―――悪魔とゲームをしてはいけない。
勝つにしろ負けるにしろ大切なものを失ってしまうから。
そんな字面的に見れば随分とご大層な忠告を私は90年ほど昔にノーレッジ家の大婆様から受けた。
幼少期の私はそれを純粋に恐れ素直に聞き入れようとしていたのだけれど、100年を生きる魔女となった今の私にはそんな警句など恐るるに足るものではなくなっていた。
というかそもそも現在進行形で私は悪魔とゲームをしているのだ。
魔法使いという種族――つまり同属である――を広義の悪魔とみなせば、の話ではあるが。
「その駒、いただくわね」
普段は人形をその意思の下に操る細く白い、それ自体が名匠の手による人形の部品のような綺麗な指が……私のクイーンの駒を盤上から取り除く。
白のクイーンが守護していたマスは哀れ黒のルークに掠奪され鎮座されてしまっている。
防御が手薄になった私の陣営には既に雀の涙程度の兵力とキングしか残されていなかった。
詰むのも最早時間の問題だろう。
「く……正直貴方がこんなに強いとは思っていなかったわ。魔女の先輩として、知恵比べのゲームで負けるのだけは避けたかったのだけれど」
「単純な知恵比べだったらそりゃパチュリーの方に分があるでしょうね。所詮私は若輩だし。ただ対決に選んだゲームが悪かったわね。私、こういう用兵のセンスが問われる類のゲームは紫くらいにしか負け越したことないの」
人形の森の魔女、アリス・マーガトロイド。
私は軽いレクリエーションのつもりで彼女にチェスの勝負を挑んだのだったが、その結果がご覧の有様だった。
なんというかアリスは駒の扱いが異常に上手い。
まるで自分の手足のように―――それこそいつも彼女が戦闘で操作している人形達のようにポーンをナイトをビショップをルークをクイーンを、そしてキングを自由自在に動かしてくるのだから恐れ入る。
まったく、先輩としての威厳を見せ付けるはずがとんだピエロになってしまったものだ。
浅慮といえば浅慮だったのかもしれない。
自分のフィールドに相手を引き込み常に有利状況に立って勝つのが魔女のプレイスタイルだというのに……相手の土俵に飛び込んだのは私の方だったというわけだ。
……得意なつもりだったんだけどなあ、チェス。
―――と。
「はい、これでチェックメイト」
「……負けました」
たった数手の内に、容易く詰まされてしまう私だった。
私が自陣のキングを横に倒したのを確認するとアリスはふぅと息を一つ吐き、胸を撫で下ろすような仕草をした。
無駄に演技がかって見えるのはその人形然とした彼女の容姿故か。
図書館中を支配していたピンと張り詰めた空気が急速に弛緩していく。
これにて決着、である。
負けた。
それも、惨敗と言っていい。
やはりアリスの言う通りで、エキスパ-トレヴェルの奴隷使いにこのテのゲームを挑んだのは失策中の失策だったのかもしれない。
私は肩を落とした。
「そんなに落ち込まないでよパチュリー。人には向き不向きがあるのは仕方ないことよ」
「向きだと思ってた―――いや、思い込んでたから落ち込んでるんだけどね……はぁ」
負のオーラをどっぷり溢れ出させて落ち込む私を心配しているのか、アリスは私の顔を覗き込んで来る。
それにしても端正な顔立ちだ。
まるで―――って、いや今はそういう話をするときじゃない。
それは夜にやる。
「まあ負けた相手が貴方で良かったわ。貴方、対戦相手に敬意を持つタイプのプレイヤーだもの。万が一レミィにでも負けようものなら、」
「おーいパチェー。魔女二人雁首揃えてナニやってんのさー?」
言いかけたところで、図書館への突然の来訪者の声に私は言葉を中断させられる。
噂をすれば吸血鬼(姉)ご本人の登場である。
しかも傍に殺人鬼と破壊魔を二人とも引き連れているという、実に危険極まりない両手に花状態でだった。
「ナニってチェスだけど、ついさっき終わったところよ」
「ふーん……ボード見る限りパチェのボロ負けじゃない。十数年しか生きていない小娘相手に惨敗喫すなんて。四六時中本ばっか読んでるから頭回らなくなってたんじゃない?」
……これである。
「ね? 言ったでしょアリス」
「ええ、ああ……そういうことね」
煽り合いがデフォルトの幻想郷にあってなおレミィの口の悪さはなかなかに度を過ぎるところがないでもない。
90年近い付き合いの私などはもうある程度は慣れたものなのだが、それでもやはりカチンと来るものは来る。
それが後輩の前ともなれば尚更だ。
「言うわねレミィ。だったら私と一局打ってみる? まあ脳ナシの貴方が私に勝つ可能性なんて限りなくゼロに近いのだけれど」
煽りには煽りで返す。
私もレミィも額に青筋を立てて睨み合う格好になるが、こんな程度のことは紅魔館ではよくある日常茶飯事に過ぎない。
「ほう。悪魔にゲームを挑んだことを後悔するなよパチェ……」
お互い口では本気気なことを吐き捨てつつも。
それこそレクリエーション、である。
×××
かくしてゲームは開幕する。
パチュリー・ノーレッジvs.レミリア・スカーレット。
対戦種目はチェス。
私が白でレミィが黒。
観戦者はアリス・マーガトロイドとフランドール・スカーレットの二名(十六夜咲夜は「お二人の頭脳戦を労える様なディナーを用意しておきますわ」とか言って厨房に瞬間移動していった)。
白駒16、黒駒16の並んだ市松模様の盤面を挟み込んで、魔法使いと悪魔が対峙する。
それでは悪魔退治を始めるとしよう。
「言っておくけど、容赦はしないからね?」
「ふん―――来なよパチェ」
「レミリアがどんな手を打つか、ゆっくり観察させてもらうことにするわ」
「お姉様、パチェなんて瞬殺しちゃえー」
お互いサポーターは一人ずつ。
アリスは私が普段使っている安楽椅子に深々と腰を下ろし盤上を見据えている。
一方の妹様はレミィの背中にがしっと捕まり、何故か私の方を睨み付けてきている。
……正直怖いがそんなことも言ってられない。
白が先攻だ。
私は戦端の幕を切り落とすべく、ポーンを前進させた。
思えばレミィとは出会ってから一度もチェスの対戦をしたことがない(咲夜には何度か付き合ってもらったことはあるが)。
レミィは私のその一手を見るや、幼さを忘却させすらする真剣な目付きになる。
初手如何に打つか思案しているのか、或いは数手数十手数百手先の未来を―――運命を見通そうとしているのか。
果たして彼女はどんな打ち方をするプレイヤーなのだろうか。
それが私には少しだけ楽しみだった。
が。
『パチェ……パチェ……聞こえるかしら』
!?
突然、頭にノイズ混じりの音声が響いてくる。
それがレミィの声であることは一瞬で理解出来た。
いわゆるテレパシーというやつだ。
魔法使いと契約悪魔の間でのみ取り交わせる上、他の者には一切感知されないマジカル便利機能と思ってもらえれば差し支えない。
ちなみに二重鉤括弧付きで表現されるというメタ的な情報も併記しておこう。
しかしそれが何故今……?
『どうしたのよレミィ。さっきも言ったけど、手は抜かないわよ? 妹様の手前で格好付けたいのはわからなくもないけど、こっちだってアリスの前で無様を晒すわけにはいかないのよ』
『いやそうじゃないんだ。むしろそれ以前の問題なんだ』
『それ以前?』
……嫌な予感がする。
そうだ。
レミィと契約を交わした後紅魔館で暮らした90年近い年月の間、どうして私は身内とは咲夜としか対局していなかった?
妹様にはこういうゲームは向かないというのはわかり切っていたから一度も勝負を持ち掛けたことはなかったが、何故私はレミィと戦ったことがない?
思い返せば、レミィには過去何度かチェスの対戦を申し出た覚えがある。
しかしその全てにおいて何かとそれっぽい理由から全然それっぽくない理由を付けては私から逃げて、有耶無耶にされてきていたのだった。
『パチェ。落ち着いて聞いてほしい』
『まさかレミィ……そんな、嘘、よね?』
そしてレミリア・スカーレットは意味不明なまでに自信満々な口調で、こう言った。
『私このゲームのルール知らないんだよね(笑)』
ほぎゃー!
×××
『はぁ!? ちょっと、言ってる意味が……』
『だから私はチェスをやったこともなければルールも知らないんだって。言わせないでよ恥ずかしい』
『勝手に恥ずかしがってなさいよ! じゃあ何? 貴方、出来もしない知りすらしないゲームの勝敗で私をディスってたってわけ?』
『そうなるね』
不敵な笑みを浮かべながらそう口にするレミィ。
『そうなるね、じゃねーよ! フーリガンかお前は!』
『仕方ないだろう、まさかフランの前でいつものように敵前逃亡とはいくまい? いくらなんでも格好悪すぎる』
『今の状況の方がよっぽど最低だろうが!』
パチュリー史上かつてないほどの激しい口論を繰り広げるが、テレパシー上のことなので外部のアリスや妹様には内容は一切漏れていない。
彼女らの目にはただ私達があくまでチェス盤上での読み合いをしているようにか映っていまい。
それを目論んでのレミィのテレパシー発信だったのではあろうけど。
『まあともかく、こうなってしまった以上ゲームは進行しないとマズいだろう? だからさ、』
『だから私にどうしろって言うのよ!? ルール知りませんでしたごめんなさいってちゃんと謝って投了しなさいよ!』
『馬鹿だな。それでは私がフランに嫌われてしまう。愛しのフランドールに嫌われたら私は死んでしまうよ?』
『馬鹿はどっちよ!? 嫌われて死ね!!』
『……君どんどん口が悪くなるね。そんな風に育てた覚えは、』
『誰のせいだと思ってんのよ! そしてあんたに育てられた覚えはない!』
『90年間世話してきたのに酷いやつだなパチェは』
『世話してきたのはむしろこっちの方でしょうが! 目の前にいるワガママ極まるクソ500歳児をね!』
『ぬ、そんなに言わなくても……泣くぞ?』
『泣き喚け!』
はぁはぁ、と。
あくまで精神感応でのやり取りだからそんな息こそ上がりはしないが、なんていうかもう、精神的に疲弊してくる。
リアル舌戦だったら間違いなく喘息でブッ倒れているな、これは。
少しテンションを下げよう……
『それでレミィ、貴方一体私に何を望むってのよ』
『いや、ルールがわからないんでそもそも駒の動かした方がわからないのよ。だから今こうしてるみたいにテレパシー上で私に動かすべき駒を逐一指定して観戦者―――フランドールとアリスにそれっぽいゲームに見えるようにしてほしい。そしてあわよくば私を勝たせてほしい。出来れば劇的に』
なるほど。
結局姉としてのプライドを守りたいわけね。
まあ完全素人の妹様を騙すことは簡単だろうが、私を遥かに上回る腕前のアリスにもそれっぽく見せるというのはなかなかに至難の業だ。
私一人で二人分の駒を動かすことになる以上、どこかで熟練プレイヤーには感付かれてしまう粗が出てくるのは避けられないだろうから。
まあアリスならなんとなく空気読んでくれるだろうとは思うけれど。
咲夜がいなくて良かった。
……チェスを知っている上に、彼女は天然の度合いが高いから。
だがそれ以前に、である。
『それで、私に何のメリットが?』
私的にはわざと負けてみすみすアリスの中のパチュリー株を下げる理由がない。
レミィには悪いが此度のゲームはこれにお開きに―――
『私を勝たせてくれたらパチェとアリスの運命の紅い糸をより強固にしてあげる』
『よっしゃ乗ったぁぁぁぁぁぁ!!』
私は綺麗に掌を返した。
この後繰り広げられるゲームが、血みどろの惨劇よりもなお酷い悪魔のゲームになるとは露ほども知らずに―――
×××
「あ、あ、あああ―――」
「どうしたパチェ? 元々青白い顔が一層青ざめているよ? まさしく顔面蒼白と言ったところか?」
私は、思い出していた。
幼少の頃大婆様が口癖のように言っていたあの言葉を。
『悪魔とゲームをしてはいけない。勝つにしろ負けるにしろ大切なものを失ってしまうから』
―――最初は順調にゲームを進めていたはずだ。
私が駒とマス目を指定して、レミィにその通りのプレイングをさせる。
駒を進め、進めさせ。
駒を奪い、奪わせて。
そうすることで彼女の望む『それっぽいゲーム』が構築されていたはずだ。
だがそれは起こった。
起こってしまったのだ。
そう、それはレミィの黒のポーンが3ランク―――私の手前から三つ目の縦列に進軍したときのことだった……。
ようこそナイトメア。
そしてさよなら知的競技としてのチェス。
×××
『パチェ、次はどれを進めればいいの?』
『ああ、次はそこのそれね』
『ういういうー』
レミィも慣れて来たのか、駒とマス目さえ指定すればノータイムで自分の手番をこなすようになってきた。
今のところ妹様にもアリスにも不自然を悟られた気配はない。
最初は駒がどう動くかさえ理解しておらず、ポーンは将棋で言う歩兵みたいなもので~とかそこらへんからまず説明しなければいけない惨状だったから心配だったがこれならまあなんとかなるかな。
ちなみにレミィは何故か将棋のルールは知っていた。
それでいいのか西洋妖怪。
『じゃあ次、そこのポーンを3ランクまで上げて』
『わかったー』
私の指示通りに駒を動かす幼吸血鬼。
こうして大人しくしてくれている限りにおいては可愛いところもあるんだけどなあ。
いかんせん普段の性格が終わっているのが玉に瑕―――まあ瑕が本体みたいな感じなのはこの際置いておくとして。
おや?
「おっと、ポーンがここまで進んだから……じゃあこれで、っと」
「んん?」
レミィは何を思ったのか。
進軍させた自らのポーンの台座側ではなく頭側を盤に向けて、そのまま垂直に―――
「ポーンが成金して、と金になる」
「えっ」
隕石落下を思わせる衝撃音を発生させて。
レミィは上下逆になったポーンをチェス盤に突き刺した。
私は凍った。
アリスも凍り付いていた。
妹様は姉の背中に張り付いたままニコニコ笑顔を崩さない。
そしてレミィは―――
あからさまに『私だってルール知ってるのよ?』とでも言いたげな、非常にムカつくドヤ顔をしていやがった。
我に返った私はレミィに思念波で怒鳴りつける。
『あんた何勝手なことやってんのよ!? なんでポーンがと金になるのよ!?』
『え? だってポーンって歩兵のようなものだってさっき……』
『ようなものだと言っただけでそれそのものだとは言ってないわよ! 大体なんでポーン裏返しちゃったの!? ていうか盤に完全にめり込んじゃってるよコレ! もうこのポーン動かせないじゃない!』
私の怒号もどこ吹く風といった様子でレミィはチッチッチッと人差指を振り、
『パチェ、それはもうポーンじゃない。と金だよ』
またもやドヤ顔である。
イラッ。
『ポーンだよ! 裏返したところでポーンはポーンだよ! と金になんてならないよ!』
するとレミィは懐から赤色のマジック(レッドマジックとか抜かしていた。うざ……)を取り出した。
そして、盤に頭から突き刺さっている黒のポーンの台座の裏に平仮名で『と』と書き入れた。
『そうだねパチェ。確かに私が間違っていたよ。『と』と書かれていなければそれはと金じゃない。ただのポーンだ。そうだろう?』
『そういう意味じゃないわよ! なにしたり顔で語っちゃってんのよ! 裏返っていても台座の裏に赤文字で『と』って書いてもポーンはポーン! チェスにはと金なんてない!』
『えー』
そんなこんななやり取りをレミィと交わしている横で、妹様がなにやらアリスに質問をしていた。
いつの間にか姉の背中から降りて、アリスの膝の上に座っていた。
にゃろう、そこは私の特等席だ。
「ねーアリスー。なんかお姉様の駒が裏返ってるけどあれ何ー?」
「え、えーっと……」
……終わった。
レミィは何が悪かったのかすらわかっていないのか、依然として尊大な態度のままだ。
アリスがツッコミを入れて、妹様にレミィがチェスのルールを理解していないのがバレて、それでこのゲームは終わりだろう。
紅い糸パワーアップは確かに魅力的なリターンだったが、こうなっては最早どうしようもない。
レミィには悪いが妹様からの侮蔑の眼差しを受けていただくことにしよう。
ホント、咲夜がいなくてよかったわねレミィ。
嫁二人に同時に幻滅されるという最悪な事態だけは避けられて良かったじゃない。
……などと、私は思っていたのだが。
「あ、あれはプロモーションと言ってね。駒が敵陣に入るとパワーアップするのよ!」
「へー、そーなんだー」
なんか知らんが空気読んだ!
うまいこと誤魔化した!
出来る子!
アリス貴方なんて出来る子なの!
騙しているのに罪悪感があるのかそれともただ純粋に怖いのか、アリスは妹様と頑なに目を合わそうとはせず右往左往させ泳がせていた。
その様子に心が痛んでしまう。
あとでちゃんと褒めてあげなければいけないわね、うん。
『へぇ、チェスでは成金のことをプロモーションって言うのね。まったく、ハイカラ気取ってからに』
『…………』
だから、それでいいのか西洋妖怪。
『……まあそうね。ちなみにチェスのプロモーションは黒の場合3ランクじゃなくて1ランク、つまり貴方からしてみれば一番奥の列まで這入らないと出来ないわ』
『なるほどねえ』
『アリスが上手いこと誤魔化してくれたことに感謝するのね』
とりあえずゲームを再開しよう。
地面にめり込んで戦闘不能となった哀れなポーンをそのまま放置する。
マスが一つ通行禁止になってしまった……。
それっぽい試合運びをやってみせて妹様に「キャーお姉様パチュリーに勝っちゃうなんてすごーい。ちゅっ」とさせることがこのゲームの目的だというのにどうするのよこれ……。
まあ考えたところで良い案が浮かんでくるわけもない。
とりあえずレミィに引き続き指示を出すとする。
『じゃあこれがここで』
『それがそこか』
盤上に一本トーテムポールが突っ立ってしまっていることを除けばゲームは平常運行だったがしかし。
なんというか、その。
私はレミィの脳ナシっぷりを少しばかり甘く見ていたのかもしれなかった。
『ポーン、進めて』
『りょかーい。ん?』
『今度は何?』
『私のさっき進めた黒のポーンと、今進めた黒のポーンでパチェの白のポーンを挟み込んだわ』
『? 要領を得ないわね。一体何を―――』
とテレパシーで言いかけたところで私は気付いてしまった。
眼前のこのバカ吸血鬼の意図に。
『レミィ! ちょっと……まさか!』
しかし遅かった。
レミィはまたもや懐から何かを取り出して―――それは墨汁だった。
そしてそれを、
『黒と黒に挟まれた白は黒くなる。そういうルールがチェスにはあったわね』
あろうことか挟み込まれた私の白駒にブッかけた。
『これでこの駒はこちらの陣営だ』
『ねーよ!』
色んな意味でねーよ!
そういうルールもなければ、お前のその発想も一体どうなってるんだよ!
『なにやってんのよレミィ! それはオセロのルールでしょうが! チェスは相手の駒を挟み込んでもそうはならないわよ!』
『おっと、ポーンがまたパチェの陣営に這入り込んだわ。こいつもと金にするわね』
そう言ってレミィはまたしても黒のポーンを逆向きにしてチェス盤にズドンとめり込ませた。
『話を聞け! マジックを取り出そうとするな! だからポーンはと金にはならないしそもそもプロモーションは1ランクまで侵入しないと出来ないってさっき言ったでしょうが!』
『ぬ。たった今我が軍の仲間になったこいつもと金にしないと』
『お願いだから話を聞いてよ!』
『まあまあこれでも飲んで落ち着きなさい?』
そう言ってトクトク……と空のカップに液体を注ぎ、それを私に差し出すレミィ。
私を熱くさせてるレミィ本人にそれを言われるのは癪だったが、今の私が落ち着きを欠いているのは確かだ。
それに喉も渇いたし。
私はレミィの注いだドリンクを口内に満たさせた。
「……!」
「どう?」
これは―――
この甘ったるい香りと明らかに飲料ではないと一瞬でわかる味。
そしてこの液体の、最早清々しいまでの真っ黒さは―――
『「どう?」もクソもさっきの今だからどう考えても墨汁じゃねーか!』
ぶふぉ、と勢いよく墨汁をレミィをターゲットに吐き出す。
イカのように。
『うわ! 私のおべべが……』
『元はと言えばあんたのせいでしょうが! ていうかなんで墨汁なんか飲ませようとするのよ!?』
『んー、余ったから?』
『じゃあお前が飲めよ! ……はぁ』
なんかもう果てしなくどうでもよくなってきつつあった。
横に三つ並んだ黒のと金を見て、何か酸っぽいものが胃からこみ上げてきそうになる。
「アリスー、あれはー?」
「あれは、その……二人同時に○○○されて暗黒面に堕ちちゃったのよ」
妹様の疑問に半ば錯乱状態でそう答えるアリス。
レミィ……アリスに下品な言葉を使わせた罪は重いわよ……!
『パチェ? 顔が怖いよ?』
『あとで覚えておきなさいよレミィィィィィィ』
『?』
まあいい。
とりあえず今はゲームを終わらせることだけを考える。
と金化と駒の悪堕ちという謎現象によって戦況は完全にしっちゃかめっちゃかになってしまってはいるが、両軍の駒の数が目に見えて減ってきている以上ゲームはそろそろ後半に差しかかる。
熟練者たるアリスがこのゲームの趣旨を理解してくれているっぽいので、妹様だけを欺けさえすればそれで事足りる。
ならば適当にキングを差し出して詰めさせてゲームセットにしてしまえばいい。
『いい? もう勝手なことしないでよね』
『? わかったー』
わかってねー!
『まあいいわ……あ、レミィ。ポーンが1ランクに這入ったわ』
『ということはこれが本当の……?』
『そう。本当のプロモーションよ。ああ、成るのはと金じゃないからね? あと駒も裏返さなくていいから』
『そんなのいちいち言わなくたって……』
『どの口が言うか!』
『へいへい。ところでこいつはと金じゃないなら一体何に成るのさ?』
『クイーンよクイーン。基本的には、ね』
『クイーン……』
そう説明する。
『レミィ?』
レミィは酷く薄暗い表情―――悪魔らしい威厳に満ちた、しかしこの場では明らかそぐわない貌になっていた。
そして今しがたクイーンに成った元ポーンの駒を荒々しく鷲掴みしたかと思うと、
「平民が女王に成り上がろうなどとは片腹痛いわ!」
ぐしゃあ、とそれを吸血鬼特有の超人的握力を以て握り潰し、粉砕してしまった。
どういうことなの……。
「ちょっとレミィ、貴方何を……!?」
「うむ。女王に叛旗を翻した馬鹿に裁きを下した」
「馬鹿はお前だ! この蚊!」
もうテレパシーを使うのも忘れ、直にこのクソ野郎を罵倒する。
「アリスあれは一体何?」
「下克上を試みた者の末路よ……」
宝石のような碧眼からハイライトを消してわけのわからないことを言っているアリスが痛ましい。
精神ケアに時間がかかりそうだなこれは……。
ていうか頭痛い。
もうやだこのバカ蝙蝠。
ゲームが終わったら、アリスと二人で静かに紅魔館を出て行こう。
私はそう決意した。
『まあいいわ。とりあえずこのゲームをとっとと終わらせてしまいましょう。ほら、ナイト進めて』
再びテレパシーで。
これももう二度と使う機会はあるまい。
こんなブラック悪魔とは本日限りで契約破棄である。
アリスや聖白蓮が契約している最高位の悪魔、通称魔神が非常に羨ましくなってくるのも仕方のないことだろう。
『うん。お?』
『お? って貴方まさか……!』
『ナイトがプロモーションの条件を満たしたわ……』
『ちょっと! ナイトはそもそもプロモーションしな、』
「パチェ……ナイトがプロモーションを遂げたら何に成ると思う?」
私の思念波を横切るようにレミィが肉声を使い、無駄に格好付けた口調でそう言葉を紡いだ。
知るか!
そもそも成らないって言ってるでしょーが!
「ナイトは騎兵……つまりナイトがプロモーションすればそれは最強の騎兵になるのは自明の理!」
もう、ホント、勝手にして……。
「出でよ最強の騎兵―――呂布奉先よ!」
「――――――」
私は絶句した。
まさか、まさか―――レミィの頭がここまで無残なことになっているなんて……。
ふと安楽椅子のアリスを見ると、膝上の妹様にしきりに「呂布ってなにー?」と質問攻めにされて―――泣いていた。
いくらアリスでも流石にあれにはお手上げのようだった。
もう休みなさいアリス……貴方はよくやったわ。
もう全てがどうでもよくなってきた私だったが、それでも倒れる前にやっておかなければならないことがある。
「ククク、呂布は一騎当千のつわもの。このゲーム、私の勝ちのようだなパチェ」
「まだよ。私のターン! こちらもナイトをプロモーション! ジャンヌダルク召喚!」
……こいつ殺っちまおう(はぁと)。
×××
プロモーションによって歴史上の人物を召喚出来るルールが採用された悪魔のチェスの戦局は混迷を極めた。
悪魔式プロモーションルールでレミィが死者を一斉復活させる偉人を召喚したり私が大量のクリーチャーを呼び寄せる偉人を召喚したせいで(さらにそいつらがプロモーションして別の偉人になるのだから余計に滅茶苦茶である)8×8=64マスに駒が収まり切らなくなったせいで、神聖空間と暗黒空間とCH∀OS(レミィ命名)という新領域が設定された。
悪魔と魔女の魔力を長時間受け続けた駒は次第に妖怪化していった。
妖怪駒が意思を持ち始め勝手に動き回るようになったせいで、ターン制が消滅したりとかもあった。
私はなんだかんだでレミィのキングの打倒に成功したのだが「王が倒れても最後の一兵まで全力で戦わないのはおかしい」という彼女の物言いを受け、うっかりそれに納得してしまったものだからゲームの勝利条件すら失われた。
ぶっちゃけ、ジャンヌを召喚した時点で私はおかしくなっていたのだと思う。
なにか大切なものを失って―――しまっていたのだと思う。
妹様もアリスも疲れて眠ってしまったので、このゲームの目的も完全に消え失せている。
料理を作っていた咲夜はと言うと歴史上の人物、切り裂きジャックとしてレミィの配下に付いていた(ちなみに作ったディナーは時間を止めてあるのでいつでも出来立てが食べられるらしい。なんて便利なスキルなのよ)。
歴史上の戦士達が次々現れては消えていく光景は壮絶に凄絶と言う他なかった。
だが、それももう、終わりだ。
「お嬢様! しっかりしてください!」
「ぐ……」
「レミィ、私の勝ちよ。そっちにはもう咲夜―――ジャックしか残っていない。それに対して私の軍にはまだジャンヌダルク、ピサロ、聖徳太子、マンフレート・フォン・リヒトホーフェン、ラスプーチン他38体の英雄が残っているわ。トドメを刺すわレミィ……ジャンヌの攻撃!」
「ああ! 来い! パチェェェェェェ!」
「神の名の下に闇より生まれし悪しき者をここに封印せん! チェックメイトォォォ!」
ドカーン。
戦いは終わった。
デザート食べたい。
×××
……なんだかんだであれである。
悪夢のような悪魔とのチェスが決着した後私はレミィ、アリス、妹様、咲夜と五人で一緒に夕食を食べること相成った。
色んな意味で疲れた心身に咲夜の料理は筆舌に尽くし難いくらい、本当に、効く。
絶交(というか契約破棄というか)モノの大戦争が起こしたレミィとも、何事もなかったかのように談笑していた。
ひとたび酒席に入ればそれまでのことを綺麗さっぱり水に流してしまえるのは、幻想郷の 良い文化だと私は思う。
しかし大婆様の忠言はやはり聞いておくべきだったと言わざるを得ない。
「悪魔とゲームをするな、か……」
確かにもう二度とレミィとはゲームをやりたくない……けれど、私としてはむしろそれよりもチェス自体の方がトラウマに―――
「ふぅ、ご馳走様」
「ごちそうさまー」
「美味しかったわ咲夜、ご馳走様」
「お粗末様でした」
みんなが一斉に食べ終わったようだった。
私も遅れて咲夜にご馳走様と言うと、咲夜はにこりと笑い返してくる。
「さて、それでは私は片付けに入りますが。皆様方はどうか食後のゲームでもなさっていてください」
私達に向けてそう言う咲夜が手にしていたのは、
……こともあろうにチェス盤(しかも新品)だった。
…………。
いやいや。
いやいやいやいや。
なんでチェスで疲れた頭を癒すための料理作ってくるって言ってたやつが食後にチェスを勧めてくるのよ!
しかもあんな地獄のような対局(と果たして言えるのかどうかは定かではないが)のあとに!
「咲夜、やっぱり貴方ちょっと天然入ってるわ……」
「?」
なんて、頭にクエスチョンマークを浮かべるこの子は本当にアレだ。
しかし、なんていうか、その。
あれだ。
あれである。
あれなんだよ。
あれなんだってば!
「どうしたのよパチュリー? そんなそわそわして。とりあえず私ともう一戦やる?」
私から露骨に発せられる違和感を気取ったのか、アリスが心配げにこちらをうかがってくる。
「いえ、なんでもないわ」
「おかしなパチュリー。それで再戦、する?」
なんかアリスがえろい意味でそれを言ってるような錯覚がしたがそれは脇に置いておくとして、まあとりあえず。
少々古典的だがここはアレで〆ておくとしますか。
「もうチェスはこりごりだよ!」
紅魔館の大食堂から一目散に逃げていく私を、
シュルルルル……と円状の穴が空いた黒い窓枠が囲うのだった。
ほう…
次はパチュアリの馴れ初めが読みたいっす。
腹が捩れた。
おぜうさま可愛いよぱっちぇさん愛してる!
アリスのごまかしかたにも笑えて楽しかったです。
パチュリーいつか胃からミサイル製造されるんじゃねーかってくらい突っ込んでるんだけども。
漫画家とか誰かに頼めば面白いなんかが出来上がるんでないでしょうかww
だめだwwコメントもまともに書けないくらいまだ思い出し笑いが酷いwww
成金までは予想していましたが、悪堕ちにプチ聖杯戦争ときた日にはもーなにがなんだかw
美鈴は一日平和だったんだろうなぁ
空気を読んで犠牲になったアリスも、途中で人格崩壊してしまったパチェも、健気にルールの説明を求めるフランも、瀟洒だけど天然な咲夜も、そして頭がどうしようもないレミィも全員がいいキャラでした。
中盤からもう笑いが止まりませんでした。そして頑張れパチュリー。
ノリノリで指揮をするおぜうと、ヤケクソに指示を飛ばすパッチェさん想像したらワロタwww
だが聖徳太子、テメーは駄目だ。
「悪魔とゲームしちゃだめよ」
という台詞に、めちゃくちゃドキドキしながら読み進めていたら
このざまである。ちくしょう爆笑した。
主にパチェの「ほぎゃー!」と「フーリガンかお前は!」と「泣き喚け!」と「アリス貴方なんて出来る子なの!」に。
「妹様は~私の方を睨みつけてきている。」
だったのに、ぱっちぇさんが激昂して
「馬鹿はお前だ!この蚊!」
とレミリアに言ってもスルーだったフランにちょっと違和感。
これは盛大に笑えたから、細かいことはうだうだ言わずに100点だべ