- この作品は、作品集142「机上論理の楽しみ方」の続きとなっておりますが、
そちらを読んでいなくともほとんど問題ありません。
- この作品はミステリーですが、人が死んだりは(一応)しませんので、
そういった話が苦手な方も安心してご覧ください。
序
――午前零時、紅魔館中央棟。
誰もいない廊下を進みながら、私は一人、感慨想いにとらわれていた。
この屋敷では日に三回、定時のティータイムがある。夕方六時のアフタヌーンティー、朝四時のナイト・ティー、そして零時のミッディ・ティーブレイク。おそらく、もう始まっていることだろう。
憩いの時間。しかし、近頃はまったく参加できなかった。それどころではなかったから、と言うべきだろうか。どうしても優先させなければならない用件があり、しばらくの間自室にこもっていた。それがレミィに頼まれたこととあっては尚更だ。
だが……それも今日、ようやく終えた。これで晴れて、私もお茶会に参席できる。
今回の用件。正直、最初は乗り気ではなかった。レミィの頼みに従った形で渋々始めたのだが、最終的に満足のいく出来に仕上がったと思う。これならば、きっとレミィも満足してくれるはず。
テラスへの戸を開け放つ。
「……あら? パチュリー様」
月夜の下。こちらに気づいた人影の一つが近寄ってくる。メイドの十六夜咲夜だった。
「来られたのですか。言ってくだされば、付き添い致しましたのに」
「結構よ。病人じゃあるまいし」
庭先に通じるガーデンテラス。一面が月明かりに晒され、オペラのステージのような荘厳さで満ちていた。
その中心で、カチャリ。わずかに食器の触れ合う音が発せられる。
「おや、珍しいわね」
声の主は椅子ごと背を向けていたが、それが誰かは考えるまでもなかった。その背もたれの両側からは、禍々しい魔族の翼が生えていた。
レミリア・スカーレット。彼女は振り向きもせずに告げる。
「本当、珍しい。四日ぶりぐらいかしら。あんまり最近顔を見せないから、あなたに嫌われちゃったのかと思ったわ」
「私がレミィの事を嫌いになるわけがないでしょう」
彼女の冗談がいちいち危なっかしいということは、長年の付き合いからわかっている。さして気にするでもなく、対面に座る。
「まあ、それもそうよね」
手応えの無さに呆れたように、レミィは軽く肩をすくめる。これもいつものことだった。
「で、久しぶりに顔を見せたのは、休憩のつもり? それとも、いよいよお茶が恋しくなった?」
「報告に来たのよ。お茶はそのついで」
報告。その一言で感づいたらしい。頬杖をついていたレミィの目に、好奇の光が宿った。
「完成したのかしら? 〝脚本〟が」
「ええ」
「……そう」
楽しみにしていたわりには、意外とそっけない反応。でも、その内心が興奮を隠し切れないぐらい昂ぶっているのはすぐわかった。なにせ頬杖の手で押さえた口許の下には、抑えきれない無邪気な笑みが浮かんでいたから。
「それで? そいつはすぐに使えるの?」
「舞台はこの屋敷なのだし、必要なものさえ揃えば明日にでも大丈夫よ。ただ……」
「ただ?」
「問題はゲストね。あとはそいつの予定次第なんじゃないかしら」
「なんだそんなこと。そんなの、問題でもなんでもないわ。どんな予定があろうと、こちらを優先させればいい。言うことに従わないのなら、従わざるを得なくすればいいだけのこと。咲夜」
咲夜は私の側でカップに紅茶を注いでいた。「はい?」と主人に目線を配る。
「筆と便箋の用意を。私が直々に考えてやるわ。招待状の文面をね」
「かしこまりましたわ」
メイドとして有能な咲夜は、すぐさま身を翻す。見た目以上に歩くのが早いのか、たちまち屋内の闇に消えていった。
「そっかそっか……くっく。完成したのねぇ。さすがパチェね。二週間はかかると思ってたことを、数日で仕上げるなんて。さすが、プロは違うわね」
別に、プロではないのだけれど……。
まあ、こんな楽しそうなレミィもめったに無いし、余計な事は言わないでおく。
「それで……レミィ。『ゲスト』は誰にするの?」
脚本を書くにあたり、レミィには配役に『ゲスト』の枠を用意しろと言われていた。でも、それにあたる人物が誰かは聞いていない。というより、こちらから尋ねてもいないのだが。
しかしその人物によっては、脚本の変更も……まあ、ひょっとしたら無くは無い。それぐらい重要で、今回の要となるべきポジション……。
さて、その貧乏くじを引かされるのは――
「決まってるわ。あいつよ、アリス・マーガトロイド」
アリス……あの人形遣いか。役者としては、いささか物足りないけど……。
まあいい。いずれにせよ、明日。
彼女は悪いが、おおいに踊ってもらうとしよう。
私の描いたこの謎……とびきりの受難のステージで。
1
…………。
目の前のそれが山みたいに机を埋め尽くした辺りから、私、アリス・マーガトロイドは、そこから目を逸らしたくて逸らしたくてしかたがなかった。
山……そう、本の山だわ。
どうしてあんな小さなショルダーバッグから、こんな山のような量の本が出てくるのやら。あのショルダーバッグの口は、異次元に繋がっているとでもいうのかしら。
「ええと、『赤い拇指紋』に、『オシリスの眼』だろ? フリーマンの作品はこんなところか。一応この辺は押さえとかないとな。ほとんど英語のやつだが、まあお前なら邦訳しなくても読めるだろ。次だが、実はわたしはクリスティーよりこっちのヴァン・ダインの方が……」
で、その山をさっきから嬉々としてこさえているのが、こいつ。霧雨魔理沙。さっきから懐のバッグから小説を取り出しては積み、取り出しては積みを繰り返し、目の前に盛り重ねている。
ご覧の通り、こちらがこれだけ渋い顔をしていても、自分に都合の悪い景色は視界にすらいれようとしない……。極めて自己中心的なヤツだ。
「……その、魔理沙?」
「あ~そうだそうだ、バークリーの毒チョコも必読の一冊だな。で、いよいよ本格なんだが……いやぁ、だがいかんせん、この辺は言わずと知れた名作ばっかだからなぁ」
「ねえ」
「やっぱりクイーンかな。いやもちろん、いち読者のわたしが序列をつけるのもおこがましいんだが、一番はやっぱりこのYの悲劇ってやつで――」
「魔理沙ってばっ」
ぴたり、ようやくバッグをまさぐる動きを止める。
「あん? なんだよアリス」
大きな黒目がこちらを向いた。でもどうやらその視線は、せっかくの上機嫌に水を差してくれたみたいに咎めていた。
「いや、なんだというか……その、まだ終わらないの?」
「まだ? むしろ、ここからが本番なんだがな。ようやくこれから、黄金時代の作品を紹介しようってとこじゃないか。ホームズのシリーズだってまだ出してないんだぜ。ええと、ほら、これこれ。これがかの有名な『緋色の研究』。なんと初版だぞ。だから絶対傷とか折り目はつけるなよ。それから――」
魔理沙はまたしても作業を再開する。いつ全ての本を出し尽くすのか……この分だと、積み上げすぎて天井を突き破りそうな勢いだった。
はあ。まったく、なんでこんなことに……。
いや、まあ……考えるまでもない、か。原因は私にある。
普段、小説はあまり読まない私が、近頃よく手にとるようになった要因。それは魔理沙が私の家に置いていった、一冊の推理小説を読んでからだ。
推理小説なんて大昔に流行った頃に読んでいたくらいで、目を通すのすら久しぶりだった。でも何気なくそれを手にとって読んでみると、これがまた、面白い。時間を忘れて夢中になってしまい、おかげでその日あったはずの魔理沙との約束まですっぽかしてしまった。それがつい先日のこと。ともかくそれがきっかけで、私も少しだけ、ミステリーに興味を持ち始めた。
大昔読んだ書籍は大概売り払ったから、手元には一切無い。里に行けば本屋があるけど、一口にミステリーと言ってもかなりの種類があって、どれを読めばいいかわからない。
そこでつい昨日、魔理沙に会いに行った。そして軽い気持ちで、こんな会話をしてしまったのだ。
『ねえ、魔理沙。お願いがあるんだけど』
『ん? なんだ、お前から頼みなんて珍しいな』
『あなたの家、ずいぶんたくさん推理小説があったわよね』
『ああ、まあ。たくさんってほどでもないけどな』
『なら……そのう、また貸してくれない?』
『なに?』
『ああいや、できればでいいんだけどね。あの、なんていうか、一冊でいいから、また読んでみたいなって。だから、何かおすすめを……』
もともと、魔理沙に頼みごとはされても、私の方からなんてことはめったに無い。必要性が無いのを別にしても、こいつに借りを作るのは、なんとなく癪だったからだ。そんな私が、本を貸してなんて自分から言い出したのは……今にして思えば、魔が差したとしか思えない。
そして、次の日の今日。私は、ガラガラと鳴る玄関のベルで目を覚ました。あんまり節操無く鳴っているものだから季節性の台風でもやってきたのかと思ったけど、ただの魔理沙だった。まあ迷惑の度合いで言えば、魔理沙も台風も似たようなものなんだけど。
『よっ。持ってきてやったぜ』
一瞬何のことかと思ったけれど、昨日頼んだ件だということはすぐに察しがついた。いつもならこんな早朝の無礼な訪問は、爆発する人形でも放って追い返すところだ。でもこちらのために来てくれたというなら、無下に帰すわけにもいかない。渋々中へ入れてやった――もっとも、この時点で魔理沙のバッグがやたらパンパンに膨れていたのは気づいていたから、嫌な予感はしてたんだけど。
いつものリビングに通し、私は魔理沙を置いて紅茶を沸かしに行った。そして戻ってきた時には、すでに山ができていた。魔理沙はバッグから次々とお気に入りの推理小説を取り出し、テーブルに積んでいた――おかげでせっかく用意したティーセットは、テーブルに載りきらなくてじかに床に置く羽目になった。
そして、今に至る。魔理沙は尚も上機嫌に、見せびらかすように本を見せつけてくる。
「――と、このぐらいかな。実はホームズ作品には、意外と長編は少なくてなぁ。全六十編のうち、五十六が短編なんだ。それは当時のミステリー界の時代に関係しているんだが。まあともかく、ホームズの前にホームズなく、ホームズの後にホームズなしなんて言われる名探偵だな。世に出て百年経った今でも、これほど世界中の読者に愛され続ける作品ってのは、他にはなかなか無いだろう」
「……あのね、魔理沙」
「ああ、なんだね。アリス君」
……気取ったような口調は、どうやらそのホームズの真似らしい。私はどっと溜め息をついた。
「私、一冊でいいって言わなかったっけ?」
「言ってたね」
「なら、この山はなんなのよ」
「山というか、ピラミッドだな」
「一緒でしょうがっ」
思わずつっこんでしまったのだけれど……。多少大きな声を出したところで、今の魔理沙の上機嫌はびくともしなかった。
「一冊でいいってことは、それ以上なら尚いいってことだろ? なら、多ければ多くて損は無い。そういう意味だと思うんだがな、日本語的には」
「日本語的にはよくても、常識的に間違ってるのよ。こんな量の本、読みきれるわけないでしょ。常識的に考えて」
「わたしは一ヶ月もあれば充分だけどな」
……そういえばこいつは、骨の髄からのミステリマニアなんだった。もともとこいつに頼んだのも、それを知ってのことだったのだ。
「あなたと一緒にしないでほしいわね。私がミステリは初心者だって知ってるくせに。だから何か一つ、面白いやつを貸してくれればそれでよかったのよ」
「そいつは無理な相談だな。ここにある作品は、そのどれもがミステリの歴史を代表する、妥協なき名作だ。この中から一つだけを選ぶなんて、わたしには恐れ多くてできないぜ。はっはっは~」
だからこんだけ持ってきたっていうの、こいつは……。
「なら、私が選ぶわよ。自分で」
勝手に手を伸ばした瞬間。魔理沙は上機嫌にヒビでもはいったみたいに、ヴぇと眉をひそめた。
「おいおい、よせって。ミステリの道に入るにも、まず順序ってのがあるんだよ。間違うと魅力が半減する。まず王道から入って、本格、倒叙、それから……」
「どれも面白いんでしょ。なら大して変わんないわよ」
「変わんないって、お前なぁ。……ああもう、迂闊な手つきで触るなっ。貴重なのもあるんだから、大事に扱えよ」
「は? 貴重もなにも、どうせ全部紅魔館から盗んだやつでしょ。私知ってるんだからね」
私が知ってる、というよりは、周知の事実なのだけれど――なにせ新聞にも載ってるし。
妖怪の山の麓、霧深い湖上に、吸血鬼が支配する居城がある。名を紅魔館。その地下には壁一面が本棚の、大きな図書館が存在する。
魔理沙の家には相当数の本があるけど、そのほとんどが紅魔館から盗んだものらしい。噂では数百、いや、数千に及ぶとか及ばないとか。
「全部とは、人聞きが悪いな。ほんのちょっとだってのに。現にここにある分はな」
「よくそんな嘘吐けるものだわ。あなたの口は嘘製造機ね。霧雨社製」
「ひとの口に勝手に商標つけるな。嘘なんかじゃないっての」
ひょいと山から一冊摘み上げる魔理沙。表紙を一ページだけ開くと、それをこちら側に示す。
「ほら、ここ見な」
「何これ?」
魔理沙の人差し指は、紫の判子で押された、なにかのマークを指していた。一見して、左上が大きく欠けた三日月だとわかる。そして欠けた部分に、大小の星がひとつずつ並んでいた。まるで子供の絵本の背景に置いてありそうなお月様だ。
「何これって、見てわからんか?」
「月に星のハンコ……って、馬鹿にしてる?」
「まあしてようがしてまいが、わたしの言いたいのはそういうことじゃない。こいつは紅魔館の蔵書印だ」
ふん、なるほどね。あの図書館のってことか。
蔵書印というのは、所有者が本に自分のものだということを示す印のことだ。ほとんどの場合印鑑で烙印されるけど、そのデザインは押す人によっていろいろ。普通の認め印のように、文字だけなのが一般的だけど、こうして絵や図形であしらうこともある。
紅魔館は主人のレミリアのものだけど、大図書館はパチュリーという魔女が管轄している。おそらくはこのコケティッシュなスタンプも、彼女の趣味なんだろう。
「……ん? 待って。じゃあやっぱり、盗んできたってことじゃないの」
「ま、この本はな。だが、こっちのやつには無いだろ? 実際、この山の中に、紅魔館のやつはわずかだ。なんなら、他の本も全部確かめてみるといい」
「いやまあ、そこまでするつもりはないけど」
「だいたい、あそこのはラテン語とかわけわからん言語の本が多いんだよな。もっと日本語とか英語あたりの、わかりやすい言葉じゃないと盗んだ後で困るぜ」
やれやれ、と慨嘆する魔理沙。そりゃまあ、向こうだってこいつから盗まれるために本を置いているわけじゃないんだし。まったくもって、お門違いの愚痴にしか聞こえなかった。
気乗りはしないけど、改めて適当に手に取ってみる。
こんな量、私じゃなくても普通の人なら耐えられるわけがない。徹夜を繰り返したとしても、読みきるのに半年で足りるかどうか。
正直、私にとっちゃ一冊で充分なのに……。
むしろこれだけたくさん並べられると、余計に読む気が失せてくる。というか、現にもう失せてしまった。小腹が空いた時に、山ほどの料理を見せられるとかえって食べる気が無くなるような、あんな感じかもしれない。
……あれ? ちょっと待って。
まさかこれ、全部読まなきゃいけないとか?
……あり得る。頑固なこいつのことだからこっちがどれだけ拒否しても、持って帰るのが面倒だとか文句垂れて、私が読むまでそのままにしておくに違いない。
こんな、天井まで届く量……冗談じゃないわ。
なんとかうまいこと丸め込んで、この山を片付けさせることはできないかしら。
…………。
ん?
これって……。
…………。
うふふ、いい事を思いついたわ。
その本を手に取り、私は尋ねた。
「ねえ、これなんてどう?」
「ん?」
見るなり、魔理沙は眉をひそめる。
それもそのはず。私が魔理沙に見せた本、そのタイトルは『完全犯罪大百科・上/エラリィ・クイーン編』。
「うん、これがいいわね。この本にするわ」
「この本って、お前……。こいつは上下巻だぞ?」
もちろん、それぐらいわかる。上、と書いてあるのだから。むしろ、知っててこの文庫本を選んだ。
私がこれにすると言ったのは、この本の名前に聞き覚えがあったわけでも、ましてや者名に惹かれたわけでもない。でも、今ざっと目の前の本を漁ってみた限り、気づいてしまった。この完全犯罪大百科なる本、どうやらここには〝上巻しか無い〟ということに。
「えー、上下巻? まさか、上下セットなのに上巻を持ってきてないとか?」
「しかたないだろ。里の古本屋で見つけた時は、上巻しか置いてなかったんだよ」
ふふふ、やっぱりね。そんなとこだろうと思ったわ。
私はここぞとばかりに、わざとらしく声色をひねってやった。
「あー、そうなの? あらー、残念ねー。せっかく読みたい本が見つかったのに、上巻しかないんじゃねー。ほんと、残念だわー」
魔理沙は、ムッとして答える。
「じゃあ別のやつにすりゃいいだろ」
「嫌よ。もう第一印象で決めちゃったんだから。この本以外に、当面ミステリは読みたくないわね」
「いや、というかこれ短編集だから、別に上巻だけでも問題無いんだよ。だからわたしも下巻無いのを承知でこれを持ってきたわけで――」
「あー、残念だわー。私、本は上下ちゃんと揃ってないと読む気がおきないタイプなのよねー。ほんと、残念残念」
残念のところが、よかったよかったと聞こえるように言ってやった。ぐぬぬと黙り込む魔理沙。
いやぁ、なんにせよ、よかったよかった。我ながら無理のある屁理屈だけど、このままいけばなんとか、この本の山を全部読まずに済みそう……。
自分から本を貸してって言っておいて、それを全部突っぱね返すなんて。我ながら自分勝手だと、まあ多少は罪悪感が生まれなくもないけど……。でも、程度を知らない魔理沙が悪いのだ。私がミステリ初心者であることは知ってるはずなのに、こいつはその辺をまったく考慮してくれない。自分の好きな本をしこたま持ってきただけだ。
「と、いうわけだから。悪いわねぇ。せっかく朝早く持ってきてもらったのに。ま、気が向いたらまた貸してくれればいいわ」
「……お前って、自分が優位だとみるとすぐ偉そうになるよな」
「知ったこっちゃないわね。だいたい、常識的に考えてこんな量、誰が読みたがるもんですか。ほら、とっととこの山バッグに戻して。でもって、とっとと帰って」
勝手に片付けにかかってやると、慌てたように魔理沙は立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待てよ。あっ、こら。貴重なのもあるんだから、もっと大事に扱えって」
「ならあなたの手を動かすことね。いい? 私がお茶片付けてる間に、とっととこの山、視界から消しといて。ああ、ついでにあなたも消えてくれると助かるわ」
「……おいっ」
ティーセットを戻しに行こうとノブに手をかけたところで、呼び止められた。私は首だけ振り返る。
「まだ何か?」
「お前、上下巻揃ってないと読む気がおきないってことは、揃いさえすれば読む気になるってことか?」
私はちょっと考えて、「まあ、そうね」
「ちゃんと読むってことだよな? ここにあるやつ、全部」
なんだか顔が真剣だ。よっぽど私にミステリを読ませたいらしい。
まあ、全部なんてことは一言も言ってないのだけど……。でも、ここはあえて頷いた。
「まあね」
「二言は無いんだな?」
「無いわよ、そんなの。男じゃなくてもね」
ふふん。そんな念を押されても、怖くもなんともないんだから。知ってるのよ、私だって。
絶版になっている本は普通、後のものであるほど、入手できる難度は高い。例えば、上巻だけ買って下巻を買いそびれる人がいるとする。でも、その逆で下巻を買って上巻を買わないなんて奴はいない。だから基本的に、下巻は上巻よりも出回る数自体が少ない。自然、手に入りにくくなるというわけ。
魔理沙はさっき、この本は里の古本屋で見つけたと言っていた。そして、その時は上巻しか無かった、と。
古本屋である以上、商品の入荷は売りにくる客次第。基本的に未定だ。当然、これから魔理沙が買いに行ったとしても、偶然下巻が置いてあるなんて可能性は極めて低い。ましてやここは幻想郷、外の世界の書籍がそうそう輸入されることはない。そして里には、古本屋はもちろん、本屋と名のつく店はその一件だけなのだ。
あとたくさん本がありそうなのは、魔理沙の家を除けば紅魔館の大図書館ぐらいだけど。あそこは最近、増えてきた泥棒への対策強化月間ということで、かなり警備が強化されていると聞いている――まあ、私のせいなんだけど――。素直に本を貸してくれなんて言っても、すでに何度もあそこに泥棒として出入りしている魔理沙は門前払いをくらうのが落ちだ。で、盗むこともできないとなれば、もうこいつに新しく本を入手する方法なんて無い。つまりはそういうわけ。
現に魔理沙は、表情に余裕が無い。すぐに都合をつけれる余裕なんて、どこにも見えない。
ふふん、さすがは私。とっさにここまで頭が回るなんて。ミステリには不慣れでも、頭の切れは衰えていない。ましてやこいつに負けるなんて、あり得ないんだから。うふふ。
「ま、今日のところは素直に尻尾を巻いて帰ることね」
「どうしてそんなもん巻かなきゃならないんだよ。というか、なんでわたしが負けたみたいになってんだ」
「実質そんなもんだから一緒よ。そうね、あんまり時間を与えても割りに合わないし、三日以内かしら。期限としては。それまで、この下巻を持ってきたら考えてあげるわ」
「たった三日だって? ぬぬぬ……」
「とにかく、あなたが帰ったら、私は二度寝するから……ふぁ~あ」
欠伸をかみ殺す。いきなりこいつに叩き起こされたせいで、正直まだ眠い。
とっととこの馬鹿を追い返して、とっとと寝巻きに着替えて、とっととベッドに……と思っていた矢先、ガンガラガン、またしても玄関のベルが平穏を打ち砕く。
……ったく、今度は誰よ。こんな朝早くに、魔理沙以外の来客なんて。
「ちょっと見てくるから、あなたはちゃんと帰り支度しとくのよ。いいわね?」
「お茶請けも食べずに帰るのもな~」
「い・い・わ・ね?」
へいへい。魔理沙はぶつくさこぼしながら、手首をひらつかせた。
*
にしても……ガンガラガンガラうるさいわね。
ベルの鐘は、断続的に鳴り続いている。こんな朝っぱらに、真夏の日差しみたいに遠慮の無い音量。あんなもの、一回揺らせば充分なのに。よっぽど節操の無い客らしい。とにかく魔理沙に続いて、またしても面倒な相手なのは確かみたいだった。
「はいはい。どちら様?」
「どーもー! 郵便でーす」
玄関のドアを開くなり、甲高い第一声が炸裂した。
み、耳が……。
「あれ~? ちょっとアリスさん。固まっちゃって、どうしたんですかー? 郵便ですよぉ~」
元凶は顔を近づけ、その合間で手の平をひらひらさせてきた。
「ああもうっ、聞こえてるわよ。うっとうしい」
烏天狗の、射命丸文。いきなり私の鼓膜をやってくれた迷惑者の顔を、腕を振って追い払う。
文は何が悪いのかと言いたげに小首をひねった。
「あらあら。大声出して、ご挨拶ですねぇ。さては寝起きでしたか? いやいや、低血圧な妖怪は大変です」
馬鹿みたいな大声で挨拶したのはどっちなんだか……。ああ、その相変わらずの営業スマイルに、例の爆弾人形を炸裂させてやりたい……。
文は、自ら看板を掲げる文々。新聞の記者だ。道理を貫くのが新聞記者のはずなのだけど、この天狗、この朝っぱらからの突撃訪問といい、およそまともな感覚を持ち合わせていない。 一人勝手に突っ走っては、辺りにありったけ砂埃を巻き上げていく。風を使う能力のくせに、ちっとも空気が読めない。はた迷惑な妖怪ばかりの幻想郷の中でも、トップクラスに面倒な奴なのだ。
そんな奴の書く記事なのだから、虚偽や讒言は当たり前。もちろん内容は新聞が聞いて呆れるろくでもなさで、さらに本人はそれを逆にすばらしいと勘違いしているのだから手の施しようがなかった。
「何の用よ。新聞なら間に合ってるわ」
「楽しみにしていただいているところ申し訳ないですが、今日の用件は新聞じゃないんです。耳寄りな情報をお届けに参りました」
こんな糞へんぴな幻想郷で、耳寄りもへったくれもあるものか。内心罵り返しながら、イライラ苦虫を潰す。
「だいたい、あなたは新聞記者でしょうが。なんで郵便なのよ」
「お届け物を頼まれたんですよ。火急ということでしてね。そこで幻想郷最速の私が、大任を授かったというわけです。そんなわけで、期待させて申し訳ありませんが、本日は新聞はありません。あしからず」
……ちなみに、こいつの新聞を心待ちにしたことなんて一度も無い。とはいえいちいち否定するのも面倒なので、とっとと本題を喋らせることにする。
「届け物ですって? どこから?」
「地獄の底から、ですかね。あえていうなら」
「……あなたも上機嫌なのね。気取った冗談はいいから、とっとと誰から何を預かってるか話しなさい」
「あながち冗談でもないんですけどね。届け物とはこれです」
これ、といきなり差し出されたそれとは……。……ん? 封筒?
形はどこからどう見ても普通の封筒だった。それなのにどうも眉をひそめてしまうのは、それが血で漬けられたみたいに真っ赤だったからだ。
時代遅れの赤紙か、一足早いクリスマスカードか。いずれにせよ、そんなものを送りつける輩がまともなはずがない。
考えられるのは……。
真っ赤――英訳してスカーレット。そう思いが及んだ次の瞬間には、すでに嫌な予感しかしていなかった。
「ね? ね? どこからどう見ても耳寄りでしょう。外に宛名は無いですが、開けてみればわかりますよ」
いや、もう想像ついてるけど……。
ああ~、なんだろう。わからないけど、凄く嫌な予感がする。
とはいえ、ここまできて知らないフリもできないし。仕方ない、見るだけ見てみますか……。
『謹啓、アリス・マーガトロイド様。
先日はお世話になりました。
つきましては本日、紅魔館にて、ぜひお礼をさせていただきたく存じます。
ささやかな催し物を用意してございますので、本日二十時、お一人でいらしてください。
是非、参加のほどをお願いいたします。
ご来駕をお待ちしております。
レミリア・スカーレット』
…………。
なるほど、催し物。
「って、何?」
ひょい、と文は肩をすくめた。
「いやぁ。まあ、いきなり訊かれても意味がわかりませんけどね」
「まあ、それはそうよね」
落ち着こう。一つ、深呼吸。それからもう一度、文面を睨みつけてみる。
なるほど確かにこれだけ見ると、ただのパーティーか何かの招待状に見える。もとい、見えなくもない。
だけど……あのレミリアが? 私を? 招待ですって?
…………。
怪しい。怪しすぎる。
「ねえ」
「はい?」
「あなた、何か聞いてない?」
はて、と文はわざとらしく首を傾げる。
「何か……ですか。なるほど。で、何です、それは?」
「いや、私が訊いてるんだけど……」
ああもういいや。こんな奴に頼っても仕方ない。冷静になって、自分の頭で考えなきゃ。
この文章……一見すると変哲も無いけど、よもやいつぞやのように暗号、ということはないと思う。そうでなくとも、そこかしこに悪意が垣間見える。
そもそも、私とレミリアは今、ちょっとしたごたごた状態にある。それはひとえに、先日の一件が原因だ。
最近私には、ちょっとばかり欲しい紅茶の茶葉の銘柄があった。それがだんだん気になって、そのうち気になって気になって、夜も眠れないぐらい気になるようになった。物欲というものは時に恋わずらいより厄介なもので、解消されるまでは悶々とした想いは止まらないのだ。
なんとしても手に入れたくなった私は、ついに紅魔館に盗みに入ってしまった。泥棒なんて、魔理沙の専売特許みたいで品が無いと思ったけれど……。それでも、あの茶葉はお店には売ってない品だし、確かだったのは、紅魔館で最近入荷したって情報だけ。だからあれを手に入れるには、忍び込むしか方法は無かった。
こっそり入って、こっそり持ってこれればそれでよかったんだろうけど。そうそううまく事が運ばないのが、世間の世知辛さというもの。幻想が現実足り得るこの幻想郷でも、それは変わらない。魔理沙みたいに不法侵入の勝手に慣れてない私は、お茶っ葉を見つけてすぐに、メイドに見つかってしまった。有無を言わさず襲い掛かられたので、こちらも応戦せざるを得なかった。メイドを返り討ちにして、命からがら、紅魔館から逃げ帰ることができた。
でも、問題だったのはその後だった。一日経ってから気づいたのだけれど、どうやら私はメイドとの戦闘のどさくさで、大事な大事な上海人形を落っことしてきてしまっていた。あの人形は私が三日三晩、丹精・精魂こめこめで作った、ワンオフの特別製。なんとしても、取り戻さなきゃならなかった。
どう再度侵入するか考えあぐねていたところ、敵に先手を打たれた。後日、文の新聞を通して、レミリアからメッセージが届いたのだ。盗んだ私にしかわからないように暗号ぽい細工がされていたけど、間違いなく私宛のものだった。内容は以下。落としていった人形を返してほしければ、今日中に紅魔館に来い。とどのつまり、ただの脅迫だった。
上海人形を壊されるのだけは惜しかった私は、指定された時刻に、正門から堂々と乗り込んだ。当然ながら、館の住民総出で熱烈な歓迎を受けた。総攻撃の弾幕をひょいひょい避けつつ、ついには最後に待ち受けていたレミリアともやり合った。相当頭にきていたみたいだったけど、本気のレミリアにいちいち付き合うのもバカバカしい。命がいくつあっても足りないので、適当なところで隙を見て、人形だけ奪って逃げてきた。
と……それが、つい二週間ぐらい前の話。あれから紅魔館には近づいてないし、ましてやレミリアとは顔を合わせてすらいない――というか、他にもいろいろあったせいですっかり忘れていたんだけど。
その矢先に、この手紙というわけだ。
この出だし。『先日はお世話になりました』。どう考えても、あの件の事を言っている。ここまで書かれて、裏が無いわけがない。なんなら全財産賭けてもいいぐらいだった。
ハァ、と嘆息してしまう。
ご来駕をお待ちしてます、か。気が進まないわね……。
「内容、ご理解いただけました?」
こちらの気だるさに反比例して、文の営業スマイルはキラキラと鬱陶しさを増していた。
「……まあね。一応」
「なら結構です。本日、ちゃんと来てくださいますね?」
「来ていただく? 冗談でしょ」
ヘッ、とあさってに吐き捨ててやった。
「なんでわざわざ、こんな危なげな呼び出しに応じなきゃならないの。面倒だし、第一そんなに暇じゃないしね。というかあなた、そんなこと訊くってことは、やっぱり内容知ってたんじゃない」
「知らないなんて言ったつもりはないですけどね」
文は悪びれもせず、もう一発肩をすくめる。
「レミリアさんに言われたんですよ。ちゃんとあなたを連れてくるように、と」
「天狗はいつから吸血鬼の手先に成り下がったのかしらね。嘆かわしいわ」
「ちゃんとこちらにもメリットがあるということで協力してるだけですよ。なんなら死体にして連れてきても構わないということでしたが」
「結局脅迫。やっぱりレミリアと同じね」
「生憎ですが、あなたがそんなふうに捻くれて渋るのも、レミリアさんの想定の内みたいでしてね。その手紙の裏、ちゃんと読んだ方がいいですよ」
……裏ですって?
『追伸
催し物の後に、お借りしている物を返上いたします。
どうぞよろしくお願いいたします』
……お借りしている物。
はて、と首を傾げてみる。レミリアに貸してる物なんて、何かあったっけ。
いやいや、考えるまでもない。もともと友達でもなんでもないし。
と、いうことは……。
…………。
サァ、と血の気がひくように、背筋の温度が下がっていく。
まさかっ!
思い当たったと同時に、私は廊下に飛ぶように戻っていた。そのまま一直線で、さっきのリビングへ引き返す。
ほとんどタックルする勢いでドアを開け放つ。魔理沙が唖然と振り返った。
「お、おおう。アリスじゃないか。ごきげんよう」
こいつは確か、本を片付けているはずでは……。それがなぜかフォークを片手に持ち、キッチンに保存しているはずのクリームチーズバナナシフォンケーキを勝手に食べていた。いつもなら自慢のブーツで足首を蹴り飛ばしていたところだけど、今はこいつに構っている暇は無い。
このリビングは茶室であると同時に、大小様々な人形が壁一面に飾られてある。私は小さい人形には目もくれず、引っ掻き回すように貴重な人形の姿を探した。探したのだけれど……。
な……無い。
っていうか、足りない!
確認できるのは……上海人形に、オルレアン人形。仏蘭西人形に倫敦人形……。
……間違いない。一体だけ足りない。一番大事な、私の『蓬莱人形』……。
「あ、あのー。アリス……さん?」
いつも持ち歩かない時はここに置いてるのに。
ここに無いってことは、やっぱり……。
「おーい」
……盗まれたんだわ! あいつ、レミリアに。
反射的に、窓の方を見る。両開きのガラス戸の接合部、本来外敵の侵入を防ぐためのちょうつがいがある。それがあろうことか、ネジが外れてプラプラになっていた。
やっぱり……。
「なんだ、いよいよ耳が遠くなったか? ひょっとして更年期障――」
「違うわよっ!」
声の塊をぶつけてやると、魔理沙はひょっこら肩をすくめた。
「しっかり聞こえてるんじゃないか」
ああ、しまったわ。ついいつもの癖でつっこみを……。
魔理沙なんかに構ってられない。もう無視して、また玄関へとダッシュで戻る。
……ああもう、なんてこと。上海人形に続き、蓬莱人形まで。蓬莱人形は、私が人形を創り始めた頃から試作に試作を加えた一番の愛用品。愛すべき娘も同然なのに。
きっと前回の件で、レミリアは相当頭にきている。こっちに泥棒をやり返すなんて、直接的な手段をとってきたのがいい証拠だ。ああ、こんなことなら、防犯ぐらいもっときっちりしておくんだった。もう遅いけど。
「新聞屋っ」
扉を開けるなり、呼んでやった。文は例のスマイルのまま、律儀に石畳の玄関に突っ立って待っていた。
「あらあら、なにやらお一人で騒がしいですね。ひょっとして、前夜祭のつもりですか? それとも一人でリハーサル? いずれにせよ、賑やかで何よりですね」
「ここに書いてあることは本当なの? 催し物が終わったら、その……モノは返してくれるって」
「それをただの伝言人である私に訊くのはお門違い……と言いたいところですが、そこは本当らしいですよ。だから是非に、とのことです」
「嘘くさいわね……」
「嘘くさくても、私はそうとしか言えませんからね。信じる信じないは自由です。もっとも私としては、信じていただきたいところですが。そうでないと話が進みませんしね」
「どうせ行かなきゃ手に入らないんだから信じるしかないわ。参加してあげるわよ」
「さすがっ、アリスさん! 聡明、冠絶、おまけに美人っ。それでこそ七色の魔法使いですねぇ~」
わざとらしく拍手しよってからに。ああ鬱陶しい。
「もう一つ。この催し物っていうのは何? 具体的に何をするの?」
「あれ、そこに書いてないんですか? レミリアさんもよくわからない方ですねぇ。肝心なことを伏せるなんて。まあ、あの人らしいといえばらしいかもですが」
「いいから早く答えて」
にやにや、なんだか文はにやついている。含みのある笑いだった。
「まあ、教えちゃいけないなんてことは言われてませんしねぇ。いいでしょう。催し物とは、言うなら〝食事会〟です」
「……食事会? なによそれ。まさか、みんなで仲良くご飯を一緒にしましょうって?」
「でしょうね。食事会とは、元来そういうものですから。ただし……」
コホンと大袈裟に、一息。
「〝なんでも今夜は、事件が起こるらしいですよ〟」
2
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
観音開きの大扉を開け放つと、そこはロビーだった。一面が真紅に染め上げられた、ドームのように広大な空間。その中心で一人のメイドが、慇懃に下げた頭を向けていた。
「射命丸文様、アリス・マーガトロイド様。本日はようこそいらっしゃいました」
顔を上げ、莞爾とした微笑で迎えたのは……この紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だ。
私より先に、上機嫌な文が両手を広げて進み出る。
「いやあ、お招き預かり光栄です! 遅れて申し訳ありませんね~」
「うふふ、ご冗談を。遅れるどころか、まだ七時二十八分。三十分も早いお越しですわ」
「いえいえ、本当は一時間前に到着するつもりだったんですよぉ。後ろの方が、着替えだなんだって渋ったもんですから」
文はちらり、こちらに視線を送りながら鼻笑いした。
「どうせいつも同じ服なのにねぇ」
……悪かったわね、いつも同じ服で。
別に、よそ行きの服を悩んでたわけじゃない。イベント用のドレスも衣装も――タンスの奥深くにだけど――ちゃんと用意がある。ただ、やっぱり万が一のことを考えると、いつもの動きやすい服の方がいい。そう思っただけだ。
万が一っていうのはもちろん、ごたごたが発生した時のこと。すなわち、争いになった時のためだ。やるのはただの食事会らしいけれど、文からあんな話を聞いた以上、何が起こるかわかったものじゃない。いざというときは、やっぱり身軽な姿でいたい。
それにしても……例の件で私にボコボコにされたにも関わらず、目の前の咲夜は、従順なメイドそのものだった。文だけじゃなく、こちらに対しても奥ゆかしい佇まいを崩さない。
でもこれだけニコニコしていても、本心じゃあ私にいい想いは抱いてないはずだ。レミリアの命令だから仕方なく、というのが本音だと思う。その辺をおくびにも出さないのは、咲夜のメイドとしての力量のなせる業といったところかしら。
いずれにせよ、難儀なことね。見たところ、私が負わせた怪我は完治しているようだけど……。
「なにか?」
ふと、視線が合わさった。なんだか見透かされたようなタイミングだったので、反射的に目を逸らしてしまう。
「……いえ」
「主人からは、丁重にもてなすようにと命じられております。どうぞ、こちらに」
手の平を、奥の廊下に向ける。咲夜を先導に、私は文と並んで進んだ。
妖怪の山の麓、霧に包まれた湖畔がある。この湖は本来、内陸で海というものが存在しない幻想郷では、ちょっとしたレジャー施設になってもおかしくはなかった。それがいつしか、里の人間はおろか、他の妖怪すらも安易に寄り付かない場所になってしまった。
その元凶こそが、この紅魔館。湖上の中心にそびえるこの洋館は、吸血鬼の居城として知られている。
普段は霧に覆われて判然としないものの、それでもそんじょそこらの豪邸なんか比較にならない敷地面積だということは明らか。建物自体の大きさも相当なもので、そのうえ咲夜が能力によって空間を操作しているらしく、その広さは定かとは言いがたい。
だけど……なにより特徴的なのは、やっぱりこの色彩よね。
いったいどういう酔狂なのか。この建物ときたら、建物の外壁、内壁、天井、家具や調度品、ひいては中庭の石畳まで、そのほとんどが鮮やかな真紅色に統一されている。この館の主人はこの色が大好きらしく、この色調も彼女の意向なのだけれど……いくら好きだからといって、こう限度を知らなくてはとてもついていけなかった。
まったく……。本当に、どこもかしこも赤くて、こうして歩いているだけでも目がチカチカしてくる。おまけに、この館は窓が極端に少ない。日光が差し込むと吸血鬼はアウトだから仕方ないかもしれないけど、おかげで本格的に目のやり場に困る。とにかく、外にいても中にいても自己主張の激しい館なのだった。
そんなわけで、ただでさえそんなおどろおどろしい外見なうえに、中は吸血鬼の巣窟というのだから、こんなところに来る客なんてめったにいない――それこそ金品を狙った泥棒か、人質をとられでもしないかぎり。私だって本当ならこんな悪魔の根城、今すぐ回れ右したいところだし。
「ほら、アリスさん御覧なさい!」
文は歩きながら、悦に入ったように両手を広げた。
「この見渡す限り、どこもかしこも赤、朱、アカ! いや~、朱に交われば赤くなるとは、よく言ったものですね。そうでしょう。そうは思いませんか、アリスさん!」
……ああもう、うるさい。
だいたいこの天狗は、待ち合わせ場所で合流してからというもの、朝よりも輪をかけて上機嫌だった。
振って湧いた面倒事。気分は陰鬱で、口から出るのは溜め息ばかり。そんな自分とやはり反比例するが如く、隣のこいつは有頂天に昇っていた。私が着いた時にはすでに待ち合わせ場所にいた文は、会うなり『おはようございます!』と馬鹿みたいに声を張り上げてきた――当然だけど、普通の頭の人は夜八時におはようなんて言わない。紅魔館に向かう間、こちらが一向に会話する気が無いにも関わらず、一方的に話しかけてきた。最初は適当な相槌を合わせてやってたけれど、途中からは無視していたので、ほとんどこいつの独り言だった。それでも延々喋りっぱなしだったので、そのまま舌を噛んで死ねとすら思った。
「私は本日、食事会に正式に招かれた身ですが、今まではろくにここを取材させていただけませんでしたからね~。これを機会に、内部構造や裏事情、はたまた食事の裏メニューなんかまでも! ありったけ調査情報収集するつもりです。そして! 今宵巻き起こる陰惨なる事件……まさに、血塗られた館に相応しい! そうは思いませんか。思うでしょう、アリスさん!」
……ああうるさい。舌でも噛んで死ねばいいのに。
「それはどうでもいいんだけど。その……事件、だったかしら。いい加減、詳しく話してくれないかしら」
なにせこいつ、あの時告げたきり、それに関してははぐらかしたままだ。おかげで、こちらの不安は増す一方だった。
事件が起こるって……一体どういう意味なのかしら?
「いい加減もなにも、もうすでに申し上げているはずですけどね。私がレミリアさんから聞いているのは、今日の催し物で何かが起こる……と、それだけです。後の事は何一つ知りません~」
「嘘。揃いも揃って、何か企んでるんでしょ」
「うふふ。相変わらずアリスさんは面白い方ですねぇ。私が呼ばれたのは、新聞記者だからに決まってるじゃないですか。いわゆる報道担当ですよ。本来なら取材はこちらからお願いするものですが、今回はむしろレミリアさんの方から依頼されたんです。というかむしろ、私はなんであなたが呼ばれたかが不思議なんですけどね」
一瞬どきりとする。そういえば例の件については、こいつは――というより、私と紅魔館の連中以外は――何も知らないんだった。
「いや、その。それは……」
別に私はこいつに知られようが、記事にされて幻想郷中に知れ渡ろうがどうでもいい。でも、問題はレミリアの方だ。世間的に見れば、例の件は紅魔館の不祥事ともいえるので、レミリアからしたら知られたくないに決まってる。前を歩く咲夜が聞き耳を立てている以上、レミリアに告げ口されたら、蓬莱人形はどうなるかわからない。
「とにかく。それもどうでもいいことだわ。じゃあメイドさん、あなたに訊いたら教えてくれるの?」
咲夜は振り向くこともせず、後ろ姿のまま答えた。
「申し訳ございません。わたくしの方からは何も話すなと、主人から申し付けられております」
「そう。話しちゃいけないって言われている、と。なら、話しちゃいけない内容、すなわちその事件とやらことも知っているわけよね、あなたは。これから何が起こるのかも」
ピクリ、わずかにその背中が反応する。首だけ巡らし、その端整な横顔を向けた。
「仰るとおりです。ただ、これだけは申しておきますと、主人は報復のためにあなたを御呼びだてしたのではございません」
「よく言うわ。勝手にひとの人形強奪しておいて。実行犯はあなた?」
「そうです。重ねて申し訳ございません。こうでもしないと貴方様はお越しにはなられない、との主人の意向でしたもので。心配されるのもごもっともですが、どうかお気を鎮めていただきたく思います。代わりに、屋敷におられる間は我々が全霊でお世話し、最良のアメニティを奉仕いたします。本日は羽を休めに来たと思って、ごゆるりとなさってくださいませ」
ごゆるりと、ねぇ。
んなこと言われても、こんなにどこもかしこも赤いんじゃあね……。あんな手紙もらわなくても、神経がささくれたって落ち着けやしないわ。
「そうさせていただきます、そうさせていただきます。いやぁ、不肖、射命丸文。レミリアさんの懐の深さを今まで見誤っておりました。幻想郷広しといえど、これほど賞賛されるべき幼女は他にいないと断言できましょう!」
で、この天狗はちっとも落ち着こうとしないのね……。
コホン、と咲夜は調子を整える。
「ゆえに、本日起こる――いえ、行われると言った方がよろしいでしょうか。その事件とは、我々の催すイベントと解釈していただければと」
「イベントですって?」
「ええ。言うなら、エンターテインメント。ただのゲームですね」
にこり。瀟洒な笑顔まで付け足す咲夜。
こんな状況じゃなきゃ、魅力的に映っていたかもだけど。そんな台詞とセットだと、かえって表情を曇らせたくなる。
ゲーム……。どこまで信じていいものやら。
「なので、そう身を硬くして構える必要もございません。それに、すぐに主人の方から直々に説明させていただきますので」
「そうですよぉ。アリスさんたら、さっきから鬼瓦みたいな顔して。まさか人形もそんな顔なんじゃないでしょうね~。魔除けの人形! 新聞に載せたら、注文が殺到しそうです!」
……誰の顔が魔除けだってのよ、誰が。
でも、どういう意味かしら。ゲームだなんて……。
幾つかの階段を継ぎ、迷路のような内部を進み続ける。窓自体が少ないから、今何階にいるかも、すぐにわからなくなった。途中、建物を繋ぐ渡り廊下らしきものを通ったことだけ、なんとなく判別できた。
長い廊下のつきあたりに差し掛かった左手の一室で、ようやく咲夜は足を止めた。懐のポケットから、金色の派手な鍵を差し込む。その生白い腕が、ノブにかかった。
「こちらは『肖像の間』。主人の書斎になります。どうぞ、お入りください」
3
ここは……?
一歩、二歩。足を踏み入れる。
人の気配は無い。それに、ずいぶんと薄暗い。明かりが少ないからだ。隅にある机の上、オイルランプの光源だけが、そこから四方の壁に揺らめいている。
誰もいない……のかしら。てっきり、レミリアが待ってるものと思ってたけど。
「少しの間、こちらでお待ちください。ただいま主人を呼んで参ります」
言うなり、ドアが閉められる。私と文は置き去りにされた形になった。
「ああっ、ちょっと。ちゃんと明かりぐらい点けてくれても……。あらら、行っちゃった。もう、なんなんですかねぇ。こんなところに取り残すなんて。アリスさんならいざしらず、これがただの善良な記者の私に対する扱いですかね。今日の企画がしょうもなかったら、あることないこと書いちゃおうかしら」
どかりと、文は真ん中にあるソファーに腰を下ろした。こいつは咲夜が消えた途端に、手の平を返すようなことを言い出す。付き合ってられなかったので、とりあえず部屋を見渡してみる。
この部屋……『肖像の間』、とか言ってたわね。
レミリアの書斎ということらしいけど、書斎のわりにはかなり広さがある。薄暗いからはっきり判らないけど、だいたい二十畳ぐらい? 家具の類はほとんど無くて、このソファーと隅のデスクを除けば、ピアノみたいな大きさの本棚と……隅に立てかけてあるハシゴぐらいかしら。何に使うのかは知らないけど。
家具が少ない理由はすぐにわかった。窓の無い四方の壁には、いたるところに大小の絵画が飾られている。どうやらこの部屋は書斎であると同時に、個人的な絵を飾る場所らしかった。
中には、レミリア本人を描いた肖像画もあった。他にも、妹のフランドールやパチュリーのものもあるけど、レミリアの絵だけは地面から天井ほどある巨大なものだった――なるほどだから、『肖像の間』……。ずいぶん前に書かせたものらしく、絵の中のレミリアは若干幼いように感じる。今が八歳ぐらいだとすれば、枠の中の少女は六歳ぐらいかしら。
絵は肖像画の他にも、風景画、抽象画。さらには水彩画や油絵と、実に様々だった。種類が多すぎて、かえって目のやり場に困るぐらいだ。そもそも絵の趣味なんて私には無いから、実際うんざりした。
だから、そんな中〝その絵ら〟が目に止まったのは、ただ単に机の側で光源が近く、少しばかり目に止まりやすいというだけでしかなかった。
なんとなしに、その絵に近づいてみる。
並んでいた絵は四枚。いずれも油彩画だった。同じ大きさのものが兄弟みたいに均等に目の高さに並んでいたのも、目を惹かれた。
でも、絵自体が大したものじゃないことは、私にもすぐわかった。どれも油絵みたいだけど、描いているのは天使やノアの箱舟で、抽象画としてはありきたりだ――そもそも、吸血鬼が天使やらなんやらの絵をありがたがるのもどうかと思うけど。色合いもなんだか部分部分ではっきりしない感じだし……。なんでこんな微妙なのを飾ってるのかしら。
なんとなく気になった。こういう絵には、大概裏にメモがてら簡単な詳細が残っているものだ。
壁の間に指で隙間を作って、下から裏を覗き込んでみる。思ったとおり、クレヨンで何か書いてある。
なになに……?
”evangel of the Archlord”
75*50 Х/М 20XXr.
『Silver moon and twinkle stars』
……ええと。たぶん、一行目がタイトルよね。
大天使の福音。この絵の見た目からしても、たぶんそう。
二行目は……絵のサイズかしら? でも、X? M? ……シルバームーン?
…………。
……まあ、別にどうだっていいか。そんなに有名な絵には見えないし。なんでこんなもの飾ってるのかしら。
ひとおおりわかったところで興味を無くしたので、壁際から離れた。
というか、いい加減遅い。まったく、なんでわざわざ書斎なんかで待たせるのやら。こんだけ大きな屋敷なんだから、来客用の客間ぐらいあるでしょうに。
どうやらこの部屋、今日の日のためにわざわざ整理整頓をしたらしいけど。書斎というのが本当だとしても、ほとんど使ってなかったのだろう。レミリアが本を読むなんて、聞いたことが無いし――お子様向けの絵本ならありだとしても。一見きれいに掃除したように見えるけど、壁や絵に染み付いたかび臭さは残ってるし……文が座っているソファーだって、どう見ても急遽用意したようにしか見えなかった。
十分ほど経った頃だろうか。ノックのような音が響き、私はドアの方に振り向いた。
「お待たせしました。主人をお連れしました」
咲夜の声の後に、ドアが開け放たれる。
そこにはレミリアがいたのだけれど……なにやら行儀の悪いことに、立ちながら本――というよりは冊子?――を読んでいた。
「あ、あのう、お嬢様。中にどうぞ」
咲夜が怪訝そうに覗き込む。
「え? ああ、わかってるわ」
言うとおりに部屋に入りつつも、レミリアはこちらに目もくれない。相変わらず、手元の冊子相手に目を細めている。そのまま目の前を横切り、ソファーと向かい合う形で、デスクに腰を下ろした。
「ふむ、ふむ……よーし、覚えた。オーケーだわ」
パサリ。冊子を閉じると、それを机に放り投げる。そこでようやく、こちらを一瞥した。
「とりあえず、ようこそと言っておこうかしら。待ちくたびれたわ」
足を組み、頬杖をつく。同時にキュッ、とキャスター付きの椅子が軋み音をたてる。レミリアはいつもの不遜な笑みを浮かべながら、こちらを見据えた。
「確かに指定したのは二十時だけどねぇ。この私に招待されたのだから、二時間は早く来て然るべきだと思うのだけどね」
開口一番がそれか……。こいつも相変わらずね。
唯一の光源である、机のオイルランプ。その柔らかなともし火に、彼女の横顔が曝される。不遜に満ちた、いつもの他人を見下げるような表情。まあ、普段から自信たっぷりな奴ではあるけれど。
レミリア・スカーレット。齢実に五百歳という、カリスマ溢れる吸血鬼……なのはそのステータスだけで、見た目はどう見ても卒園したての小学生。背中の羽と鋭い犬歯さえ無かったら、十人中十人はそう思うに違いない。
「お嬢様。二時間前だと、料理ができていませんわ」
後ろ手に扉を閉じながら、咲夜が微笑む。
「それもそうね。改めて、ようこそ。我が紅魔館へ。この度は、ご足労わざわざ……いや、のこのこと言ったほうがいいかしら。よく私の城に正面から入ってこれたと褒めてあげるわ。歓迎するわよ、無知の蛮勇は」
ご挨拶だとしたら随分だけど……いつも通りといえばいつも通りだった。この子供は、初対面の相手に対しても見下してかかるような、極めて自己中心的なパーソナリティの持ち主。自分のことを神が選んだ特別な存在だと、本気で、かつ疑いようもなく信じている――そう顔に書いてある。まあ、それを差し引いても、幾分機嫌はいいみたいだけど。
「いやぁ、こちらこそ改めまして! お招き預かり光栄の至りです、レミリアさん!」
さっそく文は、進み出て手を伸ばす。そのまま握手を申し出たかと思いきや、腕が蛇みたいに伸びてレミリアの体を締め上げた。
「く……苦しい。わかった、わかったから離れてよぉ」
「はい! 離れます!」
しゅたっ。瞬時にきょうつけのポーズをとる。天狗の運動能力を無駄に活かした挙動だった。というか、レミリアを前にしても、こいつの調子は相変わらずなのね……。
コホン、と襟を正すレミリア。気を取り直したように椅子に背を預けて、「もう。変なことするから、台詞忘れそうになったじゃない。とりあえず、かけていいわよ」
……ん? 台詞? なんのことかしら。
よくわからないまま、二人掛けのソファーが指し示された。文と並んで着席する。
「こんな部屋があったのですね~。知りませんでしたよ」
キョロキョロ首を振り回しながら、文は尋ねた。
「そりゃそうよ、ここは私のスタディルーム。書斎だもの。関係者以外で入ったのはあなた達が初めてよ。誉に思うがいいわ」
「まったくですよぉ。いや~、私の情報収集力をもってしても、到底知る事叶いませんでした。今日という日を記念に、ワインをボトルキープしたいぐらいです」
「構わないわよ。今日はうちの貯蔵庫のワインも振舞う予定だしね」
「吸血鬼の飲むワインは鉄分が多そうですね~。血が混じってるから」
「混じってるというか、血でできてるからねぇ。おかげで貧血とは縁遠いのよ。なんなら、あなたの血をキープしていってもいいわ」
あはは、またまた~。そんな具合で、二人は笑い合う。いったい何が面白いのかしら……ああ気持ち悪い。
「お嬢様」
ふと、ドアの側で咲夜が呼んだ――この雰囲気に耐えかねたのかどうなのか。
「では、わたくしはパチュリー様方を呼んで参りますので。よろしいでしょうか?」
「ええ。後は任せなさい」
失礼します。一礼し、メイドは部屋を退出する。
おかげでちょうどいい間が空いた。これ幸いと、こちらから切り出してみる。
「どういうつもり?」
あら。と、ようやくこちらに目配せするレミリア。そしてわざとらしく目を広げて、「あなた、いたのね。あんまり静かだから、人形が座ってるのかと思ったわ。髪の伸びる人形。あははっ」
「それは日本人形。私が取りに来たのは、あなたがメイドに盗ませた蓬莱人形の方よ」
「蓬莱? ああ、あの悪趣味なやつね」
「悪かったわね。わざわざ来てやったんだから、返して」
くく、と嫌なほくそ笑みをして、レミリアは足を組みかえる。
「おかしなものね。わかっているんでしょう。私が簡単に返すわけがないってことを。なのに、あなたは私に人形を返せという。自分で矛盾してるって気づいてるの? ああそれとも、気づかない振りをしてるだけかしら?」
「話を早く進めたいのよ。だからそんな持って回った会話はうんざり。するならとっとと説明して。あの手紙、どういうことなの? ゲームって何? どうすれば返してくれるのよ?」
質問の途中から、レミリアは顔をしかめて耳穴をいじっていた。
「ゲーム……咲夜ね。何も言うなと言ったのに、余計なことを。ああ、というか質問は一度に一つにしてよ。いくら私が全能でも、耳は二つしか無いんだから」
すると、文が横から合いの手を挟んだ。
「いやぁ~レミリアさん。一つに二つしかって、言ってることが天然なのか高度すぎるギャグなのかわから――」
「とにかく。どうせ一度に一つにしても、三度になるだけなんだから同じことでしょ。順番に話して」
邪魔くさかったので、おしのけるように台詞を被せてやった。
「情緒の無いヤツね。器が知れるわ」
やれやれと肩をすくめると、レミリアはまた足を組み替える。
「まあいいでしょう。早くしないと咲夜も戻ってきちゃうしね。本題に入ろうかしら」
*
本題。
その言葉が発せられた皮切りに、レミリアの目の色が変わったように感じられた。見た目相応の子供ではなく、長久の歳月とともに威厳を帯びた吸血鬼が一瞬顔を覗かせる。
「実は最近、読書が趣味でね」
いきなり何を言い出すのか、そんなことから切り出すレミリア。机のブックエンドに腕を伸ばし、挟まれていた本を取る。
「……本題に入るんじゃなかったの?」
「入り方にも段階を踏む必要があるのよ。この小説と一緒でね」
どういう意味かしら……。訝しげに思っていると、先に隣の奴が尋ねようとしているのに気づく。文はいつのまにか、手帳とペンを手元に準備していた。
「なんの本ですか? それは」
「〝推理小説〟よ」
な……推理小説ですって?
「私もたまには本を読もうかって気になってね。パチェに何か面白いのはないかってきいたら、勧められたのよ。そしたら、思いのほかはまっちゃってさぁ。ほら見てこの本。百ページもあるのに、全部読んじゃったのよ。それも一ヶ月で」
どう、凄いでしょ? そんな具合に、レミリアは小さな胸を張った。
たった百ページ、ただの短編なのに……。でも本人にとっては偉大なことだったらしい。その達成感に満ちた表情は、踏破した山脈を高らかに自慢する登山家みたいだった。
「さすがレミリアさん! 文学もまた軽妙洒脱、私もまた見賢思斉の面持ちです!」
意味不明の四文字熟語を羅列して褒めはやす文。こいつはもういい加減黙ってればいいのに……。
それにしても、こいつも推理小説……。幻想郷でミステリーのムーブメントでも起こってるのかしら。
「そんなわけでね。けっこう面白かったんだけど……読んでるだけじゃ物足りないのよねぇ、やっぱり」
「本は読むものでしょ。それ以外にどう使おうっていうのよ」
「使う? 残念ながら、あなたと私では視点が違うようね。小説とは散文で構成された、虚構の……そして完結された物語。執筆した作者の内的世界なの。で、ある以上、読者である我々は、常に受動的であることを強いられる。情報を与えられるだけの存在というわけよ。言うなら観客ね」
レミリアはあたかも困ったように、眉をハの字にする。演技であることを隠そうともしていなかった。
「でもね。見てるだけというのは退屈。つまらない。オペラも、サーカスもそう。大人しく眺めているのは、体がうずうずして我慢ならないの。いっそ自分でやりたいぐらいだわ。その気になれば私にできないことなんて無いしね」
パチン、いきなり文が正面で両手を合わせた。
「それは名案ですねぇ~。名付けてレミリアサーカス! 知名度と話題性あいまって、いい具合に興行収入をはじき出せそうです。スポンサーをお探しの際は、ぜひ我々の寄合いに……」
「あなたはすっこんでて」
平手で頬を押しのけてやる。文は変なうめき声をあげながら潰れていった。
「小説も同じよ。ただ受け身でいるよりも、情報を与える側が好ましい。私が執筆してもいいんだけど、筆を持つのはちょっと性に合わないからね。だから……」
「……そこでゲームってこと?」
ニヤリ、威圧的な笑みが、レミリアの口に刻まれる。
「そう。言うなら推理ゲーム。舞台は当然、この紅魔館。そこで私たちが登場人物として、役を演じる。まあ、一種の劇とでも思ってくれればいいわ。ちゃんと脚本もあるしね」
と、机の上から何かを持ち上げる。さっき部屋に入る時に食い入って見ていた冊子だった。で……そこにはなるほど、確かに書いてある。『脚本』……。
「この脚本に従い、事件が起こる――もちろん、起こす、と言った方が正確ではあるけど。そして、事件という以上、当然犯人がいる。あなた達は、その犯人と、どうやってそれを成し遂げたか、つまりは犯行方法を推理する。普通にミステリーを読むようにね。どう? 楽しそうでしょう?」
「…………」
すぐには言葉を返す気にはなれなかった。あまりのバカバカしさに、ちょっと間をおいて落ち着かなければならなかった。
「ただ一つだけ大前提として、脚本上登場する私達紅魔館の者は、本日、魔法や特殊能力、魔道具。そのような超常の類を一切使わない。すなわち、ギミックはあくまで通常の推理小説で用いられるような、正当かつ公平な条件で行われる。ゆえに、今日だけは私も、咲夜も、心臓にナイフを突き立てられただけで死ぬような脆弱な人間と同じだと思ってちょうだいな。私たちは存在から普通の人間として、脚本を忠実に再現する。つまり、この話はフィクション。よって実在する団体・人物・場所とは一切無関係。いいかしら?」
なるほど、とにかくだ。今夜の主旨は、今の説明の通り、よくわかった。よくわかったのだけれど……。
……ハァ。
私は、どっと。いや、むしろ、どばぁ~っと。それはそれは盛大に溜め息をついた。
なんだか、聞けば聞くほどバカらしい――うすうす感づいてはいたけど。つまりは、結局ただの遊び。レミリアの余興に付き合えというだけのこと。
暇人の吸血鬼の考えそうなことね……。
「素晴らしい!」
みるみるうちにしらけていく私と対照的に、隣の奴ときたら……なんだか感極まったのかどうなのか、勝手に立ち上がってソプラノリコーダーみたいな素っ頓狂さでまくしたてた。
「なんと素晴らしい自作自演でしょう! ただの小説を三次元化してしおうという、さすがのスケール! さらにはそれを、いちエンターテインメントへと昇華するという奇術的発想! 射命丸文、心より感服致しました! 正々の旗を邀うる無く、堂々の陳を撃つなかれ。やることはあくまでフェアというわけですね。本日は私の狭量な見聞を、存分に広げさせていただきます。して、私もそのゲーム、参加してもよろしいということでしょうか?」
「もちろん。あなたはのちのち語り継がれるように、現場の写真やらいろいろ撮ってもらうけど、ながらでいいなら構わなくてよ。当然、新聞にも書いてもらうわ。なにせ一度限りの千秋楽。だから公明盛大、もとい、正大にね」
「公明正大! なんと甘美かつ洗練された響きでしょう! それもそのはず、我が文々。新聞の九割は、公徳を重んじる精神でできているのですから!」
赤新聞のくせに……。でも正直、今はこいつに付き合うほどこころの広さは、とても持てない。
ハァ……。
正直な話。私は別に、こいつらの主義主張にどうこう言う気は無い。レミリアの暇つぶしも、文の趣味の新聞も、勝手にやってくれればいいと思う。思うのだけれど……。
「……ねえ、レミリア。一つ、質問したいんだけど」
「許可するわ」
「蓬莱人形は……その、やっぱりそのゲームに勝たないと……」
こちらの苦衷を面白がるように、レミリアは意地悪く笑う。
「察しがいいじゃない。まあ、当然よね」
……やっぱり。
こいつはこういう奴なのだ。自分が台風の目になって、他人が巻き込まれるのを眺めて面白がる。こっちはこんな危ない奴に関わりたくないっていうのに。
「ちゃんと正解を推理できたら、四の五の言わず返してあげるわ。それにあなた達二人は、先に謎を解いた方がどうとか、そういう関係じゃないから。むしろチームね。いくらでも協力するといいわ」
「らしいですよ、アリスさん!」
いきなり振り向くと、文は勝手に両手をとって握り締めてきた。
「本日は我々はコンビ、一つの謎を共に追い求める同志です! 私は基本取材の方を優先させていただきますが、なにか詰まったらいつでも力をお貸しします。まあ言っても実は私、推理小説は得意中の得意、ぴかり輝く才能を持ってますからねぇ~。いざとなったら頼りしてくれて構いませんよ。快刀乱麻を断つ切れ味をご覧に入れて差し上げます」
……こんなことを言っているけど。ちなみにこいつのミステリーへの造詣のほどはすでに知れている。以前文はちょっとした事件の首謀者だったのだけど、その時こいつが考えたトリックは、魔理沙曰く「たいしたことはない」だった。普段からそれほど推理小説を読んでないという点では、私とトントン、ということらしい。
「うんうん♪ 三人寄ればなんとやら。一人足りなくても、二人でもそれなりのものにはなるでしょ。まあ、もしそれでもわからなかったら……ふふふ。あの人形は、フランにでもプレゼントしようかしら。命と同じぐらい大事だというなら、それこそ死ぬ気でやることね。アッハハハハハ!」
うう……耳障りに笑いよってからに。
フランドールにプレゼントですって? そんなことになったら、一巻の終わり。情緒不安定の妹の手に渡ろうものなら、じゃれるだけで腕やら足やら引き千切られかねない。
やっぱりレミリアからしたら……先日の件を根に持ってるんだわ。このゲーム自体、私への仕返しも多分に兼ねてる。そのゲームだって、そう簡単には解けないようにできてるに決まってる!
くっ……冗談じゃないわ。
このままじゃ、あの蓬莱人形が……。
「お連れしました。お嬢様」
二、三のノックの後に、廊下から咲夜の声が響いた。戻ってきたらしい。
「入りなさい」
応えの後に、ドアが開け放たれる。姿が見えたのは咲夜だけではなかった。後ろに二人、付き添うような影がある。
「失礼」
と、まず幽霊みたいに入ってきたのは、魔女のパチュリー・ノーレッジ。年中眠たいのか、今日も瞼が半分しか開いていない。服装は普段どおりのパジャマみたいなしましまだったので、実際寝てたのかもしれない。魔理沙じゃないけれど三度のなんとかより読書好きで、常に脇の下に本を抱えている。さらには趣味が高じたのか図書館で寝泊りしているらしい。ビブリオマニアというより、ほとんど病気だった――実際貧血らしいけど。
「お、お邪魔しま~す」
後に続いて現れたのが、門番の紅美鈴。中国拳法の使い手――嘘くさいけど――。そのせいか服装もチャイナっぽいものを着ている。紅魔館の門番なのだけど、紅魔館の門を突破しようとする命知らずはそうそう現れないので、やってることはどちらかというと給料泥棒だった。妙にオドオドして落ち着かないのは……きっと門番である彼女は普段、こんな屋敷の中まで入ったことが無いからじゃないかしら。
私たちのソファーに対面するように、紅魔館の面々が並ぶ。改めて顔見せ、ということらしい。ちなみに咲夜以外の二人もしっかりと、小脇に脚本を抱えていた。
こうして見ると紅魔館の主要人物を連れて来たみたいだけど……レミリアの妹がいない。まあ、彼女はゲームには参加しないのだろう。というより、あの破天荒な妹に劇の役なんてこなせるわけないだろうし。むしろ好き勝手やられたらそれはそれで困るから、いつものように地下に閉じ込めているんだろう。
「私を含め、ここにいる四名が、本日の演者。よろしくね。ああでも、別に役を演じるといっても、名前や立場を変えるわけじゃないわ。全員平常の範囲で、脚本にしたがって行動するから」
うんうん。文が頷きかえす。
「あくまで舞台設定はいつもの紅魔館。そういうことですね。私たちはどうすればよいでしょう?」
「あなた達はあくまで観客だけど、同時に登場人物でもある。普通に食事に誘われた客として、普通に過ごしてくれればいいわ」
食事に誘われた客として、か。こんなときに、食事が喉を通るとは思えないけど。
でも、普通に、と強調するということは……。
「……余計な事をするなということ?」
「そんなことをすればどうなるか、頭のいいあなたならわかると思うけどね。咲夜、もう一人のゲストを紹介してさしあげて」
「はい」
後ろで持ってていたそれを、両手を前に出しこちらに見せつける。でもこちらからすれば、見せつけられるまでもなかった。
……蓬莱人形!
ガタッ。立ち上がった勢いで、ソファーがひっくり返りそうになる――ついでに一緒に座っていた文もひっくり返りそうになってたけど、そんなことはどうでもいい。
蓬莱人形は、腕も足も胴体ごと、大袈裟なぐらい縄でぐるぐる巻きに縛られていた。見たところ、外傷らしい外傷が無いのが救いだけど……。縛って自由を奪ったのは、私が遠隔で操作することを懸念してのことだろうか。
……大した徹底ぶりだ、と私は思った。おかげでこちらは手が出せない。
「まあ、ここまでしたのは念のためだけどね。なにせあなたは頭がいいから。だから当然、簡単にはこれを取り返せないこともわかってると思うし、くだらない真似をして私に雷でも落ちれば、その結果どうしようもなく後悔するであろうことも想像がついている。そうよね、アリス・マーガトロイド?」
目だけで恫喝してくるレミリア。蓬莱人形を盾にされては、従うしかない。以前みたいに隙を見て奪うなんてことも、そうそうできるとは思えない。こいつのこの視線は、そのことを隠然と告げている。
そうなると、私にできることは……やっぱり、真正面から挑戦を受けるしかないのか。レミリアの言う事件を待って、その犯人を見事当ててみせるしか。
それしか、蓬莱人形を取り戻す方法は……。
「こいつは時が来るまで、然るべき場所で保管させてもらうわ。ともかくこれで、趣旨はご理解いただけたかしら。咲夜、紅茶……は、今は控えないとね。じきに夕食なんだし」
ええ。と、咲夜は言葉少なに答える。
「準備の方はできております」
「いやぁ、楽しみです。楽しみです」
万年筆を手の平で弄びながら、文は上機嫌を抑えられないといった風情だった。
「胸が躍って、食事も満足に手がつくか危ういですよ。して、ゲームは食事の後、ということでしょうか?」
「言ったはずよ。舞台はあくまで日常の空間。なら、日常と非日常の線引きはどこで決めると思う?」
「線引き、ですか。うーん。事件が発生した瞬間からということかしら?」
レミリアの言いたいことは、おおよそ察しがついた。私は横から答えてやった。
「事件が起きてからじゃ遅い。つまりはそういうことでしょう?」
ニッ、とレミリアの口端が吊り上げられる。
「理解しているようね。そう、〝もう始まっているわよ〟。とっくにね」
*
もう始まっている……。
…………。
まあ。そう言われても、ちっともそんな気はしないのだけれど。
「ええっ! そうだったんですか!? ああもう、どうしましょう。ねえアリスさん、どうしましょう!?」
いきなり胸倉を掴まれた私は、縦に横にと揺すられた。あんまり不意を突かれたので、私は腕を放された時にはすっかり世界が回って見えていた。
「ああっ。あまりの事態に、アリスさんが放心してます! このままでは、ゲームに立ち向かう勇者はいなくなります! 謎は謎のまま葬られるさだめなのでしょうか!」
誰のせいよ、この怪力天狗め……。
うう、頭痛い。なんだかこいつと一緒っていうのが、一番問題な気がしてきた。
こんな奴じゃなくて……。せめて、この場に魔理沙がいてくれたら……。
……ううん、いけないわ。
そもそも、魔理沙にはこの件について教えてすらいない。今朝玄関で文と別れてから、あいつは理由も話さずとっとと帰した。少し強引だったから、向こうからすればちょっと様子がおかしく見えたかもしれないけど。
レミリアの手紙には、文と二人だけで来るようにと書いてあった。約束を破ったら、蓬莱人形の無事は保障されない。それに魔理沙にこのことを教えたら、他人事みたいに目を輝かせて面白がるに決まってる。来るなと言っても必ず勝手についてきちゃうだろうし。
いや、そういう問題ですらないんだわ。他人に頼るようじゃ駄目……。そんな気弱じゃ、蓬莱人形を取り戻すことなんてできない!
頼れるのは自分だけ。レミリアがもう始まってると言うのなら、どんな細かいことでも見逃すわけにはいかない。すでに、のちのちのヒントとなる伏線が見え隠れているかもしれないのだから。
そう。あるいは、今この瞬間にも……。
気持ちを切り替えたところで、空気が一気に張り詰めた気さえする。場は異様な緊張感に包まれ――と、それらしい雰囲気がにわかにしてきたところで、「あれ?」と、いきなりレミリアはキュートに首をかしげた。
「ええと、これでもう説明は全部終わったわよね。次はなんだっけ……」
観客そっちのけで、脚本をペラリと捲る。どうやらこのお子様、気が抜けることに、台詞を全部暗記できていないらしかった――せっかく張り詰めたっていうのに……おかげで軽くずっこけそうになってしまった。
さすがに見かねた咲夜が、耳元で囁くように告げる。
「お、お嬢様。絵ですわ、絵について話しておかないと」
「え? ああ絵か。そうだったわ、そうだったわね」
慌てたように、脚本のページを手繰る。誤魔化すみたいに、エヘンと咳払いした。
「ええと……そうだわ。ところで、最近いい絵が手に入ってね。せっかくだから見てもらえないかしら」
「は、はあ。絵ですか?」
あんまり突拍子も無さすぎて、さすがの文も困惑で返していた。いったいどういう脚本なのかしら……。
「咲夜」
「かしこまりました」
名前を呼ばれただけで、いったい何を了解したのか……と目で追ってみると、咲夜は隅にあったハシゴを持ち出してきた。
部屋の中央に立て、照明に火を灯す。シャンデリアに光が点灯すると、部屋の広さが余計に際立った。そして絵の数。窓の無い壁面はこれまでと同じ真紅色だったけれど、ほとんど絵画で埋め尽くされていたので、隙間を走る血管みたいに肩身が狭かった。
「これなんだけどね」
咲夜が火を点けていた間に、すでにレミリアは立ち上がっていた。横に並んで、その絵を手の平で指し示す。
あれは……さっき私が見てた絵じゃないの。
「今日客間じゃなくてここに呼んだのは、言ってしまえばこれを見せびらかすためなの。どう? なかなかでしょう。最近、とある高名な画家に描かせたのよ。ええとね、まずはこれなんだけど……」
話の流れ構わず、レミリアは勝手に絵の説明をしだす。
これがおそらく脚本通りとして、展開的に強引にでもここで説明するということは……これはおそらく、伏線である可能性が高い――物語としては、構成的にヘタクソにもほどがあるけど。
伏線、つまり後々事件が起きたとき、なんらかのヒントになるかもしれない箇所。なら、ここはちゃんと聞いておかなきゃ。
ちなみに……レミリアの説明は、長い台詞でやっぱり覚え切れなかったらしく、途中でちらちら脚本を覗いていた――本番で堂々とカンペを読むのもどうかと思うけど。読めない漢字にいちいちもたついて、レミリアの容姿もあいまってほとんど幼児の学芸会だった。親でもなんでもないこちらとしては、聞き取るのがいちいちストレスで仕方なかった。
それでもなんとか、我慢して聞いていく。とりあえず、頭の中で一通りは整理できた。
――まず、左の絵。タイトルは『エヴァンジェルの福音』。
聖堂の内部に、女性型の天使が降臨する。神秘的な様を描いた作品。
天蓋のステンドグラスから差し込む光が後光となり、羽の生えた美しい天使が舞い降り福音を与えている。
順に、その隣が『蒼碧のアーキュリオン』。
海中の世界の風景を描いた作品。
差し込む光のヴェールと魚達、そして気泡が鮮やかな宝石のように映り輝いている。
絵のタッチは他と同じだが、抽象画ではなく唯一の風景画である。作者が実際に現場に行って、そのインスピレーションが忘れられずに描いたという。
さらに隣。『双子とドルチェ』。
ピアノを弾く少女と、その双子の魂が背後に浮遊し、ともに映っている作品。
少女の奏でる甘い音色が、死に別れた双子の妹の霊魂を天界から呼び戻す。
音楽は生死をも超越する力があるというテーマを汲んでいる。
そして最後。右端が『ジオグラフィアの黎明』。
天の箱舟が下界の人間を迎えに降り立つ瞬間を描いた作品。
金色に光る箱舟の輝きが、選ばれし勇者の旅立ちを迎える。人類の洋々たる未来を、船出の瞬間に表現させた。
ちなみにこの作品だけ、縦ではなく横向きになっている――
……以上。まとめると、こんなところかしら。
でもいずれにせよ、さっき見たようにさほど絵として感銘は受けない。なんというか、プロの画家とは程遠いような気がする。まあもっとも、いい絵だというのも脚本上の設定で、レミリアも本心じゃそうは思ってないんでしょうけど。
長い台詞を終えたレミリアは、一つ長い息を吐いた。
「ふぅ~、まあこんなところね。どうかしら。どれもなかなかの作品でしょう。ねえ、パチェもそう思うわよね?」
「……そうね。悪くないと思うわ」
「あなたは?」
次に顎を向けられたのは、美鈴だった。こちらは声をかけられるなりびくついたので、パチュリーほどすんなりとはいかなかった。
「えっ? え、え~っと、そうですねぇ」
しどろもどろする美鈴は、またひどいことに脚本を開いて直に読み上げていた。こいつもレミリア同様、ちゃんと内容を暗記していないらしい。あるいは、覚えられないほど馬鹿なのか。
「そのぅ。私は正直、そんなに上等なものには見えないんですが。センスがちっとも感じられないっていうか。あははは……」
…………。
なんだか一気に、場が静まり返った。
いきなりシーンとしたので、最後には美鈴の笑いは力なく消えてしまう。まあそれも脚本なんだろうけど――あんまり薄ら寒いものだから、台詞を発した本人の笑みはリアルに凍り付いていた。
「さて、まあそんなところで」
まるで何も無かったように、唐突にレミリアが発言する。
「絵の説明も終わったし、もうこの部屋で話すことはないわよね?」
「そうね。次は広間で食事のはずだし」
台本を開いて平気で答えるパチュリー。だから、目の前でそういうやり取りはやめてほしいのに……。緊張感が抜けるわ。
にしても、さっきの静まりっぷりはなんだったのだろう。あんまりわざとらしく誇張してたから、脚本通りなのは違いないんだろうけど……。虫でもいたら潰れてしまいそうな静寂だった。
向こうからすれば、この絵の説明は話を進めるうえで必要だったことなんだろうけど……。
無意識に、絵に視線を送っていた。すると私の真剣さを面白がるように、レミリアはくすくす笑う。
「気になってるようね。今のうちに、じっくり眺めていくといいわ。ここの棟は、基本常にどの部屋も鍵がかかってるからね。ここも出たらしばらくは見れないわよ」
「……それはどうも。でも、もう結構よ」
どうせただ漫然と眺めているだけで何かがわかるわけもない。それに、絵はさっき文が写真を撮っていた。なにか気になることがあれば、後で見せてもらえばいいだろう。
「ふふふ、そう。自信があるようでなによりだわ。まあ、そうでなくては人形は取り戻せない。寿命はわずか今日明日限り、プリンの賞味期限より短い命になるわけだしね。アハハハハハ!」
耳障りに高笑いするレミリア。部屋中に反響してひたすらうるさいけど、そんなのはまるでおかまいなしだった。
「さて、ずいぶん話し込んでしまったわね。お腹も減ったでしょうし、食事にしましょう。咲夜、移動するわよ。お二人を案内してあげて」
「御意ですわ」
食事……ちっとも空腹じゃないけど。
いや、でも、そんなことも言ってられないわ。
廊下への扉が開かれる。その続く先には、何かが待っている。そんなふうに思えた。
でも、乗り越えなければならない。その何かを、待ち受けるであろう罠を。ミステリーは初心者でも、私だって最近魔理沙と一緒にいるせいで、それなりに経験は積んできた――はず。なら……簡単にレミリアに兜を脱ぐ気は無い。
私だって、魔理沙なんかいなくたって!
4
……さて。
そうなると、当面の問題は絞られてくる。事件がいつ起きるか、だ。
レミリアはそれがいつなのか、明言はしていなかった。この食事中なのか、それともその後なのか。あるいは今日でなく明日なのか――その場合は、泊まっていけとでも言われるのかしら。こんな赤すぎる屋敷で寝たら、血なまぐさい夢でもみそうだから御免被りたいのだけど……。
「アリス様」
隣で咲夜が、ワインボトルを携えていた。
「お酒のおかわりはいかがですか?」
「いいえ、結構」
失礼しました。軽く腰を折ると、咲夜はまたテーブルを離れていった。
代えなんてもらわなくても、私の前にはすでにグラスは四つも並んでいる。ディナー用のバカラで、それぞれ料理に合わせた白ワイン、赤ワイン、シャンパン。そして水のグラス。喉を潤すためならこれだけで十分だし、なにより飲みすぎて思考力が損なわれることだけは避けたい。
私たちはあれから、また廊下と階段を合い継ぎ、やがてこの広間に連れてこられた。『祝宴の間』。この絢爛豪華な場所は、そう呼ばれているらしい。
レミリアからは、食事や会食をする部屋との説明を受けた。直方体の縦に長い廊下のような空間。それに合わせるように、中央に長大なテーブル。もともとこういった宴のための部屋らしく、テーブルは数十人の列席者がいても十分なほどだった。
すでに目の前には、宮廷のフルコースもかくやという料理の数々が並べられている。そして、楓の葉が散りばめられたテーブルクロス。磨かれた銀製品の花器。椅子はシルク張り、表面に光沢がある。調度品は品があり、豪奢でありながらモダンと言えなくもない。
上からは十九世紀末のフランスを思わせる三つのクリスタル・シャンデリアが照らしている。さらに天井には、彫刻に縁取られた見事なフレスコ画。シャンデリアと並んで絢爛の極みだった。アールの壁も優雅で重厚感がある。
おそらくここは紅魔館のなかでも、屈指の豪華さを誇る空間なのだろう。あらゆる装飾品、造形が、色とりどりに贅を競い合っている。一国の国主の城と称してもなんら遜色が無い、きらびやかな部屋だった。
こんなところにいると、まるでどこぞのお姫様にもなった気分……には、囚われの蓬莱人形のことを考えるとならなかった。やがて前菜のトリュフのスープに始まり、次々と高級料理の数々が登場したけれど、やっぱり食指は動かない。どれも二口三口が限度だった。
でも、とりあえず。今のところは、変わった様子は無い……みたいね。
ナイフで魚のムニエルを切り分けながら、周囲に油断無く視線を走らせる。
「だからねぇ、私がこれだけ赤い空間の中暮らしているのは、単に好みの色ってわけじゃないわけ。わかる~?」
上座のレミリアが上機嫌に告げる。
隣の席には文がいた。こいつときたら、食事の場にも関わらず、開いた手帳に無茶苦茶にペンを走らせている。
「ほうほう! では、別に理由があるということですね。ひょっとして、レミリアさんのその莫大な妖力を増幅させるために、一役買っていたりするのですか?」
「妖力だけじゃないわ。真紅の色彩は、肉体にも精神にも如実に影響を及ぼす。仮に人間でも、赤い色を浴びているというだけで、筋肉反応に向上的な効果が生まれるしね。赤や橙色などの暖色系に囲まれた環境では、生物は時間を長く感じる。壁一面を赤く染めた部屋で会議をさせたという実験があるわ。その実験では、実際の時間が三時間だったのに、誰もが六時間かかったと思った、そう証言している。私はね。常に神経を張り詰めさせ、濃密な時間体験を常のものとしているの。妖怪はどいつもこいつも、寿命が長いからって身の無い人生を送るやつが多いからね。寿命の長さにかまけて、何も生まず、残さない奴らとはものが違う。つまりはそういうことよ」
「さっすがレミリアさん! 日々の有限さを、身に深くご存知というわけですね。いやぁ、幼い顔して、考え方は老人みたいですね~」
ふふん、とレミリアは気をよくまたグラスを口に運ぶ。いや今のは褒めてないような。
さっきから、この相変わらずのやりとりが延々繰り広げられていた。文のあからさまともいえる太鼓持ち。料理が出てくるたびに、褒めちぎっては投げ、褒めちぎっては投げを繰り返す。この天狗、どうやらとことん今夜は下手にまわる腹らしい。まるで取引先にへつらう中間管理職だった。そしてそのあからさまを、延々真に受け続けるレミリア――この娘はひょっとしたら、幼いというより、ただの馬鹿なんじゃないかしら……。いずれにせよ、どっちもどっちだった。
話している内容は、まあ輪をかけて緊張感が無かった。こいつらときたら人の気も知らずワインを飲み飲み、ついさっきまではサッカーよりもやっぱり野球よねなんて親父くさい話をのたまっていた。
「では、次の質問です。レミリアさんは数年前、わりかし最近この建物ごと幻想郷にお引越ししてきたわけですが。なんでわざわざ、こんな湖のど真ん中に建てたのですか?」
「いろいろと都合がよかったのよ。もともとこの湖上一帯は霧が深かったからね。吸血鬼の私が暮らすにはもってこいってわけ。それに、夏には泳げるしね」
「えっ……。レミリアさん泳げるんですか?」
文はよっぽど意外に思ったらしく――私も思ったけど――、太鼓持ち忘れて素で問い返していた。
ふいに、レミリアは眼光を鋭くさせる。
「なに? まさかあなた、吸血鬼はカナヅチだとでも思ってた?」
「……あやや、いいえいいえいいえ! そんなわけないじゃないですか。本マグロの魚群と並んで黒潮を横断する姿が目に浮かびますよ~。きっと水着の方もさぞお似合いなんでしょうね!」
「ふっ、当然よ。私ほど浮き輪を使いこなせる吸血鬼はそうはいないでしょうね」
なぜだかキザに決めるレミリア。浮き輪が無ければ泳げないのね……。
「浜辺で日光浴できないのが残念ですねぇ。吸血鬼だけに」
「一度試してみたいとは思うわ。ひと夏の……ええと、なんていうんだっけ? あばんちゅーる? 海は嫌だけど、この湖でならやってみたいかなー」
「いやまあ、意味は間違っちゃいないでしょうが……って、あれ? 湖で泳ぐのは大丈夫なのに、海はダメなんですか?」
「海は波があるからね。流れる水が苦手なだけよ。あと、塩気もね。だから海は嫌い。あんなもの、もう数百年も見てないわ。パチェもそうよね?」
「ええ」
文の対面、同時に私の左隣である席には、パチュリーがいた。この娘もこの娘で、これまで会話には加わらず一人で食事をもくもくと……いや、この娘も私と同じでほとんど手をつけていない。というより手元の本に夢中らしく、フルコースにいたっては相手にする気すらないらしい。もっとも、こいつが無愛想なのもいつもどおりなんだけど。
それにしても、海……かぁ。実は私も無いのよね、じかに見たことは。
もちろん、海がどういうものかは知っている。写真とか、それこそさっきみたいな絵――『蒼碧のアーキュリオン』、だったかしら――で、一応観賞したことはある。でも魔法使いになる前――人間だったころは内陸に住んでいたし、魔界なんかを転々として周囲を山で囲まれた幻想郷に流れ着いてからは、海なんかと関わる機会はまったく失せてしまった。
まあ、別に縁が無いならそれでちっちも構わないんだけど。眺めるだけなら写真で十分だし、泳ぐなんて気はこれっぽっちも起こらない。だいたい、紫外線を全身に浴びてまで水に浸かる意味がどこにあるのかしら。以前魔理沙に、博麗神社の周りで拾ったっていう外の世界の雑誌を見せてもらったことがあるのだけど、そこに写っていた写真には浜辺に水着姿でキャッキャとはしゃいでいる人間達の姿があった。どいつもこいつも日に肌をさらして、正直暑さで頭がやられているようにしか見えなかったのを覚えている。
強いて海で泳ぐ理由と言えば……うーん、そうねぇ。
かわいい水着なら、ちょっとだけ着てみたいとは思わなくはないけど。まあ……ちょっとだけ。
「咲夜はどうかしら?」
次に振られたメイドは、ちょうど主のグラスにワインを注いでいたところだった。
「わたくしですか? そうですねぇ。まあ、幻想郷に来る前は見たことぐらいはありますが」
へえ~、あるんだ~。
なんて一瞬思ったけど、考えてみれば当然だった。咲夜はこの悪魔城にメイドとして働いているけど、正真正銘の人間だ。レミリアが紅魔館ごと幻想郷に越してきたのはわりと最近の話だから、彼女達と咲夜はそれ以前からの付き合いということになる。噂じゃ咲夜は過去、吸血鬼ハンターだかなんだかで、もともとレミリアを狙って闘いを挑んだらしい。でも結局その時は負けて、逆に忠誠を誓い従者となった……なんて与太話を聞いたことも無くもない。まあとにかく、外の世界で普通に人間をやっていれば、海を目にする機会なんていくらでも転がっている。咲夜が本物の海を眺めていたとしても何も不思議は無いということだ。
他の面子はどうなのかしら。天狗の文は、さすがに山から離れたことなんてないだろうけど……美鈴は?
ちら、と視線を送る。といっても、送り先はずいぶんと遠く離れていた。私達は今、長~い食卓の隅に、集められるように食事をしているのだけど。美鈴はその反対側、十メートルぐらい離れた席でぽつんと、一人寂しくスープを飲んでいた。どうやら彼女は、同じ紅魔館の住人でありながら、レミリアやパチュリーらとは同列にみなしてもらえてないらしかった。遠目から見ても、彼女の食事は水とスープしか無かったので、犬か何かと扱われているのだろう。そのスープももう全部飲んでしまったようで、手持ち無沙汰な門番は独りぼっちで編み物をしていた――それも、なぜかリリアンだった。
といっても、あくまで脚本にしたがってのことで、まさか普段からあんな侘しい食事じゃないと思う。そもそも席が離れているとはいえ、主人と召し使いが一緒に食べたりしないだろうし。それでもこの落差だけみれば、この脚本の中でも美鈴の存在価値は、相変わらず道端の新聞紙と変わらないらしい。なんだか知らないけど、やけに美鈴に風当たりが強い脚本のようだった。
まあ、なんにせよ……だ。海も美鈴も、今はどうでもいい。
こうして眺めてると、いつもの気が抜ける宴会風景に近いけど……でも、決して油断はできない。こういった和やかな会食の場でも、殺人事件は十分に起こりうるのだから。
例えば、毒。何者かによって、料理に物騒な物が混入されていたとしたら。こうしていながらも、突如誰かが痙攣してぶっ倒れる……なんて可能性もある――まあぶっ倒れるといっても、倒れる振りでしょうけど。
でももしそんな事件ならば、犯行で一番重要なのは犯人が毒を入れる瞬間のはず。ならば、こうして注意を利かせて損は無い。決定的シーンを目撃できるかもしれない。
……と、当初こそそんなふうに意気込んで、睨みを利かせていたわけだけど。
なんだかこいつらのやり取りを見せられるうちに、気が抜けて馬鹿らしくなってきてしまった。ため息をつくたびに、なけなしの緊張感までも体から遊離していくみたいだった。
で。いつの間にか話は進んで、なぜか話はレミリアの過去の武勇伝に移っていた。
「んでね。そこで私は言ってやったわけ。『美しくなければ、技じゃないのよ』ってね。その時のそのヴァンパイアハンターの表情と言ったらなかったわ。さっきまで恐怖を見ていた顔が、次にはあたかも神を見ていたんだもの。恍惚としていたわ。私達吸血鬼は、血を吸えばそいつをしもべにできるけど、そんなやり方は私に言わせれば下賎ね。触れずとも、魅力だけで蟲惑し、支配下に置く。フランなんかは力は強いけど、その辺はまだまだよねぇ~」
演技過剰も構わず、文はうんうん大げさにうなる。
「なるほどなるほど。厚みのある人生こそが、堂に入った風格と魅力を熟成する秘訣! いやぁ、まるでこのステーキさながらに、肉汁たっぷりしたたってますよ~」
「でしょ、でしょ♪」
わが意を得たというように、レミリアは顔の前で合わせた手のひらを頬に添える。まあ……なんていうか、この笑顔は絶対意味わかってないと思う。
ちなみにこの娘らが言っている、このメインの牛ヒレ肉のステーキ――ついでにキャビア添え。こいつときたら、どうやらレミリアの好みらしく、ほとんど焼いた形跡が無かった。もうおかげで血の味しかしない。加減としては、間違いなくレアを通り越して……ええと、レアの下、なんていうんだっけ。
思い出した。ブルーだ。とすれば、これはもうブルーレアだ。この肉の焼き具合ときたら、鰹のタタキにすら負けている。こんな生肉を喜んで食べるのは、レミリアかライオンぐらいのものだろう。
ああ生臭い……。見てるだけで気分が悪くなってくるので、ちょっと遠くにどかしてやる。
なにか気分転換になるものは無いかしら。そう思って眺めるまでもなく、視界の左端に、デザートのメロンが見えた。
まあ……そうね。せっかく豪勢な料理には違いないんだし、せめてこれぐらいは胃にいれとこうかしら。
お皿に手を伸ばした、その時。
「ちょっと」
一瞬、どこから聞こえたのかと探してしまう。パチュリーだと気づいたのは、続く言葉が発されてからだった。
「そのメロン、私のなんだけど。あなたのは、そっち」
「あ。ごめんなさい」
素直に詫びておく。隣のメロンだったとは。失敬、失敬。
それにしても、このパチュリー。指も顎も、目線すらもそのまま膝の本から動かさないので、声の出所に気づかなかった――というか、この娘もこの娘で、そっちと教えるわりには思いやりに欠けている。
そういえば……この娘もレミリアと同じ紅魔館側。脚本にしたがって動いているわけだけど。なにか尋ねたら、答えてくれたりするのかしら。
キャストに関わることを禁じられているわけでもないし。今夜のことについて質問しても、ルール違反ということはないはず。そもそも、さっきのレミリアの説明だけじゃ納得するに足りない部分もあった。
なら、ここは思い切って話しかけてみてもいいかも。ひょっとしたら、何かヒントが得られるかもしれないし。
とはいえなんとなくレミリアに聞こえたらまずい気がしたので、一応小声に抑えて話しかけた。
「ねえ」
「…………」
本に目を落としたまま、パチュリーは動かない。
「ちょっと。あなたに言ってるんだけど」
「……何か?」
ぼそり。ようやく返事をする。口がほとんど動いてなかったから、目を開けて寝てるのかと思った。まったく紅魔館には、一人もまともな奴がいない。
「聞きたいことがあるんだけど」
「何? 情報収集かしら。随分とやる気なのね」
「やる気だなんて、冗談じゃない。人形が大事なだけよ。そんなことより、質問に答えてくれるの? くれないの? どっちなのよ」
正直期待はしてなかったので、投げやりな訊き方になってしまう。でも返ってきたのは意外な返事だった。
「レミィからは、訊かれたらなんでも答えるようにと言われているわ。今夜のことについてならね」
視線はそのままに、メロンを乗せたスプーンを口に運ぶ。その口調には、相変わらず抑揚が無い。
パチュリー・ノーレッジ。元人間の私と違い、彼女は真性の魔女だ。ふわふわな帽子から紫色の髪をしっとりと胸まで垂らし、なかなかきれいな顔立ちをしているのだけど、色白すぎて生気が無い。発する声は小声で落ち着いており、加えてこうも眠たげな目をしているので、まるで死期を悟った末期癌患者に見えなくもなかった。
この娘は今、なんでも答えてやると言った。ならここは遠慮なく、聞かせてもらうことにする。
「じゃあ、教えて。何が起こるっていうの? これから」
「何が起こる? 決まってるじゃない。事件よ」
「それが何かって訊いてるんだけど。なんでも答えてくれるんでしょ。どうなのよ」
「推理小説で事件なんだから、決まってるじゃない。〝殺人〟よ」
…………。
「……今、なんて?」
パチュリーは溜め息混じりに、「聞こえたでしょうに。殺人よ、殺人。殺人殺人」
まるで惣菜の名前みたいに、殺人を連呼してくる。ちっともおいしそうじゃないけど。
というか……なに? 殺人ですって?
「それって、誰か死ぬってこと?」
「そうなるわね、便宜上は。殺されないと殺人とは呼べないでしょう」
いやいや、便宜上も何も、死ぬことに変わりないんじゃ……。
さすがに冗談だと思うんだけど……いやでも、そこはあの紅い悪魔レミリア。その辺のメイド妖精の一匹や二匹、エンターテインメントのために本当に死なせかねない。
う~ん、どうなのかしら? 正直私は部外者だから、メイド妖精の一匹ひねり殺されようが挽き肉にされようがかまやしないんだけど。さすがにちょっぴり後味が悪いような。う~ん。
こちらの内心を察したのか、パチュリーは言葉を付け足す。
「もう一度言うけど、あくまで便宜上だからね。死んだ振りとか、そういう意味よ」
あ……なぁんだ。そりゃそうよね。いくらなんでも。
まあ、そういうことならよかった。レミリアもさすがに、そこまで命を無駄遣いするほど外道じゃなかったみたい。
「じゃあ、殺される役は誰? この部屋にいる誰かが被害者ってこと?」
ぺらり、パチュリーはページを捲り、口の先だけで答える。
「せっかちなのね。そんなことを訊いてどうするのかしら。そんなの、推理小説で導入部を飛ばして、事件パートから読み始めるようなもの。風情も何も無い。ろくなことじゃなくてよ」
「ふん、風情だなんて。あなたも魔理沙みたいなこと言うのね。言っとくけど、私は人質さえ戻ってくればそれでいい。推理小説の風情なんか、知ったことじゃない。それ以前に、あなたたちの茶番に付き合う気も毛頭無いのよ」
「そう。でもまあ、わざわざ訊くほどのことでもないと思うけどね。焦らなくても、今夜中には事件発生だから。ひょっとしたら、そのうちすぐ何か起こるかもしれないわよ」
ふむ、訊くほどのことでもない、と。
なるほど。言うことは曖昧だけれど、ごまかしているというよりは本当に話すまでもないことらしい。
「じゃあ、次。なんでレミリアは急にこんなことを考えたの」
「……それはこの企画とは関係無くないかしら?」
「いいから。なんでも答えてくれるんでしょ。だいたい、なんでよりによってミステリーなのよ? あいつが本を読むなんて、聞いたことも無いわ」
「一応、大図書館の本は、建物ごとレミィのものなのだけどね。もとはといえば、レミィがカリスマを取り戻したいって言い出したのがきっかけよ」
「はあ?」
……カリスマ? 取り戻したい?
なんだか、またしてもくだらない気配がしてきたような……。
「この前、なんとなく世間話みたいに切り出されたの。最近、自分から騒動らしい騒動を起こしてないって」
「そりゃ結構じゃない」
「レミィにとっては不満なのよ。レミィは、自分達吸血鬼が最強の種族で、常に世界の中心でないと気がすまないって思ってるから。なのに最近何もしてないから、幻想郷で自分の関与しない何か別のことが起きてると、カリスマが落ちてるように感じる。そんなことを嘆いてたわね」
「ふうん、なるほどね」
よくわからないけど、とりあえずそう答えておく。とりあえずわかったのは、最強の吸血鬼の割にはえらい子供っぽい理屈だということだけど。
「そんな時よ、あなたに泥棒に入られたのは」
「私?」
「そう。あそこであなたをとっちめて、大々的に新聞で公表でもすれば、レミィにとっての自分の威厳も保持できたと思うんだけどね。あなたがまんまと逃げおおせてくれたせいで、余計に不足を実感したらしいわ。カリスマが足りない、カリスマが足りないって」
「いやそんな、カルシウムが足りないみたいに言われても……。まあでも、威厳ってことは、ようするに吸血鬼の力を誇示したいというか、皆を怖がらせたいとか、そんなところでしょ? なら、またいつものようにひと暴れでもすればいいじゃないの」
「そうなんだけど。飽きたんですって、そういうの」
……ああ、そう。
「それに、ただ破壊しつくすのは品が無いとか時代遅れとか、変にこだわったこと言い出してね。そこでなぜかいきなり、私も推理小説を読むって言い出したのよ。難しい本を読めるようになれば、カリスマも戻る気がするとかなんとか言って」
「はあ。それで本を貸したってわけね。でも、なんで推理小説?」
「その時私が読んでたのが偶然ミステリーだったのよ。なんでもレミィは、ミステリーを読めるのはできる女だって思ってたらしくて。まあ、否定する理由は無いから何も言わなかったけど。頑張ってわからない単語も調べて読んでたわ。読めない漢字は仮名辞典も引いて」
それはまた、涙ぐましい……。あのレミリアが辞書をひいて頭を掻く姿を想像すると、またなんともいえない気持ちがこみあげてくるというか。
「で、なんだか読んでるうちに本人も楽しくなってきたみたいでね。レミィが長編の推理小説を読み終えるなんて――といってもミステリーで百ページなら短編みたいなものだけど――、たぶん五百年生きてて初めてのことなんじゃないかしら。本人もずいぶん嬉しかったみたいで、おかげでカリスマ出てきた気がするって、あの喜びようったらなかったわ」
「はあ。そうなの」
ちょっとばかし厚い本を読んで小躍りするなんて、その時点でカリスマもあったものじゃないと思うけど……。さすがに周りの奴らも、その辺は空気を読んだのだろう。まあ、結局レミリアはレミリアらしいということなのかもしれない。
でも、とにかく……カリスマ云々はさておき、あらましはさっきレミリアが自分で言っていたことと一致する。この辺の話に嘘は無いみたい。
「それがあの娘がミステリーにはまったきっかけってわけね」
「まあね。だから元々は、あなたのせいでもあるのよね。いい迷惑だわ、本当」
わずかにため息が零れたように聞こえた。いつも通り静かな顔だけど、やっぱりパチュリーもこんなことに付き合わされるのは本意じゃないということかしら。
「でも、一つ長編を読了できたからって、いきなり自分でミステリーなんて書けるものなの? それもレミリアが」
「そんなわけないでしょう。脚本を書いたのは私よ」
「あなたが……?」
あれま。それは、なんと。
いやでも、よくよく考えれば……やっぱりレミリアみたいな子供に物書きなんて無理だろうし――せいぜい読書感想文ぐらいかしら――。他に紅魔館でそんな高尚な真似ができるとしたら、パチュリーぐらいのもの、か。
あの大図書館には古今東西あらゆるジャンルの本が集められている。主であるパチュリーはそのほとんどに目を通しているらしいから、当然ミステリーだって読んでいるはずだ。妥当な人選かもしれない。
「まあね。もっとも、初めはレミィが自分で書こうとしたんだけど。うーうー言いながら、原稿用紙半分もいかないでギブアップしたわよ」
「……なんだか聞けば聞くほど、ふわっと離れていく気がするんだけど。あの娘の言うカリスマとやらが」
そんなもの、初めから無かったんじゃない? そうでも言うように、パチュリーはふうと瞼を伏せる。
「そんなわけで、私も巻き込まれた口。ほとんど連日徹夜で書かされたわ。まったく、いい迷惑。そうは思わない?」
「ふん。まあ、同情しなくもないけどね。でも、迷惑なのは正直こちらの方よ。結局全部、レミリアの思いつきか暇つぶしに付き合わされてるだけじゃない。まったく、馬鹿馬鹿しいったら――」
そう肩をすくめようとしたところ、なにやらパチュリーの視線が浮いていることに気づく。パチュリーは視線の先に呼びかけた。
「咲夜。どうしたの?」
向かいの開いている廊下のドアに、ちょうど咲夜が通りかかったところだった。
こちらを向いたその胸には……あら、かわいい。可愛らしい子猫が抱かれている。
「ああ、これですか? 厨房にいたんです。どうも、どこからか迷い込んだみたいでして」
ふうん、とパチュリーは眺めた。
「尾が分かれていない……。ねこまたの類じゃないみたいね。厨房にいたというなら、食べ物につられて潜り込んだんでしょう。それなら、なにか食べさせてあげ――」
「あっ、あのっ! ちょっと待ってください!」
唐突に、素っ頓狂な声が飛んだ。
もちろん、こんな声を咲夜が出すわけがない。美鈴だった。遠く離れたテーブルの端から、慌しく咲夜の方へ走っていく。
「騒がしい。お客様方の前よ。分を弁えなさい。一体どうしたというの」
厳しい咲夜の視線が注がれ、美鈴は余計にしどろもどろする。
「あ、いや。そのう……その猫」
「猫が何?」
「その猫、私のなんですっ」
さも思い切ったように発言する美鈴。言った後で自分の大声に驚いたみたいに、おっかなびっくり目を閉じた。
「なんですって?」
「ええと、それはこの前道端で拾ってきて……。庭先に紛れ込んでたのを見つけたんです。お腹すいてそうだったし、一人ぼっちでかわいそうだったから。そのう。それで……」
「だから拾ったって? メイド長の私に無断で?」
「まあ……その。そういうことに」
「へえ。使用人の分際で、あろうことか勝手に部屋でペットを飼ってたっていうの。へえ」
咲夜のトーンがどんどんさがっていく。比例して、美鈴の顔もどんどん青くなっていった。それはもう目ではっきりわかるくらいで、見てて面白いぐらいだった。
咲夜は生身の人間だけど役職はメイド長。紅魔館に関わる万事に対応する。そして管轄は紅魔館全体で、実際雑務の五割は手足のメイドではなく咲夜自身が行っているらしい。時間を止めたりできるからそれぐらいはわけがないらしく、自称するとおり、パーフェクトメイドと言ってもいいぐらいの働きをこなす。
そして美鈴は、この屋敷の警備担当。いわゆる門番だけど、立ち位置は咲夜の部下ということになる。当然、美鈴は頭が上がらない。まあ、生粋の妖怪が人間にこうまでこき使われるなんて、嘆かわしいというか、憐れというかだけど。
咲夜は今にも懐からナイフでも出しそうな気配だった。見かねてか、パチュリーが声をかける。
「咲夜、食事中よ。血生臭いのはこの肉料理だけで充分なのだけど」
「……はい。申し訳ございません」
慇懃に礼をする。言われてすぐに怒気を引っ込めるあたり、さすがパーフェクトメイドといえなくもない。
「お腹がすいているのなら、何か食べさせてあげなさい。その後は逃がしてやればいいわ」
「わかりました。ちゃんとした猫用の料理をふるまって差し上げますわ。美鈴、あなたも一緒に来なさい。責任もって、明日にでも元の場所に帰してくること。いいわね」
「うう……はい」
では、失礼します。咲夜は軽く一礼し、美鈴を従えて廊下にフェードアウトする。
それを認めてから、パチュリーはぼそりと呟いた。
「まったく。あの猫、最近よく見ると思ったら、門番の仕業だったのね」
「よく見る?」
つ、とパチュリーはまた紅茶に口をつけて答える。
「ええ。困るわ。やつらは厚い本を前にすると、すぐ爪を研いで傷をつけるから」
猫、ねえ。さっき見た限り、首には一応ベルト式の首輪がされていたから、美鈴が飼っているというのは本当らしいけど。
にしても、まさか、今のも脚本通りのやり取りなのかしら。もしそうなら、あの猫もなにかあとあと事件に関わってくるのかもしれないけど……う~ん。
レミリアと違って、他三人は演技なのか素なのか判断しづらい。咲夜は万能だから女優でもなんでもそつなくこなすだろうし、パチュリーの方は台詞だけ覚えてやる気はこれっぽっちも感じられなかった。劇だということを、ちっとも意識していない。でもあまりに自然体すぎるから、かえって日常が舞台という今回の設定にははまっていた。美鈴は天然なところがあるからよくわからないし。
う~ん……。
とりあえず、メロンの切り身とにらめっこする。
備え付けのスプーンは、抉りやすいように先がギザギザになっていた。口に加えたまま、舌でざらりと縁をなぞる。右、左。こうしてると、なんとなく考えが浮かぶような気がする。なんとなくだけど。
これまでで――というのは、私が今日この日紅魔館に入ってから、今現在までで――もっとも事件に関わっていそうなものは、やっぱりあれだと思う。さっきの『肖像の間』で、見せられた、〝あの絵〟だ。
あからさまに不自然なタイミング。あの時はレミリアは絵の説明を忘れそうになり、咲夜に窘められていた。それは逆に言えば、〝説明をしなければならなかった〟ということだ。なぜしなければならないかというと、もちろん、今夜の事件のための、何かの手がかりだからに他ならない。
あの四枚の絵が、いったいどういう意味を持つのかしら……。
あるいは、これからどうにかなってしまうのか。何者かから盗まれたりするのだろうか。だとしたら、四枚のうち何枚が?
……駄目だわ。いくら考えても、推測の範囲までしか及ばない。大人しく、事が起こるのを待つしかないのかな……。
いや、ただ待つだけじゃ駄目だわ。そんな消極的な姿勢じゃ、後で絶対後悔する。そして、後悔は大概、してからじゃ遅い。
食事が終わったら、館中を探そう。部屋にはほとんど鍵がかかってるかもだけど、きっと、何かヒントがあるはず。うん、そうしよう。
ひとまず、またメロンにスプーンの先をいれようとした、その時。
「……あげましょうか」
不意に、ぼそりとパチュリーの声。その呟きが鼓膜を撫でる。
「はい?」
「教えてあげましょうか。今日起こる事件……その答えを」
*
パチュリーは眉一つ動かさず、いや視線すらもそのままで、ただ告げた。
教える……ですって?
「答えって、なにそれ。どういう意味?」
逸る気を抑えつつ、私はわずかに身を乗り出す。
「教えてあげるって言ってるのよ。犯人と、使われるトリック。その他もろもろね」
ドクン、期待に一瞬、心臓が跳ね上がる。
「……本当に?」
「ええ。あなただって、事件だなんだいっても、一番知りたいのはそこでしょう」
そりゃあ、そうだけど……。
パチュリーはいたって真顔。ということは、冗談で言っているのではない。そういうことだろうけど……でも。
「何言ってるのよ。まだ肝心の事件も発生していないのに、そんなこと……。というか、どうしていきなりそんなことを言うの? 敵に塩を送るようなことを」
「あなたと敵になった覚えは無いけどね。まあ、友人になった覚えはもっと無いけど」
「私はこの前、この趣味の悪い屋敷に入ってるのよ。泥棒として」
パチュリーは去年の夏祭りでも思い出すように、一瞬視線を浮かせて、「そんなこともあったわね」
「じゃあ敵も同然じゃないの。今日のこの悪趣味な企画だって、主旨の何割かは私への報復も兼ねてるんでしょう?」
「レミィや咲夜はそうかもしれないけど、私は別に。正直関係無いわ。現に当日あなたが暴れてた時、私はぐっすり寝てたし」
そういえば、あの時はこいつの姿は見てなかった気がする。けっこう派手に騒いだと思ってたけど、まさかただ寝過ごしていただけとは……。
「だから正直、あなたに興味なんてさらさら無いの。あなたがどうなろうが、あなたの人形がどうなろうがね。むしろどちらかというと、あなたに同情してなくもない。そもそも私だって、レミィに無理やり付き合わされたクチなのだし」
「あなたも?」
「そうよ。さっき言ったじゃない。まあそれを言うなら、紅魔館の連中は全員とも言えるけど。まあとにかく、巻き込まれるのはいろいろと面倒。本音を言えば、こんな面倒な企画はすぐにでもほっぽりだしたいくらいなのよ。だから、あなたにはさっさと勝ってほしいのだけど」
「それでとっとと謎を解いて終わらせろって、そういうこと?」
「信じられないと?」
「決まってるわ。そんな甘い言葉、裏があって当然。なら、そう疑うのも当然でしょ。第一、その提案が脚本の筋書き通りじゃないっていう保障がどこにあるの?」
パチュリーは若干困った視線を送る。
「保障なんて無いけど。あなたが負けたら、レミィが味をしめちゃうでしょう? 調子に乗って、第二回第三回を繰り返すわ。個人的に、こういう面倒事はこれっきりにしたいのよね。あなたは知らないでしょうけど、ミステリーの脚本を書くのって大変なのよ。でもこれであなたが勝ったら、もう飽きて二度と同じことはしないかもしれないからね」
ふうむ。なるほど。だからあえて私に正解を教えようと……。
一応、言っていることはもっともらしく聞こえる。病人みたいな顔色はいつものことだけど、こうして見る横顔は、本当に疲れているようにも見える。きっとこの脚本も、徹夜で書かされたのかもしれない。
「言っておくけど、今夜起きる予定の事件。難易度はかなり難しくなっているわ。作る時、レミィにそうしろって言われたからね。でもあなた、ミステリーなんて普段読まないんでしょう。なら事件が起こっても、絶対に犯人なんてわからないわよ」
「や、やってみなくちゃわからないじゃないっ」
ほう、とパチュリーは粉雪みたいなため息をつく。
「意地で買い言葉を飛ばす場面じゃないと思うけどね。あの人形は、相当大切なものなんでしょう」
それは……そうだけど。
それにしても、答えを教えてあげるだなんて。今のはさりげに爆弾発言なんじゃないかしら。
こんなことが聞こえたら、さすがにレミリアでも……。と、さりげなく向こう席の様子を窺ってみる。
「今日は無礼講です! さ~さ~! 一気にグッといっちゃってください、グッと!」
「ちょ、ちょっと。そんな一気に……ごぼごぼ」
なんだか珍しいことに、丘の上で溺れる吸血鬼が一人……。いらない心配だったらしい――てか、ワインは一気飲みするものじゃないでしょうに。
さて……どうしようかしら。
これは思わぬ僥倖。もし本当に答えを教えてくれるというなら、願ってもないこと。こんなにおいしい話はない。というか、おいしすぎて勝手に唇がゆるんじゃうくらい、おいしい。
何かの罠かと勘繰りたくなるけど……そもそもこの娘が私を恨む道理なんて無いし。仮に教えてもらうのがデタラメだったとしても、後で事件が起きたら検証してみればいい。いずれにせよ、話を聞いて損は一切無いはず。
なら……。
「そ……そうね。あなたがそんなに言うなら、聞いてあげてもいいかもね」
い、いけないわ。にやにやが抑えられなくて、変なふうになってしまった。
たぶんパチュリーにも気づかれたかもしれない。でも、こいつはさして気にすることもなく目を伏せた。
「そう。なら……そうね。こうしましょう。あなたに選ばせてあげる」
これまで眼球の動きだけしかこちらを見なかったパチュリーが、初めて首を向ける。
「選ぶ? 何を?」
「今からあなたに口頭で〝謎かけ〟を出す。それに答えるか、どうか。答えない場合、素直に事件を推理してもらうわ」
……謎かけ、ですって?
「なにそれ? 答えを教えてくれるんじゃないの?」
「だから、その問題を解いたら教えてあげると言っているのよ。わからない?」
こっちの察しの悪さに呆れたように、また溜め息をつくパチュリー。でも、つかれたこちらは納得がいかない。そもそも意味がわからない。
「何でそんなの解かなきゃいけないの。私に勝ってほしいのなら、四の五の言わず教えてくれればいいじゃない」
「別に、あなたに勝ってほしいなんて言った覚えは無いけど。もしあなたが謎を解いてみせたところで、本当にレミィが飽きるかはわからないしね。ただ、このままじゃあまりにもあなたが不憫だとは思っているわ」
「……同情ってこと?」
「そんな気を起こしたくもなるわ。そもそも、私は今回のゲストがあなただとは知らなかった。もっとミステリーに精通した、歯応えがある相手が呼ばれると思ってた。だから難易度を高く設定してしまった。でも、招聘されたのはミステリーのミの字も知らない非文化人。正直ガックリきたわ。そんな奴に今回の事件が解けるわけがないし、そいつの身を考えれば同情もしたくなるというもの。違う?」
「気に食わないわね。あなたにしちゃそんな気起こすのも珍しいし」
「怖い顔しないでほしいわね。プライドに障ったのなら、言い方が悪かったと謝るわ。でも実益という観点から見れば、あなたにとっては百利あっても一害も無い話。違うかしら?」
ここでフンと突っぱねることができたら、さぞ男前だと思う。でも……やっぱりあの娘を、蓬莱人形を盾にされている現状、どんな可能性も自分から捨てることはできない。なりふりかまう余裕なんて無いんだから。
「だったら……すぐ教えてよ。謎かけなんて、そんな意地悪は無しで」
「まあね。でも、こっちだって今回の脚本は、そこそこ作るのに苦労したの。それこそ三日ほど徹夜までしてね。そんな苦労の結晶の解答をあっさり教えるのも、製作者としては気が引けるのよね」
「じゃあどっちなのよ……。あなたはどうなってほしいの」
「どっちでもいいってことよ、正直。ただ、このままじゃあまりにもあなたが不憫だと思うし、かといってあっさり教えてしまうのも気が進まない。だからあなたに選ばせてあげると言っているの。チャンスぐらいはあげてもいいと思ってね」
「私がその謎かけに答えれば、あなたも気持ちよく答えを教えられるってことかしら?」
わずかに顎を上下させる。イエス、という意味らしい。
どっちでもいい。パチュリーは今そう言った。この娘の意図がいまいち掴めないのも、単なる気まぐれだからなのかもしれない。だとしたら、同情がどうとか、過度に気にする方が損なのではないか……。
なんだかそんな気がする。相手だってそうなんだし、こっちも軽い気持ちでいればいいじゃない。うん。
どうせ駄目なら駄目で、すっぱり事件の推理に切り替えればいいし。そうね、それが一番だわ。
「わかったわ。言ってみなさいよ、その謎かけってやつ。それを正解できたなら、本当に事件の答えも教えてくれるんでしょうね?」
「私は嘘はつかない。でも、その前に一つだけ質問がある」
「はい? まあ、どうぞ」
「『風が吹けば桶屋が儲かる』ってことわざ、知ってる?」
「……は? それは、まあ、知ってるけど」
「そう。でもそれはきっとことわざの意味だけよね。じゃあ、その由来は?」
「由来って……知るわけないでしょそんなの」
というか、なんでそんなこと訊くのかしら。いきなりことわざだなんて。こちとら古典なんて、ミステリ以上に縁が無いっていうのに。
「そう……いいわ。じゃあ、出してあげる」
でも、なぜだかパチュリーは納得したらしい。改めて、こちらに向き直る。
謎かけ。それさえ解いてみせれば……。
蓬莱人形が、無事に戻ってくる!
「聞かせて」
私も顔を寄せる。では、とパチュリーはわずかに顎を引いた。
「問題。まず……『ある宇宙船が、時速αで一直線に航行しているとする』」
「……は? 宇宙船?」
「いらない横槍なら閉まっておいた方がいいわよ。一度しか言わないから、よく聞きなさい。
『今から1/2時間後、この宇宙船の速度をαの2倍にする。さらに1/4時間後には、また2倍にする。さらに1/8時間後には、また2倍。こうして、一定速度を保った前段階の半分の時間が経つごとに、2倍に増していく。
そこでクエスチョン。この宇宙船は、1時間後、どこまで進んだか? 今いる地点から、どれだけ離れたところに位置しているか?』」
……速度? 距離の問題?
「以上よ。期限は今日中。答えがわかったら、大図書館までどうぞ」
言うなり、パチュリーは音も無く立ち上がる。
最後に一瞥をくれると同時に、いつものそっけない調子で言い放った。
「せいぜい頑張りなさい」
5
……ええと。
時速がαでしょ? 仮に一時間後を × とするならば……。
……速度を倍増させるごとに、進むのはαの半分。α/2。
「ねえ~。アリスさ~ん」
ということは、導かれる式は……ええと。
時間が半分になって、速度が倍になるんだから……ええと、ええと。
「おぉい、アリスさんてば~。聞こえてるんでしょ~。こんなに近いのに、聞こえてないはずないですよね~。いやはや、これはどうやら耳が悪いんじゃなくて、アリスさんの性格が悪いとしか――」
「……だあぁっ! もうっ! 横からグチグチうっさいわねっ!」
と、一発雷落としてやったのだけど。文はひょいと肩をすくめただけだった。
「んなこといって、うるさいのはアリスさんの方じゃないんですか? デシベル的に」
「あなたわざとやってんでしょっ! ひとが集中してるのに、ピーチクパーチクさえずってからにっ! 話し相手が欲しいなら、牧場行って牛とでも喋ってればいいのよっ!」
勢い、ペンを投げつけてやった。文が首だけでかわすと、ペンは音をたてて壁に突き刺さった。
「いやですねぇ、アリスさん。この季節に牧場がやってるわけないじゃないですか。だいたい、先に無視したのはそちらさんですしね。なら自業自得、因果応報ですよね~」
「勝手にせまられた因果で応報されてたまるかっての!」
……って。ああ、もう。駄目だわ。駄目だわ。駄目だわ!
何を言われても無視のつもりだったのに。またつい構っちゃった。こんな奴に構ってる暇なんて、私には無いんだから。一刻も早く、この問題を解かないと。
「とにかく」
席を立ち、ペンをひっこぬくついでに、床の文に鋭く言い放つ。
「こっちは暇人に関わってる暇無いの。だいたい、あなた何しにこの部屋に来てるの。冷やかしなの?」
ハハハ、文は乾いた笑いで、「案外そんなものかもしれませんね」
……この赤新聞女め。今日用意されているのは殺人事件らしいけど、下手をしたら別にもう一件発生してしまうかもしれない。主に、私の忍耐次第で。
「ま、出て行きたいのは山々なんですがね。ご覧のとおり、私は写真ができるまでここから動けないわけです」
文は床の絨毯に両肘をたてて、胸を伏せて寝転がってた。水泳みたいに足をパタパタさせてくつろいでいる。
周りに置かれている器具の数々は、写真を現像するセットらしかった。メスシリンダーに攪拌棒、コップ大の銀色の筒――文は現像タンクと呼んでいた――、各種処理薬品、他もろもろの奇妙な器具……。いずれにせよ、私には縁もゆかりも、ついでに興味すら無い品々が山と並んでいる。
「そもそも、なんで今現像してるのよ。家帰ってからやればいいじゃない」
「いやぁ、そう言われましてもですね。フィルムの数も限られてますし、なにより映り具合を確認しないといけませんから。明度の問題があればレンズの調整もしなきゃならないわけですし。後で撮りなおしはきかないから、今のうちに具合をみなきゃならないわけですよ」
「出来をみるだけなら、一枚二枚で十分でしょ。なんでこんな大量にやるの。旅行帰りじゃあるまいし」
「サンプルは多いに越したことはないでしょう。いやぁ、楽しみですね~。うふふふふ♪」
一人妄想を楽しむ文。ようするに、単に堪え性が無いだけらしい。つくづく呆れた奴だった。
「それにですね。後々事件を推理するためにも、アリスさん、必要でしょう? 私の写真が無ければ、ご自身の記憶に頼るしかないわけですからね。あなた、事件を解決しないと、なにやらまずいらしいじゃないですか。いいんですかねぇ、私の写真が無くても」
う……さすがに気づかれてたか。パパラッチに付け入られることほど面倒なことはない。
こちらの沈黙に満足したらしく、文はふふんと笑った。
「なら、盟友たる私の協力は、百害あって……もとい、百利あって一害無し。むしろ、無くてはならないもの! なればこそと思い、私はこの時間、他にも建物を調べたくて調べたくてたまらないにもかかわらず、あなたのためにこうして、黙々と現像の作業を続けているわけです」
協力といいながらも、しっかり足元を見るような言い方をしてくる。新聞記者なんて、基本的に性格の歪んだ卑屈な奴がやることだから仕方ない。
「だとしても、なんでわざわざ私の部屋に来るの。自分の部屋でやりなさいよ」
食事後、私にあてがわれたこの部屋は、ベッドが一つ。机が一式。そして鏡台が一台。『控えの間』といい、その名のとおり、客人に与えられる部屋らしい。
同じ部屋はここだけでなく、約十畳程度のものが、この東棟のそちこちにあるらしい。窓がめったに無い紅魔館には珍しく、真ん中から開閉する木窓がある。その辺は、一応来客用らしいといえなくもない。
文も隣に、同じ部屋を宛がわれているはずだった。それがさっき笑顔で訪ねられて、中に入れると、なぜかその場で写真の現像を始めてしまった。ムチャクチャだった。
「そこはほら、アリスさん。せっかくこの悪魔城紅魔館に来ているわけですから。この興奮、私一人で持て余すのはもったいないじゃないですか。誰かと分かち合いたくなるのが性ってものでしょう。こんな時に一人でじっとなんてしてられませんよぉ」
……なるほど。ようするに、暇だった、と。
「ならとっとと終わらせて戻ってくれないかしら」
「そう言われましても、写真の現像ってけっこう集中力使うんですよ? 現像液の注入から気泡抜きは、五秒程度で素早く。撹拌はタンクを振るだけですが、単純な作業ゆえに対流に気を揉みますし、とってもデリケートなんです。フィルムの数は限られてますし、失敗はできませんしね~」
「限られてる? 別のカメラも使えばいいじゃない」
文は今日、カメラを二つ持ってきていた。というのも、会ったときから首から二つ提げていた。私の見た限り今夜使っていたのは、今フィルムを抜かれて抜け殻になっているカメラの方だった。
「もう一つの方はポラロイドです。撮影してすぐ写真を吐き出せるので、事件現場の撮影に使う予定です。即時性と改竄防止性を考えれば、犯罪捜査にはこちらの方が格段に適しているでしょう。でも写せる数に限りがありますので、その時のためにわざととっておいてるんですよ。もちろん、精緻な絵図はこちらのカメラで撮りますけどね」
こいつはカメラのこととなると、さらに饒舌さが増す。私は文ではなく、側の壁に吐き捨ててやった。
「あっそ。ならせめて、その口だけでも黙っててほしいんだけどね。お願いだから」
「そういうアリスさんこそ、さっきからうんうん唸ってばかりで何やってるんです? それ、数学のお勉強ですか? 事件に真剣に取り組むなら、この時間のうちにいろんなところを見て回ればいいじゃないですか。なにもこんなところまで来てすることですかねぇ」
「いや現地で現像してるあなたに言われたくないから……。それに、こっちにはこっちの事情があるのよ」
「ああ~。こうしている間にも、裏ではきっと何か起こってるのかもしれませんね~。いや、もうひょっとして起こってしまったのかも? きゃあ~ん! どうしましょう~」
文は発情期の猫みたいに、自分の両腕を抱いてぞくぞくさせた。こっちがすっかりしらけているのを、まるで気にも留めずに。
机に戻り、文に背を向けて座る。あんな奴にかまけてなんかいられない。この問題、今日中になんとかしなきゃ……。
さっきパチュリーから与えられた、この問題……予想はしていたけど、なかなか解けない。
この部屋に時計は無い。案内されてから、もう三十分ぐらい経っただろうか。すぐに一人になってさっきの問題に取り掛かったから、だいたい同じ時間、机に向かっていたことになる。
連れてこられたこの部屋には、机の他に、ペンが備え付けられたメモ用紙があった。書くものが置いてあるなんて都合がいい。無ければ咲夜にでも頼んでみようと思っていた。
その用紙ももうかなりの数に数字が書き殴られ、くしゃくしゃになった残骸が机の上に下にと散乱している。お茶でも飲んで一つリラックスしたいところだけど、さっき咲夜は別れ際にこう言っていた。「本日はわたくし、洗濯や掃除等の雑務をこなさなければなりません。呼ばれても応答しかねますので、申し訳ありませんがよろしくお願いします」。つまり、お茶を運びに呼んでも、あるいは私が我慢できなくなってそこの天狗を殴り殺したとしても、彼女は来てくれない。ただ、「雑務」というのが少し気になるけれど……。まあ、メイドならやらなきゃいけない仕事なんて、いくらでもあるだろうし。深くは考えないでいいだろう。
私が今気にするべきは、目の前のこの問題だ。
これさえなんとかすれば、蓬莱人形が戻ってくる。正直推理なんて自信が無いし、これが最も可能性のある最短距離。答えを教えてくれるっていう、パチュリーの提案を鵜呑みにするわけじゃないけれど……解けるなら解いておいて損は無い。
*
気の取り直しも兼ねて、もう一度、最初からまとめてみる。
まず、パチュリーから与えられた問い、全文はこう。
<ある宇宙船が、時速αで一直線に航行している。
今から1/2時間後、この宇宙船の速度をαの2倍にする。
さらに1/4時間後には、また2倍にする。
さらに1/8時間後には、また2倍にする。
こうして、一定速度を保った前段階の半分の時間が経つごとに、2倍に増していく。
この宇宙船は、1時間後、どこまで進んだか? 今いる地点から、どれだけ離れたところに位置しているか?>
まあ、どこからどう見ても数学の問題よね。
正直、数学はさほど得意というほどじゃないけど……。でも常識的に考えて、時間と速度がわかっていれば、距離が求められるはず。
この場合、速度は問題文の通り、αでいいでしょう。とすると、1/2時間まで航行する距離は、
α×1/2=α/2
これで間違いないはず。
なら、同様に、1/4時間後、1/8時間後の場合は、
2α×1/4=α/2
4α×1/8=α/2
こうなるわけよね、たぶん。
こうやって出た答えを全部足していけば、1時間後の速度が割り出されるはず。あとは、これを繰り返していけばいいと思う。
8α×1/16=α/2
16α×1/32=α/2
32α×1/64=α/2
……あれ?
ここまでやったところで、はたと気づく。
答えが、全部同じ……?
ふむ、なるほど。面白いわね。
ここまでやってすべてα/2ということは……つまり、どの時間帯で計算しても、同じはず。おそらくは、1/128時間、1/256時間と繰り返していっても、進む距離はα/2。
とすると、問題はこのα/2。これをいくつ足せばいいのか。これさえわかれば……自ずと1時間後の距離も出てくるわ。
でも、このままではαはいずれ無限に等しい速度になり、α/2も限りなく、およそ無限回繰り返し足されることになる。これじゃあ駄目。
眉間を揉み揉み、ここぞと考える。
……α/2を足す数を、 ×としたらどうかしら。そうすれば、×回目の距離は、
① α×1/2=α/2
② 2α×1/4=α/2
③ 4α×1/8=α/2
④ 8α×1/16=α/2
:
:
:
:
x(αの×乗)α×1/2(αの×乗)=α/2
よしよし、なんだか波に乗ってきたわね。
ここまでくれば、あと一息。1時間後の進んだ距離は、×回の合計なのだから、単純に、
x×α/2=α×/2
出たわ! これが最終的な答え! α×/2!
…………。
ピタリ、ペンが止まる。
……って、これじゃ駄目じゃないの。
自分で勝手に代入したxがそのままになってる。こんな回答をパチュリーに提出したら、軽く突っぱねられるだろう。
う~ん、どこがいけないのかしら。
そりゃ、私の専門は理系だけど。科学と数学って似てるようで全然違うし。こんなことなら、歴代フィールズ賞の文献ぐらい目を通しておくべきだったかかしら……。
…………。
こんな時、魔理沙がいたら……。
あいつは、数学はなぜか割と得意だった。特に確率の問題とか。
いつだったか、こんなレポートを書いていた。「宇宙理論からみたおみくじにおける大吉の選出率の蓋然性」。馬鹿馬鹿しくて読む気にもならなかったけど、実は案外中身は凄いことを書いていたのかもしれない。
「数学的感覚は日常でも養える。なら養っとかないと損だし、いずれ損するぜ」なんて言ってたっけ。
そういえば、関係無いけど……今朝のあいつは、いつになく無茶苦茶だった。あれからすぐ帰したものの、結局あの本の山は置いていった。最後には、「どうせお前が読むことになるんだから同じだぜ」、なぁんて負け犬じみた捨て台詞を残してくれたけど……。
…………。
……って、そんなことはどうでもいいのよ私!
だから、駄目なの! 他人に頼っちゃ、駄目なんだってば!
今、ここには自分しか――この空気の読めない天狗を除けば――いないんだから。自分でなんとかしなきゃって、さっき決めたばかりなのに。
頭抱えて悶絶してたところで、なにやら肩に手が置かれた。
「アリスさん、アリスさん」
ポンポン。後ろから叩かれる。
ああもう、こいつは邪魔臭いし! 黙れと言ったら黙ってろ……と、罵ってやろうとしたところ、
パシャリ。
……っ!?
たちまち、視界が閃光で眩んだ。
というか……なんだか前もこんなこと、あったような……。悶えていると、ハハハと文の陽気な声が聞こえた。
「いやぁ、ちょっとフラッシュの調子を一緒にみてほしかったんですが。どうやら問題無いようですね~」
……って、やっぱりあんたか!
ふんふん♪ ご機嫌な鼻歌が遠ざかっていく。首根っこひっとらえてやりたかったけど、こう視界が効かなくては仕方なかった。
ううう……至近距離で、強い光ぶっ放しよってからに。
…………。
ん? 光……。
「……そうかっ。光だわ!」
「な……なんです?」
いきなり立ち上がったせいか、今度は文の方が目を白黒させていた。瞼をこすり、視界を強引に覚醒させると、構わずもう一度机上に向かい合う。
そうだわ。私は確かに数学は苦手だけど、科学に疎いわけじゃないんだから。
私達が一般に言う速度には、限度。上限がある。それを忘れていた。
物理的にこれ以上速くならない、究極の速度。そう、〝光の速度〟だ。宇宙船は、光よりも速くはならない!
アインシュタインの特殊相対性理論によれば、光の速さは秒速三十万キロメートル。
となると、一つの速度が変化するまでの区画がα/2だから、さっきの式に代入すれば……
(300000のx乗)×300000×1/2(300000のx乗)=300000/2
……これだわっ!
これで×が求められる。あとは、上限×の数になるまで、例の式を全て足した合計Σを計算すればいい!
ま、まあ……。相手は光速だから、相当長い計算式になりそうだけど。
いや、このぐらい難しいのは当然だわ。今夜の事件の答えは、この難易度に見合っているからこその難易度に違いない。
明日の朝までなら充分! やってやるわ!
「あれ? あの、アリスさん。アリスさん……?」
腕まくりした矢先、またしても肩を叩かれる。私は心の中でずっこけた。
この天狗はまた、ひとの気合に水を差しよってからに……。またフラッシュされたくないので、瞼を細めて振り向いた――おかげで睨んでるみたいになってしまったけど。
ところが、文はなんだか少々様子が違っていた。というより、私の方ではなく、上半身を乗り出して、窓から外の景色を向いている。
「ちょっと見てください、あの部屋」
右手の方を指差す。私は立ち上がり、隣から外に首を出す。
ん~? あの部屋?
部屋かどうかわからないけれど、目を凝らすまでもなく、夜の暗闇の中に光る部分を見つけた。光は四角く切り取られているので……なるほど確かに、どこかの部屋の明かりが点いている、と考えた方が妥当らしい。
「あそこがどうしたの」
「どうしたのって、わかりません? 煙が出てるじゃないですか」
言われて、もう一度目を凝らしてみる。確かに、なんだかもくもくと灰色っぽいものが湧き出している気がしないでもない。
「まあ、出てるわね。気持ち」
「いやいや、気持ちじゃなくて思っくそ湧いてるでしょ。あなた、本当に目開いてるんですか?」
「……悪かったわね。私は元人間だから、天狗のあなたみたいにそんなに夜目は利かないのよ」
「今さら自己紹介はどうでもいいんですよ。それより、どう思います?」
どうって……料理でもしてるんでなければ、煙が湧き出る理由は一つしかない。きっと中で小火でも出てるんだろう。
そう、中で小火でも……。
…………。
「……ってあれ、燃えてるじゃない!」
「ですよね、ですよねっ!」
文はきたきたとばかりに声を張り返す。興奮しているのか、小刻みにジャンプすらしていた。
「きたんじゃないですか? これ、きたんじゃないですかっ?」
「んなこと言ってる場合じゃないでしょ。火事よ、火事!」
あわあわあわあわ。どうしよう、どうしよう。
火事の時は、ええと、ええと……。『お・か・し』だったっけ、それとも『お・は・し』だったっけ……。
というか、緊急事態にお菓子だなんて、考えた奴はどれだけ不謹慎なのか、お菓子好きすぎるのか……。
ええい! まず、身支度を整えなきゃ……と動き出したところで、ふとぴたりと足を止めた。
……ん? 待てよ。
よく考えたら、そんなに慌てる必要もないんじゃ?
ちょうど私が来ている日に、火事が起こる。そんな偶然考えにくい。だとすれば、あれも十中八九レミリアのシナリオ通りのはず。とどのつまり、ただの自作自演……。
そう考えたところで、一気に緊張感が抜けてバカらしくなってきてしまった。おそらく間違いないだろう。イベントのために自分の家で火を焚くなんて。さすがレミリア、限度というものを知らない。
でも、まあ……そうも言ってられないのよね。あれが向こうの仕掛けだというなら、無視するわけにはいかないし。
「確かこの棟は、上から見てL字になってたわよね」
「そうです、そうです。ここと建物は同じだから、廊下と階段を継げばすぐです。だから行きましょう。今すぐ行きましょう!」
……どうやらこいつは、本格的に興奮すると同じことを二回繰り返す癖でもあるらしかった。どうでもいいけど。
腕を引っ張られる。強引に廊下に連れ出されたところで、さすがに私の腹も据わってきた。
とにかく……どうやらようやく、始まってしまったのね。
この先に何が待っているのか。ただの小火騒ぎで終わるはずがない。
流れゆく真紅の廊下の壁面は、どことなく陰鬱な未来を予感させた。
6
「見えた明かりの位置からして、現場はのぼった先の階です。間違いありません」
階段の数段上を先に昇る文に、私は尋ねた。
「間違いないって、その根拠は?」
「疑うつもりですか? やめてほしいですねぇ。烏天狗の視力と方向感覚が、距離を見誤るわけないでしょう」
階段を駆け上がった先は、同じような廊下が伸びていた。文は迷わず左に進む。
遠くの突き当たりに、人影を発見。突き当たりのドアの前で立ち往生している。あれは……。
「咲夜さぁ~ん!」
笑顔でぶんぶん手を振る文。まるで数年来の友人との待ち合わせみたいだった。つくづくこいつは空気を台無しにしてくれる。
「いやぁ、お待ちしてましたよ~! いったい何が起きたのですか? 何が起きたというのですか?」
「ああいらっしゃいましたか、お二人様方。申し訳ありません。ただ今緊急事態でして」
と言いながら人影は振り返るのだけれど……咲夜は緊急事態のキの字もないぐらい落ち着きはらっていた。ようするに、こいつも空気も糞も無かった。あんまりリラックスしてるものだから、やっぱり数年来の友人とでも待ち合わせていたみたいに見えた。
なんだかここまで急いでやってきた自分が馬鹿みたい……。咲夜が冷静なおかげで、安心というか逆に肩に疲れを感じながら、私は尋ねた。
「……何よ、緊急事態って」
「いえ、少し小火が出たみたいでございまして」
ひょい、と肩をすくめる咲夜。
「火元はどうやらこの部屋なのですが、鍵がかかっていて入れないのです。ちょうどよかったですわ。手を貸していただけません?」
ちょうどよかったと言う割にはこのメイド、口振りからして、どうやら私達が来るのを待っていたらしい。なにせその顔に、「やれやれ、やっときたか」と書いてある――倦怠期の恋人が待ち合わせに遅れてきたら、きっとこんなそっけなさなのかしら。
彼女の足元には二つ、水がなみなみと湧いたバケツがあった。消化のために持ってきたのだろうけど、中に入れないとはどういうことか。
「ここ、なんの部屋なの? 鍵がかかってるって、あなたは開けれないってこと?」
「ここは……というより、このフロアの部屋は、全て『給仕の間』と呼んでいる居室になります。その名のとおり、館の使用人の自室です。ここは美鈴の部屋ですね」
「美鈴さんの?」文が訊いた。「じゃあ、鍵もあの人が?」
「ええ。でも、いったいどこに行ったのやら、門番の姿が見えなくて。発煙を見たというメイドの情報から、とりあえず私が現場に駆けつけたわけです」
なるほど。美鈴の姿が見えない、と。
でも、自分の部屋がひどいことになっているっていうのに。それでも出てこない、ということは……。
「それって、ひょっとして、この中にいるんじゃないの? あの中華服」
「まあ、そんなところでしょうね」
またしても、他人事みたいに肩をすぼめてみせる咲夜。もし部屋に美鈴がいるとしたら、今頃丸焼きになってるかもしれないのに……。そんなことは屁にも思ってないかのようだった。
ところで。こうしてだらだらしている間にも、ドアの下の隙間から煙が漏れてきていた。さすがの咲夜も、いらないお喋りを打ち切る。
「とにかく、いち人間のわたくしの腕力では、ドアを破ることはできません。手伝っていただけませんか?」
ドンと胸を打ち鳴らして、文が進み出る。
「そういうことでしたら、わかりました! 私に任せてください。一瞬で粉々にしてみせますよ~!」
さっそく右手に拳をつくり、腕をぶんぶん振り回し始めた。嫌な予感がしたので、慌ててその肩を叩く。
「ちょ、ちょっと。壊すのはいいけど、ちゃんと手加減してよね」
そりゃ、天狗の膂力をもってすれば、木製のドアの一つ壊すのはわけない。ただあんまり気合が入りすぎると、扉どころか中にいるであろう美鈴までミンチになりかねない。別にあの娘の体を心配するわけじゃないけど、いらない面倒だけは増やさないでほしかった。
「わかってますよぉ。アリスさんてば、着てる服は派手なくせに心配性ですね。こんな古ぼけた扉、デコピンで十分です。一応、ちょっとだけ下がっててくださいね~」
服の派手さは関係無いでしょうが……。渋顔こさえつつ、咲夜と一歩後ろに下がった、ちょうどそのタイミング。廊下の向こうからレミリア、パチュリーがその後ろから駆けてくるのが見えた。
「話は聞いたわ、咲夜。火元の様子は?」
「ああお嬢様、今から中を確認するところですわ。では、文さん。よろしくお願いします」
「はいは~い。任せちゃってください♪」
右腕をまっすぐ水平に伸ばすと、中指を親指で輪をつくる。少しの間、引き絞られるように力がこめられ、その中指が弾かれた。
めきり。響いたのは、たかがデコピンとは思えないほどの衝撃音。背けた顔を戻した時には、木製の扉がお腹に鉄球でもくらったみたいに二つにひしゃげていた。
だめ押しに、文は残った残骸を蹴り破る。障害がなくなり、完全に廊下との世界が開通する。
「失礼します」
真っ先に、咲夜が足を踏み入れた。続いて、文、レミリア、パチュリー。後ろに下がりすぎていた私は、結局最後になってしまう。
中の様子を伺い、息を呑んだ。
火の勢いは、思っていたほどじゃない。燃えていたのは床の一角だけだった。ぱちぱちと焚き火みたいに燻ってはいたけど、部屋自体が広くはないので、燃え広がっているわけでもない。大事には見えなかった。現に、入るなり咲夜が水をぶちまけると、火の粉はあっけなく消火された。
でも……問題は、どうやら火事の方なんかじゃなかった。
部屋の右手奥、壁に接するように置かれたベッド。部屋に入った時真っ先に視界に飛び込んだのは、火よりもむしろこっちの方だ。
シーツの上に、人が倒れている。うつ伏せだった。しかし顔を確認するまでもなく、それが誰かは人となりですぐにわかった。
キャハ、文がはしゃぎ声を上げる。
「あら♪ ひょっとしてアレ、美鈴さんじゃないですか?」
ひょっとしなくとも、このチャイナ姿は間違いなくあの門番だろう。咲夜が駆け寄り、その腕をとる。
そして、あっさりと口にした。
「……死んでますね」
*
美鈴が死んだ。ベッドの上で、死んでいた。
…………。
いやまあ、死んだ振りなんでしょうけど。
一歩前に出ながら、レミリアが声色を変えて――棒読みで――尋ねる。
「それは本当なの、咲夜?」
「ええ、脈がありません」
はあ、なるほど。脈が無いんじゃ、死ぬしかないわね。
死体が発見される。普通考えれば、これが今一番緊張感が高まる瞬間なんだろうけど……。レミリアの大根ぶりもあいまって――それも稀に見る極太――、やっぱりただの茶番の域から出ない。隣じゃ喜びを抑えきれない天狗が小躍りしていたし。なんというか……こんなくだらない殺人現場はそうそう無い、そう断言できる。
「ああ、そんな。なんということかしら」レミリアの棒読みが続く。「美鈴が死んでしまったわ。信じられない。パチェ、どうしましょう。どうしましょう?」
「そうね。あんなにいい娘だったのに。しくしく」
パチュリーの目には涙が溜まっていた。一瞬本当に泣いているのかと思ったけど、左手にはしっかり目薬が握られていたので顎が外れそうになった。
「ああ……。本当、愚図で使えない――じゃなくて、誰よりも頼れる門番だったのに」くるり、レミリアは向き直って、「で、咲夜。死因は?」
同情タイム終了。かわいそうなことに、天に召された門番への主人からの温情は、十秒そこら分しか無いらしかった――というか、それってどんな脚本なのよ……。
「ええと。おそらくは、これで間違いないかと思われます」
これ、と視線で示したのは、ナイフの柄だ。美鈴の背中から、苗木みたいに垂直に生えている。パッと見、果物用に使うぐらいの、かなり小さいものだった。
「心臓に届いたのでしょう。おそらく即死です。かなり深く刺さってますね」
ナイフを引き抜く。といっても、もともと本当に刺さってはいなかったらしい。というか、そのナイフ自体……どう見ても、突けばひっこむおもちゃだった。
咲夜は顔だけレミリアの方に向ける。
「もっとよく調べた方がよろしいでしょうか?」
「いえ、簡単にでいいわ。時間をかけると、お客様方も待たせることになるからね。死後硬直は?」
美鈴の足、胸、頭と触りながら、「まだのようですね、どうやら」
「ふんふんなるほど。ということは……えーと、パチェなんだっけ?」
舌を出して、茶目っ気撒いて振り向くレミリア。台詞忘れたのね……ここ大事そうなとこなのに。
「死後硬直が始まるのは、運動直後などの例外を除けば死後約二時間後。ゆえに、門番が死んだのは今から最大でも二時間以内ということになるわね」
そんなことを言っている。それにしても、うーん……死後硬直だなんて、本格的ね。
二時間以内。ということは、確か……。
懐中時計で確認する。今が零時十一分。ということは……うん、やっぱり。ちょうど私達が食事を終えた頃のはず。美鈴は食事中に猫の件で咲夜とどこかに行って、それきり姿は見ていない。一応矛盾は無い、というわけね。
にしてもまあ、もし本当に死んでたとしても、美鈴は妖怪だし。人間を基準にした死後硬直は関係無いだろうけど。でも、今夜は全員が人間という設定。なら、やっぱり二時間以内ということで間違いないと思う。
パチュリーの説明の間、レミリアはうんうんとわかったような、それでいてあんまりわかっていないような頷きを繰り返していた。
「オーケイオーケイ。じゃ、咲夜。他に死因になりそうな傷がないかだけ確認して」
「わかりました」
ごろりと転がし、美鈴の体を仰向けにする。
ここで私はぎょっとした。美鈴の顔は、なんだか妙に生気が無かったのだ。
目は半開きで、瞼の奥の瞳孔に反応が無い。おまけに咲夜にいくら揺すられても、ピクリとも動かない。唇も青白いし……これってまさか、本当に死んでるんじゃ……?
「ね、ねえ。ちょっと」
肘でつつきながら、小声で呼びかける。パチュリーは鬱陶しげな視線をよこした。
「何か?」
「その……あれ、本当に死んでるように見えるんだけど。どうなの?」
「死んでるわよ」
「……へっ?」
「死体役なんだもの。当然じゃない」
何を驚くことがあるのか。そう言うでもなく、パチュリーは平然と告げる。
「じ、じゃああなた達、本当に殺しちゃったっていうの?」
そんな……いくら役立たずの門番の役だからって、あんまりすぎる。寸劇の最中に本当に殺される役を演じさせられるなんて。
ああ……不憫すぎて、柄にもなく同情したくなってきた。かわいそうな美鈴。葬式の際には、きっと霊前に香典を持って……。
「何か勘違いしてるようだから言っておくけど、薬を飲んで死んでるだけだからね」
「……は? 薬?」
「そう。服用すれば、一時的に仮死状態になる薬。先日竹林の蓬莱人から買ったのよ。レミィが、死体役にはリアルさが欲しいとかなんとか言ってね。化粧させて死に顔を作ることもできるけど、やっぱり本当に死んでもろうのが一番手っ取り早いから」
「じ、じゃあ。仮死ってことは、後で生き返るの?」
「何もしなくとも半日もほっとけば、勝手に心臓が動くらしいわ。ちゃんと蘇生できるわよ。咲夜がえらい高値でぼったくられたって嘆いてたわ。起きた後は、むしろ生前より元気になるくらいだそうだし」
なぁんだ……よかった。
心の中で、胸を撫で下ろす。さすがのレミリアも、たかが茶番のために本当に家来を殺すほど外道じゃなかったみたい。まあ、後で蘇生するとはいっても、命令で死なせられることには変わりないから、相変わらず不憫なことに違いは無いけど。
「別に、本当に死んでくれてもよかったんだけどね、こんな奴。門番させるならカカシの方がまだマシだわ」
とまあ、死体に対しても遠慮の無い言葉を浴びせるパチュリー。この娘は門番になにか恨みでもあるのかしら……。
「あのう……レミリアさん」
おずおず、声を発したのは文だった。
「何かしら?」呼ばれたレミリアは、ご機嫌に振り向く。
「そのう、そろそろ……よろしいでしょうか?」
これまでは鬼のような勢いで質問やら太鼓持ちやらに終始していた奴が、どういうわけかここにきて不意に口ごもった。言い淀み、もじもじと身もだえさえ始めた。ここにきてトイレでも催したのだろうか。極端な内股で、気色悪いぐらいだった。
「だから、何が?」
「ですから……。あのう、写真、撮っても……」
「ああ、そういうこと。構わないわよ。ただ一応ここは現場だから、撮るだけで物には触らずに――」
「ありがとうございます!」
言うのが早いか、猛烈な勢いでシャッターを切りまくる。この数分我慢していた反動らしかった。見える横顔の口元は妖しく笑っていたし、時折キャハと嬌声すらあげていたので、傍から見ればほとんど病気だった。
まあ、こいつはどうでもいいとして……咲夜はまだ死体を調べている。まだ時間がかかりそうなので、改めて現場を見渡してみた。
咲夜が『給仕の間』と呼んでいた、この美鈴の部屋――まあ、普段からそうなのか今夜限りの設定なのかは知らないけれど、間取りはそう広くはなかった。
広さは縦に六畳程度。壁はレンガ。壁面に一箇所、ドアの正面の壁に、小窓がある。私が文と目撃した火の明かりは、この小窓だろう。ただ窓といってもレンガを一つ外しただけで、小窓というより通気口と言ったほうがいいかもしれない。当然狭いから、人の体どころか顔すら入りもしないだろう。
物らしい物、家具は少なく、ベッドなど最低限のものしかない。給仕の部屋というよりは囚人の部屋だ。さすがにこんなところに住まわされているとは思えないから、『肖像の間』のソファーみたいに今日の為に揃えたのだろう。
扉から見て右手壁際にクローゼット、その奥に簡素なベッド。今美鈴が横たわっている。布団はなく、シーツだけ敷かれていて枕も布団も無い。ベッドの足元には、なぜか空のマグカップが転がっていた。死ぬ前に何か飲んでいたのかしら?
次に。燃えていたのは、壁際に積まれた衣服らしかった。今は消火されてるからすっかり真っ黒だけど、床にあったのだからきっと洗濯物か何かだろう。そして、その側に倒れているのが、枝つきの燭台。こんなものが地べたに転がっているということは、どうやらこれが火の元らしい。ろうそくを立てる台部分が三つ又になっていて、側の床に横に伏せられていた。
そしてベッドの側に、腰くらいの高さの小物タンス……か。
注意を惹かれたのは、そのタンスの上にあった物だった。
……〝鍵〟かしら? あれは。
「ねえ、メイドさん」
咲夜は作業をしながら答える。「なんでしょうか?」
「そこにあるのって、この部屋の鍵?」
人差し指で示したせいか、皆が一斉にそちらを向く。
確かにそれは、見たところ金属の鍵だった。ただ、特徴的な点がその大きさ。柄の部分が長く十五センチほどあり、派手な金色をしていること――おそらく、見た目どおり金でできているんだろう。柄の先がキーホルダーを通す大きめの輪になっている。
あれがこの部屋の鍵なのかしら? その割にはずいぶん豪華というか、ものものしいけど。
「ふふふっ、あははっ」
嘲笑めいた笑い声。レミリアだった。
「まさかあなたの方から指摘してくれるとはね。演技の手間が省けたわ。咲夜、説明してさしあげて。ここ、重要だから、誤解のないようにね」
かしこまりました。一言ことわり、咲夜は美鈴の服をまさぐっていた作業を中断する。そして立ち上がると、注目の的だったそれを手に取った。
「仰るとおり、これはこの部屋を開けることができる鍵です。しかし、この部屋の鍵、というわけではありません」
文はふとシャッターを切る手を止め、「と、いうと?」
「これはマスターキーです。この美鈴の『給仕の間』だけでなく、この東棟全てのフロアの扉を開閉することができます」
なるほど。いやに重厚感のあるつくりだと思ったら、マスターキーだったのね。東棟……ということは、どこまでかしら?
この館はとかく窓がないから、どこが渡り廊下だったか判別がしにくいのよね。少なくとも、私と文の『控えの間』……あと、初めに案内された『肖像の間』も、あのマスターキーで開けられるってことでいいのかな。
でも、だとすると……。
「おかしいわね。なんで、そのマスターキーがそこにあったのかしら」
ちょうど思っていたことを、パチュリーが代弁してくれた。
そうとも、この鍵。おそらく、最初からここにあったものに違いない。少なくとも、私達がここに入る前から。
つまり……〝この部屋に鍵がかかっていたにも関わらず〟。
「ふふふ。ねえ、咲夜ぁ。この部屋を開けられるのは、そのマスターキーだけなのぉ?」
こちらの固い顔を見てか、またレミリアがほくそ笑む。
「いえ、他には専用の鍵が一竿だけ。それは美鈴が持っているはずなのですが……」
困惑したような演技をする咲夜。それに文が反応する。
「はずだけど、どうしたんです?」
「ですが、美鈴はそれを無くしたと言ってきました。ちょうど、あの食事の後のことです。なので部屋を開けるために、私はマスターキーを貸したのです」
「ふむふむ。じゃあマスターキーを管理しているのは咲夜さんなのですね」
「はい。私は紅魔館の雑事全てを一任されておりますので。万一が無いように、全館のマスターキーは常に肌身離さず携帯しています。そしてお嬢様の許しが無い限り、普段は勝手に使用することはありません」
言い切ると、咲夜はすっくと起立する。そして何を思ったか、惜しげもなく自分のミニスカートをたくし上げた。
しかし見えたのは純白の下着などではなく――まあ多少は見えちゃったけど、そんなものより――太ももに巻かれたベルトだ。どうやら二重になっているらしく、ベルト同士の隙間にはびっしりと金・銀色に光る物体が刺さり並んでいる。
銀色は、全て小振りのナイフだった。彼女が戦闘で使う投げナイフらしく、私にも見覚えがある。なるほど普段どこからあれだけ大量のナイフを繰り出してるのかと思っていたら、あんなきわどいところに隠してたのね。
そして金色の方が、どうやら件のマスターキーのようだ。こちらは数が少なく、左脚側にいくつか刺さっているだけだった。どれもタンスの上にあるものとそっくりなので、どうやら咲夜の言は事実らしい。
ときに、ナイフと言えば……。と、倒れている美鈴の背中に視線を送る。
今回の凶器も、一応ナイフに分類されるものだ。でも背に刺さっているのは、どう見てもただの果物ナイフでしかない。デザインにしてもサイズにしても――おもちゃであることを差し引いても――とても咲夜のものとは似ても似つかない。そもそも咲夜が弾幕戦で使用するナイフは、対悪魔を想定しほとんどが銀製だということは有名だ。殺傷能力の程は……まあ、今まで散々投げられているのでいまさら語るまでも無い。まあもっとも違うナイフだからといって、咲夜が犯人じゃないって証拠にはならないけど。
「なるほどね」パチュリーがぼそぼそと告げる。「それがどうしてあなたの手を離れてこんなところにあるのか疑問だったけど、門番が鍵を無くしたからだったのね。でも、少し軽率じゃないかしら。マスターキーを手放すなんて」
「……申し訳ございません。部屋に入れないと泣きついてきたもので、やむなく。この程度のことをお嬢様のお耳に入れられるのも煩わしいかと思いまして、報告は後にさせていただきました」
なるほど、美鈴らしい。らしすぎて、咲夜に泣きつく姿が容易に想像できてしまう。鍵を自分で無くす辺りなんかも、本当に。
ハハハと笑いながら、文はシャッターを切る手を再開する。
「無くしたまま死ぬなんて、迷惑な話ですねぇ。どこで落としたか知りませんが、後で探さなきゃならならない方の身にもなってほしいものですね。ま、私は残念ながら、お手伝いする暇はありませんけど~」
「……あら?」
皮肉の合間、ふと咲夜は再開していたまさぐる手を止める。そして、美鈴の服からまた鍵を取り出した。
「ああ、ありましたね。これですわ」
今度出てきた鍵は、手のひらに収まるぐらい大きさだった。紐も何もついておらず、錆びたような赤褐色をしている。ということは、あれがこの部屋の鍵……。
いや、待った。
なんだか嫌な予感がしてきた。あれが本当に、この部屋の鍵だとすれば……。
「……ねえ。今、それ、どこから出したの?」
「え? 美鈴の服の内ポケットを探したら見つかったのですが、それが何か?」
……なるほどね。どうやら予感的中、ということらしい。当たって欲しくない予感だけど。
それが何か、ですって? こいつ、いけしゃあしゃあと……。そんなの、わかりきってるくせに。
「お? お? なんです? 内ポケットにあったから、どうしたっていうんです?」
文はキョロキョロ、それぞれに首を振り分ける。こいつはわかってなかったらしい。
「あら、簡単なことよ」
レミリアが一歩、部屋の中心へ進み出る。そして満を持して、用意していたであろう台詞を語った。
「ここのドアを開けるための鍵は二つ。そのどちらも、部屋の中にあった。しかし私達が駆けつけた時、この部屋は錠で閉ざされていた。つまり……この事件は、密室殺人ということよ」
7
ひとまず別室で、事情聴取の時間を設けることにする。そんなレミリアのはからいで、私たちはまた廊下を案内されていた。先をゆく紅魔館住人達の案内に従いながら、考える。
うむむむ。まさか、密室殺人とは……。レミリアのやつ、やってくれるじゃないの。
外側からドアを開けるには、鍵がいる。でも、二つある鍵はどちらも部屋の中。内部には人が出入りできる窓、及びそれに準じる出入り口は無いに等しい。唯一中にいた美鈴が自殺じゃない限り、あの部屋を内から施錠できる者はいない。
今日の脚本はパチュリーが考えたものらしいけど……なるほど確かに、これは密室殺人と定義しても差し支えないようね。
密室殺人。俗に言う不可能犯罪で、殺人を行う犯人側が何か恣意的な仕掛け……すなわち、トリックを施さない限り自然には起こりえない事件。それぐらいのことは、初心者の私にもわかる。
むむむむむ……。
…………。
な……なにから考えればいいのかしら。
いや、ここはひとまず落ち着きましょう。時間に困ってるわけじゃなし。
いきなり私みたいな素人がこんな場に直面して、何もわからないのは当然。焦らず、一歩一歩考えていくべきだわ。
まずは……ひとまず状況を整理。うん、これしかない。まだ事件があれで終わったとは限らないけど、とりあえず現状わかっていることだけでも。間違ってはいないはずよね。
まず基本的なことから。私が暴かなきゃならないのは、「事件の犯人」、そして「犯行方法」。この二つ。犯行の動機は……まあ、絶対に知らなきゃならないわけじゃないから、後回しでいいでしょう。
早速、犯人の方から考えてみる。
一番初めに『肖像の間』で企画の説明があったとおり、容疑者と呼ぶべき人物は絞られてる。すなわちあの時紹介された、咲夜、パチュリー、美鈴、そしてレミリア本人。うち一人が被害者だから、自殺の線を除けば三名――ミステリーじゃ密室殺人で自殺は基本的にNGのはずだから、考えないでいいと思う。紅魔館には他にもレミリアの妹やメイド妖精達がいるけれど、この設定によりそれらは最初から除外できるから……つまりは三人のうちの誰か。単純に、そういうことになる。
ここまでは推理以前に、今回の前提としてオーケイ。確かなことね。
問題は、この三人の誰かということ。単独なのか、もしかしたら複数犯だなんて、そんな意地の悪い答えの可能性も捨てきれない。
いずれにせよ、彼女達とはこれから取調べができる。犯行があったであろう時間帯。その時、それぞれどこで、誰と、何をしていたのか。犯人を絞るには、話を聞いてからでも遅くはない――というか、聞いてからでないと推理が始まらないし。まあ、その後じっくり考えれば良い。
そんなわけで犯人はここまででひとまずいいとして、次、二つ目の問題。あの密室だ。
犯人はいったいどんなトリックを使い、あの密室を作り上げたのか……。いやむしろ、なぜ密室なんかにする必要があったのか……?
間違いなく、最大の謎だ。でも……うぅん、難問そう。
まあ、いきなり正面から考えても謎が解けるわけがない……か。同じように、一つ一つを確認しくべきね。
「ねえ、新聞記者」
「ハァイ、新聞記者ですが♪」
振り向く出歯亀記者は、呼んだこっちが目を背けたくなるほどのキラキラスマイル……。先ほどあれだけ写真を撮ったにもかかわらず、まるで疲れを知らない顔だった――というより、事態が進むほど元気になってるような……。
「その、写真の方はちゃんと撮れた?」
一瞬、目をぱちくりさせる。直後、文はハハッとご機嫌に笑い飛ばした。
「愚問中の愚問ですねぇ。私を誰だと思ってるんです? 伝統の幻想ブン屋、射命丸文ですよ。ナイスショット以外は写真とは認めませんからね」
誰だと思ってると訊かれたら、三流新聞記者と答えるしかないけれど……まあ、それはともかく。とりあえず、ちゃんと撮れてはいるらしい。
現場は一応このままにしておきましょう、そうさっきレミリアが言ってたけれど、後で犯人が侵入して証拠を隠滅する可能性はあるかしら。でも写真にして証拠を残しておけば、何も問題は無いはず。あとで推理する時も役立つだろうし……。
…………。
と、まあ。ここまでひとおおり、茶番に付き合って推理らしきものをしてみたわけだけど。
正直、どうでもいいのよね。もう。
というか、関係ないのだ。密室だろうが、どれだけ難しかろうが。なぜなら私はもう、先のパチュリーの宇宙船の問題がわかっている。
確かに、この事件、いや、茶番と言ってもいい。ざっと考えて、これの謎を解くのは、そんなに簡単じゃないのだろう。レミリアがあんなに余裕ぶるだけあると思う。
でも、謎を解くのと、謎を知るのは別。宇宙船の問題、もう解き方はわかった。後は残りを計算して、パチュリーに答えを教えてもらうだけ。
先ほどレミリアから、この事件の答え合わせの時間を指定された。明日朝七時。つまり、それまでにあいつが納得するような推理を用意しろということ。あとはこれからの事情聴取が終わってから、パチュリーに話を聞くだけだ。
余裕ね。こんなおどろおどろしい館だけど、今夜はよく眠れそうだわ。
「ねえ、貧血魔女」
「……それは私のことを言っているのかしら?」
低い声で首を向けるパチュリーは、もうほとんど幽鬼の類かなにかみたいだったけれど。別に貧血言われてカチンときたわけじゃないだろう。この娘は病弱でいつも蒼白だから、単に見た目が陰気なだけだ。
「あなた、引きこもりもいいけどね。たまには肌艶も気にしたら? 女はお肌が命なのに」
歩調を速めて追いつき、並んで歩く。だけど興味無さげに、パチュリーは視線を前に戻した。
「肌じゃなくて髪でしょ。それを言うなら」
「あら、お肌は大事よ。誰かと会えば、皆まずは肌を見る。様相が人生を映し出す、といったところかしら」
「そう。人間臭い台詞ね」
「そりゃあねえ。もっとも、私は魔法使いである前に女のつもりだから。紫外線は確かに毒だけど、まったく外に出ないのはよくないのよ。運動不足にもなるし。たまには外出でもしたら?」
「結構」
パチュリーはペースを足早にして、会話を拒否する。つれない奴。せっかく話しかけてあげたのに。
私はまた横に並びながら、「本ばかりのあんなとこにいて、何が面白いのかわからないわねぇ」
「悪かったわね。インドア派なのよ」
「あははっ、インドア派。そうはいっても、どうせ趣味は読書だけでしょ。それって、インドア派っていうより読書派よねぇ」
「読書だけって……そんなことはないけど」
「ふうん、意外じゃない。他に趣味があるの? 例えば?」
「……いや、それは……その」
おや? 今視線が泳いだような。
ひょっとして、言いたくない? 恥ずかしがっているのかしら。この娘にして、ますます珍しい。
おおっぴらにできない趣味なのかどうなのか。頬をほんのり上気させて足元に目を泳がせる様子は、普段とのギャップもあって案外とかわいらしかった。
「別に、なんでもいいでしょう。趣味なんてひとそれぞれで」
顔を背けられる。まじまじ見すぎていたらしい。
ああー、そっか。趣味って、小説の執筆のことか。
きっと今日のこの脚本の他にも、いろいろ書いてるんだろう。中には見られて恥ずかしいような小説もあるのかも。
この娘の書く小説。それはそれで……見てみたいような。うーん、でも、想像しがたいわ。
勝手に悶々としていると、パチュリーの視線が戻ってきていた。すっかり元通り気を取り直したようで、またぼそりと告げる。
「なんだか馬鹿に機嫌がよくなったのね。まさか、さっきの密室のトリックがわかったとでも?」
「ええ、わかったわよ。もっとも、密室の方じゃなくてさっきの問題の方だけどね」
ふふん、驚いたかしら?
胸を張ったまま台詞を待つ。さぞ驚きの反応が返ってくると踏んでいた。
だけど……
「は? さっきの問題?」
どういうわけか、首を捻られた。
「嫌ねぇ。あなたが言ったんじゃない。宇宙船がどうのっていう」
「ああ、あれね」
思い出したらしい。でもそれにしては、ちっともたいしたことじゃないように、「で、それがどうしたの?」
「どうしたのって、それがわかったって言ってるんだけど」
まあ、今はまだ解けてないけど。でも、解き方はわかってるし、あとは計算すればいいだけ。どうせ時間の問題だし、多少見栄を張ってもいいでしょう。
「だから、後であなたのところにお邪魔するから。図書館でいいんでしょ? だから、その時答えを――」
「あまり声を大きくしない方がいいわよ。レミィに聞こえるから」
おっと、そうだったわ。
レミリアはすぐ前を歩いている。でも、隣の咲夜とのお喋りで、気づく様子は無い。脚本通りに順調に進んでいるおかげか、とにかく楽しくてたまらない。そんな風情だった。
それなら……と、少しだけ音量を落として囁く。
「まあそんなわけだから、よろしく。ああ、紅茶も用意していてくれると助かるわね。まさか、今さら約束を反故するなんてこと、ないでしょ? まさかねぇ」
「約束は守るわ。でも、あなたには教えられない」
「そうよね。私には教え……」
……ん?
はて、今この貧血魔女はなんと言ったかしら。教えられない、とかなんとか。
「あなたには教えられない。以上」
…………。
足が忘れられたように止まる。私が声をあげたのは、気づいてパチュリーも振り返ったと同時だった。
「どっ、どうして!?」
それがどれぐらい大きな声量だったかはわからない。ただ、あっと口を押さえた時には、前のレミリアにも聞こえてしまっていた。上機嫌に水を差されたみたいに、据わった目で睨まれる。
「あぁん? どうした、急に」
「あっ……いえ、その。急にうどんが食べたくなって……」
って、何を言ってるの私は……。
これじゃごまかすどころか、頭のおかしい女だと思われても……。
「はあ、うどん。まあ、ステーキの後にあっさりしたものを食べたくなるのもわかるけどね。でもまあ、明日作らせてあげるから、一晩ぐらい我慢なさい」
……なぜだか納得された。いや、助かったけど。
また前を向き、レミリアは世間話を再開する。念のためさらにボリュームを落として、パチュリーに囁いた。
「教えられないって、どうして? 問題を解けばって言ったじゃない」
「言ったわね。でも、最後にこうも言ったと思うけど。期限は今日中、って」
「今日中? 確かに言ってたけど、まだ……」
……あれ?
懐をまさぐり、懐中時計を取り出す。現在時間は……
――零時四十二分。
「……ちょっと待ってよっ。今日中って、明日の朝までって意味じゃなかったの?」
「今日中といったら、今日の日付が終わるまででしょ。当然じゃない」
なっ……なにそれっ!
冗談じゃない。そんな子供騙しみたいな言い訳で……!
「こ、困るわっ。今さら、そんなことさらりと言われても……。私は、まだ時間があると思って……」
「なに、本当にそんな勘違いしてたの? アリス・マーガトロイドともあろうものが」
パチュリーの言葉に、馬鹿にするような調子は無い。本当に意外に思ったらしい。
うう。でも……でも。
とはいえ、事実やってしまったものは仕方が無い。頼みの綱はこの娘だけなんだから、拝み倒すしかない。
「お願い、もう少し待って。一時間でいいから、時間をくれない? あと少しなの。計算すればいいだけだから」
小声の中に、必死さを滲ませる。するとパチュリーは、困ったように息をついた。
「計算、ね。そんなことを言ってるようでは、やはり、あなたにはあれは難しかったようね。別に私は、寝るまで待ってあげるぐらいは構わないけど。でも時間にも限りがあるし、悪いことは言わない。素直に事件を推理した方がいいわ」
「素直に……って。真正面から推理した方が、まだ可能性があるってこと?」
「おそらく。その調子だとね」
でも……そう言われても、私はミステリ復帰組で初心者同然なのに。密室殺人なんて、わかるわけない。
どうしよう、この先……。
「……その、どうやら今のところは、あなた。両手万歳でまったく何もわかってないみたいだけど。でもこれから取調べで私たちの証言を聞けば、何かわかるかもしれないわ。ゲームの方の期限は、ちゃんと明日朝までだし……」
ああ、なんだろう。言っていることから察するに、ひょっとしたら気遣ってくれてるのかもしれない。相変わらずぼそぼそとしてて、慰めというよりは念仏みたいだけど。
でも、そんなに言ってくれるなら、教えてくれても……。
ガチャリ。不意に響いた金属音に、思考が途切れた。
ドアの前で、咲夜が鍵を開錠している。いつの間にか、『肖像の間』に辿り着いていたらしい。例のマスターキーを使っているのが見えた。
「どうぞ」。そう咲夜が扉だけ開ける。先を促されたレミリアが、「ご苦労」。ご機嫌に手の平をかざして答えた。
その間も、無口なパチュリーにしては根気よく話しかけてきていた。
「まあもともと、カンニングなんてよくないことだしね。当然だけど、やっぱり邪道もいいとこよ。自分でなんにも考えないで、ノータイムで回答パートに進むなんて。そんなのつまらないし、なによりもったいない。ミステリーの醍醐味は謎そのものじゃなくて、謎を解く過程にこそあるんだから」
はぁ……この娘も魔理沙みたいなこと言うのね。
そういえば、パチュリーも自分で脚本を書けるぐらいなんだから、相当ミステリーを読んでいるんだろう。なら、きっとそれなりのこだわりも持っている。不思議じゃない。
でも……。
だったらどうして、あんな問題を持ちかけてきたのだろう。
醍醐味は、結果じゃなくて過程。そんな拘りを持つなら、どうして答えを教えてあげようなんて、あんなこと。
「……あの、パチュリー?」
「何?」
「カンニングが邪道っていうなら、あなた、どうして――」
「――なんだこれはッ!?」
いきなり響いたその怒号は、私たちのひそひそ話を軽く吹き飛ばした。
な……今のは?
「レ、レミィ?」
さすがのパチュリーも眉をひそめる。レミリアはドアの前で――いや正確には、ドアを開け放った入り口で仁王立ちしていた。
やがて、その小さな拳がわなわな震えだす。そしてこれまで溜めに溜めた上機嫌も、漂わす威厳も、幼さも、全てぶちまけるが如く、激しい激昂を炸裂させた。
「……どういうことだッ! 〝なぜ絵が無くなっている〟!?」
8
なんだか、妙なことになったらしい。
あの時のレミリア。たぶん、演技なんかじゃなかった……と、思う。たぶん。
おかげでさっきの事情聴取は、本物の事情聴取みたいにギスギスした雰囲気だったし。
さて……ところで。あれから、もう何分経ったかしら。
懐中時計を出すまでもなく、正面に立てかけられている柱時計に目をやる。一時八分。とすれば、さっきあの天狗が消えてから、まだ十分も経っていない。
「ちょっち待っててくださいね~♪」なんて言ってたけど。どうしようかしら。
まあ、少しなんて個人の尺度で違うわけだし。かったるいし、そもそもあんな奴待つ義理なんて無いし。そろそろ一人で行っちゃおうかな……。
「ア~リスさ~ん!」
……ちぇっ、来たか。案外早かったわね。
文が戻ってきたので、私は廊下の壁から背を離す。
「いやぁ、お待たせしましたね。といっても、十分そこらでこの広い屋敷の中、人を呼んできたんです。むしろ褒めていただきたいぐらいですが。して、アリスさん。抜け駆けなんて考えてませんでしたでしょうね~」
「しないわよ、んなこと」
「ほんとにそうかしら? コソ泥の言うことを信じろという方が無理な話ね」
……ほほう。ひとをコソ泥とは、ずいぶんな言い草……と睨んでみたけれど、どうやら言ったのは文ではなかった。コツ、コツ、コツ。ハイヒールの底を鳴らしながら、文の後ろから歩いてきた人物。咲夜だった。
「あら、メイドさん。どうしたのかしら。随分な口の変わりようね。知らなかったわ、あなたに舌が二枚あったなんて」
鼻笑いしてやると、咲夜はフンと返してきた。さっきまでのメイドぶりが幻だったみたいな態度だ。
「そりゃ、そういう配役だったから。役が終われば、あなた達相手に取り繕う必要なんて無いでしょう」
なるほど。やっぱり、さっきまでの従順ぶりは演技だったと。
ま、それはそうよね。先日あれだけ痛い目にあわされた咲夜が、その痛い目にあわせた張本人を快く思ってるわけない。主人から言いつけられたから、仕方なく完璧なメイドを演じていただけの話。面従腹背。どうでもいいけど。
私は右だけ肩をすぼめた。「それもそうね。レミリアはもう大丈夫なの?」
「お嬢様はお休みなられたからね。もっとも、寝かしつけるのが大変だったけど」
「ふうん。それって、やっぱりさっきの消えた絵が原因?」
あえて、軽い口調で訊いてみる。すると咲夜もあえて、平静のまま答えた。
「先の件については調査中です。今あなたに答える必要は無いわね」
「あら。それって、あなた達の用意した事件とは関係無いって意味でいいのかしらね」
「それすら答える必要無いわ」
さらさら話す気は無いらしい。さっきのレミリアは気になるところだけど、たぶんあの態度の急変ぶりからして、おそらく起きたのは予定外の事。なら、私には本当に関係が無いのだろう。
密室の謎解きと別件だというなら、無理に関与することはない。そんな余裕も無いし。
「あなたはあなたで、いい女優っぷりだったわ。で、ここにきたのは、いつぞやの鬱憤をすっきりさせたいってことでいいのかしら?」
フン。咲夜は真横に勢いよく吐き捨てる。
「よく言うわね、自分で呼びつけたくせに。私はこう見えて忙しいのよ。連れて行ってあげるから、とっとと済ましてよね」
言うなり、すたすた、勝手に進みだしてしまう。思った以上に嫌われていたらしい。まあ、他人から嫌われるのは慣れてるし。好かれて寄ってこられるよりずっといいけど。
「いやぁ~……もう、なんなんでしょう。呼びにいった時から、すっかり別人――というかいつもの不機嫌な時の咲夜さんに戻っちゃったんですよね。まったく、私は今回は何もやってないんですけどねぇ」
今回はって……とっくに何かやらかしてたのかこの天狗。まあ、こいつのことだし全然不思議じゃないわね。
咲夜に早足でついていきながら、思考を再開する。
なんだか妙なことになったらしい。
レミリアが癇癪を起こした、さっきの出来事。あれから予定通り、『肖像の間』にて事情聴取は行われた。ただその予定通りは、タイムテーブル上予定通りというだけで、実際は予定外の事態も同時に起きていたらしい。絵が無くなった。あの時レミリアが叫んだ件のことだ。
消えた絵は、あの時たどたどしい台詞で紹介された、アレだった。〝それも、四枚とも〟。
おかげであれほど上機嫌だったレミリアは、終始むっつり膨れたままだった。おかげで、取り調べは早く終わった。つつがなく進行したといえば聞こえはいいけど、結局あっちがただ話すだけ話して部屋を出て行っただけだった。終わってみれば取り調べというより、延々愚痴でも聞かされた気分だった。
絵が消えたのは、向こうの埒外の事であり、言うなら不手際らしい。おおかた、ゲームだなんだと浮かれているうちに泥棒にでも入られたんだろう。
今日はイベントのせいか、いつもよりメイド妖精の数は多かった気がする。それでも泥棒の侵入を許したというのだから、紅魔館の警備は穴の空いたザルですと公言しているようなものだった。以前もそうだったけど、レミリアは子供のくせにプライドが高いから、自分の家が泥棒に入られたなんて間抜けな話は他人に吹聴なんてできない。自業自得もいいところだった。
とにかく。その件は、私には関係ない。絵が消えようが燃えようが、私は私で密室の謎を解かなければ蓬莱人形は取り返せないのだから。
パチュリーに頼れないことがわかった今、他に縋るべきものなんて無い。自分自身の力で密室の謎を解かなきゃ。そう腹をくくった時には、もう自分の部屋から飛び出していた。やれるべきことをする。それが、私にできる唯一のこと。もう一度、現場を見てみよう。何かわかるかもしれない。そう思ったのだ。
で、廊下に飛び出したところで、文と鉢合わせしてしまった。というより、向こうは私がまた現場を調べに行くことを予想して、わざわざドアの外で待ち構えていたらしい。普段は飄々としてるくせに、抜け目が無い。つくづく癪に障る奴だ。
写真はもうほとんど現像が済んだらしく、文はまた撮影がしたいのでついていかせてくれとせがんできた。正直に現場の『給仕の間』に行こうとしていたことを話すと、あそこは許可をもらって紅魔館の者を同伴しないと今は勝手に入れない、との旨を身振り手振り語った。まあこちらとしては、許可だのなんだと言われたところで、ものの五秒で無視する腹だったのだけど。それでも少し待ってろということなので、考えをまとめる間ほんの少しだけ待ってやったところ、こうして咲夜を連れて案外すぐに現れてくれた。とはいっても、正直現場は一人で落ち着いて眺めたかったので、結局はありがた迷惑だった。
でもまあ、結果的にこれでよかったのかもしれない。どこの誰かさんが絵を盗んでくれたおかげで、あれから一層メイド妖精の警備が増えていた。私が一人で行っても、すぐ誰かに見つかったかもしれないし。
ほどなく、現場である『給仕の間』に到着する。
私は咲夜に訊いた。
「入っても?」
「どうぞ。早く済ましてね」
あれ? と、カメラの準備をしながら文が尋ねる。
「咲夜さんはいいんですか? 中に入らなくて」
「ここで見張ってあげてるって言ってるのよ。今他のメイドには、侵入者は見つけ次第攻撃しろって言ってあるからね。あいつら馬鹿だし物覚え悪いから、あんたら相手でも構わず襲い掛かっちゃうでしょ」
「心配していただけるのは結構ですが、メイド妖精如き小指で返り討ちにできますよ?」
「騒ぎでお嬢様に起きられるのが面倒なだけよ。明かりは天井のを点けていいから、早くしてよね」
さめた口調で言い放ち、それきり入り口の側の廊下に寄りかかる。あとは勝手にしろということらしい。
「そうですか。でしたら、遠慮なく~♪」
先に文が入室。入るなり、フラッシュを乱射する。先ほどあれだけ撮ったのに、まだ撮り足りないらしい。側にはまだ憐れな死体が転がってるっていうのに、つくづく節操の無い奴。
わずかに背伸びして、天井のランプに火をつける。明るくなった室内で改めて、部屋の状態を見渡した。
現場保存を優先させたらしく、部屋は私が最後に見た時とほとんど変わっていない。唯一、文が蹴破ったドアの残骸だけは片付けられていた。あとはところどころ焦げて黒ずんだ床が、水に濡れたままになっている。
カメラのシャッターを切りながら、文が話しかけてくる。
「それにしても、改めてみてもひどい部屋ですよねぇ。狭いし、質素だし。ただベッドと家具を詰め込んだだけの、まあブタ箱ですね」
いやまあ、ブタ箱かはともかく……。確かにとても誰かが寝泊りしてるとは思えない。もし本当に美鈴が日頃から暮らしているとしたら、人権侵害で訴えても勝てるかもしれない。
さて。では、間取りを再確認。
面積は縦に六畳程度。右手にベッド。その上に美鈴――の亡骸。かわいそうなことに、あれからずっと放置されていた。発見当時のまま、うつ伏せにされている。せめて毛布ぐらいかけてあげればいいと思うのだけど、よくよく考えれば死んでるんだから風邪なんてひく心配は無かった。
靴は履いたままだった。背中には血の痕があるけど、刺さっていたのはおもちゃのナイフだし、たぶん血糊だと思う。今は顔は伏せて見えないけど、まあ、安らかに眠っているということにしておこう。どうせ朝には目覚めるらしいし。
次に、入り口から正面。ベッドに隣接する形で、小さな小物タンス。その上には申し訳なさげに、レンガを外してできた小窓がある。
そういえば、まだこのタンスの中は確かめていなかった。ひょっとしたら、何かヒントが……。
ごくりと一つ喉を鳴らす。三つある引き出しを、上から大きく開く。
拍子抜けとはこういうことを言うのだろう。一番上の引き出しにあったのは、毛糸玉に編み針、ようするに何の変哲も無い編み物のセットだった――そういえばこの門番、食事中は一人でリリアンをしていた。
苦笑いすると、ゆっくりと引き出しを閉じた。当然よね、甘い話なんてそうそうあるわけがないわ。
……と、思いながらも、一応二段目三段目も確かめる。二段目にはトランプが、三段目には七・五キロの鉄アレイが二本、引き出しを開くと同時に底を滑ってきた。その昔この建物が平和だった頃は、どこぞのバカがシャッフルの特訓のために筋力トレーニングをしていたらしい。後ろ髪引かれた自分が馬鹿馬鹿しくて、引き出しを足で蹴って閉じてやった。
気を取り直して、今度はクローゼットを眺めてみる。
事件発生直後に一応中を見たけど、チャイナ服が一着しか入っていなかった。たぶん、残りの服は燃やされたんだろう。三つ又の燭台は、先ほどと同じで床に倒れたままだった。
そういえば……もとはいえばこの部屋には火事が起きていたんだった。
となると、燭台……。やっぱり、あれが火元?
近寄り、覗き込んでみる。台座に、溶けた蝋の跡がある。火事が起きて全部溶けてしまったけど、もともとはここにロウソクが立っていたということだろう。
この部屋には初めから、明かりはついていた。つまり普通に考えて、美鈴は初めからここにいて、ここで殺されたということになる。不意をついて、背中に一刺し。このことから、犯人は美鈴と知り合い、つまり紅魔館の誰かであることがわかる。自室で背中を向ける相手なら、それなりに親しい関係で然るべきだからだ。
まあ、そうでなくとも、一番初めに登場人物はあの四人、と紹介されている以上、犯人は残りの三人でしかありえないんだけど。でも、こうして整理していくと、いろいろなことが見えてくる気がする。
犯人は美鈴を殺し、火事が起きてから密室にして部屋を出た。そういうことになるわね。
でも……だとしたら、また一つ気になることがある。なぜ犯人は、わざわざ部屋を密室にしたのか。
美鈴の殺害が目的なら、不可能犯罪を演出する必要なんてない。刺した後逃げてもいいし、外部犯の仕業にしてもいいのに。どうして、わざわざ密室に……。
……まあ、単にその方が盛り上がるから、なんて理由かもしれないけど。
いやでも、なんだかんだいって、本当にそれだけな気がする。なにせ発案者はレミリアだし。だったら、密室に理由なんて求めても仕方ないのかも。
となると、一番優先して考えるべきは……やっぱり、密室のトリックよね。
ふむ、トリック……。
トリックトリックトリック……。
…………。
トリックとカトリックって似てるわね。
「アーリスさんっ」
「ひゃぅっ!」
それがあんまり耳元で聞こえたので、心臓が跳ね上がった――ついでに、私自身も跳ね上がった。その調子で、ふにゃり、尻餅をついてしまう。
び、びっくりした……。あんまりいいタイミングだったから、今の冗談を悟られたのかと思った。
「あれれ~? アリスさんてば、呼ばれただけで腰抜かすなんて。何か良からぬことでも考えてたんですかぁ?」
良からぬことというか、くだらないことは考えてたけど。自然とダジャレを閃くなんて、私も歳をとったのかしら……ハァ。
その辺のうんざりは口には出さないで、腰を払って立ち上がる。
「推理してたのよ。ちゃんと」
「ほうほう、推理。で、何かわかりましたか?」
文はもうカメラを構えてはおらず、胸に下げていた。私が考えている間に、もう撮影は終えてしまったらしい。
「あとちょっとでわかりそうだったんだけどね。誰かさんが驚かしてくれたせいで、全部ふっとんじゃったわ」
「またまたぁ、ご冗談を。あとちょっとの割には、えらい難しい顔でしたよ? ほら、おでこの皺がまだ残ってるじゃないですかぁ」
「残ってないわよ、失敬な」
「いずれにせよ。私は驚かすつもりなんてまったくなかったんですから、自業自得ですね」
なんでこう幻想郷の奴らは、どいつもこいつもああ言えばこう言い返してくるんだろう……。こういうのにいちいちイライラしてしまう自分は、幻想郷に合っていないのかしらとたまに思う。
ここはあえて、そっけなく答えておこう。罵り返すと、かえってこいつは喜ぶから。
「写真撮り終わったんでしょ。とっとと部屋戻りなさいよ。てか、戻って」
「そんなこと言って~。私がいないと集中できないでしょう? 心細くて」
「あんたがいるからできないのよっ!」
……って、やってしまった。つい大声を……。
これでまたこいつが調子に乗って……と思っていたら、文はなぜか落ち着いていた。
「ああ、なるほど。ふふん、そういうわけですか」
ついでに何か悟ったような顔までしている。どういうわけか。
「あの、そういうわけって、何が……」
「ああっ、いいんです。いいんですっ。わかってますから。みなまで言わないでください」
いきなり手の平を向けて遮ってくる。そして腕を組み、うんうんと頷き始めた。
「自尊心の強いアリスさんのこと、自分から頭を下げるなんてことはできないのでしょう。それはわかってます。ああでも、何も私は、馬鹿にしているわけじゃないんですよ? 私の方から歩み寄って差し上げたいのです」
歩み寄って……はあ?
「アリスさんといえば、代名詞は人形でしょう。しかし私はそれ以上に、孤独が似合うという印象に映ります」
「はあ?」
「あなたは決して後悔をしない女。独り魔法の森の奥底にて人生を嗜む、孤独を愛する蛇使い座の女です。あなたのその精神は、私も知っているつもりです」
「というか、私蛇使い座じゃな――」
「ですが! 一人の力ではどうしようもできないこともある! 現に今、アリスさんは、その事をまさに痛感しているのではないですか??」
ずいと顔を迫らせてくる。疑問系のくせに、勝手に決めつけている態度だった。
「……あなたを頼れと?」
その台詞を待っていたらしい。文は瞳にうるうる感激を潤ませる。こうなるとこいつはいよいよ手がつけられなくなる。
「そう! ときには誰かの寄る辺に身を寄せてもいいのです、他人に頼ってもいいのです。どうせこのせせこましい幻想郷。こんな小さな世界で虚勢を張って、それが何になりましょう!」
「んなもん私がいつ張ったの」
「最初、レミリアさんは言っていました。二人で知恵を絞って構わない、と。ミステリーの謎は、さながら深い闇。そのあてどなさは、私も知るところです。お言葉ですが、今回のこの事件、あなた一人の力では荷が重い。ならば僭越ながら、私の頭脳をお貸しするのもやぶさかではありません。苦衷は二人いれば分け合うことができます。どれだけ重けれども、力を合わせれば、半分以下にはできるのです。共に立ち向かいましょう、大いなる謎に!」
ビシッ。最後にはどこかの星に向けて指差し宣言してしまう。
一連の下りの間、私はポカンと口を半開きにさせて呆れていた。何に立ち向かうかはまったくもって不明だけど……要は、自分も推理をしてみたい、と。察するに、写真は撮るだけ撮ったので暇になっただけらしかった。
「あっ、その目。疑ってますね? こうみえても私、ミステリーはちょっとしたものでしてねぇ。なんと驚くなかれ。自分でトリックを考えたこともあるんですよ? それはそれは仰天なやつをね」
それってどう考えても、先日の永遠亭の件のことじゃ……。いやまあ、言うまい。一応あの件は、魔理沙と文しか知らないことになってるし。私が知ってるのもおかしい話だ。
でもちょっとしたものというのも、ある程度は事実には違いない。そういう意味では、初心者に近い私よりはできるかもしれない。
あんまり気乗りはしないけど……。まあ、損するわけでもないし。話ぐらいは聞いてあげようかしら。
「じゃあ、あなたならこの事件がわかるっていうの?」
「当然でしょう」
えっへん、文は胸を張る。凄まじいまでに弓なりだった。
「いいですか? まずですね、アリスさん」
ついには勝手に始めてしまった。そしてどうやらこいつは、口が乗ってくると他人の名前を呼ぶくせもあるらしかった――どうでもいいけど。
「私達が駆けつけたあの時、この『給仕の間』には鍵がかかっていました。そしてこの部屋には、ドア以外に人が出入りできる隙間は無い。ここまではよろしいですか~?」
子供に聞かせるようなやけに噛んで砕いた言い方に、私はイラリと体温を下げた。せっかく話を聞いてやろうと決めた決意が……ああ、もう出だしから揺らぎそうになる。
「問題はその鍵なんですよ、アリスさん。このドアを開けるための鍵は、ご存知の通り二つ。部屋の主、美鈴さんの専用キー。そしてメイド長である咲夜さんの持つ、東棟のマスターキーです。ですが、前者は美鈴さんの内ポケットの中に。後者はその通気口の側に。いずれも、この部屋の中にあったわけです。この事実が、一体何を意味するのか……。そう、つまりこの事件は、密室殺人だったのですよ!」
ババーン。あたかもそんな効果音を背景にして、文は宇宙人の交信みたいに両手を広げる。もっともそんなことは鍵が見つかった時点で気づいてたし、さっきレミリアも自分で言っていたのだが。
正直に言ってしまおうかとも思ったけど、機嫌を損ねるとそれはそれで面倒ではある。とりあえず、わざとらしく演技でもしておく。
「はあ、なるほどね……。それで、その密室殺人、いったいどんなからくりなのかしら?」
チッチッ。文は舌を鳴らしながら、立てた人差し指を横に振る。
「焦っちゃいけませんよ、アリスさん? しょせん私達の思考回路は逐次処理。物事を一次元的にしか繋ぎとめられない一本道なんですから。論理的に、順序良くいこうじゃありませんか」
「……魔理沙だけじゃなくて、あなたまで論理やらなんやら口にするのね」
「あん? なんですか?」
いきなり睨まれた。小さな声で口にしたせいか、陰口でも叩かれたと思ったらしい。
私は軽く首をすぼめて、「いいえ、なんでも」
「うん♪ なら結構です」
笑顔に早変わり。こいつの表情変化ときたら、お面でも付け替えてるみたいだった。
「さて。まずこの部屋。私達が初めて入った時には、すでに美鈴さんは殺されていました。それも、鍵のかかった密室の中で。密室殺人ということで、ついどうしてもそちらに目がいってしまいますが、もう一つの要素も忘れてはいけません。ここで起きた、小火のことです。そこでですが、アリスさん。この部屋を見渡してみて、何か気づきませんか?」
いや、気づきませんかと訊かれても……。だって、言いながら文の視線は、さっきからそれにチラチラ焦点を合わせている。どう見ても、そいつだと教えていた。私が答えなければ話を進める気は無いらしかった。
「……ええと、その燭台のこと?」
「その通り! 小火の原因はそれです。もともと点いていた火が、倒れてタンスから落ち、燃え広がって発生したのでしょう。私の推理に、間違いはありません!」
それもさっきすでに考えたことなので、はあ、と生返事しておく。
「問題は、燭台が倒れたのはいつかということなのですが……。まあ、おそらく殺される直前犯人と格闘でもしたのでしょう。倒れたのはその時です」
「格闘? でも、その割には死体に争った形跡なんて……」
あ、と口を抑える。つい口を出してしまった。
眉が一瞬ぴくりと動いたけれど、文はコホンとすぐに気を取り直した。
「……そ、それを言おうとしたんですよ。この死体は背後からナイフで一突きされており、それ以外に外傷等はありません。ということは、ええと、つまりですね。あれです。きっと、美鈴さんが刺されて、ぶっ倒れた衝撃で、燭台も転倒したのです」
たちまち、「間違いなく」から「きっと」に格下げになっている……。ちょっと文さん、それは窮するのが早すぎやしませんか。
「じゃあ、犯人は美鈴を殺して、火が燃え広がった後で密室にして逃げたってこと?」
「まあ、そうですね」
う~ん。それって、どうなのかしら。そんなことになったら、犯人だって火に気づくだろうし。
「いずれにせよ、あの火事はただのアクシデント? 密室そのものには、何も関係がないと」
「そういうことに」
う~ん。
つまり炎が広がる中で、犯人は密室を作り出すための仕掛けを施した? だとしたら、道具やなにやらを使って、時間をかけて設置する種類のものじゃない。火の手が上がっている目の前で、そんなのんきなことはしてられるわけがないからだ。
ということは、そもそも仕掛けとかそういうことじゃない? 本当は密室になってなくて、ただそういうふうに見せていただけとか?
ぬぬぬ、頭がこんがらがってくるわね。
いやいや、ここは休まずにもう一度。もし仕掛けを使った機械的なトリックだとしたら……火が燃え移る中、悠長にそんな仕組みを作る余裕があるかしら?
いや、おそらく無い。というより、そんなことをするなら、その前に火を消せばいいのだから。
そうよ。消すはずだわ。もとが燭台のロウソク程度の火なんだから、息を吹きかけるなり、側にある枕をぶつけるなりすればいい。なのに、犯人はそうしなかった。あえて、火を消さなかった……。
ここまでの推測から言える事。つまり犯人は、燭台が倒れていることを知りながら、それを放置した。火の勢いが増せば、第三者に気づかれやすくもなる。遠からず先に現場に誰かやってくるのに。
まさか、それすら犯人にとっては取るに足らないことだったとでも……?
わからない。でも、これはパチュリーの考えた脚本。あの娘は本ばかり読んでいるだけあって、頭は悪くない。あの火事が何の意味も無いなんて、そんなことは考えにくい。密室とは関係なさそうだけど、きっと何か謎を解く手がかりがあるはず。
……まあ、いいや。火事についての考察はとりあえずこのくらいにしておきましょう。気になることは他にもまだあるし。
そう。例えば、この死体……。
「御覧なさい、アリスさん!」
横たわった美鈴に手を広げ、文はやおら大声を張り上げた。
「この死体、背中にナイフが刺されていました。他殺であることに疑いようはありません。ですがこの死体、おかしい点が一つあります。さあ、どこかおわかりですか?」
…………。どこかもなにも、今こっちもそれを考えようとしてたわけで。
もう溜め息が漏れて仕方ないけど……。なんとか重い口に鞭打って開いてやる。
「ええと、それはベッ――」
「ベッドの上なんですよ、アリスさん!」
いきなり割り込まれた。もう、三倍ぐらいの声量で。
「死体は発見時から、このベッドの上に横臥していました。まさかこの上に立ってるところを後ろから刺された、なんてケースは無いでしょう。ということはつまり、初めからベッドの上に伏せていたところを刺されたか、刺された後、わざわざベッドまで運んだか。そのどちらかということです。いやぁ、さすがにアリスさんには、今のは難しかったですかね~」
「……なるほどね」
今まさに私が言おうとしたことを、きっちり言ってくれてありがとう。最初からこっちの話を聞く気が無いことが、おかげで身に染みてよくわかった。
こいつの嫌味な言動はともかく……。まあ言いたいことは概ね私も同じだ。ただ、文は伏せているところを殺されたか、殺害後運んだかのどちらかと言ったけど、私の考えでは前者の可能性は低い。
なぜなら。ベッドに横になっているということは、おそらく美鈴は寝ていたのだろう。でも普通に考えて、寝る時うつ伏せの奴なんてそうそういない。では、寝ているのではなく、ただ疲れてぐったり伏せていただけではないか。それも無い。犯人はレミリア・咲夜・パチュリーの誰かなのだから、そのいずれの人物が部屋に入ってきたら、すぐにかしこまってベッドから体を起こすはず。
それに、文は気づいてないだろうけど、決定的な点は……。
「ついでに言うとですね、アリスさん。今どちらかと言いましたが、可能性で語るならば、私は運ばれた方だと思います。なぜなら、この死体。靴を履いたままだからです」
あらま。気づいていたらしい。
せっかくなので、一つ花でも持たせてやることにした。わざと目をきょとんとさせて、「どういうことなの?」
「なぁに、簡単ですよ。ベッドの上で寝ていたとしたら当然、靴ぐらい脱いでいるはずですから。身につけたままということは、殺されてからベッドに載せられたということ。それに間違い無いわけです」
少し考えれば誰でもわかることだけど、文は百点の答案でも見せたみたいに胸を張っていた。はいはい、よくできました。
「問題は、本当はどこで殺されたかということね」
「さすがアリスさん、理解がお早い♪ 蛇使い座の女なだけはありますね」
「いやまあ、違うんだけどね」
「ただ、どこで殺されたかという問いはナンセンスです。それがなぜだか、アリスさんはおわかりで――」
「殺されたのはこの部屋ってことでしょ。燭台が倒れたのは、美鈴を刺した時だとするならね」
また割り込まれるのは不愉快なので、今度はこっちが台詞の尻をとってやった。すると案の定、こいつは不愉快そうな顔をする。
「まあ、その通りです。ほんとあなたはかわいくない……もとい、クールで知的ですね♪ そう。今のところの手材料からは、やはり美鈴さんが倒れたときに同時に燭台も倒れたと考えるのが自然です。ゆえに、実際の殺害現場もここということになります。ま、今のはちょっと簡単すぎましたかね」
ヘッ、と肩をすくめる文。この程度でへそを曲げるのだから、大妖怪天狗が聞いて呆れる。
もちろん別の場所で殺した死体をここに運び、ベッドの上に落とした時、その衝撃で燭台が倒れたなんてことも否定はできない。ただ、この燭台はわりと地に接する足の部分が広く、ベッドに吸収された衝撃程度ではころびそうもない。
となると、やっぱり現場はこの部屋、か。
今一度、床を眺めてみる。血が飛び散った跡は無いけど、ナイフは刺さったままで抜いてはいない――少なくともそういう脚本だから、血痕が無くても不思議じゃない。まあもちろん、そこまであいつらが気を回してない可能性はおおいにあるけど。
「しかしですよ、アリスさん。そうなると、また新たな疑問が浮上してきます」
言いながら、文は今度は落ち着かなく部屋の中をうろうろし始める。自分の手の甲に肘をつき、鼻の下辺りを隠すように手を置いている。
「この部屋で刺したのなら、なぜ犯人はわざわざ美鈴さんをベッドに上げたか、ということです。死体なんてただの血肉の詰まった皮袋も同然なんですから、殺したんならそんなもの、放置すればいい。しかし犯人はどういうわけか、殺してから死体をベッドの上に移動させたのです。せめて死後ぐらいはベッドでゆっくり寝かせてやろう……なぁんて、犯人にそんな偽善だかなんだかわからん精神があったとは思えません。はてさて、これは一体どういうことなのやら……?」
そう。実はさっきから私も、そのことで頭を悩ませていた。
美鈴が殺されたのがベッドでないのは明らか。ならば、なぜわざわざ移動させた?
何か、理由があるはず。きっと、何か……。
どうやらここが、何か重要なポイントな気がする。密室を作り上げるうえで、薄かれ濃かれ関係があるような。私の勘が、そう告げている。
でも、どうやらこのポイントは簡単には解けない疑問らしい。いい推論が思い浮かばないので、試しに文に話を振ってみる。
「うーん、どうしてかしら。わかる?」
文は立ち止まり、フッと笑みを見せる。
「当然でしょう」
「えっ。本当に?」
「ええ。しかしアリスさん。忘れてはならないことがあります」
「はい? 何よ」
「今回のこの企画。これは、あくまでアリスさんとレミリアさんのゲーム。すなわち主旨としては、二人の対決の図式という体を為している。でしょう?」
「はあ、対決。まあ、対決しているような気もしないでもないけど。それが何の関係があるの?」
「私は先ほど、二人で知恵を絞りあい、共に謎に立ち向かおうと言いました。あの言葉に嘘偽りはありません。ですが勝負という本質を鑑みるならば、必要以上の助言ははばかられてしまう。なぜなら私はアリスさんの味方ですが、レミリアさんの敵ではない。言わば第三者。真に対するは、あくまであなたでなければならないのです」
「……言ってる意味がよくわからないんだけど」
というか意味はわかるけど、あなたの言いたいことがわからないんだけど。
「お二人の勝負である以上、私が直に答えをポンと教えてしまうわけにはいかないということです。心苦しいですけどね。私はあなたに、道を指し示すことしかできません。ゆえに、私がお力添えできるのはここまで。私は道を示しました。あとはアリスさん、あなたの役目です。深いミステリーの闇の中、光はすぐそこに!」
なんだか無理やり勝手な雰囲気出してるけど……まあ、これが茶番だということは、途中から気づいていた。ようするに、こいつもわからなくてはぐらかしているだけ。とんだ鉄面皮ぶりだった。
ま、どうせ期待はしてなかったからいいけど。嘆息していたところ、今度は廊下の方から鋭い声が飛んできた。
「ちょっと。さっきからうるさいんだけど。というか、まだ終わらないの?」
咲夜は顔こそださなかったけど、言葉の端々が変に震えていたので、どうやら相当お冠らしかった。こめかみに血管の一つや二つ浮いてそうな気配が、ひしひし――というかかなりダイレクトに伝わってくる。
スポンサー側がお怒りということで、新聞記者はかなり慌てていた。
「あややややややや、すいませ~ん。ちょっとアリスさんがチンタラしてるものですから。いやぁ、この人手先は器用なくせに要領は悪くて~。あはははは……。おら、アリスさん。タイムリミットですよ。行きましょ」
「ああ、あなた先行ってて」
「は? 何言ってるんですか。とっとと部屋に帰りますよ」
「もうちょっと見たいのよ。いいでしょ、メイドさん?」
――チェッ。廊下で盛大な舌打ちがとどろく。
「あと十分よ。いいわね?」
「はいはい、了解了解~」
適当に返事をしてやる。腑抜けた声が気に障ったのか、わずかに覗いた横顔で睨まれた。なんというか、今にも反吐を吐きそうなご様子だった。咲夜はフンと鼻を鳴らして頭を引っ込めると、ついでに二発目の舌打ちが鳴り響いた。
「ちょ、ちょっとぉ。アリスさんてばっ」文が小声で囁いてくる。「今日は一応あちらさんがホストなんですから。そういう機嫌を損なう言動はよしてくださいよ。即刻屋敷をおんだされるかもしれないんですよ?」
「だったらだったで構わないけどね。だいたいこの城ときたらどこもかしこもいい加減赤色だらけで目が痛いし、せいせいするわ」
「冗談じゃないですよ! そんなことになったら、記事が中途半端で終わっちゃうじゃないですか。私は来週の新聞大会、なんとしても結果を出さなきゃならないんです!」
「結果、ねえ。出せてないの?」
うぐ、と文は息でも詰まらせたみたいに仰け反る。ハートにクリティカルヒットしたらしい。がっくりとうな垂れると、今度は両手の人差し指を胸の高さでつんつん突き合わせた。
「まあ……出せてないんですよ。だって仕方ないじゃないですかぁ。近頃の幻想郷といったら、事件のジの字もありゃしない。世界観から平和ボケが染みきってるんですよ。事件もイベントも無きゃ新聞なんて書けるわけ無いし、新聞屋なんて廃業です」
「廃業って大袈裟な。あなたのは職業じゃなくて趣味でしょ」
「趣味ってかアイデンティティなんです!」
いきなり喚くと、私の両肩を掴んでくる。
「職業より崇高なんです。自我同一性の拡散なんです!」
「ああもうわかったわよっ。わかったから揺らすなあんた力強いんだからっ」
コホン、文は手を離し、「とにかく。私今回の取材に、記者生命賭けてるんですからね。途中棄権なんて断固できません。書く記事が無さすぎてあろうことか、はたての奴にまで馬鹿にされて……。苦節の砌、会稽の恥辱を雪ぎ、ようやく今日というスクープがとれる日がやってきたんですから。あなたのせいでフイになったら、アリスさんの屋敷を北極圏まで吹き飛ばしてあげますからね」
かなり本気の目だったけど、たかだか新聞書けない腹いせに家を失うのもバカバカしい。「はいはい」と、適当に肩をすくめておいた。
まあ。追い出されても構わないっていうのは、半分本音で半分冗談。私だって蓬莱人形を取り戻すまで、絶対に棄権なんてできない。ただ咲夜としては、寝ている間に私を逃がしたとあっては、次にレミリアが起きたときどんな癇癪が起こるかわからない。つまり、私の言うことは聞き入れるしかないのだ。
そういうわけだからこちらとしては、なにか手がかりがつかめるまで十分どころか一時間もいてやるつもりだった。美鈴の死体が動かされた謎。これだけじゃ足りない。
なんでもいい。他に、何か気づくこと。不自然な点。不可解な謎があれば、それはきっと、真実に繋がっているはず。
他に、何か手がかりは……。
…………。
密室を作るには、外から鍵が必要。でも、この部屋を開ける事の出来る鍵は二つある。
仮に犯人が鍵を使ったとして、どちらのものが使われたのか。そう考えれば、おそらくマスターキーの方だろう。
この部屋の専用キーは、美鈴の服。胸の内ポケットの中だった。美鈴はうつ伏せの状態だったし、なにか機械的なトリックでそこに入れることは不可能に近い。となると自然、使われたのはマスターキーの方と考えるのが妥当になる。
正面の壁に目をやった。
……やっぱり、あの小窓かな。怪しいのは。
マスターキーは、小物ダンスの上、すなわち、ちょうどあの窓の下にあったはず。
ということは、部屋に鍵をかけ、外からこの窓めがけて鍵を投げ入れたら? ちょうどタンスの上に落ちるのでは……?
小窓に近づき、覗き込むように外を見る。
暗くてわかりにくいけど、周囲に同じ高さの建物は無い。下は芝らしかった。ここは角部屋だから、たぶん位置的に中庭のはずれだろう。なら、下から投げてこの窓に入れることも……。
いや……違うか。ダメだわ。たぶん。
だいたいこの窓、大きさにしてただのレンガ一個分の隙間に過ぎない。せいぜい、目算で縦十一センチ、横二十一センチ。窓なんて言葉すらもったいない、ただの通気口だ。あのマスターキーは長さは十五センチぐらいはあるうえに、やたらと武骨でかさばるつくりをしている。縦にすればなんとか通り抜けることはできるだろうけど、でもさすがにここに投げて入れるのは……。
うーん、やっぱり無理よね。だいたいこの部屋、相当高いし。たぶん、地上十階はある。いかにコントロールがよくたって、外は暗いし。これぐらいの高さになれば、下からよじ登ってなんて尚の事ありえない。
いや、待った。下から無理なら……。
「ねえ、新聞記者」
「あー? なんですか?」
「隣の部屋ってどうなってるか知ってる?」
「どうなってるか? 質問はもっと具体的にするもんじゃないんですかね」
さっきのやりとりですっかりへそを曲げたらしい。カメラをいじりながら答える文は、邪魔臭げな顔を向けた。
「間取りのことよ。『給仕の間』っていうのはこの部屋だけじゃなくって、このフロア一帯が全部そうだって言ってたわ。じゃあ隣も同じってことかしら?」
「んなもんそこにメイド長さんがいるんだから、直接訊けばいいと思いますけどね。でもまあ、私はレミリアさんからいろいろ聞いているので教えて差し上げます。『給仕の間』は今私達のいる東棟の十一階だけではなく、一つ下の十階、上の十二階全てのフロアに設けられています。当然、間取りも全部同じだそうですよ」
と、いうことは……隣はおろか上下の部屋も、窓はこの小窓しかないわけだ。窓づたいに長い棒か何かを使って外から放り込んだ線を考えていたけど、普通にやれば、それも現実的じゃないことになる。
そうなると、やっぱりこの窓は関係無いのかしら……。
「……ははぁん、なるほどね。そういうことですか」
不意に、文は思わせぶりな発言をしてくる。何かわかったのっ? と、期待をこめて顔を見たけど……なんだか文は馬鹿にするような表情をしていた。
「アリスさん、あなた今こう考えているでしょう。犯人はマスターキーで施錠したのち、外からその窓めがけて鍵を放り投げたと。でも残念ながら、それだとちょぉっと考えが足りませんねぇ。なにせこの部屋の高さは――」
「ああもうわかってるから。そんな高さの窓に入れられるわけないってんでしょうが。十一階なんでしょ、十一階。じゅ・う・いっ・か・い」
嫌味ったらしく繰り返したので、文はちょっと不貞腐れた。
「……ま、術や魔法でも使わない限り不可能ってことです。で、その魔法も今夜ばかりは使用していないという前提があるわけですから。ロッククライミングの達人でもいたら別ですけどね」
それもとっくにわかっていたので、私はもう何も言わなかった。
……能力も魔法も使わず、小さな隙間を狙うことなんて無理。ましてや、あんな大きい鍵を。
だったら……。
窓が駄目なら、ドア?
一応、この部屋のドアには下に隙間があったはず。この天狗が粉々にしてしまったから今は調べられないけど、下から煙が漏れているのを見たから覚えている。三センチに満たない程度の隙間だったけど、あの派手なマスターキーを通すぐらいはできるはず。部屋を出て鍵をかけた後、勢いをつけて滑り込ませれば……。
……いや、駄目だわ。
マスターキーは、小物ダンスの上にあった。床に落ちていたならともかく、腰程度の高さのタンスの上に乗せるなんて……。
う~ん。
やっぱり無理だわ。ドアの隙間よりは、外から投げ入れたほうがまだ現実的な気がする。
だいたい、あのマスターキーが大きすぎるからいけないのよねぇ。せめて専用キーの方だったら、まだ可能だったかもしれないけど。
そういえば、美鈴の持ってる方の鍵は、内ポケットに入ってあったんだっけ。
ちょっと見てみようかしら。たぶん、そのままになってるはずだから。
側に近寄り、死体を見下ろす。ベッドに膝をついたところで、鼻につく刺激臭を感じた。
「うっ……」
何これ。臭い……。
「今度は何です? 死体が腐臭でも噴き始めましたか?」
文は生あくびしながら覗き込んでくる。
「違うわよ。というか、そんな早く腐るわけないでしょ」
「まあ、腐ってたら仮死も糞もありませんしね。哀れ上司に逆らえない美鈴さんは、このまま土葬されることになります。同時に、永琳さんのヤブ医者疑惑の記事も出回るおまけつきです」
「いやまあ、永琳は薬剤師だけどね。私が言いたいには、コーヒーの臭いよ」
「コーヒー?」尋ねつつ、文は鼻先を美鈴に近づける。そしてわざとらしく顔をしかめた。「うえええ、ほんとだ。ひっどいですねぇ。死体って腐るとこんなに香ばしくなるんですね」
「だから違うって言ってるでしょうが……。いちいち言わせないでほしいんだけど」
「いいじゃないですか。適材適所ってやつですよ」
「適材? どういう意味?」
「あら。気づいてらっしゃらなかったんですか? 私がボケで、あなたがツッコミ役です。正攻法ってやつですね。ははは」
「…………」
きっと、まともに取り合うたび後悔する私が馬鹿なんだろう。もうそれでいいや……。
にしてもこの臭い。初めてここに入った時は煙の臭さで気づかなかったけど……。この独特な感じはキリマンジャロかしら。門番のくせに、上等なもの飲んでいるようで。
「でも、臭いの元はどこなんでしょう。そのシーツですか?」
「たぶん。そうだと思う……よいしょ」
美鈴さん、ちょいと失礼しますよ。一応心の中で、一言断っておく。目覚めた時体に傷がついていたら嫌だろうから、なるべく優しくひっくり返して……。
ゴツッ。
「な、何やってるんですかアリスさん。いくら相手が美鈴さんだからって、死体までぞんざいに扱っちゃいかんでしょう」
「ちょ、ちょっと手が滑っただけよっ。わざとじゃないったら」
どこか壁にぶつけたらしかった。相当鈍い音だったけど、まあ頭とか大事な部分じゃないことを祈っておこう。
改めまして、失礼して……よいしょ。
……うわ、ひど。
美鈴が寝ていたシーツには、世界地図みたいに染みが広がっていた。一応ちゃんと茶色だったので、おねしょというわけじゃないらしい――まあ、さすがに。
「いや~。こんなふうになってたなんて。なんだってこうも派手にぶちまけたんでしょうね。こりゃ一回洗濯したぐらいじゃ落ちないんじゃないですか?」
言いつつ、早速シャッターを切っている事にはこの際気にしないでおくとして……。私の推理では、美鈴が殺されたのはベッドじゃない。こうして見る限りコーヒーはシーツに染みているだけで、どうやら衣服の上にはかかってないから、一応、これで証明されたことになる。
足元にはマグカップが転がっている。かなり大きめで、中も深そう。ちょうどベッドに染み付いた分かしらと持ち上げてみると、取っ手の背に『Meirin』と刻まれていた。
ということは、これは本人のものということかしら。そうなると……。
「わかりましたよ、アリスさん!」
……またしても横から水を差された。こっちもちょうどわかりそうなところで。
「ベッドにぶちまけられたコーヒーは、おそらくこのマグカップに入っていたもの。そしてこのマグカップは、美鈴さんのものです。ということは、間違いありません。美鈴さんは殺される前、コーヒーを飲んでいたのです!」
「相変わらず自信満々なのね。でも残念だけど、そんなことはこの場にいたなら十人中九人は思いつくわ」
「続きがあるんですよ。つまり、こういうことでしょう。カップはこの燭台と同じくタンスの上にあったということになります。まだ中身の入ったコーヒーカップがね。この部屋にはテーブル等食器を置く家具が他に無いため、自然に考えればそうなります。それが何かの拍子に倒れて、ぶちまけられた。というわけです」
「ふうん、なるほど」
いちいち露骨な反応をされたら面倒くさいので、納得する振りだけしてあげた。実際の私の意見は、ちょっと違う。
事件前、美鈴はコーヒーを飲んでいた、ここまではいい。でも側の小物ダンスの上にあったカップが倒れてこうなったかというと疑問が残る。
なぜなら。もしそうなったとしたら、ベッドの染みは放射状に広がっているはずだからだ。つまり、枕元の方から。でも実際の模様を見ると、ただ上から浴びせられたという方がはるかにしっくりくる。
まるで……故意に誰かに撒かれたような。
だとしたら、いったいなんのために?
…………。
ああ、もう! わからない。わからないわ。
さっきから怪しかったり、気になる点は見つかるけど。肝心なことは何一つわかっていない。
解かなきゃいけない謎は、密室の他にもまだまだあるのに……。
例えば……そう、あの〝絵〟よ。
気になる理由はさっき向こうのアクシデントか何かで消えてしまったから、というわけじゃない。一番初め、『肖像の間』で、レミリアが説明したからだ。
あれだけ長ったらしく、それも一枚一枚丁寧に説明されれば、いかにもなにかあると思わざるを得ない。間違いなく、この事件に無関係じゃない。絶対に何かのヒントになっているはず。
犯人の正体と関係ある? それとも、まさか密室のトリックに? でも、どこをどう捻れば?
…………。
結局わからない……。
どんな絵だったかは、説明もあったおかげで四枚ともなんとなく思い出せるけど、細部までは覚えていない。絵はもう誰かに盗まれたわけだし、もしあれらの中にヒントが隠されているとしたら、文の写真を見せてもらうしかないんだけど。
さっき部屋で現像してた分、ちゃんと撮れてたのかしら。一応、訊いてみようかな。
「ねえ、新聞記者」
「はいはい、まだわからないことでも?」
なんでも聞いてくれというような顔をしていたけど、こいつの推理力もいい加減知れてきたので期待するものは無かった。ただ用件だけ尋ねる。
「さっき、絵の写真現像してたわよね」
「絵の写真、というと、例の四枚のことですか?」
「そう。うまく撮れてた?」
「うまく? 愚問ですねぇ。私を誰だと思ってるんですか。長年の経験と体感で弾き出される露出補正、絶妙なホワイトバランス。遠近感もフレーミングの微調整も、私ほどのレベルになれば自由自在で……」
……本当に、機嫌がいい時はよく喋る奴だ。このままだと確実に話があさっての方にいくので、早めに修正しておく。
「まあ、心配いらないのはわかったわ。予定通り、後で見せてもらうから。よろしくね」
「そのつもりですよ。どれもナイスショットですから、ぜひご覧になってください」
「それと、向こうの部屋も見ておきたいんだけど」
「向こうって、『肖像の間』のことですか?」
「ええ。何か手がかりがあるかもしれないし、一応あっちの方の現場も――」
「駄目よ」
いきなり、廊下からぴしゃりと声が飛んだ。
「あそこは今は立ち入り禁止。Keep outよ。そいつの写真で我慢しなさい」
ち。咲夜め。意外と地獄耳なのね。
今度は聞こえないように、小声で耳打ちする。
「……で、後でこっそり入ることできない?」
ええ~。と、文はあからさまに顔をしかめる。
「無理ですよぉ。だってあそこ、窓も、それこそこの部屋みたいなドアの下の隙間すら無いんですよ? ま、さっきみたいに戸をぶち壊していいなら別ですけど」
「そりゃこっそりって言わないでしょうが……。ほら、壁すり抜けたりとかさぁ。あなたならなんだかできそうな気がするのよね。いろいろと無茶苦茶だから」
「いや、あなたの言ってることの方が無茶苦茶ですから……。あそこは書斎といっても、当のレミリアさんは本なんて読みも書きもしないから、普段は一切使われてないそうです。侵入する箇所が無いのが幸いだというので、ほとんど絵の保管庫として扱われているようですよ。たぶん、今日の日のためにわざわざ開放したんでしょう」
「一切? でも、絵を飾る部屋でもあるんでしょう? なのにまったく使ってないの?」
「まあ、あの方には芸術を愛でるような高尚な精神もありませんし。そもそも絵なんてせいぜい数年も飾れば飽きますしね」
それは、確かに。絵は興味のあるなしで価値が変わりすぎる。ましてやレミリアだし。
「でも鍵ぐらいはあるでしょ。ちょっと盗んできてよ。あなたそういうの得意そうな顔してるじゃない」
文はフンと鼻笑いしたけど、さすがに愉快だから鼻笑いしたわけじゃないらしかった。
「いちいち失礼なこと言いますね、あなた。言っときますが、私でも無理なものは無理です。無いものは盗めませんからね」
「無いって、何が?」
「『肖像の間』の鍵ですよ。もうほとんど使わないから、だいぶ昔に処分したらしいです」
「は? 鍵が無きゃどうやって入るのよ」
「あの部屋の鍵が存在しないってだけですよ。開けるにはマスターキーを使うみたいですね。金庫や高価なものを保管する場所の鍵は、普通少なければ少ないほどいいんです」
ああ、なるほど。そういうこと。そういえば、さっきあそこに入る時、咲夜も使ってたわね。
……って、あれ? マスターキー?
「ちょっと待って。マスターキーって、この棟のってことよね?」
それ以外に何がある? とでも言いたげに肩をすくめて、「そうですが?」
「おかしくない? だって東棟のマスターキーは、〝ずっと密室の中にあった〟はずでしょう」
文はすくめた肩のまま、目をぱちくりさせる。
「あ、あれ? 言われてみれば、確かに……」
どういうこと? いったい……。
『肖像の間』は、窓どころか通気口すら無い。鍵がかかれば、完全な密室。
そんな。じゃあ……。
あの時間帯、〝同時に二つの密室が存在していたっていうの?〟
……ありえるのかしら。本当に、そんなことが。
「……ねえ、文」
「あ、はい」
「マスターキーって、本当にあれ一本しか無いの?」
「え? ええ。そうでなきゃマスターキーとは呼べないでしょうし……。あなたもさっきの話を聞いたと思いますが、常に咲夜さんが持ち歩いているとのことです」
そういえば、さっき現場で咲夜が話していた。レミリアの命令でなければ、使うことは無い、と。
「常にということは、何も今日に限ったことではないということかしら」
「ですよ。お忘れですか? 寸劇の設定は、あくまで紅魔館の日常をそのまま流用している形になっている。たぶん、今も懐に持っているはずです。間違いありません」
じゃあ……絵を盗んだのは咲夜?
いや、違うわ。鍵自体は、ずっとこの部屋にあった。それは変わらない。
…………。
ぐるぐる、螺旋のように、ただ焦燥が巡っていく。眩暈にも似た、思考の混濁。ふらりと一歩後ろ足をつき、たまらず額を押さえた。
わからない。いったい、何が起こったっていうの? この紅い館で……。
9
堆積した疲れが重力となり、私はぐったり、机の上に突っ伏した。
……駄目だわ。わからない。
密室のトリック。犯人。消えた絵。おまけに、二つの密室ですって……?
なんなのよ、それ……。どれもこれも、さっぱりだわ。
結局、あれだけ現場を調べても、肝心なことは何一つわからなかった。見つかるのは断片的な情報ばかりで、それが決定的かどうかすら判別できない。むしろ調べれば調べるほど、わからないことが増えてしまった気さえする。
十分はとっくに過ぎていたようで、咲夜はすっかりお冠になっていた。イライラのあまり殺気を隠しきれていなかったけど、とりあえずは無事に自室まで送ってもらった。「それでは、お休みなさいませ」。最後だけメイドらしい笑顔でお辞儀したのだけれど、明らかに嫌味だった。どうせあなたに解けるわけがない。そんな悪意を内包していた。
机の上には、さっき計算していたパチュリーの問題の残骸と、文からもらった大量の写真が入り乱れている。
約束通り文から何枚か写真を借りようとしたのだけど、どれがいいかわからなかったので、とりあえず全部と告げた。すると文は、両手で持ちきれないぐらいの量を持ってきてしまった――なにせ、抱える写真の束は、束というよりタワーで、その高さは文の顔すら隠していた。その数、ざっと千二百枚。これをたった一日で撮ったのかと思うと、非現実的すぎて頭が眩みそうになった。
おかげで、全部に目を通すのにどれだけかかったやら……。しかも私は目を通すんじゃなくて、写真からヒントを得たいのに。ただ流し見したんじゃ、何もわかるわけがない。終わったときには疲労と、無為に時間を費やした後悔だけが残ってしまった。
突っ伏したままポケットを漁り、時計を取り出す。四時十二分。
レミリアとの約束。私の推理を疲労し、答え合わせをするのは七時。リミットまで三時間を切っている。
駄目……駄目よ。
このままじゃ、蓬莱人形が……。
このままじゃ、駄目……なんだけど。
ここにきて、今日一日の疲れが押し寄せてきた気がする。いや、疲労は認識していた。でも、あえて目を背けていた。蓬莱人形を取り戻すために。慣れない頭で推理を働かせ、同時に人質の心配で心に負担をかけ。遅々とする進展に絶望し、そのたびに無理やり自分を奮起させた。精神に鞭打ち続けた付けが、ここにきて回ってしまったのだろう。半ば客観的に、そう分析した。
なんだか、瞼まで重くなってきた。
いけない……ここで寝てしまったら、朝はどうするの。
結局何もわかりませんでしたって、レミリアに頭を下げるの?
謝れば蓬莱人形を返してくれるって、本当に思ってるの?
……思わない。思うわけない。
でも……。
でも、やっぱりもともと無理だったんだ。
私一人の力で、ミステリーなんて。
あいつに……魔理沙にできるなら、私だって。そう思いたかったけど。
今思えば……。もともとミステリーの本を魔理沙に頼んだのも、きっとそういうことだったのかもしれない。今まで自分でも心境がよくわからなかったけど。
前の永遠亭の事件や、さらにその前の件……。あいつは見るも鮮やかに、竹を断つように真実に辿り着いてみせた。
あれくらい、私にもって、そう思ったけど……。だけど、本当は、あんなふうに私も謎を解きたかっただけなのかもしれない。
魔理沙みたいになりたいと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
あいつみたいに気持ちよく推理できたなら、どれだけ楽しいだろうって……そう、心のどこかで。
……でも、もういいや。いい加減、思考もおぼつかなくなってきた。
結局、私には向いてなかった。悔しいけど。
そういえば魔理沙にも、今日はひどいことをした。今度会ったとき、謝らなきゃ……。
視界にブラインドが下りていく。瞼が閉じ、意識も底に沈もうとした、その時。
窓の向こう、光放つ満月の中に、妙な影があるのを見つけた。
何……?
影はどんどん大きくなる。いや……近づいている? こっちに向かって?
窓を閉じようと思ったけど、間に合わなかった。突風の塊が襲いかかり、思わず顔を背ける。
うっ……。
今のは……まさかっ!
「……魔理沙っ!?」
窓から差し込む月明かりのスポットライトに、箒に乗ったしなやかな象形が踊った。
「よっ。助けにきてやったぜ」
10
「――と、いうわけなの。七時までに、この事件の謎を解かないと……」
「人形がフランドールの慰み者になってしまう、か。なるほどな」
魔理沙は手元の写真を一枚、二枚と手に取り、目を配っている。
今日はいつもと違ってテーブルは無い。仕方が無いので、私と魔理沙はベッドに並んで腰掛けていた。
「いやぁ。にしても、そんな面白いことになってたとはなぁ。教えてくれないなんて、お前、人が悪いぜ。もっとも、人じゃない奴に言っても無駄かもしれんが」
「ちっとも面白くないわよ。あなたこそ、なんで教えてもないのにここに来たの。私が困ってるって、なんで知ってたのよ」
「今朝のお前の顔色を見れば、ただ事じゃないのはわかるさ。お前はクールを気取ってるくせに顔に出やすいからな」
「……気取ってるように見えて悪かったわね。ポリシーなのよ」
「まあもっとも、ここに来たのは偶然だが。いやびっくりしたぜ。外からお前の金髪が見えた時はさ」
金髪はお互い様でしょうに……。
とりあえず魔理沙には、今回の件について一通り話し終えた。かなり長い時間一方的に話したのだけど、魔理沙は終始興味深げに聞いてくれた。まあ、私のためというより、こいつ自身楽しくて楽しくて仕方ないんだろうけど。
「とにかく。あなたが嫌でもクリームチーズバナナシフォンケーキの無念、忘れてないわよ」
「無念じゃないだろうに。あんなところで腐らせるより、この私に食べられた方がむしろ本望だろうさ。志半ばのはずがない。というか、お前。よくそんな長い名前噛まずに言えるな」
「噛むとか噛まないとかはどうでもいいのよ。無念じゃないなら、借りね。ケーキの借り、今ここで返してもらうわ」
「借りたつもりなんて無いわけだが。にしても、二つの密室か」
楽しさを隠し切れないといったように、くくくと笑う。
「二重密室ってところかな。なかなか面白いぜ。考えたのはパチュリーだっけか。いやあ、やるなぁ~。あいつ」
「言っとくけど、あいつの脚本は美鈴が殺された事件だけよ。絵が無くなってたのは別。だから、結果的に密室が二つできてたってだけ。私が解かなきゃいけないのは、美鈴の方だけでいいの」
「ん? そうだっけか。にしても、やるなぁ。やるなぁ。で、対してお前は、ちっともやれてないってわけか」
ちっともって。こいつは……相変わらず、なんてデリカシーの無い。
さっき夢みたいな登場をした時は、本当に夢か何かかと思ったけど。やっぱり魔理沙は魔理沙だった。当然だけど。
「フン、そんなことないわよ。現場だって調べたし、それっぽい手がかりだってたくさん見つけたんだから。別にあなたが来なくても、謎が解けるのは時間の問題だったわ」
「すっかり悲嘆に暮れてたように見えたがな」
う。そういえば、さっきの姿をしっかり見られてたんだった。
「まあ、とにかくだ。この灰色の脳細胞を持つ魔理沙様に任せておけばいい。わたしが来たからには、大船……もとい、黒船にでも乗ったつもりでいればいいさ」
「どういうつもりなのよそれ」
「上位互換ってところだ。とにかくって言っただろ。いちいち拘るのは損だぜ」
……こいつ。こっちは言葉遊びなんかしてる余裕は無いっていうのに。
「いい加減にしてよ。あなたは遊び半分でいいでしょうけど、こっちは蓬莱人形がかかって――」
言いかけたところで、ぐにゅり。鼻先に指を突きつけられた。
「おっと、そこまでだ」
「にゃ、にゃにすんにょよ」
「まあ落ち着けって。今のお前の立場は何だ? 探偵役だろう」
私は指先を追い払って、「それがどうしたの」
「いいか、探偵ってのはな。常に冷静でいなきゃならない。どんなことがあってもな。周囲がいくら浮き足立ってても、人形を人質にとられていようがだ。わかるか?」
「まあ、そういうイメージはわかるけど。でも……」
「なら、いつもクールにいることだ。常に落ち着き払い、怜悧に頭を冴え渡らせてなきゃならないのさ。論理的思考力は、整然な脳内環境から生まれる。視野が狭窄すれば、見えるものも見えなくなる。ヒステリーの探偵なんて、どこの世界にもいないだろ。ま、そんなわけだから、焦るこたない。むしろこの状況を楽しむぐらいでいいのさ」
「……楽しむですって? 冗談はやめてってばっ!」
思わず大きな声を出してしまう。ひょっとしたら、見回りのメイドに聞こえたかもしれない。
それでも、あまりの魔理沙の無神経さに、声を荒げないではいられなかった。
「そりゃ、あなたはいいでしょうね。他人事なんだから。私と違って、リスクなんて無いんだもの。大好きな推理ゲームに参加できて、さぞ楽しいでしょうよ。でも、こっちは違うの。あなたは人形遊びっていつも馬鹿にするからわからないでしょうけど、あの蓬莱人形は本当に大事なもので……」
「お、おい」
「だから、無神経もいい加減にしてよ。私が不幸とよろしくやってるのが楽しいんでしょ。遊び半分で横着されるのは、正直いい迷惑……なんだから……」
最後の方は、しぼんだみたいに言葉が続かなかった。魔理沙の顔が見ていられなくて、上半身ごと顔を反らす。
語尾がだんだん消えたのは、後悔と自己嫌悪で自分も消えたくなったからだった。下手をしたら、目に涙も浮かんでいたかもしれない。
わかってる……わかってるのよ。こんなふうにこいつにあたるのも間違いだって。
もう、最悪だわ……。
こいつのブラックジョークはいつものことだし、過剰に反応する私の方が普通じゃない。それぐらいわかってる。
魔理沙が来てくれて嬉しいはずなのに。こいつがいれば、なんとかなると思ったのに……。
「おい、アリス……」
声の微妙な調子から、なんとなくわかる。こちらを心配していること。でも、そんな魔理沙らしくない気遣いが、余計に自分を惨めにさせる。そんな気がした。
これ以上、こいつに迷惑はかけられない。醜態を見せたくない。
背は向けたまま。出した声は、自然と押し殺されるように喉で響いた。
「……もう、帰って。あなたがもともと何しに来たかは知らないけど、ここには長居しない方がいい。そもそもあなたは部外者なんだから」
そこの窓は開いたままだ。こう突っぱねれば、さすがに出て行ってくれるだろう。魔理沙が出て行く気配がするまで、決して振り返ってはならない。それで自分の戒めとしよう、そう決めていた。
だけど……。
「らしくないな」
…………。
「まったくもって、らしくない。熱でもあるのか? 今朝の捻くれてたアリスはどこ行ったんだ?」
魔理沙の声色には、呆れたような吐息が混じっていた。
……これもわかってる。ここで魔理沙がこんな憎まれ口を叩く、理由。
これは挑発。でも、私を怒らせたいわけじゃない。下手に慰めるよりも、こうして噴気を起こした方が私には効果的だって、こいつは経験上わきまえているから。平たく言えば、これが魔理沙なりの気遣いなのだ。毎度ながら、ワンパターンな奴……。
でも、今日ばかりは受け入れるわけにはいかない。やり口は不器用にもほどがあるけど、これは魔理沙の厚意なんだから。受けたら、ますます自分が惨めになる。
だから何を言われても、絶対に振り向くわけには……。
「殊勝すぎてかえって気持ち悪いぜ。明日雪が降ったら、間違いなく原因はお前だな」
そう、何を言われても……。これは魔理沙の気遣いなんだから……。
「ああ、ひょっとしてあれか? こんな赤い屋敷に長いこといたせいで、気でもふれたのか?」
何を……言われても。
「気じゃなかったら目だな、目。色覚障害。若いのに大変だなぁ。あいや、でもお前は人間じゃないし、若いのは見た目だけだったか」
…………。
「だいたいアリスといったら、口が悪い。友達がいない。高慢ちきで鼻持ちならない。三拍子揃ったいけ好かない女ってのが売りなのにさぁ。あれ? 高慢ちきで鼻持ちならないってことは、分けて四拍子か、ハハハ。能の囃子だかユーロビートなんだか、だいたい萃夢想の人形裁判は変拍子なのに――」
「……なんの話よっ!!」
次の瞬間には、魔理沙の胸倉を締め上げていた。
「だ・れ・が、高慢ちきで鼻持ちならない女ですってえぇ? もっぺん言ってみなさいよ。だいたいそれのどこが気遣いなの。ええぇ?」
「き、気遣いとか何の話……。く、苦し……」
……ハッ、しまったわ。
悪口はなんとか耐えれたのに、ツッコミが反応してしまうなんて……。いつもこいつとつるんでいるうちに、反射が条件付けされていたらしい。なんというか、別な意味でショック……。
ところで、魔理沙は浮いてる足をじたばたさせていた。動きが尋常じゃないぐらい必死になっていたので、とりあえず降ろしてやる。
「や、やりすぎだろ……。殺す気かお前は」
床に潰れた魔理沙は、一通り空気を補充してからこちらを見上げた。
「わ、悪かったわよ。まあ、首の骨が折れてないだけありがたいと思いなさい」
「お前は鬼か。ツッコミで命を落とすなんて御免だぜ」
「こっちこそツッコミで人殺しなんて御免よ。というか、あなたがいけないんだからね。それに今は冬なんだから、雪ぐらい降ってもおかしくないでしょうが」
「言葉の綾だっての。やれやれ」
襟元を直しながら、魔理沙は立ち上がる。
「だが、余計な力は抜けたみたいだな」
……ふん、やっぱり。
不細工的なやり方は相変わらず。でもおかげで多少なり、胸のつかえが降りた気がする。少なくとも、さっきまで一人でうじうじしていたときより、よっぽどリラックスできた。
まあ……仕方ない。根負けだわね、今回は。
「まあね。いろいろとすっきりしたわ」
「あんだけ締め上げられたんだから、すっきりしなきゃ困るぜ。締められ損になってしまう」
私はプッと噴き出した。「それもそうね」
またベッドに並んで腰掛けると、さて、と魔理沙が切り出す。
「お前が根を詰めるのも間違っちゃいないけどな。だが、詰めすぎると解けるものも解けなくなる。悪い思考じゃなく、良い思考をすることさ」
「良い思考? ポジティブでいろってこと?」
「そうさ。良い思考をしている時に、悪い気分にはならない。感情さえ落ち着いていれば、良い思考ってのはいくらでもできる」
「いくらでも、ね。卵が先か、ニワトリが先か。なんてことでも?」
ああ。と魔理沙は横顔で頷く。
「思考にエネルギーがあるってことは、魔法使いなら誰でも知ってる。思考の現実化、引き寄せの法則。感情が思考をコントロールして、良い思考なんてできないって悪く考えてしまうんだ。さっきのお前みたいにな」
それは……そうかもしれない。
感情を落ち着かせるためには、良い思考をしなければならない。思考を監視する前に、感情に目を向けてみる。魔理沙の言いたいのは、そういうことだろう。
思考に前向きな変化を起こすには、現状と自身への見方を無視して、望ましい完璧な状態に関心を振り分ける必要がある。そうすることによって初めて、経験を、思い描く現実を創造できる……。
魔力精製の基本原理、だったわね。なるほど、すっかり忘れてたわ。
ようやく、かしら。館に入って初めて、私は自然に微笑むことができた気がした。
「わかったわ。だから探偵になりきれって、そういうことなのね?」
「正解。謎を前にして、臆病風に吹かれる探偵なんて一人もいない。お前が探偵的思考を備えれば、自然と結果もついてくるだろうぜ。そんなわけだから、もっかい肩の力抜けよ」
「ふふふ。探偵って、形から入るものじゃないと思うんだけど」
まあでも……肩に力が入りすぎていた事実かもしれない。
蓬莱人形は、いつぞやの上海人形よりも思い入れがあるから、つい。でも魔理沙の言うとおり、物事を考えるのに頭が茹っていては、わかるものもわからない。
でもまあ、クール・ビューティーは私の本分。立ち返るのは簡単だ。
うなじに手をかけ、私はさらりと後ろ髪を薙いだ。
「ま、そうね。推理小説の探偵なら、クール・ビューティーでいるべきよね。そうするわ」
「あ? ビューティーなんて言ってないが。自画自賛か? どういうタイミングなんだ」
「そこは流していいのよ……」
魔理沙はキシシと子供っぽい笑みを浮かべる。
「ま、その調子だぜ。今回の謎は、どうやらちょっとばかし膨大なようだ。わたし一人の手に余るかもしれない」
「えっ。魔理沙でも?」
そんな。こいつでも手に余るだなんて。だったら、どうあがいても……。
……いやいや。心中で首を横に振った。
こういう考えがダメなんだってば。今教わったばかりじゃない。
今日の私は、クール・ビューティーな女名探偵。魔理沙の言うとおり、この状況を楽しむぐらいでなくちゃ。
それに……こいつは今はっきりと言ってくれた。あの魔理沙が手を貸してくれるなら、解けない謎なんてきっと無い。少なくとも、レミリアなんかに負けるはずがない!
「わかったわ。三人寄れば文殊の知恵。ならきっと、二人でもそこそこのもの。そうよね?」
「いやまあ。古臭い例えだが、間違いじゃないな」
とにかく。じゃあ、そうと決まれば……。
まずは腰を据える。改めて、魔理沙と向かい合うように座りなおした。
思えば……二人で団結して推理するなんて初めてかも。以前の件も、その前も、協力じゃなくて魔理沙との対決って形だった。それが今は、力を合わせて、謎に立ち向かうことができる。
うん! なんだか、やる気が湧いてきた。
よし、と両の手で握り拳をつくる。
「詠唱組、久しぶりの始動ね。レミリアの筋書きなんか一捻りにしてやるわ」
魔理沙も拳を握ると、コツリとこちらに合わせてきた。
「だな。幻想郷一のアカデミックなコンビってところ、見せてやろうぜ」
*
「……まず怪しいのは、絵、ですって?」
「ああ」
ベッドに散らした写真を見下ろしながら、魔理沙は告げた。
そうか……。こいつもそう思うのね、多分に漏れず。
「そりゃなあ。絵なんかをいちいち説明、それも順序良く並べてあるやつを、だ。怪しいったらないぜ。それもお前の話を聞く限りじゃ、その口上もやけに説明口調だったんだろ?」
「まあね。というか、台詞を覚え切れなくて台本見ながらだったし」
「そりゃひどいもんだな……。いずれにせよ、だ。台本にも書いてあったってんなら、その説明は脚本上必要だったってことだ。つまり、なんらかの手がかりである可能性が高い」
言いながら魔理沙は、私との間に写真を並べ始める。全部で四枚。それぞれ、あの四つの絵を一枚ずつ正面から撮ったものだ。
「にしても、へったくそだよなぁ。どれも」
「あ、やっぱりそうなんだ。魔理沙、絵に詳しいの?」
「うんにゃ、人並みだよ。実家じゃ美術も扱ってたからな。まあ昔の話だが。おかげで絵の価値ぐらいはわかる」
ふうん、実家。そういえば、こいつの里の家は道具屋だったっけ。
今は勘当されて寄り付かないらしいけど……なるほど、時折発揮するこいつの変な知識量は、その辺がルーツだったというわけか。
「私は絵なんか全然知らないけど、なんかうまくないのはわかるわ。深みが無いっていうか……」
「発色が悪いってんだろ? たぶん色合いからして、キャンバスに下塗りしてないんだよ。おかげで絵の具が生地に浸透しきってないんだ」
「へー、そうなんだ。レミリアが言うには、どれもとある高名な画家の作品らしいんだけど」
「高名だと? これが?」
カッと馬鹿にするように、魔理沙はいきなりその高名を笑い捨てる。
「レミリアがそう言ったのか?」
「そうだけど」
「ふーん、そうかそうか。だとしたら……ふふ、なんとなくわかってきたぜ。今回の背景がな」
……背景?
「どういう意味? 背景って、いきさつってこと?」
「ま、簡単に言えばな。だがまあ、密室殺人自体を解く手がかりとは関係ない」
「はあ、そうなの」
とりあえず返事をしておく。というか、いきさつって……? よくわからない。
こいつはいつも自分で勝手にわかって、勝手に自分で結論づけてしまう。置いてけぼりにされるのは気に食わないけど、ここは魔理沙の思考の邪魔をしない方がいいような気がした。
「まあ、そうだな。強いて手がかりらしいものがあるとすれば……こいつかな」
四枚のうち、一枚を寄せてよこす。私はそれを手に取った。
これは……『蒼碧のアーキュリオン』?
「これが?」
ああ。そう言いながら、魔理沙はまた別の写真を手に取る。
「この四枚の絵は、犯人が事件を起こした動機に関わっている。そして、その絵は、〝犯人を特定する手がかりに繋がっている〟」
……えっ?
なんだか今、さらりととんでもないことを口走ったような。
「特定って。まさか、もうわかったの? 犯人が誰か」
期待をぐっと抑えて、わずかに身を乗り出す。
「まあね」
まあね。気軽な返答に、一瞬窒息しそうになった。殴られて真っ白の気分だ。
「その様子じゃ、お前。やっぱりわかってなかったみたいだな。これぐらいは推理できそうなもんだが」
「う、うるさいわね。で、誰なのよ。犯人。それに、動機って……」
「それぐらいは自分で考えろと言いたいところだが……まあ、少しぐらいならいいか。動機はカンタン。〝美鈴に絵を馬鹿にされたからだ〟」
「えっ? それって、まさか……。初めに『肖像の間』に連れてかれた時の?」
「ああ。そういうやりとりがあったらしいじゃないか。美鈴は絵を馬鹿にして、それが犯人の逆鱗に触れた。まあ、そんなところだろうな。殺された原因は」
あっさり言ってのける魔理沙。でも正直いきなりすぎて、頭がついていかない。
「ちょ、ちょっと待ってよ。何でそれぐらいで殺されなきゃならないの? だいたい、なんであの絵を馬鹿にして、犯人が怒ることになるの」
「そんなの、単純な話さ。〝犯人は、あの絵の作者だからだ〟。自分の描いた絵をコケにされたから、お返しにナイフで刺し殺したのさ」
自分の絵を馬鹿にされた。たったそれだけで? う~ん。この事件を衝動的な犯行と推理するなら、成り立たなくもないけど……。
いや。でも……。
「それ、おかしいじゃない。だって、さっき話したでしょ? この四枚の絵はとある高名な画家に描かせたって、レミリアが言ってたって。犯人はレミリア、咲夜、パチュリーの誰かしかいないんだから、その推理だと絵の作者もまたその誰かということになる。どこが高名なのよ? あいつらの誰かに絵を描く趣味があることすら初耳だわ」
「そりゃフィクションなんだから、現実とはどう違ってもいいだろ。あくまで脚本上の設定ってわけだ。高名云々言ってたのは、単なる揶揄だろ。レミリアがそいつを冗談でからかったってことで充分通るさ」
それは……なるほど。そうかもしれないけど。
「じゃあ、つまりあなたの言いたいのはこういうこと? 四枚の絵のうち『蒼碧のアーキュリオン』に、作者があの三人の誰かだっていうヒントが隠されてると……」
「まあな。といっても、隠されてるっていうほどでもないが。少し考えればすぐわかるさ」
なんだか投げやりな言葉だった。どうやら魔理沙にしたら本当に少し考えればわかる程度のことみたいで、とっとと次の話題に進みたいらしい。
とはいえ……うーん。気になるものは気になる。仕方ないので、切り札を使うことにする。
「そう言わないで、わかってるのなら教えてよ。ほら、今度あなたの好きなバニラカスタードパイ作ってあげるから。ね?」
魔理沙の片耳がぴくりと反応する。こいつは大の甘党で、よくうちに遊びに来るのもただでお茶菓子を食べるためなのだ。つまり、このカードを切れば大概は向こうが根を上げる。
「……ったく、わかったよ。んじゃ最後のヒントだ」
顔を背けて、魔理沙は後ろ頭を掻く。言質は取り付けたので、私は顎をしゃくった。
「ちゃっちゃと頼むわ」
「…………。まあいい。言える事は、この絵を〝描ける〟奴は、あの三人のうち、一人しかいない。ここまで言えば、自然と答えは出るだろ」
ふむ。自然と……。
…………。
「……昨晩の献立しか出てこないんだけど」
「そうか。何食べさせられたのかは知らんが、たぶんそりゃ関係無いぞ」
言われなくてもわかってるし……。しかもあんな生肉のステーキ……ああ、また思い出しちゃった。気持ち悪い。
「ああでも、そうだな。献立ってか、昨日のディナーって話なら別かもな」
「ディナー? ということは……やっぱり、あの食事会も何か意味があったのね!?」
ふふん、と魔理沙はほくそ笑んでみせる。
「まあな。だいたい推理小説ってのは、無駄なパートなんて存在しないようにできてんのさ。長編なんてただでさえ長いのに、余計なこと書いたらいくらでも容量が膨らんでしかたないだろ」
ふむ、なるほど。言われてみれば、ミステリーってそういうものかもしれない。何気ないシーンでも、どこかしらに伏線が散らばってる。パチュリーの脚本も、そんな基本法則にちゃんとのっとってたわけね。
そう言えばさっき魔理沙に今日の出来事を説明した時も、こいつは事件が起きた場面だけじゃなく、最初から全部詳しく話せと言ってきかなかった。おかげで一日を振り返るのに一時間近く話し込んでしまったわけだけど、決して無駄じゃなかったわけか……。
あの食事会では、特にとりたてるようなことは無かった。ただ飲み食いしながら閑談に終始しただけだ。でも隅から隅まで思い出せば、何か魔理沙の言うような手がかりがあるのかもしれない。
まあ、今魔理沙がすぐ話してくれるのが一番早いんだけど……。
「ま、これでも何も閃かないってんなら仕方ないな。焦らなくても、後でまとめて教えてやるさ。それにまだ見当がつくって程度で、確証があるってほどでもないし……。それまで自分で考えてみるんだな」
ふんだ。いじわるめ。
でも……よかった。いきなり希望が湧いてきた。
やっぱりこいつ、凄い。もう犯人の見当をつけてしまうなんて。一度話を聞いただけなのに。ひょっとしたらこの調子で任せておけば、もう全部推理しちゃうのかもしれない。私が何もしなくても。
……いや、駄目だわ、気を抜いちゃ。犯人が誰かわかっただけじゃ、事件は解決しない。解かなきゃならない謎は、まだ山ほど残ってるんだから。
「しかし……今はもうこの絵も盗まれたって言ってたよな。アクシデントだって? 本当に脚本通りじゃないのか?」
魔理沙はいかにも疑わしい目を向けてくる。しっかりと、私は否定した。
「アクシデントよ、あれは。あなたはあの時いなかったから無理ないけど、あのレミリアの驚きっぷりは間違いないわ」
「それなんだけどさぁ、本当なのか? 鍵のかかった部屋で、中の絵が消える。どう考えても、誰かに盗まれたとしか考えられないぜ。無論その誰かっては、お前や紅魔館とは関係の無い第三者だ。そいつがちょうど今日に限って、偶然やってきたってことになるが。果たしてそんなことがそうそうあるもんかな」
今日に限って偶然というなら、こいつが今日ここにやってきたのもかなりの偶然な気がするけど……。まあ、面倒だしつっこまないでおく。
「だいたい、驚きっぷりがどうとか言われても、私は現場にいたわけじゃないからなぁ。お前の人間観察をどれだけ当てにしていいかもわからんし」
「しなさいよ、失敬な」
「してやるか、仕方なく」
わざとらしく、大袈裟に肩をすくめる魔理沙。でもすぐに元に戻して、「じゃあ次だ。聞かせて欲しいんだが。死後硬直の度合いからいって、美鈴の死亡推定時刻は死体発見から二時間以内だったな。その時の三人のアリバイは? 事情聴取したんだろ?」
「一応ね」
まあ、あれが事情聴取といっていいのかはわからないけど。結局向こうが一方的に話して終わっただけだし。
「端的に言えば、アリバイは誰にも無かったの」
「へえ。それはつまり、そいつら全員それぞれ一人だったってことか?」
ええ。私は頷く。
「まずレミリアなんだけど、ずっと自室にいたそうよ」
「ふむ。何やってたって?」
「音楽鑑賞」
「音楽鑑賞?」
「うん。クラシックですって」
「クラシックぅ~?」
そんな声色捻らなくても……。まあ、私も信じられないけど。
「そういう設定にしたんでしょうね。あれでしょ、きっと見栄を張りたい年頃なのよ。それでもって、クラシックが高尚な趣味かなにかと勘違いしてるんだわ」
「まあ五百歳がそういう年頃なのかはわからんが。だが脚本上そうなっているってことは、少なくとも誰とも会ってないってのは確かだろうな。そうじゃなきゃ事件が成り立たん」
「レミリアは毎日零時が深夜のティータイムなんだけど、今日に限っては時間になっても咲夜が来なかったらしいの。それで別のメイドに咲夜の事を尋ねたら、火事の方に向かったって知ったんだって」
「それであいつも現場に駆けつけたってわけか。パチュリーは?」
「似たようなものね。ずっと大図書館で魔導書を書いてたらしいわ。いつものように一人で閉じこもってたから、目撃者は無し。ティータイムにレミリアのところに行って、事件を知ったのはその時」
「じゃあそいつら二人については、結局ヒントらしいヒントは無いってことだな。あとは咲夜か。お前の話じゃ、食事中に猫がどうしたとか言って、美鈴とどっか行ったらしいな」
「でも、それが咲夜もなの。本人の話だと、あの後厨房に行って少しだけ猫に食事をさせてから、美鈴と一緒に猫を逃がしたって。それから、部屋の鍵を無くした美鈴にマスターキーを渡してすぐ別れたの。その後は、私たちが食べた食器の洗い物を済ませて、自分の部屋でずっと裁縫をしていたらしいわ」
「で、咲夜も自室に一人でいて、その証拠は無し。そういうわけか。やるなぁ~」
それはそれは嬉しそうに、魔理沙は頷きを繰り返す。
「普通は犯行時刻のアリバイの差異が、犯人を割り出す重要な手がかりになるもんだ。だが、そこをすっぱり切ってくるとはな。くくく、なかなかやるなぁ、パチュリーのやつも。ミステリーとしては悪くない構成だぜ」
確かに、犯人か誰か割り出すには、普通はアリバイを探すのが手っ取り早いし、わかりやすい。それくらいは私でもわかる。
でも、そこからヒントを得られないとなると……。当然、別の何かからということになる。きっと、そこでさっきの絵なんだわ。もう犯人の見当がついている魔理沙が言うんだから、間違いない。
「まあ、それはそれとして、だ。咲夜の話だが、妙だな。たかがメイドのくせに、個室を持ってるなんて。普通家政婦なんて、屋敷に住むんなら相部屋で妥当なもんだと思うが」
「咲夜はメイド長。いわゆるハウスキーパーだからね。紅魔館には山ほどメイドがいるし、立場上は上級使用人ってことになるんじゃない? なら個室ぐらいもらってるでしょ。まあ、少なくとも脚本上はね」
「ふうん、上級使用人ねぇ。お前、変な知識だけはあるよな」
「変も余計だし、だけも余計よ」
「とにかく。密室については、実際に見てみないと要領が得ないな」
す、と魔理沙は立ち上がる。
「じゃ、行くか。そんなわけだから」
「……は? 行こうって、まさか」
「当然、その密室さ。ついでに美鈴の奴に焼香でもあげてやるかな」
「いやいや、生き返るんだから焼香は別に……じゃなくて! 駄目よ、勝手に入っちゃ。一応あいつらの許可をとらないと」
「部外者のわたしに許可なんかくれるわけないだろ。それに、見つからなきゃいいんだよ。そうでなくとも、後でばれなきゃな。当人達が気づかなければ、それはそれで真実ってことさ」
強情な奴……ハァ。
「まったく……わかったわよ。見つからなければ何をしてもいい。それがあなたの持論なのね」
「持論? 違うね」
振り向き、魔理沙はニッと笑った。
「世界の理さ」
*
「あっ、ちょっと待って」
部屋から出ようとしたところで、私は引き止めた。
「ん?」
「美鈴の部屋に行くのはいいにしても、どうするの? どこの誰かが絵を盗んでからこっち、警備の数がさらに増えてるのよ」
「なんだ、そんなことなら問題ない。こいつを使う」
ごそごそ、ショルダーバックから取り出したのは、ちょうど手に乗るぐらいの……何これ? 何だか夏の居間に置いてあるような、渦を巻いた奇妙な物体だった。
「……蚊取り線香?」
「違う。魔除けの香だ。妖力の低い妖怪の目をくらます効果がある。平たく言えば、これを使えば妖力の低い奴らはわたし達に気づけなくなる」
「ふうん、便利なものを持ってるのね」
「そりゃ、霧雨印の特製品だからな。メイド妖精なんて、これ焚いとけば寄ってこないだろう」
なるほど。今までこいつが見つからなかったのもそのマジックアイテムのおかげらしい。もっとも、蚊取り線香がもとになっているのは明らかだけど。見た目からして。
霧雨印の効果は絶大だった。メイド妖精は存在すら消してしまったかのように、気配が感じられなくなった。ほどなくして、問題の『給仕の間』に辿り着く。
「お、ここだな」
「……ねえ、魔理沙。やっぱりまずいと思うんだけど……って、あっ。ちょっと!」
魔理沙はまるで自分の家みたいに、ずかずか入っていく。とりあえずシャワーとでも言い出しかねない自由さだった。
それにしても、うーん……。本当によかったのかしら。咲夜になんにも言わずに来たけど。
気づくと、魔理沙が中で手招きしていた。
「何してんだよ。とっととお前も入れって。明かりが来ないとわかんないだろ」
「ひとを明かり呼ばわりしないで。不法侵入者のくせに」
咲夜を呼ぶわけにはいかなかったので、部屋に備え付けてあった携帯ランプを拝借してきた――この部屋にも照明はあるけど、使えばさすがに見張りに気づかれる。とりあえず、部屋全体が見渡せるように床に置いた。
「うおおお。これがくだんの死体か~。リアリティあるなぁ」
さっそく魔理沙は美鈴に食いついていた。おそるおそる……ではなく、興味深々に指でつんつんしている。
「そりゃ、本当に死んでるものね。一時的とはいえ。というか、つつくのは止めてあげなさい」
「あんまりリアルすぎて、焼香なんかあげたらかえって罰が当たりそうだな。にしてもこれ、永琳の薬なんだって? いやぁ、いっぺん臨死体験してみたかったから、わたしも後で譲ってもらおうと思ってたが。やっぱり、こりゃ本格的すぎて勘弁だな~」
臨死じゃなくて仮死なんだけど……。こいつの頭に不謹慎って言葉は無いのかしら。
「それより、どう? 何かわかった?」
「言ったろ? 焦るこたないって。時間はまだたっぷりある」
「たっぷりって……あと二時間ちょっとよ?」
「それだけありゃ充分ってことだ。ええと、どれどれ。鍵は内ポケットだったな。にしてもコーヒー臭くてかなわんな、こりゃ」
慣れた手つきで、魔理沙は服の中をまさぐるなんで慣れてるのかは知らないけど。
ハァ……まったく、いつもながらこいつは、どこからそんな自信が出てくるのやら。
…………。
そう、いつもこいつはこうだ。
こうして謎を前にする魔理沙の横顔は、まるで子供と変わらない。気に入ったおもちゃをもらったみたいにはしゃぐとこなんかそっくりだ。
でも、それはただ無邪気ということじゃない。私が言いたいのは、その純粋さ。打算じゃなくて、思うままに考え、行動できるパーソナリティ。楽しむことを忘れない純粋な心こそが、きっと魔理沙の類稀なる才能なのだと思う。
その才能が、こうして表に出てこれたのは……以前の事件で、現実に興味を持ってくれたおかげかしらね。うふふ。
「ふむ、なるほどね」
魔理沙はベッドから体を離すと、笑みを浮かべたまま腕組みをした。
「こいつは確かに難問そうだな。お前がまったく歯が立たないのも無理は無い」
「まったくは余計よ、まったくは」
「ま、どっちでもいいけどな。そんなまったくなお前にもわかりやすいように説明してやろう。この事件は密室殺人だ。だが、世には物理的にどうしても、不可能犯罪なんて起きないようにできている。幻想なのさ、密室殺人なんて」
「それは……わかってるけど」
「だから必ずどこかに不可能を可能にするタネ、トリックがある。さて、そこでだ。密室殺人のトリックは、大きく幾つかに分類できる。わかるか?」
「分類?」
軽く横に首を傾げる。密室殺人の分類なんて、考えたことも無かった。
「ああ。人によって見解は異なるけどな。わたしの考えでは、密室を成立させるトリックの要素は大きく四つだと思ってる。まずは、<物理的なトリック>。つまり、犯人や被害者自身の手によるものだ。まあ、スタンダードって言えばいいかな。
そして、次に<機械的なトリック>だ」
「ああ、あれでしょ。ようするに、機械的な仕掛けか何かをしかけて、自動的に鍵がかかるような仕組みになるってこと」
「そう。犯人あるいは被害者が、部屋の外から自動的にギミックを発動させるトリックのことだ。あるいは時限式のな。この場合は現場になんらかの、主に物的な証拠が残っていることが多い。
そして三つ目、<偶発的なトリック>。これはトリックとはいうが、厳密には違う。自然の力や第三者の力によって、犯人の意図せずして偶然密室が構成されたものを言う。もしこいつだったら、少々厄介だ。なにせ被害者はおろか犯人にとっても埒外のことを、第三者に過ぎない探偵が当てなきゃならないんだからな」
確かに。意図したものではなく、自然に出来てしまった密室。極端に言えば、風が吹いた結果そうなった、なんてことになったら、推理なんてできるはずがない。
まさか……この事件もその類のもの!? だったら、そんなのわかるわけ……。
「だがまあ、今回に限ってそういうことはないだろう。もともとこの手のトリックは、蓋然性の問題で推理小説としては邪道って声も多い。レミリアの性格を考えても、そういうのを認めるとは思えないしな」
「……そっか。そうよね」
それを聞いて、ほっと胸を撫で下ろす。
「そして最後、<心理的なトリック>。犯人や被害者が錯覚や欺瞞を利用するもの。つまり本当は密室でなかったり、実は被害者は死んでなかったり。と、そんな場合だな」
「ん? ちょっと待って。密室じゃないってのはわかるけど、実は死んでないってのはどういうこと?」
「いわゆる早業殺人ってやつさ。被害者を予め眠らせるなり気絶させるなりして、第三者からはあたかも死んでいるように見える状態で、密室状態の所へ置いておく。目撃者に死んでいると思わせて密室に入り、目撃者に気付かれない様に――あるいは人を呼びに行かせてる間に殺害し、被害者が密室状態で殺害されたと錯覚させるわけだ」
なるほど。心理的な盲点をつくってわけか。確かに早業というだけあるわね。
「お前は一応、現場に居合わせた目撃者の一人。一応訊くが、この類のトリック使ったような可能性はあるか?」
可能性……どうだったかしら。
死体に一番最初に駆け寄ったのは、確か咲夜だったと思う。というか、死体にはあいつしか触っていない。だからその可能性があるのだとしたら、咲夜しかいないということになる。
でも、咲夜が倒れている美鈴に駆け寄る前、私たちが部屋に入った時にはすでに、美鈴の背中にナイフが刺さっていた。それは間違いない。死体にはそのナイフ傷以外に外傷は無いんだから、死因はそれ以外にあり得ない。少なくとも、あの衆目の場で殺人を行えたはずがない。
「可能性は無い……と思うわ。たぶん」
「たぶん、か。でもまあ確かに、死体の傷は刺傷だけみたいだな。まあその傷も、実際は血糊がちょっとついてるだけでわかりにくいが。でもこいつが永琳の薬を飲んだのは、殺された時って認識でいいんだろ?」
「ええ。忠実に脚本を再現するって言ってたし」
「なるほどね、ふぅん。……で、お前の考えじゃ、この死体はベッドの上で殺されたんじゃなく、別の場所で殺されてここに運ばれたんだったな?」
魔理沙にはさっき事件のあらましを説明すると同時に、私自身気になったことも付け加えて話した。あの時は、事情の知らない魔理沙は意外と素直に聞いてくれたけど。でもこんなふうに聞き返してくるということは……こうして現場を眺めて、魔理沙は違う見解をもったということかしら。
「そうだけど、どこか間違ってる?」
「いや、おそらくそれでいいはずだ。燭台はともかく、これだけコーヒーの染み付いたベッドに寝たがる奴はいないだろうからな。この死体、実に臭うぜ」
「きな臭いってこと?」
「いや、コーヒーが」
……あっそ。
それきり、魔理沙は美鈴から視線を外す。次にこいつが目をつけたのは、どうやら小窓だった。少しだけ屈んで、覗き込むように外を見る。
「で、これが窓、ね。確かに、こんな隙間から脱出は不可能だな。魔法でも使わない限り」
「そうなの。だから密室なのよ」
「これが脚本って設定じゃなかったら、犯人はレミリアで決まりだったんだけどな」
いきなりそんなことを言うものだから、少し面食らってしまった。
「ど、どうして?」
「簡単さ。能力を使っていいなら、ここから抜け出せるのはあいつだけだ。ほら、あいつは体を蝙蝠みたいに分裂させることができるだろ? 一匹ずつなら、これぐらいの隙間があれば充分通り抜けられる」
言われてみれば、確かに。今まで何回かあいつと闘ったけど、自分の体を分裂させて別の場所に現れたりしてた気がする。
「でも、どうしてレミリアだけなの? パチュリーはともかく……ほら、確か咲夜は瞬間移動もできなかったっけ?」
「ありゃインチキさ。時間を止めて別の場所から出てくるように見せてるだけだ。瞬間移動なんて、本当はできやしないんだよ。まさかお前、今まで気づかずに闘ってたのか?」
図星だったのだけど、ここでむきになったら図星でしたと言っているようなものだった。とりあえず、咳払い一つで済ませてやる。
「まあいずれにせよ、仮定の話ね。今日あいつらは、能力なんて使っていない。なのにどうやって、物理的に不可能な密室を作り上げたのか……」
「かえって難易度が上がったわけだ。お前にとっちゃ、面白くない話かもしれないが」
「……あなたにとっては、最高に面白い話ってわけね」
そういうこと。そうニカッと、奥まで白い歯を光らせる。
そう、これだわ。これが、こいつが最高に機嫌がいいときだけ見せる笑顔。そしてこの顔を出した魔理沙は、私の経験上〝謎が解けなかったことは無い〟。
あくまで、経験上……だけど。
「で、このタンスの上にマスターキーがあったわけか。窓の真下、とも考えられるが」
「ええ。その辺は、さっきあなたが写真で見た通りよ」
「なるほど。わかってはいたが、やっぱり不自然な事だらけだな、この密室は」
「犯人が死体を移動させたこと?」
「それだけじゃないんだがな。例えば、この床に散らばっているこいつらだ」
こいつら、と目配せしたのは、どうやら床のある灰のことを言っているらしい。燃えた服の残骸だった。
真っ黒で、一見して何の変哲も無い炭にしか見えないけど……。
「これがどうしたの?」
「お前は何が燃えたものだと思う?」
無数に散らばる黒い屑、その一片を右手で摘み上げて示す。
「何って、美鈴の服でしょ? 洗濯物か何かじゃないの?」
「まあ、洗濯物かどうかは知らないけどな。布製の服か何かだったというのは同感だ。ただ、気になるのは……」
「気になるのは?」
「燃え方が違うものがある。例えば、そこに落ちているやつは多少黒ずんでてもまだ服の柄が見えるが、こいつはすっかり炭化している」
言われて、魔理沙の手元と床とを見比べてみる。確かに、違いはあるけど……。
「よく燃えてるのは、単に生地が薄かったからじゃないの? ハンカチか何かが紛れてたってこともあるし。それに、下に埋もれている方が燃え残るのは当然じゃない」
「まあな。そう考えるのは当然だが」
次に、今度は左手で摘み取った。
「じゃあ、これは?」
「いやこれはって言われても、同じ燃えカスじゃ……」
言いかけ、違和感を持った。
魔理沙の手ごと、それを顔に近づける。
「いや、布じゃないわね。これは……紐?」
「そうだよな。わたしもそう思う」
実際、紐のような原型はほとんど残っていない。でも、炭になっている繊維は荒く、ささくれている辺りがいかにもそれっぽい。紐? 縄? それとも、紐のような何か……。
百歩譲って、そこに何か服が置いてあって、それに火が燃え移ったということはあり得る。でも……紐? なんでこんなものが?
確かに、言われてみれば不自然。とすると……これは犯人の残した証拠?
魔理沙もそう思ったらしい。目を輝かせ、それをこちらに配る。
「な、怪しいだろ? なぜそんなものが自分の部屋にあったんだろうな。美鈴のやつにSMの趣味があるなんて聞いたことないし」
はあ? エスエム……とは何かしら。
まあ詮索しなくていいか。どうせろくでもないことなんだろうし。
「トランプとか、手芸の趣味はあったみたいよ。そこの引き出しに、セットが入ってたもの」
「ふむ。まあ、門番なんてのは基本外でやる仕事だろうし。寒さを凌ぐのは大切なんだろう」
でも、こうして床をじっくり眺めると……黒ずんだ部分が多いからわかりにくいけど、まだいろいろ落ちているのがわかる。例えば、ところどころに散っている、この毛。
一見黒いから髪の毛に見えるけど、火を浴びて黒ずんでいるだけで、これは猫の毛だ。さっきは気づかなかったけれど、黒以外の毛もそちらこちらにある。おそらく、あの食事中に咲夜が見つけた、あの猫の毛だろう。
あの子猫は確か、美鈴が内緒で部屋で飼っていたものだったはずだ。とすれば、別に毛が落ちていたところで不思議じゃない。
……ん? 猫?
「ねえ、魔理沙。もしかして、猫が……」
「ん?」
「あ、いや……やっぱりなんでもない」
ああん? と、魔理沙は顔をしかめる。「なんだそりゃ」
「な、なんでもないって言ったらなんでもないのよ。女の心を詮索するなんて、野暮な真似はやめてよね」
「はあ……? わけがわからんな、こいつ」
もしかして、猫が犯人じゃないか。そんな突飛なことが頭に浮かんでしまった。
美鈴を殺したのが猫だとしたら、あの小窓から抜け出せる。というより、もし出入りできる存在がいるとしたら、それはあの猫しかいない。
でも、考えるまでもなく、そんな推理は突拍子も無い空論だと気づいた。猫がナイフで人を刺すなんて、非現実的にもほどがある。それこそ、猫じゃなく猫又のような妖怪だった、というなら別だけど、その可能性だけは前提から無い。それに、外は地上まで魔理沙の言うように四十メートル。仮に訓練させた猫だとしても、いくら鍛えたところで、無事で済むはずがない。
危ないところだった。こんなことを魔理沙に話したら、また頭から馬鹿にされるところだった。
さっきから熱心に床を眺めてるから、こいつも猫の毛には気づいているだろう。それでも何も言ってこないということは……まあ、これはそんなに注目することじゃないのかも。美鈴がこっそり猫を飼っているのはあの食事中のやりとりで言っていたから、毛が散っていても不思議じゃない。もっとも、その猫も今はどこにいるかわからないけど。火事の時にでも逃げたのかしら。
魔理沙は屈んで小ダンスの中を調べていた。三つある引き出しを、順に開けていく。
「ふむ、なるほどな。となると……アリス」
「あっ、はい」
すっと立ち上がる魔理沙。唐突に呼ばれたので、若干声が上ずってしまう。
「訊くが、隣の部屋の構造は、ここと同じか?」
「隣の部屋? ええ、確か文がそう言ってたわ。このフロアは全部従業員の部屋だって。実際確かめたわけじゃないけどね」
「ふうん。じゃあ、今から確かめてみるか」
「……あっ。ちょっと、魔理沙!?」
声をかけた時には、もう魔理沙は廊下に消えていた。慌てて後を追いすがる。
もう! いきなりなんだっていうのよ。これだけ勝手に出歩かれちゃ駄目って言ってるのに。
魔理沙は隣の部屋の前にいた。いたって冷静に、ノブに手をかけて立ち往生している。
「駄目よ。中を見るったって、鍵がかかってるでしょ。確かめに中に入るなら、咲夜を呼んで―――」
「いや、いい。知りたいことはわかったからな」
「……は?」
ただドアの前に立っただけで、いったい何がわかったと……。でも魔理沙の声に、冗談めかした響きなんて無い。
「となると、あとは下だな」
「下?」
「下って言ったら、外だよ。その部屋の下。中庭とか言ってたっけ? どうせお前はまだ調べてないんだろう」
馬鹿にしたように言いよってからに……まあ、調べてないけど。
「だって、下はただの中庭。それに、ここ十一階なのよ。何メートルあると思ってるの」
「紅魔館の間取りなら、何度も忍び込んでるから頭に入ってるぜ。 東棟十一階なら、四十一メートル五十センチ。凧でも揚げたらさぞ気持ちいいだろうな」
「そりゃ高さじゃなくて風速でしょうが……」
「ま、何メートルだろうが密室に高さは関係ないよな」
「まさかあなた、下に何か証拠があるって言いたいの?」
魔理沙は背を向け、ひょいと肩をすくめる。
「あるかもしれないし、無いかもしれない。あったら儲けものって話さ。とっとと行くぜ」
*
外に出るにあたり、多少の心配があった。
なにせ、この紅魔館は広い。咲夜の案内が無ければ、すぐに迷ってしまうだろう。廊下には窓なんて無いし、どこがどこやら方向感覚が狂ってしまう――ついでに、色彩感覚も狂ってしまう。だいたいちゃんと玄関まで行けたとして、開いているなんて保障は無いし。私は自室で待機することになってるから、誰かに見つかったらなんて言われるか……。
そんなことを鬱々と考えていたのだけど……魔理沙に連れられ辿り着いたのは玄関ではなく、なぜかその自室だった。わけがわからず戸惑っていると、魔理沙は箒を持って窓の縁に足をかけた。
「何してんだよ。時間無いんだろ? とっとと降りようぜ」
「って……そこから?」
「他にどこがあるんだよ。もし本当に絵が無くなったのが泥棒の仕業だってんなら、正面玄関なんてとっくに封鎖されてる。魔除けの香の効果も無限じゃないし、警備に鉢合わせても面倒だろ。んじゃ、先行ってるからな」
言い終わるが早いか、外に身を躍らせる。
まあ……言われてみれば、確かに納得。当然のことだ。でも、当然のことでも瞬時にその思考に辿り着けるのは、今のあいつにしかできない。
思考は脳内物質と神経パルスの受け渡しだ。伝達が速ければ速いほど、思索の森は啓けてゆく。きっと今魔理沙の頭の回転は、トップギアに入ってるんだろう。
この調子なら、もしかして、もしかするのかも……。
「ええと。どの辺だったかな、美鈴の部屋は」
すでに地面に降りていた魔理沙は、建物を見上げながら位置を確かめている。隣に着地すると同時に、私は尋ねた。
「場所はわかった?」
「いや。暗いし、なにせ十一階だからなぁ。ここからだと、窓があるかすらもわからん。縁に明かりでも置いてくりゃよかったかな」
「そんなことしたら、すぐに誰かに見つかるでしょう。あなた、不法侵入者だって自覚あるの?」
「自覚も無いし、第一幻想郷にゃ法律すら無いしなぁ」
「くだらない言葉遊びはいいのよ。そもそも、あなたはなんで紅魔館に来たの。それも今日に限って」
「ん? ……ああ、うん。まあな」
言いよどみながら、魔理沙は勝手に建物に沿って歩いていく。
ああ、うん。まあな。つまり結局、どういう答えなのだろう?
……まあいいや。今はそんなことどうでもいいし。
「この辺かしらね」
中庭から続いていた芝がちょうど途切れる辺りで、私は足を止める。
「お? そうなのか? お前、そんなに夜目は効かないんじゃなかったっけ」
「見なくてもわかるわよ。だってあそこ、角部屋だったじゃない。高さは測れないからどの窓かはわからないけど、真下の位置さえ知れればいいんだから。てかあなた、気づいてなかったの?」
痛いところを突かれたらしく、魔理沙の頬に痙攣が走った。
「べ、別にいいだろ。それぐらい」
別に揚げ足とったつもりはなかったんだけど。まったく、よくわからないやつ。あれだけ切れるのに、たまに簡単なことを見落としたりするんだから。
人間らしい、というより……魔理沙らしいのかしらね。これは。
「見ろよ、これ」
しゃがんだ魔理沙に手招きされる。
トクン、胸が一拍高鳴った。見つかったのかしら。まさか本当に、何か手がかりが……?
隣に片膝をつきながら、「何かあった?」
「ほら、ここ」
地面を指差しされたけれど、特に何も見当たらない。んん、と目を凝らしてみると……。
「……これって、足跡?」
たぶん、そうだと思う。でも、人の靴の底じゃなかった。
これは……猫の?
うーん、何かと思えば……。なんだか落胆してしまう。猫の死体とか、血でも見つかったっていうなら多少別かもしれないけど。ただの足跡ってんじゃねぇ。猫は夕食の時咲夜と美鈴が外に逃がしたから、それがこの辺を散歩していたって証明にしかならないし。
でも、どういうわけか、魔理沙はまたほくそ笑んでいた。
「ビンゴだぜ。どうやら儲けものだったみたいだな。てことは……」
……は? ビンゴ?
沈思黙考する魔理沙。しばらくしてから、おもむろに口を開く。
「確認していいか?」
「え? どうぞ」
「マスターキーは基本的に、いつも咲夜が持っている。これは、なにも今日の脚本に限ったことじゃない。そうだな?」
「ええ」
「そして、消えた絵は四枚全てだ。なら……条件は揃ったな」
立ち上がる魔理沙の姿を、私は見上げた。
条件は整った、ということは……。
「魔理沙……じゃあ!」
「ああ、全部解けたぜ」
例の無邪気で不敵な笑みを、魔理沙は横顔で語った。
「言ったろ? 密室なんて幻想に過ぎないのさ。たとえわたし達のいるこの世界が、幻想郷だとしてもな」
・・・・・・Leading to the true part
今回はガチですか、でもガチ故に類似トリックもあるはず。
では解答編で答えあわせをさせてもらいますよヽ(´ー`)ノ
>瞬時にきょうつけのポーズをとる。 →気を付け
解答編いってきます!