか夜まで眠らずやり過ごしたい。
不意に、どん、どん、とドアを叩く音がした。
こんな時間にやってくる奴といえば一人しかいない。
ドアに向かい、訪問者を出迎える。
「はい」
「おお、アリス」
戸口に立っていた普通の魔法使いは、黒い帽子にこんもりと雪を積もらせていつも以上に白黒していた。
頬を紅潮させ、口から白い息を吐いている。
握っている右手ごと、箒が震えている。
「なんか、元気ないな」
「別に、いつも通りよ」
「そうかあ?」
「部屋が冷えちゃうわ。早く入って」
普段の室内着で真冬の外気に曝されると寒くてしょうがない。
魔理沙を家に入れて急いでドアを閉めた。
「あー寒いなあ」
「冬だもの。寒いならどうしてこんな朝から空飛んでたのよ」
「いやあ、昨日の晩から神社で霊夢と酒飲んでたんだけどな。酔いが醒めるとあの神社寒くて寒くて。起きてすぐとんぼ返りしてきたぜ」
「え、まだあの炬燵直してないの?」
「ああ」
「じゃあ霊夢も連れてくれば良かったのに」
「ん?うん、まあ、そうだな」
魔理沙がちょっと眉を寄せて頬を掻く。
今から嘘をつく、という時の癖だ。
本人は微塵も気付いていないようで、便利なので私も指摘したことはない。
「いや、寝てるのに無理に起こすのは悪いと思ってな」
「ふうん」
「なあ、それより何か食べるものないか?」
誤魔化そうとしているのが見え見えで可笑しいが、本当の理由は訊かないことにする。
難しい年頃だし、友達同士でも色々あるんだろう。
「私もまだなにも食べていないの。朝食にしましょう」
神経回路を上海以外の人形達にも接続する。
皆が一斉に朝餉の支度を始めた。
私が多数の人形を一度に操る時には術式のショートカットをよく使う。
頻繁に利用する一連の行動を、それに1対1対応で関連付けられた、より単純な術式で呼び出すのだ。
複数の人形に対し、それぞれに異なる指示を送り続けるのは脳を増殖でもさせない限り不可能で、それを解決するために考えたのがこのショートカット方式だ。
戦闘ではもっと繊細な動きが要求されるので、ショートカットを多数組み合わせて結局はマニュアル化しているが、家事などにおいては完全にオートマティック。
例えば朝食の動作を呼び出せば、後は何もしなくても予め設定しておいた10種類のパターンから人形達がランダムに朝食を作り、持ってきてくれる。
「しかし、いつ見てもすごいもんだな。その人形全部操ってるんだろ?」
「ええ、そうよ」
……手品というものは、タネを明かさないからこそ意味があるのだ。
魔理沙と朝食を食べ、いつもより幾分濃いコーヒーを飲む。
にげえ、と顔をしかめて彼女は砂糖とミルクを大量投下していた。
この普通の魔法使いは最近こうやって私の家を訪れることが多くなった。
知り合って間もない頃は、彼女の粗暴な言動や行動、それに彼女の実力以上に不遜な態度に閉口し、どう扱っていいか分からなかった。
いがみ合ったことも一度や二度ではない。
しかし、徐々にその粗暴さが彼女なりの照れ隠しであり、その不遜さが彼女の不安の表れであることが分かり、それらの奥に隠れた純粋さや優しさを見出した時、私は彼女を自分の妹のように感じるようになっていた。
まあ、情が移ったというやつだ。
「アリスーコーヒーおかわりー」
「はいはい」
今度は若干薄めで淹れるように、と人形に指令を送った。
「ねえ、魔理沙」
「ん、なんだ?」
「あなた、悪夢って見たことある?」
「悪夢?」
蓬莱から受け取ったコーヒーにミルクを入れてぐるぐると掻き混ぜながら、魔理沙は記憶を探るように宙を仰ぐ。
「うーん。そりゃ一杯あるぜ。風邪ひいた時とか」
「どんな夢?」
「え?そりゃあ……駄目だぜ、アリス、そんなこと訊いちゃ」
乙女の秘密ってやつだぜ、と魔理沙は照れたように笑った。
魔理沙はそれから2時間、ごろごろとソファーで寝転んだりあてもない話をしたり私のマジックアイテムを弄くり回したりと好き放題をしてして帰っていった。
なんだか、手のかかる子猫を飼っている気分だ。
悪い気分じゃない。
彼女が去ってしばらくするとまた眠気の波がやってきて、思い切り濃いコーヒーを淹れなおす。
頭の隅が鈍く痛む。
肩の凝りを軽くほぐす。
それから昨日の夢についてまた少し考える。
薬によって無理やり見せられた悪夢。
悪夢を見たこと自体は人為的なものだけれど、その内容についてはそうではない。
例えば人生を謳歌している者にとって、死ぬ夢は悪夢に違いないけれども、自殺志願者が同じものを見たらそれは甘美極まりないとびっきりの夢だろう。
要するに、私が悪夢という形式で見た内容は、とりもなおさず私自身の恐怖に他ならない訳だ。
孤独と老い。
やはりそれが、私が最も恐れていることと見て間違いないだろう。
「……はあ」
思わず溜め息が漏れる。
なんだか、気が抜けた。
ねえアリス、あなた魔法使いでしょう。
もうちょっと高尚な恐れはないの。
魔力が枯渇するとか、人形が操れなくなるとか、自分に何の才覚もないことを思い知らされるとか。
それが、よりにもよって孤独と老いとは。
ただの人間と何も変わらないじゃない。
そう思う。
しかしそう思う反面、人間を辞めた今でも、彼らと同じ恐れを抱く自分に安心する私も、また確実に存在していた。
ああ、思っていたほど、私は絶望的なまでに遠くまで来たわけじゃないんだ。
昔の私と今の私は地続きで繋がっていて、昔の自分を失わないままに、私は魔法使いとして生きているんだ。
そうも思う。
ある意味では残念で、ある意味では喜ばしい。
人間を辞めて、魔法使いとなって。
それでも毎日食物と睡眠を欲する体のシステムを、今も維持している。
それは、未練によるものなのか。
二つの種族の長所短所を吟味した上での選択によるものなのか。
答えはまだ出ていない。
要するに、まだ自分は過渡期なのだと思う。
だけど、少なくとも今は、そういう自分に満足しているし、生活を楽しんでもいる。
当分はこのままでいい。
それが今の私が下した結論。
こうやって、今の自分の立ち位置を確認し、自己と向き合うことが出来ただけでも、あの薬を飲んで良かったと思う。
まあ、二度と飲みたくはないけれど。
そして、魔理沙のことを考える。
彼女を見ていると、色々なことを思い出す。
まだ私が人間で、魔法という未知の物に恋焦がれていた頃のこと。
一つ一つの魔法を覚え、魔力の制御の仕方を習得しようと奮闘していた頃のこと。
そういう、過ぎ去った時の匂いを、彼女といるとふっと嗅ぐことがあるのだ。
それはとても得難い体験だと思う。
そう頻繁に味わえるものではない。
未知なる物へと向かう中途での、わくわくするような驚きと発見の日々。
魔理沙は今、魔法使いとして一番楽しい時期にいると思う。
やがては、超えることの出来ない自分の限界にぶちあたり。
人間として生きる未来と、妖怪として生きる未来を天秤にかけ。
そうして自分が生きる道を、どんな魔法使いでも選び取らなくてはならない。
でも、今の彼女はそんなことを考えなくて良い。
ただ目の前に迫り来る障害を飛び越え、謎を解き明かす、それだけの日々。
「いいなあ」
すごく羨ましい。
でも、そんな彼女を傍で見ているだけでも、充分に楽しい。
暖炉の火が弱まってきた。
薪が尽きてきたのだ。
少し寒いが、あまり暖かくても眠気を増長させるばかり。
そう考えたものの、さすがにこの真冬に暖房なしでやり過ごすのは辛い。
折衷案として、いつも人形に取りに行かせていた薪を、自分で取りに行くことにした。
いつもの服に上着を羽織り、マフラーを巻いて外に出た。
思わず身が竦むような寒さ。
見上げると、太陽が相変わらず寝惚けたようなぼんやりとした光を放っている。
うんざりするほどに雪が積もっている。
箒で飛んでいった魔理沙の足跡はもちろんない。
ふと、先日読んだ外の推理小説を思い出す。
もし魔理沙が私を殺して、そのまま玄関から箒で飛んで逃げたら完全犯罪の成立だ。
さしもの名探偵も手も足も出まい。
もちろん幻想郷では多くの人妖が空を飛べるので不完全極まりないが。
不毛なことを考えながら家の周囲をぐるりと周り、倉庫の扉を開ける。
埃が臭い立つ。
春になったら掃除をしないといけない。
秋に割って備蓄しておいた薪の中から手頃な数を取り出す。
それらを両手で抱え、また玄関に戻ったところ、ドアを所在無げに眺めている霊夢に出くわした。
「霊夢?」
彼女は振り向いて、少し驚いたような表情で薪を抱えている私を見た。
「あれ、今日は人形は故障中?」
「ううん、そういう訳ではないけれど」
「ふうん」
霊夢は少し目を細めて訝しむように私を見たけど、それ以上追求はしてこなかった。
勘は鋭いけど、元来他人に干渉しない子なのだ。
「入って。お茶でも飲んでいきなさい」
「うん」
少し沈黙が流れる。
霊夢が首を傾げた。
「あ、ドア開けて」
「え?あ、はいはい」
そんなに勘が鋭いわけでもないのかもしれない。
薪を暖炉に入れ、火を熾している間に人形達に紅茶を淹れさせた。
さすがにコーヒーは飽きた。
蓬莱から受け取ったカップを両手で持って、霊夢が紅茶を啜っている。
「冬はその服寒いんじゃないの?」
「うん、寒いわ」
「寒いのは平気?」
「うーん……」
ぼんやりと天井の隅辺りを見上げて、霊夢が唸った。
「考えたこともなかった」
「そう」
何とも霊夢らしいというか。
「でも、炬燵は直した方が良いんじゃない?魔理沙が寒いって嘆いてたわよ」
「魔理沙が来たの?」
「え、うん」
「ふうん」
目を細める霊夢。
少し睨んでいるようにも見える。
「それが何か?」
「ううん、何も」
返答が妙に早い。
不干渉を貫くか、少しお節介を焼くか。
少しだけ迷ってから口を開く。
「喧嘩でもしたの?」
「む……いや、うん。まあ、ちょっとね」
「そう」
「うん……」
霊夢は私の視線を避けるように俯いて、無言でカップの水面を見ている。
私もあえて何も言わない。
暖炉の薪だけが景気よく音を撒き散らしている。
かくり、と落ちた顎を慌てて引き戻す。
居眠りしかけていた。
少し俯いたまま上目遣いで対面の霊夢を観察すると、彼女は相変わらずカップと睨めっこしていた。
見られてはいないようだ、良かった。
「魔理沙がね」
ぼそりと吐き出された霊夢の呟きは、不思議とはっきりと私の耳に届いた。
「魔理沙が、言うのよ。お前には私の気持ちは分からない、努力もせずに最初から力を持っている奴には、力を得ようともがいている奴の気持ちなんて分かりっこないって」
「……そう」
「それで私も言い返して、喧嘩になっちゃって。どう思う?アリス」
ようやく顔を上げて私を正面から見た霊夢は、彼女には似つかわしくない切実な表情をしていた。
私は彼女にどんな言葉を掛けるべきなのだろうか。
いまいち、どんな状況での言葉なのかがよく分からないので何とも言えないが、魔理沙が霊夢に対してある種の劣等感を抱いているのには前から気付いていた。
天賦の才で、多くの事を特段苦労もせず成し遂げる霊夢と、真っ白な状態から努力と意地だけで今まで生き延びてきた魔理沙。
二人は友人同士だが、魔理沙が霊夢に対し複雑な感情を持っていても不思議ではない。
距離が近いからこそ余計に腹が立つ事だってある。
酒の勢いでそれがつい零れてしまったのだろう。
「あなたはそれを聞いてどう思った?」
「うーん……」
霊夢が考え込む。
私は周りからクールに見えるように、弱みを見せないように、出来るだけ自分を取り繕っているつもりだけれど、実際は魔理沙に近い努力型の魔法使いだ。
私に相談しに来たということは、恐らく霊夢の目も誤魔化せているということだろう。
ただ、霊夢の見込みが間違っているとはいえ、無碍にしたくはない。
だから、とりあえず彼女の思いを訊いてみる。
「なんというか、まずびっくりしたわ。そんな風に魔理沙を傷つけているなんて思いもしなかったから」
「うん」
「あと……そうね、なんかちょっと力が抜けちゃったかも」
「どういうこと?」
「うーん、魔理沙とは、お互い言いたいことを言える仲だと思ってたんだけど。なんだか、私が一方的にそう思ってただけみたいで。私が魔理沙にずっと我慢させてたんじゃないかって……」
霊夢の声は少しずつ小さくなっていく。
「結局言いたいことを言っていたのは私だけで。私は魔理沙と一緒にいて楽しいけれど、それが楽しいのは私だけで、ずっと魔理沙に嫌な思いを……」
最後の方は洟を啜る音に掻き消されて聞こえなかった。
いつの間にか霊夢は顔をくしゃくしゃにして涙を浮かべていた。
蓬莱が霊夢の頭を撫でると、決壊が崩れたように彼女は泣き出してしまった。
霊夢を捉えているのは、自分がずっと心を許していた者に嫌われていたのではないかという疑念だ。
彼女のある種掴み所のない超然とした態度が誤解を招くことも多いが、霊夢の精神ももちろん他の人妖と同じく、他人との関係を基盤として成り立っている。
霊夢には、知り合いは人妖問わず多いが、その実深い交流を持つ相手は少ない。
彼女の人柄から、他人は好意を持ちながらも一歩退いて接してしまいがちなのだ。
そんな彼女にとっては、一番の親友である魔理沙から嫌われているのではないかという疑いは、他人が思う以上に心に重い負担として圧し掛かっているのだろう。
立ち上がって霊夢の側に行って、何も言わず頭を優しく撫でてやる。
気休めの言葉をかけるのは憚られた。
根拠もない慰めの言葉が、かえって人を惨めな気分にさせることを私は知っているつもりだ。
霊夢も何も言わず私の体に頭を持たせ掛けていた。
幼さが残る、痩せた体躯に改めて驚く。
これで百戦錬磨の妖怪共と渡り合ってきたのだから、人はやはり見かけによらないものだ。
しかし、戦闘においてはどうあれ、精神的には年相応の悩み多き少女で、傷付きもするし、不安定になることもある。
そのことに気付いた周りの者が彼女をちゃんと守ってやるべきなのだ。
霊夢の肩を抱いてじっとしていると、またも眠気がやってきて目蓋が重くなる。
赤々と暖炉で燃える火が、私を眠りに誘う。
少しずつ下がっていってがくん、と落ちた顎が霊夢の頭とぶつかって慌てて我に返る。
霊夢がびくっ、と肩を震わせた。
顔を上げて恐る恐るこちらを見上げる。
「な、なに?」
「え、あ、ごめん」
「あのー、もしかして……寝てた?」
「えー、まあ、いや、うん。ちょっと」
ぷっ、と霊夢が吹き出した。
つられて私も笑ってしまった。
少し落ち着いた霊夢に紅茶のお代わりとサンドイッチを出してやる。
私も一緒に昼食を摂ることにした。
ローストビーフとオニオン、それにレタスを挿んだだけのシンプルなサンドイッチ。
それを家にある一番大きな皿に、端から端まで綺麗に盛り付けさせる。
人形が4人がかりで運んできたそれを、2人で手を合わせて食べ始める。
ふと、また気になって彼女にも訊いてみることにする。
「ねえ、霊夢」
「なに?」
サンドイッチを懸命に頬張っていた霊夢は、口の中のものをごくりと嚥下してこちらを見た。
「あなた、嫌な夢って見たことある?」
「嫌な夢?」
食べかけのサンドイッチを持ったまま、霊夢はぐるりと視線で円を描いた。
「うーん、あまりないかもね」
「そう?」
ある程度予想通りの返答ではあった。
あまり、彼女が悪夢にうなされている姿というのは想像できない。
うーん、と少し考えて霊夢が言った。
「ううん、今のは正しくないわね。私、夢って見ないのよ」
「あら、そうなの?」
少し驚いて目を開くと、うん、と霊夢は頷いた。
「霊の夢、なんて名前なのにね。みんなが言ってる夢っていうのがどんなものなのか、未だによく分からないの」
「ふうん……それは初耳だったわ」
「悪夢ってあれでしょ。怖くて、起きた時びっしょり冷や汗とか掻いて寝れなくなっちゃうんでしょ」
「ええ。そういうものもあるわね」
「ふーん」
じいーっと霊夢が私の顔を見る。
思わず、目を逸らしてしまう。
「……あ、分かった。アリス、昨日うなされたんでしょ」
にやり、と悪戯っぽく笑って霊夢が私を問い詰める。
変なところで勘が鋭くて困る。
それとも、単に私が墓穴を掘ったのか。
ともあれ、普段から出来るだけ隙を見せないようにしている以上、いつも通りの冷静沈着な私を保とうとする。
「さあ、どうかしらね」
「またまた、そんなこと言って。ねえ、どんな夢だったの?」
それこそ、答えられるわけがない。
「別に。いつも通りよ」
「あ、やっぱり夢は見たんだ」
「……そんなこと言ってないでしょ」
「ふふ、まあそういうことにしておいてあげるわ」
なんだか立場が逆になってしまったような気がする。
再度サンドイッチにとりかかる霊夢の表情はやたらと満足げだった。
昼食を食べ終わると、霊夢は私の本棚から恋愛小説を取り出してソファーで読み始めた。
さっきまで魔理沙がごろごろしていた場所だ。
全く以って帰る素振りを見せない。
どうも今日は一日中手のかかる妹達のお守りをしなくてはいけない日らしい。
いつもなら、照れもあってすげなく追い返してしまうところだが、あんな夢を見た後ではそんな振る舞いは憚られた。
なんというか、素直にならざるを得ない。
まあ、眠気も紛れるし、急ぎの用事もないし。
それに、彼女達に頼られて悪い気はしない。
今日くらいはとことんまで付き合ってやろう。
それで、私も霊夢の横に座って読みかけの魔法書を読むことにした。
一時間ほどが経っただろうか。
目が疲れて本から顔を上げる。
太陽はやや西に傾いている。
今日みたいな頼りないお天道様では、積もりに積もった雪を融かすことなど出来るわけもなく、窓の外は相変わらずの銀世界だ。
霊夢はずっと恋愛小説を読み耽っている。
私は肌が合わなくて三分の一も読まないうちに投げてしまったのだが、人の好みは様々だ。
本としても良い読み手が見つかって本望だろう。
一つ欠伸をしてソファーから立ちあがる。
大きく伸びをする。
本を読んで余計に肩が凝った。
キッチンに行って、棚からクッキーを出す。
人形たちに紅茶を淹れさせる。
クッキーを皿に開けてソファーに持っていく。
「少し休憩にしたら?」
「……え?ああうん」
少しのタイムラグの後に反応が帰ってきた。
余程夢中になっていたと見える。
二人でクッキーを齧っていると人形が紅茶を持ってやってきた。
今日何杯目か分からなくなってきたそれを口に含む。
「その本、面白い?」
「うん」
「どういうところが?」
霊夢は少し考える素振りを見せた。
「えっとね……この本に出てくる人たちが、自分や相手のやることとか、言うこととかについて一つ一つすごく細かく考えてるの。『私がさっき本心とは違うけれどこういうことを言ったのは、こういうことがあって、こういう気持ちになったからだ』とかね」
「うん」
「私がそんなこと考えたことないからかな。すごく面白い」
そう言って霊夢は紅茶を一口啜った。
「他人に興味がある?」
「うーん、その言い方は少し酷くない?」
霊夢は神経質そうに微笑んだ。
今まで見たことのない表情だ。
私は慌てて訂正する。
「ごめんなさい、そんなつもりはなかったの」
「いいのよ。言いたいことは分かるわ」
霊夢が少し顔を傾けて、続ける。
「私が他人に無関心に見えるっていうのは分かっているつもりよ。人にそう言われることも多いし」
本当は全然そんなことないんだけどね、と彼女は言った。
適当な言葉が見つからず、私はただ黙って曖昧に頷いた。
「でも、別に人からどう見られていたって構わないと思っていたから、特にそのイメージを変えようとは思わなかったの。巫女という立場もあるしね。けど……」
そう言って目を瞑って頭を振り、それきり霊夢は黙りこんでしまった。
その先は聞くまでもない。
やはり、彼女にとって今日の魔理沙との諍いは想像以上に大きなショックだったのだろう。
誤解を無理に解こうとしなくても、必要以上に自分について語らなくても、魔理沙なら自分の本来の姿を分かってくれるはずだ、という信頼もあったに違いない。
魔理沙だってそれをある程度分かっているはずだ。
しかし、人と人との関係はそういつも上手くいくものではない。
魔理沙には人一倍のプライドと対抗心がある。
何も悪いことではない。
それがなくては魔法使いとしてはまず成功などできない。
ポーズだと分かっていても、霊夢の飄々とした態度に腹が煮え繰り返ることもあるだろう。
そして、近しい者から浴びせられた言葉は、霊夢の見かけによらないナイーヴな内面に深く突き刺さった。
理不尽だ。
だけど、年頃の少女二人が一緒にいればそんなことだってある。
少し冷えてしまった紅茶に口をつける。
その渋さに思わず顔を顰めた。
あっという間に夜になる。
今日一日良い所なしだった太陽は、西の方にすごすごと引き下がってしまってもう影も形もない。
相変わらず本を読んでいる霊夢に、今日は泊まっていったら、と声をかけたら「うん」とのこと。
ほとんど最初からそのつもりでうちに来たのだろう。
洋食で何か食べたいものはあるか、と訊くとハンバーグがご所望のようなので、早速人形達をキッチンに向かわせる。
暖炉の火が弱くなったので、さっき玄関に持ってきた薪の残りを人形達にくべさせる。
出来上がった夕食を二人で食べる。
霊夢は美味しいと言って喜んでくれたけれど、私は出来があまりにいつもと同じで少々つまらないと感じた。
術式のショートカットにもっと揺らぎを持たせるべきか、と思う。
一定確率で調味料のバランスを変えたり、たまに失敗して端を焦がしてしまったり。
そうやってどんどん行動に揺らぎを幅を持たせるうちに、人形は自律に向かっていくのではないかと、ふと気付いた。
メカニズムと人間の一番の違いはその思考のブラックボックス性だ。
いつでも同じ反応を返すのがメカニズムで、気まぐれに反応を変えるのが人間。
刺激に対する反応をアトランダムなものにして、オプションを増やせば、人形は人間に一歩近づくだろう。
しかし。
やはりそれは表面的なものでしかないだろうな、と思う。
反応の種類が増えたとはいえ、それはあくまで有限のもの。
決められた反応を返すだけでは、それは幾分からくりの増えた人形にすぎない。
方向性としては間違ってはいないのだろうけど。
まだまだ考えるべきことは多そうだ。
霊夢がシャワーを浴びている間に彼女の服からサイズを測り、パジャマを作ってやる。
出来上がったそれを、巫女服の代わりに置いておく。
「ありがとう」
シャワーから出てきた霊夢はパジャマを着てはにかみながら言った。
「どういたしまして」
「いつもの服は?」
「洗濯しておくわ」
「乾く?」
私は微笑んで答えた。
「何言ってるの、私は魔法使いよ」
夜の森と星を映している窓に近寄る。
窓枠には新しい雪がふわりと積もっていた。
そっと、カーテンを閉める。
長く、そして厳しい冬だ。
永遠に続くようにも思える。
全てのものが今のまま、動きを止めて凍りついてしまうように。
でもそれは錯覚だ。
やがて雪は融け、春がやってくる。
動物たちも土から這い出てくるだろう。
木々もその青さを取り戻すだろう。
耳を澄ませば、鳥の歌が聴こえてくるだろう。
私は霊夢にそういうことが言いたかった。
そんなに悩むことはないんだと。
でも、なんだかそんな諭すようなことをしたり顔で言うのはどうにも恥ずかしかった。
少々押しつけがましいと思うし、まるで自分が年を取ってしまったように感じる。
何より希望の言葉というものは、自分の体で実感するまでは、気休めのスローガンにしか聞こえないものなのだ。
だから、訪ねてきた霊夢に私がしたことは、ただ優しく受け入れて、温かい食事と寝床を与えてやることだった。
それから……。
思いついて振り返り、椅子に座ってミルクを飲んでいる霊夢に声をかける。
「ねえ、霊夢」
「なに?」
「寝る前にこれを飲みなさい」
上海に取りに行かせたそれを受け取って、霊夢に渡す。
「これは?」
「大丈夫。悪いものではないわ」
霊夢は不思議そうな顔で眺めていたが、しばらくするとミルクでそれを飲み込んだ。
「ありがとう。よく分からないけれど」
「すぐに分かるわ」
その時だった。
がん、がん、と荒々しくドアが叩かれる。
「アリス!」
その声にびっくりして目を見開いた霊夢に「待ってて」と言い、玄関に向かった。
ドアを開けると、パジャマ姿の魔理沙が泣き腫らした目で呆然と立っていた。
私の姿を認めると、すぐさま私に飛びついてくる。
からん、と玄関に箒が音を立てて落ちる。
何がなんだか分からないまま、抱きついてきた魔理沙の背中をさすってやり、空いた手でドアを閉めた。
雪が魔理沙の髪にもパジャマにも降りかかっていて冷たい。
そして、それとは別に汗をびっしょりと掻いているようだ。
「こんな時間にどうしたのよ、一体」
訊いても腕の中で泣きじゃくるばかりで要領を得ず、とりあえず落ち着かせようと背中をさすり、頭を撫でてやる。
荒い息を吐き、可呼吸状態に陥っている。
意識的にのんびりとした声をかける。
「大丈夫だから。ゆっくり息を吸って。深呼吸しなさい」
すーはーすーはーと何回も繰り返させて、ようやく魔理沙が喋れるようになる。
けほ、と一つ咳をして私に捲し立てた。
「アリス、霊夢が死んじゃった。私のせいだ、私のせいで霊夢が。私が馬鹿なこと言わなければ。アリス、助けて」
……霊夢?
振り返ると、居間から霊夢が顔をちょこんと出して怖々とこちらを窺っている。
もちろんばっちり生きている。
私が見ているのが幽霊の類でなければ、だが。
魔理沙は相変わらず霊夢が霊夢がとうわ言のように繰り返している。
今日一日のことを思い出す。
頭の片隅に何かひっかかるものがあった。
「ああ」
思わず口から息が漏れた。
大体話が読めてきた。
とりあえず、魔理沙を宥めすかして居間に連れて行くと、びくり、と霊夢が震えて急いで他の部屋に逃げようとするので彼女を呼び止める。
「いいから、あなたも居なさい」
少し迷って、霊夢は戻ってきた。
魔理沙はそれに気づかずに泣きながらぶつぶつと呟いている。
「霊夢が……霊夢が……」
「あの……魔理沙?」
躊躇いがちに、霊夢が魔理沙に声をかけた。
「え?」
「あの、私、なんというか……生きてるけど」
「え……え?」
口をあんぐりと開けて、しばし固まっていた魔理沙は、ややあって霊夢に抱きついた。
「霊夢!」
腕の中でまた大泣きする魔理沙に、霊夢は戸惑ったような表情を浮かべたものの、それはすぐに嬉しそうな、照れたような笑顔に変わる。
「あーうん、大丈夫だから。よしよし」
二人をその場に残して、私はソファーの近くを確かめに行く。
ああ、やっぱり。
思わず溜め息をつく。
昨夜放っておいた胡蝶夢丸ナイトメアの小袋は、その下の魔法書ごと綺麗さっぱり消え去っていた。
こっそり盗んで行った魔理沙が、好奇心を抑えきれず飲んだのだろう。
まったく……。
振り返って二人を見る。
まあ、魔理沙も悪夢で充分罰を受けたことだし、何よりせっかくの仲直りに水を差すのはあまりに馬鹿げている。
追求するのは明日にしておいてやろう。
「霊夢、魔理沙。もう遅いから寝なさい」
「あ、うん」
霊夢がこっちを見て答える。
「客間もベッドも一つしかないから、まあ二人で仲良く寝ることね」
そう言って片目を瞑ってやる。
霊夢が少し照れたような笑顔を浮かべて、小さな声で「ありがとう」と言った。
二人を寝室まで案内する。
それから居間の灯りを消して、私も自分の寝室へと向かう。
霊夢に飲ませた胡蝶夢丸。
もちろん、悪夢を見せるナイトメアタイプではない。
紅い丸薬が霊夢に見せる、彼女にとって生まれて初めての夢は一体どんなものなのだろう。
ふわふわと蝶のように空を舞う夢は、彼女にとってはあまりにもいつも通りすぎて、いささか退屈かもしれない。
でも、少なくとも悪い夢ではないはずだ。
目を細めて欠伸をする。
視界の端が涙で少し歪む。
眠い。
とてつもなく眠い。
私が捨てなかった睡眠が、私が選び取った睡眠が、今私を呼んでいる。
寝室で私を待ち受けているベッドのことを考える。
望みうる限り最も暖かく、静かで、柔らかな寝床。
きっと、今の私にとって、世界で一番心地良い場所だろう。
そして。
そこでこれから私が見る夢だって、きっとそんなに悪い夢ではないだろうと思うのだ。
よかった。霊夢と魔理沙も仲直りできて…。
やはりアリスは二人の姉ポジもよく似合いますね
アリスと人間を題材にした作品は多いですが読みやすかったです。
ただ、良いアリス、霊夢、魔理沙でした。
霊夢かわいい!
この三人はやっぱいいね
妖怪だけど妖怪になりきれないアリスは、今を楽しめる反面
将来辛くなるんだろうなぁ…。
魔理沙、そして何より霊夢が年相応の描かれ方をしている作品はあまり目にしないので
そのあたり良いなぁと感じた