「稗田んトコの嬢ちゃん、今日は良く食べるねぇ……」
「今日は特別な日なんですよ」
団子屋の店主のお爺さんが「はて、祭りでもあったかね」とぼやいているのをしり目に、赤い布がかけられたら長椅子に座って、頼んだみたらし団子を好きなだけ胃に詰め込む。
脂肪を気にせず甘味を食べられる事は、何と素晴らしいのだろうか。これまで太るのを気にして、決めた分量だけなんて薬のように甘いものを摂取していた自分に見せびらかしたくなる。
ちなみに店主が言うようなお祭りはこれといって無い。私以外の人にとっては、今日は何ら特別な日では無いだろう。しかし私にとっては人生でたった一度きりの、大きな意味を持った一日なのである。
今日は稗田阿求、最期の日なのだ。
「ごちそうさまでした」
「ん。じゃあお代は全部合わせて……」
「ツケで」
そう。最期の日なのである。
里の雑踏を歩く。秋空に照り輝くお天道様の真下、八百屋のおじさんの呼び込みやおばちゃん達が世間話をする声が混ざり合って、全体で一つの喧騒という音をなす。
この光景もこれで見おさめか。そう思うといつもと何も変わらない日常の一部にですら愛着がわいてくる。
花屋の前でお婆さんが客と談笑している。客が持っている白地に淡い青色をした花の名前はなんだっただろうか。こういうとき、花より歴史な生涯を送っていたのを悔みたくなる。寺小屋に遊びに行く時にいつも通っていた花屋なのに、そこに立ち並んでいる花の名前を私はほとんど知らなかった。
知的好奇心は強い方なのに、私はいつも興味無くこの道を通り過ぎていたのか。店主にちょっと話しかけて聞くだけでいいのに。今からでも遅くないかな、とも考えたときには花屋は遥か後方にあった。
「あ」
私は道行く人の中に見慣れた人影を見つけ、ふと足を止めて声をかけた。
「慧音先生」
「……ッ!?」
先生は目を見開いて私を見て、一瞬だけ言葉を失った。そして恐る恐る、というように口を開く。
「阿求……?」
先生は見ただけで大体の事情を把握したらしかった。もしかすると大まかな話は通っていたかもしれないが、どちらにせよかなり勘が良い。と言っても普段と違う呼び方をしたから、というのが一番の要因だろう。先生は言葉を失い、何とも言えない難しい顔をした。私は彼女にそんな表情をして欲しくないと思い、
「妹紅さんとの逢瀬はどうでしたか?」
「このっ!」
ぽかり、と頭を拳骨で殴られた。頭を押さえて顔を上げると、先生は呆れるような顔をしつつも微笑んでいた。なんと言うか、まあ、先生らしい顔だ。でもその微笑みは少し寂しそうにも見えた。
「変わらないんだな、お前は」
「ええ」
周りに比べて精神的には早熟だったので、三つ子の魂百までの典型例だと自負している。いや、そういう意味じゃないんだけど。
「あと……どの位いられるんだ?」
「日が落ちるまでです」
それが私に残された時間だ。明日の日の出を拝む事はおろか、夜空を見上げることすら叶わない。
彼女は顔を隠すように額に手を当て、前髪を押さえた。
「この後……」
「今日は、幻想郷中を見て回ってこようかと考えています」
最期の一日をどう過ごすかを悩んで出した結論では無い。幻想郷を見て歩く事は、始めから決めていた。むしろ今日一日はその為にあると言っても過言ではない。
「そのか弱い脚で幻想郷中を歩くつもりか?」
「まあ……可能な限り」
先生は頭から手を離して腕を組み、ため息を吐きだす。その仕草はとても大人の女性、という感じがして格好良い。
「命蓮寺の方に黒い奴が居ると思うから、脚として使ってやれ」
「……すいませんね」
「ほら。さっさと行かないとほとんど回れない内に終わるぞ。私はお前と一日中駄弁っててもいいが、阿礼乙女はそうはいかないんだろう?」
と先生は私の頭を乱暴にかき回した。そんな子供扱いしないで欲しい。
私は頭を下げて「お言葉に甘えて」と言って、彼女に背中を向けた。
「それと」
二、三歩進んだところで、優しい声で呼びとめられた。
「お前と居るのは楽しかったよ。阿求」
「……」
私は振り向かずに「私もです」とだけ返して命蓮寺の方に脚を向けた。不意打ちでそういう事を言うのは卑怯だ。
鼻の奥の方が僅かにつんとする。
これ以上顔を見ていたら下手をすると泣いてしまいそうで、先生の方を見る事は出来なかった。
「駄目だ駄目だ……」
他の人には聞こえないように、地面を向いたまま口の中だけで一人ごとを転がして我慢する。
嘆いている暇はない。もう私は十分に悲しんだ。
せっかくの一日をわんわん泣いて終わらせるのは勿体無いだろう。今日という日を悲しむ為に迎えたわけではない。むしろ目一杯楽しんでやろう、位の気概で居るのだ。
最後に声を聞けただけで声を聞けただけで十分だ。
私は顔を上げて歩みを進めた。
「ぅえっくし!」
あまり乙女とは言い難いくしゃみが出たので、周りに誰も居ないのを確認する。命蓮寺は人里の端っこの方の小高い丘にあるので、特に人通りを気にする必要はなかった。
「で、無断で入って良いのかな……」
長く続く塀に囲まれた命蓮時では、この門以外に入口は無さそうなのだが、勝手に開けて入って良いものだろうか。悩んでいると塀の上から声をかけられた。
「入口は入る為にあるんだ。何を躊躇しているんだい?」
「はぁ……」
腕組みをした可愛らしいネズミさんが、塀の上からこちらを見降ろしてくる。スカートの中身が丸見えなのは気にしないのか。ドロワーズ派な彼女にとってはどうでも良いらしかった。
「っと」
ネズミさんは軽やかに着地して、門に手をかける。
「では私が代わりに開けてあげよう。で、君は白蓮の説法でも聞きに来たのかな?」
「あ、ウチは神道系なんで遠慮しておきます」
「その割には君、大晦日とかは仏教式で過ごしているだろう」
「楽しいイベントはできるだけ共有すべきです」
「じゃあ毘沙門天様とか信仰してみないかい?」
「話聞けよ」
「冗談だ」
ネズミさんはそう言い、目を閉じて微笑んだ。何が冗談なのか良く分からない。
門から入って数歩歩くと、その毘沙門天様の姿が見えた。
「あれがウチの大仏代わりの虎丸星だ。一応信仰の対象……のハズなんだが……」
ネズミさんが眉間にしわを寄せるのもよくわかる。
寺に向かって右側、数十メートル先には庭の手入れにいそしむ毘沙門天様がいた。遠目でわかり辛いが、着ているのは妹紅さんなんかが好んでいる「芋ジャー」だろう。
香霖堂にごく稀に入荷される人気商品だ。モノによっては謎の人名が刺繍されている。
店主曰く「服を大切にしているから、一つ一つに名前を付けたんだろう。固有の名を与える事はそれに価値を認める事だから。人名を与えるなんてのは、それを人と同じくらいに扱うということだ。それが幻想になっているとしたら、少し寂しい気もするね。外の人間は(以下略)」だそうだ。
それにしても訪問者にも気付かず、せっせと仕事をする彼女は非常に活き活きしているように見える。
「……まあとりあえずアレは放っておいてくれ」
彼女のバツの悪そうな顔に、私は自然と口元がゆるむ。
信仰の対象が御簾を隔てた神聖なものではなく、隣にいて支えてくれるような存在、というのも幻想郷の信仰スタイルらしくて良いのではないだろうか。
「で、ここに何の用で来たんだい?」
玄関を上がって廊下を歩く途中、急に彼女は立ち止まって振り返った。
本日の目的は「幻想郷を見て歩く」ことなので、用事らしい用事は無い。しかし意味もなく寺を訪れに来たというのも怪しがられそうなので、適当にそれっぽい事を言っておいた。
「ここの代表者である聖白蓮さんに会わせて頂けませんか?」
「いいだろう。付いておいで」
そう言って彼女はまた歩き始める。
台所を通過するとき、鵺と船幽霊が「ちょっと位お肉入れてもバレないって」「アンタ前にそれで怒られたの、もう忘れたの?」という、もしかするとお寺らしいトークを繰り広げていたのが聞こえた。
もうしばらく廊下が続いた後、とある部屋の前でネズミさんが止まる。
「聖ー、客が来たぞ」
「はいはい。それじゃあ通して」
ネズミさんの手により襖が僅かに音を立て開かれる。聖白蓮は机の上に書や墨を広げ、その前で正座していた。写経でもしていたのだろうか。
私は部屋の中に歩みを進め、頭を下げた。
「こんにちわ」
「ええ、こんにちわ。ナズ、座布団とお茶を」
白蓮さんが机の上にあったものを片づける間、ネズミさんが座布団を引っ張り出して、彼女と反対側の私のもとにしく。
「それではどのような用件でいらっしゃったのですか?」
さっきも言ったが挨拶回りに来ているだけなので、これといった用事も私には無かった。少し雑談が出来れば、それで満足なのである。それどころか各人の姿をちょいと拝見出来るだけで良い。
こんなことならさっき、団子屋で手土産用のお菓子を買ってくれば、もう少し自然な感じで話も進んだろうに。残念ながらお団子はお腹の中なので、渡すのはどう足掻いても不可能である。
黙っている私を見越して、彼女は自分の営業を始めた。
「じゃあ手始めに我が命蓮寺の成り立ちについて話しましょう」
不味い。様子が慧音先生のうんちくを披露するときに酷似している。
勧誘を始めようとしている白蓮さんに身の危険を……否、それ以上の危険を感じ、話の流れをこちら側に持ってくることにした。
「えっと……話の腰を折るようで申し訳ありませんが、別に入信しに来たわけでは無いんですが……」
「あら、これは早計でしたね」
私が入信フラグを回避している内に、ネズミさんがお茶を用意して部屋から出て行った。割と適当にやっている感じなのに、随分と手なれていて垢抜けた所作である。
「えー、白蓮さんが幻想郷に来たのはどれくらい前でしたっけ?」
「封印が解けたのが……第何季だったかしら。まあぼちぼちですね」
彼女はごまかしているというのを感じさせない、優しそうな笑顔で言う。何だかぼちぼちという言葉が死ぬほど似合わない人だ。
一応断っておくと、私はちゃんと彼女がいつ来たのかをわかっていて、流れのために話をふっただけなのだが。
「では最初に幻想郷に来た時どう思いましたか?」
「そうですね……」
どうにも某鴉天狗みたいにインタビューになっているな、と思いつつ私は茶をすすった。大分渋めである。
彼女は机に視線を落として、俯いたまま話し始めた。
「最初は嫉妬しました」
「嫉妬?」
「ええ」
またイメージに似つかわしくない言葉が出てきたものである。勝手にそんな事を考えるのは私の偏見だろうか。
「私は人間と妖怪の共存する社会を目指し、結果として人の手によって封印されました。そこは知ってますよね?」
「ええ。他の命蓮寺の方々の尽力によって助け出されたとも」
「その通りです。しかし皆のおかげでようやく外へ出たときには、自分の理想が他人の手によって勝手に実現していたのです」
顔をうつ向けたまま、彼女は言葉を紡ぐ。
「正直、今までの自分の努力を侮辱されたようにさえ感じました」
その気持ちは分からなくもない。私も幻想郷縁起が執筆中に、他の誰かの手によって完成されたら腹が立つ。彼女の言う事はもっともだった。
「けど、最初はってことは今はどうなんですか?」
俯いていた彼女は顔を上げ、凛とした表情で言った。
「幻想郷に住んでみて、ここは私の理想とはまた別物であると理解しましたから。両者の争いの本質を形骸化した事によって解決しても、根本的な、妖怪が襲い人間が退治するというシステムは変わっていません。私は仕組みごと、この世界を変えたいのです」
「どちらかが一方的に虐げられているのを見たくない、という私の我が侭なんですけどね」と表情を崩し、彼女は湯飲みに手をつけた。
幻想郷の仕組みは十分画期的だ。彼女はそれを更に超えようと言うのだから、その道のりは決して楽なものではないだろうし、両者が全く争わない形で共存する道は最初から存在していないかもしれない。
無論、彼女はそのことをわかっているだろうし、その事実を受け止めて、その上でそう言い切ったのだろう。
「すごいですね……」
私の口からは素直に賛辞の言葉が零れた。
不可能かもしれないことに人生をかけるという真似は、到底私には真似できそうも無いことだった。彼女は本当に救済者向きだ。
「そんなことありませんよ」
コトリ、と彼女の湯飲みが机に置かれる音がする。
「今までの道のりを無駄な努力だったと、切って捨てることができないだけです。むしろ不可能かもしれない理想にすがっている私は惨めでさえあるでしょう」
それでも、と彼女は言う。
「こんな私の理想に付いてきてくれる者たちがいます。貴女のおかげで救われた、とさえ言ってくれる者もいます。その者達に笑われないためにも、私は全力を尽くしたいんです」
「……やっぱり格好いいですよ」
何だか拗ねる様な口調になってしまった私に対して、彼女は「すいませんね。おだててもウチに余ってるのは線香位しかありませんよ」と笑う。
葬式、命蓮寺でやってもらえばよかったかな、と私は微妙にずれた後悔を感じた。
むず痒い気持ちを紛らわすために、私はもう一度渋いお茶に口をつけてから、最後にある質問をしてみた。
「白蓮さん。幻想郷の事は好きですか?」
聖白蓮は少し目を丸くしてから、そして穏やかに笑った。
「嫌いだったら、今頃この命蓮寺は何処か遠い空を飛んでいますよ」
大嫌いです、という答えが返ってこなくて安心した。この人は私と同じモノを好きなんだという些細な共感が、今日はやたらと嬉しく感じた。
「聖ー、ご飯できたよー!」
台所から快活な船長さんの声が聞こえてきた。いつの間にか良い匂いがここまで漂ってきている。
「ああ、そうだ。折角ですから、お昼を召し上がって行きませんか?」
「そうしたいのは山々ですが……」
団子を食べて食欲が微妙な私が逡巡していると、後ろから背中を押す声が聞こえてきた。
「人の好意には素直に甘えとくもんだぜ」
「あ」
声のした部屋の外の方を振り返ると、腕組みをして仁王立ちする霧雨魔理沙の姿があった。私の想像とは違ったが、慧音先生の言った通りだ。命蓮寺で黒い奴と聞いて、鵺さんの事かと思ったのだが。
ちなみに私の後ろに居る魔理沙さんのその後ろには一輪さんが居て、更にその後ろには入道の雲山さんが浮いている。地味に描写がくどい構図である。
「魔理沙さん」
「おう。久しぶりだな、阿求」
霧雨魔理沙は昔から変わらない近所の悪ガキみたいな笑顔で応えた。腹が立つのは僅かだった身長差が、無視できない大きさになっていたことである。畜生……
「……ぉえ」
「阿求。頼むから吐くときは私の背中以外にな!」
「だったら蛇行運転をもう少し控えて下さい……」
「善処はしている」
うすら寒い秋空の下。私は魔理沙さんの箒に乗せてもらい、迷いの竹林の上を飛んでいた。昼でも夜みたいに暗い竹林の方を見ると、本当に彼女に脚になってもらってよかったと思う。
「そもそも私が吐きそうなのは、魔理沙さんのせいなんですからね」
「まさか団子を貪った後だとは知らなかったんだよ。第一、命蓮寺は精進料理なんだからそんなに腹に響かないだろ」
「場所じゃなくて人が問題なんですよ……張り切ってる聖お婆ちゃんが無尽蔵に供給するおかわりを、貴女は拒否できるんですか?」
「そりゃ無理だけどさ。しかしお前、本当に白蓮の孫みたいに扱われてたな」
「悪い気はしませんけどね……」
魔理沙さんの勧められ、結局私は命蓮寺でお昼をごちそうになった。命蓮寺オールスターズと食べるご飯は楽しかったが、私が既に満腹である事に気づかず「若い娘は、ちょっと太ってる位がちょうどいいのよ」と白蓮さんが間断なく私の膳におかわりを盛るのは辛かった。
これでわざとやってたら大したタマだ。
おかげ様で私は胃の中のモノがたぷんたぷん揺れるのが自覚できる程で、腹十分目をとっくにオーバーしていた。
空を飛んでいるのが唯一の救いだ。吹き抜ける涼しい風が、額に浮く汗の不快さを吹き飛ばしてくれる。
「というか何で命蓮寺に居たんですか?」
「ちょいとばかし魔法を習いに。と言っても修行内容は魔法が二で、座禅が八なんだけどな……」
彼女のくたびれた声に、思わず酔っているのも忘れ笑ってしまう。
はて、命蓮寺は禅宗だっただろうか。などと考えていると、少し呆れた調子で彼女は言う。
「にしてもこの魔理沙さんを運び屋に使うとはいい度胸だよな」
「貴女は何でも屋じゃないんですか?」
「報酬があれば、な」
「じゃあとりあえずツケで」
「……何だか踏み倒される気配がするんだが」
当り前だ。そういうつもりで言っているのだから。
彼女の背中に抱きつく私は、口角を上げてこっそり笑った。
「死ぬまでツケとくだけです」
「……言うじゃないか。生殺与奪権と制空権は私が握っているんだぞ?」
「じゃあ家の方にツケといて下さい。言えば多分、夕食位ごちそうしてくれるでしょう」
「それで手を打とうか」
もっとも魔理沙さんなら、特に何にも無くても稗田家の人達はもてなすだろうが。多分、彼女もそれをわかっているのろう。とどのつまり、彼女は奉仕の精神に基づいてタダ働きをしているのである。いや、奉仕ではなく知的好奇心か。
「着いたぜ」
密集していた竹林が開け、大きな屋敷が姿を現す。かの有名なかぐや姫の住まいである。
私たちは砂埃を起こしながら、ゆっくりと着陸した。驚いた兎達が四方へ逃げ出すのを見ると、海を割っていた早苗さんの気持ちがわかる気がする。
そんな様子に気づいたのか、中からブレザーを着たウサミミ少女が出てきた。その手に文庫本を開いた状態で持っているので、どうやら読書中だったらしい。
「魔理沙……と稗田さん?」
うどんげさんは眉間にしわを寄せてこちらを見た。
彼女が狂気を操る事が出来るのは、物体や生物、感情などの波を弄る事が出来るからだと聞く。多分、私の波が異常なのか、もしくは逆に異常で無いのがおかしいから、そんな疑うような目をしているのだろう。
「ええ、こんにちわ。輝夜さんは御在宅でしょうか?」
「姫様なら向こうの部屋にいるけど……」
「それじゃあ道案内を頼むぜ」
彼女は頷いて「わかったわ」と答えると、本にしおりを挟んでブレザーのポケットにしまう。私たちは草鞋と靴を脱いで縁側に上がり、道案内に付いて行った。
二、三程部屋を通り過ぎると、ウサミミ少女は立ち止まった。
「姫様、お客さんです」
「はいはい。通しちゃってー」
彼女は障子越しの会話を済ませると、それをすっと開いて私たちを中に招いた。
「いらっしゃい。阿求、白黒」
「魔理沙だ。長く生き過ぎて、この私の名前も覚えられないほど耄碌したか?」
「冗談よ、魔理沙」
永遠亭の姫君は、妹紅さんと二人で囲碁盤に向かい合っていた。幻想郷で会った頃は、毎日のように殺し合いを続けていた時期から比べると、二人の間柄は大分進歩したようだ。
「こんにちわ。輝夜さん、妹紅さん」
妹紅さんは和やかに微笑んで、「おぅ」と手をあげて返してくれた。
「さて」
盤を挟んで妹紅さんの向こう側に座るカグヤ姫が、ウサミミ少女を指さして言う。
「鈴仙、永琳に言ってお酒を適当な数、持ってきなさい。ああ、この間人里からもらった例のお酒もね」
「あれって、自分の誕生日用とか言ってませんでしたっけ?」
「いいのよ。この後何万何億回とある私の誕生日なんかより、今日の方が遥かに大切だわ」
うどんげさんは「はあ……」とか曖昧に頷きながら部屋を出て行った。
しばらく四人で取りとめのない事を話していると、うどんげさんが永琳先生といっしょにお酒を持って帰ってきた。四人から六人に増え、更にお酒も入って小さな宴会が続く。会話の内容は夜雀の屋台にウサギ肉が追加されたことに対する永遠亭組の不満だの、「たいじゅうけい」なるものが人里で流行り始めているだの、特筆すべき内容でもないので割愛しておく。
気づくと嘘吐き兎を始めとする妖怪兎や、何処からか入り込んだ虫妖怪、噂をすれば影の法則に従った夜雀なんかも宴に加わって大所帯になっていた。真昼間から何とも不健康な連中である。私も含めてだが。
「しかし悪いですね……こんな大騒ぎになっちゃって」
「いいのよ。騒がしいのは嫌いじゃないわ」
あっちの集団に引っ張られ、こっちのグループに紹介されたりと多忙を極めていた私だったが、今は落ち着いてお姫様と二人で縁側に並んでいた。間にはお盆と徳利が置かれ、お互いの手はお猪口を掴んでいる。
「それに、貴女は今日が終わりなんでしょう?」
私は彼女の方をみた。両方の掌でお猪口を覆い、鈴虫の鳴き声に耳を傾けているかのように、涼しそうに目を閉じている。
その所作を見ていると、周りの喧騒が随分と遠くに聞こえ、私たち二人だけが違う空間に切り離されたようにさえ錯覚した。
「私にしろ、妹紅にしろ、事情は大体知ってるわ」
「……成程」
「そこでなのだけれど」
彼女は閉じていた目を開き、私の方を向いて楽しそうに口角を吊り上げる。悪戯を思いついた子供みたいな顔だ。
「蓬莱の薬について。今なら前と違う返事がもらえるかしら?」
初めての対面からしばらく後、色々と永遠亭に縁があった私は彼らの事情を知り、そして永遠の命が欲しくはないかと誘われた。彼女の言う「前」とはその事を指しているのだろう。
私は苦笑しながら言葉を紡いだ。
「それ、手遅れなのわかって言ってますよね」
お姫様は「ふふふふふ」と性悪そうな声で笑った。良い性格をしている。
私がこの世界に居られるのも日没まで。それは恐らくだけれど、蓬莱の薬でも動かせない決定事項だ。
「そうじゃないわ。たられば話でいいのよ。もしも、でいいわ」
彼女はまた目を閉じて、肩の力を抜く。対照的に私は背中を丸めて、お猪口を胎児のように抱えた。
「変わりませんよ……ずっとこの世界を見ていたいと願ってたご先祖様に悪いですし、阿礼乙女の描く歴史は、転生し続けるから意味があるんです」
「そうかしら。正確な歴史を記すためには、ころころ変わる観測者じゃ役不足だと思うけれど」
私は姿勢を正し、お猪口の中身を一気に飲み干す。酒気を帯びた熱っぽい息を吐き、続けて言葉を吐き出す。
「違いますよ。完璧な歴史書を作るのなら先生が居れば事足りますし、そもそも転生前の百年の空白や不完全な記録の継承があること自体おかしいんです」
精密に歴史を語るには、阿礼乙女は欠陥品とさえ言えるだろう。カグヤ姫の言い分は確かに正しいのだ。
彼女は黙って次の言葉を待っている。私は手に持っていた空のお猪口を盆の上に置き、両手を重ねて前を向いた。
「ある時代を記す阿礼乙女は、その時代を生きている人です。傍観者では無く当事者の目から見た幻想郷なんです」
幻想郷が滅ぶ程の危機があった代の資料と、平和な代の私の本は内容だけでなく、文体、形式、装丁、挿絵に至るまで大きく異なっている。書かれている事だけではなく、書全体が編纂した者そのものを体現し、つまり当時の幻想郷を象徴するのだ。
「へえ……それは面白い見解を聞いたわ。正確な歴史書は記録で、貴方達が書いてきたものは記憶、といった所かしら」
「まあその通りですね」
いわば幻想郷全体の日記帳とでも言うべきか。歴史書と呼ぶのには、余りに適当なものである。
そもそも初代が書いた、正確には口述した古事記だって内容の真偽は怪しいもんだ。読む方としては割と楽しいから不満は無いが。
「さて」
私は草鞋を履いて、跳ねるように縁側に降りた。
「あら、もう行くの?」
「幻想郷はここだけじゃありませんから」
「そ」
彼女は私の代わりに魔理沙さんを呼んだ。
白黒の魔女は千鳥足で無いところを見る限り、一応飲酒運転には気を付けているようだ。
「あー、えと。最後に」
「何かしら?」
気まぐれで何となく、聖白蓮にした質問を彼女にもぶつけたくなった。
「幻想郷は好きですか?」
お姫様は少しきょとんとした後、顎に人差し指を当て思案顔になった。魔理沙さんは外へ下りずに、後ろから彼女を見つめている。
やがて蓬莱山輝夜は柔らかに瞼を閉じた。
「好きでも無ければ嫌いでもないわ。ただ……少なくとも、退屈はしてないわ」
彼女は微笑みながら肩をすくめた。その顔を見て、自然と私も顔がほころんだ。
「さ、そろそろ次の目的地に行こうじゃないか!」
いつの間にか外へ下りていた魔理沙さんが、いつの間にか手にした箒にまたがる。その後ろに続いて、私も箒に腰かけた。
「それじゃ、お元気で」
「ええ。さようなら」
ゆっくりと私たちの足が、地面を離れた。
こちらに気づいた宴会をしていた面々は、妹紅さんをが手を振ると、面識のないような子まで滅茶苦茶に叫んで楽しそうに手を振ってくれた。私もそれに目一杯手を振り返す。
「さようならー!」
人の身長の半分位浮かび上がると、箒は急発進して幻想郷の澄んだ青空を駆けた。
永遠亭を発ってから旧都を含め何箇所かを訪ねた後、私は地霊殿の中を歩いていた。
赤と黒のチェック柄をした床の廊下は、前が暗くて良く見えないせいで何処まで続いているのか良くわからない。
そんな道を案内してくれるのは、館と似たような配色をした猫耳少女だった。
「こんなトコに来るなんて、濃い姉さんも中々物好きだね」
火炎猫燐は車を押しながら、何がおかしいのか声を上げて笑う。
というかその女装マッチョみたいな呼び名は何だ。
「濃いって……」
「あたいの主人も同じ紫色の髪だけど、それよりも濃い紫色だからさ」
そう言ってまた彼女は「にゃはははは」と笑う。
あだ名は余り気に入らなかったが、せっかく付けてくれたので訂正せずに置いておいた。
その代わりにちょっと質問をさせてもらう。
「私、何か変ですか?」
「どこがだい?」
今度は不思議そうな表情で振り返った。
それならそれでいい。一応今日の事情は皆に内緒の予定だったのだ。変に察して気を使われるのも悪いし。
「お邪魔しまーす!」
「こらこら、お燐。入るときはノックをしなさいと言ったでしょう」
「はーい」
いつの間にやら館の主の元へ着いたらしく、道案内人はとっとと部屋に入っていた。
私もそれに続いて部屋に入ると、扉が不気味な音をたてて独りでに閉じた。河童に頼んで改造でも施してもらったのだろうか。地霊殿は色々とハイテクなのかもしれない。
「お邪魔します」
部屋は広い館からすると割と狭く、中央に置かれたテーブルを二つの赤いソファーが挟んでいた。入り口の反対側にはステンドグラスの窓があり、壁にはいくつか絵が掛けられている。絵に疎い私にもわかるような有名な西洋の絵画に混じって、こいし嬢かペット達が描いたと思わしき絵も飾ってあった。親バカ……
「こんにちわ。古明地さとりと申しま……あら?」
初対面で無いと思い当たったらしい。彼女は軽く非礼を詫びる言葉を付けたし、私を赤いソファーに座らせた。
「お燐、もう仕事に戻っていいわよ」
「あいっ、まむ!」
何処で覚えたかわからない敬礼をきめて、火炎猫燐は部屋を出て行った。ちなみに「失礼します」を忘れたのを気にしたらしく、出た後すぐ戻ってきて挨拶し直して去って行った。地味に教育が行き届いている。
ちなみのついでにもう一つ付け足しておくと、魔理沙さんは「さとり妖怪には出来る限り会いたくない」と言い館の外で待っている。
と、そこまで考えて自分が失礼なことをしていたのに気づく。
「――――――あ」
「いいんですよ。嫌われるのまで含めて仕事ですから」
彼女はそう言ってティーカップにお茶を注いだ。少しかがんだせいで、彼女の表情はよく見えない。
「あ、とりあえず無難に緑茶を注いだのですけど、よろしかったでしょうか?」
「いえいえ、全然」
古明地さとりは「そうですか」と目を細め、テーブルの向かいのソファーに座る。ティーカップから緑茶の湯気が漂っているのは、何処となくおかしかった。
いや、この思考も結構失礼に値するのではないだろうか。そう考え出すとキリがなく、思考が妙な方に転がってしまいそうで怖くなった。
「並大抵のことでは動じませんので、楽にしてくれて構いませんよ」
「はぁ……」
さとり妖怪のことを読心術が使えるようになった人間、と考えるのは間違いなのかもしれない。心が読めるなら読めるで、それなりに人とは異なった精神構造をしているのだろう。
と、勝手に考察を重ねる私の心を読んだのか、彼女が微笑む。
「概ねその見解であってますよ。勿論、例外もいますが」
後半の台詞が僅かに悲哀を含んでいたように感じたのは、私の気のせいだろうか。
微妙に気まずくなって緑茶を口元に運ぶと、中々に良い香りが鼻孔をくすぐる。実際に口をつけると、ここが人様の家でなければ「ぷは~」と言いたくなるような味だった。
「お気に召したようで何よりです。それで今日はどのような経緯で……あ、心に浮かべるだけでも構いませんよ」
お言葉に甘えて私は、本をぱらーっとめくるように追想する。こんな感じで大丈夫なのだろうか。
ひとしきり説明を終えると、彼女は「大体わかりました」と頷いた。
「それにしても……わざわざここに来ることもなかったでしょうに」
「え?」
「ここは幻想郷と行き来が自由になっている、というだけで厳密に言えば幻想郷ではないんですよ」
彼女は目を閉じてお茶をすすってから続ける。
「旧都には行きましたよね。あれは元地獄の繁華街です。地獄は幻想郷ではありません。地底は幻想郷に住めなかった者が住まう地、いわば流刑地みたいなものなんですよ」
そう言って地霊伝の主はティーカップを皿の上に置いた。
次の瞬間、それを否定する言葉が私の口をつく。
「違うと思います」
「何故……ですか?」
言うのを止めようとも思ったが、相手はさとり妖怪だ。黙ったところで意味は無い、と思い私は言葉を続けた。
「たとえここが幻想郷と区分されていなかったとしても、ここは幻想郷です。排他した者を放って、綺麗な一面だけをすくって幻想郷と呼びたくありません」
ここは幻想郷だが、理想郷かと言われればそれは違う。理想郷はあくまで空想の中だけで存在するものだ。幻想と空想は違う。認知されなくなった現実が幻想で、頭蓋骨の中にしか存在しないのが空想だ。
理想郷でないから、地底という場所が存在してしまう。しかし、それを認めないのは許されない。そこまで含めて幻想郷だと私は思う。
「それに旧都の独特の風情が漂う街並みや、さとりさんの入れる美味しいお茶を、幻想郷に数えないなんてもったいない真似、私にはできません」
旧都の鬼火なんかがほんのり照らす暗い通りで、ざわざわと楽しそうに皆がはしゃいでる、気だるいながらもどこか明るい雰囲気は人里には決してないものだ。
この部屋に来るまでに見た、館の主が直々に世話している花壇は、紅魔館の門番さんが手入れしている花壇とは別のしっとりとした美しさがある。
地底と幻想郷を繋ぐ橋の管理人は、ぶつくさ愚痴を言いながらも、親切に地底の注意事項を教えてくれたりして心配してくれた。
どこかで聞いた「地底は良いとこ、一度はおいで」というフレーズ。
例えここが忌み嫌われた妖怪の居場所だったとしても、私はその言葉は正しいと思う。
「……って偉そうなこと言ってすいません」
何地上の者が勝手に熱くなって語ってるんだ、と俯くと彼女はゆっくりと首を左右に振る。
「いいえ。そんな風に地底のことを言ってくれた人は初めてです。私は嬉しかったですよ」
そう言って彼女は今日一番の笑顔で微笑んだ。私に心は読めないけれど、この笑顔は愛想笑いなどではないと思いたかった。
「じゃあ……そろそろ行きますね」
「ええ。お気をつけて」
ソファーから立ち上がり、ドアの前に立つとまた木のきしむ音がして勝手に開いていく。しかし外には誰もいない。
「あの、さとりさん……」
「別に山の河童さんたちに頼んで、自動ドアにしてもらったわけではありませんよ」
私が振り向くと、さとりさんの後ろに抱きついた妹さんが、彼女の肩から顔を覗かせていた。どうやら古明地こいしの無意識による犯行だったらしい。いや、犯行と言うか親切と言うか。
「お姉ちゃん。私、閻魔様が言うぜんこーとか言うヤツ積んだのかな?」
「ええ。でも気配を現してからできたら、もっといいわ」
「ははは……」
私は力なく笑った。それでも最近は妹君の姿を良く見ると、先程話した鬼さんは言っていた。彼女も少しずつ変わってきているのだろうか。
気を取り直して、もう一度外に出ようとしたとき、まだ忘れ物があることに気が付いた。
「それと……もう一つ質問しても良いですか?」
部屋を出る直前に足を止め、私は振り返った。
「何でしょう?」
これまでの道程の中で自然とお決まりになっていた質問を彼女にも投げかける。
「幻想郷のこと……嫌いですか?」
少し棘のある聞き方をしてしまったかな、と思ったが彼女は別に意に介した様子はなかった。彼女は心に思ったことを何の手も加えずそのまま発した――――私がさとり妖怪にでもなったかのように錯覚させる――――そんな声で答えた。
「好きですよ。たまに嫌になるときもありますが、それ以上に大好きです」
幻想郷に嫌われても、それでも彼女がそう言ってくれたことが申し訳なくて、けれど私は嬉しいと思った。
真っ赤に染め上げられたカンバスに、何本もの光条が描かれる。その中で四人の少女が楽しそうに踊っていた。
「そもそも弾幕ごっこで一対三っておかしいだろ!」
光の粒を曲芸みたいな動きで交わす魔理沙さんだったが、箒の上の彼女には疲労の陰が強く見えた。
「ルナ、スター!コレって私達が押してるよね?!」
「ついに下克上の時が来たようね……」
「そんな上手く行くかなぁ」
私は最終目的地である博霊神社に向う階段の中腹で、黒い魔女と三人組の妖精が夕焼け空で繰り広げる弾幕に見入っていた。
ここ最近、妖精達は弾幕熱が再燃しているらしく「ここを通りたくば私達の死体を乗り越えていきなさい!」と勝負を挑んできたのだった。体の弱い私は箒から階段に降ろしてもらい、彼女達の戯れを眺めている。時間が余り過ぎて暇という訳でもないが、太陽の位置を見る限りは大丈夫だろう。
ちなみに私一人でとっとと神社に向かうという選択肢は無かった。虚弱体質なめんな。
「中々しぶといわね……」
「悪いが今日だけは譲れないんでね」
青い妖精が「今日も、の間違いでしょうに」と負けず嫌いな魔女にツッコミをいれる。ちなみにセリフは遠くて聞こえづらいので若干アテレコが入っている。
「に、しても」
どうせ近くには誰もいないので独り言をぼやく。
彼女達はなんて楽しそうに空を舞うのか。劣勢の魔理沙さんでさえも、口元では楽しそうに笑う。弾幕ごっこが出来ない私には、それがとても羨ましく感じた。勿論、見るだけでも十分楽しいのだが。
「ええい!残魔力量だとか、四の五考えるのはもう止めだ!!」
弾幕を紙一重で避けながら黒い影が遥か上空まで上った。そして箒の上に大胆不敵に立つ。そしてスペルカードに込められた言霊を吐き出す。
――――――魔砲「ファイナルマスタースパーク」
『ぎょええええ』
と三妖精がマンガのような悲鳴を上げた。
視界が白い光で塗りつぶされる。あまりの眩しさで光を直視することができず、私は顔を腕で覆った。
流石、「弾幕はパワー」を普段から豪語しているだけはある。
「……ミディアム三つか。やりすぎたな、こりゃ」
階段の下のほうで黒コゲになった妖精たちが転がっているのが見えた。大分重症のようだが、妖精だから死にはしないだろう。
「待たせたな」
「いえいえ」
魔理沙さんが私のところで停車する。そして私を後ろに乗せると、申し訳なさそうな顔で言った。
「最近の博麗がしっかりしないから、私がなめられる訳にはいかないんでな……これじゃ私が居ない方がまだ早かったかもな……」
「そんな事ありませんよ。魔理沙さんにはいくらお礼の言葉を並べても、感謝しきれない位です」
確かに、今日の道のりで勃発した弾幕ごっこは一つや二つでは無かった。しかしそれを差し引いても彼女の存在は大きかった。
それに戦っていた時間はさしたるものではない。時間を気にしてくれた彼女は、ひたすらボムをぶち込むという超短期決戦を選んだ。
そのおかげもあってか、日没前に博霊神社までたどり着いた。むしろ少し余裕を残している程である。彼女が居なかったら、今日会えなかった人はもっと少なくなかっただろう。
「それよりも……」
「ああ、わかってる」
私と魔理沙さん、二人分の体重を乗せた箒は、階段のほんの少し上を幽香さん並の速さで低空飛行している。この様子では、多分徒歩で走ったほうがまだ速い。
「あ」
ぷすん、という気の抜けるような音を立てて、箒はゆっくりと階段に着陸した。魔理沙さんはまた気まずそうな顔で言う。
「……すまん。ここからは歩きだ」
「いや、もう少しですし」
私達は博麗神社目指して、残り僅かとなった階段を歩き始めた。赤い夕焼けに照らされてできた先行する影を追いかけ続ける。
「はぁ……はぁ……」
「おんぶしてやろうか?」
「後ろに転がり落ちそうなのでいいです。どうせもう着きますし」
恐らく何代も前から脈々と受け継がれた虚弱体質なのだろう。逆にここまで一日中外出できたのだから褒めてやってもいい気がする。
一方魔理沙さんは弾幕ごっこの後でも元気で、私より数歩先を歩いている。
益体の無い事を考え続けていると、赤い鳥居にたどり着いた。境内では赤い巫女が掃除をしていた。
「おっす、レイム」
「こんにちわ、魔理沙。宴会の予定でもあったかしら?」
「いいや。今日はただの道案内さ」
朱に染められた境内の中、用途は違えどそれぞれに箒を持った二人が笑う。
夕焼け時の神社は、威厳とも不気味さともつかぬ妙な雰囲気を纏っている。ここが妖怪のたまり場だというのも頷ける話だ。
黒い魔女の隣に並んだ私は、赤い巫女に話しかけた。
「こんにちわ、レイムさん」
疑念。
彼女はいぶかしむような目つきをする。まるで見てはいけないようなモノを見ているかのような。
数秒悩んだ後、楽園の守護者は口を開いた。
「アンタ、誰?」
真っ赤に染められた境内に風が吹く。
腰まで伸びた私の髪がなびいた。
「で、そろそろ種明かしの時間と行こうじゃないか」
「種明かし、ですか……」
季節にしては早めに出された炬燵に向かい合って、私と魔女は座っている。箒と帽子は縁側に立てかけられていた。
巫女さんは「私は部外者みたいだから」と、お茶だけ出して料理の支度しに台所へ行った。
もらったお茶をありがたく頂いてから、私は魔理沙さんの方を見て、その疑問に答える。
「肉体は十代目の稗田阿斗で、中身は九代目の阿求というだけですよ」
右手で私には無かった長い髪をいじる。中々に面倒だけど、伸ばしてみるのも悪くなかったかもしれない。
「というか、魔理沙さんは前情報無しに良く私だとわかりましたね」
「振る舞いや仕草、言動だけでも結構わかるものさ。そんなに鈍感じゃ魔法使いなんかやってられない。確証を得たのは白蓮との会話の時だがな。阿斗はまだ白蓮の過去の話を聞いていないはずだし」
「成程……」
わかってくれたのは嬉しいが、あの話を盗み聞きしていたのか。
その事を指摘しようとすると、彼女は「それよりも!」と身を乗り出して私を指さす。
「お前が阿求だなんて、わかりきってるんだ。私が聞きたいのは今の状態に至った経緯だ」
数秒間私が考えあぐねていると、自分が恥ずかしい格好をしていると気づいたのか彼女はすごすごと炬燵の布団に両腕をうずめる。
さて、どう話したものだろうか。迷っていると、いつの間にか歪に裂けた空間から金髪の妖怪が姿を現していた。
「それは私から話しましょう」
「紫っ!」
神出鬼没な彼女は、炬燵の庭側の席に現れた。しかし炬燵に入っているわけではなく、紫色のドレスを着た半身だけが胸像のようにスキマから乗り出している。
どうやら説明の手間が省けそうだ。
「話は稗田阿求が死んだ所まで遡るわ」
そう、私は確かに一度死んだのだった。
問題は三途の川を渡り、地獄の裁判所の判決中だ。閻魔様が今までに何回か繰り返したように、阿礼乙女の特例についての説明をする。そして説明と同じく儀礼として、裁判に組み込まれた台詞をなぞる。
『何か言い残す事はありますか?』
転生できるのだから、他の人に比べて不服も少ないはずなのに、私は無意識に思った事が口に出てしまった。
『未来の幻想郷を歩き回りたいです』
「自由に空が飛べたらなぁ」という願望と同じようなものだった。叶うはずもない理想なのだから、かえって気安く言えてしまう。「こうしたい」という欲望ではなく、「だったらいいなぁ」程度の希望だ。
言うまでもなく、閻魔様が取り合う必要のないことだ。
『……それはなりません。一度三途の川を渡った人間が現世に戻るなど、絶対にあってはならない事です』
『一日くらいなら、特例の一つや二つ良いんじゃない?』
『八雲紫……』
生と死の境界さえ乗り越えて、彼女はスキマから現れた。何処で話を聞いていた、と不気味に思ったが彼女は阿礼乙女の裁判には毎回こっそり立ち会っているらしい。
閻魔様は結局公に許可を出す事はしなかったが、四季映姫ヤマザナドゥ個人として協力してくれた。本人曰く「転生のマイナスと、地獄への貢献のプラスの余剰分です」らしい。本当かどうかは微妙な線だが、私はそれを彼女の優しさと受け取った。
「……という事なのよ」
「成程な。それで十代目の稗田阿斗の体に、一日限定でとり憑かせてもらったという事か?」
「大体そんな感じです」
「しかし腑に落ちないな。魂が転生しているのに、何で阿求が出てこれるんだ?」
死後の魂は閻魔の裁判を受けた後、冥界で待った後で転生するか、輪廻から外れ地獄か天界に行くかの三択である(細かく言えば微妙に違うかもしれないが)。
次代が生まれたという事は、稗田阿求は十代目に転生したという事である。九代目の魂なんて、もうどこにも存在するはずがないのだ。魔理沙さんの言っているのは、そういう事だろう。
「だから大体そんな感じ、なのよ。稗田阿求の魂がとり憑いている訳ではないわ」
「どういうことだ?」
「体を乗っ取っているのではなく、記憶と性格を転生前にコピーした九代目のモノにすり替えているのよ。喩えるならハードはそのままにプログラムだけ書き換えた、というところかしらね」
魔理沙さんは「意味はわかるが、後半の比喩はわからん」と言って首をコキリと鳴らした。そして私を見る。
「それじゃあ、お前……」
「ええ。多分、私は稗田阿求と呼べる代物では無いかもしれません」
個体とは細胞の集まりが情報によって連続している事である、という話を聞いた事がある。個人の定義が連続性ならば、十代目が生まれてから今日が来るまでの空白がある私は、決して稗田阿求では無いのだ。
言うならば稗田阿求と全く同じ思考と行動をする別の生き物、なのだろう。
確かにそうかもしれないが……
「それでも私は稗田阿求です。誰か一人でも私を阿求と呼んでくれるなら、私は自分を阿求として認められます」
「……そうか、その通りだな。阿求」
魔理沙さんは珍しく目を閉じて、優しげに笑った。
制限時間が日没までだというのに「自分は何なのか?」という、何年かかってもわからないような命題に頭を抱えるのは馬鹿らしい。誰かが自分をそう呼んでくれれば、一日を生きる真理としては十分だろう。
私は私だ。今日という日を楽しめれば、それでいい。
「しっかし要は脳みそだけ入れ替えたみたいなもんだろ?よくそんな事が出来たな」
「当然スキマ妖怪一匹の手に余る所業ですわ。だから色んな人に事情を話して手伝ってもらったのよ」
それで私が九代目である事に気づいている人が多かったのか。魔理沙さんみたいに所作や言動、能力なんかで気づいた人もいただろうが。
「あとは私が雑談でぽろっと喋っちゃったり」
「おいコラ」
つい汚い言葉遣いになってしまった。
それにしたって軽すぎやしないか……
まあ知られて困るような事ではないが、他人になり済ますという一種の遊びが思うように出来なかったのは残念だ。
「さて、それじゃ私はそろそろレイムの手伝いでもしてくるぜ」
黒い魔女が炬燵から出て立ちあがる。
そう言えば博霊の巫女は代替わりしても「レイム」という音は変わらないが、漢字は変わるのが習わしだ。どういう漢字なのか聞こうとして、やっぱりやめておいた。聞いても仕方あるまい。
「それじゃあな阿求。お前の案内役になれて良かったぜ」
「ええ、さようなら。今日は魔理沙さんが居てくれて本当にありがたかったです」
そして彼女は廊下へと出て行った。別れ方が少しあっさりしすぎなようにも思ったが、爽やかで彼女らしいかもしれない。
「よい……しょ。私たちは夕日でも眺めましょうか」
「それはいいですね」
八雲紫はスキマから這い出て、境内に出た。私もそれに従って歩く。
「今日一日幻想郷を歩いて、どうだった?」
大妖怪の問いに、私は足元を見ながら歩いて考える。
「そうですね……」
幻想郷は大なり小なり変わったと思う。
博麗霊夢が死んで役割は新しい巫女に受け継がれた。
スカーレット姉妹が人里に遊びに行くようになった。
十六夜咲夜は紅魔館の住人に見守られる中で逝った。
輝夜と妹紅は殺し合うものの少しだけ仲良くなった。
東風屋早苗は生れた故郷に骨をうずめることにした。
古明地こいしが昔より第三の目を開くようになった。
魂魄妖夢は身長が伸びて大人しめの性格に変わった。
霧雨魔理沙は人間から種族として魔法使いになった。
知ってる人が沢山死んで、知らない人が沢山増えた。
それでも幻想郷は相も変わらず幻想郷だった。私の知っている世界とは少し変わってしまったけれど、やっぱり私はここが好きだ。
幻想郷は牧歌的で、物騒で、優しそうで、残酷で、穏やかで、厳しい。
少女たちは楽しそうに空を舞い、弾幕ごっこに興じる。
冥界の桜はとてもきれいで、太陽の丘の向日葵は温かくて、妖怪の山の紅葉は美しく、氷張った湖で遊ぶのは楽しい。
そんな幻想郷を、私はどうしようも無く好きだから。
だから、その問いへの答えは……
「もう一回くらい、最期の一日が欲しいです」
スキマ妖怪は口を開けてぽかんと私を見た。そして意識がようやく追いついたかのように、腹を抱えて笑い始めた。
「あははははっ。いいわね、それ。人間らしくて、とてもいい答えよ」
彼女は人差指で涙をぬぐい、姿勢を正した。そして鳥居より先の境内の一番端に立って言う。
「どうかしら、この風景は」
「―――――――」
博麗神社からは夕焼けに染まる幻想郷が一望できた。
あそこに見えるのは人里か。茶色い屋根が赤色に塗られている。収穫期を控えた水田は、風が吹くたびに美しく照り輝く。紅魔館はより赤く染められ、その前にある湖は空の星にも負けない位に光を反射させて輝き、妖怪の山は火事でも起きたかのように真っ赤に燃えている。夜はあんなにも怖い竹林は、哀愁のような優しさを宿していた。
山の地平線から覗く太陽が、全てを平等に赤く照らす。
「こんな風景を一人占めできるなんて、博麗の巫女が羨ましいです」
彼女は「そうね」と相槌をうち、微笑んだ口元を扇子で隠す。
「やっぱり、すごくきれいでしょう?」
「はい……」
扇子を閉じて、彼女は再び西に顔を向ける。その顔はまるで自分のおもちゃを自慢する子供みたいだった。八雲紫が私に協力してくれたのは、単に幻想郷を自慢したかっただからじゃないだろうか。
「あ、それと十代目をよろしくお願いします」
「事後処理は任せときなさいな」
十代目のこの体の持ち主には悪いと思っている。彼女の貴重な一日を潰してしまったのだから。
とはいえそこら辺はスキマ妖怪が埋め合わせをしておいてくれるだろう。本人も楽しむイベントなんかを用意して。
彼女はこちらに向き直り、私が散々繰り返した質問をした。
「幻想郷は、好き?」
私は何も言わずに、ただ笑った。ここまで来て聞くような事かと、今さら言うまでもないだろうという事を沈黙をもって答えた。
わざわざ何代も幻想郷に転生し続け、挙句の果てに地獄で我儘を言うような人間に問う事ではない。
私は目を閉じ、思い切り息を吸い、肺の中に酸素が満たされるのを感じてから、ゆっくりと吐き出した。それから、最後に別れの言葉を告げる。
「それでは……さようなら」
「ええ、さようなら」
私が消える時が来た。
本当は寂しくてたまらないはずなのに、心の中は温かい気持ちで満たされている。
瞳には涙が溢れているけど、顔はどうしようもなく笑っていた。
地平線の上で太陽が輝いている。
その赤い光が段々と小さくなっていく。
そして―――――
日が、落ちた。
「今日は特別な日なんですよ」
団子屋の店主のお爺さんが「はて、祭りでもあったかね」とぼやいているのをしり目に、赤い布がかけられたら長椅子に座って、頼んだみたらし団子を好きなだけ胃に詰め込む。
脂肪を気にせず甘味を食べられる事は、何と素晴らしいのだろうか。これまで太るのを気にして、決めた分量だけなんて薬のように甘いものを摂取していた自分に見せびらかしたくなる。
ちなみに店主が言うようなお祭りはこれといって無い。私以外の人にとっては、今日は何ら特別な日では無いだろう。しかし私にとっては人生でたった一度きりの、大きな意味を持った一日なのである。
今日は稗田阿求、最期の日なのだ。
「ごちそうさまでした」
「ん。じゃあお代は全部合わせて……」
「ツケで」
そう。最期の日なのである。
里の雑踏を歩く。秋空に照り輝くお天道様の真下、八百屋のおじさんの呼び込みやおばちゃん達が世間話をする声が混ざり合って、全体で一つの喧騒という音をなす。
この光景もこれで見おさめか。そう思うといつもと何も変わらない日常の一部にですら愛着がわいてくる。
花屋の前でお婆さんが客と談笑している。客が持っている白地に淡い青色をした花の名前はなんだっただろうか。こういうとき、花より歴史な生涯を送っていたのを悔みたくなる。寺小屋に遊びに行く時にいつも通っていた花屋なのに、そこに立ち並んでいる花の名前を私はほとんど知らなかった。
知的好奇心は強い方なのに、私はいつも興味無くこの道を通り過ぎていたのか。店主にちょっと話しかけて聞くだけでいいのに。今からでも遅くないかな、とも考えたときには花屋は遥か後方にあった。
「あ」
私は道行く人の中に見慣れた人影を見つけ、ふと足を止めて声をかけた。
「慧音先生」
「……ッ!?」
先生は目を見開いて私を見て、一瞬だけ言葉を失った。そして恐る恐る、というように口を開く。
「阿求……?」
先生は見ただけで大体の事情を把握したらしかった。もしかすると大まかな話は通っていたかもしれないが、どちらにせよかなり勘が良い。と言っても普段と違う呼び方をしたから、というのが一番の要因だろう。先生は言葉を失い、何とも言えない難しい顔をした。私は彼女にそんな表情をして欲しくないと思い、
「妹紅さんとの逢瀬はどうでしたか?」
「このっ!」
ぽかり、と頭を拳骨で殴られた。頭を押さえて顔を上げると、先生は呆れるような顔をしつつも微笑んでいた。なんと言うか、まあ、先生らしい顔だ。でもその微笑みは少し寂しそうにも見えた。
「変わらないんだな、お前は」
「ええ」
周りに比べて精神的には早熟だったので、三つ子の魂百までの典型例だと自負している。いや、そういう意味じゃないんだけど。
「あと……どの位いられるんだ?」
「日が落ちるまでです」
それが私に残された時間だ。明日の日の出を拝む事はおろか、夜空を見上げることすら叶わない。
彼女は顔を隠すように額に手を当て、前髪を押さえた。
「この後……」
「今日は、幻想郷中を見て回ってこようかと考えています」
最期の一日をどう過ごすかを悩んで出した結論では無い。幻想郷を見て歩く事は、始めから決めていた。むしろ今日一日はその為にあると言っても過言ではない。
「そのか弱い脚で幻想郷中を歩くつもりか?」
「まあ……可能な限り」
先生は頭から手を離して腕を組み、ため息を吐きだす。その仕草はとても大人の女性、という感じがして格好良い。
「命蓮寺の方に黒い奴が居ると思うから、脚として使ってやれ」
「……すいませんね」
「ほら。さっさと行かないとほとんど回れない内に終わるぞ。私はお前と一日中駄弁っててもいいが、阿礼乙女はそうはいかないんだろう?」
と先生は私の頭を乱暴にかき回した。そんな子供扱いしないで欲しい。
私は頭を下げて「お言葉に甘えて」と言って、彼女に背中を向けた。
「それと」
二、三歩進んだところで、優しい声で呼びとめられた。
「お前と居るのは楽しかったよ。阿求」
「……」
私は振り向かずに「私もです」とだけ返して命蓮寺の方に脚を向けた。不意打ちでそういう事を言うのは卑怯だ。
鼻の奥の方が僅かにつんとする。
これ以上顔を見ていたら下手をすると泣いてしまいそうで、先生の方を見る事は出来なかった。
「駄目だ駄目だ……」
他の人には聞こえないように、地面を向いたまま口の中だけで一人ごとを転がして我慢する。
嘆いている暇はない。もう私は十分に悲しんだ。
せっかくの一日をわんわん泣いて終わらせるのは勿体無いだろう。今日という日を悲しむ為に迎えたわけではない。むしろ目一杯楽しんでやろう、位の気概で居るのだ。
最後に声を聞けただけで声を聞けただけで十分だ。
私は顔を上げて歩みを進めた。
「ぅえっくし!」
あまり乙女とは言い難いくしゃみが出たので、周りに誰も居ないのを確認する。命蓮寺は人里の端っこの方の小高い丘にあるので、特に人通りを気にする必要はなかった。
「で、無断で入って良いのかな……」
長く続く塀に囲まれた命蓮時では、この門以外に入口は無さそうなのだが、勝手に開けて入って良いものだろうか。悩んでいると塀の上から声をかけられた。
「入口は入る為にあるんだ。何を躊躇しているんだい?」
「はぁ……」
腕組みをした可愛らしいネズミさんが、塀の上からこちらを見降ろしてくる。スカートの中身が丸見えなのは気にしないのか。ドロワーズ派な彼女にとってはどうでも良いらしかった。
「っと」
ネズミさんは軽やかに着地して、門に手をかける。
「では私が代わりに開けてあげよう。で、君は白蓮の説法でも聞きに来たのかな?」
「あ、ウチは神道系なんで遠慮しておきます」
「その割には君、大晦日とかは仏教式で過ごしているだろう」
「楽しいイベントはできるだけ共有すべきです」
「じゃあ毘沙門天様とか信仰してみないかい?」
「話聞けよ」
「冗談だ」
ネズミさんはそう言い、目を閉じて微笑んだ。何が冗談なのか良く分からない。
門から入って数歩歩くと、その毘沙門天様の姿が見えた。
「あれがウチの大仏代わりの虎丸星だ。一応信仰の対象……のハズなんだが……」
ネズミさんが眉間にしわを寄せるのもよくわかる。
寺に向かって右側、数十メートル先には庭の手入れにいそしむ毘沙門天様がいた。遠目でわかり辛いが、着ているのは妹紅さんなんかが好んでいる「芋ジャー」だろう。
香霖堂にごく稀に入荷される人気商品だ。モノによっては謎の人名が刺繍されている。
店主曰く「服を大切にしているから、一つ一つに名前を付けたんだろう。固有の名を与える事はそれに価値を認める事だから。人名を与えるなんてのは、それを人と同じくらいに扱うということだ。それが幻想になっているとしたら、少し寂しい気もするね。外の人間は(以下略)」だそうだ。
それにしても訪問者にも気付かず、せっせと仕事をする彼女は非常に活き活きしているように見える。
「……まあとりあえずアレは放っておいてくれ」
彼女のバツの悪そうな顔に、私は自然と口元がゆるむ。
信仰の対象が御簾を隔てた神聖なものではなく、隣にいて支えてくれるような存在、というのも幻想郷の信仰スタイルらしくて良いのではないだろうか。
「で、ここに何の用で来たんだい?」
玄関を上がって廊下を歩く途中、急に彼女は立ち止まって振り返った。
本日の目的は「幻想郷を見て歩く」ことなので、用事らしい用事は無い。しかし意味もなく寺を訪れに来たというのも怪しがられそうなので、適当にそれっぽい事を言っておいた。
「ここの代表者である聖白蓮さんに会わせて頂けませんか?」
「いいだろう。付いておいで」
そう言って彼女はまた歩き始める。
台所を通過するとき、鵺と船幽霊が「ちょっと位お肉入れてもバレないって」「アンタ前にそれで怒られたの、もう忘れたの?」という、もしかするとお寺らしいトークを繰り広げていたのが聞こえた。
もうしばらく廊下が続いた後、とある部屋の前でネズミさんが止まる。
「聖ー、客が来たぞ」
「はいはい。それじゃあ通して」
ネズミさんの手により襖が僅かに音を立て開かれる。聖白蓮は机の上に書や墨を広げ、その前で正座していた。写経でもしていたのだろうか。
私は部屋の中に歩みを進め、頭を下げた。
「こんにちわ」
「ええ、こんにちわ。ナズ、座布団とお茶を」
白蓮さんが机の上にあったものを片づける間、ネズミさんが座布団を引っ張り出して、彼女と反対側の私のもとにしく。
「それではどのような用件でいらっしゃったのですか?」
さっきも言ったが挨拶回りに来ているだけなので、これといった用事も私には無かった。少し雑談が出来れば、それで満足なのである。それどころか各人の姿をちょいと拝見出来るだけで良い。
こんなことならさっき、団子屋で手土産用のお菓子を買ってくれば、もう少し自然な感じで話も進んだろうに。残念ながらお団子はお腹の中なので、渡すのはどう足掻いても不可能である。
黙っている私を見越して、彼女は自分の営業を始めた。
「じゃあ手始めに我が命蓮寺の成り立ちについて話しましょう」
不味い。様子が慧音先生のうんちくを披露するときに酷似している。
勧誘を始めようとしている白蓮さんに身の危険を……否、それ以上の危険を感じ、話の流れをこちら側に持ってくることにした。
「えっと……話の腰を折るようで申し訳ありませんが、別に入信しに来たわけでは無いんですが……」
「あら、これは早計でしたね」
私が入信フラグを回避している内に、ネズミさんがお茶を用意して部屋から出て行った。割と適当にやっている感じなのに、随分と手なれていて垢抜けた所作である。
「えー、白蓮さんが幻想郷に来たのはどれくらい前でしたっけ?」
「封印が解けたのが……第何季だったかしら。まあぼちぼちですね」
彼女はごまかしているというのを感じさせない、優しそうな笑顔で言う。何だかぼちぼちという言葉が死ぬほど似合わない人だ。
一応断っておくと、私はちゃんと彼女がいつ来たのかをわかっていて、流れのために話をふっただけなのだが。
「では最初に幻想郷に来た時どう思いましたか?」
「そうですね……」
どうにも某鴉天狗みたいにインタビューになっているな、と思いつつ私は茶をすすった。大分渋めである。
彼女は机に視線を落として、俯いたまま話し始めた。
「最初は嫉妬しました」
「嫉妬?」
「ええ」
またイメージに似つかわしくない言葉が出てきたものである。勝手にそんな事を考えるのは私の偏見だろうか。
「私は人間と妖怪の共存する社会を目指し、結果として人の手によって封印されました。そこは知ってますよね?」
「ええ。他の命蓮寺の方々の尽力によって助け出されたとも」
「その通りです。しかし皆のおかげでようやく外へ出たときには、自分の理想が他人の手によって勝手に実現していたのです」
顔をうつ向けたまま、彼女は言葉を紡ぐ。
「正直、今までの自分の努力を侮辱されたようにさえ感じました」
その気持ちは分からなくもない。私も幻想郷縁起が執筆中に、他の誰かの手によって完成されたら腹が立つ。彼女の言う事はもっともだった。
「けど、最初はってことは今はどうなんですか?」
俯いていた彼女は顔を上げ、凛とした表情で言った。
「幻想郷に住んでみて、ここは私の理想とはまた別物であると理解しましたから。両者の争いの本質を形骸化した事によって解決しても、根本的な、妖怪が襲い人間が退治するというシステムは変わっていません。私は仕組みごと、この世界を変えたいのです」
「どちらかが一方的に虐げられているのを見たくない、という私の我が侭なんですけどね」と表情を崩し、彼女は湯飲みに手をつけた。
幻想郷の仕組みは十分画期的だ。彼女はそれを更に超えようと言うのだから、その道のりは決して楽なものではないだろうし、両者が全く争わない形で共存する道は最初から存在していないかもしれない。
無論、彼女はそのことをわかっているだろうし、その事実を受け止めて、その上でそう言い切ったのだろう。
「すごいですね……」
私の口からは素直に賛辞の言葉が零れた。
不可能かもしれないことに人生をかけるという真似は、到底私には真似できそうも無いことだった。彼女は本当に救済者向きだ。
「そんなことありませんよ」
コトリ、と彼女の湯飲みが机に置かれる音がする。
「今までの道のりを無駄な努力だったと、切って捨てることができないだけです。むしろ不可能かもしれない理想にすがっている私は惨めでさえあるでしょう」
それでも、と彼女は言う。
「こんな私の理想に付いてきてくれる者たちがいます。貴女のおかげで救われた、とさえ言ってくれる者もいます。その者達に笑われないためにも、私は全力を尽くしたいんです」
「……やっぱり格好いいですよ」
何だか拗ねる様な口調になってしまった私に対して、彼女は「すいませんね。おだててもウチに余ってるのは線香位しかありませんよ」と笑う。
葬式、命蓮寺でやってもらえばよかったかな、と私は微妙にずれた後悔を感じた。
むず痒い気持ちを紛らわすために、私はもう一度渋いお茶に口をつけてから、最後にある質問をしてみた。
「白蓮さん。幻想郷の事は好きですか?」
聖白蓮は少し目を丸くしてから、そして穏やかに笑った。
「嫌いだったら、今頃この命蓮寺は何処か遠い空を飛んでいますよ」
大嫌いです、という答えが返ってこなくて安心した。この人は私と同じモノを好きなんだという些細な共感が、今日はやたらと嬉しく感じた。
「聖ー、ご飯できたよー!」
台所から快活な船長さんの声が聞こえてきた。いつの間にか良い匂いがここまで漂ってきている。
「ああ、そうだ。折角ですから、お昼を召し上がって行きませんか?」
「そうしたいのは山々ですが……」
団子を食べて食欲が微妙な私が逡巡していると、後ろから背中を押す声が聞こえてきた。
「人の好意には素直に甘えとくもんだぜ」
「あ」
声のした部屋の外の方を振り返ると、腕組みをして仁王立ちする霧雨魔理沙の姿があった。私の想像とは違ったが、慧音先生の言った通りだ。命蓮寺で黒い奴と聞いて、鵺さんの事かと思ったのだが。
ちなみに私の後ろに居る魔理沙さんのその後ろには一輪さんが居て、更にその後ろには入道の雲山さんが浮いている。地味に描写がくどい構図である。
「魔理沙さん」
「おう。久しぶりだな、阿求」
霧雨魔理沙は昔から変わらない近所の悪ガキみたいな笑顔で応えた。腹が立つのは僅かだった身長差が、無視できない大きさになっていたことである。畜生……
「……ぉえ」
「阿求。頼むから吐くときは私の背中以外にな!」
「だったら蛇行運転をもう少し控えて下さい……」
「善処はしている」
うすら寒い秋空の下。私は魔理沙さんの箒に乗せてもらい、迷いの竹林の上を飛んでいた。昼でも夜みたいに暗い竹林の方を見ると、本当に彼女に脚になってもらってよかったと思う。
「そもそも私が吐きそうなのは、魔理沙さんのせいなんですからね」
「まさか団子を貪った後だとは知らなかったんだよ。第一、命蓮寺は精進料理なんだからそんなに腹に響かないだろ」
「場所じゃなくて人が問題なんですよ……張り切ってる聖お婆ちゃんが無尽蔵に供給するおかわりを、貴女は拒否できるんですか?」
「そりゃ無理だけどさ。しかしお前、本当に白蓮の孫みたいに扱われてたな」
「悪い気はしませんけどね……」
魔理沙さんの勧められ、結局私は命蓮寺でお昼をごちそうになった。命蓮寺オールスターズと食べるご飯は楽しかったが、私が既に満腹である事に気づかず「若い娘は、ちょっと太ってる位がちょうどいいのよ」と白蓮さんが間断なく私の膳におかわりを盛るのは辛かった。
これでわざとやってたら大したタマだ。
おかげ様で私は胃の中のモノがたぷんたぷん揺れるのが自覚できる程で、腹十分目をとっくにオーバーしていた。
空を飛んでいるのが唯一の救いだ。吹き抜ける涼しい風が、額に浮く汗の不快さを吹き飛ばしてくれる。
「というか何で命蓮寺に居たんですか?」
「ちょいとばかし魔法を習いに。と言っても修行内容は魔法が二で、座禅が八なんだけどな……」
彼女のくたびれた声に、思わず酔っているのも忘れ笑ってしまう。
はて、命蓮寺は禅宗だっただろうか。などと考えていると、少し呆れた調子で彼女は言う。
「にしてもこの魔理沙さんを運び屋に使うとはいい度胸だよな」
「貴女は何でも屋じゃないんですか?」
「報酬があれば、な」
「じゃあとりあえずツケで」
「……何だか踏み倒される気配がするんだが」
当り前だ。そういうつもりで言っているのだから。
彼女の背中に抱きつく私は、口角を上げてこっそり笑った。
「死ぬまでツケとくだけです」
「……言うじゃないか。生殺与奪権と制空権は私が握っているんだぞ?」
「じゃあ家の方にツケといて下さい。言えば多分、夕食位ごちそうしてくれるでしょう」
「それで手を打とうか」
もっとも魔理沙さんなら、特に何にも無くても稗田家の人達はもてなすだろうが。多分、彼女もそれをわかっているのろう。とどのつまり、彼女は奉仕の精神に基づいてタダ働きをしているのである。いや、奉仕ではなく知的好奇心か。
「着いたぜ」
密集していた竹林が開け、大きな屋敷が姿を現す。かの有名なかぐや姫の住まいである。
私たちは砂埃を起こしながら、ゆっくりと着陸した。驚いた兎達が四方へ逃げ出すのを見ると、海を割っていた早苗さんの気持ちがわかる気がする。
そんな様子に気づいたのか、中からブレザーを着たウサミミ少女が出てきた。その手に文庫本を開いた状態で持っているので、どうやら読書中だったらしい。
「魔理沙……と稗田さん?」
うどんげさんは眉間にしわを寄せてこちらを見た。
彼女が狂気を操る事が出来るのは、物体や生物、感情などの波を弄る事が出来るからだと聞く。多分、私の波が異常なのか、もしくは逆に異常で無いのがおかしいから、そんな疑うような目をしているのだろう。
「ええ、こんにちわ。輝夜さんは御在宅でしょうか?」
「姫様なら向こうの部屋にいるけど……」
「それじゃあ道案内を頼むぜ」
彼女は頷いて「わかったわ」と答えると、本にしおりを挟んでブレザーのポケットにしまう。私たちは草鞋と靴を脱いで縁側に上がり、道案内に付いて行った。
二、三程部屋を通り過ぎると、ウサミミ少女は立ち止まった。
「姫様、お客さんです」
「はいはい。通しちゃってー」
彼女は障子越しの会話を済ませると、それをすっと開いて私たちを中に招いた。
「いらっしゃい。阿求、白黒」
「魔理沙だ。長く生き過ぎて、この私の名前も覚えられないほど耄碌したか?」
「冗談よ、魔理沙」
永遠亭の姫君は、妹紅さんと二人で囲碁盤に向かい合っていた。幻想郷で会った頃は、毎日のように殺し合いを続けていた時期から比べると、二人の間柄は大分進歩したようだ。
「こんにちわ。輝夜さん、妹紅さん」
妹紅さんは和やかに微笑んで、「おぅ」と手をあげて返してくれた。
「さて」
盤を挟んで妹紅さんの向こう側に座るカグヤ姫が、ウサミミ少女を指さして言う。
「鈴仙、永琳に言ってお酒を適当な数、持ってきなさい。ああ、この間人里からもらった例のお酒もね」
「あれって、自分の誕生日用とか言ってませんでしたっけ?」
「いいのよ。この後何万何億回とある私の誕生日なんかより、今日の方が遥かに大切だわ」
うどんげさんは「はあ……」とか曖昧に頷きながら部屋を出て行った。
しばらく四人で取りとめのない事を話していると、うどんげさんが永琳先生といっしょにお酒を持って帰ってきた。四人から六人に増え、更にお酒も入って小さな宴会が続く。会話の内容は夜雀の屋台にウサギ肉が追加されたことに対する永遠亭組の不満だの、「たいじゅうけい」なるものが人里で流行り始めているだの、特筆すべき内容でもないので割愛しておく。
気づくと嘘吐き兎を始めとする妖怪兎や、何処からか入り込んだ虫妖怪、噂をすれば影の法則に従った夜雀なんかも宴に加わって大所帯になっていた。真昼間から何とも不健康な連中である。私も含めてだが。
「しかし悪いですね……こんな大騒ぎになっちゃって」
「いいのよ。騒がしいのは嫌いじゃないわ」
あっちの集団に引っ張られ、こっちのグループに紹介されたりと多忙を極めていた私だったが、今は落ち着いてお姫様と二人で縁側に並んでいた。間にはお盆と徳利が置かれ、お互いの手はお猪口を掴んでいる。
「それに、貴女は今日が終わりなんでしょう?」
私は彼女の方をみた。両方の掌でお猪口を覆い、鈴虫の鳴き声に耳を傾けているかのように、涼しそうに目を閉じている。
その所作を見ていると、周りの喧騒が随分と遠くに聞こえ、私たち二人だけが違う空間に切り離されたようにさえ錯覚した。
「私にしろ、妹紅にしろ、事情は大体知ってるわ」
「……成程」
「そこでなのだけれど」
彼女は閉じていた目を開き、私の方を向いて楽しそうに口角を吊り上げる。悪戯を思いついた子供みたいな顔だ。
「蓬莱の薬について。今なら前と違う返事がもらえるかしら?」
初めての対面からしばらく後、色々と永遠亭に縁があった私は彼らの事情を知り、そして永遠の命が欲しくはないかと誘われた。彼女の言う「前」とはその事を指しているのだろう。
私は苦笑しながら言葉を紡いだ。
「それ、手遅れなのわかって言ってますよね」
お姫様は「ふふふふふ」と性悪そうな声で笑った。良い性格をしている。
私がこの世界に居られるのも日没まで。それは恐らくだけれど、蓬莱の薬でも動かせない決定事項だ。
「そうじゃないわ。たられば話でいいのよ。もしも、でいいわ」
彼女はまた目を閉じて、肩の力を抜く。対照的に私は背中を丸めて、お猪口を胎児のように抱えた。
「変わりませんよ……ずっとこの世界を見ていたいと願ってたご先祖様に悪いですし、阿礼乙女の描く歴史は、転生し続けるから意味があるんです」
「そうかしら。正確な歴史を記すためには、ころころ変わる観測者じゃ役不足だと思うけれど」
私は姿勢を正し、お猪口の中身を一気に飲み干す。酒気を帯びた熱っぽい息を吐き、続けて言葉を吐き出す。
「違いますよ。完璧な歴史書を作るのなら先生が居れば事足りますし、そもそも転生前の百年の空白や不完全な記録の継承があること自体おかしいんです」
精密に歴史を語るには、阿礼乙女は欠陥品とさえ言えるだろう。カグヤ姫の言い分は確かに正しいのだ。
彼女は黙って次の言葉を待っている。私は手に持っていた空のお猪口を盆の上に置き、両手を重ねて前を向いた。
「ある時代を記す阿礼乙女は、その時代を生きている人です。傍観者では無く当事者の目から見た幻想郷なんです」
幻想郷が滅ぶ程の危機があった代の資料と、平和な代の私の本は内容だけでなく、文体、形式、装丁、挿絵に至るまで大きく異なっている。書かれている事だけではなく、書全体が編纂した者そのものを体現し、つまり当時の幻想郷を象徴するのだ。
「へえ……それは面白い見解を聞いたわ。正確な歴史書は記録で、貴方達が書いてきたものは記憶、といった所かしら」
「まあその通りですね」
いわば幻想郷全体の日記帳とでも言うべきか。歴史書と呼ぶのには、余りに適当なものである。
そもそも初代が書いた、正確には口述した古事記だって内容の真偽は怪しいもんだ。読む方としては割と楽しいから不満は無いが。
「さて」
私は草鞋を履いて、跳ねるように縁側に降りた。
「あら、もう行くの?」
「幻想郷はここだけじゃありませんから」
「そ」
彼女は私の代わりに魔理沙さんを呼んだ。
白黒の魔女は千鳥足で無いところを見る限り、一応飲酒運転には気を付けているようだ。
「あー、えと。最後に」
「何かしら?」
気まぐれで何となく、聖白蓮にした質問を彼女にもぶつけたくなった。
「幻想郷は好きですか?」
お姫様は少しきょとんとした後、顎に人差し指を当て思案顔になった。魔理沙さんは外へ下りずに、後ろから彼女を見つめている。
やがて蓬莱山輝夜は柔らかに瞼を閉じた。
「好きでも無ければ嫌いでもないわ。ただ……少なくとも、退屈はしてないわ」
彼女は微笑みながら肩をすくめた。その顔を見て、自然と私も顔がほころんだ。
「さ、そろそろ次の目的地に行こうじゃないか!」
いつの間にか外へ下りていた魔理沙さんが、いつの間にか手にした箒にまたがる。その後ろに続いて、私も箒に腰かけた。
「それじゃ、お元気で」
「ええ。さようなら」
ゆっくりと私たちの足が、地面を離れた。
こちらに気づいた宴会をしていた面々は、妹紅さんをが手を振ると、面識のないような子まで滅茶苦茶に叫んで楽しそうに手を振ってくれた。私もそれに目一杯手を振り返す。
「さようならー!」
人の身長の半分位浮かび上がると、箒は急発進して幻想郷の澄んだ青空を駆けた。
永遠亭を発ってから旧都を含め何箇所かを訪ねた後、私は地霊殿の中を歩いていた。
赤と黒のチェック柄をした床の廊下は、前が暗くて良く見えないせいで何処まで続いているのか良くわからない。
そんな道を案内してくれるのは、館と似たような配色をした猫耳少女だった。
「こんなトコに来るなんて、濃い姉さんも中々物好きだね」
火炎猫燐は車を押しながら、何がおかしいのか声を上げて笑う。
というかその女装マッチョみたいな呼び名は何だ。
「濃いって……」
「あたいの主人も同じ紫色の髪だけど、それよりも濃い紫色だからさ」
そう言ってまた彼女は「にゃはははは」と笑う。
あだ名は余り気に入らなかったが、せっかく付けてくれたので訂正せずに置いておいた。
その代わりにちょっと質問をさせてもらう。
「私、何か変ですか?」
「どこがだい?」
今度は不思議そうな表情で振り返った。
それならそれでいい。一応今日の事情は皆に内緒の予定だったのだ。変に察して気を使われるのも悪いし。
「お邪魔しまーす!」
「こらこら、お燐。入るときはノックをしなさいと言ったでしょう」
「はーい」
いつの間にやら館の主の元へ着いたらしく、道案内人はとっとと部屋に入っていた。
私もそれに続いて部屋に入ると、扉が不気味な音をたてて独りでに閉じた。河童に頼んで改造でも施してもらったのだろうか。地霊殿は色々とハイテクなのかもしれない。
「お邪魔します」
部屋は広い館からすると割と狭く、中央に置かれたテーブルを二つの赤いソファーが挟んでいた。入り口の反対側にはステンドグラスの窓があり、壁にはいくつか絵が掛けられている。絵に疎い私にもわかるような有名な西洋の絵画に混じって、こいし嬢かペット達が描いたと思わしき絵も飾ってあった。親バカ……
「こんにちわ。古明地さとりと申しま……あら?」
初対面で無いと思い当たったらしい。彼女は軽く非礼を詫びる言葉を付けたし、私を赤いソファーに座らせた。
「お燐、もう仕事に戻っていいわよ」
「あいっ、まむ!」
何処で覚えたかわからない敬礼をきめて、火炎猫燐は部屋を出て行った。ちなみに「失礼します」を忘れたのを気にしたらしく、出た後すぐ戻ってきて挨拶し直して去って行った。地味に教育が行き届いている。
ちなみのついでにもう一つ付け足しておくと、魔理沙さんは「さとり妖怪には出来る限り会いたくない」と言い館の外で待っている。
と、そこまで考えて自分が失礼なことをしていたのに気づく。
「――――――あ」
「いいんですよ。嫌われるのまで含めて仕事ですから」
彼女はそう言ってティーカップにお茶を注いだ。少しかがんだせいで、彼女の表情はよく見えない。
「あ、とりあえず無難に緑茶を注いだのですけど、よろしかったでしょうか?」
「いえいえ、全然」
古明地さとりは「そうですか」と目を細め、テーブルの向かいのソファーに座る。ティーカップから緑茶の湯気が漂っているのは、何処となくおかしかった。
いや、この思考も結構失礼に値するのではないだろうか。そう考え出すとキリがなく、思考が妙な方に転がってしまいそうで怖くなった。
「並大抵のことでは動じませんので、楽にしてくれて構いませんよ」
「はぁ……」
さとり妖怪のことを読心術が使えるようになった人間、と考えるのは間違いなのかもしれない。心が読めるなら読めるで、それなりに人とは異なった精神構造をしているのだろう。
と、勝手に考察を重ねる私の心を読んだのか、彼女が微笑む。
「概ねその見解であってますよ。勿論、例外もいますが」
後半の台詞が僅かに悲哀を含んでいたように感じたのは、私の気のせいだろうか。
微妙に気まずくなって緑茶を口元に運ぶと、中々に良い香りが鼻孔をくすぐる。実際に口をつけると、ここが人様の家でなければ「ぷは~」と言いたくなるような味だった。
「お気に召したようで何よりです。それで今日はどのような経緯で……あ、心に浮かべるだけでも構いませんよ」
お言葉に甘えて私は、本をぱらーっとめくるように追想する。こんな感じで大丈夫なのだろうか。
ひとしきり説明を終えると、彼女は「大体わかりました」と頷いた。
「それにしても……わざわざここに来ることもなかったでしょうに」
「え?」
「ここは幻想郷と行き来が自由になっている、というだけで厳密に言えば幻想郷ではないんですよ」
彼女は目を閉じてお茶をすすってから続ける。
「旧都には行きましたよね。あれは元地獄の繁華街です。地獄は幻想郷ではありません。地底は幻想郷に住めなかった者が住まう地、いわば流刑地みたいなものなんですよ」
そう言って地霊伝の主はティーカップを皿の上に置いた。
次の瞬間、それを否定する言葉が私の口をつく。
「違うと思います」
「何故……ですか?」
言うのを止めようとも思ったが、相手はさとり妖怪だ。黙ったところで意味は無い、と思い私は言葉を続けた。
「たとえここが幻想郷と区分されていなかったとしても、ここは幻想郷です。排他した者を放って、綺麗な一面だけをすくって幻想郷と呼びたくありません」
ここは幻想郷だが、理想郷かと言われればそれは違う。理想郷はあくまで空想の中だけで存在するものだ。幻想と空想は違う。認知されなくなった現実が幻想で、頭蓋骨の中にしか存在しないのが空想だ。
理想郷でないから、地底という場所が存在してしまう。しかし、それを認めないのは許されない。そこまで含めて幻想郷だと私は思う。
「それに旧都の独特の風情が漂う街並みや、さとりさんの入れる美味しいお茶を、幻想郷に数えないなんてもったいない真似、私にはできません」
旧都の鬼火なんかがほんのり照らす暗い通りで、ざわざわと楽しそうに皆がはしゃいでる、気だるいながらもどこか明るい雰囲気は人里には決してないものだ。
この部屋に来るまでに見た、館の主が直々に世話している花壇は、紅魔館の門番さんが手入れしている花壇とは別のしっとりとした美しさがある。
地底と幻想郷を繋ぐ橋の管理人は、ぶつくさ愚痴を言いながらも、親切に地底の注意事項を教えてくれたりして心配してくれた。
どこかで聞いた「地底は良いとこ、一度はおいで」というフレーズ。
例えここが忌み嫌われた妖怪の居場所だったとしても、私はその言葉は正しいと思う。
「……って偉そうなこと言ってすいません」
何地上の者が勝手に熱くなって語ってるんだ、と俯くと彼女はゆっくりと首を左右に振る。
「いいえ。そんな風に地底のことを言ってくれた人は初めてです。私は嬉しかったですよ」
そう言って彼女は今日一番の笑顔で微笑んだ。私に心は読めないけれど、この笑顔は愛想笑いなどではないと思いたかった。
「じゃあ……そろそろ行きますね」
「ええ。お気をつけて」
ソファーから立ち上がり、ドアの前に立つとまた木のきしむ音がして勝手に開いていく。しかし外には誰もいない。
「あの、さとりさん……」
「別に山の河童さんたちに頼んで、自動ドアにしてもらったわけではありませんよ」
私が振り向くと、さとりさんの後ろに抱きついた妹さんが、彼女の肩から顔を覗かせていた。どうやら古明地こいしの無意識による犯行だったらしい。いや、犯行と言うか親切と言うか。
「お姉ちゃん。私、閻魔様が言うぜんこーとか言うヤツ積んだのかな?」
「ええ。でも気配を現してからできたら、もっといいわ」
「ははは……」
私は力なく笑った。それでも最近は妹君の姿を良く見ると、先程話した鬼さんは言っていた。彼女も少しずつ変わってきているのだろうか。
気を取り直して、もう一度外に出ようとしたとき、まだ忘れ物があることに気が付いた。
「それと……もう一つ質問しても良いですか?」
部屋を出る直前に足を止め、私は振り返った。
「何でしょう?」
これまでの道程の中で自然とお決まりになっていた質問を彼女にも投げかける。
「幻想郷のこと……嫌いですか?」
少し棘のある聞き方をしてしまったかな、と思ったが彼女は別に意に介した様子はなかった。彼女は心に思ったことを何の手も加えずそのまま発した――――私がさとり妖怪にでもなったかのように錯覚させる――――そんな声で答えた。
「好きですよ。たまに嫌になるときもありますが、それ以上に大好きです」
幻想郷に嫌われても、それでも彼女がそう言ってくれたことが申し訳なくて、けれど私は嬉しいと思った。
真っ赤に染め上げられたカンバスに、何本もの光条が描かれる。その中で四人の少女が楽しそうに踊っていた。
「そもそも弾幕ごっこで一対三っておかしいだろ!」
光の粒を曲芸みたいな動きで交わす魔理沙さんだったが、箒の上の彼女には疲労の陰が強く見えた。
「ルナ、スター!コレって私達が押してるよね?!」
「ついに下克上の時が来たようね……」
「そんな上手く行くかなぁ」
私は最終目的地である博霊神社に向う階段の中腹で、黒い魔女と三人組の妖精が夕焼け空で繰り広げる弾幕に見入っていた。
ここ最近、妖精達は弾幕熱が再燃しているらしく「ここを通りたくば私達の死体を乗り越えていきなさい!」と勝負を挑んできたのだった。体の弱い私は箒から階段に降ろしてもらい、彼女達の戯れを眺めている。時間が余り過ぎて暇という訳でもないが、太陽の位置を見る限りは大丈夫だろう。
ちなみに私一人でとっとと神社に向かうという選択肢は無かった。虚弱体質なめんな。
「中々しぶといわね……」
「悪いが今日だけは譲れないんでね」
青い妖精が「今日も、の間違いでしょうに」と負けず嫌いな魔女にツッコミをいれる。ちなみにセリフは遠くて聞こえづらいので若干アテレコが入っている。
「に、しても」
どうせ近くには誰もいないので独り言をぼやく。
彼女達はなんて楽しそうに空を舞うのか。劣勢の魔理沙さんでさえも、口元では楽しそうに笑う。弾幕ごっこが出来ない私には、それがとても羨ましく感じた。勿論、見るだけでも十分楽しいのだが。
「ええい!残魔力量だとか、四の五考えるのはもう止めだ!!」
弾幕を紙一重で避けながら黒い影が遥か上空まで上った。そして箒の上に大胆不敵に立つ。そしてスペルカードに込められた言霊を吐き出す。
――――――魔砲「ファイナルマスタースパーク」
『ぎょええええ』
と三妖精がマンガのような悲鳴を上げた。
視界が白い光で塗りつぶされる。あまりの眩しさで光を直視することができず、私は顔を腕で覆った。
流石、「弾幕はパワー」を普段から豪語しているだけはある。
「……ミディアム三つか。やりすぎたな、こりゃ」
階段の下のほうで黒コゲになった妖精たちが転がっているのが見えた。大分重症のようだが、妖精だから死にはしないだろう。
「待たせたな」
「いえいえ」
魔理沙さんが私のところで停車する。そして私を後ろに乗せると、申し訳なさそうな顔で言った。
「最近の博麗がしっかりしないから、私がなめられる訳にはいかないんでな……これじゃ私が居ない方がまだ早かったかもな……」
「そんな事ありませんよ。魔理沙さんにはいくらお礼の言葉を並べても、感謝しきれない位です」
確かに、今日の道のりで勃発した弾幕ごっこは一つや二つでは無かった。しかしそれを差し引いても彼女の存在は大きかった。
それに戦っていた時間はさしたるものではない。時間を気にしてくれた彼女は、ひたすらボムをぶち込むという超短期決戦を選んだ。
そのおかげもあってか、日没前に博霊神社までたどり着いた。むしろ少し余裕を残している程である。彼女が居なかったら、今日会えなかった人はもっと少なくなかっただろう。
「それよりも……」
「ああ、わかってる」
私と魔理沙さん、二人分の体重を乗せた箒は、階段のほんの少し上を幽香さん並の速さで低空飛行している。この様子では、多分徒歩で走ったほうがまだ速い。
「あ」
ぷすん、という気の抜けるような音を立てて、箒はゆっくりと階段に着陸した。魔理沙さんはまた気まずそうな顔で言う。
「……すまん。ここからは歩きだ」
「いや、もう少しですし」
私達は博麗神社目指して、残り僅かとなった階段を歩き始めた。赤い夕焼けに照らされてできた先行する影を追いかけ続ける。
「はぁ……はぁ……」
「おんぶしてやろうか?」
「後ろに転がり落ちそうなのでいいです。どうせもう着きますし」
恐らく何代も前から脈々と受け継がれた虚弱体質なのだろう。逆にここまで一日中外出できたのだから褒めてやってもいい気がする。
一方魔理沙さんは弾幕ごっこの後でも元気で、私より数歩先を歩いている。
益体の無い事を考え続けていると、赤い鳥居にたどり着いた。境内では赤い巫女が掃除をしていた。
「おっす、レイム」
「こんにちわ、魔理沙。宴会の予定でもあったかしら?」
「いいや。今日はただの道案内さ」
朱に染められた境内の中、用途は違えどそれぞれに箒を持った二人が笑う。
夕焼け時の神社は、威厳とも不気味さともつかぬ妙な雰囲気を纏っている。ここが妖怪のたまり場だというのも頷ける話だ。
黒い魔女の隣に並んだ私は、赤い巫女に話しかけた。
「こんにちわ、レイムさん」
疑念。
彼女はいぶかしむような目つきをする。まるで見てはいけないようなモノを見ているかのような。
数秒悩んだ後、楽園の守護者は口を開いた。
「アンタ、誰?」
真っ赤に染められた境内に風が吹く。
腰まで伸びた私の髪がなびいた。
「で、そろそろ種明かしの時間と行こうじゃないか」
「種明かし、ですか……」
季節にしては早めに出された炬燵に向かい合って、私と魔女は座っている。箒と帽子は縁側に立てかけられていた。
巫女さんは「私は部外者みたいだから」と、お茶だけ出して料理の支度しに台所へ行った。
もらったお茶をありがたく頂いてから、私は魔理沙さんの方を見て、その疑問に答える。
「肉体は十代目の稗田阿斗で、中身は九代目の阿求というだけですよ」
右手で私には無かった長い髪をいじる。中々に面倒だけど、伸ばしてみるのも悪くなかったかもしれない。
「というか、魔理沙さんは前情報無しに良く私だとわかりましたね」
「振る舞いや仕草、言動だけでも結構わかるものさ。そんなに鈍感じゃ魔法使いなんかやってられない。確証を得たのは白蓮との会話の時だがな。阿斗はまだ白蓮の過去の話を聞いていないはずだし」
「成程……」
わかってくれたのは嬉しいが、あの話を盗み聞きしていたのか。
その事を指摘しようとすると、彼女は「それよりも!」と身を乗り出して私を指さす。
「お前が阿求だなんて、わかりきってるんだ。私が聞きたいのは今の状態に至った経緯だ」
数秒間私が考えあぐねていると、自分が恥ずかしい格好をしていると気づいたのか彼女はすごすごと炬燵の布団に両腕をうずめる。
さて、どう話したものだろうか。迷っていると、いつの間にか歪に裂けた空間から金髪の妖怪が姿を現していた。
「それは私から話しましょう」
「紫っ!」
神出鬼没な彼女は、炬燵の庭側の席に現れた。しかし炬燵に入っているわけではなく、紫色のドレスを着た半身だけが胸像のようにスキマから乗り出している。
どうやら説明の手間が省けそうだ。
「話は稗田阿求が死んだ所まで遡るわ」
そう、私は確かに一度死んだのだった。
問題は三途の川を渡り、地獄の裁判所の判決中だ。閻魔様が今までに何回か繰り返したように、阿礼乙女の特例についての説明をする。そして説明と同じく儀礼として、裁判に組み込まれた台詞をなぞる。
『何か言い残す事はありますか?』
転生できるのだから、他の人に比べて不服も少ないはずなのに、私は無意識に思った事が口に出てしまった。
『未来の幻想郷を歩き回りたいです』
「自由に空が飛べたらなぁ」という願望と同じようなものだった。叶うはずもない理想なのだから、かえって気安く言えてしまう。「こうしたい」という欲望ではなく、「だったらいいなぁ」程度の希望だ。
言うまでもなく、閻魔様が取り合う必要のないことだ。
『……それはなりません。一度三途の川を渡った人間が現世に戻るなど、絶対にあってはならない事です』
『一日くらいなら、特例の一つや二つ良いんじゃない?』
『八雲紫……』
生と死の境界さえ乗り越えて、彼女はスキマから現れた。何処で話を聞いていた、と不気味に思ったが彼女は阿礼乙女の裁判には毎回こっそり立ち会っているらしい。
閻魔様は結局公に許可を出す事はしなかったが、四季映姫ヤマザナドゥ個人として協力してくれた。本人曰く「転生のマイナスと、地獄への貢献のプラスの余剰分です」らしい。本当かどうかは微妙な線だが、私はそれを彼女の優しさと受け取った。
「……という事なのよ」
「成程な。それで十代目の稗田阿斗の体に、一日限定でとり憑かせてもらったという事か?」
「大体そんな感じです」
「しかし腑に落ちないな。魂が転生しているのに、何で阿求が出てこれるんだ?」
死後の魂は閻魔の裁判を受けた後、冥界で待った後で転生するか、輪廻から外れ地獄か天界に行くかの三択である(細かく言えば微妙に違うかもしれないが)。
次代が生まれたという事は、稗田阿求は十代目に転生したという事である。九代目の魂なんて、もうどこにも存在するはずがないのだ。魔理沙さんの言っているのは、そういう事だろう。
「だから大体そんな感じ、なのよ。稗田阿求の魂がとり憑いている訳ではないわ」
「どういうことだ?」
「体を乗っ取っているのではなく、記憶と性格を転生前にコピーした九代目のモノにすり替えているのよ。喩えるならハードはそのままにプログラムだけ書き換えた、というところかしらね」
魔理沙さんは「意味はわかるが、後半の比喩はわからん」と言って首をコキリと鳴らした。そして私を見る。
「それじゃあ、お前……」
「ええ。多分、私は稗田阿求と呼べる代物では無いかもしれません」
個体とは細胞の集まりが情報によって連続している事である、という話を聞いた事がある。個人の定義が連続性ならば、十代目が生まれてから今日が来るまでの空白がある私は、決して稗田阿求では無いのだ。
言うならば稗田阿求と全く同じ思考と行動をする別の生き物、なのだろう。
確かにそうかもしれないが……
「それでも私は稗田阿求です。誰か一人でも私を阿求と呼んでくれるなら、私は自分を阿求として認められます」
「……そうか、その通りだな。阿求」
魔理沙さんは珍しく目を閉じて、優しげに笑った。
制限時間が日没までだというのに「自分は何なのか?」という、何年かかってもわからないような命題に頭を抱えるのは馬鹿らしい。誰かが自分をそう呼んでくれれば、一日を生きる真理としては十分だろう。
私は私だ。今日という日を楽しめれば、それでいい。
「しっかし要は脳みそだけ入れ替えたみたいなもんだろ?よくそんな事が出来たな」
「当然スキマ妖怪一匹の手に余る所業ですわ。だから色んな人に事情を話して手伝ってもらったのよ」
それで私が九代目である事に気づいている人が多かったのか。魔理沙さんみたいに所作や言動、能力なんかで気づいた人もいただろうが。
「あとは私が雑談でぽろっと喋っちゃったり」
「おいコラ」
つい汚い言葉遣いになってしまった。
それにしたって軽すぎやしないか……
まあ知られて困るような事ではないが、他人になり済ますという一種の遊びが思うように出来なかったのは残念だ。
「さて、それじゃ私はそろそろレイムの手伝いでもしてくるぜ」
黒い魔女が炬燵から出て立ちあがる。
そう言えば博霊の巫女は代替わりしても「レイム」という音は変わらないが、漢字は変わるのが習わしだ。どういう漢字なのか聞こうとして、やっぱりやめておいた。聞いても仕方あるまい。
「それじゃあな阿求。お前の案内役になれて良かったぜ」
「ええ、さようなら。今日は魔理沙さんが居てくれて本当にありがたかったです」
そして彼女は廊下へと出て行った。別れ方が少しあっさりしすぎなようにも思ったが、爽やかで彼女らしいかもしれない。
「よい……しょ。私たちは夕日でも眺めましょうか」
「それはいいですね」
八雲紫はスキマから這い出て、境内に出た。私もそれに従って歩く。
「今日一日幻想郷を歩いて、どうだった?」
大妖怪の問いに、私は足元を見ながら歩いて考える。
「そうですね……」
幻想郷は大なり小なり変わったと思う。
博麗霊夢が死んで役割は新しい巫女に受け継がれた。
スカーレット姉妹が人里に遊びに行くようになった。
十六夜咲夜は紅魔館の住人に見守られる中で逝った。
輝夜と妹紅は殺し合うものの少しだけ仲良くなった。
東風屋早苗は生れた故郷に骨をうずめることにした。
古明地こいしが昔より第三の目を開くようになった。
魂魄妖夢は身長が伸びて大人しめの性格に変わった。
霧雨魔理沙は人間から種族として魔法使いになった。
知ってる人が沢山死んで、知らない人が沢山増えた。
それでも幻想郷は相も変わらず幻想郷だった。私の知っている世界とは少し変わってしまったけれど、やっぱり私はここが好きだ。
幻想郷は牧歌的で、物騒で、優しそうで、残酷で、穏やかで、厳しい。
少女たちは楽しそうに空を舞い、弾幕ごっこに興じる。
冥界の桜はとてもきれいで、太陽の丘の向日葵は温かくて、妖怪の山の紅葉は美しく、氷張った湖で遊ぶのは楽しい。
そんな幻想郷を、私はどうしようも無く好きだから。
だから、その問いへの答えは……
「もう一回くらい、最期の一日が欲しいです」
スキマ妖怪は口を開けてぽかんと私を見た。そして意識がようやく追いついたかのように、腹を抱えて笑い始めた。
「あははははっ。いいわね、それ。人間らしくて、とてもいい答えよ」
彼女は人差指で涙をぬぐい、姿勢を正した。そして鳥居より先の境内の一番端に立って言う。
「どうかしら、この風景は」
「―――――――」
博麗神社からは夕焼けに染まる幻想郷が一望できた。
あそこに見えるのは人里か。茶色い屋根が赤色に塗られている。収穫期を控えた水田は、風が吹くたびに美しく照り輝く。紅魔館はより赤く染められ、その前にある湖は空の星にも負けない位に光を反射させて輝き、妖怪の山は火事でも起きたかのように真っ赤に燃えている。夜はあんなにも怖い竹林は、哀愁のような優しさを宿していた。
山の地平線から覗く太陽が、全てを平等に赤く照らす。
「こんな風景を一人占めできるなんて、博麗の巫女が羨ましいです」
彼女は「そうね」と相槌をうち、微笑んだ口元を扇子で隠す。
「やっぱり、すごくきれいでしょう?」
「はい……」
扇子を閉じて、彼女は再び西に顔を向ける。その顔はまるで自分のおもちゃを自慢する子供みたいだった。八雲紫が私に協力してくれたのは、単に幻想郷を自慢したかっただからじゃないだろうか。
「あ、それと十代目をよろしくお願いします」
「事後処理は任せときなさいな」
十代目のこの体の持ち主には悪いと思っている。彼女の貴重な一日を潰してしまったのだから。
とはいえそこら辺はスキマ妖怪が埋め合わせをしておいてくれるだろう。本人も楽しむイベントなんかを用意して。
彼女はこちらに向き直り、私が散々繰り返した質問をした。
「幻想郷は、好き?」
私は何も言わずに、ただ笑った。ここまで来て聞くような事かと、今さら言うまでもないだろうという事を沈黙をもって答えた。
わざわざ何代も幻想郷に転生し続け、挙句の果てに地獄で我儘を言うような人間に問う事ではない。
私は目を閉じ、思い切り息を吸い、肺の中に酸素が満たされるのを感じてから、ゆっくりと吐き出した。それから、最後に別れの言葉を告げる。
「それでは……さようなら」
「ええ、さようなら」
私が消える時が来た。
本当は寂しくてたまらないはずなのに、心の中は温かい気持ちで満たされている。
瞳には涙が溢れているけど、顔はどうしようもなく笑っていた。
地平線の上で太陽が輝いている。
その赤い光が段々と小さくなっていく。
そして―――――
日が、落ちた。
東風谷
ああ、それでカタカナだったのか
多重人格みたいな感じでしょうか。てっきり阿求が死ぬ日なのかと思ってた。
見ごとにだまされた。
>>役不足
役者不足だと思います。
なるほど、そういう一日。
この日の記憶がどこに向かうのかはわかりませんが、
阿求にとってかけがえのないものになったことには違いない。
最後の夕焼けのシーンが印象的です