あの日から、私には日課が一つ増えた。大層なことではない、しかし、とても大事な日課だ。『ヤクモラン』。初めは冗談かと思ったその花も、目にしてみればなかなかどうして愛着が湧くものである。
「……ふぅ。今日はこんなところかな。」
小さな水差しを鉢の隣に置いて、私はもう一人の私というべき花を見つめる。太陽の光を一杯に浴びて輝く9枚の黄色い葉っぱを見ていると、思わず口元が緩んでしまう。そして、私の隣には私以上に明るい笑顔を向けている式がいる。
「今日も綺麗に咲いてますね、藍様。」
「そうだな。水は少なめで、肥料も必要ないということで少し心配だったが、どうやら杞憂だったみたいだ。」
日課の水やりには、必ず橙が一緒について来る。というより、橙の方が催促してくる、というべきだろうか。藍様、今日もお水をあげに行きましょう、と言いながら服を引っ張ってくる橙に、わかったわかったと応えながら準備をする私。そんなやり取りが交わされるようになったのも、この花のおかげといえる。
「……ところで、藍様。あの、そろそろですね、えと、その……」
「どうした、橙? 言いたいことはちゃんと言わないと伝わらないよ。」
「そろそろ…… 私の花を…… お願いしに行きたいのです。」
少し俯き加減で口にする橙。『ヤクモラン』をもらってきた日に、自分も自分の花が欲しいと言って真剣な眼差しを向けてきたことを思い出す。紫様の花の件もあり、今度ということで保留にしていたのだが、あれからひと月ほど過ぎてしまっただろうか。やや上目づかいで私の様子を伺う橙を見つめ返す。しばらくの間そうしていたが、何も言わない私に不安を覚えたのか、橙が目に少し涙を浮かべはじめた。これ以上待たせては無駄に橙を悲しませてしまうと思った私は、笑顔を向けて声をかけた。
「……そうだな。そろそろお願いしに行こうか、橙。」
私の答えを聞いた瞬間、橙の顔に明るい笑顔が戻ってきた。時は昼を少し回ったところだ。これから向かっても、夕方までには帰ってこれるだろう。喜びのあまり飛び跳ねまわる橙をなだめ、私は太陽の畑に向かう準備を始めた。
準備といってもこれといって荷物があるわけではなく、多少の身だしなみを確認した後、私たちはマヨヒガを出発した。
「橙は幽香さんと会うのは初めてだったかな?」
「いえ、何度かお会いしたことはあります。」
「意外だな、橙が幽香さんほどの妖怪と知り合いだったとは。」
「はい、たまにマタタビをくれるんですよ。ちょっと怖いですけど、とても親切な方です。」
思わず苦笑を浮かべる私を不思議そうに見つめる橙。お願いだから、マタタビで心を動かされないようにしておくれ。こんな会話を交わしているうちに、目的地である太陽の畑に到着した。幽香さんの家のドアを軽く叩いて呼び掛ける。
「こんにちわ、幽香さん、いらっしゃいますか?」
「あら、いらっしゃい。あれから花の様子はどう? あなたのことだから、よもや枯らしちゃったなんてことはないだろうけど。」
「枯れるどころか生き生きしてますよ。ちゃんと毎日世話をしています。今日も水やりをしてからここにきました。」
「そう、それは良かったわ。それで、今日は何の用事かしら?」
「えぇ、私自身の用事というわけではないのですが。ほら、橙、自分でお願いしなさい。」
私の後ろで隠れるように立っている橙に前に出るように促す。知り合いとはいえ妖怪としての格は段違いであるだけに、直接お願いするとなると怯んでしまう気持ちはわからなくもない。しかし、お願いをするときの礼儀というものはしっかりと覚えさせないといけない。私は橙の背中を優しく押し出してやった。
「あら、今日は猫ちゃんも来てたのね。マタタビが欲しい、ということならすぐにでも用意してあげるわよ。」
「い、いえ、今日はマタタビじゃなくて、あの、まずはこんにちわです。それで、えと、その……」
「橙、緊張するのはわかるけど、ちゃんと伝えないと。まずは落ち着こうか。」
しどろもどろになっている橙を見て笑みを浮かべる幽香さん。もしかして、花も好きだけど猫も好き、とかそういうものなのだろうか。とにかく、橙に深呼吸をさせて落ち着かせる。
「ふぅ。えと、幽香さん、お願いがあります。」
「何かしら? マタタビでないなら、エノコログサとか?」
「いやいや、そうじゃありません。えと、まずは、私、藍様の花を見て、とても綺麗だなって思いました。」
「あら、それは嬉しいわ。あなたの横にいる主人も、顔には出さないけど嬉しいなって思ってるはずよ。」
幽香さんはいつの間に心を読む程度の能力を身につけたのだろうか。いやいや、これはきっと偶然だ。自分に関係のあるものをほめられて嬉しいと思うだろうことくらい、想像に難くないはずだ。
「それで、もう一株欲しい、ということかしら? 私も意地悪じゃないから、譲ってあげることくらいなら大丈夫よ。」
「いえ、そうではなくでですね。えと、私もですね……」
「私も?」
「私も、私の花が欲しいんです! お願いします! 私の花を作ってください!」
良く言えました、と、心の中で橙を褒める。深々と頭を下げる橙を横目に幽香さんに視線を移すと、なんだか困ったような表情を浮かべていた。橙も、なかなか返事が返ってこないせいかゆっくりと頭をあげて幽香さんを見ているようだ。
「幽香さん、何か、都合が悪いことがあるということでしょうか。できることなら、私としても、橙の願いは聞いていただけると嬉しいのですが。」
「えぇ、都合が悪いというか…… この猫ちゃんの名前は橙だったわよね。」
「はい、私は橙ですよ。」
「ほら、もうあるのよね、『橙(だいだい)』っていう植物が。お正月の鏡餅なんかに飾る蜜柑に似たアレよ。『代々』という言葉と掛けて、とても縁起のいい植物として知られているわ。だから、わざわざ新しく作る必要もないんじゃないかしら。」
なるほど。たしかに、『橙』という植物は存在する。こう言われてしまっては、引き下がるしかない。さぞ悲しそうな顔をしているだろうと橙を見ると、むしろ生き生きとした表情を浮かべていた。まるで、こういう反応が返ってくるであろうことを予想していたかのような顔である。
「えぇ、私だって、『橙』という植物があることは知っています。ですが、私は藍様の花のような花が欲しいんです。たしか、ラン科でしたっけ? それで、私の花を作ってほしいんです。お願いします、幽香さん。」
思わず感心してしまった。橙がここまで考えていたとは。再び深く頭を下げる橙を見て、幽香さんまで驚きの表情を浮かべている。少し誇らしい気持ちになりつつ、私も頭を下げた。
しばらくそうしていると、小さな笑い声が聞こえた。顔をあげると、両手を肩の横にあげてやれやれといった仕草をして微笑んでいる幽香さんが目に入った。
「わかったわ、これだけお願いされちゃ、断るわけにはいかないわ。やってみましょう。」
その言葉を聞いて、橙は満面の笑みを浮かべて飛び跳ねだした。まだ完成したわけではないのに、実際に花を目にしたらどのような反応をするのだろうか。そんなことを考えながら橙を眺めていると、幽香さんが隣に歩いてきた。
ちょっといいかしら、といって耳打ちをしてくる。ふむふむ、なるほど、それはいい考えかもしれません。私にも一つ、思うことがあります。ではそういうことでいきましょう。
最後に、とても良い式ね、という言葉をいただき、私と幽香さんは話を切り上げた。相変わらず笑顔を浮かべている橙に、幽香さんが声をかける。
「さて、早速あなたの花を作ることになるのだけど、ただで作るわけにはいかないわね。」
笑顔が一転して、緊張した表情を浮かべる橙。姿勢を正して硬くなっているところに、幽香さんは言葉を続ける。
「新しい花をつくるためには、一種の媒体となるものが必要なの。『ヤクモラン』の場合だと、あなたの主人の尻尾の毛を頂いたわ。毛づくろいをした時の毛を、紫に頼んで拝借したのよ。だから、あなたもそれに相当するものを提供してもらう必要があるわ。」
「それは、つまり、私の尻尾の毛を使う、ということですか?」
「人物をモチーフにした花は特殊でね、いわば分身のようなものなのよ。だから、花そのものにも本人に相当する力を込める必要がある。九尾の妖怪であるあなたの主人ほどの力を持つ妖怪であれば尻尾の毛でも充分だったけど、あなたにはそれほどの力があるとは思えない。よもや、自分の主人ほどの力があるという考えを持っているわけでもないでしょう?」
「……はい、私は藍様にはまだまだかないません。」
「だから、あなたの力を直接種に注ぎ込んでもらいたいの。出来るかしら?」
「なるほど。わかりました、それぐらいなら私にだってできます。なんてったって、妖術を扱う程度の能力を持ってますからね。」
「ふふふ、ところが、そんなに簡単じゃあないのよ。」
そう言って、幽香さんは手を差し出した。その手の上には何やら粉のような物がのっている。橙は不思議そうにその粉のようなものを見つめている。
「これが何かわかるかしら?」
「……いえ、なんでしょう。私には粉にしか見えませんが。」
「これはラン科植物の種よ。単なる粉にしか見えなくても、この一粒一粒が一つの種なの。この種の中に、あなたの力を込めるのよ。どう? これを見ても、まだ簡単にできると思うかしら?」
さすがの橙も、怯んだ様子で顔をこわばらせていた。しかし、徐々にその真剣な眼差しを取り戻し、幽香さんに向かって宣言した。
「やります。藍様のような、綺麗な花を咲かせるために。」
「そう。それじゃあ、頑張るのよ。私は他にやることがあるから、完成したら呼んでちょうだい。」
橙に粉のような種を手渡して、帽子の上から頭を軽く撫でた後、幽香さんは奥の部屋に入って行った。橙の方を見ると、少しばかり不安げな表情を浮かべていた。やると宣言したものの、やはり難しいだろうことを自覚しているのだろう。
「橙、きっとできるはずだよ。とりあえず、やってみようか。」
私が声をかけると、橙は力強く頷いてみせた。そして、種を床に置いてから自身も床に腰を下ろす。ちょうど座禅をするような格好で、手を種に向かって伸ばし、意識を集中し始めた。徐々に、周囲の空気も緊張感に包まれていくのがわかる。私はそんな橙の様子を静かに眺めていた。
橙は単なる化け猫にすぎない。妖獣の中でも最もスタンダードな存在であるだけに、本来なら高い身体能力を生かすはずである。そんな橙が妖術を使う理由は、式であるということに尽きる。私が憑かせた式の力により、橙は妖術を使うことができる。そう、初めはそうだった。
ある時、橙は妖術の修行を始め出した。理由を聞くと、いつまでも藍様に頼っていては一人前になれない、いつかは私も、藍様のような強い妖獣になるんだ、式を従えて、立派な主になるんだ、と答えてきた。式を憑かせることは頼ることとは違うのだが、そう説明しても、橙は修行の手を緩めることはなかった。そして、いつの間にか、式が憑いていなくても妖術を使うまでに成長したのだ。
今、私は橙に式を憑かせていない。正真正銘、橙自身が力を操っている。まだまだ未熟だと思っていたが、橙は橙なりに日々成長しているということだろう。
窓から差し込む光が赤みを帯び、日が傾いてきた頃、橙は伸ばしていた手を降ろした。前に置かれた種を両手ですくい上げ、ゆっくりと立ち上がって私の方を向き、柔らかな笑顔を見せてこう言った。
「……できました。」
額には微かに汗がにじんでいる。それだけで、橙がどれほど精神を集中していたのかが伝わってくる。できることならこのまま抱擁したいという気持ちを抑え、私は橙に笑顔を返す。
「よくできました。」
称賛の言葉をかけると、その笑顔はさらに明るくなる。しばらくの間2人で笑いあっていると、土が入った鉢を手にした幽香さんが部屋から戻ってきた。
「出来たみたいね。御苦労様。」
「はい、できました。でも、どうしてわかったんですか?」
「空気が緩んだから、と言いたいところだけど、静かだったところに笑い声が聞こえれば、区切りがついたことくらいは想像できるわよ。」
照れているのか、少しだけ橙の頬が赤みを帯びている。両手がふさがっているせいで頭をかく動作ができない代わりに尻尾をぴょこぴょこと動かしている。
「さて、これからは私の仕事かしら。あなたの思いが込められた種、綺麗に咲かせてあげるわ。」
そう言うと、幽香さんは橙の手に包まれた種を軽く撫でてから鉢の中に詰めてある土に触れた。種を蒔いたということなんだろう。土に触れた手をそのままかざしつつ、もう一方の手は鉢を支えている。花を操る程度の能力によって咲かそうとしているのは予想できるが、私も実際に見るのは初めてであるだけに少しだけ緊張する。
しばらく見つめていると、種が徐々に変化を見せはじめた。粉のような種から、少しづつ芽が出て茎が伸び葉をつける。葉は少しづつ形がはっきりとしてきて、伸びた茎の上には蕾ができている。やがて蕾は花開き、鉢の中には一輪の花が咲いていた。
「さて、こんなものかしら。どう? 満足いただけた?」
鉢の中で咲いている花は、赤い茎に3枚の茶色の萼、3枚の褐色の花弁を開き、唇弁にあたる1枚は先端が黒褐色で浅く2つに分かれていた。なるほど、これは橙の耳だ。そして、やや後ろに突き出た距と呼ばれる部分は緑色であり、きっと帽子をイメージしているのだろう。茎の中ほどに2枚のやや控えめな円い葉っぱ、そして、根の近くからは長めの楕円形の葉が2枚ついている。楕円形の葉は全体に細かな黒褐色の毛が生えており、先端付近はその色が白に変わっている。これは言うまでもなく、橙の尻尾だろう。
ふと橙を見ると、目を見開いてじっと花を見つめているところだった。口をぱくぱくと動かしている様子から察するに、言葉が出ないくらいの感情に包まれているのだろう。
「橙、ほら、幽香さんにお礼を言わないと。」
「……は、はい! 思わず見とれてしまって、え、えと、幽香さん、ありがとうございます! 本当に、本当にありがとうございます!」
深々と頭を下げる橙に、どういたしましてと優しく声をかける幽香さん。その様子を見守っていた私だったが、ふと幽香さんがこちらに視線を送ってきた。何だろうと思って良く見ると、橙の顔からぽろぽろと雫がこぼれているのが見えた。
「ち、橙、一体どうした?」
「あ、これは、いえ、悲しいんじゃなくて、その、逆で、嬉しくて、涙が……」
ついに声をあげて泣き出してしまった橙を、私は優しく抱擁する。よしよし、と頭をなでてあげると、橙も少し落ち着きを取り戻したようで、袖で涙をぬぐった後、笑顔を見せてくれた。
「本当に、とても良い子ね。あなたが羨ましいわ。そして、あなたのような従者を持つ紫も。」
なんだか心がくすぐったい気持ちがして、私は言葉の代わりに笑みをかえす。3人で笑いあっていると、家のドアをトントンと叩く音が聞こえてきた。
「こんにちわ。いえ、もうこんばんわというくらいの時間でしょうか。お邪魔いたします。」
来客は稗田阿求だった。なぜ? という疑問が湧いてきたが、すぐに例の植物史についての話を聞きに来たのだろうということを思い至った。そして、阿求の後ろにもう一人、なかなかに厄介な者が控えていた。
「いやぁ、思ったより時間がかかっちゃいましたね。やはりスピードを控えめにしていたからでしょうか。……とと、こんばんは幽香さん、と、藍さんと橙ちゃんもいらっしゃったのですね。」
「今日は橙のことで用事があってな。しかし、珍しい組み合わせ…… いや、納得の組み合わせというべきか?」
「ら、藍さん、からかわないでくださいよ。」
私の言葉に反応して頬を赤らめる文。その横で口元を押さえてほほ笑む阿求。橙は何の事だかわからずに不思議そうな眼差しを向けてくる。
「さて、阿求が来たということは、『アレ』を受け取りに来た、ということでいいのよね?」
「はい、『アレ』ですね。」
見つめあってほほ笑みあう幽香さんと阿求。頃合いを見て、幽香さんは奥の部屋に入って行った。『アレ』というのは何なのか。まぁだいたいの予想はつくのだが、とりあえずは黙って様子を見ることにした。しばらくすると、幽香さんが鉢を手にして戻ってきた。
「はい、これが『アレオトメ』よ。今はあえて花を咲かせてはいないわ。春になって今よりももう少し暖かくなってきたら、花が咲いて実をつけるはずよ。とても美味しい実が生るはずだから、できたら私のところにも持って来なさい。」
鉢を受け取った阿求の横から、文が好奇の眼差しを注いでいるのが見える。
「ほう、これはイチゴの仲間ですか? 今はまだツルが伸びているだけですが、どんな花が咲くのでしょうか。」
「イチゴというか、バラ科の植物ね。どれくらい世話をしたかによって、咲く花の色や、生る実の形も変わるように工夫してみたわ。だから、まだ私もどうなるかは予想がつかない。言うなれば、『アレオトメver阿求』ってところかしら。」
「うむむ、なんだか難しいですね。」
「『アレオトメ』は一年草よ。今年限りの開花と結実。悲しいけれど、阿礼乙女の短命という特徴を反映させた結果ともいえるわね。」
「なるほど、それなら代々の阿礼乙女がこれを育てるという伝統を残すのも面白いかもしれないな。育てる者によって変化をみせる花。その代ごとに生まれる変種。」
「もっと早くできていたら、『アレオトメver阿弥』なんてのもできたかもしれませんね、文さん。」
「ちょ、ちょっと、阿求さんまで。からかうのはよしてくださいって。」
「『阿求さん』なんて。2人だけの時は『阿求』って呼んでくれてるのに。」
これでもかというくらいに顔を紅潮させる文と、その様子を見てほほ笑む阿求。私と幽香さんも一緒になって笑っていたが、橙だけが不思議そうな顔を浮かべていた。何度か首を捻って考え込んでいた様子だったが、答えが見つからなかったらしく私に疑問を投げかけてきた。
「藍様、阿求さんは何か凄い力を持っているのでしょうか?」
文と阿求の関係のことを考えているのだと思っていた私は一瞬呆気にとられたが、すぐに気を取り直す。しかし、橙の質問の意図はすぐには理解できなかった。
「橙、阿求は阿礼乙女である以外は普通の人間だ。求聞持の能力は確かに凄い力ではあるが…… つまり、どういうことだ?」
「確か、幽香さんは人物をモチーフにした花にはそれなりの力を込める必要があると言ってましたよね。だったら、『アレオトメ』のモデルになった阿求さんだって、なにか種に力を込めたのでは、と? あれ? 藍様?」
橙の話を聞き終える前に、こらえきれずに笑ってしまった。不思議そうな顔をこちらに向けてくる橙に、私はその疑問の答えを告げた。
「いや、すまない。実は、わざわざ種に力を込める必要はないんだよ。」
何を言ってるのかわからないといった表情を浮かべる橙に、私は話を続ける。
「幽香さんとこっそり話をしてだな、ある理由で橙に頑張ってもらおうということになったんだ。」
「簡単にいえば、あなたが花を想う心を持っているかどうかを試したのよ。粉みたいな小さな種に力を注げば、加減を間違えば簡単に力が暴走して爆発させちゃったりしかねないわ。あなたはその点、しっかりと克服できたみたいね。試験は合格よ。」
幽香さんの説明を受けても、まだ頭が混乱しているのだろうか、橙は口をぱくぱくさせている。私は橙の頭に優しく手を置いて話しかける。
「理由はもう一つあってだな、これは私が望んだことでもあるんだ。橙が立派な妖獣になるための修行の一環だと考えてほしい。式を操ることは、力任せに従えるだけではいけない。力を引き出してあげること、そのための力の使い方を学ぶ、いい経験になったと思う。」
橙は少しづつ落ち着きを取り戻してきた様子だった。しかし、まだ疑問は残っているようで、幽香さんに問いかけていた。
「なんというか、花を咲かせるにあたってまったく必要のないことをした、というわけではないということですか?」
「そういうこと。ねぇ、この小さな種がどうやって成長できるのか、あなたにはわかるかしら?」
「種の中には、芽を出すための養分が詰まっているって、前に藍様に教わりました。」
「そう、基本的にはその通り。だけどね、ラン科の種は見ての通り粉みたいに小さい。この中には発芽するための養分は詰まってないの。養分が必要な時、その養分が足りない。そんなとき、あなたならどうするかしら?」
「他の所から、養分をもらってくる、とかですか?」
「当たらずとも遠からずといったところね。ランの種は、発芽する時に菌根菌というものの力を借りているの。菌根菌はランの種にとりついて養分を運んでくれる。その力で、種は発芽して、成長することができるのよ。ねぇ、これって、何かに似ていると思わない?」
「とりついて力を与える…… もしかして、式神と似てるってことですか?」
「正解。あなたが種に込めた力は、種が発芽するための養分になったのよ。あなたの力がなくても、私の力を使えば咲かせることはできるのだけど、今回は、私は種が成長するきっかけを与えただけ。だから、あなたのこの花は、あなたが咲かせたと言っても過言ではないわ。」
「言うなれば、橙が式を操るための力の修行、という側面もあったということだ。だましていてごめんな、橙。」
橙はようやく納得できたようで、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「いいえ、謝ることなんてありません。むしろ、私のことを思ってしていただけたことですから、私からお礼をしなければいけません。ありがとうございます、藍様。それから、改めて、ありがとうございます、幽香さん。」
私と橙、幽香さんの3人は互いにほほ笑みを交わす。そこに、落ち着きを取り戻したらしい文が声をかけてきた。
「あの、少し、よろしいでしょうか?」
「どうした? 早速花についての取材といったところか?」
「えぇ、まぁそんなところなんですが、この橙ちゃんをモチーフにした花、なんていう名前なんでしょうか?」
そういえば、名前については考えていなかった。私の場合はそのまま『ヤクモラン』で通じるだろうが、橙の場合はどうなるだろうか。『チェンラン』とか?
「とりあえず、学名は『Mayoiga nekomata』といったところね。」
「あら、この花は『ヤクモラン』と同じ属の花なんですね。」
そう言った阿求はじっと花を観察し続けている。それにしても、幽香さんが言った学名、私と同じラン科の花を望んだ橙の心情を汲み取ったのだろうか。橙自身は、なんだか難しい顔で、まよいがねこまーた、と繰り返している。
「出来れば、なんとかランっていう感じでつけたいですよね。」
「名前をそのまま当てはめるとすると、『チェンラン』だが。何というか、語感がすっきりしないな。」
「あなたもなかなかこだわるわね。まぁ、一度つけたら変更するのはとても難しいわけだし、慎重になるに越したことはないんだけどね。」
なかなか良い考えが浮かばない。数学ならお手の物なのだが、どうもこういったアイディアをひねり出すという作業は苦手だ。しばらくの間考えてみたが、どうにもいい案が出てこない。もう『チェンラン』に決めようかというところで、橙が声をあげた。
「なんとかランという名前なら、私にぴったりなものがありますよ。」
「そうか? さっきも言ったが、『チェンラン』ではなんだかすっきりしないぞ。」
「私の名前が入らなくても、私を象徴する物の名前が入ればいいと思うのです。」
「象徴するもの…… なるほど、スペルカード!」
「文さん、その通りです。私のスペルカードには、なんとかランという語感にぴったりなものがあるじゃないですか。」
「橙のスペルカード…… そうか、あれがあったな!」
私と橙は視線を交わして、同時に同じ名前を口にしていた。
「「ホウオウラン!」」
その場にいた全員が、なるほどといった表情を浮かべていた。
「決まりね、あなたの花は『ホウオウラン』よ。名付け親にまでなるなんて、なんだか一人前に式を従えた主みたいね。」
「とてもうれしい言葉ですが、私はまだまだ修行しないといけません。いつか、藍様のような立派な主になるんです。」
「頼もしい限りだな。まぁ、ある意味、幽香さんの言ったことは間違いではないからな。これから、ちゃんと世話をするんだぞ。」
「これは、次の新聞は特ダネが一杯ですね。『アレオトメ』に『ホウオウラン』。煽り文句は『幽香が咲かせ、幻想の花』なんて、いいかもしれませんね。」
「私も、幻想郷植物史にしっかり記録しないと。よろしければ、後日マヨヒガに花を見に行きたいですね。実は、まだ『ヤクモラン』もしっかり見てはいないのですよ。」
しばらく花を見ながらの談笑が続くかと思ったのだが、日も落ちて辺りが暗くなってきたこともあり、今日のところはこれまでということでそれぞれ帰宅することになった。帰る前に受けた『ホウオウラン』の世話についての説明を、橙は両手で大事そうに鉢を抱えながらとても熱心に聞いていた。
こうして、橙の花が新しく誕生した。橙はマヨヒガに帰った後もしばらくは興奮がおさまらなかった様子で、二つ並んだ鉢に笑顔を向けていた。いつもならもう眠っている時間なのだが、きっと明日は寝坊してしまうだろう。
そして翌日、私の予想に反して、橙はちゃんと目を覚ましたようだった。そして、起きてきてすぐさま私のところに来てこう言ったのだ。
「藍様、お水をあげに行きましょう。」
これからは日課の時間が多少早くなるようだ。といっても、いつまで続くことやら。願わくば、ずっと続いてほしい。少なくとも、飽きる、ということはあってほしくない。式に向ける優しさ、式に注ぐ愛情を、花を通じて学んでいってほしい。
私は、わかったわかったという言葉を返して水差しを手にとる。せっかくだから、今日は橙にやらせてみよう。私は橙に水差しを手渡すと、橙は微笑んで受け取ってくれた。私も微笑みを返しつつ、今日の日課に向かうのであった。
「……ふぅ。今日はこんなところかな。」
小さな水差しを鉢の隣に置いて、私はもう一人の私というべき花を見つめる。太陽の光を一杯に浴びて輝く9枚の黄色い葉っぱを見ていると、思わず口元が緩んでしまう。そして、私の隣には私以上に明るい笑顔を向けている式がいる。
「今日も綺麗に咲いてますね、藍様。」
「そうだな。水は少なめで、肥料も必要ないということで少し心配だったが、どうやら杞憂だったみたいだ。」
日課の水やりには、必ず橙が一緒について来る。というより、橙の方が催促してくる、というべきだろうか。藍様、今日もお水をあげに行きましょう、と言いながら服を引っ張ってくる橙に、わかったわかったと応えながら準備をする私。そんなやり取りが交わされるようになったのも、この花のおかげといえる。
「……ところで、藍様。あの、そろそろですね、えと、その……」
「どうした、橙? 言いたいことはちゃんと言わないと伝わらないよ。」
「そろそろ…… 私の花を…… お願いしに行きたいのです。」
少し俯き加減で口にする橙。『ヤクモラン』をもらってきた日に、自分も自分の花が欲しいと言って真剣な眼差しを向けてきたことを思い出す。紫様の花の件もあり、今度ということで保留にしていたのだが、あれからひと月ほど過ぎてしまっただろうか。やや上目づかいで私の様子を伺う橙を見つめ返す。しばらくの間そうしていたが、何も言わない私に不安を覚えたのか、橙が目に少し涙を浮かべはじめた。これ以上待たせては無駄に橙を悲しませてしまうと思った私は、笑顔を向けて声をかけた。
「……そうだな。そろそろお願いしに行こうか、橙。」
私の答えを聞いた瞬間、橙の顔に明るい笑顔が戻ってきた。時は昼を少し回ったところだ。これから向かっても、夕方までには帰ってこれるだろう。喜びのあまり飛び跳ねまわる橙をなだめ、私は太陽の畑に向かう準備を始めた。
準備といってもこれといって荷物があるわけではなく、多少の身だしなみを確認した後、私たちはマヨヒガを出発した。
「橙は幽香さんと会うのは初めてだったかな?」
「いえ、何度かお会いしたことはあります。」
「意外だな、橙が幽香さんほどの妖怪と知り合いだったとは。」
「はい、たまにマタタビをくれるんですよ。ちょっと怖いですけど、とても親切な方です。」
思わず苦笑を浮かべる私を不思議そうに見つめる橙。お願いだから、マタタビで心を動かされないようにしておくれ。こんな会話を交わしているうちに、目的地である太陽の畑に到着した。幽香さんの家のドアを軽く叩いて呼び掛ける。
「こんにちわ、幽香さん、いらっしゃいますか?」
「あら、いらっしゃい。あれから花の様子はどう? あなたのことだから、よもや枯らしちゃったなんてことはないだろうけど。」
「枯れるどころか生き生きしてますよ。ちゃんと毎日世話をしています。今日も水やりをしてからここにきました。」
「そう、それは良かったわ。それで、今日は何の用事かしら?」
「えぇ、私自身の用事というわけではないのですが。ほら、橙、自分でお願いしなさい。」
私の後ろで隠れるように立っている橙に前に出るように促す。知り合いとはいえ妖怪としての格は段違いであるだけに、直接お願いするとなると怯んでしまう気持ちはわからなくもない。しかし、お願いをするときの礼儀というものはしっかりと覚えさせないといけない。私は橙の背中を優しく押し出してやった。
「あら、今日は猫ちゃんも来てたのね。マタタビが欲しい、ということならすぐにでも用意してあげるわよ。」
「い、いえ、今日はマタタビじゃなくて、あの、まずはこんにちわです。それで、えと、その……」
「橙、緊張するのはわかるけど、ちゃんと伝えないと。まずは落ち着こうか。」
しどろもどろになっている橙を見て笑みを浮かべる幽香さん。もしかして、花も好きだけど猫も好き、とかそういうものなのだろうか。とにかく、橙に深呼吸をさせて落ち着かせる。
「ふぅ。えと、幽香さん、お願いがあります。」
「何かしら? マタタビでないなら、エノコログサとか?」
「いやいや、そうじゃありません。えと、まずは、私、藍様の花を見て、とても綺麗だなって思いました。」
「あら、それは嬉しいわ。あなたの横にいる主人も、顔には出さないけど嬉しいなって思ってるはずよ。」
幽香さんはいつの間に心を読む程度の能力を身につけたのだろうか。いやいや、これはきっと偶然だ。自分に関係のあるものをほめられて嬉しいと思うだろうことくらい、想像に難くないはずだ。
「それで、もう一株欲しい、ということかしら? 私も意地悪じゃないから、譲ってあげることくらいなら大丈夫よ。」
「いえ、そうではなくでですね。えと、私もですね……」
「私も?」
「私も、私の花が欲しいんです! お願いします! 私の花を作ってください!」
良く言えました、と、心の中で橙を褒める。深々と頭を下げる橙を横目に幽香さんに視線を移すと、なんだか困ったような表情を浮かべていた。橙も、なかなか返事が返ってこないせいかゆっくりと頭をあげて幽香さんを見ているようだ。
「幽香さん、何か、都合が悪いことがあるということでしょうか。できることなら、私としても、橙の願いは聞いていただけると嬉しいのですが。」
「えぇ、都合が悪いというか…… この猫ちゃんの名前は橙だったわよね。」
「はい、私は橙ですよ。」
「ほら、もうあるのよね、『橙(だいだい)』っていう植物が。お正月の鏡餅なんかに飾る蜜柑に似たアレよ。『代々』という言葉と掛けて、とても縁起のいい植物として知られているわ。だから、わざわざ新しく作る必要もないんじゃないかしら。」
なるほど。たしかに、『橙』という植物は存在する。こう言われてしまっては、引き下がるしかない。さぞ悲しそうな顔をしているだろうと橙を見ると、むしろ生き生きとした表情を浮かべていた。まるで、こういう反応が返ってくるであろうことを予想していたかのような顔である。
「えぇ、私だって、『橙』という植物があることは知っています。ですが、私は藍様の花のような花が欲しいんです。たしか、ラン科でしたっけ? それで、私の花を作ってほしいんです。お願いします、幽香さん。」
思わず感心してしまった。橙がここまで考えていたとは。再び深く頭を下げる橙を見て、幽香さんまで驚きの表情を浮かべている。少し誇らしい気持ちになりつつ、私も頭を下げた。
しばらくそうしていると、小さな笑い声が聞こえた。顔をあげると、両手を肩の横にあげてやれやれといった仕草をして微笑んでいる幽香さんが目に入った。
「わかったわ、これだけお願いされちゃ、断るわけにはいかないわ。やってみましょう。」
その言葉を聞いて、橙は満面の笑みを浮かべて飛び跳ねだした。まだ完成したわけではないのに、実際に花を目にしたらどのような反応をするのだろうか。そんなことを考えながら橙を眺めていると、幽香さんが隣に歩いてきた。
ちょっといいかしら、といって耳打ちをしてくる。ふむふむ、なるほど、それはいい考えかもしれません。私にも一つ、思うことがあります。ではそういうことでいきましょう。
最後に、とても良い式ね、という言葉をいただき、私と幽香さんは話を切り上げた。相変わらず笑顔を浮かべている橙に、幽香さんが声をかける。
「さて、早速あなたの花を作ることになるのだけど、ただで作るわけにはいかないわね。」
笑顔が一転して、緊張した表情を浮かべる橙。姿勢を正して硬くなっているところに、幽香さんは言葉を続ける。
「新しい花をつくるためには、一種の媒体となるものが必要なの。『ヤクモラン』の場合だと、あなたの主人の尻尾の毛を頂いたわ。毛づくろいをした時の毛を、紫に頼んで拝借したのよ。だから、あなたもそれに相当するものを提供してもらう必要があるわ。」
「それは、つまり、私の尻尾の毛を使う、ということですか?」
「人物をモチーフにした花は特殊でね、いわば分身のようなものなのよ。だから、花そのものにも本人に相当する力を込める必要がある。九尾の妖怪であるあなたの主人ほどの力を持つ妖怪であれば尻尾の毛でも充分だったけど、あなたにはそれほどの力があるとは思えない。よもや、自分の主人ほどの力があるという考えを持っているわけでもないでしょう?」
「……はい、私は藍様にはまだまだかないません。」
「だから、あなたの力を直接種に注ぎ込んでもらいたいの。出来るかしら?」
「なるほど。わかりました、それぐらいなら私にだってできます。なんてったって、妖術を扱う程度の能力を持ってますからね。」
「ふふふ、ところが、そんなに簡単じゃあないのよ。」
そう言って、幽香さんは手を差し出した。その手の上には何やら粉のような物がのっている。橙は不思議そうにその粉のようなものを見つめている。
「これが何かわかるかしら?」
「……いえ、なんでしょう。私には粉にしか見えませんが。」
「これはラン科植物の種よ。単なる粉にしか見えなくても、この一粒一粒が一つの種なの。この種の中に、あなたの力を込めるのよ。どう? これを見ても、まだ簡単にできると思うかしら?」
さすがの橙も、怯んだ様子で顔をこわばらせていた。しかし、徐々にその真剣な眼差しを取り戻し、幽香さんに向かって宣言した。
「やります。藍様のような、綺麗な花を咲かせるために。」
「そう。それじゃあ、頑張るのよ。私は他にやることがあるから、完成したら呼んでちょうだい。」
橙に粉のような種を手渡して、帽子の上から頭を軽く撫でた後、幽香さんは奥の部屋に入って行った。橙の方を見ると、少しばかり不安げな表情を浮かべていた。やると宣言したものの、やはり難しいだろうことを自覚しているのだろう。
「橙、きっとできるはずだよ。とりあえず、やってみようか。」
私が声をかけると、橙は力強く頷いてみせた。そして、種を床に置いてから自身も床に腰を下ろす。ちょうど座禅をするような格好で、手を種に向かって伸ばし、意識を集中し始めた。徐々に、周囲の空気も緊張感に包まれていくのがわかる。私はそんな橙の様子を静かに眺めていた。
橙は単なる化け猫にすぎない。妖獣の中でも最もスタンダードな存在であるだけに、本来なら高い身体能力を生かすはずである。そんな橙が妖術を使う理由は、式であるということに尽きる。私が憑かせた式の力により、橙は妖術を使うことができる。そう、初めはそうだった。
ある時、橙は妖術の修行を始め出した。理由を聞くと、いつまでも藍様に頼っていては一人前になれない、いつかは私も、藍様のような強い妖獣になるんだ、式を従えて、立派な主になるんだ、と答えてきた。式を憑かせることは頼ることとは違うのだが、そう説明しても、橙は修行の手を緩めることはなかった。そして、いつの間にか、式が憑いていなくても妖術を使うまでに成長したのだ。
今、私は橙に式を憑かせていない。正真正銘、橙自身が力を操っている。まだまだ未熟だと思っていたが、橙は橙なりに日々成長しているということだろう。
窓から差し込む光が赤みを帯び、日が傾いてきた頃、橙は伸ばしていた手を降ろした。前に置かれた種を両手ですくい上げ、ゆっくりと立ち上がって私の方を向き、柔らかな笑顔を見せてこう言った。
「……できました。」
額には微かに汗がにじんでいる。それだけで、橙がどれほど精神を集中していたのかが伝わってくる。できることならこのまま抱擁したいという気持ちを抑え、私は橙に笑顔を返す。
「よくできました。」
称賛の言葉をかけると、その笑顔はさらに明るくなる。しばらくの間2人で笑いあっていると、土が入った鉢を手にした幽香さんが部屋から戻ってきた。
「出来たみたいね。御苦労様。」
「はい、できました。でも、どうしてわかったんですか?」
「空気が緩んだから、と言いたいところだけど、静かだったところに笑い声が聞こえれば、区切りがついたことくらいは想像できるわよ。」
照れているのか、少しだけ橙の頬が赤みを帯びている。両手がふさがっているせいで頭をかく動作ができない代わりに尻尾をぴょこぴょこと動かしている。
「さて、これからは私の仕事かしら。あなたの思いが込められた種、綺麗に咲かせてあげるわ。」
そう言うと、幽香さんは橙の手に包まれた種を軽く撫でてから鉢の中に詰めてある土に触れた。種を蒔いたということなんだろう。土に触れた手をそのままかざしつつ、もう一方の手は鉢を支えている。花を操る程度の能力によって咲かそうとしているのは予想できるが、私も実際に見るのは初めてであるだけに少しだけ緊張する。
しばらく見つめていると、種が徐々に変化を見せはじめた。粉のような種から、少しづつ芽が出て茎が伸び葉をつける。葉は少しづつ形がはっきりとしてきて、伸びた茎の上には蕾ができている。やがて蕾は花開き、鉢の中には一輪の花が咲いていた。
「さて、こんなものかしら。どう? 満足いただけた?」
鉢の中で咲いている花は、赤い茎に3枚の茶色の萼、3枚の褐色の花弁を開き、唇弁にあたる1枚は先端が黒褐色で浅く2つに分かれていた。なるほど、これは橙の耳だ。そして、やや後ろに突き出た距と呼ばれる部分は緑色であり、きっと帽子をイメージしているのだろう。茎の中ほどに2枚のやや控えめな円い葉っぱ、そして、根の近くからは長めの楕円形の葉が2枚ついている。楕円形の葉は全体に細かな黒褐色の毛が生えており、先端付近はその色が白に変わっている。これは言うまでもなく、橙の尻尾だろう。
ふと橙を見ると、目を見開いてじっと花を見つめているところだった。口をぱくぱくと動かしている様子から察するに、言葉が出ないくらいの感情に包まれているのだろう。
「橙、ほら、幽香さんにお礼を言わないと。」
「……は、はい! 思わず見とれてしまって、え、えと、幽香さん、ありがとうございます! 本当に、本当にありがとうございます!」
深々と頭を下げる橙に、どういたしましてと優しく声をかける幽香さん。その様子を見守っていた私だったが、ふと幽香さんがこちらに視線を送ってきた。何だろうと思って良く見ると、橙の顔からぽろぽろと雫がこぼれているのが見えた。
「ち、橙、一体どうした?」
「あ、これは、いえ、悲しいんじゃなくて、その、逆で、嬉しくて、涙が……」
ついに声をあげて泣き出してしまった橙を、私は優しく抱擁する。よしよし、と頭をなでてあげると、橙も少し落ち着きを取り戻したようで、袖で涙をぬぐった後、笑顔を見せてくれた。
「本当に、とても良い子ね。あなたが羨ましいわ。そして、あなたのような従者を持つ紫も。」
なんだか心がくすぐったい気持ちがして、私は言葉の代わりに笑みをかえす。3人で笑いあっていると、家のドアをトントンと叩く音が聞こえてきた。
「こんにちわ。いえ、もうこんばんわというくらいの時間でしょうか。お邪魔いたします。」
来客は稗田阿求だった。なぜ? という疑問が湧いてきたが、すぐに例の植物史についての話を聞きに来たのだろうということを思い至った。そして、阿求の後ろにもう一人、なかなかに厄介な者が控えていた。
「いやぁ、思ったより時間がかかっちゃいましたね。やはりスピードを控えめにしていたからでしょうか。……とと、こんばんは幽香さん、と、藍さんと橙ちゃんもいらっしゃったのですね。」
「今日は橙のことで用事があってな。しかし、珍しい組み合わせ…… いや、納得の組み合わせというべきか?」
「ら、藍さん、からかわないでくださいよ。」
私の言葉に反応して頬を赤らめる文。その横で口元を押さえてほほ笑む阿求。橙は何の事だかわからずに不思議そうな眼差しを向けてくる。
「さて、阿求が来たということは、『アレ』を受け取りに来た、ということでいいのよね?」
「はい、『アレ』ですね。」
見つめあってほほ笑みあう幽香さんと阿求。頃合いを見て、幽香さんは奥の部屋に入って行った。『アレ』というのは何なのか。まぁだいたいの予想はつくのだが、とりあえずは黙って様子を見ることにした。しばらくすると、幽香さんが鉢を手にして戻ってきた。
「はい、これが『アレオトメ』よ。今はあえて花を咲かせてはいないわ。春になって今よりももう少し暖かくなってきたら、花が咲いて実をつけるはずよ。とても美味しい実が生るはずだから、できたら私のところにも持って来なさい。」
鉢を受け取った阿求の横から、文が好奇の眼差しを注いでいるのが見える。
「ほう、これはイチゴの仲間ですか? 今はまだツルが伸びているだけですが、どんな花が咲くのでしょうか。」
「イチゴというか、バラ科の植物ね。どれくらい世話をしたかによって、咲く花の色や、生る実の形も変わるように工夫してみたわ。だから、まだ私もどうなるかは予想がつかない。言うなれば、『アレオトメver阿求』ってところかしら。」
「うむむ、なんだか難しいですね。」
「『アレオトメ』は一年草よ。今年限りの開花と結実。悲しいけれど、阿礼乙女の短命という特徴を反映させた結果ともいえるわね。」
「なるほど、それなら代々の阿礼乙女がこれを育てるという伝統を残すのも面白いかもしれないな。育てる者によって変化をみせる花。その代ごとに生まれる変種。」
「もっと早くできていたら、『アレオトメver阿弥』なんてのもできたかもしれませんね、文さん。」
「ちょ、ちょっと、阿求さんまで。からかうのはよしてくださいって。」
「『阿求さん』なんて。2人だけの時は『阿求』って呼んでくれてるのに。」
これでもかというくらいに顔を紅潮させる文と、その様子を見てほほ笑む阿求。私と幽香さんも一緒になって笑っていたが、橙だけが不思議そうな顔を浮かべていた。何度か首を捻って考え込んでいた様子だったが、答えが見つからなかったらしく私に疑問を投げかけてきた。
「藍様、阿求さんは何か凄い力を持っているのでしょうか?」
文と阿求の関係のことを考えているのだと思っていた私は一瞬呆気にとられたが、すぐに気を取り直す。しかし、橙の質問の意図はすぐには理解できなかった。
「橙、阿求は阿礼乙女である以外は普通の人間だ。求聞持の能力は確かに凄い力ではあるが…… つまり、どういうことだ?」
「確か、幽香さんは人物をモチーフにした花にはそれなりの力を込める必要があると言ってましたよね。だったら、『アレオトメ』のモデルになった阿求さんだって、なにか種に力を込めたのでは、と? あれ? 藍様?」
橙の話を聞き終える前に、こらえきれずに笑ってしまった。不思議そうな顔をこちらに向けてくる橙に、私はその疑問の答えを告げた。
「いや、すまない。実は、わざわざ種に力を込める必要はないんだよ。」
何を言ってるのかわからないといった表情を浮かべる橙に、私は話を続ける。
「幽香さんとこっそり話をしてだな、ある理由で橙に頑張ってもらおうということになったんだ。」
「簡単にいえば、あなたが花を想う心を持っているかどうかを試したのよ。粉みたいな小さな種に力を注げば、加減を間違えば簡単に力が暴走して爆発させちゃったりしかねないわ。あなたはその点、しっかりと克服できたみたいね。試験は合格よ。」
幽香さんの説明を受けても、まだ頭が混乱しているのだろうか、橙は口をぱくぱくさせている。私は橙の頭に優しく手を置いて話しかける。
「理由はもう一つあってだな、これは私が望んだことでもあるんだ。橙が立派な妖獣になるための修行の一環だと考えてほしい。式を操ることは、力任せに従えるだけではいけない。力を引き出してあげること、そのための力の使い方を学ぶ、いい経験になったと思う。」
橙は少しづつ落ち着きを取り戻してきた様子だった。しかし、まだ疑問は残っているようで、幽香さんに問いかけていた。
「なんというか、花を咲かせるにあたってまったく必要のないことをした、というわけではないということですか?」
「そういうこと。ねぇ、この小さな種がどうやって成長できるのか、あなたにはわかるかしら?」
「種の中には、芽を出すための養分が詰まっているって、前に藍様に教わりました。」
「そう、基本的にはその通り。だけどね、ラン科の種は見ての通り粉みたいに小さい。この中には発芽するための養分は詰まってないの。養分が必要な時、その養分が足りない。そんなとき、あなたならどうするかしら?」
「他の所から、養分をもらってくる、とかですか?」
「当たらずとも遠からずといったところね。ランの種は、発芽する時に菌根菌というものの力を借りているの。菌根菌はランの種にとりついて養分を運んでくれる。その力で、種は発芽して、成長することができるのよ。ねぇ、これって、何かに似ていると思わない?」
「とりついて力を与える…… もしかして、式神と似てるってことですか?」
「正解。あなたが種に込めた力は、種が発芽するための養分になったのよ。あなたの力がなくても、私の力を使えば咲かせることはできるのだけど、今回は、私は種が成長するきっかけを与えただけ。だから、あなたのこの花は、あなたが咲かせたと言っても過言ではないわ。」
「言うなれば、橙が式を操るための力の修行、という側面もあったということだ。だましていてごめんな、橙。」
橙はようやく納得できたようで、晴れやかな笑顔を浮かべた。
「いいえ、謝ることなんてありません。むしろ、私のことを思ってしていただけたことですから、私からお礼をしなければいけません。ありがとうございます、藍様。それから、改めて、ありがとうございます、幽香さん。」
私と橙、幽香さんの3人は互いにほほ笑みを交わす。そこに、落ち着きを取り戻したらしい文が声をかけてきた。
「あの、少し、よろしいでしょうか?」
「どうした? 早速花についての取材といったところか?」
「えぇ、まぁそんなところなんですが、この橙ちゃんをモチーフにした花、なんていう名前なんでしょうか?」
そういえば、名前については考えていなかった。私の場合はそのまま『ヤクモラン』で通じるだろうが、橙の場合はどうなるだろうか。『チェンラン』とか?
「とりあえず、学名は『Mayoiga nekomata』といったところね。」
「あら、この花は『ヤクモラン』と同じ属の花なんですね。」
そう言った阿求はじっと花を観察し続けている。それにしても、幽香さんが言った学名、私と同じラン科の花を望んだ橙の心情を汲み取ったのだろうか。橙自身は、なんだか難しい顔で、まよいがねこまーた、と繰り返している。
「出来れば、なんとかランっていう感じでつけたいですよね。」
「名前をそのまま当てはめるとすると、『チェンラン』だが。何というか、語感がすっきりしないな。」
「あなたもなかなかこだわるわね。まぁ、一度つけたら変更するのはとても難しいわけだし、慎重になるに越したことはないんだけどね。」
なかなか良い考えが浮かばない。数学ならお手の物なのだが、どうもこういったアイディアをひねり出すという作業は苦手だ。しばらくの間考えてみたが、どうにもいい案が出てこない。もう『チェンラン』に決めようかというところで、橙が声をあげた。
「なんとかランという名前なら、私にぴったりなものがありますよ。」
「そうか? さっきも言ったが、『チェンラン』ではなんだかすっきりしないぞ。」
「私の名前が入らなくても、私を象徴する物の名前が入ればいいと思うのです。」
「象徴するもの…… なるほど、スペルカード!」
「文さん、その通りです。私のスペルカードには、なんとかランという語感にぴったりなものがあるじゃないですか。」
「橙のスペルカード…… そうか、あれがあったな!」
私と橙は視線を交わして、同時に同じ名前を口にしていた。
「「ホウオウラン!」」
その場にいた全員が、なるほどといった表情を浮かべていた。
「決まりね、あなたの花は『ホウオウラン』よ。名付け親にまでなるなんて、なんだか一人前に式を従えた主みたいね。」
「とてもうれしい言葉ですが、私はまだまだ修行しないといけません。いつか、藍様のような立派な主になるんです。」
「頼もしい限りだな。まぁ、ある意味、幽香さんの言ったことは間違いではないからな。これから、ちゃんと世話をするんだぞ。」
「これは、次の新聞は特ダネが一杯ですね。『アレオトメ』に『ホウオウラン』。煽り文句は『幽香が咲かせ、幻想の花』なんて、いいかもしれませんね。」
「私も、幻想郷植物史にしっかり記録しないと。よろしければ、後日マヨヒガに花を見に行きたいですね。実は、まだ『ヤクモラン』もしっかり見てはいないのですよ。」
しばらく花を見ながらの談笑が続くかと思ったのだが、日も落ちて辺りが暗くなってきたこともあり、今日のところはこれまでということでそれぞれ帰宅することになった。帰る前に受けた『ホウオウラン』の世話についての説明を、橙は両手で大事そうに鉢を抱えながらとても熱心に聞いていた。
こうして、橙の花が新しく誕生した。橙はマヨヒガに帰った後もしばらくは興奮がおさまらなかった様子で、二つ並んだ鉢に笑顔を向けていた。いつもならもう眠っている時間なのだが、きっと明日は寝坊してしまうだろう。
そして翌日、私の予想に反して、橙はちゃんと目を覚ましたようだった。そして、起きてきてすぐさま私のところに来てこう言ったのだ。
「藍様、お水をあげに行きましょう。」
これからは日課の時間が多少早くなるようだ。といっても、いつまで続くことやら。願わくば、ずっと続いてほしい。少なくとも、飽きる、ということはあってほしくない。式に向ける優しさ、式に注ぐ愛情を、花を通じて学んでいってほしい。
私は、わかったわかったという言葉を返して水差しを手にとる。せっかくだから、今日は橙にやらせてみよう。私は橙に水差しを手渡すと、橙は微笑んで受け取ってくれた。私も微笑みを返しつつ、今日の日課に向かうのであった。