幻想郷の一角に、魔法の森という場所がある。うっそうと生い茂った木々が陽光を遮るため常に薄暗く、その上、多少の瘴気を森全体が放っているため、ここに足を踏み入れるような人間は存在しない。
「~~~~♪」
しかし、霧雨魔理沙という少女は、その数少ない例外の一人だった。
黒のとんがり帽子を揺らし、降り積もった雪の中を軽快に進む。少し乾燥し始めた唇が紡ぐのは、陽気な旋律のハミング。音楽に合わせて、一房だけ三つ編みにされた金髪が、黒いエプロンドレスの裾が、まるで踊っているかのような軽やかさで舞う。手にした箒はさながら、踊りの魅力をいや増すための小道具といったところか。
魔理沙はただの少女ではない。何を隠そう、彼女は魔法使いだ。そのため、研究と慣れの末に、この森の瘴気をある程度克服する方法を見出した。今では研究の主材料となるキノコを採集する目的などで、頻繁にこの森を訪れるほどにまでなっている。
しかし現在の季節は冬。キノコや薬草は影を潜め、土の下で次の雪融けをじっと待っている。
そんな中でも魔理沙がこの森を出歩いているのには、ちょっとしたわけがあった。
「さあて、うまく家に居てくれると楽なんだがな」
やや不安そうに進路を見つめ、魔理沙はぼそりと呟いた。
魔理沙が雪の中を出かけているのは、ある相手の家へ出向くためだ。だが残念なことに、魔理沙の行動理念にアポイントメントを取るなどというものは含まれていない。ゆえに、出かけるときは大抵がぶっつけ本番の突撃になる。相手がいなければ、それこそ無駄足になる可能性だってあるのだ。
それでも、魔理沙は今日もこうして連絡も入れずに突撃していく。まるでそれ自体を楽しむかのように。
やがて、魔理沙の視界に一軒の家が映った。白い漆喰づくりの、小さな西洋風一軒家だ。
「よぉーっし……」
すう、はあ。静かに深呼吸したのち、霧雨魔理沙は玄関のドアノブに手を掛けた。
◇◆◇◆◇◆
「アーリースー! いるかー!?」
ばん! と、乱暴な音を立てて開けられる玄関のドア。同時に轟く魔理沙の挨拶。
「いるわよ、少しは静かに入ってこれないの? あと、ノックくらいしなさい」
そんな白黒魔法使いに、さもうんざりしたような声音で返事をするのは、この家の主ことアリス・マーガトロイドだ。
魔理沙と同じブロンドヘアーながらも、その髪には枝毛の一本もなく、つややかな光沢が湛えてある。青いワンピースに白のケープを羽織った姿は、精緻に手入れされた西洋人形のような印象を見る者に与えていた。
「で、今日は何の用事?」
「何の用事もないだろ」
アリスの質問に、魔理沙はちっちっちー、と人差し指を立てる。若干表情を渋らせるアリスに対して、魔理沙は軽く息を吸い込み、
「今日は二月十四日、バレンタインデーだ。さあ、魔理沙さんにチョコをめぐんでもいいぜ!」
そして、とても図々しく言い放った。
◇◆◇◆◇◆
マーガトロイド邸の居間で、魔理沙は出された紅茶に舌鼓を打っていた。普段ならそこらを忙しなく飛び回っているはずの人形たちが、全員棚の中でお昼寝をしているためか、家の中は雪の森よりも静かだ。
自分も紅茶は時々淹れるのだが、この奥深い渋みは未だにうまく出せたためしがない。茶葉や茶器の問題なのか、単に自分が不器用なのか。魔理沙にとって、解決しえぬ難問の一つである。
「お待たせ」
そこへ、キッチンから戻ってきたアリスが魔理沙の対面のソファに腰を下ろす。手には、小さな包み紙が乗せられていた。
「おお、なんだ、やっぱり用意してたんじゃないか」
「一応、世話になった人たちの分はいくつか用意してたのよ。もともと、バレンタインってお世話になってる人にお菓子を渡すイベントらしいし。あと、どうせアンタがたかりに来るだろうなーって思ってたわ」
「さすがアリス、話がわかる。じゃ、ありがたくいただくぜ」
そっけなく言うアリスに対し、魔理沙は上機嫌そのものといった旋律で返す。軽く礼を述べると、アリスの手のひらから、包み紙をそっと受け取った。
魔理沙はそのまま、包みのリボンを解くと、中をこそっと覗き込んだ。
待ち構えていたのは、様々な形をした一口大のチョコレートたちだった。円形、星形、三日月形。形とりどりの菓子たちは、見ているだけで口の中が甘くなりそうなほどの出来栄えだ。
(うっ! こ、これは予想してた以上の出来だぜ……)
そんなアリスお手製のチョコたちを見た魔理沙は、ショックのあまり固まってしまった。
「魔理沙、どうかしたの?」
「えっ、あ、うぁ!?」
アリスにそう問われるまで、優に一分間。すっかり固まり切っていた魔理沙は、ようやくショックの鎖から逃れたかと思うと、途端に落ち着きをなくしてしまった。
「えー、あ、いや、どうかしたってわけではないんだが……」
視線をきょろきょろと彷徨わせ、手持ちぶさたであるかのように両手でティーカップをくるくると回す。おまけに帽子を深くかぶり直し、アリスと視線を合わせないようにしている。正面突破と力づくを信条とするような彼女が何を思っているのか、アリスは推し測ることができない。
十秒、二十秒。三十秒ほど経って、魔理沙はようやく不穏な動きを止めた。帽子をもとの角度に押し上げると、エプロンドレスのポケットの中から、手のひらほどの大きさをした菓子折りの箱を取り出した。
「アリス、その……これ、もらってくれ!」
気恥ずかしそうに視線を逸らし、魔理沙はぶっきらぼうに箱をアリスへ突き出す。逆にアリスは不信感を募らせたが、僅かな逡巡をおいて、その箱を受け取った。
「開けるわよ?」
「お、おう」
開けると言われ、魔理沙の頬がほんのり桜色に上気した。その様子をさらに訝しみつつも、アリスの両手が箱を開ける。
「――あ、これ」
しかし、中身を見た途端、アリスが抱いていた不信感は一気に吹き飛んでしまった。
箱の中に鎮座していたのは、いびつな星形をしたチョコレートだった。形がゆがんでいるどころか、表面に凸凹ができてしまっていて、傍目にも不出来な見栄えだ。
だが、アリスは一目で看破していた。何故魔理沙がこんなチョコを渡してきたのかも、その時の落ち着きのない態度の正体も。
「魔理沙、もしかして私のために作ってくれたの?」
「……ま、まあ、な」
そう。魔理沙はチョコをたかりに来ただけではなかった。お手製チョコを人形遣いに渡すべく、わざわざ足を運んでいたのだ。桜色から夕陽色へと変わる魔理沙の頬が、何よりの証拠だ。
「あ、ありがと」
白黒の夕陽に照らされて、アリスの頬にも朱が差した。アリスがどぎまぎしながら贈り物を眺め始めたことで、居間の中に沈黙が降り注ぐ。
「……ところで」
その静寂を、アリスの何気ない一言が打ち破った。
「わひゃいっ!?」
呼びかけがあまりに唐突だったもので、魔理沙はすっかり不意を突かれ、裏返りかけた妙な声を発してしまう。
「……続けるわよ。ところでアンタ、わざわざこれを届けるためだけに私の家まで来たの? 冬は森の瘴気が強くなるの、知ってるでしょう?」
若干の間を置いて放たれたアリスの問いは、純然な疑問だった。
冬になると、森の木々、土、空気の自浄作用が僅かに低下する。妖精の力が関係しているなどと噂されているが、詳しい原因は未だ不明のままだ。
そこをわざわざこんな奥地まで訪ねてくるなど、魔理沙と付き合いの長いアリスから見ても珍しいことだ。
「あ、ああ、そうだぜ」
魔理沙ははにかみつつも、しっかりと頷いて返答する。
「アンタも暇人ね。言ってくれれば、私から出向いても良かったのに」
ため息を漏らし、アリスはいつもの、ちょっと呆れた口調を前に出して魔理沙を軽く諫める。
「いや、それじゃダメなんだ。私が、ここに来ないと意味がない」
「……どういうことよ」
言い分を真っ向から否定する魔理沙に、猜疑の視線を注ぐアリス。
それに、魔理沙はにかっと、あどけない笑顔を作ってみせた。
「アリスは、贈り物をするっていうことの意味を知ってるか?」
「何よいきなり。相手への感謝やお礼じゃないの?」
突然に尋ねられ、アリスは常識論で答える。
「いいや、それだけじゃ半分だぜ」
だというのに、魔理沙は子供じみた笑みを崩さない。それどころか、ますます愉快そうに頬を緩めて否定する。
これに困ったのは、他ならないアリスである。他に何か意味や意図があるのか、彼女は脳裏で思考を回していく。
(そういえば、魔理沙って本や魔道具のたぐいは泥棒していくくせに、差し入れとかおすそ分けはちょくちょくしてくるわよね。宴会の時も必ずお酒とキノコを提供してるし)
記憶を遡るにつれ、魔理沙の贈り物事情が見えてきた。普段の素行と裏腹に、魔理沙は他人に対する羽振りがすこぶる良い。博麗神社で宴会がある時など、霊夢は準備の段階で魔理沙からの差し入れを勘定に入れるほどだ。
だが、それを含めてなお、アリスの疑問は解決しない。それどころか、普段見せている物欲が、贈り物の時に限って薄れるという事実を確認してしまったために、混迷がますます度を深めてしまう始末だ。
首を傾げるアリスを尻目に、魔理沙はさも得意そうに唇をゆがめて喋り出す。
「贈り物をするっていうのは、相手を自分と繋ぐっていうことだ。贈り物をして、貸しを作って相手をまずは強引に繋ぐ。そこからお返しが来たらもちろん嬉しい。だから次もお返しを期待して贈り物をする。そうして、相手を自分に繋ぎ止める、あるいは引き寄せる。そういうことだと、私は勝手に思ってる」
魔理沙が語る強引な論理に、アリスはきょとんと目を瞬かせていた。
「だからこそ、私がここに来なきゃいけないんだ。今日は私が出向いて、その分の貸しを作る。その予定だったからな。アリスに来られちゃ、私が貸しを作れなくなっちまう」
しかし、続く言い分を聞いて、アリスはようやく、納得のいく落としどころを見つけた。
(もしかして魔理沙ってば、私と会う口実が欲しいだけなんじゃないかしら)
贈り物をするのは、相手と繋がっていたいから。その理論に則れば、魔理沙はアリスとの友人関係を改めて繋ぐために足を運んできたということになる。
しかも、魔理沙が勝手にアリスの家へ遊びに来るという日常があるのに、魔理沙はわざわざ、アリスの方からも出向くような関係性を求めてきている。それは、自分に会いに来てほしいと暗に言っているとも取れる。
それに、バレンタインという口実で貸しを作るなら、チョコを渡すだけ渡して帰れば済む話だ。だというのに、魔理沙はわざわざ、アリスにチョコレートをたかっている。
(そんな無茶な理屈を捏ねなくても、別に贈り物なんかに頼らなくても、いつでもどこでも会ってあげるのに。手作りチョコは嬉しいけどね)
その律儀さに、その不器用さに、アリスは思わず笑いを零してしまった。
「お、おい、今の話に笑う要素あったか?」
「ふふふっ。いいえ、特に笑う要素はないわね。チョコレートありがと。美味しく頂くわ」
予想外の反応に狼狽する魔理沙をよそに、アリスはくすくすと、とても嬉しそうに笑う。魔理沙がむっと膨れてしまってもお構いなしだ。
そんな中、アリスの脳裏に、一つのアイデアが閃いた。
(でも、そうね……せっかく来てくれてるんだし、私も次の口実を作ってあげようかしら)
親愛と若干の意地悪を織り交ぜて、アリスはにやりと――いかにも魔法使いと言った風の、含みのある微笑を浮かべた。
「でも、魔理沙? その理屈だと、もし私が魔理沙に貸しを作ったら、今度は貴女がお返ししてくれるのよね?」
「まあ、そうなるな。だけど、この私に容易く貸しを作るなんて、そうそう簡単なことじゃないぜ?」
魔理沙は自信満々に言い放つ。
「あら、そうかしら? 来月のホワイトデーで私が魔理沙の家に行けば、今度は私が貸し一つになるんじゃない?」
「そしたらすぐに返すさ。魔道具や魔道書はともかく、普段の生活で貸しを作られっぱなしは性に合わないからな。もしも返しきれない時だけ、死ぬまで借りておく」
「じゃあ、返しきれるくらいの貸しにしておかなきゃいけないわね」
互いに軽やかな言葉遊びの応酬を繰り返し、アリスと魔理沙、二人の表情がふっとほころんだ。
結局のところ、魔理沙は魔理沙で今までのままだし、アリスはアリスで、ほんの少しちょっかいを出す口実を手にした程度。この関係に、大した変化などないのだ。
「ところで、魔理沙のチョコ、ここで食べちゃってもいいかしら?」
「い、いいけど、アリスのと比べたら多分、あんまり美味しくないと思うぜ?」
「そう? じゃあ、その確認もかねて、いただきます」
しどろもどろに答える魔理沙をよそに、アリスは躊躇なく、いびつな星形のチョコレートを一口かじった。
「……そうね。多分これ、湯煎に失敗してるんじゃないかしら?」
そして、ほとんど間を置かずに不出来の原因を突き止める。
「えっ」
対して魔理沙は、ぎょっとした様相をあらわにして驚愕を示した。
「湯煎は火力を強くし過ぎるとすぐ失敗するわよ」
そこでアリスは言葉を区切り、魔理沙の顔を覗き込む。大火力が大好きな白黒魔法使いは、ばつが悪そうにアリスから視線を逸らした。
「やっぱり」
呆れを言葉に乗せ、アリスは小さくため息を吐いた。それから、
「せっかくだから、ここで練習していく? 一回分くらいの材料なら、まだ残ってたはずよ?」
と、露骨に落ち込んでいる魔理沙に向けて、救いの手を差し伸べる。
「いいのか!?」
思いがけない提案に、魔理沙は神速で食いついた。基本的に努力家で負けず嫌いという、根っこの部分が出てしまったのだ。
「ええ。じゃあ、さっそく始めましょうか」
アリスはこくりと頷くと、優雅な動作で椅子から立ち上がり、本棚から料理の本を一冊持ちだした。
「でも、これで貸し一つよ?」
そして、片目を瞑りながら、悪戯っぽく告げる。
「…………っ」
魔理沙は思わず絶句してしまった。その理由は二つある。
一つは、先ほどあれだけ豪語しておきながら、あっという間に貸しを作られてしまったため。
もう一つは、アリスの笑顔があまりに綺麗だったからだ。
普段の人形じみた可憐な笑みでなく、無邪気で屈託のない笑顔。小悪魔然とした言い方と相まって、魔理沙の心臓はすでに痛いほどの早鐘を打っていた。弾幕ごっこで例えれば、アリスからの不意打ち自機狙いに被弾した、というところか。
「……い、いいだろう。この借り、来月にはしっかり清算してやる! さあアリス、そのためにも、早く湯煎のコツを教えてくれ」
やや負け惜しみの色を滲ませて、魔理沙は早く早くとアリスにせっつく。
アリスは仕方なさそうに口元をほころばせ、魔理沙をキッチンに案内した。
二人の奇妙な貸し借りは、白銀の深雪よりもなお美しく、どんなチョコレートよりもなお甘く、二人の心を繋げていく。
話も面白かったです
チョコが似合う魔法使い達に幸あれ!
チョコレートケーキを食べたあとだから余計に甘い......。