Coolier - 新生・東方創想話

Nのことば/法力とひとめぼれとありがとう

2011/10/01 22:45:29
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 ・作者の過去作からの設定を引き継ぎます。
 ・メモリチェンジ(過去捏造)
 ・メモリブレイク(設定.txtとの相違)

 ※告※










 





 大木みたいな鬼が、滝のような酒をかっ喰らいながら笑ってる。
 芽生えたばかりの葉っぱみたいな鬼たちが、面子を片手に笑ってる。
 樽のような体系の鬼が、店先の商品を指差し、笑ってる。

 この街はいつだって賑やかでやかましくて明るくて柔らかいんだって、そう思ってた。
 鬼しかいない街。 
 弱い奴なんていない街。
 誰も泣いてなんていない街。
 仲間はずれなんていなくて、まとまってて、そこに私の入り込む隙間なんてない街。完璧で、完成されすぎた街だって。
 でも、違った。
 私は見つけてしまった。ふと見下げた物陰でそいつはうずくまってた。膝を抱えて、汚らしい恰好で、まるで死体みたいだった。仲間はずれがいた、それだけが私の心の中にあった。心臓の鼓動が街のやかましさよりも大きくなった。唇が何かをいいたくてもがいていた。数え切れない時間を何も触れずに過ごしてきた手は、無意識に伸ばされていた。
 何がなんだかわからないままに、私はそいつの目の前に降り立った。
 そいつは薄汚かった。服もどれくらい洗ってないか分からない。髪に艶がない。その手には己の膝しか触れられていない。
 死んでるんだって、そう思った。
 だから、私は言えた。
「あんた、独りなんだ」
 何も返ってこなかった。当然だ。こいつは死んでいて何かを出来るはずがないんだから。だから私の言葉は独り言だった。永いこと話なんてしなかったし、する相手もいなかったものだから私の喉は情けないほどに退化して、言葉が言葉として認識される境界をさまよっていた。

 独り言。
「私も、独りだよ」
 独りだった。
「私はずっと、嫌われてたよ」
 なんにもいらなかった。恐れられることが存在する意味で、役割だった。それに飽きたから、私はこの街でなにもかもを捨てて、呼吸をしながら完璧な街を眺めるだけを続けていた。
「私を誰も見つけられなかったよ。かくれんぼじゃあ負けなしなんだから」
 張る胸もなかった。私が持ってるものなんて片手で足りてくれて、もしかしたら指一本分も無くて、どちらにせよ空いた片手は自由きままで、それがとても楽なんだって、そう思ってた。
 私は独り言を続けた。独りで、私に向かって話し続けた。そのたびに胸が痛んだ。心臓がうごめいた。骨がへし折れるような錯覚があった。慣れない事するからだ。止めときゃいいのに。立てなくなるほどに辛いのなら、さっさと此処からいなくなればいいのに。
「ねえ──」
 ネタがすぐに尽きた。話すことがなくなったからだ。私が持っているものがなくなったからだ。これでお終い。鏡に向かって呟いた独り言は続かない。
 でも、私の片手は空いていた。暇だった。だから、適当に動かした。触れた。確かに、何かに触れた。暖かかった。暖かいって言うのだろうか。感覚。柔らかくて、硬くて、白くて、暗い。意味不明な感覚。私の知らない感覚があった。
 触れてはいけない。私が私であるための絶対条件は、これを知ってはいけないことだった。不明を暴かれればそこに何があるのか自分にだって分からない。
 消えたくなんてない。そんなのは当然のことだ。

 でも、私はこの街にやって来て初めて生きた気がした。誰かと同じ空気を吸っていると錯覚して、舞い上がっていたのかもしれない。
 無意識。伸ばした手は止まってくれなかった。
 あと三十センチ。自分の意思で、無理矢理に手を握った。誰かがそれをこじ開けて、更に伸ばした。

 止めろ止めろ。私と私が叫ぶ。止めろ!

 あと二十センチ。とうに動かなくなった唇が完全に感覚を失った。両目が潰れて、視界が黒に染まった。匂いを感じなくなった。嗅覚も死んだ。街の声なんてずっと前から聞こえてなかった。

 それでもそれでも。私と私と私が叫ぶ。止めるな!

 十センチ。触覚だけが残った妖怪はそれを求めることしか出来なくなった。それでも求められた。求めてはいけないってわけの分からない第六感を蹴飛ばすのが私の足の最後の仕事だった。
 
 止めろ!
 止まるな!

 誰かが叫んでた。
 立っていられなくなった。そうして私は膝を折って倒れこんだのだと思う。
 視界が黒く染まっていた。
 完全な街。私の居場所なんてどこにもなかった。
 この街で私を受け止めたのは、

「──っ」

 名前も知らない死体だった。
 抱きしめたわけじゃない。抱きしめられたはずもない。本当にただ少しだけ──ほんのすこし、触れただけ。
 それだけで分かってしまった。気付いてはいけなかったこと。気付かないほうがずっと、楽だったこと。
 私のほうがずっと、ずぅっと冷たかった。






 Nのことば/法力とひとめぼれとありがとう




  
 
 1

 前髪が額を撫でていく感覚がくすぐったくて、私はまどろみから抜け出した。時計の針が動く音が聞こえていた。机にのせたまま組んだ両足が痺れていた。膝のうえには読んでいた本が落ちてきていた。
 半分開けられた窓から吹き込んでくる風が最後に覚えているものより冷たかった。私は上着の袖で口元を拭った。
 机の上に、積んだきりになっている本や開けたばかりの煙草が散乱してるのがぼんやりと見えてきた。紅い靴下がずいぶんとやんちゃをしてくれたようだった。
 私は時計を見た。地底には明確な昼夜の境界はない。時計だって正確な時間を刻んでいるか分からない。昼前。すくなくとも、地底時間ではそうだった。
 空腹感はない。ただ、とんでもなく身体に気だるさを感じた。原因を思い返してみる。昨日のことを思い出してため息が出た。地霊殿のペット探しに駆り出されて、一日中旧都を駆けずり回る羽目になったことを記憶の中に見つけたのだ。
 珈琲を飲もうとしてカップを探した。右足の小指が触れていた。私はカップを倒さないように用心深く、机から足を退けた。
 昼下がり。吹き込んでくる冷たい風。冷めた珈琲を啜る私。街の喧騒から遠く、遮るものはなにもない。ふうっと息を吐く。

 何かが足りなかった。大事な場所に風穴が開いていて、ひっきりなしに風が吹き込んでくる。おもむろに立ち上がり部屋中を歩き回った。自分の服の占める面積が半分以下の洋服ダンス。いつのまにか蔵書が増えている本棚。モノクロの格子柄の壁に並んで掛かっている、自分では絶対に被ることの無い帽子。不釣合いなほどに大きすぎるソファに、散らかった菓子袋。
 ここははたして自分の家なのだろうかと不思議な感覚に襲われながら、私は袋からふがしを取り出して齧ってみた。湿気ていなかった。なんとも表現しがたい微妙な甘みが口の中に広がった。

 私は違和感の正体に気付いた。
 その時、ドアがノックされた。 

 私は残ったふがしを咥えながらドアのほうに歩いた。ダークグレーのドアからはノックの音が止まなかった。開かれる気配は無かった。私は銀色のノブを握った。そしてふと、この向こうにいる奴の見当がつかないことに気がついた。
 ノックするような謙虚なやつを、私は知らなかったのだった。

 私の家を──部屋を訪れようとする輩の数自体は少なくない。建て替えてしばらく経つ、旧都でも珍しい二階建ての家屋の二階部分が私の主な生活場所だった。他にも背が高い建物が旧都にはありふれているが、幸か不幸か橋のそばに建つ私の家の傍には他の家屋の数は少なくて、窓を開ければ地上から巡ってきた風が入り込んでくる。他の奴らよりも高いところから街を見下ろせる。椅子がクルクル回転する。ベットも回転させましょう、以前そんな物件を本で読んだことがあります。そう言った古明地さとりの案は却下されている。
 ノックなんていっそ無視してやろうかとも思った。ここで開けて面倒なことになるくらいならば何もしないほうが賢明だ。私はノブから手を離した。と同時に、心臓の鼓動のように続いていたノックの音が止んだ。おそらく、正解だったのだろう。
 私はドアから離れて、ベットへ向かって歩き始めた。どうせすることもないのだ。まどろみを覚えるほどに疲れているのなら寝てしまえ。
 私は乱れた布団をめくった。と、上着を脱ぎ忘れていた。上着を脱いだ。机の傍に鎮座する椅子に向かって投げかけた。ぱさり。
 面倒だ。目が覚めてからでいい。
 私は上着を着ることの出来なかった椅子に向かって舌打ちしてから、ベットの上の布団に潜り込んだ。熱はまだ残っていた。動物のと甘いのが混じった匂いも残っていた。大きく息を吸うとおかしな気持ちになった。目尻が熱くなるのが分かった。
 
 ドアが飛んできた。

 私は飛び起きて部屋の入り口を見た。ドアは蹴破られたようだった。幸いにも私にぶち当たることはなかったが、ひしゃげてしまっていた。今度は確信する。

 こんなことを平然とする奴は、ひとりしか知らない。

 入り口から半分だけ、黒い帽子が顔を覗かせた。続いて本物の顔が覗いた。黒の帽子に黄色いリボン。どこか輝きを放っているようにも見える緑混じりの銀色の髪。皿のように開かれた瞳と一本のすじが走っているだけの瞳が見えた。
「こいし!」
 私は叫んだ。
 小動物のようなすばやさでこいしは顔を引っ込めた。階段を数歩、降りようとする足音が聞こえた。暫く静かになった。それからまた、こいしは顔を覗かせた。
 私は肩を落し、できるだけ声を落ち着かせていった。
「……ドアぶっ壊すまでしたんなら、とっとと入ってきなさいよ」
「悪かったと思っている。今は反省している」
「いつものことじゃないの。入りなさい」
「怒られるから、や」
「怒らないから」
「嘘だね。覚りである私には分かる」
「あんたの対応しだいね。ほら、来なさい」
 こいしはゆっくりと部屋に足を踏み入れて、ベットに腰掛ける私の前までやってきた。
「ちょっとむしゃくしゃして」と、こいしは言った。「ちょうど目の前にドアがあったからやってしまいました」
「理由なんて聞いてない。あんた、自分が今までに蹴り破ってきたドアの枚数覚えてる?」
「聞きたいかね、昨日までの時点で五枚だ」
「十五枚よ」私は自分の額を叩いた。「まったく、さとりのぶんまで頑丈な身体して、少しでもあいつにその元気さを分けてやるといいわ」
「私のものは私のものだよ」
「ああそうね、で? なにか用事?」
 こいしは帽子をぬいで、手のひらで弄んだ。リボンの結び目を確認するようにゆっくりとした動きだった。結び目がこいしの目線とかみ合った。諦めたようにこいしは言った。
「なんでだろうね」
 私は何も言わなかった。
「なんでかな」
 こいしは何か言ってよ、といった表情で私を見た。私は言った。
「知らないわそんなこと。さとりのやつと喧嘩でもした? 地上に行くついで? それとも──」
 それとも……それとも?
 言葉が詰まった。喉の奥でなにかが呻いていたが、一向に表に出てこなかった。私は一度咳払いした。しこりが消えて、言葉は舌の上に乗っかった。
 私はそれを味わって、飲み込んだ。

「……古明地こいしに一番似合わない言葉ね。理由なんて」
「そうだね」
「こいしはいっつも私の家に勝手に上がりこんで、私のこと容赦なく引っぱたいて、蹴り飛ばしてくれるものね」
「そうだね」
「あんたねぇ……」
 付き合うのも疲れてきた。私は溜息と一緒に言葉を吐いた。
「もう少し上手くやったらどうなの?」

 こいしは恥ずかしそうに頭を掻いた。太陽の輝きをいっぱい吸っているはずの銀色の髪がボサボサになった。いきなり立ち上がると、スカートをはらって帽子を真上に放り投げた。
「難しすぎない? こいしって」と、こいしは言った。
「あいつの真似なんてそうそうできるものじゃあないわね」
「何が悪かった?」
「全部よ」私は即答した。「最初から全部」
「そ、か」
「誰よ、あんた」
「村紗水蜜」
「あいつに用事ならこの下の階よ。窓口が違う。もうひとつ、私の名前も違うからね」
「この街で一番格好いいやつの名前を借りたんだよ」
 私は吹きだしそうになるのを一瞬だけこらえた。「格好いい? あいつが?」

 こいしであった奴の背後から暗雲が湧き上がり始めた。慌てて離れる。背後からこいしが闇に喰われていくようにも見えて、私は落ち着かなくなった。しかし、立ち上がることはしなかった。
 人の輪郭をぼんやりと形作った闇の中で、目と思われる部分が鬼火のように紅く揺らめいていた。やがて、その姿がこいしのものではなくなっていった。
 瞳は赤く、髪は闇の中に消えて、背中にはどうしようもなく化け物じみた『何か』が生え揃った。

「カッチョいいよ」と、闇が喋った。

 そのとき、闇を吹き消すように強い風が吹き込んできた。街を通り過ぎるのが辛いのか、むせび泣きのような音がしていた。氷嚢を押し当てたときのように冷たく、乾燥する瞼を閉じてしまいたくなった。
 瞬間、後頭部に鋭い痛みを感じた。
 何度も──それこそ毎日のように聞いている音だった。古明地さとりが地霊殿を歩くときよりもさっぱりとしたスリッパの音。痛みと音色を極める為に欠かさない素振りと計算されつくした角度から放たれる、他に類を見ない至高の一撃。
 私は反射的に振り返った。壁にできたシミは何も変わらずにそこにあった。やられた。もう一度振り返った。
 誰もいなかった。
 あれほどに存在感をもっていた正体のわからない闇も、その中の『誰か』も。本当に吹き消されたように何もかもなくなっていた。
 ただ、風だけが吹いていた。朝方の雪景色を思わせる冷たさを伴った強風。街を巡ってきたはずの風。どれだけの道のりを歩んできたのかも分からない風が、二枚割られた窓から吹き込んできているだけだった。
 私は上着を羽織り腰巻を巻いて、マフラーを首に掛けて、部屋を出た。



 2
 
  
 村紗水蜜に会いたければ街の叫び声に耳を澄ませ。そんな言葉を広めたのはいったいどこのどいつなのだろうか。
 正直だれでもいいのだが、そのおかげで私の家にどうでもいい相談事を持ち込んでくる輩がいるのだからたまったものではない。やれ空き巣だの盗難だのペット探しだのと最後にいたってはなんと地霊殿の主様直々の依頼である。橋姫の家に彼女達を住まわせるようにしたのもそいつで、妹をほったらかしにして私の部屋のドアを弁償する羽目になっているのもそいつで、私に迷惑を掛けっぱなしにしているのにも関わらず謝罪のひとつもしようとしない。対策なんてのももっての他のほったらかし妖怪古明地さとり。
 そんなだから私の家にあんな訳の分からない珍客はやってくる。窓も割られる。こうして私は街の片隅で誰かを探す羽目になる。あいつはいつもそんな私を見てニヤニヤと笑っている。
 通りに人の姿は無く閑散としていた。数分前までこの場所は確かに賑わっていた。皆が違う方向に歩き、違う表情をしていた。それが一時。ほんの一時間ほどばかり乱れる時間がある。それが今。
 私は旧都の中心を見あげた。風車がある。どんな建物よりも背の高い風車が、風を受けて回っている。ゆったりと流れ続ける動きに、誰もが時折足を止めて、しばらく見入ってしまう。催眠術をかけられているのかと思うことすらある。これがこの街のシンボルといってもいい。そして、そのふもとに住人の殆どが集まっているのだった。
 今日は週に一度の特別な日だった。

 少し道が違えばそこでは笑ってる奴は沢山いた。実際声は聞こえた。誰かと笑う声。こうしてひとりで聞いていると自分が全く別の場所に立っている気分になる。いっそ静寂に包まれていればどれほどに楽だろうか。下手に聞こえてしまうからこそ孤独の感情はわきあがってくるし、不安感も味わってしまう。
 やめよう。早く村紗の元へ。
 私は歩みを進めた。行き先は村紗のいるだろう詰め所。そこで村紗水蜜は自警団の真似事なんかをやっている。最近始めた事で、彼女にとって義務にも等しい仕事だった。

 到着するなり私は渋い顔で舌打ちした。
 面倒な、とひとりでぼやいた。
 詰め所は空だった。簡単な小屋にポツリと置かれたデスクに座る姿はどこにも無かった。あるのは山のように詰まれた火の消えた煙草だけ。
 私はすぐにその場を離れて耳を澄ませた。街の叫びを聞けというやつだ。
 喧騒や笑い声に混じって爆発にも似た音が聞こえた。耳が張った。私は駆け出そうとした。
 すぐに目の前を誰かが横切っていって、裏路地に入っていった。私は足を止めた。そして待った。村紗はそれから少しして、私の目の前に現れた。
「パルスィ、あいつは!」
「そっちの路地に入っていったわ」
「ありがと!」
 村紗は路地に消えていった。
 彼女が誰かを追いかけるのはいつものことだ。盗人、暴行、嘘吐き。その相手がただひとつに限定はされているけれど。
 私はどうしようかと少しだけ悩んだ。面倒ごとに首を突っ込むのは橋姫らしくない。しかし。困ったことに最近運動不足だ。偶には走りこみでもして腰回りをシェイプアップしてやるのも悪くないかもしれない。不細工な橋姫なんて恰好つかないし。
 やむをえない。
 私はマフラーの裾を背中に回した。右手で頭を押さえた。左手首をぐるりと一回転させた。骨が鳴る音がした。私は裏路地に向かって走リ出した。

 男の逃げた先には街の提灯の明りは届いていなかった。薄暗く、湿気が強く、腐敗臭がした。これでも酒屋街らしく地面は店の排水や生ごみで汚らしかった。踏み入れるのも嫌になる道を走っていた。
 私の十メートル先を村紗が走り、その更に十メートル先を男が走っていた。背格好はおそらく私達よりも少しだけ高い程度でやたらと細く、衣服は布切れのようなものでしかなかった。何をやらかしたのかはわからない。何者なのかは分からない。唯一確実なのは、彼が村紗に追われるようなことをやったってことだけだった。
 片手にバッグを大切そうにに抱えていた。彼は時折こちらに振り返ると唾を吐いてきた。そんなもので村紗水蜜は止まらなかった。
「ついて来るな!」男は叫んだ。「俺に構わないでくれよ!」
「そういうわけにはいかない!」村紗は進路を塞ぐ酒樽を右手に握り締めた錨でなぎ倒した。「それを渡せ!」跳ねて、壊れて、中身がぶちまけられた。少し浴びた。腐った匂いがした。
 道なき道での鬼ごっこ。鬼を追いかけているのは鬼ではない者で、逃げているものこそが鬼だった。おそらく異質だった。逃亡する鬼なんて見たくは無かった。何故こんな事をしてしまったのだろうと今更に自分を悔いた。
 道は入り組み、私達は右往左往させれられた。旧都の中の異次元だった。道は終わらずに続き、逃亡を許しているのか促しているのかも定かではなかった。
 男は突き当たりのT字路で足を止めた。左右を見て、左へ向かおうとした。
 どこかで舌打ちのおとが聞こえた。
 男の行く先に壁があった。緑色をした、本来そんなところにありえないはずの壁。遮るだけの性能しか持っていない。その気になれば突破するのはたやすいボールの塊みたいな壁。しかし、そんなことをするよりももっと単純な選択肢を、男は持っていた。

 男はすばやく身体を回転させて、反対方向に走り出した。
 街の意思は村紗に味方をした。
 先は袋小路。逃げ場は無い。逃亡は終わって、彼は審判を下される。それに気付き、振り返ったときにはもう手遅れだった。
 村紗は肩で息をしながら自分の身長ほどもある錨を支えに立った。私が見た背中がとても大きく見えた。それに比べて、その先で身を縮こまらせる男のなんと矮小なことか。胸は張らず、肩は落ち込んで、足元すらも確かではない。
「観念しろ」村紗はいった。「手に持っているそれを、渡せ」
 男の喉が大きく動いた。「いやだ!」
「それがどんなものか分かっているのか!」
「分かってるさ! こいつは素晴らしいもんだ、俺に力を──自信をくれる、これがあれば俺は他の奴に負けない。今までずっと俺のこと見下してきた奴らにだ! お前に分かるか? 力で全てを証明しなきゃならない鬼なんてものに生まれて、それなのに誰にも敵わない奴の気持ちが! 分かってたまるか! これがなくちゃ俺は戻っちまう……嫌だ。誰からも見下されながら生きていくのはもう……嫌なんだ!」
 村紗は何もいわずに男に近づいた。
 男は手にしたバッグに腕を突っ込み、くじ引きするかのようにかき回した。そしてひとつ、手のひらに収まるほどの大きさの木の板切れを取り出した。あからさまに震えていた。男は言った。
「し、知ってるぜあんたのこと」歯がガチガチと鳴った。「こいつを集めてまわってるらしいがな、どうせあれだ。こうやって表では正義の味方を気取ってて、裏では集めたもの使って、好き放題やってるんだろ? 安心しろ、みんなそうだ。こいつが街に広まってから、そんなやつばっかりだ」
「違う!」
 村紗は一気に詰め寄る。男は木片ごと拳を握り、大きく振りかぶる。村紗はすでに錨を振り上げている。生身の拳と鉄の塊。いかに鬼ともいえど、ぶつかればどうなるかなんて決まりきっている。
 
 倒れた男のM字に開かれた股の間に錨が突き立てられた。片手が異常な方向に曲がっていた。その下の地面に『欠片』が落ちていた。
 村紗はそれを拾った。目線を男に向けたまま、ショートパンツの後ろポケットに仕舞った。振り返って、私を見た。存在に今頃気付いたような表情をした。
「……いたんだ」
「追いかけてきたわ、聞きたいことがあったから」
「後にして、今は忙しい」
「そうみたいね」

 村紗の背後で男が言った。
「随分な怒りっぷりじゃねぇか」半分は言葉になっていなかった。いまにも泡を吹いてしまいそうなほどに不安定だった。それでも生きている腕が村紗の方向に向かっているのだから大したものだ。
「返してくれよ……それがないと──」
「駄目だ」村紗は言葉を踏み潰す。「これをどこで手に入れた? 他の居所はどこだ」
「知らねえよ。──ああ、教えてもいいな。どうせもう落ちてなんかいない」
「拾ったんだな」
「お前もその口だろ」
「違う。これは本来私達のものだ。この力の本来の使い方も知っている。あり方も知っている。少なくともこれは、お前みたいな奴が持ってていいものじゃない」
 村紗は錨を握った。ゆっくりと、男の股座に向かって傾けていった。男の表情がみるみる青くなっていった。刃の部分が触れるか触れないかというところで、村紗は錨を一度止めて、言った。
「さあ言え! 他の欠片の在り処はどこだ!」
 何も言わなかった。錨がまた傾く。静かに触れる。男は叫んだ。
「知らない! 知ってたら奪いに行ってるさ! それさえあれば誰にも負けないんだ。誰にも! そうだ、姐さんにだって──」
 身体が錨から離れた。蹴られただけ。蹴り飛ばされて、転がって、うずくまって、男は動かなくなった。どこかで泣き声が聞こえた気がするが絶対に気のせいだ。
 鬼って種族が、泣くはずがない。

 しばらくそんな泣き声を聞いていた。聞きたくは無かったが聞こえてしまっていた。やがて、男は本当に動かなくなった。
「死んだの?」
「違うよ。気を失っただけ。流石にそこまで弱くない」
「随分と弱気な奴だったけど──」
「そうだね」
「……いったい何したのよ、あんたの怒りっぷりったらなかったわよ。鬼気迫るって洒落でもないけど、そんな感じだった」
 村紗は自分の足元をじっと見て短く息を吐き、足元を均した。
「殺したんだ」
「殺した? 誰を」
「こいつの友達を。……いや、正確には死んでない。生きてる。でもね、まともな生活が出来なくなるほどの怪我を負わされた」
「それをこいつがやったって?」動かなくなった男を見る。とても人一人を、それも鬼に大怪我を負わせられるようには見えない。だが。
「そうだよ」と、村紗は言う。
「飛倉の力を手に入れて、人が変わったようになったという話を聞いた。元々こいつは、さっきも言ってた通り、暴力に訴える奴ではなかったらしいし、友人に大怪我を追わせるようなやつじゃなかった。聞いた話だけどね。信じられる? そんな奴が、力を手に入れた途端にこのザマだよ」

 早くこの場を離れたかった。この男の姿を瞳に焼き付けることなんてしたくなかった。なのに、村紗は突っ立ったままで動かない。やがて、男を見下ろしながら呟いた。
「パルスィ」
 私に向けられたものだと気付くのに少し時間が掛かった。「なに」
「この男がもし欠片を手に入れなかったら、どうなってたと思う?」
 単純な質問だった。私は即答した。「なにもないわ」
「そうだ」村紗は肩を震わせた。「何も無いんだよ……なにもね」地面に突き刺さった錨を抜いて、「こんな風に自分を追い詰めてしまうことも無かったかもしれない。こいつは自分が弱いからこの街で生きにくいと言った。でも、力を手に入れなければそれなりになんとかしたのかも知れなかった。妥協だけどね。こんな風に泣いてるよりはずっとまともな未来だと思わない?」
「もしも、の話しね。嫌いだわ」
「そうかな、私はたまに考えるよ。もしもの話」
「もしも妖怪になってなかったら、とか?」
 村紗は俯いたままで首を左右に振った。笑っているようなのに背中がずっと小さく見えていた。
「それだけは無いかな」
 村紗水蜜という妖怪は、いつも上を見ていた。片手を空に向かって伸ばして、目を細める。

「飛倉の力がこいつに可能性を与えた」と、村紗は言った。「力を与えて、可能性を与えた。急にそんなものが手に入ったらそれを振るってみたい。試してみたい。利用してみたい。そう思うのは経験があるから分かるんだ。私も、あんたもだと思う。でもね」村紗は『欠片』を取り出して、血が滲みそうなくらいに握った。
「これは──この力は全てを救おうとした人の力だ。私を救ってくれた力なんだよ」そして吐き捨てるように言った。
「誰かを狂わせる力じゃない」 
 飛倉。村紗水蜜と共に地獄に堕ちてきた力。彼女はそれを集めている。本来はひとつだった。その名の通りの倉の形状。どうやって力を引き出すのか想像は出来ない。だから不謹慎だけれども今の『欠片』の状態のほうが分かりやすい。
 使用方法。握る。以上。
 単純でやはり原理不明な作用だ。触れれば力が手に入る。岩を砕き、憎たらしい奴を殴り飛ばせる。誰かを守れるし、無理矢理に他者を征服するのにも使える。
 この力は狂わせる力じゃない。
 村紗の言葉は間違っていない。が、それは知っている者の考えだ。もたらされる力自体に正しいも間違いも無い。そこにあるのは膨大すぎて手に余る『力』それだけ。そもそも力って言葉自体が酷く曖昧で、多分『好き』って言葉くらいにいろんな意味を持っている。十人十色。村紗が使うのだって正しいなんていい切れない。

 私達は通りに出た。普通に歩いていく名も知らない誰かの姿があった。提灯と鬼火の明りが戻り、笑い声と怒鳴り声とが満ちていた。皆、笑っていた。これが旧都の本来の形だ。その筈だった。
 だがどうやったって、誰かが笑えばその陰で誰かが泣いている。
 明りの届かない場所で彼は今も泣いているのだろうか。声は遠く、どんなに手を伸ばしても届かず、望んだ場所に向かうはずの足は底なし沼に囚われて。そんな姿を想像した。わき腹の辺りが鈍く痛んだ。仕方の無いことだ。それが私の経験からくる現実論なのだから。そう考えると少しばかり楽になった。
「これからどうするの」と、私は無意識にわき腹を抱えていった。
「詰め所に戻るよ。今日の仕事はまだ残ってる」
「忙しそうね、止めたらいいのに」
「辛くは無いよ」村紗の言葉には無理があった。
「最近」私は言った。「家に帰ってきてないわね」
「しなきゃいけないことが多すぎるんだよ。猫の手も借りたいほどに……ああ、鼠でもいい。回収してもしきれない、終わりが見えないしゆっくり眠れもしない。だけど、辛くは無い。これが私の決めたことで──」そこで村紗はいきなり私を見た。「帰ってきて欲しいの?」
「清々するわ。一生帰ってこなくていい。あの狭苦しい詰め所で一生を過ごすといいわ」
「そういうわけにはいかないよ」村紗はパイプを取り出した。煙草を詰めて火を点ける。暫く待つと棘のある臭いと途切れることのない煙が立ち昇る。思い切り吸い込んで、煙を吐いた。煙は地獄の天井に向かって昇っていった。「私達はいずれこの街を出て行く。出て行って、聖を救い出しに行く」
「気の遠くなる話だわ、今までで全体のどれくらいが集まったかも分からないんでしょう?」
「ああ、分からないね。半分集まったかもしれないしもう八分目まで集まってるかもしれない。──残りは粉々になっているかもしれない」村紗は煙の行く先を見た。「でも、いつかは、絶対に」

 村紗の言葉には確かな意思と頑強さがあった。彼女は妖怪の癖に願いがあった。私は願いを叶えて妖怪になったはずだった。
 何が違う? と考える。人間に生まれて妖怪になった私達がどうしてここまで違うのか。村紗水蜜はどうしてこうも上を向いていられるのか。 
 簡単だ。
 どんなに深く沈んでも見上げた先に輝き続ける光を知っている。それに向かって突き進める頑丈な動力を持っている。 
 それが村紗水蜜という人間兼妖怪。それだけだ。

「たまには帰ってきなさい。一輪が心配してるわ」
「そりゃ大変だ。今日は帰るよ」

 私は家に戻った。




 3

 さあ水橋パルスィ思い出して見るんだ。お前はどうして村紗のやつを探しに行った? 今朝何があった? 昨晩の夕食は何を食べた?
 そうかわかった、お前は痴呆症に掛かってしまったのか。いいや、馬鹿を言ってはいけない。私はそれなりに正常な記憶力を持っている。大事な事を簡単に忘れてしまう筈が無いのであって、それならば窓ガラスの一枚や二枚は些細な事なのだ。
 しかしながら私の家の窓に風を凌いでくれるものがなくなってしまったのは紛れも無い事実だった。
 橋姫がそれに対してするべきことは? 今からもう一度村紗のところにおめおめと戻って話をする? 「忘れてたわ、聞きたいことがあったのよー」違うだろう。妬んでしまえばいいのだ。「巡る風が妬ましい」たとえどんなに寒さに震えようとも。
  
 歩幅を狭くして歩いていると、気がつけば家が見えてきていた。橋の傍に建つ木造二階建て。私の居場所は二階のみ。入り口は一応別になっている。それでも、村紗達が橋姫の家に一緒に住んでいることに変わりはない。
 私は家を通り過ぎた。『橋』の上に踏み込んだ瞬間足音が変わる。古ぼけてはいるが旧都の岩と砂しかない地面よりはずっと綺麗に音が鳴る。
 なんだかんだいっても街っていうのは建物が多くて風を遮るものも多い。例えるならば詰まった風。色々に阻まれて、いろんな臭いが混じる。それに比べてこの場所は何も無い。地上から吹いた風が縦穴を通り、冷やされ、街へ向かう。
 一番乗りの風だ。
 これが橋姫の特権というやつだった。
 カツン、カツンと靴を鳴らす。風と共に音色はどこかに消えていく。誰も通ることのない役立たずの橋はこれくらいにしか役目が無い。私の管理するべきものは役立たず。存在する意味も気をかけてやる意義もない。
「……あら」
 が、どうやら今日は何もかもが特別らしかった。

 旧都よりもずっと暗く、面倒くさそうに鬼火が橋を照らしている。遥か先なんて見えるわけが無い。縦穴に続くはずの橋は途中で暗闇の中に消えていく。その直前に、見知った姿があった。
「ヤマメじゃない」
 くすんだ木の橋と同じ色をした服。出産間近の妊婦みたいにお腹の膨らむスカート。私より明るい金の髪。黒谷ヤマメが橋の隅で欄干に背を預け、膝を抱えていた。
 わざとらしく足音を響かせ、ヤマメの傍に近づいていく。動かなかった。こいつはいつだって誰かの中にいた。それがこんな広い場所で、独り。
「気色が悪いわ。明日は雪? みぞれ? それとも雷かしら」
 ヤマメはヤマメのものでは無い声でいった。「……雨かもね」
 声は薄く、低かった。私はその正面に立ち、足元を見るように見下ろした。ヤマメは顔をあげなかった。表情は見えない。こいつが俯いている所を初めてみた気がした。本当に気色が悪かった。

 ──みん、──なぁ!

 小さな音が聞こえているのに気付いた。おそらく発信源はヤマメのお腹の辺り。耳を叩きながら聞いているようなノイズが混じっている。お腹とはいってもまさか胎児が呼びかけているわけでもあるまい。声は確かに幼く、古明地こいしの心臓のように元気に溢れていたが。
「何隠してんのよ」私はいった。
「……ラジオだよ」
「あぁ……そう」
 笑ったように見えた。ヤマメは腕を開く。その中には茶色の箱が埋まっていた。塞がれていた音がいきなり大きくなった。

 ──フランドール。スカーレットのラジオ『ナイトメアプリンセス』! 始まるよー!

 軽快な音楽が彼女の声に色を添えた。フランドールという、箱の向こうの少女が何かを話した。そのたびに街のほうから悲鳴にも似た歓声がこんな場所にまで届く。広場に集まった奴らはみんな、これが目的だった。
 私は奴らの集まっている方向を見た。
「近所迷惑な行事よねほんと。街中に聞こえるほどの音量なんてどうやって出してるんだか」
「さあね。でも、旧都らしくていいと思うよ、私は」
「鬼らしいってこと? 冗談じゃない。少なくとも、私はあの中には入らないわよ」
「馬鹿みたいに騒ぐのを本気でやる。妥協は一切なしさ。それが鬼ってもんでしょ?」
「妥協しないって所だけ聞いたことにするわ」
「パルスィの鬼への偏見って極端だよね。どんな鬼の姿を想像してるかわからないけどさ、あれがそうだよ。酒飲んで、喧嘩して、笑い合って──」ヤマメが薄く笑った。「アレが、鬼の姿だよ」
 私は言った。
「少なくとも、私がなりたかった鬼の姿は違うわ」 
 
 ラジオからの声に、フランドールのものとは違う誰かが混ざった。彼女の声が飴玉だとすればその声は練り飴だった。べっとりと張り付くような声。練れば食べやすくはなるがそんな根気を持つことが難しい。そんな声だ。この街にもそんな声の持ち主がいたような気がしたけれども。

 ──妹様、早くお便りを読まないと放送が終わってしまうわ。
 ──おおっといけねぇ。……じゃあ届いたお便りを紹介しまーっす! きょうのお悩み相談はぁ♪
 ──そんなに猛烈に箱を掻き回したら葉書がバラバラになって……あ~あ
 ──oh! お便りの半分が壊滅した! 
 ──はぁ……私が選ぶわ。
 ──待ってよパチュリー! 私の生きる楽しみを奪うつもりなの? 
 ──それの台詞をレミィの目の前で言ってあげなさい。きっと感涙で息も出来なくて窒息死するから。
 ──そうなったら私が当主だねぇ面倒だなぁ……っと。はい、ペンネーム『片手の中の我が人生』さん。 
 
「……この子、すごいよね」
 ラジオを中途半端に遮り、ヤマメが言う。後ろでは幸せになるためにはどうしたらいいんでしょうなんてくだらない質問が読み上げられ、三秒で答えを終えられていた。
「地上から流れてくるのは声だけで、本当は笑っているのか怒っているのかなんて分からないはずなのに、確かに楽しんでるって分かる。この子ね、家の外をほとんど知らないんだって。ずぅっと家の中で監禁生活みたいなことを強いられていて、誰とも会うことが無かったって。それでもこうして楽しそうにしていられる」
「本当かどうかなんて分からないわ」
「最初から疑って掛かってたら何も楽しめないし、始まりもしないじゃないか。確かに、こいしがラジオを地上から持ってきたときは正直焦ったよ。すぐに街の皆がこれに夢中になってた。自分がすごく惨めに思えてくるほどに、この子はあっという間に旧都の人気者になった。……声だけでね」
「あんたはそれで落ち込んで、こんな辺鄙な場所で独りでラジオ鑑賞?」
「そんなところ」あっさりと、ヤマメは認めた。
「これを持ち込んだのはこいしよ。あんたはあの子に怒ってもいいと思うわ。今のその感情の名前、教えてあげましょうか」
「嫉妬なんてするはずがないさ。旧都の連中は楽しそうにはしゃいでる。それだけが私の望みなんだから。もちろんその中心に居たいって気持ちはあるよ。人気者だってもてはやされるのは悪くないし、正直、誇りに思ってたからね。でも──」
 ヤマメの目線が私を越えて、遥か向こうを見た。歓声がどうしようもないほどに盛り上がっていた。踊り狂い、殴りあう姿を遠めに見たことがあった。彼女の声には麻薬が含まれている。そんなことを、誰かが言っていた。
「この声を聞いていると、勝ち目なんてないって思えてくる」
 ラジオからのフランドールの声は止まらない。確かに無邪気さを交えた、飴玉を思わせる声だと思える。甘い物が嫌いな奴なんてそうそういない。
「自覚症状がないってのは一番駄目なパターンね。……らしくないんじゃない?」
「そうかなぁ」
「そうよ。少なくとも、橋の上で黄昏に浸りながらラジオを聴くなんて状況、私のほうがよっぽど相応しいわ」
「最近パルスィがひとりで居る姿を見た覚えが無いんだけど?」ヤマメは意地悪く笑う。
「それは、まあ、ほら」私は指先で頬を叩いたり、こめかみを突付いてみたりした。「忙しいのよ、いろいろと」
「村紗たちと仲良くやってるんだ」
 私は肩を落した。「あいつらのほうが数倍忙しいわ」

 ──おしえてパチュリー先生のコーナー!
 ──……は前回で終了したので今回からはフランちゃんの淑女への道よ。これやらないとレミィが放送を強制的に終了させるって。
 ──さあ、今日の悩める子羊ちゃんは……
 ──あー、レミィ、貴方の妹はじゅうぶんにりっぱよー。もうしんぱいいらないわー。
 ──ほらほら、あんな奴なんて無視してパチュリー。相談がいっぱいきてるんだから、きちんと答えてあげないと。
 ──……所詮は自分で調べようともしない怠け者ばかりね。でも仕方が無いから一人にだけ慈悲を与えてやるわ。
 ──わぁお、やっさしー! じゃあ、ペンネーム『アイちゃん』さんから。ええと……こんばんわフランちゃん。パチュリーさん。相談があってお便りを書きました。早速ですが、私には数百年来の好きな人がいます。もっと彼女のことを知りたいのです。どうすればいいのでしょうか。
 ──……知るか。勝手に結婚でもすれば?
 ──パチュリー!
 ──はいはいわかってるわ、じゃあ。どんな理由であれ知りたいって気持ちを持つのは大事だわよ。そんな貴方に特別にアドバイスをあげる。……ほら、小悪魔、検索よ。『好意』『進展』『関係』
 ──相変わらず小悪魔まかせなんだね。
 ──自分の所有物の力は私の力よ。ああ、結果が出た? なに? 多すぎるって? なら追加よ。『呪い』
 ──いきなり物騒なのきた!
 ──絞れた? おまたせ。他者を知る一番の方法が見つかったわ。
 ──さあ! 気になる検索結果はCMのあとすぐ! パチュリーの捻じ曲がった根性はどんなアドバイスを繰り出すのか。おったのしみに~

「なにこれ」軽快な音楽が流れる。私は薄ら笑いしか浮かべられなかった。「……パチュリーってやつ、酷い性格してるわね」
「これで人気があるんだから不思議なもんだよ。街の連中の二割くらいは彼女目当てで聞いてるんじゃないかな」
「そいつらも性格に難ありに違いないわ」
 私はヤマメの横に同じようにして座った。透き通った風が肌に当たる面積が狭くなった。変な温度が混ざる。おまけにヤマメが風除けになってしまっている。身体を冷やしてくれる風は、その仕事をこなせない。
「ほら、あんたはさっさとどっか行きなさいよ。ここは私の管轄、いわば管理人さんね。管理人が出てけっていったら素直に出て行くものよ」
 追い払うようにして手を振った。ヤマメは動かなかった。
「嫌だね。私もこの場所が気に入った。暫くここにいさせてもらうよ。パルスィこそ、家がすぐそこなんだから帰ってせいぜい少ない自分の時間を満喫したらいいんじゃないの?」
「ここがそれをする場所だった筈なんだけどね」
 私はラジオのボリュームをあげようと手を伸ばした。ヤマメはすかさずその手をかわす。ラジオを遠ざけて、にへらと笑う。
「どうしたの? こんな放送は橋姫には似合わないんじゃなかった?」
 私は少しだけ、言葉を捜した。見つからなかった。
「……実は私、キチンと聞いたこと無かったのよ。さとりの奴が『聞いてみなさい、よさが分かります』って五月蝿くてしょうがない。ま、どうせ子供のやってるものだから大したことないんでしょうけどね。……なんてったって、こいしの友達だし」
「それなら仕方が無い」

 ヤマメは子供っぽく笑って、私達の間にラジオを置いた。聞こえる声はずっとクリアになる。子供の声。濁りのない飴玉のようだと改めて思う。
 フランドールをこいしは大事な友達だと言っていた。偶々訪れた屋敷で出会った、どこか誰かの妹なんだとも。
「……こいしの友達、なのよね」
 ぼんやりと、言ってみた。自分でも信じられないって感情を抑えられなかった。箱の向こうにこいしの友達がいる。無意識と付き合ってやれる相手がいるということ。あの子がちゃんと、友達をつくっているということ。
 ふと顔をあげると、ヤマメの目が輝きを持って、私を見ていた。
「やっぱり気になっちゃったりする?」
「なんで私があの子の友達の心配なんてしなきゃならないよ。こいしが作った友達だもの。こいしの勝手にすればいいわ」
 ヤマメは演技ががかった動作で腕を左右に動かした。
「私の大事なこいしちゃんに変な影響与えないかしら! まぁ不安だわ! 不安不安! いっそあの子をストーキングして地上まで行ってご家族に挨拶したいっ! それで言ってやるのよ、『お宅のフランちゃんはどういった教育をなさっているのかしら!?』……ってね」
 私はくすりとだけ笑ってやった。「なにそれ、馬鹿じゃないの?」
 ヤマメは腕を落した。肩が上下に動き、それに合わせて瞼を閉じた。
「……そうだね、どっちかっていうと、これはさとりの方だった」
 今度は普通に笑ってやった。

 ラジオは一時間ほどで終わった。最後に上手なんだか下手なんだか分からない歌が流れる。伴奏も聴き続けていると気が狂ってきそうな音階ばかりで、しかしそれが不思議と精神を落ち着かせた。催眠術のあとに目の前で手を叩かれたときの気分とはこういうものなのだろうかと思った。
 ヤマメは立ち上がって、ラジオを片手に旧都の方向へ足を引きずるようにして歩き出した。私は座ったままの格好で言った。
「あんた、本当に大丈夫なんでしょうね」
「心配してくれるの? 嬉しいなぁ。でも、大丈夫。私は大丈夫だよパルスィ。なんたって黒谷ヤマメはこの街のアイドルだからね」
「それが危ないってのよ。そんな感情、溜め込むとろくなことにならないわ」
「忠告はありがたく。でも、大丈夫。そもそもさ、パルスィは自分の能力について──いんや、嫉妬って感情について重要に考えすぎ」
「いきなり存在意義を否定されるとは思っても見なかった。いいわ、帰りなさい。二度と顔も見たくない」
 私は興味ないわ、といった素振りを見せてやった。ヤマメはこちらを見もせずに続けた。
「嫉妬なんてね、日常茶飯事さ。年中ビンビン感じてるよ。人気者ともなれば尚更ね。いちいち気にしていれらないよ」背筋がまっすぐだった。背伸びにも見えるほどに。「たとえば、そう。私がさとりと……こいしでもいいかな。そのどちらかと一線を越えて仲良くなった。さぁ、パルスィならどうする?」
「ぶち殺してやるわ」一秒と待たせることは無かった。
「そうさ」ヤマメは歩き出した。ラジオを腰に抱えて、真っ直ぐに。まとめられた金色の髪が細かく揺れる。何か隠しているのかと聞きたくなるスカートは型でも入っているのか全く動かない。ヤマメは左手を握ったり開いたりした。
「それが普通」
 そのまま姿が見えなくなるまで、私はずっと、その背中を見ていた。

 風が吹いた。街の暖かさを浴びる前の冷たくて新しい風だった。季節という概念の薄い地底では、これだけが時間の流れを感じさせてくれる。
 私は目を閉じて、思い切り息を吸った。身体が冷却され、思考が一度綺麗になる。目を開いた。黄色のマフラーが目の前を漂っていた。もう冬だったか。
「……無理、してるように見えた。……私のせい、だよね」
 風に乗って、声がした
「違う」と、私は返した。
 そうして、呆然としたままで言った。「でも、そうかもね。大丈夫よ、心配しなくたって」
 首を上に向ける。欄干から伸びた影が私の顔を覆った。
「……いつ、帰ってたの?」
「フランが当主になったら遊ぶ時間が減るのかな」
「とりあえず、足をぶらぶらさせるの止めなさい。ウざったくてしょうがないわ」
「はーい」
 こいしは欄干から飛び降りて、帽子を押さえながら私の目の前に着地した。肩からさがった鞄が腰を打ちつける。
「ただいま」
「おかえり、また何かくすねてきたの?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。これはみんな落ちてたんだって」
「ケーキやらラジオが落ちてたってのを信じろって言うのは無理な話よね」
「いいもん、信じなくたって。せっかくのロールケーキ、分けてあげないから」
「いらないわよ。甘い物嫌いだもの」
「あっそ。で、どうしようか、お姉ちゃんのところまで行く? それともそこの家でお先にいただいちゃう?」
 こいしは嬉しそうに笑った。選択肢を作る権限はもとより私にはないということだ。どうするか、と私は考える。
 帽子の影からこいしのまん丸な瞳が覗き込んでくる。直視しづらいのだが、無意識に見返してしまう。みっつも目が無くとも心の全部を覗かれている気分になる。
「……馬に蹴られてなんとやら、って言葉、知ってる?」私はこいしの帽子を取り上げて、汚れを払った。砂をまるごと頭から被ってきたかのように手触りが悪かった。逆を言えば、それだけ使い込まれている。もう捨ててしまったほうがいい程度には。
 こいしは髪を撫でてから、腰に両手を当てて言った。
「知ってるよ、私の行く手を阻むもの全てを蹴飛ばしていけってことでしょ?」
「今日ね、村紗のやつが家に帰ってくるんですって」
「へえ、なんだか久しぶりな気がする」
「あんたに言われたら相当なものね」
 考えてみれば、最近そうすることが多くなった気がする。村紗水蜜と雲居一輪が私の家の一角を占拠してから。さとりの奴はここまで計算した上で無理矢理に彼女らを私に押し付けたのだろうか。
 何のために? 知らない。想像したってなにが変わるわけでもない。ただ、いまがここにある。
「だから、野暮なことするくらいなら地獄の底に落ちたほうがマシって意味」
 こいしは口をポカンと開けた。「わぁお、橋姫の言葉とは思えない」
 私は言った。
「あんたのお姉ちゃんの言葉だもの」
 こいしは首を傾げた。
 しかし「ま、いっか」とひとりで納得すると、口元を広げて、瞳を輝かせた。
「じゃあさ、今日こそ徹夜で七並べやろうよ。いつも三回くらいで終わっちゃうから、今日こそは」
「そう言って、いつも真っ先に寝てるのは誰だった?」
「しーらない」
 私達は地獄の底へ向かって歩き始めた。
 その日の戦績は5戦やって私の全負け。いつもいつも地霊殿に住む連中はグルになって私を陥れようとしてくる。


 4

 数日が経った。その間は特に変わったことはなくて平和そのものだった。変わらないという意味では、間違いなく平和だった。
 私は珍しく平和に目を覚ました。ぼんやりと天井を見て、此処が自分の家だと確信するところから一日が始まる。今日は確かに自分の家の天井だった。無意識に右手を天井に伸ばす。そこだけで"伸び"するように。そして、寝返りを打つと同時に枕を抱き寄せて、思い切り抱いた。顔を埋めた。抉るように少し動かした。思い切り息を吸って、そこで意識が完全に目覚めた。
 
 ノックの音が修繕したばかりのドアの向こうから聞こえる。私は時計を見た。昼前の一番どうでもいい時間だった。こんな時間に誰なのだろう。そんなことを考えながら、のっそりとベットから出た。
「今、着替えるから」
 ノックが止まった。私は手早く寝巻き代わりのじんべえを脱いで、適当に手を伸ばした赤色のシャツといつものスカートだけを身に着けた。腰巻と上着は椅子に乗っかったままだ。
 私はそれらを後回しにして、その間静かになっていたドアを開けた。ノブは何の抵抗も無く回った。
「はいはい、どちら様……」
 開いたドアの正面には誰もいなかった。怪訝に思い、外を覗き込んだ。私の部屋の先には短い廊下があって、その先にそのまま外に出られる階段がある。床をなぞるようにして見たが、誰かが通った形跡は見つけられなかった。私は身体を部屋の中に戻して、ドアを閉めた。
 もう一度開けた。変わらず誰もいない。
 そこで、やっと目処がたった。
 私の部屋に入ってくる奴は三通りある。ドアをノックしないで入ってくる奴。ノックしてから入ってくる奴。ドアを蹴飛ばして吹き飛ばしていく奴。この三つだ。こいつは──。

 私は真上を見上げた。暗い天井に、キスメが張り付くようにして鎮座していた。両側に束ねられた髪型が釣り針のようにも見えた。
「珍しいじゃないのあんたが一人だなんて。……というか、初めて見た気がするわ。ヤマメは? 一緒じゃないの?」
 キスメは何も言わず、ふらふらと漂うようにして飛びながら、私の横を通って部屋の中に入ってきた。
「あんたは──」私は溜息交じりに後ろ手にドアを閉めた。キスメの乗った桶がゆっくりと、着陸した。「……ほんと、口下手も大概にしなさいよ? ひとの家にあがりこんでなにも言わないってのはちょっと酷いんじゃない?」
 いささか怒りっぽくなってしまったかと後悔した。キスメの身体がますます小さく見える。四六時中桶に入っているからだけではない。おそらく、自信の無さそうな行動の全てが彼女をそう見せている。
 まことに申し訳ないことに気付いた。
 私は、こいつの声を思い出せない。

 キスメが桶の中を漁った。そうして出てきたのは手の平ほどの手帳と鉛筆。いそいそと何かを書き連ねた。いつものことだった。こうしていちいち会話のリズムが崩されるものだから、キスメとのやりとりは面倒くさい。
 キスメはこちらに振り向くと、手帳の影に隠れるようにして、それを見せた。

『お願いしたいことがあるの』

 そう書かれている。少しだけ自分の目が反応したのが分かった。身を屈めて、聞いた。
「……お願い?」
 キスメは小さく頷く。
「あんたが? 私に?」
 もう一度、頷く。
 こいしが続きを読み始めた。
「ヤマメちゃんの姿が最近見えない。家に行っても返事がない。上がりこんでももぬけの空。探すのを手伝って。うぅん……こいつは、事件の気配だねっ……痛ッ」
 こいしは両手で頭を押さえて、自分を小突いた相手を──私をにらみつけた。「痛いじゃないのさ!」
「ヤマメお姉ちゃんはきっと今頃暗い倉庫に縛り付けられて酷い目に遭ってたりどこかでお腹痛くてしゃがみこんでたり眠りすぎちゃって川に流されてどんぶらこどんぶらこしてたり……大変だ、事件だ! さあ解決しよう!」
「知るか!」
「ハートフェルトファンシーの名に懸けて!」
「聞きなさいって!」
「じゃあハードボイルドに解決! さあ!」
「それはまぁ悪くな……じゃなくて!」すばやくこいしの頭に手を伸ばして捕まえた。そのままギリギリと締め上げる。こいしの両手が暴れまわって、滅茶苦茶に振り回されて、私の頬を叩いた。
「いてっ、止めなさいって! なに勝手に話し進めてるの!」
「いいじゃん、困ってるんだから力貸してあげてもッ」
 手を離した。こいしは呻きながら千鳥足で後ずさり、再び頭を抱える。私は鼻で笑ってやった。放っておいたらどこまで話が飛躍するかわかったものじゃない。
「……ったく、あんたは少し黙ってなさい。で、ヤマメと最近会ってないって?」私はキスメに振り向く。キスメは無言で頷いた。「それってそんな大げさに騒ぐようなこと? あいつにだってプライベートってものはあるでしょうし、偶には一人になりたい時だってあるわよ」
 キスメはまた書いた。『でも、こんなに長く姿を見ないのは初めてで……』
「それはあんたがヤマメに依存しすぎだからじゃない? あんたらいっつも一緒じゃないの。少なくとも、ヤマメがあんたと一緒じゃないのは覚えがあるけど、あんたがヤマメと一緒じゃない時を見た覚えが無いわ」
『それは、分かってるけど』
「私の想像を言うわよ。ヤマメは急に一人になりたくなった。いつも回りに誰かがいた奴だもの。そんな時があったって不思議じゃないわ。そして、偶然誰とも出会っていない。そもそもキスメ。あんた他の奴にこの事話したの? 話せてないんでしょ。それなら誰か姿を見ている奴だっていてもおかしくないわ。つまりねキスメ、私がなにをいいたいかって言うと──」
 私はキスメに言葉を突きつけた。
「ガッテン任せときな!」
「だぁァァ!」

 床を踏み抜ける自信があった。こいしの口を縫い付けてやりたい衝動をなんとか押さえ込み、一度咳払いしてから、再度言い直す。
「ともかく、私に力を借りようってのがそもそもの間違いってこと。あんたは相談する相手を間違ってる。いい? 橋姫ってのは──」そこで一度息を切って、声の調子を目一杯落した。眉間をなぞりながら、一言ずつを区切りながら、私は言った。

「常に嫉妬に狂い、全てを拒絶する……孤高の妖怪よ。覚えておきなさい」

 突如として沈黙が流れた。
 キスメは何も言わなかった。こいしすらも言葉を繋いでくれなかった。しばらくを時が止まったような静寂が支配する。
 破ったのは私の咳払いだった。
「……そういうことだから。探すなりなんなりはあんた一人でやるか、この子でも連れて行きなさい。姐さんに相談するのが一番早いだろうけど」
 ペンが走る。『表に「どんな相談もハートフェルトファンシーに解決します」って看板あったんだけど』
「あれはこいつが勝手に……ってこいし! あんたまた勝手に看板かけたわね!」
「だってあれ、表札だし。必要だし?」
「いいから、いらないから!」私は外を指差す。「外してきなさい!」
「ほーい」
 こいしは渋々なんだか軽いんだか分からない足取りで階段を下りていった。

 また、いきなり静かになった。キスメはどこかに行く気配を見せなかった。無理矢理に追い出すこともきっと可能だった。しかし、どうにもキスメという奴はやりにくい。か弱すぎて何をやっても自分が悪者のような気分になる。
 私は首を回してみたり、部屋の中を歩き回ったりしてから、ゆっくりと言った。
「ヤマメは──」
「外してきたよ!」ドアが蹴り開けられる。看板を抱えたこいしが入ってきて、部屋の隅に立てかけた。私は言葉を飲み込んだ。
「……ぁ、あぁ、早かったじゃない」
「外して来いって言われたから外したんだよ? それで、どうするの?」
「どうするって言ったって、さっきから言ってるじゃないの。あんたらで勝手にやるといいわ」
「えー、でもぉ、ほんとうはぁ?」
「変な風に聞いても無駄よ、むだ。そもそも私が一緒に行ったところでなにが出来るわけでもないじゃないの、時間も無限じゃないのよ」
「それならこんなことしてる場合じゃないね! 早速行こう!」
 こいしは私とキスメの手を引っ張り、ドアへ向かおうとした。ふたり分を引き連れるのに十分すぎる力。こんなものを協力の意思の無い他人に振るのならば、己一人に割いたほうが数段効率はよくなるだろう。でも、それでもこいつは、私を引きずっていこうとしていた。
 こいしの足はいつまでも先に進まなかった。もちろん私が動かないからだ。腕を振り払って、私は目を閉じ、溜息を吐いた。
「こいし、あんたはほんと……」

 勘弁してよ。
 言おうとして、ゆっくりと目を開けた。
「ほんと……」
 そこまでだった。
 言葉が詰まり、息まで詰まった。こいしの口は堅く結ばれていた。第三の目も変わらず閉じている。だから、こいしの瞳はそれらの分まで見開かれている。
 私を見ていた。
 何がいいたいか、なんて聞けなかった。聞くまでも無く、分かりきっている。要は古明地こいしっていうのはひどく単純なのだ。
 誰かの為に動くこと。それは誰にでも当たり前のことなんだって、当たり前のように信じている。
 子供よりも単純な思想だ。
 でも、彼女は無意識を見た。ならばそれは本質的に、誰もが無意識に願っていることなのだろうか。例外なく、全てのものが。
 ……わかるわけがない。自分の無意識に向き合うなんて、怖くてやってられない。全裸で生活しているようなものだ。
 でも、だからこそだろうと、自分で勝手に結論付けた。

 視線をそらし、目を閉じる。額を三度叩き、こいしの前で何度目かになるかも分からない溜息。いつもそうだった。いつもいつも、私は古明地こいしに勝てないのだった。
「……ヤマメのいそうな場所、片っ端からあたってみましょうか」

 目線を戻す。開いた視界の中でこいしの表情が輝いていた。きっと私は、この表情を壊したくない。

 ──ほんと、こいしにはとびきり甘いんですね。

 ふいに、声が脳裏を歩いていった。ゆっくりとして、粘つくような声。私は心のどこかでそれを笑った。

 ──わかってる。橋姫らしくないわね、私。
 ──ええ、でも、貴方らしいと思いますよ。
 ──あぁ、そう。勝手にそう思ってるといいわ、さとり。

「あいつの行きそうな所のあてはあるのよね。数が多いことなんてわかってるわ」言いながら、上着を羽織って腰巻を巻いた。「二手に分かれましょうか。こいし、キスメと一緒にいってやりなさい。私は一人で行くから」マフラーを巻いて、端を背中に垂らした。
「そんなこといって、サボってたら拳骨だよ?」
「信じないならそれでもいいわ。勝手にしなさい」
 髪を右手で押さえて、手首を回す。こいしは帽子を深く被り直して、いった。
「信じるよ」
 期待を向けられるのは橋姫らしくない。こうして誰かの為に動くなんて以ての外。
 だから、今回だけだ。

 部屋を出て、階段を下りて、外へ。
 旧都の街並みが、とんでもなく広く見えた。





 5

 ヤマメの行き着けの団子屋である『橘』の店主は店で出す団子よりも柔らかそうな体格で、笑みを浮かべるたびに頬の肉が盛り上がる、そんな男だった。
 私とこいしとキスメが二手に分かれて、私が数件無駄足を踏んだ後だった。ここまでで何も得られるものはなかった。黒谷ヤマメという存在がこの街のなんであるかを再確認しただけだった。姿を見せないことを心配している者がいた。暫く見ていないねと、あっけらかんと言う奴もいた。が、すぐに神妙な顔付きになった。心配しない者は一人もいなかった。あいつは確かに、この街に必要な存在だった。わかったのはそれだけだった。

 店を訪ねたときには客は腰が曲がった老夫婦だけで、旧都の一番の大通りに面しているはずの店先は多くの人に振り向かれることなく、粛々としていた。彼女が──ヤマメがここに座ると人が集まってくる。私はそんな光景を何度か見たことがある。そういうときには此処の店主は人間でいうと三十ほど若く、三十キロほど痩せて見えていたのだけれど。

 私が話を聞きたいというと、彼は一度眉を寄せてから、店の軒先の長椅子に座った。私が向かいに座ると、頬を撫で、下唇をしきりに噛みながら話し始めた。体格に似合わない、どこか角ばったような声だった。
「確かにヤマメちゃんはよくうちに来てくれていたけれど、そうだね、確かに最近姿を見ていなかったかもしれない。あの子に何かあったのかい?」
「まだなにも起きてないわ。フランドール・スカーレットのラジオは知ってるでしょう?」
 彼は重く頷いた。「ああ、この街であの声を知らない奴なんていないさね。何を隠そう私も彼女のふぁんってやつでね。娘達にたしなめられてるんだが、なんともできんのですよ」
「そんなことはどうでもいいのよ。大事なのは、そいつのせいでヤマメに人気の矛先が向かなくなってしまったってこと。あいつ、そういうの気にしてないようで結構旧都の人気者であることにプライド持ってたりするからね。落ち込んでるのかなんなのか知らないけど、姿が見えないって話よ。何か心当たりはないかしら」
 彼はひな壇のようになっている顎に自分の左手の親指をあてた。考える仕草のたびに幅の広い肩にかかった着物が大きく上下した。
「家には」と彼はいいかけて、それを振り払った。「探したんだろうね、やっぱり」
「もちろんよ。キスメが探しにいったし、私ももう一度、一番に探したわ。もちろんもぬけの空。いつ帰ってきてもいいくらいに生活感が残ってた。でも、帰ってきている様子もなかった。散らかってもなかったし、鍵も掛かってたから、強盗や人攫いの類じゃないとは思うんだけど」
 人気者は他者からの好意を受け取って成り立つ。しかし、その代償に他者からの羨望や嫉妬も受けざるをえない。ヤマメにもそんな経験はあった。でも、何故だか今回の件はそうではない気がしていた。状況からの推理と、直感でしかないけれど。

 この店の看板娘の一人がこげ茶色の湯飲みをふたつと、三色団子が二串のったお盆を持ってきて、私達の間に置いた。彼女は目の前にある団子のような男の娘であるはずだが、その背格好はすらりと細くて、土色の髪には所々違う色が混ざっていて、私は彼こそが人攫いをやってのけたのではないかと疑いかけた。
「そりゃあれでしょ。女が落ち込んでいくとこなんて決まってるじゃん?」 彼女はお盆を置くと私の隣に座って、悪戯をするような表情で私の顔を覗き込んだ。
「男だね」と、彼女は目を輝かせながら言いきった。「そういう噂は聞かないけどさ、あれだけ人気があって男の一人や二人いないってのはおかしいでしょ」
「やめないか!」と、店主は怒鳴った。「どうしてお前はいつもそう野暮なことばかりいうんだ!」
 彼女は止まらなかった。「だって、落ち込んだら誰かに慰めてもらいたくなるじゃない。ねえパルちゃんだってそういうこと、あるでしょ? オトコよ、きっと」
 言いながら、口を三日月に歪ませた。私は何も言い返せなかった。考えるふりをして、団子をひとつ食べた。歯にへばりつくほどに食感は柔らかく、甘さは弱い。わるくない。お茶を啜った。苦すぎた。むせた。頭が冴えた。
「そう、でも、ほら……なにも男に限った話じゃないんじゃない? 女でもいいわ。誰か特別仲が良さそうな奴はいなかった?」
 私が話題に喰いついてみると、ふたりは正反対の表情を浮かべた。しかしすぐに、同じ表情で思い悩んだ。やはり家族だった。
「特別というのはなかなか思いつきませんが……強いて言うならば、彼女だろうね。ほら、いつも桶に入っている」
「キスメのことよね」
 私が聞くと、ふたりは頷いた。
「さっきも言ったけど、あの子は違う。私がこうやって面倒なことやってるのはあいつの頼みだから。キスメがヤマメの行先を知ってたら私は今頃家で寝てるわ」
「それならお手上げだ。あの子以上にヤマメちゃんと親しい子を、私は知らない。お前は?」店主は自分の娘を見た。彼女は紅くなりすぎている唇をしきりに指で弾いていた。
「そうだ、ね。後はあいつらだ。ヤマメちゃんファン倶楽部って連中。あいつらも最近見かけないかな。……まぁ、あいつらの目当てはヤマメちゃんだから、当然っていったら当然だけど」
「そいつらの居そうな場所はわかる?」
「拠点は結構あるって話だけど、一番話題に出てきてたのは、ほら、あそこだよ、あそこ」
 彼女はそこで名前が出なくて困っているようだった。自分の頭を数度叩いた後、私のお茶を一口啜った。彼女は剥き出しのふとももを手のひらで叩いて、言った。
「マル・ダムール。確かそんな名前の小洒落た喫茶店だよ」
 私は彼女からその店の場所を聞いた。表通りにあるような店ではない。隠れた名店というやつだった。なるほど、そういう場所は誰にでもあるらしい。
 私は席を立った。
「行ってみるの?」
「ええ、心当たり全部回るって約束しちゃったから。一度合流してから寄ってみるわ。……もしかして、なにか問題あった?」
「いや、ただ、私はあんまりあいつらのこと好きじゃないからさ」
「どうして、一応常連でしょう?」
「さてね、おっかけってのが好きじゃないだけだよ」
 娘はじっとりと、自分の親を見た。そう、とだけ言って、私は肩をすくめた。小銭を取り出して、少しだけ黒色の強く、硬い手のひらの上に置いた。主人は握りこむ間に金額を数えたようだった。
「お釣りはいいわ、ありがと」
「見つかることを願ってるよ。出来ればまた、ここに座ってみんなで騒いでくれることも。……今の今まで無関心でいた私が言っていいものなのかはわからないがね」
「あまり心配しないほうがいいわ。どうせ、大したことじゃないんだから」
 手のひらを振って見せてから、私はこいし達と約束した合流場所に向かって歩き始めた。




 6

 こいし達が時間どおりに現れないことは想定済みだったので、私は後ほど待ち時間にかかった費用をこいしのしつけ代として彼女の姉に請求することにして、この店で一番高い、一杯で一週間食べていけるような値段の珈琲を注文した。
 円形の真っ白なテーブルに震える手でカップが置かれてから、私はゆっくりとカップを口まで運び、鼻から思い切り息を吸い込んだ。運ばれてくる香りは芳醇で品がよく、味もよし。しかし、白い海兵服を着たあいつの淹れるものと大差はなかった。これで大金を受け取れるのならば、あいつらは今頃大金持ちだろう。そうすれば今の住処である家を出て行ってくれるのに、そんな考えが浮かんで、すぐに消えた。
 私は半分ほどを飲んでからカップを置いて、通りを眺めた。子供の集団がみんな独楽を片手にもって、どこかへ向かって走っていった。もういい時間だというのに酔いつぶれて道端でアホ面を貼り付けながら眠っているのが見えた。自分の角をしきりに撫でながら、すれ違う奴らに白い目で見られている妙に洋風ぶった若い鬼がいた。
 みんな頭には角が生えていた。みんな鬼だった。

 私は溜息を漏らした。未だに、数日前の光景が頭から離れてくれない。
 暗い街の呻き声。汚らしくて、みっともない姿。
 村紗に追われていた奴は鬼じゃなかった。そもそも鬼とは何か、なんてことは考えるだけ無駄なこと。でも、鬼に成らんとした自分の過去の姿が重なってしまう。
 弱さが嫌だった。
 好意の矛先ひとつで簡単に折れる、そんな精神を捨て去り強い心を。何事にも動じない精神を極寒の灼熱地獄に浸りながら、ひたすらに願った。人々に敵対し、非力な人間がどんな手段を執ろうとも、それでも真正面から付き合ってきた、そんな、鬼のような。
 信仰していた神が目の前で土下座している。それに近しい感情だった。
 弱い鬼なんてどこにもいない。そんなことは流石に行き過ぎた妄信だなんてことは分かっている。でも、力を手に入れて、それに溺れる鬼がいたなんてことが嫌だった。

「……また辛気臭い顔して。そんなじゃあ、さとりさんにからかわれるわよ?」

 終着点のない考えに声が降りてきた。無意識に閉じていた目を開けると、私の正面に、当然のように一輪が座っていた。フードはおろされて、空色の髪は無作法に後ろでまとめられている。肘をテーブルに乗せ、微かに微笑む姿はしかし、いつもよりも背中が曲がっていた。
 私はカップの淵をなぞって、液体を見つめた。
「さとりはいつだって私のことからかってるわ」
「それを聞かされてるほうからすれば惚気にしか聞こえないんだけど、そこに対する返答を求めましょう。場合によっては賠償も」
「その台詞、そっくりそのまま返す。……というか、私の場合は実害があるから即適応ね。よくもまあ橋姫の家にあがりこんでおいてあぁも毎日毎日……」
 そこで言葉を止めておいた。怨念交じりの言葉だ、言ってて自分が辛くなる。カップを弾く。甲高い音が短く響いた。
「休憩?」を、私は言った。
「そんなところ。治安の維持って言ったって元々この街自体そんなのとは無縁でやってたわけだから、どうにもノウハウをつかめないわ。飛倉の回収が主だけれど、それ以外のトラブルだっていっぱい。鬼が起こすものなんて私にはどうにもならないものも多いしね。やることが多くて目が回りそうよ」
 鼠の力も借りたいわ。そういって、一輪は前髪を撫でた。
「村紗はそんな弱音、吐いてなかったけど?」
「弱音を言ったつもりはないんだけどね、ただ、少し辛いってだけ。村紗だって表には見せないけど、相当参ってるはずよ」
「どうせ止まらないけどね、あいつは」
「パルスィは? こんなところで何してたの?」
 私はどう言おうとしたものかと少し考えた。下手に話せばそれは一輪を通じてその先まで──村紗やさとりの元まで届いてしまう。そうなればまた、からかわれる。
「……また、こいしちゃんに何かお願いされたんでしょ」
 無駄な思考だった。それを言った連中と同じ、意地悪な笑みを浮かべながら、一輪は私の心中を読みきっていた。瞼が痙攣しているのがわかった。私は頬を叩いた。
「え? あ、なんで?」
「そんな顔してた、それだけ」一輪の表情が柔らかくなる。「で、今日はなに買い物? かくれんぼ? それとも探検?」
「子供じゃないんだから……人探しよ、ヤマメを探してるの!」やけくそぎみに言う。「あいつが最近姿を見せないってキスメのやつが乗り込んできて、こいしがそれに乗ったの。私はついで、これで満足?」
「相変わらず、こいしちゃんには弱いのね」
「そんなんじゃ」言い切れず、言葉が淀んだ。「……ないけど」
「そっか。でも、わかるなぁその気持ち」
 分かりきったような声色で言われる。私の精神を逆撫でするのに十分なものが込められていた。「あんたに何が分かるって?」
「パルスィの気持ち。不思議な子よね、あの子。一歩間違ったら迷惑かけかねない事ばっかりするのに、ギリギリで踏みとどまってて、何故か許したくなっちゃう。こいしちゃんが笑ってるのを見てると、怒ってる自分が馬鹿らしくなってくるのかしらね」
 私は鼻で笑った。「こいしは自分のしたいことをやってるだけよ。悪気もなにもないんだから怒りようがないわ」
「でもそれってとても危なっかしいことなのよ。いつ間違って道を踏み外したっておかしくない。そういう時にキチンと正しいことを教えてあげて、手を引いてあげなくちゃいけないんだろうけれど。……甘やかしてばっかりね、みんな」
「あの子に言葉なんて通じないわ。どうせ前しか見えてないんだもの。どうしようもないじゃない」
 私は肘をついて、適当な方向に視線を流した。

 いつの間にか注文していたらしく、抹茶金時が運ばれてきた。一輪は嬉々とした表情で手を合わせると、スプーンを持って、氷のてっぺんと小豆をいっぱいに載せて、大きく開いた口に放り込んだ。咀嚼するたびに涼しさを覚える心地よい音が口の中から聞こえてきた。甘くて、冷たくて、苦さが混じったその味を、一輪は落ちそうになる頬を押さえながら噛み締めた。幸せそうだった。一口ごとに癒しが一輪を包んでいる。胡散臭い魔法のような光景が目の前にあった。
「食べたいの?」
「いらない」
「そ」
 一輪は私に向けたスプーンを引き寄せて、豪快に開いた口に運んだ。私は人差し指で下唇を撫でた。痒かっただけだ。勿論それだけだ。
「この街っていい氷が手に入るのよね。最初は驚いたわ」と、一輪は三分の一ほど山の崩れた氷を均しながら言った。
「地下の水脈から引っ張ってきてるからね。保存も利きやすいし、地上ではこうはいかないわ。氷を調達するのも一苦労でしょうね」
「私達が地上にいた頃なら、でしょうけど、今の地上がどうなってるのかなんて、こいしちゃんが話してくれなきゃわからないものね。あの子、そういうことは言ってくれないのよ。何か聞いてないの?」
 私はこいしがいつも話す地上のことを思い返してみた。特に思い当たるふしはなかった。
「あの子はやかましいくらいになんでも話してるわよ? 地上で出会った妖怪のこととか、友達ができたとか、綺麗な湖があったとか。全部かなんてことはわからないけどね。私にはこいしが、そんなどうでもいいことを隠すような子には見えないけど」
 何故か一輪は、私を興味深そうに見た。
「なに? なにかおかしな事言ったかしら、私」
「いいえ。ただ、少しだけ羨ましいなって」
「羨ましい?」
 一輪が氷の山を掻き分ける。そのたびにザクリと、耳の裏が痒くなってくるような音がした。
「私に話さないことをパルスィには話してる。それって、それだけ好かれてるってことでしょ?」
 一輪はそういうと、優しく笑った。
「馬鹿なこといわないでよ」
 私は再び鼻で笑ってみせる。
 しかし、改めて考えてみればこいしが私のことをどう思っているかなんてことは思慮の及んでいないことだった。いつもそんなことを考えさせてくれるほどこいしは大人しくなかったし、私自身も興味はなかった。かといって私にとっての古明地こいしは、偶に橋に落書きしていく近所のやかましいクソガキどもと同じというものでもない。さとりの妹であり無意識を歩く妖怪であるこいしを、他人と割り切れないという事だけは確かなのだろうけれど。
 私は考えるのをやめた。どうせ結論なんてない。人の関係なんてものは意識しだしたらキリがない。私があの子に望むことは、何かあるたびにスリッパで頭をひっぱたくのを止めて欲しいってことくらいだ。

 考え事は時間を浪費させる。私がカップを空にする前に、一輪はズルズルと音を立てて器を飲み干してしまった。
「そうそう、こいしと言えば」
 私は気持ちよさげに頭を押さえる一輪に言った。
「少し前にこいしに化けた『誰か』が村紗を訪ねて来たんだけど、あんたは何か知らない?」
「知らないかっていうと、どういうこと?」
「そいつは最初はこいしの姿をしていたはずなのに、私が正体を聞いたら雲みたいなものに包まれて、いつの間にか居なくなってたわ。そんなことを出来る奴が誰か、知らないかってこと」
「知ってどうするの?」
「割られた窓ガラスを弁償してもらうわ、二枚で一万」
 口元が釣りあがるのが見えた。一輪は頭を一度叩いた。
「お高いのね。本当はガラスなんてどうでもいいんでしょう」
「どうしてそう思うの? 窓から風が吹き込んできて、寒くてしょうがないじゃない」
「村紗を訪ねてきたっていう『誰か』が気になってしょうがない。私が見たところ、パルスィの本心はそれね。ほんと、仲がいいのか悪いのか……」
「さとりみたいなこと言わないでよ」
「そのさとりさんに聞いたのよ。パルスィがお金の話を持ち出してたらそれは隠れ蓑だってね」
 私は舌打ちして、目を逸らした。頬の筋肉が引きつってしまって元に戻ってくれなかった。
「当たってた?」と、一輪は嬉しそうに言った。
「……そうよ」私はそれだけ言った。
「村紗のそばに居るのはあんただけだと思ってたもの。あんた等は二人だからこその関係があるって思ってた。でも、違った。そこにもうひとり加わるっていうのなら、面白そうなことになると思わない?」
 一輪はクスリと笑ってテーブルの上に両手を乗せ、人差し指をあわせた。
「残念だけれど、私も知らないわね。むしろ私が知りたいわ。思い上がりかもしれないけどね、この街で自分の知らない村紗の知り合いなんて、居ないと思ってたもの」
「あんたにも言えない内縁のなんとかってやつね。浮気よ、きっと」
「そうだったらどうしてやろうかしら」
「後ろから刺してやるといいわ」
「考えとく」
 私達はしばらく不敵に笑いあった。それから、一輪はどこかを見た。
「でも、冗談抜きで気になるわねその子。実際、私はずっと村紗の傍にいたつもりだったわ。目を離したら何するかわからないくらいに混乱してたから。けれど、それでも知らないってことは──」
 そこまで言って、一輪は意味ありげに黙った。
 彼女の言うとおり、村紗水蜜と雲居一輪は絶対のパートナーであるという認識はこの街の誰もが持っているものになっていた。同じく地上を目指し、街に散りばめられた飛倉の欠片を集めている。二人で一人の運命共同体。それが彼女達だった。
 しかし、そうでない時期があった。むしろ、その時期の方が長かった。
 それは彼女達がこの地底にやってきてから、つい最近まで。それまで村紗水蜜はずっと、全てを拒絶していた。聖白蓮と出会う以前の彼女のように、孤独に苛まれ、傍にいたはずの一輪すらも見ずに、沈めた意識を追うようにして、俯きながら時間を食い潰していた。一輪が知らないともなれば、そんな時期に出会ったことになる。
 私は言った。
「わかったわ、なにか分かったら教える。あんたも何か分かったら私に教えてよ」
「ええ。忙しいからなかなか好きには調べられないでしょうけど」
「それでいいわ、あんたらは自分のやるべきことをやってなさい」
 私は立ち上がって上着から財布を取り出し、テーブルの上に札を三枚置いた。人間のものとは思えない髪型の人物が三人同じようにして並べられた。私はそいつらから名残惜しくも手を離した。
「暇な私はあちこちに奔走させてもらうわ。支払いお願いね。大丈夫よ、どうせ後でさとりに請求してやるから」
 一輪は目を細めて、そそくさとそれらを回収する。
「あんまり無駄遣いしてると、また叩かれるんじゃない?」
「まさかね」
 流石にさとりの能力といえども、こんな人通りの多い場所でピンポイントで私のすることがわかるはずがない。そもそもこの近くにいるはずがない。
「そんなこと──」

 私はこの場を離れるために、振り向いた。

 言うとおりになった。




 7

 私達三人は団子屋の娘の言っていた店に向かっていた。結局さきほどの勘定は私の給料から天引きされることとなり、おまけにこいしとキスメに奢ってやる羽目になった。私の来月の給料はゼロになった。
「信じられないよね! 人の家のお金で飲食するから値段なんて気にしないなんてさ、それも当然のように!」
 こいしの勢いは収まっていなかった。膨れる頬がこちらを見た。すぐに逸らす。そこまで怒られるようなことをした覚えは、あまりない。
「お姉ちゃんだって無駄遣いが酷いけどさ、それと同じレベル。もうお金の管理以前に妖怪としてどうかと思うよ。ねえ、キスメお姉ちゃん?」
 こいしが話を振ると、キスメは頷き、『役職持ちだからって調子乗ってるよね』と書く。さりげなく自分の姉に対して凄い事を言っている気がするが、それよりもキスメがさっきから頷いてばかりいることのほうが、流石に気になってきていた。
 
 『マル・ダムール』はすぐに見つかった。普通に通りに佇んでいたが、そこがいくら人通りの少ない場所で、印象に残らない場所だとしても、その場所だけは夢に出てきそうなほど異質だった。
 旧都に立ち並ぶ家屋は基本的に木造で、雨の降ることのない土地では屋根も作りも質素な物が多い。そもそも家の中で引きこもってる奴なんて地霊殿くらいにしか知り合いはいないわけで、それが普通だと思っていた。
 だからこそ、他の家屋に囲まれた状況に混じる総レンガ造りの建物は、犬の群れに放り込まれた猫のように、居心地の悪さが関係ない私達にまで伝染していた。私の家だって流石にそこまで西洋意識で作られていない。
 茶色の家の只中で真っ白に光る壁。何者も防げない高さしかない柵。ガラス張りの窓。隣の家に意思があるのか、そこだけが他の家とは1メートルほど離されている。それが一層不気味だった。この隙間に、小さな窓を見つけた。
「こいし」
「なんじゃいワレ、無駄口叩いてる暇があったら私らに橘の団子山盛り奢らんかい」
「あとでね。そんなことよりなにかおかしいわ。店の中から声が聞こえない」
「へ?」
 閉ざされた入り口。その前に立っても、物音ひとつ聞こえない。怪しげな建物は何も言わない。
 こいしは張り付くようにして壁に耳を当てた。眉をよせて、小さく唸った。
「聞こえ……いや、なんとか、なにか言ってるのは聞こえるよ?」
 私も同じようにした。確かに、街の両端同士で聞こえるような、微かなうめき声のようなものは聞こえた。
「元気ないね。みんな下痢なのかな」
「さあね、少なくとも──」壁に沿う形で窓を覗き込んだ。「見なさい、みんな死んでるわ」
 こいしが窓を覗いた。中には五人ほどが座れるカウンターと丸テーブルがみっつ。全て満席だった。しかし、その全員が顔を伏せっていた。一見すれば全員が毒殺された惨劇の現場、とも表現できたが残念ながら彼らの背中は小さく上下していた。

「嘘つき、死んでないじゃん」
「『ように』って付け加えるのを忘れてた。比喩表現よ、本当に死んでたらまた新しい騒動じゃない」
 呻きながら動かない。さながら死に体だった。私は目を背けた。こいしは身体を押し付けるようにして、じっと見ていた。
「ヤマメが居ないんじゃあわざわざ来た意味もなかったわね。あいつらに話を聞こうにも話せるようには見えないし。放っておきましょ。時間の無駄だわ。次行くわよ、つぎ」
 私は壁に背を預けて懐から紙巻煙草を取り出し、咥えた。こいしが私をにらみつけた。元に戻して、私もう一度こいしを見た。見たはずだった。

 古明地こいしの姿は消えていた。代わりに、村紗水蜜が立っていた。
 いつもの海兵服の上に青味の混じったコートを羽織っている。帽子は被らず、微笑とも軽蔑ともつかない表情を浮かべている。
「どうして」私が言う前に、村紗が先に口を開いた。
「話は一輪から聞いてる、キスメにヤマメを探してくれって頼まれて、それでこいしに連れ出されてるって。……まったく、相変わらず」
 村紗の表情が緩んだ。私はそれを制した。
「一輪と同じこと言おうとしてるでしょ、自覚はあるから、言わないでおいて。わかってるから。……で、あんたは? なんでまたこんなとこに」
 村紗は私の後ろを指差した。
「この店に用事?」
「それもある。けど、今はそれどころじゃないんじゃない?」
「それってどういう、」私は店の中を覗き込んだ。呆れが第一に。それから、自分でも訳の分からない感情が口から漏れた。
「……ったく、あの子はもう……」
 村紗は真っ白な歯を存分に見せつけた。
「大変だねぇ」
「そう思ってるならたまにはあの子の面倒みなさいよ!」
 髪をかき乱した。店の入り口に向かって走った。開け放たれたドアの先で、こいしは暴力的なまでの勢いをもって、客の肩を揺さぶっていた。
「ちょっとこいし! あんたはまた、何してんのよ!」
 後ろから肩に手を掛ける。何も意味はなかった。
「ねぇちょっと、起きてってば!」
「こいし!」声を荒げた。こいしがこちらを見る。怒っているような、泣いているような。いろんなものが混じっている様に見える。
「だって、この人たちヤマメお姉ちゃんが好きな人たちなんでしょ! いなくなったんだよ! ……それなのに、なんでこんな所で死にそうな顔してるのさ!」威嚇するのように言う。「なんで!? こんなことしてる場合じゃない! こんな……」
 声がしぼんでいって、同時に肩を揺する手も止まっていった。客は小さく動いた。もう何日も絶食しているかのように、生気が無かった。こいしはまた、その身体を揺すった。「こんな……」

 私の口はこういうときばっかり役に立たずで、ただただ開閉するばかりだった。掛ける言葉が見つからない。そうしてる間にもこいしの言葉は荒々しくなっていく。
 無意識の言葉だった。たとえ目を閉じていても、こいしの言葉は覚り妖怪の発するそれと大差なかった。遠慮も何もない言葉は誰かを動かし、ときに誰かを傷つける。
 それがこいしにはわかってない。それを律する感情を殺してしまったから。

「ヤマメに言われた、『探さないでくれ』って」

 厳かなその声に横を見ると、最初からその場にいたように村紗が立っていた。店の客が全員、顔を跳ねさせた。こいしの言葉も止まった。村紗はテーブルに手を乗せて、一人一人を確認するようにして店内を見回した。
「あんた達はその言葉を律儀に守ってる。そうだね?」
「……そうだよ」と真正面に座っていた鬼が言った。嫌々といった風で。
「数日前に俺達がこの店で騒いでいたらヤマメちゃんがやって来て、いきなり言ったんだ。『しばらく来られないけど、心配するな、探さないでくれ』って。俺達には訳が分からなかった。ただ、そのときのヤマメちゃんは思いつめた表情をしていた。有無も言わせず、ってやつだった」 
「心当たりは本当にないんだね」
「ないさ、あったらそれを解決してる。俺達だって力になりたい。でも、信じて待つことしかできないんだよ」
 男が靴を踏み鳴らす。思い出したかのように、店内に溜息が溢れた。
「どうしてそれを? もしかして、ヤマメちゃんを見つけたのか?」
「違う」村紗が言い切る。微かに明るくなっていた表情が一瞬で曇った。
「私も言われたから。探さないでくれ、って」
「なんであんたに?」
「私もそれが分からなかった」村紗はゆっくりと店内を歩きまわった。「黒谷ヤマメと私はそれほど近しい間柄ってわけじゃない。それでもあえて私を止めたのにはきっと訳がある。それが何かを教えて欲しくてここに来たはいいけど、どうやらハズレみたいだね」
 村紗はそれから、何かを考えるようにして黙った。店内に沈黙が戻った。 

 私には想像できなかった。ヤマメちゃんなんとかって奴らとヤマメがどれほどの関係だったかは知らない。しかし、キスメとの関係は知っている。
 いつも二人だった。
 少なくとも、キスメの傍にはいつもヤマメがいた。あいつがどんな気持ちでキスメと一緒に居たかは知らない。でも、何も言わずに居なくなるなんてことだけは信じられなかった。
「こいし、あんたの気持ち、少しわかったかもしれないわ」
 私はこいしの両肩を掴んだ。こいしはこちらを見上げた。帽子に隠されて表情は見えなかった。
「ヤマメが居なくなるのには理由がある。村紗にも関係のある何か。あんたはなんだと思う?」
 こいしは少し黙った。そうして、他の誰にも聞こえない声で言った。
「……ムラさんの評判、知ってる?」
 そう言うと、私と向き合って、耳打ちに切り替える。
「飛倉を集めて恩人を救うことを夢見る熱い女。一輪っていう超絶美人と一緒に暮らす果報者。橋姫と同じ、元人間。……いろいろあるけどさ、影でこんな風に言ってる人もいるよ」
 唾を飲む音がした。こいしは帽子のつばを思い切り押し下げた。
「……目的の為ならなんでもする、冷血女」

 数日前の光景が、また。
 欠片はどこだと追い立てる姿を想起する。確かに、命すらも奪ってしまいそうなほどに鬼気迫っていた。
 あいつの悪い癖だ。頭に血が上って、周りが見えなくなる。確かに、欠片集めは村紗にとってそこまで身をいれるだけの意味があるけれど。
 それを知っている者と、知らない者の見方は、きっと違う。
  
「でも、それとヤマメの関係になんの繋がりがあるって? 欠片とヤマメには何の繋がりもないでしょう?」
 言って、気付く。
 あの声が聞こえてくる。
 飴玉の声。ヤマメからこの街の地位を奪い取った悪魔の声が。
 まさか。私は頭を大きく揺さぶった。
「……そんなこと、ありえない」
 振り払う。
 ヤマメの後ろ姿。多分、寂れていた。
 振り払う。
 飴玉の声が耳にへばりつく。
 振り払う。

「ヤマメお姉ちゃんは自分の背中を押してくれるものが、欲しかったんじゃないかな」

 ……だから、そういうことを空気読まずに言うものじゃないって。

 ヤマメは自分がこの街を照らしていることにプライドを持っていた。意地でもいい。自分の役割はそういうものだって決めて、それを守り続けていた。
 フランドール・スカーレット。
 あっという間に、持って行かれた。人気なんていうくだらないプライドを。ヤマメの今まで築いてきた物を全て。 
 ヤマメは笑って聞いていたけれど、その心中はどうだったのだろう。心が読めないから確信なんて持てない。推理は推理であって、事実ではないけれど、予感がする。背筋をゆっくりとなぞられる感覚がある。
 ヤマメの心の中で渦巻く感情を、私はひとつだけ予測できてしまう。



 8

 私達は店を出た。
 それまで呼吸が止まっていたかのように、吐いた息が熱かった。村紗はまだ中でなにか話している。ヤマメが欠片に手を出した、なんてことを聞かれるのは好ましくなかった。
「こいし、確証を持てないことは言わないほうがいいわ」
 こいしは首を傾げた。言った言葉は私に向けてだった。確実なものじゃないんだから、下手な混乱はいらない。そう思い込みたかっただけだ。

 脳が持ち上げられるような感覚が続いている。
 自分を笑った。まったく、なにを言っているのだろう私は。何もヤマメに良くないことをもたらすものだとも決まったわけではない。たとえ欠片を手に入れていたとして、ヤマメが何かをやらかすと決まったわけではないのだから。
 ……それなら。いっそ村紗に全て任せる手もある。そして話は大きくなる。いずれは勇儀の耳に届いて、すぐに解決してくれる。何の躊躇も遠慮もない。速攻だ。ヤマメがどうなるかは定かじゃない。
 でも、そもそも、こいしとキスメは何を願っていた?
 キスメはヤマメ探しを村紗ではなく、どうしてか私に持ちかけた。結果的にそれはこいしに向けられた形になっているが。
「探して欲しい」とキスメは言った。きっとキスメは、この状況をあらかじめ予想できていた。だから村紗には言えなかった。
 信じ切れなかったから。
 ヤマメの安全を信じきれないから、村紗には相談できなかった。あからさまに隠したいことがあったからだ。
 しかし、はっきりとしたことは何もない。全ては可能性の問題だ。受け手がその手がかりからどんな結末を予測するかだけが決まっていて、そこにも正解はない。本当ってものはヤマメしか知らない。
 圧倒的なまでに判断材料が足りない。

 こいしは未だに不満そうな表情を貼り付けている。私と同じように考えているとは思えなかった。こいつにそういうことは向かない。そもそも私にだってこんなこと、専門外だっていうのに。
「待ってるだけってのは、あんたには理解できないでしょうね、やっぱり」
 こいしは素直に頷く。「私にはわかんない、あの人達がなんであぁしてられるのかって。……この目が──」こいしはそれが自分の子供であったかのように、胸の瞳を撫でた。「覚りの目が生きていたら、それが分かったのかな」
「分からないでしょうね」と私は言った。「少なくとも、理解できないでしょうよ。古明地こいしっていうのはそういう奴だって、それだけは変わらないって思うわ」
 こいしの声は深く、珍しく下を向いている。帽子にかかったリボンが小さく揺れていた。
「そうかな……うん、きっとそう。目を閉じる前と後じゃあ感じることも変わっちゃうかなって思ってた。何も感じなくなって、無関心に溢れちゃって」
 溜息。もしかしたら、初めてだった。
「違った。目を閉じたって、私はたいして変わらなかった。ただ、少しだけ静かになっただけでさ」
「あんたは、子供のままなのよ」
 言って、私はこいしから帽子を取り上げた。
「覚りを捨てたのはあんたが本当に幼いころだったってさとりから聞いてる。さとりのこと姉じゃなくて母親だと勘違いするほどの昔だってね。あんたの時間はそこで止まってるんじゃない? 無邪気で、無鉄砲で、無慈悲だったころで」
 帽子の内側に息を吹きかける。なんということは無い。呪いみたいなものだ。
「私は、大人になったつもりだよ」
 こいしは肩を張り、俯いたままで言った。
「……どこが」

 私は笑ってみせた。帽子を返して、そのままうな垂れる頭に押し付ける。
「こんな帽子が似合うのは大人の証よ。あんたにはまだ、ほんの少し早い」

 こいしは帽子を受け取る。胸元で握った。心臓を握りつぶそうかという位置。覚りの目を押さえ込むようにして、身体を丸めた。
「……笑ってて欲しいのに」ねえ、とこいしは顔だけをあげた。表情がはっきりと見えた。「みんなでヤマメお姉ちゃんを探して、元通り、みんな笑ってて欲しいのに。そう思うのは間違ってる?」
 言葉はあくまで静かで、でも、喚きのような悲痛さがあった。
 こいしはいつだって笑っていられる世界を望んでいた。だからこいつはいつも笑っていた。無理をしてでも、そうしないと泣いてしまいそうな表情であっても。でも、そんな彼女に釣られてみんなが笑う。夢の中みたいな、アホらしいくらいに優しい世界を望んだ。
 だから、と思う。
「間違ってない。あんたが願うことが全部現実になったなら、さぞかし明るい世界でしょうよ。誰だって笑っていたいし、泣きたくなんて無い」私は静かに首を振る。「でも、違う。雨が降らないと晴れは目立たないでしょう? そういうものなのよ、きっと」
「誰かが笑ったら、誰かが泣く?」
「そうよ」
「それが大人の意見だっていうのなら、私は子供でいいよ」
 
 こいしは言い捨てるようにして私から離れた。そのまま逃げるようにして走り出した。どこへ向かうかなんておそらくこいし自身にも分かっていない。行きたい場所だけはハッキリしている。こいしが行動しても何が変わるかなんて分からない。それでも、走り出さずにはいられない。
 古明地こいしっていうのは、そういう子だから。

 静かになった。店の中には十人ほどがいる。村紗もいる。だというのに、こいしが居なくなっただけで鍵盤の抜け落ちたピアノのように、何もかもが物足りなくなった。
 風が冷たかった。冬に吹く風だ、冷たいのは当たり前のこと。それでも、さっきまでこんなに冷たかっただろうか。

「キスメ、これからどうする?」
 私はどこへともなく声をかけた。そして、やはりこいしがいなくなって、初めて気がついた。
 キスメの姿がどこにもなかった。


 屋根上。道端。ゴミ箱の中。
 しばらく探してみたが、キスメはどこにも居なかった。そんなことをしているうちに、村紗が店から出てきた。よりにもよってゴミ箱を漁っている時にだ。鼻で笑われた。しかし、私は冷静に慌てることなく落ち着いた様子で服をはたいてから、平然とした表情で落ち着いた様子で落ち着いた声で「なにか分かった?」と落ち着いて聞いた。

「収穫なしだね。パルスィこそなにしてんの? いつの間にかいなくなったとは気付いてたけど、ゴミ漁りが趣味だとは思わなかったな……付き合い方を考える必要がありそうだ」
「好きでこんなことするわけ無いじゃない、キスメがいないのよ。あいつったら、人に手伝い頼んでおいて自分はトンズラだなんてふざけてるわ!」
 村紗は顎に手の甲をあてた。
「キスメってあの桶に入ってる?」
「そうよ、あんたが来たときにはいたでしょう? 店の中でなんだかんだやってたら、いつの間にかいなくなってたのよ」
 村紗は少し間を置いた。それから、鼻の頭を撫でながら言った。
「……いや、最初からいなかったけど?」
「は? 見てないの?」
「そう、私がここに来たときにはパルスィとこいししかいなかったよ。キスメの姿はなかった。そういえば店の奴らも言ってたよ、キスメに聞いてみたほうが早いって」
 はっきりと、村紗は言い切った。
 キスメはずっと前からいなかった。
 いつの間にいなくなったかという疑問よりも、そこまで気付けなかったことに意識が向く。元々影の薄い奴だとは思っていたが、まさかここまでとは。
 でも、おかしい。違和感がある。
 キスメは一人じゃ何も出来ないから私達に協力を依頼してきたはずだった。それがこんなところで勝手にいなくなった。あいつはそんなことする奴じゃなかった筈だ。

 頭を掻く。歯を何度も噛み鳴らした。喉の奥から叫び声をあげたい衝動を必死に堪えた。自分でもどうしてこんなに苛立っているのか分からない。
 キスメもヤマメも……訳の分からない誰かだって、何がしたいのかがさっぱり分からない。全ての事象にもやが掛かりっぱなしで、前も後ろも見えなくなる。
 ……導いて欲しくなる。
 だれか……誰でもいいから、答えを教えてもらってでも、この霧の中から抜け出したい。
 自分への溜息が漏れた。
 本当に、私というやつは──

「──パルスィ!」

 いきなり大声があがった。同時に頭を押し付けられる感覚があり、地面が一気に近づいてくる。村紗にむりやりに伏せをさせられていると分かった。抵抗する暇は無かった。私は顎を思い切り地面に叩きつけられた。
 低く、短い音が聞こえた。頭上を何かが通り過ぎていく。弾丸のような速さで。視界に収まらなかったそれは、私の後ろにあったゴミ箱に直撃し、火の手が上がった。
「なんだってのよ!」
 私は腕立ての要領で身体を起こし、周りを見回した。
 ゴミ箱を燃やした『なにか』の発信源は分からなかった。ただ、揺らめく赤い炎が立ち上っているだけだった。
 村紗は上着から柄杓を取り出して、水も掬わないまま炎に向かって振るった。水はそこから出てきた。片手に収まるほどの大きさからは想像も出来ないほどの水量が、胸ほどの高さまで成長した炎を覆い隠して、消火した。よほど綺麗に焼けていたのか、悪臭はしなかった。
「……攻撃、かな。あの角度なら屋根の上辺りから、私にも誰がやったかは見えなかったけど」
 店のほうには被害は無かった。しかし、騒ぎに気付いたのか店の中から連中がゾロゾロと這い出てきて、目を丸くした。
「なにかあったのか!?」
 皆は鎮火したゴミ箱を見た。村紗は焼け跡に手を当てて軽く地面を均した。
「誰かの攻撃を受けた。着弾の痕跡は見えない。多分、炎そのものだと思うけれど」
「弾幕ごっこの流れ弾じゃないか?」
「こんな場所に飛んでくるなんて考えにくいよ。明らかに私達を狙っていた。大丈夫だよ、よくあるじゃない? こういう捜査の途中で妨害してくるってイベント」
 村紗は指先に乗った灰を吹き飛ばした。立ち上がってパイプ煙草に火を点けた。大きく煙を吐いて辺りを探った。
 口に入り込んだ土を吐き出しながら、私は言った。
「慣れてるのね」
「欠片を手に入れた奴と関わってたらこんなこともある。私がやってるのは言い方を変えたら、誰かが願いを叶えてるのを邪魔してるんだから。荒事に好きで慣れたわけじゃないけどね」
「あんたが邪魔だったから、狙ったってこと?」
「多分。そもそもパルスィが誰からか狙われるような覚えはあるの?」
 私は少し考えてみる。結構あるかもしれなかった。私は言った。
「ないわ。あんたのせいね」

どちらにせよ、事態が大きくなってきている予感はした。ヤマメがいなくなり、キスメも、こいしすらもいなくなった。こうなった以上私には判断材料も、関わる意味すらもなくなっていた。
 
「疲れた」と、私は言った。「……あとはもう、任せるわ」

 村紗はこちらも見ずに焼け跡を観察しながら手を振ってきた。
 私はすぐにその場を離れた。
 いつだってそうだった。数日前にペット探しに駆り出されたときだって、一日散々駆けずり回った癖に何も見つからず、私の足はふらりふらりと性懲りも無く同じ方向へ勝手に歩き出したのだった。





 9

 天井まで続く本棚が部屋の壁を埋め尽くしている。底をなぞるようにして歩いてみると、その本の種類の多さと雑多さが目に付いた。動物図鑑、恋愛小説、エッセイ、官能小説、恋愛小説。
 整理は不可能なのだろうという予想は簡単についた。そもそも、この部屋の主がそれをするような奴でないことを私は知っている。『人の記憶って単純ですけれど、意外と整理がつかないものなのですよ』だそうだ。
 記憶の部屋の主は部屋の中心で自分の身体を覆い隠してくれるほど大きな椅子に座り、読んでいた本を閉じてから、老人のような動作で立ち上がった。

「ヤマメがそんなことする筈無いじゃないですか」

 それがこの部屋で聞いた第一声だった。古明地さとりは私の隣で本棚から本を取り出しながら、そんなことを言って、私に笑いかけた。私はどういう表情で返したらいいか分からずに口だけを動かした。
「そうだったとしても、追い詰められたら何をするかなんてこと、流石にあんたでも分からないでしょう?」
「未来予知なんてことは流石に出来ませんよ。しかし、推理とはまず、その対象を知り、信じなければ出来ません。確実な証拠を並べて事の真相にたどり着くなんてことはほぼありえないんですよ。だから私はまず、ヤマメを信じます。彼女はこの街のアイドルであろうとする、その姿勢を大前提に推理します。第一……」
 さとりは私を残して部屋の中心に戻ると、サイズの大きすぎる椅子に深々と腰掛けた。そうして手元で本を開き、チラリと私を見た。
「貴方も私も、ヤマメとどれだけの時間交流があると思っているんです? 知っているでしょう? 彼女がどれだけ取り乱そうとも、貴方たちを襲ったり飛倉の欠片にすがって、挙句の果てに狂気に染まるようなひとではありませんよ」
 言い切ったさとりに、私はすぐには言葉を投げかけられなかった。
 でも、そんな言葉が欲しかった。
 確固とした自信からの言葉。他人をより深く理解できる覚りの言葉は私にとっては都合のいい追い風だった。それが事実かどうかは実際に確認しなければ分からないが、少なくとも指針にはなる。それで十分だった。

「でも、もしそうだったとしてキスメはどうしてヤマメを探してくれだなんて言い出したのかしら。あんたにそう思われるくらいなら、あいつだってそう思いそうなものだけど」
「心配であることに変わりはありませんよ」さとりはもう興味を失ったかのように本に視線を落した。「回数とか慣れとか、そういうことは関係ない。貴方と同じです。こいしにお願いされて、結局毎回付き合ってしまう。貴方はキスメの依頼から動いたんじゃない。こいしがそこに居て、お願いされたから動いたんです」
 喉に針を打ち込まれたような感覚だった。さとりの言葉は一言も二言も多くて、それがいちいち私の言葉を遮ってくれる。
 しばらくして、「そうね」と、私は目を伏せた。
「キスメがひとりでやって来て話をしていたのなら、私は今頃薄っぺらくて暖かいベットの中で寝てた。こいしが居たから流されて、こうして気味の悪い部屋であんたと話をしてる。認めるわ、もう」
 
 私は本棚に寄りかかった。さとりは一発で部屋中を暖められそうなほど大きく、息を吐いた。
「……貴方はほんと、あの子に甘いんですから」
「その言葉は頭の中で何度も聞いた。しっかりとあんたの声でね」
「諦めきっちゃってまあ……こいしは迷惑をかけていませんか?」
「今更なに言ってんのよ。あの子が迷惑をかけないことなんて記憶にないわ」
「それでも何度も付き合ってくれてんですけどね、貴方は」
「それも今更なことね。それに──」私は言いかけて、口を閉ざした。考えたくないことが頭をよぎったからだ。さとりは、目を細めて、口を手で覆った。絶対に何かを言おうとして、それを必死で押さえている。「いいわ、なんでもない。そんなことよりもヤマメの居場所よ」
「流石にそこまでは分かりません。少なくとも、今の段階では」
「なら、あんたはどう思う? ヤマメがキスメにも言わず、村紗やファン倶楽部の連中を口止めしてまで姿を消した理由を」
 さとりは本を睨みつけて、身体を丸め、いきなり声量を落した。
「……彼女は確かに強い意志を持っています。それはきっと街の人気者であることにこだわっているから。彼女がこの街にやってきたときからずっと、自分はこの街を照らす明るさを持っていなければならない。そんな頑固さを持っていました。それが私が聞いてきた黒谷ヤマメの願い。……ですが、逆にそれ以外の面を隠そうとするふしもあります。笑っていなければいけない。自分が落ち込めば皆に嫌な影響がでる、とね」
「自分のことを他人に相談しないってこと? やっぱりあいつは何かを隠してるって?」
「でしょうね。その内容までは……正直わかりませんが」さとりはゆったりとした動作でページをめくった。紙が擦れる音がはっきりと聞こえた。「貴方はどう思いますか?」
 私は言葉を詰まらせながら言った。 
「ヤマメの意思の強さを信じるって言うのなら、確かに何かの力に頼ろうなんてこと思いつかないとは思う。でも、やっぱり私はヤマメの奴を信じきれないのよ。ラジオを聴いていたときのあいつは、確かに無理をしていたように見えたから。追い詰められたら何をするか分からないっていうのは人間だけの弱さなのかも知れないけどね。なんだかあいつは……」
「嫉妬を向けていた」さとりは言った。
「そう。私はそれに負けた。強さが欲しくて、鬼になった。あいつが同じ結末になるなんて想像つかないけどね。やっぱり最後はあいつを信じられるかどうかなんだって思う。ファン倶楽部の連中はそれを信じられたんでしょうよ。自分達が死にそうな表情をしていても、ヤマメならきっと大丈夫だって」
「どちらにせよ、現段階では判断材料が足りませんね。彼女がフランちゃんのラジオの影響を受けていることは確かです。しかし、だからといって飛倉の力に染まるようなひとではない。それでも、村紗さんやキスメに話すわけにはいかないような隠し事をしている」
 そこまでですね、とさとりは本を閉じた。そこに黒谷ヤマメの全てが綴られているかのように。そうして、暖かさをあまり感じない瞳で私を見た。
「どうしますか? これで満足ですか?」
「満足よ。寝るわ。お休みなさい」
 さとりは嬉しそうに笑った「はい。お願いします」

 私は歩いていって、机に置いてあるポットから紅茶を入れた。カップに注がれた薄紅色の液体からは未だに微かな湯気が昇っている。本棚に戻ってから、私は紅茶を啜った。甘ったるくてさとりの視線のように少しだけ熱が足りなくて、とても美味しいなんて思わなかった。
 私が飲み終わったことを確認してから、今度はさとりが口を開いた。 
「ひとつだけ、確かめたいことがあります」
「なに、また私が走り回らなきゃならなくなるようなこと?」私はカップを戻してさとりの顔を覗き込んだ。
「いいえ、走り回ることになったきっかけについてです」
 私は肩をすこし動かした。「キスメ?」
 さとりは私をじっと見て、小さく頷いてから言った。
「貴方の言葉も記憶も、出来事の始まりはキスメの訪問から始まっています。朝、ドアを叩く音がした。貴方はそれに気付くと滅多に着ない赤のシャツを着て、ドアを開けた。誰の姿も見えなくて、少し考えて、そこでやっと、キスメの姿を見つけた」
「それがどうしたのよ」
 私が聞くと、さとりは俯き、唇を撫でて、それから、
「……それは本当に、キスメでしたか?」
 そんな、馬鹿みたいな質問をした。

 私は耳を疑った。目を見開いて、さとりに無言の言葉を送った。さとりは珍しく忌々しげな表情で頭を掻き乱した。
「私だって自分でおかしなことを言っていると思いますよ。でも、報告してきたペットがそう言っていたんです。貴方はこいしと、一輪さんと家を出た、と。それに、そうだとすれば貴方の推理も幾らかの現実味を持てることになる」
「キスメを見間違えるなんて、そのペットが阿呆なだけでしょ? あんなおかしな格好してる奴なんて、どこ探しても他にいるはずがないじゃない」
「だからおかしいと言っているんです。その他にも、貴方達は勇儀さんと一緒にいた。なんてのも聞いてます。さとり様一緒にいたじゃないですか、なんて言う子も。……もちろん、そんなはずはありませんよ? だからこうして混乱ているんです。……心当たり、あるんでしょう?」
 私はどもりながら言った。状況が頭の中でめちゃくちゃに回ってしまっていた。
「あるといえばあるけど、無いようなものよ。前に一度、こいしの姿でやってきたことがあったわ」
「そのときは気付けたんですね」
「下手くそな真似だったしね。あれで騙される奴なんていないわよ」
 さとりは妙な表情を浮かべた。考え込んでいるような、どこか嬉しそうな。
「誰かに化けられる人物がいる。変装ではなく変身のレベルで。それは確かなようですね。もしかしたら貴方も偽者だったりしますか?」
「そうね、こんな事をしている私は偽者かもしれない。あんたこそ」
「もしかしたら都合のいい情報ばかりを与える偽者かもしれませんね。私を疑いますか?」
「騙せるものならね」私は肩を揺らした。「騙して欲しいわ」

 言い換えれば今度は上手く騙されたということだ。キスメの姿を使ってまでわざわざ私のところにやってきたそいつの意図が全くといっていいほど読めない。何をしたいのかが分からない。以前のこいしの姿だったときも同じくだ。
「でも、キスメの姿で私を騙したところで、ヤマメの件は嘘じゃなかった。その誰かさんの正体だってまるで見当がつかないのだけれど……」
「村紗さんのことを知っていたのでしょう? 知り合いでは?」
「それは一輪とも話した。少なくとも一輪の知ってる奴じゃなかったわ。ってことは村紗だけの知り合いじゃないかってこともね」
「村紗水蜜だけの、この街にやってきてからの知人、ですか。これは興味深い……」
 再び唇を弄りながらさとりは考えこんでしまった。新しい獲物を見つけた表情だった。私は本棚から適当に本を取り出した。そうして頭に入ってこない文面をなぞりながら、これからどうするかを考えた。

 しばらくの時間そうしていると、乱暴にドアが開けられた。現れたのは地霊殿に住むペットの中の一匹だった。そのまま一直線にさとりの座る机まで歩数の制限がかけられているかのように歩いていく。一転の曇りもない黒髪が肩のあたりで乱暴に切られていた。背中に生えた翼が忙しなく動いている。
「なんですかお空。部屋に入るときはノックをしてからといつも言っているでしょう?」
 さとりの言葉に、そいつは慣性を無理矢理殺しているかのように足を止めた。
「ゴメンナサイさとり様、お願いされてたことが上手く出来たから、つい」
「まず深呼吸、といつもお燐に言われているでしょう?」
 何かの報告にきたらしい妖怪カラスは大きく息を吸い、余計な部分に更に余計なものをゴテゴテと貼り付けたような声を出した。

「ハイッ! 霊烏路空班が、お燐班よりも早く! ヤマメを見つけることに成功いたしましたッ!」お空と呼ばれてたペットは大げさに姿勢を正して、言葉を続けようと大きく息を吸った。「……えと、それと、えーと」しかし、その続きが一向にでてこなかった。見かねてさとりが声をかける。
「……どこかにメモしていないの?」
「へ? あ、ハイッ! たしかこっちのポケットに……ありました! ……ええと、黒谷ヤマメは街外れの廃屋に隠れていた。健康状態は異常なし。っと、しかしながら表情は明るくなく、追い詰められたようだったっ。……以上です!」
「よくできました」
 深々と礼をした空の頭を撫でてから、さとりは本を閉じた。ページの中に消えていく空気が音を立てる。
「聞いてましたねパルスィ。とりあえず、ヤマメは見つかりました」
 私は喉を鳴らして小さく呻いた。
「何が信じなければ推理は出来ない、よ。こんなのただの力任せじゃないの」
「これが権力というものです。そもそも、別に推理をして探さなければいけない、なんて決まりごとなんてないでしょう? とにかく見つけること。それが最優先です」
 さとりはいつもの、半分と半分と目一杯開いた目で私を見て、唇を吊り上げた。私は少し黙った。それから、「それでいいわ」と言った。
「それにしたってあんた、随分と事情に詳しいじゃない。キスメの奴、先にここに来てたのね」
「いいえ、キスメは来ていませんよ。貴方と一緒で、今朝早くにこいしに言われたんです。ヤマメお姉ちゃんを探してとね。かわいい妹の頼みです。断れませんから」
「なるほどね。だから私の行動も逐一知ってたってわけ」
「いいえ?」さとりは何故かいきなり不思議そうな表情をした。
「今日走り回った貴方の記憶からの引用です。そもそも、貴方の家の見張りはいつもやらせてますよ? 二十四時間交代制で」
「……ん?」
 私は眉を動かした。どうやら少しばかり疲れているらしい。ヤマメの所に行くにしても、すこしばかりの休憩をとったほうがいいのかもしれない。
「……ごめん、よく聞こえなかった」
「貴方の家の様子はいつもペット達に報告させていると言ったんです。もちろん私がいるときは外させてます。そういうところは見られてませんから安心してください。これでも私、プライベートは大切にするほうなんです」

 私は、なにも言うことが出来なかった。



 10

 私はさとりに正体のわからない誰かのことを任せてから、地霊殿を出た。
 空から教えられたのは街から少し離れた場所にある木製の小屋だった。傍にはヨットを浮かべて一日を過ごせそうな広さの地底湖があり、そこから流れてくる水が小さな川を作っている。小屋には水車が備えられていて、以前は誰かが活用しているような雰囲気があった。しかし、所詮は昔の話だった。
 水車は羽の部分が二枚折れてしまっていて、もう随分動いていないようだった。残された羽にも、寒気がするほど大量の苔が張り付いていた。
 私達は自分の背よりも少しだけ高い窓から中を覗き込んで、小屋の隅で膝を抱えるヤマメの姿を見つけた。以前橋の上で見かけた時よりも、一層小さく身体を丸めていた。着地して、堂々と正面の戸をあけた。数日放置したジャムのような臭いが充満していた。
 私は歩いていって、ヤマメを見下ろした。
「見つけた」と、私はいつもの調子で言った。
「……やあ、パルスィ。久しぶり」ヤマメの表情は伏せられていて見えなかった。返ってきた声はかすれてしまっていて、本当に私の名前を呼んだのかと不安になった。「なに、心配して探しに来てくれたの? うれしいなぁ、私もまだまだ捨てたもんじゃないね」
「キスメに頼まれたわ、あんたを探すのを手伝ってくれって」
「キスメに?」顔を伏せったままのヤマメの肩が小さく動くのを、私は見逃さなかった。「……なに、言ってた?」
「何も言わなかったわ。ただいきなり私の家にやって来て、探してくれって。私なんかを頼ってくるなんて、よっぽど錯乱していたんでしょうね」
 ヤマメは口を開かなかった。頭の上で束ねられた髪が小さく揺れた。
「それでこうして駆り出されて、色々と話を聞いたわ。みんな、あんたを心配してた。どうしてこんな場所にいるのよ」
「別に。ちょっと一人になりたかっただけだよ」
「嘘ね。あんたはそんな奴じゃない。ご丁寧に村紗やファン倶楽部の奴らに口止めまでする意味がないわ。あんたは何かを隠してる」
 ヤマメの身体が揺れた。
「さとりに隠し事はできない、か……」
「そういうことよ。この街にいる限り嘘は突き通せない。いつかはバレるなんてこと、知ってるでしょう?」
「あいつの友達でいる限りは、ね」
 ヤマメはまた塞ぎこんだ。沈黙を頑なに守り、身体をちぢ込ませる姿は一目見れば泣いているようにしか見えなかった。しかし、何故かそんな気はしなかった。
 私は小屋の中をゆっくり歩きながら言った。
「ラジオなんてものがやって来て、人気を奪われて、あんたは飛倉に手を出した。あれの力は大した物だものね。その気持ち、わからないでもないわ」
「なんでそうなるのさ」ヤマメはやっと、笑ったような声で返した。
「村紗には悪いけれど、あんたと村紗を繋ぐ物がそれくらいしか思いつかなかった。自分の背中を押してくれるものが欲しかったんじゃないかって、こいしが言ってた」
「それであんなものを手に入れようとしたって? 馬鹿なこと言わないでよ。どんなことがあったってそんなことしない。第一、何かあったときにはいつだってキスメが傍にいてくれたんだ」
「でも、あんたはそのキスメにも内緒で姿を消した」
 私はわざと大きな足音を鳴らした。ヤマメは顔をあげた。やはり、泣いてなんていなかった。笑ってもいなかった。表情が無かった。
「キスメは、どこにいるの?」
「お願いしにきたんでしょ、一緒じゃなかったの?」
「一緒だと思ってた。でも、嘘だったわ」私は語感を強めた。「勘違いで、人違いだった。キスメは私のところになんて来ていない」
 ヤマメは何か言いたそうにしたが、それを飲み込んだようだった。
「……それならなんで、キスメに頼まれたなんて嘘を」
「確認したかったのよ、あんた達の関係を。さとりの奴が言っていた事を本人から聞きたかった。あんたは言ってたわね、信じてやらないと始まらないって。悪いけれど、私はあんたを信じ切れなかった」

 ヤマメは小屋の中のどこかを見たまま、静かに、しかし叫ぶようにして言った。「私の傍にはいつだって、キスメがいてくれたんだ。この街で最初馴染めなかった時だって、何故かあの子は私の傍にいてくれた。最初はなんでだか分からなかった。でも、キスメは言ってくれたんだ」声が詰まり始めた。私はジメジメとした壁に寄りかかって、黙ってそれを聞いていた。「私が笑っているとなんだか自分も嬉しいって。嬉しかったよ、私のやりたかったことは間違いじゃないって思えた。私はその気持ちをみんなで分け合いたかった。キスメがいてくれたから、今の私があるんだよ……」
「でも、言えなかった」私はヤマメの言葉を遮るようにして言った。
「色々と話を気いてるうちになんとなく事情って見えてくるものなのね。まず、私の知ってるあんたがいて、聞いた話から可能性を絞り込んでいった。そうして残った可能性がなんとなく、形になった。所詮は想像で妄想よ。本当かどうかなんて分からない。でも、私達の知っている黒谷ヤマメが変わっていないとしたならって……ねえヤマメ、もう一度聞くわよ」
 靴が床を叩くたびに、足音と木の軋む音がしていた。私はヤマメを見下ろして、声を浴びせた。
「キスメは、どこにいるの」

 答えを待つことなく、私は思い切り左側に向かって飛んだ。すぐ後に空気を裂くような音が聞こえた。小屋の壁に背中をぶつけながら無理矢理に止まり、私の立っていた場所を見た。数時間前に見た色の炎が立ち上がっていた。
 私は舌を叩いた。
 揺らめく炎の向こうでヤマメが何かを言っていたが、大声の出し方を忘れたように、私の耳までは届かなかった。おそらく本当にそうだったのだろう。私は窓から外に出て、辺りを見回した。しかし、それらしい姿は見つけられなかった。
 炎はすぐに小屋を包み込んだ。水車が崩れ落ちていき、火の粉が舞う。いらないものを全部まとめて焼き払った時の様な、不快な臭いが立ち込めている。
 私がヤマメの名前を叫ぶと、炎の影からヤマメと、もうひとり、特徴がありすぎる姿がゆっくりと現れた。誰よりも小柄で、地面に足が着いているのを見たことが無い、間違えようも無い姿だった。私はとっさに足に力を込めて、それを見据えた。いつもとは逆だった。ヤマメが手を引いて、キスメの前を歩く。それがいつも私の見ていた関係だった。

 私はもう一度ヤマメの名前を呼んだが、動いたのはヤマメではなかった。こちらを見たキスメの視線は村紗が男に向けていたものと似ていて、背筋を何かが走っていった感覚があった。
 私は足を動かそうとした。そこへ正確に火球が打ち込まれた。靴の先端が焼けて、不快な臭いが鼻を突いた。私は足元を見て、キスメのほうを見た。ヤマメの前で小さな身体を精一杯に広げていた。
「もう、構わないで」キスメは言った。久方ぶりに聞いた声は記憶のどこにも存在していないような、深く沈んだ声だった。違和感があった。違和感しかなかった。こいつは、少なくともこんなことを言える奴じゃあなかった。
「……私が、ヤマメちゃんを守るんだから」 
「そういうわけにもいかないのよ」
 私はマフラーを払って、答えた。「ヤマメ、あんたのこと待ってくれてる奴が沢山いたわ。団子屋の主人はあんたが来てくれないと商売に色が足りないっ言ってた。あんたがわざわざ口止めしてまで動かせなかったファン倶楽部の連中もね、死体みたいな表情しながら、それでも探さないでくれなんて言葉を信じて、あんたのことを信じて、待ってた。街のアイドルを気取ってた黒谷ヤマメはね、こんな場所で不貞腐れてる資格なんて持ってないのよ」

 私はゆっくりと腕を振り上げた。まずヤマメを指差し、キスメに向ける。
「飛倉の力を手に入れたのはキスメ……あんたのほう。口下手なあんたのことよ、落ち込んでいるようにしか見えなかったヤマメに、何も言わなかった。いいえ、言葉が見つけられなかった。いつも傍にいたのに、どうすることもできなかった」そこで一度言葉を切った。「後押ししてくれる何かが必要だった、ヤマメの力になるために」
「それっていけないことなの?」
 首を傾げて、キスメは大きく手を広げた。焼け石に水といった程度であってもキスメの姿が大きく見えているのは間違いなかった。吊り下げているわけでもないのに、桶が大きく左右に揺れた。
「私はヤマメちゃんを守れるだけの力が欲しかっただけだよ。これが原因で大変なことになってるっていうのは聞いたこともある。だけど私は誰かを傷つけないよ。ヤマメちゃんの力になるために、それだけの為でいいの」
 言葉に込められた感情が薄く、口調が軽すぎるように感じた。
「私にどうしろって?」
「私は言ったよ、もう構わなくていいって。ヤマメちゃんには私がついてるから」
「……あんたは、それでいいのね」
 私はじっと、ヤマメをにらみつけた。目線を逸らされる。私にはもう何も出来ないということだけがわかった。身体の奥底から何かが逃げていくのが分かった。私は片手を挙げた。
「わかったわ。私はこれ以上干渉しない。こいしもヤマメが無事だってわかれば幾らかは落ち着くでしょうよ。あんたらはどうとでもなるといいわ」
 少しばかり言葉に棘が混じったかと思いながら踵を返した。言った言葉は嘘だった。古明地こいしにとって、どうせこんなものは関係の無いことだろう。私のように振り向かず、あいつは大声で言うのだ。「やだ!」って。それでもヤマメ本人があの様子ならばどうしようもない。熱い息が際限なく溢れていた。そして、喉が鳴った。

 突然、世界が激しく揺れた。背中に何かがぶつかってきて、なし崩しに体勢が崩された。続いて、二回目の衝撃が襲ってきた。焼かれるような感覚と単純な痛みが全身に広がっていった。見ているもの全てが著しく歪んだ。膝の力が抜けていって、折れそうになった。無理矢理に体勢を立て直して後ろを向くと、三回目の鬼火がこちらに向かってきていた。
 私は慌てて横に飛んだ。すぐあとを、ふたつの火の玉が通っていった。私は湿った地面に手を付いて一度横に転がった。膝立ちのままで、はっきりとキスメを見た。

「酷いわね、何もしないって言ったじゃない、私は誰にも言わないって」
「うそ!」キスメは悲鳴のような叫び声をあげた。「絶対にうそ!」
 私が何かを言うよりも先に、キスメの周りを火の玉が包み込んだ。キスメは一度上昇してからそれらをこちらへ向けて一斉に降り注がせた。避けきれるものではなかった。何度か弾幕ごっこの際にキスメの力は見ていたが、今私に向けられている火玉の大きさはその三倍はあった。私はみっともなく走り回って数発は回避した。しかし際限なく降り注いでいるものは反撃のしようもない。今見えている数十発の残弾が出尽くす頃には対処の方法なんて残っている筈も無い。
 隙間無く続く雨から逃げ続け、気がつけば回りは火の海になっていた。逃げ場の無くなった地点に正確に火の雨は降り注ぐ。
 私に防げるはずも無かった。一瞬だけ、意識がとんだ。

 ……私はもう知らないといったのに、酷い仕打ちだ、そんな考えが浮かぶくらいには、私の身体は頑丈に出来ていてくれたらしい。どうにも思うように動いてくれない程度には、貧弱なのだけれど。
 ずっと遠くで、ヤマメの声が誰かの名前を叫んでいた。同じくらいの場所で、笑い声が聞こえた気がした。そして、目の前にくたびれたブーツが下りてきて、地面を踏みしめた。
 私はなんとか首から上だけを動かした。見上げた視線の先に、そいつは居た。
 いつから居たかなんて見当がつかなかった。
 村紗は私の横を無言で通っていった。私は倒れたまま、すれ違いざまに呟いた。「もう、どうしようもないわ。こいつら」
「話は大体聞いたよ。でも、関係ない」
 すぐに地震に似た衝撃が足元から伝わってきて、私は反射的に振り向いた。村紗の手にあった鉄の錨が地面に突き刺さっていた。私には村紗の背中しか見えなかったが、キスメの表情からどんな顔をしているのかは簡単に想像できた。
「ずいぶん集めてくれたみたいだね」と、感謝の意すら篭った調子で村紗は言った。
「……ヤマメちゃんを守る為だもの」
 キスメはどう対応したらいいのか迷っているようだった。言葉を発するとき以外は口を硬く閉ざし、それ以外のものを見せないようにしているのが分かった。
「だから見逃せって?」
「いけないの?」キスメは私に言った事をもう一度言った。桶を握って、村紗を見据える。「パルスィは、見逃してくれたよ」
「こいつと一緒にしないことだね。私はそんなに甘くない」明らかに声が大きくなった。わかっているのか、空いた左手で私を遮る。「こいつは結局、あんたらを信じてるだけなんだよ。どうにかなるってさ。でも、私は違う。そっちにどんな事情があるかなんて関係ないよ、ただ、その力を使わせるわけにはいかない。それは私達のものだ、返してもらう」
 村紗の言葉から感情というものが死んでいくようだった。キスメは桶にしがみつく。本能的に感じてしまったのだろう。
 こうなった村紗水蜜は簡単には止められない。全部の感情が一点のことに向けられてしまって、身体にも心にも一本の芯が通る。それをへし折れる奴なんてそうそう居ない。
「や、やだ……」
「駄目だ」
「私達にも、これが必要なんだから……」
「違う」
「違わない」
「少なくとも、達、じゃない。最初はそうだったかもしれない。だけど今は違うってハッキリとわかる」
「違う!」
 キスメは悲鳴の混じった叫び声をあげる。村紗はピクリとも動かなかった。
「同じようなことを言ってた奴を何人も見てきたんだよ私は。確かに最初はそうだったのかもしれない。誰かの為に強くなりたかったのかも知れない。だけど、その欲望が際限なく膨らんでいって、最初の願いなんてすぐに消えていった。この街はどうかしてるよ。強さへの願望が半端じゃない」村紗は何かを笑うように身体をゆすった。「私だって同じだった。この力さえあればって自惚れてた。実際そうなのかもしれないけれど……これさえあれば、私の願いは叶うのかもしれないけれど──」
 村紗はそれを取り出して、顔の横で握るようにして持った。ほとんど人形のような動作だった。キスメの声が静かに、鋭くなった。
「……そっちだって、持ってる」
「使い方を知ってると言った。これを持ってる奴は、何があったって誰かを泣かせちゃいけない」
「私はヤマメちゃんを泣かせてなんか……」
 キスメは意識を後ろにやった。村紗はこちらを向けとばかりに言い放った。
「そうだよ。もう、気付けない」
 錨を握る。まだ振り上げなかった。代わりに一歩踏み出して、錨とキスメの間に入るようにして、這う様に低く、腰を落した。 
 それを攻撃の意思と判断したのか、キスメのまわりに鬼火が浮かび上がり、ぐるりと取り囲んだ。一つ一つがキスメほどの大きさの炎は桶を囲むようにして回転し、やがてキスメの頭上に集まった。
 村紗は両手で錨を握り、引き絞ったパチンコ玉のように飛び出した。同時に、鬼火が村紗に向かって打ち出された。ふたつの大きさはほぼ同じだった。しかし、村紗が自分ほどの大きさの火の玉に無謀に飛び込んでいく光景にしか見えなかった。私は二度、否定した。無謀な行為と考えるのは今の状況を知らない者が見た場合の話だ。村紗水蜜は死なず、負けない。所詮は理屈や実力の話ではない、ただの心構えの話だ。しかし、はっきりと分かっていることだった。
 村紗はただ、ひとつ声をあげて、手にした錨を横薙ぎにするだけでよかった。
 それだけで火の玉は卵の黄身のような脆さで散っていった。
「なんで!」
 キスメが喚き、再び同じ大きさの──幾分か大きくなった鬼火が村紗を襲う。全て無駄だった。村紗がキスメの場所まで飛んでいく間に放たれた攻撃は、錨になぎ払われ、時に柄杓の水にかき消され、一発たりとも本人に届くことはなかった。
 キスメはそのたびに後ろに下がり、それよりも大きな歩幅を、村紗は歩いた。
 もう一振りで届くというところで、キスメは何かに滑った時ように桶ごとひっくり返った。尾を引く髪の毛を凪ぐように、錨が振るわれる。キスメの身体はそのままの流れで村紗の後ろに回りこみ、一気に距離を離した。
 村紗は─薙ぎにしていた錨をそのまま一回転させた。キスメの桶をかすめ、抉り取っていった。キスメの細く白い足が桶から零れ落ちた。体勢を崩されたキスメを村紗は回転のままに蹴飛ばした。ほころびの生まれていた桶は、爆発されたように砕け散っていった。
 キスメは跳ね回るように地面を転がっていった。私はそれを確認してから、すぐにヤマメのほうを見た。十メートルほどの距離からでも唇が震えているのが簡単に分かった。私の視線を合図にしたかのように、走り出し、キスメの傍に寄っていった。足取りはおぼつかなくて、誰のものかもわからない。私達はそれを黙って見ていた。

「スタートがなんだったとしたって、そんなのは関係ないんだ」
 村紗が私の隣で欠片を眺めた。バラバラになった桶は全てがそれで出来ていたのだろう。村紗は怠惰といえるほどゆっくりとした動作で足元に転がったものを拾っては、上着の中に突っ込んでいった。
「黒谷ヤマメは自分の為に大事な友人が狂ったという罪を、キスメは自分が原因で大事な友人を傷つけたという罪を背負う。私もあのふたりの姿は何度か見たことはあった。だけれど、これからは何をしていたって罪の錨が離れない。小さなしこりかもしれないけど、もう二度と、同じようには戻れない。これが、こんなのがゴールだよ」
 村紗は唇を噛んだ。手の中で、飛倉の欠片が真っ二つに割れた。
 私は何もいえなかった。ただ、無残に地面に転がったキスメを抱き上げてそのまま抱きしめ、謝り続けるヤマメの姿を黙って見ていることしか出来なかった。何故言葉を返せない、と考える。私は同意の言葉を簡単に返せるはずだった。それを返せないのは何故、と。
 結局私は村紗の言うとおりに、あいつらの事を信じてしまっていたのだろうか。たとえキスメがあのままで、ヤマメがそれを否定しきれない姿のままでも、自分達で解決できるのだと。
 なんて甘い考えだ私。お人よしとかそういう好意的なものが微塵でも混じるものではない、それはただの楽観でしかないじゃないか。
 村紗水蜜と出会ってからの私はこんな感情ばかりを味わっていると、事あるごとに痛感する。確固たる目的をもち、それに向かってひたすらに突き進む姿を見せ付けられて、手元を見返せば、酷く惨めな自分がいる。
 望んで人間を捨てた私と、望まずに妖怪となった彼女。
 それだというのに、私の望んだ強さを村紗は手に入れた。
 泣きたくなる。何をしているのだろう、私は。





 11

「これは?」
 私はテーブルの上に乗せられた紙束を見て、顔をあげ、向かいに座る男の唇に注目した。乾燥しきってしまっていて、大きく開いたならばあっという間に血を流してしまいそうだった。今朝髭を剃ったばかりに違いない。顎に出来た剃り跡は規則正しく不摂生だった。
「見て分からないのか、常識を知らないと見える。私は、これで貴方に依頼をするのですよ」
「あいにくと、最近は立て込んでいてね、他を当たってくれると助かる」
「それならば安心したまえ、私の依頼はすぐに終わる」
「聞きましょう」
 彼に必要なのは髭を剃ることよりも先に唇にクリームを塗ることだ。それも最高級の、女性がどこかで捕まえた男を騙して買わせるような代物を。
「貴方に暇を与えたいのだよ。有体に言えば今やっていることをすぐにやめてもらいたい。どういう意味かはわかるだろう、そして、私の見立てでは、貴方は常識は無いが愚かではない。言葉の裏の意味を読み取れる人間だ。だから余計な事は言わない。スマートな仕事が好きなんだ。ただ黙って、これを受け取ってくれればいい」
「あいにくと、少しばかりふくよかな女性が好みなものでね」
 テーブルの上の紙切れが増えた。男は自分の顎を小枝のような指先でなぞった。
「趣味が合わなくて残念だよ。だが、私は依頼者だ。そちらが要求するのならば出来るだけのことはしよう。しかし、これで限界だ。君もこれだけあれば十分だろう、さあ、受け取りたまえ、そして、ゆっくりとどこかへバカンスにでも行ってみてはどうだ」
「お勧めを聞きたいな、今までの旅行はどこへ?」
「私は簡潔に事を運びたいのだよ。分かってもらえないのならばこちらも依頼を取り下げなければならない。どちらにしても不利益な話だ」
「損はしたくないね」
「ならば受け取るべきだ。お互いの為に」
 私は珈琲カップほどの高さになった紙束に手を伸ばした。男の表情が一瞬緩んだ。しかし、すぐにまた雲って、溜息に変わった。私は突き返した紙束の頭を人差し指で叩いた。
「悪いが受け取れないな。理由は簡単、気が乗らないからだ」
「愚か者だったようだな」
 すばやい動作で114口径が私の方を向いた。私は銃口を睨みつけて、言った。
「ああ、なんとでも言ってくれ。もっとうまく立ち回れれば楽なんだがね、どうにも、そうはいかないらしい」
「そんなことで人生を丸ごと損することになるぞ」
「そうかもしれないな。気付いているか? そっちが撃つより先に、私はあんたを仕留められるんだぜ」
「はったりだ」
「試してみるかい」
 銃が降ろされた。私はテーブルの下から左手を出し、引き金に手を掛けたままで正確に心臓を狙った。
「後悔することになる」と、男は言った。声色を変えない辺りは評価できるのかもしれない。
 男は金を懐に戻して立ち上がり、此処が自分のアジトであるかのように堂々と、出口に向かって歩いた。私の左手はそれを追った。ドアが開けられて、男がドアに滑り込み、姿を消すまで。
「もう一度聞く」と、姿を消す寸前で、男は言った。「手を引くつもりはないか」
 私は言った。
「断る」
 ドアが閉まった。

「……なぁんて言えれば、どんなに簡単な話だったことか」
 私はしおりを挟んで本を閉じ、机の上に投げ出した。そのまま机の上に腰掛けると、さとりは自分の読んでいた本を閉じ、私の全ての動作に向かって半目の眼差しを向けた。
「机の上に座らないでもらえますか? 失礼です」
「それなら客用の椅子くらい用意しておきなさい。あんたの部屋、自分の椅子しかないじゃないの」
 さとりは自分よりもずっと大きな椅子に乗せていた身体を思い切り右にずらして、肘掛に寄りかかった。
「あいにくと、来客が少ないもので」
「そんなのだから、こいしがやたらと私の家にあがりこんでくるんじゃない。あの子がゆっくり出来るスペースでも作ってやりなさいよ」
「あるじゃないですか、もう」
「それが他人の家っていうのはいただけないわ」
 私は飲みかけの紅茶を一気に飲み干した。カップを置いて、うんと身体を伸ばした。
「何読んでるの?」
「やけどに対する対処法。他の怪我の治療に関するものも調べましたが、どうやら唾液というのは消毒作用があるようですね。怪我を見せてください。舐めてあげましょう」
「聞いた私が馬鹿だったわ。遠慮しておく。……それじゃあキスメは? まだ目を覚まさないの? もう丸々一日経っちゃうじゃない」
「村紗さんの話では今まで死に至ったような例は無いという事でしたが……流石に心配になりますね」
「自分の使っていた桶を丸ごと欠片で作り直せるほどに溜め込んでたのよ。キスメがあの小さな身体にどれだけのものを溜め込んでたかは知らないけど、それが爆発したらどうなるかなんて想像したくも無いわ」
「ヤマメに楽をさせてやりたい、彼女が望んだのは確かにそれだったのでしょう」さとりは言って、身体を小さくした。「しかし、それを叶える為に得た力は彼女の奥底にあった感情すらも引き出してしまった」
「難儀なものね、身に余る力なんて手に入れるものじゃないわ」
「それは、後悔?」
「違うって」
 深く息を吐く音が聞こえた。さとりはそのままカップに手を伸ばした。しかし、その中身がなくなっていたことに気付くと、何も言わずに睨みつける。私は欠伸で答えた。
「奥の部屋にベットがありますけど」
「断る。柔らか過ぎて気持ち悪いわ、あれ」
「地底の最高級品ですよ」
「リッチな生活なんて、性に合わない」
「結構贅沢な生活してたじゃないですか」
「昔の話」
 一晩中そんなどうでもいいことをしていて、流石に睡眠欲がどんなものよりも先頭に立ってしまいそうだった。珈琲は飲み飽きてしまった。代わりに特大のポットの中に用意された紅茶も、唾液すらも汚染されそうなほど飲んだ。
 部屋のドアがゆっくりと開かれた。現れた村紗は私達と同じで休んでいないというのにまったく疲れた様子を見せない。それでも、右手で持った帽子は落ち着くことをしていなかった。
「キスメが目を覚ましたよ」と、村紗は言った。
 さとりが何か言おうとしたが、村紗はそれだけで、すぐに部屋を出て行ってしまう。
 さとりは呼び止めようとして伸ばした手を引っ込めた。
 私達は顔を見合わせて、肩をすくめて、その後を追った。

 地霊殿にキスメを運び込んだのは目を覚ましたキスメに事情を聞く為だ。村紗のいうには、あれだけの量と大きさの欠片を集める為には特別なことをしなければならないだろうということだった。それが何かまでは言わなかった。想像に任せた結果、さとりに物凄い勢いで睨まれ、脛を思い切り蹴られたので、私はそれ以上を言うのを止めた。
 さとりがノックをして、部屋の中から小さな返事が帰ってきてから、私達は中に入った。この屋敷の客間は相変わらず滅多に使われることがないもので、一応の清潔さは保たれているが所々──隅っこについては手つかずだ。
 真っ白なベットの上に、キスメは寝かされていた。いつも装束を着ているうえに身体の殆どが桶の中にあるものだから、一目見たときには着ているものがこの屋敷からの借り物だとは気付けなかった。いつもふたつにまとめられている暗めの緑色の髪は、今は拘束もされずに、シーツの上に針葉樹のように投げ出されている。ヤマメはベットから零れ落ちているキスメの手を握り締めて、ベットにすがり付いている。目の周りが焼け落ちそうなほどに赤かった。今でも謝り続けて、手を握り続けていた。ごめんなさい、と、ふたりの言葉が永遠に続いてしまいそうだった。
「……悪いけど」
 永遠を壊し、村紗はベット横の木製の椅子に腰を下ろして、顔の前で指を組んだ。
「話してもらうよ、どうしてこうなったのか」
 ふたりは俯き、唇を結んでしまった。なんてデリカシーのない始め方だ。数日前の男の時も同じだった。こいつの質問はいつだって唐突で、最短距離を真っ向からぶつかってくる。それに対する回答なんてものは一言で終わるか、
「……私が、悪いんだよ」
 無駄に長い、分かりきった説明になってしまうのというのに。
「ラジオの声が、この街を包んだ。それが始まり」ヤマメの言葉は、一言ごとに唾を飲んでいるような早さだった。「これでも街のアイドルを気取って、誇りも、意地だってあったんだって気がついた。……ううん、最初からそうだったのを、思い出したんだ。私はこの街を照らしてあげられる存在になりたかった。最初にこの街を見たときに、そう決めた」
 村紗はせかすことをしなかった。ただじっと、ヤマメの言葉を待った。
「キスメは──」また、ヤマメは握った手に力を込めた。「そんな私のことを好きだって言ってくれた。そうして、一緒にいてくれた。楽しいときも、辛いときも、すっと、そばにね」
「いいよ」と、キスメがほとんど聞き取れない声で言った。
「いいんだよ、それはとっても嬉しいことだったんだから。私なんていらないんじゃないかってさ、思う時だって一度や二度じゃあなかったんだよ。今回は強烈だったけどね。パルスィ、謝るよ。嫉妬心って奴を、私は甘く見てた」
 私は何も言わなかった。ヤマメは綻びだらけの髪の毛を大きく揺らした。
「私はフランドールに嫉妬を覚えた。私の大好きな街が笑ってる。最初はそれで十分だって思ってたんだけどね、いつからかそんな感情は我慢できなくなっちゃってた。そうして、自分の中にあるそういう気持ちと向き合わされて、初めて見えてきたものがあったよ」
 ごめんね、と、何度目かも分からない言葉をキスメに向ける。頬を撫でる指先にキスメは表情を崩した。
「キスメは確かに、アイドルやろうとしてた私を好きになってくれたのかもしれない。だけど、それで我慢できるはずなかったんだ。いつだってキスメは、一番になりたかった。一番近くで、一番好きで」
 おそらくその言葉は、もう数時間早く言うべきだったのだろうと思う。自覚と無自覚には、とりかえしのつかないほどの違いがある。
「ちっとばかし行き過ぎただけなんだ。だから、キスメは悪くない。悪いのは私だよ。パルスィのいった通り、私は俯いちゃいけなかったんだ、たとえ強がりでも、無理矢理にでもね」
 ヤマメの手を振り解くように大きく、キスメは首を振った。「違うよ」
 笑っていた。キスメは誰かを笑って、口元を歪ませる。久しぶりに聞いたキスメ自身の声は、記憶の片隅にあったものよりもずっと明瞭だった。
「半分だけ。半分だけ正解なんだよヤマメちゃん。確かに、見たくなかったっていうのはあったけど。ヤマメちゃんはいつも明るくて、みんなと笑ってたから。それに比べて私は、自分の言いたいことも言えなかった。好きだよヤマメちゃん、ずうっと、好きだったよ」
 キスメは自分の指先を見つめた。病的なまでに細くて、白い。何も持てないような指は確かに震えていた。 
「好きで、羨ましくて、妬ましかった。近づきたかったし、傍にいたかった。……隣で、一緒に。そう思ってたはずだったのに」キスメは拳を握った。あっというまに赤くなった。「そうだね、私はただ、隣に居られるだけの力が欲しかったんだ。いつも私は、自信がなくて、後ろで見ていることしか出来なかったから」
「それでもよかったんだよ、キスメ」言って、ヤマメはキスメを抱き寄せようとした。キスメは小さく頷き、身体をよじった。
「それだけでよかったはずだったのに。……あの欠片は、力をくれたんだ。私にいっぱいの自信をくれたんだよ」流れるように、キスメの視線は壁に向けられた。「言いたいことはなんでも言える気がした。何でも出来るような気がした。でも私ね、欲張りだったんだ。気がついたら、独り占めしたくなってた。その為にもっと、力が欲しくなった。もうね、なにが欲しいのか、分からなくなってた」
「それで欠片を奪って、集めた」と、村紗は言った。
「数を増やすたびにヤマメちゃんに近づける気がしたの。それで──」
「事情はわかったよ」
 村紗は話を断ち切って立ち上がり、口元を手のひらで覆った。目を細め、つやの無い黒髪をかき乱した。深呼吸をすると、温度を感じない表情をふたりに向けた。
「気持ちはわかる。だから責めるつもりは無い。でも、もうこんな事を起こさせるわけにはいかないんだ。話してくれるね、過程ではなく最初を。……どこで、どうやって手に入れたかを」
 その質問になったとたんに、キスメの舌は回転を止めた。薄い桃色のシーツに皺が寄った。その手に、ヤマメの手が重ねられた。キスメを覗き込むようにして見た。
「キスメ、話して。なにがあったって、私は嫌いになんてならないから」
「……言いたくない」硬く瞳を閉ざす。「思い返したくない」
「キスメ」
「やだ、それだけは……」
「別にそいつをとって食おうってのじゃあない」
「分かってる、だけど──」
 キスメが言葉を戸惑った拍子に、私の身体になにかが倒れこんできた。
 崩れた体勢のまま、血液まで届くような吐息が首筋を走っていった。うそ、という言葉を聞いた。呼吸をするたびに同じ速さで心臓が喚き、強張った。
 さとりは瞳孔を開いたまま私に寄りかかって、不規則に深呼吸をした。落ち着く様子は無かった。まるで呼吸のたびに新しい毒を飲む込んでいるように。
 私は正面からさとりの両肩を掴んだ。さとりの身体は紐が切れた人形のように動いた。
「──離して!」
 さとりは両手で私を突き飛ばした。壁を叩くようにドアを開け、耳を塞ぎ、逃げるように部屋から出て行った。
 私は呆然とそれを見て、村紗に名前を呼ばれて初めて、その跡を追わなければいけないことに気がついた。

 数秒の間で後悔の念が胸の中を支配してしまっていた。
 知りたくないことを知ってしまったことは明らかだった。私のなかにあった些細で漠然とした不安が、確かな形を持ち始めたのがわかった。いくら考えないようにと思っても、それ自体が思考となり、さとりには伝わってしまう。そして古明地さとりという奴は、自分の知りたいことに対しては異常なまでの好奇心を見せるくせに、おかしななところで打たれ弱い。
 そう、たとえば、身内の事だったりだ。
 足音はどこまでも果てしなく続いていくようだった。部屋から飛び出した私は左右を見回して、それを追うべきかを迷った。甲高い足音だったからだ。さとりは年中スリッパ姿で、部屋から出てすぐのところに膝を抱えてうずくまっていたからだ。迷う暇なんて無かった。私は足音を追わずに、さとりの肩に手を置いた。
「何をみたの」
 酷い言葉だ。だから私は、出来るだけ静かに言った。さとりの身体は一定の間隔で大きく跳ねるばかりで返事をしてくれなかった。私はじっと待った。足音が聞こえなくなってから暫く待ってやっと、震える声が聞こえてきた。
「……気付いて、いた?」
「なにを」
「とぼけないで!」
 私は身を屈めて、さとりの顔を覗き込むようにした。ほんの少しの時間だったというのに、目の周りが真っ赤だった。
 私は目を逸らしたくて堪らなかった。さとりの前でそんなこと、出来るはずがなかった。
「考えたくなかったのよ、そんなこと」
「でも、薄々は感づいていたんでしょう?」
「なんの根拠もない、悲観視が過ぎて生み出された妄想よ、本当であるはずが無い。本当だったとしても、きっとなにか理由があったに決まってる。そうじゃなきゃ──」
「でも、事実は変わらないんです」
 口の中の上下の歯が、何か言おうとする舌先を必死に押さえつけた。さとりの両手が伸びてきて、私の襟を掴んだ。思い切り引き寄せられた。真っ赤に染まった顔と、薄く光る瞼と、熱すぎる吐息が間近に迫った。
「幾ら想像を重ねたって現実は変わらない。貴方はいつもそう。物事を楽観的に考えて、それで後悔して、それでもまた、甘い考えを繰り返す。気付いたときには大事なものがなくなっている。何度そうして泣いてきたかわかっていますか? 分かっているんでしょう?」次第に声色が昂ぶって、「そんなのだから人間を捨てるなんてことになったのに! 貴方が誰を信じてきて、誰に裏切られてきたか、私は全部……ぜんぶ、知っているんですよ? そんな後悔を見せ付けられて、思い返されて──」さとりは俯いて、語感は消えてしまいそうで、「それなのに、どうしてまだ、あの子のこと信じてあげられるの……」
 さとりの身体が崩れ落ちる。
 私は言葉にも出来ない否定をした。
 
 違う。そんなのじゃない、と。
 さとりが見たものはおそらく事実だ。キスメに欠片を渡したのがこいしだとすれば、どうして私があの子を信じてやれる。事実すらも信じないと、そう言いたいのか私は。そんなはずは無い。それなのに、私はさとりに何も言えていない。
「勝手な話ですよね」と、さとりは私を掴んだまま自嘲した。「お願いされて浮かれてしまって、心配している風にしておいて、結局はあの子を野放し。ペットと同じです。私はあの子が間違えないように、傍にいてあげなければいけなかった、でも、それをしなかったんです。本当に楽観的だったのは、私。信じてあげることも、心配することすら、やらなかったんですから」
 そんなことない、それすらも言えなかった。さとりはそんな無言をも否定し、首を振る。
「貴方は結局、こいしの傍にいてくれたんですよ。私もそうするべきだったんです。それなのに、私はあの子が伸ばしていた手をとらなかった」さとりは右手で自分の左胸を押さえつけて、握った。「私はあの子の手を離すべきじゃなかった。ずっと、目の届く場所に居させるべきだった」次第に声は加速していく。同時に小さく、細くなっていく。
 さとりはまた自嘲した。上擦った声が笑っているという錯覚を生み出していた。
 「そうですよ、外との繋がりが殆ど無い子だってあんなに楽しそうなのだから。家に居させたらいいんです。永遠に不自由はさせません。欲しい物はなんだってあげましょう……たとえ、皆にそれが妹を監禁する姉だと呼ばれたって、私は──」
「馬鹿なこと言わないでよ!」
 さとりの言葉を塞ぎ、気がつけば叫んでいた。
 一言で喉が焼き切れていた。言葉は長い廊下で反響し続けて、自分が何を言っているのか嫌でも思い知らされた。
 馬鹿なことだ、何を言っているんだお前は、と。
 しかしまて、私は馬鹿と言ったか? 監禁結構、一番早くて、確実じゃあないか。あの子を鋼鉄で出来た部屋にでもぶち込んで、決して外には出さないで、たまに相手をしてやるんだ。それこそ大事なペットのように。それと欠かせないのは首輪だ。頑丈に作っておけば逃げられないし、外さない限り動くたびに音がする。こいしの隠密移動だって、付随物が大声を上げてくれれば嫌でも気付くさ。どうだ、手は掛からない。間違いなんて起こしようもないし、誰かに迷惑を掛けるなんて事もありえない。もちろん部屋の中で何を言っていようと聞いてやる必要は無い。だって硬く閉ざされた扉の向こうに居るのは、大事に育てられて、間違いなんて知らないものだ。物に話しかけると育ちがよくなるという話があるが、それと同じだ。こちらからは何かを話す。向こうからの返答は無くともよい。生きているかも死んでいるのかもどうでもよい。無関心でいい。手間が掛からない。だってそれは妹なんかじゃなくて──

 乾いた音がした。
 叩かれた頬だけが温かい程度で、頭は不思議なほど冷静だった。
「ふざけたこと、考えないで」
 さとりは俯いたまま呟いて、私を引っぱたいてくれた右手を握った。声はこれまでに無いほどに震えていた。
「ふざけてるのはどっち。これはあんたが言ったことよ」
「違います」
「違わない」
「そんなこと、言ってません」
「それならあんたは、何を言ったっていうのよ」
「それは」言いかけて、さとりは言葉を切った。
「同じよ。あんたが言ったことと、私が考えたことは」
 さとりはいきなり顔を上げると、涙を溜めた瞳で睨みつけてきた。そうして大きく頭を揺らした。髪が乱れて、涙がこちらにまで飛んできた。
「それなら、どうしたらいいって言うんですか!? あの子の考えてることなんて分からない。何をしようとするかも、分からないんです。怖いんです、私は。自分の妹がですよ? でも……分からないのは怖いの……私には、あの子のことが何も……」
「情けないこと言わないでよ。あんたはこいしのお姉ちゃんでしょう?」
「駄目な姉なんです。一番大切なときにばっかり、傍にいてやれないんです」
「それなら」私は何かを言おうとした。見つけられる言葉は無かった。「……信じてやりなさいよ」
 さとりが跳ねるような勢いで私の服に掴みかかった。呼吸に苦しさを覚えた。真っ赤に染まった顔は、それに相応しい表情を浮かべて、くしゃくしゃになっていた。
「貴方はそればっかり! 信じて事実が変わるのなら、いくらでも信じます。でも、そんなのはない。……無いんです! 信じたところで何も変わらない。変わった事なんてなかった! そうでしょう!?」
 私はやけくそに叫んだ。
「ああそうね! いっつもそうよ! 私はいっつもそうやって後悔してる! 仕舞いに人間やめて、それでもこのザマよ! ……でもね、こいしはあんたの所に来た。ヤマメを探してくれってね。その意味くらい、分かってるでしょう!?」
「私はあの子のお姉ちゃんなんです!」 
「信じてやれって言ってるのよ……あんたが!」

 ふたり分の叫びが地霊殿の廊下を走り去っていって、何度も返ってきた。お姉ちゃんが。信じなさい。私は。誰が? 決まってる。 
 自分でも驚くほどに苛立っていたことに気付かされる。何に、と考えても考えなんてまとまらない。視界がおぼろげで、肺に大きな穴が空いたような息苦しさだけがあった。
 音が消えてから、私達は同時にお互いの服を離した。さとりの両腕が私の身体をなぞるように、ゆっくりと落ちていった。鼻を啜る音を何度も聞いた。口の中の震えが止まらなかった。自分が何を言ったかなんて、嫌になるほど思い知らされている。これだから広い屋敷っていうのは嫌いだ。
 さっきから飽きもせずにベラベラと。信じてやれって?
 ……まったく、お前は何を言ってるんだ、橋姫。
「パルスィ」
 続く反響の中でポツリと、名前を呼ばれる。熱が全部抜け切ったような声だった。さとりは顔をあげて、私をジッと見つめた。腫れた目元が怒っているようにも、どうにでも見えた。一度鼻を啜って、目を擦って、大きく息を吸った。
「それでも私は……信じられないんです」
「わかってる。心が読めないとほんと、あんたって役立たずね」
「そうかもしれません」さとりは目を伏せて、微かに口元を緩ませた。
 そうしてさとりは、何かを言いかけた。「だから──」
 開け放たれたドアが、全ての音を掻き消した。身体を離し、慌てて振り向くと、村紗が大きく肩を動かしながら立っていた。
 村紗は私達を一瞥すると、そのまま重い足取りで歩いていった。深く被った帽子で表情は見えなかった。
 さとりは右手で目を擦った。
 私達は立ち上がって、開けっ放しのドアから部屋に戻った。
 
 部屋の中でヤマメ達は何かを話していたようだったが、私達が部屋に入ると、不思議な生物を見つけたような眼差しを向けてきた。話をして、いくらか落ち着きを取り戻したのだろう。さっきまでのような雰囲気は感じられなかった。さとりの様子に気圧されただけかも知れないが。
「大丈夫?」と、ヤマメが恐る恐る聞いてきた。また服を引っ張られた。
「はい」とだけ、さとりは言った。それを見ると、ふたりは控えめな笑みを浮かべた。
 私は村紗が消えていった方向を見ながら言った。
「あいつはどうしたのよ。血相変えて出て行ったけど」
「欠片を貰ったときの事を話したの」と、キスメは呟いた。「その、こいしちゃんが……って」
「そうしたらあいつ、いきなり壁を叩いて出て行ったんだ。自分の大事なものを、他人に間違った使い方されたって知ったら怒るのはわかるけど」
「なんだか、あの人怖かった」自分の身体を抱いたまま、キスメは言った。「欠片を持っていたときもそう。あの力があれば誰にも負けない気がしてたのに、あの人はそんなのとは別の何か……よくわかんないけど、絶対に勝てないって、そう思った」
 私は言った。
「あいつは死ねないのよ。幽霊だからってのじゃなくてね、以前言ってたわ。自分は誰かが想っていてくれる限り死んでやれないって。あいつは欠片を集めて、この街を出るって決意をしてる。それが村紗水蜜の強さってやつよ、きっと」
「そっか」キスメは私と同じ方向を見て、「かっこいいね」
「でも、あいつは辛いんだろうね」今度はヤマメが言った。「目指すものがあるって言ったって、それにたどり着けるかどうかも定かじゃない。むしろ、こんな光景ばっかり見せ付けられてさ。もちろん見たくないものは見るな、なんてことは言わないよ。それでもあいつは、なんだか……」
「危なっかしい、ですか。大丈夫ですよ、彼女は」
 遮るようにしてさとりが一歩、前に出た。
「なんでそう思うのさ」と、ヤマメは聞いた。
「村紗水蜜もひとりじゃないから」さとりは即答する。「さあ、追いましょうかパルスィ。彼女はヤマメ達から話を聞いて飛び出していった。私達の知らないなにかを知っているかもしれません」
 さとりは答えを待つまでも無く、くるりと踵をかえすと、足早に部屋を出て行った。
 私はそれを見送ってから、肩をすくめてヤマメ達を見た。ヤマメは白い歯をむき出しにして笑った。
「随分と回復早いじゃないか、パルスィ、いったい何言ったの?」
「何も言ってないわ」
「じゃあさ、何を思ったの?」
「さあね」

 私は部屋から出て、さとりの背中をすぐに見つけた。スリッパの足音は軽く、高い。後ろ手に腕を組んでいた。私は小走りで追いついて、肩を叩いた。村紗はもう随分と先へ行ってしまったようで、足音はふたつしか聞こえなかった。あいつは相当焦っていたようだった。もしくは、さとりの言うとおり何か気に掛かることがあったに違いない。
 廊下の隅に落ちていた、黄色のリボンのついた帽子を見つけられなかったからだ。


 12

 私達が何をしてみたところで、こいしを見つけることは出来ない。どんなにペットを放っても、どんなに予想を重ねても、古明地こいしはその外側を歩いていく。しかし、村紗水蜜を見つけることは造作も無いことで、むしろ、見つけられないほうがどうかしていた。私達が旧都に到着した時には、街の連中は皆、上を向いていた。そこから聞こえてくる声を、ある者は興味深そうに、またある者は鬱陶しそうに聞いていた。立ち並ぶ家屋の屋根の上を飛び回り、瓦を踏み砕きながら走る村紗が叫び続けていたのは、たったの一言だけだった。
 ぬえ。
 村紗はその名を、迷子になった子供のように繰り返していた。誰かに問いかけているわけではない。どこかを目指しているようにも見えない。どこにいる。姿を見せろ。出てこい。街中を駆け回りながら、ひたすらに叫び続けていた。注目を集めてはいるが、彼女を止めようとする者は誰もいなかった。喧しさなんて、この街ではありふれているのだ。
「さとり」と、私は村紗を追いかけながら、隣に話しかけた。「ぬえって、あの鵺?」
「はい」と、さとりは言った。微かに呼吸が乱れていた。私は足を止めた。さとりは膝に手を当ててしばらく呼吸を整えた後、顔をあげた。
「鵺とは、とある時期に京の都を騒がせた妖怪の名です。その姿は定まったものをも持たず、見た人間が恐れる者の姿を形作ったという。彼女の中にその姿が見えました。まるで幼い頃の村紗さんのような、小さな女の子が」
「それなら」
「はい、可能性のひとつですが」
 私は、村紗を見上げ続けるさとりの横顔を見つめた。さとりの目線は何かを見つけようとするように、村紗を追いかけていた。
「村紗さんは鵺という妖怪を知っている。彼女の中には確かに鵺の姿が残っています。そして、鵺は見る者によって姿を変える。貴方が見たという、こいしの姿をした何者かは鵺である可能性があります。そうして今。キスメの話を聞いて、村紗さんは鵺を探し始めた」
「キスメに欠片を渡したのもその鵺だって? 無理があるわ。そうだとしたら、キスメの中のこいしのイメージが足長おじさんか何かってことよ? そもそも、なんでそんな事をするのかわからないわ」
「だから、可能性なんですよ。心を読んだところで結局はその人の目線からの記憶しか見ることは出来ません。実際はどうだったかなんてことは、それこそ実際に鵺に会ってみなければ分からないんですから」
 鵺が自分から姿を現さないことは容易に想像できた。お互いに面識があるらしい村紗の呼びかけにも答えてこないのだから。
「そいつを探そうったってどうしようも無いわね。誰の姿をしてるかわからないんでしょう?」
「私が正面から向き合えれば見分けることは可能でしょう。でも多分、相手はそれをしない」
「それなら、どうしろって」
 さとりは口元を擦ってから、俯いた。「彼女がどうにかするしか……」
 私はもう一度屋根の上を走り去っていく村紗の背中を見つめた。そして、何故、と考えた。
 鵺という妖怪は正体が分からない、それが存在の大前提の筈だ。そんな奴がどうしてこの街にいるかなんてものは気にしないでおく。しかし鵺にとって、正体を知られる事は鵺であることを失うのと同じ。それなのに村紗は鵺を知っていた。共通点があることは間違いない。想像もつかないことではあるが。

「とにかくあいつを止めないと。あの馬鹿、血が上ったらろくに回りも見えなくなるくせに」
 私は屋根の上に飛び上がって、随分と小さくなった村紗の後を追った。追いつくことは容易いことだった。村紗の足取りは別に早いわけではない。誰かを探す為には、自分の場所をはっきりとさせなければならない。ぬえは現れようと思えば、すぐにでも村紗を見つけられる。
 村紗までの距離が屋根一軒分になっても、彼女の声は衰えることなく、私の鼓膜を揺るがしていた。言葉は変わることはなかった。相変わらず他のことは何も言わず、ぬえ、と名前を呼び続けているだけだった。
 私は最後の一歩を大きくとって、村紗の肩に手を置いた。瞬間、村紗は物凄い勢いで振り返り、私の手を払った。向けられる視線は落胆と期待と怒りがごちゃごちゃに入り混じっていた。勢いで屋根を踏み抜いていた。私は乾燥した唾を飲み込んで、圧倒されないように思い切り叫んだ。
「待ちなさいって!」
「どうして止める!」
「落ち着けって言ってるの! なんだってのよ、いきなり!」
「全部、あいつの仕業だったんだ!」
 村紗は身体全てで呼吸をした。皆の視線が注がれているのが分かった。
「ぬえがこの街に欠片をばら撒いた! 姿を変えて、手段を変えて! さっきみたいなことを、何度も……何度も!」
「なんでそんなことを」と、私は聞いた。村紗は飛んできそうなほどの勢いで首を振った。
「そんなことはどうだっていいんだ! 止めるんだよ、ぬえを! わかったら邪魔するな!」
 村紗はもう私を見ていなかった。私の後ろを見て、目いっぱいに目を見開き、唇を振るわせた。私が振り返るよりもはやく、肩をつかまれて振り払われた。抵抗できるわけはなかった。私を退かして、村紗はもう一度、一番大きな声で鵺の名前を呼んだ。目線を追ってみても、変わったものは見つけられなかった。
 ただ間違いなく、村紗の中に余裕というものは微塵も見つけられなかった。彼女の全てが沸騰しきった熱湯のように音を立てていた。私は呼びとめようとしたが、すぐにその必要は無くなった。
 どこかへ走り出すよりも早く、唐突に、村紗の身体が糸の切れたように揺れたからだ。
 支えようとして伸ばした手をすり抜けてそのまま倒れ、村紗は屋根の上を転がっていった。私はその先を見た。下では、様子を見ていた連中が受け止めてやろうと駆け寄ってきていた。
 そこにたどり着く前に、村紗の身体は突然飛んできた人間ほどの大きさの雲に受け止められて、ゆっくりと着地した。


 無理矢理に張り詰めていたものをひとりで維持しようと思っても、それは所詮無理な話だった。
 自分ひとりが抱えられるものなんて高が知れている。自分の見えているものなんて地底の狭い世界であってもほんの一部で、それ以外で何が起こっていてもどうしようもないし、関わる必要もない。それを許せないと考えている奴らは、とんだ大馬鹿者たちだ。
 村紗はほとんど意識のないまま地霊殿に逆戻りさせられて、キスメたちとは別の部屋のベットに寝かされた。それでも悪い夢でも見ているように鵺の名前を呼びながらうなされ続けていた。
 一輪はそんな姿をベットの横に座ってじっと見つめ続けていた。しばらくして行き先も無く伸ばされた手を、一瞬戸惑った後に握った。
「この街に欠片を撒いたのはぬえって奴の仕業だったのね」と一輪が言った。
「どうでしょう」さとりが言った。「今はまだ、可能性のお話ですよ。キスメの記憶にあった姿は確かに、こいしのものでしたから」
「そんなことないわ。こいしちゃんがそんなことをするはずがない」
「ぬえって奴の仕業だっていう証拠も無い。村紗の奴が勝手に騒いで、挙句にこうしてぶっ倒れただけかもしれない」
「そうね、まだ確証は無いものね」何故か、その言葉はどこかに投げ捨てられたように感じた。続いた溜息がそう思わせたのかも知れない。
「村紗は、怒ってたわ」
 と、いきなり一輪は言葉を変えた。
「そりゃあそうでしょうよ。あんたらの大事なものを悪用をされれば怒りもするでしょう?」
「私は──」一輪はこちらを見ることなく言った。「ねえ、さとりさん。パルスィ。……私は、怒っているように見える?」
 何故そんなことを聞いたのかが私にはまったく見当がつかなかった。
「彼女のような感情の昂ぶりは見えませんね」と、さとりがすぐに答えた。「怒りの感情はある。ですがそれは、彼女のそれとは同じではない」
「素直に言ってくれると助かるわ」言葉を少し笑わせたまま、一輪は肩を揺らした。
「貴方がそう願ったから素直に言いました。ですが、どうかしたんですか? 確かに貴方の感情は村紗さんのそれとは同じではないかもしれない。ですが、貴方はそれを負い目に感じることなんてありませんよ」
「負い目になんて思ってません。こいつは」言いながら、一輪は村紗の顔に触れた。「村紗はいつだって全力で走っている。姐さんを救うため。ぬえを捕まえて本当のことを聞くため。もっと戻れば、出会う前だって多分、寂しさを紛らわす為。そういうのがこいつのいいところだけど。……いつも、目指すものがあると周りが見えなくなるのよ、村紗は」
「痛いほど知ってるわ」と、私は言った。
「そうね。そういうときの村紗は止められないからたちが悪かった。地上にいたころには姐さんの教えが馬鹿にされたことも何度かあったんだけどね、そのたびにこいつ、「何で理解できないんだ!」って暴れてね。門下生が十人でかかっても止められないこともあったわ。暴れだした村紗は見境がなくなって、そのせいでみんなの中でも苦手に思ってたひともいた。……だからそういう時はね、私が止めてた。雲山と一発きついのをお見舞いしてやるの。もちろん加減はしてたのよ? そうするとこいつ、あとでみんなに向かって、頼まれてもいないのに土下座で謝ってきてた。わかってるのよ一応、自分がどういう性格なのかって」
 何を言いたいのかが今ひとつ要領を得なかった。私は肩をすくめて、壁に寄りかかった。
「村紗が飛び出して、行き過ぎて、私が止めて。その為に私はこいつの傍に居るんだって、そういうのが私達の関係だって、思い込んでたのかもしれない」
「間違ってはいないと思いますよ」
 一輪は髪を揺らして、小さく頷いた。
「私は村紗水蜜をずっと見てきた。けれども、ね」
「そんなことはありませんよ」さとりは一輪の隣に屈みこんで、村紗の横顔をじっと見つめた。「覚り妖怪が言うんです。間違いありません」
「……嫌な奴ね。私って」
「それが普通、らしいですよ。ねえパルスィ。そうなのでしょう?」
「いきなり話しを振られても全く脈絡がないんだけど」
「それは失礼」
 それ以上は誰も、何も言わなかった。
 村紗が目を覚ましたのは、彼女が旧都で色々な意味で有名になった数時間後だった。

「ぬえは──ッ!」
「心配かけさせないでよ!」

 身体を勢いよく起こした瞬間、その頭に拳骨を叩き込まれて、村紗は再び眠りについた。張本人の一輪はバツの悪そうに右手を後ろに隠したが、私達は苦笑いで答えた。
「ム、村紗ったら相当疲れが溜まってたみたいね。やだわ、私は軽く小突いただけだっていうのに……ねぇ?」
 結局、村紗が目を覚ますのに、それからまた数時間ほどが必要だった。

「……どうして、こんな場所につれてきたんだよ」と、村紗は目を覚ますなり部屋中を見回して、不満を隠そうともせずに言った。一輪は突き出された額を指先で突付いた。さきほどまでの影のある表情はなく、いつもどおりの余裕を見せ付けていた。
「倒れてまっ逆さまだった奴が言うものじゃあないわよ。私達の家よりもこっちのほうが近かったんだから、文句言わないの」
「文句を言ってるわけじゃないけど」
「それならブツブツ言わないの。いいから、何があったのか話して。ぬえって誰? どんな奴なの?」
 村紗は口を尖らせて私達から視線をそらした。が、一輪はその顔を鷲づかみにして、無理矢理にこちらを向かせた。村紗は表情を歪めながら、身体を叩き付ける様にしてベットに寝転がった。
 地霊殿の中を吹き抜けていく風が低く唸っていた。動物の鳴き声が混じって聞こえた。ヤマメたちは何をしているのだろうかと唐突に気になった。私は腕を組んだ。右手で前髪を弄っていた。随分長くなってきてしまった。そろそろ切りに行こう。後ろは……まだいい。もっと伸ばしてみよう。
 村紗は無理矢理に寝かされて、観念したように大きく息を吐いた。
「あいつはこの街で独りだって、そう言ってたんだ」
 呆然と天井を眺めながら、そう言った。一輪とさとりは村紗の寝かされたベットのすぐ横で椅子に座って、それを聞いていた。私は壁に寄りかかったままで、村紗が見ているであろう天井を同じように見てみた。上を向いているのは苦手だった。
「この街にやって来てしばらくした頃だったと思う。その頃私は全てがどうでもよくなってた。自暴自棄になって、街の隅っこでずっと、膝を抱えてた。一輪は傍に居てくれたけどさ、それでも四六時中って訳じゃなかったじゃない? 私が何もしなかった分、一輪が頑張っててくれてたよね。色々と」
 一輪は肩をゆすった。
「そうして一輪が居ない間、現れたのがぬえだった」
 村紗の口元が優しく歪んだ。しかし、手元のシーツは皺だらけになっていた。さとりと一輪は相槌をうった。
「独りなの? っていきなり聞かれたよ。もちろん、私は答えなかった。聞こえてたけれど、どうでもよかった。間違っちゃいなかったんだよ、少なくとも心持っていう面ではね。聖が封印されて、私達はこの街にやって来て、私にはもう何も残っていないなんて思ってたから。そういう意味では間違いなく私は孤独だった。でもさ、そうだよ独りだよって答えたところでなんとかなるものでもないでしょう? 第一、質問に答える気なんてこれっぽっちもなかった。ひたすらに無視してたって事は覚えてる。鬱陶しさが何よりも強かった。だってあいつさ、人が無視してるっていうのにいきなり自分のこと話し始めたんだよ? 自分はどんな妖怪だ。何ができる。何が好きだ」
 村紗は枕元にあった水を一気に飲んだ。寝たままだったので少しむせた。
「ベラベラとまあ、聞きもしないことばっかり。実際、半分も覚えてない。あいつの種族と、出来ることくらい」
「それで、キスメに欠片を渡したのがぬえだと思ったんですね」
 さとりが言うと、村紗は頷いた。
「そっちは話を聞いてこいしちゃんの仕業だって思ったみたいだけど、私にとっては思い当たるのはぬえだった。そもそも、あの子がこんな馬鹿な真似をするはずがない。……妹のことをなんだと思ってるんだか」
「それでも鵺の仕業って確証も無いわ」と、私は言った。何故か睨みつけられた。
「他に何の可能性がある? ぬえは対象のものの正体を隠すことが出来る。目にしたものが真っ先に思い浮かべた物を認識させる。他に同じようなことが出来る奴がいると思う?」
 誰も口を開かなかった。村紗はゆっくりと身体を起こした。それだけで歯を食いしばり、表情を歪ませた。一輪が身体を抱えて、村紗の真っ白な顔を覗き込んだ。
「無理しないでよ。最近ろくに休んでないでしょう?」
「ごめん一輪。でも休んでる暇なんてないんだよ。幽霊に疲れなんて無いしね。とにかく、あいつを探さないと……」
「無茶よ、そんなのじゃあ行かせられないわ」
「無理でもなんでも、あいつを見つけられるのは私だけ。それなら、行くしかないんだよ」
 村紗はようやく起き上がった。しかし、足が床に着いた途端に崩れ落ちた。一輪が受け止めたが、気絶したように力がなかった。
「ほら見なさい。こんな身体でなにが出来るって言うのよ」
 おそらく、彼女はずっと走り続けていたようなものだったのだろう。疲れるのを忘れるほどに。しかし、例え妖怪であっても身体にはどうしたって限界というものがある。張り詰めたものはいつかは切れてしまう。

「わかりました」と、さとりが椅子に腰掛けたまま、胸の前で手を合わせた。「ぬえちゃんのこと、探しましょう」
「さとりさん?」
「村紗さんの気持ちはよく伝わりました。私達にも関係のないことではありません。協力します。何かよい考えはありますか?」
 村紗は荒い呼吸の中で何かを言った。一輪は村紗の身体を正面から抱き抱えて、ベットに座らせた。
「あいつは、自分が独りだって言ってた。ずっとそうだったというのなら、ひとの集まる場所には現れないと思う」
「それならばちょうどいい。手の空いているペット達に準備をさせましょう。ただし、明日まではゆっくりと休んでいてください。でも残念。明日のラジオはゆっくりと聞くことが出来ないみたいですね」
 さとりは立ち上がって部屋を出ていった。廊下で手を叩く音と、ペットの名前を呼ぶ声が聞こえた。続いて慌ただしい足音と羽ばたきの音が。
 私は勢いをつけて壁から離れて、村紗を見つめた。村紗は私を見返した。しばらく睨み合いのような沈黙が流れた。
 結局、何も言わずに部屋を出た。



 13

 放たれた地獄カラス達は空を黒く染め上げて、ぎゃあぎゃあと喚きながら旧都の方角へと飛んでいった。地面を走る動物達は種類に統一性なんてなくて、ちらほらと全く関係ない方向へ走っていく奴もいる。それでも、とにかく必要なのは数だった。鵺という姿のハッキリしない妖怪を探す為にはヤマメを探しだしたときのようなものでもまるで足りない。広場に集まる連中を除くとしても、下手をすれば旧都に住む妖怪すべてを総当りにする必要がある。どれだけ居ても十分ということはない。とにかくペット達が探すのはお互いに別のものに見えた妖怪、または村紗の書いた似顔絵に似た妖怪だ。仲間ではない物を探せと、さとりは命令して、似顔絵を見せて回っている。もっともそれは、子供の落書きよりもお粗末な代物だったが。
 私は役目を終えた似顔絵もどきを破って、ゴミ箱に投げ込んだ。溜息を一つ吐き、窓枠に寄りかかった。動物達の鳴き声──ときの声が五月蝿かった。
「鵺を探す、っていったってね……」
 私はこいしの部屋にいた。さとりがペット達に命令を行き渡らせるまで部屋の中を探ってみたが、こいしが欠片をばら撒いたような根拠も、そうでない証拠も見つからなかった。幾らかの動物のぬいぐるみと、簡素な灰色のベット。落書きだらけの洋服箪笥の中にはほとんど衣服の類は見当たらず、一見するとそこがゴミ箱であるかのようなインパクトを与えてくれた。地上のものや地底のものが雑多に押し込まれていて、収まりきるものではなかった。
 そもそもこの部屋はほとんど使われていないことは明らかだった。あの子の眠る場所はいつも、此処ではないどこかなのだろう。

「他人の部屋を物色するのは、あまり良い趣味ではありませんね」
 箪笥の引き出しをなんとか無理矢理に収めていると、ドアがゆっくりと開いて、さとりが入ってきた。怒っているようには見えなかった。ただ腕を胸の前で組んで、怒っているふりをしていた。
「何を探しているんです? 妹の大事な玉手箱を漁りながら」
「別に。何かないかってね」
「飛倉の欠片が隠してあったなら、それで貴方のこいしに対する感情は変わるんですか?」
 私は無言で引き出しを閉めた。うっかり下着があふれ出したが、とりあえず無視して立ち上がった。
「でも本当のところ、あんたはどう思ってるわけ? 村紗が言ってた通り、キスメに欠片を渡したのが本当に鵺だって思う?」
「今更ですね。何故そんな事を聞くんです?」
「こいしが犯人である場合ってのを、まだ無かったことにできていないから。村紗の奴は鵺しかいないって言ってた。その通りなら、確かに私達にとっては一番都合のいい展開よ。でもね、それだけじゃあないって思う」
「自分の都合の悪い考えを散々心の隅に逃がしておいて、余裕が出てきたら疑うんですか……」さとりは私を見つめて、わざとらしく溜息を吐いた。そうして左右に首を揺らした。「私もです」
 私は微かに笑って見せた。
「鵺は確かに、キスメの姿を借りて私のところを訪ねてきたのかもしれない。でも、それだけだったら足りないのよ。キスメだけなら私は何もしなかった。こいしがその場に居たから、私は……もっと言えば、あんたも首を突っ込む羽目になった。これって偶然?」
「違います」と、さとりは言った。確かに言い切った。「最初の訪問のとき、貴方は鵺の正体を見破れそうだったのでしょう。そこにこいしが乱入した。次に、鵺がキスメの姿をしたとき、あの子は貴方をなんとか動かそうとした。つまりはそういうことなんですよ。わが妹ながらなかなかに賢い。貴方が自分に甘いことを知っていて、ヤマメ探しを手伝わせたのですから」
「最後の部分は違うわ。こいしはそんな風に誰かを騙せるような奴じゃない」
「それが貴方の信頼だというのも分かります。……妬ましいことに」
「別に、私はこいしが何も悪い事をしていないって、そういうのじゃあないのよ」
「それも、わかっていますよ」
 さとりは立ち上がって、焦らすような足取りでこちらに歩いてきた。途中で壁際にかけられていたものを手に取った。抱きしめられそうな距離まで来ると、さとりは少しだけ背伸びをして、名残惜しそうに離れ、黄色のリボンがついた帽子に視線を落とした。

「私にはあの子の考えていることなんて分かりません。いいえ、誰にも解るはずがないんです。だけどそれはこいしに限ったことじゃない。心が読めたって、その人を完全に理解することなんて不可能なのと同じこと」さとりは帽子の裏のバンドを静かになぞった。「あの子が願ったのはきっと、もの凄く単純なこと。貴方が持つこいしのイメージはそのまま、覚りの力を持っていた頃から変わりませんよ」
「子供のままだってこと?」
 さとりは肩をすくめて、柔らかく笑って見せる。「そういうことです。知ってましたか? あの子、地上にいた頃──精神的にも肉体的にも本当に幼かった頃ですけど、人間の子供達とよくかくれんぼやら鬼ごっこやらして遊んでたんですよ?」
「初耳ね」と私は言った。さとりは私の目の前でこちらも見ずに帽子だけを見つめていた。真っ黒で使い込まれた柔らかい毛の中に、何かを見ているようだった。
「よく笑う子でした。楽しいことがあると私に話してくれてね。それがたまらなく嬉しかったんです。……人間の男の子で好きな子が出来た、なんて言いだしたときはちょっとだけビックリしましたけどね」
「それで、」と私は言いかけたが、さとりは無視して続けた。
「その頃の私は妹のこと、全部理解しているつもりになってました。だからあの子に好きな子が出来たって話を聞いたときも内心は自信があったんです。『それでもこいしの事を一番理解して上げられるのはお姉ちゃんなんだぞ』って」言って、帽子のつばを両手で握り締める。どこかを見つめて笑いかける。「そんな心はもちろん読まれていて、馬鹿にされちゃいました。『お姉ちゃんにはわからないよ』って。自分よりもずっと子供だって思っていた妹からの言葉は流石にショックでした。でも仕方が無いでしょう? その頃の私は、特定の誰かを好きになったことなんてなかったんですから」

 さとりは顔を上げて、私の目をじっと見つめた。帽子が胸に押し付けられて歪んでいた。
「だけど、あの子が好きな子は日に日に増えていきました。最初に好きになったと聞かされてから、数ヶ月で住んでいた村の全員が好きになっていました」
 さとりは笑っているのか泣いているのか解らない表情を浮かべた。
「気の多い子ですよねまったく。……本当に誰かを好きになったならその人以外は眼中に入らなくなってしまうもの。他のものなんてじゃがいもか人参にでも見えてしまう。私が覚えた感情はそうだったから」
 私はずっと、何も言わなかった。
「……少なくとも、あの子が覚えた『好き』は私が知っているものとは違っていた。当たり前なんですけどね。もちろんどちらが正しいかなんてお話をするつもりはありませんよ? そんなの結論が出るものじゃない。だって、私とこいしが考えていることは違うんですから」
「そこまで解ってて──」とようやく私は口を挟んで。
「……だから、なんです」さとりはそれを塞いだ。
 
 ペット達はもう随分と出払ってしまったようで、屋敷の中は普段からは想像も出来ないほどに静かだった。気がつけばさとりの息は荒く、熱くなっていた。帽子は更に形を歪めて双子の山が出来上がってしまっていた。
「あの子が目を閉じて……」またさとりの目線は定まらず、泳ぎ続ける。「私なんか追いつけっこない速さでこいしは走っていってしまった。あの子が誰かを好きになった、そうして望んだ無意識の行き先なんて誰にもわからない。終着点であの子は泣いてしまうかもしれない。そんな想像が頭から離れないんです。……ダメな姉だってことはわかってます。だけど、私ではあの子に追いつけない。大事な妹も信じてあげられないようなダメダメなお姉ちゃんだから、頑張っても頑張っても、あの子に届かない」

 だから、と。
 さとりは帽子を、私に差し出した。

「信じてあげて、妹のこと」

 本当は、全部を自分でやれたらと思っているに違いなかった。明らかに無理矢理に笑って見せていた。それでもそのまま押し付けることもせず、私が受け取るのを唇を噛みながらじっと待っていた。身体が中から焼き尽くされそうなほど熱かった。なんて今更なことだ。最初から私がやりたかったことなんて変わっていない。こいしの、何を考えているのか分からない大きなふたつの瞳に見つめられてからずっとだ。

「わかっていることは、一つだけ」さとりが口を開く。喉元が大きく動いた。「あの子はただ、誰かが泣いているのが嫌でしょうがないんです。……好きだから。みんな好きで、好きな人が泣いているのなんて、見たくなかったから」
「だからあの子はキスメの背中をほんの少し押してやりたかっただけ」私は天井を見つめた。落書きが星空を描いていた。「橋渡しをしてやろうって、どこかで手に入れた力をその場しのぎで渡した。……ほんと、子供ね」
 さとりは優しく首を振った。
「だから、貴方のところに来たのでしょう?」
 私も同じようにして振った。
「やっぱりあんたを頼ってたのよ。少なくとも、私は一番じゃあなかった」
「でも、私はあの子を信じてあげられなかった」
「私は何もしてやれなかった。昔からそう。いつもいつも、気付くのが遅すぎるのよ、私は」
「わたしたち、です」
 さとりは薄い笑みを見せた。私も同じように返した。そして一度、湿った唇を舐めた。
 村紗は鵺が犯人だと言い切ってみせた。だが、もうそんなのはどうでもいいことになった。少なくともキスメに欠片を渡したのはこいし自身でいい。そうなれば、他の奴らの時だって変わらない。自分と仲がいいとか悪いとか、交流があるとかないとかはこいしには関係がない。あの子は全部が笑っていないと満足できない困った子で、そのためなら自分の存在すらも消してしまえるような単純さと一途さを持っている。そんな子の為に私達が出来ることなんて多分、ほとんどない。

「半分だけ」と、私はゆっくりと息を吐きながら言った。「あの子の無意識は悪魔みたいに残酷で冷酷で、この街を滅茶苦茶にしてそれを見て笑ってる。その可能性だって十分にありえる話。ただ私が考えないようにしてきただけ。だけれどやっぱり、こんなことを考えてしまう限り、あの子のことを信じてるなんて言えない」
「だから、半分?」
「そう、半分だけ。それ以上は無理よ。絶対の信頼なんてもの、本当はどこにもないんだから」
 さとりはやっといつもしているような、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「よく言いますよまったく、本当は想像もしてないくせに」
「あぁそうね。あんたはそれを想像してた、最悪のお姉ちゃんだわ」

 差し出された帽子を、私は奪うようにして受け取った。山の部分を右手の手のひらに載せて、帽子の中を睨みつけるようにして、それからさとりを横目に見ながら頭に乗せた。浅く被ってから、深々と被って、また少しばかりの浅さを持たせた。前髪が降りてきて、視界が少しだけ覆われた。指先で髪を撫でて、視界を開いた。三つの目が全て開ききり私を見つめていた。私は微かに肩をすくめて、帽子を半分だけ顔を隠すように直した。上目に見る部分は真っ暗になった。さとりからの視線は何も変わらず、満足そうに笑っていた。

 私は黙ってさとりの隣を横切り、ドアノブに手を掛けた。開けるのを一瞬だけ躊躇った。
「待ってください」とさとりの声がして、上着のポケットに何かが詰め込まれた。取り出して見るとなんて事は無い紙切れで、振り返らずに広げてみると、丸い文字で長々と文章が並んでいた。黙読してみると、なんともまあ言葉に出来ないような文章が並んでいた。
「伝えてください」とさとりは言った。
「……こんなの、自分で言いなさいよ」
 私は溜息混じりに振り返ってそれを広げたまま、さとりに渡そうと振り返った。

 目の前にさとりの顔があった。

 そのままさとりに押されて、ドアに後頭部をぶつけた。鈍い音が頭の中を駆け巡っていった。それでもさとりは紙切れを押し付けるのをやめなかった。体が密着しきってしまって、表情はまるで見えなかった。両手を肩にかけられて身動きが取れなくなってしまっていた。遊びまわっていた両手は何も出来ずにふらふらとしていた。
 私は抵抗をやめた。黙って、紙切れを上着に仕舞った。さとりはそれでも身体を押し付けることをやめなかった。
「一刻も早く伝えたい言葉だってあるんです。妹のこと、見つけたらその言葉を伝えてください。絶対ですよ?」
「……別に、こいしを探しに行くわけじゃないんだけどね」
「知ってます。ここでもうひとつ念を押しておかないと絶対、貴方はこいしにはっきりと言ってあげられないでしょう?」
 私はそっぽを向いた。
「これを? 当然じゃない。本人の前でそんな恥ずかしいこと──」
 さとりの両手が私の顔に掴みかかった。無理矢理に視線を合わせられる。さとりの顔がもっと近くにあった。伏目がちなままで私を見つめて、はっきりと、怒っていた。
「ちゃんと、私の口からも言ってあげますから」
 



14

──ねえパチュリー、友達ってなに?
──いきなり難しいことを聞くのね、どうしてそんなことを?
──ちょっとね、あいつとパチュリーは友達なんでしょ? 私にはそういうのいないからさ。……で? で? どーなの?
──友達っていうのは、退屈なときに酷い目にあわせて楽しむ為のものよ。
──ほほぅ、直訳すると「いつも傍にいてくれて、困ったときに力になってくれる奴」ってことだね。
──……どこをどう聞いたらそういう発想になるのかしら。
──このツンドラさんめー、そんなことばっかり言ってると後悔することになるぞぅ。
──ほっぺたを突付かないで頂戴。それで、回答はこれで満足でしょうか、妹さま?
──むぅ……
──ご不満?
──そういうわけじゃあないんだけどね、私とパチュリーって友達なのかなって。
──違うわ。
──即答!? いくらなんでもそれは酷くない!?
──別に他人だとは言ってないでしょう? レミィがいつも言っている事を思い出して御覧なさい?
──うーん……この屋敷に住むものは、みんな家族? それとも私のことはお館様と呼べ、のほう?
──前者。
──ぶっちゃけ、それってよく分からないんだよね、家族ってのがさ。血の繋がってるのが家族っていうのなら、この屋敷ではふたりしかいないわけだし。
──それだけが家族という訳ではないわ。擬似家族という言葉もあるのよ。
──お父様とお母様がいて、子供がいて、ペットがいてってこと?……うん、なるほど。結構当てはめられるかもしれない。
──聞きましょうか。
──お父様とお母様は決まってるよね。ペットは妖精たち? 子供があいつだとして……うーん、私ってなんなんだろ。
──子供の枠ではなくって?
──えー? やだぁー。
──自分の姉が子供枠だっていうのにその発言はどうかと思うわ。
──仕方ないか……ちくしょう、どうして私は遅く生まれたんだろー。
──運命ね。
──ちぇー……ってあれ? パチュリーたちが余っちゃった。ペットでいい?
──ご自由に。
──ハハハ冗談だってばもー! そんなにふて腐れないでよー。
──ふて腐れてなんてない。
──だからごめんってば。……そーだね、あいつの友達だから子供の枠かな。
──妥当なところね。
──じゃあ、最近どうよ、パチュリーお姉さま?
──そうね……ってお姉さま!?
──アハハ、パチュリーが真っ赤になっちゃったからこのお話はここまで! 止め止め! お手紙読もうっ!
──おねえさま……未知の感覚だわ……

「……のんきなものね、まったく」
 旧都の中心を発信源とした歓声と言う名の地震は街の全てを包み込むように広がっていった。両耳を押さえてみても余震すらも脳に直接伝わった。ふたりの声は相変わらずどこへ向けられたものでもない。だというのにはるか遠くのはずの街をひとつ揺り動かしている。魔法使いは魔法を使える。街に魅了の魔法がかけられたようだった。
 しかし同時に、これは魔法の寄せ餌だった。広場を埋め尽くす連中の数は見える限りでも数え切れるものではない。暇さえあればここへやって来るようなのがこの街の鬼というものなのだ。此処へやってこない奴は欠片の力を欲するような被害妄想に溢れたのか、または、そこへ混ざろうとしない意地っ張りな奴ということになる。私達が探しているのはそのどちらもだった。
 ふたつの飴玉の声と、図太い鬼の声が街中を包む。今日はそれに加えて、空を覆いつくす黒い影から、鳴き声が聞こえている。路地に目をやれば猫やら犬やらが忙しなく走り回っている。鵺を探す為の人海戦術はラジオが始まる少し前から始まっていた。
 私は耳を塞ぎながらその場を離れた。もしかしたらあの鬼の海の中に鵺が混じっていたのかも知らないという可能性もあった。しかし、それは考えなくてもいいと村紗は言っていた。鵺は皆から離れていた村紗を見つけて、接触してきた。最近は姿を現さなくなったという。最近というのは村紗が街の連中と関わりを持つようになってからだという。鵺はあの中に混じれないと、村紗は言う。
 両耳を開放することが出来る場所まで離れてから、私は帽子のつばを摘んで、上を見上げた。街の明りが天井を照らして、燃えるように揺らめいている。その全てを、定期的にカラス達が覆い隠した。哀愁を漂わせてくれるときもあれば、不気味さを演出してくれる鳴き声でもあった。抜け落ちる羽が時折降りてきて、地面に黒点を作っていた。
 真っ暗な天井に一点だけ、白が混じっていた。その異端者は人間の姿をしていて、鈍く輝く鉄の塊を片手に持っていた。大衆を先導する者はいつだって他とは違っている。頭がぶっ壊れている奴だっているし、全てを受け入れられるようなふざけた寛容さをもっている奴もいる。だからこそ、人の目を引きつける。しかし、そんなことは始まりの部分でしかない。頭がぶっ壊れているだけでは人は導けない。寛容さばかりが大きくとも最後には流されるだけで矢面に立たされるだけの便利屋になる。違っているというのは入り口でしかないのだから、優れた先導者はそこから変わっていかなければならない。それが必要ないのは、生まれたときからそうだった、なんて冗談みたいな奴だけだ。
 村紗の姿はすぐに遠くなっていった。そうやって多くの目を使ってしらみつぶしにしていく他に手段がないというのがさとりの考えだった。私もそれ以外の方法は言うことは出来なかったが、それで本当に見つかるのかも怪しいものだ。
 しかし、そんな考えをあざ笑うかのように、カラス達の方向がいきなり変わった。私は屋根の上に飛び上がり、黒い塊の行き先を眺めてみた。特段変わったものは見えなかった。ただ、一羽だけ、はぐれたように飛ぶカラスが見えた。それは屋根上のすれすれを飛び、大群が近づいていくとすぐさま街の中に消えていった。爪ほどの大きさにしか見えなくなっていても、村紗の叫び声ははっきりと聞こえた。どこか遠くで飴玉の声がしていた。カラス達は途切れもしない鳴き声を上げ続け、はぐれものが降りていった地点に向かって殺到していった。
 私は屋根から飛び降りた。帽子を押さえて着地し、方向を確認した。さて、あいつが降りていったのはどの辺りだった? そこから逃げるとしたなら、予測できる道筋は? 私はどこへ行けばいい? どちらが先かなんてどうでもいい。どちらかを止められれば残りに繋がる何かは手に入るのだ。まずは鵺の方からだ。さあ、どうする? まあ落ち着け、どうせ行ったところでお前には何もできない、ちょうどいいじゃないか、今なら自分ひとりだ、後で幾らでも言い訳は効くだろう? 五月蝿い、今だけは黙っていろ。
 私は帽子を押さえつけた。
 大きく息を吸って、少し吐いて、止めた。走り出して、

「ちょいと待ちな」

 目の前に大きな影があったことに、全く気付けなかった。
 私は真正面を見据えた。長く伸ばされた金色の髪が風に吹かれて舞っていた。喉元を何かが通っていって、「ねえさん?」と言葉が溢れた。星熊勇儀は私よりも頭ひとつ以上高い視点から、見下ろすようにして私を見ていた。数歩分の距離はあった。しかし、立ち塞がっているように感じるのはおそらく錯覚ではない。わざわざ道のど真ん中で両手を広げる意味なんて、他にあるはずが無い。
「何か用事?」と、私は聞いた。つま先はずっと地面を突付き続けていた。「急いでいるんだけれど」
「話を聞いた」
「なんの」
「どうして話してくれなかったんだよ」と、心配そうに勇儀は言った。「村紗がやろうとしていることくらいは知ってた。だが、昨日大騒ぎして探してた鵺って奴の事は聞いちゃいない。何事かと思ってたら今日になって更に酷くなってるじゃなか。いったいそいつは何をやらかしたんだい?」
「それを知って、どうしようっていうの?」
「昨日もまたひとり、大怪我をした奴が居た。私ともよく一緒に酒を飲む奴だったよ。気前がよくて、よく笑う奴だった。……同じさ。仲がよかったはずの仲間が急に変貌した。喧嘩になって、一方的にのされて終わった。そいつらの関係も。その原因を作った奴がその先にいるっていうのなら力になるさ。皆で笑う為に私達はこの街を作ったんだ。それを騒がす奴を放っては置けない」
「流石は姐さん、頼りがいがあって頼もしい限りだわ」
「そうさ。この街のためなら私はなんだってしてやれる。さあ話してくれるね、鵺って奴のことを」
「嫌よ」
 勇儀はいつも持っている馬鹿みたいに大きい杯のように目を見開いた。「どうして」と、恐る恐るといった風に聞いてきた。私は帽子を押さえて、お辞儀するようにして身体を屈めた。地面を一回蹴って、「話してる時間も、話すつもりもないわ」
「こいしも疑われているって聞いたよ。お前さんたちには辛いだろ。後は私に任せな」
「冗談じゃない。姐さんが関わる話じゃない」
「怒るよ?」
「姐さんが何を思おうと変わらない。これは、私達がなんとかしなくちゃいけない問題なのよ」
「だからって私の力を借りてはいけない理由にはならない」
「なるのよ。私達にとっては」
「その私達ってのは誰のことだい」
「ひとりじゃ何も出来ない、情けない奴らのこと。この騒動の原因は、私達にもあるから」

「それなら」と勇儀は言って、こちらに一歩だけ歩いた。ゆるりとして、酔っているようだった。「なおさら放ってはおけない。おせっかいは生まれつきでね。アンタ達がどんなに意地を張っても、私が助けたいと思えば助けるよ。迷惑かい? 悪いね、そういう性分だ」
 私は帽子の影から勇儀の姿を睨みつけた。鬼の中心核である彼女が何をしたいかを考えた。なるほど、星熊勇儀の言葉そのものだった。姐さんと慕われる姿はいつだって誰かの為に動いている。この街が好きだと豪語するだけのことはある。すくなくとも、こいつの周りで泣いている奴なんて飲み過ぎで胃の中のものを吐ききり、それから不足分とばかりに涙を流すような者しか居なかった。
「私はね、この街で誰も泣いて欲しくなんてないんだよ。みんな辛い目にもあってきた、この街はそんな奴らが集まって出来た場所だ。そこで泣いているなんて、そんな残酷な話ってないだろう? そうならない為なら、私はなんでもする。たとえ無理なことでも、無謀なことでも」

 続いた言葉は、鋭い棘のようだった。
「あんたは、何をしてやれる」
 心臓まで止まったように、私は全ての動作をやめた。
 生温い風が吹きこみ、頬を撫でていった。霧が晴れるように何かが吹き消されていった気がした。
 私は帽子を押さえたまま、天井を見上げた。街の声が混ざり合い、それを風が包み、飛んでいった。叫びも、歓声も、鳴き声も、その全てが生まれては消えて、いつまでも終わることが無い。唯一この場所だけが切り離されたように静かだった。息遣いも、喉が痙攣する音も、鼻を鳴らす音も、目の前にあるように聞こえた。不思議と笑みが零れ落ちそうになった。

「……ほんと、情けないったら」

 気付いてしまえばなんてことはない、いつもやっていることじゃないか。鏡に映った自分と現実で呼吸をしている自分で答えの出ない質問を繰り返す。駆け出したいのに鏡から出られない自分を、駆け出す勇気も持っていない自分が眺めている。沢山考えて、結局何も出来ない自分が生まれている。
 目の前の星熊勇儀は鏡だった。いつもは大層な事を口にして私を苛立たせるだけだった存在が──強い鬼でありたいと願う自分が何故か目の前で言葉をぶつけてくる。
 それだけだったのだ。 
「笑っていて欲しい」と勇儀は言った。「泣いていて欲しくない」と勇儀は言った。「放っては置けない」と勇儀は言った。
「私に何ができる」と、勇儀は聞いた。

 私は吹きつけるようにして息を吐いてから、まっすぐに正面を見据えた。
「分からなくなったときや悩んでいるときは酒を飲め。姐さんはそう言ったわ」
 言って、待った。反応は無かった。
「酒は素直になれる魔法を持ってるとも言ったわ。その意味、あんたにわかるかしらね」
 また、何も言わなかった。私は帽子の影から姿を見た。赤子のような小ささで、肩だけが堪えきれずに震え続けていた。
「姐さんはこの街を信じてるのよ。街に住んでいる奴ら全部の強さを信じてるのよ」私は自分の言葉を、鼻を鳴らして笑い捨てた。「村紗のやっていることを知っていたって? ああそうでしょうよ。姐さんの耳に入らないことなんてこの街にはありえない。姐さんは全部知ってる。さとりなんか比べ物にならないくらいにね。でも、それでも姐さんは何もしなかった。放っておけば大事になるようなことならね、とうの昔に飛倉は全部集まってるのよ」
 ずっと遠くからは確かな叫び声が聞こえてくる。遥か遠くでは変わらない歓声が上がり続けている。叫び声は濁流に向かって必死にもがいている。笑い声の裏ではいつだってそうだった。しかも、どちらかが消えたときに、残った片方はなんの意味もなくなってしまう。
「姐さんは全部受け止めてそれでも、この街を信じられるくらい強いの。……買いかぶりすぎと思ってるでしょう? そうよ、私の願望よ。私のなりたかった鬼は、それくらい強くあって欲しいっていう自分勝手」私は正面を見るのを止めた。俯き、土を見て、静かに歩いた。「迷惑って思うでしょうね。いいえ、迷惑と思っているでしょうね。でも、謝らないわ。私達はそんなに強くない。街の連中すべての強さを信じるなんてことは出来ないから。……あんたも」
 私は帽子を脱いでリボンを指先でなぞり、息を吹きかけた。温かい風が髪を撫でていった。私は再び帽子を被らずに、そのまま睨むようにして見た。
 帽子が似合うのは一人前の大人の証だ。真っ直ぐに立って、前を見据えていられるような奴でなければ格好付かない。背を曲げてはいけない。心を折ってはいけない。片意地を張ってでも、虚勢で身を塗り固めてでも、それでも背筋を伸ばして、決して折れない奴にこそ相応しい。
 でも、こいしの帽子にはそれとは全く逆の、違った意味があった。そんなことに今更気付いた。
「ひとりで頑張ってたって、そんなに強くなんてなれっこないわ」

 私は言葉を待った。いつまでも沈黙は守られていた。それでも私は待った。橋姫は待つものだ。舌先はずっと動こうと抵抗を続けている。唇はひたすらに硬く閉じることでそれをこらえさせていた。私自身の無意識は残念ながら、橋姫ではなかったのかもしれなかった。
「あんたは確かに、全部に笑ってて欲しかったのかもしれない」と、気がつけば言葉があふれ出していた。「でもね、そのためにしたことって何? さとりに頼ろうとして、何故か私なんかを頼ることになって、結局、大事なことは私達に何も話してくれなくって、ヤマメの力になってあげたくて、キスメの背中を押してやりたくて、そして、ぬえって奴の事を庇ったりして。……上手くいかないでしょう? 皆を助けて、笑顔にして、幸せいっぱいだなんて、そんなの、ひとりで出来るわけないのよ……この、バカ」
 私は目の前で真っ赤になっている頬を叩こうと、腕を振り上げていた。瞬間、身体がこわばるのが分かった。私はそんなことは関係ないと、思い切りひっぱ叩いてやるべきだった。どんな思惑があったとしても、良くないことになってしまっていることは確かだから。頭でそう思っている。それは間違いなくて、それだというのに、まるで力がはいらなかった。
 私は、無理矢理に動いた。全身の筋肉が拒絶反応を起こしていた。頭で命じられていることと真逆のことをするには、絶対の意思が必要だった。息が詰まった。街の声に音はかき消された。私の言葉だって、届いていたかなんてわからない。ねえ、と。私は言った。

「……泣かないでよ、こいし」

 結局、触れただけで終わった右手は焼けるように熱くて、凍傷のように痛かった。
 不思議と表情が緩んでしまっている。
 どうやらこの子に甘いのは、もうどうしようも無いレベルになってしまったらしい。
 私はそのまま涙を拭ってやってから、こいしの頭に帽子を乗せた。
 ぐちゃぐちゃな泣き顔は帽子の影に隠されて、見えなくなった。 
「あんたが泣いてるとね、辛くなってくる奴が少なくともふたりくらいはいるのよ。だからあんたは笑ってなくちゃいけない。あんたのお陰でふたりも泣く羽目になるのよ? それはあんたが望んでいたことじゃあないでしょう?」
 こいしは何も言わない。何かを守るように、堅く口を閉ざしていた。
「だけどそいつらはね、こうも思ってる。あんたが泣くくらいだったら自分達が泣いたほうがいい。誰かが笑う為に誰かが泣かなくちゃいけないのなら、自分達が代わりに泣いてあげるから。……こいし。あんたのお姉ちゃん達はね、いつだってあんたに笑ってて欲しいから、なんでもしてあげるの。悪いことをしたなら怒ってあげるし、良いことをしたなら、目一杯褒めてあげるから。……迷惑なんて思わない。好きなだけわがまま言っていいから」
 こいしの視線が、何かを探すように動き回って、私に向けられた。確かに泣かないでと言ったは言ったが、涙を堪えすぎて顔面が崩壊していた。不細工極まりなかった。だから私は、そんな風に向けられた眼差しに向かって、笑ってやれた。

「……あんたはずっと、笑ってて」

 こいしの体が撃ちだされたように飛んできた。そのまま吹き飛ばされそうになるのを何とか受け止めた。熱くなった両手を背中に回されて、涙でぐしゃぐしゃになった顔が私の胸に押し付けられた。帽子が脱げて、地面に落ちた。私はこいしの頭に手を置いて、雲のように軽くて、柔らかい髪をゆっくりと撫でるようにかき回しやった。

「ただ、みんなに笑ってて欲しかったのに!」こいしの声は、泣き叫ぶ赤ん坊のそれでしかなかった。「みんな泣いてばっかりだった! みんな笑いたがってるのに泣いてばっかり! 私のせいなんだよね。私があんなの渡したりしたから! わかってる! そんなのわかってるんだよ! ……でもわかんない、止められなかった! ──私はこの街のみんなが大好きだから! 泣いて欲しくなんてなかったのに! ねえ、もうどうしたらいいのかわかんないよ。やだよ、こんなのやだ……お願い、私を止めてよお姉ちゃん……お姉ちゃん!」
 こいしはぶつけるようにして「お姉ちゃん」と言い続けた。迷子の子供が親を探すのと同じだった。助けを求める先を、他に知らないのだ。
「こいし」と、私は気持ち悪いほど優しい声を出した。右手を頬に当てると、暑さと冷たさを同時に感じた。「あんたはひとりでどうしたらいいのか分からなかったから、お姉ちゃんに助けて欲しかった。最初から素直にさとりの奴にそう言ってやればよかったのよ。そうしたら絶対に力になってくれてた。あんたはそれを信じられなかった?」
「だって……だって、」
「そうよね、あいつは自分の妹を一番信じてやれないような、駄目なお姉ちゃんだものね。でも、だからって私のところに来るのは間違いよ。私はなんにもしてやれない。こうして目の前に現れてくれなかったらいつまでもあんたを見つけられなかったし、気付いてやれなかった」
「そんなこと、ないよ……」
「あるのよ。ぬえを探すって言ったって、私がいくら目を凝らしたってそこら辺の鬼と鵺の区別なんてつかないもの。所詮はそれっぽく振舞ってるだけで、そうやって村紗達がぬえを見つけるのを待ってる。それでね、全部終わってから最後に『妬ましい』ってだけ言ってやるのよ。踊って笑いものになるだけのつまらない道化。私に出来ることなんて、何も」
「何かを、してくれたよ」と、こいしはツギハギだらけの言葉をなんとか繋いだ。「……私にも、わかんないけど」
「それで何かが変わった? 私はあんたに何をしてやれた?」私は、私を笑う。「何にも出来なかったわ。ヤマメを見つけたのはさとりとペット達。キスメを止めたのは村紗。今だってぬえを追いかけて行ったのは私じゃない。私はただそこに居ただけ。案山子みたいに突っ立ってただけ。ねえ、バカでしょう? 笑っていいのよ?」
「……笑えないよ」
「笑いなさいよ」
「……笑っていいの?」
「そう言ってる」

 背中に感じていた締め詰めるような力が、ゆっくりと弱まっていった。こいしは私から顔を離して、こちらを向いた。帽子も無くて、姉よりも長く伸ばされた髪の毛は涙で頬に張り付いていた。唇は硬く閉じられたままで、やはり、なにかがあふれ出そうとするのを堪えていた。緩んで、結んで、笑おうとしているのか何かを言おうとしているのか、はっきりとはわからなかった。
 私はこいしを正面に捉えたまま、身を屈めて帽子を拾って、埃をはらった。
「ぬえって奴が大事な妹を泣かせたのなら、理由はどうあれ私達はそいつを許さない」
 私が言うと、こいしは大きく頭を横に振った。「違う」とだけ小さな声で言った。
「ぬえは、ただ泣いてただけだもん」
 私は何故か、安堵のようなものを覚えた。
「そんなことだろうと思ったわ。もしかしたら最初はぬえの仕業だったのかもしれない。だけど、こうも連続で悪い結果になってたら誰だって止める。普通はね」
「だって……」
「あんたはそんなことじゃあ止まれない。……わかってるわ。どうせ今回こそは、ってそんな気持ちを捨て切れなかったんでしょうよ。あんたがこんな大事を引き起こす理由なんてそんな事でいい。だけど結果が違う。あんたが望んだ結果は、仲がいい奴に自分の持っていた劣等感や嫉妬心を爆発させることなんかじゃない。ただ一緒になって笑ってて欲しかった。……今の話をしましょうかこいし。これからあんたは、どうしたいの?」
 返答はなかった。私は一瞬だけ息を吐き、ゆっくりと言った。
「いい? 私が言ってるのはどうするべきかじゃなくて、どうしたいか、よ。あんたは今、どうしたいの?」
 こいしは再び俯いてしまった。
 両手の拳が硬く握り締められていた。唇を尖らせて「わかんないよ」と、恐る恐る言った。
「私、おバカさんだから。もっと早くお姉ちゃん達に聞いたらよかったんだ」
「そうしたらこんなことにならなかったって、そう思ってる?」
「そうでしょ? 違うの?」
「さとりは、まっさきにあんたを怒ると思うけど」
「いいよそれでも。それで全部、終わるなら」
 こいしは投げ捨てるような言葉を吐く。
 私は少しだけ言葉を迷った。「それなら、」とだけ言って、それだけで、続きが口から出てきてくれなかった。解決策が思い浮かばないわけではない。こいしを連れて行って、皆に本当を話せばいい。それで終わり。こいしだってそう言っている。だというのに、今はそうしようと言える気がしなかった。
「……そうね」
 それしか言えずに、私は片手に持っていた帽子を見た。
 こいつはきっと、こいしと一緒にいろんなものを見てきた。強い日差しから守ってくれていた。どこまでも子供っぽいこいしを、少しだけ大人にしてくれていた。少なくとも、この子の涙くらいは隠してくれていた。
「それなら」と私はもう一度言って、左手で帽子をこいしの頭の上に乗せた。

「自分で決めなさい」

 目が皿になっていた。しばらくの間、こいしはぼんやりと口を開けて、思い出したように慌ててそれを閉じた。私はこいしの表情が完全に見えなくなるまで帽子を押し付けた。小さな抵抗があった。私はそれを無理矢理に押さえつけた。
「私達にだってあんたのやりたかったこと全部はわからない。それを知ってるのはやっぱりこいし自身だけなのよ。これだけは、もしもさとりがあんたの心を読めたって変わらない。古明地こいしの考えを理解できるのはこいしだけなんだから、最後に決められるのは結局、自分だけだから」
 こいしの両肩が感情と共に吊り上っていくのがわかった。多分この子が待っていた言葉はこんなものじゃない。『お姉ちゃんに全部まかせなさい』『全部、わかってるから』そんな嘘は言えなかった。私達が言えるのは情けなくて格好悪いことだけだ。
「いい、こいし。自分で決めたことがあるでしょう? あんたにはぬえが泣いてるのを見て思ったことがあったんでしょう? それならあんたは自分で決めたはずよ。どうしたいのかって」
「そんなのわかんないよ!」
 こいしは叫ぶ。喚き、帽子を叩きつけて、水面のように波打つ瞳がふたつ、私を睨みつける。
「無意識だったんだから! 気がついたら欠片を渡しちゃってて、だけど取り返す気も起きなくって……返してって、それだけも言えなくって……泣いてた。私のせいでみんな泣いてた。くやしくって、悲しくって、みんな、みんな……みんな泣いてた! わかんないんだよ、もうなんにも!」
「だけど、あんただって泣いてるじゃない」
「どうだっていいよそんなの! 悪いのはみんな私なんだから! ……怒ってよ! ぶってよ! 叱ってよ! そうしたらきっと、楽になれるから……ねぇ、おねえちゃん。私に決められることなんてないよ。私のきもち、お願いだから教えてよ……」
 こいしは私の服を握り締めた。襟に大きな皺をつくって、零れてくる声も同じように潰れた。
「辛いのやだよ、泣いてるのなんてやだよ、笑っててよ、みんな、笑っててくれなきゃイヤだよ……」
 身体が崩れ落ちる。私は咄嗟に膝を落としてこいしを受け止めた。
「お姉ちゃん」なんて泣き声が耳元で止まらなかった。「イヤだ」と叫んで、「お姉ちゃん」と泣き続ける。縋る相手を探す赤ん坊でしかなかった。
 私はこいしを抱きかかえたまま、天井を見上げた。この場所には泣き声しかなかった。少しでも意識を遠くに向ければ、この街を包んでいる声はどんな姿かも知らない地上の者の声が聞こえてくるのだろう。それに包まれて歓声を上げる街の連中の声。そして、ただひたすらにぬえを追う村紗の叫び声。
 街の声は、全部が混じっていたはずだった。
 お姉ちゃんを求めるこいしの声以外は、なに一つ聞こえなかった。

 私はこいしが投げ捨てた帽子を拾って自分の頭に乗せた。
喚き散らすこいしに目線を合わせて、「こいし」と、私は囁いた。
 右手を背中に回して、思い切り抱き寄せた。
「あんたはぬえを、村紗に会わせようとしてたんでしょう? 最初にぬえがあんたの姿を真似て現れたとき、本当はそこに村紗が居るんじゃないかって期待してたんじゃないの? 無理矢理に背中を押して、ぬえに少しでも前に進んで欲しかったんじゃないの? それがあんたのやりたかったことなんじゃないの? 自覚するだけでいいの。だけど、ちゃんと見てこいし。目の前にあるのがあんたが望んだことの結果よ。きちんと向き合って。じゃないと、絶対に後悔するから」
「……やだ」
「お姉ちゃんの言うこと聞くんでしょう? 私達はあんたのために言ってるのよ?」
「嫌だよ……」
「こいし」

「やだぁぁぁぁ!」

 返答は唯一、その一言だけだった。何を言っても耳に届いてなんていない。全部を見ていられなくなって、残ったふたつの瞳すらも自分で潰してしまいそうだった。
 それでもこの「嫌」って言葉が何もかもが嫌なはずなんてない。この子が拒んでいるのはたった一つのことだけ。だけれど、それを取り除く方法なんてこいし自身しかもっていない。
「やだ」と、こいしはそれだけを主張して泣き叫ぶ。
 私にはただ、こいしを思い切り抱き止めてやることしか出来なかった。暴れる両手が背中を殴打しても、突き上げられた膝が腹部に突き刺さろうとも、小さな身体が逃げ出さないように、離さないことだけしか出来なかった。意味も無く、痛みから来たものでもない。気がつけば泣きたくなっていた。

 ──ザマぁ見ろよ水橋パルスィ。どんなに意気込んだって自分にはやっぱり何もできないじゃないか。こんなことなら何もしないほうがよかったじゃないか。殴られて蹴られて泣かれて、あんたのやったことなんて何の意味もないじゃないか。
 自分で決めろなんて言葉も、所詮は中身の無いの格好だけだ。
 そんなことを言った自分自身はちゃんと決められた? 自分で決めて人間を捨てて、強い強い妖怪様の身体を手に入れた。だけど、今こうして妹を抱きとめている自分は、本当にあの時望んだ鬼の姿だった?  
 情けなさ過ぎる自分が悲しくてしょうがない。言葉になんて出せるはずが無い。唇を噛み締めて、帽子を目一杯押さえて、視界を制限して、それでやっと我慢できた。
「こいし、お願いだから」
 私は何も考えずに名前を呼ぶ。続く言葉なんてものはない。宙ぶらりんになった言葉はどこにも行かず、何も生み出さなかった。何かを考えようとするたびに、身体のあちこちで歯車が外れるような感覚があった。大きく息を吸い、吐こうとして吐き出せず、喉元と肺のあたりで酸素が迷子になっていた。しだいに視界すらもおぼろげになってきた。ぼんやりとした頭で、ただなんとなく、天井を見上げた。

 私はこいしを抱き上げて、そのまま走り出していた。

 格好も何もない、みっともなくこいしを抱きかかえたまま、どこかへ向けて足が進んでいた。こいしが暴れているのと、自分の足が動いていることだけがわかった。街の景色はまったく視界に入らなかった。街の声も相変わらず見えなかった。どうして自分が走っているのかも解らなかった。そもそも、こんなに必死に走っているのが私であるはずが無い。

 だから私は「こいし」と、誰かが妹の名前を呼んだのを聞いた。「笑ってて欲しいんでしょ?」
 全く、学ばないやつだ。何度も同じ事をいうんじゃない。そんなことを言ったって今のこいしが聞いているはずが無い。
「それを叶えたいのなら、やっぱり自分で最後まで見届けないとダメ。他の人なんてどうだっていい。自分が笑う為に誰かを笑わせたいって思うなら、お姉ちゃん達は絶対にそれを叶えてあげるから」
 そいつは何度も何度も、馬鹿なことをいつまでも言っていた。
「大事な人には笑ってて欲しいって、それだけは間違ってないのよ。それならこいしは何にも間違ってない。困ったことにはなっていても、悪いことなんて何もしていない。だから、胸を張りなさい。自分が決めたことに」
 馬鹿が。そんな考えは都合のいい解釈でしかない。善悪を決めるのは自分じゃない。
「私達は決めたわよ。大事な妹が決めたことを信じてみようってね。だからこいしがどんなことを言ったって私達はあんたの味方よ。お姉ちゃん達だってバカだから、あんたの思うとおりに出来ないかもしれないけどね。たとえそれがこいし自身から嫌われるような結果になったって後悔しない」
 滑稽だ。こいつはそうやって強がって、独りになるらしい。
「あんたはぬえに──友達に笑ってて欲しかったんでしょう? それならいいじゃない、他の連中なんていくらでも泣かせておきなさいよ。もし連中が泣いてて、それでぬえが泣くのなら全員を笑わせればいいじゃない。さっきから私達が言ってるのはそういうこと。私達はただ、こいしが笑ってたらそれでいいの」
「やだよ、みんな笑っててよ!」 
「無茶言わないで、あんただけで手一杯よ!」

 私が目の前に居たのなら、おそらくそんなことを言う奴は張り倒している。都合のいい言葉ばかりを並べて好かれようだなんて、そんなことで得た好意は本当じゃない。
 しかし困ったことに、そんな戯言を聞かないことが私にはできなかった。
 こんな姿をさとりが見たら、どう思うのだろう。
 甘いと怒るのだろうか。叱ることも正しいことを教えてやることも出来ずに、こうしてこいしの行きたかった場所へ付いていってやっているだけの姿を見たのなら。
 小馬鹿にしながら笑うのだろうか。どうしてと泣き出すのかもしれない。感謝の握手を求めてくることだけは、絶対にありえない。
 そして気がつけば、私達は街の中心に居た。


 15

 目が覚めるとまったく別の世界に立っている、そんな錯覚だった。私はしばらくの間、目を丸くして辺りを見回した。誰の姿もなかった街の様相は視界を埋め尽くす鬼の群れになった。針山地獄のように角がうごめいていた。上空では烏がけたたましく鳴きながら、仲間はずれを追いかけていた。どこかの馬鹿が花火を打ち上げた。音も無く空へと昇っていく一本の糸は、建物を少し飛び越えて一瞬で散った。全部を包んで、飴玉の声が転がっていた。
 目の前にこいしの姿はなかった。
 泣き声も聞こえなかった。いつの間にか背中におぶられていたこいしは、全てに疲れ果てたかのように私の背に顔を埋めていた。
 ラジオの先では送られた手紙を読み上げられているようだった。今は相談事なんてものが読まれているらしい。事情を知らない奴に相談して解決するのなら、今すぐ私の背中に背負っているものをどうにかして欲しかった。

「こいし、着いたわよ」と、私は静かに言った。
「……ぬえは」
 私の背中を声が撫でていった。もう喚き散らしていない。静かで、寝起きのようにぼんやりとした声色だけがあった。
「お姉ちゃんのペット達が見つけたんだよね。今、ここにいるの?」
「いる。烏達から必死に追いかけられて、村紗からも逃げ続けて」
「ぬえはこういう場所、苦手だって言ってたんだけどね」
「そういうことも言ってられないんでしょうね。村紗のやつ、好き勝手やらせたら地獄の果てまで追いかけていくわ、きっと」
「ムラさん、怖かった」
 首に回されたこいしの両手がぎゅっと締まった。
「あいつに睨まれたら、そりゃ怖いわよ」と、私は言った。
「私、怖かったんだ」こいしはポツリと言う。
「自分に怖いものなんて無かったはずなのに、とでも言いたそうな口ぶりね」
「そんなんじゃないよ。そんなのじゃないけど……邪魔しちゃいけないんじゃないかって」
「こいし、顔を上げてみなさい」

 私は背中をゆすった。こいしは私にしがみついたままだった。強く顔を押し付けられて、そのたびに首元に刃物を押し付けられるような感触があった。
「もう、いいよ……こんなに楽しそうな声が聞こえる。それでいいことにする」
「妥協なんて、一番あんたらしくないわ」
「お姉ちゃん達が無理だって、いっつも言ってるから」
 そうねと、私は笑った。「無理ね。私はそう思ってる。……私はね」
 私はもう一度、天井を見上げた。騒々しい声は反響を起こして、二倍にも三倍にもなっていた。この天井がなかったならと考えて、そんなもしもはないのだと、すぐに否定した。この街はどこまでいったって、どんなに皆が仲良く見えたって閉鎖的だ。そこにあるものはいくら目を逸らしたって、いつかは向き合わされる。そんな大きさでしかない。
 
 ──私は狭い世界しか知らないからさ。……人生経験が不足してるってやつ? 人の相談なんて見せられても上手いこと答えられないわけよ。ま、パチュリーも大概だけどさ。
 ──私は本があれば十分だもの。他の連中の困りごとなんて最初から興味がないわ。
 ──じゃあ私もたくさん本を読めば、こんな地下暮らしもエンジョイできるのかな。
 ──……さぁね。この手紙にも書いてあるじゃない。「自分のやりたいことがわからない」って。他人への興味うんぬん以前に、自分のやりたいことがわからない輩なんて、一山魔道書一冊でもおつりがくるわ。

「……フランは、外の世界を見てみたいって言ってた」
 ラジオの向こうの声に耳を傾けていると、耳元で声がした。
「それなら連れ出してあげようかって言った。だけどね、いいやって、断られちゃった」
 そう、とだけ私は答えて、もう一度辺りを窺った。一塊の生物のように動く鬼の集団。天井を覆いつくしそうな烏の群れ。街の声に混じって聞こえてくる、幻聴のような村紗の叫び。そして、地獄の天井を走りまわる蜘蛛の糸。
「ずっと前ね、私の手を引っ張っていってくれた人がいたの」
 私は天井を見つめながら、黙って聞いた。
「まだ心が読めてた頃の話だよ? その時の私ってば臆病でね、みんなと遊びたいって思ってても遠くから見てるだけでね、心の声だけ聞いて、それで一緒になって遊んでる気になってた。……ばっかだよねぇ、そんなの、全然楽しくないのにさ」
 相変わらず私の背中に向けられた言葉は、どこへも漏れ出していかなかった。
「そんな私を見つけて、手を引っ張ってくれた人がいたんだ。……人間の男の子。私のこと、仲間はずれの人間の子供と勘違いしたらしくってね、一緒に遊ぼうってさ。手を握ってくれて」こいしの両手が、私の首元を一層締め上げた。「嬉しかったんだぁ」
「それで好きになった?」と、私はやっと聞いた。我ながら酷い聞き方だった。
「わかんなかった。子供だったからかな。今でもいまいちわかんないけど、だけどなんだか心がポカポカしてね、あったかくってね……」
 私はゆっくりと腰を落として、こいしの両足を地面につけた。生まれたての羊のように不安定だったが、それでも何とか立っていた。私が覗き込むようにして顔を近づけると、こいしの顔は小さな手の平に隠されてしまった。

「私もそんな風に、なりたかったのになぁ……」

 こいしは笑って、手の平の向こうでまた泣いた。ボロボロの顔を必死で隠して、それ以外も全部を隠して笑っているように見せかけられるのはこの子だけだった。誰も気付いてやれなかった。こんなに近くにいるのに、この場所でこいしに気付いているのは私だけかもしれなかった。
 私は首からマフラーを外して、流れの止まらない涙を拭った。こいしの喉元がしきりに動いているのがはっきりと見えた。
「決めたこと、ちゃんとあるじゃない」
「そんなのじゃないよ。そんな立派じゃないよ」
「そうね、まだ立派じゃない」私は静かに、こいしの両手を握った。「あんたはただ、少しだけ信じ切れなかっただけなのよね」
「なに言ってるのか、わかんないよ」
「信じてやれって言ってるの。自分と、大好きなこの街を」私は言葉をかけながらゆっくりと、硬く閉じられたこいしの両手を解いた。「あんたが大好きな、街の連中の強さも」
 こいしの両目が薄っすらと開いた。私の顔を見て、その先を見て、それで一気に開ききった。
「あんたみたいな子供に救えるほど、この街は単純じゃない。助けてって泣いてて、欠片を渡されて、その結果がどうだったとしても、最終的にどうするかは自分で決めたことなのよ」
「だってそれ、無意識に思ってる事だって──」
「無意識なんてない。キスメがヤマメを独占しようとしたことだって、大事な人を傷つけた事実だって、全部そいつらが自分で決めたこと。そう簡単に狂えるものじゃないわ、感情なんてもの」
「だけど、泣いちゃってたよ?」
「間違った決断で大事なものを泣かせたから。また笑いたくて頑張ってるのよ、あいつらだって」

 私は振り返って、こいしと同じ方向を見た。
 地獄烏の作る暗雲の隅っこに混じる一点の黒と白。黒は白から放たれるものから懸命に逃げて、足止めに放たれる攻撃を巧みに避けて、一旦地面に消えた後、一気に雲の中へ飛び込んだ。白はそれを追いかけて、一直線に後を追った。暗雲の先では白く輝く糸が張り巡らされていた。上空を走る糸の先を目で追うと、見えてくるのは黄金色と緑色。ふたりとも身にまとう色は質素なものだから、生まれ持った髪の色が目に痛いくらいに強調されて見えた。間違いようも無い。そもそも、そのふたりが一緒に居ることなんてこの街に住んでいる奴にとっては当たり前のことでしかない。
 ヤマメとキスメは地底の空を走っていた。振り回されるように飛び回るキスメと、その桶に掴まったヤマメがこの街に自分の巣を張り巡らせた。全てを包めるような大きさには遠く及ばないが、今の街の声くらいは受け止められるだろう。ふたりの姿が豆粒ほどしか見えなくとも、そんな気がした。
「なんで」と、こいしは落ち着きなく瞬きしながら呟いた。
「そんなの決まってる」と、私は言った。「あいつらは自分に正直だから。だから一度折れたくらいじゃ諦めないのよ。決めたのは一緒に居たいってことだけで、後はおまけみたいなもの」
「私だって、諦めてなんか……」言って、こいしは続きを飲み込んだ。両手を広げてパチンと、自分の両頬を叩いた。
「バカ!」
 それから何故か私を引っ叩いて、何度も自分を叩く。叩き続けて真っ赤になった頬を、また叩く。

「バカ! バカ! バカ! お姉ちゃん達のバカ! みんなバカ! ──私が一番バカ!」

 こいしはうんと身体を伸ばして、真っ直ぐに天井を見上げた。「わぁぁぁ!」と一度大きく叫んで、「うわぁぁぁ!」と身体全体で息を吸って、「あちゃぁぁぁぁ!」と私を引っ叩いた。黙って叩かれた私の周りだけが、しんと静まり返った。こいしは深呼吸を繰り返してから、もう一度、暗雲と蜘蛛の巣と錨の浮かぶ天井を見た。うんと背伸びをして、真っ直ぐに立っていて、
「私、走るよ」
 こいしの言葉にはいつもの元気しかなかった。
「もう遠慮なんてしない。無意識でいい。ぬえの気持ちなんて、知らないっ」
「あぁ、そう」と私は肩を揺らした。私から見える背中は星熊勇儀のそれのようだった。「あんたがそう決めたなら、そうしなさい。私達に出来ることは?」
「うーん……ないかな。だけど、ちゃんとそばで見ててくれる? 迷子にならないように」
「わかった。追いつける限りは、多分ね」
「じゃあ、頑張って逃げよっかな」
「天邪鬼は誰に似たんだか。だけど無理ね、妹ってのはどうやってもお姉ちゃん離れできないものなのよ」
「逆でしょ?」
 私は鼻で笑い飛ばした。へへん、とこいしは両手を腰に当てて胸を張った。私は後ろから、その小さな頭に帽子を乗せた。こいしは点々と帽子の鍔に触れてからくるりと一回転して、私の真正面で屈託無く笑った。ふわりと舞うスカートも、帽子の影から零れる銀色の髪も、真っ直ぐに伸ばされた身体も、全部が見惚れるくらいに綺麗で、悔しいほどに帽子が似合って見えた。
「えへへ……ちゃんと大人だよね。私」
 こいしはすっかり赤くなってしまった瞳をこちらに向けて言った。私はそっと手を伸ばして、こいしのおでこに触れた。人差し指で帽子をつつく。再び鼻で笑うと、こいしは食べ物を蓄えるなんとか鼠のように頬を膨らます。
「そういうこと言ってるうちは、まだまだお子様」
「じゃあ、お姉ちゃんもそうなんだ」
「失礼ね。あんたよりはずっと大人よ」私はいきなり、こいしの髪の毛を思い切り掻き毟りたい衝動に駆られた。「大人だから我慢してるの。あんたみたいな自由っ子と一緒にされちゃ困るわ。なにをしてもいいのは、あんただけで十分。──ほら、行きなさいこいし。あんたの友達、大変なことになってるわよ?」
 こいしは天井を見上げて、「──あ」、と口を開けた。
 暗雲を抜けたぬえは減速も出来ずに、一直線にヤマメ達の巣へ飛び込んだ。勢いを殺しきった蜘蛛の糸は大きく跳ねて、それが更にぬえの身体を絡めとる。逃れようと暴れるたびに、それが続く。村紗は後を追って雲を抜け出し、ジタバタともがき続けるぬえを見た。何かを言って、一直線に向かっていった。

「──ダメ!」

 いきなりこいしが叫び声を上げた。流石に近くにいた背の高い鬼の耳にも届いたようで、こいしの声に釣られて天井を見上げた。その先にあるものを理解しているのかはわからない。いつも起こっているような喧嘩に見えたのかもしれない。そいつは村紗たちの方をジッと睨んでから、向こうを指差しながら私達の方を見た。
「なんだありゃあ、ヤマメちゃんの新しい芸か?」
「どいて!」
 こいしは鬼を突き飛ばして、空へ駆け上がっていった。小さく仰け反ったままの体勢で、何が起きたかまったく理解できないといった視線だけが私に向けられた。
「喧嘩か!?」と、彼は言った。何故か瞳が輝いているように見えた。
「どうなのかしらね。鬼の言う喧嘩とはきっと違うだろうけど」
「そうか」
「何がそんなに残念なんだか。あんな喧嘩ならいつもやってるでしょうに」
「いや、綺麗だなってな」
「綺麗って? あれが?」
「ヤマメちゃんとキスメちゃんと今噂の……ああ、村紗っていったか。あれだけの美人どころが揃ってりゃあ綺麗って言うほかないだろ?」
「能天気ってのは妬む気にもなれないわね。どいて、あんたなんかに構ってられないのよ」
「そいつは失礼」
 彼は真っ白な歯を見せ付けて笑った。私は気味の悪さを感じながらその横を通った。
「あの子には、恩があるんだ」と、彼はぽつりと言った。「お陰で痛い目にもあったけどな」
 私は足を止めた。見ると、気味の悪い笑顔はそのまま貼り付いていた。私は何も言わずに視線をそらして、鬼の輪から離れ、近くの家屋の屋根に登って村紗達を見上げた。

 錨を振り上げながら巣へと突っ込んでいく村紗に、後ろから新しい糸が伸びていた。そのせいで村紗はぬえに近づけないままだった。糸の先ではヤマメとキスメが、村紗の向かおうとする先とは逆方向に向けて糸を引いていた。
 村紗は錨に振り回されるように身体を回して、ヤマメ達に何かを叫びかけた。ヤマメ達も負けじと叫び返していた。声は声に呑まれて此処まで届かなかった。
 そんなやりとりを眺めていると、後ろから突風が吹いた。
 私は咄嗟に頭を押さえた。その一瞬だけ、全ての声が消えて風の鳴き声だけが聞こえていた。風に頭を冷やされたのか、何人かの鬼が天井を見上げているのが見えた。当然、その視線の行き先は村紗達に向けられる。数人気付くと、それが伝染するのはあっという間だった。
 あいつらは何をやっているんだ。
 ヤマメちゃんじゃあないか。
 喧嘩か!?
 そんなのよりこんなに大勢の烏なんて初めて見たよ。
 頑張れ、ヤマメちゃん。
 負けるな、村紗の嬢ちゃん。
 というか、なんであのふたりなんだ?
 どうだっていいじゃないか、そんなの!
 やんややんや。やんややんや。

 私は溜息を吐いた。
 この街の連中は騒ぎがあればすぐに喧嘩ださあ観戦だと騒ぎ立てる。その喧嘩の理由なんてのも単純でくだらないものばかりで、気がつけば当事者だってバカらしくなって、仕舞いにただのバカ騒ぎに成り果てる。今だって上で騒いでる連中の事情や考えてることを知っている奴なんて一人もいない。
 もう一度、突風が私の背中を叩いた。
 条件反射のように溜息を漏らしたあと、私はゆっくりと首を回した。
「……わかってるって。ちゃんと最後まで面倒見るから。そんなにぴぃぴぃやかましくしないでよ」
 ふっと、風が止まる。私は息を吐いて肩を揺らした。
「さ、行きましょうか」
 みっつを靴の先で瓦を叩く音で数えてから、ゆっくりと身体を浮かせて天井へ向かって速度を上げた。
 見上げた先でこいしが村紗に抱きつくように突っ込んでいったのは同時だった。躊躇いの無くなったこいしの勢いを受け止められる奴なんて絶対に居ない。村紗も例外であるはずがなく、ヤマメが伸ばしていた糸を引きちぎって、ぬえがもがき続けている巣に向かって飛びこんでいった。
 
 こいしは両手で、錨ごと村紗を押さえつけた。村紗は巣の上で身体を跳ねさせ、押し返そうとしたができていなかった。単純な力の差は歴然なはずなのに、村紗はこいしから逃げ出せない。「なんで」と、相変わらず代わり映えしない問いかけを、今度はこいしに向けて叫び放っていた。普段は亡霊らしく真っ白な顔面が茹で上がったようになっていた。

「──ぬえは悪くない!」

 こいしの声は、ラジオをかき消すほど大きかった。気迫に圧倒されたようにラジオの先のふたりは沈黙した。広場に集まった全員の視線が今度こそ全てこいし達に向けられた。
 きゅう、と小さな音が聞こえて、旧都の空に花火が広がった。一瞬だけ咲いた花は街の上で騒ぐ連中を映し出して、すぐに消えた。おおかた勘違いした奴が景気付けにでもと打ち上げたのだろう。続けてあちことから、散漫な花火が上がった。注目が集まれば話題になる。今度は地上に荒波のようなざわめきが広がった。
 「ぬえ」ってなんだ?
 私達の下でそんな議論が交わされているのが見えた。点々とこちらへ聞いてくる姿も見えた。まったくだと私は肩をすくめた。私だって教えて欲しいくらいだ。村紗だってそうに違いない。
 だが、ひとつわかったことがある。鬼達にはぬえの姿は見えていないらしい。表現は正しくない。ぬえはそこで巣に引っ掛かったままだが、向こうからは馬鹿なカラスがヤマメの巣に引っ掛かったようにしか見えないのだろう。私にだってぬえは、カラスの姿をしていないというだけで、はっきりとした容姿は説明できない。たださとりの言っていた『幼い村紗』というイメージがそこで暴れているだけだった。背丈はこいしほどで髪は混じり気の無い真っ黒。服装も最初出会ったときのまま、闇をまとっているように真っ黒。黒尽くめでそのままカラスの群れに混じっていても気付かないかもしれなかったが、背中から伸びた赤と青の何かだけが、ぬえと他との区別をつけてくれていた。

「あいつが悪くないって言うのなら──」村紗はぬえを横目に見ながら、言った。「だれがやったって言うんだよ、あいつ以外に誰がいるって言うんだよ!」
「わたし!」こいしは躊躇い無く言った。村紗の次の言葉も、ぬえの言葉も待たなかった。「私がやったの! みんなに笑って欲しくってやったの! 馬鹿だから、こんな方法しかわからなかったの! ……ねぇムラさん、ぬえは悪くないんだよ。怒らないで」
「怒ってなんてない!」
 最近の村紗の言葉は全力投球しかされていなかった。年中歯を噛み締めているような奴を、誰が見たら怒ってないなんて言えるのか。「怒るつもりなんてないんだよこいしちゃん。たとえぬえが犯人だったとしたって、怒るつもりなんてなかった」なだめるように意識していたのはおそらく、そこまでだった。「だけどこいつは、ぬえは、何も言ってくれないんだよ! 黙って逃げるばかりで何も言わないなら、私だってどうしたらいいのかわからないじゃない!」
「ぬえは……」とこいしは言いかけた。私はようやくこいし達の傍までたどり着いた。まだこいしは、言葉の続きを迷っているようだった。おそらくその代弁は本来してはいけないものだった。私は何も言わずに見守った。ヤマメもキスメも、何も言わないでいた。

「嘘に決まってる!」
 前触れ無く誰かが割り込んだ。
「ぬえは」と繰り返される言葉を変えたのは、他でもないぬえ本人だった。相変わらず糸に絡め取られたままで、諦めたように身体を広げていた。真っ黒な服に、赤と青の歪な形の羽。靴の赤さが際立っていた。数日前に一度だけ聞いた声と代わり映えしない、どこか中性的で、不安定な声色だった。
「そいつのいうことなんて嘘に決まってる、村紗の持ち物だった欠片の力をどうしてそんな奴が知ってるのさ。ねえ村紗、私しかいないでしょ? 村紗の持ってる力を知ってるのは、私だけでしょ? あんたの矛先は私に向けられなきゃいけないんだよ、あんた達の持ち物をこの街にばら撒いた、このぬえ様にね!」
 やけくそ気味に一気に捲くし立てたぬえは、今度は地上を見下ろした。
「聞いてるだろ、馬鹿な地底の住人ども! 聞いた通りさ、この街に欠片をばら撒いたのはこの私! ぬえ様はみんなの困ってる表情が大好きだから、旧都を混乱のどん底に叩き落してやったよ! あぁ、楽しかった! 楽しかったともさ! 村紗が困って、みんなが困って。妖怪冥利に尽きるってもんだね!」
 ケタケタとぬえは笑った。下の連中のざわめきは一層大きくなって、誰もがこちらを見ていた。
「やめてよ!」こいしが怒鳴りつけた。「なんでそんな風に言うの? そんなだからムラさんだって気づけないんだよ。本当を言ったらいいんだよ、そうしたらきっとわかってくれるから」
「わかるわけないよ、村紗はバカだもん!」
「──この、バカぬえ! それなら私が言ってあげるからいいよもう!」
 こいしは村紗を押さえつける手を離した。村紗は絡まったままの錨を手放してすばやく起き上がり、性懲りもなくぬえのほうへ飛び込もうとした。
「ムラさんも、バカ!」
 こいしは後ろから村紗をひっぱたいた。完全な不意打ちだった。落ちそうになった帽子を押さえながら、村紗はこいしに振り返った。顔を覗き込んで、ばつのわるそうな表情になった。大方、こいしはまた泣きそうな顔をしていたのだろう。それでも止まらないのなら私は村紗を殺しにいかなければいけなかったが、村紗はゆっくりと帽子をとって、ぬえに向き直った。

「何度でも言うよ」何かを無理やりに押さえつけているような、詰まった声で言う。「お願いだから話して、ぬえ。本当にあんたが欠片をばら撒いたって言うのなら、どうしてそんなことをしたんだよ」
「うるさい、バカムラサ!」
「話してくれなくちゃわからないだろ、私は心が読めないんだから。私がバカだって言うのならどこかバカかを教えて」
「全部に決まってる! そんなのもわかんないから、バカムラサなんだよ!」
「そんなこと聞いてるんじゃない!」
 ムラサの堪忍袋の尾は、納豆の糸でできているに違いない。私はすぐに飛び込めるように体を構えた。ヤマメが視界の隅で私と同じようにしているのが見えた。おそらく下の連中は今の会話についていけなかったが、なにやらいろいろと面子の混じった喧嘩が最高潮に達したと判断したらしく、腕を振り上げて飛び跳ねていた。村紗はこいしの横に手を伸ばして錨を無理やりに引き剥がした。私とヤマメは顔を見合わせて、村紗に向かって飛び出していった。

「好きなんでしょ!?」

 こいしの言葉が、全部をとめた。
 村紗はみっともなく口を開いて、ゼンマイの切れかけた人形のような動作で、こいしとぬえを交互に見比べた。何を言ったかを一番わかっていない風だった。求めていた答えが投げ込まれたのに、それが何かを理解できていなかった。
「誰が? なにを?」と言った村紗は、過去最高に格好悪かった。
 その返しは考えうる限り最悪のもので、街の連中の空気は一気に白けてしまっていた。
 やがて、溜息があちこちから聞こえてきた。回答を求めるように村紗はあっちこっちを見た。そのたびに溜息は大きくなっていった。最後には、ラジオの向こう側からも。

 ──……ねえパチュリー、こいつ、バカなの?
 ──バカなの。

 経緯も善悪も全部すっ飛ばして、一瞬にして村紗水蜜は罪人になった。欠片をばら撒いたのが誰かだとかは、いつしかどうでもいいことになっていた。今、この場にいる全員の意識はおそらく、ひとつになっていただろう。
 熱い女の評判をもつ村紗水蜜は、完全に過去のものとなっていた。
 情けない声でぐるぐると視線をさまよわせる姿は、欠片を求める奴らのことを『理解してやれる』と言い切った奴のものじゃなかった。うそつきで口先だけの鈍感やろうだったわけだ。
 鈍感やろうは最後にやっと、ぬえに視線を向けた。ぬえは俯いたまま、何も言わなかった。パクパクと口だけが魚のように動いていた。
「……バカ」
 聞き取りずらい声で、ぬえはそれだけを言って、そっぽを向く。
 それでやっと、村紗は自分を指差した。
「……わたし?」
 ぬえはだんまりを決め込んだ。村紗は頭を捻りながらよろよろとぬえに向かって飛んでいった。誰も村紗を止めようとなんてしない。もうなんとかしようなんて気は、微塵も湧き上がらなかった。
「なんで? 私、あんたに好かれるようなこと、何もしてない……え? なに、ぬえ、わたし? なんで? いや、答えて? なにがどうなってるのかぜんぜん……え? えっと、欠片を撒いたのはぬえ? それともこいしちゃん? いや、なんとかいってよ、ねえ、ぬえ?」
 ねえ、と村紗はしつこく手を伸ばした。ふらふらとぬえの目の前を村紗の手のひらが漂っていた。ぬえは何かを必死に噛み締めるように俯き、喉の奥底から搾り出したような声で叫んだ。

「うるさいよ、このバカ!」
 伸ばされた村紗の手が一瞬だけ跳ねた。ぬえはその手を払おうと身体を捻るが、やはりどうやっても身動きがとれず、忌々しげに舌を打って、村紗を睨みつける。
「好きだから? だからなに? 私があんたを好きだったら何かしてくれるの? ……出来るわけ無い。出来ることなんて何も無いんだよ。村紗が私に出来ることなんて何もない。だってすぐに居なくなっちゃうんだもんね? 村紗は飛倉の力が集まったら、さっさとこの街から居なくなるんだから!」
 村紗はすぐに返せなかった。口元だけが小さく動いていた。
「あんたにとって此処はただの通過点なんだ、なんで此処にいるのさ、どうして村紗はこの街にいるのさ……聖とかいう奴と一緒にどこか知らない場所に飛ばされたらよかったのに! どうして私、こんな奴見つけちゃったんだよ……こんなバカなんか、知らなかったらよかったのに。そうしたらこの街には何もないんだって、思ったままでいられたのに!」
 ぬえはそっぽを向き、ひたすらに「バカ!」と吐き捨て続けた。
 バカ、馬鹿、ばか、と。
 最初は勢いも幾らか残っていた。だけどそれは多分、喉元に引っ掛かっていた最後の言葉だった。 
 言葉が消えて、ぬえが村紗の方を向いたときにはそんなものは全部崩れてしまっていた。残っていたのは、酷い泣き顔だけだった。 

「どこへも行かないでなんて、もう言えないじゃない……」

 ぬえの身体が再び糸の上に沈んだ。もう起き上がる力も残っていないといった風だった。
「それが理由?」
 村紗は静かにぬえに近づくと、帽子を胸に当てて、顔を近づける。ぬえは感情の篭らない声のまま、「そうだよ」と言った。
「私が撒いた種なんだ。こいしはそれに余計な種を増やしただけ」
「私の邪魔をしたかったから?」
「そうだよ」
「あんたはこうなるって知ってて、欠片をばら撒いた?」
「……さあね」
「そうか」村紗は自分に何かを言い聞かせるように、黙った。
 私達も黙ってそれを見ていた。口を挟む奴は居なかった。この騒動の行く末に皆が注目し、村紗は相変わらず勿体つけるように動かない。ひとつひとつを噛み締めるように頷いて、そのたびに小声で何かを言っていた。ぬえ以外の誰にも聞こえていない。ぬえにも聞こえているかは定かではない。
 
「わかった」

 およそ一分が経とうとしたころ、村紗はようやく目を開いた。
 何も言わずにぬえの両肩を掴んで、容易く糸から引き剥がした。そのままぬえを真正面から見た。
 口を結んだぬえの顎を持ち上げて、無理矢理に顔を上げさせた。

 短く、高い音が響いた。
 大きく振りかぶっていた手の平を見逃していた者はおそらくいなかった。地上の連中も、何が起こったのかわからずに沈黙していた。さっきから何度も、何かが変わるたびにこんな時間が訪れていた。
 村紗はぬえの頬を叩いた右手を握り締めて、ゆっくりともどした。
 私は我に返るとまず何よりも優先してこいしの方へ飛んで行き、両肩を押さえつけた。案の定、村紗へ向かって飛び出そうとしたまさにそのときだった。
「まあ、待ちなさいって」と私は言った。
「待てないよ、だって──」
「あいつだって、流石にわかってるから」
 両手に自然と力が篭っていた。
 こいしは不満そうな表情を見せた。それでも私の上着の裾を摘んで、ふたりに視線を向けてくれた。

 ぬえは真っ赤に染まった頬を押さえることもせずに、打たれたままの状態で動かなかった。
「これでやっとハッキリした。私は今、怒ってる」
 そんな姿に村紗が向けた言葉は、相変わらず真正面からの剛速球だった。回避しようとしなければ一番弱いところに容赦なく突き刺さる、そんな言葉。
「あんたは悪い事をしたんだよ、ぬえ。理由はどうであってもそれは変わらない。わかってるよね」
 ぬえは動かない。生きていることを疑えるほどに。
「この街をたくさん泣かせた。それはもうどうしようも無いんだ。それをやったのはぬえで、それを決めたのもぬえなんだから。あんたはその責任を背負わなくちゃいけない」
「……どうしろって?」ぬえは消えそうな声で言う。
「まずは、謝って」村紗ははっきりと言い切った。
「……ごめん」
「私にじゃない。この街の全員に」
「許してくれるわけがないじゃない。こんなことしておいて」
「それでも謝らなくちゃいけないんだよ。そうしないと、何も始まらない」
「なに、保護者気取り? ……冗談じゃない。そんな風に優しくされるなんてとんだ迷惑だよ」
「違う、そんなのじゃない!」
 村紗はいきなり声を荒げ、ぬえの身体を大きく揺さぶる。
「あんたの罪は私のものだから! 私を想ってやったことなら、私にだって責任がある。それにね、私はそんなことにも気付いてやれなかった。この街には私と似た奴がいたって知ってたのに、そんな簡単な事もわからなかった。……ほんとはね、飛倉の力を求めた奴の気持ちなんてこれっぽっちもわかってやれてなかったんだ。理解してやった気になって、仕方が無いんだって、そうやって誤魔化してただけなんだよ」
 村紗はぬえの細い腕を掴み上げた。だらりと開いたままの手の平を、自分の頬に叩きつけた。ぬえの時ほどでもないが、聞くだけで身が縮こまるような音がはっきりと聞こえた。
「だからぬえ、私をぶって。私はあんたを怒った。だからあんたも私を怒っていい。ぬえの決めたことの分と、ぬえに気付いてやれなかった分と、この街を泣かせた分。他にも数え切れないほどだから、好きなだけ私をぶって」そう言った村紗の肩が、少しだけ下がった気がした。「……そしたら、ふたりで謝ろう? みんなに、ごめんなさいって」

 村紗の手がゆっくりと、ぬえを放した。振り上げられたぬえの腕は、そのまま宙をさまよっていた。村紗へ伸ばされて、すぐに引っ込める。村紗はそれを何も言わずに見ていた。やがてぬえの手はゆっくりと、倒れるようにして村紗の胸を叩いた。
「……バカ」
「うん」
「……馬鹿」
「ごめん」
「ばか」
「そうだね」
「アホ村紗」
「私はほんと、大バカだ」
 最初は触れるだけの強さだった。次第に鈍い音が混じっていく。同時に、ぬえの言葉にも感情が含まれていった気がした。
「しね」
「それは断る」
「じゃあ、生きてて」
「うん、そう望むなら」
「やっぱしね」
「嫌」
「どっか行かないで」
「それも無理」
「……バカ」
「ありがとう」
 ぬえの身体を、村紗が抱き寄せた。小さな肩に顔を埋めながら、ひとつひとつ確かめるような村紗の声は、つい数秒前にぬえを叩いた奴のものとはおもえないほどに優しかった。
「ぬえはさ、私だったんだ。ずっと昔、独りが嫌で、だれかに居て欲しくて、そんな自分勝手で沢山の人を孤独にした、それでも満たされなかった私。……あんたがやったことは悪いことだ。許されないことかもしれない、許されちゃいけないことなのかもしれない。だけどね」大きく息を吸って、ぬえを正面から見据えた。「そうだね、うん。……そうだよね、そうなんだよ。街のみんなの気持ちや、あんたの気持ちに気付いてやれなかった私だけど、それだけは絶対にわかる。独りってさ、冷たくて寒くて静か過ぎるんだよ。嫌ってほど知ってる。あんなの絶対に耐えられない。この街に来たとき、私には一輪がいてくれた。この街には何も無いって思い込んでたけど、独りになんてならなかった。一輪がいてくれて……」村紗が笑った、ように見えた。「あんたが居てくれたから、私は一秒だって独りじゃなかった」
 もう一度、村紗がぬえを抱きしめた。ぬえの手はどこも掴めずに虚空をさまよった。力がまるで感じられなかった。喘ぐように空を掻いていた。まるで手の平の先にある煙か何かを掻き消そうかとしているようだった。村紗が何かを小声でいうと、拳は握られ、村紗の服の裾を握ったまま動かなくなった。

「その気持ちは、どうしようもないんだって事だけは知ってる」

 村紗が唇を噛むのが見えた。何かを押さえ込んでいるようで、涙を堪えているようにも見えた。

「……好きになってくれて、ありがとう」

 それから村紗はぬえを抱いたまま、ゆっくりと地面に降りていった。
 顔を真っ赤にしたり、下世話な笑みを浮かべた鬼達が、ふたりを待ち構えていた。


 16

 ──こうして、こいし達の引き起こした一連の騒動はひとまずの区切りを迎えた。
 村紗とぬえはあの後、そのまま街の連中に連れて行かれて、次の日、完全に酔いつぶれた姿で戻ってきた。まる一日眠り続けたあと、目を覚ましたぬえは真っ青な顔のままで言った。「この街の連中はやっぱり、バカばっかりだ!」
 ようやく気付いたのかと、私も村紗も溜息を漏らした。
 鬼という種族は正直者が大好きなのだ。どんな手段であれ、自分に真っ向からぶつかってきた者を責め立てるようなことはしない。……たとえ行き過ぎてすれ違っても、それを許せるような強さを持っている。買いかぶるなと勇儀には怒られるかもしれないが、本当にそうだったのだから仕方が無い。

 もちろん、それで事態が急転するわけじゃない。ばら撒かれた欠片はきっといくらでも残っていて、全部を集めることなんて出来るわけが無い。そうして残った力が、今もこの街を泣かせているのかもしれない。
 その可能性と真正面から向かい合いながら、今日も街中を走り回っている奴がいる。それでも、なんて言いながら絶対に諦めず、多分諦めるという言葉すらも知らない大馬鹿者だ。地獄の底まで相乗りするパートナーと、地獄の街で出会ったどうしようもない好意。それだけのものを持っていてもまだ、村紗水蜜は止まらない。 
 今回の件の後でも、村紗のやっていることが変わることはなかった。
 きっと村紗の人生は横道なんて存在しない一本の道になっているのだろう。遥か彼方に蜃気楼のように見える場所を目指して、ひらすらに走り続けていくだけ。ゴールにたどり着いた後どうするかなんて考えていないに違いない。
 しかしそんな姿を見ていると、例えようの無い感情に飲み込まれそうになる時があった。それも最近は特に多くなった気がする。私はいったい何を感じているのだろうと考えても、答えは明らかになってくれる気配が無い。
 ……いや、橋姫が抱く感情なんて嫉妬以外のなにがあるというのだろう。
 村紗水蜜は何かを成し遂げようとする強さも、それ以外を振り切れるだけの強さも手に入れた。自分の道は一本道でしかないというのに、気付けばそこにはいろんな道が交わっていた。そうやって広がった道の先にはおそらく、彼女達の望んだ物が待っている。人間であろうと妖怪であろうと、それを見せ付けられて妬みを覚えない者なんているはずが無い。
 感情の正体は依然として不明なままだ。
 ……でもまあ多分、そういうことなのだ。

「……お姉ちゃんは、さ」
 椅子に座る私の膝の上で、こいしはノートの隅に落書きをしながら言った。
「ムラさんのこと、好きなの? それとも嫌いなの?」
「どうしてこの文面から好きだなんて発想がでてくるかわからないわね。嫌いに決まってるじゃない」
「そうかなぁ」
 ノートの落書きは人間の形をした何かが描かれていて、片方は腕の関節がひとつ足りていなかった。非常によく特徴を捉えている。この子はきっと将来素晴らしい絵を描くに違いない。『おねえちゃん』と書かれた横には、もうひとりの人間らしきものが描かれ始めていた。まず、自分が愛用している黒い帽子だけが描かれていた。自分を横に並べるつもりなのだろうと考えながら、私はこいしの髪に左手を被せた。
「私があいつを好きになれるとでも思ってるの? 無理よ。これだけはどうやったって無理」
「そういうわけじゃないけどさぁ……」
「それならなんでそんなに不満そうなのよ。止めなさいよ考え事なんて、あんたらしくもない」
「だって、なんだかモヤモヤするんだもん。この辺に」そう言って、こいしは自分の喉に指先を当てる。「何かが引っ掛かってるみたい。まるで魚の骨みたいに」
 ああ、と低く唸りながら、こいしは机の上に突っ伏した。私は押しつぶされそうになった帽子を慌てて取り上げた。それから椅子の背もたれに寄りかかって、深く息を吐き、帽子を顔に落とした。
 壊れたままの窓からは冷たい風が吹き込んでいた。「うあー」と、考えているようなこいしの声とは別に、例の、飴玉の声が遠くから聞こえてきていた。夏の暑さにやられたような気だるさと、特にすることのない退屈さからの眠気が全身を包み込んでいった。

 しだいに意識が風に飛ばされそうになってきた頃、ドタドタと階段を昇ってくる音が聞こえてきた。
「ほらこいし、誰か来たわよ」
「うーん」
「足音で分かるでしょう? あんたの所に来たんだから、ちゃんと相手してやりなさいよ?」
「むー……」
 考え込んでまるで耳に入っていない。こんな所はどうやったって姉妹だった。
 私は顔を覆っていた帽子をゆっくりと退かして、正規の入り口であるところのドアをチラリと見た。このドアが開けられるパターンは三つあった。ノックされるパターンと、ノックされないパターンと、

「匿って、小姑に殺される!」

 ドアが蹴破られるパターンだ。これをやる奴が最近ひとり増えてきたものだからたまったものじゃない。
 応急修理すらしてもらえなくなって立てかけられていただけの哀れなドアは簡単に蹴飛ばされ、部屋の真ん中で埃を舞い上げ、無残な姿を晒した。私は諦めが混じった溜息を吐いて、いつのまにか半分眠っていたこいしを退かし、椅子から立ち上がった。部屋の中に飛び込んできたぬえは迷うことなく私達のいた机の陰に飛び込み、人差し指を自分の唇に当てた。赤と青の羽が隠しきれずに机の両恥からはみ出してしまっていた。表情は殺されるなんて言っていた奴のものとは思えないほどの笑顔だった。
 続いてぬえのものよりも幾分か力強い足音が聞こえてきた。駆け込むというよりも突撃してくるといった表現の方が正しいかもしれない。おそらく彼女の目の前に無事なドアが立ちふさがっていたのならば、今度こそ、その身を砕かれてしまっていたことだろう。

「誰が小姑よ! だれが!」

 そういって進入してきた一輪の顔は普段の温和な表情を微塵も残しておらず、真っ赤に染まった顔はまさしく鬼のようだった。部屋中をざっと見回すと、数人始末してきたような目線をこちらに向けて、「ぬえは!?」と叫んできた。
「こ、今度はなにしたのよ、あの子」と私はあくまで冷静に答えた。挙げられた左手に猫のようにぶら下がっていたこいしはこれでもまるで動じていなかった。
 私はちらりと目線だけを足元のぬえに向けた。
 ぬえは口だけで「バカ、ばれるだろ!」といった。
「そこね」と一輪がいったときには、彼女は目の前に立っていた。
 私はこいしを持ったまま急いで飛び退いた。途中机の角に腰をぶつけて骨が痺れるような痛みが走ったが、代わりに一輪の行く手を邪魔するくらいならそれくらいは屁でもなかった。
 一輪は私が開けた道に滑り込んで、這い出ようとしていたぬえの羽を掴み取った。空いていた手で頭を鷲づかみにすると、薄ら暗い笑い声をあげながら、真っ黒な身体を机の陰から引きずり出した。
「痛い痛い痛い! イタイっていってるだろこの馬鹿力女!」
「お黙りぬえ。今日という今日こそは許さないわよ」
「なんだよ、ちょっとイタズラしただけだろ!? それなのにいちいち目くじら立てて……さ、」
「ちょっと……?」
 一輪は眉を微かに動かした。肩が揺れ、羽を握っていた手が口元を隠した。私は壁に貼り付けられたように動けなかった。目の前でその表情を見ているぬえの気持ちなんて微塵も知りたくなかった。
「大事な法衣にあんな卑猥な言葉を落書きしておいて、それがちょっと? あまつさえそれを私が気付かないようにして街中を歩かせたことがちょっと?」ぬえの身体の陰から一輪の口元だけを見た。醜く歪んでいた。
「村紗と一緒に住むってこと、ふたりだけで決めたときはまあ仕方が無いって思ったわよ? あれだけの事をした奴だっていっても村紗がそう決めたことだもの、仕方が無いってね。……だけど、なに? いつもいつもイタズラばっかり。家のことも手伝わないで、いつもどこで遊んでるんだかもさっぱり。あんたのせいで息を荒くした鬼達に迫られた私の気持ちがわかる?」
「へえ、よかったじゃない一輪、モテモテだ」
 必死に笑っているように見せかけながら、ぬえは言った。

「嬉しくないわよ!」
 
 心臓が跳ね上がった。呼吸が一瞬止まった。私はこいしを片手に持ったまま壁にそって何故か忍び足で歩いていた。この場から早く退散したかった。ぬえを軽々と持ち上げたまま静かで荒波のような怒りを見せる一輪の恐ろしさは、個人的に言えば先日までの村紗水蜜の比ではなかった。彼女の周りには風が吹いている。何者も寄せつけない鉄壁の風だ。私の身体はじりじりと押し出され、この場所からの退散を余儀なくされる。ちなみにここは私の家だ。
 しかし村紗がぬえと一緒に暮らすと宣言してから数日、こんなことばかりだった。
 ぬえは元来の性格から毎日のように大なり小なりのイタズラを繰り返す。村紗はもちろん叱る。ぬえはやたら嬉しそうに黙って叱られる。村紗もわかっていて叱っている。そうしてふいにイタズラの標的が一輪になると、彼女は爆発する。今のように烈火のごとく怒り狂い、ぬえのイタズラは一日だけ止まるのだ。
 容易に想像できたことだった。そもそも三人という数字がいけない。面倒ごとを引き起こすのはいつも三人になったときだ。普通に生きていくには、ふたりいれば十分だ。

 私は音を立てずにドアのあった場所を抜け、部屋の外に出てきた。変わらず忍び足で階段を下りていると、一輪の万力から抜け出したのか、ぬえの笑い声が聞こえた。続いて一輪がぬえの名前を呼ぶ声が聞こえた。私は足を止めて注意深く音を聞いていたが、ぬえの声が遠くなっていくのを聞いて、再び階段を降り始めた。
 階段を降りきると大きな溜息をした。家から出てきたというのに、家に帰ってきたような気分になった。数回瞬きをしていつの間にか乾燥していた唇を舐めると、手元から気味の悪い笑い声が聞こえてきた。
「……なにがそんなに面白いのよ」私は目を細くしながら、こいしを地面に立たせた。
「えへへ」と、こいしは屈託無く笑う。「面白いんじゃないよ、嬉しいんだよ。ぬえのあんなに楽しそうで幸せそうな顔、見たことなかったんだもん」
 私は首を傾ける。「そのおかげでひとり、確実に楽しくも幸せでもない奴がいたけどね」
「イチさんも楽しくて、幸せそうだったよ?」
「今度は自分がポジティブ思考になることで全部が幸せだって思いこむことにしたのね。まあ、泣きながら『笑ってて』なんて言われるよりマシだわ」
「えへへ……」こいしは自分の首をしきりに撫でながら照れた。
「褒めてないわよ?」
「うふふー」
 こいしは唇を尖らせて、また笑う。歌うような表情と髪の色がまぶしすぎた。私は持ってきていた帽子をこいしの頭に乗せた。黄色のリボンのついた真っ黒な帽子。そこから伸びる雲のような銀色の髪と、半分隠れた表情。これくらいでやっとちょうどいい明るさになってくれる。

「行こう?」とこいしが私のスカートの裾を引っ張る。帽子の陰から見える表情は今は半分だけで、半分だけ笑っていて残りの半分を確認は出来なかった。
「急にどうしたのよ、どこに行くって?」
「喉の奥に刺さったお魚の骨、なんだかわかった気がするの、取りに行くからついてきて?」
「私がついていかなくちゃいけないものなの?」
「ううん」こいしは首を大きく振る。「──ごめんなさいを」
「謝りに? 誰に?」と、私は聞いた。
「みんなに」こいしは言う。「みんなにごめんなさいをしたから、ぬえはとっても幸せそうなんだって思った。だから、私も」
 こいしはもう一度、私のスカートを引っ張った。ぽつんと立ったままの小さな身体から、片手だけが伸びてきて私の服を掴んでいるようだった。「ねえ」とやたら大人しく、こいしはスカートを引っ張り続けていた。私は腰に両手を当てて肩を揺らし、鼻から息を吐いた。

「……まずは、誰のところへ行くの?」
「ムラさんのとこ」
「次は」
「ヤマメお姉ちゃん達のとこ」
「その次」
「ペット達のとこ」
「それから」
「みんなのところ」
「私達には謝ってくれないの?」
「謝らないでいいって、言ったよ?」
 
 こいしが顔をあげて、私はそれを真正面から見た。隠れていた表情がはっきりとした。
 見たことのない表情をしていた。いつもの子供っぽさしか感じない笑い方でも、涙を溜め込みながら無理矢理に作った笑顔でもない。無理矢理かつ簡潔に例えるならば、やさしい表情。子供の中に少しだけ芽生えた新しい何かが微かに芽を出したような、そんな表情。

「……ありがとね」

 言葉のあと一瞬だけ見せた表情はすぐに、元気が足を生やして歩いているようないつもの笑顔に変わっていた。
 こいしは帽子を思い切り深く被ると、ト、ト、トと三歩後ろに歩いて、足を軸にしてくるりと身体を回した。ゆったりした服が浮き上がって、全身がドレスのスカートのようだった。帽子を押さえながらこちらに戻ってきて、今度は私の手を引いた。

「……どうしたの?」と、こいしが不思議そうな顔をしていた。
 どうもしないと、私は言おうとした。言おうとしたが何も言葉が出てこなかった。金縛りにあったように動けなかった。私の顔を覗き込むこいしの表情が、段々不機嫌になっていくことだけが見えていた。
「……お腹でも痛いの?」とこいしは言って、顔を寄せてきた。

 透き通った緑眼の中には、にやけ顔を貼り付けた無様な橋姫が映っていた。


 
長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
10.2 >コチドリさん 確認しました。修正させていただきます。ありがとうございます。
鳥丸
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コメント



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5.100oblivion削除
まずは大作、お疲れ様でした。そしてありがとうございます。
いつものごとく暑苦しい地底(褒め言葉)、鳥丸ワールド全開でわたくし大満足でございました。

 こいしちゃんはいつだって夢見る少女、けど今回は特に、全力でヒロインやってくれましたね。最後の愛らしい(鳥丸さんには珍しい?)描写には息を飲ませていただきました。鳥丸さんのSSには拳で語り合うガチンコ勝負が見物というイメージがあっただけに意表を突かれた気分です。あと、ぬえちゃんのキャラも今までにない感じで可愛かった。
 しかしそれを補って余りある(というと語弊がありますが)猛烈なハードボイルド臭とすごくさり気ないダブルネタがやっぱり鳥丸さんだなあとw今回も燃えさせてくれました。これだけ見ると少年漫画にでもできそうなくらいなんですが、地底妖怪ならではの複雑な真理の表現と、ほんのちょっとだけ見え隠れする隠し味のような乙女心がやたらに深みを作ってるのがちょいとそこら辺のヤロウとは一味違うぜってなもんで、これがいちいちツボに来てたまらないのです。
 一見するとヤロウ同士の喧嘩みたいで女の子の喧嘩というには爽やかすぎるイメージなのだけどもなんだけど、しかし敢えて断言したいのは、この珍妙なテイストは、喧嘩してる奴らが女の子だからできたということでしょうか。ともすると「何もそこまで」と思うぐらいの真っ直ぐさ、だがそれがいい!と押し切るほどのパワフルさ。なのに、それでいでみんな時々カワイイのがずるい。ずるすぎるw

 個人的にはキスメのスケブに惚れてたので、偽者だったのは若干悔しいのだけども……w
 何はともあれ、最高に楽しませてもらいました。だがな、お、オレは、お前のこと大好きなんてい、言わないんだぜ……?////
 ほらよ、得点だ、釣りはいらねえ。せいぜいこれでレートの足しにでもするこったな……!
7.100名前が無い程度の能力削除
やっぱりこの腐れ縁な感じとちょっとかっこよくてかっこわるいのがいいですね
9.100コチドリ削除
御久し振りっす、甘ちゃんなオペラティヴさん。
相変わらず臆病で流され気味で己の無力さ加減を嘆いておられるようで安心しました。
あんたは物事の中心にはなれない。せいぜい家族と友人達位は笑わせられるよう、あがき続けてくれ。

地底世界のローレン・バコールさん。
伏目がちも上目遣いも思いのままな貴女はいつ見ても麗しい。
唯一のアキレス腱ともいえる過度なシスコンっぷりをも魅力に転化させる貴女はまさに魔性の女。

お姉ちゃんズを右往左往させる甘ったれな困ったちゃん。
君が泣いていると俺の心臓に大変負担がかかるので、とりあえず暖かくして風邪などひかぬよう注意して笑っていてね。
「……ありがとね」の時の表情は見たくない。どっかの大佐みたく「目が、目がぁ!」とかなりそうだから。

もう一組のトリオにも言及せねばなるまい。

熱血一直線さん。
え? なに? この人すごく馬鹿なんですけど。思わず笑い過ぎて心が暖かくなる位に。
女神時々大魔神さん。
何も言えねぇ……。お馬鹿二人のお守、頑張って下さいとしか言えねぇ……。
正体不明の黒幕ちゃん。
謝ったんだから許されるべき。(但し、萌えメン少女に限る)


鳥丸さんの帰還、大変永らくお待ち申し上げておりました。
そして、待った甲斐があったと一点の曇りなく賞賛できる力作を投稿して頂き、感謝の極みであります。
貴方の描く地底の面々は、誰もが何かしらの欠落を抱えて不細工に生きている。
だからこそ、寄り添って一つのピースになることが出来るのだし、その姿はとても美しいのでしょう。

貴方の地底は良い地底。大好きだぜ。
11.100すすき削除
わあい!鳥丸さんだ!待ってました!
地底に住んでる奴らは等しく口調が悪いと思ってるので鳥丸さんの書くキャラクタはジャストフィットです
200kb越え長編だけどねっとりと絡みつくように読めました
12.100名前が無い程度の能力削除
お久し振りな投稿で早速読み始めたら、とんでもない容量でしたが、一気に読んでしまいました。
良いさとパルこいし、そしてぬえむらいちでした。

素敵に甘いお姉ちゃんズに囲まれて、幸せじゃないのかも知れないけど、羨ましいこいしちゃんです。
13.100名前が無い程度の能力削除
久しぶりに来た!
ほぼ一年ぶり、もう来ないかと思っていました・・・。
しかし、ほぼ単行本小説1冊分(約10文字=200KB)とは これがタダで読めるなんて。
こいしちゃんが可愛かったw そしてペットを外させてる最中のさとりんとパルシィのプライベートタイムをkwsk
14.100名前が無い程度の能力削除
劇の「脇役」に焦点を合わせて描き切るのってすごく難しいと思う。
このパルスィさんが大好きです。
15.100フェッサー削除
道を開く力も無く、事を収める自信も無い。
それでもみんなを信じ続けて突き進むパルスィの姿勢に涙が出ちゃう。

特に勇儀ねえさんと対峙した場面が良かったですわぁ。。。
わざと見て見ぬ振りしてると言い切っちゃうなんて、ねえさんに対する信頼感がハンパない!
そしてシリーズ初作に言ってたあの言葉、覚えてたんですね。ハンパない!
16.100名前が無い程度の能力削除
各人物の思惑やら心情やらがよかったよかった
やっぱりこの地底の腐れ縁っぷりと小粋な会話がいい
17.80名前が無い程度の能力削除
ちょっと場面の変換や情景描写がわかりにくいかな・・・姐さんやヤマメ達をほったらかしって感もあるし。特にヤマメ達の件にページを割いてるだけに余計。
まぁそれを差し引いてもおもしろいの事実だけど。

最後に一言。この街バカばっか
19.100楓香削除
大作、お疲れ様でした。
あまり長々と感想を書くことは苦手であり文章が支離滅裂になるので、少しだけ。
あなたの書く地霊殿が大好きです。
20.100名前が無い程度の能力削除
こういうの好きよ。