存在の定義が『感情』『精神』『魂』に依拠する人外にとって、その安定性、回復性の確保は重要な要件である。
「それは私も同じこと」
パチュリー・ノーレッジは呟いて、椅子の背もたれに深く身体を預けた。誰に発したわけでもない、ちょっとしたつぶやき。
一瞬、彼女の使い魔が視線を向けたが、それも慣れたものなのか、特に気にした風でもなく、ひょいと肩を竦めただけで、すぐに仕事に戻った。
パチュリーにとってもそんな彼女の振る舞いは日常的なものなのか、文句を言うでもなく、再び本に向き合った。
厚ぼったい衣服から時折覗く手は、ページを捲るためだけにあるかのように、白く細い。図書館の薄暗さも相まって、その姿は弱々しい。しかし、自身の腰ほども厚さのある本を見つめる瞳はアメジストに煌めいていた。
「一般的に精神を回復すると言われているのは睡眠――即ち、夢。しかし人外にはそれを必要としない種も多く、私のような種族魔法使いは代表的なものといえる。かといって私たちのような睡眠を必要としない存在にも精神の回復は必要。睡眠以外でそれを行うことができたら……どの道、睡眠下における脳、及び精神の動きを把握する必要がある。しかしその観測方法は……うぅん……」
これは一筋縄ではいかない。
パチュリーがそう思った時だった。
「一息つかれてはいかがですか?」
「小悪魔」
視線を上げる。そこにはふわりと茶葉の香りを放つティーセットと、使い魔の柔和な笑みがあった。
「……そうね、もらおうかしら」
「あんまり根を詰め過ぎてはいけませんよ」
「根を詰めなくて何を詰めるというの」
「うーん、指とか?」
「女は度胸。任侠は必要ないわ」
「そうですとも。今、パチュリー様に必要なものは休息です。はい、どうぞ」
「ありがと」
紅茶の香りがふわりと鼻をくすぐる。シロップを入れ口に含むと程良い甘さがじわりと舌にひろがった。
ふう、とパチュリーは溜め息を一つ吐いた。頭がリセットされ、思考がクリアになったような感覚を覚えた。
(タイミングのいい子ね)
パチュリーは心の中で密かに小悪魔に感謝をしつつ、再び本に目を落とした。
その瞳は、先程までのように忙しなく東奔西走しておらず、ただ本を見つめて、思考を纏めることに集中していた。
――睡眠。それは、種族魔法使いにとっては無縁のものである。
息抜きに珈琲。頭の回転を良くする為に甘いケーキ。時間的な制限もあまりない。実に結構だ。
けれど睡眠は別だ。寝るということはそれだけ『本を読む時間』が削れるということだ。
それは、動かない大図書館、知識と日陰の魔女の異名を持つパチュリー・ノーレッジとしてはあまり好ましくない事態だ。時間は有限である。自分がいつか来るその日まで、少しの時間も無駄にはしたくないのである。
しかし、深く思考を潜行させていくにつれ、パチュリーに新たな考えが生まれ始めた。
「種として睡眠を必要としない。かといって精神がすり減らないのかというと、そうではない。睡眠をし、夢を見る。これは精神を回復し自己を向上させるのに必要……」
パチュリーは思考を巡らせる。
「精神の回復。つまり、精神の拠り所を担うもの、それが夢。しかし夢といっても多種多様。諸人に共通するファクターがあるとしたら、それは一体……?」
眉間にしわを寄せるパチュリーを見て小悪魔が声をかける。
「行き詰まっちゃいました?」
「難しいわね。そもそも私の属性とはあまりにもかけ離れた分野。けれどそれは魔法というものの根幹に関わってくる事柄。無視するわけにはいかないわ。睡眠による精神の回復。なんとしてもその関連性を突きとめたい。けど、うーん……」
「パチュリー様、そういう時は外を散歩してみてはいかがです? 今日はお天気もいいですし、気持ちいいですよ」
「いや」
「ノータイム!」
「何が悲しくて天気のいい日に歩かなければならないの」
「天気のいい日に歩くことを悲しいとおっしゃる」
「悲しいのよ。そんな日は本を読んでいるに限るわ。晴れた日に屋内で本を読むのが最高の贅沢なのよ」
「じゃあ、雨に日は?」
「雨の日に散歩なんてしたら濡れちゃうじゃない。そんな日は屋内で本を読むに限るわ」
「……そうですか」
呆れ顔になった小悪魔の視線を気にすることなく、パチュリーはその後も夢や精神に関する本を読みあさったが、結果は芳しくはなかった。
机上で考察するだけでは限界がある。出歩く気なんてさらさらないが、このままではいけないことは確かだ。
となれば……。
「……研究に実験は付きものだし。しょうがないわね」
実際に寝てみるしかない。
パチュリーはそう思った。決めたからにはすぐさま行動あるのみだ。
「小悪魔、ちょっと寝るわ。寝間着を用意して」
「えっ? それ、寝間着じゃなかったんですか?」
「…………」
「…………」
六法全書アタック。
「持ってきましたー」
頭に大きなたんこぶを作った小悪魔は、しかしそれも慣れたものなのか、特に気にした様子もなく軽快なフットワークで寝間着を持ちパチュリーの元に戻ってきた。
「……小悪魔、これ、私の替えの服なんだけど?」
「えっ」
「…………」
六方全書チャージアタック。
「さて」
二段アイスクリームのような頭になった、床に横たわる小悪魔を視界から外して、パチュリーは寝室に足を向けた。歩くのが億劫だということに気がついて、少しだけ自分の不精なメンタルに落ち込みつつ。
果たして、睡眠を必要としない魔法使いは、人外は、如何なる夢を見るのか。その夢は、己にどのような効果をもたらすのか。その効果は、どれほど期待できるモノなのか。
身体を横たえ、枕に体重を預ける。そうして目を瞑ったパチュリーの顔は、夢に向かって走る少年のように輝いていた――
~箱庭ガールが夢見る世界~
頬を撫でつける冷たさに、薄く目を開く。
視界一杯に飛び込んできた青に声を上げようとすると、口から零れた水泡が斑に輝く水面に溶けていった。
僅かに歪みながら、それでも淀むことのないまっさらな太陽。空に浮かぶよりも柔らかく揺れ流される、己の身体。
パチュリーはその澄み渡った景色に、求めるように両手を伸ばした。
――あ。
太陽の光で虹色に輝く鱗を持った魚が、はるか上空に向けて伸ばしたパチュリーの手にそっと触れる。
白い気泡を残しながら泳ぎ去っていった魚に目を遣ると、七色に輝きながら渦巻く魚の群れが見えて、目を眇める。
――きれい。
口を動かしてみても、青に溶けてゆくばかりで音にならない。けれどそんな些細なことを気に留めたりはせず、パチュリーはぐるりと周囲を見回した。
七色の魚、苔の生えた大きなクジラ、流れに合わせてゆらゆらと踊る赤青黄色の珊瑚、真珠を吐き出す大きな貝。オーケストラかとも思うほどに賑やかな生き物たち、なのに音の一つもない静寂で、静謐な、静かな世界。
――なんか、安心する。
もっと、もっと、深く。沈み溶けてしまいたくて、パチュリーは手を大の字に広げて落ちていく。
この静かで優しい世界に溶け込むことへの幸福に笑みを浮かべ、やがてそっと目を閉じた。
「――――ぁ」
ぽふ、と間抜けな音がした。
耳の裏側に伝わる柔らかな感覚。
それは先程まで心を預けていた『青』とは似ても似つかないモノだと思いながら、パチュリーは残念そうに眉をひそめる。
見慣れた図書館の風景には、当然、澄んだあの青はなかった。
「海……よね」
いつもの服――眠る前に、小悪魔が用意した『替えの服』――に袖を通しながら、パチュリーは考えを纏めていく。幻想郷に訪れる前も喘息のせいで閉じこもり気味だったパチュリーは、海を見たことがない。けれど、先程までの『夢』で見た海はあまりにもリアリティに満ちていて、見慣れた『幻想的なもの』にもかかわらず、胸に強く訴えかける感動があった。
「全ての生命は、海に帰るという。なら――」
夢から完全に抜け出したパチュリーの瞳が、爛々と輝く。万物の原初の記憶、根源は海にあり、海とは全ての存在の『母』である。そう規定するのなら、海にこそ求め続けていたファクター――即ち、精神の拠り所があるのではないか。
「つまり、海を解明――するには、足りないわね」
軽快だった足取りが、ぴたりと止まる。足の疲れを感じて、自分には足早に歩くのは似合わないとため息を吐くと、パチュリーはふわふわと浮いて図書館中央のテーブル近くの椅子に、腰掛けた。
眉間にしわを寄せて深くため息を吐く。その様子を見て、起きたパチュリーに声をかけようとしていた小悪魔が足を止める。機嫌の善し悪しが判断できるまで、迂闊に接近するのは躊躇われたのだ。
「私一人のデータで全てがわかるのなら、世界に『本』など必要ない。そんな独りよがりで上手く行くと考えるようでは、大図書館の主は名乗れない」
ぶつぶつと一人つぶやくパチュリーは、いささか不気味であった。
「研究対象を増やす? どうやって? 何が必要?」
思考の深みに嵌っていくパチュリーを見て、小悪魔は意を決した。ここで主の力になるのが従者のあるべき姿である。
そう思い、小悪魔はパチュリーに話しかけた。
「パチュリー様。良い夢見られました?」
外部からの声によって思考の海から抜け出したパチュリーは、一度考えを纏める為にも、小悪魔の声に応えることにした。
「あなたも、お団子の具合はいかがかしら」
「まだズキズキします」
「そう。生きてるって証拠ね」
「わぁい嬉しいなー。夢みたい。って私のことはいいんですよ。何か成果は得られましたか?」
「そうね……」
パチュリーは大切なものを思い出すかのように目を細めた。
「ええ、良い夢だったわ。ほんとうに――」
忘れてしまわないように、覚えた情報を次々と想起させていく。
七色の魚、大きなクジラ、美しい珊瑚。インパクトのある生き物たちを、そうして何より忘れることの出来ない光景を、脳裏に浮かべながら語っていった。
緩やかに揺れる水面、肌を撫でつける冷たい水、包み込むような青、まっさらな太陽、静謐な世界。
時には腕を広げ指揮者のように身振り手振りで伝えるパチュリーに、小悪魔はいつの間にか引き込まれていた。あまり上手いとは謂えない説明の中に見え隠れする興奮に、小悪魔もまた、胸を躍らせていたのだ。
「――っと」
柄にもなく熱弁を振るっていたことに、パチュリーは気恥ずかしさを覚えた。
「と、とにかく、素敵な夢だったわ」
語り終えたパチュリーに、小悪魔は素直に拍手を送った。
「いいなぁ、羨ましいです」
「でしょう?」
珍しく得意げなパチュリーを見て、小悪魔は何度も何度もからくりのようにうなずいた。
「あーぁ、私も一緒に寝て、一緒の夢が見られたら良かったのに……」
大きく肩を落とす小悪魔に、パチュリーは満足げに頷き――かけて、はっと目を瞠った。急いで小悪魔に視線を遣ると、小悪魔はびくりと肩を震わせた。
「今、なんて言った?」
「へ? ぁ、いえ、一緒に寝たいといっても、特別な意味じゃなくて、決してやましい気持ちは――」
「一緒に寝て、一緒の夢、ね」
「ぇあ、は、はい」
一人で慌てて、小悪魔は大きく頷く。そうしてからパチュリーの言葉が『独り言』だと気がついて、小さく唇を尖らせた。まったく相手にされないと、それはそれで寂しいのだ。
「異床同夢……」
異床同夢――異なる床につき、同じ夢を見る。それが可能ならば、研究対象は己のみに留まらない。多くの人妖のデータを集め、効率の良い研究が可能になるのではないか。睡眠によって冴え渡ったパチュリーの思考は、彼女に新たな発想をもたらした。
「幻想郷の人妖たちを眠らせて、膨大なデータを集める。……ノってきたわ」
「あらいやな予感」
小悪魔の言葉をさくっとスルーすると、パチュリーは不敵に微笑んだ。あまりに悪役っぽすぎる笑みに、小悪魔は軽く引いた。彼女がこんな笑みを浮かべたとき、もしくは得心がいったような表情をしたときは、たいてい碌なことにならない。小悪魔を実験台にして新たな魔法を試した結果、小悪魔の性別が反転したり、紅魔館の住人全員にしっぽや耳が生えたり。前科はいくらでもあるのだ。
「新しい研究テーマが決まったわ。早速研究に取りかかるわよ、小悪魔」
「はいはい、私は地の果てだってついていきますよ。パチュリー様」
肩を落としながらも焦燥と諦念で満ちた表情で頷く小悪魔を尻目に、パチュリーが胸を張る。不遜不敵な表情からこぼれ落ちる謎の自信が、いったいどこまで保つのか……などという無粋な感情を、小悪魔は胸の奥にしまい込んだ。どうせ言っても止まらないし、むしろ無用な災害を被る可能性だってある。
そうしてここに、パチュリー・ノーレッジによる壮大な研究が幕を開けるのであった――。
「とは言ったものの……」
積み重ねられた本の前、パチュリーは顎に手を当てて考え込む。資料を漁り、研究し、未だ手段すら思い浮かばなかった。
「誰かの夢に入り込む?」
基点となる誰かの夢に、あらゆる人妖を放り込む。観測者がパチュリーである以上彼女自身の夢に入れるのがいいだろう。しかし、これには欠点がある。
「万が一、途中で私が目を醒ましたら――」
パチュリーの夢の中に人妖たちが閉じ込められて、精神と肉体が切り離されてしまうかも知れない。退治される、では済まない。大異変のラスボスとして成敗されるのは、パチュリーとしても遠慮したい。そうでなくとも、パチュリー自身のキャパティシーが破裂、という可能性もあるのだし。
「なら、各自の夢を魔法でリンクさせる?」
人妖たちを同じタイミングで眠らせて、魔法で夢をリンクさせる。一瞬、良い案かとも納得しかけるものの、途中でまた、首を振った。強力な人妖たちの夢、それを、魔法でリンクさせるとなれば、彼女たちの頭の中を覗き込む力が必要だ。さとり妖怪の力でも借りればいいかも知れないが、好んで心を読まれる趣味は、パチュリーにはない。成功するかわからないのに、魔法の知識が外部に漏れるリスクを負いたくはなかった。
「それとも、もっと、別の、何か――」
誰かの夢に入り込む。各自の夢を魔法でリンクさせる。欠点は数多く見つかれど、その案自体が悪いもののようには思えなかった。つまり、良いところをどうにか集められないか、ということだ。
「――のぞき込めないのなら、連れてくればいい?」
パチュリーは魔法で万年筆を浮かせると、羊皮紙のスクロールにそれを走らせていく。彼女自身の思考をトレースするように蠢く文字には、パチュリーの興奮が如実に表れていた。
「そう、連れてくるのよ。精神世界を作り上げて、そこに一切合切放り込む」
一つの場所。そこに連れてきて夢をリンクさせる。作り上げた精神世界の設定を調整すれば、パチュリーの頭に放り込むよりもずっと危険は少ないだろう。作り上げる世界は――海。原初の記憶に宿る生命の根源だ。
「小悪魔、あなた、夢には詳しい?」
「専門外です」
間髪入れずに答える小悪魔を、パチュリーは鼻で笑う。意図としては『仕方ない』だったのだが、そうは思えない仕草だろう。彼女は不器用なのだ。
方向性は固まり始めたものの、パチュリーはその方法を探し出せずにいた。
「だいたい何よ夢って。夢やら希望やら愛やら恋やらは魔女の専門外――いえ」
憎まれ口を叩きながら、しかしパチュリーは口を噤む。夢やら希望やら愛やら――恋やら。魔女に似合わないモノを豪快に撒き散らす人間と、魔女らしくなくフリフリ衣装で愛くるしく固められた新米魔女。彼女たちの方が、パチュリーよりも、目的に近い。そんな気がして、パチュリーは眉根を寄せて呻り声を上げた。
「うぅん……あまり気乗りはしないけれど、けれど……」
魔法使い二人に研究結果という代価を支払うことにより、協力を仰ぐ。ようは、手伝って貰うという手段なのだが、自分一人の力で成し遂げられないと認めるようで、ほんの少しだけ悔しかった。
しかし、海の感動を胸に抱いたまま実行したいと望む以上、あまり時間は掛けたくない。
「いや、でも、まぁ」
しかし、とパチュリーは頭を振る。
あの人形遣いと、お気楽な人間。彼女たちがそんな些末なことを気にするとは思えない。なら、別に良いのではないかと、パチュリーは一人で納得した。
「なら早速、魔法の森へ――」
勢いよく立ち上がる。瞬間、胸の奥からこみ上げてきた息苦しさにパチュリーは膝を着いた。
「ごほ! ごほ! っ――えっ、ぅ……」
「ぱ、パチュリー様! お薬ですっ!」
「ごほっ…ん…ぅ……ごほっ……は、ぁ」
小悪魔が持ってきた薬を飲み込むと、途端に息苦しさが引いていった。生まれたときから付き合っている、彼女の持病――喘息。もう慣れたモノとはいえ、気持ちの良いものではない。
「ふぅ、落ち着いたわ、ありがとう」
「いえ、パチュリー様がご無事なら、それで」
背中を摩られて、パチュリーは一息吐く。ただでさえ身体が弱いのだ。太陽の下になんか出ていったら、レミリアを笑えない速度でダウンするだろう。研究開始前に倒れでもしたら、目も当てられない。
「小悪魔、あの魔法使い二人を連れてきてちょうだい」
「魔法使い……あぁ、なるほど、わかりました。では私が行きますから大人しくしていて下さいね?」
「……わかってるわ」
その間にも研究を続けておこうとしたパチュリーを、小悪魔が止める。無茶をすべきではないとわかっていても、なにかしていないと落ち着かない。けれどこう釘を刺されてなお無茶をするのはどうにも子供っぽいように感じてしまい、パチュリーは仕方が無く本を読むに留めていた。
小悪魔が、子供を窘めるような言い方をしたのは、恐らくわざとであろう。悔しいが、長い付き合いだけあってパチュリーの扱い方を心得ている。
扉から出て行くまで何度も心配そうに振り返った小悪魔を見送ると、パチュリーは本を片手に背もたれに体重を預けた。見上げた天井は、遠く暗い。夢の中で見たような澄んだ景色はそこになくて、パチュリーはそれが、どうにも心寂しく感じる。
「まぁ、いいわ」
本に視線を戻して、文字を追い始める。本の中で踊る文章はいつだってパチュリーの心を満たしてくれた。喘息だったおかげで、ここまで本にのめり込むことが出来たのかも知れない。だったらこれからもこの持病と付き合っていくと言うことに、パチュリーはさほど不満を感じなかった。
ぱらぱら、とページをめくっていく。その音が好きで、パチュリーは本の世界に没頭していた。ただただ、全てを忘れるように、じっくりと本を読んでいった――
「―――リ―! チュ―――いッ!」
潜り込んでいた世界の外から、けたたましい声が響いてきた。
「パチュ――――の、――スター……スパー」
「ん……あれ?」
魔力を込めずに掲げられた、ミニ八卦炉。視界に飛び込んできたモノクロツートーンカラーに、パチュリーは首を傾げた。また泥棒でもしに来たのかとも考えたが、その後ろには、そんな彼女のストッパー役が控えていた。
「パチュリー様、お呼びしましたよー」
「呼び……ぁ、ええ、ありがとう」
小悪魔の声でようやく目的を思い出し、パチュリーは「どうかしていた」と頭を振る。
(……そんなに、あの海にこがれているのかしら)
改めて顔を上げると、そこには白黒の人間、霧雨魔理沙と人形のような人形遣い、アリス・マーガトロイドが呆れを滲ませた表情でパチュリーを覗き込んでいた。
「良く来たわね」
「遅いぜ」
魔理沙のツッコミを、パチュリーは無視する。
マイペースは魔法使いの特権なのだ。
「それで、今日はどうしたの? パチュリー」
話の舵を持つことが多いアリスが、針路を戻す。そうしなくても戻ってくれればそれに越したことはないのだが、ことパチュリーと魔理沙にそれは通じない。
アリスは苦労性魔法使いなのだ。
「んん、そうだったわ、ええと」
「おーい小悪魔、紅茶入れてくれ。アリスのクッキーがあるんだ」
「あら、ラングドシャね。好物だわ、流石アリスね」
魔理沙に話を切られたはずなのに、いつの間にかパチュリーも乗っていた。これだから、アリスの気苦労が絶えないのだ。肩を落とすアリスに、紅茶を持ってきた小悪魔が生温かい視線を送る。しかし彼女は、自身もアリスの気苦労たり得る存在だとは、気がついていないようであった。
「はいはい、ありがと。それは良いから続きを話してちょうだい」
「んぐ……ふぅ、ええ、良いわよ。しょうがないわね」
パチュリーは頬にクッキーの欠片を付けたまま偉そうに胸を張る。ここに鴉天狗でもいれば撮影を始めたことだろう。タイトルは『少女の背伸び』である。
「ええと、そう、夢が精神世界で太陽が綺麗……あれ?」
しかし、思考の波から抜け出したばかりのパチュリーは、中々考えが纏められずにいた。それが元来の説明下手も合わせて、いまいちよくわからない説明になってしまっていた。
「うん?」
「ええと、パチュリー?」
後輩とも謂える魔法使い二人。彼女たちが不思議そうな表情で首を傾げると、パチュリーは途端に焦りだした。彼女にも、メンツだってあるのだ。
「だから、そう――海を創りましょう」
告げられた言葉に、しん――と大図書館が静まりかえる。脈絡も何も有ったものじゃない。突然海を創ろうなどと突飛なことを言われて、いったい誰が賛同しようと言うのか。盛大に滑ったことを自覚して、パチュリーは補足しようと口を――
「急に呼び出すから何かと思ったら、なるほど、面白そうじゃないか!」
――開けなかった。
星屑のようにきらきらと輝く視線を向けられて、パチュリーはたじろぐ。どうにか話の軌道を戻そうと試みるも、ええと、とか、その、とか微妙な言葉しか出てこない。
「そ、そうじゃなくて」
「たまに何かをしでかそうと思ったら、ずいぶんと粋じゃない。ふふ、あなたには敵わないわ、パチュリー」
「あ、当たり前でしょう? って、そうでもなくて」
焦るパチュリーを余所に、魔理沙とアリスは話を進めていく。やれどうしたらいい、こうしたらどうかと話が進んでいく。それにパチュリーは食いつくことも出来ず、ただ、あわあわと成り行きを見守っていた。
「アリス、魔理沙! 聞きなさい、私は――」
「ええ、わかってるわ」
アリスの言葉に、パチュリーはからかわれていただけだったのかと、頭に血を上らせる。しかしその憤りも、彼女の穏やかな笑みによって、血の気の引く音と共に霧散した。
「伝説、作りましょうよ。あなたの想いと共に、幻想郷に――伝説を!」
「そうだぜパチュリー! 幻想郷に、最高の魔法を魅せつけてやろうぜ!」
興奮と好奇心がない交ぜになった声が、弾む。パチュリーはその瞬間、最早話の方向が修正できなくなっていることに気がついて、愕然と顎を落とした。まさかそれが、二人に首肯と認識されてしまったとも、気がつかずに。
「うぅ、私の、話を…………持っていかないでー……」
パチュリーの呟きは、二人には届かない。唯一聞き届けることが出来たのであろう肩を震わせて口元を抑える小悪魔に、パチュリーはそっと六法全書を構えるのであった。
「そもそも、どうして海を創ろうって思ったの?」
三段アイスクリームの小悪魔に紅茶を淹れて貰い、気持ちが落ち着いた頃、アリスがふと零した。アリスの言葉に魔理沙もパチュリーに顔を向ける。
パチュリーは思考を巡らせた。
紆余曲折あったものの、二人を協力者として手伝わせることに成功したのは僥倖だ。となれば、本来の目的を話して二人のテンションを下げるのは、得策ではない。
「……ふぅ」
二人に気がつかれないように、パチュリーは小さく息を吐く。わかっているのだ。これから言おうとしていることは、パチュリーのキャラクターに似合わない。魔理沙やアリスの方が数段似合う、そう、『乙女チックで夢見がち』な言葉だということは、本人が一番よくわかっているのだ。
だが、それでも――少女には、言わねばならない時がある。
「海の夢を、見たの」
小さく、それでもしっかりとこぼれ落ちた声。その言葉に、アリスと魔理沙はそっと視線を向ける。開かれた唇、朱の差した頬、逸らされた瞳。常ではまず見られない乙女チックなパチュリーに、可愛いもの好きなアリスがそっと頬を赤らめた。
「それが、本当に綺麗で、心地よくて、私だけのものにするのは、もったいないって、だから」
あと一言。あと一言でこの生き地獄から解放される。そう意気込んだ結果、パチュリーの言葉に説得力に充ち満ちた意思が乗ることに――なって、しまった。
「みんなにも、見せてあげたいのよ。あの、美しく心地よい――海を」
頬が引きつるのを我慢した結果、口元は穏やかな笑みに。そして紡がれた言葉には説得力を宿った。
パチュリーは二人の表情を探るように顔を向けた。
そこには、少し潤んだ表情のアリスと、わくわくが止まらないといった表情の魔理沙の顔があった。
「パチュリー……私は、パチュリーの友であることを、誇りに思うわ」
「大魔法を、幸福の共有のために使うってか? へっ、カッコイイじゃないか」
もう、後戻りは出来ない。今更何を言っても、覆られない。静かに告げられた言葉はパチュリーの胃壁をこれでもかと攻撃し、見事にスペルブレイク直前まで追い詰めた。グレイズするには最早パターン化など言っていられない。
そう、もう――気合い避けしかないのだ。
「私も、貴女たちのような友が居ることを、誇りに思う」
全ての感情を置き去りにし、流れに身を任せる。そうして投げ槍に呟くパチュリーの表情は、墓穴の中で即神仏に転身したかのように、穏やかなモノであった。
どうにでもなぁれ。
とりあえず、疑問点を埋めよう。一通り感動と友情を確かめ合った後、魔理沙がそう告げた。
「まず、パチュリーは、海って見たことがないんだよな?」
「ええ、そうね」
「じゃあなんで海の夢を見る事が出来たんだ?」
魔理沙の問いは尤もだ。アリスも気になって耳を傾けているが、パチュリーにとってはさほど気に掛けることではない。海を創ろう――そう言った時点で、答えは出ていたのだから。
「それは、たぶん――海は原初の記憶だからよ」
「ふぅん……生命の根源がそこにある以上、生きとし生けるものは誰しも己の中に海を抱いている、そういうこと? パチュリー」
簡潔に告げられたパチュリーの言葉を、アリスが拾って補足する。そうして初めて、魔理沙はぽんと手を打った。
「そうか、人間の根源には海が存在する、か――それなら、それを利用しない手はないんじゃないか?」
魔理沙の言葉に、二人は揃って首を傾げる。パチュリーが本質を言い、アリスがその言葉を的確に纏め上げ、魔理沙がそれを元に固定観念を打ち崩す言葉を紡ぐ。彼女たち三人の魔女が集う時の強みは、この完璧な役割分担がもたらすチームワークにあった。
「だから、海を呼び起こすんだ。誰もが抱く、海の記憶を」
精神世界に、海を作り上げる。そうすることで人妖たちはその世界に順応することだろう。そう考えながらも「何かが足らない」と考えていたパチュリーは、魔理沙の言葉でその答えに行き着いた。
そう、海を作り上げるのではない。魂に宿る記憶から海を想起させて、同調させる。そうすれば、当初考えていたモノよりもずっとスムーズに、異床同夢の実現に繋がるに違いない。
「けれど、どうやって海を呼び起こすの?」
「そりゃ、魔法でだろ」
「そんなことわかってるわよ。そのために私たちが集められたんじゃない。そうじゃなくて、覚り妖怪でもない私たちが、記憶の想起――しかも深層心理の奥の奥、原初の記憶を想起させるなんて、並大抵のことじゃできないわよ」
「二人とも、海を見たことは?」
「ないわ」
「ないぜ」
「海を土台に精神世界を構築するには、二人には海を見ておいてもらいたいわね」
「けど、どうやって見るんだよ。パチュリーみたく、運良く海の夢を見られるなんて都合の良いことは起きないと思うぜ」
「たぶん、そのへんはアリスの力を借りればなんとかなると思う」
「私?」
「ええ。あなたは人形に擬似的な精神を組み込むでしょう? その応用で、それを私に埋め込むの。私は擬似精神と記憶を共有する。そして取り出せばいい。記憶媒体としての擬似精神が出来上がれば、あとは私が水晶に映し出せるわ」
「はー……」
「ぉ……」
「ん?」
ぽかん、と間の抜けた表情をするアリスと魔理沙。
「ちょっと二人とも、どうしたのよ」
「いや、まぁ、その」
「うん、よくそんな考えが思いつくなーって。さすがの貫禄ね」
「え、そ、そう? ふ、普通よ」
思わぬところで敬意の視線を集めたパチュリーは、なんだかむず痒くて、顔を背け頬を染めた。
「ともあれ、やるしかないわね」
「そうだな。やってやろうぜ!」
「あなたたちには頑張ってもらうわよ」
「お前もな」
「当然。私が発起人よ」
「パチュリー、魔理沙」
アリスが右の手を、目の前に差し出す。
「……こういうの、苦手なんだけど」
照れたように、しぶしぶ手を出すパチュリーを見て、魔理沙が、くくくと笑った。
「まあ、私たちが協力し合うことなんて滅多にないからな。たまにはいいだろう」
「まあ、たまには……」
斯くして、「おー!」の掛け声と共に、一つのチームが結成された。
魔法使いたちによる、夢見る少女たちの世界を垣間見る研究が、暗い図書館で光明とともに幕を開けるのであった――。
その日から、三魔女たちの研究が始まった。研究場所は大図書館。また怪しげなことやっていると瀟洒な従者や吸血鬼姉妹から胡乱げな目で見られながらも、三人は気にせず研究を続けていく。
「一斉に眠らせる必要があるわね。夜に行う?」
「寝ない妖怪の方が多いから却下」
「それなら魔法で眠らせるか?」
「幻想郷全土を覆うような魔法なんかぶちかましたら、霊夢にタコ殴りにされるわ」
陰陽玉片手に修羅の如き様相で襲いかかる霊夢の姿を想像し、三人揃って顔を引きつらせる。誰一人として弾幕を放つ姿を想像しなかったのは仕様である。
「それなら、一箇所に集めて魔法を掛けるのはどうだ?」
「紅魔館で宴会なりパーティなりすればいいのね。レミィをそそのかしてみるわ」
「待って、魔法の抵抗力のある人妖には効かないんじゃない? 白蓮とか」
話し合いのメモを取る上海人形が、ぴたりと静止する。
話が行き詰まり筆記の音が止まるたびにパチュリーの心は急かされていた。早く続きを書けと、無言の圧力を掛けられているような気がするのは、ひとえに人間に近い動きを人形にさせるアリスの技量によるものだろう。
「私が抵抗力うんたらを吹き飛ばせるくらい強力な魔法が使えたら、良かったんだけどなぁ。まぁ、無い物ねだりか」
「それだったら、私は自律人形が作れたら良かったのに、かしらね。 パチュリーは?」
低く零れた魔理沙の言葉に、アリスが茶化すように応えた。重くなりそうな空気だったからありがたいと、パチュリーは口には出さずに息を吐く。ネガティブな方向に考えても、答えなんか出ないのだから。
「私は特にないわ。強いて言うのなら、現状の打破くらい」
「それができたら苦労しないぜ」
「もう。でも流石、七曜の魔女ね」
「当然」
ふざけ合っていたら、ただそれだけで心が軽くなっていた。
そのことに気がつき、パチュリーは表情を変えずに肩を落とす。今まで行き詰まったことなど星の数ほどもあるのに、こんなに焦ったのは初めてだった。
それもこれも、「特にない」と告げる自分自身に妙な違和感を抱えている為かと、パチュリーは考えて――頭を振る。今はそんな些末なことを気にしている時ではない。
「なぁ、魔法に抵抗があるヤツがいるんなら、魔法じゃないモノはどうだ?」
「薬ってこと? それだと八意永琳には効果が無いわ」
「そうじゃない。薬でもなくて、それでいてみんなに免疫のないモノさ」
不敵に笑う魔理沙に、パチュリーは首を傾げる。大胆不敵な彼女は、いつも突拍子もない案を出す。それを先読みするには、魔理沙並みに柔軟な思考を携えていなければならないのだ。
「そう、私しか使わないモノが、あるだろう?」
そこまで言われて、アリスは苦い顔をした。何のことを言っているのかはわかった。けれど、アリスはそれがあまり好きではないのだ。だからこそ眉を顰めて頬を引きつらせ――その表情で、パチュリーも漸く、思い至る。
「私はいやよ。あんな所まで行くの」
「調達は任せてくれ。研究は一緒に、だぜ?」
「はぁ……あんまり好きじゃないんだけどなぁ。まぁでも、わがまま言ってられないわね」
「好き嫌いは良くないぜ」
魔理沙はニカッと嬉しそうに笑うと、帽子からサンプルを取り出して見せる。魔理沙のみが魔法の触媒に用いる、幻想郷の住人たちに免疫がないモノ――魔法の森のキノコを取り出して、机の上に転がして見せた。
「まぁなんにしても、これで決まりね」
「まさかこれに頼らなければいけない日が来るとは思わなかったけど」
アリスとパチュリーの苦笑が重なる。そんな二人を見ても気分を害することなく、魔理沙はただ快活に笑い、鼻歌を歌っていた。暢気なものである。
魔法の方向性。その実現のための手段。揃えておくべきモノが揃うと、三人は誰からともなく頬を緩ませる。ここに、今度こそ――『異床同夢』の為の研究が、本格的に始動するのであった。
幻想郷の空に、一筋の光が駆け抜けていく。風を切って進むその姿に、人妖たちは誰もが鴉天狗の姿を思い起こした。なにせ、なにやら白い紙まで撒き散らしているのだから。
普段なら、気に留めない天狗の新聞。けれど霊夢は、掃除をしていた手を止めて、新聞にしては小さな紙を、手に取った。
「なにこれ、封筒?」
厚みのある長方形の紙。それは、見紛うことなく封筒であった。星色のシールで封がされたそれを、霊夢は躊躇うことなく剥がして開ける。すると中から、一枚のメッセージカードが出て来た。これも人形の絵柄が描かれていて、いちいち乙女チックで可愛らしい。
――本日、紅魔館にて月が昇る頃、パチュリー・アリス・魔理沙による魔法公開パーティが開かれます。
幻想郷最高の魔法を見たいってやつも見たくないって酔狂なやつも、酒が呑みたいヤツも、奮って参加してくれていいぜ。
単純なメッセージ。また面倒ごとかと考えもするが、悪い勘は働かない。ということはまた昔なじみの魔法使いが碌でもないことをしようとしているのかと、霊夢は頭を抱える。
あまりにも派手なことをやらかすつもりなら牽制する意味でも、魔法とやらを見に行かねばならないのだろう。
そしてどうせなら、料理も酒も食べ尽くす勢いで食べてきってやろうと、霊夢は密かに決意した。なんにせよ、紅魔館で出てくる料理はどれも味が良く、酒も旨い。
「夜、ね」
風に乗って、大量生産されたカードが、雲一つ無い蒼穹の果てで舞う。おおむね普段と変わらない空気、けれど気になることが出来てしまった。
そうして霊夢はため息を吐くと、掃除をさっさと切り上げて、母屋へ帰っていく。こうなってしまったらもう、やる気も何もないのだ。
「あら、サボりかしら?」
踵を返した霊夢に、そっと声がかかる。視線だけ投げ返してみると、そこには空の亀裂から上半身を乗り出した紫の姿があった。相変わらず胡散臭い笑みを浮かべていて、霊夢はそれにあからさまに嫌そうな顔をして見せた。
「紫じゃない。なによ、アンタも行くの? 宴会」
「ふふ、そうねぇ……」
紫が掌を広げると、どこからからメッセージカードが出現する。
いちいち気取らないと気が済まないのかとげんなりする霊夢を気に留めもせずに、紫は小さく笑った。
「中々面白そうだし、危険もないみたいだし……ふふ、今回は私も嵌められる側で参加しますわ」
「なによそれ、胡散臭いわね」
「ふふ。まぁあなたも、気にせず参加なさいな。ちょうど良いストレス解消になるかもしれないわよ」
それだけ告げて、紫は再び空に溶けていく。彼女が胡散臭い表情をして居るときは、逃げるに限る。けれど、同時に逃がして貰えないであろうということも、霊夢は良く理解していた。
踊る阿呆に踊らされる阿呆。どうせ踊るのなら自分の意思で踊ってやろうと、霊夢は夜の準備をしに、今度こそ母屋へと歩いて行った。
天気は快晴。きっと夜には、曇ることなく満月と星々が見えることであろう。そう、まさに――絶好の睡眠日和であった。
雲一つ無い空に、黄金の満月がぽっかりと浮かぶ頃。紅魔館では、多くの人妖がひしめき合っていた。
――ちょっとー、グラスがないわよ。
――酒を出せー!
そんな文句がそこかしこから聞こえてきた頃合。
パチュリーはパチンと指を一つ鳴らす。瞬間、ゲストの手にはすでに中身の入ったグラスが持たされていた。
咲夜を使った見事な演出に、ゲスト一同感嘆の息を漏らす。
「準備はいいか?」
「ばっちりよ。パチュリーは?」
「いつでも行けるわ」
舞台裏で語り合う三人。最後の打ち合わせは終わり、準備も整った。パーティーホールそのものに刻まれた魔法陣と、特製ジュースが注がれたグラス。
後は、計画を実行に移すだけだった。
「さて、パチュリー、アリス」
「ええ」
「準備はオッケーよ」
珍しく声を張り上げて、パチュリーが手を差し出す。そこにアリスと魔理沙は自分のそれを重ねて、魔女らしいというよりは少年のような不敵な笑みを、浮かべて見せた。
気合いは充分。準備も万端。グラスを手に、三人は舞台に躍り出る。足下から舞台を照らすライトと、照明の落とされたパーティーホール。舞台に視線が集中するよう考えられた舞台装置が、人妖たちの足下で淡く輝き始めた魔法陣を隠す。
「まず、こんなにも大勢が集まってくれて感謝したい!」
魔理沙がグラスを掲げると、人妖たちもそれに合わせて手を振り上げる。すわ乾杯かと構える彼女たちの前で、魔理沙が手を普通に降ろした。特に意味もないフェイントをしてしまうのは、最早彼女の癖のようなものだ。
「私たち三人で編み出した、とっておきの大魔法お披露目を祝して――」
アリスが、グラスを掲げる。魔理沙では信用ならないが、彼女なら。そう人妖たちは安心して――させられて――今度こそグラスを掲げた。警戒心を強め、緩める。演劇で培った、アリスの魅せる立ち回りだった。
そして唯一気がついた者は……邪魔をする気のない胡散臭い妖怪だった。
「――乾杯!」
今度は、パチュリーがグラスを掲げる。そして、特に時間を掛けることもなく告げた。見た目は赤ワイン。無臭のキノコの味を知っているパチュリーは、まだ、グラスに口を付けていなかった。
『かんぱーい――っ!!』
パチュリーの音頭に合わせて、一斉にグラスを傾ける。最初の一杯は一気飲み。そんな肝臓にダメージを与えそうな彼女たちの風習は――味覚に、まさかの大打撃を与えることになる。
『うっ』
口元を抑えて蹲る人妖たち。魔法の準備は完璧、もう見逃すところはない。だが、一つだけ間に合わなかったものがあった。それが――睡眠キノコの特製ジュースの味だったのだ。
魔理沙たちを恨めしそうな顔で見ながら、味蕾を刺激する味に昏倒するように倒れていく。後遺症などはないものだが、味はトラウマレベルである。
「さて」
全ての人妖が寝入った頃、魔理沙がそっと声を零す。舞台の上に張り巡らされた魔法陣は、パーティーホールに張られたものとは少し違う。夢に入り込みながら、他者の夢を観測できるという、この魔法の要といえるものだった。
「準備は良いか?」
「覚悟は出来たわ」
「うぅ……」
正直に言えば、飲みたくない。こんなものを飲んだら、余計なトラウマが出て来てしまう。けれど飲まねばならないと、三人はグラスを掲げた。魔法や普通の睡眠薬では同時に寝ることができないのだ。この、効き目の個人差を鼻で笑う強力な睡眠薬でないと。
「……か、乾杯!!」
意を決して、一気にあおる。味蕾を破壊しにかかる七色の味。脳天を貫く強烈なインパクト。喉から空気を吐き出そうと足掻く前に、パチュリーに睡魔が襲いかかった。最早逃げることも敵わず、ただ、闇に墜ちていく。
最後にパチュリーが見たのは、自分の左右で川の字になって眠る、魔理沙とアリスの姿であった。
煌めく太陽、焦げ付くような砂浜、爽やかに香る磯の匂い。燦々と輝く太陽に導かれるように、パチュリーはそっと目を開く。第一印象は、なんといっても暑いということ。普段なら直ぐにバテてしまいそうな気温の中、しかしパチュリーは壮快に起き上がった。
「あらパチュリー、おはよう」
聞こえてきた声に視線を向けると、そこには周囲を見回すアリスの姿があった。近くで浮いているのが上海人形で、アリスの足下で寝こけているのが魔理沙である。なんとも気持ちよさそうな表情に、パチュリーは、ただため息を吐くことしかできなかった。
「ここが……夢」
夢の中。そうは思えないほどの圧倒的なリアリティに、目を瞠る。パチュリーが異床同夢計画の実現に辿り着く為の切っ掛けとなった、海の夢。その時も目を疑うほどのリアリティを感じてはいたが、これほどではなかった。
「どうぞ」
「ええ、ありがとう――」
“上海人形”に渡された椰子の実を手に取り、ストローを咥える。痛めつけられた味覚の記憶を上塗りするような、爽やかな甘味が広がり、パチュリーは口元を綻ばせた。相変わらず、人間以上に気が利く変な魔法使いだとアリスに目を遣ろうとして、首を傾げる。
「――あれ? あなた、今」
「どうされました? パチュリー様」
言葉を話している。紡がれる言葉は柔らかく、過剰に前に出て来はしない。ただ、痒いところに手を伸ばすかのように気を使う様は、人形の要素を色濃く残していながら、そのまま人間になったかのような、そんなイメージをパチュリーに与えた。
頭を下げてパチュリーの下を去り、人形自身が魔法を使ってタオルを濡らす。そうしてから、魔理沙を起こそうとしていたアリスに、濡れタオルを渡した。暑い中で動き出すというのなら、それは確かにありがたい。
「自律人形――でも、どうして?」
パチュリーの呟きがこぼれ落ちる。その頃には魔理沙も目を醒まして、それから人形を見て楽しそうに笑っていた。どうして彼女が自律しているのか、知っているかのように。
「お、パチュリーも起きてたんだな」
「ええ。たった今ね」
快活に声を掛けてきた魔理沙に、パチュリーは内心の疑問を押し隠す。何も知ろうとせずに訊ねるのは、パチュリーのプライドが許さない。まずは、状況把握が先決だ。
「さて、まずはどこへ行こうか?」
「何処に誰がいるかなんてわからないのだし、適当に回ってれば良いんじゃない?」
「それもそうだな」
そう密かに決意している間に、話が進められていた。慌てて割り込もうと動き出すと、上海人形がアリスに合図をして、パチュリーの場所を空ける為にさりげなく動く。パチュリーはそれに、紅魔館の瀟洒な従者を思い出して舌を巻く。
「各々の夢を見る為に動く、よね。そこで夢を解析し――」
「おう! さて、みんながどんな夢を見てるのか、楽しみだぜ!」
「ふふ、そうね。まぁ趣味は良くないけれど……魔女だし、良いわよね」
真面目に研究をしようと画策するパチュリーの言葉を、魔理沙とアリスが遮る。イキイキとした表情。自然と緩んでいく目元。綻び柔らかさが零れる唇。そんな二人の様子に、パチュリーは自身の鼓動が速くなっていることに気がついた。
「――お祭り気分、ね。まぁいいわ、結果は変わらないのだし」
自己を向上させるキーワードを探る。その過程を楽しむなとは言えないし、言わない。今日まで努力してきたのはパチュリーだって一緒だし、なにより“ノせられて”いたのだ。
「さて、二人とも……夢の探検ツアーに、出発だぜ!!」
「ええ!」
「はい、お伴します。マスター」
「もう……急がなくても、逃げないわよ」
楽しそうに肩を弾ませて走る二人と一体を、パチュリーは慌てて追いかける。けれど彼女は気がついていなかった。自身の表情が、アリスたち同様、柔らかく温かな物に変わっていたと言うことが。
違和感。一言で表現するのなら、それに尽きるだろう。灼きつくような砂浜、燦々と降り注ぐ太陽の光、仄かに香る磯の匂い。常夏の波打ち際を飾る――巨大な氷像。可愛らしいリボンと透きとおった羽を持つ氷像の中心部を見ると、そこでは氷精が腕を組んで不敵な笑みを浮かべている。
「いっけぇぇぇぇ! だいだらちるの!」
氷精チルノの呼びかけに応じて、氷の像が動く。目指すは正面、海の中で不吉な雄叫びを上げる巨大ロボ。黒いボディの天体観測機、ダーク非想天則である。
『オォォォォォッッッ!!!』
ダーク非想天則が両手を大の字に広げる。すると赤黒いブレストアーマーが開いて、内部から幾重にも連なったミサイルが発射された。白い煙で軌跡を生み、赤い火花で空に爆炎の残滓を刻む。
「だいだらちるの・ソードホーム――でりゃぁぁぁぁあッッッ!!」
氷の像の手に突如として出現した巨大な剣が、太陽の光を受けてきらりと輝く。刹那、振り抜かれた剣の後を追うように、ミサイルが凍り付き――ダーク非想天則の身体が“斜めにずれた。
「あたい、最強――」
ダーク非想天則の身体から、目映い光が零れる。後に断末魔は残さない。なぜならば彼は既に、凍り付いているのだから。
「――覚えておきなっ!」
太陽光を浴びてポーズを決めるチルノ。その横顔はきらきらと輝いていた。
「なに、あれ」
パチュリーの呆れを含んだ声が、小さく響く。太陽の下でも溶ける気配すら見せない氷、巨大な武器を瞬時に生成し、攻撃に転用してみせる力。強大な能力を有しているのに、どうしてだかバカっぽい。そんなチルノの様子に、パチュリーはただため息を吐いた。
「へぇ、あれがチルノの夢か。いいじゃないか」
「火力が?」
「他に何がある」
少し興奮気味な魔理沙の声で、パチュリーは現実に引き戻される。正しくは現実ではなく、ただの夢だ。そんなことはとうに承知しているはずなのに、リアリティがそれを否定する。
「パチュリー様? お加減がよろしくありませんか?」
「上海……よね? ええ、大丈夫よ」
答えて前を向く。次の場所へ向かおうとしていたアリスと魔理沙が振り返り、それからパチュリーに手を差し伸べていた。パチュリーはそれに、小さく苦笑する。共に研究結果を味わうと、成果を堪能すると決めたのに、好奇心の欠片も見せないのであれば魔女失格だ。
「小難しいこと考えんなよ、パチュリー」
「わかってるわよ」
手を取って走り出す。脇目を振らない全力疾走。白い砂浜に足を取られないように気を配るのは大変で、けれど夢の中だからか、ついぞ転ぶことはなかった。
砂浜の上に敷かれた茣蓙、そこに横たわる赤い髪。豊満な肉体を薄い水着で覆いトロピカルジュース片手に横たわる妖怪。パチュリーは一瞬自分の住処の門番かと思ったが、特徴的なツインテールがそれを否定する。
「よう、魔理沙にアリスに、それからパチュリー……と、お人形さん?」
パチュリー達に気がついた赤髪の妖怪、小町が気さくに声をかける。サングラスを持ち上げて一息吐き、トロピカルジュースを口に運んで唇を濡らすなど、誰よりも海の砂浜を堪能しているように見えた。
「またサボりか? 小町」
悪戯っぽく訊ねる魔理沙に、しかし小町は余裕のある表情を浮かべた。その顔が余りにも自信に満ちあふれていて、パチュリーはほんの少しだけ苛立ちを覚える。
「いいや、これも仕事のうちさ」
「どういうことよ?」
「映姫さまがな、『好きなときに仕事をして好きなだけ休みなさい。それがあなたに出来る善行です』ってね」
小町の夢、その在り方。それを唐突に理解したアリスはわかりやすいため息を吐いた。サボり癖ここに極まれり、である。
「で、いつ仕事するんだよ?」
「あー? するよ、するする。映姫様に言われたらねー」
自主性の欠片もないじゃないか。魔理沙はそう言おうとして、ぐっと言葉を呑み込んだ。ここは夢の中。小町の夢に、野暮なツッコミをする気は無い。
「でも魔理沙、あなたもとくに仕事とかしてないんじゃ――」
「――さ、次に行こうぜ!」
アリスの言葉を遮って、魔理沙がパチュリーの手を引く。パチュリーの目が胡乱げなものになっていることに気が付かない魔理沙だが、パチュリーも自身が養われているという事実を忘れている。ようは、どっちもどっちなのだ。
不思議と、砂浜に終わりはなかった。右を見れば鬱蒼と茂った森があり、左を見れば永遠に続く海がある。正面を見れば砂浜があるのだが、陽炎のようにぼやけて先の光景は見られなかった。
精神世界の海を生み出したのはパチュリー達だが、自身が立ってみるまで風景までは、わからない。
「お、見えたぜ!」
魔理沙の声に、パチュリーは足を止める。次いで追いついてきたアリスもまた、荒い息を整えながら、呆然と前を見た。
「良い調子ね、小町」
「はい! 次はなにをすれば良いんですか?」
「ふふ、仕事熱心なのは良いけれど、ほどほどに休みなさい?」
「映姫様だけに働かせてサボるなんて、あたいにはできません」
気持ち悪い小町だった。それが、言葉を交わすでもなく通じ合った三魔女の心だ。砂浜に置かれた仕事机、書類整理をする映姫に付き従う小町。映姫の夢がサボらない部下を手に入れる事と知り、魔理沙は思わず目元を抑える。
「あの閻魔、意外と苦労していたのね」
ぬけぬけと言い放ったパチュリーの言葉は、映姫には届かない。心の底から安堵の光を浮かべて仕事をする映姫には、届きそうになかった。
「行きましょう、魔理沙、アリス、上海」
「ああ、そうだな」
「今度合ったら、労ってあげましょう」
「はい、マスター」
花畑でも背負っているのか、キャッキャッウフフと仕事をする小町の下から、三人は音もなく立ち去った。せめて、夢の中だけは。そんなあたたかな思いやりと共に。
少し離れたところで、パチュリーは見知った姿を見つけた。
パラソルの下、テーブルの前、優雅に座る小柄な姿。その傍には、銀のメイドが常と変わらない姿で佇んでいた。
その様子を見て、魔理沙はつぶやく。
「あん? 咲夜とレミリアは普段通りなんだな」
「アリス、ちょっと」
「なに?」
気になることがある。
パチュリーはアリスに一つ頼み事をした。
「わかったわ。上海」
アリスが上海に命令を下す。
「了解しました、マスター」
「お? なんだなんだ? 何を命令したんだ?」
「ちょっとしたこと。まぁすぐにわかるわよ。それよりも、少し話してみましょう」
「ん、それもそうだな」
一同はレミリアと咲夜に近づいた。
「よう、レミリア。ご機嫌そうだな」
「あら魔理沙。私はいつもご機嫌よ」
「よく言うぜ。咲夜がいないと不機嫌になるだろうに」
「そうね、だからいつもご機嫌なのよ。咲夜はいつも隣にいるからね」
隣の咲夜は薄く笑みを浮かべた。
「咲夜はいつもお嬢様のお傍におりますわ」
「相変わらずだな、お前らは」
見せつけられて魔理沙は、ペチンと額に手を当てた。
「マスター」
「おかえり上海。どうだった?」
上海は小声で、咲夜とレミリアには聞こえない程度で話した。
「近くに咲夜様、レミリア様と思わしき個体の確認はできませんでした」
「ありがと。だそうよ、パチュリー」
「そう……やっぱり」
「おいおい、仲間はずれは良くないぜ。ここに閻魔がいたら、魔理沙に優しくしなさい。それがあなたにできる善行です。って言う。そうに決まってる」
一人蚊帳の外な魔理沙は頬を膨らませ気味に言った。
アリスも頼まれたことをこなしただけで、その意図までは知らされていなかったのか、パチュリーに疑問の視線を投げかける。
「つまりね、レミィと咲夜は同じ夢を見ているの――同じ夢の中で同じ夢っていうのも変な言い方だけど」
「んん? それじゃあ、そこにいる咲夜もレミリアも、どっちかが作り出した幻影じゃなくて、どっちも本物ってわけか?」
「そうよ」
「なんでまたそんなことに?」
「あの子たちは、今の暮らしで十分満足してるんでしょ。これ以上望むことがないってことよ」
パチュリーは投げやりに言った。
そして、言えなかった。その続きを。
後ろから魔理沙の「この幸せコンビめ。大掃除して物を無くせ」なんて言葉が聞こえきたが、そうではないのだ。
彼女たちのその夢は、二人の切実な願いなのだ。
いつか別れを約束された二人の、身を切るような願いの具現なのだ。
二人が口にした『いつも』という言葉の裏に、どれだけの切ない願いが込められていたのだろう。
パチュリーはレミリアと咲夜の夢を見て、叶わない夢の存在を知った。
彼女たちは、その叶わない夢の額縁を、どう彩るのであろうか――
いつもより少し高級な茶葉、良い羊羹を食べながら縁側でのほほんとする霊夢。そのお賽銭箱は、黄金に充ち満ちていた。
誰も彼もが笑顔で大はしゃぎする空間。パチュリーの知らない紫がかった黒髪の巫女や赤い髪の魔女を携えて微笑む、紫。
毅然とした表情でキビキビ働く紫と、幼さの残る仕草で懸命に仕事を覚えようとする橙。そんな二人を見て嬉しそうに家事仕事をする藍。
信仰によって多くの人達を跪かせ――何故か霊夢も一緒に――て、艶然と微笑む守矢神社の面々。真ん中で満足そうにしているのは、早苗だった。
沢山の人妖達の姿を目で追い、時には語りかけ、その夢の在り方を記憶していく。
「あら?」
そんな中、パチュリーの視界に、あまりにも見知った顔が入り込んだ。思わず立ち止まる。
「あれ……パチュリー?」
「そのようだな」
視線の先には、パチュリーとその使い魔。二人は仲睦まじく談笑しながら浜辺を軽快に歩いていた。
小悪魔が何か話すと、パチュリーは輝くような笑顔でそれに応えている。そうなると小悪魔も嬉しいのだろう。小悪魔は次々に取りとめのない話をパチュリーに投げかける。まるで慣れ親しんだ友人のような関係。
「あのパチュリー、よく笑うわね」
「ああ、なんだか愉しそうだ」
「……小悪魔ったら、随分気色悪い夢を見るものね」
微笑ましく見守るアリスと魔理沙を見て、パチュリーは不機嫌そうにつぶやく。
「でも、とても幸せそうです」
「上海」
上海は視線の先の二人を見つめ、少し羨ましそうに言った。
「あれが、小悪魔さんの夢のパチュリー様なのでしょう。喘息に苦しまない、元気なパチュリー様であってほしい、と」
「…………ふん」
パチュリーは頬が熱くなるのを感じて、思わず顔を背けた。
後ろから二人分の笑い声、それも微笑ましいものを見るような笑い声だったので、パチュリーは足早に歩を進めるのであった。
知的好奇心によって作り上げられた世界。その世界は、パチュリーが思っていたよりもずっとカオスなところなのだと、今更ながらに気がつくのであった――。
この空間で日が落ちるということは、目覚めの合図だ。夢の中で夜を迎えることによって、人妖達は緩やかな眠りにつく。それが、夢の終わりを告げる鐘となるのだ。
だから、精神世界での夕暮れは、終わりへのカウントダウン。燃えるような太陽は、青い海を朱色に染め上げていた。
「ねぇ、魔理沙、アリス」
一通り見終わり、それでもなお浮上する疑問。その答えを求めて、パチュリーは共に研究をした仲間達に問いかける。
「何故彼女たちは、自分に都合の良い夢ばかり見ていたのかしら?」
夢とは、必ずしも良いものでは無い。日常と変わらない風景を垣間見る者も居れば、悪夢に魘される者も居る。自己の向上の為のキーワードを見つけるにしても、良い夢を見ている者……それが僅か数名でも、彼女たちのことを記録すればいい。
そんな風に考えて覚悟していたというのに、蓋を開けてみればこれ。誰も彼もが、己の望んだ光景を夢に見ていた。
「もう、そんなこと、決まってるじゃない」
「アリス?」
アリスが、脇に浮かぶ上海を撫でる。すると上海は、心地よさそうに頬を染めた。柔らかで温かい光景。その光景に釘付けになっている間に、魔理沙がパチュリーの前に躍り出ていた。
「そうだぜ、パチュリー。みんなが良い夢を見るのは当たり前だ。なんていったってここは――」
魔理沙がぱちんっと指を鳴らすと、太陽の傍で星が輝いた。夜に浮かぶはずの星を、太陽の傍に召喚して輝かせる、無駄な大魔法。魔理沙の力量では不可能なはずの術に、パチュリーは目を丸くする。
「――みんなの“夢”なんだからな」
魔理沙の言葉は、不思議と、パチュリーの腑にすとんと落ちた。誰もが夢見た夢を夢に見る。それは確かに、なにもおかしいことはない。
「ぁ」
そして、その考えに至って初めて、パチュリーは気がつく。この空間で、パチュリーは何度も全力で走り回っていた。自分よりも体力があるはずのアリスが息を切らしても、なお変わらず。
その間、パチュリーはただの一度も――喘息に悩まされることはなかったのだ。
「ふふ、何が『もう慣れたモノ』よ。呆れちゃうわ」
夢に見るほどに、求め、願っていた。
思い浮かびもしなかった自分の夢にパチュリーは小さく微笑む。
苦みも何も、しかめっ面は夢の外ですればいい。だから、今はただ、笑って。
「アリス、魔理沙、弾幕ごっこよ。今は――誰にも負ける気がしないの」
そう不敵に、けれどどこか子供のように笑うパチュリー。そんな彼女に、アリスと魔理沙は互いに顔を合わせて、パチュリーと同じような笑顔を浮かべた。
「おう! 今日の私はひと味もふた味も違うぜ?」
「あら、だったら私は刺激的に七味は違うことにしましょうかしら」
「ご託はやり合いながら聞いてあげるから、さっさと来なさい!」
朱色に染まった海の上、三人の魔女が身体を踊らせる。常では考えられないような高みに根ざす魔法の数々。それらを巧みに操る者たちは、決して魔女とは呼べないだろう。
なにせその顔は――年頃の少女のように、輝いていたのだから。
夏というには精彩を欠き、秋の気配はまだ遠く。燦々と降り注ぐ太陽の光は、夏と秋の綱引きの真ん中にあって、けれどそんなことには無関心なように空は蒼く澄み渡っていた。
そんな翌日である。
昨晩の乱痴気騒ぎ――夢の中の話ではあるが――とは打って変わって、あまりにも日常的な日常。パチュリーは相も変わらず本を両手に静謐な時間を過ごしていた。
夢から覚めたパーティの招待客は、キノコジュースの殺人的な不味さにこそ文句は零したが、見せられた夢に関しては賞賛の言葉を贈るばかりであった。
曰く、「信仰がたくさん集められた」
曰く、「いい上司の夢を見られた」
曰く、「いい部下の夢を見られた」
曰く、「師匠が優しかった」などなど。
夢の内容を肴に酒を酌み交わす面々。皆一様に幸せそうな顔をしていた。それを見てパチュリーは柄にもなく「いいことをした」なんて感想を抱いたものである。
加えて、研究的な成果もなかったわけではない。
各々が理想の自分や友人、近しい人間、野望、などを思い描いた、束の間の楽園。それが夢である。
睡眠を通して見る夢。夢は夢。それは叶えたい夢でもあるのではないか。明日に抱く大きな希望、小さな願い、ちょっとした決意。明日へと向かう意志。そんなものが、自身の精神下で映像化される。それが明日に繋がる力の根源なのではないか。
「……なーんてね」
そんな青臭い考えが浮かぶ自分に思わず苦笑いをするパチュリー。彼女は今、新たなる研究を始めていた。
「精神の回復が、一個体が理想の環境を作るためにスピリチュアルな動きを統一し、一定方向に向かう過程で行われるものだとしたら、どの段階で回復が行われるのかをもっと詳しく……その前に、希望や意志、決意という抽象的な言葉をもっと細分化した上で、でも悪夢の場合は話がまた違ってくるわけで、うぅん……」
「パチュリー様」
「小悪魔」
「あまり根を詰め過ぎてはいけませんよ」
「根を詰めなくて何を詰めるの」
「うーん、梱包材とか?」
「引っ越しをする予定はないわ」
「そうですね。お引っ越しは面倒です。なので――」
小悪魔は、タイミングがいいのか悪いのか、研究が行き詰まった時に声をかけてくる。だから、
「お考えがまとまらないのであれば、お外を散歩してみてはいかがですか? 今日もいいお天気ですよ」
――こんな風に、却下されるとわかっていてなお、そう言ってくれるのは、小悪魔なりの優しさなのかもしれない。
いつもの私なら、早押しクイズばりの速度で却下する。
だけど――
「そうね、天気もいいことだし、少し歩いてこようかしら」
「そうですよね、こんなお天気のいい日は読書にかぎ――って、えぇぇ!?」
小悪魔はありえないものでも見るような表情でパチュリーを見つめた。
「なによ、私が外に出たらおかしいの?」
「へぇあ、い、いえいえ! そういうわけでは! で、でも、大丈夫なんですか? その、喘息とか……」
「喘息、か……」
パチュリーは目を細め、昨晩の夢を思い起こした。
あの、綺麗な海と空の蒼。どこまでも爽快な空気。どこまでだって走れる気がした、あの世界――
「――うん、大丈夫」
「そ、それならいいのですが……。じゃあ、準備してきます!」
「あら、あなたも行くのね」
「当然! パチュリー様とお散歩できる機会なんて、一切ありませんから!」
「滅多に、とかじゃないのね」
「だって今までなかったじゃないですか」
「そうかもね」
自分の出不精さに思わず苦笑する。
図書館から出て、外に繋がる扉を開けると、「久々に顔を見せたなパチュリー」と言わんばかりに太陽がパチュリーを照らす。
く、と目を細めるパチュリーに、小悪魔が心配そう訊ねた。
「あの、本当に大丈夫ですか? 具合が悪くなったらすぐ言ってくださいね?」
「ええ、わかってるわ。でも、大丈夫。今日は具合がいい気がするのよ――――きっと」
――きっと。
その言葉を口にした時、パチュリーはなんだか明日がとても素晴らしいもののような気がしてきて、思わず、
「明日も晴れるといいわね、小悪魔」
なんてことを零したのであった。
了
「それは私も同じこと」
パチュリー・ノーレッジは呟いて、椅子の背もたれに深く身体を預けた。誰に発したわけでもない、ちょっとしたつぶやき。
一瞬、彼女の使い魔が視線を向けたが、それも慣れたものなのか、特に気にした風でもなく、ひょいと肩を竦めただけで、すぐに仕事に戻った。
パチュリーにとってもそんな彼女の振る舞いは日常的なものなのか、文句を言うでもなく、再び本に向き合った。
厚ぼったい衣服から時折覗く手は、ページを捲るためだけにあるかのように、白く細い。図書館の薄暗さも相まって、その姿は弱々しい。しかし、自身の腰ほども厚さのある本を見つめる瞳はアメジストに煌めいていた。
「一般的に精神を回復すると言われているのは睡眠――即ち、夢。しかし人外にはそれを必要としない種も多く、私のような種族魔法使いは代表的なものといえる。かといって私たちのような睡眠を必要としない存在にも精神の回復は必要。睡眠以外でそれを行うことができたら……どの道、睡眠下における脳、及び精神の動きを把握する必要がある。しかしその観測方法は……うぅん……」
これは一筋縄ではいかない。
パチュリーがそう思った時だった。
「一息つかれてはいかがですか?」
「小悪魔」
視線を上げる。そこにはふわりと茶葉の香りを放つティーセットと、使い魔の柔和な笑みがあった。
「……そうね、もらおうかしら」
「あんまり根を詰め過ぎてはいけませんよ」
「根を詰めなくて何を詰めるというの」
「うーん、指とか?」
「女は度胸。任侠は必要ないわ」
「そうですとも。今、パチュリー様に必要なものは休息です。はい、どうぞ」
「ありがと」
紅茶の香りがふわりと鼻をくすぐる。シロップを入れ口に含むと程良い甘さがじわりと舌にひろがった。
ふう、とパチュリーは溜め息を一つ吐いた。頭がリセットされ、思考がクリアになったような感覚を覚えた。
(タイミングのいい子ね)
パチュリーは心の中で密かに小悪魔に感謝をしつつ、再び本に目を落とした。
その瞳は、先程までのように忙しなく東奔西走しておらず、ただ本を見つめて、思考を纏めることに集中していた。
――睡眠。それは、種族魔法使いにとっては無縁のものである。
息抜きに珈琲。頭の回転を良くする為に甘いケーキ。時間的な制限もあまりない。実に結構だ。
けれど睡眠は別だ。寝るということはそれだけ『本を読む時間』が削れるということだ。
それは、動かない大図書館、知識と日陰の魔女の異名を持つパチュリー・ノーレッジとしてはあまり好ましくない事態だ。時間は有限である。自分がいつか来るその日まで、少しの時間も無駄にはしたくないのである。
しかし、深く思考を潜行させていくにつれ、パチュリーに新たな考えが生まれ始めた。
「種として睡眠を必要としない。かといって精神がすり減らないのかというと、そうではない。睡眠をし、夢を見る。これは精神を回復し自己を向上させるのに必要……」
パチュリーは思考を巡らせる。
「精神の回復。つまり、精神の拠り所を担うもの、それが夢。しかし夢といっても多種多様。諸人に共通するファクターがあるとしたら、それは一体……?」
眉間にしわを寄せるパチュリーを見て小悪魔が声をかける。
「行き詰まっちゃいました?」
「難しいわね。そもそも私の属性とはあまりにもかけ離れた分野。けれどそれは魔法というものの根幹に関わってくる事柄。無視するわけにはいかないわ。睡眠による精神の回復。なんとしてもその関連性を突きとめたい。けど、うーん……」
「パチュリー様、そういう時は外を散歩してみてはいかがです? 今日はお天気もいいですし、気持ちいいですよ」
「いや」
「ノータイム!」
「何が悲しくて天気のいい日に歩かなければならないの」
「天気のいい日に歩くことを悲しいとおっしゃる」
「悲しいのよ。そんな日は本を読んでいるに限るわ。晴れた日に屋内で本を読むのが最高の贅沢なのよ」
「じゃあ、雨に日は?」
「雨の日に散歩なんてしたら濡れちゃうじゃない。そんな日は屋内で本を読むに限るわ」
「……そうですか」
呆れ顔になった小悪魔の視線を気にすることなく、パチュリーはその後も夢や精神に関する本を読みあさったが、結果は芳しくはなかった。
机上で考察するだけでは限界がある。出歩く気なんてさらさらないが、このままではいけないことは確かだ。
となれば……。
「……研究に実験は付きものだし。しょうがないわね」
実際に寝てみるしかない。
パチュリーはそう思った。決めたからにはすぐさま行動あるのみだ。
「小悪魔、ちょっと寝るわ。寝間着を用意して」
「えっ? それ、寝間着じゃなかったんですか?」
「…………」
「…………」
六法全書アタック。
「持ってきましたー」
頭に大きなたんこぶを作った小悪魔は、しかしそれも慣れたものなのか、特に気にした様子もなく軽快なフットワークで寝間着を持ちパチュリーの元に戻ってきた。
「……小悪魔、これ、私の替えの服なんだけど?」
「えっ」
「…………」
六方全書チャージアタック。
「さて」
二段アイスクリームのような頭になった、床に横たわる小悪魔を視界から外して、パチュリーは寝室に足を向けた。歩くのが億劫だということに気がついて、少しだけ自分の不精なメンタルに落ち込みつつ。
果たして、睡眠を必要としない魔法使いは、人外は、如何なる夢を見るのか。その夢は、己にどのような効果をもたらすのか。その効果は、どれほど期待できるモノなのか。
身体を横たえ、枕に体重を預ける。そうして目を瞑ったパチュリーの顔は、夢に向かって走る少年のように輝いていた――
~箱庭ガールが夢見る世界~
頬を撫でつける冷たさに、薄く目を開く。
視界一杯に飛び込んできた青に声を上げようとすると、口から零れた水泡が斑に輝く水面に溶けていった。
僅かに歪みながら、それでも淀むことのないまっさらな太陽。空に浮かぶよりも柔らかく揺れ流される、己の身体。
パチュリーはその澄み渡った景色に、求めるように両手を伸ばした。
――あ。
太陽の光で虹色に輝く鱗を持った魚が、はるか上空に向けて伸ばしたパチュリーの手にそっと触れる。
白い気泡を残しながら泳ぎ去っていった魚に目を遣ると、七色に輝きながら渦巻く魚の群れが見えて、目を眇める。
――きれい。
口を動かしてみても、青に溶けてゆくばかりで音にならない。けれどそんな些細なことを気に留めたりはせず、パチュリーはぐるりと周囲を見回した。
七色の魚、苔の生えた大きなクジラ、流れに合わせてゆらゆらと踊る赤青黄色の珊瑚、真珠を吐き出す大きな貝。オーケストラかとも思うほどに賑やかな生き物たち、なのに音の一つもない静寂で、静謐な、静かな世界。
――なんか、安心する。
もっと、もっと、深く。沈み溶けてしまいたくて、パチュリーは手を大の字に広げて落ちていく。
この静かで優しい世界に溶け込むことへの幸福に笑みを浮かべ、やがてそっと目を閉じた。
「――――ぁ」
ぽふ、と間抜けな音がした。
耳の裏側に伝わる柔らかな感覚。
それは先程まで心を預けていた『青』とは似ても似つかないモノだと思いながら、パチュリーは残念そうに眉をひそめる。
見慣れた図書館の風景には、当然、澄んだあの青はなかった。
「海……よね」
いつもの服――眠る前に、小悪魔が用意した『替えの服』――に袖を通しながら、パチュリーは考えを纏めていく。幻想郷に訪れる前も喘息のせいで閉じこもり気味だったパチュリーは、海を見たことがない。けれど、先程までの『夢』で見た海はあまりにもリアリティに満ちていて、見慣れた『幻想的なもの』にもかかわらず、胸に強く訴えかける感動があった。
「全ての生命は、海に帰るという。なら――」
夢から完全に抜け出したパチュリーの瞳が、爛々と輝く。万物の原初の記憶、根源は海にあり、海とは全ての存在の『母』である。そう規定するのなら、海にこそ求め続けていたファクター――即ち、精神の拠り所があるのではないか。
「つまり、海を解明――するには、足りないわね」
軽快だった足取りが、ぴたりと止まる。足の疲れを感じて、自分には足早に歩くのは似合わないとため息を吐くと、パチュリーはふわふわと浮いて図書館中央のテーブル近くの椅子に、腰掛けた。
眉間にしわを寄せて深くため息を吐く。その様子を見て、起きたパチュリーに声をかけようとしていた小悪魔が足を止める。機嫌の善し悪しが判断できるまで、迂闊に接近するのは躊躇われたのだ。
「私一人のデータで全てがわかるのなら、世界に『本』など必要ない。そんな独りよがりで上手く行くと考えるようでは、大図書館の主は名乗れない」
ぶつぶつと一人つぶやくパチュリーは、いささか不気味であった。
「研究対象を増やす? どうやって? 何が必要?」
思考の深みに嵌っていくパチュリーを見て、小悪魔は意を決した。ここで主の力になるのが従者のあるべき姿である。
そう思い、小悪魔はパチュリーに話しかけた。
「パチュリー様。良い夢見られました?」
外部からの声によって思考の海から抜け出したパチュリーは、一度考えを纏める為にも、小悪魔の声に応えることにした。
「あなたも、お団子の具合はいかがかしら」
「まだズキズキします」
「そう。生きてるって証拠ね」
「わぁい嬉しいなー。夢みたい。って私のことはいいんですよ。何か成果は得られましたか?」
「そうね……」
パチュリーは大切なものを思い出すかのように目を細めた。
「ええ、良い夢だったわ。ほんとうに――」
忘れてしまわないように、覚えた情報を次々と想起させていく。
七色の魚、大きなクジラ、美しい珊瑚。インパクトのある生き物たちを、そうして何より忘れることの出来ない光景を、脳裏に浮かべながら語っていった。
緩やかに揺れる水面、肌を撫でつける冷たい水、包み込むような青、まっさらな太陽、静謐な世界。
時には腕を広げ指揮者のように身振り手振りで伝えるパチュリーに、小悪魔はいつの間にか引き込まれていた。あまり上手いとは謂えない説明の中に見え隠れする興奮に、小悪魔もまた、胸を躍らせていたのだ。
「――っと」
柄にもなく熱弁を振るっていたことに、パチュリーは気恥ずかしさを覚えた。
「と、とにかく、素敵な夢だったわ」
語り終えたパチュリーに、小悪魔は素直に拍手を送った。
「いいなぁ、羨ましいです」
「でしょう?」
珍しく得意げなパチュリーを見て、小悪魔は何度も何度もからくりのようにうなずいた。
「あーぁ、私も一緒に寝て、一緒の夢が見られたら良かったのに……」
大きく肩を落とす小悪魔に、パチュリーは満足げに頷き――かけて、はっと目を瞠った。急いで小悪魔に視線を遣ると、小悪魔はびくりと肩を震わせた。
「今、なんて言った?」
「へ? ぁ、いえ、一緒に寝たいといっても、特別な意味じゃなくて、決してやましい気持ちは――」
「一緒に寝て、一緒の夢、ね」
「ぇあ、は、はい」
一人で慌てて、小悪魔は大きく頷く。そうしてからパチュリーの言葉が『独り言』だと気がついて、小さく唇を尖らせた。まったく相手にされないと、それはそれで寂しいのだ。
「異床同夢……」
異床同夢――異なる床につき、同じ夢を見る。それが可能ならば、研究対象は己のみに留まらない。多くの人妖のデータを集め、効率の良い研究が可能になるのではないか。睡眠によって冴え渡ったパチュリーの思考は、彼女に新たな発想をもたらした。
「幻想郷の人妖たちを眠らせて、膨大なデータを集める。……ノってきたわ」
「あらいやな予感」
小悪魔の言葉をさくっとスルーすると、パチュリーは不敵に微笑んだ。あまりに悪役っぽすぎる笑みに、小悪魔は軽く引いた。彼女がこんな笑みを浮かべたとき、もしくは得心がいったような表情をしたときは、たいてい碌なことにならない。小悪魔を実験台にして新たな魔法を試した結果、小悪魔の性別が反転したり、紅魔館の住人全員にしっぽや耳が生えたり。前科はいくらでもあるのだ。
「新しい研究テーマが決まったわ。早速研究に取りかかるわよ、小悪魔」
「はいはい、私は地の果てだってついていきますよ。パチュリー様」
肩を落としながらも焦燥と諦念で満ちた表情で頷く小悪魔を尻目に、パチュリーが胸を張る。不遜不敵な表情からこぼれ落ちる謎の自信が、いったいどこまで保つのか……などという無粋な感情を、小悪魔は胸の奥にしまい込んだ。どうせ言っても止まらないし、むしろ無用な災害を被る可能性だってある。
そうしてここに、パチュリー・ノーレッジによる壮大な研究が幕を開けるのであった――。
「とは言ったものの……」
積み重ねられた本の前、パチュリーは顎に手を当てて考え込む。資料を漁り、研究し、未だ手段すら思い浮かばなかった。
「誰かの夢に入り込む?」
基点となる誰かの夢に、あらゆる人妖を放り込む。観測者がパチュリーである以上彼女自身の夢に入れるのがいいだろう。しかし、これには欠点がある。
「万が一、途中で私が目を醒ましたら――」
パチュリーの夢の中に人妖たちが閉じ込められて、精神と肉体が切り離されてしまうかも知れない。退治される、では済まない。大異変のラスボスとして成敗されるのは、パチュリーとしても遠慮したい。そうでなくとも、パチュリー自身のキャパティシーが破裂、という可能性もあるのだし。
「なら、各自の夢を魔法でリンクさせる?」
人妖たちを同じタイミングで眠らせて、魔法で夢をリンクさせる。一瞬、良い案かとも納得しかけるものの、途中でまた、首を振った。強力な人妖たちの夢、それを、魔法でリンクさせるとなれば、彼女たちの頭の中を覗き込む力が必要だ。さとり妖怪の力でも借りればいいかも知れないが、好んで心を読まれる趣味は、パチュリーにはない。成功するかわからないのに、魔法の知識が外部に漏れるリスクを負いたくはなかった。
「それとも、もっと、別の、何か――」
誰かの夢に入り込む。各自の夢を魔法でリンクさせる。欠点は数多く見つかれど、その案自体が悪いもののようには思えなかった。つまり、良いところをどうにか集められないか、ということだ。
「――のぞき込めないのなら、連れてくればいい?」
パチュリーは魔法で万年筆を浮かせると、羊皮紙のスクロールにそれを走らせていく。彼女自身の思考をトレースするように蠢く文字には、パチュリーの興奮が如実に表れていた。
「そう、連れてくるのよ。精神世界を作り上げて、そこに一切合切放り込む」
一つの場所。そこに連れてきて夢をリンクさせる。作り上げた精神世界の設定を調整すれば、パチュリーの頭に放り込むよりもずっと危険は少ないだろう。作り上げる世界は――海。原初の記憶に宿る生命の根源だ。
「小悪魔、あなた、夢には詳しい?」
「専門外です」
間髪入れずに答える小悪魔を、パチュリーは鼻で笑う。意図としては『仕方ない』だったのだが、そうは思えない仕草だろう。彼女は不器用なのだ。
方向性は固まり始めたものの、パチュリーはその方法を探し出せずにいた。
「だいたい何よ夢って。夢やら希望やら愛やら恋やらは魔女の専門外――いえ」
憎まれ口を叩きながら、しかしパチュリーは口を噤む。夢やら希望やら愛やら――恋やら。魔女に似合わないモノを豪快に撒き散らす人間と、魔女らしくなくフリフリ衣装で愛くるしく固められた新米魔女。彼女たちの方が、パチュリーよりも、目的に近い。そんな気がして、パチュリーは眉根を寄せて呻り声を上げた。
「うぅん……あまり気乗りはしないけれど、けれど……」
魔法使い二人に研究結果という代価を支払うことにより、協力を仰ぐ。ようは、手伝って貰うという手段なのだが、自分一人の力で成し遂げられないと認めるようで、ほんの少しだけ悔しかった。
しかし、海の感動を胸に抱いたまま実行したいと望む以上、あまり時間は掛けたくない。
「いや、でも、まぁ」
しかし、とパチュリーは頭を振る。
あの人形遣いと、お気楽な人間。彼女たちがそんな些末なことを気にするとは思えない。なら、別に良いのではないかと、パチュリーは一人で納得した。
「なら早速、魔法の森へ――」
勢いよく立ち上がる。瞬間、胸の奥からこみ上げてきた息苦しさにパチュリーは膝を着いた。
「ごほ! ごほ! っ――えっ、ぅ……」
「ぱ、パチュリー様! お薬ですっ!」
「ごほっ…ん…ぅ……ごほっ……は、ぁ」
小悪魔が持ってきた薬を飲み込むと、途端に息苦しさが引いていった。生まれたときから付き合っている、彼女の持病――喘息。もう慣れたモノとはいえ、気持ちの良いものではない。
「ふぅ、落ち着いたわ、ありがとう」
「いえ、パチュリー様がご無事なら、それで」
背中を摩られて、パチュリーは一息吐く。ただでさえ身体が弱いのだ。太陽の下になんか出ていったら、レミリアを笑えない速度でダウンするだろう。研究開始前に倒れでもしたら、目も当てられない。
「小悪魔、あの魔法使い二人を連れてきてちょうだい」
「魔法使い……あぁ、なるほど、わかりました。では私が行きますから大人しくしていて下さいね?」
「……わかってるわ」
その間にも研究を続けておこうとしたパチュリーを、小悪魔が止める。無茶をすべきではないとわかっていても、なにかしていないと落ち着かない。けれどこう釘を刺されてなお無茶をするのはどうにも子供っぽいように感じてしまい、パチュリーは仕方が無く本を読むに留めていた。
小悪魔が、子供を窘めるような言い方をしたのは、恐らくわざとであろう。悔しいが、長い付き合いだけあってパチュリーの扱い方を心得ている。
扉から出て行くまで何度も心配そうに振り返った小悪魔を見送ると、パチュリーは本を片手に背もたれに体重を預けた。見上げた天井は、遠く暗い。夢の中で見たような澄んだ景色はそこになくて、パチュリーはそれが、どうにも心寂しく感じる。
「まぁ、いいわ」
本に視線を戻して、文字を追い始める。本の中で踊る文章はいつだってパチュリーの心を満たしてくれた。喘息だったおかげで、ここまで本にのめり込むことが出来たのかも知れない。だったらこれからもこの持病と付き合っていくと言うことに、パチュリーはさほど不満を感じなかった。
ぱらぱら、とページをめくっていく。その音が好きで、パチュリーは本の世界に没頭していた。ただただ、全てを忘れるように、じっくりと本を読んでいった――
「―――リ―! チュ―――いッ!」
潜り込んでいた世界の外から、けたたましい声が響いてきた。
「パチュ――――の、――スター……スパー」
「ん……あれ?」
魔力を込めずに掲げられた、ミニ八卦炉。視界に飛び込んできたモノクロツートーンカラーに、パチュリーは首を傾げた。また泥棒でもしに来たのかとも考えたが、その後ろには、そんな彼女のストッパー役が控えていた。
「パチュリー様、お呼びしましたよー」
「呼び……ぁ、ええ、ありがとう」
小悪魔の声でようやく目的を思い出し、パチュリーは「どうかしていた」と頭を振る。
(……そんなに、あの海にこがれているのかしら)
改めて顔を上げると、そこには白黒の人間、霧雨魔理沙と人形のような人形遣い、アリス・マーガトロイドが呆れを滲ませた表情でパチュリーを覗き込んでいた。
「良く来たわね」
「遅いぜ」
魔理沙のツッコミを、パチュリーは無視する。
マイペースは魔法使いの特権なのだ。
「それで、今日はどうしたの? パチュリー」
話の舵を持つことが多いアリスが、針路を戻す。そうしなくても戻ってくれればそれに越したことはないのだが、ことパチュリーと魔理沙にそれは通じない。
アリスは苦労性魔法使いなのだ。
「んん、そうだったわ、ええと」
「おーい小悪魔、紅茶入れてくれ。アリスのクッキーがあるんだ」
「あら、ラングドシャね。好物だわ、流石アリスね」
魔理沙に話を切られたはずなのに、いつの間にかパチュリーも乗っていた。これだから、アリスの気苦労が絶えないのだ。肩を落とすアリスに、紅茶を持ってきた小悪魔が生温かい視線を送る。しかし彼女は、自身もアリスの気苦労たり得る存在だとは、気がついていないようであった。
「はいはい、ありがと。それは良いから続きを話してちょうだい」
「んぐ……ふぅ、ええ、良いわよ。しょうがないわね」
パチュリーは頬にクッキーの欠片を付けたまま偉そうに胸を張る。ここに鴉天狗でもいれば撮影を始めたことだろう。タイトルは『少女の背伸び』である。
「ええと、そう、夢が精神世界で太陽が綺麗……あれ?」
しかし、思考の波から抜け出したばかりのパチュリーは、中々考えが纏められずにいた。それが元来の説明下手も合わせて、いまいちよくわからない説明になってしまっていた。
「うん?」
「ええと、パチュリー?」
後輩とも謂える魔法使い二人。彼女たちが不思議そうな表情で首を傾げると、パチュリーは途端に焦りだした。彼女にも、メンツだってあるのだ。
「だから、そう――海を創りましょう」
告げられた言葉に、しん――と大図書館が静まりかえる。脈絡も何も有ったものじゃない。突然海を創ろうなどと突飛なことを言われて、いったい誰が賛同しようと言うのか。盛大に滑ったことを自覚して、パチュリーは補足しようと口を――
「急に呼び出すから何かと思ったら、なるほど、面白そうじゃないか!」
――開けなかった。
星屑のようにきらきらと輝く視線を向けられて、パチュリーはたじろぐ。どうにか話の軌道を戻そうと試みるも、ええと、とか、その、とか微妙な言葉しか出てこない。
「そ、そうじゃなくて」
「たまに何かをしでかそうと思ったら、ずいぶんと粋じゃない。ふふ、あなたには敵わないわ、パチュリー」
「あ、当たり前でしょう? って、そうでもなくて」
焦るパチュリーを余所に、魔理沙とアリスは話を進めていく。やれどうしたらいい、こうしたらどうかと話が進んでいく。それにパチュリーは食いつくことも出来ず、ただ、あわあわと成り行きを見守っていた。
「アリス、魔理沙! 聞きなさい、私は――」
「ええ、わかってるわ」
アリスの言葉に、パチュリーはからかわれていただけだったのかと、頭に血を上らせる。しかしその憤りも、彼女の穏やかな笑みによって、血の気の引く音と共に霧散した。
「伝説、作りましょうよ。あなたの想いと共に、幻想郷に――伝説を!」
「そうだぜパチュリー! 幻想郷に、最高の魔法を魅せつけてやろうぜ!」
興奮と好奇心がない交ぜになった声が、弾む。パチュリーはその瞬間、最早話の方向が修正できなくなっていることに気がついて、愕然と顎を落とした。まさかそれが、二人に首肯と認識されてしまったとも、気がつかずに。
「うぅ、私の、話を…………持っていかないでー……」
パチュリーの呟きは、二人には届かない。唯一聞き届けることが出来たのであろう肩を震わせて口元を抑える小悪魔に、パチュリーはそっと六法全書を構えるのであった。
「そもそも、どうして海を創ろうって思ったの?」
三段アイスクリームの小悪魔に紅茶を淹れて貰い、気持ちが落ち着いた頃、アリスがふと零した。アリスの言葉に魔理沙もパチュリーに顔を向ける。
パチュリーは思考を巡らせた。
紆余曲折あったものの、二人を協力者として手伝わせることに成功したのは僥倖だ。となれば、本来の目的を話して二人のテンションを下げるのは、得策ではない。
「……ふぅ」
二人に気がつかれないように、パチュリーは小さく息を吐く。わかっているのだ。これから言おうとしていることは、パチュリーのキャラクターに似合わない。魔理沙やアリスの方が数段似合う、そう、『乙女チックで夢見がち』な言葉だということは、本人が一番よくわかっているのだ。
だが、それでも――少女には、言わねばならない時がある。
「海の夢を、見たの」
小さく、それでもしっかりとこぼれ落ちた声。その言葉に、アリスと魔理沙はそっと視線を向ける。開かれた唇、朱の差した頬、逸らされた瞳。常ではまず見られない乙女チックなパチュリーに、可愛いもの好きなアリスがそっと頬を赤らめた。
「それが、本当に綺麗で、心地よくて、私だけのものにするのは、もったいないって、だから」
あと一言。あと一言でこの生き地獄から解放される。そう意気込んだ結果、パチュリーの言葉に説得力に充ち満ちた意思が乗ることに――なって、しまった。
「みんなにも、見せてあげたいのよ。あの、美しく心地よい――海を」
頬が引きつるのを我慢した結果、口元は穏やかな笑みに。そして紡がれた言葉には説得力を宿った。
パチュリーは二人の表情を探るように顔を向けた。
そこには、少し潤んだ表情のアリスと、わくわくが止まらないといった表情の魔理沙の顔があった。
「パチュリー……私は、パチュリーの友であることを、誇りに思うわ」
「大魔法を、幸福の共有のために使うってか? へっ、カッコイイじゃないか」
もう、後戻りは出来ない。今更何を言っても、覆られない。静かに告げられた言葉はパチュリーの胃壁をこれでもかと攻撃し、見事にスペルブレイク直前まで追い詰めた。グレイズするには最早パターン化など言っていられない。
そう、もう――気合い避けしかないのだ。
「私も、貴女たちのような友が居ることを、誇りに思う」
全ての感情を置き去りにし、流れに身を任せる。そうして投げ槍に呟くパチュリーの表情は、墓穴の中で即神仏に転身したかのように、穏やかなモノであった。
どうにでもなぁれ。
とりあえず、疑問点を埋めよう。一通り感動と友情を確かめ合った後、魔理沙がそう告げた。
「まず、パチュリーは、海って見たことがないんだよな?」
「ええ、そうね」
「じゃあなんで海の夢を見る事が出来たんだ?」
魔理沙の問いは尤もだ。アリスも気になって耳を傾けているが、パチュリーにとってはさほど気に掛けることではない。海を創ろう――そう言った時点で、答えは出ていたのだから。
「それは、たぶん――海は原初の記憶だからよ」
「ふぅん……生命の根源がそこにある以上、生きとし生けるものは誰しも己の中に海を抱いている、そういうこと? パチュリー」
簡潔に告げられたパチュリーの言葉を、アリスが拾って補足する。そうして初めて、魔理沙はぽんと手を打った。
「そうか、人間の根源には海が存在する、か――それなら、それを利用しない手はないんじゃないか?」
魔理沙の言葉に、二人は揃って首を傾げる。パチュリーが本質を言い、アリスがその言葉を的確に纏め上げ、魔理沙がそれを元に固定観念を打ち崩す言葉を紡ぐ。彼女たち三人の魔女が集う時の強みは、この完璧な役割分担がもたらすチームワークにあった。
「だから、海を呼び起こすんだ。誰もが抱く、海の記憶を」
精神世界に、海を作り上げる。そうすることで人妖たちはその世界に順応することだろう。そう考えながらも「何かが足らない」と考えていたパチュリーは、魔理沙の言葉でその答えに行き着いた。
そう、海を作り上げるのではない。魂に宿る記憶から海を想起させて、同調させる。そうすれば、当初考えていたモノよりもずっとスムーズに、異床同夢の実現に繋がるに違いない。
「けれど、どうやって海を呼び起こすの?」
「そりゃ、魔法でだろ」
「そんなことわかってるわよ。そのために私たちが集められたんじゃない。そうじゃなくて、覚り妖怪でもない私たちが、記憶の想起――しかも深層心理の奥の奥、原初の記憶を想起させるなんて、並大抵のことじゃできないわよ」
「二人とも、海を見たことは?」
「ないわ」
「ないぜ」
「海を土台に精神世界を構築するには、二人には海を見ておいてもらいたいわね」
「けど、どうやって見るんだよ。パチュリーみたく、運良く海の夢を見られるなんて都合の良いことは起きないと思うぜ」
「たぶん、そのへんはアリスの力を借りればなんとかなると思う」
「私?」
「ええ。あなたは人形に擬似的な精神を組み込むでしょう? その応用で、それを私に埋め込むの。私は擬似精神と記憶を共有する。そして取り出せばいい。記憶媒体としての擬似精神が出来上がれば、あとは私が水晶に映し出せるわ」
「はー……」
「ぉ……」
「ん?」
ぽかん、と間の抜けた表情をするアリスと魔理沙。
「ちょっと二人とも、どうしたのよ」
「いや、まぁ、その」
「うん、よくそんな考えが思いつくなーって。さすがの貫禄ね」
「え、そ、そう? ふ、普通よ」
思わぬところで敬意の視線を集めたパチュリーは、なんだかむず痒くて、顔を背け頬を染めた。
「ともあれ、やるしかないわね」
「そうだな。やってやろうぜ!」
「あなたたちには頑張ってもらうわよ」
「お前もな」
「当然。私が発起人よ」
「パチュリー、魔理沙」
アリスが右の手を、目の前に差し出す。
「……こういうの、苦手なんだけど」
照れたように、しぶしぶ手を出すパチュリーを見て、魔理沙が、くくくと笑った。
「まあ、私たちが協力し合うことなんて滅多にないからな。たまにはいいだろう」
「まあ、たまには……」
斯くして、「おー!」の掛け声と共に、一つのチームが結成された。
魔法使いたちによる、夢見る少女たちの世界を垣間見る研究が、暗い図書館で光明とともに幕を開けるのであった――。
その日から、三魔女たちの研究が始まった。研究場所は大図書館。また怪しげなことやっていると瀟洒な従者や吸血鬼姉妹から胡乱げな目で見られながらも、三人は気にせず研究を続けていく。
「一斉に眠らせる必要があるわね。夜に行う?」
「寝ない妖怪の方が多いから却下」
「それなら魔法で眠らせるか?」
「幻想郷全土を覆うような魔法なんかぶちかましたら、霊夢にタコ殴りにされるわ」
陰陽玉片手に修羅の如き様相で襲いかかる霊夢の姿を想像し、三人揃って顔を引きつらせる。誰一人として弾幕を放つ姿を想像しなかったのは仕様である。
「それなら、一箇所に集めて魔法を掛けるのはどうだ?」
「紅魔館で宴会なりパーティなりすればいいのね。レミィをそそのかしてみるわ」
「待って、魔法の抵抗力のある人妖には効かないんじゃない? 白蓮とか」
話し合いのメモを取る上海人形が、ぴたりと静止する。
話が行き詰まり筆記の音が止まるたびにパチュリーの心は急かされていた。早く続きを書けと、無言の圧力を掛けられているような気がするのは、ひとえに人間に近い動きを人形にさせるアリスの技量によるものだろう。
「私が抵抗力うんたらを吹き飛ばせるくらい強力な魔法が使えたら、良かったんだけどなぁ。まぁ、無い物ねだりか」
「それだったら、私は自律人形が作れたら良かったのに、かしらね。 パチュリーは?」
低く零れた魔理沙の言葉に、アリスが茶化すように応えた。重くなりそうな空気だったからありがたいと、パチュリーは口には出さずに息を吐く。ネガティブな方向に考えても、答えなんか出ないのだから。
「私は特にないわ。強いて言うのなら、現状の打破くらい」
「それができたら苦労しないぜ」
「もう。でも流石、七曜の魔女ね」
「当然」
ふざけ合っていたら、ただそれだけで心が軽くなっていた。
そのことに気がつき、パチュリーは表情を変えずに肩を落とす。今まで行き詰まったことなど星の数ほどもあるのに、こんなに焦ったのは初めてだった。
それもこれも、「特にない」と告げる自分自身に妙な違和感を抱えている為かと、パチュリーは考えて――頭を振る。今はそんな些末なことを気にしている時ではない。
「なぁ、魔法に抵抗があるヤツがいるんなら、魔法じゃないモノはどうだ?」
「薬ってこと? それだと八意永琳には効果が無いわ」
「そうじゃない。薬でもなくて、それでいてみんなに免疫のないモノさ」
不敵に笑う魔理沙に、パチュリーは首を傾げる。大胆不敵な彼女は、いつも突拍子もない案を出す。それを先読みするには、魔理沙並みに柔軟な思考を携えていなければならないのだ。
「そう、私しか使わないモノが、あるだろう?」
そこまで言われて、アリスは苦い顔をした。何のことを言っているのかはわかった。けれど、アリスはそれがあまり好きではないのだ。だからこそ眉を顰めて頬を引きつらせ――その表情で、パチュリーも漸く、思い至る。
「私はいやよ。あんな所まで行くの」
「調達は任せてくれ。研究は一緒に、だぜ?」
「はぁ……あんまり好きじゃないんだけどなぁ。まぁでも、わがまま言ってられないわね」
「好き嫌いは良くないぜ」
魔理沙はニカッと嬉しそうに笑うと、帽子からサンプルを取り出して見せる。魔理沙のみが魔法の触媒に用いる、幻想郷の住人たちに免疫がないモノ――魔法の森のキノコを取り出して、机の上に転がして見せた。
「まぁなんにしても、これで決まりね」
「まさかこれに頼らなければいけない日が来るとは思わなかったけど」
アリスとパチュリーの苦笑が重なる。そんな二人を見ても気分を害することなく、魔理沙はただ快活に笑い、鼻歌を歌っていた。暢気なものである。
魔法の方向性。その実現のための手段。揃えておくべきモノが揃うと、三人は誰からともなく頬を緩ませる。ここに、今度こそ――『異床同夢』の為の研究が、本格的に始動するのであった。
幻想郷の空に、一筋の光が駆け抜けていく。風を切って進むその姿に、人妖たちは誰もが鴉天狗の姿を思い起こした。なにせ、なにやら白い紙まで撒き散らしているのだから。
普段なら、気に留めない天狗の新聞。けれど霊夢は、掃除をしていた手を止めて、新聞にしては小さな紙を、手に取った。
「なにこれ、封筒?」
厚みのある長方形の紙。それは、見紛うことなく封筒であった。星色のシールで封がされたそれを、霊夢は躊躇うことなく剥がして開ける。すると中から、一枚のメッセージカードが出て来た。これも人形の絵柄が描かれていて、いちいち乙女チックで可愛らしい。
――本日、紅魔館にて月が昇る頃、パチュリー・アリス・魔理沙による魔法公開パーティが開かれます。
幻想郷最高の魔法を見たいってやつも見たくないって酔狂なやつも、酒が呑みたいヤツも、奮って参加してくれていいぜ。
単純なメッセージ。また面倒ごとかと考えもするが、悪い勘は働かない。ということはまた昔なじみの魔法使いが碌でもないことをしようとしているのかと、霊夢は頭を抱える。
あまりにも派手なことをやらかすつもりなら牽制する意味でも、魔法とやらを見に行かねばならないのだろう。
そしてどうせなら、料理も酒も食べ尽くす勢いで食べてきってやろうと、霊夢は密かに決意した。なんにせよ、紅魔館で出てくる料理はどれも味が良く、酒も旨い。
「夜、ね」
風に乗って、大量生産されたカードが、雲一つ無い蒼穹の果てで舞う。おおむね普段と変わらない空気、けれど気になることが出来てしまった。
そうして霊夢はため息を吐くと、掃除をさっさと切り上げて、母屋へ帰っていく。こうなってしまったらもう、やる気も何もないのだ。
「あら、サボりかしら?」
踵を返した霊夢に、そっと声がかかる。視線だけ投げ返してみると、そこには空の亀裂から上半身を乗り出した紫の姿があった。相変わらず胡散臭い笑みを浮かべていて、霊夢はそれにあからさまに嫌そうな顔をして見せた。
「紫じゃない。なによ、アンタも行くの? 宴会」
「ふふ、そうねぇ……」
紫が掌を広げると、どこからからメッセージカードが出現する。
いちいち気取らないと気が済まないのかとげんなりする霊夢を気に留めもせずに、紫は小さく笑った。
「中々面白そうだし、危険もないみたいだし……ふふ、今回は私も嵌められる側で参加しますわ」
「なによそれ、胡散臭いわね」
「ふふ。まぁあなたも、気にせず参加なさいな。ちょうど良いストレス解消になるかもしれないわよ」
それだけ告げて、紫は再び空に溶けていく。彼女が胡散臭い表情をして居るときは、逃げるに限る。けれど、同時に逃がして貰えないであろうということも、霊夢は良く理解していた。
踊る阿呆に踊らされる阿呆。どうせ踊るのなら自分の意思で踊ってやろうと、霊夢は夜の準備をしに、今度こそ母屋へと歩いて行った。
天気は快晴。きっと夜には、曇ることなく満月と星々が見えることであろう。そう、まさに――絶好の睡眠日和であった。
雲一つ無い空に、黄金の満月がぽっかりと浮かぶ頃。紅魔館では、多くの人妖がひしめき合っていた。
――ちょっとー、グラスがないわよ。
――酒を出せー!
そんな文句がそこかしこから聞こえてきた頃合。
パチュリーはパチンと指を一つ鳴らす。瞬間、ゲストの手にはすでに中身の入ったグラスが持たされていた。
咲夜を使った見事な演出に、ゲスト一同感嘆の息を漏らす。
「準備はいいか?」
「ばっちりよ。パチュリーは?」
「いつでも行けるわ」
舞台裏で語り合う三人。最後の打ち合わせは終わり、準備も整った。パーティーホールそのものに刻まれた魔法陣と、特製ジュースが注がれたグラス。
後は、計画を実行に移すだけだった。
「さて、パチュリー、アリス」
「ええ」
「準備はオッケーよ」
珍しく声を張り上げて、パチュリーが手を差し出す。そこにアリスと魔理沙は自分のそれを重ねて、魔女らしいというよりは少年のような不敵な笑みを、浮かべて見せた。
気合いは充分。準備も万端。グラスを手に、三人は舞台に躍り出る。足下から舞台を照らすライトと、照明の落とされたパーティーホール。舞台に視線が集中するよう考えられた舞台装置が、人妖たちの足下で淡く輝き始めた魔法陣を隠す。
「まず、こんなにも大勢が集まってくれて感謝したい!」
魔理沙がグラスを掲げると、人妖たちもそれに合わせて手を振り上げる。すわ乾杯かと構える彼女たちの前で、魔理沙が手を普通に降ろした。特に意味もないフェイントをしてしまうのは、最早彼女の癖のようなものだ。
「私たち三人で編み出した、とっておきの大魔法お披露目を祝して――」
アリスが、グラスを掲げる。魔理沙では信用ならないが、彼女なら。そう人妖たちは安心して――させられて――今度こそグラスを掲げた。警戒心を強め、緩める。演劇で培った、アリスの魅せる立ち回りだった。
そして唯一気がついた者は……邪魔をする気のない胡散臭い妖怪だった。
「――乾杯!」
今度は、パチュリーがグラスを掲げる。そして、特に時間を掛けることもなく告げた。見た目は赤ワイン。無臭のキノコの味を知っているパチュリーは、まだ、グラスに口を付けていなかった。
『かんぱーい――っ!!』
パチュリーの音頭に合わせて、一斉にグラスを傾ける。最初の一杯は一気飲み。そんな肝臓にダメージを与えそうな彼女たちの風習は――味覚に、まさかの大打撃を与えることになる。
『うっ』
口元を抑えて蹲る人妖たち。魔法の準備は完璧、もう見逃すところはない。だが、一つだけ間に合わなかったものがあった。それが――睡眠キノコの特製ジュースの味だったのだ。
魔理沙たちを恨めしそうな顔で見ながら、味蕾を刺激する味に昏倒するように倒れていく。後遺症などはないものだが、味はトラウマレベルである。
「さて」
全ての人妖が寝入った頃、魔理沙がそっと声を零す。舞台の上に張り巡らされた魔法陣は、パーティーホールに張られたものとは少し違う。夢に入り込みながら、他者の夢を観測できるという、この魔法の要といえるものだった。
「準備は良いか?」
「覚悟は出来たわ」
「うぅ……」
正直に言えば、飲みたくない。こんなものを飲んだら、余計なトラウマが出て来てしまう。けれど飲まねばならないと、三人はグラスを掲げた。魔法や普通の睡眠薬では同時に寝ることができないのだ。この、効き目の個人差を鼻で笑う強力な睡眠薬でないと。
「……か、乾杯!!」
意を決して、一気にあおる。味蕾を破壊しにかかる七色の味。脳天を貫く強烈なインパクト。喉から空気を吐き出そうと足掻く前に、パチュリーに睡魔が襲いかかった。最早逃げることも敵わず、ただ、闇に墜ちていく。
最後にパチュリーが見たのは、自分の左右で川の字になって眠る、魔理沙とアリスの姿であった。
煌めく太陽、焦げ付くような砂浜、爽やかに香る磯の匂い。燦々と輝く太陽に導かれるように、パチュリーはそっと目を開く。第一印象は、なんといっても暑いということ。普段なら直ぐにバテてしまいそうな気温の中、しかしパチュリーは壮快に起き上がった。
「あらパチュリー、おはよう」
聞こえてきた声に視線を向けると、そこには周囲を見回すアリスの姿があった。近くで浮いているのが上海人形で、アリスの足下で寝こけているのが魔理沙である。なんとも気持ちよさそうな表情に、パチュリーは、ただため息を吐くことしかできなかった。
「ここが……夢」
夢の中。そうは思えないほどの圧倒的なリアリティに、目を瞠る。パチュリーが異床同夢計画の実現に辿り着く為の切っ掛けとなった、海の夢。その時も目を疑うほどのリアリティを感じてはいたが、これほどではなかった。
「どうぞ」
「ええ、ありがとう――」
“上海人形”に渡された椰子の実を手に取り、ストローを咥える。痛めつけられた味覚の記憶を上塗りするような、爽やかな甘味が広がり、パチュリーは口元を綻ばせた。相変わらず、人間以上に気が利く変な魔法使いだとアリスに目を遣ろうとして、首を傾げる。
「――あれ? あなた、今」
「どうされました? パチュリー様」
言葉を話している。紡がれる言葉は柔らかく、過剰に前に出て来はしない。ただ、痒いところに手を伸ばすかのように気を使う様は、人形の要素を色濃く残していながら、そのまま人間になったかのような、そんなイメージをパチュリーに与えた。
頭を下げてパチュリーの下を去り、人形自身が魔法を使ってタオルを濡らす。そうしてから、魔理沙を起こそうとしていたアリスに、濡れタオルを渡した。暑い中で動き出すというのなら、それは確かにありがたい。
「自律人形――でも、どうして?」
パチュリーの呟きがこぼれ落ちる。その頃には魔理沙も目を醒まして、それから人形を見て楽しそうに笑っていた。どうして彼女が自律しているのか、知っているかのように。
「お、パチュリーも起きてたんだな」
「ええ。たった今ね」
快活に声を掛けてきた魔理沙に、パチュリーは内心の疑問を押し隠す。何も知ろうとせずに訊ねるのは、パチュリーのプライドが許さない。まずは、状況把握が先決だ。
「さて、まずはどこへ行こうか?」
「何処に誰がいるかなんてわからないのだし、適当に回ってれば良いんじゃない?」
「それもそうだな」
そう密かに決意している間に、話が進められていた。慌てて割り込もうと動き出すと、上海人形がアリスに合図をして、パチュリーの場所を空ける為にさりげなく動く。パチュリーはそれに、紅魔館の瀟洒な従者を思い出して舌を巻く。
「各々の夢を見る為に動く、よね。そこで夢を解析し――」
「おう! さて、みんながどんな夢を見てるのか、楽しみだぜ!」
「ふふ、そうね。まぁ趣味は良くないけれど……魔女だし、良いわよね」
真面目に研究をしようと画策するパチュリーの言葉を、魔理沙とアリスが遮る。イキイキとした表情。自然と緩んでいく目元。綻び柔らかさが零れる唇。そんな二人の様子に、パチュリーは自身の鼓動が速くなっていることに気がついた。
「――お祭り気分、ね。まぁいいわ、結果は変わらないのだし」
自己を向上させるキーワードを探る。その過程を楽しむなとは言えないし、言わない。今日まで努力してきたのはパチュリーだって一緒だし、なにより“ノせられて”いたのだ。
「さて、二人とも……夢の探検ツアーに、出発だぜ!!」
「ええ!」
「はい、お伴します。マスター」
「もう……急がなくても、逃げないわよ」
楽しそうに肩を弾ませて走る二人と一体を、パチュリーは慌てて追いかける。けれど彼女は気がついていなかった。自身の表情が、アリスたち同様、柔らかく温かな物に変わっていたと言うことが。
違和感。一言で表現するのなら、それに尽きるだろう。灼きつくような砂浜、燦々と降り注ぐ太陽の光、仄かに香る磯の匂い。常夏の波打ち際を飾る――巨大な氷像。可愛らしいリボンと透きとおった羽を持つ氷像の中心部を見ると、そこでは氷精が腕を組んで不敵な笑みを浮かべている。
「いっけぇぇぇぇ! だいだらちるの!」
氷精チルノの呼びかけに応じて、氷の像が動く。目指すは正面、海の中で不吉な雄叫びを上げる巨大ロボ。黒いボディの天体観測機、ダーク非想天則である。
『オォォォォォッッッ!!!』
ダーク非想天則が両手を大の字に広げる。すると赤黒いブレストアーマーが開いて、内部から幾重にも連なったミサイルが発射された。白い煙で軌跡を生み、赤い火花で空に爆炎の残滓を刻む。
「だいだらちるの・ソードホーム――でりゃぁぁぁぁあッッッ!!」
氷の像の手に突如として出現した巨大な剣が、太陽の光を受けてきらりと輝く。刹那、振り抜かれた剣の後を追うように、ミサイルが凍り付き――ダーク非想天則の身体が“斜めにずれた。
「あたい、最強――」
ダーク非想天則の身体から、目映い光が零れる。後に断末魔は残さない。なぜならば彼は既に、凍り付いているのだから。
「――覚えておきなっ!」
太陽光を浴びてポーズを決めるチルノ。その横顔はきらきらと輝いていた。
「なに、あれ」
パチュリーの呆れを含んだ声が、小さく響く。太陽の下でも溶ける気配すら見せない氷、巨大な武器を瞬時に生成し、攻撃に転用してみせる力。強大な能力を有しているのに、どうしてだかバカっぽい。そんなチルノの様子に、パチュリーはただため息を吐いた。
「へぇ、あれがチルノの夢か。いいじゃないか」
「火力が?」
「他に何がある」
少し興奮気味な魔理沙の声で、パチュリーは現実に引き戻される。正しくは現実ではなく、ただの夢だ。そんなことはとうに承知しているはずなのに、リアリティがそれを否定する。
「パチュリー様? お加減がよろしくありませんか?」
「上海……よね? ええ、大丈夫よ」
答えて前を向く。次の場所へ向かおうとしていたアリスと魔理沙が振り返り、それからパチュリーに手を差し伸べていた。パチュリーはそれに、小さく苦笑する。共に研究結果を味わうと、成果を堪能すると決めたのに、好奇心の欠片も見せないのであれば魔女失格だ。
「小難しいこと考えんなよ、パチュリー」
「わかってるわよ」
手を取って走り出す。脇目を振らない全力疾走。白い砂浜に足を取られないように気を配るのは大変で、けれど夢の中だからか、ついぞ転ぶことはなかった。
砂浜の上に敷かれた茣蓙、そこに横たわる赤い髪。豊満な肉体を薄い水着で覆いトロピカルジュース片手に横たわる妖怪。パチュリーは一瞬自分の住処の門番かと思ったが、特徴的なツインテールがそれを否定する。
「よう、魔理沙にアリスに、それからパチュリー……と、お人形さん?」
パチュリー達に気がついた赤髪の妖怪、小町が気さくに声をかける。サングラスを持ち上げて一息吐き、トロピカルジュースを口に運んで唇を濡らすなど、誰よりも海の砂浜を堪能しているように見えた。
「またサボりか? 小町」
悪戯っぽく訊ねる魔理沙に、しかし小町は余裕のある表情を浮かべた。その顔が余りにも自信に満ちあふれていて、パチュリーはほんの少しだけ苛立ちを覚える。
「いいや、これも仕事のうちさ」
「どういうことよ?」
「映姫さまがな、『好きなときに仕事をして好きなだけ休みなさい。それがあなたに出来る善行です』ってね」
小町の夢、その在り方。それを唐突に理解したアリスはわかりやすいため息を吐いた。サボり癖ここに極まれり、である。
「で、いつ仕事するんだよ?」
「あー? するよ、するする。映姫様に言われたらねー」
自主性の欠片もないじゃないか。魔理沙はそう言おうとして、ぐっと言葉を呑み込んだ。ここは夢の中。小町の夢に、野暮なツッコミをする気は無い。
「でも魔理沙、あなたもとくに仕事とかしてないんじゃ――」
「――さ、次に行こうぜ!」
アリスの言葉を遮って、魔理沙がパチュリーの手を引く。パチュリーの目が胡乱げなものになっていることに気が付かない魔理沙だが、パチュリーも自身が養われているという事実を忘れている。ようは、どっちもどっちなのだ。
不思議と、砂浜に終わりはなかった。右を見れば鬱蒼と茂った森があり、左を見れば永遠に続く海がある。正面を見れば砂浜があるのだが、陽炎のようにぼやけて先の光景は見られなかった。
精神世界の海を生み出したのはパチュリー達だが、自身が立ってみるまで風景までは、わからない。
「お、見えたぜ!」
魔理沙の声に、パチュリーは足を止める。次いで追いついてきたアリスもまた、荒い息を整えながら、呆然と前を見た。
「良い調子ね、小町」
「はい! 次はなにをすれば良いんですか?」
「ふふ、仕事熱心なのは良いけれど、ほどほどに休みなさい?」
「映姫様だけに働かせてサボるなんて、あたいにはできません」
気持ち悪い小町だった。それが、言葉を交わすでもなく通じ合った三魔女の心だ。砂浜に置かれた仕事机、書類整理をする映姫に付き従う小町。映姫の夢がサボらない部下を手に入れる事と知り、魔理沙は思わず目元を抑える。
「あの閻魔、意外と苦労していたのね」
ぬけぬけと言い放ったパチュリーの言葉は、映姫には届かない。心の底から安堵の光を浮かべて仕事をする映姫には、届きそうになかった。
「行きましょう、魔理沙、アリス、上海」
「ああ、そうだな」
「今度合ったら、労ってあげましょう」
「はい、マスター」
花畑でも背負っているのか、キャッキャッウフフと仕事をする小町の下から、三人は音もなく立ち去った。せめて、夢の中だけは。そんなあたたかな思いやりと共に。
少し離れたところで、パチュリーは見知った姿を見つけた。
パラソルの下、テーブルの前、優雅に座る小柄な姿。その傍には、銀のメイドが常と変わらない姿で佇んでいた。
その様子を見て、魔理沙はつぶやく。
「あん? 咲夜とレミリアは普段通りなんだな」
「アリス、ちょっと」
「なに?」
気になることがある。
パチュリーはアリスに一つ頼み事をした。
「わかったわ。上海」
アリスが上海に命令を下す。
「了解しました、マスター」
「お? なんだなんだ? 何を命令したんだ?」
「ちょっとしたこと。まぁすぐにわかるわよ。それよりも、少し話してみましょう」
「ん、それもそうだな」
一同はレミリアと咲夜に近づいた。
「よう、レミリア。ご機嫌そうだな」
「あら魔理沙。私はいつもご機嫌よ」
「よく言うぜ。咲夜がいないと不機嫌になるだろうに」
「そうね、だからいつもご機嫌なのよ。咲夜はいつも隣にいるからね」
隣の咲夜は薄く笑みを浮かべた。
「咲夜はいつもお嬢様のお傍におりますわ」
「相変わらずだな、お前らは」
見せつけられて魔理沙は、ペチンと額に手を当てた。
「マスター」
「おかえり上海。どうだった?」
上海は小声で、咲夜とレミリアには聞こえない程度で話した。
「近くに咲夜様、レミリア様と思わしき個体の確認はできませんでした」
「ありがと。だそうよ、パチュリー」
「そう……やっぱり」
「おいおい、仲間はずれは良くないぜ。ここに閻魔がいたら、魔理沙に優しくしなさい。それがあなたにできる善行です。って言う。そうに決まってる」
一人蚊帳の外な魔理沙は頬を膨らませ気味に言った。
アリスも頼まれたことをこなしただけで、その意図までは知らされていなかったのか、パチュリーに疑問の視線を投げかける。
「つまりね、レミィと咲夜は同じ夢を見ているの――同じ夢の中で同じ夢っていうのも変な言い方だけど」
「んん? それじゃあ、そこにいる咲夜もレミリアも、どっちかが作り出した幻影じゃなくて、どっちも本物ってわけか?」
「そうよ」
「なんでまたそんなことに?」
「あの子たちは、今の暮らしで十分満足してるんでしょ。これ以上望むことがないってことよ」
パチュリーは投げやりに言った。
そして、言えなかった。その続きを。
後ろから魔理沙の「この幸せコンビめ。大掃除して物を無くせ」なんて言葉が聞こえきたが、そうではないのだ。
彼女たちのその夢は、二人の切実な願いなのだ。
いつか別れを約束された二人の、身を切るような願いの具現なのだ。
二人が口にした『いつも』という言葉の裏に、どれだけの切ない願いが込められていたのだろう。
パチュリーはレミリアと咲夜の夢を見て、叶わない夢の存在を知った。
彼女たちは、その叶わない夢の額縁を、どう彩るのであろうか――
いつもより少し高級な茶葉、良い羊羹を食べながら縁側でのほほんとする霊夢。そのお賽銭箱は、黄金に充ち満ちていた。
誰も彼もが笑顔で大はしゃぎする空間。パチュリーの知らない紫がかった黒髪の巫女や赤い髪の魔女を携えて微笑む、紫。
毅然とした表情でキビキビ働く紫と、幼さの残る仕草で懸命に仕事を覚えようとする橙。そんな二人を見て嬉しそうに家事仕事をする藍。
信仰によって多くの人達を跪かせ――何故か霊夢も一緒に――て、艶然と微笑む守矢神社の面々。真ん中で満足そうにしているのは、早苗だった。
沢山の人妖達の姿を目で追い、時には語りかけ、その夢の在り方を記憶していく。
「あら?」
そんな中、パチュリーの視界に、あまりにも見知った顔が入り込んだ。思わず立ち止まる。
「あれ……パチュリー?」
「そのようだな」
視線の先には、パチュリーとその使い魔。二人は仲睦まじく談笑しながら浜辺を軽快に歩いていた。
小悪魔が何か話すと、パチュリーは輝くような笑顔でそれに応えている。そうなると小悪魔も嬉しいのだろう。小悪魔は次々に取りとめのない話をパチュリーに投げかける。まるで慣れ親しんだ友人のような関係。
「あのパチュリー、よく笑うわね」
「ああ、なんだか愉しそうだ」
「……小悪魔ったら、随分気色悪い夢を見るものね」
微笑ましく見守るアリスと魔理沙を見て、パチュリーは不機嫌そうにつぶやく。
「でも、とても幸せそうです」
「上海」
上海は視線の先の二人を見つめ、少し羨ましそうに言った。
「あれが、小悪魔さんの夢のパチュリー様なのでしょう。喘息に苦しまない、元気なパチュリー様であってほしい、と」
「…………ふん」
パチュリーは頬が熱くなるのを感じて、思わず顔を背けた。
後ろから二人分の笑い声、それも微笑ましいものを見るような笑い声だったので、パチュリーは足早に歩を進めるのであった。
知的好奇心によって作り上げられた世界。その世界は、パチュリーが思っていたよりもずっとカオスなところなのだと、今更ながらに気がつくのであった――。
この空間で日が落ちるということは、目覚めの合図だ。夢の中で夜を迎えることによって、人妖達は緩やかな眠りにつく。それが、夢の終わりを告げる鐘となるのだ。
だから、精神世界での夕暮れは、終わりへのカウントダウン。燃えるような太陽は、青い海を朱色に染め上げていた。
「ねぇ、魔理沙、アリス」
一通り見終わり、それでもなお浮上する疑問。その答えを求めて、パチュリーは共に研究をした仲間達に問いかける。
「何故彼女たちは、自分に都合の良い夢ばかり見ていたのかしら?」
夢とは、必ずしも良いものでは無い。日常と変わらない風景を垣間見る者も居れば、悪夢に魘される者も居る。自己の向上の為のキーワードを見つけるにしても、良い夢を見ている者……それが僅か数名でも、彼女たちのことを記録すればいい。
そんな風に考えて覚悟していたというのに、蓋を開けてみればこれ。誰も彼もが、己の望んだ光景を夢に見ていた。
「もう、そんなこと、決まってるじゃない」
「アリス?」
アリスが、脇に浮かぶ上海を撫でる。すると上海は、心地よさそうに頬を染めた。柔らかで温かい光景。その光景に釘付けになっている間に、魔理沙がパチュリーの前に躍り出ていた。
「そうだぜ、パチュリー。みんなが良い夢を見るのは当たり前だ。なんていったってここは――」
魔理沙がぱちんっと指を鳴らすと、太陽の傍で星が輝いた。夜に浮かぶはずの星を、太陽の傍に召喚して輝かせる、無駄な大魔法。魔理沙の力量では不可能なはずの術に、パチュリーは目を丸くする。
「――みんなの“夢”なんだからな」
魔理沙の言葉は、不思議と、パチュリーの腑にすとんと落ちた。誰もが夢見た夢を夢に見る。それは確かに、なにもおかしいことはない。
「ぁ」
そして、その考えに至って初めて、パチュリーは気がつく。この空間で、パチュリーは何度も全力で走り回っていた。自分よりも体力があるはずのアリスが息を切らしても、なお変わらず。
その間、パチュリーはただの一度も――喘息に悩まされることはなかったのだ。
「ふふ、何が『もう慣れたモノ』よ。呆れちゃうわ」
夢に見るほどに、求め、願っていた。
思い浮かびもしなかった自分の夢にパチュリーは小さく微笑む。
苦みも何も、しかめっ面は夢の外ですればいい。だから、今はただ、笑って。
「アリス、魔理沙、弾幕ごっこよ。今は――誰にも負ける気がしないの」
そう不敵に、けれどどこか子供のように笑うパチュリー。そんな彼女に、アリスと魔理沙は互いに顔を合わせて、パチュリーと同じような笑顔を浮かべた。
「おう! 今日の私はひと味もふた味も違うぜ?」
「あら、だったら私は刺激的に七味は違うことにしましょうかしら」
「ご託はやり合いながら聞いてあげるから、さっさと来なさい!」
朱色に染まった海の上、三人の魔女が身体を踊らせる。常では考えられないような高みに根ざす魔法の数々。それらを巧みに操る者たちは、決して魔女とは呼べないだろう。
なにせその顔は――年頃の少女のように、輝いていたのだから。
夏というには精彩を欠き、秋の気配はまだ遠く。燦々と降り注ぐ太陽の光は、夏と秋の綱引きの真ん中にあって、けれどそんなことには無関心なように空は蒼く澄み渡っていた。
そんな翌日である。
昨晩の乱痴気騒ぎ――夢の中の話ではあるが――とは打って変わって、あまりにも日常的な日常。パチュリーは相も変わらず本を両手に静謐な時間を過ごしていた。
夢から覚めたパーティの招待客は、キノコジュースの殺人的な不味さにこそ文句は零したが、見せられた夢に関しては賞賛の言葉を贈るばかりであった。
曰く、「信仰がたくさん集められた」
曰く、「いい上司の夢を見られた」
曰く、「いい部下の夢を見られた」
曰く、「師匠が優しかった」などなど。
夢の内容を肴に酒を酌み交わす面々。皆一様に幸せそうな顔をしていた。それを見てパチュリーは柄にもなく「いいことをした」なんて感想を抱いたものである。
加えて、研究的な成果もなかったわけではない。
各々が理想の自分や友人、近しい人間、野望、などを思い描いた、束の間の楽園。それが夢である。
睡眠を通して見る夢。夢は夢。それは叶えたい夢でもあるのではないか。明日に抱く大きな希望、小さな願い、ちょっとした決意。明日へと向かう意志。そんなものが、自身の精神下で映像化される。それが明日に繋がる力の根源なのではないか。
「……なーんてね」
そんな青臭い考えが浮かぶ自分に思わず苦笑いをするパチュリー。彼女は今、新たなる研究を始めていた。
「精神の回復が、一個体が理想の環境を作るためにスピリチュアルな動きを統一し、一定方向に向かう過程で行われるものだとしたら、どの段階で回復が行われるのかをもっと詳しく……その前に、希望や意志、決意という抽象的な言葉をもっと細分化した上で、でも悪夢の場合は話がまた違ってくるわけで、うぅん……」
「パチュリー様」
「小悪魔」
「あまり根を詰め過ぎてはいけませんよ」
「根を詰めなくて何を詰めるの」
「うーん、梱包材とか?」
「引っ越しをする予定はないわ」
「そうですね。お引っ越しは面倒です。なので――」
小悪魔は、タイミングがいいのか悪いのか、研究が行き詰まった時に声をかけてくる。だから、
「お考えがまとまらないのであれば、お外を散歩してみてはいかがですか? 今日もいいお天気ですよ」
――こんな風に、却下されるとわかっていてなお、そう言ってくれるのは、小悪魔なりの優しさなのかもしれない。
いつもの私なら、早押しクイズばりの速度で却下する。
だけど――
「そうね、天気もいいことだし、少し歩いてこようかしら」
「そうですよね、こんなお天気のいい日は読書にかぎ――って、えぇぇ!?」
小悪魔はありえないものでも見るような表情でパチュリーを見つめた。
「なによ、私が外に出たらおかしいの?」
「へぇあ、い、いえいえ! そういうわけでは! で、でも、大丈夫なんですか? その、喘息とか……」
「喘息、か……」
パチュリーは目を細め、昨晩の夢を思い起こした。
あの、綺麗な海と空の蒼。どこまでも爽快な空気。どこまでだって走れる気がした、あの世界――
「――うん、大丈夫」
「そ、それならいいのですが……。じゃあ、準備してきます!」
「あら、あなたも行くのね」
「当然! パチュリー様とお散歩できる機会なんて、一切ありませんから!」
「滅多に、とかじゃないのね」
「だって今までなかったじゃないですか」
「そうかもね」
自分の出不精さに思わず苦笑する。
図書館から出て、外に繋がる扉を開けると、「久々に顔を見せたなパチュリー」と言わんばかりに太陽がパチュリーを照らす。
く、と目を細めるパチュリーに、小悪魔が心配そう訊ねた。
「あの、本当に大丈夫ですか? 具合が悪くなったらすぐ言ってくださいね?」
「ええ、わかってるわ。でも、大丈夫。今日は具合がいい気がするのよ――――きっと」
――きっと。
その言葉を口にした時、パチュリーはなんだか明日がとても素晴らしいもののような気がしてきて、思わず、
「明日も晴れるといいわね、小悪魔」
なんてことを零したのであった。
了
今夜は何だか良い夢が見れそうな感じです
面白い合作でした。
文句なしの100点です
レミリアと咲夜のくだりはちょっと切なかったけど、いいアクセント。
まさしく、すばらしい大魔法でした。
よいゆめでした。
いい雰囲気のお話でした
少し強引な展開に思えました。
一番最初に提示されるパチュリーの命題と劇中の夢が、
読んでいてどうにも上手く結びつかないわけです。
感動系ともネタ系とも微妙に違う、不思議な感覚のSSでした
いつか夢を題材にしたSSを書いてみたいと思っていたんですが、まさに理想型。
三人の魔女たちの掛け合いや協力する姿が素敵でした
面白かったです
構成が巧みな葉月さんはいいコンビですね
特にヤマもオチもないのに腑に落ちるいいお話でした
楽しい時間ありがとうございました。
個人的な今回のツボは「どうにでもなぁれ。」でしたw
読んでて、そして読み終えて朗らかな気持ちになる。
しかし傍から他人の夢をのぞいたらさぞ面白いでしょうなぁw
何がとは言えないけど、はかなくも美しい
協力しあう三魔女が微笑ましく可愛らしいですね。