「んぅ……」
白い薄衣で覆われた四肢が動く度、細かな繊維質のシーツが波打ちベッドの上に新たな痕跡を生む。
カーテン越しに差し込む日を浴びた白い世界ではいくつもの小さな山脈が並び立った。
ゆっくりと動く身体を中心として幾筋もの影が現れては消える。
その動きが段々と活発になってきているのは、ベッドで眠る人物の覚醒が近い証明に他ならない。
「ん、ふぅ……」
広がる白布を纏い、穏やかな寝息を立てる少女は透き通るほど白い肌の一部を日に晒しており、まるで眠り姫。
その柔らかそうな桃色の唇に触れることこそ、姫を起こす唯一の手段であり。
理解しているからこそ。
ぴすっ
刺さった。
もろに、綺麗に、直撃だ。
おそらくは、頬に突き立てるはずだった小さな槍。
それが少女の寝返りと合わさって、芸術的なタイミングで上唇に軽く押し当てられる。
半覚醒状態だった少女は、しばらく何が起きたのかわからず半目を開けてその攻撃対象を眺めていたが、
ぐりっ
「っ!?」
突き刺しに捻りを加えた高等技術により、少女の目は大きく見開かれ。
反射的にベッドの反対側へ向けて寝返りをうつ。
しかし、その勢いが痛みで加減できなかったのだろう。
少女が気付いた時にはもう、ベッドの隅に半分ほど体を乗り出していて、シーツを掴んでなんとか耐えようとするものの。
「いっ、たぁぁ……」
寝起きの身体能力では重力に打ち勝つことができず、そのまま体を緩やかなVの字にして腰から落下。
受身もとれず、もろに尻餅を付いてしまう。
クッションも何もない、硬いタイルの上に打ちつけた腰の痛みでやっと本来の思考を取り戻し始めた少女は、ベッドの上にいる犯人を、
いや――
「上海……何するのよ、もう。起きるまで軽く突付くだけって命令したでしょう?」
――犯人形を恨めしそうに睨んで、寝癖のついた頭を手串で直し始める。
上海人形はそんな主人、アリス・マーガトロイドに眼前にして、ぐっと槍を頭の上に掲げた。
アリスの抗議を受けても、主を起こすという命令を達成した上海人形は実に誇らしげだ。朝日を背にして堂々とベッドに立つ姿は、ヴァルキュリアか、ジャンヌダルクか。
そうやってしばらくじっとしていた上海人形であったが、やっと主人の視線が自分を誉めているものではないと理解したのか、慌ててぺこりっと頭を下げると、部屋の隅に移動して壁を背にして座り込んだ。
そんな上海人形に対し文句を加えようとするアリスであったが、
「はぁ、もう少し擬似感情の部分に修正が必要かしら……」
自分で埋め込んだ魔法の影響であることを思い出し、複雑な表情でため息を吐いた。
人形の目覚ましをセットして、今日くらいはすっきり目覚められると思ったのに、終わって見ればコレだ。
唇はちょっぴりヒリヒリするし、お尻はじんじん痛むし、落ちるときに掴んだせいでベッドのシーツはめちゃくちゃ。
こんな最悪な目覚め方をすれば、憂鬱な気分が降りかかってくるものだが、
アリスの心はそこまで荒れることはなかった。
むしろ、どこか爽やかな気分だ。
もちろん、痛みを受けて喜びを感じるような特異体質ではない。
残念ながら。
その感情の原因は、いつもより差し込む朝日が眩しく見えるからだった。周辺の瘴気が薄いというのも原因だろう、雲一つない快晴だからというのも原因の一つであろう。しかし、一番大きな事象は、
「労力を注ぎ込んだ甲斐があったというところかしらね」
昨日、家の中を大掃除したことだ。
きっかけは人形たちへかけた魔法の精度を確かめるための行為で、別段、掃除という行動に意味はない。
あくまでも、そう、あくまでも偶然部屋を片付けただけだ。
単純作業に熱中して、ついつい大掃除に発展しただけ。
アリスはベッドの上のシーツを正し、それから靴を履こうとして、視線を下げた。そこでやっと自分がほとんど下着状態であることに気付く。慌ててクローゼットを開けて服に袖を通し、姿身の前で入念に服装をチェック。
リボンよし、寝癖よし、襟元よし。
頭から順番に身嗜みを整えていき、最後にぱんっと自分の腰あたりに手を置いた。
その、いつもより気合の入った行動を見て、人形たちが小さく首を傾げるが、アリスは我感ぜずと言った様子で上海人形二体を連れてリビングへと移動する。
が、爽やかな気分の割には何故か食欲が湧かない。
昨日の夜、多めにやいておいた焼いておいたクッキーでいいか、と。アリスは人形に指示を出して、ティーセットと、クッキーをテーブルの上に置かせた。
別に朝食に気合を入れる必要などない。
むしろ、食べなくてもいいのだから。
「ん」
それでもついつい甘いものを口に運んで、表情を綻ばせてしまうのは魔法使いという特性よりも優先するべき、女心というもの。
睡眠という習慣が中々消えないのも、ベッドの心地よさを忘れられないことに加えて、一人暮らしの気分転換には睡眠が適しているのだから仕方ない。
などと、自分に言い訳を繰り返しながら、アリスは三枚目のクッキーを摘み上げたところで、
「アリスっ! 当たったら謝るっ!」
物騒すぎる声が鼓膜を揺らす。
続けて破砕音。
「え?」
騒々しい声と轟音が目の前の入り口から聞こえてきて、
瞬きをした直後に、ドアが顔を掠めるように吹き飛んで、
ドアに続けてやってきた黒っぽい魔法使いが続いて、、
急ブレーキをかけるためにアリスの眼前で魔法をぶっぱなして、
躊躇わず横へ飛んだアリスの耳に轟音が飛び込んでききた次の瞬間。
テーブルや椅子だったものと、クッキーだったものと、ティーセットだったものが仲良く粉微塵になっていた。
愛しいクッキーたちの中で生存したのは手の中にあった一枚だけ。
ただ、アリスはその一枚を手の平の中に押し込むと、とんがり帽子を外して『あちゃー』とつぶやく不法侵入者に投げつける。
「あいたっ、何だよアリス。ちゃんと宣言したじゃないか」
「ふーん、宣言ねぇ? いいわよ、私も宣言してあげる。吹き飛ぶのがいい? それとも切り裂かれるのがいい?」
「わ、悪かったって! そんな怖い目でカード取り出さないでくれよ。ちょっと急ぎ過ぎて空中で止まれなかったんだけであって、不可抗力なんだ」
「……」
「あー、やっぱり、怒ってるか?」
「まあ、怒ってはいるけれど……あなたのことから不可抗力って言葉が出るなんて意外すぎて……ほら、だいたい故意じゃない? 故意色マスタースパークって言うくらいですものね」
「怒られるより、心を抉られる気分なんだぜ……」
「それはご愁傷様」
机やクッキーは粉々になってしまっているが、家の壁等にほとんど傷がついていないのは、魔理沙が引き起こす騒動に対抗するためのアンチスペルが組み込まれているから。図書館でも入り口の扉以外のほとんどの場所に同等の術式が使用されている。
何故そうやって一箇所だけを脆くするかというと、魔理沙という普通の魔法使いが努力家であり、下手をすると術式すべてを無効化するような攻撃呪文を編み出しかねないからだ。必要な犠牲、というやつだ。
つまり、簡単にいえば。
この異常な日常に慣れてしまったというわけで。
「ところで慌ててるって、なに? また異変か何か?」
瓦礫を一瞥して、はぁっと息を吐きながら立ち上がると、服の埃を叩いきながら魔理沙へと近づく。何かされるかと警戒する魔理沙であったが、険しい表情ながら人形を連れていないアリスの様子を見て胸を撫で下ろしていた。
「いやぁ、異変ってわけじゃないんだが……あれ? さっきまで……」
安心したのが早いか、今度は瓦礫の上や家の中をきょろきょろ見渡して何かを探し始める。口ぶりからして何かを持ってきたようではあるが、ろくなものではないのだろうと判断したアリスは、手を貸すことなくドアを失ってすっかり見通しの良くなった入り口を眺めることにした。
「本当にいい天気ねぇ……」
「アリス! 現実逃避してないで手伝ってくれよ!」
「その原因作ってくれたのは誰なのかしら?」
「いや、それはそうなんだが、やばいんだって!」
「やばいって……、っ!」
種族は違えど、知識の高みを目指す魔法使い同士。
知り合ってから二人は魔法技術の成果を見せ合ったりしていた。
そのほとんどが、魔理沙が思いつきで作った魔道具の実験であったりするのだが……
研究途中のものなので何分失敗も多い。
「まさか爆発とかするんじゃないでしょうね!」
何度か痛い目をみているアリスにとって、もっとも最初に浮かんだやばい現象はやはり周辺が弾け飛ぶイメージだった。
だが、魔理沙は頬に冷たい汗を流しながらも首を左右に振った。
そして手を止めてアリスが見つめる外の世界へと進んでいく。
「爆発……はしないと思うんだぜ」
「じゃあ、汚染?」
「そういうのが漏れたりもしないと思うんだぜ」
「病原菌とか?」
「そういうのが広がったりもしないはずだぜ」
「じゃあどうなるっていうのよ」
入り口あたりまで進んだ魔理沙は自嘲気味に笑い、振り返る。
「止まる、くらい?」
「え?」
アリスにとってまったく予想外の言葉だった。
「勝手に止まるんだ、だから探さないと」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。止まるなら別に安心じゃない、変なことがおきないんでしょう?」
「起きないから問題、あ、アリス! 来てくれ!」
「あ、こらっ! また一人で」
その目的の物体を見つけたのだろうか。
魔理沙は箒を放り出し、駆け出してしまう。
アリスも慌ててそれに従うが、入り口から出てすぐ右に魔理沙の背中を見つけ、慌てて急ブレーキ。上海人形へと魔法の糸を飛ばし、いつでも操れるよう体勢を整えた。
だが、
「ほら、止まったら困るだろうやっぱり」
魔理沙が言うとおり。
彼女が指差していたのは、確かに、止まったら困る代物。
冷静になった今、アリスは上海人形へと命令を下し。
仰向けで倒れ、痙攣しながら呻き声を上げる女性を指差す魔理沙の横に並ぶと。
「息の根とか」
すぱぁんっ
上海人形に持ってこさせたスリッパを後頭部に振り下ろし。
霧雨魔理沙という名の悪を成敗した。
「なにやってんのよあんたはぁぁぁぁっ!」
アリスの珍しい絶叫が森に木霊する中。
女性は尚も目を回し続けていた。
長い白髪と、特徴的なくせ毛が目立つ。
赤い服を着た、魅力的な女性だった。
ただ、普通の女性との違うのは。
禍々しい紫色の羽を6枚、背中から出していることだろうか。
◇ ◇ ◇
「ご親切にすみません、この程度のことしかできず……」
「ああ、いいぜ、いいぜ。物というのはいつか壊れたりするからな」
目を覚まし、アリスの家に招かれた女性はテーブルについてすぐ頭を下げる。
アリスとしては魔理沙を含め言いたいことが山積みであったのだが、
「あの、どうやら家主の方が震えていらっしゃるのですが、どうかなさいました?」
「アリスはあんまり外に出ないからな、しかし初対面だからってそんなに黙らなくてもいいとは思うんだがって」
「ちょっと! 魔理沙!」
『テーブル』につこうともせず、魔理沙の後ろに立っていたアリスは首を傾げる女性を気にせず、魔理沙に顔を近づけて大声を出す。
「あのね! どうしてあなたがあの女性を私のところに連れてくる必要があったわけ!」
「そりゃあ、まあ、あれだ。私の親切心というやつだ」
「なんの親切心よ!」
「座って落ち着けよアリス。ちゃんと理由は話してやるから」
女性をおいてけぼりにしたまま、魔理沙は横の椅子を叩いてそこにアリスを座らせると、うんうん、と頷いてこれまでの敬意を語りだす。
「まずはちょっと探し物に香霖堂へ出かけてだな、ある程度時間を潰して」
その後、アリスのところへ行こうと空を飛んでいるときに、魔法の森の中で人影を見つけたのだと言う。
瘴気が漂う魔法の森は道を間違えると慣れたものでも危ない。
だから親切心で近づいてみたと。
「ま、興味もあったわけだ。それで、尋ねてみたら魔法使いを探してるって言うんでな。私も魔法使いだって教えたら、私が目的じゃなくて、だからアリスのところまで一緒に行こうとしたんだ」
そのとき、ちょうど瘴気が多くなり始める時間だったから。
魔理沙は女性を気づかって少しでも早く、アリスのところへ行かなければと女性を箒に乗せて。
「……スターダストレヴァリエ!」
「わかった。だいたい、わかった」
教訓:他人を乗せてレヴァってはいけない。
良い子のみんなとの約束である。
「ええ、それでそこの魔法使いの方と一緒に飛んでいたのですが。予想より随分と早くて、途中から意識がなくなってしまったのです」
「そう、話の流れはわかったわ。魔理沙も悪意だけじゃなかったみたいだから、今回は許してあげる」
「……さっきスリッパ振り下ろさなかったっけ?」
「……記憶にございません」
ただ、女性が本当に単なる人間であったなら今頃どうなっていたことか。
アリスは魔理沙のめちゃくちゃ振りに呆れながらも、目の前で微笑を浮かべている女性へと目を移した。
「そういえば、挨拶がまだだったかしら。私はアリス・マーガトロイド。呼びにくいでしょうからアリスでいいわ」
そうやって会釈しつつ、右手で空中をなぞる。
すると、命令を受けた上海人形がゆっくりとティーセットを運んできた。
焼きたてのパンケーキと一緒に。
頑張る人形の愛らしさに女性の瞳が輝いたところで、上海を手元へ戻す。
「見てのとおり、人形使いよ」
その様子を見た魔理沙も負けじと声を張り上げ、
「あ、私もまだだった。私は霧雨魔理沙。魔法使いだが簡単な道具屋をやってるんだ。お客はほとんどゼロだけどな」
「店長もほとんどゼロだけどね」
「魔法の研究と、日々の生活で忙しいんだから仕方ない」
それでも一応店と言い続けているのは、自分なりの意地なのだろうか。
踏み込んだことを尋ねたことはないので、アリスにも詳しいことはわからない。
あまり他人に踏み込まないのが彼女の方針なのだから。
そんな独特の距離感を保つ二人をじっと眺めていた女性もつられて口を開く。
「私は、えーっと、あら? あらあら、どこにいったかしら」
が、すぐに自分の服の中を探り始める。
袖元、服の中、とうとう胸元まで探し始めて、
「ありました。お待たせして申し訳ありません」
取り出したのは小さな四角形。
それが二人の前に、すっと差し出される。
そこにはしっかりと彼女の名前と。
「私は神綺と申します」
職業:魔界神
という、妙に物騒な単語が張り付いていた。
魔理沙はその神をじーっと見つめながら、眉を潜める。
「魔界、神? 魔界って聖が封印されてたあの世界のことか?」
「たぶん、違うと思うわ。あちらは人間が封印のために作り出した『理解のできない世界』というものを『魔』として扱って『魔界』と名づけたもの。そして、おそらく彼女がいたのは遠い過去から存在する別の世界。どうして同じ呼び名になったか、それを推測すれば、古来から人間というものは理屈で説明できない自然現象や災害なんかを『魔』や『鬼』で表現することが多かったからに他ならない。でも、こちらの世界とは繋がらないという意味ではどちらの魔界もそう呼ぶにふさわし――」
「おーい、アリス紅茶入れてくれよ」
「話振っといてなんで無視なのよ!」
「いやいや、まさかアリスがそんな詳しいとは思わなかったからな」
肩を竦め、上海人形と一緒に置かれたティーカップを指で突付く。
ついでにパンケーキも指差すところを見ると、魔理沙がアリスの家に来ようとしていた本来の目的はコレに違いない。朝食後のスイーツタイム、といったところか。
「紅茶を飲みながら、本家の人から聞くって選択肢もあるだろう?」
「あー、もうわかったわよ。砂糖は入れるの?」
「弾幕と糖分はパワーだぜ!」
「……1個?」
「パワーだぜ!」
「2個ね、上海よろしく」
アリスが決まった魔法の術式を上海人形に打ち込むと、机の上で人形が器用に動いて紅茶を三つのカップに注いでいく。
続いて琥珀色の水面が波打つのを止めたところで、小さな頭の上からぽいぽい、と砂糖を投げる。
まず、紅茶を要求してきた恥知らずに二つ。
そして、残りのティーカップには一つずつ。
砂糖を入れ、かき回し終えたカップを順番に配り、
「え?」
そこまで上海人形の動きを鼻歌交じりに見つめていた魔理沙が不思議そうに声を上げる。
「魔理沙さん? 紅茶に何か?」
変化にいち早く気付いた神綺がくせ毛を揺らして問いかけるが、魔理沙はアリスと神綺のカップを交互に見つめるばかりで、はっきり言おうとしない。
「いや、んー、なあ、アリス?」
「どうしたのよ、さっきの話の続きでもして欲しい?」
「……いや、うん確かにソレも気になるんだが」
そして逃げるように視線を漂わせる中で、あることに気付いた。
差し込む日の光の明るさがそう見せるのかもしれないが、何か違う。思い立ったら行動するのが心情の魔理沙は、吸い込まれるように窓に近づいて行き。
無造作に右手を持ち上げると。
窓枠に沿ってすーっと指を動かし。
「へぇー」
擦った指先を見ながら声を漏らす。
「どこの小姑よ、あんたは!」
その仕草は思わずアリスが突っ込んでしまうほど滑らか。
「あー、いや、埃はなかったぜ?」
「当たり前よ、大掃除したんだもの」
「なんだ掃除か、残念だ」
「残念って、どういうことよ。私と人形たちで丸一日頑張ったのに」
「いやー、なんていうかさ。さっき変な魔法をその神綺って人が使っただろ」
窓から壁伝いに歩き、指先を触れさせながらドアまで移動すると。
内側からコンコンっと外へノックする。
「そのせいで部屋全体が綺麗になったのかと思ったんだぜ」
「……はは~ん、読めたわよ」
「うふふ、私もわかりました」
目に見えて落胆する魔理沙が何を考えているか。
それは彼女のとある特性を知っていれば想像に難しくない。
「掃除の魔法か何かだと思ったのですね?」
「そうだぜ、がっかりだ。せっかく本の山を片付けるいい方法が見つかったと思ったんだが。やっぱりあれか? 力を使うときに出してたあの6本の羽に意味があるのか?」
「ああ、これですか?」
ぱちん、と神綺が指を鳴らす。
すると倒れていたときに出現していたあの6枚の翼が瞬時に現れた。
「これは危険が迫ったり、ある程度魔力を引き出すときに自然と出てしまうものでして。特別な効果はありません。ドアやテーブルを直したのは呪文のようなものです」
「やっぱり難しいのか?」
「いえいえ、ちょっとだけ声が聞こえれば誰でもできますよ」
「声? 誰の声だ?」
「ほら、あなたが触れているお方の声ですよ」
「触れてる?」
魔理沙は手に触れているものをじっと見つめる。
もちろん、その先には木製のドアしかない。
「いやいやいや、さすがにその冗談はわかりにくいぜ」
「そうですか? テーブルやドアたちの欠片が、元の姿を取り戻したいと私に訴えかけてきたもので。その声を後押しして差し上げただけですわ」
「おー、そうやって聞くとなんだか簡単そうだな! なあ、アリス?」
「……本当そう思う?」
「ああ、あれだろ? 咲夜みたいな能力でテーブルたちが大丈夫だった時間に戻したとか?」
しかし、何故かアリスはその回答に不快感を示したようで、とんとんっとテーブルの上を指で叩き、もう片方の手で頬杖をついた。
「あのねぇ、魔法使いならもうちょっと考えを働かせなさいよ。確かに時間を遡るという術式が存在するのであればドアやテーブルが元に戻るのは理解できる。けれど戻しただけならまたすぐに壊れる時間がやってくる。『直った状態』を維持するために力を常に放つことが必要になるわけ。
だから、神綺さんが言っているのはそういう術式じゃないの。物体の構成というか、そこに在るという意味そのものに干渉する力であって、力の根源は創造を司るような――」
「うん、パンケーキ旨いぜ!」
「……えっと、泣いていい?」
「ああ、聞いてた聞いてた。そこまで言ってくれれば大体はわかるからな。そうか、やっぱり神様ってついてるやつは凄いんだなぁ」
いつのまにか元の席に戻っていた魔理沙は、パンケーキをかじりつつ紅茶を喉に送り込んでいた。
その味に舌鼓を打って、満足そうに甘くなった指を舐め取る。
「それにしても凄いなぁ、アリスは」
「料理の話?」
「ああ、それもあるが。やっぱり年季が違うって言うのかな。あれだ、私が持ってない知識を随分と持っているもんだなと思って」
「そ、そりゃあ、そうよ。人形の術式を完成させるために日々努力は欠かさないもの」
「魔界なんていままで考えたこともなかったからな。こんどパチュリーのところでも聞いてみることにするぜ」
「……ま、まあ、私くらいの魔法使いになればそれくらいの知識は当然よ」
素直な賞賛に少しだけ頬を染めたアリスは、慌てて人形たちに作らせたパンケーキを頬張り言葉を消す。
そんな様子をくすくすと微笑んで見つめる神綺の暖かな瞳。
それに気付いたのだろうか。
何故かむすっと瞳を細めて、食べろといわんばかりに残り2個のパンケーキを押し出す。
「そうだ。結局、神綺の言ってた魔法使いっていうのはアリスで当たりなのか?」
「そうですね。私の望みの方かどうかはもう少し話をしてみませんと」
「ん、私のときはすぐ違うってわかったのにか?」
「だって、魔理沙ちゃんは、人間という種族でしょう?」
「ああ、そういうことか。納得だ」
飲み終えたティーカップを受け皿の上に戻し、おもむろに立ち上がると。
空いた椅子に掛けておいた帽子を手にとって、目深に被った。
「こほん……っ、でも、ちゃん付けはやめてくれないか? なんか背中の辺りがむずむずするぜ」
「あら、ごめんなさい。可愛い女の子はついついそう呼びたくなってしまって」
「うー、調子狂うぜ、まったく……」
「柄にもなく照れちゃって」
「慣れてないんだから仕方ないだろう。あ、そうだアリス。私はこれから紅魔館に行くんだが、お前じゃなかったらパチュリーが目的の人物かもしれないから、案内してやってくれよ。小悪魔もなんか神綺と似た感じするからな、そっちが本命かもしれないぜ」
「……小悪魔? 魔族の方がこちらに?」
「ああ、そんな羽生えてたからな。知り合いか?」
「そう、ですね。知り合いといえば、そうなるかもしれませんわね。昔、こちらの世界とのいざこざがあったときにこっそり逃げ出したものや、帰り損ねた者がいるという報告を聞いたことがあるもので。後でそちらにも顔を出すとしましょう」
「お、おう。伝えとくぜ」
さっき変わらない微笑、しかしなぜかその奥。
優しさの奥に冷たいものを感じて、魔理沙は一瞬たじろいでしまう。
けれど、すぐさまいつもの調子を取り戻し、箒を手にして身を翻した。
「じゃあな、アリス! 今夜は霊夢のとこで宴会あるから、暇だったら来いよ~」
「ええ、気が向いたらね」
「おう、またな」
片手で軽く挨拶を交わした直後、一瞬だけ空気が震えてその姿が掻き消える。
あの様子なら、図書館で魔界関係の本を引っ掻き回すに違いない。
やってくるときも、出て行くときもなんとも騒々しいこと。
立つ鳥は跡を濁さないと言うが。
「立つ人間は後を濁しまくるのよね」
「それだけ信頼しているのではないでしょうか」
「やめてくれないかしら気持ち悪い。後、パンケーキが美味しくなくなる前に食べることをお進めするわ」
「でも、なんだか勿体無くて」
「食べない方が勿体無い」
「あら、コレは一本取られてしまったかしらね」
そう言って、指でいくつかに分けた欠片を丁寧に口に運んでいく。
まるで一つ一つを心から味わうようにして。
「うん、美味しい」
「当然よ」
「うふふ、自信家なのね」
「ええ、誰に似たのやら。ところでお客様、あなたはこれからどうするおつもりで?」
「魔法使いさんとお話をさせていただきたいところですが、どうでしょう?」
「そうね、まだお昼前だから。ゆっくり語り合うことはできるかと」
アリスはカップを口元に運び。
傾ける。
「語り合った後はどうするおつもりで?」
「一日であちらに帰るのも勿体無いから、明日もちょっとだけこの世界を見物しようかと思っています」
「そうですか、それでは宿が必要ですね」
また、傾ける。
そのせいで声が曇ってしまうが、それでも唇にカップを当て続ける。
「どちらかお決まりですか?」
「それがまだ探し中でして、この羽を隠して人里で探そうかとも思っているのですが」
「ソレは難しいと思いますよ。幻想郷には旅人なんているはずがありませんし、いきなり探して見つかるかどうか」
「あら、ソレは困りました」
紅茶が、琥珀色の液体が入っていないと知りながら。
アリスはただ、カップで口元を隠し続け。
「それでしたら……私の家で宿泊するのはいかがでしょう?」
「あらあら、それは素敵ですわ! 是非お願いできないかしら」
「そうですか。私も魔界の事情についていろいろ聞きたいですし……
でも、申し訳ないのだけれど、ベッドはたった一つしかないもので」
唇からカップをはずしても、顔の前にカップを掲げて。
神綺から顔を隠す。
「大丈夫です。ソファーでもなんでも使わせていただければ」
「いえいえ、そういうわけにもいきません。お客様はちゃんとベッドで」
「ええ、じゃあアリスちゃんは?」
「……私は」
顔を隠したまま、消え入りそうな声で。
「私も……ベッドで寝る」
言葉が砕け、押さえていたものが表に出ようとする。
まだ魔理沙が近くにいるかもしれないのに。
油断はできないというのに。
「……たまには、いいじゃない」
懐かしさだけが心を揺すり。
思い出がアリスの思考を狂わせる。
それを自覚する顔は、もう湯気が出るほど真っ赤で。
「今日だけしか甘えてあげないんだから!」
彼女の搾り出した精一杯の声。
その甘く、強い響きは――
「いつだって甘えていいのよ、アリスちゃん」
懐かしく、幸せなときを作り出す。
望むまま、望まれるまま。
その夜、アリスの机の引き出しの中。
『明日、遊びに行くから♪』
とだけ書かれた、小さな手紙が大事そうにファイリングされていた。
白い薄衣で覆われた四肢が動く度、細かな繊維質のシーツが波打ちベッドの上に新たな痕跡を生む。
カーテン越しに差し込む日を浴びた白い世界ではいくつもの小さな山脈が並び立った。
ゆっくりと動く身体を中心として幾筋もの影が現れては消える。
その動きが段々と活発になってきているのは、ベッドで眠る人物の覚醒が近い証明に他ならない。
「ん、ふぅ……」
広がる白布を纏い、穏やかな寝息を立てる少女は透き通るほど白い肌の一部を日に晒しており、まるで眠り姫。
その柔らかそうな桃色の唇に触れることこそ、姫を起こす唯一の手段であり。
理解しているからこそ。
ぴすっ
刺さった。
もろに、綺麗に、直撃だ。
おそらくは、頬に突き立てるはずだった小さな槍。
それが少女の寝返りと合わさって、芸術的なタイミングで上唇に軽く押し当てられる。
半覚醒状態だった少女は、しばらく何が起きたのかわからず半目を開けてその攻撃対象を眺めていたが、
ぐりっ
「っ!?」
突き刺しに捻りを加えた高等技術により、少女の目は大きく見開かれ。
反射的にベッドの反対側へ向けて寝返りをうつ。
しかし、その勢いが痛みで加減できなかったのだろう。
少女が気付いた時にはもう、ベッドの隅に半分ほど体を乗り出していて、シーツを掴んでなんとか耐えようとするものの。
「いっ、たぁぁ……」
寝起きの身体能力では重力に打ち勝つことができず、そのまま体を緩やかなVの字にして腰から落下。
受身もとれず、もろに尻餅を付いてしまう。
クッションも何もない、硬いタイルの上に打ちつけた腰の痛みでやっと本来の思考を取り戻し始めた少女は、ベッドの上にいる犯人を、
いや――
「上海……何するのよ、もう。起きるまで軽く突付くだけって命令したでしょう?」
――犯人形を恨めしそうに睨んで、寝癖のついた頭を手串で直し始める。
上海人形はそんな主人、アリス・マーガトロイドに眼前にして、ぐっと槍を頭の上に掲げた。
アリスの抗議を受けても、主を起こすという命令を達成した上海人形は実に誇らしげだ。朝日を背にして堂々とベッドに立つ姿は、ヴァルキュリアか、ジャンヌダルクか。
そうやってしばらくじっとしていた上海人形であったが、やっと主人の視線が自分を誉めているものではないと理解したのか、慌ててぺこりっと頭を下げると、部屋の隅に移動して壁を背にして座り込んだ。
そんな上海人形に対し文句を加えようとするアリスであったが、
「はぁ、もう少し擬似感情の部分に修正が必要かしら……」
自分で埋め込んだ魔法の影響であることを思い出し、複雑な表情でため息を吐いた。
人形の目覚ましをセットして、今日くらいはすっきり目覚められると思ったのに、終わって見ればコレだ。
唇はちょっぴりヒリヒリするし、お尻はじんじん痛むし、落ちるときに掴んだせいでベッドのシーツはめちゃくちゃ。
こんな最悪な目覚め方をすれば、憂鬱な気分が降りかかってくるものだが、
アリスの心はそこまで荒れることはなかった。
むしろ、どこか爽やかな気分だ。
もちろん、痛みを受けて喜びを感じるような特異体質ではない。
残念ながら。
その感情の原因は、いつもより差し込む朝日が眩しく見えるからだった。周辺の瘴気が薄いというのも原因だろう、雲一つない快晴だからというのも原因の一つであろう。しかし、一番大きな事象は、
「労力を注ぎ込んだ甲斐があったというところかしらね」
昨日、家の中を大掃除したことだ。
きっかけは人形たちへかけた魔法の精度を確かめるための行為で、別段、掃除という行動に意味はない。
あくまでも、そう、あくまでも偶然部屋を片付けただけだ。
単純作業に熱中して、ついつい大掃除に発展しただけ。
アリスはベッドの上のシーツを正し、それから靴を履こうとして、視線を下げた。そこでやっと自分がほとんど下着状態であることに気付く。慌ててクローゼットを開けて服に袖を通し、姿身の前で入念に服装をチェック。
リボンよし、寝癖よし、襟元よし。
頭から順番に身嗜みを整えていき、最後にぱんっと自分の腰あたりに手を置いた。
その、いつもより気合の入った行動を見て、人形たちが小さく首を傾げるが、アリスは我感ぜずと言った様子で上海人形二体を連れてリビングへと移動する。
が、爽やかな気分の割には何故か食欲が湧かない。
昨日の夜、多めにやいておいた焼いておいたクッキーでいいか、と。アリスは人形に指示を出して、ティーセットと、クッキーをテーブルの上に置かせた。
別に朝食に気合を入れる必要などない。
むしろ、食べなくてもいいのだから。
「ん」
それでもついつい甘いものを口に運んで、表情を綻ばせてしまうのは魔法使いという特性よりも優先するべき、女心というもの。
睡眠という習慣が中々消えないのも、ベッドの心地よさを忘れられないことに加えて、一人暮らしの気分転換には睡眠が適しているのだから仕方ない。
などと、自分に言い訳を繰り返しながら、アリスは三枚目のクッキーを摘み上げたところで、
「アリスっ! 当たったら謝るっ!」
物騒すぎる声が鼓膜を揺らす。
続けて破砕音。
「え?」
騒々しい声と轟音が目の前の入り口から聞こえてきて、
瞬きをした直後に、ドアが顔を掠めるように吹き飛んで、
ドアに続けてやってきた黒っぽい魔法使いが続いて、、
急ブレーキをかけるためにアリスの眼前で魔法をぶっぱなして、
躊躇わず横へ飛んだアリスの耳に轟音が飛び込んでききた次の瞬間。
テーブルや椅子だったものと、クッキーだったものと、ティーセットだったものが仲良く粉微塵になっていた。
愛しいクッキーたちの中で生存したのは手の中にあった一枚だけ。
ただ、アリスはその一枚を手の平の中に押し込むと、とんがり帽子を外して『あちゃー』とつぶやく不法侵入者に投げつける。
「あいたっ、何だよアリス。ちゃんと宣言したじゃないか」
「ふーん、宣言ねぇ? いいわよ、私も宣言してあげる。吹き飛ぶのがいい? それとも切り裂かれるのがいい?」
「わ、悪かったって! そんな怖い目でカード取り出さないでくれよ。ちょっと急ぎ過ぎて空中で止まれなかったんだけであって、不可抗力なんだ」
「……」
「あー、やっぱり、怒ってるか?」
「まあ、怒ってはいるけれど……あなたのことから不可抗力って言葉が出るなんて意外すぎて……ほら、だいたい故意じゃない? 故意色マスタースパークって言うくらいですものね」
「怒られるより、心を抉られる気分なんだぜ……」
「それはご愁傷様」
机やクッキーは粉々になってしまっているが、家の壁等にほとんど傷がついていないのは、魔理沙が引き起こす騒動に対抗するためのアンチスペルが組み込まれているから。図書館でも入り口の扉以外のほとんどの場所に同等の術式が使用されている。
何故そうやって一箇所だけを脆くするかというと、魔理沙という普通の魔法使いが努力家であり、下手をすると術式すべてを無効化するような攻撃呪文を編み出しかねないからだ。必要な犠牲、というやつだ。
つまり、簡単にいえば。
この異常な日常に慣れてしまったというわけで。
「ところで慌ててるって、なに? また異変か何か?」
瓦礫を一瞥して、はぁっと息を吐きながら立ち上がると、服の埃を叩いきながら魔理沙へと近づく。何かされるかと警戒する魔理沙であったが、険しい表情ながら人形を連れていないアリスの様子を見て胸を撫で下ろしていた。
「いやぁ、異変ってわけじゃないんだが……あれ? さっきまで……」
安心したのが早いか、今度は瓦礫の上や家の中をきょろきょろ見渡して何かを探し始める。口ぶりからして何かを持ってきたようではあるが、ろくなものではないのだろうと判断したアリスは、手を貸すことなくドアを失ってすっかり見通しの良くなった入り口を眺めることにした。
「本当にいい天気ねぇ……」
「アリス! 現実逃避してないで手伝ってくれよ!」
「その原因作ってくれたのは誰なのかしら?」
「いや、それはそうなんだが、やばいんだって!」
「やばいって……、っ!」
種族は違えど、知識の高みを目指す魔法使い同士。
知り合ってから二人は魔法技術の成果を見せ合ったりしていた。
そのほとんどが、魔理沙が思いつきで作った魔道具の実験であったりするのだが……
研究途中のものなので何分失敗も多い。
「まさか爆発とかするんじゃないでしょうね!」
何度か痛い目をみているアリスにとって、もっとも最初に浮かんだやばい現象はやはり周辺が弾け飛ぶイメージだった。
だが、魔理沙は頬に冷たい汗を流しながらも首を左右に振った。
そして手を止めてアリスが見つめる外の世界へと進んでいく。
「爆発……はしないと思うんだぜ」
「じゃあ、汚染?」
「そういうのが漏れたりもしないと思うんだぜ」
「病原菌とか?」
「そういうのが広がったりもしないはずだぜ」
「じゃあどうなるっていうのよ」
入り口あたりまで進んだ魔理沙は自嘲気味に笑い、振り返る。
「止まる、くらい?」
「え?」
アリスにとってまったく予想外の言葉だった。
「勝手に止まるんだ、だから探さないと」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。止まるなら別に安心じゃない、変なことがおきないんでしょう?」
「起きないから問題、あ、アリス! 来てくれ!」
「あ、こらっ! また一人で」
その目的の物体を見つけたのだろうか。
魔理沙は箒を放り出し、駆け出してしまう。
アリスも慌ててそれに従うが、入り口から出てすぐ右に魔理沙の背中を見つけ、慌てて急ブレーキ。上海人形へと魔法の糸を飛ばし、いつでも操れるよう体勢を整えた。
だが、
「ほら、止まったら困るだろうやっぱり」
魔理沙が言うとおり。
彼女が指差していたのは、確かに、止まったら困る代物。
冷静になった今、アリスは上海人形へと命令を下し。
仰向けで倒れ、痙攣しながら呻き声を上げる女性を指差す魔理沙の横に並ぶと。
「息の根とか」
すぱぁんっ
上海人形に持ってこさせたスリッパを後頭部に振り下ろし。
霧雨魔理沙という名の悪を成敗した。
「なにやってんのよあんたはぁぁぁぁっ!」
アリスの珍しい絶叫が森に木霊する中。
女性は尚も目を回し続けていた。
長い白髪と、特徴的なくせ毛が目立つ。
赤い服を着た、魅力的な女性だった。
ただ、普通の女性との違うのは。
禍々しい紫色の羽を6枚、背中から出していることだろうか。
◇ ◇ ◇
「ご親切にすみません、この程度のことしかできず……」
「ああ、いいぜ、いいぜ。物というのはいつか壊れたりするからな」
目を覚まし、アリスの家に招かれた女性はテーブルについてすぐ頭を下げる。
アリスとしては魔理沙を含め言いたいことが山積みであったのだが、
「あの、どうやら家主の方が震えていらっしゃるのですが、どうかなさいました?」
「アリスはあんまり外に出ないからな、しかし初対面だからってそんなに黙らなくてもいいとは思うんだがって」
「ちょっと! 魔理沙!」
『テーブル』につこうともせず、魔理沙の後ろに立っていたアリスは首を傾げる女性を気にせず、魔理沙に顔を近づけて大声を出す。
「あのね! どうしてあなたがあの女性を私のところに連れてくる必要があったわけ!」
「そりゃあ、まあ、あれだ。私の親切心というやつだ」
「なんの親切心よ!」
「座って落ち着けよアリス。ちゃんと理由は話してやるから」
女性をおいてけぼりにしたまま、魔理沙は横の椅子を叩いてそこにアリスを座らせると、うんうん、と頷いてこれまでの敬意を語りだす。
「まずはちょっと探し物に香霖堂へ出かけてだな、ある程度時間を潰して」
その後、アリスのところへ行こうと空を飛んでいるときに、魔法の森の中で人影を見つけたのだと言う。
瘴気が漂う魔法の森は道を間違えると慣れたものでも危ない。
だから親切心で近づいてみたと。
「ま、興味もあったわけだ。それで、尋ねてみたら魔法使いを探してるって言うんでな。私も魔法使いだって教えたら、私が目的じゃなくて、だからアリスのところまで一緒に行こうとしたんだ」
そのとき、ちょうど瘴気が多くなり始める時間だったから。
魔理沙は女性を気づかって少しでも早く、アリスのところへ行かなければと女性を箒に乗せて。
「……スターダストレヴァリエ!」
「わかった。だいたい、わかった」
教訓:他人を乗せてレヴァってはいけない。
良い子のみんなとの約束である。
「ええ、それでそこの魔法使いの方と一緒に飛んでいたのですが。予想より随分と早くて、途中から意識がなくなってしまったのです」
「そう、話の流れはわかったわ。魔理沙も悪意だけじゃなかったみたいだから、今回は許してあげる」
「……さっきスリッパ振り下ろさなかったっけ?」
「……記憶にございません」
ただ、女性が本当に単なる人間であったなら今頃どうなっていたことか。
アリスは魔理沙のめちゃくちゃ振りに呆れながらも、目の前で微笑を浮かべている女性へと目を移した。
「そういえば、挨拶がまだだったかしら。私はアリス・マーガトロイド。呼びにくいでしょうからアリスでいいわ」
そうやって会釈しつつ、右手で空中をなぞる。
すると、命令を受けた上海人形がゆっくりとティーセットを運んできた。
焼きたてのパンケーキと一緒に。
頑張る人形の愛らしさに女性の瞳が輝いたところで、上海を手元へ戻す。
「見てのとおり、人形使いよ」
その様子を見た魔理沙も負けじと声を張り上げ、
「あ、私もまだだった。私は霧雨魔理沙。魔法使いだが簡単な道具屋をやってるんだ。お客はほとんどゼロだけどな」
「店長もほとんどゼロだけどね」
「魔法の研究と、日々の生活で忙しいんだから仕方ない」
それでも一応店と言い続けているのは、自分なりの意地なのだろうか。
踏み込んだことを尋ねたことはないので、アリスにも詳しいことはわからない。
あまり他人に踏み込まないのが彼女の方針なのだから。
そんな独特の距離感を保つ二人をじっと眺めていた女性もつられて口を開く。
「私は、えーっと、あら? あらあら、どこにいったかしら」
が、すぐに自分の服の中を探り始める。
袖元、服の中、とうとう胸元まで探し始めて、
「ありました。お待たせして申し訳ありません」
取り出したのは小さな四角形。
それが二人の前に、すっと差し出される。
そこにはしっかりと彼女の名前と。
「私は神綺と申します」
職業:魔界神
という、妙に物騒な単語が張り付いていた。
魔理沙はその神をじーっと見つめながら、眉を潜める。
「魔界、神? 魔界って聖が封印されてたあの世界のことか?」
「たぶん、違うと思うわ。あちらは人間が封印のために作り出した『理解のできない世界』というものを『魔』として扱って『魔界』と名づけたもの。そして、おそらく彼女がいたのは遠い過去から存在する別の世界。どうして同じ呼び名になったか、それを推測すれば、古来から人間というものは理屈で説明できない自然現象や災害なんかを『魔』や『鬼』で表現することが多かったからに他ならない。でも、こちらの世界とは繋がらないという意味ではどちらの魔界もそう呼ぶにふさわし――」
「おーい、アリス紅茶入れてくれよ」
「話振っといてなんで無視なのよ!」
「いやいや、まさかアリスがそんな詳しいとは思わなかったからな」
肩を竦め、上海人形と一緒に置かれたティーカップを指で突付く。
ついでにパンケーキも指差すところを見ると、魔理沙がアリスの家に来ようとしていた本来の目的はコレに違いない。朝食後のスイーツタイム、といったところか。
「紅茶を飲みながら、本家の人から聞くって選択肢もあるだろう?」
「あー、もうわかったわよ。砂糖は入れるの?」
「弾幕と糖分はパワーだぜ!」
「……1個?」
「パワーだぜ!」
「2個ね、上海よろしく」
アリスが決まった魔法の術式を上海人形に打ち込むと、机の上で人形が器用に動いて紅茶を三つのカップに注いでいく。
続いて琥珀色の水面が波打つのを止めたところで、小さな頭の上からぽいぽい、と砂糖を投げる。
まず、紅茶を要求してきた恥知らずに二つ。
そして、残りのティーカップには一つずつ。
砂糖を入れ、かき回し終えたカップを順番に配り、
「え?」
そこまで上海人形の動きを鼻歌交じりに見つめていた魔理沙が不思議そうに声を上げる。
「魔理沙さん? 紅茶に何か?」
変化にいち早く気付いた神綺がくせ毛を揺らして問いかけるが、魔理沙はアリスと神綺のカップを交互に見つめるばかりで、はっきり言おうとしない。
「いや、んー、なあ、アリス?」
「どうしたのよ、さっきの話の続きでもして欲しい?」
「……いや、うん確かにソレも気になるんだが」
そして逃げるように視線を漂わせる中で、あることに気付いた。
差し込む日の光の明るさがそう見せるのかもしれないが、何か違う。思い立ったら行動するのが心情の魔理沙は、吸い込まれるように窓に近づいて行き。
無造作に右手を持ち上げると。
窓枠に沿ってすーっと指を動かし。
「へぇー」
擦った指先を見ながら声を漏らす。
「どこの小姑よ、あんたは!」
その仕草は思わずアリスが突っ込んでしまうほど滑らか。
「あー、いや、埃はなかったぜ?」
「当たり前よ、大掃除したんだもの」
「なんだ掃除か、残念だ」
「残念って、どういうことよ。私と人形たちで丸一日頑張ったのに」
「いやー、なんていうかさ。さっき変な魔法をその神綺って人が使っただろ」
窓から壁伝いに歩き、指先を触れさせながらドアまで移動すると。
内側からコンコンっと外へノックする。
「そのせいで部屋全体が綺麗になったのかと思ったんだぜ」
「……はは~ん、読めたわよ」
「うふふ、私もわかりました」
目に見えて落胆する魔理沙が何を考えているか。
それは彼女のとある特性を知っていれば想像に難しくない。
「掃除の魔法か何かだと思ったのですね?」
「そうだぜ、がっかりだ。せっかく本の山を片付けるいい方法が見つかったと思ったんだが。やっぱりあれか? 力を使うときに出してたあの6本の羽に意味があるのか?」
「ああ、これですか?」
ぱちん、と神綺が指を鳴らす。
すると倒れていたときに出現していたあの6枚の翼が瞬時に現れた。
「これは危険が迫ったり、ある程度魔力を引き出すときに自然と出てしまうものでして。特別な効果はありません。ドアやテーブルを直したのは呪文のようなものです」
「やっぱり難しいのか?」
「いえいえ、ちょっとだけ声が聞こえれば誰でもできますよ」
「声? 誰の声だ?」
「ほら、あなたが触れているお方の声ですよ」
「触れてる?」
魔理沙は手に触れているものをじっと見つめる。
もちろん、その先には木製のドアしかない。
「いやいやいや、さすがにその冗談はわかりにくいぜ」
「そうですか? テーブルやドアたちの欠片が、元の姿を取り戻したいと私に訴えかけてきたもので。その声を後押しして差し上げただけですわ」
「おー、そうやって聞くとなんだか簡単そうだな! なあ、アリス?」
「……本当そう思う?」
「ああ、あれだろ? 咲夜みたいな能力でテーブルたちが大丈夫だった時間に戻したとか?」
しかし、何故かアリスはその回答に不快感を示したようで、とんとんっとテーブルの上を指で叩き、もう片方の手で頬杖をついた。
「あのねぇ、魔法使いならもうちょっと考えを働かせなさいよ。確かに時間を遡るという術式が存在するのであればドアやテーブルが元に戻るのは理解できる。けれど戻しただけならまたすぐに壊れる時間がやってくる。『直った状態』を維持するために力を常に放つことが必要になるわけ。
だから、神綺さんが言っているのはそういう術式じゃないの。物体の構成というか、そこに在るという意味そのものに干渉する力であって、力の根源は創造を司るような――」
「うん、パンケーキ旨いぜ!」
「……えっと、泣いていい?」
「ああ、聞いてた聞いてた。そこまで言ってくれれば大体はわかるからな。そうか、やっぱり神様ってついてるやつは凄いんだなぁ」
いつのまにか元の席に戻っていた魔理沙は、パンケーキをかじりつつ紅茶を喉に送り込んでいた。
その味に舌鼓を打って、満足そうに甘くなった指を舐め取る。
「それにしても凄いなぁ、アリスは」
「料理の話?」
「ああ、それもあるが。やっぱり年季が違うって言うのかな。あれだ、私が持ってない知識を随分と持っているもんだなと思って」
「そ、そりゃあ、そうよ。人形の術式を完成させるために日々努力は欠かさないもの」
「魔界なんていままで考えたこともなかったからな。こんどパチュリーのところでも聞いてみることにするぜ」
「……ま、まあ、私くらいの魔法使いになればそれくらいの知識は当然よ」
素直な賞賛に少しだけ頬を染めたアリスは、慌てて人形たちに作らせたパンケーキを頬張り言葉を消す。
そんな様子をくすくすと微笑んで見つめる神綺の暖かな瞳。
それに気付いたのだろうか。
何故かむすっと瞳を細めて、食べろといわんばかりに残り2個のパンケーキを押し出す。
「そうだ。結局、神綺の言ってた魔法使いっていうのはアリスで当たりなのか?」
「そうですね。私の望みの方かどうかはもう少し話をしてみませんと」
「ん、私のときはすぐ違うってわかったのにか?」
「だって、魔理沙ちゃんは、人間という種族でしょう?」
「ああ、そういうことか。納得だ」
飲み終えたティーカップを受け皿の上に戻し、おもむろに立ち上がると。
空いた椅子に掛けておいた帽子を手にとって、目深に被った。
「こほん……っ、でも、ちゃん付けはやめてくれないか? なんか背中の辺りがむずむずするぜ」
「あら、ごめんなさい。可愛い女の子はついついそう呼びたくなってしまって」
「うー、調子狂うぜ、まったく……」
「柄にもなく照れちゃって」
「慣れてないんだから仕方ないだろう。あ、そうだアリス。私はこれから紅魔館に行くんだが、お前じゃなかったらパチュリーが目的の人物かもしれないから、案内してやってくれよ。小悪魔もなんか神綺と似た感じするからな、そっちが本命かもしれないぜ」
「……小悪魔? 魔族の方がこちらに?」
「ああ、そんな羽生えてたからな。知り合いか?」
「そう、ですね。知り合いといえば、そうなるかもしれませんわね。昔、こちらの世界とのいざこざがあったときにこっそり逃げ出したものや、帰り損ねた者がいるという報告を聞いたことがあるもので。後でそちらにも顔を出すとしましょう」
「お、おう。伝えとくぜ」
さっき変わらない微笑、しかしなぜかその奥。
優しさの奥に冷たいものを感じて、魔理沙は一瞬たじろいでしまう。
けれど、すぐさまいつもの調子を取り戻し、箒を手にして身を翻した。
「じゃあな、アリス! 今夜は霊夢のとこで宴会あるから、暇だったら来いよ~」
「ええ、気が向いたらね」
「おう、またな」
片手で軽く挨拶を交わした直後、一瞬だけ空気が震えてその姿が掻き消える。
あの様子なら、図書館で魔界関係の本を引っ掻き回すに違いない。
やってくるときも、出て行くときもなんとも騒々しいこと。
立つ鳥は跡を濁さないと言うが。
「立つ人間は後を濁しまくるのよね」
「それだけ信頼しているのではないでしょうか」
「やめてくれないかしら気持ち悪い。後、パンケーキが美味しくなくなる前に食べることをお進めするわ」
「でも、なんだか勿体無くて」
「食べない方が勿体無い」
「あら、コレは一本取られてしまったかしらね」
そう言って、指でいくつかに分けた欠片を丁寧に口に運んでいく。
まるで一つ一つを心から味わうようにして。
「うん、美味しい」
「当然よ」
「うふふ、自信家なのね」
「ええ、誰に似たのやら。ところでお客様、あなたはこれからどうするおつもりで?」
「魔法使いさんとお話をさせていただきたいところですが、どうでしょう?」
「そうね、まだお昼前だから。ゆっくり語り合うことはできるかと」
アリスはカップを口元に運び。
傾ける。
「語り合った後はどうするおつもりで?」
「一日であちらに帰るのも勿体無いから、明日もちょっとだけこの世界を見物しようかと思っています」
「そうですか、それでは宿が必要ですね」
また、傾ける。
そのせいで声が曇ってしまうが、それでも唇にカップを当て続ける。
「どちらかお決まりですか?」
「それがまだ探し中でして、この羽を隠して人里で探そうかとも思っているのですが」
「ソレは難しいと思いますよ。幻想郷には旅人なんているはずがありませんし、いきなり探して見つかるかどうか」
「あら、ソレは困りました」
紅茶が、琥珀色の液体が入っていないと知りながら。
アリスはただ、カップで口元を隠し続け。
「それでしたら……私の家で宿泊するのはいかがでしょう?」
「あらあら、それは素敵ですわ! 是非お願いできないかしら」
「そうですか。私も魔界の事情についていろいろ聞きたいですし……
でも、申し訳ないのだけれど、ベッドはたった一つしかないもので」
唇からカップをはずしても、顔の前にカップを掲げて。
神綺から顔を隠す。
「大丈夫です。ソファーでもなんでも使わせていただければ」
「いえいえ、そういうわけにもいきません。お客様はちゃんとベッドで」
「ええ、じゃあアリスちゃんは?」
「……私は」
顔を隠したまま、消え入りそうな声で。
「私も……ベッドで寝る」
言葉が砕け、押さえていたものが表に出ようとする。
まだ魔理沙が近くにいるかもしれないのに。
油断はできないというのに。
「……たまには、いいじゃない」
懐かしさだけが心を揺すり。
思い出がアリスの思考を狂わせる。
それを自覚する顔は、もう湯気が出るほど真っ赤で。
「今日だけしか甘えてあげないんだから!」
彼女の搾り出した精一杯の声。
その甘く、強い響きは――
「いつだって甘えていいのよ、アリスちゃん」
懐かしく、幸せなときを作り出す。
望むまま、望まれるまま。
その夜、アリスの机の引き出しの中。
『明日、遊びに行くから♪』
とだけ書かれた、小さな手紙が大事そうにファイリングされていた。
続編期待です
それが堕天使級の大物であることに。
他人行儀で ん? と思ったけど、そういうことかw
大掃除の理由が分かってニヤニヤ。
最後でなんかホッとしました。
2828しながらもう一度読み返し、二度楽しめました