稗田家には家宝といえるものが2つあります。一つは代々の阿礼乙女が編纂した幻想郷縁起。幻想郷に住まう妖怪たちの記録をはじめ、博麗の巫女などの重要人物や異変の記録などを後世に伝える貴重な書物です。そしてもう一つの家宝とは、その幻想郷縁起を執筆するときに用いる筆記用具。和の雰囲気を漂わせる屋敷の中で、洋の体裁をもつそれは、いわゆる羽根ペンというものでした。正確にいえば、この羽根ペンが「代々の」阿礼乙女によって用いられたわけではなく、実際にこれが幻想郷縁起の編纂に用いられ始めたのは、稗田阿求、すなわち私の代からです。では、なぜそれを家宝として扱っているのか? という疑問が出てくるのは、自然なことではないでしょうか。
「…さて、今日のところはここで区切りをつけましょう。」
その日も、私は幻想郷縁起の編纂を進めていました。そうするのが阿礼乙女の役目であり、生を受けた理由でもあるから、私もその生きる時間のほとんどをこの作業に費やすことになります。しかし、私にはもう一つ、纏めているものがありました。それは個人的な趣味ではあるのですが、幻想郷の記録を残すためというもっともらしい言い訳を用意して始めたもの。幻想郷の植物をとりまとめた書物、幻想郷植物誌というものを、私は編纂していました。最近は、その植物誌に載せる新たな植物について話を聞くために、太陽の畑にいる妖怪に会いに行く機会が増えています。今日も、作業が一段落したら会いに行こうと思っていたところでした。
首を左右に傾けて肩の疲れをほぐす仕草をしてから、両手を上にのばして伸びをします。座りっぱなしの執筆作業は、運動するのとは違う疲労感を感じるものなのです。さて、出かけようかと腰をあげた時、使いの者が部屋のふすま越しに声をかけてきました。
「阿求さま、よろしいでしょうか? お客様がいらっしゃったようなのですが。」
「お客様? どちら様かしら。」
「鴉天狗の、射命丸文様でございます。いかがいたしましょうか?」
「文さんがいらっしゃったのなら、いつものあれを持ってきてくれたのかもしれませんね。今はちょうど手が空いたところだから、お通ししてくださいな。」
「はい、では少々お待ち…」
「いや、お待たせすることはありません。毎度の対応、御苦労様です。」
使いの者が振り返る間もなく、ふすまの向こうにはもう一つの気配が現れました。驚いた様子の使いを横目に、ふすまを開けて入ってくるのは、射命丸文さんです。
「いつものことながら、お早いですね。」
「それが私ですから。」
そう言って笑顔を見せる文さんと、ほほ笑みを返す私。なんでもないやり取りですが、二人の間では何度となくかわされてきたやり取りであり、二人の間に築かれた信頼関係がうかがえると思います。私が席を勧めると、では、といって文さんは着席しました。
「今回も、いろいろな写真が撮れましたよ。」
「いつものことながら、本当にありがとうございます。文さんの写真は、幻想郷縁起を纏めるにあたって非常に良い資料となりますから。」
文さんは、幻想郷では名の知れた新聞記者です。といっても、趣味で作った新聞を勝手にばらまいていくという、人によっては迷惑な悪名の方が響き渡っているのですが。ともかく、彼女は新聞を作る際には必ず取材をしてウラをとることを心がけています。その取材の一環として行われる写真の撮影ですが、新聞に載せる写真はそれほど多くなく、余った写真を資料として提供するために定期的に稗田家を訪れています。
本人がそう言っているので、真偽のほどは定かではありません。それでも、使わずに余った、残りもので質が良くない写真だけを提供してくれているわけではないことは、私も感じていました。
「文さん、こうして提供していただけている写真って、余ったからいただけてるってわけじゃありませんよね?」
「何をおっしゃいますか。私はそんなに優しくはないですよ。始めにいった通り、写真が余ってしまって、捨てるのももったいないというものを提供しているというだけですよ。」
「だったら視線を逸らさないでください。大丈夫ですよ、私は地霊殿に住む、心を読む妖怪ではありませんから、言われたことはそのまま受け止めることにしています。それに、責めているわけではありません。むしろ感謝している気持ちが大きいです。だからこそ、気になることがあるのです。」
そこまで言って、私は呼吸を整えます。時間にして数秒ほどでしたが、2人を包んだ静寂な空間は、それを何倍もの時間に感じさせたことでしょう。特に、質問を投げかけられる側の文さんにとっては。
小さな肩の上下運動を治め、私は静かに文さんの眼を見つめます。その眼を逸らすことなく、ゆっくりと質問の言葉を口にしました。
「文さんは、どうして稗田家に、いえ、私にここまで尽くしてくださるのか、教えていただけませんか?」
再び2人の間に沈黙の時間が流れます。その間、私たちはただ見つめあっていました。私は表情を変えず、ただじっと返答を待っています。対する文さんは、その理由を語ることについての是非を考えていたのでしょう。困惑した表情を浮かべていました。
沈黙を破ったのは文さんの深いため息でした。求聞持の能力を持つ私には、一度話してしまったら、後で忘れてくださいなどといっても無駄なことです。そう思って、これまで曖昧な理由をつけて避けてきた話題だったのでしょうが、今日という今日はお手上げのようでした。私がここまで真剣な表情を向けたのは初めてでした。そのせいでしょうか。さすがに文さんの根が負けてしまったのかもしれません。
「わかりました、お話しましょう。私がなぜ、稗田家、いえ、あなたにこだわっているのかという理由、そのきっかけとなる話を。」
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今でこそ、幻想郷中に名の知れた新聞記者の私ですが、一昔前はそれほど有名というわけでもなくて、ただ着の身着のまま写真を撮って、適当に文章を付けただけのお粗末な新聞を書いていました。その日も、何か適当な被写体はないものかと妖怪の山の周辺を飛び回っていました。
事件といっても、異変のような大きなものでもない限り見過ごされてしまうような幻想郷ですから、普段の私ならきっと素通りしていたかもしれません。それくらい、妖怪の山に人が迷い込むということは、なんてことない出来事だったのです。ただ、その日の私はこれといった収穫も無かったこともあってか、そんななんてことない出来事に首を突っ込むことにしました。
「もしもし、どうしてあなたのような人間がこんなところにいるの?」
私は空から降りて、目の前でおろおろしている少女に声をかけました。相手からすれば、急に目の前に天狗が現れたという状況ですから、きっと驚いたに違いありません。その少女が普通と違ったのは、一瞬だけ驚きの顔をみせた後、ゆっくりと呼吸を整えて私と向き合ったということです。天狗といえばそれこそ有名な妖怪ですから、普通なら一目散に逃げ出したりするものでしょう。じっと見つめられてどうしたものかと思っていると、少女はぺこりと頭を下げてこう言いました。
「ごめんなさい。あなたたちの領域を侵すために来たわけではないんです。というより、気がついたらここにいた、というのが正確なところで、あ、でも私は方向に疎いというわけではないですよ、確かマヨヒガに向かっていたはずなのに、途中までは合っていたはずなのに、気がついたらここにいたわけで…」
話し方を聞いて、どこか安心しました。目の前にいる少女は少し強がっているらしい、というのが伝わってきましたから。落ち着いた様子で話を進めようとしたつもりでも、どこかしどろもどろな口調が、それを物語っています。
「そうです、そもそも私は八雲紫さんに会いに行こうとしていたのです。それがどうしてこんなところにいるのか、私にもさっぱりわからなくて、でも、天狗さんがいるということは、きっとここは妖怪の山の近くなんじゃないかと…」
「あぁ、大丈夫、あなたが危害を加えるつもりが無いことはわかったし、どうやら道に迷ったんだってことも伝わったから。そして、そうさせた犯人も検討がついたところよ。」
「そうさせた? あ、私が道に迷ったのは誰かのせいなんですね? たしか、道に迷わせるのは妖精の仕業だったはず。でも途中で妖精に会った覚えはないですよ。」
妖精についての知識がすっと出てくるところに賢さを感じましたが、洞察力には少し欠けているようです。でも、まだまだ幼さの残る年頃といった印象ですから、これから成長していくということなのでしょう。
「あなたを迷わせたのは、きっと八雲紫さんよ。途中で何か違和感は感じなかった? 例えば、たくさんの眼に見られてる感覚があった、とか。」
「あったような、無かったような、なんだか思い出せません。そもそも、なんで紫さんが私を迷わせたりするんですか?」
とても純粋な眼差しをこちらに向けられて、私は軽く頭を抱えました。人を疑うことを知らないのは、ある意味では美徳であり、ある意味では迂闊でもありますから。ともかく、私はこの子を放ってはおけないと感じていました。はぁ、と深いため息をついてから、私は話しかけました。
「あなた、八雲紫さんに会いたいのね? ここからマヨヒガまでは結構な距離があるから、人の足で歩いて行こうものなら日が暮れても着けないかもしれないわ。せっかくだから、私が連れて行ってあげる。」
「ほんとですか? 確かに、ここが妖怪の山だったらどうしようと思っていたところだったので、非常にありがたい申し出です。」
では、さっそくお願いしますなんて言って、私の背中につかまろうとしてきました。ここまで来ると、純粋というよりも無邪気というかなんというか。少し苦笑を浮かべつつ、私は問いかけました。
「あなた… もう少し相手を疑うということは考えないの? もしかしたら、私はこのまま妖怪の山まであなたをさらって行っちゃうかもしれないわよ? それでもいいの?」
「大丈夫です。あなたはそんなことをするとは思えません。困っている私を見過ごさずに助けてくれたことが、私があなたを信頼する最大の根拠です。それに…」
「それに?」
「私、一度鴉天狗の背中につかまって飛んでみたかったんです。幻想郷の中でも一番といわれるその速さ、体験してみたいと思っていました。」
やられました。ここまで純粋でまっすぐな願いを聞いておきながら断るほど、私は非情ではありません。強いて言うなら、幻想郷一番の速さ、という表現に心を動かされたというのもあったのかもしれません。
両手をあげてやれやれといった仕草を見せつつ、私は少女を背負いました。普通に背負うと翼が広げられないので、慎重に体勢を整えて準備をします。
「では、しっかりつかまっていなさい。早すぎて、吹き飛ばされたりしないようにね。」
肩をつかんだ手に力が入ったのを確認して、私は空へ舞い上がりました。普段よりも少しだけ力を抑えて、それでも風を感じる程度の速さを意識しながら、私たちはマヨヒガへ向かって空を駆けて行きました。
天狗のスピードを持ってすれば、妖怪の山からマヨヒガまでは数刻もかかりません。飛び立ってから到着までは本当にわずかの時間だったはずですが、到着したときの少女はあふれんばかりの嬉々とした笑顔に包まれていました。手加減していたとはいえ、私からすればよく振り落とされなかったものだと感心する思いでしたが。
「楽しかったぁ! ほんとに早いんですね、やっぱり見聞きするよりも体験した方が印象に強く残りますね!」
ははは、という笑みを返す私に、少女は深々と頭を下げてありがとうございますとお礼を言ってきました。おそらく、こんな経験は私にとって二度と来ないと思います。今日のような気紛れでもない限りは。
「そういえば、天狗さんの名前を聞いていませんね。なんていうお名前なんですか?」
「私の名前? 私は、射命丸文。『文々。新聞』の記者、射命丸文だよ。といっても、それほど知名度はないみたいだけど。」
「『あや』っていうんですね。私も『あや』っていうんです。稗田阿弥、です。」
「あはは、それは偶然だ。なるほど、長く生きてきた私だけど、こんな偶然は初めてだね。」
「射命丸文、かぁ。本の中にあったかな? こんど確かめてみましょう。」
「私の名前が本に載ってる? それはないだろうね。新聞だって有名ではないし、そもそも私程度の一妖怪を載せるなんて、そんな本を書くのはよほどの物好きしかいないだろうね。」
すると、阿弥は口元に手を当てて笑い始めました。何かおかしなことでも言ったかと思って首をかしげると、阿弥はこんなことを言ってきたのです。
「私の家系は、そのよほどの物好きの家系なんですよ。名前を言った時に気づきませんでしたか?」
その当時の私が、いかに無知だったか。思い出すだけで恥ずかしくなってきます。そもそもただの人間が八雲紫ほどの妖怪に会いに行く、という時点で何かしら気付くべきだったのです。そして、名前について指摘されたことで、私の中に一つの仮説、いえ、確証と言うべき答えが生まれました。
「あなた、まさか阿礼乙女の?」
「はい、八代目阿礼乙女、稗田阿弥です。天狗さんは聡明な方が多いということでしたが、文さんのような方もいらっしゃるんですね。」
くすくすと笑いを止めない阿弥を目の前にして、私は少しばかりぽかーんとしていました。噂には聞いていましたが、実際に阿礼乙女にあったのは初めてでしたし、何より偶然が重なりすぎて思考がしばらく追いつかなかったということも原因だったと思います。
「では、私は八雲紫さんのところへお話を聞きに行ってきます。そうだ、もしよければ、今度文さんのところにもお話を聞きにいってもいいですか? こんなに親切にしていただいたわけですし、今度の幻想郷縁起には名前を付けて載せたいなって思いました。」
約束してください、といって差し出された小指に、私も自然と小指を絡ませていました。いわゆるゆびきりという契約です。嘘をついたら針を千本飲まされるらしいので、もう一度阿弥と会うことが確定してしまった瞬間です。
「私は求聞持の能力を持っていますから、絶対に忘れませんからね。」
では、またいつか。そういって、その日は阿弥と別れました。妖怪の山へ帰る途中に今日の出来事を振り返って、自然と顔がほころんだことを今でも覚えています。家に帰ってドアノブに手をかけた時、写真を一枚も撮っていなかったことに気づいてあたふたしたりもしましたが。
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それからしばらくの月日が流れました。阿弥からの音沙汰もなく、もしかしたら妖怪の山に来る途中で他の妖怪に襲われたりしたのでは、なんていう悪い想像も何度かしてしまいました。率直にいえば、私は阿弥のことを心配していたということです。
その日も、哨戒任務にあたっている白狼天狗の犬走椛のところへ行って、最近迷い込んだ人間はいないかと聞き込みをしていました。
「しつこいですよ、文さん。さっきから言ってるじゃないですか。ここ数日、いえ、ここ数カ月は、迷い込んできた人間はいないって。」
「本当に? もう一回千里眼で見てみてよ。もしかしたら、万に一つの可能性で見落としてるなんてこともあるんじゃないの?」
すっかり困り顔の椛でしたが、私にとっては「会いに来る」と言ってゆびきりまでした阿弥のことが気になって仕方無かったのです。そんなに気になるなら人里まで行けばいいのでは、という考えもあるでしょうが、当時は今でいうところの外の世界の人間が妖怪の存在を否定し始めた頃で、ただでさえ人間の勢力に押され気味だった妖怪たちの中では、迂闊に人里の人間を刺激しないようにしようという暗黙の了解が拡がっていた時期でした。私にできることは、ただ妖怪の山で阿弥が来るのを待つことだけでした。
「わかりましたよ、見ればいいんでしょう? まったく、何度見ても同じですよ。こんな状勢の中、妖怪の山に近づこうなんて物好きな人間は…!?」
「どうしたの椛。何か見えた?」
「見えました。妖怪の山に向かって歩いてくる… あれは女性ですね。しかも軽装で、武器を持っている様子もない。護衛を連れているわけでもなく、あれでは食べてくれとでも言っているようなものです。」
「椛、その場所まで案内して! 早く!」
私と椛の二人は、すぐにその女性のもとへ飛んで行きました。哨戒天狗の任務は外敵が迫ってきたという情報をつかむことで、見つけた相手には警告を行って帰ってもらうこと。場合によっては攻撃を仕掛けたりもしますし、運が悪ければ命を奪うこともあります。侵入してきたのが人間であれば、基本的にはおとなしく帰るように説得するのですが、相手が聞きわけなく侵入しようとすれば強硬手段に出ることも無いわけではありません。
もしも私の勘が当たっていれば、椛の見つけた女性が阿弥であれば、彼女は私に会うために、迷わず妖怪の山を進んでくるでしょう。哨戒任務にあたっている他の白狼天狗に、その様子を見つかりでもしたら。悪い想像を振り払い、私は速度を速めました。
はたして、その女性は阿弥でした。しかし、私が以前会った阿弥とは違い、背丈も伸び、体つきも女性らしくなり、立派な大人の女性の姿をした阿弥が、そこにはいました。まずは他の天狗達よりも先に見つけられたことを幸運に思い、そっと胸をなでおろした後、私は阿弥に声をかけました。
「お久しぶりね、阿弥。ずいぶんと大人の女性らしくなったじゃない。」
「当然です、あれからどれだけの時間が経ったと思っているのですか。あぁ、妖怪と人間では、時間の流れの感じ方は違うのかもしれませんね。」
「うん? 文さん、いつの間に、こんな人間の知り合いなんて作ったんですか?」
親しげに話を始めた私たちを、椛は首をかしげて見ています。その様子に気づいたのか、阿弥は椛に一礼して簡単な自己紹介を始めました。
「はじめまして天狗さん。私は稗田阿弥というものです。今回妖怪の山に足を運んだのは、射命丸文さんとの約束を果たすためです。決して、天狗の領域を侵害するためのものではありませんので、どうかご理解いただけたらと思います。」
「あぁ、こちらこそ、はじめまして。私は犬走椛といって、妖怪の山の警護を任務とする白狼天狗です。あなたの立場と用件は理解したつもりですが、なんというか、よくここまで無事でいられたもので…」
「一応1人で出歩く時は護符を身につけているのですが、やはり力の強い妖怪に会ってしまっていたらと思うと… 私も運がいいですね。」
大人の女性の品格を身につけただけあって、どことなく優雅さの漂う対応をみせる阿弥でしたが、そんな中に垣間見える無邪気な面は、あぁ、やはり阿弥なんだと私を安心させました。何よりも、目の前に阿弥がいるということが、それまで私の中に存在した不安を一気に吹き飛ばしてくれました。
「阿弥… まずは、無事で何より。」
「ありがとうございます。私も、もっと早くに来られればと思っていたのですが、幻想郷縁起の執筆が思いのほかはかどらなくて、気がついたらこんな時期になってしまいました。」
「針を千本飲まなくてもよくなったわね。」
そう言って2人で笑みを浮かべました。隣では椛が苦笑を浮かべながら私たちを見ていましたが、そんなことを気にすることなく、互いに再開できたことの喜びを確かめ合っていたのだと、そう感じていました。
「さて、早速ですが、文さんについてのお話を聞かせていただきたいのですが。」
「まぁまぁ、こんなところで立ち話を続けるのもなんだし、なんだったら私の家で話をしようか? 椛も、侵入者でなくて客人であれば、大丈夫でしょう?」
「えぇ、わかりました。見たところ、危害をもたらすことも無いでしょうし、なにより文さんの友人であることは理解できました。問題はないと思いますよ。」
「それじゃあ、さっそく私の家に行こうか。3人分のスペースなら余裕であるだろうから、くつろぐには十分なはずだよ。」
「3人って、もしかして私も入ってますか? 用件は文さんの話を聞くことですよね。あれやこれやを聞いているうちに、聞いてはいけないことまで聞いてしまっては…」
「大丈夫ですよ椛さん。あまりに深い内容の話は出しませんから。個人的な能力についてと、活動時間や活動内容などを聞く程度ですよ。せっかくだから、椛さんのことも伺えれば嬉しいですね。」
口元を押さえてほほ笑みながら椛に話しかける阿弥を見て、こういうところはあの時のままなんだなと感じました。思えば、初めて会った時も1人で歩いていましたっけ。勇敢なのか無鉄砲なのか、あるいは初めて会った時感じた印象の通り、純粋なのか。とりあえず考えるのは後回しにして、私たちは私の家に向かうことにしました。
家までの道中は徒歩によるものでした。私が抱えて空を飛んで行こうかとも提案したのですが、阿弥はそれを遠慮したようで、自分の足で歩くといって譲りませんでした。これまでも幻想郷の各地を歩いてきたということで、足腰には自信があるとかなんとか。思わず苦笑を浮かべてしまいましたが、その自信は本物だったようで、一度も息があがることもなく私の家に到着していました。頑固な面もあるのかと疑った私でしたが、これには素直に感心してしまいました。
「それでは、お邪魔します。」
「お邪魔します。はぁ、文さん、また掃除をさぼってますね?」
2人を招き入れた部屋の中には書きかけの記事や写真が乱雑に散らばっていて、椛の言うとおり、とても掃除しているとは言えないようなありさまでした。当時の私がいかに適当だったか、今にして思えば恥ずかしく思えてきます。苦笑いを浮かべながら部屋に散らばるものを片づけて、ようやく私たちは腰をおろしました。私はお茶を淹れて、それぞれに差し出します。
「天狗さんの家といっても、人里の家とあまり変わったところがあるわけではないですね。畳を敷いてあったり、ふすまがあったり、机が置いてあったり。この部屋は書斎といったところなのでしょうか?」
「新聞を書くために使っている部屋でもあるから、書斎といえば書斎ね。時にはこうして客間にもなるし、布団を敷いて寝ることもできるし、なんというか、便利な部屋ってとこかしら。」
「そんな便利な部屋なんですから、突然の来客に備えて掃除をしておくのは当然なんじゃないですか?」
「いや、それは、ここ最近はあれだったのよ、どうにも新聞が手につかないというか、仕事に身が入らないというか、仕事以外のことにも集中できないというか…」
「阿弥が気になって、ですか?」
椛の一言で、口に含んだお茶を噴き出しかけました。おそらく、その時の私の顔は真っ赤に染まっていたことでしょう。照れというか、恥ずかしさというか、そんな感情で。あたふたする私を見て、阿弥が話し始めました。
「文さん、そんなに私のことを心配してくださっていたんですね。阿礼乙女とはいっても1人の人間にすぎない私を、そこまで心配していただけていたなんて、なんだか嬉しいです。」
「え、えと、たしかにそれはその通りだけど、掃除をさぼってたのはそもそも私の性格が適当だからってのが原因で、あぁ、椛も横でにやにやするな!」
阿弥はくすくすと笑いだすし、椛は意地の悪い笑顔を浮かべてからかってくるしで、その時の私は四面楚歌の思いでした。取り乱した心を落ち着けるために数杯のお茶を必要としたほどでしたから、あわてっぷりは相当なものだったはずです。
「まぁ、書斎である以上、掃除は定期的にするべきかもしれませんね。私も幻想郷縁起を書くときに資料を広げたりするのですが、なるべく使ったらすぐに片づけるようにしています。後になって、あの資料どこに行ったっけ? と探すようなことが無いように。」
「言うなれば、文章を書く者のたしなみ、といったところですか。いえ、掃除をするしないは、文章を書くとか書かないとかは関係ないですよ、文さん。」
これからは一日の終わりには必ず掃除をしよう、と心に誓った瞬間でした。いろいろと追い打ちをかけられてまいってしまいましたが、話はまだ本題に入ってすらいませんでしたし、落ち込んでいるわけにもいきません。大きく深呼吸をして、さあ、本題に移りましょう、と阿弥に向き合いました。
取材中の阿弥の対応は、とても礼儀正しく、かといって堅苦しい雰囲気をみせない和やかなものでした。はじめに向き合った私に、そう緊張なさらないで、と声をかけてくれたおかげで、まだ幾分か残っていた緊張感が和らぎましたし、会話中は終始笑顔を絶やさず、かといって営業スマイルのように作った笑顔というわけでもなく、自然体で向かい合う阿弥の姿は、これも一つの才能なんだろうな、と羨ましさがこみ上げるほどでした。
こうして取材も一段落し、阿弥は帰宅することになりました。まだ日は高かったのですが、ここが妖怪の山であることを思うと、日が落ちる前に帰るに越したことはありません。
「ねぇ、阿弥。これからも、妖怪の取材は1人で行くの?」
「えぇ、護衛をつけてしまうと、かえって警戒してしまう妖怪もいるので。私はあなたに危害を加えない、そういう姿勢で向き合うことが、相手を挑発しないためには最も有効なんです。」
でも、妖怪の中には問答無用で人を襲うものもいないわけではありません。もしもそんな妖怪と阿弥が対峙したら… 気がつくと、私は一つの提案をしていました。
「阿弥、もしよかったら、私が撮った写真を幻想郷縁起の資料として使ってもらえる?」
それは、阿弥が危険な妖怪に直接会いに行くことを防ぐためにひねり出した提案でした。阿弥の代わりに、私が妖怪に会いに行って取材をする。さらに写真を提供することで、容姿や特徴などの情報を提供することができる。阿弥は危険な思いをすることなく、私も阿弥の力になることができる。お互いに利益のある提案だと思いました。
「文さん、とても魅力的な申し出だけど、幻想郷縁起の編纂は阿礼乙女の務め。文さんに迷惑をかけるわけにもいかないですし…」
「迷惑じゃないわ。むしろ私にとっても一石二鳥のことよ。新聞に書くネタを探して幻想郷を飛び回る私は、妖怪と会う機会もたくさんある。情報はたくさん入ってくるから何の問題もないし、新聞を作るにしても写真をすべて使うわけでもない。余った写真を捨てるのも、もったいないでしょう? だったら、活用してもらえる方がいいと思わない?」
「えぇ、ですが… 直接会って話を聞く、というのが取材の慣例ですし…」
阿弥はやはり少し頑固な面があるのかもしれないと感じました。私としては、阿弥の身を案じての提案だったのですが、かえって阿弥を困らせてしまいました。困惑の表情を浮かべる阿弥を見ていると、私まで困惑してしまうような気がして、思わずこんなことを口にしていました。
「7日後に…」
「…え?」
「7日後に、もう一度私に会いに来て。その時までに、何かいい策を考えておくから。お願い。」
必死の思いで絞り出した言葉でした。今すぐにはいい策は浮かばないけれど、きっと何かいい方法があるはずだ、と。そんな思いが紡いだ言葉だったと思います。
頭を深々と下げた状態で返事を待っていると、目の前に小指が差し出されました。以前より少し長く、細くてやや色白の綺麗な指でした。顔をあげると、そこには阿弥の笑顔がありました。
「約束です。」
ただ一言、そう告げて私を見つめる阿弥。私は何も言わずに、静かに小指を絡ませました。軽く揺り動かして指を離し、それでは、と言い残して、その日は阿弥と別れました。私は去っていく阿弥の後ろ姿をじっと見つめていました。よほど集中していたのでしょう。私が気を取り直したのは、それまで一言もしゃべることなく隣で待機していた白狼天狗がトントンと肩をたたいたときでしたから。
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次の日から、私は家に閉じこもってひたすら策を考え続けました。阿弥を危険から遠ざけるにはどうすればいいか、新聞を書くのも忘れて考え続けましたが、渾身の策が生まれることはありませんでした。
気がつくと6日目。明日は約束の7日目を迎える、という時になってようやく、私は友人たちの知恵を借りることを決めました。椛を連れて、向かったのは河童の家。権謀術数に長けた天狗とは違った観点から、何かアイディアを出してくれるのではないかと期待したからです。
「私までついて来る意味はあるんでしょうか?」
「今は1人でも考える頭が欲しいのよ。それに、3人寄ればなんとかって、そんな言葉があるでしょう。さて、にとりー、入っていいー?」
道具を作りだす職人である河童の家の中からは、常に様々な音が聞こえてきます。工具が奏でるトントンカンカンというリズムは、河童ごとの個性が出るとかなんとか。にとりのリズムはワルツのような軽快な3拍子で、ずっと聞いていると思わずステップを踏みたくなってきます。
「その声は、文だね? 作業中だからいろいろ散らばってるけど、勝手に入ってくつろいでちょうだい… って、返事する前に入ってきてるし。」
「いつものことでしょう? そんなに気にしないの。さて、今日は相談したいことがあってきたのよ。」
「気にしてほしいのは文の方なんだけどなぁ… うん? 文が相談を持ちかけるなんて珍しい。何があったんだ? あぁ、椛も一緒だったのか。」
「えぇ、文さんの悩みに巻き込まれてるって形なんですが、その悩みというのが…」
「ちょっとまって、それは私が話すから。余計な脚色されるのは困るしね。とりあえず要点だけ言うと、幻想郷の各地の妖怪に会いに行ってまわってる人間がいるわけ。その子は女の子なんだけど、護衛をつけない上に武器も持たない。護符は身につけてるけど、なんというか、危なっかしいのはわかるでしょう? それでなんとかしてあげたいんだけど、直接会いに行かないといけないって言って聞かないの。どうしたらいいのかしら。」
話を聞き終えたにとりの顔は、なぜか唖然としているようでした。なぜそんな表情を浮かべているのかが理解できずにしばらく待っていると、椛が話し始めました。
「すぐに理解しろ、というのは難しいでしょうね。妖怪である天狗が、1人の人間の身を案じてあれこれ悩んでいるのですから。」
「あぁ、私の耳か頭がどうにかなったのかと疑ったよ。どうしたの、文? 悪いもの食べた? 風邪でも引いて熱出したとか? それとも、もっと他の悪い病気にでもかかったとか?」
「病気といえば、病気なのかも… いわゆる、こ、ごふぁ!」
「椛、余計なことは言わないの! 私はこれ以上ないってくらい健康よ。」
「いきなり手刀を極めないでくださいよ。けほっ、人間だったら軽く気絶してますよ。」
「あぁ、でも今のやりとりでだいたい理解したよ。狡猾な天狗も、顔は正直だったりするんだねぇ。」
にとりがにやにやした笑顔を向けてきます。その時の私はどんな顔をしていたのでしょうか。近くに鏡が無かったことが悔やまれます。
「それにしても、その悩みを解決するのは苦労しそうだね。その子を妖怪から守りたいっていうなら護衛にでもなればいいんだろうけど、それはどうなんだ?」
「護衛をつけると相手に警戒されるとかなんとか。だから妖怪に会いに行くときに一緒に行くってのは却下よ。」
「最初に文さんが出した提案は、写真を提供することでしたよね。あわよくば、妖怪に会いに行く危険を冒さないように、ということが狙いだったんでしょうけど、あの様子では的外れだったみたいですし。」
「要は、その子が危険な目にあっても助かるような策があればいいってことなんだろ? だったら、いざという時に備えて仕込み刀とか、そういうのを持たせるとか… あぁ、武器はだめだったか。じゃあどうすれば…」
私たち3人は一斉に黙り込んでしまいました。にとりが立ち上がり、お茶を用意して私たちの囲む机の上に置き、そして再び沈黙が戻ってきます。3人が3人とも、難しい顔であれこれ考え続けること数刻。ふと、お茶を口にして一息ついた椛がつぶやきました。
「危ない目にあったときに、すぐに助けに行くことができればいいんでしょうけれど…」
「「それだ!」」
椛の言葉に、私とにとりは同時に反応していました。護衛がだめでも助けになら駆けつけることはできる。鴉天狗の私の速度を持ってすれば、幻想郷のどこにでもすぐに助けに行けるという自信がありました。なんて賢い白狼天狗。今度いいお酒を御馳走してあげよう、なんて考えながら、ふと、重要なことに気がつきました。
「ねぇ、危険な目にあってるってことを伝えるための、連絡手段はどうするの?」
「あ、そうか、そもそも連絡手段が無ければ意味が無いですね。」
「ふふふ、こんな時こそ、河童の技術者、河城にとりの腕の見せ所だよ。ちょうど離れた場所に映像を送る送信機と受信機を開発しているところでね、うまくいけば、もう少しでできるはずなんだ。」
「本当!? なんていいタイミングなのかしら! それで、どのくらいで完成する予定?」
「ほとんどのパーツの組み立ては終わったから、後は微調整をするだけ。明日にでも完成する予定だよ。」
きっと、満面の笑みを浮かべていたのだと思います。気がつくと、ありがとう! にとり! という言葉とともに、にとりのことをぎゅっと抱きしめていました。ちょっと、文、いたい、というにとりの声で、ようやく我にかえりました。
「ふぅ… 文は飛ぶのも早いけど気も早いね。まだ完成はしてないんだから、ありがとうという言葉をくれるなら、完成した時にしておくれ。」
「完成したら、あやさんの笑顔が見れますね、二重の意味で。」
「二重の意味で? それはどういうことだい?」
「まだ言ってませんでしたっけ? 実はその人間の子の名前、阿弥っていうんですよ。」
それを聞いたにとりの顔が徐々にほころび、ついには大きな声をあげて笑い出しました。そうか、そういうことだったのか、なんていいながらおなかを抱えて笑い続ける様子をみていると、私の顔はだんだんと強張っていきました。もうその辺で、落ち着きましょう、という椛の仲介が無ければ、この家ごとにとりを吹き飛ばしていたかもしれません。
ともあれ、その道具が完成することで、私の悩みはほぼ解消されると思いました。問題は、阿弥がそれを受け入れてくれるかどうかということでした。もし断られでもしたら… 悪い予想が浮かんできますが、こればかりは阿弥に聞いてみないと解決しません。さぼらないで、ちゃんと完成させるのよ、と言い残して、その日は帰路につきました。
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「文… いくらなんでも早すぎるとは思わなかったの?」
翌日、にとりからかけられた最初の言葉には、若干迷惑であるという感情が込められていました。それもそのはずです。私がにとりの家に向かったのは日が昇り始めたばかりの早朝で、ドアを開けたにとりは寝間着姿で目をこすりながら出迎えるといった具合でしたから。それくらい、私は道具の完成を待ち望んでいたということでしょう。
「いつものことでしょう? そんなことより、例の道具は完成した?」
「こんなに早く来たことは数えるくらいしかないはずだけど… とりあえず、あれは完成間近ってところだね。映像の送信と受信の実験はうまくいったから、あとはデザインとかそういうものを少しいじるだけ。」
「じゃあ早く仕上げをするとしましょう。急がないと、阿弥との待ち合わせに間に合わなくなっちゃうよ。」
にとりは軽く頭を抱えてため息をつき、すぐとりかかるから待ってて、といって準備を始めました。作業着に着替え、工具箱を抱えたにとりについていくと、大きなお皿のようなものの中心に棒がくっついたような物体と、肩幅くらいの大きさの長方形の箱、そしてそれよりも一回り小さな長方形の箱が置かれていました。
「この大きなコマみたいなやつが受信機の一部で、この大きい長方形の箱に映像が映るって仕掛けだよ。映像はこっちの少し小さい箱を使って…」
そう言って、にとりは小さな箱をもって何やら作業を始めました。私が首をかしげていると、大きな箱の側面が突然光を放ちました。急だったので少し驚きましたが、気を取り直してよく見てみると、そこには私の姿が映っていました。にとりの方を見ると、小さな箱を私に向けて笑顔を浮かべているところでした。
「こんな感じで、箱を向けた相手の姿が送信されるってこと。正確にいえば、箱についてるレンズを通して得られた光の情報を送信して、こっちの大きい箱で再現するって感じなんだけど… 文、聞いてる?」
私はしばらく大きな箱と小さな箱を交互に見比べていました。私が首を動かすたびに、大きな箱の中の私も動いているのがわかりました。にとりが原理を説明していたようですが、私には正直よくわかりません。とりあえず、この道具があれば離れたところに自分の姿が映し出せることがわかったくらいです。河童の器用さと技術の凄さを、改めて認識した時でした。
「とりあえず、こんな感じで映像を映すことができるってところまではできたんだけど、どのくらいの距離まで送れるかっていうのはまだ試してないんだ。せっかくだから、例の人間が来たときに最終試験をしてみようと思ってるんだけど、それでいいかな?」
「うん… そうしましょうか。それにしても、にとり、あんたって実はすごい器用だったのね。見なおしちゃったわ。」
「実は、って。こんなの、今に始まったことじゃないでしょう。文の使ってる写真機だって、私が組み立てたものじゃないか。」
返事をしつつ、にとりは金槌を振っています。金属の板をたたいて、どうやら外装を作っているようでした。私は驚きの余韻に浸りながら、作業部屋に響く3拍子のリズムとともに金属板の形が変わっていく様子を眺めていました。
そろそろお昼の時間になるかといったところでようやく作業は一段落し、残すは最終試験のみとなりました。待ち合わせの場所は私の家だったので、この道具を運び出さないといけません。
「じゃあ、私はこの大きい箱を持って行くから、にとりは小さい箱と棒付きのお皿ね。」
「私よりも力は強いんだから、文が二つ持ってよ、って、もう飛んでっちゃったよ。早いのは悪いとは思わないけど、せっかちなのは珠に傷なんじゃないかな。」
私が家に到着すると、そこには既に阿弥と椛が待っていました。
「こんにちわ、阿弥。道中、危なくなかった?」
「はい、今日は特に、椛さんが麓まで来てくれましたから。」
椛に麓まで出迎えてもらうよう頼んだのは私だったりするんですが、それはともかく、私は持ってきた箱を家の中に運んで行きました。一緒に入ってきた阿弥と椛をとりあえず席に着かせてお茶を淹れたところで、ようやくにとりが到着しました。
「文、着いたよ。二つも荷物があると少しかさばるねぇ… おや、あなたが阿弥さんかな?」
「あら、はじめまして、稗田阿弥です。あなたは、外見から判断すると河童さんでしょうか?」
「私は河童の河城にとりだよ。改めて、はじめまして。なるほど、なかなか可愛らしい顔をしてるじゃないか。文が気にかけるのも、わかる気がするよ。」
「可愛らしいなんて、そんなことは…」
「にとり、そんなにからかったりしたら駄目でしょう。阿弥も困ってるわよ。… さて、今日は阿弥に見てもらいたい物があるの。えっと、にとり、この道具、なんていう名前なの?」
「離れた場所に映像を送る機械だから… 映送機、なんてどうかな?」
「なんだか堅苦しい名前ね。ともかく、これからこの映送機の最終試験をするのよ。まずは見てもらった方が早いわね。にとり、さっきやったアレ、お願いできる?」
にとりは軽くうなずくと、小さな箱をいじりだしました。間もなく大きな箱が光を放ち、そこには私と阿弥、そして椛の姿が映し出されました。阿弥と椛が驚きの表情を浮かべて箱に移る自分の姿に見入っているところに、にとりは説明を始めました。
「こんな感じで、箱が近いときにはちゃんと映ることがわかってるんだけど、遠くからうまく映せるかどうかはまだ試してないんだ。最終試験はそれを試すことだよ。」
「遠くまでこの小さな箱を持って行って、うまく映像が映れば成功ってことね。じゃあ、この箱を持って遠くまで行く人と、ここにいて映像を確認する人が必要ね。… 椛、ちょっと妖怪の山の麓までひとっ飛びしてみない?」
「やっぱり私ですか。行ってくるのは構いませんが、私はこの箱の扱い方を知りませんよ。」
「大丈夫。この箱の前方についてるレンズを映したいものに向ければ、自動的に映像が送られてくるから、特別な操作は必要ないよ。そうそう、目的地に着いたらその旨を伝えてくれないかな。映像だけじゃなくて、音も送れるってことを確認したいから。」
にとりから箱を手渡された椛は、行ってきます、と言って出て行きました。にとりは椛が向かった方に棒のついたお皿を向けて動かしています。大きな箱には何やら映像らしきものが映っていたようですが、なんだかはっきりとしないものでした。しばらくそのまま眺めていると、だんだんと映像が落ち着いてきました。
「ここは… 先日、文さんと椛さんが私を見つけたところではないでしょうか。ほら、あの木とか、やっぱりそうですよ。」
「よく覚えてるわね。あぁ、求聞持の能力ってやつだっけ? でも、確かにそうみたいね。椛、なかなか気のきいたことをしてくれるじゃないの。」
「… さん。みなさん。聞こえますか? とりあえず、目的地に到着しましたよ。」
「おぉ、ちゃんと音も送れてるみたいだ。ちょっとばかりノイズが混じってるけど、これなら許容範囲かな。おーい、椛、ちゃんと聞こえてるよ。」
どうやら実験は成功したようで、少なくとも麓まで離れた場所からでも映像と音が届くことがわかり、にとりは満足げな笑顔を浮かべていました。しばらくの間、大きな箱に向かって手を振ったり返事をしたりしていたのですが、一向に椛からの返事が返ってきませんでした。ずっと、聞こえますか? としか聞いてこない椛の様子を妙だな、と思って見ていると、阿弥がにとりに声をかけました。
「にとりさん、もしかして、椛さんには私たちの声が届いてないのではないでしょうか?」
そのときの、しまった、というにとりの表情を写真に収めなかったことが悔やまれます。結論から言うと、映像と音の送信は一方通行で、受信する側から送信者への連絡はできませんでした。よくよく考えれば当然のことなのですが、その時のにとりはその当然のことを失念していたようです。
「にとり、すごくいい顔ではしゃいでたわね。」
「うぅ… 自分で作っておきながら、仕組みをど忘れするとか… なんか恥ずかしい。」
「あまりあげ足をとるようなことをしてはいけませんよ、文さん。にとりさんも、そんなに恥ずかしがることではないですよ。むしろ凄い技術だと思います。」
にとりをからかう私と、どうにかして慰めようとする阿弥の間で、にとりは帽子を深々とかぶり、赤くなった頬に両手を当てていました。しばらくして戻ってきた椛は、私たちを見て軽く首をかしげて不思議がっていましたが、実験が成功したことを聞くと、ほっとした様子で笑顔を浮かべて喜んでいました。
4人がそろったところで、遅めの昼食をとることになりました。考えてみると、私やにとりは朝食を食べていなかったので、結構おなかがすいていました。本来なら私がもてなすべきだったのでしょうが、その日は阿弥がお弁当を持ってきていたということで、ありがたく頂くことにしました。3人分しか準備してこなかったのですが、とすまなそうな顔を浮かべる阿弥でしたが、私たちからすれば準備してきてくれたことだけで充分感謝するべきことでしたので、非難することなどもってのほかです。
昼食を食べながら話をしているうちに、7日前に保留していた例の策の話題になりました。
「いろいろ考えたけど、阿弥は妖怪に直接会いに行くことはやめないだろうから、危険な目に会ったときにすぐ助けに行こうってことでまとまったのよ。そして、その危険な目にあった時の連絡手段がこの映送機だったんだけど…」
「いつ危険な目に会うかはわからないわけだし、そうなると、この送信用の箱を常に携帯してもらわないといけないってことになるんだよね。」
「しかし、この箱は常に携帯するにしては若干大きいような気がする、といいますか、肩に担ぐほどの大きさですから、やはり大きいですよね。」
「それに、なんだか重そうですよね。残念ながら、私は力には自信が無いですし…」
助けに行く、という案自体は悪くなかったはずなのですが、連絡手段がこれではうまくいかない、ということで、名案だと思った策も流れてしまいました。落ち込む私たちに、阿弥が一つの提案をしてくれました。
「私のことを心配していただけて、本当にありがたいと思っています。だから、そんなに落ち込まないでください。先日、文さんは写真を提供するという提案をしていただきましたよね。あの時はいい返事ができませんでしたが、よくよく考えてみると、写真は資料としてはとても素晴らしいものです。それに、実は先日こっそり文さんの撮った写真を拝見していたのですが、とても綺麗に撮れているなぁって思っていました。だから、今度は私からお願いしたいと思います。ぜひ、文さんの撮った写真を幻想郷縁起を編纂するための資料として提供していただけますか。」
「阿弥…」
「文、これは断るわけにはいかないね。」
「よかったじゃないですか、文さん。阿弥の役に立つことができますよ。」
「危険な目にあうかもってことで心配なところは残るけど… こうしてお願いされたら、断る理由はないわ。むしろ、初めに提案したのは私だしね。これからよろしくね、阿弥。」
「では、そうですね、これから定期的に写真を受け取りに来ることにしましょう。人里に妖怪が出入りすることは、人間にとってあまり好ましいことではありませんから。」
「… ねぇ、阿弥。これからも文の家まで登ってくるのかい? 歩きなれているとはいっても、山登りは大変なことだろう。もしよかったら、今度来る時は私の家にしないか? 文の家よりは麓に近いし、少しは楽だと思うんだけど。」
「そうですね、確かに、文さんの家まで登ってくるのは少し大変かもしれませんね。にとりさんの家はどのあたりにあるのでしょうか?」
「地図で説明した方がいいね。文、ちょっと書くもの貸してもらえる?」
私は文花帖とペンを懐から取り出して手渡すと、早速にとりは地図を描き始めました。ここが文の家で、こっちが私の家、といった感じで説明するにとりに、阿弥はふむふむとうなずいていました。
「まぁ、初めて来る時には今日みたいに椛に案内してもらいながら来るといいよ。椛、お願いしてもいい?」
「大丈夫ですよ。むしろ、初めての時だけではなく、来る時はいつだってお出迎えしますよ。そうした方が安全ですし。ね、文さん。」
「えぇ、そうね。これからもお願いするわ、椛。」
「ふふふ、とても心強いですね。それでは、今後もよろしくお願いします。」
こうして話がまとまり、次に会いに来る日取りも決まり、阿弥が帰宅の準備を始めました。これからはもっと綺麗な写真を撮るようにしないと、なんて考えていた私でしたが、ふと、こんな提案をしていました。
「ねぇ、せっかくだから、4人で写真を撮りましょうよ。」
私の使っている写真機には、時間差で写真を撮ることができる機能がついていました。普段は使うことが無いため、ほぼ忘れてしまっていた機能でしたが、写真のことを考えていた拍子にふと思い出しました。こういう時だからこそ、有効に使おうという思いが半分、そしてもう半分は、単なる思いつきだったりしました。
誰一人、反対することはなく、早速写真機を操作して準備に取り掛かりました。写真機を置く場所や立ち位置などを調整して、じゃあ撮るよ、という言葉を合図に、撮影ボタンを押してから待機している3人のもとに移動して笑顔を作りました。無事にフラッシュが焚かれ、撮影がすんだことを確認してから、その日は解散となりました。
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それからは、定期的に阿弥が私たちに会いに訪れるようになりました。写真を受け取りに来るというのが主目的ではありましたが、にとりが新しい機械を発明した時にはそのお披露目をしたり、試作品のテストを兼ねていろいろな実験をしたり、なんてことない雑談をすることもあったりで、一緒に笑いあったり、頭をひねって知恵を出し合ったりと、楽しい日々を過ごしていました。
そうして1年が経とうかといった頃。その日はにとりが新しい発明案を披露していました。
「物を見るってことは、光の情報を認識するってことなんだ。だったら、その情報を認識できないような仕組みを作れば、相手からは見られずに行動することもできるようになるんじゃないかな。」
「… どういうことでしょうか? 光を認識できないようにする、ということだとしても、私には難しすぎて何が何やら。光を操る、ということですか?」
「例えば、鏡を使うと光を反射することができる。自分の姿を見ることができるのは、自分にあたった光がさらに鏡に反射して、その光の情報を目を通して認識しているからなんだ。こんな風に、光そのものを操ることは割と簡単なことだけど、それを認識できないように工夫するのは、とても難しいことなんだよ。」
「にとり、正直なところ、何が何やらさっぱりわからないわよ。光を使って目眩ましをするってことではないの?」
「目眩ましとは違うんだけど… うーん、これは長い時間の研究が必要になるかな。」
「でも、もし相手が目の前にいるのに姿が見えなかったら、急に話しかけられたりしたらびっくりしちゃいますね。」
「私は嗅覚が敏感なので、たとえ目で見えなくてもわかりますけどね。」
ふふふ、と笑みを浮かべる阿弥と、難しい顔をしながら真面目に対応する椛、そして頭をぐるぐる回しながら思案している様子のにとり、そしてそれを眺める私を加えた4人のこういった談笑は、すっかりなじみのものとなっていました。いつまでもこんな日々が続くといいな、なんてことを思ったりもしましたが、どうやら長くは続かないらしいということを、なんとなく感じていました。
「それにしても、この様子では、にとりさんの新しい発明よりも幻想郷縁起の完成の方が早そうですね。」
「おや、ということは、そっちはもう完成間近ってことかな?」
「えぇ、文さんの協力もありましたし、もう残り僅かといったところですね。」
私は少しだけ寂しさを感じていました。幻想郷縁起が完成すれば、こうして写真を提供するという名目で会うこともなくなるんじゃないかという考えが頭に浮かんでいたからです。悪い考えはなるべく振り払うようにして、私は阿弥に質問をしてみることにしました。
「ねぇ、幻想郷縁起が完成したら、やっと仕事が一段落するでしょう? 何かやりたいこととかあったりするの?」
「そうですね…」
そう言って俯いた阿弥の顔には、少しだけ暗い表情が浮かんでいた気がしました。いつも笑顔を絶やさなかった阿弥が見せた負の表情の変化に、悪いことを聞いてしまったかもしれないという思いがよぎりましたが、阿弥の暗い表情はすぐに消え、私に笑顔を見せて答えました。
「秘密です。」
「秘密?」
「えぇ、秘密です。」
相変わらず笑顔を向けたままの阿弥を見ていると、これ以上深入りはしない方がいいと感じました。しかし、やはり気になるものは気になるもので、もう一歩だけ、私は踏み込むことにしました。
「じゃあ、何か欲しいものとかあったりしない? ほら、完成の記念におめでとうの意味で、何か贈りものとかできればなんて思ったんだけど。」
「そうですね…」
阿弥はまた少し俯いて、考え込んでいる様子でした。暗い表情が見えなかったのでしばらくそのまま見ていると、おもむろに、阿弥が答えを返してくれました。しかし、その答えは、私を動揺させるに十分なものだったのです。
「文さんの羽根がほしいです。」
その答えを聞いた瞬間、私の顔はきっと真っ赤に染まっていたことでしょう。正直なところ、それからの記憶はおぼろげなもので、はっきりと思い出すことができません。しばらくの間、遠くを見つめてぼーっとしていたらしいのですが、少なくとも私の記憶にはっきり残っているのは、椛が肩をトントンと叩いて、大丈夫ですか? と聞いてきたことくらいです。
つくづく、妖怪というものは精神的に弱い面があるのだと自覚させられた出来事でした。気を取り直した時、阿弥はあたふたとしていて、にとりは落ち着かせようとなだめているところでした。
「あの、あの、私、何か悪いことを言ってしまいましたか? 私はただ、文さんの使ってた羽根ペンが羨ましいなって思って、私もほしいなって、そう思っただけでして。」
「大丈夫、大丈夫だから。文も突然のことだからびっくりしただけだって。そうだろ、文?」
「あ、あぁ、そうだね。突然のことだから、私もびっくりしちゃったよ。あはははは。」
私の使っているペンは、自分の羽根で作った羽根ペンだったりします。我ながら、書き心地やインクの持ちが良かったりするので、物書きをしている阿弥が羨ましがるのも納得できます。私を動揺させたのは、その羽根に込められた意味を阿弥が知った上で欲しいと言ったのかどうかがわからなかったからです。
阿弥が帰る時間になり、いつものように椛が見送りに出て行ったあと、にとりが私に尋ねてきました。
「文、さっきはどうしたんだい? たった一言の言葉だけであんなに動揺するなんて。単に羽根が欲しいって言っただけだろう?」
「にとり… 阿弥は、鴉天狗に羽根が欲しいと願うことの意味をわかっているのでしょうか?」
「どうしたの、急に丁寧な言葉遣いになって。まだ落ち着いてないのかい? ほら、お茶でも飲んで…」
「もし、阿弥がその意味を知った上で言ったのだったら、私は… いえ、あの様子では意味についてはよく知らないみたいでしたが… それでも知らないふりをしていたとも…」
「文! 一度全部息を吐き出そうか。そして大きく息を吸って… また全部吐いて… ゆっくり呼吸を整える… どう、落ち着いた? さて、私には文がどうして取り乱していたのかがわからない。どうやら羽根を渡すということには深い意味があるそうだけど、その意味をおしえてもらえないかな?」
深呼吸をしてようやく落ち着きを取り戻した私は、羽根に込められた意味について説明しました。静かに説明を聞いていたにとりの顔が、だんだんと赤く染まっていったことを思い出します。きっと、私の顔もまた赤く染まっていたことでしょう。にとりは納得したように、なるほど、それは動揺するのもうなずけるよ、と返事をしましたが、ところどころかたことな口調から、内心では私と同じように動揺していたのだろうということが伝わってきました。
鴉天狗の羽根を望むということの意味。それは、求愛の意思を示すということなのです。いいかえれば、あの場で阿弥は私に愛の告白をしたということです。誰だって、突然そんなことになったら動揺することでしょう。阿弥の場合、確信犯的な発言だったことがなおさら動揺を強くする原因となりました。たとえ羽根ペンが欲しいという意味であっても、羽根を求めていることには変わりありません。私はどう返事をしていいものかわからず、身動きが取れなくなっていたのです。
次に阿弥と会う約束をしていた日、私はにとりの家に行くことができませんでした。一つは、返事がうまくまとまっていなかったこと。もう一つは、阿弥を目の前にしてしまうとまた動揺してしまうだろうということ。そんな、考えるだけでは答えには届かないような悩みを考えてしまい、家から出ることができなかったのです。
その日の夕方頃、椛が私の家に来て話をしていきました。今日の阿弥も、いつものように明るい笑顔だったということ。私が来ないことについて、だいぶ心配していたということ。そして、何よりも重要だったのは、これからしばらく妖怪の山には来れなくなるということでした。
「幻想郷縁起の仕上げにかかるとかなんとかで、本格的に忙しくなるみたいですね。だから、文さんに会えなかったことはすごく残念がっていたんですよ。」
私だって残念だという思いが湧きあがっていました。いえ、むしろ後悔といった方が正しいかもしれません。阿弥としばらく会えなくなる、そうなる前に会うことができる最後の日に、会うことができなかったのですから。
「まぁ、これが最後ってわけではありません。幻想郷縁起が完成したら、また届けに来るって言ってましたし、それまでの間は… やっぱり、さびしいですけどね。」
「椛… 例の、羽根のことなんだけど、にとりは何か阿弥に言ってたりしなかった?」
「大丈夫です、羽根についての話題は出ませんでしたよ。阿弥はまだ、その意味を知りません。」
そう、と返事をして、ため息をつきました。椛が私を安心させるために嘘をついているかもしれないという考えは浮かんだものの、それを追及したところで状況が良くなるわけではありません。今度会うことができるのは、幻想郷縁起が完成した時、それはいつのことになるんだろうと思いを巡らせましたが、その時の私には、ただ待つことしかできませんでした。
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妖怪と人間では時間の流れの感じ方が違う、といいます。その大きな原因は寿命の長さにあり、人間に比べてはるかに長寿である妖怪にとっては、1年という単位で過ぎる時ですら短いと感じてしまうものでした。阿弥と会えなくなって数年という月日が流れたにもかかわらず、長いと感じたことが無かったのは、きっとそのせいであると思います。
逆に考えれば、人間にとっての数年というのは何かをなすためには十分な長い時間といえるものなのかもしれません。幻想郷縁起の編纂もその例に漏れないとするならば、そろそろ完成してもいいはずの時間が過ぎていました。それでも、完成したら阿弥が再び妖怪の山を訪れるということを信じて、私はひたすらに待ち続けていました。
「文、なんだか最近雰囲気が変わった気がするんだけど、自覚とか無かったりする?」
「え? そうですか? にとりはまたそうやってからかって… 私は前からこんな感じですよ。」
「ほら、また例の口調になってる。私が言ってるのはそこなんだよ。なんというか、記者としての一面と、プライベートな一面と、2つの側面ができてるんだよ。それで、どっちかっていうと、記者としての面が強くなってきてるなって感じてるんだけど、椛もそう感じることってない?」
「そうですね、最近の文さんは、以前と比べて礼儀正しい面が強くなったというか、真面目になってきたというか。なにより、家の中がとても綺麗に整理整頓されていることなんて、これまではそうそうありませんでしたからね。」
「失礼な。家の中を整理整頓すること、特に書斎を綺麗に掃除することは、文章を書く者のたしなみですよ。」
「それ、だいぶ前に私が言ったことですよね。ほら、そろそろ口調を戻してください。」
阿弥と会えなくなってから、私は自分の新聞を作ることに力を注ぎました。会えない寂しさを紛らわす、なんていうつもりではありませんが、もともと私は新聞を書いて過ごしていたわけですし、言うなれば阿弥と会う前の生活に戻ったというところです。しかし、阿弥から受けた影響は大きかったようで、その一つがにとりや椛が指摘するような雰囲気の変化でした。
私の取材スタイルは、阿弥をお手本にしていたといっても過言ではありません。礼儀正しく相手に接し、かといって堅苦しくなく、相手の緊張を解いて笑顔を向けるといったことを心がけるようになったのは、まさしく、私が阿弥から受けた取材の雰囲気を意識してのものでした。さらにいうと、部屋を掃除するようになったのも阿弥を意識してのことです。阿弥の書斎に直接入ったことはありませんでしたが、きっと綺麗に整理整頓がされているのだろうと考えたほか、再び阿弥を家に招いたときに、初めて家に招いたときのような失態を冒したくなかったからです。
「阿弥を意識してるってことは凄く伝わってくるんだよね。やっぱり、ずっと会えなくてさびしいって思いが出てきたりしてるんじゃない?」
「それはさびしいといえばさびしいけど… また来るって行ってたじゃない。だから、その時を待っているのよ。」
「阿弥、今頃どうしてるんでしょうね。まだ幻想郷縁起は完成していないんでしょうか。」
「幻想郷中の妖怪を纏めた本だからね。きっと凄く分厚くなっちゃって、推敲作業に手間取ってるとか。」
ときおり、私たちの会話には阿弥の話題があがっていました。もうそろそろ完成するのではないか? いや、まだかかるんじゃないか? と言いあっていましたが、一向に阿弥からの音沙汰は無く、私たちが人里に入っていくわけにもいかなかったため、その様子を知ることはできませんでした。
ある日、どうしても阿弥の様子が知りたいと思った私は、人間の里の近くまで行って聞き耳を立てていました。直接里の中に入り込むわけにはいきませんでしたが、里の外側からでも話し声を聞く程度の聴力はあると自負していましたから、なんでもいいから情報を得ることはできないかと考えたのです。はたして、その試みは成功し、阿弥についての情報を得ることができました。しかし、その情報は私にとって、いい情報といえるものではありませんでした。
阿礼乙女の寿命が残りわずかであるらしい。要約するとそういうことでした。阿礼乙女というのは人間の中でも特別な存在であり、普通の人間よりもはるかに寿命が短く、長くても30年程度の命であるといいます。私が妖怪の山の麓で阿弥と再会した頃、阿弥は立派な大人の姿でした。その時に、少なく見積もって20を数える程度だったとしても、今はほぼ30になろうかという頃合いでした。
幻想郷縁起の編纂はほぼ纏まっていたようですが、印刷するための版を作る作業に手間取っているようで、完成には至っていないようでした。完成したら会いに来る、その言葉を思い出し、もしかしたら間に合わないのではないかという不安が私の中で大きくなっていくのを感じました。
「つまり、阿弥は会いに来たくても会いに来れない状態だってことなの?」
「そういうこともできるかも… 完成した幻想郷縁起を持ってくるって言ってたのなら、阿弥のことだから、ちゃんと完成させるまで妥協したりはしないわ。あの子、どこか頑固な面があるから。」
その日のうちに、私たち3人はにとりの家に集合してこの話をしました。机を囲んだ私たちは、それぞれ暗い顔を浮かべ、俯いていました。私は文花帖を取り出し、中に挟んである一枚の写真を手にとりました。阿弥、にとり、椛、そして私の4人が映った写真。思い付きで撮ったものでしたが、現像した後は文花帖に挟んで肌身離さず持っている、いわば宝物ともいえる写真でした。写真の中の4人はそれぞれが笑顔をこちらに向けていて、その笑顔を見ていると、私の目頭が熱くなっていくのを感じました。
「文、まさかとは思うけど、人里に入って会いに行こうなんて思って無いだろうね。」
「… まさか、そんなこと。」
「いけませんよ。最近は博麗大結界がどうとかで、人間と妖怪の間の関係はかなり繊細になっているんですから。どっちかというと、妖怪の反発の方が強いようですが… とにかく、こんな時期ですから、下手に人間を刺激するようなことはすべきではありません。」
「わかってる。わかってるけど、それでもし、間に合わなかったら、もう阿弥に会えなくなっちゃったら…!」
「文、つらいのはわかる。私たちも、阿弥と会えなくなるかもって考えると悲しくなるさ。それでも、阿弥はまた来るっていったんだ。それを信じて待つのが、信頼ってやつじゃないのか?」
とりあえず、その場はにとりの説得のおかげで落ち着いた私でしたが、家に帰った後、1人悩んだ私は、どうしてもこれ以上待っていることには耐えられませんでした。
「ごめん、にとり、椛… 阿弥…!」
折しもその日は満月が浮かぶ夜でした。妖怪の気持ちを高揚させる月明かりが照らす闇の中、私は人里へと空を駆けていきました。
夜の闇の中、外を出歩く人間はほとんどいません。しかし人里の中ということもあって、多少警戒心も薄れていたのでしょう。私は人里に降りてすぐに、ふらふら歩いている人間を見つけました。いわゆる千鳥足だった様子を見ると、酒に酔って出歩いていたというところでしょう。
「もし、そこの人間。」
「あぁ? なんだぁ? こっちは気分よく酔ってんだ。話しかけんな…!?」
「稗田の家はどっち? 手荒な真似はしたくないから、素直に教えなさい。」
赤かった人間の顔が徐々に青ざめていき、声をあげることもできないようでした。当然と言えば当然です。人間の里に妖怪が入ってきているなんて、彼らにとっては考えられないことだったのでしょうから。震える手で一軒の屋敷をゆびさした人間を一瞥して、私はその指の差す方向にある屋敷に向かいました。
その屋敷は他の家と比べて大きく、それなりに目立つ佇まいでした。これが阿弥の家、この中に阿弥がいる、阿弥と会うことができる。高ぶる気持ちを抑えながら屋敷に向かって飛んでいた私でしたが、突然目の前の風景が一変しました。
気がつくと、目指していた屋敷は目の前に無く、辺りから感じていた人気も消えており、ところどころ家が立ち並んでいましたが、人里とは違って、どこかさびれた雰囲気が漂う場所にいました。
「あなた、人里で何をしようとしていたのかしら?」
その問いかけで、ここがどこであるかをはっきり認識できました。それと同時に、強い怒りがこみ上げてくるのを感じていました。
「もう一度聞くわ。妖怪のあなたが、人里で何をしようとしていたのかしら?」
「なんで… なんであんたが出てくるの!? 八雲紫!」
「質問の答えになってないわね。まぁいいわ、先に答えてあげる。人里に妖怪が入り込むことの意味は、あなたくらいの妖怪なら知っているわよね。下手に人間を刺激して、妖怪を否定するようになったらいろいろと都合が悪いのよ。あなたは人間の里に降りた時、人間を脅迫したわね。あのままあなたを放っておいたら、次は何をするかわからない。だからここに連れ込んだのよ。さて、次はあなたの番よ。人里で何をしようとしていたのか、答えなさい。」
私は返事をする代わりに、懐から団扇を取り出して一閃していました。辺りにはつむじ風が発生し、数軒の家がなぎ倒されていきました。そんな中、目の前の妖怪は涼しげな顔をこちらに向けており、口元にはうっすらと笑みを浮かべていました。
私はもう一度、全力で団扇をふるいました。巻きあがる風が目の前の妖怪を包み、とりあえず邪魔者はいなくなったと感じたのも束の間、風がおさまった跡には変わらずに笑顔を向ける妖怪がいました。そしてもう一人、九尾の妖怪がそばに控えていたのです。
「紫様、お怪我はありませんか?」
「えぇ、御苦労さま、藍。さて、どうやら聞く耳を持たないみたいね。満月のせいかしら。とにかく、少しばかりお仕置きをしないといけないわ。」
そして、扇の一閃と共に無数の魔力弾が私に向かって来ました。とはいえ、この程度の速さであれば避けることはたやすいことで、私は迫りくる弾を避け続けていきました。途中から九尾の妖怪も攻撃に加わりましたが、それでも私が苦を感じることはありませんでした。唯一の問題は、避けることができても反撃をするための隙が見つからなかったことです。このままではいずれ被弾する。そう思い始めた時、急に攻撃が止まりました。
「さて、これくらい動けば、気持ちの昂りも少しは治まったかしら?」
「いえ、むしろさらに高揚しているかもしれないわ。準備運動は終わりってところね。」
「会話に応じるだけの落ち着きは取り戻したようね。それなら、質問の答えを聞かせてもらえないかしら。こんなところで無駄な戦いをするほど、私は好戦的じゃないのよ。」
「人里に入り込むことがどんな意味を持つか、それはわかっていたつもりよ。ただ、それを甘んじて受けるほど、私には時間が無いのよ。」
「時間が無いのは、あなたではなくて『あの子』じゃなくて?」
その言葉を聞いたとき、私は頭を思い切り殴られたような衝撃を感じました。目の前の妖怪は、八雲紫は私よりも事情を知っている。知った上で、私の邪魔をしているのだと、その時の私は感じました。
「あの子は、阿弥はもう長くはないんでしょう? 阿弥は言ったのよ、幻想郷縁起が完成したらまた会いに来るって。でも完成を待たずに阿弥は… そうなったらもう二度と会えなくなるじゃない。そうなる前に、もう一度会いたいって思うことはいけないことなの? 人間と妖怪だから? そんなこと関係ない。私たちはこれまで何度も会ってきた。それがただ一回、ただ一回会いたいっていうことが、どうして許されないのよ。人里の中だから? そんなことで、私たちの友情は阻まれるっていうの?」
私は思いのすべてを吐き出すつもりで問いかけていました。これまで阿弥と一緒にいたこと、阿弥との記憶がつぎつぎと蘇ってきて、気がつくと目には涙が浮かび、少し気を抜くと泣き出しそうな状態でした。そんな私の言葉を静かに聞いていた紫は、私の言葉が終わった後にぽつりとつぶやきました。
「あなたが感じてるのは、友情っていうより、むしろ愛情というべきね。」
私の頭の中に、羽根が欲しいですと言ってきたときの阿弥の顔が浮かびました。その時はそこに込められた意味を知らずに口にしていた言葉。動揺して、返事を先送りにしていた阿弥からの願い事。私はまだその返事ができていない。
「紫、どうか、一つだけ私の願いを聞いて。」
「… 何かしら?」
「私は、まだ阿弥とのあいだにやり残したことがあるの。阿弥からの願い事、その返事がまだできていない。その返事をしないまま、二度と会えなくなるのは、絶対に嫌なの。だからお願い、私と阿弥を会わせて。」
「… 私からもお願いしたい。どうか文さんの頼みを聞いていただけないでしょうか。」
驚いて後ろを振り返ると、そこにはここにいるはずのない、椛の姿がありました。
「椛! あんた、どうしてここにいるの?」
「昼の文さんの様子を見ていたら、何かしでかすんじゃないかと思わない方が無理な話ですよ。夜にでも動き出すだろうと思っていたら案の定、人里に向かう文さんのあとをつけて行ったところまではいいんですが、急に姿を見失ってしまって。ようやくマヨヒガにいることをつきとめて、追いついたってわけです。」
深々と頭を下げる椛の姿は、これまでに見たことがありませんでした。天魔様や大天狗様にだって、ここまで頭を下げたことは無かったのではないでしょうか。しばらくの間、4人の間に沈黙が流れましたが、軽いため息とともに紫がその沈黙を破りました。
「ふぅ、あなた、いい友人を持ったわね。いい、これは特別な処置であることを理解しなさい。あなたの友人に免じて、一度だけ願いを聞いてあげる。」
「いいのですか? 紫様。」
「えぇ、最大の譲歩といったところね。無理やり会いに行こうとして、また人間を刺激してしまうのは、望むところではないわ。さて、早く行きなさい。時間が無いんでしょう。」
紫が扇を縦に振ると、そこには空間の隙間が現れました。椛の方を向くと、小さなほほ笑みを浮かべていました。私は紫と椛に一礼して、隙間の中に入って行きました。
隙間の中を通っていた時間はごくわずかで、気がつくと周りの景色は一変して、屋敷の中の一室の様子が目に入ってきました。ここが稗田の屋敷の中、と認識するのと同時に、私の耳によく知った声が入ってきました。
「文さん…? 文さんが、どうしてこんなところへ…」
声のする方に目をやると、そこには布団に横になった阿弥がいました。周りを数人の人間に囲まれていたようですが、阿弥が声をかけると部屋を退出して、残されたのは私と阿弥の2人だけとなりました。しばらくの間、私たちは無言でお互いを見つめあっていましたが、その沈黙を破ったのは阿弥の方でした。
「文さん、本当に、お久しぶりですね。」
「えぇ… あれからどれくらいの時間が経ったと思ってるの?」
「ふふふ… たしか、妖怪の山の麓で再開した時に、私がそう言いましたね。妖怪と人間では、時間の流れの感じ方は違うかもしれない、と続けましたっけ。」
「そうだったわね。時間の流れの感じ方は違うかもしれない。でも妖怪にも人間にも、等しく時間は流れるもの。その長さは、どちらが長いとか短いとかではないわ。どっちも同じ長さ。同じ時間が流れたのよ。」
「文さん、私、謝らないと、って思っていたことがあるんです。」
「えぇ、私も、阿弥に伝えないと、って思っていたことがあるのよ。」
「一つは、私、幻想郷縁起の完成まで、生きていられないみたいです。前に、完成したら何がしたいって聞いてきた時がありましたよね。その時、私は秘密ですと答えました。それには理由があって、こんな風に、完成するまで私が生きていられないだろうなってことを、なんとなく感じていたからです。完成する前に息を引き取るんだから、完成したらって考えるのは、なんだか悲しいでしょう? それを言うことで、文さん達が悲しむ様子を見たくなかったんです。」
「いいのよ、私があなたの立場だったとしても、きっとそうすると思うもの。悲しむ顔を見たくないし、何より、悲しませたくない。」
「もう一つは、私が会いに来れなくなった理由についてです。阿礼乙女は代々転生を繰り返して、能力を受け継いでいきます。その転生に必要な儀式の準備には、とても長い時間がかかるのです。そして、転生の儀式がすんだ頃には、ほぼ寿命が尽きる。当然ですが、二度と会うことはできなくなる。だから、もう一度会いに来るといって、文さん達を安心させたかったんです。嘘をついてしまって、ごめんなさい。」
阿弥の目には、うっすらと涙が浮かんでいました。ただ、ごめんなさいという言葉を繰り返すだけの阿弥の手を握り、大丈夫、もういいのよ、という言葉をかけ続けていました。
「阿弥、今度は私が謝る番。あなたと会えるはずだった最後の日、私が会いに行かなかったことについて。」
「えぇ、あの日は、文さんと会えずじまいになって、とても悲しかったことを覚えています。何か会いに来れない事情があったのかって、心配したりもしました。」
「その日、私は会いに行けなかったわけではなかったの。会いに行こうとすればちゃんと会うことができた。それでも、私は会いに行くことができなかった。会いに行こうとしなかった。会うだけの勇気が無かった。あの日は、ずっと考え事をしていたの。阿弥が言った、羽根が欲しいっていう願い。その意味について、ずっと考えてた。」
「えぇ、もし何か事情があったのだとしたら、そのことに関してだろうと思っていました。」
「改めて、確認させてほしいの。阿弥は、鴉天狗の羽根に込められた意味を知っていたの?」
阿弥は少しだけ瞳を閉じ、2、3回ゆっくりと呼吸を整えてから、私と向き合いました。
「その時は、私はその意味については知りませんでした。でも、次に妖怪の山を訪れた時、文さんがいなかった日に、にとりさんが教えてくれたんです。その意味を知った時、私は自分がどれだけ迂闊だったのか、後悔しました。」
「そう… やっぱり、教えていたのね。ともかく、そういう意味が、羽根には込められている。だから、阿弥の真意がわからなかった私は、阿弥に会うことができなかった。阿弥に気持ちを聞きに行こうとしないで、目を背けて、逃げ出して。それから今日まで会うことができなくなると知っていたら、絶対に逃げたりはしなかった。私の心の弱さを、許して。ごめんなさい。」
「いいんです。また、こうして会うことができたんですから。最後の、最後に…」
「阿弥…?」
「今日、転生の儀式は終了しました。幻想郷縁起の完成は間に合いませんでしたが… 良かった… こうして、文さんに… 会うことが… できて…」
「阿弥…!? 阿弥!」
「転生したら、記憶は無くなりますが… また… よろしく… お願い… しま…」
少しずつ、つかんでいた手から力が抜けて行き、阿弥は深い眠りについたんだと感じました。二度と目覚めることのない、深い眠りに。こぼれおちる涙で視界がにじむ中、私は自分の羽根を引き抜き、阿弥の手に握らせました。
「これが、私の返事よ。阿弥…」
そう言い残して、私は部屋を出て、稗田の屋敷から飛び立ちました。これまで生きてきた中で、その日の満月ほど眩しい光で夜空を照らす月を、未だ私は見たことがありません。
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それからしばらくして、幻想郷縁起が完成したということが広まりだしました。人里の中で広まるのでは、手に入れることはできないだろうな、と思っていた私でしたが、驚くべきことに、私のもとに幻想郷縁起を届けに来た妖怪がいました。あの日、八雲紫の近くにいて、私と敵対した九尾の妖怪、八雲藍です。
「紫様からの贈り物、ということらしい。ここまで世話を焼くなんて、結構気に入られたな、鴉天狗。」
厄介な相手に気に入られたものだという思いもありましたが、そんなことは口にはしません。ありがたく受け取り一礼を返すと、いつもそんな風に礼儀正しければ、面倒なこともないんだけど、なんて言い残して去っていきました。
さっそく、私は幻想郷縁起のページをめくっていきます。幻想郷に住まう様々な妖怪についての記述、妖怪から人間を守ることを生業にする、いわゆる英雄と称される人間についての記述、さらには幻想郷の危険区域についての記述など、非常に細かく、詳細に纏められた内容に、私はとても感心していました。
ページをめくっていくと、妖怪の山に住む妖怪について纏めた項目にたどりつきました。やはり気になるのは、天狗とか河童とかの記述がどうなっているかというものです。
「ふむふむ… あら? 河童は個人ごとの名前が書いてないみたいね。何々、手先が器用で高度な技術を持つ… たまに河を流れてくる間抜けな河童もいる… か。なかなか遠慮しない表現をするのね。それで次は、天狗ね。まずは種族の紹介で… あれ? 椛の名前が無いみたいね。あぁ、でも白狼天狗の紹介、これは椛のことでしょうね。さて、次は…」
ページをめくると、そこには私の名前が書かれていました。始めて阿弥に会った時の、私の言葉を思い出します。私の名前など、人間の本に載っているわけがない、そんな本を書くのは、よっぽどの物好きである、と。思わず笑みがこぼれ、どんなふうに書かれたのだろうと読み進めました。
射命丸 文
危険度 低
人間友好度 極高
主な活動場所 妖怪の山
天狗の中でもすばしっこい、鴉天狗。他の鴉天狗のように、妖怪の山の報道部門を担当している。肌身離さず持っている道具は、団扇と写真機と文花帖である。文花帖とは、いわゆる手帖であり、その中には取材で得た多くの情報が書きとめられているほか、たくさんの写真が挟み込まれている。
彼女が作る新聞の名前は『文々。新聞』といって、その記事は自らが取材してウラをとったことしかのせないというように徹底している。取材時には、それほど名前が売れていないと漏らしていたが、礼儀正しい態度と真摯な取材が続くのであれば、幻想郷中にその名が知れ渡るのは時間の問題といえるだろう。
個人的なことではあるが、私は彼女から大きな援助を受けている。この幻想郷縁起の編纂に用いた資料の多くは、彼女が提供してくれた写真が元になっている。また、個人的にも親交を深めた妖怪でもあり、妖怪の山に赴いた際、彼女と私、そして河童と白狼天狗を含めた4人で写真を撮ったこともある。その写真は文花帖の中に挟み込まれており、彼女が肌身離さぬ宝物になっているとかなんとか。ともかく、この文章を彼女が目にする可能性を考慮して、この場を借りて、お礼の言葉を告げたい。本当に、ありがとう。
紙面に水滴が落ちたとき、ようやく私は自分が泣いていることに気づきました。きっかけは、本当にただの気紛れ。見過ごしてしまうような、なんてことない出来事に私が首を突っ込んだだけ。しかし、気がつくとそれぞれの出来事がかけがえのないことになっていて、思い出すたびに涙が浮かぶような、大切な記憶になっていました。もう二度と、同じ日は訪れない。阿弥そのものと会うことはできない。それでも、私は妖怪であり、彼女が転生して再び幻想郷の地を踏んだ時にも存在することができる。阿弥の最後の言葉、転生したら、また、よろしく。その言葉を守ること、それが、私の生きる目的の一つに加わったのです。
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「文さん、失礼ですが、泣いていらっしゃる?」
私の前でずっと話を続けていた文さん。長かった話がようやく結ばれた時、その目には大粒の涙が浮かんでいました。私がそれを指摘すると、袖でごしごしと目元を擦ってから私に笑顔を見せてきました。
「ははは、大丈夫ですよ。涙は枯らしちゃうくらい流しましたから。だから、大丈夫。だい… 大丈夫ですから…」
笑顔を崩さないように必死になっている様子が伝わってきます。涙はどんどん溢れ、ぼろぼろとこぼれおち、崩さないように頑張って保っていた顔からも、徐々に笑顔は薄れ、ついには声をあげて泣き出してしまいました。
そんな文さんを見ているのも居たたまれなくなって、私は優しく、文さんを抱きしめていました。
「転生すると、以前の記憶はほとんど失われてしまいます。記憶が失われるということは、人生をやり直すこととほぼ同じ意味です。その点だけ見れば、私も他の人間と変わりないのかもしれません。でも、私は他の人間よりも幸運なんだなと思っています。だって、転生前の私をこんなにも愛してくれた妖怪と、再び会うことができたんですから。」
「阿求…」
「残念ながら、私は阿弥ではありません。阿弥の言葉を代弁するような真似は、たとえ魂が同じものだとしても、彼女を冒涜する行為だと思います。だから、これから言う言葉は、私の、私自身の思いを込めた言葉であると思って、聞いてください。」
そうして、私は呼吸を整えました。文さんを抱きしめている体勢だったこともあり、もしかしたら私の心臓の鼓動の変化もばれていたかもしれません。少なくとも、私には文さんの鼓動が聞こえていました。なるべく自分を落ち着かせるように、深く呼吸をしてから、私は意を決して、文さんへの思いを告げました。
「文さんの羽根、確かに受け取りました。私は、その羽根を大切に持ち続けています。その形は羽根ペンという形になりましたが、私は物を書く者です。肌身離さず、その羽根を身につけることができて、とても幸せに思います。」
私が言葉を言い終えると、文さんは私を抱きしめ返してくれました。とても強く、優しく、その腕で私を包みこんでくれたのです。頃合いを見て、私が手を放そうとすると、もう少し、このままいさせて、という言葉をかけてきました。私たちはしばらくの間、そうしてお互いを思い続ける時間を過ごしました。
ようやく、文さんが手を離し、失礼しました、と一礼をしてきました。私は、そんな文さんに向けて出来る限りの笑顔を見せました。徐々に、文さんの顔にも笑顔が浮かび、お互いにふふふと笑い声をあげていました。
「阿求、私は少し安心しているんですよ。阿弥は幻想郷縁起の編纂以外のことには意識を裂くことはほとんどできませんでした。ですが、阿求は幻想郷縁起以外にも何か纏めているそうじゃないですか。河童の技術が人間にも知られるようになってから、人間の里の技術も格段に上がったようですし。」
「ええ、以前と比べて、人間と妖怪の距離も縮んできた気がします。文さんが人間の里を訪れることができるようになったり、時の流れは、決して悪いことばかりをもたらすわけではないということでしょうね。」
そうやって、しばらく笑いあっていた私たちですが、ふと、私は大事な用事があったことを思い出しました。
「そうだ、私ったら、これから太陽の畑に行こうとしてたのに。すっかり忘れてたわ。」
「あやややや… これはすっかり足止めをしてしまったようですね。今からだと、太陽の畑に着くころには日が落ちてしまうのでは?」
「えぇ、ですが、今日顔を出すという約束をしていましたから、それを無下にすることになってしまうのは、私としては望むところではないのですが… どうしたらいいのでしょうか。」
「そうですね… 一つ、いい方法がありますよ。」
そう言って、文さんは私の手を引いて外に連れ出しました。何のことなのかわからずにぽかーんとしていると、文さんは小さく微笑み、こんな提案をしてくれました。
「私の背中につかまって、空を飛んでいきませんか?」
その言葉の意味を理解できず、私はただ文さんを見つめてしまいましたが、ほら、早くしないと日が暮れちゃいますよ、と言いながら私の手をとってきたことで、ようやく納得することができました。
「それでは、お言葉に甘えて。お願いします。」
「ふふふ… では、行きますよ。飛ばされないように、しっかりつかまっていてくださいね。」
そして、私たちは空に舞い上がりました。子どもの頃の阿弥がしたであろう体験と同じもの。風を切って空をかける感覚は、文さんの言うことが本当なら、まだ阿弥と私しか経験したことはありません。そう思うと、どこか優越感を感じてしまいました。
つかまる手に力を込めて、私は小さく、ありがとう、とつぶやきました。背中側からははっきり見えませんでしたが、その時の文さんは、口元に軽い笑みを作ったような気がしました。返事の言葉の代わりにわずかに上がる速度。つかまる肩の近くには、大きく広がる黒い翼。その羽根の一つにそっと口づけをして、私は空を駆ける感覚に身を委ねることにしました。
良き物語をごちそうさまでした。
ところで…ゆかりんの花はどうなったのだろう?あのまま採用されたのだろうか?
良い話をありがとうございました。
ただ本文中、会話が始まると地の文が完全に消え去ることが多々ありまして、そのせいか展開がとても早くなってしまっている印象を受けました。
良い話でした
私も以前このような話を書いたこともありましたが恥ずかしい限りです。
読んでいて楽しかったです。ありがとうございました。
良い話ですね。