とある普通の魔法使いの家の、普通の魔法使いの部屋に、一体の人形が置かれていました。
その人形の事を、魔法使いは大層可愛がっていました。
暇さえあれば彼女は、人形に話しかけてみたり、その綺麗な髪の毛を櫛で梳いてあげたり、たまには服を洗って、その体を拭いてあげる事もあったそうです。
人形は、そんな自分の持ち主である魔法使いの事がとっても好きでした。
優しくて、可愛くて、楽しそうで、それに何より、魔法使いの笑顔が人形には輝いて見えたのです。
だからこそ、人形には一つだけ、どうしても恨めしい事があります。
それは、自分が人間ではないことです。
自分が人形であるが故に、人形は魔法使いの事を愛せません。
自分が人形であるが故に、魔法使いは人形の事を愛してくれません。
__どうして私は人形なのだろう。人間じゃないのだろう。
人形が人形であった事は、魔法使いに出逢えたこの上無い幸運でもあり、又、魔法使いと出逢ってしまったこの上ない悲運でもありました。
「それじゃ、行ってきます」
魔法使いはそう言い残して、今日もこの部屋を出て行きました。
一体何処へ向かったのでしょうか。魔法の研究か、はたまた本を借りに行ったのか。そんな事を人形が知る由もありません。
人形はひとり、部屋でお留守番です。こういう時はとても鬱屈で、嫌な気分になります。けれども勿論、人形は溜め息を吐けません。
だからやっぱり、人形はこう思います。何故私は人間じゃないのだろう、と。
人形が人の身なら、いつだって彼女の傍にいられます。お話を聴くだけじゃなくて、することも出来る。人形の髪を梳いてもらう代わりに、人形も彼女の髪を梳く事が出来る。お洗濯だけじゃない、料理だってきっと出来るし、何なら魔法の勉強だって一緒に出来るでしょう。
けれども、人形は人形です。いくら魔法使いだって、人形を人間に出来る魔法なんてきっと無いし、それに人形が魔法使いに、どうやって人間になりたいと伝えればいいのでしょう。
だって人形には、動く事も、笑う事も出来ません。
だからやっぱり、人形はこう思います。何故私は人間じゃないのだろう、と。
魔法使いがこの部屋を出て、どれくらい時間が経ったでしょう。
彼女はふと、瞼を開きました。
澄んだ青色の瞳に、暖かな光が射し込みます。眩しさを感じて、右の手を額に当てて光を遮りました。
身体を起こすと、そこはいつも魔法使いが寝ているベッドの上です。彼女は初めてこの上に乗りましたが、とてもふかふかで気持ちの良い感触を覚えました。これでは、魔法使いがいつも寝坊気味になってしまうのにもうなずけるな、とつい一人納得してしまいます。
「んー……」
両手を組んで、思いっきり天井に伸びをします。起き抜けの身体に力を入れる為です。
何故かいつもより重く、気怠さを感じる身体に少し戸惑いを感じつつ、彼女は腰を上げてその二本の脚でしっかりと立ち上がりました。
すると、部屋が違和感だらけな事に気が付きます。普段、彼女が置かれている棚、魔法使いの机、扉、窓、天井、そしてベッドも勿論そうです。
全ての物がいつもより、とても小さくなってしまっているのです。
まるで魔法使いが良く読み聞かせてくれる、あの夢の中で不思議な国を大冒険をする少女になったような気分だ、と彼女は思いました。
「一体何が……」
そこまで言ってから、彼女ははっとします。
「あ」
____声が出る!
「あ、あ」
赤子が初めて世界に音を落とすかのように、自らの喉が割れ物のように震わせた空気のその響きを、彼女は何度も何度も確かめました。
それから、彼女は自分の右手で頬を抓ります。その時、初めて自分自身の意志で身体を動かせる事にも気づきました。その身は生涯初めての痛みを感じ、これが夢でない事を彼女は覚ります。
「……もしかして」
小さくなった部屋の床を、しっかりと自分の足で踏みしめます。扉のドアノブに手をかけると、それは彼女の右手ために作られたのかと思うほどにぴったりです。
ドアノブを回し、その扉を引くと、そこには彼女が今まで見たことの無い世界が広がっていました。
恐る恐る、右足を踏み出して。次は左足。今度はまた右足。そうやって、交互に足を出すだけの行為に、彼女は一体どれだけ憧れていたことでしょうか。少女のような気分で彼女は歩きます。
魔法使いの部屋から玄関までの廊下は真っ直ぐな造りで、彼女が一瞥した限り、廊下にはごみ箱や普段から使っていなさそうな埃まみれの私物が詰め込まれた箱が置いてあるのでなんとも歩きづらそうです。そこを彼女は妖精がふわりと浮かんだかのように、華麗に通り抜けます。
そして辿りついた玄関の扉には鍵が掛かっておらず、今度はその扉にも彼女は手をかけます。
彼女は続きを口にはしませんでしたが、心の底でこう思っていました。
もしかして。もしかして、私の願いが叶ったのだろうか。神様が私に微笑んでくれたのだろうか。私は、私は人間になれたんだろうか、と。
眩い程の太陽の陽射しが、彼女の視界を一瞬奪います。けれど、この世界には、彼女にとって怖いものなんて何一つも無いように思えました。
彼女の眼前には、部屋の中に居た時に見ることの出来ない景色ばかりで、彼女の胸は動悸を止める事が出来ません。
けれども彼女の目的は、決して世界を感じる事ではありませんでした。
彼女の目的は、魔法使いに会う事です。
魔法使いに会って、この想いを伝える。たったそれだけです。
鬱蒼と茂る森の中を、彼女は迷う素振り無く進んでいきます。彼女は、自分の歩く道の先には、必ず魔法使いの姿が見えるのだと、そう確信してなりませんでした。
一歩、また一歩と進んでいくと、彼女の目の前に、魔法使いの家とはまた違う建物が見え隠れし始めました。
丁度、木々の育っていない空間にポッカリと空いた隙間を縫って建てられたようなその家は、魔法使いの家と風貌はまるで違うのに、何処か似たような雰囲気を醸し出しています。
彼女は、その家の玄関の扉の前に立ちました。扉はドアノブでは無く取っ手が付けられていて、下の方には何故か扉を蹴飛ばした足跡のような物がいくつも付いています。
その取っ手は、彼女の華奢な手には少し大きすぎるように感じられました。試しに取っ手を掴んで押してみますが、扉はうんともすんとも言いません。
仕方なく、彼女は右側に付けられた小窓から、家の様子を伺ってみることにしました。
その家の中からは品性が感じられて、必要な物だけが表に出ているような、整理整頓の行き届いている人が家主なのだと一目で判断できる内装です。
奥のテーブルに目を凝らすと、見覚えのある黒いウィッチハットが置かれているのに気付きます。その瞬間、彼女の顔は綻び、息が詰まりそうになりました。
右の頬を硝子に張り付けるようにして左の方を覗くと、そこには魔法使いの姿がありました。ティーカップを手に、誰かと談笑しているようです。
少しだけ身体を傾けると、魔法使いの向かいに、金髪の赤いカチューシャをした女の子が居るのが見えました。どうやら彼女がこの家の家主のようです。
「…………」
彼女は、その光景を見て、口を少し開いたまま時が止まってしまったかのように固まってしまいました。
誰の目から見ても、二人の姿はとても仲睦まじそうで、そこに入る隙間なんて物は無いように見えます。彼女は目線をつま先に向けて、今度は笑みの消えた表情でもう一度だけ二人を覗き込み、鬱蒼とした森の方へと戻って行ってしまいました。
いつの間にか陽は真上から傾き、橙色の光が彼女を包み込んでいます。彼女はどんどんと、早足で暗い森を進んで行きました。
彼女は、人形の時分には吐くことの出来なかった溜め息を吐きました。あの時あれだけ羨ましかった溜め息も、今ではただの重りのように感じます。あれだけ彼女に笑いかけていた世界ですら、今は疎めしい表情を向けていました。
彼女の頭の中は、先程からずっとグルグルと回っていて、余り物事を考える事が出来ないようで。行きにどうやって来たかも分からず、同じような所をただ周回しているだけのような気もします。
辺りはすっかり暗くなり、時折木々の隙間を通り抜ける強い風が彼女に当たります。どことなく空気も湿り気を帯び始めていて、雨がいつ降ってもおかしくないような天気です。
彼女は、思います。
彼女は決して、二人が仲睦まじそうに話している事に哀しみを覚えたのではないのだ。
魔法使いの輝いた笑顔が、あの女の子に向けられていた事に、哀しみを覚えているのだ。
自分以外の誰かに、あの魔法使いが輝いていることを知って、そして立ち去ってしまったのだ。
まるで誰かに言い聞かせるみたいに、何度も何度も思います。
こういう時には、普通人間というのは泣くものなのだろうか。
そんな事を彼女は思います。けれど、彼女の視界が薄ぼやける事はありませんでした。
私は決して、二人が仲睦まじそうに話している事に哀しみを覚えたのではないのだ。
魔法使いの輝いた笑顔が、あの女の子に向けられていた事に、哀しみを覚えているのだ。
私以外の誰かに、あの魔法使いが輝いていることを知って、そして立ち去ってしまったのだ。
そんな事を、彼女は思います。涙の流れない自分に言い聞かせるみたいに、何度も何度も思います。
けれど今考えてみれば、それは決してあってもおかしくないような事だったと彼女は思います。自分はあの部屋から一度も出たことが無いような箱入り娘で、なのに何故自分勝手に魔法使いの微笑みが自分だけに向けられた物だと勘違いしていたのだろうかと、今となっては恥ずかしいどころか悔しささえ彼女は覚えます。
ふと足元に目をやると、そこには星が落ちています。そんなこと在る筈が無いと思いながらも、気になって近寄ってみると、そこにはあの女の子が現われました。
「____っ!」
反射的に、身を翻してしまいます。そうすると、そこにはまた星が落ちていました。
今度はゆっくりと、そこに近づきます。すると、女の子の姿が再び現れます。
その時、彼女の頭の中で絡まっていた糸が、全て解けました。
彼女は、その女の子にゆっくりと手を伸ばします。すると、女の子もこちらへ向かってゆっくりと手を伸ばしてくるではありませんか!
けれど、その手がぶつかることはありませんでした。
彼女は、空を見上げます。周り一帯に明かりが灯されていないからか、星はとても綺麗に光り輝いています。
彼女は、その手に載せられた、貝を模った手鏡の蓋をパタリ、と閉じました。
ここがどこだかもうさっぱり分からない森の中を歩きつづけながら、彼女は人魚姫の童話を思い出していました。
人魚姫のように人間になりたいと願い続け、それが叶っても結局意中の人と結ばれないお話。まるで彼女そっくりです。
けれどもう一つだけ、人魚姫と彼女とでは違う点がありました。
人魚姫は、王子を助け、それでも報われる事の無かった本物でしたが、彼女は、ただ何もせず、魔法使いを好きになっただけの偽物です。
魔法使いは、偽物の彼女を通して本物の女の子を見ていただけなのに、彼女は、魔法使いが自分を見てくれているのだと勝手に勘違いして、好きになってしまっただけの偽物です。
人魚姫のように美しくもなんともなくて、ありふれている訳でも無いけれど、つまらない偽物のお話です。
そう。
魔法使いが初めから、私を愛してくれるなんて事は有り得なかったのに、一人勘違いをして、人間になりたいだなんて願った人形のただのつまらないお話。
ここへ来るまでに彼女は、幾度か恐ろしい事を思いました。本物がいなくなれば、偽物が本物になれる、と。
けれど、彼女にそんな事は出来ません。もしもそんな事をして、魔法使いの笑顔が二度と見れなくなったらと思うと、彼女の恐ろしい思いはどこかへ消えて行ってしまうのです。
彼女は偽物だったけれど、魔法使いを愛していた思いだけは決して嘘偽りなく、本物だったのでしょう。
落とした視線を、ふと上げました。そこには、見たことのある懐かしい明かりが見えます。
紆余曲折はありましたが、彼女は無事に魔法使いの家へとたどり着く事が出来ました。
勝手口のような玄関の扉はもちろん鍵がかかっておらず、音を立てて開きました。
中は少しの明かりだけが支配していて、後は静寂が漂っています。
廊下の向こうにある筈の、魔法使いの部屋の扉は丁度明かりが届くか届かないかという所で、薄暗くなっていてはっきりとは見えません。
その時、彼女はふと思いました。
私がこのまま戻ったとして、一体それに何の意味があるのだろう、と。
彼女はもう、魔法使いに二度と愛されない事を知っています。それなら、彼女がこのままあの部屋に居続ける意味はありません。
いっそ、二度と彼女の目の前から消えてしまった方が楽に決まっています。
けれども、彼女は、玄関の扉の方を向く事も出来ません。この家から出て行けば、二度と彼女のあの笑顔が見られなくなってしまうからです。
それにもしかしたら、魔法使いは自分のことをそれなり大切にしてくれているのかもしれません。そんな魔法使いが悲しむとしたら、彼女はとっても苦しくなります。
一体、私はどうすればいいんだろう。どうすれば、彼女は幸せになれる?
「アリスにまた新しい人形を作ってもらう約束も取り付けたし、いやー今日は良い日だな」
程無くして、そう言いながらこの家の主である霧雨魔理沙の姿が見えました。
いつも通り玄関の扉を開けて、廊下の明かりを付け自分の部屋の方へと歩き出します。
「ん、あれ?」
何かが自分の右足に当たる感触がしました。それはゴミ箱や箱といった固いものではなく、何か柔らかな感触です。
「……なんでこんな所にこの人形があるんだ?」
足元には、アリスに作ってもらったアリスそっくりの人形が転がっています。心なしか、少し薄汚れているように見えなくもありません。
「んー、ここにあるってことは、私、捨てようとしてたのかな」
顎に手を当てて、なんとか思い出そうとする素振りを見せますが、魔理沙には全く心当たりがありませんでした。
「でもこの人形、大分古い物なんだよなー……どうしよう」
そう呟きながら、魔理沙の右の手がその人形を拾い上げて
最高でした。
人形に、すべての人形に光あれ……
例え捨てることになっても、きっと新しい人形がそこに――
童話口調の文体から、もの悲しさがにじみ出てくるようだ。
想う心が本物なら、偽物なんてことは、きっとないはず。
新しいのがあれば古いの要らない、なんて考えに至らなかったことを願うばかりです。