Coolier - 新生・東方創想話

ギャザー 1.狐編

2011/08/29 22:39:00
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※こちらの『ギャザー 1.狐編』及び『ギャザー 2.巫女編』は
 以前投稿したものに若干手をくわえたリライト作品です。(元作品は削除済み)
 前作品を読んでいただいた方(そのうえ覚えていただいている方)も
 よろしければ最初から読んでいただければと思います。






(一)





 幻想郷は初夏がいちばん美しい、と魔理沙が言ったそうだ。
 何の嫌がらせなのかと思った。

 いわく、幻想郷は冬が長いので、春になるととても嬉しい。あったかくなってやる気が出るし、花見もあるし。
 春が過ぎて梅雨が来て、梅雨があけて初夏になる。雨水を溜め込んでいた木々が一斉に茂り、葉っぱは濃い緑色になる。木の葉っぱは日の光を吸い込んだり、逆に反射したりもするすぐれものだ。
 ざんざんぎらぎら輝く太陽の下で、木も山も飛び越えて目の前に何にもなくなるまで高く飛んで、それから最高速でぶっ飛ばすと、日差しで肌は焼けて、風は耳のそばでゴーッと言って、それで自分の体がだんだん溶け出して、光と風の両方になったみたいな気持ちがするんだ。ものすごく気持ちいいんだぜ。

 というようなことを、妹に言ったそうだ。何の嫌がらせかと思った。
 私も妹も吸血鬼なので、冬だろうが夏だろうが昼は寝てるし、陽光に当たれば気のせいじゃなくって体が溶ける、というか焼けて灰になって死ぬ。気持ちいいとか悪いとかの話ではない。
 死んだところで蘇るし、日傘かぶってればすむ程度の問題ではあるけども。しかしとりたてて用事もないのに昼間に出かけるなんてのは不良だ。変態だ。
 と切々と説いたが、妹が承知しないので日傘かぶってしぶしぶ出かけた。

 うっそうと茂った深い森の、奥の奥にわけいってもまだ森だった。
 幾重にも重なった木の葉は太陽の光をさえぎり、真昼間なのに薄暗かった。日傘の必要がないくらいだ。湿った空気が鼻の穴から入り込み、黴と苔と、キャベツが腐ったようなすえたにおいがする。たまらず口で息をするが、それはそれで何だかきたならしい感じがした。露出した顔と手足に湿気がまとわりつき、少しずつ肌を濡らす。そのうち汗と混じり合って区別がつかなくなる。体の内側と外側の両方から汚されているようだった。でっかい獣の口の中に入ったみたいだ。
 草ばかり生えていて土はほとんど見えない。木の根元には毒々しい色のキノコが固まって生えていて、ときどきぼわぼわっと胞子を吐き出している。その胞子も空気に混じる。小さな虫がいっぱい飛んでいて顔にぶちぶち当たった。よくわからない種類の、原色の小さな生き物がひょっこり姿を見せて、次の瞬間牙の生えたリスみたいな生き物に捕食されていた。トカゲもいた。トカゲが火を吐いた。
 魔法の森だった。断固たる調子で、妹に話しかける。

「帰りましょう」
「だめ」

 一言で却下された。
 この森のこの環境で初夏も何もあったもんじゃないでしょ、おうち帰って紅茶飲みたい、咲夜のパンチラ見たりパチェのネグリジェおっぱいをこう、ねぶるように……とかなんとかぶつぶつつぶやいてると、

「もう、お姉さま、文句ばっかり。今日は魔理沙の家に行くのよ。プレゼントを用意してくれてるって、何度も言ったじゃない。姉なら姉らしく、妹の友達と仲良くしてよ」

 怒られた。悔しいので妹の背後にまわり、腰に腕を回してぎゅっと抱きしめる。

「な、何?」
「お姉ちゃんの愛をくらえ」

 腰に巻きつけた腕を、ぎゅっと絞っていためつけてやった。痛い痛い痛い、とフランドールが騒いで腕を振り回したので肘が顔に当たって流血したところに虫がたかってきたので不夜城レッドで燃やし尽くしたら妹も燃えたので大変怒られた。







「ようこそだぜ。レミリアも来たのか。帰れ」
「そうか。よし! 殺す!」
「仲良くしてって言ったじゃない!」

 ぶち切れてグンニグルを取り出したところでまた怒られた。妹は理不尽だと思う。
 魔理沙の家に入ると、大きさもデザインも違う椅子が三つ並べられていた。いちはやくぱたぱた飛んでいって一番大きな椅子に座った。
 足がつかなかった。不安定だが、自分ちでもそうなので問題ない。
 テーブルに肘をつく。眠くなった。こんな明るい時間に起きていることはあまりないし、昼に飛んだので疲れてもいた。妹と喧嘩して無用な体力を使ったのもひびいていた。フランはどうなのだろう、と思って首を曲げて様子をうかがうと、魔理沙に絵本を読んでもらいながらうつらうつらしていた。びっくりするほど速かった。
 私から声をかける。

「汚い家ね。少しは片付けたらいいんじゃない?」
「余計なお世話だぜ。魔法使いの家ってのはこんなもんだ」
「そこ、エロ本落ちてるわよ」
「……えっ」
「フラン、嘘だ。反応するな。ちゃんと片付けておいた」

 だって魔理沙のことだからBLかと思ったんだもん、とか妹が言ってるのを聞き流しつつ室内を見回した。散らかっているというか雑然としているというか、一言でいうと汚い。
 居間の奥の部屋に大きな机があり、まわりにキノコと変な実験器具と、大判の記録帳が置かれている。あそこが研究室なのだろう。羽ペンのインクがそこかしこに飛び散っていて、学者というよりは画家の仕事場のように見えた。食べかすが散らかっているところをみると、あそこで食事をとることも多いのだろう。
 頭を持ち上げて、上を見上げる。紅魔館ほどではないがわりと天井が高くて、その天井のぎりぎりまでものが積み重なっていた。上のものをとるには箒に乗るしかないんじゃないか、と思ったが、それ以前に少しでも触ると雪崩が起きそうだった。ぼんやり視線をさまよわせていると、天窓の近くに緑色の煙が漂っているのを見つけた。目でたどっていく。本棚の上になぜか大鍋が置かれてあった。蓋がついているが半開きで、繁殖した黴が口からのぞいているのが見えた。全体的に言ってこいつそのうち死ぬんじゃないかと思った。
 気づくと、目の前にお茶とケーキが置かれてあった。

「あ、ケーキ」
「おう。食っていいぜ」
「……あんたが作ったの?」
「何を警戒してるのかは知らんが、残念ながら私のお手製じゃない。アリスに作らせたんだ。あいつこういうの得意でさ、そこらへんの店のより美味いぜ」
「へえ」
「紅茶は私のお気に入りのやつだ。今年は凝っていろいろ買ったが、なかでもかなり当たりの茶葉だぜ。まあ、飲んでみてくれ」
「お姉さま、お先にどうぞ」
「どういう意味なんだぜ……」

 ひとまず、見た目には紅茶はいい色をしていて、良さそうなものではあった。カップもあたためられているし、こいつにしてはずいぶん気遣いをしたのかもしれない。
 ひとくち口に含む。いい匂いがした。そのまま飲み込む。すっきりしていて美味しかった。

「まあ、いいじゃない。血が入ってないのが残念だけど、好きな味よ」
「そうか。よかったぜ」
「お姉さま、次ケーキのほう」
「まあ待ちなさいよ……」

 フォークを手にとって、生クリームを少し、スポンジ部分を少し取り分けて口に運ぶ。
 甘かった。でも上品な味で、ちょっとお酒を使っているのかと思った。スポンジ部分はふわふわで、間にフルーツの薄切りがはさんである。酸味とクリームの甘さがちょうどよかった。

「美味しーい!」
「だろ。アリス特製フルーツデコケーキだ。私も好物で、たまに作ってもらう」
「私も食べよーっと」
「タルトもあるぞ。いちごがいっぱい乗ってるやつ」
「食べる!」
「落ち着け。たくさんある」

 しばしノーリアクションで食べ続けた。
 三杯目のお茶を飲んだあたりで、やっと一息ついた。そのあと何故か魔理沙による男性同性愛の講座がはじまった。







 夕方になった。もうすぐ夜になる。ちょっとだけ、元気が出てきた。
 BLはもともとやおい、それ以前にはJUNEと呼ばれていて、これはグイン・サーガで有名な栗本薫先生が中島梓名義で創刊に関わった同名の雑誌がもとになっている。雑誌JUNEがこのジャンルに果たした功績は極めて大きい。ちなみにこの分野で一番偉いのは、森鴎外の娘の森茉莉で、これは中島梓先生自身が認めている。
 というような講義を魔理沙から受けた。フランドールは眠気をこらえきれず、途中で椅子の上で眠ってしまった。

「じゃ、そろそろ出かけるか」

 魔理沙が言う。そういえば、プレゼントをもらうはずだったけど、外にあるんだろうか?

「ああ、そうだ。日傘あるよな。フランは私が背負うから、それさしてついて来いよ」

 偉そうなもの言いが気に食わなかったのでちょっと揉めたら、妹が起きだしてきてレーヴァテインでシバかれた。そのまま魔理沙の背中でまた眠ってしまった。
 魔理沙の背中によりかかったフランは幸せそうな間抜け面で寝ていた。ずっとそうだったのかな、と思う。500年近く地下室に閉じ込めていて、姉妹なのに寝顔を見ることがなかった。ずっと幸せそうに寝ていたのだろうか。それとも、最近になってこういう顔をするようになったのか。私にはわからなかった。時間を操る咲夜なら、過去に戻って、確かめることができるんだろうか? 訊いたことはないし、あまり気の進まないことでもあった。
 なんたって、カッコ悪いし。
 日傘をさしながら飛んで魔理沙についていくと、森の中に池があった。



 長くてうねうねしているので川のように見える池だった。下手のはずれに琥珀色の砂丘が帯のように横たわっていて、その向こうに見える紺青の水面と境をつくっていた――青だけではなく、さまざまな色が池の水を染めていた。薔薇のような赤い花や、クロッカスの白や黄や紫の色、透きとおるような草の緑。
 上手は森で、池のふちに生い茂っている木々が、ゆれる水面に半透明の影を落としていた。ところどころに実の生った小さな木が岸から乗り出している。木の幹は白く、まるで爪先立てた少女が水にうつった自分の姿をながめているように見えた。

「わあ……」

 思わず、声を上げてしまった。それくらい素敵な眺めだった。
 月が昇りはじめていた。反対側では緑がかった夕焼けが西の空を染めており、両方の光を受けて水面が光った。

「大きな銀のお皿の夢のよう、と、フランは言ったぜ」

 魔理沙が笑った。お前はなんてたとえるかな、この眺めを。

「今日はお前にこれを見せたかった。すごいだろ、とっておきだ。吸血鬼だから太陽が苦手なのはわかるが、たまにはいいかと思ってさ」
「プレゼントって、私にだったのか」
「そうだ。フランには一度見せたことがあるからな」
「帰れって言ったじゃない」
「でも、帰らなかっただろ」
「そうだけど……」

 ふん、と私は鼻を鳴らした。
 池のそばに腰を下ろして、膝をかかえてじっくり水面を見つめた。お尻が汚れてしまうけど、まあいいか、と思った。目を上げると、遠くの木々が青くけむったように見えた。風が吹いてくる方向に顔を向けると、夕日が目に入った。やっぱり体がちょっと焼けた。でも風はおだやかで、肌を優しく撫でていくようだった。昼間とはずいぶん違うにおいがして、これが森のにおいか、と思った。

「眠くなったら寝ていいぜ。私が連れて帰ってやる」
「誰が……」

 魔理沙はまるで、近所のお姉ちゃんみたいだ、と思った。フランドールも、そう思ったんだろうか?
 フランが目を覚ます。魔理沙の背中を少しよじ登ると、私と同じように「わあ……」と声を上げた。
 そのまましばらくそこにいた。太陽が完全に沈んで、月の光だけが池を照らした。木々は色を失い、黒く塗りつぶされて、池を守る巨人の影のように見えた。
 夜は吸血鬼の時間だが、昼は人間の時間なんだろうか。魔女は? 魔女は昼と夜の、どちら側に生きているんだろうか。
 魔理沙に訊くと、

「そりゃ夜だろう」

 と言う。フランが、夕方でしょ、と言った。
 フランは自分は吸血鬼であって、魔法少女でもある、と勝手なことを言っている。なんだか悔しかった。今日は悔しいことばっかりだ。帰ったら、パチェに言いつけてやる。
 帰ろうとした時、池の水がぐわわっと盛り上がると、ざぱんと音を立てて河童があらわれた。河城にとりだった。
 背中に死体を背負っていた。







(二)





 暑ければ川に入る。川がなければ池に入る。
 池の底で死体を見つけたのはそういう理由だった。魔法の森にはさまざまな植物が生息しており、燃料になるものもあれば何らかの化学反応を起こす際の触媒として欠かせないものもある。手持ちが少なくなったから採りに来ていた。採り終わって暑かったので池に入った。

「そのレインコートの下、やっぱりスク水だったのか」
「どこ見てんの」

 私は手で胸と股間を隠した。魔理沙の視線は、同性ながらなんかいやらしいと思う。
 吸血鬼姉妹が死体の手を持ち上げたり、脇の下をくすぐったりして遊んでいた。罰当たりなもんだ、と腹が立ったが、人間の死体を丁重に扱う義理も、あいつらにはないんだろう。
 地面に上がって魔理沙と彼女たちがいたときはびっくりした。この池は私のお気に入りの場所で、他に知っているものがいるとは思っていなかったからだ。でも聞くと、結構前から魔理沙はこの眺めが好きで、研究に行き詰まった時など気分転換によく来ていたらしい。私はといえば地面の方から池を見たことはない。池は潜るものであり、水底からの眺めだけが河童の見るべき景色だからだ。
 池を離れて森に入り、女の子の死体を背負って歩く。魔法の森は夜になると、当たり前のことだが暗く、木々の葉に邪魔をされて月の光もささないので、真っ暗闇に近くなった。ふくろうの声がする。どこかで虫の鳴いている声もする。ぎりぎりぎりと何かを引っ掻いたような音がするのは枝と枝がこすれあっている音だ。木の上で生活する獣がいる。吸血鬼の目が赤く光っている。私は強い妖怪ではないので、いろんなものが恐ろしかった。
 魔理沙の家に着くと、死体の着ていた服を脱がせて、火を起こして乾かしてやった。体を拭いてやる。金髪のきれいな女の子で、人間の年はよくわからないが、河童にすれば私よりも年上のように思った。おっぱいもよく膨らんでいて、ずいぶん男にモテただろう。死んで間もないのだと思った。人間は死んで、水に浸かると、死体が膨らんで醜くなってしまう。そうなる前に引き上げられてよかった。どこかに埋めてやろうと思った。
 魔理沙は手伝ってくれたが、吸血鬼姉妹は我関せずで、台所でコーヒーを飲んでいた。昼間は紅茶だったので、趣向を変えてみた、だそうだ。一段落して休憩しようと台所に入ったら八雲紫がいて一緒にコーヒーを飲んでいた。手には新聞を持っている。

「新聞は、もっと良いのをとりなさい」

 よけいなお世話だぜ、と魔理沙が言う。だいいちそれはとってるんじゃなくて、天狗の奴が勝手に放りこんでいくんだ。いい迷惑だぜ。
 私もうんうん、とうなずく。文々。新聞は発行頻度こそ高いものの、ゴシップ記事ばかりが多くてエンジニアとしてはあまり役に立たない。河童の世界でも誰かがそういう冊子を発行して、情報共有につとめればいいのに、と思うが、なにぶん私を含めて自分勝手な奴らばかりだ。そんなことやるひまがあったら機械をいじくっている。
 私はミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーを、魔理沙は両方ともちょっとだけ入れたものを飲んだ。昼の暑さが嘘のように、夜は冷える。飲んであったまったところで、

「何でお前ここにいるんだ」

 と魔理沙が八雲紫に訊いた。答えない。

「あの死体に関係があるの?」

 と私が訊く。八雲紫は新聞をたたむと、コーヒーのおかわりをしてそれから口を開いた。

「直截なことね。もう少し、会話を楽しみましょう」
「あいにく技術者なもんで、細かい駆け引きは苦手なんだ。あの仏さん、服装からすると外の人間みたいだったけど」
「そうね。そう答えたほうが丸くおさまるかしら」
「どういうこと?」
「お酒ほしいわ」
「やっぱりお前との会話は疲れるぜ」

 うんざりしたように魔理沙が言った。

「酒ならお前が消えてから飲むさ。どうせ、今日はスカーレット姉妹のお泊り会の予定だったんだ。しゃべる気がないなら消えちまえ」
「つれないわねえ。そこの河童さんは、黄桜かなんか持ってないかしら」
「ちょっと魔理沙、お酒ならワインしか認めないわよ。赤ワイン」
「お前はカフェオレ飲んでろ。どんだけミルク入れる気だ。苦いなら無理して飲むなよ」
「苦いことなんてない。いつもはブラックだけど、フランに合わせてるのよ」
「えー」
「妹さんはココア飲んでるね」
「台所を荒らすな……」

 バッグからきゅうりを取り出してぽりぽりかじった。コーヒーとは合わない。
 あと河童だからって黄桜というのは想像力の欠如をあらわしていると思う。
 八雲紫がスキマからワインを取り出してテーブルに置いた。

「これは手間賃として置いていきますわ。水の底にある死体を引っ張り上げるなんて、河童さんじゃないと難しいですものね」

 それから一拍おいて、

「あの子は幻想郷でいちばんの嫌われ者なのよ」

 と言った。
 私は驚いた。八雲紫はそういうことを言わない妖怪であると思っていたからだ。
 台所を出て急いで取って返すと、八雲藍が女の子の死体の首を胴体からちぎっていた。







 死体を背負って夜の森を歩く。首がとれたのでかなり軽くなった。首は八雲藍が手に下げて、私の後をついてくる。

「苦労をかけるね」

 まったくだ、と私は思う。明日の朝でも良かったと思うけど、早くしないと首どころか手足もちぎって胴体を半分にして魚みたいにひらいて、骨も肉もばらばらになるまで細かく裁断されそうだった。八雲藍はこの死体を憎んでいるようだった。埋めてやるからやめて、と言って強引に出てきた。例によって夜の森は暗い。河童はそれほど夜目がきく妖怪ではないので、足元がちょっと覚束ない。

「その死体ね」

 八雲藍が、ぽつりぽつりと話しかけてくる。今年は暑くなりそうだ、とか、梅雨のうちに雨漏りして、使っていない部屋の畳がぐずぐずになってしまった、とか、虫も元気になって橙のノミ取りが大変だった、とか。どうでもいいことだ。私は黙って歩く。

「その死体ね。私の娘なんだ」

 私は黙って歩く。振り返らないし、歩調を乱したりもしない。そんなわけがあるもんか。

「紫様との間にできた子だよ。髪の毛が、紫様にそっくりだろう。同じような能力を持っていたんだ。紫様ほど強力ではなかったけど、そのうち成長したかもしれない。今となってはわからないことだけど」

 草の上を歩くと足音がしない。自分の足音も聞こえないので、耳に入るのは虫や風や鳥や獣の音、池から魔理沙の家に行く時にも聞こえていた音。少し手前の地面を見ながら歩く。月明かりはうすく、影もまたしっかりしていない。
 水底へ帰りたかった。水底なら、光やなんか、そんなことは考えなくてもいい。視界はゆらゆら揺れてぼうっとしていて、でも見たいものがみえるのだ。
 八雲藍はきっと飛んでついてきているんだろう。家を出るときにそうしていた。首しか持っていないのだから気楽なものだ。たしかにきれいな金髪をしていた。それなりに長くて、波打っていて、つやつやしていた。肌も白くて、顔立ちは幻想郷ではちょっと見ない感じで整っていた。八雲藍が、瞳の色は藍色だったんだ、私の名前と同じ、と言った。それで私は、この女の子の瞳を見たことがなかった、と気づいた。目を閉じて死んでいたからだ。

「もう少しすれば、紫様と同じことができたかもしれないよ。仕事の助けにもなっただろう。結界を管理するのはこれで大変な仕事だからね。でも、飛べなかったから、私が連れて行く必要があっただろうな。人間だから仕方ないけど、体が弱くてね」
「うるさいな!」

 私は振り返らずに言った。うんざりしていた。人間の死体を運んでいるのに、ぺちゃくちゃしゃべる奴があるもんか。

「この子は人間だろう。あんたたちの娘だなんて、あるわけがないよ。河童にとって人間は大切な盟友なんだ。死んじゃったのは仕方ないけど、冗談で汚してほしくない」
「冗談か。冗談みたいなことなんだ」
「まだ言う……」

 私はぎりりと歯を噛み締めた。悔しい。私が力の強い妖怪だったら、こんな奴に好きなことを言わせておかないのに。

「ばあ」

 目の前に、いきなり女の子の顔があらわれた。死体の首を、八雲藍が背後から突き出したのだ。ぎょっとして立ち止まる。

「いい加減にしてよ!」
「ほら、藍色の目をしているだろう」

 死体の目が開いていた。たしかに瞳は藍色をしていた。どこも見ていない、とわかる。死体の目を見ることははじめてじゃない。人間の死体だって、何度も見てきた。ほとんどは水死体だ。でも首をちぎられた死体ははじめてだった。血管がぷらぷら垂れ下がっていた。血は固まってしまっているんだろう。気持ち悪い、と私は思った。それから今まででいちばん頭に血が上って、振り返って八雲藍に体当りした。
 八雲藍はいなかった。私はつんのめって、たたらを踏んだ。驚いてあたりを見回すと、女の子の首が地面に落ちていた。一旦死体を下ろして、拾おうとした。その時背負っていた死体の腕が、ぎゅっと絞めつけてきた。腕に大きな袖がついていた。八雲藍の服の袖だ。首筋に息がかかる。耳元で声がした。

「私たちの娘はね、優秀だったよ。まだ生まれてから二十年も経っていなかった。でもその目は、特別性で、私にもできないことができた。境界を見ることができたんだ。紫様と同じようにね」

 私の後ろで、八雲藍が言った。

「なあ、私は、これまで何度、その娘を殺したと思う?」







(三)





 五限目を終わって教室の外に出るともう夕暮れで、昼よりかは涼しくなったように思った。日が長くなった。ひと月前ならすっかり沈みきっていた太陽が、向こう側の校舎の端っこにまだひっかかっている。
 今日の講義はこれで終わり。大学の構内を出るあたりで、同じクラスの子が車の助手席に乗って追い抜いていった。ふるふる手を振る。運転しているのは彼氏だろうか。
 お年頃なので、彼氏彼女、恋人、カップル、つがい……なんでもいいが、まわりでそういうのがいっぱいできている。そういうのになって相手が車を持っていると車で通学できる。うらやましい。
 蓮子が車を持っていればいいのにな、という考えが頭に浮かんで、いやいや彼氏を作ることを考えるほうが先でしょう、と思い直して、でもあんまり想像できないし、自分の好みの男性像というのがいまいちわからないし、もしも彼氏ができたところで秘封倶楽部の活動を優先して嫌われちゃいそうだし、と歩きながらいろいろ思いを巡らせているうちにカフェーについた。
 蓮子が先に待っていた。ものすごくめずらしい。
 私は目を丸くして、席に着くやいなや口を開いた。

「どうしたのよ。彼氏できた?」
「彼氏? いや、できないよ。メリーこそどうしたの」

 蓮子も目を丸くした。







 要するに、五限目の授業が休講になったので、他で時間を潰すのもめんどくさくなってここで待ってた、ということだった。
 謎は解けた。世界は救われた。
 今日はメリーが遅かったからメリーのおごりね、という言葉に、時間どおり来たんじゃない、蓮子こそ私を驚かせたから慰謝料払って、と言い返す。
 いつもどおりだった。いつもどおりじゃないこともあるけど。

「で、今日は彼氏の相談だったの?」
「違います」

 注文したチャイが運ばれてきた。蓮子がいつになく早く来て待っているものだから、調子が狂った。湯気を立てるチャイの湯気をすかして蓮子を見ると、当たり前だけど、なんだかぼやけて見えた。
 それからテーブルの真ん中を見る。砂糖壺が置かれているあたり、セージ色の撥水加工のテーブルクロスの上に、3センチほど浮かんで、小さな境界が口を開けていた。今朝見つけたときと、同じ場所にあった。



 私はゆっくり、過不足のないように注意しながら、口を開く。

 一時限目に遅刻してしまったのでここでチャイを飲もうとして(ここのチャイはとても甘くて美味しいのでお気に入りだ)、それで見つけた。境界があること自体はそれほどめずらしいことでもない。これくらいの大きさのものなら、学校の中にもあるし、蓮子のアパートの鉄階段で見つけたこともあるし、八百屋さんでも電車の中でも見たことがあった。でもこの境界はそれらとはちょっと違うように思えた。
 存在感が違った――もしかすると、私以外の人にも見えているんじゃないかってくらい、しっかりとそこにあるように思えた。私はまばたきをして、それから目をこすった。一度視線をそらして、もう一度見てもやっぱりそこにあった。念のため、チャイを運んできてくれた店員さんにそれとなく聞いてみたが、やっぱり見えないようだった。

「というわけで、蓮子を呼んだってわけなのです」
「ふうむ」

 蓮子は私が指し示した場所をじっと見つめて、両手のひらで丸をつくって気でも集めるみたいにそのあたりをなでまわしている。私は蓮子の手をとって、境界の近くまで持っていった。

「どう、感じる?」
「わかんない」
「私は見えているからかもしれないけど、ちょっと感じるわ」
「ふうん」

 境界の中身は暗闇で、中に何があるのか何も見えなかった。ただ、じっと見ていると時折、中で何かが光るのが見えた。いくつかの光源があって、それが不規則に点滅する感じだ。
 光るとき、境界は……隙間は……一瞬だけ、紫色に色づく。
 私は思わず、蓮子の手を強く握りしめた。
 蓮子はテーブルから目を離して、ちらっと私を見ると、

「メリー、びびってるの?」
「そんなんじゃないけど……」

 私はため息をついて、先程よりもゆっくり、つっかえながら、昔の話をする。



 十五歳の時だった。学校の帰りにこれと同じ隙間を見つけた。お地蔵様の横にあった。目の錯覚で片付けるにははっきりしすぎていて、でも自分にしか見えないのはわかっていた。
 立ち止まって少し眺めたが、触ったりするのは怖くてそのまま帰った。次の日、起きると森の中にいた。

「森の中?」
「森の中」

 私は話をつづける。
 森の中で私はひとりだった。寝ていた布団もなくなっていて、パジャマだけの姿で、わけがわからなかった。夢を見ているのだと思った。けれど夢にしては何もかも現実感がありすぎて、寒くてがたがた震えたし、裸足の足の裏で石を踏むと痛かった。
 その時はすぐに帰れた。
 ……蓮子が質問したげな顔をしているが、目で制してそのまま話をつづける。
 大学受験の前にも同じことがあった。今度は電車の中で見つけた。
 サラリーマンが握っているつり革の横にそれは浮かんでいて、電車が揺れるたびにサラリーマンの手が左右に動くので、触れてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。でも、手が近づくたびに、それはシャボン玉みたいにふわふわ避けた。
 また、あそこに行ってしまうんじゃないかと思うと、なんだか恐ろしくて、その日は眠らなかった。次の日もなんとかして起きていた。三日目は無理だった。
 起きると夜だった。少ししか寝ていないようでもあったし、ずっと寝ていて次の日の夜になってしまったのかとも思った。月が輝いていた。月が、窓も壁もなくそのまま直接目に入ってきて、屋外にいるんだとわかった。

「あなた、マエリベリー・ハーンね」

 紫色のドレスを着た女の人がいつの間にかそばにいた。よくわからないが、たぶん笑みを浮かべていたんだと思う。夜なのに日傘をさしていた。
 怖くて動けなくて、女の人の手が私の目を隠すように伸びてきて、視界が塞がれると、私は気を失ってしまった。







「メリー、死んじゃった!」
「死んでないわよ!」

 私はもう一度、ため息をつく。チャイのせいで甘ったるい息になった。

「どう思う? 私は別の世界に行って、帰ってきたのかしら。それとも全部夢だったのかしら」
「なんとも言えない。ふつうだったら、寝ぼけるな、で済むところだけど、なんせメリーだしね」

 蓮子は真剣な表情になった。
 蓮子は頭がいいから、もしかしたらこのことにも正解を見つけてくれるかもしれない――うまく、説明をつけてくれるかもしれない。

「そうね」

 と、蓮子は口を開いて、

「今日は私のところに泊まって。一緒に寝よう」

 と言った。
 そう言って欲しかったので、安心した。

「メリーがどこか、別の世界に行くとしても……私も一緒に行けるように、手をつないでいよう。今みたいに。危ないといけないから、懐中電灯と、スタンガンとか包丁も準備しておこう」
「スタンガンなんて持ってるの?」
「女子大生だから、持ってます。それで、メリー」
「何よ」
「この手の横に、その境界があるのよね」

 そうよ、と私は言った。蓮子はそこに、視線を送った。見えないのだから、どうしてもぴったり焦点はあわないが、蓮子は私と同じものを見ようとしてくれている。
 日は沈みかけて、夜になろうとしていた。反対側の窓からは月が見えるだろうか? 金星はどこだろう?
 太陽が沈むとき、空は少しの間だけ、紫色に見える。
 蓮子はもう片方の手を伸ばして、隙間のそばに置いた。長い指の手と手の間に隙間がおさまる。これでいい? このあたり? と私に目で訊く。私はうなずく。
 ぱあん、と音がして、手のひらと手のひらがぶつかった。蚊でも退治するように蓮子は隙間を手のひらで挟みこんで、叩いて、潰した。そのまま蓮子は両手のひらを擦り合わせて、中の物を丸めるようにくしゃくしゃにして、ぱっと手を開いた。
 隙間はなくなっていた。
 声も出ないほど驚いたが、だんだんわれに返ってくると、私は蓮子を怒鳴りつけた。

「何てことするのよ!」

 何の感触もなかったよ、と蓮子は言う。変な境界がなくなって、よかったね。

「境界は他にもあるんだし、メリーが怖がるようなものなら、なくしちゃったほうがいいでしょ。私たちの他にも、このテーブルにはお客さんが座るんだしさ」
「そうだけど」
「メリー、私は、あなたの能力は境界を見るだけじゃなくて操れる能力にまで変化しているんだと思う……だから、私でも境界を消すことができた。メリーが見てたからよ。それから、メリーだってこんな境界消してしまいたいって思ってた」
「うん」
「だから、私がやってあげるからね。メリーがしたくて、でも怖いことは、私がみんな先にやってあげる。だからずっと一緒に活動しましょう」
「うわあ」

 プロポーズみたいだ、と思った。
 それで少しは怖くなくなって、「虫でもいましたか?」と店員さんが訊ねてくるのに笑顔をかえすこともできた。お金を払って、外にでると夜になっていた。月が見えていた。



 月は反対側にあるんじゃなかったっけ?

 道路と横断歩道と建物が無くなって、木がたくさん生えていた。月は鬱蒼と生い茂った木の枝と葉の間から、かろうじで見えていた。星も見えた。私たちは森の中にいた。
 振り返ると、出てきたはずのカフェーが無くなっていた。蓮子は首を持ち上げると、月と星を睨んだ。







(四)





 鳥居の下で鳥が死んでいた。霊夢は少し立ち止まると、手にしていた箒で鳥の死骸を階段の横の草地に避けた。犬か猫か、何がしかの獣が始末するだろう。
 博麗神社の周りにはたくさんの獣がいる。イタチやキツネも出るし、鷹もときどき飛んでいるから、何日もこのままでいることはない。
 人間はなかなかやってこないのに、難儀なことだ、と思った。山の上にあって道のりが険しいうえに、獣や妖怪ばかりがやってくるから、ますますふつうの参拝客が寄り付かなくなってしまう。
 箒を右から左に動かしながら、そう考えていると、ふと、妖怪は、と疑問が浮かんできた。

 妖怪は鳥の死骸を食うのだろうか。
 動物は他の動物の死骸を食う。人間だって、にわとりや雉や、朱鷺を食う。魔理沙といっしょに香霖堂で、朱鷺を料理して食べたことがある。でも生では食べない。妖怪は鳥を生で、火を通さずに食うのだろうか。ルーミアは食べそうだ。猫つながりで橙は? 橙の主人の藍は、そのまた主人の紫は?
 掃除を終えて、縁側でお茶をすすっていると、霊夢の横にスキマがあらわれて、手が伸びておせんべをとって食べた。手を掴んでスキマから引っ張り出す。紫色のドレスの、妖艶と言っていい女性がずるずる出てきて縁側にべったり腹ばいになった。今日はそっちの服なのか、と霊夢は思った。
 訊いてみた。

「あんたらお菓子感覚で人間を食べるから、鳥だって生で食べるでしょう」
「食べませんわ」

 憤慨したように紫は言う。私くらいの大妖怪になると食べ物についてもハイソサエティでござーますから、最高級の素材を最高級の料理人が調理したものしか食べませんのよ、とのことだった。最高級の料理人たって、藍のことだろう。ハイソサエティって何だと訊いたら、この幻想郷という閉じられた共同体において地位も名誉も経済力も教養も兼ね備えた社会階層の最上級に位置する……とか言い出したのでお茶のおかわりを注いであげて黙らせた。

「だいたいね、妖怪は獣を狩る必要はあまりないのよ。そんなのはほんとに生まれたばかりで力が弱いか、自分の目的をわかっていないおつむの弱い妖怪ばかり。妖怪は人間を食べるものです。そういうものなの。それが存在理由、と言い換えてもいいけれど。他の食べ物を食べることもあるけど、究極的には趣味なのよ、趣味。食べなくても大丈夫なの」
「人間が主食なんだ」
「だってそういうものですもの」

 せんべいぼりぼり食べる口でよく言う。
 木の葉が風にそよいでいた。死んだ鳥はキビタキだったとふと考えた。キビタキは夏の鳥で、頭から背中にかけて黒く、まゆげのところと腹と腰は黄色い。魔理沙みたいだと思った。ところどころ白いのもそれっぽい。魔理沙はどうしてるかなと考えた。しばらく姿を見ないが、病気してるとは思えないし、おおかた梅雨があけてあったかくなったからいろんなところを飛び回っているんだろう。面倒くさい奴だ。
 キビタキは「ピッコロロ、ピッコロロ」と美しい声で鳴く。死ぬときも同じような声で鳴くのだろうか。もっと悲しそうな声で鳴くのか。無言で死んでゆくのか。
 今日は調子がおかしい、と思った。なんでだかずっと、鳥を見てからずっと、死ぬことについて考えている。紫は、と霊夢は尋ねた。

「紫は人間を食べることがあるの」
「たまに」
「どんなとき?」
「お祝いの時とか、ごく、ごく稀にマヨヒガに人間が迷いこんできて、かつ、こちらの気分が乗っちゃった時とかね」
「殺すの?」
「そりゃ、食べられたときは、死んでるわね」

 紫は怪訝そうな顔をする。当代の巫女は歴代のうちでもなぜだか最も可愛くて、気に入っている子だが、変な子である。もともと霊感の強い博麗の巫女のなかでも異様に勘が鋭くて、ほんとうならもっとおおごとになっていたような異変でも、発生した直後にすぐさま解決してしまう。そのうえ鷹揚というのか、つい先程まで敵だった相手と簡単に酒を酌み交わしてしまうから、神社にはいつのまにか妖怪たちが寄ってきて、代わりに人間が来にくくなってしまう。
 人間が死ぬこと、食べられることについても学者みたいというか、他人ごとのように、浮世離れした感覚で考えてしまうのは、霊夢らしいとも言えたが、ちょっと心配なようにも思えた。
 とりわけ、八雲紫の食事については、博麗の巫女はもっと警戒してしかるべきなのだ。
 紫はせんべいを食べる手を止めると、雰囲気を変えるために軽くセクハラでもしようと霊夢の尻に手を伸ばした。
 尻に届く前に、

「人間は死ぬときに何て言うの」

 と霊夢が言った。
 ものすごく残念な気持ちになった。
 答えようとしたとき、鳥居の方でがさがさと音がした。顔を向けると、藍が橙を連れて立っていた。導師服の袖に手を入れて、あいまいな微笑を浮かべて立っている。紫もあいまいな微笑を返した。橙が不思議そうにしていた。







 紫と藍がどこかへ行ってしまうと、橙は手持ち無沙汰になった。連れて行ってほしいとも思ったが、しばらく前から主人とその主人はどこかおかしくて、なんだかお互いに遠慮しているようで、間にいるとちょっといたたまれない気分になった。紫様が浮気でもしたのかな、と考えていたが、具体的にどういうことが浮気になるのかはわからなかった。霊夢に訊いてみた。霊夢はううむと唸った。

「それを教えるには、あんたの知識程度を知らないといけない。紫と藍は、どういう関係なの」
「どうって、式と主人だよ。私と藍様と同じ」
「じゃあ、あんたが藍様に浮気された、って思うのってどんなとき」
「うーん、私より可愛がる猫をつくっちゃったりとか……うわーん」
「泣くな。それじゃあ、紫は浮気なんてしてないわよ。あんなに便利な狐、幻想郷には他にいないでしょ」
「狐じゃなくたって、他に愛するものができたら浮気になるもん。わかった、霊夢が体で紫様を誘惑したんでしょ! おかしいと思ってた、そんなに腋を魅せつけて淫乱痴女巫女なんじゃないかって、ずっと思ってた」
「煮て食ったろかこの生娘……」

 ぽかり、ぽかり、ぽかり、と猫をど突くと、霊夢はため息をついた。紫はそもそも、幻想郷を愛しているのですわ、とことあるごとに言っているから、浮気というなら紫が藍に向ける愛情のほうがよっぽど浮気なんだろう。実際藍と行ってしまったときのあの表情は、あまり見たことがないものだった。いつも胡散臭い微笑を浮かべている奴だが、今日はなにか、素で戸惑っているところを隠しきれていないように思えた。
 紫はああ見えて、打たれ弱いところあるのよ、と橙に言った。言ったらその言葉が、自分で思ったよりもほんとうであるように感じた。これも巫女の勘なのかもしれなかった。



 夏の日は長い。冬だったらもう日が落ちかけている頃だった。今日の夕飯はどうしようか、と考えて、素敵な神社の食糧備蓄事情をざっと頭の中で整理すると気が滅入った。橙に何か獲物とってこい、と命じたら、とても食えないようなものをとってくるかな、と思った。
 たとえば人間とか。

「あんたは人間食うの?」
「何? いきなりだね。食べるよ、たまに。でもわざわざ出かけて捕まえたりはしないよ。猪とかとって食べるよ」
「妖怪はあんまり狩りはしないって、紫は言ってたけど」
「そりゃ紫様はしないよ。私は猫だから、やりたくなるんだ。でもみすちーの八目鰻や、藍様が作ってくれるご飯のほうが好きだよ。でも今は一人暮らししてるから、あんまり食べられない。お腹すいてきた」
「私もよ。何かとってきなさい」
「巫女に命令されるいわれはないけどなあ……」
「あんたのご主人のご主人がせんべい食べつくして行ったのよ。ちったあ助けになりなさい」

 まあいいか、と言って橙は立ち上がった。ぱんぱん、とお尻の埃を払う。縁側に座っていたのだから別に汚れてはいないのに、躾がいいのかな、と霊夢は思った。
 何が食べたい、と橙が訊く。肉、と霊夢は言う。

「肉といっても、人間が食べるような肉よ。猫に合わせてはいられないからね。鳥居の横にキビタキの死骸が落ちてるけど、そういうのはだめだからね。どうせなら牛をとってきなさい、牛を」
「あの鳥なら藍様が食べちゃったよ」

 え、と霊夢は驚いて、訊きかえした。

「藍様、落ちた鳥を見つけると、すぐ拾って食べちゃったんだよ。私にはいつも、拾い食いはいけない、って言うのにさ。変なの。それもがつがつ食いついて、口から血が少し垂れてた。いつもならそんなことしないのに、藍様ちょっとおかしかった」

 そう、と霊夢は言った。力の強い妖怪は、生肉は食わないのではなかったか。紫がそう言っていた。でも藍も狐だから、たまにはそういうことをしたくなるのかもしれない。
 橙が行ってしまって、帰ってきて、家畜の牛とろうとしたらハクタクにぶたれた、と言って泣いているときになっても、霊夢はぼんやりしていた。頭の中で、「藍様ちょっとおかしかった」という言葉が、何度も繰り返された。







(五)





 そういう必要のあるサークル活動をしているので、メリーとふたりで夜の森に来たことは何度もある。けれど、異世界の夜の森に来たのははじめてだった。
 私とメリーはしばらくぼーっと突っ立っていた。それからあたりを見回した。ふたりとも黙っていた。上を向いて月と星を見る。木の枝と葉っぱの間からかろうじでそれは見えた。
 胸の奥に混乱の塊が生まれて、喉から飛び出そうになったが、口まで届かずにお腹まで落ちていった。氷を飲み込んだような気分だった。
 振り返ってメリーに声をかけようとする。それより早く、メリーが腕にしがみついてきた。ぶるぶる震えて、怯えていた。
 長い間そのままでいた。私はようやく動けるようになると、手を持ち上げて、メリーの頭を撫でた。
 私がしっかりしなくちゃいけない、と思った。
 バッグをごそごそかき回し、

「メリー、これ見て。じゃーん」

 と言って、スタンガンを取り出して見せた。メリーはびっくりしていた。

「そんなの持ち歩いてるの」
「言ったでしょ、女子大生だからね。……なんかカッコイイと思って」

 そういうのを買うのが好きな子がいて、新しいのを買ったから、といってタダでもらったのだった。得した。
 スタンガンのスイッチを入れてバチバチする火花を見せると、メリーはひゃっと言って身をかわしたけど、すぐに興味深そうに、もう一度見せて、と言って擦り寄ってきた。もう一度見せた。真っ暗に近い森の中でやると、花火みたいできれいだった。昔の映画を思い出した。タイムスリップする映画で、主人公の少年が最後に雷のパワーで未来へ帰る。
 少し勇気が出てきた。メリーと相談して、木の枝を集めて火を起こすことにした。移動するのは危険だと思ったし、何かやるにしても朝になってからだ。火はスタンガンで点けた。私は胸を張った。

「ね、私と一緒に来てよかったでしょう」
「そうね、スタンガンがあってよかったわね」

 と、メリーは笑って、

「でもほんとうによかったわ。ありがとう」

 と言った。メリーは憎まれ口も叩くけど、だいたいはとても素直で可愛い。
 一般的に言ってメリーはとても美人だ。金髪が波打っててつやつやしていて、日に透かすと天使みたいにきれいだし、外人さんなのでそりゃそうなんだろうけど、日本人とは違ったふうにとても整った顔立ちをしている。
 カフェーで言ってたみたいに、彼氏作らないのかな、と思うけど、おっとりしていてあんまりそういうことには気が回らないみたいだ。私はといえばそういうお年ごろであることは承知しているが、今はメリーと秘封倶楽部でほっつきまわるのが楽しくて、どうもその気にならない。
 もう一度月を見た。まわりで輝いている星を見た。やっぱりだめだった。メリーがいなかったら、怯えて動けなくなってしまったのは私のほうだ。何も頭に浮かんでこない。月を見ても、ここがどこだかわからない。星を見ても、時間がわからない。生まれてはじめてのことだった。







 火がパチパチ燃えている。カフェーを出たのは、日が沈んだばかりの頃だった。ここはもうすっかり夜で、とても暗い。火がなければ、闇に飲み込まれてしまいそうだった。
 周りの音を注意深く聞いた。鳥のような声が聞こえた。風の音と、枝と枝が擦れあっているような音も聞こえた。虫の音も。空気は冷えていて、火がなければ寒かったかもしれない。森の木を見る。種類はわからないが、普段良く見るような木であるように思えた。日本と同じような木が生えている。
 メリーが出会ったという女の人のことを考えた。メリーは彼女の声を聞いた。

(あなた、マエリベリー・ハーンね)

 口の中でその言葉を繰り返してみる。メリーのことを知っていた。それと、日本語を話していた。
 ここがメリーが前に来たのと同じところだと仮定して、だけど、と私は考えた。少なくとも、話が通じる奴がひとりはいるってことか。
 焚き火から煙があがっている。これを見つけて、誰かがやって来るかもしれない、と思った。
 ちょうどその時に話しかけられたので、びっくりして変な声を出してしまった。

「ひゃっ」
「ど、どうしたの?」
「ご、ごめん。なんでもない。何?」
「うん。ごめんね、蓮子。こんなとこに連れてきちゃって」
「何言ってんのよ」

 腹が立った。唇を尖らせる。
 どうしたの、怒ったの、とメリーが訊くので、だって一緒に行くって私が言ったんだし、メリーひとりで行かせてたらもっと心配になったし、私たちはふたりそろって秘封倶楽部なんだし……と説明してやるとふふふと笑って、そうね、蓮子が来るって言ったんだものね、と言う。
 わかってるなら謝んなくていいのに。
 それでも、よ。一応言っておきたかったの。でも、もうおしまい。
 なーにが。
 朝までどれくらいかな、とメリーが訊くので、わかんない、目が効かないの、と、私は白状した。

「だから、私こそごめんね。時間もわからないし、場所も、ここどこだかわかんない。役に立たないね。あんまりかっこよくないね」

 と言うと、今度はメリーが唇を尖らせる。
 パチパチ燃えてる炎に顔が照らされて、熱くて、赤くなっていた。ものすごく不安だったけど、なんだかぼやっとしてあまり先のことを考えられなくなって……メリーは美人で、おっぱいが大きくて、素直で私のことをよくわかってくれていて……いい気持ちになった。
 体の前のほうがじりじり熱くなるので、ときどき姿勢を変える。寄り添っているメリーの体が少し動いて、先程まで触れていなかった部分が触れる。メリーの腕時計を見ると、午後九時に近くなっていた。そもそも向こうと時間がずれているんだろうから、あんまり信用するわけにはいかないけれど、とにかく、私たちがここに来てから二時間は経っていた。
 交替で眠りましょうか、と言いかけたときだった。

「もう一人は誰?」

 と、声がした。声は耳元で聞こえたような気もするし、森を越えて、もっとずっと遠くから響いたようにも思った。
 焚き火の明かりに照らされて、影ができていた。火の向こうに女の人が立っていた。大きな割烹着みたいな導師服を着ていて、袖と裾に隠されて手足は見えなかった。とんがりをふたつ頭の上にくっつけたような、特徴的な帽子をかぶっていた。

「人間、みたいね。どこで知り合ったんだか」

 女の人が近づいてくる。火に照らされて、顔が良く見えた。大陸風の衣装なのに髪の色は金色で、瞳の色も金色のようだった。声は高くも低くもなく、大きくも小さくもなく、自然に耳の中に入ってくるようだった。きれいな女の人だった。
 私はスタンガンを手にすると、メリーを後ろに隠した。

「お姉さん、誰ですか」

 と訊いた。お姉さん、と言ったのは、何歳くらいなのか、ぜんぜんわからなかったからだ。見た目は少女と言って良いくらいで、私たちよりも少し年下にも見えたけれども、でも同時に――ひどく年老いても見えた。
 女の人は私たちの少し手前で足を止めると、

「お嬢さん、私はその子の、その子の……保護者よ。怪しいものではないわ」
「メリー、お知り合い?」

 メリーはぶんぶんぶんぶん首を振った。

「メリー?」

 女の人は首をかしげた。が、すぐに顔を上げて、こちらを見つめると、

「まあいいわ。その子は今までの中でも、とびきり変わり種みたいだ――
 生き返ってきたんだな。でも、もう一度殺すよ。池に沈めてやろう」

 女の人はかがみこんで、生えていた草を二三枚地面からむしりとった。その草を手前の空間に放ると、二三枚だった草がどんどん分かれて増えて、五十枚くらいになった。手品みたいだった。女の人の手から、草が、どんどんあふれて風に乗った。
 目の前に草が飛んできて、手で避けると痛みが走った。驚いて手を見ると、イナゴが噛み付いていた。混乱して、手を振り回す。スタンガンがどこかへ飛んでいった。渦を巻くように草が飛んできて、いつの間にか、目の前が草の黒緑色で埋まっていた。その間も、私はずっとメリーの手を握っていた。絶対に離さないと思っていた。
 けれど少しして目の前が晴れると、女の人も、メリーもいなくなっていた。私の左手はいつのまにか、重たい石ころを力いっぱい握っていた。

(化かされた)

 と私は思った。私は叫んだ。喉が潰れるくらい、メリーの名前を呼んだ。
 けれど答えは返ってこなくて、イナゴに噛まれた手を見ると少し血が滲んでいて、私は泣いた。恐怖で心臓が凍りつきそうだった。
 焚き火がバチッ、と音を立てた。驚いてそちらを見ると、紫色のドレスを着た女の人が立っていた。
 私の名を呼んだ。







(六)





 夕方だった。夕飯の準備をしていると、ご主人様が自室から声をあげて私を呼んだ。
 急いで行く。紫様は布団に腹ばいになった格好で、顔だけをこちらへ向けて、

「子どもが欲しいの」

 と言った。
 しばし考えた末、作ればいいじゃないですか、と答える。主人は腰に手をあてて、

「相手がいないじゃん。ばっかねえ」

 と言う。
 付き合いきれないので台所に戻って料理のつづきをはじめた。
 隙間から手がにゅっと伸びて、包丁を持っている手を捕まえる。

「こら、危ない!」
「主人の呼びつけを無視するなんて、いつからそんなに偉くなったのかしら」
「邪魔をすると、夕食が遅くなりますよ。ポテトサラダつくってるんですよ」
「豆腐サラダがいい……」
「またそんなわがままを……明日作ってあげます」
「うん」

 手が引っ込んで、扉が開いて本人があらわれた。
 料理の邪魔はしないけど、話は聞いてほしい、ということだろう。私は観念して、帽子に隠れた耳を背後に向けた。紫様は、ん、とうなずいて、壁に背を預けて座りこむ。

「藍はスケベーだから、子どもの作り方なんてお茶の子さいさいでしょう。微に入り細を穿ち、経験談を語りなさい」
「セクシャルハラスメントじゃないですか。私の話なんて、グロかったり暗かったりする話ばかりですよ。それより紫様のお話をしてください」
「もじもじ……」
「えぇー何ですかそれ……」

 茹で上がったじゃがいもをすりこぎでぐりぐりと潰す。塩水に晒した玉ねぎの薄切りと、きゅうりとハムと卵を加え、塩、胡椒、砂糖、バター、からしなんかで味付けする。味付けの分量はいつもちょっとずつ変える。何千回も料理をやっていると、その都度その都度工夫してやらないと、作っていて飽きてしまう。
 最後に酢と植物油で味を整えて、完成だ。紫様に味見をしてもらう。

「うん。じゃがいもが美味しいわ。ちょっと生クリームを入れてみましょう」

 と言って、隙間の中からまた変わった食材を出してくる。外界の食材は、見たことのないものが多くて、使いこなせるようになるまでが大変だ。そのかわり、ずいぶん変化に富んだ料理を作ることができるけど。

「それ美味しいんですか」
「わからない。外で食べたときには美味しかったけど。あんたの腕次第でしょう」
「また外界に行ったんですね。私も連れていってくれればいいのに」
「藍はうるさいから、だーめよ」

 と言って、ふふふと笑う。

「藍も隙間を開ければいいのにね。足りない食材をすぐ手に入れられて、便利でしょう」
「無茶を言います。境界を操る能力は、紫様だけのものでしょう」
「そうねえ」

 紫様は、んー、と両手を上にあげて伸びをすると、立ち上がって私の肩に手を乗せた。その手がすすす、と下りてきて、背中を通って、腰を通って、私のお尻をさわさわ触った。

「セクハラです」
「藍、藍、お藍。お藍のお尻」
「どうしたんですか……」

 顔が熱くなった。けっきょくかなりの間、尻を揉まれながら料理をすることになった。



 夕飯を食べてお風呂の用意をすると、紫様が入って、そのあと私にも入れと言う。風呂は苦手なので遠慮したかったが、強く勧めるので仕方なく服を脱いだ。湯船のお湯が温泉のように真っ白く染まっていた。おかしなにおいもする。
 上がったはずの紫様がまた服を脱いで、昼間みたいに後ろから私の肩に手を乗せた。

「入浴剤いれてみたの」
「はあ。温泉みたいなにおいがします」
「式神の苦労をねぎらっているのよ。これにつかると、疲れがとれるそうなの。どう、私は優しいでしょう」
「はい。出ていってください」
「いやよ。一緒に入るの」

 一緒に入った。湯船は大きめなので、向い合って入っても余裕があったが、紫様が足でいろいろいたずらしてくるから恥ずかしかった。どうしたんだろう。夕食前からずっとエロスイッチが入っている。
 髪を洗ってくれた。尻尾まで。立派な洗髪用品を持ってきたとのことで、毛並みがつやつやになった。尻尾いいわね、やっぱり藍の尻尾は最高、と紫様が言うので、得意な気持ちになった。
 背中の流しっこをする。紫様はさっきご自分で洗われたろうと思ったが、入浴剤を入れるの夢中で、洗っていなかったのだという。何だそれは。
 もう一度湯船に浸かる。主人が不審すぎて、落ち着いていられなかったが、やっと気持ちがよくなってきた。体が溶けるようだ。入浴剤のせいか、お湯が少しぬるぬるして、肌にまとわりつく感じがした。

「どう、気持ちいいでしょう」

 と、紫様が訊く。はい、と答える。
 頭がぼんやりしてきた。尻上がりに気持ちよくなってきて、熱くなって、体の中で火花が散っているようだった。昔に感じたことのあるような気持ちだ、と思った。よくは思い出せなかったが。
 風呂から上がって、体を拭いて、浴衣を着ると、紫様が畳の上に仰向けになって両手で自分の腹をかっさばき、血をどくどく流しながら内蔵のひとつを取り出した。
 私は驚かなかった。入浴剤のせいか、頭にかすみがかかったようで、何も考えられなかったからだ。
 紫様は自分の内臓を手に持って、

「食べなさい」

 と言う。私はそうした。
 そうすると、次の日から三日間くらいお腹が膨れて、四日目には娘を出産することができた。







 私たちの娘はすくすくと育って、ずいぶんいろんなことをすぐできるようになった。結界の操作ができたし、簡単な妖術も使えたし、なにより紫様と同じように、境界を見ることができた。自由自在に操れる、とはまだまだいかなかったが、「素質は充分」と、紫様も言っていた。姿は紫様にそっくりで、ただ瞳の色だけが、私の名前と同じ藍色だった。
 とても可愛い娘だった。私たちはできるかぎりの愛情を持って、娘を育てた。でも死んでしまった。
 なぜだかわからないが、私たちの娘は人間だった。人間なので体が弱く、ちょっと目を離した隙に池に落ちて溺れて死んでしまった。妖怪ならけして死ぬことのないような、他愛もない理由だった。
 私は泣いて悲しんだ。紫様もそうだったと思う。
 それからしばらくして、私は二番目の娘を生んだ。
 今度も人間の娘で、一番目の娘よりも早く死んだ。今度の娘は気が狂っていて、隙間の能力を大結界の破壊に使おうとした。何度止めてもやめようとしなかったので、紫様の命を受けて私が殺した。
 大昔、紫様の式になる前のことは覚えていないが、自分の娘を殺したのは、たぶんはじめてだったと思う。

 それから何度も、私たちは娘を作り、そのたびに死なせるか、殺してしまうかした。橙が私の式になってからは、あまりやらなくなったが、それでもときどきはやっていた。二十年か、三十年に一度くらいは。
 私たちの娘は常に人間だった。紫様に理由を尋ねたことがある。紫様は、わからないわ、と言っていた。
 でも、紫様にわからないことなんて、ほんとうにあるのだろうか。
 娘を殺すのは、はじめはほんとうに辛かったけど、そのうちに慣れてしまった。
 出産だってはじめは驚いたけど、もう、毎度のことで、慣れてしまった。
 私はきっとおかしくなっているんだ、と思った。







(七)





 私は吸血鬼だから夜目がきく。だから夜の森でも困らないけど、ずっと引きこもっていたので外は苦手だ。外は常に空気が動いていて、風っていうんだそうだけど、ついこの前まで知らなかった。森は生き物がいっぱいいるから、いっぱいのにおいが混じり合っている。とても広い。地下室が狭いと感じたことはなかったけど、それは他を知らなかっただけ。外に出てみたらどこまで行っても壁がないのにびっくりした。そして何にも目印がない。月や星を手がかりにするのよ、とパチュリーは言うけど、空の中で動きまわるものをどうやって目印にすればいいんだろう?
 つまり迷ってた。魔法の森で、魔理沙の家に遊びに来てたんだけど、変な河童が池から死体をしょって出てきて、変な狐がそれを壊そうとして、それで魔理沙とお姉さまがなにか相談して、よくわからないけど、とにかく狐を探すんだった。でもよくわからないままに迷ってしまった。
 全部お姉さまが悪い。あとでとっちめよう。
 上から見れば魔理沙の家が見つかるかな? と思って高く飛んだ。木より高く飛ぶと、月の光が体に当たって気持よかった。月の光は妖怪を狂わすと言うけれど、私はもともと気がふれているので、あんまり関係ないと思った。



 気がふれているって何だろうか。手当たりしだいにものを壊しちゃうことだろうか。
 地下室にあったものは壁以外みんな壊したと思う。壁も壊したくなったけど、お姉さまが絶対ダメっていうから他のものを壊して我慢した。我慢できたからいいじゃんって思うけど、ほんとうは、ベッドやクローゼットやおもちゃやメイドなんかも、ほんとうは、ほんとうは壊しちゃダメなんだって。新しいのがすぐくるから、ぜんぜん困らなかったけど、ほんとうはダメなんだと言う。それで外に出してもらえなかったんだから、つまんないことしてたな、と思う。
 言ってくれればわかるのに、我慢だってできたのに、お姉さまは変に大物ぶるからいけないのだ。
 やっぱりお姉さまがぜんぶ悪いのでやっぱりとっちめよう、と決めたところで、下のほうで光るものをふたつ見つけた。ひとつは魔理沙の家で、もうひとつはなんだかわからなかった。そっちに行ってみようかな、と考えたところで月明かりをはねっ返してきらきら光ってるものを見つけた。夕方に行った池だ。私は、あの池を何と言ったんだっけ。銀のお皿のよう、と言ったんだっけ。魔理沙は友達だ。友達だから、壊してはいけないんだ。
 池のそばに狐がいた。狐は人間を手で持っていた。あの死体かな、と思った。
 あの狐は私と同じだ。
 私はときどき、ひどい気分になって、我慢しなくちゃいけないものと、大丈夫なものの区別がつかなくなるときがある。そういうときはパチュリーや、お姉さまが何とかしてくれる。だからあの狐は私が何とかしてやろう、と思って急いで池に向かった。
 近くまで行くと、狐は人間の脇の下に手を入れて、捧げ持つみたいにして高く掲げていた。赤ちゃんにやる、高い高いをしているみたいだった。
 池に放り投げようとしているんだ、と私は思った。

「キュっとして、ドカーン!」

 声を上げて、手の中にある目を握りつぶす――これは破壊の「目」で、これを壊すと本体のほうも壊れる。
 狐の手が潰れた。狐は人間を取り落として、人間はばしゃんと池に落ちた。一瞬静かになって、それからばたばた手足を動かして、岸に這い上がってきた。
 生きている女の人だ。あの死体じゃなかった。よく見ればちゃんと首がくっついている。河童はどこに行ったんだろう?

「邪魔を、するな」

 狐がこちらを見る。並の妖怪だったら恐ろしくてちびっていたかもしれない。そのぐらい迫力のある怒りっぷりだったけど、私はフランドール・スカーレットだ。スカーレット家の次女で、悪魔の王であるお姉さまの妹なのだ。そんなのでびびるわけない。

「痛かった? でもお姉さまが、あんたを邪魔すればあの、えーと、八雲紫の鼻をあかせるんだって言うの。あんたはええと……八雲の……八雲の化け狐ね」

 覚えてなかった。さっき会ったばっかりなんだから当たり前だ。お姉さまがきちんと教えていないのが悪い。あとでとっちめよう。
 さっき壊した右手がもう治っていた。何かの術なんだろう。
 狐は私の言葉を聞くと、ちょっと気が抜けたようになった。

「紫様? ……いや、うん、そうなんだ。この子は殺さないといけないんだよ。気がふれているんだ。ちゃんと殺して、新しい娘を産まないと」
「産む?」

 聞き返した。意味がわからなかった。でも、それよりも。

「気がふれてるって? 狂ってるってこと? どうして? どんなところが?」
「関係ないだろう。教えてやる義理はないよ」

 すごくムカついた。
 狂ってるから殺さないとダメだ、とこの狐は言った。
 お姉さまでさえそんなことは言わないぞ。

「化け狐」

 お姉さまを真似て、口上を述べてやる。

「こんなに月も紅いから――月に代わって、お仕置きよ」

 私はもう一度、手に破壊の目を出現させて、握りつぶした。化け狐の右手は、ぼん、と音を立てて、また潰れた。
 狐は無感動な目で自分の右手を見つめている。痛くないのかな、と思った。もう一度。今度は左手を潰す。右手がもう治っている。右手を潰す。左手が治っている。
 もう一度、もう一度。もう一度、もう一度……。

「いい加減にしろ」

 狐が言う。私だって、能力を使い過ぎて頭が痛くなっていたところだ。もうやりたくない。
 本当なら、頭でも心臓でも、存在そのものだって、私は一度で壊してしまえるんだ。
 でもそんなところを壊してしまえば――狐は、死んでしまうかもしれない。

「そうしたら、またお姉さまに閉じ込められちゃう」
「何?」
「ううん、いいの。個人的なじじょうってやつだよ。それより、あんたがいなくなれば――あれ?」

 えっと、どうするんだっけ?
 お姉さまはこいつを、どうしろって言ってたっけ。殺しちゃうのはいけないと思う。連れてこいって言ってたんだろうか。でも、誰かを連れてこいだなんて、私に頼むかな。
 とりあえず、動けなくしちゃえばいいのか。
 私は手のひらを握ると、狐の両足をまとめて潰した。
 またすぐ元に戻った。

「もう、しつっこいわね! 黙って倒れてろ!」」

 背骨、腰骨、内蔵、耳、目玉、首……こいつを動けなくして、そのうえ、殺さないようにするには、どこを壊せばいいんだろう。
 あるいは、と私は思った。
 壊す以外のことが、私にできるんだろうか?

「一度言ったよ。いい加減にしろ、と」

 狐の姿はまだ私の目の前にあった。けれど、声はすぐ横から聞こえた。あわてて右を向くと、手が伸びてきて、あごを指で持たれた。その指が上に跳ね上がって、私はものすごい勢いで強制的に上を向く。肉を突き破って、私の喉笛に何かが突き入れられた。

「うッぐえッ!」

 私は叫んで、狐から離れる。喉に刺さっているものを握りしめた。クナイのようだった。血でぬるぬる滑ったが、かまわず引っこ抜く。血がどぼどぼ出て、もともと赤い私の服をさらに紅くした。
 女の子ならピンクや紅の服を着るものよ、とお姉さまは言っていた。自分の血の色は服の色よりも赤黒い。呼吸が苦しくなったが、傷はそのうち治る。
 と、傷を確かめているうちに、狐を見失った。あわてて探す。
 狐は先程の人間を捕まえていた。逃げ切れなかったのか、そのへんで腰でも抜かしていたのか。意識を失って、ぐったりしていた。狐が人間を、ぽい、と池のほうへ放り投げた。軽く放ったように見えたが、人間はかなりの勢いで飛んで、池の真ん中に落っこちそうになった。
 私は地面を蹴りつけると、それに飛びついた。着水する前に捕まえた――そのまま、一緒に池に落っこちた。
 がぼがぼ、私は暴れた。でもこのままだとこの人間ごと溺れてしまう、と考えて、少しおとなしくした。おとなしくしたらそのまま沈んだので、足だけ動かしてなんとか浮いた。首からの血が池に流れこみ、水を紅く染めていく。女の人を抱きしめた。まだ生きていた。
 焼けつくように全身が傷んだ。肌が焼けて、爛れている。
 流水でないとはいえ、吸血鬼に水は大敵だ。真水であれば肌が焼ける。
 狐が呆れたような顔をしてこちらを見ていた。
 私は死ぬんだろう、と思った。それはいいけど――どうせ蘇るし――この女の人を助ける方法が、思いつかなかった。
 喉の傷が治らない。息を吸えない。
 最後の息を使って、私は叫んだ。

「助けて、お姉さまァ!」






(八)





 叫んだとたん、体が浮いた。首根っこを掴まれて、抱きしめた人間ごと、私は空中に引っ張り上げられた。
 魔理沙の箒の後ろに乗って、お姉さまが口の端っこをゆがめていた。

「ぷっ、ひどいかっこね」
「…………」

 私は恥ずかしくなって、顔を背けた。助けてって言っちゃった。カッコ悪い。
 魔理沙は箒を池の反対側の岸まで滑らせると、私たちを降ろして人間の様子を見た。ちょっと水を飲んだみたいだけど、ちゃんと息をしている。金色の髪でなかなかきれいな女の人だった。
 夕方に見つけた死体に、そっくりだった。
 何が何だかわからないぜ、と魔理沙が言う。私もわからない。
 しゅうしゅうと音を立てて肌が治っていく。一度蝙蝠化すればきれいに治るんだろうけど、気が抜けちゃって何もする気にならなかった。
 あとはお姉さまが何とかするんだろう。いっつもカッコつけてるんだから、そのくらいするよ、と思った。







 私は口上を述べる。

「妹をずいぶん可愛がってくれたわね」

 私にしては、直接的な文句だ。頭に来ている。

「レミリア・スカーレット。お前の妹に、私は手足を何度も潰されたよ。しつけがなってないな」
「狐。妹が本気なら、お前は意識する間もなく死んでるよ」

 私はグンニグルを振りかぶると、狐に向けて思いっきり投げつけた。一発では効かないだろう、と思った。こいつは生やさしい相手じゃない。グンニグルは避けられて、狐が私の方へ跳びかかってきた。
 振り下ろしの爪を背中から回した羽根で防ぐ。両手を自由にするためだ。
 私の右手の爪が、狐の腹部を大きく切り裂いた。

 久しぶりの感触だ。
 幻想郷に来てからはスペルカードルールの決闘ばかりで、肉を裂き、血を流す闘いは絶えて久しかった。
 妹は、この感触を知らない。指にかかる圧力、骨がきしむ力、血液が加速するような昂揚、相手の体内に手を埋めたときの、意外なほどの熱さ――敵を。闘いを。
 はじめての闘いが、相手を殺しちゃいけない闘いだなんて、たしかに教育がうまくいっていない。
 やりなおそう。
 この狐をバラバラにしてから。

 狐が顔をしかめる。左手の掌底で、私は狐のあごを跳ね上げると、無防備になった喉に右手の手刀を深々と埋めた。
 妹のお返しだ。

「うげハッ」

 とかなんとか、叫び声を上げて狐は離れる。私は飛び上がって、狐の頭上の位置をとる。もう一本グンニグルを出して、投げつけ、狐の右手を地面に縫いとめた。
 私は着地する。狐が自分の右手を、肘のところでぶちぶちちぎって切り離す。自由になった。新しい手は生えてこない。妹にやられて、ずいぶん消耗したんだろう。
 息が荒い。喉の傷は、優先的に治したみたいだ。もう血は流れていない。こんな奴の血は飲まない。

(フランは、飲みたいって言うかもしれないわね)

 と、ちょっと思った。何せハジメテの相手だし。
 と考えるとムカついた。私は体から魔力で編んだ鎖を出すと、その鎖で自分と狐の左手を繋ぎ止めた。

「運命『ミゼラブルフェイト』」

 緋色の鎖は、宣言中は決して消えることも、切れることもない。私は鎖を引っ張ると、狐の体を空中へ放り出し、勢いをつけて地面へ何度も叩きつけた。
 狐の頭から血が流れて、帽子が落っこちた。帽子が落ちると、耳が顕になった。耳が見えると、普段の百倍は獣の雰囲気が強くなった。

「さて」

 と私は言う。

「あとは、お前を池の中に突っ込めば、お返しは終りかな」
「見てたのか」
「直接は見てないわよ。ただ、私にはいろんなものが見えるの」

 鎖を握り締める。

「狐。お前――もうコンテニューできないよ」

 私は思い切り鎖を引っ張って、狐の体をぶんぶん振り回して池の真ん中へ叩き込んで沈めた。
 水に触れて鎖が消える。狐は上がってこなかった。地面には、帽子と、狐がちぎっていった右手が残された。
 バラバラってほどでもないな、と私は思った。死んじゃいないだろう。でも水に浸かって、式が外れたので、今夜はもう動けないはずだ。
 お姉ちゃんがする妹の仕返しとしては、まあ、いいところだ。気分で言えばまだまだやり足りないが。



 そのとき、辺り一帯に、がらんがらん、と音が響いた。
 何の音かわからなかった。金属に金属が当たって、転がるような音。鈍い音の中に、高くて薄っぺらい、刃物みたいに鋭い音が隠れている感じだった。耳が痛くなった。私は耳をふさいだ。けれど、音は聞こえなくなるどころか、どんどん大きくなってくる。

「姉妹そろって狐狐とうるさいよ。蝙蝠風情が」

 右手と帽子を失った八雲藍が、左手でベルを――博麗神社の賽銭箱の上についているような、でっかいやつを――持って、鳴らしていた。

「役の行者が大峯山の釈迦ヶ岳に分け入り、背丈九尺ほどの骸骨が木の枝に刺さっているのを見出した。骸骨は左手に鈴(れい)、右手に独鈷を握っていた。その夜、弥勒菩薩が『汝は前生七生、この山で修行した。これは汝の前生の骸骨だ』と、役の行者に夢告をする」

 狐が近づいてくる。音は大きくなる。

「レミリア、お前は吸血鬼になる前――妖怪になる前、何だったんだ?
 お前を食えば、私は妖怪を身ごもることができるだろうか。
 それとも――やっぱり人間になるのか」

 私は幻覚を見た。幻覚なんだろう。




 八雲藍と八雲紫が情を交歓している。「私」はそれを見ていた。私は私であるけど他人のようでもあって――私はこれから、自分がどうなるのかもすでにわかっていた。
 薄暗くて暑くて、湿っていてピンク色だった。ここは肉の中だ。あそこに見えるのは、胎の入り口だ。
 情交を見てしまったので、私はそこから胎へ入るしかなかった。私は――「汝」は――馬になり・鳥になり・犬になり・人間になり・吸血鬼になった。
 吸血鬼になったときには妹がいて、私は妹を閉じ込め――部屋に置き去りにした。
 そして私は突き破られて――
 妹は夕暮れの池を見る。私より先に。




 私は夢中で、狐の顔面に指を突き立て、目の中に指を突っ込み、押し倒して馬乗りになった。狐の後頭部を地面にがんがんと何度も叩きつけた。音は止まない。目の前が血の色で真っ赤になった。狐の血だけではない。私が血を流しているのか。
 私は叫んだ。うがあああああ、と、みっともないほどに。
 顔面を掴んでいた手の、手のひらに痛みが走った。口に当たっていた部分を、少しだけ噛み切られた。私は立ち上がると、狐の腹を思いっきり踏みぬいた。ぱあん、と狐の腹が裂け、胴体を貫通し、足が地面に突き刺さる。
 返り血を盛大に浴びて、ピンク色の服が赤黒く染まった。妹とお揃いだ、と思った。

 気づくと、音が止んでいた。八雲藍が、ずたずたになった服だけを残して消えていた。帽子と、ちぎれた右手も消えていた。
 私は息をすることすら忘れて――池の向こう岸、フランドールを置いてきたところへ戻る。スキマから半身を出した八雲紫が、八雲藍を捕らえていた。

「お手数をおかけしましたわ」

 八雲紫が言う。フランドールが仏頂面をして、こちらを見る。お姉さま、何やってんの、とでも言いたげだ。魔理沙は妹が助けた女を地面に寝かせて、上半身を手で支えて起こしてやっている。まだ目が覚めないみたいだ。隣に、同じような体つきの、首のない死体があった。池の中にあった死体だ。河城にとりが、横に座り込んで、膝の上に死体の首を抱え込んでいる。死体の目が開いている。藍色の瞳で、びっくりしたような表情を浮かべていた。隣の、生きている女と、似ているように思った。
 八雲藍は人形のようにぐったりしている。わずかに首を上げると、泣き出しそうな表情が見えた。服も体も新品みたいにきれいになっているが、どこにも力がはいらないみたいだった。たぶん八雲紫の術なんだろう。
 そのまま、スキマの中に放りこまれて、八雲藍は消えた。魔理沙が頭をかいた。







(九)





「どうせ素直には答えないだろうが、説明してもらうぜ。どうあってもな」

 私はミニ八卦炉を紫に向けて構えた。こいつがその気なら、脅しにもならないだろうが、とにかく意思を表示することだ。
 幻想郷はハッタリがものをいう土地柄だ。私にとってはとくにそうだ。

「説明、と言われましても」

 紫が扇子を広げて、口元を隠す。

「何の説明が必要なのかしら。藍の食事を、あなたたちがよってたかって邪魔しただけでしょう。意地の悪いことね」
「そうかい」

 私は紫から目を離さずに、言葉をつづける。

「やっぱりこのお嬢さんは、外の世界の人間だってことだな」

 藍も紫も、橙も、八雲の者は何故だか知らんが幻想郷の人間には手を出さず、外の世界の人間だけを食らうという。酒の席だったか、どこかで聞いたことがあった。
 紫が眉根に皺を寄せる。

「嫌なことを言う子ね。まったく、扱いづらい。霊夢のほうがましよ」
「お褒めにあずかり光栄だぜ。ついでにこの死体についても教えてもらおうか。にとりに聞いた話じゃ、こいつはお前と藍の娘だって話だが、誰も信じないぜ」
「何だっていいよ。死体も、生きてる人間も、あんたには渡さない」

 死体を抱き抱えるようにしながら、にとりが言う。こいつにしてはめずらしく、頭から湯気が出るほど怒っている。そうとうびびらされたんだとか。
 死体の首は目が開いていて、藍色の瞳がびっくりしたような表情で固まっていた。荒事には慣れているが、さすがに死体の首だけなんてのは、気味が悪い。お燐なら、嬉々として持って帰るんだろうが。
 夜は暗い。空気が重くて息が詰まりそうだった。レミリアもフランも、いつになく黙っている。フランは興味がないだけだと思うが、レミリアは少し不自然だった。

「娘、と、藍は言ったのね」

 ぽつりと紫が言う。ああそうだよ、とにとりが返す。

「その娘はね、嫌われ者なのよ。とても。とっても」
「お前みたいにか」

 考えて言った言葉ではなかったが、紫は扇子を閉じると、もう降参、と言ったふうに顔を下へ向けた。何だかほんとうに傷つけたように思った。胸の奥に金属製のイガイガを押し込められたような気がした――私ははじめて、紫に対して罪悪感を感じたんだった。
 目の前の空間に切れ目が入って、広がって、スキマになった。中を覗くと、暗かったがそこかしこに人工的な光があって、なんとか中の様子が見えた。私たちはベッドを見下ろしていた。女の子が寝ている。天井方向からどこかの部屋を覗いているんだな、とわかった。

「その人間は外の世界へ帰すわ。ここはその女の子の、友だちの部屋よ。危害は加えないって約束するから、渡してくれないかしら。死体の方は、河童さん、あなたにお願いするわ」

 ただ、と言って、さらに言葉を続ける。できれば、埋めるんじゃなくって、以前と同じく、あの池に沈めてほしいの。

「何でさ?」
「何故でもよ。そのほうが、私も藍も安心していられるの」

 にとりが口を尖らす。
 すると、紫が深々と、私たちに向かって頭を下げた。

「ほんとうに、申し訳ありませんでしたわ。でも、これ以上訊かないでほしいの。藍はちょっと、不安定になっているのよ。すべて私の責任です。この埋め合わせはきっとするから、もう、勘弁して頂戴」

 どうにも意外で、何とも言い様がなかった。紫が頭を下げるなんてはじめて見た。
 藍の奴の邪魔をすれば、紫の鼻をあかしてやれる、と言い出したのはレミリアだった。どんな仕組みかは知らんが、運命視の能力だったんだろう。今の光景を見れば、それは当たっていた。だが、レミリアはちっとも得意そうには見えず、それどころか苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「言うことがころころ変わるじゃないか。お前の言うことなんか、これっぽっちも信用できないよ」

 吐き捨てるように、レミリアは言った。こいつも少し、余裕がないように思えた。
 お姉さま、もういいよ、とフランが言った。目の焦点が微妙にあやしい。力を使い過ぎて、調子が悪いんだそうだった。

「今日は魔理沙の家に泊まるんだったでしょ――早く帰ろうよ。あの狐はほんとムカつく奴だけどさ、あとにしよう。お酒飲んでケーキ食べようよ」
「フラン、あなたにはお酒はまだ早いわ」
「五歳しか違わないじゃん」

 フランがブーたれた。
 それで私も、そうしよう、と思った。

 にとりはまだ納得していないようだったが、紫が人間をちゃんと外界に帰して、スキマを閉じるのを見届けると、しぶしぶといった様子で死体を背負って歩いて行った。私たちは家に帰り、朝まで酒飲んで馬鹿話をした。朝になると、吸血鬼姉妹は、眠い、と言って帰っていった。フランは半分眠りながらレミリアに背負われて行った。レミリアいわく、「はじめてのことばかりで、疲れちゃったのよ」だそうだ。レミリアはちょっと嬉しそうだった。私も眠かったが、寝る前に気合を入れて起こったことすべてを日記につけた。それから風呂に入って眠って、起きて食事をしてまた風呂に入って、箒に乗って博麗神社へ出かけた。







「てなわけだ」
「ふうん」

 長い長い話を、霊夢に聞かせた。レミリアやにとりから聞いた話も合わせて伝えたから、たぶん全体像を把握できているだろう。いろんなことが起こるたび、私は霊夢に話を聞いてもらう。話すことで、自分の頭の中を整理することにもなる。
 霊夢はお茶を飲みながら黙って聞いていた。いつもよりも、真剣に聞いているように思えた。たいていは、人の話なんか右から左に聞き流して、終わると同時に家事をはじめてしまうような奴なのだ。それが今回は、茶々も入れずにじっと聞いている。いつもよりもお茶のおかわりの回数も少なかったようにも思える。巫女の勘だろうか。と考えると、ぞっとした。こいつがこういうふうになるときは、概ね異変絡みだ。藍と紫の起こす異変なんて、さすがの私でも気が滅入る。

「どうしたんだ」

 訊いてみた。

「別に。ただ、らしくないな、と思って」
「何がだ」
「あんたがよ。結局、死体についても、藍の行動についても、わかんないことばっかりじゃない。いつものあんたなら、その女の子を人質にとってでも、いろいろ白状させてたはずよ」
「人を極悪人みたいに言う奴だぜ……」

 脱いでいた帽子をかぶり直すと、私は言葉を選びながら、ちょっとずつ口を開いた。霊夢に話したことで、自分の味わった感情についても、どうにか説明できるくらいになったと思う。

「あのな、あの死体と、あとあの人間も、ほんとうに藍と紫の娘なんじゃないかって思ったんだ」

 似すぎていた――死体と女の子と、それと紫自身が。
 金色の髪も、彫りの深い西洋風の顔立ちも――それに藍があんな状態になるなんて、よっぽどのことなんだろうと思った。
 紫が頭を下げたのも、はじめてのことだが、あいつが本心からやったことなんだって思えた。

「だからさ。そうすると何もかも、あいつらのご家庭の事情ってやつだろう? あんまり詮索するのは、品がないかと思ってさ」
「品ねえ」

 霊夢は立ち上がると、ぱんぱんと尻の埃を払った。地面に座ってたわけじゃないのに行儀のいいことだぜ、それともお前んちの縁側は汚いのか、と軽口を叩いた。どうも真面目な雰囲気になりすぎていたので、混ぜっ返すつもりだった。けれど霊夢は、きょとん、とすると、うーんと腕組みをしてもう一度座った。自分のしたことを変に意識してしまったようだった。

「魔理沙。この前ね、鳥居のとこで鳥が死んでたのよ」
「何だ突然」
「今日はいないわよね」
「知らん。飛んできたからな」
「キビタキの死体だったわ。キビタキって、魔理沙に似てるわよね」
「おい、どうした。わけがわからないぜ。おかしな奴だと前から思っていたが、とうとういかれちまったのか」

 キビタキってどんな鳥だったか、と考えているうちに霊夢がまた口を開いた。

「藍もそうだけど、私はもしかしたら、紫も狂ってるんじゃないかと思う」

 と言うと霊夢は、今度こそ立ち上がって、お茶っ葉を庭先に捨てた。
 私はあっけにとられて、その様子を見ていた。夏がはじまったばかりなのに、なんだかうす寒く思えた。







(十)





 目を覚ますとメリーが私のベッドで裸で寝ていた。私も裸で一緒に寝ていた。
 パニックになってメリーの乳を揉んだらいい感じの声を出したあとに起きて叫び声を上げたので私も同じように叫んで自分の乳を隠した。
 メリーはやっぱりでけえ。直接見るのははじめてだった。誇らしさと情け無さが同時に襲ってきて私は涙を流した。
 何とか落ち着くと、昨日の出来事を話し合った。私もメリーも、カフェーを出てからの記憶がなかった。お酒を飲んだ様子もないのに、おかしな話だった。服はベッドの横に脱ぎ散らかしてあった。とりあえず私が先に服を着て、それからシーツにくるまっているメリーに服を渡してやった。ブラもでかかった。私は涙を流した。
 テレビをつけると、お昼の国民的長寿番組をやっていて、本日大学はお休みにしよう、と自動的に決まった。
 服を拾っているとき、境界を見つけた。メリーではなくて、私が見つけた。積み上げられた服の下敷きになっていて、ただぼんやりそこにあった。メリーは驚いていた。私も驚いた。はじめは目の錯覚かと思った。メリーも子どもの頃は、そう思っていたそうだ。
 そういえば、私は昨日のカフェーで、どうしてあの席に座ったんだったか。メリーが朝に境界を見つけた席と、同じ席に座っていた。偶然なんだろうか。他の席も空いていて、たしか私は、選んであの席に座ったんだった。どうしてそうしたのかは思い出せなかった。
 それからああだこうだと話して、夜になると、私の目の能力をメリーも身につけた事がわかった。月を見ると位置が分かり、星を見ると時間がわかる。役に立たないと思っていたけど、できるようになると、これ、なんだかかっこいいわね、とメリーが言った。私は子どもの頃からずっとそう思っている。







「私が狂ってるんですって。藍、聞いた?」

 藍は畳の上に身を投げ出して、私の膝の上に頭を乗せている。耳をいじってやるとくすぐったそうに耳をぴこぴこ動かす。非常に可愛い。
 私たちの家は純和風建築で、幽々子のところや紅魔館や永遠亭などに比べたらものすごく手狭だが、橙を入れても三人で暮らすには充分だった。それほど贅沢な暮らしをするわけでもないし。
 そもそも幻想郷すべてが私の家とも言えるのだから、不自由なんかするわけない。

「どう思うかしら。霊夢はほんと、勘が働くわね……魔理沙も嫌な子だけど、やっぱり霊夢はそれ以上にやっかいね」

 それにしても、と私は思う。

「雇われ管理人の分際で、大きいことを言う」

 藍だけが聞いている。私はお尻をちょっと動かすと、正座して重ねている足の甲の上下を入れ替える。
 私は手を滑らせ、藍の耳から首を通り、胸を少し触って。それからお腹のほうまで手を伸ばす。その位置に手をおいてしばしあっためてやる。それから同じところを通ってまた藍の顔まで手を戻すと、口の下に手のひらを置いた。

「あんた、レミリアの肉を食べたでしょう。ぺっ、しなさい、ぺっ」

 藍は私の命に従って、口からそれを吐き出す。ころころとした珠が出てきた。よだれでべとべとになっていて、しかたがないので自分の服で拭く。
 これどうしましょう、と思った。まあ、何とかするけど。










(つづく)
一方そのころ咲夜さんは、置いていかれたのでフテ寝していた。
アン・シャーリー
http://ameblo.jp/an-n-e/
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コメント



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1.100名前が無い程度の能力削除
次読んでくるっす。
5.無評価コチドリ削除
ストーリーがどのように収束していくのか、とても興味深いです。
鍵を握るのは誰なのかを想像するのも楽しい。

完結を目にするまで評価を控えたほうが良いタイプの作品な気がするので、フリーレスで失礼します。
6.80名前がない程度の能力削除
待ってました!まさか1から書き直してくるとは…とりあえず最初なのでこの得点で。
11.80とーなす削除
やっぱり続くのか。
いろいろ興味深くて夢中で読んでしまった。
まだまだ説明されていない謎は多いので、次も楽しみ……だけれど、説明されていない謎が残っているせいで、ひとつの作品として評価するのは難しい。うーむ。
期待を込めてこの点数で。