このナイフには、記憶がある。
百年の、不吉な記憶 ――
◆ ◆ ◆
噂というものは、信じ難い速さで世間を駆け抜ける。
それがこの幻想郷という狭い世界の、それも少女の間のものだったりすれば、尚更である。彼女たちの好奇心は、天狗の情報網などなくとも、風の速さで噂を運んでいく。
「本当なの、それ?」
博麗神社の裏手から大きな湖を越えた先に建つ紅魔館。その主である吸血鬼も例外ではないらしく、初めて聞くのだろうその話に大きく身を乗り出した。
「分からないから、調べてるんじゃないか。異変てわけじゃないが、面白そうなことなら私は首を突っ込むぜ、何だってな」
「自慢するようなことじゃないと思うわよ、それ」
レミリア・スカーレットと対面するは二人、なぜか胸を張る霧雨魔理沙と呆れ顔の博麗霊夢である。
日はまだ高い、というか昇り切ってすらいない。そんな時間にアポなしで訪ねてきた無礼な二人を、レミリアは機嫌良く迎え入れた。
しかし、訪れた二人の本当の目的は吸血鬼ではなく。
「咲夜」
「ここに」
主の一声に、忽然と現れるは十六夜咲夜。三人前のカップを持ったままでの、メイド長の瞬間移動だ。タネの気になる中々に興味深い現象だが、二人の客人にとっては珍しくもないらしい。人体出現マジックに動じない二人をやはり意に介することなく、レミリアは平然と話題を切り出した。
「貴女、最近新しいナイフを手に入れたりしてない?」
「いえ、補充はしていませんが」
湯気の立つ紅茶を配りながら、メイドは訝しげな顔をした。続けようとするレミリアの言葉を無視し、魔理沙がその言葉尻をひったくる。
「最近じゃないかもしれないんだが、曰く付きのナイフがお前のところに来てたりしないか?」
「曰く付き、ねぇ。あいにく呪具には詳しくないんだけど」
咲夜がカップを置くと、霊夢はくんくんとその香りを確かめた。芳香を堪能するなどという優雅な行為ではない。まるで犬や猫が目の前のものを嗅ぐような動作である。
「……今日は何も入れてないわ。普通のストレートよ」
「あんたの『普通』ほど信用できないものはないのよ」
前科があるらしい。
「うーん、持ってないのか。咲夜がハズレとなると、さっそく捜査が暗礁に乗り上げたな。その道のマニアに聞けば一発だと思ったんだが」
「あのねぇ、止めてくれない? 人を掴まえておいてマニア扱いは」
「ナイフといえば咲夜、咲夜といえばメイド、メイドといえば刃物だろう」
頭の後ろで両手を組んで、大仰な溜息を付く魔理沙。一方の霊夢はようやく疑心が解けたのか、ゆっくりとカップに口を付けた。
「……お嬢様。何なんですか、アレ?」
「アレは見ての通りの巫女と魔法使い。見て呉れも組み合わせもいつも通りだけど、持ってきた話は面白かったわ」
頬杖をつく手を入れ替えて、レミリアは口角を吊り上げる。
「呪いのナイフ、ですって。人も妖怪も、神も蓬莱人も誰だって、たった一撃で殺せるナイフ」
「そんな物騒なモンが、幻想郷に流れ着いたらしいんだよ」
魔理沙の声色からは、深刻さなど微塵も感じられない。
「それは凄い。是非とも手元に置いておきたいわね。主にあんたたち二人を始末するために」
「ところが事はそう上手くいかないんだなぁ」
「何でも、呪いが有効な対象は限られているらしいの。しかもそれは持ち主の意志とは関係なく発動してしまう。ナイフを手に持った者が殺してしまうのは ――」
霊夢がカップを置く音が甲高く響いた。そのせいで途切れたレミリアの言葉を、霊夢は奪って続ける。
「呪いが殺してしまうのは、『自分が最も大切に思っているひと』」
ゆっくり首を左右に振る巫女を、三人の視線が刺した。
「まったく、面倒臭いったらないわ。そんな呪い、大人しく外を彷徨ってりゃいいものを」
霊夢は心底面倒臭そうに言葉を吐く。声だけでここまで面倒臭さを感じさせることができる人間というのも貴重である。
「……ま、大事になる前にってんで、私達二人で調べてるって訳だ」
「ふむ、それなら私が持っていなくて良かったかもしれませんわ」
盆を胸に両腕で抱えて、咲夜は言った。
「お嬢様を殺してしまう訳には、いきませんもの」
時が止まって、応接室を沈黙が支配する。全く隙のないメイドは、完璧なタイミングで完全な笑顔を構成していた。傍らの青白味が勝った主の頬が、心なしか赤く染まっているようにも見えた。
ひゅう、と魔理沙が口笛を吹く。その音に気を取り直したのか、レミリアはえへんとひとつ咳払いをして、白いカップを手に取った。
「……そうよね。従者として殊勝な心構えで結構だわ」
「ところで、もしお嬢様がそれを手にされたら、誰を殺してしまうのでしょう?」
「―― っ! げほっ」
そして紅茶を口にした瞬間、盛大に噎せた。
「あ、貴女何を」
「私も気になるな、それ。紅魔館のお嬢様が一番大切に思っているのは誰なのか」
テーブルに身を乗り出して、魔理沙が話に乗っかった。カップを乱暴に置いて、涙目のレミリアが口許を押さえる。
「あ、貴女たち、からかうんじゃない」
「純粋な疑問ですわ」
「純粋な好奇心だぜ」
「じゃあ魔理沙は? 魔理沙は誰なのよ」
「黙秘権を行使する。弁護士を呼べ」
「そんなもんいるか!」
レミリアがついに火を噴いた。しかしそれもどこ吹く風、咲夜は静かに、魔理沙は愉しげに、小さな吸血鬼を追い詰めていく。
「くっ……。フランよ、フラン! たったひとりの妹だもの、当然でしょう」
「あぁ、咲夜も可哀想に。フラれちまったな」
「傷心です、くすん」
「いい加減にしてよ、もう!」
「全く、あんたらも物好きよねぇ」
昼の穏やかな空気を、黄色い声達が切り裂いていく。紅茶と茶菓子だけが消費されるだけの他愛もない時間。得るものが何もなくたって、少女たちにとっては何よりも大切なひとときも、しかし永遠には続かない。
「さて、じゃあそろそろ次行くかね」
「次?」
魔理沙が立ち上がると、霊夢も渋々と椅子から身を起こした。
「ここにないんだったら、別の場所を探すまでだ」
「まさか貴女、幻想郷中を探すつもり? ここに入ってきたなんて確証もないのに」
「火のないところに煙は立たないさ。ほら行くぞ、霊夢」
「はいはい、もうあんたの好きにして」
「あ、ちょっと待ちなさい、霊夢」
魔理沙に続いて部屋を辞そうとする霊夢を、レミリアが背後から呼び止めた。
「止めとこうかとも思ったけど、やっぱり聞いておくわ。やられっぱなしは性に合わないし」
陽は真昼に近い高さまで昇っている。応接間にひとつだけある窓から射し込む光は、その足元に小さな日溜りを作るに留まっていた。部屋の奥に佇む主とメイド長が、暗がりに奥まっているためか随分と遠く見えた。
「貴女なら、誰を殺す?」
その言葉に、霊夢の瞳から色がすっと消えた。閉ざされているはずの窓から、風が吹き込んだような錯覚を覚える。紅色の吸血鬼と透明な巫女の視線が、三秒間だけ交錯した。
「…………」
しかしほんの少し微笑んだだけで、霊夢は答えることなく部屋を出ていってしまった。ばたんと閉じられた扉は、沈黙だけを館の主に投げかけた。誰にも決して縛らることのない彼女は、悪魔の問い掛けすらも容易く通り抜けたのだった。
残されたレミリアはひとつ鼻を鳴らして、紅茶の残りをぐいと喉に流し込んだ。
◆ ◆ ◆
幻想郷で一番高いという、妖怪の山。もう春になるとはいえ、五合目を越えると本格的に冷え込んでくる。
やはり仕舞い込んだ冬服をもう一度引っ張り出すべきだった、という魔理沙の愚痴が十回を数えた頃、二人はようやっと目的地に辿り着いた。
「あれ、霊夢さん。珍しいですね」
鳥居をくぐって境内に降り立った二人を出迎えたのは、掃き掃除の真っ最中だった東風谷早苗である。霊夢と同じ変わった構造の巫女服を着ているが、その服の色は青を基調としているところがひとつ違っていた。さらに言えば、彼女は二人の来客と違って上に半纏を羽織っていた。
「おい、そりゃあどういう意味だ。この私が霊夢より希少価値がないってのか」
「魔理沙さんはちょくちょくここに来るじゃないですか。霊夢さんの場合、私から博麗神社に出向くことはあっても、自分から守矢神社にいらっしゃるのは稀なんですよ」
「そりゃあ、霊夢にとっちゃ憎き商売敵だもんな」
「別に早苗を敵視してるわけじゃないわよ……。それより、何で紅魔館の次がここなの?」
そう言いながら、霊夢はくるくると辺りを見回した。乗っていた箒を肩に担いで、魔理沙が自信たっぷりに答える。
「件の呪いは外の世界から流れ着いたんだろ? なら同じように外から入り込んだ奴が、何かを知っているかもしれないじゃないか」
「安直ね。あの神様凸凹コンビが知っているとも思えないけど」
「呪い? もしかして、いま巷で話題の『マイ・ディア・キラー』のことですか?」
「まいでぃあきらぁ?」
耳慣れない言葉に首を傾げる二人を、早苗は社殿へと促す。
上空では強かった風も、守矢神社の境内では木立に覆われているためか幾分か穏やかだった。とはいえ、麓との気温差は比べるまでもない。巫女服の上に一枚半纏を重ね、脚にはちゃっかりストッキングまで穿いている早苗の後ろを、霊夢と魔理沙は恨めしげな顔でついていく。
「お、博麗の。珍しいな」
社殿の裏、居住域の縁側には、ふたりの人影があった。纏う気配からして、人間ではない。
「お前らまで……。ん、何だ。将棋か?」
「そうだよ。神奈子にもう五連勝してやってるのにさ、まぁだ諦めないんだよねぇ」
「…………うるさい、今度こそ。ほれ、角銀取り」
「あーあー、その手はないわ。あと諏訪子の十一手ってとこね」
「うぇ、本当か!?」
「将棋の弱い軍神てのも、考えものだな」
盤を睨んで相対するのは、二柱の神。八坂神奈子は苦い顔で、洩矢諏訪子は涼しい顔で、自身の駒を采配している。
「いやなに、久しぶりなもんでね。勘が戻ってないだけさ」
「散々待った掛けといて、随分な自信じゃないか」
「霊夢さん、魔理沙さん。これですよ」
茶の間に上がっていた早苗が二人を呼ぶ。ちゃぶ台の上で彼女が広げてみせたのは、薄い号外新聞だった。
「文々。新聞? それならうちにもあるけど、大量に」
「……読まずに積んでるんですか。仮にも知り合いの発行してる新聞なんですから、読んであげましょうよ、一応」
「お前ら二人とも大概にひどいな。どれどれ?」
三人が覗きこんだ一面の見出しには、大きな文字でこんな文句が躍っている。
『愛憎の果てに生まれた呪い? 幻想郷に忍び込むマイ・ディア・キラーの恐怖』
記事を流し読みする二人に、早苗は他の新聞も持ってくる。内容は似たり寄ったりだが、どうやらそれら全て、別の者が発行している新聞のようだった。
「横文字に強い天狗が新聞でその名前を使い始めたら、他のも一斉に真似し出したんですよ。今じゃ人里でもこの名前で通じます」
「呪いに名前を付けるとか、あいつら自分が何をやってるのか分かってるのかしら……。たぶん分かってやってるんでしょうけど」
「ヘタしたら、あそこの祟り神みたいなのが湧いちまうぜ」
「酷いねぇ、ひとを虫ケラみたいに」
神奈子の王将を着実に追い詰めながら、諏訪子はくすくすと笑った。
霊夢は溜息を吐いて上体を起こし、そのまま柱へ身を預けた。熱心に新聞に目を通し続ける魔理沙を見下ろす。読書という行為に関しては、この魔法使いの方が慣れているようだった。
「あんた達は」
「んー?」
「あっちで聞いたことある、こういう呪い?」
「人を殺す怨念なんざ、腐るほどあるさね。ほい王手」
「ぐ。まぁ、最近じゃ滅多に見なくなってはきたけどねぇ」
つまみ上げた王将を、しかしどこへ逃がすべきか神奈子は暫し迷っていた。
「でも、何と言うかこう、ちょっとロマンチックですよね」
「……はぁ?」
早苗がこぼす。信じられないといった目を霊夢が彼女へ向けた。
「だって、一番好きな人を殺してしまうんですよ。この耽美的なカタルシスがそそります」
「お、ちょっと分かるなその気持ち」
がばりと魔理沙が上体を起こした。
「ですよね! 例えばカップルの彼の方がそれを手にしちゃったりして、最愛の彼女に向かってその刃を降り下ろして」
「その瞬間全てを悟った女は、力尽きた体を男の胸に預けて息絶える、ってか。ベタだが王道の心中ものだな」
「きゃー!」
悲鳴を上げる早苗は、ニヤけ面を隠し切れていない。
霊夢は今度こそ呆れた顔をした。乙女的思考回路を全開にした早苗に対してもだが、それに同調した魔理沙も、彼女にしてみれば同罪なのだろう。
「……全くもう、気楽なんだから」
風祝を律すべき保護者たる守矢神社の二柱は、八十一目の盤上で繰り広げられる神遊びに夢中になっていた。制止するための加勢としては役には立ちそうもない。
霊夢が両の手を畳の上に投げ出すと、右手が散らかした新聞に当たってがさりと音を立てた。彼女は少しだけぼんやりすると、やがてその新聞紙を手に取って丁寧に折り畳んだ。半分の半分の半分に折って、卓袱台の上に放り投げる。平和な風が少女たちの間を吹き抜けた。
「―――――― よ、霊夢さんってば」
「んあ、何よ?」
ぼうっとするのに夢中になりすぎたのか、肩を叩かれるまで霊夢はその呼びかけに気づかなかった。顔を向けると、早苗が頬をむくれさせながら、それでも目元だけでニヤけていた。
「魔理沙さんったら、教えてくれないんですよ。ナイフを手に入れたら誰を殺してしまうのか」
「教えないとは言ってないだろ。お前が言ったら私も言うと言ったんだ」
早苗の肩の後ろから魔理沙が顔を出す。
「だから、私は言ったじゃないですか。神奈子様と諏訪子様を天秤にかけることはできません、って」
「その答えとお前の引き出そうとしている答えは等価じゃないようにしか聞こえないんだがな」
「そんな細かいこと気にせずに、言っちゃえばいいんですよ。減るもんじゃなし」
「いやぁ減るんだよそれが。お前の見えないところで、私のマジックポイント的な何かが」
余裕の笑みを浮かべているはずの魔法使いの頬は、しかし何故か少し赤い。
「魔理沙さんが」「いやお前が」、ときゃいきゃいはしゃぐ二人の姿を、霊夢は大きな瞳で見つめる。肩越しの言い合いは、やがて押しつ押されつの小競り合いへと発展した。
「さぁ観念しなさい! 洗いざらい吐き出しなさい!」
「だぁーもう、五月蠅い! そうだ、そっちのふたりはどうなんだよ。誰を殺すんだ、おい似非棋士の神ども!」
「早苗」
「早苗」
こちらに一瞥すらくれずの二柱の即答に、魔理沙の時間稼ぎの目論見は一瞬で潰えた。魔法使いが僅かに言葉を失ったその隙を逃すはずもなく、早苗は魔理沙を素早く畳の上に押し倒す。まうんとぽじしょーん、と呟きながら何故か両手指をわきわきさせる早苗に、魔理沙の顔面が蒼白になった。たぶん本能的な恐怖を感じたのだろう。
「く……」
「ふっふふふ、稀代の愛され風祝とはこの私のことです。神の祝福を受けた私に、魔理沙さんごとき敵おうはずがありません! それ、こちょこちょこちょこちょ」
「あひゃっ、や、やめっ!」
「……本当、何でそんなに楽しそうなの、あんたら」
「あ、それじゃあさ」
揉み合う二人へ向けられる霊夢の視線が絶対零度に近付こうとするなか、手駒の銀将を摘み上げた諏訪子がまるで何でもない風な声色で言った。
「霊夢は、誰なの?」
ぱしり、と敵陣に打ち込まれたその音は、神奈子の六度目の敗北を告げていた。
風も光も、瞬きの間に透き通っていく。卓袱台の脇からの二つの視線が、紅白の巫女を捉えていた。盤を挟む二柱は、今しがた決着を迎えたはずの戦場から何故か目を離そうとしなかった。霊夢はといえば、ただ無表情で虚空だけを眺めている。身体を柱に預けて足を投げ出したその姿は、まばたきさえなければ死んでいるようにしか見えなかった。
「……霊夢さん?」
沈黙に耐え切れずに早苗が発したその声が、恐らく何かの合図だった。
何の前触れもなく、二柱の間の将棋盤が吹き飛ぶ。
整然と隊列を成していた駒が飛び散って、神社の縁側に無秩序を形成した。
「わ!?」
何かが飛んできて、将棋盤を勢い良く跳ね飛ばしたのだ。いや違った。誰かが飛んできて、将棋盤を両足で踏み潰したのだ。
下手人は箱のような盤の上で、両手を大きく広げたまま立っていた。
「たのもーう。参拝に来ました!」
そして彼女は、そのまま声を張り上げる。二礼二拍手一礼などと指摘する気も起こらないアクロバティックな参拝に、その場にいた誰もが声を失っていた。
「あら、随分と静かなのね。今日は神様もいるのに」
胸元に閉じた瞳をぶら下げて、少女はお気に入りなのだろう帽子をきゅっと被り直した。
◆ ◆ ◆
地底に建つ、霊を管理するための、殿。
だから地霊殿というらしい。
古明地こいしが大きな門をノックすると、程なくして猫耳の少女が門を開いて、その隙間から顔を出した。
「あれ、こいし様。お客様ですか」
「うん、巫女と魔法使い。山の神社にいたから連れてきちゃった」
「わぁ流石です! さとり様もお喜びになりますよ。まだこいつらをペットにするのを諦めてないみたいですから」
「おい、そこの火車」
「おっと、つい口が滑っちゃったよ。お口チャック」
燃えるように赤い髪をした火焔猫燐は、糸のような目で笑いながら手真似で口を縫った。
「まぁまぁお姉さんがた、どうぞどうぞ中へ。お茶くらいは出しますよ」
「化け猫のもてなしなんて、ぞっとしないわね。これがうら寂しい山の中だったりしたら、猟犬連れでもない限り遠慮したいところだけど」
「あぁ。それに今のとこ、私達も収穫なしと来てるしな」
「……お二人を獲って食おうなんて、そんな大それたこと考えてませんて」
何が起こるか分かったもんじゃないし、と肩を竦め、彼女は三人を中へと促す。
門の内側に広がるのは、石造りの不思議な屋敷と、異国風の庭園だ。和とも洋とも違うその光景は、閉ざされた世界で発展を遂げた独自の文化の賜物なのだろう。真正面に見える玄関は、大きなステンドグラスで飾られていた。
「そうだ、お燐」
こいしがぱちんと手を叩いて、燐に話しかけた。
「せっかく霊夢と魔理沙が来てくれたんだしさ、今日のおやつはあれにしようよ。星熊印の地底どら焼き」
「わお、高級品。あたいは構いませんけど、さとり様に聞かないと。買いに行かなきゃいけませんし」
「うん、それじゃあ聞いてみる!」
よほど楽しみなのか、こいしはぴょんぴょん跳びはねた。傍らの魔理沙が燐に問う。
「星熊? あの鬼が和菓子作ってるのか?」
「いえいえ、勇儀さんは名前を貸してるだけですよ。でもあのひとが名義を認めただけあって、味も値段も一級品でしてねぇ」
「へぇ、それは楽しみね。高いものは美味しいのよ。他人の金で食べるやつは特にね」
霊夢は本音を隠そうともしない。
やがて四人は屋敷の玄関へ入り、そのまま燐によって客間へと通された。
「それじゃ、さとり様を呼んできますんで」
「その必要はないわ。ご苦労様、お燐」
部屋から出ようとした燐を呼び止める声は、入ってきた扉の対面にあるもう一つの扉から聞こえた。
「貴女達の心の声は、館のどこにいても聞こえるもの。気づかない方がおかしいくらい。それにしても久しいですね、霊夢、魔理沙」
「おう、邪魔してるぜ」
「そういえば久しぶりよね。あんたのとこの猫やら烏はよくうちの神社に来るから、あまりそんな気はしてなかったけど」
古明地さとりは小柄な館の主であった。背丈は、先程訪れた紅魔館の主であるレミリアとそれほど変わらないだろう。黒い翼の代わりに、身体へ何本かのコードを纏っている。そして胸の前には、はっきりと開いた三つめの瞳がこちらを睨みつけていた。
いましがた座ったばかりのこいしが、姉の姿を見るなり再び椅子から飛び上がった。
「お姉ちゃん!」
「こいし、帰ってきたらまず『ただいま』でしょう」
「ただいま! あのね、お茶受けに星熊印の地底どら焼き買ってきてもいい?」
「……まったく。たまに素直だと思えばこれなんだから。いいわよ、これで買ってらっしゃい」
紙幣を一枚、さとりは懐から取り出した。それを手渡されたこいしは、満面の笑みで入ってきた扉へと駆け出した。そしてドアノブを握って、こいしは姉を振り返る。
「ありがとう、お姉ちゃん! もし私が呪いのナイフを手に入れたら、やっぱり真っ先に殺してあげるね!」
「……こいし様?」
不穏な台詞に面食らったのか、燐はしばらくこいしの出ていった扉を眺めていた。
さとりもどきりとした様だったが、霊夢と魔理沙へと胸の瞳を向けると、得心したように薄く微笑んだ。
「今回は、随分と物騒なものを探しているのね」
「まぁな。こっちに来るまでのヒマ潰しに、こいしに話しちまった」
「別に責めてはいないわ。あぁ、ちょっとあなた。おくうをここに呼んできて頂戴」
廊下を通りがかった大きな犬に、さとりは命じた。彼はわう、と一声吠えるとすぐさま駆け出していった。
「ふふ、黙ってどら焼き食べたことがバレたら、あの娘またむくれるでしょうから」
「笑い事で済むの? 腹立ち紛れに地底の炎を全開にされでもしたら、またこっちに来なきゃいけなくなるじゃない」
「あの娘も弁えくらいは何とか学んだわ。それにしても」
さとりは両肘を机の上に立て、顎を組んだ手の上に乗せる。
「手にした者に最愛の人を殺させる呪い、ねぇ。心を専門にしてる身としては興味深いわ」
「さとり様ぁ、あたいはまだその話聞いてないんですから、聞かせてくださいよう。何だか面白そう」
紅茶を淹れて戻ってきた燐が懇願したので、魔理沙が主人に変わり改めて説明してやった。
本日二杯目の紅茶が配られる。それを前にして、霊夢はまたしても紅茶をじっと見つめていた。ここでも何かを混入されたりしたのだろうか。
「そもそも、『最愛』という言葉の定義から始めたいと、私としては思うんだけど」
魔理沙が話し終えると、さとりがそれに続ける。
「学者か、お前は」
「ひとの心を見てるとね、分かるのよ。百パーセントの好意なんて存在しない。どれだけ愛する相手であっても、ふとした瞬間に一抹の悪意を抱くから」
「この間、シュークリーム食べられなかったときのおくうみたいなもんですか」
「えぇ、あのときのあの娘は怨嗟の塊だったわね。『私に黙って美味しいもの食べるなんて、そんなひどい連中は蒸発させてやる!』って。その発端がお菓子だったものだから、私は逆に可笑しくなっちゃって」
「……そのせいでおくうは更にイライラしてましたけどね」
「うにゅ? 呼びましたか、さとり様」
「いえ、呼んでな……そういえば呼んだんだったわ」
大きな黒い羽を持つ長身の少女が部屋に現れた。犬の伝言を受け取った、おくうというのが彼女なのだろう。燐の隣に彼女は座り、「こいしが地底どら焼きを買いに行ってるから」という主の言葉に目を輝かせた。
「さとりの言うことも分からんではないが」
魔理沙は両手を頭の後ろで組んだ。
「でもやっぱりあるだろ、何にも代えられないようなこう、恋というか、愛というか」
「そういう感情があったとしても、絶対ではない。それは常に揺らぎ続けていて、仮に順位を付けるにしても容易く入れ替わる。怒っていたときのおくうなら、誰を選ぶんでしょうね」
「さとり様、それ何の話?」
「えーと、おくうはさ」
話しかけたのは燐だ。
「一番好きなひとって、誰?」
「え、さとり様」
「ありきたり過ぎてつまんなーい」
言いながら空の頭を小突く。されるがままに首をメトロノームのごとく揺らす空は、何も理解していないせいかきょとんとしていた。
そのまましばらく空の頭を猫パンチで揺らしていた燐の顔が、ふと霊夢を見た。そして口の端を吊り上げニヤリと笑う。
「あたいとしては、そうだねぇ。ここいらでちょいと巫女のお姉さんに浮気してみるのもアリかもね」
「えっ、お燐ったらひどい。さとり様を見捨てるの?」
「違うってば。でもさとり様が仰ってるのはそういうことさ」
音も立てずに立ち上がり、燐は霊夢の背後へと回った。肩に手を置いて、その耳元に顔を寄せる。
「この地霊殿も大好きだけど、博麗神社の縁側とお姉さんの膝の上も結構捨て難いんだよねぇ。さっきの呪い、ひょっとしたらお姉さんに対して発動しちゃう、かも」
「お燐!」
場にそぐわぬ大きな声が、さとりの口から発せられた。燐はびくっとして、甘噛みできそうなほどに近づいていた霊夢の首筋から離れる。
囁かれていた霊夢の顔は、しかし紙のように白い。聞いてはならない言葉を聞いてしまったような、そんな無表情だった。
「……巫山戯るのも、いい加減にしなさい」
「い、嫌だなぁさとり様。本心じゃないことくらい、分かってるくせに」
曖昧な笑顔を絞り出して、燐は後ろ歩きで椅子へと戻る。
「……嫉妬は橋姫の方にでも任せておくとして、だ。ダメ元で一応聞いてみるけど」
魔理沙は紅茶を一口、美味そうに啜った。
「地底にそのナイフが来てるって噂とか、ないのか?」
「もしあれば、私の耳なり瞳なりに入ってきてるわ。それとも、私が隠していると思う?」
「怪しさだけなら百点満点だ」
さとりもカップに口をつけると、静かにソーサーに置く。
「……ふふ、そう」
「何か可笑しいか」
「魔理沙にとって一番大切なのは、そのひとなのね」
「え、あ、ちょっと待っ!」
顔を赤くした魔理沙が椅子を鳴らして立ち上がった。
「言うなよ、お前絶対に言うんじゃないぞ!」
「私は何も隠してないわ。地底にそんなものは入ってきていない」
「……くそっ、ほとんど脅迫じゃないか」
「こうでもしないと、貴女しつっこそうだもの」
愉快で愉快でたまりません、とさとりの顔にはでかでかと書かれていた。
場の成り行きを黙って見つめていた空が、そこで口を開いた。
「さとり様は?」
「……………………」
最低限の質問文であっても、心を読める覚妖怪にとっては十分であったらしい。声の主の方を見ようともせずに、さとりは背もたれへと深く身を沈ませた。息を吐いて、目を瞑る。
「動物から神まで、私はあらゆる者の心を見ることができる。でも私が心を読めないひとが、この世にふたりだけいるわ。ひとりはこいし。そしてもうひとりは、他ならぬ私自身」
四つの目が、独白を続けるさとりへと真っ直ぐに向けられていた。
「それでもこいしは、自分の心を言葉にして伝えてくれる。心が読めなくたって、あの娘の思っていることは分かる。だけど、私の心の内を代弁してくれるひとは、どこにもいない。私は自分が、誰を一番大切に思っているのかを断定することができない。言ったでしょう、私は『最愛』という言葉をまず定義したいって」
言葉と言葉の合間に、低く唸るような音が聞こえる。地鳴りだろうか。
「大切っていうのは、家族として? それとも、友達として? 仕事の上で? 目標として? もしくは、ひとりの女として? それらの想いをどうにかして絶対的な数値に変えて、比較することができるかしら」
「……小難しいことは抜きにしてさ」
魔理沙は腕を組んで、笑う。
「例えば世界の終わりの瞬間に、たったひとりだけ傍にいたい奴、声を聞きたい奴が、いるだろ」
「そういう極端な例は好きじゃないのだけど、そうねぇ ――」
さとりが思案する素振りを見せる。そのとき、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。ばたばたと走る足音の主は客間の前で急ブレーキをかけ、勢い良く扉を開く。
「お姉ちゃん、ただいま! 地底どら焼き買ってきたよ、ちょうど六つ!」
これ以上ないくらいに幸せそうな、でもこの先にもっと大きな幸せが待っていることを確信している、そんな満面の笑顔で、古明地こいしはそこに立っていた。
さとりはカップを手に取り、再び口を付けた。
「……うん、やっぱり、その言葉をその声で聞きたいわ」
「え、何の話?」
「何でもないわよ。さぁ、早く開けましょう」
姉の言葉を待つまでもなく、既にこいしはいそいそと紙袋を開き始めていた。
「……………………」
「……ん、霊夢?」
魔理沙が横の相棒を見る。ずっと不自然に沈黙を保っていた霊夢にやっと気づいたのだ。
その声を合図代わりにしたのか、霊夢ががちゃんとカップを置いた。
「ごめん、さとり。今日はこれで失礼するわ」
「そう」
「え? どうしたんだよ霊夢」
霊夢が椅子を引いて立ち上がる。カップの中には、まだ紅茶がなみなみと残っていた。
「えぇー、どら焼き食べようよ。美味しいよ?」
「この後も話を聞きにいくところがいっぱいあるから。そうよね、魔理沙」
「それはそうだが、別にそんなに急がなくても」
「いいから、早く」
霊夢の表情は真剣で、魔理沙はそれに釣られて思わず立ち上がってしまった。
燐も同じく立ち上がる。
「ま、無理に引き留めやしないけども、せっかくこいし様が買ってきてくだすったんだし、おみやげに持ってけば?」
「お気持ちだけ受け取っておくわ。私達の分は貴女達で分けていいから」
「ホント? やったー! 私とお姉ちゃんとお燐とおくうで、ちょうど半分こできるね」
「え、私の分もなのか?」
魔理沙の異議を意に介さずに、紅白の巫女は踵を返した。白黒魔法使いも渋々といった面持ちで後に続く。
ノブに手をかけたそのとき、背中からさとりの声がかかった。
「心配せずとも」
霊夢は立ちどまり、振り返らぬまま言葉の続きを待った。
「貴女の思うような答えを持つ者は、この郷にはいないわ。幸か不幸かは分からないけどね」
さとりの言葉を、霊夢は少しだけ俯きながら聞いていた。そして少しの間そこで立ちどまり、それでも振り向くことなく、扉を開けて客間を後にした。
その後を、まるで訳が分からないという顔で魔理沙がついていった。
「……全く、命拾いしたわね、お燐」
「へ?」
二人が玄関を出た頃、さとりが少し疲れた顔でこぼした。夢中でどら焼きに齧り付いていたお燐が、その不穏な単語に首を傾げる。
「さとり様、まさかさっきのあたいの言葉、それほど根に持って……」
「違うわよ、あの巫女のこと。霊夢ったら、とんでもないことをしてるわ」
「はぁ。にしても、命拾いとは?」
「言葉の通りよ。貴女、一歩間違えてたら死んでいた」
主の言葉に燐は怪訝な目をしたが、考えても分からなかったのか、やがてどら焼きへと意識を戻した。
「んー、確かにちょっと様子がヘンだったかなぁ。でもあいつ、いつもヘンだし」
頬を栗鼠のように膨らませながらむぐむぐと喋るこいしをたしなめて、さとりは半分のどら焼きをつまみ上げる。
「あの娘も、可哀想にね」
そのか細い呟きはたぶん、他の誰にも聞こえていなかった。
◆ ◆ ◆
二人が博麗神社に戻る頃には、日はとっくに暮れ落ちていた。そしてまず宵の明星が輝くと、それに釣られて一斉に星空が瞬きだす。満月の輝く夜ながら、星の光も負けないくらいに賑やかだった。幻想郷の外ではもう、滅多にお目にかかれないくらいの美しい夜空だ。
そんな空の下を、二人は並んで飛んでいた。幻想郷の隅々まで飛び回ったためか、霊夢も魔理沙も少し疲れが表情に滲み出ている。
「……なぁんにも分からなかったな」
溜息とともに魔理沙が言う。
霊夢の答えはなかった。真っ直ぐにただ前だけを見て飛んでいる。魔理沙はまた溜息を吐いた。
地霊殿からこっち、霊夢はめっきり口数が少なくなった。魔理沙への相槌を必要最低限に入れるだけである。少しだけ気まずい空気の中で、魔理沙は聞き取りをよくよく頑張った。
しかし幻想郷の主だったところを粗方回ったものの、結局噂以上のことは誰も知らなかった。診療所でも冥界でも寺でも天界でも、ただそこで暇潰しの話題を提供するに留まってしまった。
「…………あ」
その光に先に気づいたのは霊夢だった。誰もいないはずの博麗神社に、灯りが灯されている。
「しかも炊事の煙も上がってないか? 一体誰が」
「大体予想はつくわよ。うちで余計なことしかしない奴なんて」
飛行速度を上げ、霊夢は神社の境内を目指した。慌てて魔理沙も後を追う。
境内へ降り立つと複数の気配があった。人間でもなさそうだ。
縁側に、小柄な人影がちょこんと座っているのが見える。部屋の灯りが逆光となって、その顔は窺えない。その人影はこちらに気づくと立ち上がった。
「あ、霊夢だ。藍様ぁ、霊夢が帰ってきましたよー」
「……やっぱり、あいつか」
中にいるらしい誰かに向かって叫ぶ。霊夢は忌々しげに大股で、神社の社殿へと足を進めた。
「ちょっと紫! あんた人の神社で何を勝手に……」
「やぁ霊夢。あいにくとまだ紫様はお戻りではないんだ、すまないね」
靴を脱いで縁側へ上がった霊夢を出迎えたのは、金色の狐の尾を九本持つ式、八雲藍だった。台所から鍋を持って出てきた彼女は、今まさに夕食の準備の真っ最中であったらしい。そしてその傍に立つ猫又に向かって、妖狐は言い付けた。
「橙、箸と皿を持ってきなさい」
「はーい」
「いやだから、何であんたらがここで夕飯を食べようとしてるのよ!」
「何でって、そりゃあ紫様がそう仰ったからさ。何でも『いい酒が手に入るから』とかで」
「おぉ、こりゃあ美味そうだな」
魔理沙が目を輝かせる。置かれた鍋の中では、春先の野菜と鶏肉が良い加減に煮えていた。
「一日中飛びっ放しだったせいで、すっかり体が冷えちまったぜ。春と言っても、上空はまだ寒いからな」
「ちょっと、あんたまでここで食べてく気?」
「なに、心配ないさ。今日お前達が二人で飛び回ってたことは知っている。魔理沙の分もちゃんと用意しているから」
「流石だぜ、藍」
「家主の意見を聞け!」
霊夢が吠えた。しかし誰もそれを意に介することはなく、間もなく橙によっててきぱきと配膳が完了する。並ぶ皿と箸の数は、五膳。
そのままさっさと卓袱台に並んでついてしまった藍と橙を、霊夢は忌々しげに眺めた。一方の魔理沙は、二匹の妖獣に続いて嬉々として席に座る。
「藍様、もうよそってもいいですか?」
「こらこら、紫様がお戻りになるまで待ちなさい。大丈夫だよ、鍋は逃げない」
「まぁ、首謀者には敬意を払わなくっちゃな」
「あんたら本当に……全く」
観念したのか、やがて霊夢も腰を下ろした。するとまるで見計らったかのように、
「あら、皆さんお揃いで。お待たせしちゃったかしら」
「いえ、紫様。ちょうど今座ったところで」
五人目の席に上半身が生えた。正真正銘に何もない空間から、八雲紫は突如として出現した。規格外ばかりのこの郷においても、これまたトップクラスに訳の分からない妖怪である。
彼女の手には、一升瓶が握られている。どうやらこれを取りに行くために席を外していたようだ。
主犯格を目前にして、霊夢が再び噛み付く。
「ねぇ紫。貴女何を企んでいるの?」
「あら、霊夢も魔理沙も今日はお疲れだろうと思って、夕食とお酒の準備をして迎えましたのに。それを悪巧み扱いとは心外ですわ」
ごとり、と一升瓶が卓袱台に置かれる。魔理沙はそのラベルをまじまじと眺めた。
「『白百合』? 聞いたことない銘だな」
「春先にほんの少ししか出回らない、まさしく知る人ぞ知る大吟醸よ。萃香がいなくてよかったわ。あの娘に見つかると一滴残らず呑まれちゃうから」
「白百合って、リリーホワイト……。そういうことか」
紫から瓶を受け取って、藍は蓋を開けた。そのまま、主の持つ杯へと酒を注ぐ。無色透明の液体から、桜を思わせる柔らかい香りが漂ってきた。そのまま霊夢、魔理沙、橙へと注いでやり、最後に自身の杯へ手酌しようとしたところで、紫が瓶を奪い取り藍の杯を満たした。
「それじゃあ、いただきましょう」
その言葉に、五つの杯が捧げ持たれる。乾杯の合図はなかった。かちんと小さな音を立てただけで、それぞれの杯は持ち主の口へと運ばれていく。
「わ! このお酒、とっても美味しいです」
「これは、凄いな。外の世界の酒でも、ここまで透き通ってるのはそうそうないぜ」
驚きの声を上げる橙と魔理沙。他の三人は呑んだことがあるらしく黙ったままだったが、それでもどこかほっとした顔を浮かべていた。怒りの頂点にあったはずの霊夢の表情に微笑みが戻ってきたことからも、その味の程が窺える。
橙によって五人分の鍋が取り分けられたところで、紫が口を開いた。
「それで呪いのナイフは、『マイ・ディア・キラー』は見つかったの?」
「……そこまでお見通しなのね。別に隠してるわけじゃなかったんだけど」
「いやぁ、さっぱりだったぜ。逆に私から紫に聞きたいくらいだ」
魔理沙は早々に杯の中身を飲み干し、問いかける。
「そういうものが結界を通り抜けたことが、分かったりしないのか?」
「そんなのまでいちいち感知してたら大変なことになるわ。貴女達が思ってる以上に、幻想郷の外と中の往来は激しいの」
「よほど大きくて強い何かでない限り、私にも紫様にも分からないだろうね」
藍が厚揚げを口に運んだ。鍋に入っているのが豆腐でなくて厚揚げなのは、たぶん彼女の趣味だ。
「人を死に追いやる呪いなんて、こう言っては何だけどありふれているから」
「それが、妖怪を含めたあらゆるひとを殺すものだとしても?」
「もちろん。幻想郷では生と死の境界が緩いことくらい、知っているでしょう」
魔理沙に酒を注ぎながら、紫は答えた。
それからしばらくは会話らしい会話もなく、五人とも黙って鍋をつつき、酒を呑んだ。締めの雑炊が藍によって取り分けられた頃になって、唐突に霊夢が口を開く。
「紫はさ」
「え?」
藍から器を受け取っていた紫が振り向いた。
「誰を殺すの? ナイフを手にしたら」
大妖を見つめる霊夢の目には、何か覚悟のようなものが見て取れた。既に雑炊を啜り始めていた魔理沙が箸の動きを止めた。
「私が? そうねぇ」
器を卓袱台に置くと、紫はその中身へ視線を落とした。
その中では、野菜の切れ端と鶏肉の欠片と厚揚げの破片が、飯粒の海にごた混ぜになって湯気を上げている。それを見て、紫は微笑んだ。
「みんな」
「皆?」
「そう、みんなよ。この郷に住む者、ひとり残らず、全員」
「……それって、アリなのか?」
信じられないと訝しげに、魔理沙は紫を横目で見た。
「えぇ。隠れたって無駄よ。どこにいようと必ず見つけ出して、例外なく刺してやる。そうやって幻想郷から誰もいなくなってしまったら ――」
紫は箸と雑炊を手に取る。
「最後に自分の喉を突くわ」
彼女はそのまま顔を上げて、雑炊をゆっくりと啜った。よそわれた量の半分ほどをかき込み、再び正面を向いた彼女の頬は、ほんのりと赤い。それは温もりのせいか、酒のせいか。
暫しの沈黙を破ったのは、藍だった。
「流石のお答えでございます。私はまだ、その境地には遠く及びません」
「ふふ、貴女は、私を刺してくれるの?」
「……えぇ、きっと、たぶん」
「橙は ―― まだちょっと聞くには早いかしら」
「えぇと、私の一番大切なひとは、藍様ですよ」
「こ、こら橙。こういうときはそうじゃなくて……」
「あはは、いいのよ藍。こんな与太話にそこまで気を遣わなくっても」
酒宴らしい和やかな空気が、三人の客人の間にだけ戻ってきた。
霊夢はといえば、どこか呆けた顔で雑炊を見下ろしている。触れたら崩れてしまう砂の像のようだった。魔理沙はそれを横目で見ながら、再び自分の雑炊をかき込みだす。
「あら、これで最後の一杯ね」
紫が一升瓶を持ち上げて言った。指一本分ほどの酒が、底の方に残っている。
「じゃあ、これは場所代として家主に。あぁ、萃香にバレないうちにね」
そのまま紫は蓋を締め、瓶を霊夢へと渡した。心ここに在らずといった様子の霊夢だったが、自分に差し出されている瓶を認めると、慌ててそれを手に取る。
「それじゃ戻るわよ、藍、橙。後片付けはこちらでやっておくから」
漆黒の隙間が突然現れて、卓袱台の上を撫でた。すると鍋や食器が残らず消え失せ、直前まで食事をしていたとは思えないほど綺麗な食卓だけが残された。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした!」
「お粗末さまでした」
「ごちそうさん」
「……ごちそうさま」
続けて、大きな隙間が口を開けた。不気味なその空間の中へ、三人は車にでも乗り込むように入っていく。
藍と橙が闇へと消え、紫も続けて足を踏み入れた。しかしそこで立ちどまり、霊夢の方を振り返る。いつの間にか取り出した扇で口元を覆っているため、その表情は窺えなかった。
「……………………」
「……………………」
「…………おい、どうした、ふたりとも」
霊夢はやはり、どこを見てもいない。心配そうな魔理沙の声も、届いていないのかもしれない。
「―― 今日は、まだいいわ。いつか聞かせて頂戴。貴女達の答え」
「答えって、何の?」
「それはもちろん、『一番大切なひと』のことよ」
「なっ……」
返事に窮した魔理沙をも置いて、紫は隙間へと姿を消した。
「いつか、その答えをちゃんと口にしなければならない時が来るわ。誰にでも、必ずね」
残されたその台詞だけが、博麗神社の畳の上をいつまでも転がっていた。
◆ ◆ ◆
魔理沙がようやく帰り支度を始めたのは、満月が南中する頃になってだった。少し風が出てきていた。
盃にほんの少しだけ残っていた酒を飲み干すと境内へ飛び降り、戸袋に立てかけてあった箒を手に取る。
「じゃ、帰るわ」
彼女の笑顔には、いつだって濁りがない。徒労感で溢れているだろうに、それを微塵も感じさせないメンタリティは驚嘆に値した。
「あぁー、明日は昼まで寝てやるからな」
「もう、明日は探さないの?」
「明日はいいや。また煙が立ったら、火元を探すさ」
水平に浮かべた箒に取りつき、空中でくるりと一回転。たちまち魔理沙は飛行魔女のスタイルになった。夜風に帽子を押さえながら、柄を魔法の森へと真っ直ぐ向ける。
「―― 待って」
風を蹴ろうとしたその瞬間に、霊夢が呼び止めた。箒の向く先を魔理沙は神社へと戻した。
「何だ?」
「……何というか、その、うまく言えないんだけど」
歯切れの悪い霊夢を前にしても、魔理沙の笑顔は揺るがない。霊夢は手元の杯を見つめたまま、言葉の続きを絞り出した。
「でも、聞いておかなきゃいけないから」
霊夢が夜空に浮かぶ魔理沙を見上げる。彼我の距離は十歩ほどだが、二人の視線は逸れることなく真っ直ぐにぶつかった。鎮守の森を風が吹き抜けて、梢をざわざわと鳴らす。鍋と酒で温まった二人の身体から、この瞬間にも熱はどんどん逃げていっているだろう。
「…………どうした、霊夢?」
「魔理沙は」
ひとつ、息を吸う。
「魔理沙は誰を、殺すの?」
その日の一番強い風が、神社を通り過ぎた。少女達の髪とスカートがばたばたと暴れる。
深呼吸四つ分の間、風の轟音に互いの声は通わなかった。帽子を強く抑えている魔理沙の唇が、誰かの名を小さく象ったように見えた。
やがて風は嘘のように唐突に止んで、境内に静寂が戻る。先程と寸分違わぬ位置で魔理沙は笑っていた。ただ、彼女の金髪は強風に乱れきってしまっていて、それは何だかとても壮絶な表情だった。
「少なくとも」
平素より少しだけ大きな魔理沙の声は、しかしそれだけで霊夢の世界に響き渡った。
「少なくとも私は、お前だけは殺さないぜ」
魔理沙の返答はそこまでだった。それっきり跡には何も残さず、普通の魔法使いは流れ星となって森の向こうへと消えた。
「……………………嫌われたもんね、私も」
一人残された霊夢が、ぽつんと呟く。宝石箱を引っくり返したような天蓋が、孤独な巫女を見下ろしていた。巫女は杯の水面に映る、自分自身を見下ろしていた。ゆらゆら揺れるその顔は、まるで泣きじゃくっているようにも見える。
ひとしきり己の顔を眺めた後、霊夢はその酒を一口で呷った。空になった杯を脇に置いて、身をぶるりとひとつ震わせる。
「ま、これで全部、終わったわよ」
それは独り言ではなく。一日の終わりを自分で労うための言葉でもなく。
霊夢の声は明確に、懐の中へと向けられていた。
『私』に為す術はなかった。
自分の存在にひどく皹が入るのを感じた。
霊夢が懐から『私』を取り出す。月の光に私の刃が鋭く輝いた。掌底から指先ほどの渡りがある刃は、既に大きくひとつ欠けていた。ナイフにとっては致命傷だった。私の内に込められた呪いが行き場を失い、のたうつ蛇のごとく暴れて私自身を破壊しているのだ。
霊夢に見つかったときに、もう私の運命は決していたのだろう。最愛のひとを必ず殺す。そんな恐ろしい呪いが、まさか通じないだなんて。
「残念だったわね。私はほら、ちょっとばかり普通じゃないみたいだから」
私の柄を順手に握り、霊夢は煌めく刃を見た。
私には、記憶がある。百年の、不吉な記憶。
誰が私を作りだし、誰が私に呪いを込めたのか。それはもう分からない。だけど、私の記憶のどれもが血塗られていることは、紛れもなく真実だった。
老いた執事は仕える主を殺した。
幸せな男は恋人を殺した。
少年は帰りを待っていたはずの父親を殺した。
孤独な少女は自分を脅した男を殺した。
無邪気な少年は母親を殺した。
時めくバンドマンはベーシストを殺した。
この世界のありとあらゆる場所で、私はこの呪いとともに人を殺し続けてきたのだ。
「マイ・ディア・キラーって、呼んであげましょうか?」
それは止めて欲しい。何だか恥ずかしい。
彷徨い続けた私は、気がついたらこの博麗神社の片隅にいた。ほどなくして掃除をしていた巫女が私に気がつき、拾い上げた。また私の刃が誰かの胸に刺し込まれることを予感して、私は憂鬱だった。
でも、彼女は違った。私の中の呪いが、戸惑うようにぐるぐる回るのを感じた。
彼女には、大切なひとが、いなかったのだ。
そんなはずはない、と私は思った。だけど、いつもなら握られればすぐに浮かぶ明確な対象の像が、彼女に限って全く見えないのだから仕方がなかった。
―― あなた、呪いが消えかかっているわ。
私の存在を根底から否定した彼女は、なんと私の声をも読み取って、こう言ったのだ。
―― それでも、まだしぶとくこびりついているのね。
―― 私が、消してあげる。
呪いの大蛇が、暴れていた。消されては敵わないと、ありったけの呪詛を言葉にならない声でぶちまけていた。だけど、それは届かない。私の呪いは、ひとを殺すことでしか伝わらない。
―― いいわ。それなら、こうしましょう。
掌の中でのたうち回る漆黒の力にも表情ひとつ変えないまま、霊夢は恐ろしい提案をしたのだ。
またひとつ、刃に大きく皹が入った。欠片が暗い地面へと落ちていく。
「……言った通りだったでしょ? この郷に、私を一番に選ぶやつなんていない。私は誰の最愛の人でもない」
それは、勝負というひとつの契約だった。
霊夢を一番に好いているものがいれば、私の存在の勝ち。そのときは霊夢がそいつを殺して、私は再び呪いの連鎖の中に放り込まれる。
そして霊夢が誰の一番でもなければ、私の呪いの敗北。私の力は矛盾を引き起こし、私自身へと跳ね返る。
「あなたの呪いは、私にだけは、通じない」
だから彼女は魔理沙に付き合って、幻想郷中を回ったのだ。自分が誰の最愛でもないと、私に証明するために。忌まわしき呪いをこの郷にばら撒かないために。
そして本当に、誰も霊夢の名を挙げることはなかった。
悔しいという感情は、思ったほど強くはない。それよりも、とても寂しいと私は思った。百年の負の連鎖を余りにも呆気なく崩され、少女の手の中で朽ち果てようとしている自分は、とても虚しい存在だった。
でも、惜しかったなぁ。地底の猫さんなんか、かなりいい線まで行ったのに。
「あれは私も予想外だったわ。まさかあんなところに伏兵だなんて、思っていなかった。冗談だとしても大概にしてほしいわね」
口では文句を垂れながらも、霊夢は柔らかく笑う。
一陣の風が、崩れかけた私の切っ先を吹き飛ばした。私が誰かに刺さることは、これでもうない。
「……大丈夫よ、あなたは消えない。いつかちゃんとした形を持った妖になって、幻想郷に戻ってくる。そして、」
霊夢が私の柄に口を寄せる。ほとんど囁くような声は、風の音に負けることなくはっきりと私に届いた。
「想いを込めた札を手にして、きっと私の前に立つ。その時が来たら、」
掌の中で握られていた柄が、ぽきりと折れた。歪な断面から溢れ出した力が、私を傷口から砂へと変えていく。風に飛ばされてしまうと、それはもう土埃と混じって見分けがつかなくなってしまった。
「―― もう一度、負かしてあげる」
霊夢の手から私は浮かび上がった。風に溶かされて、砂の浸食はどんどん広がっていく。もう握りの部分はほとんど残されていなかった。ゆっくりと空へ昇っていく私を追ってか、霊夢は縁側から立ち上がった。私を征するための世界で唯一のジョーカーは、不思議な温もりで以って私をじっと見つめている。
消えてしまうことは怖くない。
だけどひとつだけ、楽園の巫女に伝えたいことが残っていた。
「……何よ」
霊夢は拗ねたように口を尖らせる。こんなときなのにそんな表情をするなんて。私に顔があったなら、たぶん笑っていただろう。
貴女は誰の最愛でもないかもしれない。
だけど貴女を知る者は皆、確かにこう願っていた。
『博麗霊夢の最愛の者になりたい』と。
「―――― え?」
霊夢の目が満月と同じくらいに丸くなる。
だってそうでしょう。今日貴女が出会った人は、悉くこう聞いた。
『霊夢の大切なひとは誰?』 誰もがそれを知りたがっていた。
あわよくば自分がそこにいやしないかと、心のどこかで期待していた。
「それは、」
だけど貴女は答えなかった。誰も特別になんて思っていないから。
でも、みんなそれを理解していながら、それでも自分はもしかしたら、と考えずにはいられなかった。
それは確かに、私の感じた数多の想い。
「……………………」
霊夢はそれっきり、何も話さなかった。降り注ぐ流星群を見る子供のように、視線を空へと釘付けにしていた。
風がついに、私の最後の一欠片を溶かし切る。私をずっと束縛していたものは、これでもうなくなった。頸木から逃れ、私の欠片たちは幻想の空を羽ばたく。
あぁ、霊夢と魔理沙と三人で飛んだこの空を、私はきっと忘れない。積み重ねた罪や悲劇とともに、私は最後まで記憶しようと思う。霊夢は想いを力に変えて戻って来いと言った。それならば、私の力はきっとこれなのだ。
不意に星空がぼやけて、そして何も見えなくなって、意識が途絶えた。
宝石箱の一員になれた、そんな気がした。
私がスペルカードを握りしめて霊夢の前に立ち塞がるのは、ずっと後になってからの、また別の話である。
答えられないのか、いないのか・・・
見てみたいような,怖いような.
快晴の巫女は全て素通り。 誰も想わず、誰からも想われない。
それは無関心と言うには余りにも生温い……それは、神そのものだ。
いつか、その妖怪も神の手によって幻想郷に受け入れられるのでしょう。
しかし元ネタ、見覚えがあるような無いような……
でも該当なし、というのも霊夢らしい。
つくづく霊夢は人間でありながら人間らしくない。
何者にも平等、ね…。
最後のやり取りを見ていると、
心のどこかでは誰かに愛されたい、誰かを愛したいと感じているのかも、と思いました。
元ネタなんだろう…わかんないな…
魔理沙の最後の言葉も気になる
ああ、私の欠片よ。力強く羽ばたいて行け。
残念ながら元ネタは一切わかりませんでしたが、単純に楽しめました
……いつホラーになるビクビクしてましたが
霊夢から「質問」が来ることが分かっていたような気がしました。
なんにせよ、素晴らしい話でした。