心が晴れるような青空に、子供たちの喧騒がこだまする。
人間の里の中央にある広場には少年少女が入り乱れ、さまざまな遊びに興じているその場所で、一人の少女を囲うように子供たちが集まっていた。
金紗の髪を風が靡かせ、サファイアのような青い瞳は静かに、細くしなやかな白い指で操る人形劇に注がれている。
夏の暑さも気にすることもなく、蝉の合唱団さえも人形劇のオーケストラにして。
魔力の糸で操られた人形たちは、ジーワジーワと奏でられる合唱団にあわせてクルクル踊る。
そうして、蝉と、人形たちが、まるで示し合わせたかのように。
ジジジジジジ……、と合唱団の音が途切れると同時に、人形たちはスカートを摘み、子供たちに向けて優雅にお辞儀をした。
その幻想的な光景は、さながら白昼夢のよう。
人形たちの動きに魅了された子供たちはしばらく呆然としていたが、やがて思い出したように拍手喝采が湧き上がる。
そんな光景に満足そうな笑みを浮かべ、人形たちを操っていた少女も、人形たちと同じようにスカートを摘んで頭を垂れた。
誰も彼もが、少女の技量に驚嘆する中、その光景を遠目から見つめる人影がひとつ。
夏の日差しが大地を焼く八月初頭。季節の歌い手が短い命を燃やさんとするその季節。
人形遣い、アリス・マーガトロイドは、一人の少女と出会った。
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Dolls Of Message
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広場には先ほどの熱狂的な空気はどこにもなく、いつもの散漫とした子供たちの喧騒が戻っている。
そんな広場の木陰に座り、人形遣いは無感動な瞳で子供たちの様子を眺めていた。
人間にとっては暑いだろう気温の中、元気に遊びまわる子供たちのなんとパワフルなことか。
魔法使いであるアリスにはこの程度の暑さは苦にならないが、かといって体が弱いのもまた魔法使いの定めであるため、しばらくは木陰で休むことにしたのである。
ちなみに体の弱い魔法使いに、あの黒と白の魔法使いだけは加えてはならない。目の前の子供たちに負けず劣らず、あの人間の少女はパワフルに過ぎる。
「ねぇ、そこのあなた」
そんな失敬なことを考えていたアリスの背後から、ふと鈴のような声がかけられた。
子供たちに向けていた冷えた視線を背後の誰かに向ければ、そこにはフードを目深に被った少女が立っている。
身長は150前後、線は細く、女物の着物を身に纏っているということは、おそらくは女性であるということだろう。
フードから覗く真紅の瞳は、ただジィッとアリスの姿を見つめ続けていた。
もともと遠かった子供たちの喧騒が、また一段と遠くになったかのような錯覚を抱きながら、人形遣いは感情を表に出すこともなく「またか」と、小さくため息をこぼしていた。
「また来たの? 何度も言うけど、私はあなたに教えることは何もないわ」
「……まだ何も言ってないんだけど」
「言わなくてもわかるわよ。どうせ、また人形の作り方を教えてほしいって言うんでしょ?」
木陰で体を休めるアリスは、あきれたように言葉を紡いで冷めた視線を少女に向けた。
その視線に一瞬ひるんだ少女だが、その瞳には諦めの色は見えなくていい加減うんざりしてくる。
ことの始まりは三日前、アリスが今日のように人形劇を終えたときのことだ。
その日、人形劇が終わってしばらくたったころ、目の前の少女が現れて突然「人形の作り方を教えてほしい」と迫ってきたのだ。
無論、見ず知らずの人間に人形つくりを教えてやるほどアリスは暇ではないし、丁寧に断ったのだがこの少女はそれで終わらなかった。
断っても断ってもしつこく食い下がり、人里に来るたびに「教えてほしい」とせがんでくるのだ。しつこいったらありゃしない。
「何度も言うようだけど、お断りさせてもらうわ。私の技術は、人に教えるようなものじゃないもの」
「……これだけ頼んでもだめ?」
「……あのね、前も言ったけど人形遣いであり魔法使いでもある私にとっては、人形の作り方それ自体が研究の集大成なのよ。いわば、秘匿されるべき技術の結晶といってもいいわ。
そんな大事なものを、ろくに知りもしない他人に教えられると思うの?」
「そこを何とかッ!!」
いったい何が少女をそこまで駆り立てるのか、深々と頭を下げてまで懇願は続く。
困ったように小さくため息をついた人形遣いは、面倒なのに絡まれたなぁと思考しながら、何とかして断る方法を考え込んでいた。
何しろ人形遣いを生業とする魔法使いの彼女にとって、人形の製造方法は最も秘すべき技術だ。
魔法使い同士の等価交換でならまだしも、間違っても人里の子供に教えるようなものではない。
それを納得させるのは、いささか難しい。彼女のような少女に――いや、人間の基準で見れば、魔法使いたちの価値観はわかりづらいだろうから。
現に、今も彼女はこうしてしつこく毎日毎日食い下がってくるのだから。
「何も、魔法人形の作り方を教えてくれといってるわけじゃない。普通の人形の作り方を、あなたに習いたいの!」
「……そうは言われてもねぇ」
確かに、普通の人形を作るぐらいなら教えてもいいだろうが、問題はアリスに全くと言っていいほどメリットがない。
つい三日ほど前にあったばかりの他人のためにそこまでしてやれるほど、アリスは善人ではないし、暇でもない。
かといって、このままでは人里に訪れるたびに何度も諦めずに懇願してくるだろう。
それは、食材の調達や人形を作る材料の調達にほぼ毎日人里へ訪れるアリスにとっては、中々に無視しがたい面倒事である。
呆れたように頭に手を乗せ、小さくため息をひとつつく。
よくよく面倒事に縁のある自分自身に呆れ果てる人形遣いの表情には、諦めがにじみ出ているかのようだった。
「……わかったわ。ただし、人形の材料ぐらいは自分で調達なさい。それが最低条件よ」
「本当に? 後で嘘だったとかなしだからね!!?」
「はいはい。嘘なんかつかないわよ」
「……ぃやったぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ぴょんぴょんと跳ね回りながら去っていく少女を見送りながら、本当にこれでよかったのだろうかと本気で悩む。
かといって、あのままでは付きまとわれていたのは間違いないし、結局こうなっていただろう。
飛び跳ねながら少女の後姿が見えなくなったところで、彼女はふと気がついた。
「あの子、私とどこで合流してどこで作るか聞いてないじゃない」
どうやら少々頭が足りないらしい。
そんな失礼なことを考えながら、アリスは盛大にため息をひとつついたのだった。
▼
アリスが奇妙な少女と約束をしたその翌日、彼女は美味しそうな香りで目を覚ました。
いまだ思考が定まらぬまどろみの中、脳が眠りを欲するのにもかかわらず、その違和感が体を突き動かして身を起こす。
ぼんやりと意識の覚醒を促すように、香る匂いのなんと美味しそうなことか。
「……誰かいるの?」
真っ先に思いつくのは魔界に住んでいる母の姿。
幻想郷に一人暮らしのアリスではあるが、時々、こっそりとやってきた母親が朝食を作ってくれていたことが何度かあった。
今回もそうなのだろうと理解して、前はいつ来てくれたっけ? と自然と頬が緩む。
一人暮らしをしていると、たまに母の味が無性に恋しくなる時があるが、起き抜けにいいにおいがしたものだから、そんな気分になったのだろう。
歩き出す足音は、起きたばかりにしてはずいぶんと軽い。
久しぶりに見る母の顔は、きっと笑っているんだろうなぁと自然と笑顔が浮かび――
「あ、キッチン借りてるよー」
何ゆえか昨日のフードの少女がキッチンに立っていて、可愛らしかった笑顔は絶対零度のごとく冷え切ったのであった。どっとはらい。
そんなアリスの恐ろしい無表情に気づくこともなく、少女はというと押ししそうな和風料理をテーブルの上に次々と並べていった。
真っ白でホッカホカなご飯に、いい香りのする赤味噌仕立ての味噌汁、野菜の漬物に沢庵、よく焼かれた魚。
どれもこれも非常においしそうではあるのだが、何で家を知っているのとか、何で家に入ってきているのかとか、そもそもなんで勝手に朝ごはん作ってるのとか。
……そのまぁ、つまり――おおいに突っ込みどころ満載だった。
「よし、できた!」
「できた! じゃない」
言葉とともに振ってきたのは上海人形のハンマーアタック。
スコーンと中身の詰まってなさそうな軽い音が響き渡り、「ぷぎゃ!?」と蛙をつぶしたような悲鳴が聞こえてきた。
当たり所がよかったようで脳天を押さえて蹲る少女を見やり、アリスは疲れたようにため息をつく。
「……なにしてんのよ」
「何って、料理?」
「いやそれはいいから、なんであなたが家の場所を知っているのか聞いてるんだけど? しかも勝手に入ってきてるし」
ジト目で紡がれたアリスの言葉に、合点が言ったのか少女は「あぁ」と納得したように言葉をこぼす。
まだ痛む頭をさすりながら、立ち上がった少女は「ふふん」とどこか自慢げに微笑んだ。
「もう二、三発ぐらい殴っとこうかしら」とかこっそりと思ったが、話が進まないんでそれは後の楽しみに取っておく。
「私、鼻が利くの。匂いをたどれば一発ね」
「匂いって……犬じゃないんだから」
「……うーん、まぁ魔法使いのあなたにならいいかな?」
呆れた表情を見せるアリスを見てしばらく考え込んでいた少女は、わりかしあっさりと結論付けるとフードを取った。
ふわりと、艶のある長い黒髪が零れ落ちる。
張り付いていた髪を払うように頭を揺らし、その頭部にはピンッと立った犬の耳。
人としての耳は無いのか、それとも髪に隠れているのかはわからないが、その姿を見て合点が行った。
人間ではなく、妖怪。それも恐らくは珍しいことに――人里に住んでいる妖怪であるだろうと推測される。
そうでなければフードで己の耳を隠すなんて、そんなことをする必要はかけらも無いだろうから。
「なるほど、妖怪だったのね」
「えぇ、隠していてごめんなさい。人里に住んではいるけど、あそこでフードを取るのはちょっとねぇ」
その気持ちはまぁ、わからなくもない。
人里に妖怪がいるのはもはや日常茶飯事ではあるものの、人里に済んでいるとなればまた話も変わる。
半分が人間である上白沢慧音ならまだしも、純粋な妖怪が人里に住むことに懸念を覚えるものもいるだろう。
そういったものたちを刺激しないように、妖怪の耳を隠しながら生活するのはごく自然なことに思えた。
「いいわよ、事情はなんとなくわかるから。まさか、人間じゃなくて犬の妖怪だったとはねぇ」
「狼よッ!!?」
「同じイヌ科の生き物じゃない。誤差の範囲よ」
「オ・オ・カ・ミッ!!」
「さ、朝ごはんにしましょう。早く食べないと冷めてしまうわ」
「ムキィィィィィィィ~ッ!!?」
少女の言葉を適当に受け流し、そそくさと席に座った人形遣い。
ぷんすかぷんすか地団駄を踏む自称狼を見やり、その反応のが面白くてニヤニヤと笑う。
面倒事を抱え込みはしたが、どうやら退屈からは無縁になりそうではある。目の前の少女は実に弄り甲斐がある。
「う~」と涙目ながらこちらをにらむ少女を尻目に、アリスは美味しそうなご飯をぱくりと一口。
「そういえば、あなた名前は?」
「鈴菜ッ!!」
やけくそ気味に名前を言って席に着いた少女を見やり、アリスはくすくすと苦笑した。
最初は面倒事を請け負ったなぁと思いはしたが、こうしてこの少女と一緒にいるのも悪くはないかもしれない。
そこでふと、もう一つの言及していなかった問題を思い出して、アリスは少女に言葉を投げかけた。
「ところで、なんで勝手に入ってきたの?」
「……え? 黒白の魔法使いが入れてくれたわ。本を借りてすぐ帰っちゃったけど」
よし、あいつは今度あったらとっちめよう。
そうアリスが心に誓ったと同時に、怒りのあまりに握り締められた箸がベキリと悲鳴を上げてへし折れるのだった。
▼
朝食をとり後片付けを終えた後、午前中のうちに人形制作は始まった。
いつもはもう少しゆっくりしてはいるのだが、今回は少女――鈴菜の人形の完成を目指すわけである。
どうにも人形制作はド素人であるようだし、時間は多いほうがいい。
まぁ、予想外であったことがあるとするならば。
ザックリ!
この少女、アリスの予想の斜め上を行くレベルの不器用さであったことだろうか。
「~~~~~~~~~ッ!?!?!?!?!?」
「……あなた、また指切ったの?」
呆れたように呟いたアリスの手には、すでに救急箱。
これで何度目の怪我だろうかと考えて鈴菜の指を見れば、あちこちが包帯と絆創膏だらけ。
細くきれいだった指は見る影もなく、奮闘と激戦の結果だけが悠々と記されている。
……もっとも、人形制作にいたっては遅々として進んではいなかったが。
彫刻刀で削りだされる木材は本来腕の部分になるはずなのだが、今の段階ではどう見ても形の悪いジャガイモである。
いったい腕のパーツを一つ作るのにどれだけの時間がかかるのだろうかと先行きが不安だったが、手当てを受けた少女はまた気合を入れて作業に戻っていく。
(……やる気と根性だけはあるのよね)
いっそのこと諦めてくれればいいのにと思いはしたが、この様子だとそれもなさそう。
これは本格的に、この少女とは長い付き合いになりそうな気がして、げんなりとため息をひとつ。
そんな風に危なっかしい鈴菜の手つきを見ていると、こんこんっと部屋の窓がノックされてそちらを向くと、なんとも珍しい客人が顔を覗かせていた。
艶のある黒髪は赤いリボンでポニーテールにされており、腋出し巫女服という奇抜な衣装の少女はけだるそうな表情でひらひらと手を振っている。
幻想郷にすむならば、知らないものなどいないだろう博麗の巫女、博麗霊夢が家主の言葉も聞かぬままにガラガラと窓を開けた。
「今日は千客万来ね」
「随分ないいぐさねぇ。今日は宴会に誘いに来たっていうのに、つれないわね」
「……あなたが? こういうのは魔理沙が言いにくると思ったけど」
「さぁ、なんか知らないけど今は会いにくいから私に言ってほしいんだってさ。どーせ本でも盗っていったんじゃないの?」
「……あぁ、そういえば鈴菜がいってたわね」
早朝のことを思い出して顔をしかめたアリスは、疲れたようにため息をつく。
本人に言わせれば「借りてるだけ」と反論するのだろうが、あの手癖の悪さだけはどうにかならないのだろうかとつくづく思う。
「……鈴菜?」
「ん? あぁ、ほらあそこに座ってる子のことよ」
聞き覚えのない名前に首をかしげて不思議そうな表情の霊夢を見て、作業台の上で孤軍奮闘する少女に視線を向ける。
その視線につられて巫女が視線を移すと、彫刻刀を片手にジャガイモのような物体と睨めっこする少女というシュールな光景が目に入った。
目に入ったのだけれど、その見覚えのある後姿に巫女はパチクリと目を瞬かせている。
「あれ? なんか見覚えあると思ったら、ここ毎日ウチの神社の賽銭箱にお金入れてお祈りしていく子じゃない」
「へぇ~、変わり者だとは思ってたけどそこまでとはね」
「どー言う意味よ、それ。……まぁ、いいわ。確かに伝えたからね?」
追求しても無駄だと思ったのか、それともただ単にめんどくさいと思っただけなのか、霊夢は手をひらひらと振ってあっさりと帰っていった。
さて……と、顎に手を当てて今日はどうしようかと考える。
宴会というからには、どうせいつものように博麗神社で行われるのだろう。
それ自体は別にかまわない。それに、今日は魔理沙にも積もる話もあることだし、参加するのもやぶさかではない。
問題があるとすれば――いわずもがな、彼女の視線の先で作業に没頭するこの妖怪少女である。
まさかこのまま置いていく訳にもいかぬし、やはり家に帰らせるのが一番いいだろう。
「ねぇ、私は夜に用事ができたから、夕方になったらあなたを人里に送って――」
ぐっさり。
「~~~~~~~~~~~~ッ!?!?!?」
「……ごめん、後でいいわ」
再び彫刻刀が指の間接辺りをざっくりと削り、痛さのあまりの悶絶する鈴菜を見て、途中で声をかけたことに申し訳ない気持ちになってくるアリスであった。
▼
空は茜色に染まり、昼間の暑さは徐々に引き始めて過ごしやすい温度になりつつある。
人々が自宅に帰ろうかという時間帯、夕暮れが映える空の下、二人の少女が人里の入り口に立っていた。
鈴菜は人里の前だからか目深にフードをかぶり、耳を隠してアリスに視線を向ける。
「それじゃ、明日はお昼ごろにそっちに行けばいいのね?」
「えぇ、そうしてもらえると助かるわ。……それから、明日からは無断進入しないように」
「……ごめんなさい」
しゅんと項垂れて頭を下げる鈴菜をみやり、アリスは「よろしい」と微笑んだ。
頼まれた最初はどうなることかと思ったが、意外なことに言うことはしっかりと聞くので教えるのはそんなに苦ではない。
不器用さが人形を作るにはいささか致命的ではあるが、本人は一度も音を上げずに二の腕のパーツを見事削りだしたのだから、時間をかければ何とかなるだろう。
無論、その場合かかる時間はお察し下さいと言わざる終えないレベルではあるが。
そんなやり取りをしていると、人里のほうから見覚えのある顔がこちらに歩いてくるのが見えた。
長い銀髪は三つ編みに結われ、服の中央で赤と青に別れた奇抜な衣装の女性。
もう一人は藤色の地面に届かんばかりの長髪に、萎びたようなウサギの耳が特徴的な赤目の少女。
どちらも、幻想郷のパワーバランスの一角を担う永遠亭の者達。
月の頭脳と謳われた薬師、八意永琳と。
狂気の月の兎、鈴仙・優曇華院・イナバの二人だった。
「あら、こんなところで会うなんて奇遇ね」
「こんにちわ、確かに奇遇ね人形遣いさん。……それから、鈴菜さんもこんにちわ」
「こんにちわ、八意先生。ウチの母が、いつもお世話になってます」
そういって永琳に礼儀正しく頭を下げる鈴菜を見て、意外な組み合わせに目を丸くする。
二人が知り合いであることも意外だったが、少女の口から飛び出した「母」という単語にも多少の意外さを感じたのである。
妖怪が人里に住んでいるだけでも珍しいというのに、基本的に病気とは無縁な妖怪が医者と知り合いで、なおかつ母までいるという。
知り合ったのは四日前だから知らないことが多くて当然ではあるのだが、こうして意外な事実ばかりが判明していると興味が鎌首をもたげてくる。
それだけ、この鈴菜という少女の素性は異質だった。
己の妖怪としての耳を隠しながら人里で暮らし、少々頭が足りない感じはするが根は素直で聞き分けはいい。
妖怪というのは我の強いものが多く、彼女のように母親と暮らしている者などほとんどいない。
大抵は早い時期に親離れをして、どいつもこいつもが自由気ままに生活を送るのだ。
「それじゃ、私はこれで。アリス、また明日」
「えぇ、また明日」
そんな考えなどおくびにも出さず、別れの挨拶を済ませたアリスは博麗神社への道へと歩み始めた。
それに続くような形で、永琳と鈴仙も歩いてくるあたり、目的地はやはり博麗神社なのだろうことが伺える。
だから――少しだけ、彼女たちに聞きたいことができた。
「それにしても、あなた達があの子を知ってるのは意外だったわ」
「まぁ、あの子の母親が今は永遠亭に入院してるから、その縁ね。私としては、あなたがあの子と知り合いであることのほうが意外なのだけれど」
「本格的に知り合ったのは四日前のことよ。人形の作り方を教えてほしいって。……それにしても、妖怪が入院ねぇ」
鈴仙の言葉に答えながら、アリスは意外そうに目を丸くして、そんなことをつぶやいた。
何しろ、妖怪という生き物は精神に強く依存するがゆえに、人間よりも何倍も頑丈で病気にだってかかりにくい。
そんな妖怪が入院という話なのだから、珍しい話もあったものである。
しかし、アリスの呟きに帰ってきたのは二人のきょとんとした表情だった。
何かおかしいことでも口にしただろうかと疑問に思ったアリスだったが、その疑問に答えたのは永琳の声。
「勘違いしているようだけど、あの子の母親は人間よ」
「……人間? あの子は妖怪なのに?」
「さぁ? これ以上は患者のプライバシーにかかわることだから」
この話はここまでだと、そう言うかのように永琳は言葉を締めくくった。
人里に住む人間の母親と、妖怪の子供。その奇妙な関係に首を傾げ、考えても答えは出ないかと結論付けた。
この医者は答えを知っているようだが、この様子では決して語るまい。
「人間の母親と、妖怪の娘かぁ……」
ポツリと呟いた言葉は、誰にも聞かれることのないまま空へと溶けて消えた。
種族の違う親子。それが何を意味するのか、どういうことなのか、正確な答えはまだ出せない。
けれども――アリスの脳裏には、種族の違う親子と聞いて、なぜか昔の自分と母の姿が思い浮かんでいた。
▼
あれからおおよそ一週間ほどたったお昼ごろ、今日も鈴菜はアリスの家に訪れた。
あの日から初日の失敗を犯すこともなく、ちゃんとノックしてきいるので、アリスも邪険に扱うこともなく客人として室内へと招き入れている。
魔法の森は鬱蒼と茂っていて、初めてきた者は非常に迷いやすい場所なのだが、鼻の利くという彼女には大して問題にはならないらしい。
「さすが犬の鼻ね。案内がいらないのは思いのほか便利だわ」
「だから狼だってばッ!!?」
「狼はイヌ科の生き物よ、犬で間違いないわ。ほら、ワンって鳴いて?」
「う、うぅ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
とまぁ、家に招き入れたときにそんなやり取りが続いていたりするのだが、今はそんなこともなく鈴菜は作業に集中している。
彼女を弄って遊ぶのはなかなかに楽しいのだが、かといって作業に集中している間に(主に彼女で)遊ぶほど、アリスも意地悪ではない。
というか、作業中にからかっているとただでさえ遅い作業速度が、更に遅くなってしまうのであえて何もしないという話もないではないが。
怪我をする回数こそ減ってきたものの、それでも作業の遅さはあまり変わらない。
自分の研究に時間を回せるようになってきたのはいいのだが、この分では人形はいつごろ完成するのやら。
先週に魔理沙から取り返した魔道書のページをめくり、小さくため息をついていれば、後ろの作業台から最近はすっかり馴染みになってきた悲鳴が聞こえてきた。
「……治療は?」
「だ、大丈夫……自分でするから、アリスは自分の研究をがんばってて」
一応聞いてみたが、どうやら心配は要らないらしい。
最近はすっかり作業台のそばに常備されるようになった救急箱に手を伸ばし、鈴菜は自分で怪我の治療を始めた。
こうやって、彼女自身が自分で怪我を治すようになったことも、アリスが自分の研究に時間を裂けるようになった理由のひとつ。
彼女なりに、自身の不器用さを申し訳なく思っているところもあるのだろう。
半ば強引に教えてもらっている立場である以上、余計なことでアリスの手を煩わせたくないという、彼女なりの気遣いなのだ。
……もっとも、その結果が人形作りよりも薬を塗って包帯を巻くほうがうまくなっているのは、実に情けない話ではあるが。
ぐるぐると包帯を巻き終え、治療を終えた鈴菜は「よしっ!」と気合を入れて作業に戻っていく。
その後姿を眺めながら、ふと彼女の指に視線を移せば、もはや怪我をしていない場所がないぐらいに包帯が巻かれていて痛々しい。
その視線は真剣で、今まで弱音を吐いたことは一度もない。
何度怪我をしても、何度失敗しても。
文句も諦めの言葉も、何一つ口にしないまま作業中に集中する。
額に流れる汗を拭うこともしないまま、一心不乱に木材から材料の削り出しをもう何時間も続けていた。
何が彼女をそこまでさせるのか、何が彼女をそこまで駆り立てるのか。
性格は初見に感じたように落ち着きがなくて騒がしいというのに、一度作業を始めれば信じられないほどの集中力を見せてくれる。
しかしながら、はっきりいって彼女はこういった作業には向いていない。それは彼女も自覚しているはずで。
だから、聞いてみたくなった。彼女がどうして、そんなにも人形作りに拘るのかを。
「ねぇ、どうして人形を作ろうと思ったのか、聞いてもいいかしら?」
声をかけられたことがよほど意外だったのか、鈴菜は作業を中断してアリスに振り向いた。
ぱちくりと目をしばたかせ、意外そうな視線を向けてくるのも、ある意味では当然で。
何しろ、アリスは今まで一度も、作業中には雑談のような話題を振ることは決してなかったのだから。
ぶしつけな質問であると、アリス自身も理解している。
彼女のプライベートに不必要に踏み込む行為だと、彼女の冷静な部分が警告した。
けれども、気になったのだ。彼女が、そこまで作業に入れ込む理由を。
言葉の意味を理解して、「うーん」と困ったように鈴菜は苦笑した。
説明したくないという風ではなく、なんて説明したらいいんだろうと、そういった表情。
しばらく目を瞑って考え込んでいたが、考えがまとまったのか目を開く。
「アリスには、教えておかないとね」と、恥ずかしそうに頬をかいて。
「私ががんばってるのはね、お母さんにプレゼントしたいって思ってるからなの」
「……お母さん?」
「うん、妖怪の捨て子だった私を拾ってくれて、今まで普通の子として育ててくれた……人間のお母さん」
嬉しそうに、懐かしむように、そして……どこか寂しげに。
鈴菜はまるで独白でもするかのようにそう言葉をつむいで、そして笑った。
今までの元気のあった笑みではなく、どこか物悲しさを感じさせる、そんな笑みを。
そうして、彼女はぽつぽつと言葉をつむぎ始めた。
懐かしむような、在りし日の情景を思い返すような、そんな表情で。
聞いた話によれば、鈴菜は赤ん坊のころに人里の畑に捨てられていたらしい。
彼女自身がそれを聞いたのは言葉を解し、母の手伝いをするようになってからだが、そのことを気にしたことはあまりない。
自分が妖怪で、母は人間。その関係に悩まなかったといえば嘘になってしまうが、それでも母が注いでくれた愛情は本物だった。
母は人形師で、当時ではそれなりに有名になる程度には腕がよく、時間の取られる仕事であるために、その貴重な時間を自分に割いてくれるのは本当に嬉しかった。
だからいつの間にか、鈴菜は自ら進んで家事を受け持つようになっていた。
炊事に洗濯、巻き割りや買い物、畑仕事や風呂沸かしなど、自ら進んで失敗を繰り返しながらも覚え、少しでも母の支えになろうと必死だったのだ。
妖怪であることを隠しながら、買い物や畑仕事をし、人里で生活するのは骨が折れたが、それでも彼女たち親子は幸せだった。
血のつながらない親子。血が違えば、そもそも種族すらも違う。
本来ならば捕食される者と、捕食する者。けれども母は娘に惜しみない愛情を注ぎ、娘も母のことを大好きだった。
そうやって続いたひっそりとした生活は決して裕福ではなかったが、それでも二人は幸せだった。
生活のためにと母親は人形作りに精を出し、不器用ゆえに仕事を手伝えない娘は家事を一手に引き受けることでお互いを支えあう。
種族の違いなど些細なことであるかのように、お互いに幸せそうに笑いあいながら。
母は実の娘のように子を想い、娘はこの身が妖怪でも、心は母と同じ人間であるようにと。
やがて時は過ぎ、スペルカードが制定され、人里と妖怪たちの交流が活発になり始めた。
成長しない彼女を人間と誤魔化すには限界に近づいていた親子にとってはそれは追い風になり、ひと悶着ありはしたが、娘は人里の一員として受け入れられたのである。
妖怪を追い出そうとする者たちの目は冷たかったが、それでも親子は人里での生活を許されたのだ。
そうして、時間は流れる。
親子の関係は変わらない。
母と娘が支えあい、助け合い、笑いながら他愛もない話に花を咲かせて。
けれど、変わり始めたものが、徐々に徐々にと表面ににじみ始めてきていた。
娘の姿は変わらない。今も昔も、ずっと変わらぬ若々しい姿のまま。
けれど、母の顔には、いつの間にか多くの皺が刻まれて、艶やかだった肌の張りは見る影もない。
黒かった髪は真っ白に変わり、手の震えは止まらず、目も悪くなり、耳もずいぶんと遠くなってしまい、……とうとう、人形作りすら出来なくなってしまった。
如実に感じるようになった、種族としての差。
刻まれた皺はいっそう増え続け、けれども元気だけは失わずにからからと笑っていた。
だから、そのときの娘にはまだ、不安はなかった。
当たり前のように。
それが当然であるかのように。
明日も、母がいてくれると、そう信じて疑わなかった。
それから、しばらくたった頃だ。
母が――意識を失って倒れたのは。
半ばパニックになりながらも、上白沢慧音の知人に永遠亭まで運んでもらい、そのまま緊急入院することになった。
手術を終え、ベッドに横になった母の傍らで、娘はじっと座って離れる様子もなく。
ただ静かに、甲斐甲斐しく、体が本格的に不自由になってしまった母の世話を続けたのだ。
――若い若いって思ってたけど、私ももう歳かねぇ。
くたびれたような呟きは、今まで一度も聞いたことのない母の声だった。
窓の外の景色を眺め、ぼんやりとしたその姿は、今まで元気だった母とは到底思えなくて。
まるで今すぐにでも消えてしまいそうで、娘には急に老け込んだように見えてしまった。
――今まで、ありがとうねぇ。
くしゃくしゃの顔で、母は笑って言葉を紡いだ。
まるで別れを悟ったかのような言葉に、まるで、今すぐにも消えてしまいそうなそんな笑顔に。
母が、遠くに行ってしまうような気がして、恐ろしかった。
娘の胸に飛来したのは、まるでぽっかりと胸に穴が開いてしまったかのような喪失感。
お見舞いに来て、入院している母の姿を見るたびに。
しわくちゃの顔で、掠れるような声で名を呼ばれるたびに。
嫌でも、その現実をつきつけられているような気がして。
そうして、永遠亭の医師から母の寿命がそう長くないことを聞かされたのは、二週間前のこと。
もって一ヶ月と、そう宣告されたとき、その言葉を聴いたとき、足元がガラガラと崩れ落ちるかのようだった。
その言葉の意味を理解したくないと理性がわめきたて、けれども本能が、どうしようもない事実だと受け入れようとする。
最初の数日は、とにかく泣きはらした。
飯も食わず布団にもぐりこみ、嗚咽をこぼしながら泣きはらして。
けれども毎日お見舞いは欠かさず、母の前でだけは無理に笑みを浮かべて見せた。
その間にも、娘は自身に問いかける。
本当にこのままでいいのかと、本当にこのまま、何もせずにのうのうと母の死を待つつもりなのかと。
今までの恩を何も返すことができぬまま、このまま泣いているつもりなのかと。
そうして、娘は思いついた。
人形師として人形を作り続けた、母の跡を継ごうと。
その証として、第一歩として、己の初めての作品を母に捧げようと。
困ったことに、もう母から技術を受け継ぐことはかなわないけれど。
無茶だろうと無理だろうと、必ず成し遂げるんだと心に決めて。
そうして、彼女は思い出した。里に現れる人形師、アリス・マーガトロイドの存在を。
「……なるほどね、ようやく合点がいったわ」
彼女の話を聞き終え、納得がいったようにアリスは静かな調子で呟いた。
なぜ、あの時の彼女があんなにも必死だったのか。
なぜ、彼女がこんなにも必死に弱音もはかずにがんばっているのか。
すべては、母親のため。
母を安心させたいと、恩を返したいと、その一心で彼女はひたむきになっている。
大切な人のために、血の繋がらない親子だとしても、一途な想いはまぎれもない本物だから。
その気持ちが、想いが――アリスには少しだけ、理解できるような気がした。
血の繋がらぬ母を持つのは、アリスも同じ。
魔界の神として存在する母と、その母の手によって「創り出された」己自身。
それでも、母は己の身分も気にすることもなく、皆に等しく愛情を注いでくれた。
生憎と彼女とは違い、母は魔界の神様で寿命による別れはいまいち想像できないし、そもそもそう簡単に死ぬような人ではないけれど。
それでもと、アリスは思う。
母に何かあったのなら、己も間違いなく、母のために一生懸命に手助けをするだろうから。
「……えっと、ごめんね、アリス。あんまり、気分のいい話じゃ……ないよね」
沈んだ様子で謝る鈴菜を見やり、アリスは苦笑しながらポンポンッと頭を撫でた。
気にする必要なんてないと、気にしなくていいと、そう伝えるかのように。
「別に、気にしないわ。その気持ち、少しだけなら理解できる気がするし」
そう軽やかに口にしながら、パチンッと指を鳴らす。
すると、部屋に飾ってあった数多の人形たちが動き始め、今までアリスが作業していた台をテキパキと片付け始めた。
その様子に呆然としている鈴菜の隣に腰掛け、アリスはニッと挑発するかのように笑う。
「時間がないのでしょう? 言っておくけど、私はスパルタよ?」
そう言葉にして、朗らかに笑った。
まるで花のような、鈴菜が今まで一度も見たことのない、人形遣いの心からの笑顔。
その意味を理解して、不意に、目尻がじんわりと熱くなって、ぽろぽろと涙が零れ落ちていく。
それは、彼女が本気で自身に向き合ってくれるということで。
彼女が、自分に手を貸してくれると、そう宣言しているようで。
本当に……本当に、心強くて、嬉しかった。
「さぁ、覚悟はいいかしら。犬の人形師見習いさん?」
「……犬じゃない。狼よ」
涙をグシグシと拭い、紡がれた挑発に不適に笑って返して見せた。
まだ、目は充血して赤かったけれど、油断すればまた泣いてしまいそうだけれど。
けれども冗談をお互いに言い合って、そうして二人して笑いあった。
二人が出会い、すでに一週間と少し。
タイムリミットまで、多く見積もってあと二週間。
この日ようやく――人形遣いと狼の妖怪は、初めて「友達」として笑いあった。
▼
時間は流れ、あの日から一週間。
食材の買出しに人里に訪れていたアリスの背後から、最近すっかり耳になじんだ少女の声が届いてきた。
買い物籠を片手に振り返ってみれば、手をぶんぶん振りながら走ってくる鈴菜の姿が見えた。
相変わらず落ち着きのない。普段は着物の下に隠しているらしいが、尻尾が出ていたらぶんぶんと振っているに違いない。
そんな失礼なことを考えているとは露知らず、鈴菜はというと今日も元気一杯といわんばかりに走りながらアリスの隣に並んだ。
その手にはすっかりと包帯がぐるぐる巻きにされており、ここ最近の彼女のがんばりを如実にあらわしている。
その甲斐あって、今日中には彼女の人形が完成するだろうというところにまでこぎつけていた。
「ねぇねぇ、もしかして買い物?」
「えぇ、そうよ。そろそろ食材が切れるところだったし、ちょうど終わったとこ」
「あ、それじゃあ私が今日もお昼作るね!」
「えぇ、お願い。期待しているわね」
あれからというもの、お互いにこうやって他愛もない会話を交わすことが増えた。
鈴菜は教えてもらっているお礼ということで、毎日お昼ご飯を作ってくれるし、それがまたおいしいのだ。
ここ最近の楽しみになりつつあるという事実は本人には伏せつつ、すまし顔でそういえばと言葉を続ける。
「お母さんの様子は、どうだった?」
「うん、元気そうだった。今日は切ったりんごも食べてくれたし」
「そう、なら何とか間に合いそうね」
間に合うかどうかは不安であったが、彼女の母の体調が急変しない限りは何とか大丈夫そうだ。
せっかくアリスも手伝ったのだ。これで間に合いませんでした、ではあまりにも寝覚めが悪いし、不甲斐ない。
せっかくなのだから、ここまできたら最後まで面倒を見てあげたいと、そう思う。
(我ながらおせっかいよねぇ。……誰に似たんだか)
そんなことを魔理沙あたりが聞けば、「そりゃお前、あの母親に似たんだろうさ」なんてからからと笑うに違いない。
けれど、それも不思議と嫌な気分じゃなくて、どこか誇らしいとさえそう思う。
あの人と似ているのなら、それはとても喜ばしいことのように思えたから。
そんなことを考えながら人里の出口に差し掛かった途端、ぴたりと、鈴菜が動きを止めた。
いったい何事かと思って彼女を見ると、鼻をスンスンと鳴らしながら何かを嗅ぎ取ってるかのようで、その目付きがだんだん険しくなる。
赤い眼を細め、一点を見つめるように遠くを凝視していた。
「どうしたの?」
「……ごめん、アリス。ちょっと待ってて」
それだけ言葉にして、鈴菜は駆け出した。
理由も告げず一目散に、妖怪らしい身体能力であっという間に小さくなる。
そんな彼女を見やり、小さくため息をついたアリスは「しょうがない」と言葉をこぼして跡を追う。
空を飛べば、彼女がなぜ走り出したのか理由がわかった。
もう少しで出口が見えるだろうという距離に、一人の少年が狼の群れに囲まれていたのだ。
背中の籠を見るあたり、木の実を取りに帰ってきた帰りだったのだろう。
今にも飛び掛らんとする狼の群れに、それが当たり前のように迷わず鈴菜が突っ込んだ。
「こらぁぁぁぁぁぁぁ!! あっち行きなさい!!!」
子供をかばうように抱きかかえて、そう言葉を叩きつけるように紡ぎながらにらみつける。
いくら狼の群れといえど、相手が妖怪ではただの獣に勝ち目などあるはずもない。
ジリジリと後退し、不利を悟ったか一声鳴くと狼の集団は森のほうへと走り去っていった。
その光景を見て、ほっと安堵の息をこぼしたのは鈴菜である。
今まで荒事はさっぱりと経験したことがなかったので、襲い掛かられたらどうしようかと内心では冷や冷やしていたのだ。
その場合、妖怪であるがゆえに頑丈な自分の体を盾に、人里まで少年を連れて行くつもりではあったが。
「ねぇ、大丈夫だった?」
「……あ、……はい」
「あははは、怯えなくていいよ。私、君をとって食べる気なんてないから。えっと、怪我とかない? もう少しで人里だけど、歩ける?」
「はい、大丈夫です。……えっと、その……ありがとうございました」
どこか戸惑いがちではあったが、ぺこりと頭を下げてお礼まで言われ、どこか照れくさくて頬をかく。
そんなことをしていると、人里のほうから「おーい」という声が聞こえ、少年が嬉しそうに顔をほころばせた。
「家族の人?」
「はい。僕のお父さんです。本当に、助けてもらってありがとうございました!」
元気にお辞儀をして、少年は父親のほうに走り去っていった。
そんな彼の後姿を満足そうに眺めている鈴菜の隣に、ふわりと、空中から人形遣いが降り立った。
その表情にはどこか微笑ましそうな勘定が宿っていて、それが余計に気恥ずかしく思えた。
「優しいのね、意外と」
「意外とは余計よ。困ったときはお互い様、困っている人がいたら進んで助けてあげなさい。お母さんからの受け売り」
「なるほど。けど、やっぱり犬の妖怪だからあの犬たちも逃げていったのかしら?」
「だから、狼だってばぁ~」
そんな楽しげな会話を交えながら、二人はアリスの家に向けて進路を取る。
仲良さ気に話すそのさまはまさに友人のようで、見るものを微笑ましくしてくれるに違いない。
すっかりとおなじみになったやり取りをしながら、少女たちは目的の場所に歩いていく。
その後姿を、忌々しそうに見つめるひとつの視線に、気づくこともないままに。
▼
ごくりと、生唾を飲む音がやけに大きい。
既に夜の帳は落ち、よい子は眠るような時間帯。
しかしながらここマーガトロイド邸では、今もなお明かりが消えることなく、最後の作業に没頭する乙女が約二名。
そんな乙女二名を、紅茶啜りながらのんびり眺める黒白の魔法使いが約一名。
「おーい、まだ終わらんのか?」
『魔理沙うるさいッ!』
二人の怒声に肩をすくめ、魔理沙は「へいへい」とずずずーと紅茶を一口。
彼女の視線の先では、二人が人形に不備がないか入念にチェックをしている最中。
何の変哲もない、魔法人形でもないただの人形ではあるが、チェックするアリスの視線は真剣そのものだ。
その様子を、固唾を呑んで見守る鈴菜の様子を見て「すっかり仲良くなってまぁ」と一人ごちる。
そうこうしているうちに、アリスは小さく息を吐き、やがてにっこりと笑みを浮かべて人形を鈴菜に手渡した。
「不良箇所もなく、間接の駆動も正常。おめでとう鈴菜、あなたの初めての人形の完成よ」
「ぃやったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「おー、ようやく完成か。おめっとさん」
嬉しさのあまりにぴょんぴょんと飛び跳ねる鈴菜をみやり、微笑ましそうに苦笑するアリスと、ぱちぱちと拍手する魔理沙。
人形に視線を移せば中々できのいい代物で、藍色の着物を着た女性の人形が柔らかい笑みを浮かべている代物だ。
和製な雰囲気をかもし出すものの、その作りはどこか西洋人形を思わせる代物なのは、アリスに人形作りを教えてもらったからだろう。
「長かった……ここまでくるのに、どれだけ指と木材を犠牲にしたことかッ!!?」
「本当……がんばったわね、鈴菜!」
「……不器用だもんなぁ、お前さん」
「ねぇ魔理沙、私は後何回壊せばいい? 私は後何回、あのパーツとあのパーツを壊せばいいの……。彫刻刀は私に何も言ってくれない。教えてよ魔理沙ッ!?」
「知らんがな」
とまぁ、テンション危なくなってきたんでヒッヒッフーと呼吸を繰り返して落ち着かせる。
そこはかとなく呼吸方法が間違っているような気がしないでもないが、本人は落ち着いたみたいなんで些細なことだろう。
二週間もアリスの家に通っていれば初日のように魔理沙に会うことも自然と多くなり、今ではそれなりに会話を交わすようになっていた。
「にしても、よく完成できたもんだ。私はお前さんが怪我してるところしか記憶にないんだが?」
「えへへ、アリスにも手伝ってもらっちゃったしね。今度、何かお礼しないと」
「おぉ、それはいいな。今から楽しみだ」
「……いや、魔理沙にはあげないから」
そんな二人のやり取りを微笑ましく見つめながら、アリスは窓の外に視線を移した。
今日中に完成させようとがんばっていたせいか、いつもよりも夜が深い。
とっくに日付は変わり、丑三つ時にさしかかろうかという時間帯なのだ。
いつもは一人で帰っていく鈴菜であるが、さすがにこんな時間帯に一人で帰らせるのは気が咎めた。
「ねぇ、今日は送りましょうか? 何なら泊まっていってもいいけど?」
「あはは、心配しなくても大丈夫だよ。襲われる前に逃げるから。いつも言ってるでしょ、私は鼻が利くって」
「ほう、じゃあ今日の朝偶然できたこの魔法薬に何が入っているかわかるかなぁ?」
「くっちゃいッ!!?」
魔理沙が唐突に懐から取り出した魔法薬の蓋を開けた途端、至近距離にいた鈴菜が鼻を押さえてごろごろと悶絶する。
比較的遠くにいたアリスですら鼻を摘んで顔をしかめる有様である。その悪臭の酷さ、お察しください。
「ま、魔理沙。あなた、それ何なの?」
「……いやー、私も何がなんだか。たぶん治療薬だと思うんだが、怖くてまだ飲んでないんだよなぁ……お前飲むか?」
「飲まないわよ!」
もちろんのことながら拒否の返答である。
最初っから拒否されるのがわかっていたのか、魔理沙は特に残念そうな表情を見せることもなく「まぁそうだよなぁ」と納得してビンを戻す。
匂いの元が仕舞われたおかげか、悶絶していた鈴菜もようやく起き上がって魔理沙をにらみつけていた。
……もっとも、鼻を押さえて涙目になってるそのさまは、ちっとも怖くないどころかむしろかわいらしいぐらいであったが。
「うぅ、鼻が駄目になったぁ」
「……ねぇ、本当に大丈夫? 泊まって行かなくて」
「あはは、大丈夫大丈夫! これ以上アリスに迷惑かけるわけにはいかないし、ほら、鼻が利かなくても逃げ足は速いから!」
そんな風に笑いながら帰り支度を始める彼女を見て、不安そうな表情を見せるアリスだったが、そこで魔理沙がぽんっと肩をたたいて笑って見せた。
「なぁに、私が人里まで送っていくさ」
「……頼んでいいの?」
「あぁ。ま、あいつの鼻を駄目にしちまったのは私だしな」
「そのぐらいの責任はとるさ」と少年のような笑みを浮かべて、彼女はそんな言葉を紡いでいた。
確かに、魔理沙なら箒に乗せて送れるだろうし、魔理沙の実力は重々承知している。
彼女がそう提案してくれるというのであれば、渡りに船というものだ。
明日は鈴菜もすぐに永遠亭に入院している母の元に行きたいだろうし、そのほうがいいだろう。
「鈴菜もそれでいい?」
「うーん、……そうだね。お願いしてもいいかな?」
「おう、この魔理沙さんにドーンと任せとけ」
胸を叩く魔理沙がなんとも頼もしく見えて、アリスも鈴菜も自然と笑みを浮かべている。
そうして、準備の終わって外に出た鈴菜と魔理沙が箒に乗り、夜空に飛び立っていくのをアリスは黙って見送っていた。
スピードを出しすぎて鈴菜の悲鳴が聞こえてはくるのだが、魔理沙の腕なら彼女を振り落とすことはないだろう……と、思う。
「……私も寝ようかしら」
何しろ、今日は本当に遅くなった。
いつもなら研究に没頭していたとしても、とっくにベッドで夢の中の時間帯だ。
軽くシャワーを浴びてから寝ようと決めて、バスルームへと足を進める。
時刻は、もうすぐ丑三つ時を過ぎようとしていた。
▼
丑三つ時が終わるか否かという時間帯、人里は町全体が眠りに落ちたかのように静けさに包まれている。
そんな人里の一角の小さな家屋の前で、ふわりと黒白の魔法使いと狼少女が箒にまたがって降りたった。
「よっと、到着だな」
「……し、死ぬかと思った」
「なんだなんだ、落ちたってお前飛べるだろ」
「普通の人間は空は飛ばない」
「お前さん妖怪だろーが」
「ふーんだ、私は心は人間なんだから飛べなくてもいいんですぅー」
「それじゃ、ちゃんと寝ろよー」
「無視ッ!!?」
文句のひとつでも言ってやろうかと思えば、あっという間に箒に乗って飛び去っていく霧雨魔理沙。
ほんの数秒で姿が見えなくなった彼女を見送り、げんなりとため息をひとつ。
けれど、ここまで送ってくれたことには素直に感謝しながら、鈴菜は袋から今日出来たばかりの人形を取り出した。
若いころの母を思い返しながら、母を模して作られた人形。
在りし日の思い出に思考をめぐらせながら、小さく微笑んで、人形をぎゅうっと抱きしめた。
こんなことをしたって、あの日に戻れないことはわかってる。時間の流れは残酷で、そう遠くない未来にお別れの時間はやってくる。
それでも……、今までの感謝をこめて、何かを贈りたかった。
そうして、最初に思い出したのは母が仕事に打ち込む姿。
人形を作るために丹精こめて仕事に向かい合い、人の形に命を吹き込む母の後姿。
その姿に、何度憧れただろうか。何度、あの姿を見つめ続けただろうか。
不器用で才能もなく、手伝おうとしたら大怪我をしてしまい、それっきり手伝わせてもらえなかったけれど。
――もうちょっと器用だったら、跡を継がせるのもよかったんだけどねぇ。
そんな風に困ったように笑って、頭を撫でてくれた日を思い出す。
少し残念そうなあの時の母親の表情が、今も焼きついてはなれない。
あの時ほど、悔しかったことはない。人里ではそれなりに有名な人形師だった母の跡を継ぎたいと思うのに、自分の実力がそれに伴わない。
いつだってどこだって、彼女の憧れは仕事に打ち込む母親だった。
だからこそ、見せてあげたい。自分の作った初めての人形を。
不器用だった自分があの人のために最後に出来る、最後の親孝行。
母親と同じ道を歩む証として、あの人のために生まれてはじめて作った人形を贈りたい。
それは、ただの自己満足に過ぎないのかもしれないけれど。
「喜んでくれると……いいな」
小さく紡がれた少女の言葉に宿ったのは、どんな感情だったのか。
期待か、不安か、恐怖か、あるいはもっと違うものか。
大きく息を吸い、静かに息を吐く。そんな深呼吸を何度も繰り返して、気分をだんだんと落ち着かせた。
明日、この人形を持って母の元へいく。
不安がないわけじゃないし、喜んでくれるかわからないけれど。
それでも――
「それでも」
――あの人への恩返しになるって、信じているから。
グーッと背筋を伸ばし、「よし」と紡いで笑顔を浮かべる。
すべては明日。不安がないといえば嘘になるけれど、それでも希望だって捨てていない。
最後の最後まで、あの人の側にいられるように。
まだ、母が死ぬかもしれないという事実に、覚悟は出来ていないけれど。
それでも、最後のその瞬間まで、側にいたいと、そう思うのだ。
「さぁって、もう寝なきゃね」
明日もまた母に会うのだ。寝ぼけた顔で出向いたら恥ずかしいし、きっと怒られてしまう。
そう思って苦笑しながら家に入ろうとしたら、じゃりっと、誰かの足音が聞こえてきた。
時間は既に丑三つ時。酒場で飲んだくれる男たちもとっくに家に帰っている時間帯だ。
数少ない妖怪向けの店はこの辺から遠く、少なくともこのあたりにこの時間帯で人が出歩くのは非常にまれだ。
「魔理沙?」
だから、鈴菜も最初は魔理沙が何か忘れ物でもしたと思ったのだ。
くるりと、彼女は不思議そうな表情で後ろへ振り返る。
そこで、彼女が見たのは最近仲のよくなった友人などではなく――
――薪を割るために用いられる斧を振り下ろした、人間の姿だった――
グシャリと、頭に焼ける様な感覚とともに異物が入り込む。
視界は一瞬で赤色に染まり、糸の切れたマリオネットのように、彼女は崩れ落ちた。
地面が横になって、彼女の鮮血が大地をぬらして血溜りを作り出していく。
(……あ……れ?)
言葉が、壊れてしまったかのようにのどを通らない。
動こうと思っても指先ひとつ動かせないまま、ただただ己の体温が冷たくなっていくのを感じ取っていた。
頭を襲う激痛も、焼けるような熱さも、どろりとした顔を覆う血の感触も、だんだんと遠くなっていく。
何で? という疑問も、それすらも溶けてあいまいになっていきそうで。
(私……死ぬのかな? ……せっかく、お母さんに贈れると……思ったのに)
どうしてこんなことになったのかわからない。
消えていこうとする体の感覚は、だんだんと彼女の思考をも奪っていく。
死にたくないと、そう思うには、今の状況はあまりにも絶望的で、溢れる涙が止まろうとしてくれない。
ようやく、母に最後の贈り物が出来ると思ったのに。
ようやく、母の仕事を継ごうと、そう思ったのに。
そのどちらも出来ぬまま、自分の体は死に行こうとしている。
それがただつらくて、苦しくて、悲しくて。
徐々に消えていきそうな意識の中、赤くて希薄な視界がゆらゆらゆれる。
「ケッ、まだ生きてやがんのかよ。おまけに俺の息子に近づきやがって、これだから化け物は……」
吐き捨てるように、斧を持った男が口にする。「どうせ、あの狼もお前が呼んだんだろ?」と、忌々しげにつぶやいて。
男は、昼間に彼女が助けた子供の父親だった。運が悪いとするならば、彼が妖怪を追放しようとする一団の、その過激派であったことだろうか。
妖怪が息子に近づくのが許せないし、彼にはあの時の光景が、鈴菜が仕組んだ茶番にしか思えなかったのだ。
彼女は狼の妖怪である。操れてもおかしくないと、半ば盲目的に彼は決め付けた。
父親を妖怪に食い殺された彼にとって、妖怪は敵以外の何者でもなかったのだから。
妖怪が里に住むというだけで我慢がならなかったのに、昼間の一軒が完全に彼をこの凶行へと駆り立てた。
無論、そんなものは事実無根で、あの時の彼女は本心から子供を救いたかった。それだけだったのに。
彼は、彼女が妖怪であるというただ一点だけで、その可能性を考えもしなかった。
「おら、どんな気分だよ。人間にぶっ殺される気分はよぉ? あぁ?」
苛立たしげに腹をけりつければ、力の入らぬ彼女の体はボールのように蹴り飛ばされた。
血液の跡が尾を引いて、蹴り飛ばされた拍子に手に持っていた人形が転げ落ちる。
なおも男はわめき散らしていたが、鈴菜には届かなかった。いや、聞こえなかったといったほうが正しいのか。
妖怪は、その精神に大きく左右される。本来なら頭を割られた程度の傷、妖怪であればあっさりと再生できていただろう。
……けれども、彼女は違う。母と同じように、心は人間でありたいと願う彼女は、その精神性ゆえに本来なら致命傷になり得ない傷が、死に至る大怪我になりかねないのだ。
今もなお、だんだんと体の力を失いかけている彼女のように。
(……あ、……人形。お母さんの……、にん……ぎょう)
そんな状態でもなお、少女は手元からなくなってしまった人形を探し始める。
今にも消えてしまいそうな意識で、潰えてしまいそうな命で、彼女は視線だけを動かして……そうして見つけた。
男の足元に、投げ出されるように倒れている人形。
母のためにと、指を傷だらけにしてまで作った、彼女の初めての人形。
その人形を――男が、嘲笑するような顔で見下ろして――
「何だこの人形? 化け物が人形遊びかぁ? 妖怪なんかがなぁ、人間の真似事なんか――してんじゃねぇよッ!!」
グシャリ――と。
まるで蟻でも踏み潰すかのように。
男の足が――人形を、踏みつけた。
からからと、人形の腕が鈴菜の眼前に転がった。
うつろな視線の先に、踏みつけられた人形と、無残にも砕けて転がってきた腕がある。
(……あ)
今、こいつは何をした?
なんで、こんなことになっているの?
どうして、どうしてどうしてどうして――せっかく作った人形が、目の前で無残な姿にされているというのか。
(あ……あぁぁぁ……)
ぞわりと、胸のうちからどす黒い感情があふれ出してくる。
瞳からあふれ出す涙はその醜い感情を吐き出しているかのようで、けれども後から後からあふれてくる感情は彼女の体を支配し始めた。
(ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!)
許せないと、耳元で誰かがつぶやいた。
許せないと、胸のうちで誰かが吼えた。
許せないなら、ならばどうする?
許せないなら、ならばどうすればいい?
クルクルと感情が回る。黒くて仄暗い憎しみが、体に燃料を回すようにめぐり始めた。
ナニカが近づいてくる。もうソイツの声なんて耳にも入れないし、聞く気もない。
死に体だった少女に、どす黒い感情を燃料に灯がともった。
視界がゆがむ/滲ンダ世界ガ形ヲ持チ。
意識が切り替わる/世界ガ反転スル。
うつろな思考が沈んでいく/狂オシイ憎悪ニ身ヲ焦ガシ。
血濡れの世界がぷつりと途切れて/ものくろノ世界デ産声ヲ上ゲテ。
深い深い眠りの淵へ/げたげたト何カガ醜ク笑ッタ。
ニンゲンガ、斧ヲ振リ上ゲル。とどめヲサソウト、大キク、大キク振リカブリ。
――振り下ろされたその一瞬、狼の咆哮が夜闇を切り裂くように響き渡った――
▼
ドンドンドンドンと、慌しいノックの音でアリスは目を覚ました。
時刻を確認すればまだ朝早く、もう少し眠っていたいとまどろみの中でノックを続ける誰かに恨めしそうな言葉が浮かんでは消える。
一体誰かと悪態をつきながら身を起こせば、ご丁寧に犯人はドアを蹴破る暴挙に出てまでもこちらに顔を見せてきた。
「おい、アリス大変だぜ!!? いつまで寝てやがんだこの寝ボスケ!!?」
「よし殺そう」
言葉にして実行に移すまでわずかコンマ一秒。
無理やりたたき起こされた挙句にこの暴挙にこの暴言、室内の人形一匹が下手人めがけて西洋剣(おもちゃ)を振り下ろしたとしても仕方のない事実だったのである。
無論、下手人もただでそれを受けるはずもなく、「うぉぉぉぉぉいぃ!!?」とか奇妙な悲鳴を上げて何とか回避。
仕留め損なったか、などと内心で舌打ちしつつ、アリスは不機嫌そうな表情をこれでもかと覗かせて尻餅をついた犯人に視線を向けた。
「オマッ!? 危ないだろ!!?」
「安眠妨害、不法侵入、暴言の罪状にしては軽いと思うけど。その剣おもちゃだし」
「ウッセーッ! いいから、話を聞けって!! 大変なんだよ!!」
「……さっきから大変って、何が大変なのよ?」
疲れたようにため息をついて、アリスはベッドから身を起こした。
目覚めが最悪だったおかげで機嫌が悪いのを隠しもせず、「くだらないこと口走ればぶっ飛ばす」とでも言わんばかりの視線が非常に恐ろしい。
そのあからさまな不機嫌オーラにちょっぴり尻込みしつつ、それでも魔理沙は言葉を続けた。
「いいか、落ち着いてよく聞けよ? 人里で殺人があったらしいんだよ。それも、妖怪の仕業だって話だ」
「……人里の中で、妖怪が? 確かに珍しいとは思うけれど……」
本来、人里の中で妖怪が人を襲うことはまずないといっていい。
妖怪が人里で人間を襲うことは禁じられており、それを犯したものはもれなく博麗の巫女などの妖怪退治の専門家に退治されるだろう。
それが、殺人にまでいたったのならばなおさらだ。そうなった場合、スペルカードルールによる妖怪退治など行われまい。
ほとぼりが冷め切るまで逃げ切るか、あるいは滅ぼされるか。
博麗の巫女が幻想郷を支える支柱のような存在である以上、里で人間を殺した選択肢はそれだけだ。
だから、里で人を襲うものなどいないし、いたとしてもそれは知能の低い低級妖怪などがほとんど。
絶対にないとは言わないが、そもそもメリットとデメリットがまったく釣り合わないのである。
それにしても、魔理沙の慌てているのがどうにも腑に落ちない。
確かに人里で事件が起こったのは、勘当されたとはいえ両親が里に住む魔理沙には由々しき事態かもしれない。
しかし、それをアリスに伝える理由がいまいちわからない。
確かに、アリスは人里によく訪れるほうではあるが、里に特定の人間の知り合いを持たないアリスには、あまり関係のない――
(……ちょっと、待って)
そこまで考えて、眠気の残る脳裏にひとつの可能性がよぎる。
確かに、アリスに人間の知り合いは人里には存在していない。ある一定以上の距離を保っているアリスには、特別親しい人間は里にいない。
だが――それが人里に住む妖怪であったなら話は変わってくる。
「ちょっと魔理沙、まさか人間を襲った妖怪って!!?」
問いかけたアリスの表情には、まさかといった感情が見て取れた。
脳裏によぎったひとつの可能性。けれど、彼女を知るアリスには信じがたい話で、だから、心のどこかで魔理沙が否定することを願っている。
あの少女が人間を襲う姿を想像できなくて、機能の子供を助けたときの彼女の表情を今でも思い出せる。
彼女がそんなことをするはずがない。けれど、魔理沙が人里で起こった事件を慌てた様子で教えに来る理由が、他に見当たらなくて。
「……あぁ、たぶん間違いねぇ。私もさっきまで霊夢の家に居たんだけどな、被害者の嫁さんが半狂乱になりながら依頼を持ってきやがったよ。
里に住んでる妖怪って言ってたから、間違いねぇ」
「それ、まさか霊夢は引き受けたの!?」
「だから慌ててこっちに来たんだよ! 霊夢のことだから、いそがねぇとすぐに見つけちまう!」
「――ッ!」
眠気など一瞬で吹き飛んでしまった。
魔理沙がまだ部屋に居るにもかかわらず、アリスは飛び起きるようにベッドから降りると急いで着替え始める。
気分は最悪だ。否定してほしいと願った最悪が現実で、タイムリミットはすぐそこにまで迫ってきているのだ。
勘のいい霊夢のことだ。おそらく、鈴菜を見つけるのにそう時間はかからないはずだ。
口にはしないけど、アリスは霊夢のことも、そして鈴菜のことも、大切な友人だって、そう思っている。
その友達が、友達を殺す。
その現実に覚えた吐き気を飲み干して、アリスはいつもの衣服に袖を通す。
人形も魔道書も、異変に赴くときと同じように携えて、彼女は魔理沙と向き合った。
「魔理沙、手分けをしましょう。私は里のほうに行ってみる!」
「あぁ、なら私は他をあたる!」
そういって慌しく箒にまたがり、窓から飛び出していった魔理沙を見送りながら、アリスも玄関から出るのは時間が惜しいとばかりに飛び出した。
胸に燻るのは焦燥。嫌な予感はぬぐえぬまま、人里に向かって進路をとるように飛翔する。
ごうごうと風を切り裂きながら里に向かう中、苦々しい顔を崩さないまま。
「死ぬんじゃないわよ、鈴菜」
まるで祈るように、不安を吐き出すように言葉を紡いでいた。
▼
ズキリと、焼け付くような頭の痛みで鈴菜は目を覚ます。
目を覚ませば辺りは真っ暗だとわかるのに、何故かあたりの様子が鮮明に見えた。
木目が見えるということは、大木にあいた穴倉の中だろうかと思いはしたが、「はて?」と見覚えのない場所で目を覚ましたことに首をかしげた。
(……ここ、どこ?)
ぼんやりとした思考のまま疑問が脳裏をよぎる。
どうして暗いのにはっきり目が見えるのかとか、見知らぬ場所に居るのかとか、なぜこんなところで蹲るように眠っていたのかとか、様々な疑問が脳裏に浮かんで、ズキリと痛む頭痛にかすんで消える。
ズキリズキリと痛む頭を抑えながら、彼女は這い出すように光のこぼれる出口へと向かっていった。
(喉……渇いたな)
カラカラと乾いた喉を潤わそうと、今まで居た場所から外に出る。
外はすっかり太陽が昇り、先ほどまではどこか遠かった蝉の合唱団が随分と騒がしい。
容赦なく照りつける太陽の光に身を焦がせながらあたりを見渡せば、すぐ近くに大きな湖が司会に映った。
のろのろと、未だにぼんやりとした頭で焼けるような頭痛をこらえながら、湖の水で喉を潤そうと膝をついたその瞬間。
――全身血まみれの、自分の姿が湖に映し出されていた――
「……何、これ」
ぬるりと、自分の顔に纏わりつく血を指で撫でながら、目の前の光景が信じられずに呆然とする。
頭も、頬も、口元も、着物も、何もかもが赤色に染まっていえて、吐き気がこみ上げてきた。
今更のように戻ってきた嗅覚が鉄さびのような匂いを敏感に感じ取って、目の前をノイズが走ったように視界が歪んだ。
記憶が、よみがえってくる。
脳天を割られ、死の寸前だった自分。
何かをわめき散らしている、見知らぬ誰か。
蹴りつけられ、腕から零れ落ちてしまった大切な人形。
そして、視界に映ったのは、踏みつけられ、無残に壊された人形。
それを見て、見せ付けられて、男がトドメをさそうと斧を振り上げる中、彼女は――
――男の喉笛を、容赦なく喰いちぎった。
よろよろとよろける男の体を鋭くなった爪で貫いて、そのまま腹を引き裂いて。
喉笛を食い破られ、悲鳴をあげることもできない男を地面に倒して、そのままはらわたを食い漁る。
乾いた喉を潤すように、今まで我慢していたものを食べる子供みたいに。
人間を、食い殺した。
「……う、そ」
呆然とした呟きは、果たしていかな感情が宿っていたか。
けれど、湖に映る己の姿には頭から血を流したにしては不自然な血のつき方をして、その頭の大怪我だってもうすでにきれいにふさがってしまっている。
夢だと、そう思えたらどれだけ楽だろうか。けれど、目の前に映る己の姿は血まみれで、傷はふさがっていても頭には焼けるような痛みが残っていた。
今も、口の中にあのときの味が残っている。
はらわたを食い漁り、命の味をかみ締めながら、ゲタゲタと歪に笑って。
――あぁ、美味しいと、そう思ってしまったのだ。
「――ッ!!?」
込み上げてきた胃液を我慢できず、湖に吐き戻して何度も咳き込んだ。
吐いて、吐いて、吐き出すものがなくなったにもかかわらずえずき続けた彼女は、とうとう血まで嘔吐しだした。
ぼろぼろと涙をこぼして、まるで呪文のように何度も何度もつぶやき続ける。
違う、と。そんなこと思ってないって、何度も何度も心が否定した。
そうしないと、心が壊れてしまいそうだったから。
体は妖怪でも、心だけは母と同じ人間であれと、そう心に決めて生きていた彼女に、それを許容できるはずもない。
「……違う、違う、違う違う違う違う違うッ!! 私、そんなこと思ってない!! 人を食べたいなんて一度も思ったことなんてないのに、美味しいなんて、思いたくないのにッ!!?」
だというのに、脳裏で誰かが囁くのだ。
美味しかっただろう? もう一度食べたいだろう?
そう、まるでそれが当たり前のように、誘うように、誰かが頭の中で囁き続けていた。
涙が止まらず、嗚咽を溢しながら身を折って泣きはらすその後姿は、随分と弱々しくて小さく見える。
どうして、こんなことになってしまったのか。
こんなに胸が苦しくて張り裂けそうで、脳裏で囁く誰かを書き出そうとがりがりと頭を掻き毟る。
鋭利になった爪がぞぶりぞぶりと肉をえぐるが、人間を食ってしまって妖怪に近づいたのか、怪我をするそばからすぐに治ってしまう。
半狂乱になりながら、頭の声を追い出そうと頭を振り乱して、その声をかき消そうとした金切り声の悲鳴が当たりに響き渡った。
ただ、母に贈り物をしたかっただけなのに。
ただ、母に喜んでもらいたかった、それだけはずなのに。
――どうして私は、こんな世界に迷い込んでしまったのだろうか――
夢なら覚めてほしいと、何度も願った。
けれども鼻につく鉄錆に似た匂いが、これが現実だと訴えかけてくる。
まるで、目を背けるなというかのように。己の犯した罪をつきつけるように。
涙が止まったころには、彼女の表情には生気のかけらも宿っては居なくて、まるでそのさまは死人のようだった。
「……そうだ、……人形」
それでも、彼女はゆらりと立ち上がった。
まるで死人のような、幽鬼のような足取りは、血塗れの姿もあって怖気を感じさせる姿だろう。
けれど、その体を突き動かすのは以前と変わらぬ母への想い。
人形を拾って、それをもって永遠亭に向かって、窓の外から姿を見せぬように渡そう。
その後のことは、今は考えられない。
頭がごちゃごちゃと混乱していて、ともすれば今にも脳みそが破裂してしまいそうで。
ずるずると、引きずるような足取りで見知らぬ場所をひたすら歩く。
体にこびりつく血の匂いのせいで、人里の場所も、人形がどこにあるのかもわからないけれど。
少女の体は、ただ前へと進む。
ズルズル、ズルズルと、今にも壊れてしまいそうな心を抱えて。
「あぁ、居た居た。あんたよね、人里で悪さしたって言う妖怪は」
その言葉に、彼女は薄ら寒いものを感じて面を上げた。
顔を上げれば、そこにはいつぞやの……母の無事を祈りに毎日通っていた神社の巫女の姿。
賽銭を放って祈りをささげれば、何故かすごく上機嫌に笑っていたものだから、よく覚えている。
けれど……そこに立っている巫女の表情に、感情は宿っていない。
無機質な、違う何かを見据えているかのような、能面のような無表情。
その無表情が、ただ恐ろしい。目の前の少女が、本当にあの時に笑っていた少女なのかと疑問に思ってしまうほどに。
妖怪退治を生業とする巫女としての博麗霊夢が、そこに、立っている。
「……本当、残念よね。アリスもあんたの事は気に入ってたみたいだし、私も珍しくお賽銭入れてくれる子だったから、気に入ってたんだけど」
まるで世間話でもするように、お払い棒を肩に担いだ霊夢はそんなことを口にした。
一歩一歩、まるで散歩でもするかのように進める足取りは、自然体で恐れもない。
その言葉が口にされるたびに、その足が一歩を踏み出すたびに、心臓が鷲掴みにされているかのようで。
そんな鈴菜の様子も知らず「でもね」と、巫女はけだるげな表情で彼女を見た。
「あんたは、妖怪としての決まりを破った。里で人を襲って、挙句に食い殺して、そんなやつを……博麗の巫女として、このまま放置はできない」
そういって、彼女は懐から数枚のお札を取り出した。
妖怪退治の専門家。この幻想郷の存在を担う、博麗の巫女。
その彼女が今、明確に宣戦布告をたたきつけた。「あんたを殺す」と、そう宣言するかのように。
「……違う。私は、確かに……妖怪かも、しれない。けれど心は、心だけは――人間よ」
「いいえ、違うわ」
か細い否定の言葉は、霊夢の言葉に一刀両断に切り伏せられた。
表情を変えぬまま、つまらないものでも見るかのように、霊夢は淡々と言葉を続ける。
「あんたは妖怪よ。どんなに言葉で取り繕うと、どんなに願ったって、あんたが人を食い殺した時点でその身も精神もすでに妖怪そのものよ。
あんたはもうとっくに――人間として心を保てる場所を踏み外してるんだから」
ガラガラと、足元が崩れ落ちるかのような錯覚。
ぐにゃりと視界が歪んで、数歩後退してたたらを踏んだ。
彼女の心の支えを、彼女がすがり付こうとしているその心を、博麗霊夢は容赦なく否定した。
理屈ではない、それは妖怪としての本能だ。だから、一度人間を喰らった時点で、そいつは遠くない未来、人間としての心を破綻させる。
それを、霊夢は知っている。様々な妖怪たちと交流を持っている彼女だからこそ、その事実を嫌がおうもなく理解していた。
彼女がどうして、人を食い殺したのかは知らない。聞く気もなければ、興味もない。
これ以上の問答は無意味だと、そう言外に示すかのようにお払い棒を真横に振るう。
「あんたは、ここで退治するわ、妖怪」
その現実をつきつけるように、巫女は言葉の矢を紡ぐ。
静かに目の前の倒すべき妖怪を見据え、一歩一歩、静かに歩みを進めていった。
そして、ぴたりと――空気が変わったことに気がついて、不意に足を止めてしまう。
妖怪の顔は、俯いてここからは見えない。
肩を震わせ、長い黒髪が妖怪の顔を完全に覆い隠してしまっていた。
そうして、聞こえてきたのは――ゲタゲタと、まるで怖気の走るような歪な笑い声だった。
今までの雰囲気とまるで違う、異質な空気。
ゲタゲタと歪な笑いが森の中で木霊して、辺りの鳥たちが一斉に逃げるように飛び立った。
もう、なにもかも……どうでもよくなってしまったかのように、壊れたように笑っている。
「アハ、アハハハハハハハハハ!! 私が、妖怪? 私の心が、もうすでに妖怪のもの?
そんなことあるものか! 私は、まだ人間だ!! 体は妖怪かもしれないけれど、心はいつだって人間のままだ!! そうだ、私の心はまだ人間でいられるわ!!」
まるで気がふれたように哄笑を響かせながら、鈴菜は狂ったようにわめき散らした。
まだ自分は人間だと、まだ心は妖怪になりきっていないと、何度も何度も壊れたラジオのように繰り返している。
頭を掻き毟り、そのたびに爪が肉をそぎ、あたりに鮮血を撒き散らし、そしてすぐさま傷が再生した。
その怪我の再生が、彼女の精神が妖怪に近づいている証拠だと気づきもしないまま、何度も何度も自傷行為を繰り返す。
その瞳が、ギョロリと霊夢に向けられた。
真っ赤だった瞳には、獣のように縦に裂けたような瞳孔が、ギラギラと感情をくすぶらせているようで。
「そこをどいて」
「嫌よ」
「どいて!」
「嫌よ、妖怪」
つまらなそうな視線を返して、霊夢はきっぱりと口にした。
その目は逃がさないという意思が張り付いて、今も鈴菜を見据えている。
そんな視線を真っ向から受けて――ヒヒッと、少女は歪にワラッテ――
「邪魔よ! そこをどけッ――ニンゲンッ!!」
巫女にめがけて、その爪を容赦なく振り下ろした。
▼
くしゃりと、歩みを進めた先には古く趣のある家屋が竹林の中にたたずんでいる。
人里で見つけた壊れてしまった人形を胸に抱いて、アリスはその門を遠慮なく潜り抜けた。
あたりにはウサギたちが忙しそうに動き回り、薬品の匂いが鼻につく。
けれど、目的の人物は未だ見つけられず、アリスは焦りを滲ませながらため息をつく。
(どこにいるのよ、鈴菜)
人里の彼女の家の前に行けば、凄惨な事件を物語る夥しい量の血溜りと、無残にも壊された一体の人形。
何があったのか、どうしてこうなったのか、はっきりと事件の真相がわからぬまま、結局アリスは彼女が真っ先に訪れるだろう場所へと向かったのだ。
それがここ、彼女の母が入院している永遠亭。
辺りをきょろきょろと見回すアリスだったが、やはり目的の人物は見当たらない。
もしかしたら室内だろうかと足を向けようとして――ぴたりと、八意永琳が車椅子に乗る誰かを押しながらアリスのほうへと向かってきた。
「あら、どうしたの? あなたがここに来るのは珍しいわね」
「ごめんなさい、時間がないから率直に答えて! 鈴菜はこっちに来てない!?」
「あの子? そういえば今日はまだ来ていないわね」
ここにも、来ていない。
もしかしたら、もうすでに霊夢に退治されてしまっているかもしれないと、そんな最悪の予感すら脳裏をよぎって、あきらめるわけには行かないと首を振る。
とにかく、時間がない。今も魔理沙が探してくれているけど、それでもいつ見つかるのか見当もつかない。
どちらにしろ、ここでじっとしているわけには行かなかった。
教えてくれたことに礼をいい、アリスは空を飛ぼうとして――
「……お嬢さん、あの子のお友達かぇ?」
そのしわがれた言葉に、引きとめられてしまった。
声の主は永琳が押す車椅子に座る女性のもの。すでに顔は年を重ねたように無数の皺が刻まれて、目を細めたその姿はこちらが見えているかどうかも怪しいものだ。
けれど、その温和そうな表情はやさしそうで、アリスの知る……己の母を幻視した。
そう……そっくりなのだ。
その雰囲気が、その優しい笑顔が、己の母とそっくりで、思わず、息を呑んだ。
「……はい。最近、友達になったばかりですが」
「そーかぇ、そーかぇ。あん子も、ちゃんと友達がおったんじゃねぇ」
安心したわぁと、その老婆はカラカラと笑う。
本当に嬉しそうに、娘を祝福するかのように、老婆はにっこりと微笑んでじーっとアリスを見つめている。
「私も老い先短いけぇ、それを知ることができて……私ぁ幸せだよ」
「おばあちゃん、そんなことを言ったら、鈴菜さんが悲しみますよ? まだ元気じゃないですか」
「カッカッカ、気を使わんでもえぇ、永琳先生。自分の体のことは、自分がよぉーく知っとるけぇ」
カラカラと、老婆は楽しげに笑う。
体も満足に動かせないのに、己の寿命がもう残り少ないことを悟っているのに。
こんなにも、満足そうな笑みを浮かべている。
彼女が、あの子の母親。鈴菜が想い、慕い、そして愛した最愛の母。
短い会話の中で、なんとなく、アリスにも彼女がこの老婆を慕う理由が、わかった気がした。
背中でこっそりと、壊れてしまった人形をかばんに隠す。
きっとこれは、あの子自身が、自分の手で送りたいだろうから。
「ねぇ、お嬢さん。老い先短い老いぼれのお願いを、聞いちゃくれんかねぇ」
「……なんでしょう?」
アリスの問いかけに、老婆はカラカラと朗らかに笑う。
その様子がなんとなく鈴菜を連想させて、やっぱり親子なんだなと苦笑した。
老婆は口を開く。かすれた声で、けれどもしっかりとその言葉を伝えるかのように。
「あの子を、私のところに連れてきてくれんかねぇ。あの子に、渡したいものがあるんよ」
そんな願いを、アリス・マーガトロイドに託したのだった。
▼
身を焦がすような強烈な痛みで、彼女は目を覚ました。
辺りにはなぎ倒された竹林が無残に転がり、遠くで巫女の気配がだんだんと近づいてくる。
どれほど気を失っていただろうか。まだ止めを刺されていないところを見るに、ほんの一秒の時間もなかっただろう。
足は夢想封印で消し飛び、心臓を退魔針で貫かれてもなお、鈴菜はしぶとくも生き続けていた。
ずりずりと、満足に動かない体に鞭を打って、這いずるようにひたすら前へと進み続ける。
(死ねない)
ズルズルズルズルと、咳き込み、血を吐きながらも進むその姿は、見るものによっては酷く滑稽に映るかもしれない。
巫女によって消し飛ばされた足から流れる血は未だ止まらず、その逃げる先を示すことになろうとも、空を飛べぬ彼女はこうやって無様に這い蹲るしかなかった。
相手は、妖怪退治の専門家。荒事の経験がまったくといってなかった自分に、倒せるわけがないのは最初からわかっていた。
わかっていたから、奇襲を仕掛けてから何とか逃げ延びるつもりだった。
けれど、結果はごらんの有様だ。
足を失い、胸を貫通した退魔針は心臓を貫き、いつ死んでもおかしくないその状況で、彼女は前へ前へと進む。
まだ死ねないと、遣り残したことがあると、ただそれだけの想いが、今の彼女を前へと突き動かしていた。
そんな姿になってもまだ逃げる少女の姿を、霊夢は呆れたように見つめている。
「本当、しぶといわよね。心臓にそれが刺さってたら、ただじゃすまないはずなんだけど」
何しろ、その胸に突き刺さる針は魔を滅する力のこめられた妖怪退治専用の道具である。
そんなものが心臓に突き刺さればどうなるか、考えるまでもない結果が出るはずなのに。
目の前の少女は、まだ動いている。うつろな視線で、血反吐を吐きながら、それでもひたすらただ前に、見ているのが痛ましいほどに。
「でも、これで終わり」
懐から取り出されたのは破魔の札、およそ十数枚。
これで、本当に終わり。いくら彼女がしぶとかろうと、この巫女の攻撃がトドメになるだろう。
せめて、これ以上苦しまぬようにと、霊夢が札を投げつけた、その瞬間――
――見覚えのある一体の人形が、大きな盾を構えてそのすべてを防ぎきって見せた。
その光景に驚いたのは霊夢だけでなく、逃げていた鈴菜もだ。
金紗の長い髪に赤いリボン、青いエプロンドレスに身を包んだその人形は、彼女の友達がいつもそばに控えさせていた人形だった。
上海人形は鈴菜を守るように、大きな盾を構えて霊夢をにらみつけている。
その光景に驚いていると、竹林の奥から見知った顔が現れて、霊夢は思わず顔をしかめた。
「悪いわね、霊夢。今はまだその子を殺させるわけには行かないの」
鈴の音のような声を響かせて、人形遣い――アリス・マーガトロイドは博麗の巫女と対峙する。
その周囲には、夥しい数の盾を背負った人形たち。人形たちは円陣を組むように鈴菜の周りを囲み、その盾を構えて身構えた。
小さく、本当に小さく、霊夢はため息をついて言葉を紡ぎだした。
「あんたねぇ、一応仕事中なんだけど、私」
「つれないわね。私とあなたの仲でしょ? ちょっとだけ時間を頂戴と言ってるの」
「答え、とっくにわかってるんでしょ?」
「まぁ、あなたの立場で言うなら当然NOよね」
伊達に長い間友人同士だったわけではないのだ。このぐらいのことならお互いなんとなく理解できた。
だから、霊夢は引かないだろうと予想できていた。交渉の余地がもてないことぐらい、重々承知。
けれど、今だけはここで「はいそうですか」と引き下がるわけには行かなかった。
「おいおいなんだなんだ。まだ手遅れになってないだろうな!?」
と、なんともまぁ絶妙なタイミングで、魔理沙がこの場所に降り立つ。
霊夢を見て、アリスを見て、そして、倒れて今にも息絶えそうな鈴菜を見た。
息も絶え絶えで、血塗れの彼女の体には退魔針が貫通し、足首から先はすでに跡形もなく消し飛んでしまっている。
思わず顔をしかめて、時間がないことを悟った魔理沙は、アリスに視線を送って指で永遠亭があるであろう方角を指差した。
「ここは私が引き受けた。アリス、そいつ抱えて永遠亭に急げ」
「ふーん、今回はあんたそっちにつくのね」
「悪いな霊夢、今日はちょいと邪魔をさせてもらう」
「ま、いいけど。あんたをスペルカードでへこまして、それからあらためて妖怪退治を再開するから」
霊夢のそんな宣言を聞き、魔理沙はニヤニヤと笑って箒を肩に担ぐ。
ちらりと横目で視線をアリスたちに向ければ、退魔針を引き抜いてから、鈴菜はアリスに背負われて永遠亭に向かっていった。
針はアリスのやったとおり、抜いたほうがよかっただろう。
もともと、あれは妖怪退治の道具なのだから、刺さったままよりいっそ抜いてしまったほうがいいはずだ。あとは、永琳が治療してくれるはずだと、そう思うから。
さぁて、と、魔理沙は内心で冷や汗をかきながらも、懐にしまったスペルカードの数を確かめる。
永遠亭に向かった二人の無事を祈りつつ、どうやって本気の霊夢相手に時間を稼ぐか思考をめぐらせる魔理沙だった。
▼
華奢な背中が、一人の少女を背負って歩く。
驚くほど軽くなってしまった少女を落とさぬように、アリスは気をつけながら歩みを進める。
「……ごめんね」
か細い言葉に、すでに力は宿っていない。
吹けば消えてしまいそうな弱々しさで、少女の目は今にもつぶってしまいそうで。
今、その目を閉じてしまったら二度と目を覚まさないような気がして、少し、恐ろしかった。
「気にしないの。あんた、意外と軽いから」
「それじゃ、……なくてね」
言葉を紡ぐことすら苦しそうな様子で、たどたどしく言葉が紡がれる。
今にも消えてしまいそうな少女は、きゅうっと、背負ってくれるアリスの背中に顔をうずめた。
「私……殺しちゃった」
「……うん、知ってる」
「……せめて、心だけはと……思ってたのに」
懺悔の言葉は重々しくて、今にも少女を押しつぶしてしまいそう。
聞こえてくる嗚咽は苦しげで、良心の呵責が彼女の心を苛んだ。
今はまだ、いつもの調子で要られている。
けれど、またさっきみたいに取り乱して、あの声にしたがってしまいそうで恐ろしかった。
心だけは、母と同じ人間でありたいと、そう思っていたのに。
けれども今の自分は、少し気を抜けば人間を餌と見ようとする。
そんな状態で、母に会うのが――本当に、恐ろしかった。
もしも本当に、母を、餌と認識してしまったら、心が砕けてしまいそうで。
「大丈夫よ」
そんな彼女の心を支えるように、アリスは語りかける。
優しく、諭すように、かつて己の母がそうしてくれたように。
一体の人形を操作して、鞄から「それ」を取り出した。
それを見て、背中の少女が息を呑む気配がして、アリスはくすくすと苦笑する。
「それはあなたが、お母さんに渡してあげなさい」
優しく言葉を投げかければ、とうとう、大声を上げて鈴菜は泣き出してしまった。
子供のように泣きはらして、涙をぼろぼろとあふれさせながら、「それ」をしっかりと抱きしめて。
何度も何度も「うん」、「うん」と泣きはらして頷く彼女の手には――元通りになった人形が抱きしめられている。
アリスが応急処置を施した、元通りに腕がつながった、彼女の処女作の人形が。
永遠亭の門をくぐる。
背負われている血濡れの少女にあたりが騒然となり、兎達が慌しく駆け回った。
その中を平然と進みながら、永遠亭の庭でぼんやりと空を眺める車椅子の老婆を見つけ、アリスは無言のままそこまで歩み寄る。
背中に感じる重さが、またいっそう軽くなった。
老婆の傍に控える永琳が背負われる鈴菜を見て、一瞬驚愕の表情を浮かべたが……それもすぐに、痛ましそうな表情に変わって、あぁ、とアリスは悟った。
もう、この子は手遅れなんだって、どうしようもないほどに、理解してしまった。
「おばあさん、つれてきましたよ」
「おーおー、ありがとうねぇ。鈴菜、お前さんにも、いい友達ができたんだねぇ」
どこか遠くを見る視線は誰も映すことなく、感慨深く言葉を口にする。
もはや、目も見えてはいないのだろう。視線をこちらに移しているというのに、彼女は娘の惨状になんの反応もしない。
そのことを理解していた鈴菜は、無理に笑った。
残った力を、残った命を、搾り出すかのように、優しく、儚げな笑みを。
「うん、私の自慢の……お友達だよ」
「そーかい、そーかい。うん、いいお友達を持ったねぇ」
「へへ、うん。えへへへへ」
母が笑ってくれたのが嬉しくて、友達を褒めてくれたことが嬉しくて。
今もなお、彼女のことを母と認識している自分の心に少しだけ感謝をしながら、「そーだ」と鈴菜は口にして……人形を、母に手渡した。
体は傷だらけで動かすことすらつらいだろうに、身を乗り出すようにして、母の手元に。
「私ね、お母さんのためにお人形作ったんだよ」
「ほぇー、不器用さんな鈴菜がねぇ。怪我とかしなかったのかい?」
「うん、してない。ぜんぜん、へーきだった」
本当は、ぜんぜん平気じゃなかったし、何度も何度も失敗した。
指は傷だらけで包帯のない場所なんてなくなる有様で、傍にいたアリスが呆れてしまったぐらいだ。
「嘘おんしゃい。指、怪我だらけなんじゃろ?」
「えへへ……ばれちゃったか」
「当たり前じゃ。私は、お前さんのお母さんじゃけんねぇ」
からからと笑いながら、母は見えぬ目の変わりに指で人形を確かめる。
うん、うん、と細部を確かめるたびに、母は嬉しそうに目を細め、そして笑うのだ。
子の成長を喜ぶように、かみ締めるように、柔らかな笑みを。
「うん、初めてにしてはいい出来じゃ。嬉しいねぇ」
「へへ……私、お母さんの跡、継げるかな?」
「もちろん。私の娘じゃもん、お前さんは」
本当は、それがかなわぬことだと理解していた。
もう体の感覚はとっくに虚ろで、生きているのか死んでいるのかすらわからない。
もう、自分は助からないって理解していた。
けれど――嬉しかった。
母に認められたようで。
母に、褒められたようで。
嬉しくて、嬉しくて、今にも涙が零れ落ちてしまいそうで。
ようやく、自分の知る世界に戻ってきたような、そんな気がしたのだ。
「ほんじゃ、私からも鈴菜に贈り物じゃ」
そう言葉にして、車椅子の脇から母が取り出したのは一体の人形だった。
黒い長髪に犬の耳、フード付の着物とお尻にはふさふさの尻尾がゆらゆら揺れている。
「あ……」と、言葉がこぼれる。
その人形は、紛れもなく鈴菜を模した人形で――もう人形の作れなくなったはずの母が作り出した、最後の作品だった。
それを受け取れば、以前の技術はどこにも見る影がない。
ところどころ不備があり、パーツも不揃い、けれどもそれを差し出す手には、無数の包帯と絆創膏で覆われていて。
娘のためにと、彼女が奮闘して作り上げた最後の一作。
「今まで、ありがとう。鈴菜」
そう言葉を紡いで、母は手渡した。
フルフルと震える傷だらけの手で、最愛の娘に託される最後の作品。
胸に、熱いものがこみ上げてくる。
ぼろぼろとあふれる涙が止まらなくて、嬉しくて、苦しい。
人を殺した罪悪感が、母にそのことを隠している自分が、鈴菜の心を苦しめる。
「……お母さん、ごめんなさい。……ごめんなさい」
「なんじゃね? 謝らんでも、これは私が勝手にやったこと――」
「違う、そうじゃない。……そうじゃないの。私、……お母さんに娘だって、言ってもらえる資格なんて、ないんだよ」
嗚咽を溢しながら、罪を懺悔するように、彼女は言葉を紡いでいく。
私は、人を殺しました。
そう娘から告げられた母の気持ちは、いかなものだっただろうか。
ぼろぼろと涙を溢して、鼻水や涙で顔はぐちゃぐちゃで、嗚咽は耳に痛ましく届く。
「私は、妖怪で、お母さんとは……種族が違う。でもね、心だけは、お母さんと同じ人間でありたいって、ずっと思ってたのに!
結局私は、その心すら人間になれなかった! ……なれなかったんだよぉ」
ごめんなさい。ごめんなさい。
何度も何度も、嗚咽交じりの謝罪が繰り返されて、今にもその言葉は消えてしまいそうで。
そんな娘を見かねたかのように、母の手が優しく……娘の頭を撫でていた。
見えないはずなのに、もう目は駄目になっているはずなのに。
それでも、母はそれが当たり前のように、娘の頭を愛しむように撫で続けていた。
「悪い子じゃねぇ」
「……うん」
「なら、悪いことしたら、ちゃあんと謝らんといかん。謝って、謝って、しっかりと頭をさげにゃあねぇ」
「……うん」
「なら、私からもひとつ、お仕置きじゃ」
優しく撫でながら、叱り付けるように母は口にする。
穏やかな笑みを浮かべたまま、優しい声色で、しわがれた声が娘に語りかけた。
「私の最後の人形、ちゃんと大事にすること。えぇね?」
そういって、こつんっと、子供を叱り付けるように、傷だらけの皺だらけの手が少女の頭をたたいた。
一瞬、ぽかんとした鈴菜の顔が見えたかのように、「約束じゃ」と、優しい笑顔を浮かべて。
「……うん!……うん! ……大事にする、みんなにもちゃんと謝る……約束する!」
「うん、そう思えるんなら、そう約束できるんなら、あんたはやっぱり……私の娘じゃ」
何度も何度も涙を流して頷く鈴菜の言葉を聞き、カラカラと嬉しそうに母は笑った。
柔らかな笑みを浮かべたまま、母は車椅子に背中を深く預ける。
静かに目をつぶり、安らかな笑顔を浮かべたそのままに。
――あぁ、安心したと、そう最後に言葉を残して、彼女は息を引き取った。
「お、かあ……さん?」
呆然とした呟きが、口から零れ落ちる。
あまりにも穏やかな笑みを浮かべたまま目をつぶった彼女は、ともすれば眠ってしまったんじゃないかと思えて。
けれども、脈拍を確かめる永琳の姿を見て――母が逝ったのだと、嫌がおうにも理解させられた。
娘の作った作品を胸に抱いて、安らかな笑顔のまま、彼女は天寿を全うした。
「ねぇ、……もう一度、娘って……言ってよぉ」
ぽろぽろと、涙があふれて止まらない。
わかっていたはずなのに、理解していたはずなのに。
母の死が、そう遠くない未来に訪れることは、わかっていたのに。
「いや、だよ。こんなの嫌だよ! もう一回、声を聞かせてよ! 私のこと、娘だって、言ってよぉ!! ちゃんと人形大事にするから、みんなに「ごめんなさい」ってするから、だから!!
お願いだから、死なないでよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
うわぁぁぁんと、子供のような泣き声が木霊する。
恥も外聞も何もかもなげうって、悲しみが溢れて止まってくれない。
「お母さん」と、何度も何度も聞こえる泣き声が、彼女を背負うアリスにお胸を締め付けるようで、苦しかった。
泣き声は止まらず、追ってきた霊夢は事情が飲み込めず、どうしていいのかわからずに立ち尽くしていた。
お母さん、お母さんと、悲痛な泣き声が何度も何度も繰り返され。
そうして――不自然に、泣き声が途切れて静寂が辺りを埋め尽くした。
とさりと、少女が抱きしめていた人形が地に落ちる。
それを合図にしたかのように、アリスは腕をだらんと垂らして力なくその場に立ち尽くしている。
先ほどまで背にあったわずかな重みも、今は微塵も感じない。
空気に溶けるように、風に乗っていくかのように……跡形もなく、消え去ってしまった。
心に、ぽっかりと穴が開いたような虚無感。たった二週間と少し、それだけの時間いただけの付き合いの短い友人は。
けれどもアリスにとってはやはり、かけがえのない大事な友達だった。
つぅーっと、頬を暖かい何かが伝って、それを救いもせずにアリスは空を見上げる。
この涙を誤魔化すには生憎の青空が広がっていて。
せめて、二人が生まれ変わっても親子でありますようにと、そう、願わずに入られなかった。
▼
「そんじゃ、私はそろそろいくぜ」
「えぇ、色々教えてくれてありがとう」
アリスの玄関のドアを開け、箒にまたがった魔理沙は空に飛び立っていく。
それを見送りながら、アリスは先ほど魔理沙から聞いた話を複雑な心境で思い返していた。
魔理沙の話によれば、あの老婆は里でちゃんと埋葬されるようだった。
一応、妖怪退治は霊夢の手柄になりはしたのだが、霊夢自身、なにか思うところがあったのかお金も何も一切受け取らなかったとか。
被害者の葬式のときにも一悶着あったらしいが、あの被害者の妻が「どうして化け物を育てた女を里に埋葬しなきゃいけないんだ」とわめき散らしたらしい。
それを止めたのは、なんとその妻の息子だった。どうやらあの時鈴菜が助けた子供らしく、一部始終を見ていたらしいのだ。
といっても、後ろから不意打ちをしたあたりで母を呼びに行ってしまったため、鈴菜が人を食い殺したところを見ていなかったのはよかったのかどうか……。
少なくとも子供が見るべき現場じゃないkとだけは確かであるが。
他にも見張り台等から複数の目撃証言が見つかり、どちらが悪かったのか結局うやむやになってしまったとか。
結局、先に手を出した被害者が悪かったのか、殺してしまった鈴菜が悪いのか。
小さくため息をついて、一度その考えを追い出すと、ふと、視線の先に二体の人形が目に映った。
娘が母のために作り上げた最初で最後の作品と。
母が娘のためにと残した、最後の作品。
その隣り合うように並んだその人形は、後日、あの老婆の墓に一緒に埋葬されることになっていた。
せめて、お互いを模した人形だけでも、傍にいさせてやりたいと、そう思うから。
その人形が、じーっとこちらを見つめているような気がしてならない。
人形には何かしらの魂が宿りやすいというが、まぁ気のせいよねと結論付ける。
結論付けたのだけれど、その二体の人形を見ていると……無性に、母が恋しくなってきた。
布をかけてあった手鏡をとり、布を取り払って鏡面を指で突く。
すると、ここ最近見ていなかった、血のつながらぬ母の姿が浮かんできた。
「神綺様、今大丈夫ですか?」
『あれ、アリスちゃん? アリスちゃんから連絡くれるの珍しいね』
にっこりと笑う鏡の向こうの母は、間違いなく本物だ。
遠く離れた相手と会話するためのマジックアイテム。難点は自分と母だけしか持たないことだが、それはそれでいいのかもしれない。
笑みを浮かべて見せたつもりなのだが、何故か母の表情は優れない。
先ほどまでは嬉しそうに笑っていたはずなのに、「はて?」とアリスは首をかしげたのだけれど。
『……ねぇ、アリスちゃん、もしかして何かあったの? なんか、元気ないよ?』
「……わかるんですか?」
『当たり前だよ。だって、私はアリスちゃんのお母さんなんだから』
優しい笑みを浮かべて、神綺は言葉を紡ぐ。
その姿は、先日娘に言葉を送った老婆の表情にダブって見えて。
あぁ、と……アリスは思う。母親って、本当にすごいんだなぁって。
ふと、視線をあの人形に移せば、「がんばれー、アリスー!」って、いつもの能天気な笑顔と声が聞こえた気がした。
なんでもない、取るに足らない幻聴だったのかもしれない。
けれど、アリスにはそれが――今は亡き友からの、人形を介して届けられた応援のメッセージに思えたのだ。
ありがとう、と。内心でお礼を述べながら、アリスは不思議そうな表情見せる神綺に向かい合った。
「明日、一度そちらに帰ろうかと思います。その時、……話したいことがあるんです」
『それは、今のアリスちゃんが元気のないことに関係してる?』
「はい」
でも、と……アリスは言葉を続ける。
静かに、穏やかに、けれども憂いを秘めた、そんな笑顔で。
「お母さんに、聞いてほしいの。たった二週間と少しの間だけだったけれど、私の――友達の話を」
母と言葉にされた神綺は、目をぱちくりと瞬かせて丸くする。
普段そんな風にアリスに言われなれてないものだから、見る見るうちに顔を赤くして神綺は大慌て。
そんな様子がおかしくて、アリスはついつい苦笑した。
そんな親子の様子を、二体の人形が見つめている。
お互いに寄り添うように、親子の仲を応援するように。
その人形の顔は、どちらも優しく微笑んでいるように見えた。
でも読んで良かったと思う
>少なくとも子供が見るべき現場じゃないkとだけは確かであるが。
いい言葉が見つからないんですけど、とにかく面白かったです。
悲しい話だけど、決してありえない話ではない。いろいろ考えさせられる話ですね。
オリキャラの親父さんに、ストーリーを推進・回転させる為の燃料以上の価値を見出せない。
彼の子供がこの結末に対して何を思うのかも含めて、もう少し描写が欲しかったです。
次に霊夢。
複数の人間が殺害状況を目撃している、そこら辺の事情を把握せずに被害者の妻からの依頼だけで
動いているように見える。
里で人を殺した妖怪は理由の如何を問わず退治、だったらそれはそれで良いのですが、ならアリスや魔理沙は?
調停者としての博麗の巫女ならば、彼女達を障害物ではなく敵として認識しそうな気もするのですが。
アリスや魔理沙は結局どうしたかったのか。
鈴菜ちゃんを退治されるのを阻止したかった? その上で事件の真相を明らかにして罪を償わせたかった?
罪は罪として退治されるのは已む無し? だけど安らかに逝かせたかった?
ちょっと自分には読み取れなかったです。
好き勝手書きましたがそれでもこの作品は面白い、それが正直な感想です。
それにしても楽園の最高裁判長は鈴菜ちゃんにどのような判決を下すのでしょうね。
私はそれがとても気になる。
>少女はというと押ししそうな和風料理をテーブルの上に次々と並べていった →美味しそうな和風料理?
>人里に妖怪がいるのはもはや日常茶飯事ではあるものの、人里に済んでいるとなれば →人里に住んでいる
>ぷんすかぷんすか地団駄を踏む自称狼を見やり、その反応のが面白くて →その反応が面白くて?
>再び彫刻刀が指の間接辺りをざっくりと削り、痛さのあまりの悶絶する鈴菜を見て →指の関節
>「えぇ、そうしてもらえると助かるわ。……それから、明日からは無断進入しないように」 →無断侵入、ニュアンス的にですね
>無論、その場合かかる時間はお察し下さいと言わざる終えないレベルではあるが →言わざるを得ない
>長い銀髪は三つ編みに結われ、服の中央で赤と青に別れた奇抜な衣装の女性 →赤と青に分かれた
>永琳と鈴仙も歩いてくるあたり、目的地はやはり博麗神社なのだろうことが伺える →窺える
>しかし、アリスの呟きに帰ってきたのは二人のきょとんとした表情だった →呟きに返ってきたのは
>あの日から初日の失敗を犯すこともなく、ちゃんとノックしてきいるので →ノックしてきているので?
>アリスが自分の研究に時間を裂けるようになった理由のひとつ →時間を割けるように
>文句も諦めの言葉も、何一つ口にしないまま作業中に集中する →作業に集中する?
>涙をグシグシと拭い、紡がれた挑発に不適に笑って返して見せた →不敵に笑って
>背中の籠を見るあたり、木の実を取りに帰ってきた帰りだったのだろう →木の実を採りにいった帰りだったのだろう、とか?
>その表情にはどこか微笑ましそうな勘定が宿っていて →感情が宿っていて
>「不良箇所もなく、間接の駆動も正常。おめでとう鈴菜、あなたの初めての人形の完成よ」 →関節の駆動
>昼間の一軒が完全に彼をこの凶行へと駆り立てた →昼間の一件
>容赦なく照りつける太陽の光に身を焦がせながらあたりを見渡せば、すぐ近くに大きな湖が司会に映った →視界に映った
>こんなに胸が苦しくて張り裂けそうで、脳裏で囁く誰かを書き出そうとがりがりと頭を掻き毟る →掻き出そうと
>その現実をつきつけるように、巫女は言葉の矢を紡ぐ →言葉の矢なら〝放つ〟もアリかな、と
>きっとこれは、あの子自身が、自分の手で送りたいだろうから →自分の手で贈りたいだろうから
>今はまだ、いつもの調子で要られている →いつもの調子でいられている
>からからと笑いながら、母は見えぬ目の変わりに指で人形を確かめる →目の代わりに
>「お母さん」と、何度も何度も聞こえる泣き声が、彼女を背負うアリスにお胸を締め付けるようで、苦しかった →アリスの胸を?
>つぅーっと、頬を暖かい何かが伝って、それを救いもせずにアリスは空を見上げる →掬いもせずに
ただの脇役なら「どっかで見たようなキャラ」で済むんですけど、それを主軸にしてしまうと「どっかで見たような話」になってしまいます。
それを回避するには、オリキャラらしくオリジナル性の感じられるキャラ付け、そして展開にする必要があります。
例えば死亡エンドで泣きを誘う手法は効果が高いため、古来から国籍を問わず人気がありますが、それだけに陳腐になりやすく練り込みと斬新さが必要になります。
グロ表現の心配やオリキャラの死亡率の自重よりももっと考えるべき点があるのではないでしょうか。
設定だけ練って満足するのもダメですが、金太郎飴のような設定に物語の舵を任せてただ形式通りに進むのもダメだと思います。
長文コメ失礼しました。
こんにちわ→こんにちは
巻き割り→薪割り
娘の胸に飛来→娘の胸に去来
魔理沙の慌てているのが→魔理沙が慌てているのが
機能の子供→昨日の子供
不思議そうな表情見せる→不思議そうな表情を見せる
こういう話もいいと思います。
ただ一点、子供が何を思ったのかが気になりました。
けれど、もう少し書いて欲しい部分もある不満が残る作品でもあった。
でもよかった。
こんな作者の声が聞こえてくるような作品でした。もう話の流れも展開もどう見ても死ぬ事前提に進んでましたしね。
この結末自体はもちろん満点なのですが、「友達が死んでしまった」という結果はやはり忍びない…
キャラは所詮キャラですから、結局のところ作者の掌の上です。よって、生かすも死なすも作者の一存のままで全然結構かと思います。
というか、人様が創造した版権キャラならまだしも、自分が創造したキャラを作者自身の都合で殺して何が悪うございましょうや?
作者様が紡いだ物語の中で、そのキャラに殺される宿命を背負わせたいのであれば、心置きなく殺してあげれば良いと思います。
人が人を殺せば人殺しですが、物語上における作者は創造主、即ち"神"なのです。神が人(キャラ)を殺すことを人殺しとは云いますまい。
気を揉む必要はありません。思う存分に殺して上げてください。懺悔なんて後で幾らでも出来るのですから。
さて、物語はとても面白く、また哀しく切ないお話でした。
敢えて不満を挙げるなら、鈴菜ちゃんのお母さんの最期の対応が少し綺麗すぎるかな、と感じました。
美しい幕引きではありましたが、人妖の相違を強調するならば、もう少し泥臭さを出しても良かったのではないかと思います。
個人的には、父を鈴菜に(結果的に)殺された少年のその後の詳しい描写は、描かなくて正解だったと思います。
このあたりを作者ご自身で描いてしまうと、お涙頂戴の蛇足になりかねませんから。
最後に一言。
大丈夫。もっと残酷にしてもいいのよ?
と考えさせられる話しでした。
もし情に厚い性格だったら耐えられない役割だろうから。
東方という世界観との親和性も悪く、エロ同人誌のモブキャラのような印象です。
話もよく見かける悲劇といった感じで、もっと意外性や独自性が欲しかったです。
という押し付けが、どうしようもなく透けて見えました。
あざとい、とでも言うんでしょうか。
残念ながら自分はそういうのは嫌いなので、こんな得点で。
で、読み終わって、おそらく一流の書き手というのは、こういった読者の予想を追い抜いて物語を展開させていくものなんだろうなと何と無しに思いました。
起承転結の承転の部分が薄いかなと思いました。
親父さんがポット出な感じがして、展開が急に感じたというかご都合的に感じたというか。
残虐な行為をするなりの理由が欲しかったなと思いました。
あと、残虐表現・死亡表現は感情的に低得点叩きつける人がいるので不安なのは分かりますが、
描くならばしっかりと描ききってください。
最後に鈴菜が退治されてしまったという部分が間接的でわかり辛く感じました。
(⊃ω;`)
今回もいいお話でした
残念ですね。
まぁそれでも聡明な読者様(笑)より頭空っぽの方がss楽しめて良いですけどね
とは言え嫌いな人にはとことん嫌われて当然なジャンルなので注意書きくらいはして欲しいものですが