震駭せよ。
"それ"から逃げることは決して出来ぬ。光ある限り"それ"は潰えることはなく、いつまでもそこに存在し続ける。
ぴたりと人々の背後ににじり寄り、隙あらばいつでも飛びかかれるように、その一挙一動を窺っているのだ。
ほら、あなたの後ろにも――。
『恐怖の宵闇』
1、足元に蠢く宵闇
諸君は、平素から足元に充分注意を払わねばならない。
油断したら即時、足をすくわれかねないのだから。
* * *
如月も半ばに差し掛かった。
立春を過ぎ、暦の上では春である。けれどもやはり、厳しい寒さはまだまだ続いていた。昨夜も、もう如月だというのに雪が降った。ただでさえ少ない神社の客足がさらに遠のくことを憂い、霊夢は一人ため息を吐く。
「うーさぶ」
夕方。
昼間から休み休みのんびりやっていた境内の雪かきをやっと終えた霊夢は、冷えきった体をさすりながら居間へ入る。
部屋の中心には、文明の利器、炬燵。一見するとただの炬燵だが、実はただの炬燵ではない。熱源に木炭も炭団(たどん)も必要としないという、大変優れた炬燵なのだ。電気を使うことによって手軽にすぐ、暖を取ることの出来る、電気炬燵なる代物である。
核融合エネルギーのアピールの一環として、神奈子たちから支給されたそれは、今や霊夢にとって生活必需品と呼べるほどのものになっていた。
霊夢は、今日もその冷えた体を文明の威光によって暖めてもらおうと、電源を入れ、いそいそと炬燵布団の中に足をつっこんだ。
げしっ。
「あいたっ」
何か蹴飛ばした。
大きい何かが、炬燵の中にあるようだ。はて何だろう、霊夢は布団をめくって中をのぞき込む。
すると、こちらを見返す真っ赤な双眸と目が合った。
なんかいた。
「こわっ」
さすがの霊夢も思わず後ずさる。
一回、軽く深呼吸。それからもう一度、おそるおそる炬燵布団を持ち上げた。
「何よー」
また目が合った。
「何よ、はこっちの台詞。あんた、何で人の炬燵に入ってるのよ」
「だっていい感じに暗くて心地いいんだもの。っていうか、いつまでもそれ、持ち上げてないでよ。眩しいじゃない」
何という言いぐさ。これには、霊夢もイラっと来る。
人の家に侵入し、あまつさえ人の炬燵を勝手に占拠するとは。そんな横暴、たとえお天道様が許してもこの博麗の巫女が許さぬ。
かちかちかち。
霊夢は、無言で炬燵についている温度調節のつまみを目一杯ひねった。
そのまま、足だけ突っ込んで待つ。
……。
がばっ。
「暑いー」
「でしょうね」
炬燵布団を持ち上げて、ぬるぬると炬燵を占拠していた存在が這いだしてきた。
クリーム色の髪に、ちょこんと赤いリボン。白いブラウスに、黒のシャツとスカート。こいつは確か、宵闇の妖怪――
「ラーミア」
「誰が伝説の神鳥よ」
「ルーシア」
「誰が煙草の銘柄よ」
むむむ、よく知ってるなこいつ。しかし、そこは煙草ではなくドラ○エ繋がりで天空人の方を挙げるべきではないだろうか。
とかなんとか心の中でツッコむも、口に出して変な方向に話が逸れても面倒くさいので、霊夢は少し真面目になることにする。
「あーはいはい、ラーシアね」
「ホントに誰?」
真面目に名前を忘れた霊夢である。
「ルーミアよ。全く、失礼な巫女だわ」
「失礼な妖怪が何を言う」
もそもそとルーミアが体勢を立て直す。
霊夢と向かい合わせの位置に座ると、ちょうど一緒に炬燵に当たる形になった。
かちかちかち、霊夢はつまみを回して適温に戻す。
そんな霊夢に、ルーミアが不思議そうな顔で訊いた。
「で、なにしてるの?」
「何って、見りゃわかるでしょ。炬燵に当たってるの」
「炬燵?」
「あんたが両手両足突っ込んでる、これよ」
「ふーん」
ルーミアはひょいっと体を傾けて、炬燵を違う角度からしげしげと眺めた。物珍しげに、「へー」とか「ふーん」とか唸っている。
さすが野良妖怪。文明の利器とは、全く縁がないと見える。
「これ、炬燵っていうの?」
「そう、炬燵も炬燵、電気炬燵よ」
「へーそーなのかー」
ルーミアは、両手を大きく左右に広げると、謎の相づちを打つ。
が、そのポーズも長くは続かない。すぐに開いた両手をすぼめて、炬燵布団の中へと戻した。
「寒いー」
「でしょうね」
如月というのは、一年でもっとも寒いと言われる季節。
迂闊に炬燵から出ようものなら、手だろうと足だろうと、隙を見せた部位へと冷気が噛みついてくる。
そう、一度炬燵の魔力に魅せられた者は、容易に抜けることは許されないのである。これはもう、一種の結界と呼んでもいい。対象をその中に封じ込め、決して逃がすことのない強固な結界。
そう。これこそが、博麗に代々伝わりし「博麗炬燵結界」である。ごめん今考えた。
「ってそんなことは割とどうでもいいの。それよりあんたこそ、ここで何してるのよ」
今度は、霊夢がルーミアに尋ねる。
「いい感じに暗いところがあったから、昼寝してたの」
まるで猫か何かのようである。
「人の炬燵に勝手に入ってくんな。というか、人の家に勝手に入ってくんな」
「えー、別にいいじゃない減るもんじゃないし」
「そういう問題じゃない。いいから出て行きなさい」
「やだー」
頑として動こうとしないルーミア。
それどころか、逆に足を深くまで突っ込んでくる始末である。ルーミアの足が、霊夢の足を蹴飛ばした。痛い。邪魔くさい。
「ええい、さっさと出て行け! さもないと退治するわよ!」
「それもやだー」
「めんどくさい、問答無用!」
意気込んで、戦闘態勢に入る霊夢。が。
「……」
「……」
はた、とそのまま固まる霊夢。
退治しようにも、あいにくお札も陰陽玉も持ち合わせていなかったのである。
自室に行けばあるけれど、面倒くさい。そして寒い。
「ねえ」
「何?」
「宣言なしでスペカ発動していい?」
夢想封印なら発動できそう。
「巫女が自分からルール破っちゃだめでしょ」
「じゃ、私の部屋からお札持ってきて。箪笥の上から二段目に入ってるから」
「寒いから嫌。自分で行ってくればいいじゃない」
「寒いから嫌」
術者をも取り込んでしまう、げに恐ろしき結界。
それが「博麗炬燵結界」である。
どこか遠くの方で、積もった雪が呆れたようにどさっと落ちた。
「それにしても凄いわねー、これ。足元がまるで春よ。何の魔法?」
にへー、と口をだらしなく緩めながら、ルーミアが言う。体を「く」の字に折り曲げて、べちゃ、っと木製のテーブルに顔を張り付けた。
うむ。炬燵によって火照った顔を、ああやって冷ますと気持ちがいい。敵のことながら、その気持ちは霊夢にもわかる。
そのまましばらくそのにやけた顔を眺めていたが、はあ、とため息をついて立ち上がった。
(ま、危害を加えるつもりがないなら、放っておいてもいいか)
いつもは妖怪に手厳しい霊夢もたまには優しい――
――ぶちいっ。
(とでも考えるとでも思ったか!)
――なんてことは全くなかった。無情にも、霊夢は炬燵のコンセントを力任せに引き抜く。炬燵の使い方も知らぬ野良妖怪など、これでイチコロである。二月の寒さに凍えるがいい。
ちなみに、霊夢はこれから台所に夕餉を作りにいく。
「んー」
いつの間にか窮地に立たされてしまったルーミアだが、本人はそれに気付く様子がない。いまだ幸せそうに顔を惚けさせ、炬燵の魔力の残滓に浸りきっていた。
まあ、炬燵が冷え切ったらそのうち自分から帰るだろう。霊夢は襖を開けて台所へと歩き出した。
2、むさぼり食う宵闇
霊夢が夕餉の載った盆を持って居間に戻ると、宵闇妖怪の姿はすでに無かった。誰も当たっていない炬燵だけが、寂しげにたたずんでいる。
上に載ったおみおつけがこぼれないように、炬燵の上に静かに置く。
引っこ抜かれたままになっているコンセントを差し込み直すと、定位置に座った。
「……あんな奴でもいないと、ちょっと寂しいかな」
霊夢は、ぽつりと呟く。呟いてから、柄でも無いと苦笑した。
いつもの霊夢なら絶対に言わないような発言である。もし誰かに聞かれでもしたら、何と言われるか解ったものじゃない。
でも、仕方ないじゃないか。だって、居間にぽつんと置かれた炬燵が、あんなに寂しそうに映るものだとは思わなかったんだもの。早苗は「これでテレビがあれば完璧なんですけどねえ」と言っていたが、もしかしたら寂しいのはそれがない所為かもしれない。「てれび」というのがどんなものかは、霊夢は知らないけれど。
「いただきます」
手を合わせてから、箸に手を伸ばした。そのときである。
「暑いー」
のそり、と何者かが炬燵から這いだしてきた。その「何者か」はぬるぬると上半身を炬燵から出し、足だけを突っ込んで炬燵に当たる姿勢になる。それから、目の前に並べられた食膳に目を丸くした。
「あ、おいしそう」
「……」
「これから食事?」
「……」
「……霊夢? れーむー?」
霊夢の名を連呼しながら、顔をのぞきこんだその妖怪。
ルーミアである。
「……あんた、どこにいたのよ」
「どこって、ずっとここにいたわよ?」
人差し指をびっ、と自分の足元へ向ける。つまり、
「炬燵の中にいたの?」
「そう。霊夢がいなくなった後、なんかだんだん涼しくなってきたから、また中で昼寝をしてたの」
しまった。
元々こいつは昼寝をしに炬燵に潜ってたんだった。妖怪にとってはこの寒さも何のそのってことか。
「ああもう。変なこと言って損した」
「変なこと?」
「……何でも無いわよ」
箸で芋の煮っ転がしをひとつ摘むと、口の中に放り込む。少し頬が熱いのは、炬燵が暖かい所為だ。きっとそうだ。
もぐもぐと咀嚼する。それから、味噌汁を啜った。
ルーミアは食事を口に運ぶ霊夢と、並べられた料理とを見比べる。きょろきょろと紅い瞳が忙しく食卓の上を泳いだ。まさに興味津々と言った様子。
「……何よ」
そんなに見られたら食べにくい。
「……美味しそう」
「そう? そんなに豪勢なもんじゃないと思うけど」
霊夢も食膳を見渡す。
大根と油揚げの味噌汁。ホウレン草の胡麻和え。里芋の煮っ転がし。それと、ご飯。
ごく一般的な量の、一般的な和食である。
そこまで考えて、霊夢ははっとする。
そうか。こいつみたいな野良妖怪は、こういう人間の食べるような食事には縁がないのか。
どうやら霊夢の考えは当たっているらしかった。ルーミアは興味津々を顔に貼りつけながら、霊夢に訊く。
「ねえねえ、これは何?」
「これはお味噌汁よ。出汁をとって具を入れて、味噌で味付けしたスープ」
「そーなのかー。じゃあ、これは?」
「これはホウレン草の胡麻和え」
「ほーらいさん?」
「んなもん和えちゃ駄目」
「駄目なのかー」
まるで、徐々に言葉を覚え始めた幼児の如く、矢継ぎ早に質問を繰り出すルーミア。答えながら、霊夢は眉を顰める。次から次へと、料理を指を差していくルーミアの問いにいちいち答えていては、食事なんて出来やしないじゃないか。
律儀にその質問に答え続けていた霊夢だったが、ついに痺れを切らしたように声を上げた。
「ああもう!」
霊夢はばん、とテーブルを叩いた。びく、とルーミアが体を震わせる。
霊夢はそのまま無言で立ち上がると、居間を出て台所に行き、来客用の箸を掴んですぐに戻ってきた。そしてその箸をルーミアの目の前にびっ、と突きつける。
ルーミアは、きょとんと目を丸くし、ぱちぱち瞬かせた。
「そんなに気になるなら食べた方が早いでしょ!」
偉い人は言った。百聞は一食に如かず。
こう質問責めにあってしまっては、碌々食事も出来やしない。それならば、黙って食わせた方が賢明と言えるだろう。
ルーミアは、箸を突きつけられたまま目を丸くしていたが、その意味に気付くとにんまりと笑った。
「そーなのかー」
謎の返事をしながら、嬉々としてそれを受け取る。
そして、どこで覚えたのか、律儀に「いただきます」と言って合掌してから、料理に箸を伸ばす。これでやっと落ち着いて食事が出来るというものだ。霊夢は、ほっと胸を撫で下ろした。
止まっていた箸を動かし、霊夢も食事を再開しようとする。
しかし、霊夢は甘かった。自分が重大なミスを犯していることに、気付いていなかったのだった。
べちゃ。
「あぅ」
ルーミアの声。水っぽい何かの音。
まさか。霊夢の脳裏に嫌な予感がよぎる。ルーミアを見た。
ルーミアは顔を伏せていたが、霊夢の視線に気付き、上目づかいで見返した。
そして、ぽつりと呟く。
「……落とした」
あーもう……。霊夢は顔を手で覆った。
霊夢の誤算。それは、野良妖怪であるルーミアが箸を使えないかもしれないということにまで気が回らないことだった。
「何を落としたのよ?」
「えーとね、さといも?」
「ええっ!?」
布巾を手に、急いでルーミアの元へ寄る。
見れば、甘辛の汁を贅沢に纏った里芋が、炬燵布団とルーミアの服を汚して、畳に転がり落ちていた。どうやら、口に入れようとしたところで胸元に落としてしまったらしい。
よりによって、何故そんな汚れが落ちにくいものを落とすかなぁ。霊夢は、ため息を深く吐いた。ちなみに、霊夢謹製の煮っ転がしは汁気がかなり多めである。つまり、落とせばその分被害は甚大であった。
「ああもう、じっとしてなさい。拭くから」
「んー」
「箸使えないなら最初に言いなさいよ。フォークだってあるんだから……ああもう、べっとり付いちゃって。落ちないわよこれ」
「霊夢、霊夢」
「何よ、じっとしてなさいって」
「これ、食べていい?」
「ばっちいから下に落ちたもの食べちゃいけません! めっ!」
霊夢の予想以上に賑やかな食卓となった博麗神社だった。
* * *
「ごちそうさまー」
「はいはい、お粗末様でした」
「おいしかったわ。人間って贅沢なもの食べてるのねー」
ルーミアは顔をゆるゆると微笑ませて、満足そうにお腹をさすった。さっきも思ったが、別に贅沢でも何でもないのだが。量もそんなに多くないし。
「それじゃ、そろそろ帰るわ」
「待ちなさい」
帰ろうとするルーミアの腕を、霊夢が掴む。
「何よ。何か用?」
いや、用というかなんというか。
他人事ではあるのだが、一つどうしても気になって仕方ないことがあるのだ。
「それ、そのままにして帰るつもり?」
「それ?」
霊夢はびっ、と指を突きつける。
その指の先は、ルーミアの服である。先ほど落とした里芋の汚れは拭き取られ、ぱっと見には綺麗になっている。ぱっと見には。
「あんたね、すぐに拭き取ったからまだいいものの、早く洗濯しないと汚れがきちんと落ちないわよ」
「いいわよ別に。黒だから目立たないし」
「着てて気分悪いでしょ。それに、ほっといたら匂うわよ?」
「いつでもいい匂いに包まれて、私、満足!」
「たわけ」
びしりと頭にチョップ。
全く、野良妖怪はこれだから困る。霊夢は、ため息を吐く。
いや、他人事だから困ることなんてこれっぽっちもないのだけれど、何というか見ていて気持ちが悪いのだ。
このままほっといたら、いつまでもそのまま汚れた服を着続けるんだろうなー、なんて考えると、すんごい歯がゆい。
「脱ぎなさい、それ」
「うわぁ……霊夢ってそんな趣味があったんだあ」
力ずくでひん剥いたろうか。
「洗濯すんのよ! いいから脱ぎなさい!」
「寒いから嫌ー」
「別に裸でじっとしてろなんて言わないわよ!」
何のプレイだ、それは。
はあ、とまた軽いため息。この妖怪と会話をしてると、ため息が癖になってしまいそうだ。
びっと、肩越しに後ろを指さして、霊夢は言った。
「お風呂入りなさい。湯、沸かしてあるから」
3、水底に潜む宵闇
どうしてこんなことになったんだろう。
脱衣場で服を脱ぎながら、霊夢は本日何度目か解らないため息を吐いた。ため息を吐くと幸せが逃げるらしいが、それが本当ならば霊夢の幸せは超スピードで遠ざかっていることになる。
脱いだ衣類を、籠に丁寧に畳んで入れながら、浴室へと続くガラス戸を見やる。この向こうで、先に入ったルーミアが湯に浸かってる筈だ。
霊夢は、さっきのルーミアの爆弾発言を思い返していた。
――お風呂って何? おいしいの?
全く、あいつと来たらまさか風呂に入ったこともないとは。恐るべし、野良妖怪。自分は生まれ変わっても人間になろう、と霊夢は決意を固めた。
とにかく、風呂の浸かり方も知らない妖怪に自分の風呂場を荒らされても困る。なので、いっそのこと一緒に湯に浸かることにしたのである。本来は適当に風呂に入らせて、その後で残り湯を使って適当に脱いだ服を手もみ洗いするつもりだったのに、まさかの相風呂。
自分は、こんなに面倒見が良かっただろうか。霊夢は、新たな自分の可能性を垣間見た気がした。
* * *
がらがらと扉を開けて、浴室へと踏み込む。
決して広くはない浴室ではあるが、細身の霊夢と小柄なルーミアが同時に入れない程狭いという訳ではない。
もうもうと湯気に煙る浴室。その湯気も、扉を開けたことで換気され、急激に晴れていく。
さて、ちゃんとルーミアは行儀良く湯に浸かっているかな。霊夢は目を凝らす。
湯煙が取り除かれて、徐々に浴室が浮かび上がる。
誰もいない、寂しい浴室が。
かぽーん。
謎の効果音が、霊夢の頭の片隅に木霊した。
一瞬霊夢は呆然としたが、すぐに我に返る。
「あいつどこ行ったのよ!」
待て待て、ちょっと待て。霊夢は慌てて考えを巡らせる。
ルーミアの服は脱衣場に脱ぎ散らかされていた。つまり、服を脱いだことは確か。なのに、風呂場にいないとは、これ如何に?
まさか、全裸でそこら辺を徘徊してたりしないだろうな?
嫌な想像が、霊夢の頭をよぎった。
博麗神社から出てくる、全裸の妖女(ようじょ)。そこを偶然通りかかるパパラッチ鴉天狗、もしくはスキマ妖怪、あるいはほら吹き黒白魔法使い。
万が一そんなことになったら。
ざんねん!! れいむの ぼうけんは これで おわってしまった!!
霊夢の頭の中で、一つの物語がひっそりと幕を閉じる。即座にぶんぶんと頭を振ってその悪夢を振り切った。ええい、終わってたまるか。自分こそ真の主人公だ。
そんな霊夢の視界の端にあるものが映った。
ぽこぽこぽこ。
湯船に水が沸騰しているかのような謎の水泡が浮かび上がっていた。
「……」
霊夢は無言で浴槽に近づくと、おもむろに湯の中に手を突っ込んだ。そこに沈んでいた物体をがっしと掴み、迷いなく引っぱり出す。
ざばっ、と湯の中から現れた物体、いや、妖怪。ルーミアである。
「何するのよー」
「それはこっちの台詞じゃ!」
でこぴんを思いっ切り食らわせる。全く、こいつは何をしている。
おでこを押さえながら、ルーミアがぶーたれる。
「だって、いつもそうやって水浴びするもの」
「湯浴みを水浴びと一緒にするな。湯浴みには相応のマナーってものがあるんだから」
「えーめんどくさいなー」
ルーミアはぶーぶー文句を言いながらも、今度は普通にお湯に浸かる。霊夢もかけ湯をすると、ルーミアを押し退けて湯に入った。
しかし、体の小さい二人ではあるが、さすがに一緒に浴槽に浸かるのは少し窮屈だった。隣合った肩同士がぴっとり触れ合ってしまう。霊夢は、その感触に首を傾げた。触れた肩に、ヒヤリとした感触。
顔だけ横に向けて、隣を見る。ルーミアが浴槽の縁に前のめりに寄り掛かったようなだらしない格好で湯に浸かっていた。肩を露出させている。
「ちょっと、肩までちゃんと浸かりなさい。冷えるわよ」
「何よ。頭まで浸かるなと言ったり、今度はちゃんと肩まで入れって言ったり、どっちなのよ」
「頭は浸けない、肩まで浸ける、入ったらゆっくり三十数えるのが博麗のしきたりなのよ!」
「もーめんどくさいなー」
ぶつくさ言うルーミア。しかし、少しすると律儀に数字を数え始めた。
――いーち。にーい。
狭い浴室に、ルーミアの声が木霊する。そのまましばらく、二人は湯に浸かった。
霊夢は浴槽の縁に頭を預けると、天井を見上げながらくつろぐ。ルーミアののんびりとした声が反響しながら、湯煙と一緒に立ち上っていくのを、ぼんやり見ていた。
「さーんじゅう! もーいいかい」
「もーいいわよ」
「あーい」
数え終わると、ルーミアは湯船から立ち上がった。そのままふらふらと浴室の出口へと歩いていく。
「ちょっとちょっと」
「今度は何?」
「何、じゃない。体洗わないで出るつもりか」
「別にお風呂に浸かっただけで充分よ。水浴びの時だっていつもそうだし」
「だから、水浴びと一緒にするなって。折角風呂に入ったんだから、綺麗になった方が気持ちがいいでしょ」
人がきちんと体を洗わないのを見るだけで、自分の体が痒くなってくる霊夢である。
「めんどう」
「いいから座れ。ほれ」
嫌がるルーミアを、無理矢理座らせた。
それから、逃げる隙を与える前に、手で石鹸を泡立てると一気にルーミアの頭をわしゃわしゃと洗い始めた。
「わっ。ちょっとっ、なになに!?」
今までにない、新鮮な反応を示すルーミア。
そりゃ、水浴びばかりしてたら、こうやってまともに髪を洗ったりしないか。霊夢は洗う手を一旦止めた。
「頭を洗うのよ。いいから目を閉じてなさい」
「んー!? んー!」
口は閉じなくてもいい。
ツッコもうとしたが、その様子が滑稽で面白かったのでやめておいた。
少し待ってから、もう一度わしゃわしゃと洗い出す。わしゃわしゃ、わしゃ。
しばらくすると、頭を洗う感触にも慣れたのか、ルーミアが口を開いた。
「霊夢、霊夢」
「何よ」
「目をつぶってると、真っ暗で怖い」
「……」
「……」
わしゃわしゃ。
「ツッコんでよ」
「ああ、ボケなのそれ」
こいつが言うとマジで本気か解らない。霊夢は呆れながら、手を動かし続ける。
わしゃわしゃ。
「霊夢、まだー?」
「まだよ、じっとしてなさい」
「長いわー」
「今までほったらかしにした分、ちゃんと綺麗にしないと駄目じゃない」
「綺麗にしないと、枝毛出来る?」
「枝毛? まあ、手入れとかきちんとしないと、出来るんじゃないかしら」
「それは困る」
こいつの価値観はマジで解らない。霊夢は呆れながら、手を動かし続ける。
わしゃわしゃ。わしゃわしゃ……わしゃ?
ルーミアの髪を洗っていた霊夢の指先に、何かが引っかかった。何だろうこれは。枝毛? それにしてはでかい。
霊夢はその引っかかりを指でちょっと引っ張ってみる。
ぐい。
「痛っ」
「あ、ごめん」
「もー、人のリボンに何するつもり?」
枝毛ではなかったようだ。
「あ、リボンかこれ。ごめんごめん……ってリボンー!?」
リボンて。風呂にリボンて。
今まで気付かなかった霊夢も霊夢だが、リボンを身につけたまま風呂に入るルーミアもルーミアである。
こいつは本当にマナーの解らない奴だな。というか、常識的に考えて取るべきでしょう。文句を頭の中に並べながら、霊夢は結び目に手をかけて、それをほどく。邪魔である。
「注意してね。それはずしたらダメだからね」
「あーはいはい」
しかし、もうほどいた後だった。
紅いリボンを手で摘みながら、適当に相づちを打つ霊夢。手にとって見れば、もう随分使い込まれているらしく、随分とぼろぼろだ。あまりにぼろいので、もうリボンと言うよりも古いお札に見えなくも――
「それ、リボンじゃなくてお札だから」
「……おん?」
「お札。ちょっと封印施してあるから、ほどいたら危ないよー」
(早く言いなさいよ!)
声を荒げそうになるのを必死に押さえる。何でそんなことになっているのか。
「まあ、霊夢にほどけるとも思えないけど。私も触れないしー」
いや、何事もなかったように触れましたが。というか取れましたが。霊夢はやっちまった感に苦笑いを浮かべながら、おそるおそる尋ねる。
「ちなみに、何が封印されているのかしら?」
「私は知らないわ。何か気付いたらついてたの。つけられた時の記憶もイマイチ釈然としないし」
人里で暴れたか何かして、一度退治でもされたのだろうか。
で、退治した人が、命を取るまではしない代わりに、お札をつけて力を封印した、と。記憶が曖昧なのは、能力の大半と一緒に封じられているからだろうか。
もしかして、これって結構やばい? 霊夢は思わず苦笑いをした。
「何が封印されているのかしらね。私は、ほどいたら隠された能力が解放されるんじゃないかなーって思うんだけど。あ、新必殺技とか覚えたりして。ダークネスフィンガー! とか」
ルーミアが嬉しそうに語る。霊夢はその隙に、そっと側を離れた。まだルーミアは目をつむっている。チャンス。
気付かれないように風呂場を出ると、脱衣場の籠を漁って紅い布を取り出した。霊夢が普段身につけている、紅い大きなリボンである。そのリボンにえいやっ、と博麗の巫女の力と霊力をそそぎ込む。そそぎ込み終えると、それを持ったまま、何食わぬ顔で浴室に戻り、ルーミアの背後に舞い戻った。
「それとも、超絶グラマラスなナイスバデーになったりしてね。うふふ、素敵ねー」
まだルーミアの夢想は続いていたらしい。
見た感じ、これといった変化は起こっていないみたいだ。突如妖力が増えているとか、そういうこともない。一安心だ。
もしかしたら、封印された期間が余りにも長すぎて、能力が衰退してしまったのではないだろうか。
ともかく霊夢は、手に持ったリボンを手早く髪に通し、きゅっと結ぶ。解けないようにと、ここでももう一度霊力を込める。即席の博麗の封印リボンだが、あんなぼろっちいお札よりも効果があるだろう。何しろ、博麗の巫女が普段身につけているリボンだ、それはそれは御利益があるに違いない。
まあ、お気に入りだからもったいないと言えばもったいないけれど、一つしかない訳でもないし、何より面倒な妖怪退治の予防が出来ていると考えれば悪いことではない。
「――霊夢、聞いてる?」
「あー、効いてる効いてる」
「何か、『きいてる』のニュアンスおかしくない?」
「何もおかしなところはないわ」
さっさと話を切り上げると、ルーミアの髪の泡を湯で洗い流した。
4、寝首を狙う宵闇
「霊夢、何なのよこれは」
「何なのよ、とは何なのよ」
風呂から上がって、霊夢が布団を敷いていると非難の声が上がった。見れば、ルーミアが鏡台の前で口を不満げに尖らせていた。
ちなみに、二人とも寝間着用の浴衣を着ている。ルーミアの普段着ている服は、風呂に入った際に霊夢の手によって丁寧に手もみ洗いされていて、明日干して乾かさないと着られない。
ルーミアは、これよ、と自分の頭上を指さす。これ、とはつまり霊夢のリボンである。
大きな紅いリボンが、怒るルーミアの頭上で揺らめいていた。
「何よ、このへんてこリボン。私のはどこやったのよ」
「へんてことは何よ。あんたのために新調してやったんだから、喜びなさい」
「えー、やだ。大きなリボンって何か馬鹿っぽいし」
「何をぅ!」
馬鹿キャラ扱いされて、霊夢が吠えた。
確かに、大きなリボンをつけた奴らはそういうのばかりだけど。青いリボンの氷の妖精とか。緑のリボンの地獄烏とか。
「いいじゃない。大きなリボン、可愛いでしょ」
「可愛いかなあ。うわ、取れないし」
ぐいぐい、と引っ張りながら言う。
今度の博麗リボンは、今までのお札リボンと違い、ルーミア本人も触れることが出来る。もちろん、外すことは出来ないが。
気になって仕方ないらしいルーミアは、それをしきりに指で弄くっていた。
「ほら、どいたどいた。布団敷けないでしょ」
ルーミアを強引に押しのけて、そこにも布団を敷く。
「うわ、乱暴だなあ。というか、二枚も布団敷いてどうするのよ」
「どうするのよ、って二人なんだから、二枚ないと眠れないでしょ」
「え、私も寝るの? 眠くないんだけど」
「眠くなくても、良い子は寝る時間なの」
「悪い子でいいー」
ルーミアが駄々をこねる。
というか、霊夢としても別にこの妖怪を泊める理由も義理もないのだけれど。
「じゃ、勝手にどこへなりと行きなさいよ」
「私の服はどうするのよ」
「後で取りにくればいいわ。どうせ明日の昼には乾いていると思うし」
「でもなーこのカッコで外出るの恥ずかしいし」
浴衣の裾を摘まんで持ち上げる。妖怪の美的感覚は良く解らない。というか、闇を出しながら飛べばいいと思う。
霊夢はわがまま妖怪の扱いに頭を抱える。
「じゃ、どうするのよ」
「んー、霊夢の隣でずっと起きてる」
「却下。近くで誰かが起きてる気配がすると、私、眠れないもん」
「もーわがままだなー」
「どっちがよ!」
びすびす、とチョップを二回入れる。
痛くもないくせに、律儀に頭を押さえてみせるルーミア。
「いいから寝なさい! 夜更かしする悪い子はこわーいお化けが出てきて空の向こうに連れてっちゃうのよ!」
「なにそれロマンチック」
どこが。
話がまるで通じそうにないルーミアを放っておき、霊夢は部屋の隅に置いてある行燈に近づく。
「灯り消したらちゃんと寝なさい。いい?」
「まだ眠れないわよ」
「じっと目を閉じてたらそのうち眠れるわ。それじゃ、消すわよ」
「うあー」
灯明の火を吹き消す。すると、一瞬のうちに部屋が暗闇に包まれた。障子の向こうから差し込む月の光だけが、光源となっておぼろげに部屋を浮かび上がらせる。
「それじゃ、おやすみ」
「うー眠れないよー」
いまだぶつぶつ文句を言っているルーミアを尻目に、霊夢は布団にいそいそと入る。今日は雪かきに、妖怪の子守にと大忙しの一日だった。疲労感がいい感じで溜まっている。これならさぞかし良く眠れるだろう。
霊夢はそっと目を閉じる。すぐに眠気は訪れた。霊夢は急速に眠りの世界に引きずり込まれていく。
「……」
もぞもぞ。もぞもぞ。
布団をまさぐるような感触がして、霊夢は目を覚ました。何かが、自分の布団に潜り込もうとしているような感覚。
布団を、そっとめくり上げる。そこには、霊夢の隣で体を丸めて眠る、何者かの姿。
言うまでもなく、ルーミアである。
「文句言いながら、即行で寝てるじゃないのよ……」
何という寝付きの良さ。うらやましい体質である。
ってそれはどうでもいい。問題は、どうしてこいつがここで寝ているのかということ。何のために二つも布団を敷いたというのだ。
ため息をついて、霊夢は静かに布団を抜け出す。仕方がない、自分が来客用の方で寝よう。寝ているルーミアを起こさないように静かに布団をかけ直すと、ルーミアが居なくなって空いた方の布団に潜り込む。
「今度こそおやすみなさい……」
静かに呟いて、霊夢は目を閉じた。
すぐに眠気がやってきて、霊夢を夢の世界へと――。
もぞもぞ。もぞもぞ。
またもや、布団をまさぐるような感触。まるで、誰かが自分の布団に潜り込もうとしているような――。
「あーもう!」
霊夢は布団をめくる。やはりそこにいたのはルーミアである。霊夢の脇で丸くなり、静かに寝息を立てている。幸せそうな顔をしているのが何とも憎らしい。
霊夢が自分の布団に入れば、ルーミアもそちらに潜り込む。来客用の布団に入れば、今度はそっちについてくる。つまり、無限ループ。こいつは猫か。
一体、どうしろというのだ。
「こうなったら根性比べよ……!」
不毛な戦いではあるが、ここで負ける訳には行かない。ここで負けたら、霊夢の安眠が危ない。一人で静かに眠りたいのだ。こんな妙ちくりんな妖怪と一緒に同衾するつもりなど毛頭ない。ならば、相手が諦めるまで布団を往復するのみ。
霊夢は、布団から静かに出ようとする。しかし、浴衣が何かに引っ張られ、動けなかった。霊夢は、ルーミアを見る。
(こいつ、私の浴衣を掴んでやがる……!)
がっちりルーミアに浴衣を掴まれていた。
先手を打たれるとは。博麗の巫女、一生の不覚。こうなってしまったら霊夢に脱出する術はない。
根性比べ、ルーミアの勝ち。
「どうしてこんなのと一緒に寝なきゃならないのよ」
布団をかけ直し、ため息を吐く。
ルーミアは依然として顔をゆるゆると微笑ませて、静かに寝息を立てている。掴んだ浴衣の裾を離すつもりはないらしい。それどころか、霊夢に寄り添うように、だんだんにじり寄って来ている気すらする。
いや、それは気の所為ではなかった。
「んぅ」
いつの間にか、ルーミアはぴったりと霊夢にくっついて寝ていた。顔を霊夢の胸にうずめる。霊夢を完全にがっちりホールド。抱き枕のような状態。
「身動きが取れない……」
霊夢は、ルーミアにされるがままにじっと耐える。このままでは、満足に寝返りも打てずに寝なくてはならない。何というハードなミッション。
(こいつは……!)
辛うじて動かせる、右手。
それを振りかぶり、ルーミアの頭に狙いを定める。しかし。
「んー」
何の夢を見ているのか、ルーミアが一層幸せそうに笑った。
その間抜けな顔を見ているうちに、霊夢は何だか馬鹿らしくなってきた。振り上げた右手を、ゆっくりとルーミアの頭に下ろす。
その頭をくしゃくしゃと、乱暴に撫でてやった。
「んむ」
くすぐったそうに、ルーミアが身じろぎする。頭を軽く振ると、それに合わせてリボンが揺れた。霊夢とおそろいの、紅い、大きなリボン。
少しだけ寝苦しそうにもぞもぞとしていたルーミアだったが、やがて大人しくなると、さっきまでと同じように寝息を立て始めた。全く、寝付きのいい奴。霊夢は苦笑する。
そういえば、と霊夢はふと思い出す。
今日は、湯たんぽを用意するのを忘れていた。
最近、寒い日が多いので、寝るのに欠かせなかった湯たんぽ。しかし、霊夢はそれを忘れていた。何故か、今日は全然湯たんぽが欲しいと思わなかった。外は、雪が積もっているというのに。何故だろう。
もちろん、その答えにすぐに思い当たる。
(こいつの所為だろうなあ)
ぽんぽん、とルーミアの頭を軽く叩く。自分の胸の上に顔をのっけて、幸せそうに夢を見ている妙ちくりん妖怪。そいつと触れ合っている部分が、まるで湯たんぽに触れているみたいにぽかぽか暖かい。
他人と触れ合うことは、こんなに暖かったっけ。
霊夢は思う。果たして、最後に誰かと一緒に布団に入ったのは、いつだっただろう。
はっきりとは思い出せなかったが、今みたいな温もりを感じながら眠ったような気がする。
霊夢は目を閉じる。すると、先ほどまでと同じように眠気が急速に襲ってきた。霊夢は、湯たんぽ妖怪を抱きながら、夢の世界へと落ちていく。この温もりを感じながらなら、今夜は幸せな夢が見られるような気がした。
* * *
しかし、霊夢は甘かった。
そう、決して油断してはならなかったのだ。夜は彼女たち妖怪の時間。人間たちが、もっとも妖怪を警戒しなければならない時間だった。彼女と同衾し、無防備な寝姿を晒すなど、言語道断。
霊夢は知らなかった。次に目を開けたときには、取り返しのつかない惨状が彼女を待っていることなど、知る由もなかった。
* * *
「なんじゃこりゃあああああ!」
朝一番。
雀が鳴き出すよりも早く、霊夢が絶叫した。わなわなと全身を震わせる。おそるおそる胸部に手を伸ばす。すると、粘り気のある液体が、手にべっとりと付着した。生臭い匂いが、少しだけ鼻をつく。
「ち、ちち、ち……」
信じられない、という表情で霊夢は震える。
ぐりん、とカラクリ人形のような動作で首をルーミアの方へ向ける。ルーミアは、まだ夢の中を彷徨っていた。「もう食べられないよぅ」と寝言を言いながら、口元をゆるめる。
「ちち、ち、ち――ちぇすとー!」
「ぎゃん!」
霊夢は、そんなルーミアに向かって手刀を一閃、見事にその右側頭部を捕らえた。ルーミアは目を擦りながら体を起こすと、寝起きの擦れた声で言う。
「何よー折角いい夢見てたのに」
ぶすっとふてくされたような表情を浮かべる。
やはり妖怪も寝起きは機嫌が悪いらしい。しかし、怒りたいのはこっちのほうである。朝起きたら、こんな――こんな、よだれまみれになっているなんて、予想もしていなかった。
胸元がよだれまみれで、ぐちょぐちょである。洗濯物がまた増えた。
霊夢は今すぐにルーミアを小突き回してやりたい衝動に駆られるが、何とか抑える。
そして、努めて平静を装いながら、訊く。
「あんた、何の夢をみてた?」
その質問に、きょとんとルーミアは目を丸くする。人差し指をくちびるに当てながら、「んーとね」と考えていた。
そして、得心が行ったように手をぽんと叩くと、満面の笑顔を浮かべながら、元気よく言った。
「霊夢の料理をお腹いっぱい食べる夢!」
「この食いしんぼ妖怪が!」
霊夢の高速チョップの雨が、ルーミアの頭上を襲った。
5、例えば、こんな宵闇
ルーミアはいつもの服を着替えて、神社の境内に立っていた。
昼近くになり、太陽はもうだいぶ高くまで昇っている。
「うー、何か気持ち悪い……」
「そりゃ、ちゃんと乾いてないからね」
ルーミアが、着心地が悪そうに身じろぎし、黒いシャツの裾を摘まむ。眉根を寄せて、不快そうに口を尖らせた。
霊夢は、竹箒を両手で持ちながら言う。
「もう少し干しておかないと、乾ききらないのよ」
「だってこれ以外に着る服ないし」
「だから、乾くまで私の巫女服を貸してあげるってば」
「それは絶対にいや」
断固拒否である。何がそんなに嫌なのか、普段から着慣れている霊夢には理解しがたい。巫女服、可愛いのに。
「じゃ、我慢しなさい。その辺ふらふらしてれば乾くでしょ」
「うー……」
納得いかない表情で、ルーミアが唸りながら、上目づかいで霊夢を睨む。しかし、霊夢にしてみれば、自分に文句を言われても困るというものだ。
ため息を吐きながら、めんどくさそうに手をひらひらと振った。
「ああもう、いつまでも文句言ってないでさっさと帰りなさい。今から境内の掃除するんだから」
「ふーんだ、どうせ誰も来やしないくせに」
「何をぅ」
小生意気な妖怪の頭を、小突いてやろうと霊夢は右手を振りかぶる。しかし、それが振り下ろされる前にルーミアは宙に浮かび霊夢から距離をとった。
「いーだ」
ルーミアが白い歯を見せて言う。
全く、最後までわがままで生意気な奴だ。霊夢は箒を持っていない右手を腰に当て、空でふよふよ浮かぶルーミアを睨む。
「ホント、あんたってば恩知らずな妖怪ね。犬だって一宿一飯の恩義を忘れないっていうのに」
「犬じゃないもーん」
「あーもう、いいわ。今度来たら問答無用で退治するから覚悟してなさい」
「へーんだ、誰が二度と来るもんですか。全く、昼寝をしに来ただけなのに、お風呂入れさせられるわ、リボンとられるわ、挙句の果てに巫女のコスプレさせられるわで散々だったわー」
ぷち。
霊夢の堪忍袋の緒に、亀裂が入った音がした。
これ、もう切れてもいいよね。幸い、今日はしっかりお札を携帯しているし。
「世話焼いてやったのに、言うことはそれか!」
素早くお札を取り出すと、ルーミアに向かって投げつける。しかし、予測していたらしく、それをひょいと軽々しく避けると、
「それこそ余計なお世話ってやつよ。ふーんだ!」
捨て台詞を残して、猛スピードで早春の空に消えていった。
霊夢は次のお札を構えていたが、やがてルーミアが向こうの木々の中に消えると、ため息を吐いて懐に戻した。
「全く、疲れたわ……」
本当に、最後まで何を考えてるのか解らない妖怪だった。
あれと意思疎通を上手く取るには、もっと時間をかけないと難しいのだろう。まあ、心配しなくとも、二度と博麗神社に現われることはないだろうが。
霊夢は箒を持ち直すと、厄介者が消えて静まり返った境内を、丁寧に掃き清め始めた。
「あ、でもやっぱり炬燵にはまた当たりに来るからよろしくね」
「きゃあっ!」
後ろから突然声をかけられて、霊夢は飛び上がった。
どきどきと激しく鼓動する胸を押さえながら振り返ると、そこにはさっきまでの見慣れた姿があった。
ルーミアである。
さっき帰ったんじゃないのかよ、というツッコミは喉につっかえて出てこなかった。
「それじゃあねー」
呆気にとられた霊夢を尻目に、ルーミアは宙に浮かんで、またふよふよと飛んでいく。今度こそ、本当に帰るのだろう。
霊夢は無言でそれを見送る。
どんどん遠ざかっていくルーミア。
しかし、そのまま帰るのかと思いきや、またもや途中で思い出したように立ち止まると、こちらに引き返してきた。
「あ、それと霊夢の料理、美味しかったから、また食べに来るね」
それだけを告げると、また宙に浮き、ふよふよと飛んでいく。今度こそ、本当に帰る――と見せかけてやはり途中で思い出したように霊夢の元に戻ってくる。
「そうそう、このリボンいつか取り替えてよね。私じゃ外せないんだから」
言い終えると、満足そうな笑みで頷いて、飛び立っていく。
ふよふよと遠ざかっていき、今度こそ空の向こうに消えていった。
いったい何なんだ。
自由すぎるルーミアの行動に、霊夢はもうため息すら忘れて呆れていた。何と反応すればいいのか解らずに、箒を構えたまま固まる。よく解らないが、とりあえず一つだけ解ったことは、
「何だかんだ言って、もう一度来る気満々なんじゃない……」
また近いうちに、神社が騒がしくなりそうだということだった。
* * *
それから、しばらくして。
日が傾き始めた神社の縁側に、霊夢は腰かけていた。
「あいつ、案外悪い奴じゃなかったのかな」
お茶を啜りながら、ぼんやりとルーミアの生意気で無邪気な顔を思い浮かべる。
生意気な奴ではあるけれど、人間が人食い妖怪と聞いて思い浮かべるような感じの奴ではなかった。おかしいな、あんなに大人しいものだっただろうか、妖怪というのは。霊夢は、首をひねる。
霊夢は、フクロウのように90度くらい首を傾けていたが、やがて、
「あ」
とある可能性に思い至り、ぽんと手で膝を打った。
「宵闇の妖怪だけに、"良い"闇の妖怪ってか!」
ほのぼのしててよかったです
異論は認めない
最後に出された良い闇デザートには若干首をかしげたけどネ!
適当な表現ではないかもしれませんが、こういう舌っ足らずな行動をとる子って霊夢じゃありませんけど
なーんか世話を焼きたくなっちゃいますよね。こう、どこへ行っちゃうかわからない子犬のような。
普段からフリーダムで鳴らす両者のまったりした攻防、勝敗は次回に持越しでしょうか。
日常ってとても大切。再戦が楽しみだ。
よだれかわいい
しかしオチだけは……
でもどこか頭いい気がする。
この二人ってホントに和む作品も多いなぁ
あったかいです。ほかほかです。
ルーミアから言わせれば余計なお世話ってぐらい世話焼き。
っていうか遠慮はしない上に色々足りてないルーミアだからこそ霊夢もいつになく世話焼いちゃうでしょうね。
上辺では嫌がってるけど実際には結構嬉しそうなのがほのぼのします。
最後の最後で油断したwww