良く晴れた昼下がり、紅魔館のテラスで紅茶を楽しんでいたレミリア=スカーレットは、遠くの空に浮かぶ黒い点を視認した。特に気にしなかったが、点は次第に大きくなっていく。それが拳大の大きさになったところで、彼女はこちらに向かって何かが接近していることに気づいた。もっとも、その正体は容易に推測ができたが。
青い空を突き抜け、風を切り、丈夫そうな箒に跨がって向かってきたのは、魔法使いの霧雨魔理沙だった。彼女は速度を落とし、テラスの上までやってくると、身軽に飛び降りた。箒を掴み、レミリアに笑いかけてくる。
「遊びに来たぜ」
「……思うけれど、こうして侵入してくるなら門番は必要ないんじゃないかしら」
溜息をつき、レミリアは手にしていたティーカップをテーブルに置いた。前々から疑問に感じていたが、門番である紅美鈴が役目を果たしているとは思えなくなってきた。時折力の差もわきまえない妖怪が紅魔館にやってくることがあり、彼女はそれらをきちんと撃退してはいるが、その程度ならたとえ眠っていてでも自分で倒すことはできる。本当に警戒しなければならない実力者をこうもあっさり主の前に通す門番は役に立っていると言えるだろうか。
そう言うと、魔理沙は苦笑した。
「門番は門を守るためにいるんだろ。空は管轄外じゃないか」
「門番はそもそも主を守るためにいるのよ。これからは空を専門に見張らせようかしら」
「空に門はないぜ。別にいいじゃないか。こないだの異変を起こさない限り、私はお前をどうこうするつもりはないし、本当に危険な奴ならあいつだってそう通したりはしないだろ」
それもそうか、とレミリアはひとまずそう結論づけた。どのみち魔理沙の相手をするには美鈴は少々力不足だ。どこかで特訓しているのか、魔理沙は最近実力を上げてきている。弾幕ごっこでならレミリアとも方を並べるほどの腕前だ。
「それより、何の用かしら。今まで盗んだ本でも返してくれるの?」
魔理沙は時折紅魔館を訪れては、借りると称して地下の図書館から本を盗んでいく悪癖がある。最近はそれも少なくなってきたが、本自体はまだ返されていない。そのため図書館の主であるパチュリー=ノーレッジはいつもそのことを不満げに漏らしている。
「盗むとはひどい言われようだな。借りてるって言ってるのに。いつ返すかわからないだけだろ」
何とも盗っ人猛々しい発言だ。レミリアは呆れたが、当の魔理沙は真面目に言っているのだから笑えない。彼女は唇を尖らせると、そのまま館の中に入ろうとする。レミリアはその背中に言葉を投げかけた。
「まだ答えてもらってないわ。何の用かしら」
問いはしたが、実を言えばレミリアはその答えに気づいていた。魔理沙は肩越しに彼女を向くと、知っているくせに、とでも言いたげに眉を顰めた。
「フランの相手をしにきたんだ。私の記憶が間違ってなければ、ここのところの訪問の理由は全てそうだった気がするんだけどな」
「そうだったかしら」
魔理沙はじっとレミリアを見つめると、おもむろに口を開いた。
「お前もどうだ。たまには一緒に遊んでやらないのか。あいつ、不満がってたぜ」
その誘いは来ると思っていた。魔理沙が何を考えているのか、薄々感づいていた。姉妹の仲を慮ってくれるのはありがたいが、こちらにも事情がある。
その問いへの返事は、優れているとは言い難いがあらかじめ用意してあった。レミリアは肩を竦めた。
「あの子の相手なんて、命がいくつあっても足りないわよ。それにあなたが相手をするならそれで十分でしょ」
「お前でそれなら私は即死じゃないか。そもそもお前は死なないんだし、私じゃ駄目だから言ってるんだよ」
「あなたは特別よ。それに私は不死じゃないわ。再生能力が高いだけよ」
魔理沙が何を言いたいのかも理解していたが、あえてレミリアは気づかないふりをし、はぐらかすように言葉を継いだ。自分が何を考えているのか、悟られないように気をつけて。何にしても魔理沙は察しているだろうが。彼女はどこか人の感情には聡いところがある。
「お前達の関係は知らないけど、私から一つアドバイスだ。思いっきり喧嘩すればいいんだよ。言いたいこと言って、自分の気持ちさらけ出して。最後には笑い合えるくらいにな」
彼女はレミリアから視線を外すと、じゃあなと手を振って紅魔館内へと消えていった。彼女の後ろ姿が完全に見えなくなるのを見届けてから、レミリアは顔を外へと向けた。
言える訳がない。実の妹と、フランドール=スカーレットと向き合うことに躊躇いがある、とは。
フランドールの能力は『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。彼女にかかればどんなものでも破壊されてしまう。それは自分も例外では無い。レミリアはこれまで妹によって多くのメイド妖精が文字通り破壊されるのを見てきた。彼女らは大抵フランドールの不興を買ってしまったためだが、中には何の落ち度もないのに被害を受けた妖精もいる。精神的に不安定であるフランドールは能力を暴発させてしまうことが多々あるのだ。訓練すればある程度は制御できるようになるだろうが、そのためには途方も無い時間が求められる。彼女が能力を自在に操れるようになるまで一体どれだけの被害が出るだろうか。
だから彼女を閉じ込めた。暗い地下に部屋を与え、紅魔館からの外出を禁じた。もし外で事件を例えば人間を襲撃したとなればただでは済まないだろう。博霊の巫女に退治される恐れがある。閉じ込めたのは、それを回避するためでもあった。
だが、それは根本的な解決にはなっていない。レミリアが思い悩んでいるのはそこだ。フランドールを紅魔館に閉じ込めたのは彼女を守るため。この口実を盾に自分は彼女と向き合うことを拒んでいるのではないか。
訓練が必要なら付き合ってやればいい。どれだけ時間が掛かろうと、自分達の寿命と比べれば微々たるものだ。精神面でも同じだ。精神を自律させる訓練にも協力すればいい。そうしないのは、心の奥底で彼女を恐れ、また閉じ込めていた方が楽だと考えているからではないのか。否定したくても、確かにそう思うことがあるからできない。そんな自分に対しても嫌悪感を抱いている。
迷っているのだ。妹に対し、どう接して良いのかわからない。
自分よりも凶悪な能力を持ち、気がふれていて、ともすれば能力を暴走させてしまいそうな妹。彼女は自分が閉じ込められていることをどう考えているのか。
怒っているよね、とレミリアは溜息をついた。何より自分自身が一番腹を立てているくらいなのだから。
満月の夜がやってきた。
自室の窓から月を見上げながら、レミリアは熱い息を吐いた。呼吸が荒い。体の奥底から熱が込み上げてくる。昂ぶる気を静めようと何度も深呼吸をする。
「大丈夫ですか、お嬢様」
傍らに立つ十六夜咲夜が心配そうに尋ねてくる。人間でありながらも、使いようによっては吸血鬼を殺すことも可能な能力を備えた従者。彼女はベッドに横になっているレミリアに手を伸ばしたが、レミリアはそれを拒絶した。間違えて傷つけてしまうわけにもいかない。
満月は吸血鬼の力を強くする。吸血鬼としての本能を目覚めさせる。一度体の奥底から突き上げてくる衝動に身を委ねてしまえば、満月が欠けるまで吸血鬼は正真正銘の鬼に成り果てる。それがどういう結果を招くかは火を見るより明らかだ。
レミリアは必死に堪え、もう一つの懸念事項に気を配った。
「私は大丈夫。それよりフランの様子は?」
「妹様も今のところは大丈夫のようです。念のためパチュリー様に結界を何重にも張ってもらいました。ですので、仮に暴れ出したとしても、すぐには被害は出ない、というのがパチュリー様の意見です」
咲夜は肩を竦めた。
「もっとも、推測ですが。今回も過去のようにいくとは限りませんですし」
「それもそうね」
フランドールは過去に何度か、満月の夜に我を失って暴れたことがある。その度に紅魔館の者を総動員して封じ込め、事なきを得たが、今回もそううまくいくとは限らない。フランドールの力が成長している可能性もあるのだ。むしろその方が自然だろう。
問題なのはフランドールを外に出してしまうことだ。もし彼女が人間に危害を加えたとしたらどうなるかは言うまでもない。博霊の巫女に退治されてしまうだろう。
そういえば、と咲夜が呟いたため、レミリアは思考を中断し、彼女に視線を向けた。
「前にあの黒鼠が帰った後、妹様が部屋を出ている時に軽く掃除したのですが、物が散らかっていたぐらいで、壁が壊れたりはしていませんでした。前はもう元通りにするのが大変なくらい暴れていたのに」
壊された部屋の壁などはパチュリーの魔法で修復してもらっているが、散らばった物などは咲夜が元に戻している。
魔理沙も腕を上げてきた、ということか。何にせよ、後片付けが楽になるのはいいことだ。
こんな物もありました、と咲夜は人形を掲げた。先ほどまで持っていなかったが、おそらく時間を止めて取りに行っていたのだろう。破裂したかのように足や腕が千切れている。
「ここには持ってきていませんが、他にも関節部分が潰れている物や、人形を淹れておくための透明な箱もありました。どういう意図でかはわかりませんが」
鬱憤を晴らすためか、とレミリアは推測した。ろくに外に出してもらえない生活ではストレスが溜まるのも当然だ。箱の用途がいまいちわからないが。
気を抜いた瞬間、一際大きい衝動に襲われ、レミリアは呻いた。自分が飲み込まれてしまっては格好がつかない。フランドールのことは従者や友人に任せて、自分は自分のことに集中しよう。レミリアは目を閉じ、強引にも意識を眠りに誘おうとした。
刹那、轟音と震動が紅魔館を揺るがし、レミリアは閉じかけた目を見開いた。咲夜を見やると、彼女も顔に緊張を走らせている。
「咲夜、フランを見てきて。もし外に出ていたら、なんとしてでも連れ戻してきて」
「かしこまりました」
咲夜が部屋を出ようとドアに駆け寄る。彼女がドアノブに手を掛けようとした瞬間、ドアが開いた。現れたのは図書館の主、パチュリーだった。
「あの子が逃げたわ」
魔法使いは入ってくるなりそう告げた。あの子、とは言うまでも無くフランドールのことだ。
「結界を何重にも張っていたから大丈夫だと思ったのだけれど、破壊されてしまったみたい」
レミリアは顔を顰めた。つまり、フランドールの力が想像を上回っていたということだ。
嫌な予感が現実味を帯びてくる。最悪の事態が輪郭を伴い始める。レミリアは自分がまだ妹の力を軽視していたことに気づいた。
「咲夜、急いであの子を連れ戻してきて。美鈴も一緒に。少しくらい手荒でも構わない」
呆然とパチュリーの話を聞いていた咲夜は、はいと短く言い残して部屋を飛び出していった。部屋に残ったレミリアは歩み寄ってくるパチュリーを見上げた。落ち着いた様子の彼女にレミリアは声を掛けた。
「大丈夫かしら」
「さあ。とりあえず落ち着きなさい。賽は投げられてしまった。どうなるかはあの子次第よ」
ただ、とパチュリーは冷静な態度を崩さないまま言葉を継いだ。
「あの子が向かったのは西の方角らしいわ」
「西、ね。なら少しは安心かしら」
紅魔館から西に進んでいくと荒野に到達する。最大で人の何倍もの大きさの岩が点々としている程度で、他には何も無い。人が住んでいるという話も聞いたことがない。人里は正反対の東の方角にあるので、最悪の結果は免れられそうだ。
安堵の息をついたとき、パチュリーが口を開いた。
「あなたは行かないのかしら」
「私? 咲夜と美鈴の二人でなら大丈夫でしょ。咲夜には時を止める力があるし、美鈴はいざというときはやる子だし」
そもそも通常は咲夜一人で十分なくらいだ。彼女の時間を止める能力を用いれば、捉えるのは容易い。ただ、時間を止めるのにはかなりの負担がかかるらしく、長時間は止めていられない。また、今のフランドールが相手では時間を止めることも難しいかもしれない。能力の使用には集中力を要するが、彼女がそうさせてくれるとは限らない。防戦一方のおそれもある。そのために美鈴を同伴させたのだ。
今回、自分が出る幕はない。それはパチュリーにも理解できているはずだ。
レミリアは怪訝そうに彼女を見据えたが、彼女は説明しなかった。
「まあ、いいけど」
パチュリーは踵を返すと、ドアに向かった。
「結界を張り直しておくわ。今度はもう出られないように」
「そうしてちょうだい」
ドアが閉じられる。一人部屋に残されたレミリアはベッドに寝転がった。事態が急な展開を見せていたためか、意識の外にあった襲い来る衝動は少し楽になっていた。もう寝よう、と目を閉じる。
疲れていたのか、簡単に眠りに落ちた。
事態はあっけないくらい簡単に解決した。
フランドールを連れ戻しに行った咲夜と美鈴は、荒れ地で佇んでいた彼女を発見し、特に障害もなく仕事を果たしたという。驚いたのは、フランドールが無抵抗だった、ということだ。
とにかく、無事に済んだのならこれ以上のことはない。自室で二人の報告を聞いたレミリアは胸をなで下ろした。月は既に消え、今は顔を覗かせつつある太陽が暖かな陽光を地上に降ろしている。吸血鬼は夜行性で、本来なら睡眠を取る時間帯だが、既に寝てしまったので眠気はない。
「二人とも、ご苦労様ね。疲れたでしょう。休んで良いわ」
二人はさほど疲れてはいないようだったが、危険な役目を果たした二人を労わないほど厳しい主ではないつもりだ。
ところが、二人は何やら複雑そうな顔をしていて、部屋を出る様子はなかった。
まだ何かあるのだろうか。尋ねようとしたとき、美鈴が口を開いた。
「あの、お嬢様。ちょっと来て貰えますか」
「来てって、どこに」
「妹様が向かった荒野です。見せたいものがあるんです」
レミリアは首を捻ったが、断る理由はなかった。自分自身、何となく話がうまくいきすぎていると思っていたのだ。それにはやはり理由があるのだろう。
「わかったわ。案内してちょうだい」
「ありがとうございます」
声が出なかった。何か言おうとして、何も言うことができず、ただ口を動かすことしかできなかった。
二人に連れられてやってきた荒野は大きな岩がいくつも転がっていた。中にはまるで何かで切り取られたかのように、綺麗に欠けているものもあった。
フランドールが立っていたという場所の前には一つの大きな岩があった。ただし、元は丸い形をしていただろうそれは、今は削られて原型をとどめていない。
二人の少女が手を繋いでいる様子が岩で描き出されていた。片方の少女は堂々とした立ち居振る舞いで、もう片方がそれにどこか寄り添うようにしている。所々荒さが目立つものの、岩の大きさを考えると、非常に良くできていると言える。
誰がこれを作ったのか。もはや言われなくてもわかるが、まだ信じることができなかった。
レミリアの反応を見て、美鈴は優しげな微笑を浮かべた。
「私も初めは驚きました。能力を使って妹様が作ったみたいです。手だと逆に壊しすぎたりするみたいで」
吸血鬼の身体能力なら、岩でも素手で破壊できるが、力の加減が難しいので能力を用いた。理屈はわかるが、疑問が残る。フランドールにそこまで繊細な能力の使い方ができるのか。
「練習していらしたようです。あの壊れた人形を覚えていらっしゃいますか」
昨夜見せられたあの人形。おそらくあれは訓練のためだろう。箱の中に入った人形の狙った部位を的確に破壊する。能力の繊細な扱いには適した訓練だ。
咲夜は微かに目を伏せた。
「おそらく、妹様はお嬢様に追ってもらいたかったのでしょう。追って、この像ができるのを見てほしかったのだと思います」
なぜそんなことをしたのかは明白だ。自分はもう能力をある程度制御ということを実演してみせたかったからだ。満月の夜に行ったのも、能力の自制が難しい状況でもできると示すにはこれ以上ない状況だからだ。そのために彼女は秘密裡に訓練を重ね、努力した。
彼女は彼女なりに、一歩でも前に進もうと頑張っていた。彼女が何を目的にしていたのかも、答えは既に出ていた。
仲良さそうに振る舞う二人。彼女が望んだ理想像。
フランドールは憎んでなどいなかった。本心を隠し、口実を設けて閉じ込めた姉に対してなお愛情を抱いていたのだ。
そんな妹に対し、自分は今まで何をやってきた? 一緒にいようと追いかけてくる彼女を拒絶ばかりしていた。彼女の本心を考えようともしなかった。
最低だ。レミリアは唇を噛んだ。皮が破れ、血が流れ出す。最低な姉だ。
もう取り返しはつかないのだろうか。今からでもできることはあるだろうか。
いや、とかぶりを振る。これでは何も変わらない。考えるよりも行動すべきだ。あるじゃないか。妹と仲直りする方法が。
今一度、向き合おう。フランドールと。自分のたった一人の妹と。
「二人とも、急いで帰ってパチュリーに頼んでもらえるかしら」
「えっと……何をですか」
「あの子の部屋にとびきり強い結界を張ってもらうように」
たとえば、と続ける。
「吸血鬼二人が全力で暴れても平気なくらいに、ね」
レミリアの意図を読み取ったのだろう。緊張感を漂わせながら二人は頷いた。
「私はもう少しこれを眺めてから戻るわ」
言い、彼女は像に向き直った。
手を繋ぐ姉妹。偉そうに胸を張る姉と、そんな姉を慕う妹。フランドールが心に描いた自分達の関係。
今からでも近づけるだろうか。近づけるはずだ。レミリアは手を強く握りしめた。
太陽が地平線から姿を見せ、夜の闇を陽光で切り裂き始めていた。
フランドールの部屋は闇に包まれていた。地下であるため外からの光の供給はなく、用意されているランプは火が灯されていない。とはいえ、吸血鬼の視力なら、暗闇の中でも昼間のように目が利く。
おそらくは脱出の際に破壊されただろう壁も元通り修復されていた。おそらくパチュリーが結界を張り直すのと一緒にやっておいたのだろう。荒れ地から帰る際に確認したところ、脱出のときに埋まっていた土を吹き飛ばしたのだろう、紅魔館に沿うように大きな穴ができていた。放置していても問題はないと判断したのか、そこまでは戻さなかったようだ。
「フラン、少しいいかしら」
フランドールの部屋は広い。それは室内での弾幕勝負も考えてのことだ。すぐには彼女の姿が見つからず、見回しながら声を張り上げる。返事はないが、数秒後にはフランドールの姿を捉えた。彼女は部屋の隅に置かれたベッドに腰掛けていた。俯き、こちらを見ようともしない。
怒っているのか、悲しんでいるのか。両方だろうな、とレミリアは微かに申し訳なさを感じた。微かに、なのは、これから行うことを考えると、相手の心中に気を配る余裕はないからだ。
「私は外に出たかった」
フランドールが呟いた。小さな声だったが、なんとか聞き取ることができた。吸血鬼は人間と比べ、聴力も発達している。
久しぶりに傾聴する妹の声。ああ、こんな声だったな、と呑気な考えが浮かぶ。
「でも、私が一番したかったことはそうじゃない」
声が、全身が震えている。フランドールは顔を上げ、レミリアを睨み付けた。その目には涙が浮かんでいる。
「私はお姉様と遊びたかった! 何かして欲しかった! 何かしてあげたかった!」
声が大きくなり、荒くなる。言葉の一つ一つが痛い。レミリアは苦痛に顔を歪ませた。彼女が発する想いが重くのし掛かってくる。自分がこれまでしてこなかった、投げ出していたものが一挙に積み重なっていく。改めて、自分が何もしてこなかったことを思い知らされた。
妹の身を大切にするという口実で紅魔館に閉じ込めた。彼女のためにしたことで、何もしなかったことを覆い隠していた。自分の気持ちも押し隠し、結局彼女を傷つけてしまった。
フランドールが再び視線を床に落とす。
「私は、お姉様と一緒にいたかった……」
一番痛い言葉だった。これまでの中で最も心に響いた。彼女の気持ちは、あの像を見ればわかった。
今からでも遅くはない。レミリアはそう考えていた。ここで謝罪し、フランドールを抱きしめれば、おそらくは解決するだろう。彼女もそう単純ではないだろうが、姉の心情の変化には気づいてくれるはずだ。
しかし、それでは解決しきれない部分が出てくる。自分が抱えている迷いだ。
妹と戦い、勝つ。それで目に見えて何かが変わるわけではない。それでも、迷いを吹っ切ることはできるはずだ。
「あなたの気持ちはよくわかったわ」
フランドールが少しだけ顔を上げた。
「でも、あなたは自分の危険性をわかっていない。勝手に外に出て、巫女に退治でもされたらどうするの」
だから、と続ける。
「あなたにはお仕置きが必要ね」
レミリアは懐からスペルカードを取り出し、握りつぶした。
その手に現れる――神槍『スピア・ザ・グングニル』。
彼女は思い切り槍を振りかぶり、フランドール目掛けて投擲した。妹と向き合うという意志を込めて。
彼女の決意の槍は、フランドールを掠め、壁に突き刺さった。凄まじい音が鳴り響く。
呆然としている妹に、レミリアは笑いかけた。
「おいで。遊んであげる」
まずは、彼女への恐怖から取り除こう。
これから始まるのは弾幕ごっこではない。正真正銘の戦いだ。
フランドールは目を瞬かせ、涙を拭い、そして笑みを浮かべた。見た者が震えあがりそうな程凶悪に。
とても嬉しそうに。
先に仕掛けたのはレミリアだった。腰を落とし、フランドールを見据えると、全力で地面を蹴った。一瞬で彼女に接近し、右手で拳を作り、突き出す。音速にも匹敵する速さで繰り出された突きは、しかしフランドールを捉えることはなかった。
彼女は身を捻ってかわすと、勢いそのままに横殴りに拳を叩きつけてきた。
体勢が崩れている。避けられない。レミリアは歯を食いしばった。
首が大きく捻り、気づくと壁に頭から突っ込んでいた。痛みに気を失いそうになるのを堪え、レミリアはすぐに立ち上がった。視界を確認せず、遮二無二その場を飛び退る。案の定、無数の弾幕が先ほどまでいたところを襲いかかっていた。
おそらく折れていたはずの首の骨は既に再生しているが、痛みは残っていた。回復が通常よりも遅い。グングニルで大量に霊力を消費したためだろう。あれは一回の戦いで一度しか使えない程に霊力を喰う。長期戦になればなるほど不利になるのは目に見えている。
「一気に決めさせてもらうわよ」
スペルカードを取り出す。カードは無数の蝙蝠に変化し、跡形も無く消え去った。
刹那、大量の針とナイフがレミリアを取り巻くように生じる。
獄符『千本の針の山』。視界を覆い尽くす針とナイフがフランドールに襲いかかる。かわしきれるはずがない。フランドールは、それでもなお、笑みを浮かべていた。
その手に握られる、スペルカード。
悪寒が全身を駆け巡り、本能的にその場を離れる。滑空しながら視線を走らせると、フランドールを囲んでいた針とナイフは綺麗に無くなり、代わりに目映い輝きを放つ弾幕が円状に放出されていた。
禁忌『恋の迷路』か。襲い来る弾幕をかわしながらレミリアは舌を打った。
どうするか。このまま逃げていても状況が変わらない。かといって無理に飛び込んで被弾するのも面白くない。
思案したが、その思考自体が間違っていることに気づいたときにはもう遅かった。
レミリアを取り囲むようにフランドールが現れていた。数は三人。
『フォーオブアカインド』か、と驚きに思わず飛行を止めてしまう。一人があそこで弾幕をまき散らしているのか。
三人が同時に飛びかかってくる。レミリアはすぐさま全速力で離脱しようとした。一人でさえ厄介なのに、三人も同時に相手をできるわけがない。
しかし、逃げることはできなかった。足を掴まれ、凄まじい力で引っ張られる。何が起こったか把握する間もなく地に叩きつけられた。背中をひどく打ち、呼吸が詰まる。その間に両腕を掴まれてしまった。
涙が滲む視界で確認する。両手と右足をそれぞれ分身に掴まれていた。残りの一人はどこにいるのか。
とにかく逃げ出さなければ。振り解こうと身をよじるがびくともしない。
右腕を掴んでいたフランドールがにやりと笑う。次の瞬間、骨ごと腕を握り潰された。
骨が砕ける音が頭の中に響き、声にならない悲鳴を上げる。あまりの激痛に意識が飛びそうになる。フランドールは笑顔のまま、レミリアの腕を引きちぎった。肉が飛び散り、血が噴出する。
レミリアは体中の力を振り絞って暴れた。左腕の拘束が外れる。彼女はすぐさまフランドールの頭を掴むと、頭蓋骨ごと握り潰した。頭を潰された分身の体が次から次へと蝙蝠となって消えていく。レミリアは立ち上がると、後ろに飛び退った。距離を取り、体勢を立て直すつもりだった。
痛む右腕に目を向ける。肘から先が無くなっている。回復には時間が掛かりそうだ
ほんの一瞬の間だけだったが、吸血鬼にとって、距離を詰めるには十分な時間だ。視線を前方に戻したとき、そのことを思い出した。
眼前にフランドールの顔が接近する。先ほどまで弾幕を展開していた一人だろう。レミリアは急停止し、咄嗟に手刀を薙いだが、呆気なくかわされる。
フランドールはその場で前回りに回転したかと思うと、レミリアの頭に踵落としを放った。頭が割れ、脳を潰される。まともに思考しなくなった頭で、それでも次の攻撃への防御体勢を整えようとする。
定まらない焦点。歪む視界が捉えたのは左手を今まさに突き出さんとする妹の姿。その手が輝いているのを見て、腹の前で腕を交差させる。
次の瞬間、フランドールの拳が交差された腕にめり込んでいた。腕の骨が砕けたうえに腹部に衝撃が走り、呼吸が止まる。フランドールが恍惚とした表情を浮かべる。
これだけでは終わらなかった。彼女の手の輝きが一際高まり、爆発が生じる。至近距離で弾幕を受け、レミリアは吹き飛ばされた。腹の肉が抉られているが、弾幕で焼かれているため出血はない。焦げた臭いが鼻につく。
壁に凄まじい勢いで衝突する。もはや痛みはなかった。受容できる限界を超えてしまっている。立っていられず、膝をつく。
そのまま倒れ込んでしまいたかったが、まだだ、と頭のどこかで告げていた。見上げると、宙に浮かぶフランドールが一振りの巨大な剣、レーヴァテインをその手に携えているのが見えた。
彼女は剣を上段に構え、振り下ろした。直撃すれば、最悪死ぬ可能性がある。レミリアは最後の力を振り絞って横に跳ねた。
炎の魔剣が体を掠め、壁を、床を破壊していく。それを横目に眺め、今度こそレミリアは俯せに倒れた。
レーヴァテインを握ったままフランドールが降りてくる。彼女の分身はもういない。
「大丈夫? お姉様」
やったのはお前だろう。そう言ってやりたかったが声が出ない。傷ついた部位が回復し、同時に痛覚も機能し始める。痛みで口を開く余裕もない。
「でも、楽しかった。ありがとう、私と遊んでくれて」
にこりと、妹が満面の笑みを浮かべるのを見て、レミリアは息をついた。激痛が全身を襲う中、安堵が心に生じる。
自分はちゃんと向き合えた。胸を張ってそう言える。これで解決だろう。
――いや、違う。唐突に、レミリアは心に潜む感情に気づいた。安堵とは異なる、激しい気持ち。
自分はフランドールと向き合えた。だが、もう一つ、自分は抱えていたはずだ。妹への恐怖を。
敗北してはそれは拭うことはできない。向き合えたからといって、恐怖感は消え去るわけじゃない。
第一、負けたままでいられるわけがない。
怒りが心を支配していく。今まで自分に対し向けられていた怒りが、敗北への悔しさを火種に燃え上がる。
「……まだ終わっちゃいないわよ」
レミリアは呻くように、それでもはっきりと言った。歩み寄ろうとしていたフランドールが足を止める。
「私を……なめるな!」
レミリアは左手を掲げた。体中から霊力が消失し、それだけで倒れそうになる。踏みとどまれたのは姉としての意地か。
その手に現れる、神槍グングニル。
フランドールは呆然とし、やがて事態を把握したか、慌ててレーヴァテインを構えた。
剣が一閃する。
槍が放たれる。
仰向けに寝転んだレミリアは自分の体を見下ろした。下半身が消し飛んでいる。霊力の枯渇もあり、再生するには時間が掛かりそうだった。切られた際に焼かれたのか、血は出ていない。
視線を移し、妹を見やる。彼女は右半身を中心に大きく抉られており、大量に出血していた。右足は離れたところに転がり、右手は取れ掛かっている。
視線が合う。どちらからともなく笑い出す。
「無茶しちゃって」
「姉として意地があるのよ」
「私を怖がってたくせに」
「そんな昔の話、忘れたわ」
「お姉様と本気で戦ったの、本当に久しぶり」
「そうね」
「お姉様」
フランドールが手を伸ばしてくる。
「私はお姉様と一緒にいたい」
今まで振り解いてきた手。見ようともしなかった気持ち。
妹の手を握りかえし、レミリアは頷いた。
「私もよ」
繋いだ手が温かい。その温もりが心地よくて、レミリアはいつまでもこうしていたいと思った。
「それで、仲直りしたってわけか」
「ええ」
数日後の正午過ぎ、レミリアは遊びに来た魔理沙とテラスでテーブルを囲んでいた。傍らにはフランドールが盆を持って立っている。レミリアはカップを口につけ、紅茶を喉に流し込んだ。
「それで、この紅茶はフランが淹れたのか」
「ええ。残すのは許さないわよ」
「そんな無粋な真似はしないぜ」
魔理沙も紅茶を一口飲むと、笑顔を受かべた。
「なかなか美味いぜ」
「本当?」
「ええ、本当よ」
「やった!」
フランドールは嬉しそうに盆を抱きかかえると、そのまま踊るように回って室内へと戻っていった。
彼女の姿が見えなくなったのを確認し、魔理沙は小声で尋ねた。
「……本音は?」
「たった数日で美味しい紅茶を淹れられるようになると思う?」
「思わないな」
まあ、いつかはうまく淹れられるようになるだろう。時間はまだまだある。
カップをテーブルに置き、レミリアは魔理沙を向いた。
「あなたには礼を言わないといけないわね」
「何だよ、私は何もしてないぞ」
レミリアはかぶりを振った。頭の中で組み立てておいた論理を再点検し、不備がないか確認すると、口を開いた。
「今回の件の首謀者はあなたでしょう、魔理沙」
沈黙が漂う。魔理沙はにやりと微笑を受かべ、身を乗り出した。
「どうしてそう思うんだ。聞かせてくれ」
「まず、あなたがフランの訓練に付き合ってたのは言うまでもないことね。咲夜が言ってたわ。部屋があまり散らからなくなったって。訓練なら暴れる必要もないしね」
「まあ弾幕勝負だったら壁とか壊れ放題だしな。続けてくれ」
「あと、訓練に使用した人形、これは推測だけど、あれはあなたの友人の人形使いが用意したものでしょう。あんなもの、こっちで用意した覚えがないもの」
「それについては認めよう。今のところはおかしなところはないな」
「良かったわ。次にフランが脱走したことについて。パチェは結界が破られたって話してたけど、あれは嘘。あのパチェが満月の夜でのフランの力量を見誤るわけがないもの。それに仮に本当に破られたのだとしても、それにしてはパチェは不自然なくらい落ち着いていたわ。それは、あの子が今回の脱走を事前に知っていたから」
待ってくれ、と魔理沙は言った。
「じゃあパチュリーの奴も共犯者ってことになる。でも、あいつがフランを逃がすなんて危ない話に協力すると思うか」
「逃がす先が安全であれば問題はないわ。実際あの子が向かったのは人気のない荒野だったし。それに、あなたにはとびっきりの切り札がある。今まで借りた本を返すからって言えば、パチェは喜んで協力すると思うわ」
反論が思いつかないのか、魔理沙は黙り込んだ。
「あと、フランが逃げた荒野だけど、今思うと紅魔館から外に出たことがないあの子がそんな場所を知ってるわけがない。パチェも外には出ないから同じくね。だとしたら、関係者の中ではあなたぐらいしかあの場所を知ってる人はいないのよ」
「もしかしたらあの門番やメイドが知ってるかもしれないだろ」
「可能性としてはあるけど、二人が協力していたとは思えない。それに、あなたは確実にあの場所を知っていた。あの荒野には岩があったわ。何かで切り取られているような、綺麗に欠けた岩がね。素手であそこまで綺麗にはできないわ。となると、何か威力の強いもので吹き飛ばしたのかも。努力家のあなたがあそこで訓練してて、マスタースパークをぶっ放した際にできた、とも考えられるわね」
魔理沙は口を閉ざしていたが、ふと思いついたように言った。
「そうだ、そもそも、私がフランに協力する理由がないじゃないか」
「それについてはいろいろ想像できるけど、努力家のあなたは努力しようとするフランを放っておけなかったんじゃないかしら。それにあなたには親切なところがあるし」
魔理沙はしばらくの間口を閉ざしていたが、やがて小さく笑った。その顔には若干の照れがあった。
「でも、あくまで推測だろ。私の仕業って決まったわけじゃない」
「ええ。それに、誰が計画したかなんてどうでもいいわ。終わり良ければ全て良しってことよ」
レミリアは外の風景へと目を向けた。
気持ちの良いくらい晴れ晴れとした青空がそこにはあった。
青い空を突き抜け、風を切り、丈夫そうな箒に跨がって向かってきたのは、魔法使いの霧雨魔理沙だった。彼女は速度を落とし、テラスの上までやってくると、身軽に飛び降りた。箒を掴み、レミリアに笑いかけてくる。
「遊びに来たぜ」
「……思うけれど、こうして侵入してくるなら門番は必要ないんじゃないかしら」
溜息をつき、レミリアは手にしていたティーカップをテーブルに置いた。前々から疑問に感じていたが、門番である紅美鈴が役目を果たしているとは思えなくなってきた。時折力の差もわきまえない妖怪が紅魔館にやってくることがあり、彼女はそれらをきちんと撃退してはいるが、その程度ならたとえ眠っていてでも自分で倒すことはできる。本当に警戒しなければならない実力者をこうもあっさり主の前に通す門番は役に立っていると言えるだろうか。
そう言うと、魔理沙は苦笑した。
「門番は門を守るためにいるんだろ。空は管轄外じゃないか」
「門番はそもそも主を守るためにいるのよ。これからは空を専門に見張らせようかしら」
「空に門はないぜ。別にいいじゃないか。こないだの異変を起こさない限り、私はお前をどうこうするつもりはないし、本当に危険な奴ならあいつだってそう通したりはしないだろ」
それもそうか、とレミリアはひとまずそう結論づけた。どのみち魔理沙の相手をするには美鈴は少々力不足だ。どこかで特訓しているのか、魔理沙は最近実力を上げてきている。弾幕ごっこでならレミリアとも方を並べるほどの腕前だ。
「それより、何の用かしら。今まで盗んだ本でも返してくれるの?」
魔理沙は時折紅魔館を訪れては、借りると称して地下の図書館から本を盗んでいく悪癖がある。最近はそれも少なくなってきたが、本自体はまだ返されていない。そのため図書館の主であるパチュリー=ノーレッジはいつもそのことを不満げに漏らしている。
「盗むとはひどい言われようだな。借りてるって言ってるのに。いつ返すかわからないだけだろ」
何とも盗っ人猛々しい発言だ。レミリアは呆れたが、当の魔理沙は真面目に言っているのだから笑えない。彼女は唇を尖らせると、そのまま館の中に入ろうとする。レミリアはその背中に言葉を投げかけた。
「まだ答えてもらってないわ。何の用かしら」
問いはしたが、実を言えばレミリアはその答えに気づいていた。魔理沙は肩越しに彼女を向くと、知っているくせに、とでも言いたげに眉を顰めた。
「フランの相手をしにきたんだ。私の記憶が間違ってなければ、ここのところの訪問の理由は全てそうだった気がするんだけどな」
「そうだったかしら」
魔理沙はじっとレミリアを見つめると、おもむろに口を開いた。
「お前もどうだ。たまには一緒に遊んでやらないのか。あいつ、不満がってたぜ」
その誘いは来ると思っていた。魔理沙が何を考えているのか、薄々感づいていた。姉妹の仲を慮ってくれるのはありがたいが、こちらにも事情がある。
その問いへの返事は、優れているとは言い難いがあらかじめ用意してあった。レミリアは肩を竦めた。
「あの子の相手なんて、命がいくつあっても足りないわよ。それにあなたが相手をするならそれで十分でしょ」
「お前でそれなら私は即死じゃないか。そもそもお前は死なないんだし、私じゃ駄目だから言ってるんだよ」
「あなたは特別よ。それに私は不死じゃないわ。再生能力が高いだけよ」
魔理沙が何を言いたいのかも理解していたが、あえてレミリアは気づかないふりをし、はぐらかすように言葉を継いだ。自分が何を考えているのか、悟られないように気をつけて。何にしても魔理沙は察しているだろうが。彼女はどこか人の感情には聡いところがある。
「お前達の関係は知らないけど、私から一つアドバイスだ。思いっきり喧嘩すればいいんだよ。言いたいこと言って、自分の気持ちさらけ出して。最後には笑い合えるくらいにな」
彼女はレミリアから視線を外すと、じゃあなと手を振って紅魔館内へと消えていった。彼女の後ろ姿が完全に見えなくなるのを見届けてから、レミリアは顔を外へと向けた。
言える訳がない。実の妹と、フランドール=スカーレットと向き合うことに躊躇いがある、とは。
フランドールの能力は『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。彼女にかかればどんなものでも破壊されてしまう。それは自分も例外では無い。レミリアはこれまで妹によって多くのメイド妖精が文字通り破壊されるのを見てきた。彼女らは大抵フランドールの不興を買ってしまったためだが、中には何の落ち度もないのに被害を受けた妖精もいる。精神的に不安定であるフランドールは能力を暴発させてしまうことが多々あるのだ。訓練すればある程度は制御できるようになるだろうが、そのためには途方も無い時間が求められる。彼女が能力を自在に操れるようになるまで一体どれだけの被害が出るだろうか。
だから彼女を閉じ込めた。暗い地下に部屋を与え、紅魔館からの外出を禁じた。もし外で事件を例えば人間を襲撃したとなればただでは済まないだろう。博霊の巫女に退治される恐れがある。閉じ込めたのは、それを回避するためでもあった。
だが、それは根本的な解決にはなっていない。レミリアが思い悩んでいるのはそこだ。フランドールを紅魔館に閉じ込めたのは彼女を守るため。この口実を盾に自分は彼女と向き合うことを拒んでいるのではないか。
訓練が必要なら付き合ってやればいい。どれだけ時間が掛かろうと、自分達の寿命と比べれば微々たるものだ。精神面でも同じだ。精神を自律させる訓練にも協力すればいい。そうしないのは、心の奥底で彼女を恐れ、また閉じ込めていた方が楽だと考えているからではないのか。否定したくても、確かにそう思うことがあるからできない。そんな自分に対しても嫌悪感を抱いている。
迷っているのだ。妹に対し、どう接して良いのかわからない。
自分よりも凶悪な能力を持ち、気がふれていて、ともすれば能力を暴走させてしまいそうな妹。彼女は自分が閉じ込められていることをどう考えているのか。
怒っているよね、とレミリアは溜息をついた。何より自分自身が一番腹を立てているくらいなのだから。
満月の夜がやってきた。
自室の窓から月を見上げながら、レミリアは熱い息を吐いた。呼吸が荒い。体の奥底から熱が込み上げてくる。昂ぶる気を静めようと何度も深呼吸をする。
「大丈夫ですか、お嬢様」
傍らに立つ十六夜咲夜が心配そうに尋ねてくる。人間でありながらも、使いようによっては吸血鬼を殺すことも可能な能力を備えた従者。彼女はベッドに横になっているレミリアに手を伸ばしたが、レミリアはそれを拒絶した。間違えて傷つけてしまうわけにもいかない。
満月は吸血鬼の力を強くする。吸血鬼としての本能を目覚めさせる。一度体の奥底から突き上げてくる衝動に身を委ねてしまえば、満月が欠けるまで吸血鬼は正真正銘の鬼に成り果てる。それがどういう結果を招くかは火を見るより明らかだ。
レミリアは必死に堪え、もう一つの懸念事項に気を配った。
「私は大丈夫。それよりフランの様子は?」
「妹様も今のところは大丈夫のようです。念のためパチュリー様に結界を何重にも張ってもらいました。ですので、仮に暴れ出したとしても、すぐには被害は出ない、というのがパチュリー様の意見です」
咲夜は肩を竦めた。
「もっとも、推測ですが。今回も過去のようにいくとは限りませんですし」
「それもそうね」
フランドールは過去に何度か、満月の夜に我を失って暴れたことがある。その度に紅魔館の者を総動員して封じ込め、事なきを得たが、今回もそううまくいくとは限らない。フランドールの力が成長している可能性もあるのだ。むしろその方が自然だろう。
問題なのはフランドールを外に出してしまうことだ。もし彼女が人間に危害を加えたとしたらどうなるかは言うまでもない。博霊の巫女に退治されてしまうだろう。
そういえば、と咲夜が呟いたため、レミリアは思考を中断し、彼女に視線を向けた。
「前にあの黒鼠が帰った後、妹様が部屋を出ている時に軽く掃除したのですが、物が散らかっていたぐらいで、壁が壊れたりはしていませんでした。前はもう元通りにするのが大変なくらい暴れていたのに」
壊された部屋の壁などはパチュリーの魔法で修復してもらっているが、散らばった物などは咲夜が元に戻している。
魔理沙も腕を上げてきた、ということか。何にせよ、後片付けが楽になるのはいいことだ。
こんな物もありました、と咲夜は人形を掲げた。先ほどまで持っていなかったが、おそらく時間を止めて取りに行っていたのだろう。破裂したかのように足や腕が千切れている。
「ここには持ってきていませんが、他にも関節部分が潰れている物や、人形を淹れておくための透明な箱もありました。どういう意図でかはわかりませんが」
鬱憤を晴らすためか、とレミリアは推測した。ろくに外に出してもらえない生活ではストレスが溜まるのも当然だ。箱の用途がいまいちわからないが。
気を抜いた瞬間、一際大きい衝動に襲われ、レミリアは呻いた。自分が飲み込まれてしまっては格好がつかない。フランドールのことは従者や友人に任せて、自分は自分のことに集中しよう。レミリアは目を閉じ、強引にも意識を眠りに誘おうとした。
刹那、轟音と震動が紅魔館を揺るがし、レミリアは閉じかけた目を見開いた。咲夜を見やると、彼女も顔に緊張を走らせている。
「咲夜、フランを見てきて。もし外に出ていたら、なんとしてでも連れ戻してきて」
「かしこまりました」
咲夜が部屋を出ようとドアに駆け寄る。彼女がドアノブに手を掛けようとした瞬間、ドアが開いた。現れたのは図書館の主、パチュリーだった。
「あの子が逃げたわ」
魔法使いは入ってくるなりそう告げた。あの子、とは言うまでも無くフランドールのことだ。
「結界を何重にも張っていたから大丈夫だと思ったのだけれど、破壊されてしまったみたい」
レミリアは顔を顰めた。つまり、フランドールの力が想像を上回っていたということだ。
嫌な予感が現実味を帯びてくる。最悪の事態が輪郭を伴い始める。レミリアは自分がまだ妹の力を軽視していたことに気づいた。
「咲夜、急いであの子を連れ戻してきて。美鈴も一緒に。少しくらい手荒でも構わない」
呆然とパチュリーの話を聞いていた咲夜は、はいと短く言い残して部屋を飛び出していった。部屋に残ったレミリアは歩み寄ってくるパチュリーを見上げた。落ち着いた様子の彼女にレミリアは声を掛けた。
「大丈夫かしら」
「さあ。とりあえず落ち着きなさい。賽は投げられてしまった。どうなるかはあの子次第よ」
ただ、とパチュリーは冷静な態度を崩さないまま言葉を継いだ。
「あの子が向かったのは西の方角らしいわ」
「西、ね。なら少しは安心かしら」
紅魔館から西に進んでいくと荒野に到達する。最大で人の何倍もの大きさの岩が点々としている程度で、他には何も無い。人が住んでいるという話も聞いたことがない。人里は正反対の東の方角にあるので、最悪の結果は免れられそうだ。
安堵の息をついたとき、パチュリーが口を開いた。
「あなたは行かないのかしら」
「私? 咲夜と美鈴の二人でなら大丈夫でしょ。咲夜には時を止める力があるし、美鈴はいざというときはやる子だし」
そもそも通常は咲夜一人で十分なくらいだ。彼女の時間を止める能力を用いれば、捉えるのは容易い。ただ、時間を止めるのにはかなりの負担がかかるらしく、長時間は止めていられない。また、今のフランドールが相手では時間を止めることも難しいかもしれない。能力の使用には集中力を要するが、彼女がそうさせてくれるとは限らない。防戦一方のおそれもある。そのために美鈴を同伴させたのだ。
今回、自分が出る幕はない。それはパチュリーにも理解できているはずだ。
レミリアは怪訝そうに彼女を見据えたが、彼女は説明しなかった。
「まあ、いいけど」
パチュリーは踵を返すと、ドアに向かった。
「結界を張り直しておくわ。今度はもう出られないように」
「そうしてちょうだい」
ドアが閉じられる。一人部屋に残されたレミリアはベッドに寝転がった。事態が急な展開を見せていたためか、意識の外にあった襲い来る衝動は少し楽になっていた。もう寝よう、と目を閉じる。
疲れていたのか、簡単に眠りに落ちた。
事態はあっけないくらい簡単に解決した。
フランドールを連れ戻しに行った咲夜と美鈴は、荒れ地で佇んでいた彼女を発見し、特に障害もなく仕事を果たしたという。驚いたのは、フランドールが無抵抗だった、ということだ。
とにかく、無事に済んだのならこれ以上のことはない。自室で二人の報告を聞いたレミリアは胸をなで下ろした。月は既に消え、今は顔を覗かせつつある太陽が暖かな陽光を地上に降ろしている。吸血鬼は夜行性で、本来なら睡眠を取る時間帯だが、既に寝てしまったので眠気はない。
「二人とも、ご苦労様ね。疲れたでしょう。休んで良いわ」
二人はさほど疲れてはいないようだったが、危険な役目を果たした二人を労わないほど厳しい主ではないつもりだ。
ところが、二人は何やら複雑そうな顔をしていて、部屋を出る様子はなかった。
まだ何かあるのだろうか。尋ねようとしたとき、美鈴が口を開いた。
「あの、お嬢様。ちょっと来て貰えますか」
「来てって、どこに」
「妹様が向かった荒野です。見せたいものがあるんです」
レミリアは首を捻ったが、断る理由はなかった。自分自身、何となく話がうまくいきすぎていると思っていたのだ。それにはやはり理由があるのだろう。
「わかったわ。案内してちょうだい」
「ありがとうございます」
声が出なかった。何か言おうとして、何も言うことができず、ただ口を動かすことしかできなかった。
二人に連れられてやってきた荒野は大きな岩がいくつも転がっていた。中にはまるで何かで切り取られたかのように、綺麗に欠けているものもあった。
フランドールが立っていたという場所の前には一つの大きな岩があった。ただし、元は丸い形をしていただろうそれは、今は削られて原型をとどめていない。
二人の少女が手を繋いでいる様子が岩で描き出されていた。片方の少女は堂々とした立ち居振る舞いで、もう片方がそれにどこか寄り添うようにしている。所々荒さが目立つものの、岩の大きさを考えると、非常に良くできていると言える。
誰がこれを作ったのか。もはや言われなくてもわかるが、まだ信じることができなかった。
レミリアの反応を見て、美鈴は優しげな微笑を浮かべた。
「私も初めは驚きました。能力を使って妹様が作ったみたいです。手だと逆に壊しすぎたりするみたいで」
吸血鬼の身体能力なら、岩でも素手で破壊できるが、力の加減が難しいので能力を用いた。理屈はわかるが、疑問が残る。フランドールにそこまで繊細な能力の使い方ができるのか。
「練習していらしたようです。あの壊れた人形を覚えていらっしゃいますか」
昨夜見せられたあの人形。おそらくあれは訓練のためだろう。箱の中に入った人形の狙った部位を的確に破壊する。能力の繊細な扱いには適した訓練だ。
咲夜は微かに目を伏せた。
「おそらく、妹様はお嬢様に追ってもらいたかったのでしょう。追って、この像ができるのを見てほしかったのだと思います」
なぜそんなことをしたのかは明白だ。自分はもう能力をある程度制御ということを実演してみせたかったからだ。満月の夜に行ったのも、能力の自制が難しい状況でもできると示すにはこれ以上ない状況だからだ。そのために彼女は秘密裡に訓練を重ね、努力した。
彼女は彼女なりに、一歩でも前に進もうと頑張っていた。彼女が何を目的にしていたのかも、答えは既に出ていた。
仲良さそうに振る舞う二人。彼女が望んだ理想像。
フランドールは憎んでなどいなかった。本心を隠し、口実を設けて閉じ込めた姉に対してなお愛情を抱いていたのだ。
そんな妹に対し、自分は今まで何をやってきた? 一緒にいようと追いかけてくる彼女を拒絶ばかりしていた。彼女の本心を考えようともしなかった。
最低だ。レミリアは唇を噛んだ。皮が破れ、血が流れ出す。最低な姉だ。
もう取り返しはつかないのだろうか。今からでもできることはあるだろうか。
いや、とかぶりを振る。これでは何も変わらない。考えるよりも行動すべきだ。あるじゃないか。妹と仲直りする方法が。
今一度、向き合おう。フランドールと。自分のたった一人の妹と。
「二人とも、急いで帰ってパチュリーに頼んでもらえるかしら」
「えっと……何をですか」
「あの子の部屋にとびきり強い結界を張ってもらうように」
たとえば、と続ける。
「吸血鬼二人が全力で暴れても平気なくらいに、ね」
レミリアの意図を読み取ったのだろう。緊張感を漂わせながら二人は頷いた。
「私はもう少しこれを眺めてから戻るわ」
言い、彼女は像に向き直った。
手を繋ぐ姉妹。偉そうに胸を張る姉と、そんな姉を慕う妹。フランドールが心に描いた自分達の関係。
今からでも近づけるだろうか。近づけるはずだ。レミリアは手を強く握りしめた。
太陽が地平線から姿を見せ、夜の闇を陽光で切り裂き始めていた。
フランドールの部屋は闇に包まれていた。地下であるため外からの光の供給はなく、用意されているランプは火が灯されていない。とはいえ、吸血鬼の視力なら、暗闇の中でも昼間のように目が利く。
おそらくは脱出の際に破壊されただろう壁も元通り修復されていた。おそらくパチュリーが結界を張り直すのと一緒にやっておいたのだろう。荒れ地から帰る際に確認したところ、脱出のときに埋まっていた土を吹き飛ばしたのだろう、紅魔館に沿うように大きな穴ができていた。放置していても問題はないと判断したのか、そこまでは戻さなかったようだ。
「フラン、少しいいかしら」
フランドールの部屋は広い。それは室内での弾幕勝負も考えてのことだ。すぐには彼女の姿が見つからず、見回しながら声を張り上げる。返事はないが、数秒後にはフランドールの姿を捉えた。彼女は部屋の隅に置かれたベッドに腰掛けていた。俯き、こちらを見ようともしない。
怒っているのか、悲しんでいるのか。両方だろうな、とレミリアは微かに申し訳なさを感じた。微かに、なのは、これから行うことを考えると、相手の心中に気を配る余裕はないからだ。
「私は外に出たかった」
フランドールが呟いた。小さな声だったが、なんとか聞き取ることができた。吸血鬼は人間と比べ、聴力も発達している。
久しぶりに傾聴する妹の声。ああ、こんな声だったな、と呑気な考えが浮かぶ。
「でも、私が一番したかったことはそうじゃない」
声が、全身が震えている。フランドールは顔を上げ、レミリアを睨み付けた。その目には涙が浮かんでいる。
「私はお姉様と遊びたかった! 何かして欲しかった! 何かしてあげたかった!」
声が大きくなり、荒くなる。言葉の一つ一つが痛い。レミリアは苦痛に顔を歪ませた。彼女が発する想いが重くのし掛かってくる。自分がこれまでしてこなかった、投げ出していたものが一挙に積み重なっていく。改めて、自分が何もしてこなかったことを思い知らされた。
妹の身を大切にするという口実で紅魔館に閉じ込めた。彼女のためにしたことで、何もしなかったことを覆い隠していた。自分の気持ちも押し隠し、結局彼女を傷つけてしまった。
フランドールが再び視線を床に落とす。
「私は、お姉様と一緒にいたかった……」
一番痛い言葉だった。これまでの中で最も心に響いた。彼女の気持ちは、あの像を見ればわかった。
今からでも遅くはない。レミリアはそう考えていた。ここで謝罪し、フランドールを抱きしめれば、おそらくは解決するだろう。彼女もそう単純ではないだろうが、姉の心情の変化には気づいてくれるはずだ。
しかし、それでは解決しきれない部分が出てくる。自分が抱えている迷いだ。
妹と戦い、勝つ。それで目に見えて何かが変わるわけではない。それでも、迷いを吹っ切ることはできるはずだ。
「あなたの気持ちはよくわかったわ」
フランドールが少しだけ顔を上げた。
「でも、あなたは自分の危険性をわかっていない。勝手に外に出て、巫女に退治でもされたらどうするの」
だから、と続ける。
「あなたにはお仕置きが必要ね」
レミリアは懐からスペルカードを取り出し、握りつぶした。
その手に現れる――神槍『スピア・ザ・グングニル』。
彼女は思い切り槍を振りかぶり、フランドール目掛けて投擲した。妹と向き合うという意志を込めて。
彼女の決意の槍は、フランドールを掠め、壁に突き刺さった。凄まじい音が鳴り響く。
呆然としている妹に、レミリアは笑いかけた。
「おいで。遊んであげる」
まずは、彼女への恐怖から取り除こう。
これから始まるのは弾幕ごっこではない。正真正銘の戦いだ。
フランドールは目を瞬かせ、涙を拭い、そして笑みを浮かべた。見た者が震えあがりそうな程凶悪に。
とても嬉しそうに。
先に仕掛けたのはレミリアだった。腰を落とし、フランドールを見据えると、全力で地面を蹴った。一瞬で彼女に接近し、右手で拳を作り、突き出す。音速にも匹敵する速さで繰り出された突きは、しかしフランドールを捉えることはなかった。
彼女は身を捻ってかわすと、勢いそのままに横殴りに拳を叩きつけてきた。
体勢が崩れている。避けられない。レミリアは歯を食いしばった。
首が大きく捻り、気づくと壁に頭から突っ込んでいた。痛みに気を失いそうになるのを堪え、レミリアはすぐに立ち上がった。視界を確認せず、遮二無二その場を飛び退る。案の定、無数の弾幕が先ほどまでいたところを襲いかかっていた。
おそらく折れていたはずの首の骨は既に再生しているが、痛みは残っていた。回復が通常よりも遅い。グングニルで大量に霊力を消費したためだろう。あれは一回の戦いで一度しか使えない程に霊力を喰う。長期戦になればなるほど不利になるのは目に見えている。
「一気に決めさせてもらうわよ」
スペルカードを取り出す。カードは無数の蝙蝠に変化し、跡形も無く消え去った。
刹那、大量の針とナイフがレミリアを取り巻くように生じる。
獄符『千本の針の山』。視界を覆い尽くす針とナイフがフランドールに襲いかかる。かわしきれるはずがない。フランドールは、それでもなお、笑みを浮かべていた。
その手に握られる、スペルカード。
悪寒が全身を駆け巡り、本能的にその場を離れる。滑空しながら視線を走らせると、フランドールを囲んでいた針とナイフは綺麗に無くなり、代わりに目映い輝きを放つ弾幕が円状に放出されていた。
禁忌『恋の迷路』か。襲い来る弾幕をかわしながらレミリアは舌を打った。
どうするか。このまま逃げていても状況が変わらない。かといって無理に飛び込んで被弾するのも面白くない。
思案したが、その思考自体が間違っていることに気づいたときにはもう遅かった。
レミリアを取り囲むようにフランドールが現れていた。数は三人。
『フォーオブアカインド』か、と驚きに思わず飛行を止めてしまう。一人があそこで弾幕をまき散らしているのか。
三人が同時に飛びかかってくる。レミリアはすぐさま全速力で離脱しようとした。一人でさえ厄介なのに、三人も同時に相手をできるわけがない。
しかし、逃げることはできなかった。足を掴まれ、凄まじい力で引っ張られる。何が起こったか把握する間もなく地に叩きつけられた。背中をひどく打ち、呼吸が詰まる。その間に両腕を掴まれてしまった。
涙が滲む視界で確認する。両手と右足をそれぞれ分身に掴まれていた。残りの一人はどこにいるのか。
とにかく逃げ出さなければ。振り解こうと身をよじるがびくともしない。
右腕を掴んでいたフランドールがにやりと笑う。次の瞬間、骨ごと腕を握り潰された。
骨が砕ける音が頭の中に響き、声にならない悲鳴を上げる。あまりの激痛に意識が飛びそうになる。フランドールは笑顔のまま、レミリアの腕を引きちぎった。肉が飛び散り、血が噴出する。
レミリアは体中の力を振り絞って暴れた。左腕の拘束が外れる。彼女はすぐさまフランドールの頭を掴むと、頭蓋骨ごと握り潰した。頭を潰された分身の体が次から次へと蝙蝠となって消えていく。レミリアは立ち上がると、後ろに飛び退った。距離を取り、体勢を立て直すつもりだった。
痛む右腕に目を向ける。肘から先が無くなっている。回復には時間が掛かりそうだ
ほんの一瞬の間だけだったが、吸血鬼にとって、距離を詰めるには十分な時間だ。視線を前方に戻したとき、そのことを思い出した。
眼前にフランドールの顔が接近する。先ほどまで弾幕を展開していた一人だろう。レミリアは急停止し、咄嗟に手刀を薙いだが、呆気なくかわされる。
フランドールはその場で前回りに回転したかと思うと、レミリアの頭に踵落としを放った。頭が割れ、脳を潰される。まともに思考しなくなった頭で、それでも次の攻撃への防御体勢を整えようとする。
定まらない焦点。歪む視界が捉えたのは左手を今まさに突き出さんとする妹の姿。その手が輝いているのを見て、腹の前で腕を交差させる。
次の瞬間、フランドールの拳が交差された腕にめり込んでいた。腕の骨が砕けたうえに腹部に衝撃が走り、呼吸が止まる。フランドールが恍惚とした表情を浮かべる。
これだけでは終わらなかった。彼女の手の輝きが一際高まり、爆発が生じる。至近距離で弾幕を受け、レミリアは吹き飛ばされた。腹の肉が抉られているが、弾幕で焼かれているため出血はない。焦げた臭いが鼻につく。
壁に凄まじい勢いで衝突する。もはや痛みはなかった。受容できる限界を超えてしまっている。立っていられず、膝をつく。
そのまま倒れ込んでしまいたかったが、まだだ、と頭のどこかで告げていた。見上げると、宙に浮かぶフランドールが一振りの巨大な剣、レーヴァテインをその手に携えているのが見えた。
彼女は剣を上段に構え、振り下ろした。直撃すれば、最悪死ぬ可能性がある。レミリアは最後の力を振り絞って横に跳ねた。
炎の魔剣が体を掠め、壁を、床を破壊していく。それを横目に眺め、今度こそレミリアは俯せに倒れた。
レーヴァテインを握ったままフランドールが降りてくる。彼女の分身はもういない。
「大丈夫? お姉様」
やったのはお前だろう。そう言ってやりたかったが声が出ない。傷ついた部位が回復し、同時に痛覚も機能し始める。痛みで口を開く余裕もない。
「でも、楽しかった。ありがとう、私と遊んでくれて」
にこりと、妹が満面の笑みを浮かべるのを見て、レミリアは息をついた。激痛が全身を襲う中、安堵が心に生じる。
自分はちゃんと向き合えた。胸を張ってそう言える。これで解決だろう。
――いや、違う。唐突に、レミリアは心に潜む感情に気づいた。安堵とは異なる、激しい気持ち。
自分はフランドールと向き合えた。だが、もう一つ、自分は抱えていたはずだ。妹への恐怖を。
敗北してはそれは拭うことはできない。向き合えたからといって、恐怖感は消え去るわけじゃない。
第一、負けたままでいられるわけがない。
怒りが心を支配していく。今まで自分に対し向けられていた怒りが、敗北への悔しさを火種に燃え上がる。
「……まだ終わっちゃいないわよ」
レミリアは呻くように、それでもはっきりと言った。歩み寄ろうとしていたフランドールが足を止める。
「私を……なめるな!」
レミリアは左手を掲げた。体中から霊力が消失し、それだけで倒れそうになる。踏みとどまれたのは姉としての意地か。
その手に現れる、神槍グングニル。
フランドールは呆然とし、やがて事態を把握したか、慌ててレーヴァテインを構えた。
剣が一閃する。
槍が放たれる。
仰向けに寝転んだレミリアは自分の体を見下ろした。下半身が消し飛んでいる。霊力の枯渇もあり、再生するには時間が掛かりそうだった。切られた際に焼かれたのか、血は出ていない。
視線を移し、妹を見やる。彼女は右半身を中心に大きく抉られており、大量に出血していた。右足は離れたところに転がり、右手は取れ掛かっている。
視線が合う。どちらからともなく笑い出す。
「無茶しちゃって」
「姉として意地があるのよ」
「私を怖がってたくせに」
「そんな昔の話、忘れたわ」
「お姉様と本気で戦ったの、本当に久しぶり」
「そうね」
「お姉様」
フランドールが手を伸ばしてくる。
「私はお姉様と一緒にいたい」
今まで振り解いてきた手。見ようともしなかった気持ち。
妹の手を握りかえし、レミリアは頷いた。
「私もよ」
繋いだ手が温かい。その温もりが心地よくて、レミリアはいつまでもこうしていたいと思った。
「それで、仲直りしたってわけか」
「ええ」
数日後の正午過ぎ、レミリアは遊びに来た魔理沙とテラスでテーブルを囲んでいた。傍らにはフランドールが盆を持って立っている。レミリアはカップを口につけ、紅茶を喉に流し込んだ。
「それで、この紅茶はフランが淹れたのか」
「ええ。残すのは許さないわよ」
「そんな無粋な真似はしないぜ」
魔理沙も紅茶を一口飲むと、笑顔を受かべた。
「なかなか美味いぜ」
「本当?」
「ええ、本当よ」
「やった!」
フランドールは嬉しそうに盆を抱きかかえると、そのまま踊るように回って室内へと戻っていった。
彼女の姿が見えなくなったのを確認し、魔理沙は小声で尋ねた。
「……本音は?」
「たった数日で美味しい紅茶を淹れられるようになると思う?」
「思わないな」
まあ、いつかはうまく淹れられるようになるだろう。時間はまだまだある。
カップをテーブルに置き、レミリアは魔理沙を向いた。
「あなたには礼を言わないといけないわね」
「何だよ、私は何もしてないぞ」
レミリアはかぶりを振った。頭の中で組み立てておいた論理を再点検し、不備がないか確認すると、口を開いた。
「今回の件の首謀者はあなたでしょう、魔理沙」
沈黙が漂う。魔理沙はにやりと微笑を受かべ、身を乗り出した。
「どうしてそう思うんだ。聞かせてくれ」
「まず、あなたがフランの訓練に付き合ってたのは言うまでもないことね。咲夜が言ってたわ。部屋があまり散らからなくなったって。訓練なら暴れる必要もないしね」
「まあ弾幕勝負だったら壁とか壊れ放題だしな。続けてくれ」
「あと、訓練に使用した人形、これは推測だけど、あれはあなたの友人の人形使いが用意したものでしょう。あんなもの、こっちで用意した覚えがないもの」
「それについては認めよう。今のところはおかしなところはないな」
「良かったわ。次にフランが脱走したことについて。パチェは結界が破られたって話してたけど、あれは嘘。あのパチェが満月の夜でのフランの力量を見誤るわけがないもの。それに仮に本当に破られたのだとしても、それにしてはパチェは不自然なくらい落ち着いていたわ。それは、あの子が今回の脱走を事前に知っていたから」
待ってくれ、と魔理沙は言った。
「じゃあパチュリーの奴も共犯者ってことになる。でも、あいつがフランを逃がすなんて危ない話に協力すると思うか」
「逃がす先が安全であれば問題はないわ。実際あの子が向かったのは人気のない荒野だったし。それに、あなたにはとびっきりの切り札がある。今まで借りた本を返すからって言えば、パチェは喜んで協力すると思うわ」
反論が思いつかないのか、魔理沙は黙り込んだ。
「あと、フランが逃げた荒野だけど、今思うと紅魔館から外に出たことがないあの子がそんな場所を知ってるわけがない。パチェも外には出ないから同じくね。だとしたら、関係者の中ではあなたぐらいしかあの場所を知ってる人はいないのよ」
「もしかしたらあの門番やメイドが知ってるかもしれないだろ」
「可能性としてはあるけど、二人が協力していたとは思えない。それに、あなたは確実にあの場所を知っていた。あの荒野には岩があったわ。何かで切り取られているような、綺麗に欠けた岩がね。素手であそこまで綺麗にはできないわ。となると、何か威力の強いもので吹き飛ばしたのかも。努力家のあなたがあそこで訓練してて、マスタースパークをぶっ放した際にできた、とも考えられるわね」
魔理沙は口を閉ざしていたが、ふと思いついたように言った。
「そうだ、そもそも、私がフランに協力する理由がないじゃないか」
「それについてはいろいろ想像できるけど、努力家のあなたは努力しようとするフランを放っておけなかったんじゃないかしら。それにあなたには親切なところがあるし」
魔理沙はしばらくの間口を閉ざしていたが、やがて小さく笑った。その顔には若干の照れがあった。
「でも、あくまで推測だろ。私の仕業って決まったわけじゃない」
「ええ。それに、誰が計画したかなんてどうでもいいわ。終わり良ければ全て良しってことよ」
レミリアは外の風景へと目を向けた。
気持ちの良いくらい晴れ晴れとした青空がそこにはあった。
積もり積もった五百年近い鬱憤を晴らすには、バトルの尺が少々足りなかった印象。
逆さに振っても鼻血が出なくなるくらいバチバチ拳と感情をぶつけ合ってこそ、
姉妹の繋いだ手と手に、より一層温かみと有難みがプラスされるような気がします。
なんにしても幻想郷の姉妹喧嘩は良いものだ。仲直り込みだと更に良し。
スカーレット然り、古明地然り。秋と虹川と綿月と魔界一派も忘れちゃいないぜ。
>弾幕ごっこでならレミリアとも方を並べるほどの腕前だ →肩を並べる
>博霊の巫女に退治される恐れがある →博麗。満月の夜あたりでもういっこ
>人形を淹れておくための透明な箱もありました →人形を入れておく?