雲一つない夜空にきらきら瞬く満天の星々。
触れることの出来そうなほど、目の前にふわりと浮かぶ大きな満月。
そしてそれらの光を浴びて、ほんのり輝く満開の桜。
昼はにぎやかだった縁側に、この神社の巫女である私は一人静かに腰掛ける。
すでに桜は咲きはしたものの、まだまだ夜の空気は肌を刺す。
「・・・やっぱり寒いわねー・・・」
独り言のつもりだったのだが、それに応えるもう一人の声。
「・・・寒いから星と月は綺麗なのよ。月見と花見同時に楽しむのもいいじゃない。桜月夜ね。」
彼女は台所から出て来ては、遠く夜空を眺めている。
「わざわざ片づけを手伝ってもらって悪いわね、アリス。ありがと。昼はもう暖かいのにね。」
今日の昼はこの神社で花見がなされた。
とは言っても、それぞれの従者たちのもてなす至高VS究極の料理対決に舌鼓をうち桜を肴に飲んで騒ぐだけの、花見の名を借りた飲み会であるのだが。
「どういたしまして。今日は大変だったわね。」
「今日もね。魔理沙のやつ、あれほどチルノに酒を飲ませるなって言ったのに・・・」
おかげで酔ったチルノが辺り一面手当たり次第に冷気をばら撒いた。
日中ぽかぽか陽気のこの季節、たまったものではない。
「荒れたわね。それに、今日は私が言い出したから片づけくらいわね。」
「えっ?そうなの?てっきりまた酒が飲みたい魔理沙の発案だと思ってた。」
「そうね・・・私だってたまにはそういう気分になるわ。」
あなたも辛党だったの?という疑問を感じ取ったのだろうか、
「―――あ、お酒じゃないわよ、お花見の方。」
と彼女は付け加えた。
私はただそれにああと相槌をうっただけで何も言わずに、その後はしばらく二人で縁側で桜月夜を堪能した。
何も言葉を発さなくても、意思は共有出来そうだった。
ただ、並んで座っているだけで。
―――夜空の奥の星々と、ぽっかり浮いたお月様は、どこの世界でも見ることができるのだろうか。
遠くの遠くの世界ともこの空を共有しているのだろうか。―――
そんな風に遙か向こうに想いをはせていると、彼女は遠くを見つめたままで、ふと口を開いた。
「・・・ねえ霊夢。」
それはとても柔らかな口調で。
「・・・私のこと、好き?」
不意の一言に、その刹那呼吸すら止まってしまった。
自分の周りだけの時間が止まったかのように。
彼女は確かに、自分のことを好きかと聞いた。
―――い、いきなり何?す、好きかなんて・・・そんなこと、考えたこともないけど・・・
でも、彼女と一緒にいると安心するというか、ほっとするというか、なんというか・・・
そもそも好きって色々な好きがあるよね、えっと友人として、だよね。ど、どうして焦ってるのよ霊夢―――
わずか数秒、思考が行ったり来たりしたけれど、なんとか平静を装おうとしたまま何とか返す。
「・・・そ、そうね。好きよ。」
そんな心中を知ってか知らずか、彼女は普段通りの口調で少し笑って言った。
「ふふっ、本当かしら。テストしてみようかな。まず、目を閉じて。」
口を挟む余地がなかった。私は黙って目を閉じる。一体何が始まるのだろうか。
「私がいいって言うまでそのままよ。」
訳も分からずじっとしている。すると・・・
唇に、柔らかく、温かい、何かが触れた。
―――これって、もしかして―――
本当に触れているかもわからないほど、わずかに、ふんわりと、だけれどそれは確かに彼女のキスだった。
―――っー・・・―――
心臓が早くなっていくのがわかる。鼓動が音となって耳に飛び込んでくる。
そのキスは唐突だった。
けれど、私はそれを拒まなかった。
押しのけることもできた。
だけどしなかった。
頭で考えてそうしたのではなく、身体が自然とそれを受け入れた。
わずか十秒ほどの出来事。
その十秒は永遠のように感じられた。
ばくばく胸が波打って、体が熱くなっていく。
「―――もういいわよ。」
ゆっくりまぶたを開く。
金色の髪をなびかせて、彼女は桜に囲まれて月を眺めていた。
どんな表情をしているのだろう。
ここからではそれを知ることもかなわない。
だけれども、呼びかけようにも今の私は声さえ出せないほどに固まっていた。
「ありがとう、霊夢。・・・ねえ、明日、家に来てくれる?いつでもいいから―――」
それだけを言い残し、一度もこちらを振り向かず、すぐに彼女は空の向こうに行ってしまった。
私はまだ言葉を発せずにいた。
彼女が見えなくなってしばらくして、やっと身体が言うことを聞くようになってきた。
縁側に大の字に寝そべった。
ひんやり冷たい風に吹かれてもまだまだ火照ったままではあるが。
時間が経っても唇の感触と温度が忘れられない。
改めて考える。
そうか。
私は。
彼女が好きだったのか。
行き場のない感情のままに
「―――なんなのよ・・・もう・・・」
と空に投げかけるのが、精一杯だった。
「ふぁーあ・・・」
あの夜から一夜が明けた。昨日の夜はほとんど寝ることが出来なかった。
あんなこともあった上に、今日家に来てとだけ言い残されたからだ。
昨日という日を初めから全部思い返していって、今日という日を無意味に想像していくと、気がつくと時間は丑の刻を過ぎていた。
結局、気持ちの整理はつかなかったけれど、仕方がないから行くしかない。
そろそろ昼になるぐらいだろうか。
眠気を誘うふんわりとした風を受け、わずかな雲だけがたなびいている真っ青な空を飛び、あっという間に魔法の森へやってきた。
彼女の家の前に降り立つと、春風が周りの木々をざわざわと揺らした。
ふと辺りを見回してみると、いつもと変わらずそこにいるはずの木々が、春の陽気と対照的に悲しげに見えた気がした。
自分がおかしくなったのかとも思ったけれど、そう言えば、と彼女との会話を思い出す。
「ここの森はね。魔力に当てられて植物たちが感情を持っているのよ。」
「怖くない?それって。」
「あなたと違ってやましいことはないからね。」
「うぐっ、きついわね・・・」
―――うーん、そんなこともあったなあ。
まあ、どうして悲しげなのかなんてわからないけれど、今日はそんなことを気にしてる日じゃないよね―――
改めて彼女の家に向き合って、いくらかの期待と少しの不安と緊張の入り混じった一晩では整理のつかなかった感情を胸に、薄茶色の扉を叩いた。
・・・だが。
内からの反応はなかった。
―――あれ・・・?聞こえてない?それとも何か怒らせるようなことは・・・それはないか、昨日の今日だし―――
少し首を傾げたが、こんどは声を上げて扉を叩いてみた。
「アーリースーっ。」
・・・しかし、やっぱり返事はなかった。
おかしいな、出かけているのかな?と何の気なしにドアノブを掴むとそれは簡単に下がった。
「あれれ・・・?開いてる・・・お、おじゃましまーす・・・」
そーっと扉を開ける。
彼女の家にはよく来るけれど、勝手に入るのは初めてだ。
すこし胸がドキドキする。
とりあえず、彼女が帰ってくるまで待たせてもらおう。
―――しかし・・・アリスの家に一人きりか・・・いやいや、それはだめよ霊夢―――
ヨコシマな考えをおさえつけ、座らせてもらおうとしたその時に、テーブルの上のものに気がついた。
そこには二つの手紙がぽつりと置かれていた。
一つには「霊夢へ」と、もう一つには「皆へ」と書かれた手紙が。
―――私宛・・・?な、なんだろう、読んでいいよね?―――
椅子を引こうとした手を止めて、「霊夢へ」とかかれた手紙にその手を伸ばした。
そして、その内容を読み始めた―――
「ごきげんよう、霊夢。
ちゃんと次の日に来てくれた?
今日はごめんね。
これを読んでるときには昨日かな。
いきなりあんなことをして困惑させちゃったかな。
でもごめんね、私には時間がなかったの。
つい先日、突然お母さんが魔界から私のところへやってきてね。『助けて―――』って。
神綺って人なんだけど覚えてるかな?
一度会ってると思うわ。
色々言ってたけど、一言で言うとそろそろ一人で魔界を維持するのがつらくなってきたんだって。
元々適当な人だからね。
私がサポートしてあげないと。
だから、お母さんのためにも、そして何より魔界のみんなのためにも、魔界に帰らなくちゃいけなくなったの。
ごめんね。
それで、無理言ってこの日まで待ってもらったの。
最後に、みんなでお花見でもしたいなーって。
で、ほんとはそれで終わらせるつもりだったんだけど、後で悔やむのが嫌だったから。
霊夢に本当の気持ちを聞いてみたくて。
払いのけられたり、叩かれたりしたらどうしようかと思った。
だけど、そうじゃなくて、嬉しかった。
でも、ここに残りたい気持ちも大きくなっちゃったかな。
・・・もう少し、あなたと一緒にいたかった。
誰にも言わずに帰るのは、私の最後のわがまま。
湿っぽい別れは好きじゃないから。
それに、みんなの、あなたの顔をみたら、帰れなくなっちゃうから。
勝手でごめんね。
最後になるけど、私の気持ちを伝えてなかったね。
ずっと、私は霊夢のことが好きだった。
そして、これからも。
愛してるわ、霊夢。」
いつの間にか手紙を震える両手でしわができるほどに握りしめていた。
そこにある内容は、信じたくないものだった。
「なによこれ・・・嘘!嘘よ!」
昨日まで、たしかに彼女はそこにいたのに、いきなりいなくなったなんて有り得ない。
テーブルに手紙を叩きつけると、すぐに彼女の家中を回り始めた。
書斎を、台所を、浴室を、至る所をさがしまわったけれど、彼女の姿はどこにもなかった。
そして最後に、彼女の寝室のドアの前にやってきた。
調べていない部屋は残るはここだけだった。
―――アリス・・・っ―――
力一杯ドアノブを握りしめ、祈るような思いで勢いよくドアを開けた。
・・・しかし。そこにもやはり彼女はいなかった。
「っ・・・!」
そこにあったのは、ベッドと、枕と、きれいに畳まれた布団と、そして赤いリボンだけだった。
頼りない足取りでベッドに歩み寄り、リボンを手に取り眼前で強く握りしめた。
それは彼女がいつも首に巻いていたものだった。
「嘘よ・・・」
湿った声で呟いた。
頬を一筋の水滴がつたう。
「嘘だと言ってよ・・・ねえ・・・アリス・・・」
私が私の気持ちに気づき。
彼女を本当に好きになったのはわずか昨日のことなのに。
こんなのってあんまりだ。
私はその場に崩れ落ち、彼女のリボンを涙でぬらした。
何度も何度も、名前を呼んだ。
もうここにはいない、彼女の名前を。
そのリボンにはまだかすかに彼女の香りが残っていた。
あれから、数日がたった。
もう彼女はここにはいない。
淡い桜色一色だった境内の木々にほのかに緑が混じるようになってきた。
代わりに地面がきれいに染まっていく。
散り行く姿はいとおかし、だけど数少ない私の仕事が増えるのはうんざりだ。
掃除するのは私なのに、勝手に散らないでほしい。
そう考えるうちにもほらまただ、暖かな風が木を揺らし、美しさと面倒さの葛藤に悩まされる。
そんなのどかな日の昼下がり、あの夜と同じ縁側に座り、ぼーっと空を眺めていると、向こうから見慣れた物体が飛んできた。
片手で押さえた黒い帽子と、白と黒のエプロンドレスを身にまとい。
箒にまたがり金色の髪をなびかせてこちらに向かってくる少女。
魔理沙は飛んできた勢いそのままに花びらを舞い上げ眼前を横切るようにして境内に降り立った。
「・・・あんたね。掃除する私の身にもなりなさいよ。」
こちらに飛んできた花びらを払いながら、魔理沙のほうに目を向けた。
「へへっ。まあそうおこんなって。いいもの持ってきたからさ。」
魔理沙は笑顔を見せてそう言って、私の隣に腰掛けた。
ほい、と手渡してきたものを受け取った。
「・・・酒じゃないの。」
予想通りといえば予想通りだが。
「おう。酒だぜ。ちょっとこーりんにもらってな。一緒に飲もうぜ!」
「ほんとにもらったの?怪しいわね・・・それに昼からってあんたねぇ・・・ま、飲むんだけどね。」
「それでこそ霊夢だぜ、話がわかるな。あ、枡がいいかな。」
いつもどおりに笑みを交わし、棚から二つの枡を出す。
「いやー・・・やっぱり花見酒はいいよなー・・・」
「そーねー・・・って、前もしたじゃないの。」
「桜と葉桜はまた別物なんだ。」
「あんたは飲みたいだけでしょ。」
「言い返せないぜ。ま、そういう霊夢も飲んでるんだけどな。」
―――ぐっ、そう言われるとこっちも言い返すことができない。
そうしてる間にも無意識に枡が口へと運ばれる。
と、魔理沙の視線を感じた。
「な、なによ。」
「いやー、何か変わったと思ってさ・・・あ、頭のリボンが変わったんだな。マイナーチェンジ過ぎてすぐにはわからなかったぜ。」
「あー・・・これね。気分転換よ。どう?」
もちろんこれは気分転換などではない。
これは彼女の残していったリボンだ。
「んー。あーんまりかわらないかなー・・・」
「ま、そんなものよねー・・・」
「そーだなー・・・」
「・・・」
「・・・」
長年の付き合いだからこその、この静かさの共有なのである。
浅くなくとも普通の付き合いでは、気まずくなるか、静かさの前にどちらかが口を開いたりするものだけど。
二人の間にそれはない。
何も言わなくてもわかりあえる。
もちろん魔理沙とは親友としてだが。
この静かな間を共有できたのは魔理沙の他には彼女だけだった。
そういえば、魔理沙は彼女のことを知っているのだろうか。
「ねえ魔理沙。」
「ん、なんだ?」
「最近アリスを見た?」
「んー、いや花見の日以来見てないな。引きこもってなにかの研究でもしてるんじゃないか?どうしたんだいきなり。」
「・・・いや、なんでもないの。」
魔理沙も何も知らなかった。
やはり彼女は仲のよかった魔理沙にも何も告げずに帰っていったのだ。
「・・・そのうち、また会えるわよ。」
あの日と同じ、真っ青な空を見上げてつぶやいた。
その言葉は、自分に向けてのものでもあった。
「?・・・そりゃあそのうち出てくるさ。変なやつだな。」
魔理沙は軽く首をひねった。
近いうちに、誰かが彼女の手紙を見つけるだろう。
そして魔理沙もアリスがいなくなったことを知るだろう。
その時はきっと、魔理沙も涙を流すだろう。
なぜなら、彼女は魔理沙の大切な親友だったから。
―――ひとつ気づいたことがある。
彼女は、最後まで、「さよなら」と言わなかった。
あの夜も、手紙でも。
もしかしたら、偶然なのかも知れない。
でもそれは、きっと偶然なんかじゃないと思う。
だから私も「さよなら」は言わない。
そういってしまえば、もう二度と会えなくなってしまうような気がするから。
いつかまた。
―――ごきげんよう、霊夢。―――
そういって彼女がひょっこり会いにくるその日まで。
この赤いリボンを身に纏い、私はこう想うのだ。
―――またね、アリス。―――
触れることの出来そうなほど、目の前にふわりと浮かぶ大きな満月。
そしてそれらの光を浴びて、ほんのり輝く満開の桜。
昼はにぎやかだった縁側に、この神社の巫女である私は一人静かに腰掛ける。
すでに桜は咲きはしたものの、まだまだ夜の空気は肌を刺す。
「・・・やっぱり寒いわねー・・・」
独り言のつもりだったのだが、それに応えるもう一人の声。
「・・・寒いから星と月は綺麗なのよ。月見と花見同時に楽しむのもいいじゃない。桜月夜ね。」
彼女は台所から出て来ては、遠く夜空を眺めている。
「わざわざ片づけを手伝ってもらって悪いわね、アリス。ありがと。昼はもう暖かいのにね。」
今日の昼はこの神社で花見がなされた。
とは言っても、それぞれの従者たちのもてなす至高VS究極の料理対決に舌鼓をうち桜を肴に飲んで騒ぐだけの、花見の名を借りた飲み会であるのだが。
「どういたしまして。今日は大変だったわね。」
「今日もね。魔理沙のやつ、あれほどチルノに酒を飲ませるなって言ったのに・・・」
おかげで酔ったチルノが辺り一面手当たり次第に冷気をばら撒いた。
日中ぽかぽか陽気のこの季節、たまったものではない。
「荒れたわね。それに、今日は私が言い出したから片づけくらいわね。」
「えっ?そうなの?てっきりまた酒が飲みたい魔理沙の発案だと思ってた。」
「そうね・・・私だってたまにはそういう気分になるわ。」
あなたも辛党だったの?という疑問を感じ取ったのだろうか、
「―――あ、お酒じゃないわよ、お花見の方。」
と彼女は付け加えた。
私はただそれにああと相槌をうっただけで何も言わずに、その後はしばらく二人で縁側で桜月夜を堪能した。
何も言葉を発さなくても、意思は共有出来そうだった。
ただ、並んで座っているだけで。
―――夜空の奥の星々と、ぽっかり浮いたお月様は、どこの世界でも見ることができるのだろうか。
遠くの遠くの世界ともこの空を共有しているのだろうか。―――
そんな風に遙か向こうに想いをはせていると、彼女は遠くを見つめたままで、ふと口を開いた。
「・・・ねえ霊夢。」
それはとても柔らかな口調で。
「・・・私のこと、好き?」
不意の一言に、その刹那呼吸すら止まってしまった。
自分の周りだけの時間が止まったかのように。
彼女は確かに、自分のことを好きかと聞いた。
―――い、いきなり何?す、好きかなんて・・・そんなこと、考えたこともないけど・・・
でも、彼女と一緒にいると安心するというか、ほっとするというか、なんというか・・・
そもそも好きって色々な好きがあるよね、えっと友人として、だよね。ど、どうして焦ってるのよ霊夢―――
わずか数秒、思考が行ったり来たりしたけれど、なんとか平静を装おうとしたまま何とか返す。
「・・・そ、そうね。好きよ。」
そんな心中を知ってか知らずか、彼女は普段通りの口調で少し笑って言った。
「ふふっ、本当かしら。テストしてみようかな。まず、目を閉じて。」
口を挟む余地がなかった。私は黙って目を閉じる。一体何が始まるのだろうか。
「私がいいって言うまでそのままよ。」
訳も分からずじっとしている。すると・・・
唇に、柔らかく、温かい、何かが触れた。
―――これって、もしかして―――
本当に触れているかもわからないほど、わずかに、ふんわりと、だけれどそれは確かに彼女のキスだった。
―――っー・・・―――
心臓が早くなっていくのがわかる。鼓動が音となって耳に飛び込んでくる。
そのキスは唐突だった。
けれど、私はそれを拒まなかった。
押しのけることもできた。
だけどしなかった。
頭で考えてそうしたのではなく、身体が自然とそれを受け入れた。
わずか十秒ほどの出来事。
その十秒は永遠のように感じられた。
ばくばく胸が波打って、体が熱くなっていく。
「―――もういいわよ。」
ゆっくりまぶたを開く。
金色の髪をなびかせて、彼女は桜に囲まれて月を眺めていた。
どんな表情をしているのだろう。
ここからではそれを知ることもかなわない。
だけれども、呼びかけようにも今の私は声さえ出せないほどに固まっていた。
「ありがとう、霊夢。・・・ねえ、明日、家に来てくれる?いつでもいいから―――」
それだけを言い残し、一度もこちらを振り向かず、すぐに彼女は空の向こうに行ってしまった。
私はまだ言葉を発せずにいた。
彼女が見えなくなってしばらくして、やっと身体が言うことを聞くようになってきた。
縁側に大の字に寝そべった。
ひんやり冷たい風に吹かれてもまだまだ火照ったままではあるが。
時間が経っても唇の感触と温度が忘れられない。
改めて考える。
そうか。
私は。
彼女が好きだったのか。
行き場のない感情のままに
「―――なんなのよ・・・もう・・・」
と空に投げかけるのが、精一杯だった。
「ふぁーあ・・・」
あの夜から一夜が明けた。昨日の夜はほとんど寝ることが出来なかった。
あんなこともあった上に、今日家に来てとだけ言い残されたからだ。
昨日という日を初めから全部思い返していって、今日という日を無意味に想像していくと、気がつくと時間は丑の刻を過ぎていた。
結局、気持ちの整理はつかなかったけれど、仕方がないから行くしかない。
そろそろ昼になるぐらいだろうか。
眠気を誘うふんわりとした風を受け、わずかな雲だけがたなびいている真っ青な空を飛び、あっという間に魔法の森へやってきた。
彼女の家の前に降り立つと、春風が周りの木々をざわざわと揺らした。
ふと辺りを見回してみると、いつもと変わらずそこにいるはずの木々が、春の陽気と対照的に悲しげに見えた気がした。
自分がおかしくなったのかとも思ったけれど、そう言えば、と彼女との会話を思い出す。
「ここの森はね。魔力に当てられて植物たちが感情を持っているのよ。」
「怖くない?それって。」
「あなたと違ってやましいことはないからね。」
「うぐっ、きついわね・・・」
―――うーん、そんなこともあったなあ。
まあ、どうして悲しげなのかなんてわからないけれど、今日はそんなことを気にしてる日じゃないよね―――
改めて彼女の家に向き合って、いくらかの期待と少しの不安と緊張の入り混じった一晩では整理のつかなかった感情を胸に、薄茶色の扉を叩いた。
・・・だが。
内からの反応はなかった。
―――あれ・・・?聞こえてない?それとも何か怒らせるようなことは・・・それはないか、昨日の今日だし―――
少し首を傾げたが、こんどは声を上げて扉を叩いてみた。
「アーリースーっ。」
・・・しかし、やっぱり返事はなかった。
おかしいな、出かけているのかな?と何の気なしにドアノブを掴むとそれは簡単に下がった。
「あれれ・・・?開いてる・・・お、おじゃましまーす・・・」
そーっと扉を開ける。
彼女の家にはよく来るけれど、勝手に入るのは初めてだ。
すこし胸がドキドキする。
とりあえず、彼女が帰ってくるまで待たせてもらおう。
―――しかし・・・アリスの家に一人きりか・・・いやいや、それはだめよ霊夢―――
ヨコシマな考えをおさえつけ、座らせてもらおうとしたその時に、テーブルの上のものに気がついた。
そこには二つの手紙がぽつりと置かれていた。
一つには「霊夢へ」と、もう一つには「皆へ」と書かれた手紙が。
―――私宛・・・?な、なんだろう、読んでいいよね?―――
椅子を引こうとした手を止めて、「霊夢へ」とかかれた手紙にその手を伸ばした。
そして、その内容を読み始めた―――
「ごきげんよう、霊夢。
ちゃんと次の日に来てくれた?
今日はごめんね。
これを読んでるときには昨日かな。
いきなりあんなことをして困惑させちゃったかな。
でもごめんね、私には時間がなかったの。
つい先日、突然お母さんが魔界から私のところへやってきてね。『助けて―――』って。
神綺って人なんだけど覚えてるかな?
一度会ってると思うわ。
色々言ってたけど、一言で言うとそろそろ一人で魔界を維持するのがつらくなってきたんだって。
元々適当な人だからね。
私がサポートしてあげないと。
だから、お母さんのためにも、そして何より魔界のみんなのためにも、魔界に帰らなくちゃいけなくなったの。
ごめんね。
それで、無理言ってこの日まで待ってもらったの。
最後に、みんなでお花見でもしたいなーって。
で、ほんとはそれで終わらせるつもりだったんだけど、後で悔やむのが嫌だったから。
霊夢に本当の気持ちを聞いてみたくて。
払いのけられたり、叩かれたりしたらどうしようかと思った。
だけど、そうじゃなくて、嬉しかった。
でも、ここに残りたい気持ちも大きくなっちゃったかな。
・・・もう少し、あなたと一緒にいたかった。
誰にも言わずに帰るのは、私の最後のわがまま。
湿っぽい別れは好きじゃないから。
それに、みんなの、あなたの顔をみたら、帰れなくなっちゃうから。
勝手でごめんね。
最後になるけど、私の気持ちを伝えてなかったね。
ずっと、私は霊夢のことが好きだった。
そして、これからも。
愛してるわ、霊夢。」
いつの間にか手紙を震える両手でしわができるほどに握りしめていた。
そこにある内容は、信じたくないものだった。
「なによこれ・・・嘘!嘘よ!」
昨日まで、たしかに彼女はそこにいたのに、いきなりいなくなったなんて有り得ない。
テーブルに手紙を叩きつけると、すぐに彼女の家中を回り始めた。
書斎を、台所を、浴室を、至る所をさがしまわったけれど、彼女の姿はどこにもなかった。
そして最後に、彼女の寝室のドアの前にやってきた。
調べていない部屋は残るはここだけだった。
―――アリス・・・っ―――
力一杯ドアノブを握りしめ、祈るような思いで勢いよくドアを開けた。
・・・しかし。そこにもやはり彼女はいなかった。
「っ・・・!」
そこにあったのは、ベッドと、枕と、きれいに畳まれた布団と、そして赤いリボンだけだった。
頼りない足取りでベッドに歩み寄り、リボンを手に取り眼前で強く握りしめた。
それは彼女がいつも首に巻いていたものだった。
「嘘よ・・・」
湿った声で呟いた。
頬を一筋の水滴がつたう。
「嘘だと言ってよ・・・ねえ・・・アリス・・・」
私が私の気持ちに気づき。
彼女を本当に好きになったのはわずか昨日のことなのに。
こんなのってあんまりだ。
私はその場に崩れ落ち、彼女のリボンを涙でぬらした。
何度も何度も、名前を呼んだ。
もうここにはいない、彼女の名前を。
そのリボンにはまだかすかに彼女の香りが残っていた。
あれから、数日がたった。
もう彼女はここにはいない。
淡い桜色一色だった境内の木々にほのかに緑が混じるようになってきた。
代わりに地面がきれいに染まっていく。
散り行く姿はいとおかし、だけど数少ない私の仕事が増えるのはうんざりだ。
掃除するのは私なのに、勝手に散らないでほしい。
そう考えるうちにもほらまただ、暖かな風が木を揺らし、美しさと面倒さの葛藤に悩まされる。
そんなのどかな日の昼下がり、あの夜と同じ縁側に座り、ぼーっと空を眺めていると、向こうから見慣れた物体が飛んできた。
片手で押さえた黒い帽子と、白と黒のエプロンドレスを身にまとい。
箒にまたがり金色の髪をなびかせてこちらに向かってくる少女。
魔理沙は飛んできた勢いそのままに花びらを舞い上げ眼前を横切るようにして境内に降り立った。
「・・・あんたね。掃除する私の身にもなりなさいよ。」
こちらに飛んできた花びらを払いながら、魔理沙のほうに目を向けた。
「へへっ。まあそうおこんなって。いいもの持ってきたからさ。」
魔理沙は笑顔を見せてそう言って、私の隣に腰掛けた。
ほい、と手渡してきたものを受け取った。
「・・・酒じゃないの。」
予想通りといえば予想通りだが。
「おう。酒だぜ。ちょっとこーりんにもらってな。一緒に飲もうぜ!」
「ほんとにもらったの?怪しいわね・・・それに昼からってあんたねぇ・・・ま、飲むんだけどね。」
「それでこそ霊夢だぜ、話がわかるな。あ、枡がいいかな。」
いつもどおりに笑みを交わし、棚から二つの枡を出す。
「いやー・・・やっぱり花見酒はいいよなー・・・」
「そーねー・・・って、前もしたじゃないの。」
「桜と葉桜はまた別物なんだ。」
「あんたは飲みたいだけでしょ。」
「言い返せないぜ。ま、そういう霊夢も飲んでるんだけどな。」
―――ぐっ、そう言われるとこっちも言い返すことができない。
そうしてる間にも無意識に枡が口へと運ばれる。
と、魔理沙の視線を感じた。
「な、なによ。」
「いやー、何か変わったと思ってさ・・・あ、頭のリボンが変わったんだな。マイナーチェンジ過ぎてすぐにはわからなかったぜ。」
「あー・・・これね。気分転換よ。どう?」
もちろんこれは気分転換などではない。
これは彼女の残していったリボンだ。
「んー。あーんまりかわらないかなー・・・」
「ま、そんなものよねー・・・」
「そーだなー・・・」
「・・・」
「・・・」
長年の付き合いだからこその、この静かさの共有なのである。
浅くなくとも普通の付き合いでは、気まずくなるか、静かさの前にどちらかが口を開いたりするものだけど。
二人の間にそれはない。
何も言わなくてもわかりあえる。
もちろん魔理沙とは親友としてだが。
この静かな間を共有できたのは魔理沙の他には彼女だけだった。
そういえば、魔理沙は彼女のことを知っているのだろうか。
「ねえ魔理沙。」
「ん、なんだ?」
「最近アリスを見た?」
「んー、いや花見の日以来見てないな。引きこもってなにかの研究でもしてるんじゃないか?どうしたんだいきなり。」
「・・・いや、なんでもないの。」
魔理沙も何も知らなかった。
やはり彼女は仲のよかった魔理沙にも何も告げずに帰っていったのだ。
「・・・そのうち、また会えるわよ。」
あの日と同じ、真っ青な空を見上げてつぶやいた。
その言葉は、自分に向けてのものでもあった。
「?・・・そりゃあそのうち出てくるさ。変なやつだな。」
魔理沙は軽く首をひねった。
近いうちに、誰かが彼女の手紙を見つけるだろう。
そして魔理沙もアリスがいなくなったことを知るだろう。
その時はきっと、魔理沙も涙を流すだろう。
なぜなら、彼女は魔理沙の大切な親友だったから。
―――ひとつ気づいたことがある。
彼女は、最後まで、「さよなら」と言わなかった。
あの夜も、手紙でも。
もしかしたら、偶然なのかも知れない。
でもそれは、きっと偶然なんかじゃないと思う。
だから私も「さよなら」は言わない。
そういってしまえば、もう二度と会えなくなってしまうような気がするから。
いつかまた。
―――ごきげんよう、霊夢。―――
そういって彼女がひょっこり会いにくるその日まで。
この赤いリボンを身に纏い、私はこう想うのだ。
―――またね、アリス。―――
ただ、家に入ったとき妙に広くなった屋内に気付いたり、家捜しする内に違和感や不安がどんどん膨れ上がっていく描写があればもっと良かったかも。
からっぽの家の中で初めから誰も住んでなかったかのような錯覚に襲われて、唯一それを否定しアリスが居たことを証明するものは手紙とリボンだけ、ってな感じで。
もしかすると家具類は全て残っていて、それが霊夢の「きっと帰ってくる」という考えの根拠になってるのかもしれませんが。
良い。
ビターな感じが良かったです
ただリズムが早すぎた気がします。
もう少し慎重に論を積み重ねていったほうが、読者が納得できるので、感動(この場合は切なさでしょうか)が深まると思います。
急な展開は、驚きは生まれるのですが、ちょっと感動とは違う印象になると思うのです。
ですので、70点にしました。